2024年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

02:透明

 透明人間、という言葉が相応しい。
 何かといえば今日の『異界』におけるXのことだ。
 ディスプレイに映るのは、『こちら側』とほとんど変わらない風景だ。人で賑わう、ちょっとレトロな風情の商店街。道行く人々の姿格好も、俺が街中で見かけるものと相違なく、Xの視覚と聴覚を通して観測しても何ら不思議なものには見えない。画像情報を検索にかけても『こちら側』に対応する場所が特定できそうにない、という点を除けば、本当に、どこにでもあるような光景だ。
 だから、唯一おかしいのは、X自身に起こっている現象ってことになる。
 そもそも俺らの行う『潜航』は、サンプルの肉体ごと『異界』に送り込むものではない。現にXの肉体は、俺の目の前に置かれてる寝台の上に横たわっている。
 ただし、俺の目に映っているXはあくまで抜け殻である。
 意識だけを一時的に切り離して『異界』に送り込む、それが我らが変態――もとい天才エンジニアの作り上げた異界潜航装置の仕組みだ。そうすることで治療にあらゆるコストがかかる肉体へのダメージを避け、また意識と肉体との間にある目には見えないリンクを通して有事の際に『異界』から『こちら側』に一気に引き戻すことも可能になっている。要するに、命綱みたいなもんだ。
 もちろん、『異界』で行動するには実体を持たない意識だけではどうにもならない。そんなわけで異界潜航装置には「切り離した意識にかりそめの肉体を与える」という機能がある、はずなのだが――。
「うーん? 意識体の生成機能は正常に動いてんのよね、ログ見る限りは」
 Xの視界を映すディスプレイとは別に、異界潜航装置そのものを監視するコンソールと睨めっこしているエンジニアが、しきりに首をひねっている。
 だが、ディスプレイ越しに観測できるXの視界に、X自身の体が映らないのだ。もちろんXの視界なのだから全身を確認できないのは当然なのだが、手や腕は映らないし、下を向いても地面は映るが足や胴が視界に入ることもない。落ち着きなくあちこちに揺れる画面を見る限り、X自身も自分に起こっている現象を理解できていないようだ。
 道行く人々はそれぞれの行き先を見ていて、道の真ん中に突っ立って通行の邪魔になっているXの存在に気づく様子もない。
 しかし、姿は見えていないのに「通行の邪魔になっている」のは確かなようで、時折、立ち尽くすXにぶつかった通行人が不審げに辺りを見回したり、偶然近くを通りがかった別の通行人に突っかかったりしていて、なかなか愉快な現象が繰り広げられている。
 つまり、Xは確かに実体をもってそこにいるが、姿だけが透明である――リーダーはそう結論づけた。
「こういう現象は初めてね。意識体の外見が変容することは今までもあったけど、『視認されない』というのは新しいわ」
 同時に、声も聞こえなくなっているのでしょうね、とリーダーは付け加える。スピーカーからXの声どころか息遣いひとつ聞こえてこない、というのは確かに異常だ。しかも、普段の『潜航』におけるXは、視覚や聴覚では捉えられないものを、意識して声に出して俺たちに伝えてくる。それがここに至るまで全くないというのは、発声、もしくはX自身の声を判断する機能になんらかの異常が発生していると考えてしかるべきだろう。
 ともあれ、現象の理由はわからずとも、意味するところがわかってしまえば、そこからは普段の『潜航』と何も変わりない。Xも最初こそ動揺していたようだったが、すぐに視線を前に戻して観測の姿勢になる。X自身の姿は見えず、声も聞こえないとはいえ、『異界』の景色と音色は捉えられている。観測に支障がない、と判断したに違いなかった。
 まずはこれ以上人の邪魔にならないよう、道の端に避けようと思ったのだろう、ディスプレイ越しの視界が横に向けられた……、その時だった。
「返して!」
 Xの聴覚と接続したスピーカーから突如として響く金切り声。Xは自然と声の聞こえてきた方向を見る。
 すると、人ごみをかき分けるように、否、いっそ跳ね飛ばさんばかりの勢いで駆けてくる大柄な男が一人。
「ひったくりよ、捕まえて!」
 女の声が響き渡る。確かに、男の手には、どうにも不釣り合いな女物の高級そうなハンドバッグが握られている。
 しかし、捕まえて、という女の声と裏腹に、関わりたくないとばかりに人の波が引き、男の前には真っ直ぐに道が開けてしまう始末。
 まあ、それは、普通はそうだ。同じ場に居合わせたら俺だってそうする。全速力で駆けてくる、しかも見るからに屈強そうな男を捕まえようなどという猛者はそうそういない。
 そうそういないはずなのだから、本当に、このひったくりは運がない。
「なっ!?」
 ディスプレイの中で、つんのめるようにして足を止めるひったくり。それも一瞬のことで、次の瞬間にはその大きな身体が宙を舞い、受け身すら取れないまま地面に叩きつけられる。声にならない声を上げて、ひったくりは全身を襲う苦痛に悶絶する。
 いつものことながら、その瞬間ディスプレイを見てるだけでは、何が起こってるのかさっぱりわかんないな。かろうじて、今まで観測してきたXの行動から、きっと目の前に来たひったくりを軽々と投げ飛ばしたんだろう、と推測できるだけで。
 Xはそういう奴なのだ。人一倍正義感が強く、曲がったことは見過ごせず、他の誰が見て見ぬふりを決め込むような場面であっても、迷わず行動に移す。……本当にこいつ片手の指で数えられない程度の事件を起こした殺人鬼なの? 俺はいつも疑問に思うのだが、Xは殺人鬼であることを肯定しているし、現実に死刑を宣告されているのだから、事実ではあるんだろう。事実だからといって、納得できているわけではないが。
 ともあれ、Xはひったくりが我を失ってのたうち回っているのを一瞥し、放り出されたハンドバッグを取り上げる。……と言っても、Xの視界に映るのは持ち上がるハンドバッグだけで、X自身の手はもちろんディスプレイには映ってはいない。
 辺りの通行人たちは、ひったくりに何が起こったのか、そして、今、何が起こっているのかもさっぱりわかっていないのだろう、ひったくりの呻き声だけが響く中、足を止めて互いの顔を見合わせている。
 そんな、「静止した」という錯覚すら感じさせる奇妙な静けさの中、一人だけ人ごみを縫って駆けてきた女がいる。小柄で年かさの、しかし見るからに金持ちだとわかる身なりの女。どうやらこの女がハンドバッグの持ち主らしい。
 とはいえ、女も当然何が起こったのかなどわかりようもなく、倒れているひったくりを見て目を丸くする。
「一体、何が……、あら?」
 女の視線が持ち上げられる。その視線の先にあるのは、Xの手の中にある――つまり、きっと宙に浮かんで見えるのだろうハンドバッグ。
 女がハンドバッグに手を伸ばす。Xはきっと、丁寧な所作でその手にバッグを握らせたに違いない。ディスプレイからは、女の細い指がハンドバッグを握ったという事実しか伝わらないのだが、あいつならきっとそうする、俺はそう思っている。きっと、リーダーも、他の面々も、俺とそうかけ離れたことは考えてないだろう。
 Xは、女が確かにバッグを受け取って胸の前に抱えたのを見届けて、背を向ける。視界の端から、通報を受けたのだろう警官が駆けつけるのがわかったが、Xはもうそちらを振り向きはしなかった。警官が来たとわかった通行人たちも、硬直を解いてそれぞれの目的のために再び動き出す。この調子ならすぐに先ほどまでの賑やかな商店街に戻るだろう。
 ――ただ。
「ありがとうございます、旅の方」
 ざわめきの中、ぽつりと聞こえた感謝の声。
 聞こえていなかったはずはないだろう。スピーカーから聞こえてきた以上、Xが知覚しているはずの声だ。しかし、Xは振り返らなかった。
 あの女には、もしかしてXが見えていたのだろうか? そして、仮に見えていたとして、Xがここではない場所から来た「旅人」であると、どう判断したのだろうか?
 いつだって『異界』は俺たちの物差しでは測れない。それを当事者として一番よく知る異界潜航サンプルたるXは、今度こそ道の端を選び、人とぶつからないように歩を進める。
 今日の観測は、始まったばかりだ。

01:傘

 今日も今日とてリーダーは、サーバーマシンに繋がるディスプレイを睨む。
 でっかい画面に映し出されているのは、雨の光景だ。降りしきる雨。英語で「猫や犬が降る」みたいな言い方があったと思うが、まさしく雨に混ざって何が降っていてもおかしくないような、激しい雨。
 ディスプレイと同じように設置されたスピーカーからも、聞こえてくるのは雨の音ばかり。何も聞こえないよりは数百倍マシだが、視覚からも聴覚からも、雨が止む様子はまるでない。このまま延々と雨宿りを続けるようでは、観測も何もあったものではないな、と思う。リーダーの目つきがやや厳しいのも、そういうことだ。
 俺が今見ているのは、研究室の中央に鎮座ましますサーバーマシン――の形をした異界潜航装置に繋がれている、異界潜航サンプルXが見ている光景だ。今、寝台に横たわっているXは肉体だけの存在であり、その意識は『異界』へ赴いている。そして、視覚はディスプレイに、聴覚はスピーカーに、それぞれ出力されるようになっている。
 俺たちが直接『異界』に向かうことはない。「行きはよいよい帰りは怖い」は異界研究者の合言葉だ、帰ってこれなきゃ研究にならん。そして、使い捨ての生きた探査機として選ばれた死刑囚Xの目を通して『異界』を観測してきた結果、俺たちの認識はそう的外れでもないと思い知っている。Xが今もサンプルを続けているのは、「Xが優秀なサンプルだから」以外に理由がない。別の誰であっても、きっと、ここまで長続きはしないだろう。それは俺だけじゃなく、プロジェクトメンバーの総意だ。
 リーダー、とにかく運がいいんだよな。初手の初手で、こんな使い勝手のいいサンプル引き当ててくるんだから。リーダー曰く、番号と顔写真、人物についてのごく簡単な所感、それから拘置所での素行について書かれた死刑囚のリストから選んだとのことだから、人柄も能力もわかってなかったろうに。
 そのリーダーは、しらじらとした綺麗な横顔をディスプレイに向けたまま、小さく唸る。
「もどかしいわね、ずっと足止めを強いられるのも」
「けど、俺らが何できるわけでもないっすからね」
 俺は軽く肩を竦める。
 そう、ひとたび『潜航』が開始されれば、俺たちにできることは有事にXを『こちら側』に引き上げることだけで、Xと連絡を取ることすらできない。聴覚は共有しているため、X自身の発言でXの意図をこちらに伝えることはできるが、それだけだ。
 当然、
「傘の差し入れでもできればいいのにね」
 リーダーの言葉なんて、夢もまた夢なわけだ。
「そもそも、リーダー、今日傘持ってます? また忘れたとか言わないでくださいよ」
「まだ根に持ってる?」
 リーダーが苦笑する。ちょっと前に、突然の雨に際して、リーダーが「傘を忘れた」と言い出したことで俺はとんでもない目に遭ったのだ。根に持ってる、とまでは言わないが、ちょっぴり棘が混ざるのは許してほしいと思う。
 ともあれ、俺らがそんな叶わない話をしている間も、『異界』のXは不毛な雨宿りを続けていたわけだが――。
「雨ですね」
 不意に、スピーカーから声が聞こえた。女の声。「そうですね」というXの声とともにディスプレイの景色が動く。ただ雨の降る光景から、Xの横、いつの間にかそこに立っていた紺のセーラー服姿の女子に。
 いつからそこにいたのだろう? いたとして、Xはどうして気づかなかったのだろう?
 そんな問いかけは、きっと無意味なのだろう。『異界』ではどのようなことも起こりうる。『こちら側』の常識など通用しない、ということは今までのXによる観測、そして俺自身の間接的な経験から明らかだ。
 ディスプレイの中の女子は、どうやら折り畳み傘も持たないでほっつき歩くリーダーとは違い、随分準備がよかったらしい。雨宿りまでに既にずぶ濡れになっていたXに、鞄から取り出した真っ白のタオルを差し出してくる。
「使ってください」
「しかし、」
「持っていってもらって大丈夫ですよ。私の分は、別にありますから」
 あいにくの天候とは裏腹に、晴れやかな笑顔。とびきりの美少女とまではいわないが、かわいい子だと思う。顔立ちもそうだが、何よりも屈託のない表情が。
 Xは躊躇いながらも「ありがとうございます」と素直にタオルを受け取り、がしがしと顔と頭を拭き始める。当然頭だけじゃなくて全身濡れているはずだが、そりゃあ、人に見られながら拭くようなものでもないよな。Xの視界の中で、セーラー服の女子はじっとXを見つめ続けているし。
 そして、Xが手を止めたところで、ぽつぽつと、本当にちょっとした話が交わされる。
 Xは『潜航』に関しては右に出る者のないプロフェッショナルと言っていいが、数少ない欠点として、人とのコミュニケーションにやや難がある。自分から口を開くことは少なく、仮に会話をしても『異界』の住民から詳細に彼ら自身の話を聞きだす、ということはほとんどしない。ごく稀に、積極的な聞き込みをすることもあるが、それは「必要に駆られて」であり、得意じゃないのだろう、ということはわかる。
 だから、今回もそう、『異界』についてわかったことといえば、ここが特に雨の多い土地であるということ、故に傘を持たないのは余所者くらいであるということ、そのくらい。
 Xの視線が、女子の持つ空色の傘に向けられる。
 ほとんど晴れないというこの『異界』において、「傘を差している間だけでも、空の青を思い出せればいい」とセーラー服の女子は朗らかに言う。
 それに対して、Xはといえば。
「それは……、素敵です」
 と、何とも素朴な感想を言葉にした。
「どれだけ激しい雨の中でも、傘を差せば、そこだけは晴天になるんですね」
 Xは、いつだって、不器用ながらもごくごく素直な感性を滲ませる。これでどうして殺人鬼なんてやってられたんだ、と思うくらい、Xの言動はいたって真面目で、真っ直ぐだ。
 セーラー服の女子はXの言葉に更に笑顔を深めて、傘を差した。鈍色の景色に鮮やかに映える空色を肩にかけ、Xに語り掛けてくる。
「ご一緒に、どうですか」
 それは、Xにとっては――そして、観測する俺たちにとってもまたとない申し出だったはずだ。しかし、Xは首を横に振った。
「いえ。お気持ちだけ、受け取っておきます。行き先も、まだ、決めていないので」
 Xの意図は俺にはわからない。ただ、そう言ったってことは、多分、こいつなりの理由があるんだろう。いつだって『異界』での判断はX任せだし、その判断は大概において外野の俺らよりよっぽど正しい。
 いや、相合傘で痛い目に遭った俺を見て、Xなりに思うことがあった、と言われてもそれはそれで納得してしまうのだが。
「タオル、ありがとうございました」
「助けになったなら何よりです。それでは、さようなら、旅人さん」
「さようなら」
 交わされる別れの言葉。そして、屋根の下から雨の中へと歩み出したセーラー服の背中が、ふわりと浮かぶ。空色の傘に導かれるように、高く、高く、昇っていく。
 そう、『異界』では何が起こるのかわかったものではない。『こちら側』の何かと似た姿形をしていても、同じものとは、限らないのだ。
 雨の中にぽっかりと浮かぶ空の青とセーラー服姿に切り取られた影。それが遠ざかり、雨の向こうに消えていくまで、ディスプレイから目を離すことができなかった。

新人と呼ばれる彼の話

 新人、と彼が呼ばれているのは、言葉通りに我々の中で最もプロジェクトに加わったのが遅かったから、というのが一番の理由だが、もう一つの理由としては、彼が「オールラウンダー」であるがゆえ、特別な役職を与えられていないというところにある。
 彼の『異界』に対する熱意は疑いようもなく、エンジニアがごく個人的に握っている知識と技術を貪欲に吸収し、ドクターの専門的な話にも積極的に食いついていく。もちろん私やサブリーダーの『異界』にまつわる話についてくるのにも困った様子はない。それどころか、我々にはない視座を持っているという点で、私は『異界』について彼と話すことが極めて面白いと感じる。
 その上で、私や他のメンバーに足らないところをさりげなく補う、そういうところが彼にはある。目端が利く、と言えばいいのか。彼に助けられたことは一度や二度ではなく、新人、という少し軽さを持つ肩書きとは裏腹に、もはやこのプロジェクトではなくてはならない存在だ。もちろん、それは他のメンバーもそうなのだが、彼の才覚は他の誰に代替できるものではない。そういうことだ。
 もし、私やサブリーダーがプロジェクトを離れることがあるとすれば、その後リーダーとして立つのはきっと彼なのだろう。エンジニアやドクターにも一目置かれている現状を見る限り、そう確信している。
 ただ、もう少し本気で痩せた方が健康のためでは、とは常々思っている。ドクターからも厳しい目で見られているし、のろけ話に出てくる件の彼女にも心配かけていそうだし。
 もちろん、どれもこれも、大きなお世話なのかもしれないが。『潜航』の合間に休憩室でスナック菓子を貪る彼を見ていると、つい、気になってしまうものだ。

序:名も無き我らの、夜の道行き

 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 我々、とは言っても私が率いるプロジェクトは極めて小規模なものだ。
 我が国の上層部のごく一部は古くから『異界』の存在を知り、密かにその調査を進めていた。つまり、これも国が主導する公のプロジェクトなのだが、そもそも『異界』の存在を知っている者が一握りであるという現状、なおかつそれを研究する者は限りなく少ない。
 その上、数年前に我々の師に当たる研究者がことごとく消えて――、いや、この話を始めると本題から逸れるからやめておこう。
 色々な事情が重なり合った結果、現在この場に集っているのは、この業界では若手と言うべき研究員が私含めて五人。リーダーである私、同門である長い付き合いのサブリーダー、『潜航』に必要な装置を一手に引き受けるエンジニア、サンプルの管理とデータ取得を行うドクター、『潜航』実験の開始直前に加わった新人。
 それから、我々の仕事ぶりを国の上役に報告する監査官が一人。
 最後に、『異界』に実際に赴く異界潜航サンプルとして選ばれた死刑囚X。
 たったそれだけ、と言われてしまえば、その通りと認めざるを得ない。とはいえ、彼らを率いている私は、胸を張って「少数精鋭である」と宣言しようと思う。
 誰もが『異界』という未知の領域を解明しようという情熱を携え、それぞれが他に劣ることのない知識や技術を持ち合わせている。私一人では動きようもないプロジェクトを、ここまで続けてこられたのはひとえにメンバーの力によるものだ。
 もはや、このメンバーでなければ立ち行かない、そういうことでもある。
 かくして、私の目の前に広がるのは、見慣れた光景だ。寝台に横たわるXのバイタルを確認するドクターに、異界潜航装置にとりついてこれから赴く『異界』の先行調査結果について語り合うエンジニアと新人。
 監査官と話をしていたサブリーダーがこちらを見て、
「始めるか?」
 と声をかけてくる。
 向けられるメンバーひとりひとりの視線を受け止めて、ひとつ、頷きを返し、宣言する。
「ええ、今日もお願いするわ。――『潜航』を、開始しましょう」

03:かぼちゃ

「トリック・オア・トリート」
 刑務官に連れられて研究室にやってきたXに、声をかける。すると、Xは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「知らない? ハロウィン」
 Xが外界から切り離されて久しいとはいえ、いくらなんでもハロウィンを知らないとは考えにくい。目をぱちくりさせるXに発言を許可すると、「はあ」と気の抜けた声が零れ落ちた。
「知っては、いますが。そうですか、今日でしたか」
「ぴんと来ていない顔ね」
「私には、縁の無い行事、でしたので」
 思い返してみれば、日本においてハロウィンが盛り上がるようになってきたのは案外最近のことであるような気がする。私より一回りほど上の世代であり、さらにここ十年ほどの時勢を知らないはずのXにとって縁遠い行事であることは間違いなさそうだった。
「ハロウィンが、どういう日なのかは、わかってる?」
「顔のついたかぼちゃを用意したり、お化けの仮装をした子供にお菓子を配ったりする日、ですよね」
 イメージとしては間違っていない。ただ、ハロウィンという日の意味するところについての解答にはなっていなかった。故に、私は意識して笑みを浮かべ、Xを見やる。
「ハロウィンはね、私たちのプロジェクトにも無関係じゃないのよ」
 Xは首を傾げる。これは本当にハロウィンの成り立ちを全く知らないという顔だ。
「かいつまんで言ってしまえば、十月三十一日は、ある文化圏において『異界』が『こちら側』に向かって開かれる日だとされているの。死者の霊が家族を尋ねてきたり、精霊や魔女が現れたりする、そんな日」
「死者の、霊……」
 Xがわずかに唸るような声で、私の言葉を繰り返す。
 幾多の『異界』を覗いてきても、Xは相変わらず死者の「その後」の存在には懐疑的だ。死後には何も残らない。そうでなければならない。それがXの持論である。もっとも、まだ我々も死後の存在そのものを観測したことはない。
「私たちが収集してきたデータでも、ハロウィン前後に『異界』そのものや『こちら側』にありえない存在が観測された例は有意に多い。普段は隔絶している『異界』が、あちらから『こちら側』に近づいている……、そんな風に取れるデータなの」
「なるほど?」
「やっぱりぴんと来ていない顔ね」
「実際に、体感してみないと、なんとも」
 Xはどこまでも淡々と言う。その言葉には私も「そうね」と認めざるを得ない。
 私がどれだけ言葉を重ねたところで、それを「体感」しない限り、Xの実感にはならないということなのだろう。Xは決してものわかりが悪い方ではないが、経験に重きを置くタイプであることも、わかり始めていた。
「それじゃ、実際に体感してもらいましょうか」
 結局のところ、ここから先はいつもと何が変わるわけでもなく。
 迷いなくひとつ頷いてみせるXに、私はこのプロジェクトの責任者として、指示を下すのだ。
「『潜航』の準備を始めてちょうだい」

02:屋上

 今回の『異界』は、酷く狭い場所だといえた。
 実際には、ここからずっと遠くまで広がっているのは間違いない。ただ、Xに翼はなく、意識体が元の肉体のイメージを保持している以上、『異界』での行動も肉体の制約に縛られる。
 つまるところ、この『異界』でXが探索できる範囲は、最初に降り立った、入口も出口も無い建物の屋上が全てだった。
 ぐるりと屋上を歩いてみせたあと、落下防止のために張り巡らされた、半ば朽ちつつあるフェンスに手をかけたXは、つい、と空を見上げる。
 空は『こちら側』と変わらぬ色で、青く、青く、どこまでも広がっていて、中空に輝く太陽の光がさんさんと降り注いでいる。
 普段、独房の小さな窓に切り取られた空しか見ていないはずのXに、この晴れ晴れとした空はどのような感慨をもたらしているのだろう。Xの視覚と聴覚しか共有していない私には、Xの内心までを見通すことはできない。
「気持ちのいい陽気ですね」
 誰にともなく。もしくはこれを見ている私に向けたものだろうか、Xがぽつりと言葉を落とす。そして、Xの視線が空からフェンスの向こう側へと下ろされる。
 フェンスの向こう側に広がっていたのは、直方体を思わせる高層ビルが立ち並ぶ町並みだった。しかし、それらは崩れ、あるいは折れ曲がり、足元に広がる青々とした水面に没していた。
 そして、人工的なモノトーンの建造物を、爆発的に広がる緑の植物が覆い隠そうとしている。ビルの形をかろうじて残している建物もあれば、もはや巨大な樹のようになっているものもあった。
 見渡す限り人の気配はなく、水没しつつあるビル群の存在だけが、かつてそこに人間が生きていたということを我々に伝えていた。
 一体、この『異界』の人類はどこに消えてしまったのか。これだけの情報では何もわかりやしない。Xの『潜航』だけで『異界』の全てがわかるとは思っていないが、それでも頭の中に疑問符が浮かぶ。
 ただ、Xは目の前の風景を、単純に「そういうもの」であると受け止めていたのかもしれない。Xの立っている屋上はその廃墟の中でもひときわ高い建物であるらしく、朽ちて飲み込まれ行く世界を眼下に見下ろして、こう呟くのだ。
「きれい、ですね」
 その静謐な滅びが。Xの目にはそう、映ったに違いなかった。
 私はXの目を借りて、静かに終わり行く『異界』を観測する。
 Xはそれ以上何を言うでもなく、フェンスに手をかけた姿勢のままで、水面から伸びる建造物を見つめていた。

01:鍵

 Xの手首には手錠がかけられている。
 独房から出るときに嵌められるらしいそれは、今日もXの無骨な手と手を短い鎖で繋いでいる。
 Xはもはや当たり前だとでも思っているのだろうか、文句一つ言わず――なお手錠に限らず、Xが自分の扱いに文句を言ったところは見たことがない――その戒めを受け入れているようだった。
 当のXがそんな調子であるから、私は未だに言い出せずにいるのだが。
 私は、手錠の鍵を持っている。
 刑務官から預けられているそれは、この研究室の中に限り、私の判断で使っていいことになっている。ただし、その判断によって何か問題が起ころうものなら全ては私の責任になる。当然のことだ。
 白衣のポケットの中に落とした、鍵の存在を指先で確かめる。手錠と同じ材質で作られているのであろう小さなそれは、今日も確かにそこにあった。
「X」
 私がXを呼べば、寝台に腰掛けてうつむいていたXが、つい、と少し焦点のずれた視線をこちらに向けてくる。いつものことながら、何を考えているのか判断しがたい、茫洋とした表情。
「今日の潜航実験を始めようと思うけど、調子はどうかしら」
 Xはぼんやりとした表情こそ変えないまでも、ひとつ、深く頷いてみせる。大丈夫、というつもりなのだろう。Xは私が許可しない限り、喋るということをしない。
「ならよかった。……それじゃあ、横になって」
 私の言葉に従い、Xは寝台に仰向けに横たわり、瞼を閉じる。手錠につながれた手の指がゆるく組まれるのを、見るともなしに眺めてしまう。それはどこか、祈りを捧げているかのようにも見えた。
 もう一度、ポケットの中で鍵を摘み上げる。
 この閉ざされた研究室の中だけでも、Xに自由を与えたらよいのではないか。そう思ったことがないと言ったら嘘になる。私たち以外に誰が観測しているわけではないのだ、両手の戒めを解くくらい何だというのか。
 けれど、そう思ってしまうこと自体がおかしいのだとも、思う。
 我々にとってXは『異界』に『潜航』する生きた探査機で、それ以上でも以下でもない。X自身が望むならともかく、私がXに何かを思うことに意味などないのだ。
 だから、今日も私はポケットに鍵を落とす。Xを「思う」心をしまい込む。
 そして、私たちの長い一日は、
「さあ、今日の『潜航』を始めるわよ」
 ――ここから、始まるのだ。

ある夜、猫のいる風景

《REC PLAY》

 
 カーテンの隙間から、夜空高くに浮かんだ、真ん丸いお月様が覗いている。
 その空の色と同じ毛並みをした黒猫のクロは、
「さて、どうしてくれようか」
 床の上に無残に砕け散った陶器の破片を一瞥し、銀にきらめくひげを揺らす。
「どうしてくれようかー?」
 横では、茶色い縞模様の子猫トラが、ぱっちりと目を見開いてクロの言葉を繰り返した。だが、この惨状が何を意味しているのかは、さっぱり理解していないという顔だ。
 クロはやれやれとばかりに頭を振って、トラの狭い額を前脚でこつんとやった。
「お前はもう少し自分で考えろ。お前がやったんだろ?」
「やったんだろー?」
 長くふわふわの尻尾をくねらせて、トラが復唱。それから、きょとんと目を見開いて間抜け面をさらす。
「なにを?」
 やっぱり、何もわかっていなかった。クロは唯一真っ赤な舌で黒い鼻をぺろりとやって、足を畳んで座り込む。
「いいか、トラ。どうしてここに、いつもはないものが散らばってるか、わかるか」
「わかる……、ない」
「じゃあ、その前に、この上に何があったのかは覚えてるか?」
 クロはくいっとあごを上げて、テーブルのほうを見る。トラもつられるようにそちらを見て、高らかに声を上げる。
「おぼえてるよ! まなの、みずのむやつ!」
 水飲むやつ、というが、正確に言うなら水というよりコーヒーやココアを飲むためのマグカップだ。クロとトラによく似た猫が踊っている、かわいらしいマグカップだ。トラからしてみれば、水分を摂るための器はみんな「水飲むやつ」なのかもしれないが。
「そう、真菜のお気に入りの水飲むやつだ。で、それはさっきまでここにあったはずなんだが、どこに行った?」
「しらなーい。トラがうえにのっかったときには、あったよ?」
「テーブルの上には乗るなと散々真菜に叱られただろ」
「てへっ」
 トラはまったく悪びれた様子もなく、小首をかしげてぺろりと舌を出している。かわいい。
 話の流れというものを解さないトラに、どうこの事態を説明しようか尻尾を振り振り悩んでいたクロは、ふとトラに問うた。
「そういえば、さっき、何だか大きな音がしたな?」
「うん、おしりがなにかにぶつかって、がちゃーんっておっきなおとがして、びっくりしてわーってなっちゃった」
 全身の毛をぶわっと逆立てて、その時の「びっくり」を再現して見せたトラに対し、クロは重々しく告げた。
「がちゃーんとなって、ここに散らばっているのは、真菜の、水飲むやつだ」
「え?」
「真菜の水飲むやつは、ばらばらにくだけて、こんな形になってしまったのだ」
 クロはそのうち大きな破片を前脚でちょいとつついた。あわれ、楽しそうに踊っていた黒猫の姿もばらばらである。テーブルの上と床に散らばるマグカップの残骸を交互に見たトラは、もう一度、こくんと首をかしげた。
「トラがやっちゃったの?」
「そう、やっちゃったのだ」
「まな、おこるかなー」
「何しろお気に入りだったからな。真菜は怒るだろう。絶対に怒るだろう。真菜の機嫌を損ねたら、朝食も出てこなくなるかもしれない」
「えっ、あさのうまうま、たべられないの?」
「うまうまどころかカリカリも出てこないかもしれない」
 うまうま、というのは缶のキャットフード。それに対してカリカリはドライのキャットフードである。巷の猫の例に漏れず缶に詰められたスープ交じりのご飯を愛する二匹だが、それ以前にご飯が出てこない可能性を知ったトラは、俄然目を真っ黒くした。
「それはこまる!」
「そう、私も困る。だから、どうにかして真菜の怒りを抑えなければならない」
「でも、どうするのー? こわれちゃったの、なおすの?」
「それは……、さすがに、難しいだろう」
 何しろわれわれの前脚はニンゲンの前脚とは根本的につくりが違うのだ、とクロは前脚をトラに差し出す。クロの肉球はやっぱり黒い。トラはそんなクロの前脚に、自分の前脚を差し出す。ピンクの肉球と黒い肉球が触れ合う。E.T.か。
「私の言っていること、わかってないだろう」
 明らかに面白がって肉球を押し付けているトラに、クロは呆れた声を出す。トラは「んー」というだけで、無邪気に大きな目をきょろきょろさせるだけである。
 クロはそんなトラにわかるように説明するのを諦めたようで、前脚を降ろすと改めて足元の破片を見やる。
「真菜に気づかれないよう、この破片を隠すのも不可能だろう。直すよりは簡単かもしれないが、ここにマグカップを置いておいたのは他でもない真菜だ。無ければすぐ気づいてしまう」
「やっぱり、あさごはん、ぬきー?」
 トラが悲しそうに尻尾を垂らす。まだ餌入れには多少の餌が残っているというのに、既に朝のうまうまが無いという未来を想像して、よだれを垂らしかけている。つられるようにクロもぺろりと口元を舐める。
 朝ご飯抜き。それだけは、それだけは避けなければならない。既に考えることを放棄して、にゃあにゃあ悲しげに鳴くトラに対し、クロはじっとその場に伏せて、静かに考え続ける。ゆらーり、ゆらりと黒い尻尾が揺れて。
 やがて、それが、ぴたりと止まる。
「……よし」
「くろ、なんかおもいついた!」
 むしゃぶりつくようにクロに顔を寄せるトラ。クロはそんなトラの目をちらりと見て、やがて重々しく告げた。
「気づかれないのが無理だとすれば、取るべき手段はただ一つ」
「ひとつー? なになにっ?」
「マグカップなどどうでもよくなるくらい、真菜を喜ばせればいいのだ」
「よろこぶ? まなはどうすればよろこぶの?」
「それは、我々が一番よく知っているじゃないか。そうだろう?」
 にやり、と笑う代わりに、クロは目を細める。
 結局トラは、わけがわからない、という顔でふっさりした尻尾を振るだけだったけれど。

 
《STOP》

 
 かくして、「私を喜ばせる作戦」は実行に移されたのだった。
 朝、起きてきた私を待ち構えていたクロとトラは、突然私の足元にまとわりつき、くねくねと身をくねらせて、あまつさえ、普段は無口なこいつららしくもなく、切なげな鳴き声すらあげてきたのである。
 くねくねにゃー、くねくねにゃーにゃー。
 ころりと横になって腹を見せるクロ、足元にふわふわの毛を押し付けてくるトラ。かわいい。そりゃあもうかわいい。かわいいの、だが。
 いつも、犬みたいにぴょんぴょこ飛びついてくるトラのみならず、猫らしく飯の催促だけして、その後は私に構わず惰眠をむさぼりはじめるクロまでそうなのだから、喜ぶよりも先に「何かおかしい」と思うのもしかるべきだろう。
 かくして、寝室の扉を改めて閉ざし、二匹を追い出して。
 そして、夜中のうちに回しておいたカメラが捉えた映像を一通り眺め終わった私は、そっと息をつくしかなかった。
 間違いない、階下のリビングでは、無残に割れたマグカップが私を待ち構えていることだろう。
 全く、浅はかなやつらだ。自分たちが夜な夜な好き勝手喋っているのを、私や他のニンゲンは知らないと思っている。だが、私はこうして、こっそりリビングにカメラを仕掛けて、日々あいつらの生態を観察しているのだ。
 正直、ニンゲンと同じ言葉を喋っていたことにはびっくりしたが、しかし、やつらはこっちの言葉をわかっているような素振りを見せるし、そこまで驚くに値することでもないだろうと思い直した。
 ニンゲンが猫に伝えていないことがあるように、猫がニンゲンに伝えていないことがあっても、何もおかしくはない。そういうことだ。
 それにしても、ああ、かわいそうな私のマグカップ。初めて店で見つけたときには、クロとトラによく似た猫の姿に運命すら感じたというのに、そのトラに亡き者にされてしまうとは。
 まあいい、トラに壊されそうな場所にマグカップをおきっぱなしにしてしまった私も悪くなとは言えないし、何より、あいつらはあいつらなりに、私を怒らせないようにと気を使ってくれたのだから。その努力に免じて、朝ご飯抜きはやめておいてやろうと思う。

 ……でも、今日はカリカリだけな。

嵐を殺した話

「これは、俺がある旅人から聞いた話だ。
 かの土地には、かつて巨大な樹が聳えていたという。
 山のような大きさの幹に、天にまで届かんとする梢。大樹そのものが一つの都市であり、人は樹の恵みを受けて暮らしていたという。
 だが、ある時、大樹の町の上空を鈍色の雲が覆い、嵐が到来した。それも、ただの嵐じゃあない。三日三晩を過ぎても衰えることなく、枝葉をもぎ取り、人の命をも奪う強烈な嵐だった。
 物語は、そんな嵐の日に始まった」

  *   *   *

 絶えることのない騒音が鼓膜を震わせる。大樹の梢が風に煽られる音、雨が葉を打つ音、そして轟く雷鳴。それらが渾然一体となって町を包み込んでいるのを、大樹の頂点に限りなく近い場所で聞き届ける者がいた。
 大樹の高みに位置する洞。町中からかき集められた供物を積み上げた祭壇に、ただ一人、娘が祈りを捧げていた。樹に住まう虫の糸を紡ぎ織り上げた、つややかな白の衣の輝きも、今にも消えてしまいそうな灯火にぼんやりと浮かび上がるのみ。
 祈りを終え、娘は顔を上げて振り返る。木の葉の緑を映しこんだ瞳で、じっと、壁に穿たれた穴の外――荒れ狂う空を見やる。その、白い面に、何の感情を映しこむこともなく。
 娘は、生贄であった。
 大樹の町には、百年に一度、嵐が訪れる。きっかり、百年に一度だ。
 町の人間は、それを『大樹神の空腹期』と呼んでいた。すなわち、この町の神が飢えに苦しむあまりに狂い暴れる期間である、と。
 神の腹を満たし、狂気を鎮めるためには、生贄が必要であり――娘は、生まれながらにして神の食物として定められた存在だった。
 身を清め、神のために生き、そして神に食われる。聖なる供物は神の飢えを癒し、安らかな眠りに誘う、と伝承は語る。
 故に、神の供物となることは、とても名誉あることなのだ。
 何度も、何度も、繰り返し投げかけられた言葉が頭の中に蘇る。生まれた時から生贄として育てられた娘にとって、時が来れば神に喰らわれるというのは当然であった。
 それでも、娘の親を含め、今まで娘が顔を合わせた神官たちは、まるで、目の前の娘ではなく、自分自身に言い聞かせるように、その言葉を繰り返していたのだと思い出す。
 雷の音色が近づいてくる。それは、飢えた神の咆哮でもあった。娘は洞の外を見るのをやめ、瞼を閉ざす。二度とこの瞼を開くことはないだろう、と長く息をついて――。
 次の瞬間、嵐のそれとは違う、ばさばさという激しい音が外から聞こえてきた。
 娘は、はっと目を開けた。神、ではないだろう。何かが洞のすぐ側に落ちた、そんな音。神の訪れまで洞から出るなと命じられていた娘は、一瞬だけ逡巡してから、裸足で立ち上がる。一歩、また一歩。恐る恐る、洞の入り口に近づいていく、と。
 水気を含んだ音と共に、入り口の縁を掴むものがあった。無骨な、人間の手。驚きと恐怖で娘が立ちすくんでいると、縁にかけられた手に力が篭められ、這いずるように、何者かが洞の中に入り込んできた。
 それは、一人の男だった。
 知らない男だ。人生のほとんどをこの洞でごしてきた娘は、町の人間すら知らずに育ったが、それでも、男がこの町に住む者でないことくらいは、わかる。
 祭壇に灯された弱々しい明かりに照らされた男は、日に焼けた引き締まった体に、革のようでいて妙につややかな素材でできている、頭巾つきの外套を羽織り、ゆったりとした下穿きに、外套と同じ素材の長靴を履いている。どれも、この町では見られない装束だ。
 何より、娘の目を引いたのは、髪一本残さず剃り上げた頭のてっぺんから、襟の間から見え隠れする喉元までの――もしかすると、外套に隠された内側もかもしれないが――左半分をびっしりと覆う紋様だった。
 見る者が見れば『恐ろしい』『禍々しい』とすら感じさせる、のたうつ曲線を組み合わせた紋様だったが、娘にとってはただ『珍しい』ものとしか思われなかった。
 じっと娘が見つめていることに気づいていないのか、男は身を引きずり、完全に洞の中に入り込むと、ごろり、床に転がった。
「あー……、くっそ」
 その唇から漏れる声は、呟きのようで。それでいて、洞の中にやけによく響いた。
「こんなとこで力尽きるなんて、ついてねえなあ……。腹減った……」
 と、意味のわからない文句を吐き出して、つい、と顔を上げる。
 そこで、初めて、娘と男の目が合った。
 男の瞳の色は、揺らめく炎をそのまま映しこんだような、明るい緋色であった。この暗がりの中でも、淡く輝いて映るそれから娘が目を離せずにいると、男はにっと白い歯を見せて笑いかけてきた。
「おっと、お邪魔してるぜ、お嬢さん」
 娘はしばし、口をぱくぱくさせていた。何しろ、しばらく誰かと喋ったこともなかったのだから、何を言っていいものか、すぐには判断できなかったのだ。
 けれど、かろうじて、これだけは言えた。
「あなたは、誰……?」
「あ? 俺様は、えーと……、旅人?」
 旅人。この町の外に広がる場所からやってきたということか。娘は町の外を知らないため、「外」という漠然とした概念としてしか受け止めることはできない。
 それにしても、この男は、何故町の人間も近づかない祭壇の洞に転がり込んできたのか。今すぐ、誰かに知らせるべきだろうか。その屈託のない笑い方から、娘を害する意志はなさそうではあるが。
 娘の混乱をよそに、男は重たそうに上体を起こし、洞の奥へと視線をやって……、俄然、目を輝かせた。
「おっ、美味そうじゃねえか!」
「だ、だめ! それは、神様への捧げものだから……っ」
 今にも祭壇に飛びつかんとした男の腰に、慌てて娘がしがみつく。すると男は伸ばしかけていた手を止めて、かみさま、と不思議そうに首を傾げる。
「神様って、誰だ?」
 ――そんな質問は、初めてだった。
 当然だ。この町の人間なら知らない者などいない。神は神。大樹の町を守る神。百年に一度の飢えに苦しみ悶えることはあれど、百年の間この町に平穏をもたらす、偉大なる神。
 なのに。
(神様って、誰だ?)
 男の言葉が、娘の中でもう一度繰り返される。嵐の音、雷の轟き。それは今、確かに大樹を包み込んでいて、娘は今日この日のために生きてきた。そのはず、なのに。
 一瞬、胸の中に生まれた、言葉にならないちいさな感情を飲み込んで。娘は、男に向き直って、今まで言い聞かされてきたことを、生まれて初めて、自分の口から人に語る。
「か、神様は神様なの。この町を守ってくれる、大切な神様。いつもは大樹の根元で、わたしたちを見守ってくださっている」
 男は、たどたどしい娘の言葉を、小さく頷きながら聞いていた。余計な口を挟むことなく、娘から目を逸らすこともなく。娘は、そんな男の、炎の色に煌めく視線を受け止めて、ぽつり、ぽつりと言葉を落としていく。
「でも、百年に一度、酷い飢えに襲われて暴れ出してしまう。だから、神様のお腹を満たしてさしあげる必要があるの」
「それが、この祭壇のご馳走、ってわけか」
 まだ未練があるのか、男が唾を呑み込む音が聞こえる。腹の虫が鳴く音も。本当に、腹を空かせているようだ。せめて、何か分けられるものがあればよかったが、娘の最後の食事は既に済んでいて。
 ここには、神への捧げものだけが、残されている。
 祭壇に意識を向けた男の、どこか現実離れした横顔に向けて、娘はそっと口を開く。
「わたしも」
「あ?」
「わたしも、捧げものなの」
 男が、弾かれるように娘を見た。驚きと――それ以上の、娘にはわからない強い感情をこめて。ただ、わからない以上、娘はただ、言葉を続けることしかできない。
「神様は、人の食べるものだけでは、満たされないから。清められた、生きた人間の肉は、何よりも神様の空腹を満たす」
 淡々と。淡々と。絶えず聞かされてきた言葉を繰り返していく。それは娘も全て了解してきたことで、今更、何を感じることもない。
 なのに、男の、眉間に刻まれた深い皺と。先ほどまでの明るい煌きとは打って変わって、激しく燃え上がるように色を変えた瞳を認識して、胸が一際大きく鼓動する。
 くしゃりと顔をゆがめた男は、獣が唸るような声で呟く。
「ってえことは、神様ってのは、やっぱり、外で暴れてるアレのことだよな」
 こくりと、頷く。
 娘は神の姿を見てはいないが、外で荒れ狂う嵐は神の怒りであると聞かされていたから。
 男は、紋様の刻まれていない右のこめかみ辺りを指先で掻き、「言いづれえんだが」と前置いた上で、はっきりと言った。
「ありゃあ、お前らを守ってくれるようなもんじゃねえよ」
「……え?」
 娘には、理解ができない。
 大樹神が、この町を守るものではない?
 跳ね上がった胸の鼓動が、激しさを増す。
 違う違う違う。そんなことはありえない。ここには神がいる。神は町を守る。百年に一度だけの空腹を供物によって満たしながら。
 疑いなど抱く理由もない。外から来たこの男は知らないだけだ。
 ――なのに、どうして、こんなに、胸が苦しくなるのだろう?
「そ、そんなわけない! だって、今までずっと平和だった。それは、神様が守ってくれてたからじゃ……」
「守ってんじゃねえ。奴は、お前らで――この町で、遊んでんだよ」
 刹那、稲光が洞の中に深く陰影を刻む。それと同時に、激しく揺れる枝の隙間から、何かが垣間見えた。雷雲を背に浮かぶ、巨大な影。翼持つ獣。伝承の通りの姿をした神の姿に娘は息を呑む。
 だが、男はそんな娘に向かって、押し殺した声で言う。
「奴は、神なんかじゃない。――『竜』だ」
 りゅう。その言葉を、娘は知らない。
 男は、娘の困惑を悟ったのか、立ち上がりながら低い声で言葉を続ける。
「嵐を自在に操る、永遠にも近い命と高い知恵を持つ獣だ。本来は、東の果て、雲よりも高い山の上、竜の砦と呼ばれる場所に生きる獣だが、そのうちのいくらかは、時々人間の住む領域に姿を現す。そして、長らく人間の敵として君臨し続けてんだ」
 人間の、敵。
 娘は、その言葉を自然と繰り返していた。意味もわからぬまま。
「奴らは、本来飯なんてなくても生きていける。だが、一部の竜は『遊び』として人間を狩り、喰らうことで味を占めちまう。矮小な人間が、必死に生き延びようとする姿に舌鼓を打つ、悪趣味な連中さ。外の奴も、そんな馬鹿の一匹だ」
 男の視線は、娘から、洞穴の外で嵐を纏う獣に移っていた。その視線は鋭く、男自身をも獣のように見せていた。
「奴は『人間が自分に跪くところを見たい』とか、その程度のどうでもいい理由で貢ぎもんを求めてんだろ。人を生贄に捧げさせてんのだって、本来同胞である人間を、人間の手で差し出させるのを楽しんでるだけだ」
 百年に一度、と定めているのも、口約束だけにすぎない『契約』に大人しく従う人間をあざ笑うためだろう、と男は言葉を重ねる。
 一つ、また一つ。娘の中に築かれていたはずのものが崩されていく。神様とは何か。百年に一度の嵐の理由。供物として選ばれること。生まれてからずっと信じてきた何もかも、何もかもが、嘘だったというのか。
 違う、そんなわけはない!
 娘はきっと男を睨みつけ、わななく唇を一度引き締めてから、声を上げる。
「そんなの、嘘! 神様は神様だよ。そんな、化け物なんかじゃ……。どうして、どうしてあなたにそんなことがわかるの!」
 娘の叫びに、男はほんの少しだけ、唇の端を歪めて。
「俺も、そうだったから」
 そう、言い切った。
 言葉を失った娘に対して、男は、いたって穏やかな声で続ける。
「俺様が昔住んでた村も、ここと同じだった。村を守る竜に、定期的に生贄を捧げるのが当たり前だと思っていた。だが」
 娘は口をつぐんだまま、瞬き一つで男の話を促した。男はちいさく頷きを返して、言葉を続けてゆく。
「そいつは俺様がガキん頃、突然本性を表して、人間の馬鹿さ加減をあざ笑いながら、激しい嵐を連れて村を襲った。俺の目の前で、何人も食い殺された。近所の力自慢のおっさんも、秘密基地で一緒に遊んでたダチも、心配するなって笑いかけてくれたお袋も。唯一、竜の真意を疑ってかかっていた親父だけが、伝承に残る竜殺しの術で抵抗したが……、結局のところ返り討ちだ」
 外でごうごうと鳴る嵐の音すらも、優しく包み込む声。声の調子に似合わない凄惨な過去の情景を、娘は正しく想像することはできない。できないけれど、もし、男の話が正しければ、この町もいつかは神の気まぐれで滅ぼされるということくらいは、わかる。
 加えてもう一つ、不思議に思うことがある。
「なら、どうしてあなたは生きているの?」
「親父が庇ってくれたからさ。お前だけは逃げろって。逃げて、竜の脅威を広めろってさ。だから、今も生きている」
 生きている。
 言葉の通り、男は、確かにそこにいる。よく見れば、紋様に覆い隠された左の額から頬にかけて、深い傷痕が見て取れる。下手をすれば男の命を奪っていただろう、傷痕。
 それでも、男は、生きている。
「生きて、お嬢さんみたいな目に遭う奴を、一人でも減らすために旅をしている」
 娘は何も知らない。竜のことも、目の前に立つ男のことも。娘は神のために生きて死ぬ、ただそのためだけにあったから。
 恐れなどない。恐れる理由など、何もない。
 そんなもの、ない、はずだったのに。
「なあ、お嬢さん」
 男は、娘に向かって、あくまで穏やかながら、真摯な声音で語りかけてくる。
「このまま、お嬢さんが生贄の役目を果たそうってんなら、俺様はすぐにここを出て行く。この町の、お嬢さんのやり方を否定できる理由もねえからな。だが、もしも、俺様の話を信じてくれるなら」
 赤い瞳が映しこむ娘は――何故だろう、今にも、泣き出しそうな顔をしていて。
「俺様は、お嬢さんを死なせない。神様気取りの化け物に、町を滅ぼさせたりしない」
 くしゃり、と。男の、大きく温かな手が、娘の頭を撫でたその瞬間。娘の中で、何かがふつりと切れた感触と共に。
「死にたくない。死にたく、ないよ……!」
 声が、飛び出していた。
 娘の目には、いつしか涙が溢れていた。何故、涙が出るのかも、それどころか目から溢れるこれが「涙」であることも知らなかった娘だ。胸の中に燃え上がる熱いものの名前も知らず、ただ、思いのままに、声を上げる。
 死ぬことなど、怖くはなかった。男の言葉を聞くまでは。しかし、娘は今、この瞬間に、恐怖を知ってしまった。一度知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。
 何よりも、男の言葉を嘘とは思えなかった。
 見たこともない、聞いたこともない、何者かもわからない男の言葉を信じるなど、どうかしていると、理性が囁く。それでも、娘は男を信じたいと願った。それは、娘の初めての願いでもあった。
 男は、娘を「生贄」としてではなく、ただ一人の「娘」として――対等な人間として扱ってくれた、初めての人間だったから。
 だから、娘は、一人の人間として、己の胸が訴える望みをぶつける。
「お願いします。わたしと、この町を、助けて!」
 にぃ、と。白い歯を剥いた男が、楽しげに笑う。酷く無邪気な笑顔で。
「確かに、その願い、聞き届けた」
 男は羽織っていた外套を脱ぎ捨てると、娘に投げてよこした。雨の匂いを纏ったそれは、見た目よりもずっと軽い。
「それ、やるよ。嵐を避ける竜の鱗だ。雨避けにはちょうどいい」
 上半身を晒した男は、祭壇の上に供えられた果物を一つ手に取り、大きく口を開いて食らいつく。果汁が口の周りを汚すのも構わず、種や芯すらもごりごりと噛み砕いて飲みこむ。
 娘が自分の体より大きな外套を羽織る間に、男は驚くほどの食欲で果物と燻製肉をいくつか胃の中に収めると、「よし、準備万端」と口の周りを拭って、娘を振り返る。
「折角だ。お嬢さんも、一緒に来るか?」
「え?」
「あの馬鹿に文句の一つや二つ、言いたいんじゃねえの?」
 確かに、この町の神として君臨していたものの姿を、ひと目、はっきりと見たいとは思った。もし目の前にしたら、何か言いたくなることもあるかもしれない、と思った。
 けれど、行っても、よいのだろうか。足手まといでは、ないのだろうか。
 そんな娘の躊躇いを、男の緋色の目は見抜いていたに違いない。大きく、骨ばった右手を、娘の前に差し出す。
「大丈夫。今の俺様は最強だからな。あの馬鹿には指一つ触れさせねえって、約束する」
 この、何もかもを吹き飛ばさんとする嵐の只中で、男の笑顔はまるで、澄み渡った青空のように晴れやかで。
 娘は、恐る恐る、けれどしっかりと、男の右手を握り締めた。男は、にぃと笑みを深めて、娘の体を軽々と抱き上げる。
「よっしゃ、行くぜ!」
 高らかに声を上げると、男は洞の入り口を蹴って、嵐の中に跳んだ。
「ひっ」
 娘の喉から、悲鳴にもならない声が漏れ、ぎゅっと目を閉じる。
 ほとんど祭壇の洞から出ることのない娘でも、この洞の外には、頼りない階段が幹に沿って築かれていることくらいは、知っている。当然、それ以外にこの洞の入り口に繋がる道はないことも。
 つまり、男は、娘を抱きかかえたまま、足場のない空中に向かって飛び出したのだ。
 いくらこの町が無数の枝を持つ大樹とはいえ、大樹の最も高い位置にある洞から落下して、無事枝に受け止めてもらえるとも限らない。この嵐の中では尚更だ。
 ――しかし、娘の恐れた、落下の感覚は訪れることなく。
 ばさり、と。耳元で何かが広がる音色と共に、落下どころか上昇する気配。しかも、不思議なことに、娘の体に雨が降りかかる様子はない。
 固く閉じていた目を開くと、嵐に揺れる大樹の町は遥か下にあった。
「わ、あ……! 飛んでる!」
 そう、男は飛んでいた。いつの間にか、その背中には、一対の真っ赤な翼が生えていた。骨を覆う皮膜で形作られた翼は、男が見据える嵐の中心、雲間に見え隠れする鈍色の鱗の獣が持つ翼と、形だけはよく似ていた。
 男が一つ羽ばたくと、そのたびに巻き起こる風が雨を遠ざける。どうやら、翼には風を操る力があるようだ。
 ぐん、と加速をかけて、男は娘を抱えたまま竜に迫る。徐々に、雨や雲に隠されていた竜の姿がはっきりとしてくる。捩れた四本の角、突き出た無数の牙を持つ顎、ごつごつとした四本の脚、そして刺を生やした尻尾。伝承の通りの『神』の姿が、そこにあった。
「おい、神様気取りのクソ野郎! 手前のご馳走は俺様が預かった!」
 ごうごうと鳴り続ける嵐すらも貫いて響く、男の声。それに応えたのは、娘の頭の中に直接鳴り響く、音ではない「声」。
『貴様か、我らに歯向かう、愚かな人間は』
 獣の唸り声のようにも聞こえるそれは、おそらく、目の前に立ちはだかる鈍色の竜のもの。その証拠に、男は、獰猛な笑みを浮かべて竜に返す。
「おうよ! 俺様も随分有名になったってこったな、嬉しいぜ」
 周囲の大気が唸りを増す。娘にもはっきりと伝わってくるそれは――目の前に立ちはだかる獣の、激しい「怒り」。
『その翼、その体……、我が同胞をどれだけ喰らってきた』
「さあなあ? 俺様、馬鹿だから覚えてねえや」
 挑発的に言い放ち、男は左の拳を突き出す。
「ま、化け物を殺すのは化け物の力ってこった。死んでもらうぜ、クソ野郎」
『ふん、もう少し人間相手の茶番を続けてやろうと思っていたが、貴様に嗅ぎ付けられた以上、場所を変えるしかなさそうだな』
 茶番。かつて大樹神を名乗っていた存在は、生贄たる娘の前でそう言い切って。
『全てを、喰らい尽くしてから』
 無数の牙に覆われた口を薄く開いて、嗤う。
 娘は、背筋を駆け抜ける怖気に身を震わせる。自分は、こんな化け物に、喰らわれようとしていたのだ。それを自覚した途端、今までとは比べ物にならないくらいの恐怖が、娘の身を抱きすくめようとして――。
「させねえよ」
 優しく、けれど強く抱きとめる腕の感触を思い出して、我に返る。
 男は、低く呟いて、空気を蹴った。風を纏い、竜に向かって一直線に空を滑っていく。だが、それを見た竜が大きく口を開き、大きく息を吸い込んで。
「頭ぁ、引っ込めとけ!」
 男の指示に従って、頭巾を被った頭を縮ませた瞬間、強烈な衝撃波が襲い掛かってきて、男の体が大きく吹き飛ばされる。ただ、衝撃そのものは男の腕と、纏った外套のお陰だろうか、娘が衝撃を受け止めることはなかった。
「悪い、ちょっと揺れたな。大丈夫か?」
 うん、と。娘は男の腕の中で頷く。頷いて、顔を上げると……、男の左腕から、真っ赤な血が滴っていた。
「あなたこそ、大丈夫? 血が……」
 今の衝撃を受け止めた反動だろうか。その瞬間を見ていない娘にはわからないが、その血の赤さに、怪我をしたわけでもない娘の方がその痛みを想像して、眉を寄せる。
 だが、男は「ははは」と愉快そうに笑って、娘の顔を覗き込む。
「こんなの、唾つけときゃ治る」
 男は全く意にも介した様子はなく、指先にまで流れていた血をひと舐めして、翼を翻して方向転換する。
「ちょーっと加速するぜ。きちんと口閉じてろ、舌噛むんじゃねえぞ」
 娘は言われたとおり、しっかりと口を閉ざす。それを確かめて満足げに頷いた男は、風を纏う翼を、大きく羽ばたかせる。
 全身にかかる、強烈な負荷。それでも、娘は声一つ上げずに耐える。何故か、男は竜のいる方向から遠ざかるように飛んでいく。視界の端に映るのは、男よりも速度を上げて追いすがってくる竜。
『逃げる気か?』
「まさか」
 竜がこちらを追いかけてきているのを確認した男は、分厚い雲の中に飛び込む。あちこちに走る雷に、娘は身を竦ませるけれど、雷が娘の体を貫くことはなかった。どうやら、男が着せてくれた鱗の外套には、雨や風だけでなく、雷をも遠ざける力があるようだ。
 次々に、雲から雲へと渡ることで、竜の目を眩ませようというのか。けれど、それにも限界がある。竜の方が速い以上、必ず竜が男の姿を捉える時が来る。
『くっ……、ちょこまかと!』
 苛立ちの声と共に、竜は口を開く。
 男の影が映りこんだ、雲に向けて。
 次の瞬間、強烈な音を立てて衝撃波が放たれた。目には見えない空気の波が、黒雲を跡形もなく消し飛ばし――。
「ははっ、どっちに撃ってんだ?」
 高らかな男の声は、竜の背中にかけられる。
 そう、男は、竜が衝撃波を繰り出したのとは全く違う方向にいた。雷が生み出した影が、別の雲に男の姿を映したことで、男の位置を錯覚させたのだ。己の失態に気づき、竜が慌てて首を廻らせようとするも、その時には男は既に竜の背中に降り立っていた。
「捉えたぜ!」
 男は左の拳を握り締める。すると、男の左半身に刻まれていた紋様が、赤く燃え上がるような煌きを発する。娘の肌に触れた光は、優しい温もりに満ちている。
「貫けええええっ!」
 気迫の声と共に、拳を叩き込む。男の拳は、竜の巨体に比してあまりにも小さく、その鱗一枚に傷を穿つことも難しそうに見えた。だが、男の半身に纏われた赤い光は、拳を中心に太く鋭い槍となって、竜の背中から胴体までを、一直線に刺し貫いていた。
 竜の口から、苦悶の声が漏れ、澱んだ色の目が見開かれる。そして、激しく身をよじって、男の体を空中に弾き飛ばす。
「きゃっ」
「おっと、意外としぶてえな」
 娘の体を抱きなおしながら、男は背中の翼を上手く使って勢いを殺す。だが、その時には、竜の顎は目前にまで迫っていた。鋼の輝きを宿す無数の牙が、娘の眼前に晒される。
『せめて、生贄もろとも喰らって――』
「悪ぃな、指一本触れさせねえって、約束したんだ」
 不敵な笑みを浮かべる男は、迫る顎から目を逸らさないまま、ぎりぎりのところで翼の向きを変え、急降下する。勢いづいた竜の巨体は、男の突然の動作に対応できず、虚空を噛み付いて。
 その直後、顎の下に潜り込んだ男の左腕が、否、左の半身にびっしりと刻まれた紋様がもう一度、真紅に煌いた。激しくも不思議と娘には温かく感じられる、奇跡の光。
「手前は、これでも喰らっとけよ!」
 握り締められた真紅の拳が、竜の顎を砕き割る。きらきらと輝く鋼の牙が空中に舞い、そのうちの一つが娘の手の中に落ちる。竜は、風の音にも似た悲鳴を上げて体勢を崩し、がくんと頭を落とす。
 男は、もう一発、止めとばかりにその眉間に拳を突きこむ。紅の輝きが竜の頭を貫通し、今度こそ、墜落を始める。男を呪う、強烈な断末魔の尾を引きながら。
 けれど、それも一瞬のことで。竜の思念が途絶えると同時に、大樹の枝を折る激しい音と共に、鈍色の巨体は地面に打ち付けられ、二度と動かなくなった。
 娘は、唯一、手の中に残された竜の欠片を掌でそっと握り締めて。
「さよなら、神様」
 ちいさく、囁くように、言葉を落とす。
 嵐はいつの間にか止んでいて、今まで広がっていた鈍色の雲も、夢か幻であったかのように消え去っていた。
 頭上に広がるのは、雲一つない空。嵐の到来以来、二度とこの目で見ることはないだろうと思っていた、青空。
 そんな晴れやかな空を背景に、竜の翼を持つ竜殺しの男は、日に焼けた精悍な顔を子供っぽい笑顔で彩る。真っ赤な輝きを灯していた左半身は、既に単なる紋様に戻っていた。
「さて、と」
 大樹のてっぺんに降り立った男は、同じく枝の上に立った娘に向き直る。
「俺様はもう行くけど、これから、お嬢さんはどうすんだ?」
 眼下は大騒ぎだ。町を守る神が殺されたのだから当然だ。男がこの町に残ることはできない。事情を知らない大樹の町の住民は、男を「神を殺した罪人」として糾弾するだろう。
 そして、それは、町にとっての「生贄」であった娘にとっても、同じこと。神を騙った獣が死んだ以上、娘の居場所も、この町にはないのだと気づく。
 けれど、娘は生きている。娘の命を奪う運命だった、牙の欠片をその手に握ったまま。
 だから。
 運命の残骸を強く握り締めて。
 逃れられなかったはずの運命を、拳一つで壊した男を見上げて。
 その、温かな色の瞳に映る自分が、満面の笑みを浮かべていることを確かめて――。

「あなたと、一緒に行きたい」

  *   *   *

「大樹の町がその後どうなったのか? 竜殺しと生贄だった娘がその後どうなったのか? 何故、竜の牙だけが残されたのか? そんなの俺の知ったことじゃあない。
 だが、旅をしていりゃ、時々面白い話を耳にする。目前まで迫っていた嵐が、ふっと、影も形もなく消えてしまう話さ。
 だから、そんな話を聞いたときには、俺は必ずこう答えるのさ。

 ――そりゃあ、竜殺しが悪い竜を仕留めたのさ、ってな」

夕星☆えとらんぜ

 チャイムが鳴って、放課後が始まった瞬間、彼を追って教室を飛び出す。
 廊下の人混みの中でもすぐにわかる。人目をひかずにはいられない美青年。輝くような、という形容詞は、きっと彼のためにある。
 加賀瀬修。
 出席番号十番、生物部。文武両道超絶美形、更に言うなら人格者。学内の誰もがその名を知る、完璧超人。
 彼を追って昇降口から出ると、外は暗くなり始めていて、一番星がほとんど隠れてしまった太陽に寄り添っているのが見えた。
 思ったとおり、加賀瀬くんは中庭のビオトープに入っていく。枯れた草木に満ちたその場所は、彼のお気に入りだ。
 少し待っていると、後輩らしき女の子が息を切らせて走ってきた。木立の後ろに隠れる私には気づかない様子で、ビオトープの奥に立つ加賀瀬くんに手を振る。
「加賀瀬先輩、お待たせしてすみません」
「全然、待ってないよ。用って何かな」
「先輩、あたし、先輩のこと」
 頬を真っ赤にして加賀瀬くんを見上げる女の子を見ていると、私までドキドキしてくる。加賀瀬くんは、そんな女の子に笑いかけ、ゆっくりと顔を寄せて……。
「好き」
 本当に、女の子がそう言ったかどうかは、わからない。
 女の子が口を開いた瞬間、加賀瀬くんが、自分の唇を女の子の唇に押し付けていたから。
 相思相愛の、キス。何も知らなければ、私もそう思ってたはず。
 でも、その間、加賀瀬くんの喉は何かを飲みこむように動き、顔を離せば、唇の端に金色の火がちらちら揺れる。
 そう、それは確かに「火」に見えた。
 加賀瀬くんは、真っ赤な舌でぺろりと火をなめ取り、味を確かめるように口を動かす。
 その間、女の子はねじの切れた人形みたいで、頬の赤みも、いつの間にかすっかり消えていた。
 満足げにうなずいた加賀瀬くんは、女の子の肩をぽんとたたく。すると、女の子は目をぱちくりさせて加賀瀬くんを見上げた。
「あれ、加賀瀬、先輩?」
 女の子は、今、加賀瀬くんがそこにいたことに気づいたみたいに、首を傾げる。加賀瀬くんは、とびっきりの微笑みを女の子に向けた。
「やあ。どうしたの、こんなところで」
「えっと……」
「見学? この季節は華やかさには欠けるけど、冬を越すための生き物の工夫が面白いよ」
 どこかずれたことを言いながら、加賀瀬くんは女の子から、立ち並ぶ木の一つに視線を移して、明るい声で言う。
「真っ暗になる前に帰りなよ」
 はい、と答えた女の子は、首を捻りながらも、加賀瀬くんを振り返ることすらしないで、校門の方へ歩いていってしまった。
 きっと、あの子はもう、加賀瀬くんに恋していたことを忘れてる。
 今まで、加賀瀬くんに告白を試みた子たちと、同じように。
 加賀瀬くんは、女の子を見送ることもせずにビオトープの草木を見渡して、突然、こっちを振り向いた。切れ長の目が、私の目とばっちり合ってしまう。
 私は、慌てて駆け出した。加賀瀬くん、私が見ていたことに絶対に気づいた。まずい。
 ばくばく鳴る心音が、耳元で聞こえる気がする。校門を出たところで加賀瀬くんが追ってきていないことを確かめて、ほっ、と息をついた。
 ごめん、加賀瀬くん。
 でも、どうしても、知りたいの。加賀瀬くんがキスをする理由。あの金色の火の正体。
 振り向いても加賀瀬くんの姿は見えなくて、ただ、暮れゆく空に輝く星がまぶしかった。

 
 初めて加賀瀬くんのキスを目撃したのは、ただの偶然。
 生物部の友達を探して、ビオトープに足を踏み入れて。そこで、友達が加賀瀬くんと向き合っているところを見つけた。
 元々、友達が加賀瀬くんのことを好きなのは知ってた。加賀瀬くんに告白したいってその子が言った時には、頑張ってねって応援した。
 でも、のぞき見したかったわけじゃない。見かけてしまったのは、本当に偶然。
 加賀瀬くんは、いつもの爽やかな笑顔を友達に向けていて、とってもいい雰囲気だったと思う。だけど、加賀瀬くんが友達の顎に触れて、深いキスをした瞬間、目が離せなくなった。
 息継ぎをするように、一瞬顔を離した友達の唇から、金色の火が漏れて。その金色のものを、加賀瀬くんが長い舌でなめ取って、飲みこむ。
 これが、キス?
 だけど、加賀瀬くんの顔に浮かぶのは友達が加賀瀬くんに向けていたような、熱っぽい感情じゃない。金色の火に照らされた顔は、さながら、おいしい食べ物を前にした子供。
 私は、いけないものを見てしまった気がして、慌ててその場から逃げ出した。
 それでも、どうしても気になって、翌日、友達に聞いてみた。昨日、加賀瀬くんと一緒ではなかったか、と。
 そうしたら、友達はなんにも覚えていなかった。ビオトープで加賀瀬くんと会ってたことも、加賀瀬くんと何をしていたのかも、全部。
 それどころか、信じられない言葉を聞いてしまった。
「どうして、加賀瀬と一緒にいると思ったの?」
「えっ、この前、加賀瀬くんに告白するって」
「聞き間違いじゃない? 加賀瀬っていい奴だけど、彼氏って感じじゃないよ」
 その時ほど、自分の耳を疑ったことはなかった。
 あんなに加賀瀬くんのことを見つめてたのに。加賀瀬くんと一緒の部活でうれしいって、話していたのに。髪にかわいいヘアピンを飾るようになったのだって、加賀瀬くんのためだったはず。
 なのに、どうして、忘れちゃったんだろう。
 加賀瀬くんは、一体、友達に何をしたのだろう。

 
 その日から、私は加賀瀬くんを見張ることにした。
 何度か、加賀瀬くんが女の子と一緒にいるところを目撃したけれど、その時も同じ。加賀瀬くんが女の子にキスをして、金色の火を飲みこんで。翌日には、キスされた女の子は、加賀瀬くんへの思いを忘れてしまう。
 でも、わかったことはそれだけ。加賀瀬くんがキスをする理由も、金色の火が何なのかも、わからないまま。
 そうやって観察していることは、加賀瀬くんには内緒だったけど、友達の間ではバレバレだった。そんなに見つめて、加賀瀬くんに気があるんじゃないかってからかわれたけど、そうじゃない。
 納得できなかった。加賀瀬くんが好き、って気持ちを記憶ごと失うなんて、どう考えたって納得できない。
 本当は、直接聞くのが一番だってことはわかってた。だけど、人目を避けてキスする二人のことを、どうして加賀瀬くんに聞けるだろう。
 もう一歩踏み込むだけの勇気が足らないまま、私は、のぞきの毎日を送るしかなかった。

 
 翌日、加賀瀬くんの周りに女の子はいなかった。
 私は、本を読むふりをしながら、他の男子と話している加賀瀬くんを横目で窺う。加賀瀬くんは、もちろん、爽やかな微笑みを絶やさない。
 放課後のチャイムが鳴って、一人、また一人と人が減っていって。気づいたら、教室には、加賀瀬くんと私だけが取り残されていた。
 人もいなくなった教室で本を読んでいるのも不自然すぎる。仕方なく、机の横にかけた鞄を持って立ち上がったところで、突然、声をかけられた。
「ねえ、森さん」
「は、はい?」
 いつの間にか、加賀瀬くんは私の隣に立っていた。加賀瀬くんごしに広がる窓の外の風景は、昨日と同じ色の空と、きらめく一番星。
「昨日の放課後、見てたよね。ビオトープで」
 心臓が跳ねる。やっぱり、見られてたんだ。
「ご、ごめん。のぞき見なんて失礼だと思ったけど、つい気になって」
「昨日だけじゃない。森さん、ずっと、僕のこと見てたよね」
 ―気づかれてる。
 汗が背中に流れる。教室は、こんなに冷え込んでいるのに。
「どうして?」
 加賀瀬くんの目が、きらり、ときらめいた。女の子の唇から漏れる火と同じ色で。
 その時初めて、加賀瀬くんが「怖い」と思った。だって、顔は笑ってるのに、目が、人とは明らかに違う金色の目が、刺すように私を見つめていたから。
 怖くなって、鞄を抱きしめて逃げ出そうとした。でも、私が動く前に、加賀瀬くんは壁に手をついて、私の動きを縫い止める。私は、壁に背中をつけて、更に近づいた加賀瀬くんの顔を、見つめることしかできない。
「ねえ、どうして?」
 こうなったら、もうどうにでもなれ、という思いで口を開く。
「どうして、って言いたいのは、こっちだよ」
 一度腹を決めてしまえば、言葉が、自然と唇からあふれてくる。
「のぞき見していたのはごめん。でも、どうしても気になっちゃうの。加賀瀬くんは何者なの? 女の子たちに何をしてるの? あのキスはどういうこと? 口から出る金色の火は何で、どうして大切なことを忘れちゃうの?」
 そこまで言って、加賀瀬くんをうかがう。
「それを知られちゃ生かしてはおけない」なんて言い出したらどうしよう、と不安を募らせていると、加賀瀬くんは、悪魔じみた表情から一転して、目を真ん丸くした。
「それだけ?」
「は?」
「てっきり、君も僕のことが好きなのかと思ったんだけど。なんだ、違うんだ」
 私が、加賀瀬くんのことを?
 そうやってからかわれていたのは事実だけど、まさか、加賀瀬くん当人もそう思っていたとは。加賀瀬くんには悪いけれど、ここはきちんと断っておかなきゃならない。
「それはないよ。私、おじさま好みだし」
「失礼。でも、それなら当然、気になるよね」
 加賀瀬くんは壁についていた手を引き、くすりと笑う。
「森さんが見たとおり、僕は、君と同じ人間じゃないんだ」
「人間じゃ……、ない?」
 加賀瀬くんが普通じゃないのはわかってたけど、まさか「人間じゃない」とは思わなくて、ぽかんとしてしまう。
 加賀瀬くんは、私の途惑いを力強いうなずきで受け止める。
「僕は、あの星から来た」
 窓を振り返った加賀瀬くんが、空と町並みの狭間に輝くそれを指差す。
 宵の明星。金星。
 地球から一番近くを巡る惑星、全天のどの星よりも強く輝く、金色の星。
「人の住める星じゃないって聞いたけど」
「君たちのような人間ばかりが『人』じゃないってことさ」
 加賀瀬くんは、いたずらっぽく笑う。それは、一度も見たことのない表情だった。
「僕は、お隣さんのことをもっとよく知るために、地球人に擬態してる調査隊員なんだ。ただ、体のつくりが君たちと違うから、食べるものも違う。普段は一緒のものを食べてるけど、主食はあくまで人の心でね」
「心が主食って、どういうこと?」
 まず、人の心臓を引き抜く加賀瀬くんが脳裏に浮かんだけど、加賀瀬くんにもそれがわかったのか「言い方が悪かったかな」と苦笑する。
「人が抱く強い思い、心が生む力を食べてる、って言うべきかもしれない」
 その言葉でひらめいたのは、加賀瀬くんが女の子の唇からなめ取った、金色の火。
「それが、あの、金色の?」
「うん。この星には僕たちの主食と同じものは存在しない。一番近いのが、地球人の心の力なんだ。心をいっぱいに占める思いであるほど、おいしいし元気も出る」
 加賀瀬くんは、味を思い出したのか、唇をぺろりと舐める。その舌の赤さにどきりとしながらも、長らく疑問だったことを尋ねてみる。
「でも、食べると、なくなっちゃうんだよね?」
「もちろん。だから、不自然にならない程度に記憶をいじるんだ」
 加賀瀬くんは、ぼう然とする私の顔を覗き込んで、「そうそう」とにっこりする。
「この見た目も、おいしいものを効率よく摂取するために、地球人好みに調整したんだ。僕は地球人の美的感覚がわからないんだけど、上手くできてるよね?」
 それには、いくらなんでもショックを隠せなかった。まさかみんなの憧れの完璧超人が、作られたものだったなんて。自然と頭の中に浮かんでくるのは、疑似餌を駆使する深海魚。
「なんというチョウチンアンコウ……」
「そう、それ! チョウチンアンコウ!」
 私の思いつきの何が面白かったのか。どんな時でも爽やかな微笑みを崩さなかった加賀瀬くんが、突然げらげら笑い出したものだから、びっくりしてしまう。
 でも、確かに今、加賀瀬くんは子供みたいに笑っていて、まばゆく燃える故郷を背に、大きく腕を広げる。
「地球は面白いものがいっぱいあるよね! 僕の故郷は殺風景な場所でね、こんなにたくさんの生き物が、様々な生き方で生きてるなんて、物語の世界だけだと思ってた」
 その目の中にも、きらきら燃える明星。
「だから、調査隊に選ばれた時には、本当にうれしかった。知らない世界をこの目で見て、肌で感じられるんだって」
 どうしてだろう。
 冗談みたいなことを言ってるのに、私、加賀瀬くんの言葉が嘘だなんて思えなかった。
 だって。
「加賀瀬くんは、本当に、この星が好きなんだね」
「もちろん!」
 そう言った加賀瀬くんは、喜びでいっぱいの笑顔だったから。そんな顔されたら、嘘だなんて思えないよ。
「っと、しゃべりすぎちゃったな」
 きらり、と輝く瞳が私に向けられる。もしかして、私も記憶を消されちゃうのか。背筋を強張らせて加賀瀬くんを見上げると、加賀瀬くんは、ゆがめた唇の前に指を立てる。
「森さん、今日のことは内緒ね」
「うん。絶対、誰にもしゃべらないよ」
「よかった」
 言って胸をなで下ろす加賀瀬くんの鼻先に、びしっと指を突きつける。
「でも、女の子の気持ちをただの『食事』として扱うのは、気に入らない」
「え?」
「君を好きだって思いは、きちんと受け止めてあげないと、かわいそうだよ」
「かわいそう?」
 加賀瀬くんは首を傾げた。もしかすると、金星人は、地球人とは心に対する考え方も違うのか。そんな加賀瀬くんに上手く伝わるかはわからないけど、それでも。
「君が言う心の力は、大切に、大切に、胸の中で育ててきたもので、そう簡単に飲みこんでいいものじゃない。少しでいいから、受けとめてあげてよ」
 私は、恋がよくわからない。
 だけど、加賀瀬くんを好きだった友達が、一つ一つ、加賀瀬くんに近づけるように努力してきたのは知ってるから。その思いが既に加賀瀬くんのおなかの中に消えていたとしても、言わずにはいられなかった。
 加賀瀬くんは、私がつきつけた指先を見つめて、二、三回瞬きをして、やがて重々しく頷いた。
「わかった。食べることはやめられないけど、考えてみるよ」
「うん、地球人理解の一歩だと思ってさ」
「地球人理解! それなら頑張らなきゃな。ありがと、森さん」
 感謝の言葉と共に、加賀瀬くんが私の額にキスしたのだと気づいたのは、加賀瀬くんの顔が離れてからだった。
「それじゃあ、また明日」
「また、明日……」
 いつもの、爽やかな微笑みに戻った加賀瀬くんの言葉をオウム返しにして、そのまま去っていく彼を見送ってしまう。
 ふと我に返ってみれば、おかしな話だった。加賀瀬くんが金星人で、人の心のエネルギーを食べてるなんて、信じる方が馬鹿みたいだ。
 でも、なんでだろう。加賀瀬くんの無邪気な笑顔を思い出すと、体が熱くなってくる。
 空に引っかかって光る金色の星を見つめて、唇の跡を、指でそっとなぞる。

 ……この胸のドキドキは、何?

スピラーレ

 机の上には、埃を被った日記が置かれている。
 日記を開きますか?

 >はい  いいえ

 

 

   ×月×日

 目を覚ますと、百日の間城下町を覆っていた暗雲が、まるで嘘のように消え去っていた。待ち望んでいた青空に、誰もが歓喜の声を上げた。もちろん私もだ。
 それは、神に選ばれた勇者アベルが魔王を打ち倒した、何よりもの証拠だった。
 勇者は、ほどなく神が下された聖剣スピラーレを携え、この城に戻るだろう。
 もう、魔王とその配下の魔物に脅かされ、震えながら各々の家に篭っている生活も終わりだ。これからしばらくは、勇者の凱旋祝賀会の準備で忙しくなるだろう。各所への手配のことを考えると始まる前から気疲れを覚えるが、めでたい話なのだから、と自分に言い聞かせることにする。
 全てが一段落したら、彼女を連れて少しばかり遠出をしたい。私と彼女が出会った海辺も、きっとその頃には平穏を取り戻しているだろう。二人で、ゆっくりと語らうことの出来る日も、そう遠くないはずだ。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 明日、勇者アベルが凱旋する。
 何とか祝賀会の準備も整った。後はその時を待つばかりだ。
 これほどの短時間での準備は大変だったが、自分に出来る限りのことはやったつもりだ。これで勇者と王に満足いただければいいのだが。
 ともあれ、本番は明日なのだから、気を抜くには早い。そろそろ眠って、明日の祝賀会に備えようと思う。
 とはいえ、この興奮ではなかなか寝付けそうにない。まるで小さな子供に戻ってしまったようだ。彼女も、私と同じ気持ちなのかもしれない、帰りがけに見た部屋には灯りが灯ったままだ。
 明日はきっと、すばらしい日になるだろう。
 その記録を記す機会に恵まれた私は、この上ない幸せ者だと思う。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 何が起こったのかわからない。

 この混乱をどう書き記せばよいのだろうか。書き記してよいのだろうか。
 わからない。わからないけれど、事実だけは記しておこうと思う。

 勇者アベルが、王を惨殺した。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 祝賀会のさなかに王が殺され、城内も城下も混乱していたが、その混乱も徐々に終息しつつあるようだ。王の死後起こった数々の問題に対して、城の上層部の的確な判断と対処が、早期の終息を導いたといえよう。もちろん、王を殺したのが勇者である、という事実は民には巧妙に隠されている。
 魔王が君臨している間は何一つ有効な策を打ち出すことが出来ず、無能とばかり思われていた城の上層部だが、それはあくまで魔王という人知を超えた存在に対して、対抗する手段を持ちえなかったというだけだったのかもしれない。単なる下っ端である私には、あくまで想像することしかできないが。
 ともあれ、今までは日記を書く暇も無かったが、やっとのことでここに経緯を記すことが出来る。このごく個人的な記録が、もし人の目に晒されたら、と思うと恐ろしくはあるが、それでも記しておこうと思う。
 アベルは王を殺したその場で捕まり、王を殺した凶器である聖剣を奪われ、城の地下の牢獄に捕らえられた。捕らえられたその時は、特に抵抗もせず、粛々と従っていたようだ。今現在アベルがどのような状態かは伝わってきていないが、おそらくまだ牢獄の中にいるのであろう。
 通常なら即刻死刑となってしかるべきだが、何しろこの国を救った勇者だ。処遇が決まるまではもう少しかかるのではないかと思われる。
 また、代々の王が管理してきた聖剣スピラーレは、城の宝物庫に再び封印された。ただ、宝物庫の番人の一人であるジムが、奇妙なことを呟いていたのが気にかかる。
 聖剣の封印をした日から、目の前に、無数の数字がちらついて見えるのだという。忙しい日々が続いているとはいえ、仕事のしすぎで体調を崩しているのではないだろうか。心配だ。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 今日は何事もなく一日が過ぎたが、一つ、不安な噂を聞いた。
 ジムが行方不明になったという。
 最近城でもあまり姿を見なかったが、同僚によれば、奇妙なことをぶつぶつ呟いていたり、人の顔を見るだに逃げ出したり、まともに食事ができていなかったりと、明らかに様子がおかしかったらしい。
 そんな状態になっていたとは知らなかった。一体、何があったのだろう。この前見かけた時にきちんと話を聞いておけばよかった。
 無事ならばいいのだが、と思うけれど、嫌な予感が離れない。杞憂ならばいいのだが。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 休暇をもらえたため、彼女と海辺に行く。
 待ちに待ったひと時ではあったが、話す内容はあまり明るい話題ではなかった。
 彼女も不安なのだろう。王が死に、新たな王はまだ若い。魔王は滅びたが、魔王という共通の脅威を失った今、隣国との関係が再び悪化し始めているとも聞く。
 また、戦争が始まるのかな、と海を眺めていた彼女が言ったけれど、今の私は正しい答えを持ち合わせてはいない。
 やがて、彼女はこうも言った。どうして、人は絶えず争わなければいけないのだろうか。神様は、私たちを幸せにしてくれないのだろうか。
 そんなことはない。神は世界を壊そうとする魔王から我らを守るべく、勇者と聖剣を遣わせてくれるではないか、という私の言葉に対し、彼女は小さな溜息をついて言った。
 それならば、何故、神様は永遠に魔王をこの世界から滅ぼす方法を与えてくれないのだろう。この世界は、百度も魔王の脅威に晒されてしまったのだろう、と。
 その問いには、私も、どうしても、答えられなかった。
 答えられない代わりに、彼女の体を抱きしめた。彼女の体は、寒さからだろうか、小さく震えていた。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 行方不明だったジムが引き揚げられ、今日、葬儀が執り行われた。
 神官の見立てだと、死後三日というところらしい。その間、あの澱んだ川の中にいたのかと思うと、気分が重たくなる。
 死因は不明だが、ジムの同僚たちはまず自殺であろうと語っていた。それだけ、近頃のジムはおかしかったということらしい。ただ、おかしくなった原因は誰にもわかっていないようだった。
 私にもわからないままではあったが、一つだけ気になることがある。
 ジムがおかしくなったのは、王がアベルに殺され、聖剣スピラーレを封印した後からではなかったか。日記を読み返して、今更ながらに気づいた。
 まさか、勇者の狂気がジムにうつったなんてことはないだろうが、無関係ではないかもしれない。そう思うと、アベルに話を聞いてみたくなる。今もまだ、牢にいるという王殺しの勇者。
 そういえば、私はアベルという人物について何も知らない。勇者として神に選ばれ、魔王を打ち倒した男である、という話と、城に現れたその姿だけしか知らないのだ。それに気づいてしまうと、俄然知りたくなる。アベルが何者なのか、その狂気がどこから現れたものだったのか。
 明日からでも、調べてみよう。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 アベルに面会を申し込んだが、手続きに数日がかかるという。
 その間に、調べておいたことを、忘れないうちに書き記しておこうと思う。
 まず、アベルは、この国の辺境に位置する小さな村の出身だった。記録が正しければ剣も触ったことのないごく平凡な農民の子だったようだが、ある日、城の神官が託宣を受けたことにより召喚され、聖剣スピラーレを与えられた。
 その後、アベルは仲間を募って魔王の居城を目指す旅に出かけた。その際の勇者の活躍はどの町でも語られているが、その反面、影では勇者を非難する者もいるようだった。どうやら、勇者は行く町行く町で略奪行為を繰り返していたらしい。だが、神の力を持たない民衆には太刀打ちできない魔物を完全に撃ち滅ぼす力を持った勇者に対して、面と向かって非難できる者もいなかったという。
 そのアベルの人柄だが、誰もそれを正しく理解している者はいない。そんな印象を受けた。誰に聞いても、アベルの印象が一致しないのだ。寡黙で穏やかだという者もいれば、粗暴で一度暴れ始めたら手がつけられない、という者もいた。魔物に人質に取られた娘ごと、虐殺を行ったという記録もある。
 そして、一番興味を引かれたのは、一度アベルの仲間であったことのある、一人の魔法使いの言葉だ。
 アベルには、この世界の全てが数として把握されていたのだという。ものが持つ強度、剣が与える傷の深さ、魔法の力とそれを放つために必要な魔力量、そして、命の重さすらも。
 ジムが言っていた「目の前に無数の数字がちらついて見える」ことと、何か関係があるような気がする。
 やはり、アベルという人間ときちんと話をしてみたい。彼がどのような世界を見ていたのか。どうして魔王を倒して後、王を殺すに至ったのか。知ったところで何が変わるわけでもないが、ただ、知りたいと思う。
 さて、明日は彼女との久しぶりの食事だ。彼女の不興をかわないように、準備は入念に行っておかなくては。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 今日、アベルに面会を許された。
 アベルと話した内容のうち、覚えていることを纏めようと思うのだが、上手く纏められるかわからない。それだけ、アベルの言葉は私の思考の範疇を軽々と飛び越えていた。だが、それらが単なる狂気から放たれた言葉でもないということも、わかる。
 とにかく、誰に見せるわけでもない記録なのだ、今はただ、書けるだけのことをここに書いていこうと思う。

 牢の中に、鎖で拘束されていたアベルは、痩せ衰え、薄汚れた姿をしていた。だが、その中で、目だけはぎらぎらと強い輝きを放っていて、見るだに背筋が冷たくなる。
 だが、何の用かと問いかける声は、思ったよりずっと落ち着いたものであった。
 私が自己紹介をして、面会の目的を話すとアベルは意外そうな顔をしたが、すぐに重たい表情を浮かべて言った。
「俺自身も、何でこんなことになったのか、よくわからないのだ」
 言葉の意味がわからなかった私は、問いを重ねた。その問答は以下のとおり。
「よくわからない、とは?」
「俺は、望んで勇者になったわけじゃない。ただ、城に呼び出されて、聖剣を手に取ってから、体が自由に動かなくなって……考えてもいないのに勝手に喋ったり、人の家の箪笥から金を盗んだり、戦いたくもないのに魔物と戦ったりしはじめた」
「その原因はわからなかった?」
「俺にわかるはずもないだろう? ただ、体の自由が奪われるのと同時に、俺の目に映るものは、全部数字や文字と重なって見えるようになった」
「それは聞いたことがある。人の命の重さも、わかるとか」
「もちろん。その上、わざわざ話を聞かなくたって、目の前にいる奴の名前や所属、持っている情報が全部読み取れる。どんな武器を装備していて、どれだけの魔法を持っていて、それぞれがどのくらいの強さなのか、俺に勝てるのか、勝てないのか。そういうものが、何もかも見ただけでわかってしまう」
「本当に、何もかもがわかると?」
「今だって、俺には見えているぞ。あんたが何処に所属している何者かも、俺が何度殴ればあんたを殺せるのかも。この世界に生きるものなんて、脆いものだ。少し捻れば、簡単に命の数がゼロになって、動かなくなる。もちろん、王だって同じ」
「何故、王を殺したのだ? それは、あなた自身の意志だったのか、あなたを操る何者かの意志だったのか?」
「それは俺の意志だ。魔王を倒した瞬間に、俺の意識は自由になった。まるで、今までのことが全て悪い夢だったかのように。だが、書き出された情報の塊でしかなくなってしまった世界はそのままだし、この手で罪を犯しすぎてしまったことも、何処までも事実だった。
 世界はこんな俺でも、魔王を倒した勇者として認めてくれるだろうが、それは俺の望みなんかじゃない……そう思った瞬間に、何もかもが、嫌になってしまったのだ。俺自身も、俺をこんな目に遭わせた神とそれに従っている奴も、全部、全部。だから、手始めに王を殺して、そこから世界をぶち壊してやろうと思った。俺が殺されても、それはそれでよいとすら思っていた」
「だが、その目論見は失敗している。あなたが王を殺しても、国は倒れなかった。隣国との緊張状態にはあるが、既に国は元の機能を取り戻しつつある」
「それだけやっても、その程度か。勇者と呼ばれていたのは、あくまで俺を操っていた何者かで、俺自身はこの世界に何の変化をもたらすこともできないのかもな。だからと言って、世界の裏側を覗き続けながら、何でもないふりをして暮らしていくことも、できるはずもない」
 そう言ったアベルは、酷く疲れた顔をしていた。そこにいたのは、もはや勇者ではなく、神によって運命を歪められてしまった、ただの青年でしかなかった。
 そして、ただの青年は、私ではない遠い場所に向かって、こう呟いたのだった。
「ああ、もう、俺の居場所なんて、どこにもないじゃないか」

 もし、アベルの言葉が全て正しいのであれば、アベルは聖剣を手にしたその時から運命を狂わされたことになる。聖剣を一時でも手にしたジムもまた、アベルと同じ、全てが数と文字によって表される風景を見てしまったのかもしれない。そして、心を病んで己から命を絶った。
 聖剣に操られ、望まぬままに世界の理を知ってしまった彼らは、既に世界からはじき出された存在なのだろう。そんな彼らの居場所は、この世界には無いのかもしれない。
 神は何故、このような力をアベルに……否、代々の勇者に与え続けてこられたのだろう。果たして、聖剣の勇者とは何なのか。神が応えてくださらない限り解けることのない謎を抱えつつ、今日の日記は終わりにしようと思う。
 今日は、なかなか、寝付けそうにない。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 アベルが消えた、という噂はすぐに私の耳にも入ってきた。
 そう、神からもたらされた力によって弄ばれ、世界の理を知ってしまった青年を止めることなど、理に縛られた我らに出来るはずもなかったのだ。
 果たして、かつての勇者がどのような行動を起こすのか。それは、新たな王にも、神官長にも、城抱えの占星術師にも答えられないことだった。それも当然だ、一度理から外れたものを、理の中にいるものが理解できるはずもない。
 アベルは、ジムのように己から命を絶とうというのだろうか。それとも。
 アベルの考えは私にもわからない。私もまた、理の内側にいる存在に過ぎないのだ、一度言葉を交わしたくらいで、彼のことをわかったつもりになる気もない。
 ただ……近いうちに、また、嵐が訪れるような予感を覚える。窓の外には、魔王が君臨していた頃と同じように、暗く重たい雲が立ち込めていた。

(SE 紙をめくる)

 
   ×月×日

 近頃、雲が晴れないと思っていたら、百一番目の魔王が現れたのだという。
 魔王、と新たな王や神官長は言ったが、私にはわかる。百一番目に魔王となったのは、かつての勇者アベルであろう。アベルは、世界の理から外れた力をもって、世界を壊そうとしている。己の運命を狂わせた神に、そのような形で反逆しようとしているに違いない。
 そして、今日、私の手に聖剣スピラーレが渡される。
 神官長曰く、私はどうやら、百一番目の勇者として神に選ばれたのだそうだ。
 果たして、聖剣を手にした私の目には、どのような世界が見えるのだろう。私は私であり続けることができるのだろうか。それとも、勇者アベルのように、己の意志とは違う誰かの手によって、操り人形として動かされてしまうのだろうか。
 例えば、彼女が魔物に囚われたとして、私は魔物を彼女もろとも殺そうと聖剣を振るうことになるのだろうか。それを考えただけで、恐怖がこみ上げてくる。逃げ出せてしまえばどれだけ幸福かわからないが、今や家の周りには兵が集っていて、私の挙動に目を光らせている。
 それどころか、ここに書くまで、逃げ出そうなんて考えもしていなかった自分に気づかされた。
 これもまた、神が仕組んだ理の一部なのかもしれない。私たちの行動や思考は、常に神の力に縛られているに違いない。それこそ、神の理に反して世界を破壊せんとする魔王と、その魔王に抗う力を与えられる勇者以外は。
 しかし、こうも思うのだ。
 アベルは百一番目の魔王。今まで百人現れた魔王もまた、アベルと同じように、世界の理から外れてしまったが故に、世界を滅ぼそうとしたのではないだろうか。その度に、理を超越する聖剣スピラーレを手にした勇者が現れ、倒されていく。
 だが、理を超越した勇者たちは、理の中に生きていくことはできずに魔王となり、新たな勇者に倒されるのを待つことになる。そんな、永遠に続くとも思われる循環を続けている……アベルが魔王と化したことは、そんな示唆を私に与える。
 それならば。
 魔王の登場と勇者による討伐もまた、神が仕組んだ物語の上の出来事なのでは、ないだろうか。
 結局、アベルはこの世界に、この世界を作った神に抗うことはできなかった。そして、私もこの物語の中に組み込まれた存在でしかないのだろう。
 最後に彼女に挨拶をしていくか、手紙を残していこうか悩んだが、やめることにする。今度こそ、指輪まで用意したのだけれど、無駄になってしまったな。
 ああ、扉を叩く音が聞こえる。行かなくては。手が震えて、上手く文字が書けない。私が私でなくなってしまう前に、せめて、これだけは書いておこう。
 愛していたよ、オフィーリア。

(SE 紙をめくる)

 

 

(SE 紙をめくる)

(SE 紙をめくる)

(SE 紙をめくる)

 その後は、白紙が続いている。

(SE 本を閉じる)

 君は、日記を閉じた。
 その横に、小さな指輪が置かれている。
 何故か、君の目から涙がこぼれ落ちた。
 君にはその理由がわからない。

 

 君にはその理由がわからない。

市民の幸福

『おはようございます、市民。
 あなたはこの都市の市民として選ばれました。それはとても光栄なことです。とても幸福なことです。
 あなたはとても幸福です。何故ならこの都市に生きる全ての市民は幸福だからです。わかりますね、賢明な市民?
 あなたには、あなたが幸福であるための全てが与えられます。飢えることもなく、病に苦しむこともなく、もちろん誰かに害されることもありません。何故なら市民は誰もが幸福であり、誰かの幸福を害することなどありえないからです。
 市民を害する者は市民ではありません、市民の皮を被り、市民と市民を守る管理電脳を狙うテロリストです。彼等は等しくこの都市に存在することは許されません。管理電脳は市民の幸福のため、テロリストの撲滅を実施しています。
 しかし、市民を守り、幸福を約束する管理電脳であっても、不慮の事故を全て防ぐことはできません。それはとても悲しいことです。
 そこで、管理電脳は市民の幸福を守るため、五人のクローンを用意しています。彼等は今存在しているあなたと全く同じ遺伝子情報を持ち、あなたの生命活動が休止した時点であなたの記憶を引き継ぎ、稼動を開始します。これはとても素晴らしいシステムです。何と幸せなことでしょう。
 さあ、市民。仕事の時間です。あなたは幸福を約束される代わりに労働の義務があります。それは、この都市を維持するために必要な行為です。労働は素晴らしいものです。それでは、幸福な一日を始めましょう』


 ジャック・A・ロビンは掃除夫だ。
 道に落ちたあらゆるものをブラシとバケツで洗い流す、それが彼の仕事である。
 何もその仕事をやりたいと志したわけではない。ジャックは生まれながらにして、掃除夫として働くことを定められていた。この国を統べる管理電脳によって。
 いつから、全知全能の電脳が、人が生まれてから死ぬまでの道筋を定めるようになったのか、ジャックは知らない。電脳が配信する歴史の授業によると、この国は電脳によって選別された「市民」によって建国された。そして、電脳の導きによって、争いも苦しみもない永遠の平和を約束されているのだという。
 全知全能の電脳の言うことなのだから、間違いはない。ジャックはそう思っているし、全ての市民はそうであるはずだ。
 だから、町で喧嘩を始めた酔っ払いが、駆けつけたロボットによって物言わぬ肉の塊になっても、ジャックは石畳にこびりついた赤黒い液体を洗い流す仕事が増えた、としか思わない。小さな諍いは大きな争いを呼ぶ、それを事前に防ぐのも町を見守る管理電脳の役目なのだ、それに何の疑問を抱く必要があるだろう?
 そんな、永遠に変わらぬ平穏を約束されたジャックにとって、一つだけどうしても解せないことがある。
 それは――。
 ぐしゃり、と。今日も聞きなれた音が聞こえてきて、そちらへと駆けつける。町一番の高さを誇る時計塔の足元に、見慣れた蛋白質のオブジェクト。首があらぬ方向に向いているところを見るに、即死に違いなかった。
 やれやれ、と肩を竦めて掃除に取り掛かる。今日は中身がほとんど外に出ていないから楽でいい。思いながら、天に向けて伸びたままの腕に巻かれた認識票を確認する。
『エリー・D・モーリス』
 認識票に書かれた名前と識別番号を電脳に連絡しながら、ジャックの頭の中には様々な思いが浮かんで消える。
 D、ということは四人目か。その前の三人を掃除した覚えはないが、死因は他のことだったのだろうか、それとも。
 ジャックの視線は自然と、時計塔の頂点に向けられる。駆けつけたロボットが通行の妨げとなるオブジェクトを回収する気配があったが、そちらには目もくれずに、青い空が映し出されたドームに一番近い場所を見つめ続ける。
 時計塔から落下した人間を掃除する回数が目に見えて増えたのは、数週間前からだったか。最初は、若い男。次は老人、次はまだ年若い少女。人間だったものを片付けるのも仕事のうちであり、そう珍しいことでもなかったが、その死因が「時計塔からの落下」で統一されている、ということは初めてのことだった。
 落下、というが、電脳に守られたこの世界で、誰かが誰かに殺されるというのはそうそうありえないこと。仮に事件が起こってしまっても、その犯人は町の全てを監視している電脳とその手足であるロボットによって、同じような肉の塊に変えられるだけだ。
 故に、一連の事件は全て、自殺だ。
 もちろん、この連続自殺事件は電脳のもう一つの手足である、市民の中から選ばれた「報道官」たちによって大々的に報道された。この一連の事件に対し、管理電脳は遺憾の意を表明したが、それ以上何を言うでもなかったという。
 今では、死をいまだ知らない者、一度死んでその快感に取り付かれた者、死に魅入られたありとあらゆる人々が、時計塔への階段に列を成す始末。ジャックの仕事は日々増えるばかりだ。中には、五人のクローンを使いきり、本当の死を味わった者もいるというが、ジャックはその感想を聞いたことはない。死人に口はない。
 電脳は自殺を推奨しないが、明確に禁じてはいなかったはずだ。市民たるもの、幸福でなければならない。生き続ける幸福、死による解放の幸福。そのどちらを選ぶかは、唯一市民自身によって選択できることでもあった。
 だが、ジャックには理解が出来ない。電脳から与えられた命のストックを消費してまで、どうして死のうとするのだろう。その行為を通して、一体彼らには何が見えているというのだろう。
 理解が出来ない。
 理解が出来ない。
 理解が出来ないのなら――試してみればいいのだ。
 ジャックは、ブラシとバケツを持ったまま、時計塔への階段に足をかける。
 大丈夫。生理的に震える体に向かって、心の内側から呼びかける。

 ――まだ、あと五人もいるじゃないか。

マリーシ

 久々に家に帰ってきた兄貴は、椅子を引いてテーブルにつくなり、こう切り出した。
「マリーシは、帰ってこないらしい」
 それは、あまりにも突然の報せ。
「ニュースでやってただろう、移民用ロケットが故障したきり、行方不明になったって話。正式発表はされていないが、どうも、あの船にマリーシが乗ってたらしい」
 なのに僕は、全く驚かなかった。
 何とはなしに、ここ数日、変な胸騒ぎがしていたのだ。いや、胸騒ぎ、というよりも……大切なものが僕の胸の中から音もなく落ちて、空っぽになってしまったような。そんな感覚。
 それが、兄貴の言葉で、突然はっきりとした形を帯びた。そうだ、僕の中から消えてしまったのは、確かにマリーシだったのだと、すぐにわかった。
 兄貴は、僕には銘柄もわからない琥珀色の酒を、大きな氷の入ったグラスに注ぐ。ボトルの口から流れ落ちる液体が、とくとくと、心地よい音を奏でる。けれど、兄貴の目は、グラスではなくて、はるか遠くを見ていた。
 きっと、僕と同じものを、見ていた。
 マリーシ。黒髪の魔女。
 彼女は僕らの前に突然現れた。白い肌に黒い髪、黒曜石の瞳。まるで女神か天使のような綺麗な姿をした彼女は、実際にはいたずらっぽい、ちいさな悪魔の笑顔をその整った顔に浮かべていた。
 彼女がどこから来たのか、どこへ行こうとしていたのか、僕らは最後まで知らなかった。知らなくったって、何も困らなかったから。
 そんな彼女はいつだって僕らより少しだけ年上で、僕らより少しだけ背が高くて、僕らより少しだけ色んなことを知っていて、僕らより少しだけ前を歩いていた。
 そんな彼女に、僕らは二人で恋をしていた。
 酒をちまりちまりと舐める兄貴の前で、僕もサイダーの入ったグラスを傾ける。サイダーは夏の香りで、彼女の香りがした。それでふと、思い出す。
「よく、あの人のことで喧嘩したよね」
「はは、そうだな。酷いもんだった。ロケットを見に行った日のこと、覚えてるか?」
「覚えてるさ」
 忘れるはずもない。
 ある夏の日、僕らはマリーシに誘われて、ロケットの発射台を見に行って――もうすぐ月の開拓地へ向かうのだというそのロケットの足元で、僕らは大喧嘩をした。
 もちろん、原因はマリーシのことだ。その詳しい理由は流石に覚えていないけれど、結局のところ、兄貴がマリーシを独り占めしようとしているのが気に食わなかった、ただそれだけのことだったと思う。
 だけど、いつもなら軽い言い合いで終わるはずの喧嘩は、簡単には終わってくれなくて。マリーシの前だったというのに、殴り合いにまで発展しそうになっていた。いや、マリーシの前だったから、かもしれない。とにかく、僕も兄貴も、どうにも引っ込みがつかなくなっていたのだけは、確か。
 そんな僕らの間に、マリーシは、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべて、割って入った。きらめく黒曜石の瞳が、僕と兄貴の真っ赤になった顔を覗き込んで。
「ねえ、何で二人とも、そんなに不機嫌さんなのさ?」
 まさか「君が好きなせい」だなんて、口が裂けても言えるはずもなくて。思わず黙りこくってしまう僕らを見て、マリーシは透き通った声で笑ったんだ。雲一つない青い空にまで届きそうな、澄み切った声だった。
 ひとしきり笑ったマリーシは、口元で細い指を揺らして、言ったのだ。
「もったいない、もったいないよ。今日はこんなにいい天気、こんなにいい場所だってのに。そんなに不機嫌さんじゃあ、私までやーな気分になっちゃうよ」
 だから、と。僕と兄貴の頭を掴んで。耳元で、僕らにはわからない言葉を、そっと囁いた。その吐息は、甘く爽やかな香りがした。それは、きっと、彼女が直前まで飲んでいた、サイダーの香りだったのだろうけど。
 一体何なんだ、と首を傾げる兄貴に、マリーシはにっと歯を見せて笑った。
「仲良しの呪文!」
 きょとんとして、僕は思わず兄貴と顔を見合わせてしまう。そして、その時には、あれだけどうしようもなく膨れ上がってた兄貴への怒りが、すっかりしぼんでしまっていたことに気づいた。
 目を白黒させる僕らを見て、また、マリーシは笑った。
 それで、僕らもつられて、笑ってしまったのだと、思い出す。
「懐かしいな」
 兄貴の言葉と、からん、というグラスに氷が触れる音で、僕の意識は現実に引き戻される。マリーシのいない世界。でも、僕の心は不思議と穏やかで、ただ、マリーシの透き通った声だけが、頭の奥に響き続けている。
 兄貴も、そう、きっと、そんな顔をしていた。
「兄貴、落ち着いてるね」
「何となくな、そんな気がしてたんだ」
「僕もだよ」
 不思議だな、と。兄貴は笑った。僕もつい、笑ってしまった。
 マリーシはもう、二度と僕らの前には帰ってこない。どこから来たのかわからなかった魔女は、僕らの手の届かない場所に消えてしまった。
 けれど、マリーシが僕らにかけた「仲良しの呪文」は、今だって有効だ。
 椅子から立って、カーテンを開ける。窓の外では、彼女が目指した大きな月が、僕らを見下ろしていた。

いまどきの悪魔と私と

 うちには一匹の喋る犬が居候している。
 喋る犬というか、アレは一応悪魔であるらしい。かの有名なゲーテの戯曲にその名を刻む、とっても有名な悪魔であるらしい。ちなみに私はゲーテの『ファウスト』については手塚治虫の漫画でしか知らない。原典は……こいつにつつかれてちょっとだけ目を通そうとしたが、十ページで断念した。私に戯曲は合わなかった。
 さて、その有名な悪魔さんは、ことあるごとに神さんとちょっとしたゲームをしていて、その結果私の元にやってきた。そのゲームの内容がまた振るっていて、私という人間を堕落させてその魂を手に入れることができれば、悪魔の勝ち。それが成し遂げられなければ、神さんの勝ち……というものだ。
 まさしく、頭でっかちのファウスト博士が標的になった、例のゲームと全く同じ構図である。
 だが、唯一大きく異なるのは……その標的が、私である、ということ。
 知的好奇心の権化であり、精力的に世界を回ることを望んだファウスト博士とは似ても似つかない、堕落も堕落を極めた、大学生という肩書きだけを抱えた自宅警備員である、この私であるということだ。
 さて、そんな、私に相対した悪魔がどうしたのかというと。
 律儀なこの悪魔さん、神さんとのゲームに勝つべく、既に堕落しきった私を一旦更生させ、それから再び堕落させなければならない、という何とも素っ頓狂な結論に至り、現在も私の家にいついている。
 だが、そんなこと、私が知ったことないわけで。
「おーい、メフィストフェレスー」
 今日も私は、迷惑そうに尻尾を振る犬の背中に、だらりと体重をかける。
「飯ー。飯はまだかー」
「だああああっ、黙れこの人型スライム! 冷奴でも食ってろ!」
「冷奴は美味いが、毎日では流石に飽きるのだよ。何か手早くちゃちゃっと作ってくれなさい」
 くうっ、と悪魔は悔しそうな声を立て、そしてすらりとした人型になって台所に立つ。悪魔という生き物(?)は、人の魂を手に入れるためには、正式な作法にのっとり、人と契約を交わさなければならないそうだ。当然、私もこの悪魔と契約を結んでいる。
 その内容は、こうだ。
『私が健康で文化的な最低限度の生活を営めるように家事を全てお任せする』
 ……何とも甘美な響き。一人暮らしで自宅警備をしている身としては、やはり警備に加えて家事という仕事を行うのはいささか重労働にすぎる。まあ、要するに、面倒くさいだけなのだが。
 かくして、悪魔は私がこの契約に満足するその日まで、私に家事をもって奉仕することを義務付けられたわけである。ご愁傷様です。
 さて、今日のご飯は何だろう。この悪魔、何だかんだで料理は上手い。人を堕落させるために、食欲を刺激するのは悪魔として大事な才能なのかもしれない。
 だが、最近の悪魔はどうやら手を抜くことを覚えたらしい。確かに、最低限度の生活を求めている以上、その内容に贅沢は言えまい。
 というわけで、今日のメニューはどうやらインスタントラーメンらしい。ごうごうと燃える炎、ぐつぐつと煮えたぎる鍋。そこに無造作に放り込まれる、固まった麺。まあ、インスタントラーメンも近頃は美味なものも多く、そのチョイスに文句は言うまい。
 悪魔は、菜箸でラーメンをほぐしながら、ぶつぶつと呟く。
「あー、便利だなー、インスタントラーメン。人間が生み出す技術も、案外馬鹿になんねーよなー」
「だろう? ほら、我を敬いたまえ」
「貴様はせめて人間らしく生産的な行動を行え。頼むから」
 それは堕落を促す悪魔の科白じゃないと思うんだよ、私。
 抱き心地のよい犬の姿が見えなくなってしまったので、とりあえずお気に入りの抱き枕を抱きしめて、床の上に転がって。その床の冷たさを感じながら、黒い服を着た男の後姿をぼうっと眺める。
 こいつは、いつもいつも、私に「人間らしさ」を求めるが、一体何が人間らしさなのだろう。インスタントラーメンを生み出すのが人間だとすれば、堕落するのだって、人間だ。というか、インスタントラーメンは、「楽をしたい」という堕落した人間のために生み出された食べ物だと信じて疑わない。
 それなら、この悪魔が私に求めているものは、何なのだろうか。難しいことは、私にはさっぱりわからない。わからない、ってことにしておきたい。そう思うと、自然と、頬から力が抜ける。
「何、笑ってんだよ」
「いーや、何でもないさ」
「気色悪い。ほら、できたぞ」
 ちゃぶ台の上に置かれる、湯気を立てる二つの器に二膳の箸。私はがばりと起き上がり、片方の器の前に正座する。
「わーい、ラーメン、ラーメン!」
「ったく……食ったら器よこせよ。洗っとくから」
 その言葉に、思わずふっと笑いをこぼしてしまい、「あんだよ」と悪魔に睨まれる。
「まあまあ、いいじゃないか。ほら、冷める前に頂いちゃおう」
 だって、何かおかしかったのさ。神と並び立つ大悪魔メフィストフェレス様が、当たり前のように、そこにいて。こんなどうしようもない私のために、手を差し伸べてくれることが。
 ……だから、私はこの時間が、ずっと続けばいいって今日も願いながら、
「いただきます」
 と、両手を合わせるんだ。

黒鍵のエチュード

 勝瀬のお屋敷には、開かずの扉があった。
 長いモノクロームの廊下の先に、忘れ去られたかのように佇む白い扉。鍵がかかっているようにも見えないのに、押しても引いてもびくともしない。
 両足を踏ん張って取っ手を引く姿を誠さんに見られてしまって、慌てて逃げ出してしまったけれど、振り向けば、誠さんは逃げ出した私ではなくて、扉をじっと見つめていた。
 あれから扉のことが気になっていたから、何気ない風を装って、昇さんに聞いてみた。
「ねえ、昇さん」
「何だい?」
「部屋の前の廊下をずっと行くと、扉があるけど、あの中には何があるの?」
「鍵盤だよ」
「鍵盤?」
「触る人のいない鍵盤なんて必要ないだろう? だから、あの倉庫に仕舞ってあったんだが……今では、立て付けが悪かったのか扉も開かなくなってしまった」
 心地よいバリトンで昇さんは言う。私はそんな昇さんの体温を感じていながら、妙に心細い気持ちになって、ぎゅっと昇さんの肩を抱いた。
 灯りを落とした部屋の中では、昇さんがどんな顔をしてるかも判然としない。唯一、昇さんの手が、私の髪にそっと触れたことだけはわかった。
「それじゃあ、お休みなさい」
 声と、額に落とされた口付けは柔らかな熱を孕んでいた。私も昇さんの頬に口付けながら、心は廊下の先にある開かずの扉、正確に言うなら扉の向こう側にあった。
 鍵盤。けんばん。奏でる人のいない鍵盤は、誰も足を踏み入れることのなくなった部屋で、奏者を待っているのだろうか。私が昇さんの温もりを感じている、この瞬間も、暗く冷たい部屋の片隅で……。
 鍵盤の孤独を思いながらも、昇さんの腕に包まれているうちに、頭の中の鍵盤は霞んで、夢の中に溶けていってしまった。


 深い森の中に佇む勝瀬のお屋敷には、私を含めて四人の人間が暮らしている。
 勝瀬氏と、亡き夫人の残した子供である昇さんと誠さん、そして、居候の、私。
 あの日……九月一日の私は、衝動的に着の身着のままに家を飛び出して、気づけば鈍色の雨の中このお屋敷の前に立ち尽くしていた。せめて一晩だけでも泊めてもらいたい、と思ってチャイムを鳴らした私の前に現れたのが、昇さんだった。
 その姿を一目見た瞬間に、あっと声を上げそうになった。実際に上げていたかもしれないけれど、その真偽を覚えていられないほどに、目の前に現れた人のことで頭がいっぱいになっていた。
 自分が、頭の中に描いていた理想のひとが、突然目の前に現れたような衝撃。
 一目惚れ。頭の中の私が囁いた。
 これを果たして一目惚れと名づけてよいのか、未だにわからない。一つだけはっきりしていたことは、この人のことを知りたい、話したい、一緒にいたいと心の内側が叫んでいた、ということ。
 それを上手く表に出すことも出来ずに、ぼうっと昇さんの顔を見つめていた私を、昇さんは旧知の友に向けるような笑顔で迎えて言ったのだった。
『大丈夫? 酷い雨だっただろう。ほら、入って』
『あ……で、でも、私』
『お話は、中で詳しく聞くよ。さあ、早くこっちに』
 突然現れた客人に対して、詳しい話を聞くでもなく迎え入れてくれた昇さん。感謝の気持ちと共に一抹の疑問を抱かないでもなかったけれど……昇さんはすぐに私を部屋に案内して、体を拭く布と服を貸してくれた。
 そして、着替えた私を迎えた勝瀬氏と昇さん、誠さんは多くを問いかけてくることもなく、それどころか、しばらくはここにいて構わないとまで言ってくれた。
『よいのですか?』
『もちろん。困っている女性を放り出すような真似は出来ませんよ。それに』
 勝瀬氏はちらりと横に座る昇さんを見た。昇さんは、勝瀬氏に視線を向けられたことに気づいていないかのように、じっと、私を見つめていた。
 昇さんと視線がぶつかって、凪いだ夜の海を思わせる瞳を覗き込んでしまう。そこに自分の顔が映っているのだ、と思うだけで頬がぱっと熱くなって、私は目を逸らした。だけど、昇さんの頬も赤くなっていたように見えて……。
 勝瀬氏は愉快そうに笑って、昇さんの肩を叩いた。
『昇も、あなたのことが気に入ったようだ』
『父さん!』
 昇さんは慌てた様子で言うが、すぐに私にちらりと視線を投げかけて、赤い顔をしたまま言葉を切ったと思うと、椅子を蹴るように立ち上がってその場からいなくなってしまった。
 どうしたのだろう、と思っていると、勝瀬氏は昇さんが消えていった扉の向こうを見つめながら、言ったのだった。
『すみませんね。昇が不愉快な思いをさせてしまいましたかな』
『い、いいえ。そんなことありません』
『ならよかった。ここにいる間だけでも、昇と仲良くしてあげてください……息子も、それを望んでいるはずですから』
 勝瀬氏がどうしてそんなことを言ったのか、その時の私にはわからなかった。ただ、勝瀬氏が穏やかに、それでいて少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべていることだけは、私にだってわかった。
『じゃ、挨拶も終わったことだし、俺も行くぜ』
 そう言って立ち上がったのは誠さん。乱暴な喋り方をする人だな、と思うと同時に何故か懐かしくなったことを覚えている。
 その時、誠さんと話をした気もするけれど、何の話をしたかは覚えていない。ただ、
『……逃げたいだけじゃねぇか、馬鹿兄貴』
 昇さんの部屋がある方角を見つめた誠さんの呟きが、耳についたことだけは思い出せる。
 あれから、どのくらいの日数が過ぎたのか数えることもやめたけれど、私は今もここにいる。勝瀬のお屋敷に住む皆に……何よりも、昇さんがくれる温かさに依存したまま。


「おはよう」
「あ、お、おはようございます……誠さん」
 翌朝、部屋から出た途端、誠さんと鉢合わせてしまった。
 誠さんは苦手だ。誠さんも私のことをよく思ってはいないようで、ろくに目も合わせてくれない。今日も先に立って歩く誠さんは私のことなんて見ていない。
 それは、昇さんと一緒の布団で眠るようになってから? それとも最初から?
 色々考えるけれど、言葉にする勇気もなくて、食卓に向かう廊下を歩く。俯きがちに誠さんの背中を追いかけていると、突然誠さんが声をかけてきた。
「なあ」
「は、はいっ?」
「アンタは、兄貴と抱き合ってりゃ、それでいいのか?」
 唐突で、ぶしつけな質問に、私の頭は凍りついた。我に返った時には、誠さんが、昇さんとよく似た、飲み込まれそうな漆黒の瞳で私を見つめていた。
 扉の向こうから、テレビの音が聞こえてくる。今日の天気予報。
『九月一日の天気は雨、ところにより強く降るところがあるでしょう……』
「アンタのせいで、俺は、俺たちはおかしくなっちまった……気づいてねぇとは、言わせねぇぞ」
 ――そうだ、気づいている。
 あの日から、どれだけ昇さんと一緒に眠っても、目を覚ませば九月一日であることも。
 勝瀬氏も、昇さんも、誠さんだって、お屋敷から一歩も出ることなく、全く同じ毎日を繰り返していることも。
 どれもこれもとっくに気づいていたのに、見て見ぬふりを決め込んでいた。
 誠さんは静かな、しかし確かな怒りを篭めて私を睨む。
「アンタが逃げるのは勝手だ。誰も強制してねぇんだからな。だが、一度鍵盤を叩き始めたなら、せめて最後まで叩いてくれ。俺たちはいつまで、こうしてればいいんだ?」
 鍵盤。けんばん。白黒の濃淡だけで描かれた廊下の向こうにある、開かずの扉のその向こうに仕舞われたという、「触る人のいない」鍵盤。
 誠さんの言葉を聞いているうちに、ぼやけていた鍵盤のイメージが像を結んでいく。黒い鍵盤、いつも私の側にあったはずの鍵盤。それでいて、見るのも嫌になっていたはずの、鍵盤。
 顔を上げれば、誠さんは消えていた。きっと、先に食卓についているに違いない。昨日も、その前も、そうしていたように。
『俺たちは、いつまで、こうしてればいいんだ?』
 誠さんの声が頭の中に響く。
 昇さんの口付けを思い出すように額に触れて、それがあまりにも儚いものだと、思い出し始めていた。


 開かずの扉の前に立つ。取っ手に手をかけようとして、下ろす。
 ……本当は、この向こうの鍵盤と向き合わなければならない。
 永遠に続く九月一日を終わらせるためには、絶対にそうしなければならないということを確信していた。確信するだけで、実行には移せないままにいたけれど。
「鍵盤が、気になる?」
 いつの間にそこにいたのだろう、背後から昇さんの声が聞こえた。振り向けば、そこには白い肌をした昇さんが立っていて……私の肩を強く、強く抱きしめた。肌に食い込む彩度のない指先は、私の責任。あまりに長い間、展開のない日々を繰り返してきたこの世界は、とっくのとうに鮮やかな色を失っていた。
 このまま私が指を止めていれば、いつしか昇さんだって輪郭すら曖昧になって消えてしまうのかもしれない。そうなる前に、この扉を開けなければならない。
 そのはずなのに、昇さんの手はあまりに温かくて、振りほどくこともできない。昇さんは落ち着いた声で、諭すように私に語りかけてくる。
「いいんだ。君は、悲しかったんだろう。鍵盤を叩き続けることが嫌になって、ここに来たんじゃないか」
「昇さん……」
「大丈夫だよ、俺が君に幸せにしてあげる。だから、」
 耳に息が触れる距離で、掠れた声が、鼓膜を震わせる。
「……永遠に、扉を開かないで」
 すうっ、と。血の気が引くような思いがした。今まで感じていた温もりが、急に感じられなくなった。体を抱きしめていた昇さんの腕に力が篭められて、息が苦しくなる。
 ああ、そうか。
 そういうことか。
 私が昇さんに恋することは必然。そして昇さんが私を手放さないのも必然。
 愛し合ってなんかいない、ただ、お互いに、お互いが必要だっただけ。私は、次の鍵盤を叩くことのできない自分を正当化するために。昇さんは、自分の未来を変えるために。
 だけど……。
 霞む視界で昇さんを見上げる。今まで決して揺らぐことのなかった瞳の中の海は荒れ狂い、モノクロームの私を映し込んでいる。途端に、気づいてしまった。
「違う……」
「何?」
「違う、昇さんはそんな顔じゃない、私なんかを好きにならない! どうして気づかなかったんだろう、こんな幸せ、私が貰っても意味がない!」
 本当は。
「私が望んだのは、こんな結末じゃない!」
 叫んだ瞬間、昇さんの体が引き剥がされて、灰色の床の上に押し倒される。いつの間にか、誠さんが昇さんの肩を掴んで私から引き離していたのだ。
「構うな、扉を開けろ!」
 誠さんは暴れる昇さんを床に押し倒した姿勢のまま、吼えた。私は頷いて、開かずの扉の取っ手を握り締める。
 蝶番が軋む音と共に、扉はあっけなく……あまりにあっけなく、内側に開いた。
 薄暗い部屋の真ん中にあったものは、見慣れた黒い鍵盤。擦り切れた白い文字もそのままに、言葉もなく私を待っていた。
「……ごめんなさい」
 自然と唇からこぼれ落ちた謝罪の言葉は、長らく待たせてしまった鍵盤に対してのものか、それとも、昇さんを裏切ることに対してのものか。
「触らないでくれ! 頼むから、この先は……!」
 割れるような声に驚いて振り向けば、誠さんを振り切った昇さんがこの部屋に足を踏み込み、私に向かって長い腕を伸ばしている。
 このまま昇さんの望みに従って、何も見なかったことにすれば幸せになれるだろうか。私も、昇さんも。私は理想のひとと永遠に一緒にいることができて、昇さんは……。
 それでも。
 私は昇さんから目を逸らさぬままに、鍵盤に手を伸ばす。手元を見ずとも、人差し指は自然に「F」と「J」の文字を示す鍵に触れる。習ったわけでもないけれど、使っているうちに自然と身についたホームポジション。
「やめろ、やめてくれ……」
「ごめんなさい。でも、私は」
 左手の薬指から、
「書くよ」
 鍵盤を、叩く。

 > そして、

 その瞬間に――世界に、色が溢れた。
 鍵盤に触れた指先から迸った光が、単色の世界に彩度を与える。部屋はランプの放つ柔らかな黄色の明かりに彩られ、絨毯は赤黒く染まり、昇さんの白かった肌に、青ざめた色が差す。
 壁が、天井が、廊下の先が、窓の外が、九月一日の雨の日で時間を止めていた全てが色を与えられて動き出す。そうあるように、私は鍵盤を叩いて世界を「記述」する。
 長らく私の心の中にしか存在しなかった結末を、形にするために。
「書くな! 俺は……」
 昇さん。
 私が組み立てた、私の理想のひと。あなたの運命は決まりきっていたのに、私はずっとその結末を形にすることから逃げていた。
 この物語を奏でれば、あなたとは永遠にお別れだから。

 > 昇は、膝をつく。

 鍵盤を叩けば、その通りに昇さんは膝をつく。伸ばした腕が力なく床に垂れ、昇さんの、本当は木の幹の色をしていた瞳が、呆然と私を見上げていた。

 > その唇からは、赤い、赤い液体が流れ落ちて、

 鮮やかな色の血を吐き出して、絨毯の上に倒れこむ昇さんから、私は目を逸らさない。逸らすことなんてできない。
 昇さんは、もうほとんど光を映していない瞳で私を見据えて、
「死にたく、ない……」
 その言葉、一つ残して、長く息を吐き出した。
 私は、小さく唇を噛む。悲しくないと言ったら嘘になる。自分の理想を詰め込んだひとの結末を己の手で紡ぐのは、いくら「架空」であっても悲しい。
 それでも私は、この物語に決着をつける。
 この指先で。ずっと共に歩んできた、黒い鍵盤で。


 > その日、勝瀬昇は、死んだ。


 そして、私は、目を覚ます。
 いつの間に眠ってしまっていたのだろう、目の前のディスプレイはいつの間にか暗くなっていた。マウスを軽く動かして、画面を表示させる。
 テキストエディタに書かれた文字列は、長らく書くことをやめていた小説の続き。森の中の屋敷に住む家族の優しい日々と、兄の死から始まる崩壊を描く、長い長い物語。
 プロットでは、日常からの「崩壊」を描くことが目的だったのに……いつしか、それを描き出すことが怖くなって、気づけば小説を書くことからも離れてしまっていた。
 優しい兄と、不器用な弟。この、自分の理想そのものと言える二人と別れたくなかった。終わらせてしまいたく、なかったのだ。
 そんなのはただ自分に酔ってるだけだ、ときっと誰もが笑い飛ばすだろう。こんなもの、仕事でも何でもない、趣味で書き始めた、誰が望んでいるわけでもない物語だ。
 それでも、誰のためでもない、自分のために。この物語と描いてきた全ての人を愛し、そして、愛しているからこそ、決着をつけようと思う。
 窓の外は雨、カレンダーは九月一日。
 愛用の黒い鍵盤に指を載せて……長い長い物語を終わらせよう。

フェアリーテイル・フィアフルテラー

 彼は、何よりも、静けさを求めていた。
 何も音としての静けさを求めていたわけではない。ただ、誰にも邪魔をされない、自分だけの空間が欲しいとずっと思っていた。だから彼は遊び歩く兄を尻目に淡々と仕事をこなし、結果的に若くして立派な己の城を築き上げることに成功した。
 自分のための家、自分のための部屋、自分のためのテーブルの自分のための椅子。何もかもを自分好みにしつらえて、風にも雨にも、雷にだって脅かされない家の奥に閉じこもり、暖炉の前で好きな本を読む。そういう生活を送っていた。
 そう……あのケモノが現れる日までは。

   §

 彼は、何よりも、静けさを求めていた。
 故に、家を出てから行方も知ろうとも思わなかった兄二人が急に家に現れた時、彼は不愉快さを隠しもしなかった。
「何か御用ですか、兄さん」
 だが、いつもならばまず下品な言葉で彼を罵るところから始めるはずの二人の兄は、彼からすれば気色悪さしか感じられない愛想のよい笑みを浮かべて言った。
「よう、俺の愛する末弟。元気だったか?」
 長兄がごわごわの髭面を突き出して言えば、
「ちょっとお前の顔が見たくなってね、兄さんと一緒に遊びに来たのさ。入れてくれるよね?」
 次兄が高い鼻をふんと言わせて高飛車に笑う。
 言葉こそ疑問形だが、有無は言わせない。それが二人の兄のあり方だ。
 いつだってそう、土足で自分の領域に入り込んで、自分の好きなものばかりを踏みにじって去っていくこの二人を、彼は疎ましく思っていた。それでも、末の弟という立場もあって、兄二人にはいつもいつも強くものを言えずにいた。
 今、この瞬間だって。
 これだけ自分の思い通りに出来るようになったというのに、実際に兄と顔を合わせれば喉は震えて上手く言葉が出なくなってしまう。
 そんな彼の沈黙を肯定と受け取ったのか、二人の兄はずかずかと家に上がりこみ、彼の愛用の椅子とソファにそれぞれ座り込んでしまった。そして、辺りを見渡してから長兄が雷のようながらがら声を立てる。
「おい、客に出す飯もねえのかよ、この家は?」
「こんなに立派な家なのにねえ。ほら、何突っ立っているんだい」
 次兄も非難がましく彼を睨むが、どちらも口の端がだらしなく緩んでいる。上機嫌なのか、何なのか、彼にはわからない。わかりたいとも思わないけれど、そんな強い感情に対して言葉は何処までも声にはならない。
 小さい頃、生意気なことを言えば長兄の拳にしたたか打たれ、一言でも文句を言えば次兄が数倍にして返してきた記憶が今でも彼の喉を縛り付ける。今もまだ周りから比べれば子供のようなものとはいえ、あの頃とは違うのだ……
 そう、自らに言い聞かせても、体に染み付いた恐怖は消えない。
 その、恐怖の中。それでも歯を食いしばって声を絞り出す。
「……ただ、遊びに来たという風には見えませんが。どのような理由でこちらに?」
 すると、立ち上がった長兄が彼の頬の横すれすれに手を突き出した。イノシシのような顔がすぐ目の前に迫り、息が詰まる。長兄は目を吊り上げ、彼が一番嫌いな激しい大声を上げる。
「つまんねえことに拘んのは相変わらずだな。ぐだぐだ言ってねえでとっとと飯作れよ、ああ?」
 彼が背筋を伸ばしたまま硬直していると、意外にも次兄が「まあまあ」と間に割って入った。
「何、疑問に思うのも当然だろうさ。僕だって兄さんに会ったのは久しぶりだからねぇ。でもよかったよ、お前が無事で」
 次兄の言葉に、彼は思わず首を傾げてしまう。
「無事……どういう、こと、ですか」
「はっ、手前は一日中引きこもってっからわかんねえだろうけどなぁ、今外は大騒ぎなんだよ」
 二人の兄が語るには――
「ケモノ?」
「そうなんだよ。南の方から、恐ろしいケモノが現れたんだ」
 夜明けと共にやってきた巨大なケモノは、通り道となった町の人々を飲み込んでいったのだという。ここから南にある町に住んでいた二人の兄は、ケモノに襲われて家を失い、命からがらここまで逃げてきたのだという。
 にわかに信じられる話ではない。確かに一昔前から風を操る大喰らいのケモノの噂は流れていたけれど、実際にその姿を見た者はいなかった。もちろん、彼も見たことはない。実家にいた頃はいつも彼をからかってばかりだったこの二人が嘘をついている可能性も高い……そう、考えながら彼は無言で二人を見つめるけれど。
「とにかく……とにかくでけえ、恐ろしいケモノだった。俺が住んでた場所は奴の黒い腕になぎ倒されちまった」
「目がぎらぎら金色に輝くと、雷が落ちるんだ。それで僕の家は焼かれてしまったんだよ」
 妙に浮かれていた二人の表情が、言葉を重ねていくにつれ徐々に恐怖に塗りつぶされていく。あの不自然な浮かれようは、抑えようのない恐怖を隠すための空元気だったのかもしれない、と今更ながらに気づいた。
 それでも。それでも、彼は無言でそんな二人を見つめる。
 そんなこと、彼には関係ない。関係ないのだ。ケモノが来る? 来ればいい。自分はただ、この静かで暖かで自分のためだけにあるこの部屋にいられればいい。ただ、ただそれだけなのだから。
 しかし、彼の無言をどう受け取ったのだろう、今まで上から見下すような物言いをしていた兄たちは、唐突に猫なで声を投げかけてきた。
「なあ、我が愛する弟よ。あのケモノが行過ぎるまででいい、それだけでいいんだ、匿ってはくれないか」
「ここにいれば、あのケモノだってきっと入ってこられないさ。ね、頼むよぉ」
 迷惑だ――そう、言いたいのは山々だった。
 けれど、ここで兄二人を追い出そうとするのも、なかなかに面倒くさいことだと気づく。それに、ケモノの話が事実か否かは置いておくとしても、恐怖に怯える二人を外に放り出して、どうなってしまったかわからないままというのも少しばかり後味が悪い。
 仕方なしに頷くと、兄二人は途端に喜色満面となった。
「おおう、流石は俺の弟だ! 言ってくれるじゃないか!」
「それじゃあ、とりあえず食事を用意してくれないかなぁ。僕ら、命からがらここまで逃げてきたから本当にお腹がすいているんだ」
「……はい」
 頷くけれど、その時には二人の兄は既に下品な声を立てて襲ってきたケモノについて語り始めてしまっていて、すっかり縮こまる彼から意識を離してしまっていた。
 耳に届いてくる声は言葉として彼の耳には届かない。久しく聞くことのなかった二人の声だけれど、自分の記憶よりも遥かに騒々しさを増している気がする。うるさい、そう、とにかくうるさいのだ。
 ああ、ああ、静けさが足らない。静けさが、足らない。
 耳を押さえながら、よろよろと台所に向かう。けれど、耳に響き、頭の中にまで反響する声は消えてくれない。ケモノが去るまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、冷蔵庫の前に立つ。
 さあ、どうしようか。
 変なものを出せば、またとやかく言われるに違いない。心の中に重たいものが渦巻くのを感じながら、冷蔵庫を開けて中を見る。基本的には一人で食べる分しかないのだから、二人に振舞えるようなものなど……
 ――ああそうだ、蟹にすればいいじゃないか。
 唐突に思いついた。次の瞬間にはそれは名案だと自分で自分を褒めたくなる。思い立ったら即行動、この前贅沢をしようと思って買ってきた大きな大きな蟹を、暖炉にかけたこれまた大きな鍋で茹で上げ、兄たちの前に出す。
「どうぞ」
 お前にしては随分気が利いてるじゃないか、と長兄が蟹の足を乱暴にもぎ取る。次兄も続けて蟹の足を手にする。
 そして……言葉が絶える。
 硬い殻を割り、中の肉を取り出す。けれど、綺麗に取り出せるわけでもなく、何とか殻についた白い肉をこそげ落とそうと必死になる。
 その間だけでも、この場には静寂が訪れた。食器と殻が立てる音、咀嚼の音、それだけが部屋の中に響く。それを聞きながら冷蔵庫の中身を漁って兄たちに出す食事を作る傍ら、更にもう一つ蟹を茹で始める。
 綺麗な赤色に染まっていく殻を見つめながら、つかの間訪れた静寂を味わう。
 このままずっと静かでいてくれればいい。静かなまま何もかもが通り過ぎて、この二人も消えてしまえばいい。そうすれば、何もかも、何もかも、元の通り。静かな自分だけの世界を取り戻すことが出来るのだ。
 その時、ちらり、ちらりと天井に灯っていた照明が瞬く。最近新しくしたばかりだというのに奇妙だ、と思っていると窓の外を見ると、いつの間にか黒雲が空を埋め尽くしていて、雷の音が遠くから聞こえてくる。
 その瞬間に、二人の兄も蟹の殻を放り出し、立ち上がる。
「奴が……」
 長兄が口を開きかけた時、ごう、という音が響いて地面が揺れた。壁を叩くのは風の音か、それにしてはあまりにも強すぎる。
「奴が来たんだ! ど、どうしよう、どうしよう」
 慌てふためく次兄に対し、長兄が上ずった声を上げる。
「ここに立てこもっていれば大丈夫だ、な?」
 な、と言われても。これからどうなるのかわからないのだから、彼には答えようもない。彼にできることといえば、彼の知らない顔で恐慌に陥っている二人の兄を見つめることくらいだ。
 その間にも、激しい揺れと共に窓硝子が嫌な音を立て、壁からはぱらぱらと埃が落ちてくる。まさか、この家までケモノの餌食になるというのか。彼も流石に背筋が凍る思いで天井を見据える。
 しかし、家を揺さぶるケモノの気配がそこにあるだけで、それ以上建物が崩れていく気配は無い。その様子を見て、長兄はほっと胸を撫で下ろす。
「これならば、奴も諦めて通り過ぎてくれるに違いない」
「……本当に?」
 次兄が問う。明らかな不安がその言葉の中に滲み出ていた。そんな次兄の肩を叩く長兄は、いつもの何処かあっけらかんとした……彼からすれば「阿呆面」というべき表情を浮かべて言った。
「そうさ、ゆっくりと食事でもして、待っていればいい。それだけでいいんだ。ああ、持つべきものはいい弟だなあ! ははは、はははははっ」
 ――うるさい。
 彼は思わず耳を塞ぐけれど、長兄は皿の上に投げ出したままであった蟹の足を取って、殻ごと歯で噛み砕く。その時、ぱっと黒い雲に覆われていた窓の外に雷光が走り、直後、何かが爆発したような音が響き渡る。
「ひぃっ!」
 次兄は先ほどまでの余裕など何処へやら、ぶるぶると震えている。
「も、もう嫌だ、嫌だ怖い、焼かれたくない、死にたくないんだ!」
「落ち着けって、大丈夫だ! 大丈夫だから……」
「嫌だ、逃げる、僕は逃げる! 止めないで、兄さん!」
「馬鹿、それで焼かれちまったら元も子もねえだろうが、おい、お前も何とか言って……」
 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!
 もはや限界だった。嵐の音も、雷の音も、兄の声も何もかもが騒々しい。
 ああ、世界はこん にうるさかっただろ か
 皿を 手
  赤 はさみ と
 雷 落ちて 叫び声うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるs照明 ぶつり 消えて

   §

 そうして、彼は立ち尽くす。
 肩で息をつきながら、かろうじて光を取り戻した灯りの下で立ち尽くす。
 視界が晴れると、あれだけ完璧にしつらえた自分だけの世界が、すっかり色を変えてしまっていた。
「ああ、ああ」
 落ちた殻ばかりの蟹の皿が、床を汚している。
 肉から噴き出している赤い液体が、床に敷いた絨毯にも消えることの無い染みを残そうとしている。
 ただ、静けさが欲しかった、静かな世界が欲しかった、それだけだったのに。自分だけの世界を徐々に覆らない色に汚していく二人の兄を見下ろし、ただただ立ち尽くすしかない。
 風が吹く。兄を襲ったケモノが、まだ、ここにいる。
 窓を鳴らし、壁を叩き、ごうごうと、ごうごうと。
 彼は顔を上げた。目の前は真っ暗だったが、暖炉にかけられた火だけが明るく燃えていて、そこには大きな鍋が、ごうごうと、ごうごうと……

   §

「ですからね、お巡りさん。僕、確かに見たんですよ」
 犬のお巡りは、ぺらぺらと喋る彼を前に、表情一つ動かさない。耳と背筋をぴんと伸ばしたまま、ただ、黒い瞳で彼を見下ろしている。
「あれはまさしく兄さんたちの言うとおり恐ろしいケモノでした。でも、何も心配いりませんよ、この僕が蟹といっしょに茹で上げてしまいましたから。ああ、あのケモノから出た出汁は美味しかったなあ。そうそう、何もかも家に置きっぱなしなのですよ。あのケモノを煮た鍋も洗わないといけません。ですからもう自宅に帰っていいですよね? 僕は自宅が大好きなのですよ。とっても静かな、僕の、僕のための、レンガの家!」
 それでも、犬のお巡りは首を縦には振らない。
 喋り続ける彼は知らない。町を襲い何もかもを吹き飛ばした長い嵐が過ぎ去ってから、唯一残された彼のレンガの家から、鍋も本も何もかもが運び出されたことを。その鍋から、真っ赤に茹だった蟹と共に、二匹の若い豚の屍骸が引き上げられたことを。
 彼……末の子豚はなおも犬のお巡りに喋り続ける。
 暴風の中、二人の兄を襲ったケモノの物語を。

 ――哀れな三匹の子豚の、滑稽極まりない御伽噺を。

いまどきのファウスト博士

 ある日、うちに帰ると一匹の黒い犬がいた。
 そいつはどこぞの有名な悪魔の名前を名乗り、今日から私の下僕となってどんな望みでも叶えてやると言い出した。
 もちろん、悪魔なのだからただ都合よく願いを叶えてくれるってわけじゃない。私が満足したその時には、私の魂を地獄に連れて行って自分の下僕にするとか、何とか。
 とりあえず、喋る犬が珍しかったのと、悪魔の申し出が面白かったこともあり、私は悪魔の提案を呑むことにした。
 これを友人に話したところ、夢でも見ているんじゃないのか、と私の正気を疑って笑ったが、元より私がまともでないことも重々承知の友人だ。愉快そうに笑いながら「ま、お前なら地獄でも案外飄々とやってくかもな」と言っていたことを思い出す。
 こうして、今日も悪魔は台所に立って器用な手つきでジャガイモを剥いている。どうやら今日のご飯はカレーらしい。近くのスーパーの袋からはカレールーが覗き、いくつかの野菜、それに隠し味になるのだろう林檎が机の上に転がっていた。
「……おそようさん」
 悪魔は起きてきた私に挨拶を投げかけた。ものすごく不機嫌そうなツラだ。人の姿をしている時は綺麗な顔なのにもったいない、とまだぼんやりとする頭で考えながら椅子に座る。
「大学はどうした」
 悪魔は私に背中を向けたまま、ぶすっとした声で言った。私はテーブルの上のパンに手を伸ばしながら、答える。
「自主休講ー」
 頭の中のカレンダーが正しければ今日はゼミの筈だ。が、別段発表があるわけでもなく、しばらくは出なくとも何も言われないだろう。何か聞かれたら「具合悪くて」とでも言っておけばいい。
 思いながら、パンにピーナッツバターをつけてもそもそやっていると、悪魔がこっちを睨んでいた。上手くやれば人一人の心臓を止められるくらいの凶悪な睨みっぷりだが、あいにく私はすっかり見慣れてしまっている。
 そして、次に悪魔が言うであろう言葉も、既に想像はついていた。
「貴様は、何のために大学行ってんだ!」
 一言一句、きっちり予想通り。これもまた、いつもの台詞だ。
 私は黙ってパンをもそもそやる。最後の一枚だったということもあるのだろう、少し硬くてぱさついている。そんな私の反応をどう捉えたのか、悪魔はだん、と包丁を叩き下ろした。ただし、きっちりまな板の上に。哀れジャガイモ一刀両断。
「くそっ、何で、俺様は、貴様みてえな、奴のためにっ」
 言葉を切るのと同じ速度で、だん、だん、だん、と包丁が綺麗にジャガイモを切り刻んでいく。このままみじん切りになりかねない勢いだ。
「……ジャガイモは大きい方が好きなんだけど」
「黙らっしゃい!」
 振り向かずに悪魔は叫んだ。
「ああもう、全部奴のせいだファウストのせいだ、あれがケチの付き始めだったんだ」
 悪魔がぶつぶつと呟き始めるが、その声は大きい。明らかに、私に聞かせるための呟きだ。これで何十回目の愚痴だろうかと思いつつも、一応耳を傾けておいてやる。
「そもそも、俺様は奴との契約を履行した、そして確かに聞いたぞ、『時間よ止まれ、お前は美しい』という言葉を! なのにあの神の野郎、横から奴の魂を掻っ攫っていきやがった! その地点でまず何か間違ってんじゃねえか、そう思わねえか!」
 まあ、それは、確かに私も不思議には思っていた。
 ゲーテの『ファウスト』――私は手塚治虫の漫画でしか知らないが(『ネオ・ファウスト』が未完であることが残念でならない)、元は戯曲だったはずだ。劇場で役者たちが演じるもの、というよりは読み物的なものだったと聞くが、詳しいことはウィキペディアさんにでも聞いた方が間違いない。
 頭でっかちのファウスト博士を地獄に落とせるかどうか賭けをした、変な名前の悪魔と神さん。悪魔は博士と契約して、すったもんだあった末に博士は全てに満足し悪魔に魂を売り渡す言葉を放つ。だが、その魂は横から現れた天使たちによって天上に運ばれていく……といったものだったと思う。
 正直、さっぱり理解出来ない。
 ただ、あれは自分とは違う国の違う時代の話。当然考え方が違ってしかるべきで、故に私は悪魔の言葉に賛成も反対も出来ないでいる。その代わり、今日は前々から疑問に思っていたことを聞いてみる。
「あれはゲーテの作り話じゃないの? 一応モデルはいるって聞いたけど」
 「はっ」と悪魔は彼には珍しく愉快そうに笑った。
「悪魔なんてのはな、お前ら人間の見方一つで見え方が変わるもんさ。ただ、俺様の場合、ゲーテっつう野郎が明確な『俺様』のイメージを人間に植え付けちまった。台本の中に描かれる『俺様』として、劇場で演じられる『俺様』として、な」
「まあた、しち面倒くさいことを言い出した」
「む」
 悪魔は眉を寄せて私を見た。それでも料理する手を止めないのは、あっぱれな悪魔精神という奴だ。
「物分りの悪い奴だな」
「悪かったね、物分りの悪い奴で。ただ、そんなこと言ったら悪魔なんて人の想像の存在でしかない、って意味にならない?」
「卵が先か、鶏が先か。神や悪魔は『実在』するのか。そんな下らんことを考えるのは人間だけってこと。本当に、理性とやらを無駄遣いすることしか知らん連中だ」
 悪魔はそう言い切って、深々と溜息をついた。話を逸らしたつもりだったのだが、彼の言葉は再び愚痴に戻っていく。
「そう、何で俺様がいちいち人間なんぞにへいこらしなきゃならねえんだよ意味わかんねえ。神も神だ、今度はこいつを堕落させるなんてわけわからん賭けを仕掛けてきやがって!」
 びしいっ、と片手にニンジンを持ったままものすごい形相で悪魔は私を指差す。
 私は、テーブルの隅に置かれていた紙パックの野菜ジュースに手を伸ばしたまま固まった。別段、悪魔に恐れをなしたわけじゃない、ピーナッツバターに野菜ジュースは合わないと気づいて手を止めたまでだ。
「欲も無く、向上心も無く、目的も無く、毎日をぐだぐだ過ごしてる奴をどうやってこれ以上堕落させろってんだ! 何だこの無茶振り、これならわがまま三昧のファウストの方がよっぽどマシだ!」
「言われても、なあ。私が堕落させて欲しいって望んだわけじゃなし」
 この悪魔と契約をしたのだって、単に面白そうだったから、というだけであり。それを知らぬ悪魔でもあるまい。
「契約破棄したければすればいいじゃないか。別に私は構わないよ」
 何しろ、この悪魔との契約内容は『私が健康で文化的な最低限度の生活を営めるように家事を全てお任せする』ということだ。ここで悪魔に去られれば、元の冷凍食品とカップ麺に栄養価を全て頼った生活に逆戻りだが、「元に戻るだけ」といえばそれまでの話。
 だが、悪魔は私を睨んだまま、きっぱりはっきりと言い放つ。
「俺様は、諦めねえからな!」
 そんなに強く宣言されるとは思わず、きょとんとする私に対し、悪魔は鼻息荒く言葉を続ける。
「神にコケにされたまま、尻尾を巻けるか! 見てろ、今度は天使も逃げ出すような堕落をもたらしてみせる。もうファウストん時みてえな道化役は真っ平だ!」
「……そりゃまた、とんでもなく難しい目標だねー」
 私が笑うと、悪魔は「他人事じゃねえええええ!」と叫んで足を踏み鳴らす。
「そのためにも、まずは貴様が『更生』しなきゃ話にならん! 貴様が己の理性を有効利用できる『立派な人間』になってから、全力で堕落させてやるから覚悟しろ!」
「はは、精々楽しみにさせてもらうよっと」
 あくまでへらへらしている私に、悪魔は顔を真っ赤にして何か言おうと口をぱくぱくさせたが、やがて「知るか、貴様なんか!」と言って犬の姿に変じて部屋の隅にまで逃げた。まな板の上に、真っ赤なニンジンがころころ転がる。
 とはいえ、機嫌が戻ったらすぐにでもカレーの続きに取り掛かってくれるはずだ。契約に縛られている以上、悪魔は契約を破棄しない限りはその行動を完遂しなくてはならないのだそうで。何とも不便なものだが、彼が好きでやっているのだから私がどうこう言う筋合いも無い。
 それにしても、だ。
 私はニヤニヤ笑いながら、ふん、と私から視線を外して丸まっている黒い犬を見つめる。
 誘惑して人を堕落させるのが目的の悪魔が、私を更生させるなんて、それだけでおかしい。そもそも、こいつと賭けをしたという神さんってのは、本気で私を更生させるつもりなぞないののではないか。
 そうだ、神さんは、こいつをからかっているに違いない。
 人間を創った神さんが人の持つ「ユーモア」を解さぬはずもないし、悪魔のくせにやけに生真面目なこいつのプライドをくすぐる術だって、完全に心得ているに違いない。そして、そんなこいつの煩悶を見て、今の私のようにニヤニヤわらっているのではなかろうか。
 神も仏も信じぬ私だが、こいつの言う神さんって奴は、信仰の対象としての「信じる」でないにしろ、信じてもよいかもしれないとは思う。
 それに――
「メフィストフェレス」
「あん?」
 名を呼ばれた悪魔が、不機嫌そうな声を上げてこちらを向く。黒いふわふわの毛並みに埋まったまん丸の瞳が、こちらをぱちくりと見つめ返す。
「……いーや、何でもないよ」
 なら呼ぶなよ、とふてくされた様子で再び黒い犬は背を向ける。そんなふてくされた姿も、何だか愛らしい。
 だから私は笑う。だって、面白いじゃないか。
 無味無臭の冷凍食品を噛み締めているよりも、周りについていくことも出来ぬままただだらだらとベッドの上に転がっているよりも、ずっと、ずっと。
 舞台の上のファウスト博士には程遠く、決して物語にもならないささやかな日常。けれど、これが今の私と悪魔の毎日で……私は、こんな日々を、確かに楽しんでいる。
 そう、「あれ」はきっと、こんな瞬間に言うべきなのだろう。
 尻尾をぱたぱたさせる悪魔には聞こえないように――聞こえたとしても、きっと「まだ早すぎる」とむきになるだけだろうけれど――ピーナッツバターのついた指をぺろりと舐めて、小さく呟く。

 ――時よ止まれ、お前は美しい。

素晴らしきベタな日

 僕は、部室棟のとある扉の前に立ち尽くしていた。扉の前に張られている見慣れた巨大ポスターには、豪快な筆字でこう書かれている。
『H高校王道研究部、愛称ベタ研。王道な人生を君とエンジョイ!』
 活動内容がさっぱり想像つかないのは今更のことだ。実際、ベタ研の実態を完璧に知っている人間なんてベタ研部員以外にはいないはずで、活動内容を知らなくても人生で損はしない。
 しかし僕は紛れもないベタ研の部員であった。認めたくはないが。
「部長、いますか?」
 最近めっきり開きが悪くなった戸をノックする。すると、「はいよ」と野太い声が聞こえて、すぐに甲高い擦れた音を響かせてゆっくりと扉が開く。その少しだけ開いた隙間から、ぬっと顔を出したのは坊主頭のマッチョ男……彼こそがベタ研の部長であり、僕以外の唯一の部員だ。
 部長はどこからどう見ても体育会系だというのに何故かいつも可愛いフレームのオシャレ眼鏡をかけていて、それがとことん似合っていない。
「突っ立ってないで、入れよ」
「失礼します。今日は野球部は?」
「今日は自主練だから問題ない。どうだ、お前はきちんと『活動』にはげんでるか?」
 部長としては微笑みかけてるつもりなのだろうが、僕には人喰い熊が牙を剥いているようにしか見えない。いつ見ても怖い笑顔に後じさりそうになるのを自制し、部長の目……は怖かったから眼鏡のフレームの辺りに視線を彷徨わせる。
「その、『活動』についての話なんスけど」
「おう」
 ああ、本当に。僕は今日の朝の出来事を思い返しながら、もう腹の底から深々と、溜息をつくしかなかった。
「あるんスね、『ベタな出会い』って」

 そもそも。
 僕らベタ研とは、本来その名の通り、漫画や小説やドラマに語られるような「王道」――ベタな展開を実践するというバカ極まりない部活だ。他でもない部員の僕がバカというのだから間違いない。
 何しろ朝は「遅刻寸前の時刻に家を出て、曲がり角でパンを咥えた女の子とぶつかる準備をする」。放課後は「子猫がトラックに轢かれかけていないかをチェック。轢かれかけていたら、命を賭して助けること」。
 これをバカと言わずして、何と言おうか。
 こんな部活を承認している学校も学校だが、名義上の顧問によれば「元々はただの漫画・アニメ研究部だったのだが、今の部長が来てからこうなった」。世も末だと思う。
 だが僕は何故かこのベタ研にいる。その原因はもちろんこの部長にある。忘れもしない、一年前の新入生部活勧誘の日。一年生だった僕は、こともあろうにピンクの眼鏡をかけた熊だか海坊主だかよくわからない人物に捕まってしまった。捕まったその瞬間は、間違いなく運動部の勧誘だと思った。
 だが、海坊主もとい部長は僕をキラキラした瞳――僕には「草食動物を狙う肉食動物の目つき」にしか見えなかったが――で見つめて言い出した。
「フレッシュな新入生クンよ、君は『王道展開』に燃えないか! 草かんむりの『萌え』でもいい!」
「は、はあ?」
「む、君は王道の何たるかを知らないのか。王道展開とは、長らく同じ道を貫きながらもなお人の間で愛され続ける展開のことだ。例えば、某時代劇で必ず四十五分に登場する印籠のように! ガキ大将に苛められた少年に泣きつかれ、ついつい未来の不思議な力を持つ道具を貸し与えてしまう猫型ロボットのように!」
「それは、何となくわかりますが」
「もちろん、それをベタと批判する者が多いことも否定しない。ベタと王道が同じものでないという批判も受け入れよう。しかしベタが必ずしも王道ではないが、王道とは必ずベタなものだ。それを否定はできないはず! そうだろう!」
「ええと、つまりベタな展開から王道が始まる、って言いたいんスか」
「そう! その通りだ! 素晴らしいぞ、君からは王道展開を貫く才能を感じる! そうか、これぞ運命というものかもしれんな……そう、都合のよすぎる『運命の出会い』もベタにして王道のうち」
「あ、あの、俺は」
「よし、今日から君は王道研究会、愛称『ベタ研』の一員だ! 俺と共に充実したベタな高校生活を送り、やがては王道に至るのだ!」
「人の話を聞いてくださーい!」
 と、あれよあれよといううちに、僕はベタ研の一員にされてしまったのである。
 その日から、毎日毎日、不毛だとわかっていながら言われるがままに「部長が考えるベタな展開」を実践してきた。正直、あの海坊主だかトロールだかよくわからない部長に逆らう勇気は、僕にはなかった。
 頭の片隅では「王道」や「ベタ」というのはあくまでフィクションの世界の話であって、漫画やドラマの「王道」が、現実に通用するとは……と思っていたのだが、今日、思わぬ事態が起こってしまった。
 ついに「パンを咥えて『ちこくちこく~』と言いながら走ってきた女の子」に、曲がり角でぶつかってしまったのだ。
 それを聞いた部長は、目を丸くした。そんな漫画のような女の子が実在するとは思ってもいなかったのだろう。存在すると思っていなければ何故そんな活動させるんだと訴えたいところだが、それとこれとは部長の中では別だ。いつものことである。
「その少女は、この学校の生徒だったのか?」
「間違いなく、ウチの制服でして……それで、話はまだ続くんスよ」
 ほう、とパイプ椅子ごとじりじりとこちらに近寄ってくる部長。ただでさえ顔が怖いのだから、それ以上近づかないでもらいたいものだ。僕は煤けた部室の天井の隅っこに視線を移して、ぼそぼそと言う。
「その子、実は二年の転校生で、俺の隣の席なんス」
「な、何だと!」
 部長は立ち上がり様、派手な音を立ててパイプ椅子をひっくり返した。階下の将棋部はきっと迷惑な顔をしているだろう。
「それは至高のベタにして王道『恋愛フラグ』! ついに俺を差し置きその領域に達したというのか!」
「偶然です! 単なる偶然っスよ! フラグとか言わないで下さい!」
 ちなみに、「フラグ」というのは元々はゲーム、特にアドベンチャーゲームに使われていた用語だが、現在は小説とか漫画にもよく使われる一種のスラングだ。僕は一言で言えば「こうすればこうなるという定石」……「お約束」というやつだと認識している。
 例えば「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ」と言って戦いに挑む人物は、大体悲惨な運命を辿ることが簡単に想像できる。これが所謂「死亡フラグ」である。類型に「故郷に妻と子供が」とか、「悪役が急にいい奴になる」とかがある。
 もちろん、「お約束」である以上部長はフラグも大好物だ。「死ぬ時には見事な死亡フラグを立てて死にたいものだ」とキラキラした目で語っている姿はすっかり見慣れてしまった。
「それで、君はこのフラグをどうするつもりだ? まさか、ベタ研の精鋭である君がフラグを折るとは言わないだろうな」
 部長はクソ真面目な表情で僕に迫る。ただ、僕は複雑な表情を浮かべることしかできない。何しろ。
「その子……俺の好みじゃないんスよね」
 転校生は確かに可愛いかった。ちっちゃくて、ぽわんとした顔立ちの、どこからどう見ても天然っぽい女の子だ。そういうのが好きな奴にとっては、女神にも等しいのではないかと思う。
 けれど、僕の好みじゃない。僕の理想はすらりとして、ハイヒールが似合う大人のお姉さん。ハイヒールで踏みつけられることを想像するとゾクゾクして……って僕の嗜好は横に置く。
 部長は「む」と小さく唸った後、深い溜息と共に首を横に振った。
「仕方ないな。好みは人それぞれだ、人がどうこう言うことじゃない」
 そういうところは物分かりのよい人で助かった。部長は強面で微妙に人の話を聞かない熱血単純バカだが、聞いてもらえさえすれば主張も通る。とは言っても。
「今こそベタ研の本領を発揮する時だと思ったのだが」
 と、ぶつぶつ呟くのはやめていただきたい。僕はそんな本領、発揮したくない。
「とにかく、そういうことがあったんで報告しました。それじゃ、俺は帰りますよ」
「ああ、俺も帰ろう。途中までは一緒だったな」
 こうして僕と部長は家路に着くことになった。部長と僕が並んでいる姿は、きっと熊と兎ほどの違いがあっただろう。
「しかし、最近は意外性を求める余りに王道の素晴らしさを見失ってしまっている。王道は決して受け入れる人間に対する媚びではない、媚びすらも超越した普遍性、それこそが王道の王道たる所以。ベタもまた然り。ベタを守っていればいつかは王道への道筋が見えるに違いない! 違うか!」
 歩きながら部長は一方的に自らの「王道」論を展開している。これも普段通りのことだったので「はいはいそーですねー」と軽く受け流しつつ、ふと道路の方に視線を向け、
 凍りついた。
 白線の引かれたアスファルトの真ん中に、一人の女の子が無造作に歩みだしていた。この辺ではちょっとばかり人気がある、紺色の襟とスカートを持つ可愛らしいデザインのセーラー服。紛れもない、ウチの学校の生徒だ。
 その後姿は、何処かで見たような……
「って転校生! おい、何やってんだ!」
「何っ!」
 部長の声が背後から聞こえた。背後から、というのも僕が無意識に声を上げてその子に向かって走り出していたからだ。
 道路の真ん中に屈みこんだ転校生は僕の声に気づいたのか、ぱっとこちらを向く。手の中には小さく丸まった子猫がいた。きっとこの子は道路に出てしまった猫を助けようとしていたのだ……ってそれこそ部長の考えるベタ展開そのものじゃないか!
 耳を劈くクラクションにちらりと横を見れば、やっぱりな、マジで来てるよトラック!
「どけ、轢かれるぞ!」
 僕は駆け寄りざま、呆然とした表情の転校生を突き飛ばした。ごめん、と思いながらも命の方が優先だ。僕はアスファルトに倒れこむが、猫を抱きしめたままの転校生が歩道まで転がっていくのが目の端に映った。これで、何とか転校生と猫の命は守られた。
 やばいな、キテるじゃないか僕。今日は凄く真面目に部活動やっている気分だ……って爽やかに現実逃避している場合じゃない。
 立ち上がらなくては、と思ったが足に力が入らなくて愕然とする。どうやら今倒れたことで足を挫いてしまったらしい。運動嫌いで体育をサボっていたツケがこんな所で回ってくるとは。
 急ブレーキの音が響くものの車は急には止まれない、トラックは無常にも僕の元へ真っ直ぐに向かってくる。
 何故飛び出してしまったのか。地面に手をついた姿勢で呆然としてしまう。こんなベタすぎて笑えない展開、僕は望んでなんかいないのに……。
「諦めるな!」
 その瞬間、誰かががっしと僕の肩を支えた。誰かなんてわかりきっている。部長だ。
 このバカ部長、アンタまで来てどうするんだ、一緒に轢かれたいのか! 僕がきっと睨みつけると、部長はあまりにいつも通り過ぎる表情できっぱりはっきり言い切った。
「まだお前も俺も死亡フラグを立てていないのだ、ここで死ぬわけがないだろう!」
 いや、その台詞自体死亡フラグ臭いし!
 人喰い熊のごとき笑顔で部長が歯を輝かせた瞬間。
 僕と部長は思いっきり、トラックに跳ね飛ばされた。
 遠くから転校生の悲鳴が聞こえて、視界には部長のピンクの眼鏡が壊れて飛んでいくのが見える。それだけを理解して、僕の意識は綺麗に吹っ飛んだのであった。

 ――そして、目を覚ませば、病院のベッドの上だった。
 何でも、あの時にはトラックもかなり減速していて、僕も部長も全身を軽く打って掠り傷を負った程度でそれ以上の怪我はなかった。骨折すらしていなかったのだ。本気で死を覚悟しただけに、ちょっと拍子抜けした。
 すると、隣のベッドの部長は、傷の痛みなど知ったことはないとばかりに獰猛に、豪快に笑う。ただ、あのアンバランスな眼鏡がない分、その不気味さは多少和らいではいた。
「何、どんな状況下でも死なないのが王道だろう」
「それはギャグ漫画だけの話でしょうが」
「ははは、その通りだな」
「笑ってる場合スか。これから聴取とか何やら、絶対に面倒臭いスよ。親も色々煩いだろうし」
 僕が指摘すると、部長は熊の笑顔のまま「うっ」と固まってしまった。珍しく、額からはたらーりと汗を垂らしている。
 やっぱりこの人、何も考えていなかったよ。
 部長は坊主頭をがりがりと掻き、本気で眉根を寄せて言う。
「くそっ、現実というのは何とも面倒くさいことだ。漫画やドラマならカットできる場所だろ、そこは!」
「まあ、部長は大人しくしててくださいよ。俺が何とか言い訳しますから」
 部長に喋られるときっと色々こんがらがるばかりだろうし。僕は溜息をつき……でも、そうじゃないと部長じゃないかなとも頭の片隅で思う。
 ベタにして王道な部分以外は目に入らない、僕が知っているのはそういう部長だ。それ以上でも以下でもないし、それ以外である部長は想像することもできない。想像することが嫌なのかもしれない。
「そういえば、あの女の子はどうしました?」
「ああ、掠り傷で済んだそうだ。しかし……」
 眉を寄せていた部長は不意に表情を緩めた。いや、緩めたのではない。僕が新入生勧誘の時に見た「獲物を狙う肉食動物」のような目つきになっただけだ。
「あの少女、見所がある。あの少女は意識的にか無意識にか、俺の理想のベタを体現している。そう、彼女こそ我らベタ研に降臨したベタの女神!」
「あーはいはい、今度はきちんと勧誘してくださいね、俺ン時みたいに強引にはダメっスよ」
 とことん間違った方向にポジティブな部長に、僕はもう一度大げさに溜息をつく。何を言ったところで、こうなってしまった部長には聞こえないのだから問題ないだろう。
 ただ、今のうちに一つだけ部長に聞いておきたいことがあった。僕はあえて声を低くして、部長を呼ぶ。
「部長」
「ん、何だ」
「部長、何であン時俺の所に来たんスか。助けてくれるならともかく、一緒にはねられちゃ世話ないですよ」
「む、すまん、無意識に飛び出していた。だが、お前もそうだろう?」
 言われて、僕はぐっと言いかけていた言葉を飲み込んでしまう。そうだ、転校生が轢かれると思った瞬間に、先に道路に飛び出したのは自分だ。本当にあの時の自分はどうかしていたが……別に後悔していない自分にも気づく。
 助けようって思うのは当然のことだ。やり方はともかくとしても、実現できないとしても。転校生だって死にたくて飛び出したわけじゃない、子猫を助けたかっただけだ。結果的に、所謂ベタな展開になっただけで。
 ……ああ、そうか。
「ベタって、ほんとは普通のことなんスかね」
「今更気づいたのか。ベタは人が『当然こうなるはず』と考える中でも最も理想の展開。だからこそ王道と呼ばれることもあれば、使い古され客観的に色あせることもある。だが、どんなに客観的に色あせていても、理想は理想。それが叶うならば、どれだけ素晴らしい人生か。そうは思わんか?」
 部長は、子供が見たら恐怖で泣き出しそうな顔で笑うが、僕はもう知っている。これが部長なりの精一杯の爽やかな笑顔なのだと。
 ああ、ほんとにバカな奴。漫画みたいな台詞を何の衒いもなく言い放つような奴に、何を言ったところで無駄に決まっているじゃないか。
「ったく、それでこうやって死に掛けてちゃ世話ないスよ」
 けれど、と僕は口の中で小さく呟く。
「ま、怪我しない範囲でなら付き合いますよ、部長」
 別に僕は部長のようにベタで王道な毎日が送りたいわけじゃない。部長と同じことをしていたら、今日のように命がいくつあっても足りない。ただ、この救いようのないバカ部長の行く先には興味があった。
 そんな僕も、やっぱり救いようのないバカなのかもしれない。
「あのぅ」
 僕らが話していると不意に声が聞こえて、僕はそちらに視線をやる。すると、そこには転校生のあの子がちょこんと立っていた。部長は大きく手を広げて歓喜の表情で転校生を迎える。
「おお、我が女神! よく来てくれた、ベタ研の救世主!」
 ――バカ部長、それじゃあ意味不明だ。
 僕は頭を抱えながらも、口元が自然と笑むのを堪え切れなかった。きょとんとする転校生に感極まって涙すら流しだしそうな部長。訝しげな他の患者や看護婦たちの視線なんて、部長には関係ない。
 それでいい、それでこそ部長。
 僕は笑顔で……とりあえず転校生にベタ研の何たるかを説明することにした。説明してわかってもらえるかは、はなはだ怪しかったけれど。

向日葵、毒薬、宇宙船

 或る飛行士が死んだ。
 死因は不明。
 不明であることを、或る飛行士本人が望んだからだ。
 僕は今日も飛行士の家に向かう。花畑の向日葵に水をやっていた飛行士の奥さんが、僕の名を呼んで家に入るようにと言ってきた。僕は急ぐからとその誘いを断り、その代わり向日葵の花を一輪欲しいと申し出た。
 奥さんは、今日だったわねと笑って、快く僕に向日葵の花を一輪くれた。とびきり大きな花をつけた、とびきり背の高かった一輪だ。
 向日葵の花は皆、空を見上げている。飛行士が夢見続けていた空を。以前奥さんは飛行士が植えたこの花を嫌いだと僕に漏らしたことがある。かつてはその意味もわからなかったけれど、今なら何となく、わかる気がする。
 去り際、僕は向日葵の花を抱いて奥さんに今も向日葵が嫌いかと問うた。
 奥さんは笑って今は違う、とだけ言った。好きか嫌いかはわからなかったが、その答えだけで十分だった。
 僕は、飛行士の家を発った。
 最後に僕に聞かせてくれた言葉を頭の中にもう一度呼び起こしながら。

(これは誰にも言わないで欲しい、友よ。
 僕は気づいていたんだよ、あいつが僕の食事に毒を盛っていたことくらい。だけど僕は迷わずあいつが作ってくれた食事を食べたんだ。僕はあいつを恨んでいないし、君もあいつを恨まないで欲しい。あいつはきっと、僕を恨んでいただろうけど。
 僕はもうすぐ死ぬだろう。
 だが、ベッドの上で苦しむ僕の横で、あいつは僕の手を握って穏やかに笑っているんだよ。あいつが狂っている? そうじゃない。僕の方が狂っていたのだと今になって思い知ったのさ。
 君にはわかるかい、友よ。
 あいつは、ただ、寂しかっただけなのだ。僕は向日葵のようなものだったとあいつは言ったよ。空ばかり見上げて、ずっと側にいてくれたあいつのことを見ていなかった。それがあいつには寂しくてたまらなかったのだ。
 僕はこのまま手の届かない場所に行くんじゃないか。銀色の船に乗ったまま帰ってこないんじゃないか。僕の枕元でずっと、呟いていたんだ。それだけ、不安だったんだよ。毒薬に頼らないといけないくらい……僕には、想像することしかできないけどね。
 僕はここで死ぬことに決めたよ。窓からは綺麗な空が見えて、星が見えて。向日葵が空を夢見るこの場所で。
 あいつのいる、この場所で。
 ああ……今日も向日葵が綺麗だ)

 或る飛行士が死んだ。
 死因は不明。
 不明のままにしておいていいのだろうかと、思わないでもない。ただ、彼が死んでも向日葵は今日も空を見上げているし、奥さんは向日葵に笑顔で水をやっていた。
 それで、いいということにする。
 僕はゆっくりと階段を上っていく。目の前にそびえ立つのは銀色の曲線を描く機体、宇宙へと向かう船。
 今日は僕の初フライト。君の好きだった向日葵の花を一輪つれて。

「さあ行こう、友よ」

T42

 彼が顔の無い死体を見つけたのは、あれから二十六時間後のこと。
 あの喫茶店から、数十メートルも離れていない場所だった。

 聞き覚えのあるスイング・ジャズが、意識せずとも耳に染み付く。
 何をするわけでもなく、ふと紅茶に溶け行くミルクの帯に目を向ける。ぐるぐると回る白い帯が、やがて液体と液体の境界線を失いカップ全体を白濁させていく様子を観察する。初めは別のものであった紅茶とミルクは、もはや切り離すことの出来ない一つの『ミルク・ティー』として彼の前に存在している。
 果たして、自分と他人の境界線もこのミルク・ティーのように混ざりうるものなのだろうか。
 彼はそんなことを思いながら、「偶然」相席になった貴婦人に視線を映す。ティー・カップを手にした貴婦人は長い睫毛を上げて、小首を傾げる。
「私が、何か?」
 ルージュを引いた唇から放たれたのは、涼やかな声。
 よく出来た人形のように整っていながら、確かに血の通った柔らかな肉質の唇だと彼は思う。そして、そう思ったことが相手に伝わってしまっただろうかと危惧しながらも、薄い唇をゆっくりと開く。
「何のつもりかと思ってな」
「何のつもり、とは?」
「貴女は昨日も私の前に座っていたはずだ。昨日は全く違う、青年の顔をしていたが」
 目を丸くする貴婦人に対し、彼は表情一つ変えずに淡々と言葉を吐き出していく。
「昨日だけじゃない。一昨日も、その前も、私の前に座っているだろう。もちろん、別人としてではあるが……間違いなく貴女だった」
 何のことですか、と。
 貴婦人は眉を寄せて言うものの、彼は取り合わない。彼の言葉をわかっていないはずはないのだ。わかっていながら、あえて理解できないふりをしていることくらい、彼には即座に「わかる」。
 やがて貴婦人はふ、と笑みをこぼした。作り物じみた表情に似合わぬ少し歪な笑い方で。
「何故、わかりました?」
「わかるさ。外側を変えても何も変わらない。私には、全く同じように見える」
 ティー・カップを手に取り、一口含む。舌に灯る温かさと、微かな苦味。それらの一つ一つを確かめながら、彼は貴婦人を見やる。貴婦人は歪に笑みながら、同じようにミルク・ティーを口に運んでいた。
 ソーサーとカップが触れる音が、ゆるやかな音色の中に響く。
「貴方には、人の心が『見える』のですね」
 そう言った貴婦人は、彼ではなくはるか遠くを見つめていた。
 だから彼も、同じ方向を見て答えた。
「ああ」
「なら、私が何者なのかもわかるのですね」

 心が見えていたのだから、わからないはずはない。
 彼は、彼女を知っていた。
 彼女が人殺しであることも、知っていた。

「恐れもしないのですね」
 彼に語りかけながらも、貴婦人の視線は窓の外に向けられている。スーツ姿の人々が足早に行き交うが、彼らは彼女の視線に気づく様子もない。彼らは自分だけの時間を生きている。目の前の彼女とは、違って。
 彼はもう一口紅茶で喉を湿して言う。
「貴女からは私を傷つける意志が見えない。故に恐れる理由がない」
 ――それに。
 彼は目を伏せて、言う。
「私を食らう気にもなれないだろう」
「そうでもありません」
 彼の言葉を聞いて、ふわりと貴婦人は笑う。今度は自然な、穏やかさを湛えた笑みだった。
「貴方のような方に『成れる』とあれば喜んでいただきます。当然昨日までは、そのつもりでした」
 いただく。食すと言い換えていいのだろうな、と彼は思う。ただ、言葉に反し貴婦人にその気がないことは明らかだった。そのくらいは、あえて心を見ようとしなくてもわかる。
「ならば何故、そうしない?」
「そうされたいのですか?」
 噂どおりに顔の皮を剥がれて『食される』自分を想像力の限りに脳裏に描いてみたが、彼は軽くかぶりを振って「ぞっとしないな」と述べるに留めておくことにした。
 それを聞いた貴婦人は、硝子球を思わせる空色の瞳を細めて呟く。ともすれば流れる音楽に混ざってしまいそうなほどに小さく、しかし彼にははっきりと届く声で。
「……貴方をいただいても、貴方にはなれないとわかりましたから。それなら、こうして」
 貴婦人は細い指先でティー・カップを包み込み、大切なものであるかのように捧げ持つ。
「私に気づいた貴方と二人、紅茶を飲みながらゆっくりお話をしてみたいと思ったのです」
「なるほど」
 紅茶は好きか、と。
 彼は貴婦人に問うた。貴婦人は顔の前に運んだ紅茶の香りを楽しむように目を閉じて、当たり前のように言った。
「人の顔よりはずっと好きですよ」

 街角に顔のない死体が転がるようになったのは、いつだったか。
 人間の顔を『食べる』ことで『成り変わる』殺人鬼が登場したのは、いつだったか。
 そんなこと彼にはどうでもよかった。
 彼女はその時そこにいて、一緒に紅茶を飲んでいた。

 しばしの沈黙の後、貴婦人はぽつりと言った。
「私、もう疲れてしまいました」
「何がだ」
「顔を、探すのに」
 喫茶店の心地よいざわめきの中で、貴婦人の声は他の誰かに届いているのだろうか。彼はふと、そんなことを考える。だが、もし聞かれていても何だというのだろうか。この場の自分はただの客であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 そしてここにいるのも、殺人鬼ではない。
 紅茶が好きな、ただの貴婦人だ。
「何故、顔を探すのだ」
「見てわかりませんか?」
「わからない。仮にわかったとしても、言葉で聞きたいと思う」
「不思議な方」
 ころころと笑っていた貴婦人は、すぐに笑みを引っ込めて俯く。微かに波打つ銀糸の髪が、音もなく肩から流れ落ちるのを、彼は表情もなく見つめていた。
「もう、何も覚えていないのです。ただ鏡の中の自分の顔が自分のものではない気がして。それどころか、ここに立っている自分が自分ではない気がして」
 今にも折れそうな白い手首が、震える。
「これは私ではない。僕でもなければ俺でもない。何処かに本当の自分がいるはずなのだ、本当の自分を取り返さなければならない。そう思って世界を見ると」
 硝子玉の瞳が見据えるのは、彼……いや、彼よりもはるか遠く。きっと、その透き通った目に映る全てなのだろうなと彼は思う。
「『誰もが、私に見えた』のです」
 貴婦人の目が見つめる世界を、彼が見ているわけではなく。
 もし見えたとしても、同じように理解は出来なかっただろう。
「気づけば私は、その中でも強く『私の顔』だと思った人間の顔を食べていました。目も、鼻も口も頬も眉も髪も全て。ただ奪うだけでは足らない、本当の意味で自分のものにしなければならない、そうして初めて私は『私』を取り戻したと感じるのです」
「だがそれも刹那か」
「はい。すぐに取り戻したはずの私が私でないと気づいて。そうしてまた私は顔を探していたのですが……それも、きっと終わりですね」
「終わり?」
 理由がわからず、彼は首を傾げる。すると貴婦人は長い睫毛を伏せて、満足げに息をついた。
「結局誰になろうと変わらないのだと教えてくれましたから」
 貴方が。
 貴婦人という『顔』を持った彼女は、そう言って下を向いたまま笑う。

 彼は何をしたわけでもない。
 ただ、彼の目には彼女が見えた、それだけの話。

 ――一つ、聞いていいですか。
 そう問うた貴婦人はまだ、下を向いたままだった。
「貴方の目から、人はどのように見えるのでしょうか」
「……さあな。多分、貴女に理解できるものでもない」
 それ以上は何も、語るつもりはなかった。語る言葉も持ち合わせていない。確かに彼は人の心を見ることができるものの、それが本当の意味で『心』なのかもわからない。人は同じ能力を持ち、同じ場所に立っていたとしても同じものを見ているとは限らない。まして人に見えていないものをお互いに理解することなど、できやしないのだ。
 貴婦人は彼の言葉を噛み締めるようにゆっくりと、小さく頷いた。
「それでも構いません。貴方の言葉で聞かせてください。私はどう見えますか?」
 きっと、顔のない、醜い化物でしょう。
 そう言う貴婦人は微笑んでいた。悲しげに、寂しげに。
 感覚を表現するのに、言葉は決して正しくないと知っていても。それでも彼は脳裏に焼きつくイメージを、何とか一番近い言葉と結びつけて呟いた。
「少女」
「……え?」
「そばかすの似合う大きな目の少女だよ」
 顔を上げた貴婦人は、しばらく何も言わなかった。目を丸くして、彼を見つめたまま……やがて、「ああ」と喉から声を漏らした。
 全身から力が抜けて、細い手首が落とすかのようにカップをソーサーの上に下ろす。
 硝子玉の瞳が、彼の瞳に映る幻の少女の姿と重なる。脳裏の少女はまだ幼い表情のまま、遠い、遠い場所を見ていた。
「そうですか」
 唇から零れ落ちた声もまた、今まで聞いていたものとは違うもののように、響く。
「私は……」
 ティー・カップを握る指先が、震えて。

 それから二十六時間後の今。
 彼は変わり果てた姿の彼女を見下ろしている。

 一杯の紅茶を飲む間だけの、とても短い二人の時間。
 果たしてそこで彼女が何を思っていたのか、彼はあえて『見よう』とはしなかった。
 見る必要もなかったと、思っている。
 彼女がこれからどうするつもりだったのか、彼女がどうしてこの場所で死んだのか。彼は何も知らないままに彼女を見下ろしている。
 もはや彼以外の誰も死んだ彼女を理解できないだろうし、彼もまた彼女を理解したわけではない。それでも、優しいバック・グラウンド・ミュージックの中で、笑って紅茶を飲み干した彼女の記憶だけは忘れまいと思う。
 自分と他人の境界線を見失い、なおかつ自分がどこに立っているのかも理解できていなかった彼女。
 彼女がティー・カップを置いて、最後に呟いた言葉を彼は絶対に忘れない。

「私は……ここにいるのですね」

 彼女は、そこにいた。
 そう、確かに、自分と一緒にいたのだ。

 彼は顔の無い彼女に背を向けて、今にも泣き出しそうな空を背負って歩き出す。
 口ずさむのは温かな空気に溶け行くスイング・ジャズ。
 あの日二人で聞いた、『ティー・フォー・トゥー』。
 砂糖をたっぷり入れたミルク・ティーの味が、ふと蘇ったような気がした。

セーシュンフラグメント

 桜並木の歩道を全力で駆け抜ける。ひらひら舞い落ちる白い花びらの中を、息を切らせて走る。もう足の感覚なんてわからない、ただ一つ今のアタシにわかるのは、手の中にしっかりと、あの時の思い出を握りしめてるってことだけ。
 ね、アタシは……どうして忘れちゃってたんだろ。
 あんなに、しっかり約束したじゃんか。
 そうだよね、ネオン……!


 あれは、蝉がうるさく鳴くどころか干からびて地面にごろごろ転がる、暑すぎる夏だった。
 夏休みが終われば先輩は受験勉強で部活にも来られなくなる、そんな時にネオンが学校の屋上で昼飯を食うだなんてバカなことを提案したんだっけ。
 熱中症になるに決まってる。それ以前に暑い中屋上でメシだなんてどうかしてる。
 そう言って反対したのは部内一番の良識人、黒江先輩。でも何故かアタシも含めた賛成多数で屋上に出かけて行ったんだった。
 ネオンは金色に染めた頭に麦わら帽子なんか被っちゃって大はしゃぎ。ううん、その時はアタシもいい加減はしゃぎすぎだったと思う。
 夏休みも終わり近く、ついでにアタシたち四人が集まってテンションが低いわけなかったわけで。黒江先輩も最終的には苦笑いしながら、それでもアタシたちを置いて先頭をずんずん歩いてた。
 その後姿も、今ならはっきり思い出せる。
 窓の外では入道雲が地平線の向こうから湧き上がる、そんな日に。
 アタシたちはバカみたいに騒ぎながら、荷物を背負って人気のない学校の階段を昇っていったんだ。


 それもこれも。
 これがなければ思い出せなかった。
 丸ごとそこだけを切り取ったような青い空をバックに、笑う四人。
 アタシたちの、最初で最後の、四人の写真。


「……え?」
 それを見た時には、自分の目が信じられなかった。
 こんな写真があるなんて……しかも高校の教科書の間に挟まってるなんて、思いもしなかったから。
 高校の教科書なんて大学に入る前にさっさと処分しておけばよかった。就職先に引っ越す前日に、こんなものを片付けなきゃいけないなんて、って愚痴ってたこともすっかり忘れて。
 ……アタシは、その写真に見入ってた。
「いつ撮ったっけ、こんな写真」
 正直、一瞬見ただけじゃ何も思い出せなかったんだ。ただ写ってるのが高校の時に一緒に過ごした四人組で、背景は夏の空だってことしか、わからなくて。
 だけど、何でだろ。
 床に座ったまま、じっと写真を見てると、色んなことが頭の中に浮かんでくるんだ。
 春、桜のよく見える部室で、初めて黒江先輩やネオンたちに会ったこと。変な名前ってネオンをからかったら、逆にアタシの名前は古風すぎるって笑われて、お互い印象最悪だった。
 夏、海に行ったら真白がおぼれかけて大騒ぎして……あの時の黒江先輩は別人みたいだった。シスコンなだけじゃなくて、本当に妹のこと大切にしてるお兄ちゃんなんだなって、ちょっとだけ見直したっけ。
 秋、文化祭前日で、何でだか忘れたけど大もめにもめたんだよね。アタシとネオンが大喧嘩して、真白が珍しく本気でキレて、間に入った黒江先輩まで巻き込んじゃった。でも、最後にはいいものができたから、アタシとネオンも仲直り……できてたのかな。
 冬、四人だけのクリスマスパーティ。真白から貰ったクリスマスプレゼントのグロ可愛いぬいぐるみ、まだベッドの横にある。ちょっと怖いけどお守りみたいなものだから、向こうに行っても持っていくつもり。
 色んなことがあったんだよね。四人が一緒だったのはたった一年、あんな廃部寸前の部活にいたのも三年間だけだったのに……こんなに色んなこと、やってたんだって、思う。
「セーシュン、って感じだよね」
 ネオンは口癖みたいに言ってたけど、アタシはその言葉嫌いだった。
 だって何だかくすぐったいし、バカっぽいじゃん、「青春」なんてさ。「努力」と同じくらい嫌いな言葉だった。
 でも今は何となく、ネオンが言ってた意味もわかる気がするんだ。
 ネオンが考える「セーシュン」って、アタシが考える「青春」とはちょっと違ったんだと思う。
 ネオンはどっからどー見てもチャラい感じの、吹けば飛びそうなヤロー。ついでに中身はどうしようもないほどガキ。頭ン中万年春だけど、たまにはすごい奴かもって勘違いさせてくれたりもした。
 ううん……ホントは、アタシなんかより全然、色んなこと考えてたんだよね、ネオン。
 すっごく色々考えてて、それでも絶対に皆に見せなかった。そういう奴だったんだ。
 そんなネオンの「セーシュン」って、多分「もう二度と無いこと」って意味だったのかなって今は思う。
 アタシも、今だからわかるんだけどさ。
 あの頃四人で撮った写真はここにあるけど……こうやって、四人で笑ってる写真なんて、あの時に帰らない限り二度と撮れないんだ。
 もう、二度と。


「なあ、皆」
 屋上で、青空を背負ったネオンが笑う。
 強すぎる太陽の光がアタシたちの足元に濃い影を落としてた。
「五年後くらいに同じ場所で、もう一度四人で会わない?」
「バカじゃないの? 五年後ったらアタシたちとっくに卒業じゃん」
「でも、今日みたいな休みの日に潜り込めばバレませんよ、きっと」
 真白がおっとりした顔に似合わず大胆なことを言ってたような気がする。まあ確かにうちの学校は私服だし、バレないっていやバレないんだけど。
「……それは、ちょっと面白そうだな」
 いつもはアタシたちのバカな計画を嫌がる黒江先輩だって、軽く肩を竦めながらも嫌な顔はしてなかった。
 アタシも、一応反論はしたけど実は乗り気だったんだよね。
 だってさ、アタシはこうやって四人で過ごしてる時間が一番好きだった。
 今、高校の記憶を思い出して、ほとんど四人で過ごした記憶しか思い出せないくらいには、大好きだったんだ。
 もちろんネオンはアタシが反対しないのもよくわかってた。だから本当に嬉しそうに笑って言ったんだ。
「ほら、すっごいセーシュンって感じじゃん!」


 ネオン。
 ネオンに、会いたい。
 だから、アタシは写真を握り締めて家を飛び出した。
 背後から誰かがアタシを呼んでたけど、部屋はまだぐちゃぐちゃだったけど、そんなこと構わない。
 桜並木を抜けた先は学校。
 思い出のままの場所が、そこにあった。


「じゃあ、約束!」
 あんたが夏の日の青空に突き上げた腕を、ずっと忘れちゃってたけど。
「五年後、この場所で。どんなんなっても会おうって、約束だからね!」
 ――やっと、思い出したよ。


 もう自分のものじゃない下駄箱の前で靴を脱ぎ捨てて、走る。走る。
 遠くから吹奏楽部の練習の音が聞こえる……入学式の行進曲。
 階段を駆け上がりながら何してんだろ、って思う。だって、約束の日は今日じゃない、いや、ネオンは何月何日に集合だってことも言ってなかった。
 今行ったって誰もあの場所にいないのに、どうして、アタシは、走ってるんだろう。
 息が上がって、足もフラフラなのに……どうして、アタシは、止まれないんだろう。
 屋上の扉はすぐそこだ。
 薄く開いたその扉の向こうでは、確か普通はどっかの部活が使ってるはずだけど。
 アタシは迷わずその扉に手をかけて

「華子……約束だよ」

 扉の向こうから、あいつの声が聞こえた気がした。
 アタシは扉を押した姿のまま、一歩も動けなかった。
 信じられなかったんだ。

 そこに、黒江先輩と、真白がいたから。

 それがわかった瞬間に膝から力が抜けて、もう立ってられなくてその場に座り込む。
 何で。
 何で――
「華子先輩!」
 真白が慌てて近づいてくる。
 幻じゃ、ないよね?
 アタシの思いは言葉になってるかどうかわからなかったけど、真白はわかってくれたみたいで、笑顔で手を差し伸べる。
「もちろんですよぅ。幻なんかじゃありません。立てますか?」
「あ、うん、ありがと」
 やっと現実なんだって実感が持てて、へとへとになった足にも少しだけ力が入る。真白に手を借りて、やっと立ち上がることができた。
 二人とも、五年前からちょっとだけ変わってて、でも五年前と何にも変わってないようにも見える。この場所で、夏の空を見上げてはしゃいでたあの日から、何も。
 だけど、どうしても信じられない。この場所に集まる連絡なんてなかった。最低でもアタシは何も言われてない。もしあの写真を見つけなきゃ、何も気づかないまま、約束も思い出せないまま引越しの車に乗ってたんだ。
 なのに、どうしてここに三人で揃ってるの?
「不思議だな」
 黒江先輩も、多分アタシと同じことを考えてる。普段は驚いたって表情も変わらない先輩の目が、まん丸になってるから。
「真白が偶然、こんな写真を見つけてきてな。懐かしくなって来てみたら、何も言ってないのに華子が来るんだもんなぁ」
「すっごい。こんな偶然って、あるんだ……」
 黒江先輩が写真を出す。それは、アタシが握ってくしゃくしゃになってる写真と同じ、夏の日の思い出。
 アタシは思わずこの場に四人目を探そうとして……すぐに、バカなことだって思い直す。


 この場に四人が揃うことはない。
 一番会いたかった人は、絶対にいない。
 ネオンは。


「ネオンがいればよかったんだけどな。言いだしっぺはあいつだろ」
 黒江先輩が、フェンスに寄りかかって、空を見上げて溜息混じりに呟く。
「……きっといるよ、ここに」
 真白はほんの少しだけ笑う。ただ、その笑顔が寂しそうだったのは、見間違いじゃないよね。
 だからアタシも、二人と一緒にただ空を見上げることしかできない。あの時みたいな青をこれでもかとばかりにベタ塗りした空とは違う、淡い色を塗り重ねた春の空。
「何で、あんただけ先に逝っちゃうかなぁ」
 アタシの呟きは、ネオンに届いてるのかな。ネオンは、向こうでアタシたちを見て笑ってるかな。それとも、ちょっとだけ悔しがってたりするのかな。
 長瀬音穏は既にこの世の人じゃない。
 ネオンが死んだのは一年前。噂では重い病気を患っていたとか、何とか。
 アタシはネオンの病気のことなんて知らなかったし、卒業してからは姿も見てない。黒江兄妹も、ネオンが死ぬまで何も知らなかったみたい。
 きっとネオンのことだから、わざと知らせなかったんだと思う。あいつはそういうバカだって、わかってたつもりなのに、ね。
 でも、ひどいよね。
 約束したのはあいつだったのに、一番初めに約束を破ったのもあいつだったってわけ。
 思い出すと、ちょっとだけ胸が痛くて、目に何かが滲んでくる。あいつに泣かされるのも悔しいから、無理やりこみ上げてくるものを飲み込んだ。
「でもさ、お兄ちゃん」
 ぽつりと言った真白の目にも涙。可愛い後輩まで泣かせるなんて、ネオンは死んでからも罪作りな奴。そんなことを思ってた、時だった。

「その写真、いつ撮ったんだっけ……?」

 え?
 言われて、アタシは手元の写真を見る。日付も入っていない写真だけど、いつ撮ったのかははっきりと、思い出せ……
 あれ?
「ん、おかしいな」
 黒江先輩も首を捻った。
「屋上でメシ食った日だよな。あの日は、確か誰もカメラを持ってなくて」
「それで、ネオンが超落ち込んでたんだよね?」
 思い出した。
 だから、ネオンはあの約束を言い出したんだ。
 今度四人で会ったら、この場所で写真を撮ろうって、言ってたんだ。
 なら。
「この写真は、何だろ?」
 真白の指摘は、もっともで。
 それに、写真の真偽はともかく、何もかもができすぎてる。三人が三人とも、同じ日にこの「撮ったはずもない」写真を見つけて、同じようにこの場所に集まるなんて。
 ……ああ、そっか。
「ネオン、あんたの仕業ね」
 空に向かってアタシは言う。もちろん返事なんてない。
 でも、アタシは確信してた。
 ネオンはアタシたちとの約束を守ったんだ。あいつは、どうしようもないほどバカだけど、約束は絶対に守る奴だったから。ううん、今もそう。
 だって、四人の「思い出」と「約束」を、こんな形でアタシたちに思い出させてくれたんだから。
 あいつの思い出そのものの写真を握り締めたアタシは、笑って、ネオンに……ネオンが笑ってると思う空に向かって全力で叫んだ。

「悔しいけど……すっごいセーシュンって感じだよっ!」


 窓の外に流れていく、桜並木。
 アタシは引越しのトラックに揺られながら、二枚の写真を見やる。
 一枚は、誰かさんの思い出、夏の日の四人。
 そしてもう一枚は……誰かさんとの五年目の約束、春の日の三人と青空。

 アタシの大切な、青春の断片。

躍動するマシュマロ

 悩んでいた。
 僕は大いに悩んでいた。
 ディスプレイに映し出されているのは千葉大学文藝部の部員専用BBS、そしてまだ題名すらつけられていない「文書1」という真っ白な新規ドキュメントを表示したマイクロソフトのワードさん(2003)。
 いや、よくよく見てみればそのドキュメントは決して真っ白なわけではない。「文書1」の頭には、こう書かれている。

 ――躍動するマシュマロ

 それは部内でひそやかに行われている企画、「第三回さらし文学賞」で統一されている題。
 こともあろうに今回のさらし文学賞は前回の文学賞で優勝した先輩が、「マシュマロが動いて喋る程度のアイディアで天下獲れると思うなよ文学賞」という、前代未聞のテーマを投下してきたのである。
 今現在BBSに表示されているテーマと募集内容からは、目を背けたくて仕方ない。
 だがしかし僕も幽霊部員とはいえ文藝部に名を連ねる者の一人。
 どんなテーマであろうとも気合と根性ととっさの閃きさえあればきっと形になると信じて、我らの味方ワードさんを立ち上げたはいいのだが、僕は一つだけ完全に失念していたことがあった。
 ……今日が、〆切だということ。
「自業自得っ。君遅筆じゃん、絶対間に合わないって」
「うるさい黙れ。気が散る」
「うわっ、冷たい! カキ氷みたいに冷たいよ君!」
「美味しくていいだろ、時期じゃないけど」
 普段なら鬱陶しいだけの横槍にいちいち言葉を返すのは、ある種の現実逃避。何となく思いついたところから書きはじめてみるけれど、三行くらい書いたところで先が思いつかなくて一気にバックスペース。
 こうしてまた「文書1」に書かれている文面は題名である『躍動するマシュマロ』のみになった。
 横からぐぐっと身を乗り出してきてワードさんを覗き込んだそいつは、いたって他人事のように笑って言った。
「で、原稿は進んだの?」
「さっきから見てんのに当然のこと聞くな!」
 ええ進んでませんとも進みようがありませんともこの白紙をどうしろと。
「で、テーマは何だっけ?」
「『躍動するマシュマロ』、だよ」
 僕が「文書1」の頭一行を示すと、そいつは不可解なものを見たかのように「うーん」と唸った。大丈夫、僕も十分不可解だと思っている。
「マシュマロって、あのマシュマロ?」
「あのマシュマロだ」
「躍動させるんだ」
「させなきゃならんらしい」
 僕は椅子の背もたれに思い切りもたれかかり、天井を仰ぐ。この部屋の壁はうちの親が最近ベビーブルーに塗り替えてくれたのだが、天井だけは塗り替えるのが面倒だったらしく、うす汚れた茶色をしてこちらを見下ろしていた。
「マシュマロ、躍動……ねぇ」
 いつもなら作業中の僕にとって迷惑でしかないそいつは、今日ばかりは僕の切羽詰った様子に同情してくれたのだろう、珍しく頭を捻って考えてくれている。
 普段頼りない分、もしかするとすごいイマジネーションを発揮してくれるのかもしれないと期待して、僕はそいつに目を向けた。
 そいつはしばしうんうん唸った後に、唐突にぽつりと言った。
「『パラサイトマシュマロ』、とかどうかな」
「『パラサイトマシュマロ』?」
 何だその明らかに何かパクっちゃいけないものをパクったっぽい題名。嫌な予感しかしないんだが。
「話はこう。マシュマロで世界を征服しようと企む科学者が」
「その地点から何かが間違ってるような」
 世界征服をもくろむ科学者という地点であからさまにありがちだし、まずマシュマロで世界を征服って、一体マシュマロのどこをどうするのか。
 映画「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンみたいなのが大量生産されて暴れまわれば確かに世界は崩壊するだろうが、それはそれでかなりコストがかかりそうな気がしてならない。
 多分僕がさっさと話を遮ったからだろう、そいつはわかりやすくぷうと膨れた。
「思いつかないから考えてやってるってのに、何その言い方」
「悪かった悪かった。続けてくれよ」
 僕はやる気なくひらひら手を振る。それでもまだそいつは納得してくれなかったみたいで、不機嫌そうに膨れながらも言葉を続けた。
「世界征服を企む科学者が、マシュマロにだけ感染する病気をばらまくんだよ」
「待った」
 マシュマロにだけ感染する病気、ってお前。
 聞いた瞬間、思わず僕は「感染」という言葉それ自体をググってしまう。
 我らの強い味方ウィキペディアさんによれば、「感染」とはこういうことだ。

 感染(かんせん、infection)とは、ある生物の生体内に別の微生物が侵入し、そこに住み着いて安定した増殖を行うこと。
(Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/感染)

 僕はディスプレイの一点を指差して、そいつに聞いてみることにした。
「……マシュマロは生物か?」
「うっ」
 流石にそいつも生物と非生物の違いくらいはわかっていたらしい。一瞬俯いて黙ったが、それは本当に一瞬のことで、すぐにぱっと白い顔を上げて言った。
「でもほら、非生物のコンピュータウイルスとかも感染っていうってウィキペディアさんは言ってるし!」
「まぁ確かに」
「だから、マシュマロに感染して、しかも感染が拡大する病気ってのがあってもおかしくないって!」
「そうかぁ?」
 もちろんそいつが言っているのは僕が今から書こうとしている『躍動するマシュマロ』の話、架空の物語だ。初めから突飛な話になるのは僕だって百も承知の上である。
 なら何故いちいちそいつに突っかかるのかと言えば、単に反応を見てからかっているだけなのだが。こうでもして気を逸らしていないと、気が急いて仕方ない。
 気が急いていてはろくにいい文章も書けないものだ……と常々思っているのだが、考えてみると〆切前にならなければ書き始められない僕は、永遠にろくな文章を書けないことになる。何という残酷な真理。
「で、その病気ってのは、マシュマロにしか感染しないんだけど人間の身体の中に入ると別のことが起きるんだよ」
「ほほう」
「何と、病気に感染したマシュマロを食べてしまうと、自分の身体がどんどんとマシュマロになっていき、最終的には生けるマシュマロになってしまうのだー!」
「怖っ! それ怖っ!」
 ホラーだろそれ紛れもなく。僕にホラーを書けというのか。文藝部随一の桃色物書きと称される僕に、人が徐々にマシュマロになっていくホラーを書けというのかお前は。
 僕が素直に怖がったからだろう、そいつはぐっと小さな胸を張った。いや、そこが胸かどうかはいい加減僕には判別つかなかったが、きっとそうだったと思いたい。
「ふふん、どうよこの素敵アイディア」
 人間の肉体が少しずつ甘ったるいマシュマロに変換されていく様子を脳裏に思い浮かべ、かなり気持ち悪くなる。元々僕はあまり甘いものは好きでないのだ。そもそもそういう問題ではない気がするけれど。
「ちょっと面白かった。でもさ」
「何」
「躍動はしてないよな、それ」
「あっ」
 そう、僕が一番悩んでいるのはそこなのだ。マシュマロでネタを書くこと自体はそこまで難しくないと思っている。しかし問題は『躍動』というその一点だ。
 そいつのアイディアは僕向きではないが、もしも書くとすればきっと誰かが面白おかしく書いてくれるに違いない、いろんな意味で。
 ただ、問題は「生けるマシュマロ人間」を想像すると、あーうー唸りながら蠢く白い物体しか思いつかないことだ。どうにも『躍動』という言葉とは程遠い。
 そいつも僕と同じようなものを想像していたのだろうが、僕の横で飛び跳ねながら、何とか軌道修正を図ろうとする。
「じゃ、じゃあ、マシュマロ化した人間が他の人間をすごい運動神経で襲うとか! その名も『マシュマロハザード』!」
「もうそこまで行ったらマシュマロマンでよくないか?」
「ダメだよそれパクリじゃん!」
「お前の題名の方がパクリだろあからさまに!」
 この次は『マシュマロクエスト』とか『マシュマロファンタジー』とかに及びかねない。逆にそこまで行ってしまえばありきたりすぎて誰も気にしないかもしれないが。
 そいつは破裂するのではないかと思うくらい膨れて、僕にくるりと背を向けた。
「ああもうああ言えばこう言うー! もう知らないっ! 一人で考えて!」
「あ……」
 調子に乗りすぎたか、と僕が思った時にはそいつは机の上からぴょんと飛び降りて、キッチンの方にぴょこたんぴょこたん跳ねていく。手も足もないのに器用なものである。
 僕はそいつの真っ白な後姿を見つめながら、再び椅子の背もたれに体を預けた。
「お前のことが書ければ一番早いと思うんだけどな……」
 だけど、「マシュマロが動いて喋る程度のアイディアで天下獲れると思うなよ」って言われてしまっているし。
 だからといってそいつが動いて喋る以上のことができるわけでもないし。
 一応宇宙からの侵略者なら、不思議な能力があってもよさそうなものだが、どうやら話を聞く限りそうでもないらしい。
 結局のところ単にうるさいだけである同居人、マシュマロ型宇宙人の姿がキッチンに消えたのを見て、僕は盛大に溜息をついて呟いた。
「あー……もう原稿諦めっか」
 諦めも、肝心である。多分。

はじまりのおわり

「ふぅ」
 雨の降る、小さな公園で。
 傘も差さずに歩く男は大げさに気の抜けた溜息をついた。一歩一歩出す足はふらついていて、何とも頼りない。
「やっぱり、早まった、かなあ」
 身にまとった服は元々は仕立ての良い高そうなものだったが、それも今やぼろぼろになっている。腹の部分には穴が開き、そこから雨に混ざって赤いものが滴り落ちている。
 まさか、自分を撃つはずなどないと思っていたが、連中を必要以上に混乱させてしまったと見える。向こうも当てる気は無かったのだろうが、流れ弾が当たってしまったのだ。
 痛みはとうに過ぎ去った。その先にあるのは奇妙な寒さだ。雨が降っているといえ、気温はかなり高いはずなのに……
 自然、ぼやけてくる視界に男は苦笑する。普段から対外的に笑顔を作り続けてきたせいだろうか、こんな切迫した場所においても浮かぶ表情は笑みだった。笑顔ばかり浮かべているもので、他の表情を忘れてしまったのかもしれない。
 やっとのことでベンチにたどり着いた男は、どっかと座り込んだ。絶えず流れる赤いものがベンチを濡らすけれど、すぐに雨が洗い落としてくれるだろうと思って構うのを止めた。
「俺、死ぬのかなあ……」
 ざあざあと耳の奥に響くのは、雨の音か、それとも頭の中にかかるノイズか。
「死ぬなら、それはそれで、いいかな」
 誰に言うともない呟きだったけれど、別に冗談のつもりで言っているわけではない。生きているだけで、これだけ人に迷惑をかけ続けている。それならば、死んだ方がマシなのではないか?
 ――本当は、そんなつもりで出てきたわけでもないんだけど、なあ。
 思いなおして、男は空を見上げる。降り注ぐ雨が、冷えていく体に奇妙にも心地よい。一度座ってしまうと、もう一歩も動く気になれない。足はがくがくと震え、限界だと訴える。
 眠ってしまえばいい。そうすれば、全部終わりになる。
 思って目を閉じかけた時、男の視界が空色に染まり、降り続けている雨が止んだような気がして目を開ける。
 違う。
 誰かが、空色の傘を差しかけているのだ。
「大丈夫、ですか?」
 そんな声を聞いたような、気がしたけれど。
 そのまま男の意識は深い深い闇に落ちた。


「教祖様」
 男は言われて目を覚まし、自分がいつもと同じ玉座の上にいると気づいて嘆息した。
 前を見れば、常と変わらない灰色の服に身を包んだ集団が、自分に向かって頭を下げている。
 気持ち悪い。
「今日も我々に変わらぬお導きを」
 灰色の集団の先頭に立つ、その中でも酷く老いた男が言った。教祖と呼ばれた男はまだ若いというのに、まるで住む世界が違うのだと言わんばかりに床に頭をこすり付けている。
「ああ……」
 曖昧に答えて、男はもう一度大げさに息をつく。
 導くことなどできやしない。望まれてもいない。
 自分は、一つの事実を知っている、それだけだというのに――
 目の前に頭を下げる集団。この集団が、現在この世界を支配している。本人が望まぬまま男の名を勝手に掲げ、人々を導くのだと言いながら、振りまいているのが恐怖であることを男は知っていた。
 それでも、自分は玉座の上でふんぞり返っているだけだ。
 灰色の集団からは何も知らされず、ただ「お導きを」と頭を下げられる存在。
 自分は何も手を下すことはない。そこにいるだけで、存在自体に意味がある。
 お飾りの、教祖様。
 男は天井を仰いだ。豪華なシャンデリアがきらきらと光を投げかけている。
「……つまらないな」
「何か?」
 戸惑う灰色の集団にふっと笑った男は、急に玉座を蹴って立ち上がった。
「つまらない、って言ってるんだよ!」
 叫んでから、自分は何を言ったのだろう、と思った。自然と口から出てしまった言葉は、灰色の集団を混乱させるのに十分だった。にわかにざわめき始めた灰色の集団の中で、ずっと頭を下げていた老人が絶望にも似た表情で男にすがりつく。
「な、何をおっしゃる」
「わかんない奴らだな。俺は、教祖なんてうんざりだ! 未来を知ってるからって何だ!」
 自分でもわけがわからないまま、男はだだっ子のように叫んだ。
「こんな茶番、全部ぶち壊してやる!」


 ――とは言ったものの、このザマなんだよな。
 思ったところで、今まで見ていたものが夢だと気づいた。夢といえ、過去の情景がそのまま浮かび上がったものだったが。
 早まったのだろうな、と男は思う。突発的な激情に駆られて教祖の座を蹴って、それからどうしようなどとは考えなかった。ここに来て何年か経つが、いくら連中が彼に対して事実を隠していようとも、世界の状況はわかっている。
 男を教祖と仰ぐ灰色の集団が結成した『灰燼教』。それがこの世界の全てだ。未来は灰燼に帰すと定められ、世界の終末を防ぐために民衆を導く、という教団は、停滞期を迎えたこの世界に浸透した。教団の中枢を担うのは政治でも経済でもトップクラスの人間ばかり。
 それこそ世も末だな、と男は思う。
 もちろん、教団の教えを支えているのは自分自身だと、わかってはいるのだが。
「で、ここはどこだ……」
 男はぼんやりする目を瞬かせて呟いた。白い天井、白い壁。病院か何かだろうかと思ったが、それにしては不衛生で、あちこちに穴が開き、蜘蛛の巣が見て取れる。最低でも、自分が住んでいた場所ではない。
 あと、死後の世界でもなさそうだった。
「あ、目が覚めました?」
 声が降ってくる。男はそちらに体を向けようとしたが、腹を貫かれた痛みが蘇り、ベッドの上で体を曲げて情けない声をあげる。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫……多分、ね」
 本当に情けないな、と思いながら駆け寄ってきた声の主を見上げる。綺麗な青い目の少女だ。声から判断するに、ベンチに座っていた彼に傘を差しかけたのも彼女だったのだろう。少女は男の言葉を聞いて、少なからず安堵したようだった。
「よかった。手当てはしたんですけど、目が覚めないから心配してたんです」
 ふわり、と笑う少女を見て、男も自然と微笑んでいた。こんなに自然な気持ちで笑えたことなんて、ここ数年では一度もなかった気がする。
「えっと……ここはどこかな? それに、君は」
「すみません、申し遅れました。わたしはマグノリアって言います。それで、ここは」
「マグノリア、いるか!」
 ばん、と乱暴な音を立てて部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。マグノリアは微かに眉を顰めて叱責するような声色で言った。
「シード! ケガ人の前ですよ」
「悪い悪い、だがこっちもケガ人だ。教団の連中、この近くをうろつき始めやがった」
「では、ここも破棄ですか」
「ああ。だが今はケガ人の手当てが先だ。入り口のところに転がしてある、行ってくれ」
「わかりました!」
 ごめんなさい、お話の途中ですけど、と言い置いて、マグノリアはぱたぱた足音を立てて部屋を出て行った。男はただ、それを見送ることしかできなかった。部屋の中に残ったシードと呼ばれていた屈強な男も、マグノリアの背中をじっと見つめていた。
「……あの」
 やがて、マグノリアの姿も完全に見えなくなり、男は耐え切れなくなって口を開いた。シードの視線が彼を射るが、いかつい顔立ちに似合わず、妙に優しげな目をしていると思った。
「悪い、ちょいとごたついててな」
「いや、それはいいんですけど、教団って」
 戸惑いと共に放った男の言葉をどう受け取ったか、シードは苦笑する。
「ああ、兄ちゃんは民間人か。マグノリアの奴、あれほど民間人には関わるなって言っといたんだが」
 だが、それは男の問いへの答えにはなっていない。男は続けて聞いた。
「もしかして、教団と敵対してるんですか?」
 シードの苦笑が深まる。頭をかいて、言い放つ。
「まあ、そんなところだな。俺たちは、まあ言うなればレジスタンスってところだ」
「レジスタンス……」
「おう。教団に納得できねえ馬鹿な連中の集まりさ。俺も、さっきのマグノリアもな」
 言ったところで、マグノリアと他数人に連れられて、怪我を負った男たちが慌しく運び込まれてきた。男は思わず目を逸らしてしまう。別に、怪我を見るのが嫌だったわけではない。
 ただ、それが教団によってつけられた傷であることに、後ろめたさを覚えて。
「心配するな、兄ちゃん。兄ちゃんがどこで鉛玉もらっちまったのかは知らねえが、とにかく教団の連中に気づかれないように、家に帰してやるからな」
 シードはあくまで、男が何も知らない民間人だと思っているのだろう。好都合ではあるが、腹の痛み以上に胸が痛むのを抑えられない。
 抑えられないけれど、今はただ。
「あの、シードさん」
「あん?」
「俺、行くところがないんです」
 そう、言うことしかできなかった。
 シードは男が何を言い出したのかわからなかったのだろう、細い目を見開いて、二、三回瞬かせたが、すぐに深い同情を顔に浮かべた。
「……奴らに追われたのか?」
 教団は、彼らの教義に反する者、また彼らの導きに支障をきたす者を切り捨てていく。ある意味では理に叶った手法であるが、それによって道を失った者は数知れない。男の少ない説明を受けて、シードは彼をそんな一人だと思ったに違いない。
 シードが思っている事態とは全く違うが、追われている、というのは間違いではないので、男はこくりと頷いた。
「そうか。なら俺たちについてくるか? お前さん、戦いにゃ向かなそうだが、その他にもやらにゃならんことはいっぱいあるからな」
「いや、でも、俺は……」
 男は口ごもる。よく考えてみると自分の居場所を教団に嗅ぎ付けられれば、見ず知らずの助けてくれたマグノリアや、自分を気遣ってくれるシードに迷惑をかけるに違いない。
 シードは彼の頭をぽんぽんと叩いた。
「何、気にすんな。何なら怪我が治るまででもいい。その間に、行く場所を探しな。それじゃ、俺もちょいとマグノリアを手伝ってくっから」
 絶えず動き回るマグノリアの元に駆け出したシードを見送ってから、男はぎゅっと目を閉じる。
 ――自分はいつもこうだ。こんなことで、自分に何ができる?


 世界は、灰燼に包まれていた。
 全ては取り返せない終わりに向かって動いていた。
 最後に残った一握りのニンゲンは身を寄せ合い、一つの策を練った。
 自分たちの中の一人を過去の世界に送り、この絶望的な未来を書き換えるという策を。
 それは途方もない上に残った彼らにとっては救いとも言えない策だったが、終わりを迎える彼らは既に救いなど求めてはいなかった。ただ手をこまねいて滅び行く世界を見ているのが我慢ならなかった。
 こうして、残ったニンゲンの手によって時間を越える機械が作られた。しかしこれによって時間を越えられるのはたった一人。しかも、決して戻れない、一方通行の旅。
 選ばれたのが、残ったニンゲンの中でも一番若い男、リベルだった。
 リベルは終わる世界に背を向けて、過去に向けて旅立った。どこを書き換えれば歴史を変えられるのかなど、わからない。自分が過去に行っても、未来が変えられるのかすら、わからない。
 それでもリベルは振り返らなかった。
 終わる世界を、見たくなかったのかもしれない。
 過去に辿りついたリベルは、まず希望を抱いた。初めて見る人の波、人と人との争いが多く混沌とはしているが活気に満ち溢れた世界。これが自分の世界だったのか、と明るい気分になった。
 しかしすぐにそれは絶望に変わった。
 何しろ、自分の言葉を信じる人間が一人もいない。それはそうだ、時間を越える方法など、この時代には考えられてもいなかったから。
 誰もがリベルを笑い、リベルは途方に暮れた。自分には結局何もできないのだと腐れ、元いた時代には考えられなかった刹那的な快楽にも流されかけた。
 そこを救ったのが、一人の老人だった。
 灰色の服を身にまとった老人は、リベルの言葉を信じてくれた。それどころか、リベルが未来から来たこと、未来の現状を皆に伝え、未来を変えるために共に協力するとまで請け負ってくれた。
 リベルは素直に喜んだ。自分には重荷であった未来を救うという大役も、これで果たせると思った。もちろん、もう未来に帰ることはできないが、それはそれでよかった。自分はこの希望に満ち溢れた過去に生き、なおかつ未来も救えるのだ。
 最高ではないか、と。
 思っていたのは結局、ほんの一瞬のことだった。
 ――何もかも気づかないほどにバカだったら幸せだったのに。
 結論から言えば、あの老人に体よく利用されたのだ。未来からの意志を伝える存在として『灰燼教』の教祖に祭り上げられたリベルは、玉座から一歩も動かないまま、老人が世界に『リベルの意志』という名の歪んだ言葉を広めるのを見ているしかなかった。
 混沌としていた世界は、教団が説く未来の『意志』に基づいて秩序立ったが、反面闇も生んだ。教団に対する反感は、抵抗組織……レジスタンスという形で争いを続けている。
 リベルはそれを知っていて、何をするでもなかった。
 何も、できなかった。
 何も気づかないほどにバカではないが、何かを成せるほどに賢しくもない。
 今となっては、何故未来に残されたニンゲンは自分を選んだのだろうかと思う。別に未来を救うことなど期待してはいなかったのかもしれない。ただ、一番若いリベルが生き延びることを望んだのかもしれない。
 ――都合よすぎる解釈だよね。
 リベルは笑う。自嘲をこめて。
 そして何が変わったのかもわからないまま、時間だけが過ぎていく。
 リベルがレジスタンスに身を寄せてから、既に数日が過ぎていた。
 止まない雨が、降り続けていた。


 教団が攻めてきた。
 シードがそう言ったのは、ある雨の日の朝だった。リベルは思わず体を硬くした。だが、それはその場にいたレジスタンスの全員がそうだったので、リベルの反応を不自然に思った者はいなかった。
 リーダーのシードは、握り締めた拳を突き上げる。
「手前ら、覚悟を決めろ。決してこれは俺らに優位な戦いじゃねえ」
 世に数あるレジスタンスだが、シードが率いているこの組織は、多くの人数を擁してはいない。その上、半数以上は非戦闘要員だ。元々、教団に反感のある人間をシードが手当たり次第に集めて作ったというこの組織に、教団と真っ向から戦えるほどの力などない。
 ただ、ここには奇妙な連帯感と、温かい何かがあった。
 リベルは床に座ったまま膝を抱える。この数日の間、誰もリベルの素性を疑わず、仲間になるとも言っていないのにまるで数年来の友であるかのように扱った。
 何故そんなに優しくするのかと、一度は不思議に思ってリベルは聞いた。何しろ、灰に包まれた未来を発った時以来、教祖として玉座に座っていた時ですら、ここまで温かく触れられたことはなかったから。
 だが、聞かれた誰もが、何を言っているのだと笑った。
「理由なんてないよ、そうしたいからさ」
 ――理由なんてない、か……
 リベルは、仲間に向かって演説を続けるシードを見やった。シードは熱く、言葉を続けている。明らかに、負け戦だというのにも関わらず、言葉を聞いている全員が決して希望を失っていないことはわかった。
 きっとそれにも、『理由なんてない』のだ。
 リベルにはわからないが、何となく、背中を押されているような気がして息苦しい。
 そんなリベルの肩を、マグノリアが叩いた。
「傷、まだ痛みます?」
 多分、リベルの表情からそう思ったのだろう。リベルは慌てて首を横に振った。
「いや、そうじゃない、けど」
「そう……ごめんなさい、巻き込んでしまって」
 マグノリアはぺこりと頭を下げた。心底申し訳ないと思っているらしい。
「謝らないで。皆に甘えてずっとここにいた俺も俺だよ」
「ですが」
「あのさ、俺にも、何かできることってないかな」
 リベルはマグノリアの耳に顔を近づけて小声で問う。シードの演説で盛り上がっている中で、水を差したくはなかった。マグノリアはそれを聞いて、少しだけ安心したように微笑んだ。
「怪我した人の手当を、お手伝いしていただけますか?」
「オーケイ」
 言ってから、リベルは目を伏せる。
 そんなことで、自分の心の中にあるもやもやしたものがどうにかなるとは思わない。逆に胸が詰まるような思いを背負うだけ。


 あの時も、そうだった。
 手に持ったものは、子供の頃の思い出である小さな玩具だけ。
 心の中に抱いたものは、不安と、背中を後押しされているような不快感。
 時間を越えるための狭く小さな鉄の箱の中で、リベルは目を閉じた。
 闇に閉ざされた世界の中で、もう二度と聞くことのできない仲間たちの声を聞きながら。
 リベルはただ。
 怖くて、目を閉じていることしか、できなかった……


 ごうん、という音でリベルは思い出から引き戻された。
 窓の外を見れば、既にシードが先頭に立って灰色の軍服をまとった教団軍と戦っている。遠い未来から来たリベルから見ればお互い随分と原始的な武器を使っているが、それでも教団の持つ武器の方がよっぽど進んだものであるらしい。
「すみません、お願いします!」
「うん」
 マグノリアの切羽詰った声に、リベルも立ち上がる。運び込まれた男は、肩を酷くやられている。リベルはマグノリアに言われるまま動きながらも、どうしても窓の外の戦いに気を取られる。
「気になりますか?」
 マグノリアはそんなリベルをよく見ていた。リベルは素直に頷いた。
「何で、あの人たちは、戦えるんだろう」
 どうして、戦える。どうして、恐怖に打ち克てる。自然と震えてしまう体が恨めしい。震えながらも、窓の外を見ずにはいられない。
「怖くないのかな。俺には、わかんないよ」
「怖いですよ。わたしも、シードたちも」
 リベルは驚いてマグノリアを見るが、マグノリアはあくまで穏やかに、笑っていた。
「でも、戦わずにはいられないんです。皆、教団のやり方をおかしいって感じてて……だけど、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「きっと、動かずにはいられないんです。戦わずにはいられないんです。理由なんてないんだと思います」
 まただ。
 また、理由がないと、言う。
 理由もないのに命を投げ出すなんて、バカげている。そう思うのに、窓の外で戦っているシードたちを笑うことなどできない。彼らは本気で戦っている。理由などなくて、ただそこに存在しているのは……

「どうして俺なんだ! 俺は何もできない!」
「何でって?」
「バカなことを聞くんじゃないよ、リベル」
「俺たちが、そうしたかったからさ」

 ――『そうしたい』という、意志だ。

 リベルははっと顔を上げた。
 震えは容赦なく増していく。思い出すのは、未来を旅立つ時に見た、皆の笑顔。後悔などないと笑った仲間たちの言葉を今更思い出していた。
 何も、違わないじゃないか。
 未来も、過去も。
「……どうしました?」
 マグノリアは不思議そうな顔でリベルを見る。だが、リベルは気づかず窓の外を見つめ続けた。やっと、わかったような気がするのだ。自分を追い立てようとする気持ちの正体、ずっと存在した胸の中の圧力。
 ――さあ、行け。
 胸の中で何かが囁いた気がした。
 リベルはぱっと立ち上がって、マグノリアに言った。
「ごめん……俺、行ってくる!」
「え、ちょっと!」
 呼び止めるマグノリアを振り切って、リベルは駆け出した。壊れかけている階段を飛び降りようとして、足をくじいた。ずっと玉座にふんぞり返っていたせいで、体力も衰えている。
 だが、走るのを止めるわけにはいかない。
 理由などない。
 もう、理由など求めない。
 無謀だと冷静な部分が笑うけれど、今だけでも、背中を押す気持ちを信じる。
 リベルは戦場に駆け出した。廃墟となっている病院、拠点を守るようにして布陣を組んだレジスタンスは明らかに押されているが、戦意は失っていない。鼓舞するシードの声が響き渡る。
 体が震える。震える体は既に自分がここにいるべきではないと悟っている。だが、もう戻れない。戻れないのならば、進むだけ。
 力の入らない手で、ポケットの中に入っているものを引き抜く。それは、未来から旅立つ時に唯一持ってきた小さな玩具。自分が未来で過ごした日々を忘れないためのもの。
 エネルギーが一発分残っていることを確認して、空を見た。雨を降らせ続ける空を見上げて、無理やりに、笑う。
「止まれっ!」
 叫んで、空に向けて引き金を引く。
 玩具から放たれたのは、天に向かって伸びる太い光の帯。古い光線銃を改造した、殺傷能力などない正真正銘の玩具だ。だが、光線銃など存在しないこの時代、全員の手を止め、目をそちらに向けさせるのには十分。
「……な、何だ?」
 呟きをもらしたのは、灰色の軍人だった。リベルは硬い笑顔のまま、シードの横に駆け寄った。シードは驚きを浮かべてリベルを見ている。また、全員がリベルを凝視している。
 リベルはすうと息を吸ってから、言った。
「全員、武器を下ろせ。戦いは終わりだ」
「何を言う?」
 教団の軍人は、武器をリベルに向けるが、リベルが銃をちらつかせると、ぐっと呻いて下がった。
 そして、教団軍を率いているのであろう、ひときわ立派な軍服に身を包んだ男が、リベルの姿を観察した後に、ついにあっと声をあげた。
「まさか、リベル様!」
「なっ」
 教団軍の驚く声を受けてリベルは笑う。
「そうだ。俺がリベル・ラクーンテイル……お前たちの教祖だ。疑うっていうんだったら、こいつをもう一発撃つぞ」
「だ、だが何故、リベル様がこのような輩に」
「お前たちは上に踊らされてるんだ。お前たちのしていることは、未来を救うことなんかじゃない」
 本当に未来を救えるかどうかなど、今のリベルにはわからない。だが、ここで言葉を止めるわけにはいかない。
「俺はお前たちが導く未来なんて望まない。故に教団を去った! もう、お前らに正しさなんか求めない!」
 シードは呆気にとられてリベルを見ていたが、リベルはそんなシードににっと笑いかけて見せた。明らかに虚勢だが、それでも少しだけ気が晴れた。改めて教団軍に銃を向け直す。
「それでも未来を導くというなら、俺抜きで頼むよ。俺は、もうお前らの人形じゃないからな」
「そんな、教祖様……」
「去れ! 去って、上に伝えることだ。俺は逃げも隠れもしないってな!」
 初めはどうするか悩んでいた様子の教団軍だったが、反旗を翻したといえ相手は教祖だ。しかも自分たちが持ち得ない未来の武器を手にしているとなれば、下手に手出しもできない。しばしの睨み合いの末、教団軍は撤退を指示した。
 リベルとシードたちはじっと、その様子を見守っていた。だが、教団軍が完全に去ったのを見ると、リベルの足から力が抜け、その場にへたりこんでしまった。手からからんと銃が落ちるが、エネルギー切れの玩具である、もう未練などなかった。
 シードは何と言うだろうか。レジスタンスの連中が、何と言うだろうか。
 ずっと教祖だということを黙っていたのだ、この場で殺されても仕方ない。そう思ってぐっと目を閉じたリベルの背を、シードは強く叩いた。
「やるじゃねえか、教祖様!」
「……え?」
「今の啖呵、気持ちよかったぜ。腰抜けとばかり思ってたが、やる時にゃやるんじゃねえか」
 それを聞いて、その場の全員が笑う。リベルだけが事態を理解できずにきょろきょろと全員を見渡した。
「え、あ、その」
「お前が教祖だってのは、お前さんを拾ってから調べさせてもらってたんだよ」
「え、えええ?」
 甲高い声を上げるリベルを見て、再び場がどっと笑う。シードはにやにやと笑いながら座り込んだリベルを見下ろしていた。
「だが、お前さんに戻る意志がさらさらなさそうだったからな、様子を見させてもらったんだが……まさか、教団相手に啖呵切るとはなあ。ははっ、気に入った」
「そう、だったんだ」
 知らなかったのは自分だけということか。リベルも思わず笑ってしまった。しばし笑っていたシードだが、すぐに「むう」と唸って腕を組む。
「しかし厄介なことになったな。お前さんが教団を離反したと知られちゃ、混乱は避けられねえぞ」
「うん……そうなんだよね」
 リベルは曖昧に答えることしかできなかった。何だかんだで教団はリベルという『未来の意志』で保っているようなものだ。そのリベルが離反した今、教団は混乱し、今まで教団に反感を抱きながら動くに動けなかった人々も動き出すだろう。
 何も考えず動いた結果、この時代に混乱を呼んでしまったことを後悔しかけたリベルの背を、シードはもう一度強く叩いた。
「辛気臭い顔すんじゃねえ、お前の信じたところを貫いて何が悪い。俺たちはお前に協力させてもらうぜ、リベル!」
 見れば、シードはリベルに手を差し伸べていた。その手を握って立ち上がり、窓から身を乗り出したマグノリアに手を振り、空を見上げる。
 雨は止み、いつの間にか光が差し込んでいた。
 リベルは誰にともなく強く頷くと、度し難いお人よしの面々を見て笑った。
「オーケイ。それじゃあ、いっちょつまらない未来でも変えてみようか!」
 歓声が、雨上がりの街角に響き渡った。


 こうして、一つの始まりが、終わる。

黄昏鉄道

 カタン、カタン、カタン……
 心地よい揺れを感じながら、アイビスは窓の外を見た。広がるのは紅の雲、果てなき空を走る列車の中に彼女はいた。
 噂は本当だったのか。彼女は思う。
 夕焼け空を走る列車の噂は学園中に広まっていた。綺麗な夕焼けの日に現れる、目指す場所に連れて行ってくれる“黄昏鉄道”。空を走る列車を見たという噂があるだけで、本当に乗った人の話は聞いたことがなかったが。
 気づけば、裏山には真っ白な列車が停まっていて、その周りにはいち早く列車の到着に気づいた学園の生徒が群がっていた。遅れて駆けつけたアイビスも人に潰されそうになりながら、かろうじて滑り込んだのだ。
 が、アイビスは妙に複雑な気分だった。
 勢いで乗ったはいいけれど、自分はどこに行くのだろう。目指す場所に連れて行ってくれるというけれど、自分は何を目指しているのだろう。
 皆は、どこを目指しているのだろう。
 カタン、カタン、カタン……
「アイビス!」
 揺れる音以外に音が存在しなかった場に、明るい声が生まれる。アイビスがそちらを見ると、見慣れた二人組が立っていた。
「ベル、レイン」
「よかった、置いてかれたんじゃないかって心配してたんだよ?」
 明るい声の持ち主、ベルが笑う。ベルの後ろに立つレインもくすりと笑みをこぼした。
「席、一緒していいですか?」
「もちろん」
 アイビスも満面の笑顔で二人を迎えた。
 ベルとレインはアイビスの級友だ。ベルは陽気なしっかり者でクラスのリーダーを立派に務めている。対照的にレインは物静かだが、心優しく誰にでも愛される少女である。
 近寄りがたいと評されるアイビスの数少ない友達で、アイビスにとって大切な居場所でもある。その二人が一緒だと知り、アイビスの心も心なし軽くなった。
「よかった、一緒だったんだ」
「あったり前。レインがもたもたしてるから、こっちも危なかったんだけどね」
「ごめんなさい……あんまり人が多いから、びっくりしちゃって」
「私もびっくりした。学園祭でもあんな狭い中で押し合ったりはしないよ」
「あはっ、言えてる」
 三人は額を突き合わせて小声で笑った。何しろ、話をしているのはこの場で三人だけ、車内には他の生徒の姿もあるが、誰もが窓の外に広がる黄昏に目を奪われて言葉もない。
 自然と三人も言葉少なに窓の外を見つめていた。広い空以外に何もないように見えるけれど、よく見れば空のグラデーションや眼下に広がる雲の形は刻々と変化している。
 レインがうっとりと溜息を漏らす。空を走る列車なんて、彼女にとって、いや、誰にとっても物語の世界でしかなかったのだから。アイビスも思わず呟いていた。
「夢、みたいだね」
「だけど、夢じゃない」
 声につられて見れば、ベルは遥か彼方を見つめていた。いつもきらきら輝いている瞳を、夕日にいっそう輝かせて。
 きっと、ベルには見えているのだ。黄昏鉄道の終着駅、自分が目指した場所が。そんなベルを見ていると、こんなもやもやした心のまま列車に乗り込んだ自分が恥ずかしくなってアイビスは体を縮める。
「あのさ……ベル、私」
「実はね、あたしも怖かったの」
「え?」
「一人だったら嫌だよ。でも、レインとアイビスがいてくれるなら怖くない」
 ベルは華やかに笑う。大輪の花のように。
「私たちだったら、どこまでも行けるよ!」
 ベルに言われると、本当にそんな気分になってくるから不思議だ。上手く乗せられて、ベルに振り回されたことも、一度や二度ではないはずなのに。
 多分、厄介事に乗せられても最後には三人で何とかするからだろうな、とアイビスは考える。ベルの行動力とレインの思慮。無愛想で不器用な自分が役に立っているのかは知らないが、二人と一緒なら何でもできる気がした。
「……そう、だね」
 だからベルの言葉一つで、安心できる。
「あとどのくらいで駅に着くのかな?」
「いえ……ベルはわかりますか?」
「うーん、夜に着くって話だけど、なかなか日が沈まないからね」
 ベルの言うとおりだ。発車してから結構時間が経ったように感じるのだが、夕日は依然西の空に浮かび続けている。珍しく、レインが真っ先に立ち上がって言った。
「あの、展望車に行きませんか? もっと綺麗に夕焼けが見えると思います」
「あァ……いいね。行こっか」
 アイビスも立ち上がり、ベルが続いた。
 展望車はいくつかの車両を越えた先にあった。高くなっている車両の壁は全面ガラス張りで、広がる紅の空が一望できた。
「わあ」
 レインの歓声が響く。アイビスも、言葉を失って立ち尽くしていた。限りない赤い空に、桃色の雲の海。これほどまで美しい空を、今まで見たことがあっただろうか?
「ねえレイン、あれが宵の明星?」
 ベルが夕日に寄り添って輝く星を指差し、レインは笑顔で頷く。しかし、アイビスは二人とは別のところを見ていた。星を指差すベルの手に、全ての意識が吸い寄せられる。
「あのさ、ベル。その手の模様は何?」
 言葉は、考える前に口から出ていた。ベルはアイビスが何を言い出したのかわからなかったのか、猫のような目を丸くする。レインの方が先にアイビスの言葉の意味に気づいて、おずおずと自分の手の甲を見せた。
「列車に乗るときにスタンプを押してもらいましたよね? 乗車券の代わりです」
 一対の羽の文様と知らない文字が、夕焼け色のインクで押されている。アイビスは首をかしげて両手の甲を二人に見せた。
「いや、私の手にはないよ」
 もしかすると、乗り込むときにあまりの人数が押し合いへし合いしていたものだから、車掌も見逃してしまったのだろうか?
 思いながらベルに視線を向けて、アイビスは息を飲んだ。ベルが突然、表情を失ったからだ。
 しかし、それは一瞬のことだった。もしくはアイビスの見間違いだったのかもしれない。ベルは普段と何ら変わらぬ笑顔で、レインと同じ羽のスタンプを押された手を伸ばす。
「なら、今から車掌さんに言いに行こう。スタンプがないと大変だよ」
「そうなの? それじゃあ仕方ないか」
 面倒くさいけれど、仕方ない。アイビスは案内してもらおうとベルの手を取ったのだが。
 ――ひやり。
「……っ!」
 次の瞬間、アイビスはベルの手を振りほどいていた。ベルは驚いた顔で「どうしたの?」と聞いてきたけれど、なぜだろうか、今はその声もやけに白々しく聞こえる。
「ベル……何が」
「大丈夫。私とレインがついてるんだよ」
 ベルはいつもの、ヒマワリの笑顔でアイビスの手首を掴もうとする。
 体温の感じられない、氷のような手で。
 違う、何かが変だ。
 思い出せない。どうして、自分はここにいる。どうやってこの列車に乗った。
 いや……そもそも“黄昏鉄道って何だ”?
「ダメですっ!」
 高い音を立ててアイビスの手首に触れようとしたベルの手が弾かれる。何が起こったのかわからなかったが、すぐにレインがベルの手を叩いたのだと気づいた。
 レインはいつになく険しい表情でアイビスに目を移す。アイビスはわけがわからないままレインに手を引かれた。
「行きましょう!」
「どこへ……うわっ!」
 予想以上に強い力で腕を引かれ、アイビスはつんのめるように走り出す。レインが向かう先は、展望車の外。そして、アイビスの手を引くレインの手もまた、冷たかった。
 カタン、カタン、カタ、カタ……
 心地よかった揺れが、微かに強くなった気がした。レインはアイビスを展望車から出すと、ベルが追いすがってくる前にドアを勢いよく閉めた。ドアの向こうでベルが叫ぶ。
「レイン! 何でっ!」
 レインはベルの声を振り切るようにアイビスの手を引いて連結部を飛び越え、後ろの車両へと走り出す。
 アイビスは走りながらも、吐き気を伴う不快感に囚われていた。今まで考えたこと、見たこと、感じたこと、全てがよくできたツクリモノ、ニセモノだったかのような感覚。
 終わらない夕焼け空。空の上を走る列車。切符代わりの赤いスタンプ。冷たい体の友達。
 終着駅は「目指した場所」。
 夢ではないはずなのに、何もかもがふわふわ浮ついているようで落ち着かない。
「レイン……何、この列車は、私は!」
 たまらずに声をあげたアイビスの手を、振り向かないままレインは強く握り返した。食い込むほどに握った手はひどく冷たいけれど、アイビスがよく知るレインのものだ。
「もしかしたら、アイビスなら、間に合うかもしれないのですっ!」
「何それ? それに、ベルは」
 ベルは、一緒に行こうと言っていた。一度はあまりの手の冷たさに驚いて手を離してしまったけれど、どうしてベルから逃げるのだろう。悪いことをしている気分だ。ベルはスタンプを忘れたアイビスのことを心配してくれた。一緒に車掌に会いに行く、それだけだ。
 もうドアに遮られて見えないとわかっていても、ベルの姿を求めて振り向き、アイビスは目を見開いた。
 先ほどまで自分たちがいた真っ白な展望車の車両が、赤く燃えている。喩えでなく、炎を上げて、ゴウゴウと音を立てて燃えている。不思議と熱は感じなかったが、あの中にまだベルがいるのだと気づいて足を止める。
「止まって! ベルが、ベルが中に!」
「止まらないで!」
 決して足を止めないレインの高い声が響いた。会話は噛み合わないし、「止まらないで」と言われても、ベルはまだ燃え盛る炎の中なのだ。両足で踏ん張ってレインを引きとめようとした、その時だった。
 ――アイビス。
 速さを増していく列車の音にまぎれた、小さな声。ベルが、アイビスの名を呼んでいる。なおも走ろうとするレインの手を払ったアイビスは、声の限りに叫んだ。
「ベル、私はここだよ!」
 途端、音を立てて閉じていたドアが弾け飛んだ。車両の中から爆発的に広がった炎がアイビスの体を舐めるが、やはり熱は感じなかった。
 自然、胸の鼓動が高まる。冷たい汗が背中を流れて落ちる。まさか、手遅れだったのだろうか。三人ならどこまでも行ける、と言っていたあのベルは、どこに。
 その時、か細い声が聞こえた。思わずアイビスは燃える車両に駆け寄ろうとしたが、レインが後ろから抱きついて留める。これ以上邪魔するのなら、相手がレインでも力づくで振り払おうとアイビスが心に決めた時。
 炎から腕が伸びる。焼け爛れた、腕が。
「言ったよね……三人なら、どこまでも行けるって」
 一歩、また一歩、人間の形をしたモノが、炎を纏って歩み出る。学園の制服は既に燃え尽き、ほとんど姿の判別もつかないモノが、いやに明るいベルの声で言う。
「三人なら、寂しくないよ……アイビスも、一緒に、行こう」
 アイビスはヒュッと息を吸う。確かに焼けた人の形をしたモノには恐怖している。だが、それ以上に恐ろしかったのは、全てが焼け落ちているにも関わらず、手の甲に押された赤い羽の印だけが淡い光を放っていたこと。
 そして、展望車の中から現れたのはベルだったモノだけではなかった。同じように焼け爛れたモノが、何人も、何人もアイビスに向かって手を伸ばす。それぞれの手には、やはり赤い羽の印が刻まれていて……
「振り向かないで、走って!」
 レインの声は耳元で聞こえた。すでにベルの焼けた指先が目の前に迫っていたが、はっと我に返って背を向ける。
「あいびす……あいびす……」
 ベルの切ない声が響くも、アイビスは決して振り返らなかった。後部車両に向かうレインの背を追って、全力で走りだす。
 カタ、カタ、カタ、カタカタカタ……
 激しい揺れの中、二人は飛ぶように走る。一つの車両を抜けて連結部分を越えるたびに、背後で爆発音が聞こえてくる。
 レインは無言でアイビスの手を引き続ける。アイビスは恐怖に震えているのに、普段はベルやアイビスの背を追うばかりのレインが、今はぴんと背筋を伸ばして走っている。
 走って、走って、ひたすらに走り続けて、突然視界が開けた。
 車両と車両との連結部分、しかしその先はなかった。転落防止の柵の向こうに広がるのは、終わらない赤の空。
「……ここまで来れば、しばらくは大丈夫です」
 柵によりかかり、レインは息をついた。元々体がそれほど強くないはずのレインだが、肩を上下させるアイビスに対して、ほとんど息が切れていない。
 だが、もうアイビスにもわかっていた。この“黄昏鉄道”が何であり、どこを目指して終わらない夕焼けの空を走るのか。
 夕焼けの向こうは夜。人間は皆、同じ場所を目指す。永遠の夜、終わりの世界を。
「レイン」
 息を整えながら、アイビスは改めてレインを見る。白い肌のレインの顔は、夕日に赤く染め上げられて、綺麗だった。窓から夕日を見ていたベルもまた美しかったと思いだす。
 しかし、夕焼けの空が美しいのは、きっとその後の闇を思うから。
 アイビスは思い切って言葉を吐き出す。
「私たちは、死んだんだね」
 レインの答えは寂しげな笑みだった。
 やっと思い出したのだ。学園祭の日に生まれた小さな火。それはすぐに学園中に広がって、アイビスたちが逃げる間もなく建物は炎に包まれた。
 裏山に現れる黄昏鉄道の噂は、死を認めないアイビスが頭の中で作り上げたウソに過ぎない。列車の中で感じていた不快感は、それがニセモノだと気づいてしまったから。
 レインは制服のスカートを翻し、アイビスに背を向ける。
「約束、覚えてます? 学園祭の後には」
「シュートーカのケーキを食べに行くんだったね。私が食べたことないって言ったから」
「ベルも私も、楽しみにしてたんですよ」
「こんなことになっちゃったけどね」
 アイビスは苦笑する。先ほどまで感じていた恐怖は、既に綺麗に消え去っていた。焼け爛れた体のベルを見て恐怖した自分が恥ずかしい。きっと、自分もレインも本当は同じように炎の中で死んでいるのだろうから。
 レインは、しばらく夕焼けを見つめていたけれど、やがてアイビスを見た。その目は、悲しみと強い力を感じさせる目だった。
「アイビスは、まだ、帰れます」
「何で?」
 アイビスは聞き間違いかと思ったが、聞き間違いでない証拠にレインはアイビスの目の前に手の甲……一対の羽の印をかざす。黄昏鉄道の乗車券。天国への入場券。アイビスの手にはない、印。
「アイビスは、この列車の乗車券を持っていませんよね? 多分、アイビスはまだ呼ばれていないんです。今ならきっと間に合います。生きて、帰れます!」
 アイビスは「だけど」と口の中で呟いて立ち尽くす。三人ならどこへだって行ける、それこそ天国にだって。ただ、何のとりえもない自分だけ帰って、何ができる?
「私は」
 言いかけたところで、爆発音が響いた。自分たちの乗っている車両も爆発を始めたのだ。遠ざかっていたアイビスを呼ぶ声も近づいてくる。ベルが、呼んでいる。一度は閉じたドアを開いて、レインが笑いかけた。
「私が食い止めます。その間に、降りてください」
 降りる……この列車を? 降りる場所なんてどこにもないし、自分が降りるよりも、まずアイビスが考えたのはレインとベルのことだった。だがアイビスがレインに向かって口を開く前に、レインは車両の中に駆け込みドアを閉じてしまった。
 慌ててアイビスはドアを強く叩く。ドアノブを握るも、内側から鍵をかけてしまったのだろう、押しても引いても開かない。
「レイン! あんたも一緒に……」
 不可能だ。レインには、すでに天国行きの印が刻まれている。行き先は定まっている。それでもアイビスは認めない。すぐそばにいるレインと一緒にいられないことが、認められなくて。がらにもなく涙をこぼして叫ぶ。
「レイン!」
「私だって、三人で行きたいです!」
 ドアの向こうから聞こえた声もまた、湿っていた。
「でも、アイビスだけで行ってください。だって」
 姿が見えなくても、レインが泣きながら笑っているのだとわかる。
「ケーキが食べたいと言ったのは、アイビスです」
 ドアから炎が漏れ出してくる。ドアを叩くのを止めたアイビスに、レインが声をかける。
「私たちの分まで、味わってくださいね」
 いつものレインらしい言葉だった。アイビスは内部の爆発の音を聞きながら、目に溜まった涙を無理やりにぬぐった。
「そんなに食べられないよ」
 冗談交じりに呟いて、燃える車両に背を向ける。時間はもう残されていない。もしこのドアが破られれば、ベルやレインと共に終着駅を目指すことになる。
 それも、一つの選択だが。
 目を閉じて、深く息を吸って。
「……行こう」
 強く柵を掴み、アイビスは笑う。
 燃える雲の海が、眼下に広がっている。
 アイビスが、これから目指すべき場所。
 それは、黄昏鉄道の終着駅なんかじゃない。
 両足に力をこめて、手を離し――
「行くんだっ!」


 アイビスは、飛んだ。

 終わらない夕焼けの空に向かって。

サイレンの魔女

 ロンドンは今日も霧深い。

 ロンドン橋の上から見下ろすテムズ川も重たい霧に包まれ、眼下の川面がぎりぎり見えるか見えないか、その先は完全に白の面色に支配されている。
 そんな霧の中に二人の人間が立っていた。
 数分の間沈黙だけがその場を支配していたが、唐突にコートを羽織った男が口を開いた。
「謎かけをしよう」
「また探偵様の気まぐれが始まったな」
 探偵の横に立っていた作家はあからさまに眉を顰めた。コートの探偵が構わず言葉を続けようとするのを慌てて遮って、作家は言った。
「おいおい、謎を解くのがベイカー街の名探偵の仕事だろう。私の仕事ではない」
「私は己自身の内から湧き出てくる探究心に忠実であり、それ故にこの仕事をしているだけだ。今は、君がこの謎にどのような答えを出すか、ということが一番知りたいことだな」
 ―なんてわがままな。
 作家は舌打ちするも、その思いは男には届くまい。この男が冷静にして沈着、優れた判断力を持つ天才だということは彼を知る者全員が理解するところだが、とてつもなくわがままな男であることも周知の事実だ。
 この男に普段から振り回されている友人の人のよさを考えると同情の念も湧きそうなものだが、近頃作家は探偵の友人である例の医師に、どうも被虐欲の気があるのではないかと疑っている。
「……君、全く関係のないことを考えているな」
 ともあれ名探偵は作家の目が泳いでいることを見逃さなかった。作家は慌てて意識を探偵に戻して言った。
「あぁ悪い。で、謎とはどういうものだ」
「既に君も知っているとは思うが、三日前、ある女がこの橋から川に飛び込んだ」
「歌姫か」
 そのくらいは作家も知っている。ロンドン中でも今一番のニュースだ。
 三日前、とある名高い貴族の寵愛を受けていた歌姫が逃げ出した。それ以前までに歌姫に異変は見られず、あまりに突然の出来事だった。逃げ回った末に辿り着いたのがこの橋の上であり、そのまま歌姫は迷わず川に飛び込んだのだ。
「三日経ったが、彼女の死体は発見されていない」
「ほう」
「また、その時舟が通ったという記録もなく、おそらく助かってはいないはずだ」
「死体が浮き上がってこない要素というのはいくつかあるがな」
「その通りだ。私も、その歌姫が死んだことを疑う気はない。ただ」
 探偵は猛禽を思わせる目を川に向けて、言った。ちょうど、舟が橋の下を通るところだった。水面に飛沫がはね、霧の中に何とも不気味な音を響かせる。
「飛び込む前に、彼女は追ってきた主に向かって言ったそうだよ」

『さようなら愛する人、私は私の場所に帰ります』

「……なるほど、それが『謎』か」
 今まで仏頂面を守ってきた作家の表情が微かに歪んだ。笑顔と思えば笑顔のように見えたかもしれない、そんな奇妙な表情だった。
「その通り。私はこの事件に興味などないが、君がこの彼女の言葉にどう理屈をつけるのか気になってね」
「それほど暇なのか? 探偵様は私の話がお嫌いではなかったか」
「非現実に過ぎるからな。だが、時には君の物語が恋しくなる時もある」
「貴方らしからぬ言葉だ」
 ―冷徹すぎるほどに冷徹に、「現実」を見つめている探偵様には。
 そう思った言葉は口には出さなかった。己でも賢明だと思う。だが、それを言ってしまったら、非現実の物語を己の筆に託して書き続ける作家と、「現実」を求める名探偵は永遠に交わらなかったことになる。
 人と人との縁というのは、わからないものだ。
 作家は思いながら、探偵と同じように、眼下を流れる川を見る。
 探偵の謎に、何かしらの答えをつけなければならない。それは、別に真実である必要はない……ただ、作家が思うままの答えを、探偵は求めていた。
 しばし、二人は無言だった。川の流れる音だけが、霧の中から響いていた。
 どのくらいの時間が経っただろうか、明かりを映してゆらゆら揺れる川面を見つめていた作家が言った。
「歌姫は、サイレンだったのだ」
「サイレン?」
「セイレン、シーレーン、シレーヌ、ジレーネ……ギリシア神話における海神の娘だ。元々は妖鳥だが、近頃は水妖故に人魚やニンフとも同一視されるようだな。どれにせよ女の姿をして、船に乗る人間を惑わせる」
 探偵は微かに首を傾げたようだった。作家の言っていることがまだ掴めていないのかもしれない。作家は構わず言葉を続ける。
「そう、サイレンは歌で人の心を操る。貴族様が心を奪われたように」
「つまり、歌姫は人間ではなかったと?」
「人間に憧れはしたのだろうがな。そうでなければ、海を離れる必要もない。不自由極まりない人間という存在になる必要もない」
 本来サイレンには、空を自由に舞う羽も、海を自由に泳ぐ尾もあるのだから。
「アンデルセンの描く人魚姫の世界だ。泣かせる話じゃないか」
 探偵はアンデルセンの童話には興味がなかったと見え、不可解そうな表情を浮かべていたが、やがて大げさに息をついた。
「それが君の答えか」
「自分で聞いておいて、不満そうだな、探偵様」
「あまりに非現実に過ぎる。興が冷めたよ」
 言って、探偵は作家に背を向ける。作家も大げさな溜息を返して、苦笑いする。
「それを求めて聞いたのだろう」
「それはそうだが……あぁ、まだ一つ、答えを聞いていない」
 声の響きからすると、探偵は作家の方に振り向いたようだった。作家はすぐに探偵が言いたいことを察した。確かに作家は探偵の問いに一つだけ答えていない。
「彼女が川に飛び込む直前の言葉をどう考える?」
 目の通らない霧に何かを見出すように、作家は虚空に目を彷徨わせる。
「さあ、それは歌姫にしかわからないが」
 作家はくくっと笑って、偉大なる探偵を振り返ることもなく、言った。
「きっと……突然、故郷の海が、恋しくなったのだろう」
「そういうものか」
「そういうものだ」
 霧に包まれた澱んだ川も、光溢れる海原に繋がっている。作家は言葉にこそしなかったが、広い海に生まれたサイレンにとって、晴れない霧に包まれたロンドンという町は息苦しすぎたに違いない。
 愛している者に永遠の別れを告げてでも、生まれた場所に帰りたくなった……愛する者に殉ずることを選んだ人魚姫とは異なる結末だが、そういうこともあるのだろうと作家は思う。
「君の言うことは、どうにもよくわからないな」
「わからなくて結構。私が貴方を理解できないのと同じだ」
「なるほど。それは一理ある」
 初めて作家の言葉を認めた探偵は満足げに帽子を被りなおすと、別れの挨拶もせずその場から立ち去ろうとする。作家も何も言わず川をじっと見つめていたが、つと視線を探偵が去り行く方に向けて呼びかけた。
「探偵様」
 既に探偵の姿は重たい霧に隠されて見えなかったけれど。
「そろそろ貴方も物語に戻ったらどうだ」
「大きなお世話だ」
 架空の探偵の返事は霧の中から聞こえた。作家はもう一度くくっと笑うと、一人きりでテムズの川面を見つめる。
 霧の奥、川の下流から聞こえてくるサイレンの歌に耳を傾けながら。

 ロンドンは今日も霧深い。

架羅の空

「架羅はいいね。空が飛べて」
「そうか?」
 空を飛べることが良い、とは思わない。
 私は羽を持ち、風を操り、空を飛ぶ。そういうものなのだから、良いも悪いもない。人間が、私の見たことあるどの動物よりもしっかりと二本の足で立ち、器用な指先を持っているのと変わらないはずだ。
 それにも関わらず、あの女は笑ってのたまった。
「羨ましい。あたしみたいな人間にできることは」
 青い、青い空に手を伸ばして、浮かぶ雲を掴もうとするように、指を広げる。
「馬鹿みたいに手を伸ばすことだけ、さ」


 りぃん。
 高い鈴の音がまどろみを破って響き、私は夢から引き揚げられる。
 どうも風が鳴らしているわけではないようだ。嗅ぎ慣れた風の匂いに混ざって、人間の匂いが鼻につく。
 ――誰か来たのか。
 立ち上がり、先刻まで寝床にしていた枝を蹴る。揺れる枝に括りつけられた銀の鈴を鳴らして。
 勢いをつけて、私は一気に寝床の上まで駆け上がる。背中に絡みついていた風はすぐに羽を持ち上げる力に変わり、体がふわりと持ち上がる。枝の鈴を鳴らしながら天辺にたどり着けば、朝日を東の空に浮かべる青い空と、見渡す限りの緑の白鈴山が広がっている。
「ふむ」
 今日もいい天気だ。風の機嫌も悪くない。私は片足だけで木の天辺に立ち、大きく伸びをする。もちろん一緒に自慢の羽を広げることも忘れない。
 自慢?
 不思議なものだ。あって当たり前のそれを自慢と思うなど、今まで考えたこともなかったではないか。人間の戯言を真に受けてしまったのだろうか……私らしくもない。
 頭を軽く振って鈴の音に耳を傾ければ、段々と近づいてくる鈴の音が、人間の匂いを濃く滲ませ始めた。此処を何処だと心得ているのだろうか、あの女といいこの人間といい、近頃の人間は分不相応という言葉を知らないと見える。
 目を凝らすと、遠くの木々に隠された姿が見て取れた。痩躯の若い男が一人。村の人間ではないようだ。もし村の人間ならば、私の山に供物も持たず踏み入るわけがない。
 確かにあの女も、供物など持ってはいなかったが。
「少し、からかってやるか」
 あの女を思い出すたびに胸に引っかかる忌々しいものを振り切り、羽を大きく羽ばたかせ、何もかもを吹き飛ばすように、高らかに笑う。人間の耳には轟々と聞こえる私の声を聞いた男は、体を強張らせ見当違いの方に目を向けた。
「……何だ」
 離れていても、山の中にいる限り声は私の耳に届く。戸惑いの声を乗せた風が、私の耳をくすぐった。私は可笑しくなってにぃと笑みを浮かべ、なお轟々と笑う。声に応えるようにして、木々も揺れて枝の鈴を鳴らす。
 別に何をしようという心算もない。人間は好かぬが、嫌うわけでもない。だが、白鈴山は人間を受け入れるには少々荒々しい、それを思い知らせてやるのが山の主である私の務めである。
「風、いや」
 轟々、と渦巻く声に、男は空を見上げた。
「天狗、か」
 私はぴたりと笑いを止める。
 急に静けさに包まれた木々の間で、痩躯の男は立ち尽くす。人間の不自由極まりない目では、最も山深い場所にいる私の姿など、豆粒ほども見えないに違いない。それでもなお、目を凝らして私の姿を探しているように見えた。
 背筋を伸ばし、虚空を見やるその姿は、あの女の立ち姿によく似ている。
 届かない天を仰いで目を輝かせた、あの女に。
 しばし息をするのも忘れて私の姿を探していた男は、すうと深く息を吸い込んで声をあげた。細い体の何処からそれほどの力が出るのか不思議なほどの大声で。
「天狗よ、白鈴山の天狗よ!」
 村の衆であれば私の怒りを恐れ、大声で呼ばわることなどせぬ。もしこの場に村の衆がいたならば、男の口を塞いで引き倒していただろう。
 だが私は、心地よい口上だと感心する。
「俺の声を聞いているなら応えろ、主に問うべきことがある!」
 山の主を微塵も恐れぬ物言い。
 ――気に入った。
 私は髪結い紐の鈴を鳴らして、枝を蹴った。枝にたわわになった鈴がひときわ大きくりんと鳴った。


 そう……あの女もまた、私のことを恐れはしなかった。
「どうしてこの山の木には、こんなに鈴が括りつけてあるんだい?」
 目の前にぶら下がった枝の鈴を揺らして、私に聞いたものだった。
 いつこの山が白鈴山と呼ばれるようになったかは私も知らない。私が山の主になった時には、この山は既に白鈴山だった。無数の鈴に飾られた木々が包む、私の山だ。
「村の人間が、天狗を恐れるからだ」
 私はにぃと笑って言う。私の笑みを見れば、村の衆は山の奥の奥に連れ去られると恐れるものだが、あの女だけは違った。私と共に笑う、ただ一人の人間だ。
「へえ、どうしてそれで鈴なんだい?」
「私が飛べば風が吹く。私が笑えば風が吹く。私は風を連れているから、木々が揺れて鈴が鳴るだろう。それで、村の衆は私が近づいていると気づいて逃げるのだ」
 嵐で山全体の鈴が鳴り響く日は、天狗が怒っていると。
 鈴が鳴らない凪いだ日は、天狗が眠っていると。
 時にはわざと鈴を鳴らし山に入ってきた村の衆を脅かすこともあった。あの時の怯えようは思い出すだけで笑いが込み上げる。あの女も私の話を聞いて、腹を抱えて笑った。
「それなら、木じゃなくてお前の体に鈴をつけたらいいじゃないか」
 それは無理な相談だ。私を恐れる村の衆が、私に近づけるはずもない。
 だが、あの女に関してだけ言えば話は別だった。
「つけるとしたら、何処がいいだろう」
「そんなに綺麗な髪なんだ、紐を貸しておくれよ、髪を結う紐に鈴をつければいい」
 あれは本当に器用な娘だった。すぐに小さな銀の鈴を両端につけた蘇芳の紐を作り、髪を結った。頭の上で、馬の尾のように結われた髪。あの女はそれを見て満足そうに笑った。
「ほら、似合うじゃないか」


 小さな鈴を鳴らして山の奥から裸足で歩いてきた私を見て、男は目を丸くした。
「……女子?」
「女子とは随分な物言いだな」
 男の前に歩み寄った私はにぃと笑い、手に握った扇を一振り。刹那、突風が豪、と音を立てて駆け抜ける。木々に括り付けられた鈴が木の葉のざわめきと共に高い音を立てて揺れた。
 この風をまさか偶然とも思うまい。天狗の扇は山の風を操る、そのくらいは山の人間でない男もわかっているようだった。
「お前が、この山の天狗なのか」
 応、と答える代わりに笑みを深める。それで十分だ。
 天狗とはいえ、私の姿かたちは人間とさほど違いはない。羽と爪さえ隠してしまえば、ただの女子と大して変わらぬ。もちろんそれは見た目だけの話だ。この山と生きてきた年月は、村でもっとも年を重ねた翁よりもはるかに長い。
「ほぅ、山の主が女子の姿をしていてはおかしいか?」
 私は手にした扇をくるりと回す。そよ風が結い紐の鈴を鳴らす。
「私は白鈴山の天狗、架羅だ。人間、名は何ぞ」
 男はまじまじと私を見つめていたが、やがて深く頭を下げて言った。
「俺は葛葉風次郎と申す」
「ほぅ、葛葉……」
 葛葉といえば、白鈴山を含めた此処一帯を治める人間の一族ではないか。なるほど、体躯や年齢に似合わぬ堂々たる振る舞いは出自から来るものだったか。また、村の衆が何も私に断らずこの者を山に入れたのもこれで理解できた。
「して、葛葉の若造が何の用だ。人間を拒むこの山に踏み入るとなれば、それなりの覚悟あってのことだろうな?」
 風次郎は、私の問いにぐと息を飲んだ。
 言えぬなら、立ち去ってもらわねばならぬ。私はともかく、それでは山が納得せぬ。私は山の主だが、山そのものではない。この男を認めるかどうかは私ではなく山が決める。
 言葉には出さなかったが、風次郎も私が言わんとしていることは承知しているのだろう。風に舞う一枚の葉を目で追いながら、口を開いた。
「御前の山に許しもなく踏み入ったことは謝る。だが、無礼を承知で聞かせて欲しい」
「ほぅ、聞こうか」
「此処に、春菜という娘が来なかったか」
 今度は、私が言葉を失う番だった。
 春菜。
 忘れもしない。
 それが、あの女の名だった。


「春菜、そんな荷物で何処に行く」
「ああ、架羅。やっと出来たんだよ!」
「何がだ?」
 木の上の私を見上げて、春菜は無邪気に笑う。男物の作務衣を纏う春菜は、ある時から私の棲家である社に住み着いていた。初めは山も無礼な春菜に怒っていたが、やがて諦めたのだろう、この頃には既に常と変わらぬ静けさを取り戻していた。
 そして山の主である私は、物怖じという言葉を知らぬ春菜を嫌うわけがなかった。
 その日は風が静かに流れる日で、山の鈴も小さな音をせせらぎの音に似せて響かせていたと思い出す。社から大きな荷物を背負って出てきた春菜は、首を傾げる私に心底愉快そうに笑いかけた。
「丘の上まで来てくれればわかるさ」
「ほぅ、随分と焦らすのだな」
 私も、そう言って笑い返したものだった。


「知っているのか」
 風次郎は言う。敢えて黙っている理由も無い。私は首を縦に振った。途端、風次郎は私の肩をがっしと掴んだ。肩に痛みは感じないが、鬼気迫る風次郎の目には、こちらが気圧されるだけの力が篭められている。
「やはり、春菜を知っているのか! 教えてくれ、あれは今何処に……」
 故に。
 私は喉に絡まる言葉を吐き出すのに、しばしの時を要した。
 木々を渡る風に、鳴り響く鈴のざわめきに紛れてしまえばよいのに、と思いながらも、風次郎の誠意に応えるために、真っ直ぐに黒の目を見据えて言葉を放つ。
「死んだ」
 まさか。
 風次郎の唇は声にならぬ声でそう、言っていた。
「まさか、御前が?」
「勘違いするな。私があれを殺す理由など無い。いや……」
 応えなければならぬ。わかってはいるが、目を逸らさずにはいられない。風次郎を見据えているのが辛いというわけではない……どうしても、風次郎の黒の目を見ていると、春菜の笑顔を思い出してしまうから。
「私にも責はある。風を読める私が、止めることができなかったのだから、な」
 私の言葉に、風次郎は何を思ったのだろうか。息をつき、天を仰いで……私ではなく、もう何処にもいないあの女に向けて、呟いた。
「そうか……あいつは、飛んだか」
 風が、鈴の音を運ぶ。


 あの日のことは、今も目蓋に焼き付いて離れない。
 この山で、唯一鈴のなる木々を持たない丘の上で。
 春菜は、木の棒を組み合わせ、油紙を張り合わせて作った、不恰好にもほどがある大きな羽を背負っていた。社で寝る暇も惜しんで作っていたのは、この羽だったのだ。
「どうだい、架羅。あんたの綺麗な羽には似ても似つかないけどね」
 だが、人間が飛ぶためには斯様な羽が必要なのだと春菜は笑った。
 人間は鳥でなければ天狗でもない。羽もなく、風を操る術もない。それでも春菜は空を目指した。届かぬ空に手を伸ばし続けて、空に届く羽を自らの手で作ってみせた。
 きっと、世の人間は春菜を笑うのだろう。私は人間と離れて久しいが、人間というものは、自らの分に合わぬことをする者を笑う生き物だ。それは時を経てもさして変わらないだろう。
 春菜がどうして空を目指したのかは知らぬ。人間の分に合わぬ望みを抱いた春菜が、何故この山に来たのかも知らぬ。
 私は春菜について何も知らないし、問うたことも無かったが、それでも不恰好な羽を背負った春菜を笑うことなぞ出来るはずもなかった。
 ただ、眩しかった。


「……此処で、春菜は飛んだ」
 私は丘の上に立って、春菜が飛んだ場所を指差した。風次郎は、神妙な顔で私の指先を見つめていた。いや、示す先に羽を背負って立つ春菜の姿を探している風でもあった。
「羽に風を受けて、高く舞い上がった。春菜はどのような風を掴めば飛べるのか、わかっていた。風の見える私から見ても、間違いなど一つも無かった」
 青空に舞い上がる、白い凧のような羽。風に吹かれた春菜は、高く、高く、歓声を上げて昇っていった。自然、私の目も春菜が昇っていった場所を見ていた。其処にもう、春菜はいないというのに。
「だが」
 扇を強く握りなおす。爪が手の平に食い込むほどに、強く。
「思わぬつむじ風が、吹いた。呆けてあれの羽を見つめていた私は、気づくべきことに気づけなかった。風は決して強くない羽に容赦なく襲い掛かり……」
「落ちた、のか」
 風次郎の声は、存外はっきりしていた。春菜が死んだと聞いて、既に其処までは思い及んでいたのであろう。私は頷いた。
「羽はあっけなく折れた。私も春菜を追って飛んだが、高みにまで昇りつめたあれに追いつくことなど、できなかった」
 そして、空から落ちた場所へと目を移す。丘の向こうは深い谷、流れの速いことで知られる白鈴ノ川が今も音を立てて流れていることだろう。春菜が其処に落ちたところまでは見届けたが、それ以上のことは何もわからん。
 伝えると、風次郎は何かを堪えるように唇を噛んでいたが、やがて言った。
「春菜は、俺の妹だ」
 言われても、さほど驚きはなかった。空を見つめる黒の目は、春菜とよく似ていたから。
「あれは昔から変わり者でな。気づけば、奇怪な羽の絵を描いていたが、それが高じて職人から端切れや木っ端を仕入れてきては、羽を作るようになった……親父は春菜の考えがわからなくて恐ろしかったのだろう、春菜に決して家から出るなと言いつけた」
「……して、逃げ出したのか」
「あぁ。空に一番近い山に行く、と書き残して出て行った。言われたとおりに大人しくしている娘などではないと、親父もわかっていたはずなのに、な」
 苦々しげな言葉ではあったが、奇妙にも風次郎の目からは言葉とは裏腹に微かな羨みすらも見て取れた。
「風次郎。主は春菜の望みを如何に思う」
「馬鹿馬鹿しいと笑ったよ。初めはな。だが……今は羨ましいかもしれん」
 春菜は夢物語としてではなく、真に空を目指し、自らの羽で飛んだのだ。最後に待っていたものが死であったとしても。
「誰が、あれを笑えるか」
 凛と背を伸ばす風次郎の言葉に篭められた思いは、深い悲しみと、限りない敬意だ。私は心の奥にあった忌々しい思いが静まるのを感じていた。
 そうか。
 私は、これを望んでいたのだ。春菜の願いを受け止め、認める者を。届かぬ空を望む春菜の思いは、元より空に棲む私とは相容れない。自由に空を飛ぶ私では真に春菜の思いを受け止めることなど出来まい。
 だが、この人間ならば、託すことが出来る。
 風次郎は私に向き直ると深々と頭を下げた。
「御前に疑いをかけてすまなかった。春菜の望みを見届けてくれたこと、感謝する」
「それ以外には何も、出来なかったがな」
 構わない、と風次郎は微かな笑みを浮かべてかぶりを振り、短い別れの言葉と共に私に背を向けようとした。
「待て、風次郎。主に預けるものがある」
 私は帯に挟んでおいた巻紙を風次郎に手渡した。風次郎は巻紙を開いて目を丸くした。
「これは」
「形見だ。どう使うかは主次第だがな」
 中に描かれているのは、春菜の羽だ。どのような物を使い、どのくらいの長さでどのように作るのか、その全てが書かれている。元より羽を持つ私には必要のないものだ。風次郎がぐっと巻紙を握り締めたのを見届けてから、私は背を向ける。
「……ありがとう!」
 背中にかけられた声にも振り向かず、にぃと笑う。

 ――確かに託したぞ、春菜。

 草を蹴って、空へと羽を広げる。
 羽持つ者が飛ぶこの空に、羽無き者が飛ぶその日を夢見よう。
 それが、羽持つ私が空を夢見た娘に出来る、ただ一つ。

空想科学少年の恋人(未満)

「俺は、恋をしている」
 我らが天文部部長、通称ロボが淡々とそんなことを言い出したのは、文化祭の前日のことだった。
 僕はロボの、それこそロボットのような無表情を唖然として見つめてしまった。


 ロボと僕は腐れ縁の関係というやつだ。
 小学校、中学校と来て今に至るまでの付き合いだ。もちろん出会った頃からこいつはロボと呼ばれていて、今までその奇妙なあだ名が変更されたことはない。
 何しろ、ロボはロボなのだ。
 長年付き合ってきた僕でさえ、未だにロボが僕と同じ人間であることを疑っている。腐れ縁の僕がそうなのだから、ロボを知っている大体の人は、九割がたロボを本物のロボットだと思っているに違いない。
 ロボは成績優秀、運動神経も抜群。美術音楽家庭科技術の成績までよい、要するに万能の天才というやつだ。だけど日ごろから能面のような無表情で、背筋をぴんと伸ばし、足をほとんど曲げずに歩くその姿はどう見てもロボットそのもの。喋るときだって唇しか動かさずに淡々と喋る。声のトーンまで一定だ。
 どんな育て方をすればこんな奴になるのだろうと思わないでもないけど、ロボの両親はちょっぴり変わり者だけど僕から見る限り普通の人だ。本当に、世界というのは不思議なもので。
「……サク?」
「ごめん、ちょっと突然で驚いて」
 ロボは少しもぶれない動きで黙り込んだ僕の顔を覗き込む。相変わらず何を考えているのかさっぱりわからない、瞬きの少ない目だ。
「驚くことなのか」
「だってロボの口からそんな言葉が出るとは思わなかったし」
 ロボは「ふむ」と小さく呟いて、こくりと首をかしげた。そんな仕草は少しだけ人間くさい。いや、本当は人間なのだろうけど。怪我をすれば血も出るし(実は色つきオイルという説もある)、病気で学校を休むことだってある(メンテナンス中だったのかもしれない)。
 それにしたって、人間らしい感情というものとは程遠いロボが、恋?
「俺が恋をするのはいけないことなのか?」
「むしろ大歓迎だと思うよ、僕は。やっとロボも人間らしくなってきたってことでさ」
 僕は何となくロボが無表情でそんなことを言い出すのがおかしくて、その顔を直視していられなくなった。ついと視線を逃がすと、壁一杯に貼られた写真が目に入る。元々五人しかいない天文部の面々が集めてきた星や月の写真。それに簡単な説明文をつけて展示しようというのだ。
 一般のお客にとって全然面白みのない展示なのは目に見えているけど、僕らはそれで満足なのでよしとする。
 天文部はたった五人の部活で、部長がロボ、副部長が僕。とはいえ僕らはこの文化祭で部活を引退して、受験勉強に打ち込むことになる。どうせ、天才人工知能のロボット様は涼しい顔でいい大学に受かっていくんだろうけど。
 僕はこれからどうするんだろう。赤茶けた火星の写真を見つめながら、思う。
 ロボは高校を卒業したら宇宙を目指すのだ、と真面目な顔で常々語っている。小さな頃から、宇宙飛行士になるのがこいつの夢。ロボットが宇宙に進出。趣味の悪いサイエンスフィクション・ジョークか何かと思うけど、ロボの言葉に冗談がないことは、長い付き合いである僕が一番よく知っている。
 だけど、僕はロボとは違う。
「サク」
 僕の横で、ロボが言う。相変わらず、一定のトーンを保った声で。
「何?」
「サクは、人を好きになったことがあるのか? 恋愛の経験はあるのか?」
「バカなことを聞くんだね、今日のロボは。あるに決まってるだろ」
 僕は笑う。そういえばロボが笑ったところもほとんど見たことがない気がする。一体コイツは何を楽しみにして生きているのだろうか。長年の付き合いだがさっぱりわからない。
「その恋愛は、叶ったのか?」
「内緒」
 僕はどこか時代がかっているように聞こえなくもないロボの言葉に、にやりと笑って言ってやった。何かしら言ってくるかと思ったけれど、ロボの「そうか」という一言で終わる。深いところまで決して踏み込んでこないのも、ロボらしいといえばロボらしい。
 まあ、今回ばかりは聞いてくれなくて心底よかったと思う。
 僕は、確かに長い間片思いをしていた。そして、その気持ちを伝えることのないまま、僕の片思いはあっけなく終わった。何て情けない話。そんなことを自分の口から、しかもこのロボに言えるはずもなかったから。
 気づけば、ロボはじっと僕を見ていた。
「何だよ、じろじろ見るなよ」
 僕は、思わず眉を寄せた。ロボは「悪い」と短く言って立ち上がる。そんな動作の一つ一つもやはりよく出来た機械か何かのよう。
 背の高いロボの影が、夕日に照らされて長く伸びる。ロボは壁に貼られた星の写真を見つめて、感情の読めない声で呟いた。
「サク、渡辺が言っていたが、文化祭というのは告白のチャンスなのか?」
「そうだね、ちょうどいいとは思うけど」
 僕も言って、立ち上がる。ロボは何も言わずにじっと写真を見つめていた。
 感情には乏しいロボだが、一度自分で考え決めたことは必ず実行する。そういう奴だ。微動だにせず写真を見つめるロボの目は硝子球のようだったけれど、確かな決意を秘めていた。
 小さい頃に、「俺は、宇宙に行く」と言い切った、あの時の表情とよく似ている。
 僕には、そんなロボが少しだけうらやましかった。
「明日か」
 何も感情が込められていない声のはずなのに。
 長年腐れ縁を続けてきたからだろうか、何故かその声が感傷的なものに聞こえた。
 気のせいだと、思うことにした。


 翌日、ロボは誰よりも早く教室にいて、相変わらずの機械的な動きで準備を進めていたようだ。僕はメンバーの中では最後だったけれど、来た頃には全てのセッティングが終わっていた。
 どうしても昨日の「らしくない」話が気になって、僕は椅子に座ったままちらりとロボを見る。
 ロボは、僕が見る限りいつもどおりだった。直立不動の姿勢で受付に立ち、たまに教室に迷い込んでくる客に四十五度の礼をしていた。多分分度器で図ればぴったり四十五度、コンマ一度のずれもないに違いない。
 客がいちいち微笑を浮かべるのも、天文部の展示を見たからではなく我らが部長ロボの動きが面白かったからに違いない。
 暇を持て余していた僕はそんな光景をぼうっと見つめていた。
「先輩、かき氷買ってきましょうか? バレー部の友達が買いに来いっていうんですけど」
 やはりただ待機しているだけでは暇だったのだろう、後輩三人のうち、唯一この教室に残ってくれていた後輩の由希が言った。僕も気を取り直して笑う。
「うん、よろしく。それと部長にも」
「わかってますよ。味は何にします?」
「じゃあメロン。ロボは?」
 客がいなくとも直立不動を続け、扉の外をじっと見つめていたロボは、声をかけられたことで初めてこちらを見た。ゆっくり作り物のような目を瞬きして、一言だけ言った。
「適当でいい」
「はい、わかりました。じゃ、行ってきます」
 由希はにっこりと微笑み、お下げ髪を揺らしてぺこりと……ロボとは違い柔らかな人間らしい動きでこちらに一礼すると、軽い足取りで教室を出て行った。僕は何も考えずにその背中を見送っていたけれど、ふと気づけばロボも、じっと由希の背中を見つめていた。
 普段ならばすぐに自分に与えられた仕事……それがどんなに単純で不毛なものでも関係はない……に戻るはずのロボが、じっとそちらを見つめているのだから、不思議だ。
 ロボは由希の背中が人ごみにまぎれてしまうまで見つめていて、やがてぽつりと呟いた。
「由希は、恋というものを知っているのだろうか」
 お前、やっぱり変だ。
 僕はそう言いたくなるのを無理やり飲み込んで、ロボを見た。ロボは相変わらずの無表情で、自分が言っていることの奇妙さすらも認識していないらしい。認識していたとしてもそれが表情に出ることはなかったとは思う。何しろこいつはロボットなのだから。
 けれども、ロボが唐突に顔を上げて僕を見た。迷惑なことに、僕の意見を求めているらしい。この教室に僕とロボ以外に誰もいないことが幸いだな、と思いながらも、僕は自分がわかっているだけのことを話す。
「由希は、うちのクラスの渡辺と付き合ってるよ。ロボ、知らなかったの?」
「何?」
「大体、一ヶ月くらい前だったかな。渡辺の方から付き合ってくれ、ってさ。いやあ、アイツがそういう趣味だってのは知らなかったけど」
 由希は外見だけ見れば少々地味な、それこそ夢見がちな文学少女といった印象の後輩だ。実際には活発な行動派であり、僕も初めのころは随分とそのギャップに驚かされた。
「……そう、か」
 ロボは何となく、言いづらそうに言った。その言い方自体が普段から決して淡々とした口調を崩さないロボらしくない。
 恋をしている……
 ロボの口から出たその言葉が冗談じゃないということはわかっていたつもりだったけれど、見れば見るほど、何かが、おかしい。
「お前、何か、変じゃない?」
「何がだ」
 恐る恐る聞いてみると、さらりと返事が返ってくる。いつも通りのロボだ。ロボがおかしいと思っているのは僕だけなのか。それとも。
 続きを言う前に、部屋にまた人が迷い込んできたようだった。ロボは僕に向けていた顔を扉の方に向け直し、再び四十五度の礼。その切り替えの早さはやはり頭の中にスイッチでも仕込んでいるに違いない。さすがはロボット様だ。
 だけど。
 だけど、何だろう。
 何かが変なんだ。いや、何もかもが、変なんだ。
 ロボ、お前はそれに気づいているのか?
 僕は、どうしても頭の中を支配する妙な感覚を振り払えなくて、そんなもやもやとした気分のままに廊下の喧騒を聞いていた。
 早く、由希が帰ってくればいい、そう思いながら。


 片づけが大体済んだところで、後夜祭の放送が入る。浮かれた生徒が騒ぎ立てながら廊下を歩いていく声がここまで届く。僕は写真を分別する手を止めて、由希たちに言った。
「いいよ、鍵は僕が閉めとくから。先に校庭に行ってなよ」
「先輩、いいんですか?」
「うん。閉めるだけだから、すぐに終わる」
 どうせ、もう作業に集中することも出来ないだろうし。そう言いたくなるほど、由希たちの意識は既に後夜祭が行われる校庭に向けられているようだった。きっと、彼氏と落ち合う約束でもしているのではなかろうか。
「ありがとうございます、では、お先に失礼します」
「うん、僕もすぐに行くから」
 別に僕を待ってくれているような人はいないけれど……そう思ってしまって、自分で嫌になる。周りはどんどん先に行く。皆先を見ている。一歩を踏み出している。でも、僕は何をしているのだろう。手元にある写真はきらきらと輝いていて、だけどそれだけだ。ロボのように、そこに何かを見出すことは、できない。
 そうだ、ロボ。
 ロボだって、僕よりずっと先を見ている。元々こいつはそうだったし、今だって。
『俺は、恋をしている』
 そうやって言った口調は小さい頃「俺は、宇宙に行く」と言い切った口調そのままだったじゃないか。どこまでも本気で、どこまでも曲がらない。いや、曲がることを元から知らない、不器用なほど真っ直ぐな、ロボット。
 星を見上げるたびに、そんなことを考えてしまうのが、むなしい。でも、星とにらみ合う日々も今日で終わり。僕は今日で天文部を引退して、多分ロボとは違う道を歩む。どういう道を歩むのかは、僕にもわからないけど……
「……サク」
 静かな声が、降ってくる。顔を上げれば、ロボが僕を見下ろしていた。僕の背が低いのもあるし、ロボの背が高いのもある。それはいつものことだっていうのに、今日だけはそれが何だか、息苦しい。
「ロボ、行かないのか? 鍵は閉めるって言ったじゃないか」
 僕は軽く首を振ってロボに笑いかけた。だが、ロボは相変わらずの無表情で、僕を見下ろしている。何となく、見下されている気分で嫌になる。
 お前はいつも誰よりも先を見ている。
 僕にはいつもお前の背中しか見えない。
 何で、お前は。
「行けばいいだろ」
 そんなこと言いたいわけじゃないのに、言葉には自然に棘が生える。
「ロボはわかってないかもしれないけど、後夜祭っていうのは、好きな子に告白する最大のチャンスだ。さっさと行ってこいよ!」
「そうか」
 「そうか」と言いながらも、部長としての義務を果たすことが最優先事項だとプログラムされているのだろうか、ロボはそこを動こうとしない。
 イライラする。
 何だ、お前は。
「……行けよ」
 返ってくるのは、沈黙。誰もその場にいないかのように、廊下に溜まっていたざわめきすらも遠ざかっていくのがわかる。僕の目の前に立っているロボは巨大な人の形をしたオブジェクトか何かだろうか? バッテリーが切れたのか? バカな。
 お前は人間だろう、ロボ。
 人間ならば、僕の考えていることだって少しはわかってくれてもいいじゃないか。鈍いにも限度がある。だからロボットと言われてしまうのだ。それとも本当に機械で出来た血も涙もない人形だというのか? 冗談じゃない。
 ロボは何も言わずに僕を見下ろしている。感情の見えない、二つの黒い目。一転の曇りもない硝子球は、嫌な感情の塊になっている僕をそっくりそのまま映しこんでいた。
 ……嫌だ。
「行けよ!」
 思わず、大きな声が出てしまう。こんなことを、言いたいわけではないのに。
「サク」
「やめろ、僕に構うな! さっさと出て行けよ!」
 違う。本当に言いたいのは……
「サク」
 聞きたくない、声が。
「僕を」
「置いていかない」
 すとんと。
 言葉が、落ちた。
 僕はその言葉の意味を考えるのに数秒かかった。こいつは、今、何と言った? そして、僕は何を言おうとしていた?
「鈍いにも限度がある」
 ロボの唇から漏れたのは、先ほど僕が考えたことと一言一句変わらぬ感想。ただ一つ違うのは、それがロボではなくて、「僕」に向けられていたこと。
「な」
 上手く声が出ない。
 ロボは普段どおりの無表情で息をしているかすら怪しい直立不動の体勢を保っている。なのに、口から出る言葉だけは普段と違った。
「俺は、恋をしている」
 それは昨日聞いた、が。
「古橋桜、お前にだ」
 はっきりと言われた言葉は、ものすごい破壊力を伴っていた。
 待て。
 待てよ、ロボット様。
「……え、あ、その」
「聞こえなかったのか、ならもう一度」
「言わなくていい! 言わなくていいからちょっと待て、頭の中整理するから!」
「うむ」
 ロボは僕の必死の訴えを受けて、機械的に頷いてくれやがった。その動きが普通すぎて、僕にはあまりに一瞬前のロボの言葉がやけに非現実的なものに思えた。
 僕、を?
 最低でも、僕が見ている限りはそんな様子はなかった。昨日の言葉が突拍子もなかったことくらいで、後は何ら不自然なところはなかった、はずだ。でもその記憶すらも怪しい。ロボットめ、人間である僕の記憶を改竄するとは人間のために造られるロボットにあるまじき行為、とか考えて現実逃避をしたいものの、それはやはり非現実に過ぎる。
 だが、ここで一つだけ違う仮定が生まれた。
 僕はロボが「ある地点」から僕に恋をしたと仮定していたが、もしロボのその「恋している」状態は、僕が考えている以上にはるか昔から続いていたと、したら?
 それこそ。
「出会った頃から、好きだった」
「そうか、やっぱりそうか!」
 ぽつりと言ったロボの言葉が、僕の仮定を裏付けてしまった。
 要するに、ロボは、初めからそうで、今までそうなのだ。僕に見せている状態は、常に「恋している状態」だったのだ。それは僕が恋しているかどうかの違いを理解できるはずがない。
 いや、それがわかってもどうにもならないが。
「『やっぱり』……?」
「いや、こっちの話。だけど、何で、僕なんか」
 あまりに近すぎて、思いもよらなかった。僕にとって、ロボは恋愛対象なんかではなくて、単なる「腐れ縁」で「仲のよい男子」でしかなかったから。それに、こんな女らしさのかけらもない僕のどこがいいと?
 ロボは間髪いれずに答えてくれた。
「サクは、見ているだけでとても興味深い」
「……うわあ、ものすごくロボらしい発言だな、それ」
 女の子に対して「興味深い」の一言で済ませるか。お前は。
「それに、お前は自分が女らしくないことを気にしているようだが俺から見れば十分に魅力的だ」
「何でだろう、あんまり嬉しくない」
 多分、その原因はロボの口から「魅力的」なんて歯の浮くような台詞が吐かれたからだ。この男に「魅力」を解する心があるのかと問いただしたくなる。いや、ロボの言う「魅力的」だから、もしかすると常人とは全く異なる「魅力」なのだろうか。
 素直にロボの言葉を受け取ることを無意識に拒否している僕に、ロボは決定的な言葉を吐いた。
「あと、お前は十分未来を見ていると思うぞ。俺のように頑なである必要はない、悩むこともまた未来を本気で考えている、ということだろう」
「……な」
 何で、ロボが僕の考えていることを知っている?
 確かに、僕はロボの背中を見て、いつも悩んでいた。ロボはどこまでも真っ直ぐで、僕なんかに目もくれず背筋を伸ばして、早足で歩いていたから。
 なのに、ロボは。
「俺は、迷いながらも前向きであろうとするお前がうらやましくて、好ましかった。それが、お前を好きになった理由だ」
 そんなことを、のたまうのだ。
 好きになることに理由はない、といったのは誰だっただろう。でも、ロボの理由のある「好き」という感情は、言っているのがロボだからというのもあるのだろうけど、何よりもロボが本気でそうやって言っているのだと納得させられてしまう。
 それに、ロボは、きちんと僕のことを見てくれていたのだ。早足で歩きながら、僕には気づかないくらいさりげなく、何度も後ろを振り返って僕が迷っているのを見つめていたのだ。その、感情の読み取れない二つの目で。
 だけど。だけどさ。
「何で、今の今まで言わなかったんだよ」
「お前が、俺ではない人間を見ていたからだ。お前は、渡辺に恋していたのだろう?」
 あまりにあっさり言われてしまったものだから、僕はすぐにはその言葉を理解することができなかった。理解してから、初めて、血の気が引くような感覚がした。
「何で、そこまで」
 そう、なのだ。
 高校に入った頃からずっと、渡辺が好きだった。高校一年と、今同じクラスになれて、ものすごく無邪気に喜んでいたのを覚えている。だけど、渡辺は一ヶ月前、由希に告白した。僕なんか、初めから目に入っていなかったのだ。
「俺は、お前が幸せであってほしいと思った。だから、お前が他の男に恋しているのならば、それでよいと思った。だが」
「だが?」
 僕が続きを促すと、ロボは初めて、言いづらそうに口をぱくぱくさせた。動き自体は機械的ながら、それだけは妙に人間くさくて僕はちょっとだけ笑ってしまう。
「笑うところか」
「ごめん、でもちょっとおかしくて」
 僕自身、こういう緊張感は苦手だし。ロボは茶化されたとでも思ったのか、しばらく憮然とした表情で……それは表情ともいえなかったが、憮然としているのは何となくわかった……僕を見ていたけれど、やがて僕から目を逸らして早口に言った。
「お前には迷惑かもしれないが、好きだ、と言いたくなってしまったんだ。ここで言わなければ二度と言えないと思ったのだ。悪いか」
 ああ。
 僕は、随分と長い間ロボのことを勘違いしていたのかも、しれない。
 確かにこいつはロボットのように無表情で機械的で、傍から見れば何を考えているかもわからない、人形みたいな奴で。いつしか、僕もロボのことをそんな風に思うようになっていたけれど。
 こいつはこいつなりに、しかも僕と同じように考えて、恋をして、それで。
「悪くない」
 僕は、笑って言った。
 ロボは僕を恋愛対象として見ているけれど、僕はまだそこまではいかない。何しろ長い間僕にとっては「幼馴染み」でしかなかったから。だけど、さ。
「迷惑なんかじゃない」
 ロボがこっちを見ていてくれたのが嬉しかったっていうのは、本当だから。
 それに。
 ロボは、意外そうに僕を見た。そんなに、僕が笑っているのが不思議なのだろうか。一瞬前までロボの言っていることが不思議でたまらなかった僕みたいに、目を見開いて。
 ざまあみろ、僕を不安がらせたんだからお前もちょっとは驚け。
「僕も、ロボのことが『好き』だからね」
 僕が言った途端、ロボは目を見開いたそのままに、固まった。本当にバッテリーが切れたかのような、見事な固まりようだった。
「……おーい、ロボ?」
 つんつんとつついてみても、反応はない。
 仕方ないなあ、と思いながら、僕は言葉を続ける。
「ロボもわかってると思うけどさ。僕の『好き』ってのはロボの『好き』とは絶対に違う。だけど、好きだってことは紛れもない事実だよ。それに」
 イライラさせられるし、何考えてるかわからないし、それでいて全部を言い当ててしまったりする嫌な奴だけど。
「やっぱり、一緒にいたいって思う気持ちは本当なんだなって今回で痛いほどわかったよ」
 未来だの恋だの、色々と理由をつけて無理矢理自分で解釈して納得しようとしていたけれど。結局のところ、僕はただ、ロボが自分から離れていくのが嫌だったんだ。何てガキっぽい感情に振り回されていたんだろう。
 僕はロボを見上げる。ロボはやっと再起動を完了したのか、ゆっくり、二回瞬きをして、それから僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「な、何だよ?」
「お前は、それでいいのか?」
「実のところわかんない。それは、これから先になってみないと、さ」
 これが今のところ恋じゃないのはわかるけど、恋に「なる」かどうかはわからない。
 ロボはしっかり未来を見据えてて、僕はその背中を見つめながらも未だに迷っている。だけど、結局のところどうなるかなんて誰にもわからない。
 だったら、僕ら二人のこれからの成り行きだって、わからないじゃないか。
 そう思って僕がロボを見上げると、ロボは僕の気持ちを理解してくれたのだろう、深く、深く頷いた。
「そうだな」
 ロボは僕の気持ちをある程度理解できてるみたいだけれど、僕はロボの気持ちを知らない。ちょっとは僕の答えに不満だってあるのかもしれないけれど、そんなの僕の知ったこっちゃない。
 僕は星の写真を片手に、もう片方でロボの手を引いた。
「行こう、もうとっくに後夜祭始まってるしさ」
 ロボは、僕を見下ろして……笑った。今になって、それがロボの笑い方なのだと、僕にもわかった。いつも僕に向けていた、ロボットのような無表情に見える顔。それこそが、ロボなりの不器用な笑顔だったのだ。
「ああ」
 笑いあいながら二人で、部屋を出る。廊下の窓から、星空の下に燃えるキャンプファイアー、その周りに集まる楽しげな影が見える。
 星は今日もきらきらと、僕らを見下ろして夜空に輝いている。この手の中の写真もきらきらと輝いている。ロボが目指し続けている、きらきらとした未来だ。
 僕の未来がきらきらと輝くかどうかはやっぱりわからないままだけれど、今だけはそれでも不安じゃなかった。
 いつも追いつけなくて、背中しか見せてくれなかったそいつが、今は一緒に足並みを揃えてくれているから。
 言うなれば友達以上、恋人未満。だけど、僕にとっては最高の相棒。

 かくして、ロボと僕の不思議な「おつきあい」が始まったのであった。

ヴィシャス・サークル

 昔々、あるところに一人の博士と一人の少年が住んでいました。博士と少年は本当の親子ではありませんでしたが、博士は少年を実の息子同然に育てていましたし、少年も博士のことを父親と慕っていました。
 そんな博士は、少年が物心付いた頃からずっと、タイムマシンを作ろうとしていました。少年は何故博士がそこまでタイムマシンに入れ込むのかわからないまま、ただ黙々と博士を手伝っていました。
 そんなある日、博士が病気にかかってしまいました。絶対に治ることのない、死の病でした。少年は嘆き悲しみました。博士も泣いている少年を見て悲しげな笑顔を浮かべました。そして、博士は少年に言ったのです。
「私は過去に大きな過ちを犯し、それをやり直すためにタイムマシンを作っていた。だがそれももう叶わない。お前は、私のような過ちを犯さないでほしい」
 タイムマシンは、あと少しで完成するはずでした。しかし博士はもう動けません。少年は博士がどんな過ちを犯したのか聞きたいと願いましたが、博士は喋ることすらできなくなっていました。
 だから、少年はうんと小さく頷きました。それで、博士はにこりと微笑んで、そのまま冷たくなりました。少年は涙が枯れるまで泣きました。泣いて、泣いて、ただひたすら泣いて、それでも博士は生き返ることはありませんでした。
 それで、少年はふと目を上げました。そこには、あと少しで完成するはずのタイムマシンが置かれていました。
 少年は思いました。
 もし、僕がタイムマシンを完成させて、未来に行けば博士を治す薬を手に入れられたんじゃないか?
 そして、博士が死ぬその前に戻ってくれば、博士は死なないですむんじゃないか?
 少年にとって、博士は唯一の家族です。大切な人だったのです。
 だから、少年は博士の残した設計図を頼りにタイムマシンを完成させました。銀色の卵のようなタイムマシンは、ぴかぴかと輝いているように見えました。
「博士、今行くからね」
 少年はそう言って、タイムマシンに乗り込みます。行き先は、未来。ボタンを順番に押して、目盛りをあわせて、さあ出発だとレバーを引いた瞬間、機械ががくりと揺れました。まばゆい光に包まれながら、辺りの風景が歪んでいくのがわかります。成功したのかな、と少年が思っていると、再びがくりと機械が揺れました。何だろうと思う間もなく、機械はがたがたと嫌な音を立て始めます。
 故障したんだ。
 少年はすぐに気づきました。慌ててレバーを戻しても機械は止まりません。博士の設計図通りに設計したはずなのに、タイムマシンは少年の願いに反して上へ下へ、右へ左へと揺れ動きます。もう自分ではどうしようもないと判断した少年は、レバーを握り締めたままぎゅっと目を閉じました。
 すると、どおんと大きな音がして、タイムマシンが一際大きく揺さぶられました。少年は一瞬息を止めましたが、それから急に静かになりました。タイムマシンも動いていないようでした。ただ、段々と辺りの空気が熱くなっている、そんな嫌な感覚がありました。
 少年はぴったりと閉ざされていたタイムマシンの扉を開けました。
 すると、目の前に広がっていたのは真っ赤な炎でした。
「火事だ!」
 少年は叫んでタイムマシンから飛び降りました。このまま炎に包まれていては焼け死んでしまいます。ここがどの時代なのかはさっぱりわかりませんでしたが、もううんともすんとも言わないタイムマシンに乗ったままよりはましだと思いました。
 よく見れば、壊れたタイムマシンが火を吹いていて、それが辺りに燃え移っていたのです。少年がタイムマシンを降りた頃には、火はとても大きなものになっていました。小さな少年が火を消すなんてできるはずもありません。
 少年は火の中だというのに、背筋が冷たくなってぶるりと震えました。そして、何も考えないまま走り始めました。死にたくない、ただそれだけを願って。
 走って、走って、走り続けて、見ず知らずの場所の出口を求めて彷徨いました。建物のほとんどに火が回っていて、時には引き返すしかなくなってしまって余計に少年は慌てました。
 その時、少年の耳に、小さな声が聞こえました。
 泣き声です。
 それはか弱い赤ん坊の泣き声でした。
 少年は一瞬だけ足を止めて、気づくとそちらに向かって駆け出していました。自分も死にたくありませんでしたが、元はといえば自分が作ったタイムマシンが起こした事故です。自分のせいで誰かが苦しんでいるというのに、それを見捨てるなんてことは、できませんでした。
 赤ん坊はすぐに見つかりました。まだ火がそこまで回っていない部屋に取り残されていたのです。彼は赤ん坊を抱き上げると建物の外に走り出しました。
 冷たい空気が少年と赤ん坊を包み、遠くからは消防車の音が聞こえてきます。助かったのだ、と思うと同時に、少年は怖くなりました。
 大きな建物は衰えることの知らない炎に焼き尽くされていきます。それ自体が、大きな炎の城か何かであるかのように、煙を立てて燃え盛っています。
 これを、自分がやったのだ、と少年は思いました。
 壊れたタイムマシンはまだあの建物の中に残っているでしょう。見つかれば、少年が責められてしまうでしょう。それに、それがタイムマシンだと言って誰が信じるでしょう。少年が違う時間から来たと言って誰が信じるでしょう。
 腕の中の赤ん坊が泣きじゃくる声で、少年ははっとしました。
 この赤ん坊の親は、どうしたのでしょうか。他に人が出てきた気配はありません。もしかすると、まだ、あの炎の中に……。
 僕のせいだ。
 僕がタイムマシンに乗って未来に行こうなんて思ったから。
 僕は、どうすればいい?
 少年は、ぎゅっと赤ん坊を抱きしめました。何もわかっていない赤ん坊は、きょとんとして彼を見つめました。
 その目を見て、彼は思いました。
 逃げるしかない。
 何故、そう思ってしまったのかはわかりません。しかし自分の考えが正しいのか間違っているのかわからないまま、少年はまた駆け出していました。燃え盛る家を後にして。
 どのくらい走ったでしょうか。赤ん坊を抱きしめた少年は小さな町に辿り着きました。町のテレビでは、あの火事のニュースが伝えられていました。家の中にいた人は全員死んでしまったこと。赤ん坊の死体はまだ見つかっていないけれど、おそらく一緒に死んでしまっただろうということ。
 タイムマシンの話は、一言も出てきませんでした。
 少年はまた怖くなりました。背筋が冷たくなりました。自分がやったのだと大きな声で叫ぼうとしましたが、実際にそうするだけの勇気もありませんでしたし、もしあったとしても誰も信じてくれなかったでしょう。
 どうしようもありませんでした。
 少年はテレビの前で、ただ立ちすくむしかなかったのです。
 どのくらい、そうしていたでしょう。
 少年は心を決めました。
 もう一度、タイムマシンを作ろうと。今度こそ故障することのない、完全なタイムマシンを。そして、タイムマシンに乗り込もうとする自分を止めるのだ、と。そうすれば、こんな悲劇は起こらずにすむと。
 身寄りのない少年と赤ん坊は小さな町に住むことにしました。何も知らない町の人は少年と赤ん坊を優しく迎えてくれました。
 少年は一生懸命勉強しました。今度は間違えないように、必死で勉強をしました。もちろん、勉強をしながら赤ん坊を育ててやることも忘れませんでした。自分のせいで親を失ってしまった赤ん坊。せめてこの子は幸せにしてやりたいと、精一杯の愛情をかけて育てました。
 やがて少年はその勤勉さと知恵を認められて、博士と呼ばれるようになりました。その頃には、赤ん坊は少年に成長していました。
 少年だった博士は長年試行錯誤を繰り返し、完全なタイムマシンを完成させようとしていました。しかし、その直前に病気にかかってしまいました。絶対に治ることのない、死の病でした。
 そして、赤ん坊だった少年は……、


 もう、おわかりですよね?

ブリキの木こりは夢を見るか

 やあ、お嬢さん。
 こんな所で君のような愛らしいお嬢さんに出会えて嬉しいよ。
 出会ったばかりでこのようなことを頼むのは……それも、その細腕に頼むのはとても心苦しい願いなのだが、ちょっと俺も困っていてね。少々頼みを聞いていただけるととても嬉しいんだが。
 ああ、そうそう。君は可愛い上に随分聡明なんだな。そう、これをどかしてもらいたいんだ。そこの、バーを引いてくれれば多分電源が入って動くようになると思うんだが。
 ――よし、まだきちんと動くみたいだな。よかった。そうしたらスイッチを押してくれ。そっちの、緑のスイッチだ。これでクレーンが動いて……ああ、やっと自由になれた。
 ありがとう、どんなに感謝しても足りない。お嬢さんがこなければ、俺はあと五年くらいクレーンの下敷きになっていたよ。いや、下敷きになったのは単に俺が間違って操作しちゃっただけなんだけどさ。本当、生身の人間だったら即死だった。
 しかしお嬢さんも変わり者だな。こんな何もないボロ工場に何の用だい?
 え、『ユノ』?
 ここは確かにかつてのマザー、『ユノ』が管轄していた人形工場だよ。だが、それは十年くらい前の話だ。ここはとっくのとうに捨てられてた、使い物にならない工場だ。俺もここには調査で訪れたんだけどな。お嬢さん、無駄足だったね。俺にとってはお嬢さんの訪れは全然無駄足じゃなかったけど。
 うん、本当に感謝しているよ。お嬢さんが来てくれなければそれこそ後、十年はクレーンの下……って、「下敷きになってる年数が増えてる」なんて無粋な突っ込みいれないの。
 俺? 見ればわかるだろう、俺は人形だよ。機械人形。こんなごっつい外見の人間はいないと思うよ?
 何だい、そんなもの珍しそうな目は。まさか機械人形を見たことがないってこたあないだろう?
 ほほう、見たことがないわけじゃあない。だけど、俺みたいによく喋る機械人形は初めて、と。まるで人間みたい、なーんて嬉しいこと言ってくれるじゃないか。お嬢さん、お世辞が上手いな。
 でも、まあ「人間みたい」ってのはあながち間違ってないのかもしれない。
 俺がここで動けなくなってから四年と五ヶ月、端数が三日。まさかそこまで人工知能の製作技術が向上しているとも思えないしな。お嬢さんの指摘はとても的を射ている。それこそ、俺様のような天才が現れない限り、これほど人間に近い人工知能など造れるはずもない。
 言ってることが矛盾してないか、って? ああ矛盾してるだろうな。
 そう、俺は、俺が造ったんだよ。なかなか変な話だろう?
 お嬢さんは俺の話に興味あるみたいだな。嬉しいよ。俺も四年と五ヶ月と三日誰とも喋らずにここで飲まず食わず……ってまあ食事は必要ないんだけどさ。ちょうど寂しくなっていたところだ。ちょいと身の上話の一つでもしようかなあとか思うんだが。お嬢さんがお急ぎでなければ、の話だが。
 是非聞かせて欲しい、と。ああもうお嬢さんは本当にいい人だな。それじゃあお兄さんも頑張って話しちゃおう。何、そう長い話にはならない。気を抜いて聞いてくれりゃあいいさ。
 俺はこう見えて歴史学者でね。この国の歴史を紐解くことを生業としている。お嬢さんは謎に思ったことはないかい? 何故海の底に巨大な都市がいくつも沈んでいる? 何故マザーコンピューター『ユノ』がこの国を支配することができた? 『ユノ』が登場する以前の歴史は全部闇の中。
 要するにこの国の情報は全部『ユノ』が握っていた。だから、俺や俺のお袋は『ユノ』が隠し、また改竄してしまった歴史ではない、本当の歴史を調べてやろう思っていたんだ。
 もちろん『ユノ』はそれを阻止しようとした。何しろ自分がわざわざ隠そうとしていることを暴こうとする異端の連中だからな。結局、お袋は『ユノ』に殺されたよ。当時ガキだった俺は『ユノ』への復讐を誓いながらも、歴史学者という肩書きを隠して過ごしていた。
 ――そうだ。俺は、元々人間だったんだよ。
 どうしてこんな身体になったのか、という話は後に出てくるから、今は順番に聞いててくれるとありがたいな。
 俺は見ての通りの天才でね……って何だその疑いの目は。俺様は天才なんだよ、文句は無いだろう?
 とにかく、学者を生業にしているだけあって知識はあったし、それに元々機械技術にも詳しかったこともあって、『ユノ』の圧制に耐えかねたレジスタンスの面々に加わることになったんだ。武器を開発したり、『ユノ』の弱点を探ったり。
 本職の歴史調査よりも、そういう活動の方が多くなってしまったのは確かだが……『ユノ』への復讐の気持ちは何よりも強かったし、『ユノ』がいる限りろくに歴史を調べることができない、というのも事実だった。だから俺もレジスタンスに協力した。精一杯な。
 やがて力をつけたレジスタンスは『ユノ』のメイン・コンピューターを破壊する作戦を決行した。その結果は、お嬢さんも知っているんじゃないかな。
 そう、『ユノ』は破壊された。木っ端微塵に、な。
 だが、『ユノ』はただではやられなかった。やられた瞬間に、奴はレジスタンスをはじめとする自分に逆らう人間どもも共に滅ぼしてやろうと思ったんだろう、自分がいた都市全体に人間の身体を壊死させる病原体をばらまいたんだ。……ああそうか、やっぱり今も首都は閉鎖状態か。それが賢明だな。
 そんなわけで、レジスタンスの面々は全滅。俺は前線任務じゃなかったから都市の外周部にいたんだが、もちろん病気に感染した。仲間、それに罪もない人々が倒れていく中で、俺は自分の無力を呪ったよ。俺はまだ死ぬわけにはいかなかったし、周りの連中が死んでいくのにも耐えられなかった。せめて、何かできることはないかと考えた。
 よく考えてみろ、病気は「人間」に感染するのだ。
 それならば、人間の身体でなければいいだろう。俺は、そう考えたんだ。だが、そうしているうちにも残った奴らまで死んでいくし、俺の左腕も腐って落ちた。だから俺はまず自分の身体を実験台にしようと思った。俺は右腕とそこにあった機械を使って機械の左腕を造って取り付けた。ちょっと重かったが何とか神経と上手く接続することができて、何ら不自由なく動かせるようになった。
 だが、そうしているうちに今度は右腕が腐っちまった。腕がなければ作業もできん。だから右腕を造って取り付けた。一度成功させていたからだろうな、左腕の時よりもずっと簡単にできた。
 それでも時間はどんどん過ぎていく。仲間はほとんど全滅、町は完全に腐った死人の世界になり始めていた。けれども、俺は諦めたくなかった。足が腐れば足を、胴が腐れば胴を……そうしているうちに、こんな外見になっちまったけれど、まあ死ぬよりはマシかと思うことにした。
 ただ、病気はどこまでも侵食していく。無慈悲にも、な。
 このままじゃ、最後に残された脳まで腐っちまう。
 それが、わかったんだ。
 脳味噌以外は全部機械で補うことができたが、脳はどうしろというんだ? 最高の人工知能『ユノ』でさえあんな人間味のない奴だったんだ。俺は絶望したよ。もし脳味噌まで取替えてしまったら、俺が俺ではなくなってしまう。『ユノ』と同じ、血も涙もない本物の機械人形になっちまう、ってな。
 これでは本末転倒だろう?
 俺は悩んだよ。悩んでいる間にも当然病気は進行する。
 そうしているうちに、俺だけ生き残ることに何の意味があるのだろう、と思った。生きたいと願ったのは、『ユノ』を倒して、そして歴史学者としてお袋が見つけることのできなかった、真実の歴史を探しだしてやろうと思ったからだ。それは間違いない。
 だが、『ユノ』を倒した他の仲間が死んでいく中で俺だけがのうのうと生き残っているのが、段々と我慢ならなくなってきた。
 もう、悪あがきはやめて、人間の心のまま死んでやろう。
 決意した、その時。
 俺の手を、誰かが引いたんだ。
 そいつは、俺と同じレジスタンスに所属する研究者の一人だった。そこに残ったたった一人の女で……俺の、恋人でもあった。そいつも、やっぱりぼろぼろでさ、いつ死ぬかもわからないような状態だった。それなのに、俺に笑いかけてこう言いやがった。
「あなたは生きて」
 ってな。
 本当に、バカな連中だ。俺も、そいつも。それに、残っていた奴らも……自分たちのことなど顧みずに俺を生かそうとした。
 このままではどれだけ頭を働かせても手を動かしても全員は救えない。それならばお前ひとりでも生きろ。生きて、真実を暴いてくれ。『ユノ』が隠していた全ての真実を。
 そう言って、奴らは笑いながら死んでいった。最後に残った恋人も笑って死んだ。残されたのは機械の身体を持った俺と、俺の側にいてくれたそいつらのおかげで完成させることができた、俺の記憶情報と思考パターンを記録した人工知能だった。
 正直、怖かった。もうその時には意識も朦朧としていて、ろくに考えることもできなかったけれど。
 あと数時間で俺の脳は死滅する。だが、目の前の人工知能は俺の脳が死んだその後も「俺」として生きる。それは本当に俺なのか、否か。誰にもわからん。俺にも。
 ただ、俺を生かそうとした奴らの遺志だけは無駄にするわけにはいかない。残された情報を全部人工知能に託して、多分、俺は死んだのだと思う。もちろん、多分っていうのは今こうやって喋っている俺が、人工知能の方の「俺」だからだ。難しい話かもしれんが。
 こうして、俺は今ここにいる。『ユノ』が隠した歴史を暴くために。『ユノ』に殺された奴らの分の思いも背負って、な。
 だが、今でも不安になる。確かに今の俺が持つ記憶も思考パターンも、俺の知る「俺」のものだ。それでも、やはり微妙に人間だった俺が見たものの記憶と、機械になった俺が見るものは違うように見える。
 何て言えばいいか。そう、「心」がないのかもしれんな。
 俺の人工知能は悲しいと思うことも嬉しいと思うこともできる。限りなく人間に近く、『ユノ』にはならないようにひたすら人間らしく作られた知能だ。抜かりはない。身体だって、お嬢さんから見れば不細工なオンボロかもしれないが、涙も流せるスペシャルボディだ。
 けどな、この身体になってから、血液が血管の中を逆流するような強い怒りや、胸が痛むほどの悲しみ、目の前が明るくなるほどの喜び。そういうのを、「理解」することはできるしそういう「信号」をこの人工知能が発することはあるが、実際に「感じる」ことはできなくなった。
 それは、脳の問題だけではないのかもしれん。人というのは、その生まれ持ったもの全てを持って初めて人間と言えるのだと、この身体になって初めて理解したよ。
 だが、後悔はしていない。
 お嬢さんは『オズの魔法使い』という童話を知っているかい? そう、大昔の童話だよ。あれに出てくるブリキの木こりはまさしく今の俺と同じことを言っていた。彼は人間としての身体を失い、その中でも「心」を失ったことを何よりも辛いと感じていた。だが、それゆえに誰よりも優しくあろうとして、実際に、優しかった。
 俺も、そうありたいと願うんだ。もはや人間とはいえないかもしれないが、出来る限り人としての「心」を忘れないように生きようと思う。生き続けようと、思う。それが、俺を生かそうとしてくれた奴らに報いる唯一の行為だと思うからな。
 ――っと、長くなったな。悪い。つまらない昔話だったかな。
 そんなことはない? ありがとう。
 しかしお嬢さん、今さら『ユノ』の管轄だった研究所を調べてどうしようというんだい。『ユノ』は滅んだだろう。それとも俺と同じような歴史学者かい?
 違う? 見つかっていなかった『ユノ』のサブ・コンピューターが、今さら動き出した? それで、再びこの国を支配しようと企んでいる、だって?
 それはまずいことになったな。すると何だ、お嬢さんは『ユノ』を阻止しようとする組織の一員か何かか。
 え? それも違う?
 大昔のこの国からやってきて、この国の情報を支配している『ユノ』なら過去に帰る方法を知っているんじゃないかと思って探している、だって?
 まさか、タイムスリップなんて……って、嘘をついている顔でもなさそうだな。
 信じるのか、って? 可憐なお嬢さんの言葉を信じないで何を信じろと言うんだい。まあこういう奴ほど詐欺に引っかかりやすい、っていういい例だったりするんだが。でも、信じるさ。
 お嬢さんは、俺の話も信じてくれたしな。
 ただなあ、お嬢さん。いくら『ユノ』でもそんなことを知っているとは限らん。それに、どちらにせよ人間を支配するようにプログラムされている『ユノ』がお嬢さんにそう簡単に情報を教えてくれるとも思わんだろう。
 だから、俺が協力してやろうじゃないか。俺の持っている情報は出来る限りお嬢さんに差し上げよう。そして、『ユノ』に近づく手助けもしてやろう。それに、混沌としたこの時代、女の一人旅ほど危ないものはない。仲間は一人でも多い方がいいだろう。
 何、要するにギブアンドテイクさ。お嬢さんは俺の力を借りる。そして俺も『ユノ』に近づいて壊すチャンスを窺うと同時に、お嬢さんの持つ『ユノ』に改竄されていない過去の知識を教えてもらうってわけだ。こいつは歴史学者の俺様にとっては願ってもいない話でね。
 どうだい、悪い話じゃないんじゃないかな。気に食わなければもちろん乗らなくても構わないよ。俺は俺の道を行く。お嬢さんはお嬢さんの道を行く。一期一会。それはそれで素敵な話だ。
 ――そうか。一緒に行こう、と。
 どうやらお嬢さんも詐欺には引っかかりやすいタチみたいだな。いや何心配するな、俺は嘘はつかん。嘘をつこうとすると脳がショートするようにプログラムされている……というのは真っ赤な嘘だが。
 大丈夫だ。そんな不安そうな顔をしないでくれ。俺が悪かったから。
 約束しよう、俺はお嬢さんを守る。こんな長い身の上話に付き合ってくれた礼もあるしな。これからお嬢さんが元の時代に帰ることができるまで、協力しよう。
 ありがとうはお互い様だ。
 それじゃあ握手をしようじゃないか。少々力加減がわからなくて強く握りすぎてしまうかもしれないが……痛くないか? そうか。随分とかわいらしい手だな。この手に触覚が備わっていないのがとても残念だ。
 え、何かいやらしい想像していないかって? ふざけるな、俺はいやらしい想像をすると脳が破裂するようなプログラムを……って、さすがに嘘ってわかった? お嬢さん、やっぱり学習能力が高いね。
 あっ、見捨てないで! 行かないで! クレーンを再び落とそうとしないで!
 はあ……うん、俺も冗談が過ぎた。ごめんなさい。これからはお嬢さんの機嫌を損ねないように少しは自重することにするよ。少しだけな。
 そうだ、お嬢さん。
 お嬢さんの名前を聞かせてもらえるかな? これから一緒に旅するのに、名前を知らないというのもないだろう。
 ドロシー。いい名前だ。それこそ、『オズの魔法使い』の主人公の名前だったな。なるほど、こんな世界に迷い込むお嬢さんらしい名前だ。
 ああ、俺かい? 俺の名前は――。

現代悪役講義

 重たい扉を開けて薄暗い店内に足を踏み入れると、店は異様な空気に包まれていた。
 原因はわかっている。カウンター席に陣取ってグラス片手に気取っているあの男のせいだ。
 カウンターにはその男以外誰も座っていない。それどころか今日は客の姿もまばらだ。今も、一瞬前までカウンター席に座っていたらしい客が俺と入れ違いに店を出て行った。確かに、この男の近くには座りたくないと思う気持ちはわかる。
 本当ならば俺だって他の客と同じように河岸を変えてしまいたいものだが、残念ながら俺は他でもないこの男に呼び出されてこの店を訪れたのである。
 普段は俺から声をかけるのだが、今日は珍しく男の方がすぐに俺の存在に気づき、琥珀色の液体が入ったグラスから視線を上げた。
「よう」
「おう」
 俺も軽く手を上げて挨拶する。
 地味な黒いスーツに身を包み、縁のない眼鏡をかけ髪を撫で付けた姿だけ見れば、どこにでもいるような普通の会社員のよう。
 しかしこの男は常に鉄錆に似た匂いを染み付かせ、不吉な影を纏い、常人にあるまじき鋭すぎる眼光を持っていた。
 どこをどう見ても、まともな世界の住人でないことは一目でわかる。
 だが。
 そいつは今日も今日とて、焼き鳥の串片手にべろんべろんに酔っ払っていたわけで。自慢の眼光もこれでは台無しである。
「呼び出して悪かったな」
 ちなみに、便宜上鉤カッコ内では普通に喋っているように表現するが、実際にはほとんど呂律が回っていない。きちんと聞き取れるのは……俺が、ことあるごとにこいつの飲みに付き合わされているからだ。
「いや、構わんよ。明日は店休みだし」
 俺はそいつの隣に座って、同じ酒を頼む。明らかにそいつに営業を妨害されている馴染みのマスターは、それでも完璧な笑顔で応対してくれる。このマスターの懐の広さは半端ではない。しかも料理も上手くて美味いし、店としては最高だ。
 ――そう、こいつさえいなければ。
「で、今日は何なんだよ。この前のことは色々解決したはずじゃなかったのか?」
「それなんだ」
 そいつは、いつになく真剣な面持ちで……酔っ払いだから「真剣」と言っても微妙なところなのだが……俺を見据えた。
「実はだな」
 そいつの空気に飲まれた俺も何となく緊張して、思わず唾を飲み込んだが……
「俺が、新型改造人間の教育を任されたんだ」
 そいつの口から出たとんでもなくアホな言葉に、
「はあ?」
 という答えしか、返せなかった。
 きっと、正常な反応だったと思う。


 こいつは、一言で言うならば「悪の秘密結社の一員」である。
 「悪の秘密結社」というのは当人の自称ではなく俺の勝手な解釈だが、奴の演説によれば「今までの劣悪な人類に代わって我々のような新たな人類・優良種が世界を支配する、その足がかりとなる組織」ということなので、普通に考える限り「悪の秘密結社」だろう。
 で、奴が言うには奴のような「優良種」の人間というのが何だか不思議な力を持っているらしく、その力で世界をひっくり返そうとしているとか何とか。俺も奴が持っている不思議な力については知っているし、見たことだってある。
 だから何だ、と思うのだが。
 ついでに、「悪の秘密結社」があるということは、「正義の味方」というやつも当然いるのだそうで。
 俺たちのような一般人には知られていないが、奴の言う「優良種」でありながら現状維持を望む連中がいて、そいつらは一般人に気づかれる前に、秘密結社の破壊工作や支配計画をことごとく潰して回っているらしい。ご苦労さん。
 しかしそうされては困るのが、奴なわけで。
 奴が「正義の味方」に負ける度に、何故か一般人である俺が奴の愚痴と飲みに延々と付き合わされる羽目になっていた。


 の、だが。
「……まず一般人の俺に、一からやさしく説明しろ。新型改造人間って何だ」
 改造人間って。しかも新型って。俺が「悪の秘密結社」と呼ぶとそいつは怒るというのに、俺の知らない間にどんどん「悪の秘密結社」らしさが増してきているような気がしてならない。
 俺の当然の疑問に、そいつは眼鏡の下の目をすっと細めた。
「ふっ、これだから劣悪種は」
「帰るぞ」
「すみませんちょっとでいいんで話を聞いてください」
 席を立ちかけた俺を必死で引き止める奴。「全ての劣悪種の上に立つ優良種」であるはずのお前が何故そんなに俺には弱いんだ、と聞きたくなるが、きっと聞くとしくしく泣いて鬱陶しいのでやめた。
「我が組織では、優良種が劣悪種を支配すべく行動を広げているのは貴様も知っているだろう」
「ああそりゃあ嫌というほど聞かされましたからねえ」
 そして、その行動がことごとく「正義の味方」に潰されていることも。偉そうに言っているが、結局のところそいつの言っていることが成功した例はないのだ。
 俺の知っている限り、ただ一つの例を除いては。
「だがしかし、優良種とは優良である分、劣悪種に比べると絶対数が少ない。もちろん我らの力をもってすれば数の不利など問題にはならないが、我らが司令官は、新たな人材を一から『創る』ことにしたのだ。我々に決して逆らうことのない、完璧な人材をな」
「ほう、まあ考え方としちゃ悪くはねえな」
 何しろこの「悪の秘密結社」、まず人望がない。スパイを「正義の味方」に送ったと思ったら二重スパイされていたり、いつの間にか教育中の部下が全員反乱して「正義の味方」に寝返ったりとか、そんなことは日常茶飯事らしい。こいつの口から聞くだけでそんなものなのだ、実際にはもっと酷いに違いない。
「今までも改造人間を生み出してきてはいたが、今回生み出されたのは特別に改良に改良を重ねた、最強の改造人間だ。故に『新型』」
「それはわかった。で」
「俺が教育を任されたのだ」
「何でお前が」
 これは優良種とか劣悪種とか、「悪の秘密結社」とか抜きにして。
 こいつほど「教育」という言葉が似合わない男はいないではないか。
 俺の言葉をどう誤って受け取ったのか、そいつはぐぐっと体を起こし、胸を張った。
「もちろん、我らが司令が俺の功績を認めてくださったからだ」
「お前、何か功績残してたか? いつもかっこつけて現れても『正義の味方』連中に『なーんだ、お前か』って苦笑されるお前が」
「う、うるさい、そんな過去の話を蒸し返すな!」
 過去と言っているが、それは結構最近の話だった気がする。そのエピソードだけでも、そいつがどれだけ「正義の味方」に普段から馬鹿にされているのか窺える。一応俺ら一般人こと劣悪種の上に君臨しようとしている「悪の秘密結社」だが、その道のりは遥かに遠いような気がしてならない。
 一般人の俺にとっては平和でいいことだが。
 しかしそんなことでは困るのが、そいつなわけで。鼻息荒く、手にしていたグラスを置いて、俺に向き直る。眼鏡の下の細い目は、いつになくぎらぎらと輝いている。
「とにかく! 司令は前回の俺の活躍を称え、この名誉ある任務をお与えくださったのだ!」
「前回の……って、まさか、俺が案を出したやつか!」
 俺は、記憶をたどっていくうちに、そいつの言っていることを理解した。いや、「してしまった」と言った方が正しいかもしれない。
 先ほども言ったとおり、俺はいつもいつも飲み屋に呼び出されてはそいつの愚痴に付き合っている。
 ただ、一度だけ、そいつがあまりに情けないものだから、酔った勢いで「正義の味方」を撃退する方法を助言してしまったことがあったのだ。冗談のつもりで。実際、その内容も冗談そのものだったのだが。
 しかし、こともあろうにそいつは俺の冗談を大真面目に実行し……見事に、成功させているのだ。
 ギャグみたいな話だが、悲しいことに事実らしい。
 その後の祝勝会も兼ねた飲みはそいつの奢りだったため随分得をした気分になったものだったが、そうか、これでこいつが今日俺を呼び出した理由も何となく飲み込めた。
「それで……もしかして、今回も俺を頼ろうってんじゃないだろうな?」
「な、何故わかった!」
 図星かよ。いやまあ予想はしていたが。
「あのなあ、お前が俺を頼ってどうする。俺はお前の言う劣悪種で、お前の方が優秀なんだろ? なら俺に頼るまでもないんじゃねえか」
 あくまで、そいつの掲げる論理では、の話である。もちろん俺は本気でこんなことを考えているわけではない。まず、頭の回転だけならばこいつより俺の方が優れている自信はある。
 というか、ほとんどの人間の方がこいつよりはずっとまともな脳味噌の持ち主のはずだ。
「も、もちろんだ! 本来なら貴様の手を借りるまでもない。しかしだな、我らが司令は、我らに貢献した貴様に是非協力を仰げと仰っていたのだ」
「……お前らの司令も、随分寛容だな」
 優良種とか劣悪種とか、支配とか革命とか、過激なことを言ってばかりいる組織の割には俺みたいな外部の人間に協力を求めるなんて妙に柔軟な司令官じゃないか。
 ――と思ったのも一瞬のことで。
「そして隙あらば貴様を我らの仲間に引き入れ、我らの思想で染め上げ優秀な幹部にと」
「それをここで言っちゃう辺りがお前だよな」
 俺はただただ呆れて溜息をついた。言われても言われなくても、どちらにせよ絶対にこいつらの仲間になる気はないのだが。思想信条以前の問題で、こんな間抜けな組織には入りたくない。
 そいつは自分の失言に気づいて口を押さえていたが、すぐに立ち直って腕を振り上げた。
「と、ととととにかく!」
「二回目だぞそれ」
「劣悪種たる貴様に拒否権はない! 俺に従い、新型改造人間の教育を行うのだ! さあ来たれ、我が新たなる同志よ!」
 そいつが唐突に吼えて、ばっと勢いよく手を上げた。
 ……今、ここに来るのか!?
 俺はグラスを置いて思わず周囲を見渡す。目の端で、カウンターの向こうのマスターも、流石に雲行きが怪しいと思って表情を少しだけ曇らせた。
 新型改造人間ということは、いわば戦隊ものでいう「怪人」ってやつだろう。そんなものが店にやってきたら、いくら客が少ないこの場でも、大騒ぎになるに決まって……
「は、はいっ、お呼びでしょうか」
 って……え?
 俺の背後から聞こえたのは、妙に上ずった声で。
 ゆっくりとそちらを向くと、そこには、そいつと同じように会社員風のスーツに身を包んだ若い兄ちゃんが立っていた。
 どこからどう見ても、普通の人間だ。
 しかもこいつ、今の今まで何事もなかったかのように店の奥のテーブル席に座っていたし。この時のためにスタンバっていたに違いない。ご苦労様です。
 俺はぎぎぎと軋み音がしそうな動きで奴に向き直ると、スーツの若い兄ちゃんを指差して言った。
「えーっと、こいつが?」
「その通り、これが新たなる同志! 新型改造人間だ!」
 改めて新型改造人間……面倒なので便宜上「怪人」と呼ぶことにするが……の兄ちゃんを見ると、何だかおっとりした表情で深々と頷いた。何だか、「悪の秘密結社」にはあるまじき、まったりとしたオーラを醸し出しているのは気のせいだろうか。
「てっきりハサミガメ怪人とかそんなんだと思ってたが……普通の人間型なんだな」
「はい。私は劣悪種の社会に溶け込み、内部から崩壊を促すという目的の元に作られた存在ですので」
 怪人は言ってにっこりと笑った。おっとりした物腰の割に、言っていることはものすごく物騒だ。流石は「悪の秘密結社」の怪人。上司であるこいつよりもよっぽど悪っぽいのは何故だ怪人。
「とはいえ、まだ言語と我らの思想を学ばせただけだ。これから、劣悪種の社会について学ばせなくてはならない。そのためにも貴様を利用させてもらう」
「素直に『協力してください』って言われりゃ考えてやってもいい。言わなきゃ帰る」
「協力してくださいお願いします」
 ……弱いなー、こいつ。
 普段以上に腰が低いことから考えるに、多分、この「怪人」の教育を成功させないと司令から島根支部への異動を通達されるとか、そんなものだろう。
「わかったよ、やりゃあいいんだろ、やりゃあ」
 俺はやる気なく手を振って、横に座った怪人を見る。怪人は「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
 正義だろうと悪だろうと、礼儀正しいのは大切なことだ。いつも無駄に偉そうなこいつにも是非真似させるべきだと思う。
「しっかし、教育ったってなあ……」
 俺らの社会を勉強させろ、と言われてもこいつらの目的が目的だ。俺としては大人しくこいつらに従ってやる義理もない。いっそ、とっとと帰って何もかもを忘れてぐっすり寝てしまいたい気分ではある。
 ただ、俺に対し過度な期待を込めたそいつの目と、俺を見上げるキラキラ輝く怪人の目を見ていると、ついつい逃げてはいけないという気分になってしまう、笑えるくらいお人よしな俺。
 さて……どうするか。
 追加で怪人の分の酒と自分のお代わりを頼みつつ、俺は肘をついて考える。
 そして、ついに思いついた。間違いなく、俺にとってもこいつらにとっても一番平和的と思われる解決方法を。
 俺は新しいコップに注がれたウイスキーを少しだけ舐めてから、にやっと笑ってみせる。
「わかった。まず、お前が学ぶべきなのは、献身の精神だ」
「……献身、ですか?」
「そう。俺を含めた劣悪種と呼ばれる連中の中に溶け込むには、まずそいつらに対して献身的な精神を持たなくてはならない」
 怪人はふんふんと首を振りながら大人しく人の話を聞いていた、のだが。
「待て! 何故優良種たる我々がわざわざ劣悪種に献身しなければならない?」
 やはり口を出してきたのは奴の方だった。いくら間抜けなこいつでも、流石に俺の言っていることが変だということはわかったらしい。しかし、そうやって切り返されるのはわかりきっている。
 だから、俺はちっちっと指を振ってやった。そりゃあもうそいつの神経を逆なでするくらいにわざとらしく。
「いいか? この兄ちゃんの役目はあくまで潜入だ。溶け込むことだ。そのためには、俺らに認められなきゃならない。認められるためには、尽くし、愛する精神を持って人と接するのが一番手っ取り早い。そんなこともわからねえのか?」
「うっ」
「確かに劣悪種にこびへつらうのはお前の美学にゃ反するんだろうが、その美学ってやつに拘ってるから、お前はいつも失敗するんだろ。違うか?」
「うぐっ」
 明らかに図星を突かれたようで、顔が赤くなったり青くなったりする奴。こいつの場合本当に赤くなったり青くなったりするから見ていて面白いのだが。
「世界を征服するには、まずはご近所づきあいから。お前の人柄や行動で近所のおばちゃんたちの心を掌握できれば、お前らの支配は一歩近づくことになる。俺らの世の中ってのはそうやってできてるんだよ」
「くっ……何という面倒なシステムだ、劣悪種の世界は……だからこそ我々は力で支配を」
「だからお前は黙ってろって」
 情け容赦なく、俺はそいつの頭を思い切り殴りつける。どうせ、どんなに力をこめて殴っても、自称「優良種」のそいつのこと、俺程度の拳骨じゃ痛くも痒くもないだろうし。
「べ、勉強になります!」
 そして怪人は、やっぱり目をキラキラさせながら俺を見上げてるし。
 だが、それでいい。
 俺は手にしたグラスを傾け、鷹揚に頷いた。
「俺から教えられるのはそれだけだ。後は、こいつが見本を見せてくれるはずだ」
「は!?」
 突然話を振られるとは思っていなかったらしい奴は、ぐぐっと顔を俺に近づける。多少広くなり始めている額には、漫画か何かでしかお目にかかれない見事な青筋が浮かんでいる。
「貴様、何を言っている? 何故俺までもが……」
「教育係はお前だろうが。怪人くんを正しい悪の道に導くのはお前の役目だろう」
「我々は悪ではないし、こやつは怪人ではなく新型改造人間だ!」
「はいはい、どっちでもいいから」
 こいつが何を言おうとも、俺にとってこいつらはどこまでも「悪の秘密結社」である。自分でも、「正しい悪の道」がどういうものかはわからないし、まず「正しい悪」っていう地点で何かが間違っているような気もするが。
「それに、ここがお前のリーダーシップの見せ所だぞ。ここでかっこよく見本を見せることが出来れば怪人くんはお前を尊敬するだろうし、お前の言う司令さんだってお前さんを見直すんじゃねえかなあ?」
 にやにやと笑って言うと。
 そいつは握りこぶしに力を込めて、きっぱりはっきり宣言した。
「よし、やるぞ!」
 何という単純明快思考回路。扱いやすいったらありゃしない。
 だからこそ俺はこの厄介極まりない「悪の秘密結社の一員」が、今の今までどうしても嫌いになれないのであるが。
 怪人は怪人で「はい、先輩!」とめちゃくちゃいい笑顔で返事をしているし。何だろう、この無駄に体育会系なノリ。こいつらが所属する「悪の秘密結社」の気風なのだろうか……むしろ傍から見る限りでは「正義の味方」っぽいテンションになっているが。
 奴は勢いよく席を立つと、拳を天井に突き上げて高らかに言う。
「そうと決まったらすぐに行くぞ! 近所の奥様方の信頼を得て、我らが組織に貢献するのだ!」
「はい、ご近所からじわじわと我らの支持を広め、劣悪種の連中が気づかぬままに支配の基盤を得るために、私、誠心誠意頑張りたいと思います!」
 物騒なのにどこか抜けた会話を繰り広げながら、こうして二人は意気揚々と店を後にした。
 残されたのはカウンターの上で空になった二つのグラス、奴が食べていた鳥の串。
 そして、ウイスキーが半分くらい入ったグラスを手にして呆然とする、俺。
 ……あれ?
 こちらをじっと見つめる困り顔のマスターを見上げ、やっと俺は現在の状況を認識した。
「こいつらの酒代、俺が払うのか?」

 どうやら俺も、あいつらのことを「抜けている」とは言えないのかもしれない。


 あれから、一ヶ月が過ぎた。
 店を開けるために外に出た俺は、今日も今日とて小さく溜息をついてそれを見る。
 黒いスーツを身に纏った、集団。ぱっと見どこにでもいるサラリーマンか何かに見えなくもないが、その全てが異様な雰囲気を身に纏っている。
 そんな連中が。
 ――街中の清掃活動を行っている。
 そいつらの中にしっかり混ざっていた例の怪人は、店の前に突っ立っている俺の姿を見るなり、弾けるような笑顔で頭を下げた。
「おはようございます!」
「あ、ああ、おはよう……」
「お仕事ですね、今日も一日頑張ってください! 私たちもお仕事頑張ります!」
 ああ、と生返事をしつつ見れば、黒スーツの先頭に立っているのは件の奴である。偉そうな態度はいつも通りだが、近所のおばちゃんたちには珍しく自分から頭を下げて挨拶をしている。
 ついでに、奴らが行っているのは清掃だけではなかった。横断歩道を渡ろうとするおばあちゃんの荷物を持ってやったり、スクールゾーンを通ろうとする車を注意したり、果てには近所のおばちゃんたちと井戸端会議に興じていたりもする。
 初めこそ妙な目つきで見ていたご近所の皆様も、あくまで献身的に何の見返りも求めず働き、しかも愛想もよいこの黒スーツ連中を、段々と受け入れ始めていた。
 そして、本来なら支配すべき劣悪種相手に奉仕活動を行う奴をはじめとした「悪の秘密結社」の連中は……全員が全員、何故か輝いた顔をしていた。
 まるで、俺たち劣悪種の支配という「目的」よりも、この「手段」に生きがいを感じてしまっているかのように。
「平和だな、この世の中」
 だから俺は、よく晴れた青空を見上げて今日もちょっぴり苦笑い。


 奴ら「悪の秘密結社」がこの世界を征服する日は、まだまだ遠い。