2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

四日目のソリティア

 以前から、ネイト・ソレイルには気になっていることがありました。
「先生、この箱は一体何なんですか?」
 先生の書斎の机の上には、いつも箱が置いてあるのです。そこには、ネイトにもわかる文字で、今日の日付と数日後の日付、そして「オレからオレへ」という、先生のことをよくを知らない人から見れば何を言っているのかさっぱりわからない一行が書き加えられたメモが貼り付けられているのでした。
 ネイトの当然の問いに対し、先生は箱を覗き込もうと机に近寄るネイトにあからさまに顔を歪めて早口で言うのです。
「それに触らないでください近寄らないでください絶対にそこで」
「わっ」
 けれど、それは、床に積まれていた本に足を引っ掛けた、ネイトの喉から出た声に遮られてしまいます。
 そして、次の瞬間、慌てて伸ばした手が空を切り、その勢いのまま机の上の箱をひっくり返してしまったのでした。
 ネイトが机の縁にしがみつくと同時に、ばらばら、と何かが落ちる音。そんなネイトの頭の上から、先生の呆れ声が降ってきました。
「……言っても無駄なのは何となくわかってました」
 しっかりしているようでそそっかしいネイトのことを、先生はネイト以上にわかっているのかもしれません。ネイトはもちろん認めたくありませんでしたが。
 とにかく、ひっくり返してしまった箱の中身を元に戻さなければ、と思ったところで、ネイトは箱をかぶせられていたそれが一体何であったのか、やっと目にすることになりました。
「これ、チェス盤と駒……、ですよね」
 そう、升目の描かれた板に、白と黒の、役職を象った駒。それが何であるのかは、流石にネイトだってわかります。そして、先生も立ち上がって床に落ちたチェスの駒のひとつを拾い上げながら、軽く口元を歪ませます。
「見ての通りです。まあ、今日の棋譜は覚えてるんで置きなおせばいいだけですが」
「なんで箱をかぶせてあったんですか?」
 最後に箱を拾い上げるネイトにの問いに、二人で拾った駒がきちんと揃っているかどうかを確かめていた先生が、ぽつりと言いました。
「『四日後の自分』と勝負するためです」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。いえ、よく考えてもわかりませんでした。そして、ネイトがわかっていないことを先生も察したのでしょう、へらへらと笑いながら軽く肩を竦めて見せます。
「ほら、オレの記憶ってば三日とすこしで消えるわけでしょう。だから、その間チェス盤を目にしていなければ、『四日目の自分』は盤面を知らない」
 そう、先生の記憶は三日とすこししか保ちません。それはネイトも重々思い知らされていることでありました、が。先生はいたって軽い口調で言い放つのです。
「要するに未来のオレに挑戦状を投げつけて遊んでるんですよ。未来のオレが、過去のオレに勝てるかどうかね」
 かつ、かつ、と音を立てて先生はチェス盤の上に駒を置いていきます。ネイトもチェスのルールくらいは知っていますが、先生が並べているのは最初のポジションではなく、既に数手進んだ後のもののようでした。ここからどうやって詰みに持っていくのか、を考える、所謂「ソリティア」――「一人遊び」というものでしょう。
「……それって、楽しいんですか?」
「頭の体操にはなりますよ。四日前のオレは随分ひねくれた手を考えてきやがりまして、詰みに持っていくのに結構手間でした」
 ですから、四日後のオレにはもっと苦労してもらいたいところですね、と笑いながら駒を置く先生を、ネイトはなんとも複雑な気持ちで見つめていることしかできませんでした。
 先生はそうやって笑ってみせますが、それは、こんな一人遊びだけでなく、他の何に対しても同じなのです。四日後の先生は、四日前のネイトを覚えていない。常日頃から先生が持ち歩いている手帳に書かれているのは記録であって、記憶ではないのです。
 そういうものですから、と笑う先生を見るたびに、確かに仕方ないのだと思う気持ちと、そうではないのだという反発の気持ちが複雑に混ざり合って、どうしても上手く言葉が出なくなってしまいます。
「何変な顔してんですか、ネイト。ただの暇つぶしですよ」
 そう言いながら、先生はネイトに手を伸ばします。箱を返してくれ、ということなのでしょうが――。
「そんなことしている暇があるということは、当然原稿もできてるということですよね?」
「うっ」
 ネイトのもっともな言葉に、先生は言葉を詰まらせます。つまり、原稿は全く進んでいない、ということでしょう。いつもへらへらと何かを誤魔化すような態度の先生ですが、こういうところばかりはやけに素直なのです。
 だからこそ、だからこそ、余計にネイトの怒りに火がつくわけで。
「原稿ができるまで、これは返しませんからね!」
 箱を高く持ち上げるネイトに対し、先生はしばらくネイトから箱を奪い返そうとしていましたが、やがて諦めたのか唇を尖らせて言いました。
「いいですよー、また別の遊び考えますから」
「そういうことじゃありません!」
 かくして、今日も、ネイトと先生の、原稿を巡る堂々巡りは続くのでした。

麗しのガートルード

 先生にはいくつもの悪癖がありますが、そのうちのひとつが女癖の悪さ……、というよりも、極端な「惚れっぽさ」と言うべきかもしれません。最近、担当編集たるネイト・ソレイルはそう思うようになっていました。
 裏通りの花を売る店で遊んでいる分には、相手も商売ですし、先生もそれをよくよくわかっているようなので、そこまで心配はしていないのです。先生は裏通りでは妙に評判がよく、悪い噂をひとつも聞かないところも、ネイトが安心している理由でありました。
 もちろん、夜遊びばかりで原稿に取り組まないようでは本末転倒なので、ネイトはしっかり先生の財布の紐を握り、監視するようにしておりますが、時たま、人に迷惑をかけずに遊ぶ分には、苦い顔をしながらも了承することにしています。先生は、縛りすぎても鬱屈を溜め込んで時々爆発させてしまう、とても面倒くさい人種なのです。
 最大の問題は、その辺を歩いている女性に、本気で「惚れ込んでしまう」ことがある、ということです。
 しかも、その女性というのが善良で純朴な、それこそ先生の言葉を真に受けるような相手であれば――それはそれで問題ですが――ともかく、先生が惚れる女性のほとんどが、先生の盲目ぶりに付け込むような輩なのです。先生にはいい薬、かもしれませんが、何せ先生は三日とすこしで自分のしてきたことを忘れてしまうので、何度も恋をして、その度に破れ続けるということを、懲りることなく繰り返すことになってしまうのでした。
 ネイトがずっと監視していればそんなことにはならないのかもしれませんが、先生の人間関係に口を挟むのは流石に担当の仕事を逸脱しています。いえ、口を挟むくらいはしてしまうのですが、無理に引き剥がすことまではできないまま、今日も唇を尖らせたまま寝台に転がっている先生をちりちりとした視線で見やるのでした。
「ネイトー、酒ください酒! 今日というこの日くらいはいいでしょう、原稿も終わったんですから!」
「それは前回の二週間過ぎ去っていた〆切の分です。今回の〆切は三日後ですから、禁酒は続けてもらいます」
「ネイトってば融通が利かないんですから。こういう時は気を利かせてショットの一杯くらいは奢るのが大人ってもんですよ」
「他の人にはそうしたかもしれませんけど、二日前に見かけた女の人にふらふらと引っかかった挙句、財布の中身を全部つぎ込んでしまうような大人に奢るお酒はありません」
「だって! あんなオレの理想の女性、他にいないって……」
 がばっと寝台から起き上がった先生の言葉尻が萎んでゆきます。先生は寝台の上でも色眼鏡を外さないため、今の先生がどういう目つきをしているのかネイトにからはわかりませんが、しょぼん、という音が聞こえてくるような。くしゃくしゃに濡れそぼった犬のような。そんな風情で先生はがっくり肩を落としました。
「運命のひとだと思ったんですけどねぇ……」
「その言葉、つい一週間前にも聞きましたからね」
「覚えがありませーん」
 実際に覚えがないのですから性質が悪いのですが、それはそれ。
 ネイトは先生の枕元に置かれている手帳をぱんぱんと叩いて言います。
「先生が今までどれだけ女の人で失敗してきたのか、全部書いてあるでしょう。知らないとは言わせませんよ」
「……いや、まあ、はい……」
 そう、記憶が「三日とすこし」で消えてしまう先生は、逐一記録をとっているはずなのです。どれだけの失敗も、どれだけ恥ずかしいことであっても、同じことを繰り返さないための大切な「安全装置」として記録しているはずなのですから、同じ失敗を何度も何度も繰り返すのは言語道断というものです。
 その上、ネイトはいつもよりも腹が立って仕方ないのです。先生の悪癖はわかっているつもりでしたが、それにしたって。
「それに、『この前と同じひと』に惚れてまったく同じように貢いで捨てられて! 反省ってものはないんですか?」
 手帳をひったくろうとしたネイトの手が空を切ります。ネイトの手が触れる前に、先生が素早く手帳を自分の懐に収めたのでした。こういう時ばかりは勘がいいのに、どうして女性に対してその勘が働かないのでしょうか。むっとしながらも、ネイトは言葉を続けます。
「ガートルード、って前にも聞いた名前だって言ったじゃないですか。流石に同じ名前の別人ってことはないでしょう?」
 昨日までの浮かれた先生は、何度も何度もその人の名前を呼んでいたのでした。ガートルード。その時点で釘は刺したはずだったのですが、一度相手に惚れ込んでしまえばネイトの声など一切聞こえなくなる先生です。結局、以前と同じように、そのガートルードさんに貢ぐだけ貢いで、そして見事に袖にされたらしいのが今日の話。
「先生はわかってないのかもしれませんけど、きっと、向こうは先生のことを利用できるだけ利用するつもりですよ。その、」
 これを言っていいのかどうか、ネイトは一瞬迷いました。ただ、今だけははっきりと釘を刺さなければならないと腹を括って、その言葉を吐き出すのです。
「先生が『忘れてしまう』ことをいいことに」
 先生は、まくしたてるネイトに対して、流石にばつが悪いと思ったのでしょうか、ただでさえ下がり気味の眉を更に下げて、ぼそぼそとこう言いました。
「わかってましたよ」
「え?」
「わかってましたよ、利用されてることくらいは。多分、これが最初じゃないんだろうなってことも、流石にわかります。オレだって、覚えてなくても相手の態度で色々推測はできます」
 それでも、と。先生は言うのです。ぐっと拳を握り締めて。
「惚れちまうもんは仕方ないんですよ!」
 あ、これは全く反省してないな、と。ネイトはもはや呆れるしかありませんでした。
「きゅんと来ちまったらオレ自身にもどうにもできないんですよ! 気を引きたい! 抱きしめてもらいたい! 愛してほしい! あわよくば一緒になりたい! そう思うのはもはや人の本能というもの! ああ、麗しのガートルードちゃん、どうしてオレのものにできないんですか……」
 何となくわかってはいましたが、ネイトがいくら言っても無駄だからこそ「悪癖」なのです。相手が全く先生のことを愛する気なんてないことをわかっていたとしても、先生はいつだってその人を好きになってしまう。愛してほしいと、思ってしまう。
 一体、先生にそれだけの思いを寄せられる「ガートルード」とは何者なのだろう、そんなことを思いながらも、ネイトはついつい唇を尖らせて言わずにはいられません。
「惚れたからって、お金で相手の気を引こうだなんて、不誠実だと思わないんですか」
 先生のやり方は、ネイトから見れば相当稚拙なものです。高級な料理屋に誘い、欲しいといわれたものを何でも買い与え、相手の言いなりになる。それは、どう考えたところで恋人、と呼ばれる関係とは到底言いがたいものでした。
 しかし、先生はネイトの嫌いな、左右が不釣合いな笑みを浮かべて言い放つのです。
「オレには、それくらいしか『誠実な』やり方がないんでね」
 ……先生は、「三日とすこし」よりも前の出来事を忘れてしまうから。
 せめて「形に残るもの」で相手の、そして自分の心を繋ぎ止めたい、という先生の気持ちは、ネイトも、全くわからないとは言い切れないのです。
 けれど、それは単なる言い訳だ、とネイトは思うのです。
 先生はそれが「不誠実」だとわかっているから、そういう言い方をするのであって、だから、だから――。
 その先は頭の中ですら上手く言葉にならなくて、ネイトは行き場のない思いを指先にこめて、先生の白髪混じりの金髪をわしゃわしゃするしかないのでした。
「ぎゃー! 頭はやめてください頭は!」
 先生の悲鳴も聞かぬふり。
 昨日までこっちの話もろくに聞いてくれなかった先生にはいい薬です。
 そんなことを思いながら、ネイトの指先は先生の頭にある旧い傷痕に触れるのでした。

先生は空想を愛する

「先生、エドガーさんからこれを先生に、だそうです」
「……エドガー?」
 分厚い封筒を手にしたネイトの言葉に対し、ぽかん、とした返事が返ってきます。こういう時の対応はネイトも慣れたものです。その度に感じる胸の痛みは消えませんが、それでも「正確な情報」を書斎の椅子に腰掛けて、まっさらな原稿と睨み合っていた先生に伝えます。
「エドガー・シュルツェ警部。数日前に先生がエドガーさんに頼みごとをしてた、と聞きましたけど」
 その間に、一旦ペンを置いて手元の手帳――文字と数字が入り乱れる暗号だらけで、書き手以外の誰にも読めないそれをめくっていた先生は、手をふと止めて、分厚い色眼鏡越しに目を見開きます。
「ああー! うわっ、ほんとに持ってきてくれたんですね。いやあ、義理堅いですねエドガーも」
 いつもはどこか含みのある引きつった笑い方か、人を小馬鹿にしたような笑い方をする先生には珍しく、喜色満面、という言葉がよく似合う笑顔でした。
「これ、一体何なんですか?」
「お、ネイトも見ますか?」
 その間、先生の筆が止まるのは確実なのですが、あの真面目なエドガー警部の手で厳重に封をされた封筒を見ていると、ネイトの中の好奇心もむくむくと膨らんできます。大したものではない、けれど、先生を笑顔にしてくれるもの。果たしてその正体が何なのか、ネイトも知っておきたかったのです。
「はい、後学のために」
「はは、後学にもならねーですよ、何せぜーんぶ過去のお話。とはいえ、話題の種にはなるかもしれませんね」
 先生はペーパーナイフで膨らんだ中身を傷つけないように丁寧に封を切り、その中身を白紙のままであった原稿の上にばら撒く。
 それは……、無数の、色あせたカードでした。
 カードの裏面は皆同じ、隣国であり、五年前までは敵国であった帝国を示す茨の紋章。そして、表に描かれているのは、戦車や戦闘艇、銃やミサイル、基地や塹壕など、どうにも物騒なものばかりで、実際にそこに添えられている記述も、戦争が終わった今となってはただただ滑稽に思えてくる、見ている者の士気を煽りたてるような稚拙な文面でした。稚拙であるとネイトに判断できたのは、先生から少しばかり帝国語を教わっていただけのネイトでも、ある程度読み解くことができたからです。
 ただ、その中に、ひとつ、きらりと輝くようなカードを見つけた気がして、ネイトはついそれに手を伸ばしていました。引き抜いてみれば、それは他のカードよりもずっと色鮮やかで、巨大な槍を手に握り締めて霧を薙ぎ払う、武骨だけれども機能美を感じさせる、青い全身鎧の巨人であった。
「わーお、レアの『|戦乙女《ヴァルキューレ》』、『蒼のオルトリンデ』じゃねーですか。ダブってんのだけくれ、って言ってこれも入ってるとは、ガキの頃は相当遊んでたみたいですねえ、あいつも」
「『|戦乙女《ヴァルキューレ》』……、これが」
 戦時、特に帝国との争いが激しかった時代を知らないネイトでも、名前くらいは知っていました。海上での高機動戦闘を得意とする女王国の蟲型兵器『|翅翼艇《エリトラ》』に対し、どのような戦場でも全力で戦えるよう設計された帝国の汎用人型兵器『|戦乙女《ヴァルキューレ》』。この二者は、何度も霧の海で対峙し、そして激しい戦いを繰り広げた――と、伝えられています。
 先生はネイトの手の中で今もなお鮮やかに青く輝く鎧の乙女を眺めながら、歌うように言います。
「そう、これが『|戦乙女《ヴァルキューレ》』。と言っても『|戦乙女《ヴァルキューレ》』は帝国の秘密兵器。その正確な姿形、そして能力は軍の上層部と当の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』だけが知るもので、これもカードの絵描きが想像した姿に過ぎません」
 このカードは、戦時中、娯楽への締め付けが進む中で数少ない子供たちのための娯楽として作られたカードゲームなのだと先生は教えてくれました。今ここにあるカードは、帝国にいた頃、女王国へ亡命してくる前のエドガー・シュルツェ少年が友人と遊んだ思い出の品であるようです。
 とはいえ、カードに添えられた絵や言葉の通り、戦争を模した遊びを通じて帝国への忠誠と、女王国との戦争に対する肯定感を刷り込ませる類のものであったことも間違いはないですが、と。そう言って、先生は苦笑を浮かべます。
「たとえば、ほら、見てくださいよ。これ、何だと思います?」
 先生はカードの山をがさがさと探り、一枚のカードを引っ張り出してみせます。
 そこに描かれていたのは、一匹の機械仕掛けの蟲でした。無数の歯車を噛み合わせて作られた禍々しいフォルムに、邪悪に釣りあがった複眼、鋭い牙を持つ口元。それでも、背から伸びる青い二対の翼と、細長い尾という特徴には覚えがありました。
「……もしかして、『|翅翼艇《エリトラ》』の第五番、『エアリエル』ですか?」
「そう、帝国からはこのように見えていた、ってことです。いや、こう『見せようとしていた』という方が正しいですね。強大で邪悪で、けれど正義の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』たちに叩き潰される蟲。それが向こうから見た『|翅翼艇《エリトラ》』です。これも当然、想像による絵にすぎませんが」
 ただ、少年たちの間では「これはこれで悪者っぽくてかっこいい」と妙に人気だったみたいで、狙いが外れちまったらしいですけどね、とは笑いながらの先生の談。特に『|戦乙女《ヴァルキューレ》』は女性を模していて、実際に女性しか操れないものであったらしいので、少年達の憧れが禍々しくも強大な力を持つという機械仕掛けの蟲『|翅翼艇《エリトラ》』に向くのも、わからないでもありませんでした。
「まあ、確かにかっこいいかもしれませんけど。悪者として扱われているのは気分のいいものではありませんね」
「と言っても、これは帝国だけの話じゃなくて、|うち《女王国》も全く同じことでしてね」
 先生は立ち上がると、書斎の本棚の中から、一冊の分厚い本を取り出しました。本、というよりもアルバム、でしょうか。開いてみれば、そのアルバムは机の上にばら撒かれたそれとよく似た――けれど、女王国語で解説が書かれたカードに埋め尽くされていました。
「これは、女王国の出版社が戦時中に発行したカードゲームのひとつです。これとこれを見比べてみてください、随分な違いでしょう?」
 先生は、アルバムの中の一枚のカードを指します。それは、透き通った二対の翼を広げてのびのびと霧を裂く、すらりとした尾が神秘的な青い蜻蛉の姿。翅翼艇(エリトラ)エアリエル。帝国側のカードに描かれていたものとは、まるで別の機体に見えました。
「帝国にとって敵だった女王国の秘密兵器『|翅翼艇《エリトラ》』は、当然女王国から見れば正義の兵器なわけです。故に、絵師も想像力を駆使して気合を入れて仕上げるわけですよ。ガキの眼って案外誤魔化せないもんで、だからこそ芸術品としてもなかなかの出来栄えになります。そういうとこが好きで、使いもしないカードを集めちまうんですよね」
 芸術品。確かに、ネイトの眼に映る想像上の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』や『|翅翼艇《エリトラ》』はその言葉に相応しい荘厳さを称えていました。それが「子供たちの戦意を煽る」という目的で作られたものでさえなければ、素直にその美しさを賞賛していたと思います。
 そう、どうしてもネイトはものとその背景を上手く切り離すことができないでいます。そんなネイトを先生は「頭が固いですねえ」と苦笑しながらも、否定はしないでいてくれています。実際今もそうで、先生はただ、アルバムをめくるネイトを穏やかに眺めるだけ。
 と、アルバムを繰るネイトの手が止まりました。目の端に映った、見覚えのある色に気づいて。
「あ、これは、ボクも持っていました」
 それは、黄色を基調に描かれた――蜂、に見えました。三つに綺麗に分かれた胴に、上下で大きさの違う翅翼。その、鋭くも僅かに丸みを帯びた、有機的なフォルムは無邪気な子供だった頃のネイトには純粋に「きれい」なものに見えたものでした。
 すると、先生はにた、と唇に笑みを浮かべて言います。
「お目が高い。|翅翼艇《エリトラ》第四番『キング・リア』じゃねーですか。オタクもゲームやってたクチです? オタクの頃には廃れてたかなと思ってたんですが」
「あ、いえ、これは幼い頃に一番上の兄にもらったんです。ダブったから、って」
 ゲームのルールなど把握もできなかった頃の話。だから、きらきら光る蜂のカードは「宝物」として大切にしまっていたはずで……、それ以上のことは思い出せずにいます。あのカードは、どこに消えてしまったのでしょうか。
 ――|翅翼艇《エリトラ》第四番『キング・リア』。
 名前だけは知られているのに誰も姿は知らず、どこまでも想像によって描かれた蜂型の船は、伸び伸びと全身を伸ばした『エアリエル』とは正反対に、どこか思案げに体を丸めているようでした。
「ゲームでも現実の戦場でも、一番弱く、それでいて一番『迷惑』な札ですね。乗り手は」
「アーサー・『|狂騒の女王蜂《ノイジー・クインビー》』・パーシング。第二世代では唯一生存したまま終戦を迎えた|霧航士《ミストノート》ですよね」
「そして、二度と表舞台には出てこない|霧航士《ミストノート》でもあります」
 先生が説明を加えるまでもなく、ネイトは先生の著作『霧の向こうに』に彼の末路が明確に記されていることを知っています。
 ――アーサー・パーシングは、戦場での経験が魂魄を蝕んだ結果発狂した、と。
 どこかに消えてしまった、蜂のカード。どこかに封じられた、その操り手。
 想像することしかできないネイトは、鼻歌を歌いながら過去の「想像」の塊であるカードの山を一枚ずつ確かめる先生の横顔に、ここにいるはずのない|霧航士《ミストノート》の、知らない横顔を重ねるのでした。

霊視、承ります

 ネイトは緊張の面持ちで、二度目となる店の前に立ち尽くしていました。
『霊視、承ります』
 狭い入り口にかけられた看板は、店の名前すら書いていないあっさりとしたものです。他の「霊視」を謳う店は、神秘性を強調するいくつものキャッチフレーズが並べ立てられているものでしたが、この店はそれだけが書かれた看板、一枚。そして、今日に限ってはその下に『休業中』の札がかかっていました。
 少しばかりの躊躇いはありましたが、どうしても主人に挨拶をするだけの理由があったので、ネイトはそっと扉をノックするのです。
 すると、ぱたぱたという足音が近づいてきたかと思うと、うっすらと扉が開き、その向こうから分厚い眼鏡をかけた女性が顔を見せました。その顔にはネイトも見覚えがありました。昨日まさしくこの店で顔を合わせた、自称「霊能力者」の女の人、でした。と言っても、昨日は喪服のような黒いドレスに黒い帽子から垂らしたヘッドドレスと、明らかに「霊能力者」然としていましたが、今は簡素なワンピースにカーディガンを羽織っただけの姿で、それだけ見ればどこにでもいるような……冴えない顔つきも相まって、街中に紛れていてもおかしくない、ただの女性にしか見えませんでした。
「どなた? 今日は、店は休みだよ。臨時休業」
 そう呟く女性の唇の色は悪く、顔色もまるで幽霊のよう。分厚い眼鏡越しにもわかる、べったりとした隈を含めても、どう見ても健康そうには見えません。確かに、これは一日ゆっくり休んでもらいたい雰囲気ではありました。けれど、顔を合わせてしまった以上は、ネイトも勇気を振り絞って名刺を取り出すのです。
「ボクは雑誌社プラーンシールのネイト・ソレイルと申します」
 女性は木の枝のような細い指先で名刺をつまむと、目を細めてネイトを睨みつけます。
「取材はお断り」
 ぴしゃり、と言い切られてネイトは鼻白んでしまいます。そしてそのまま扉を閉められそうになったので、慌ててドアの隙間に足を挟みました。先生との攻防でもよくやる手なので、ネイトのブーツはそんな時のために、かなり丈夫にできているのです。
 かくして、扉を閉め切ることのできなかった女性があからさまに嫌な顔をするのにもめげず、ネイトは慌てて付け加えます。
「今日は取材ではなく……、あ、いや、確かに昨日はそのつもりでしたが」
「昨日?」
「はい。昨日のお詫びに来たんです! と言っても、ボクはメッセンジャーなんですが」
 そう、ネイトがここにいる理由は先生のメッセンジャーなのです。今朝、先生は「オレが行くときっとまた気分悪くさせちゃいますから」と苦笑して。
「『嫌なもの見せてごめんなさい、金はそのまま貰ってください』、と」
 そんなメッセージを、ネイトに預けたのでした。
 女は分厚い眼鏡の下で目をぱちくりさせた後、名刺とネイトとを見比べて、それからふと息をついたのでした。
「そう。……君、昨日のあの客のお付き」
 暗く囁くような声と共に、少しだけ。それこそ、ネイト一人分がぎりぎり通れるだけの隙間が、扉と壁との間に開きます。
「入って。こちらこそ昨日のお詫び。お茶くらいは、出すよ」
 
 
 昨日。
 ネイトと先生は、連れ立って鈍鱗通りの片隅に位置する建築物の前に立っていました。いくつかのちいさな店舗が入っているそこに、かの「霊能力者」の店はありました。
「終戦前後から『霊能力者』をうたう商売をする連中が増えてきたのは間違いないことでしてね」
 先生は三日とすこししか記憶が保ちませんが、そうなってしまう以前のことはよく覚えています。そして、そんな「昔の話」をする時は、いつも以上に饒舌なのでした。後ろで一つに結った白髪混じりの金髪を霧風に揺らして、よく通る声で言うのです。
「戦死や病死による離別を経験した人に付け入る、似非霊能力者ばっかりですけどね。死者の言葉、なーんて適当なことをでっちあげて、善良な市民から金を巻き上げる連中がほとんどです」
 ネイトとしては当然ながらいい気分ではありません。何かを失った空隙、人の心の弱さに付け入るようなことが、許されていいとは思いません。
 が、それはそれとして、これはれっきとした『取材』なのでした。
 最近首都で密やかに話題に上るようになった、とある「霊能力者」の取材。それがこの日のネイトに課せられた仕事でした。手に握った地図に従って、辿りついたのがこの、名前もわからないちいさな店でした。
 見かけでは「店」であるかどうかすらもわからない佇まいが不気味で、ネイトはあえて明るい声で先生に問いかけます。
「先生は、霊能力を信じているんですか?」
「ん、信じてるような、信じてないような。『オレの目に見えないもの』はそう簡単には信じられない、けれど単純にオレが観測したことがない、だけかもしれないですしね」
 先生の言葉は人を煙に巻くような色合いを帯びていました。この人はいつもそうなのです。たくさんのことを喋っているように見せて、大事なことばかり喉の奥に飲み込んでしまいます。と言っても、今回ばかりは、別段何かを誤魔化すような調子ではなく、単純に愉快がっているだけのようでしたが。
『霊視、承ります』
 扉の看板――木の板に乱暴に彫られただけの文字を、先生は指先でついとなぞって。
「というわけで、お手並み拝見、と行きましょうか」
「……っていうか、先生?」
「はい?」
「何で、ついてきてるんですか?」
 これは「ネイトの取材」であって、先生の取材ではありません。どう考えても、先生は自分の原稿を放置してここにいるのです。しかし、ネイトの眼力などどうということもない、とばかりに先生は空々しく口笛を吹いてみせるのです。
「面白そうじゃねーですか。似非霊能力者様が、オレに何を言ってくれるのか。そのために金だって用意してきたんですよ?」
 今この瞬間の好奇心。それが、記憶を三日とすこしで失ってしまう先生にとっての最大の原動力であることを、ネイトはよく知っています。先生の生き生きとした顔をみると、内心ほっとするのも事実です。
 そして、その手の好奇心は――ネイトの中にも少なからずあるわけでして。
 ネイトは霊能力というものを信じているわけではありません。不愉快であるとすら思います。けれど、実際にどういうものか目にしてみたい、話を聞いてみたい、という欲望を否定はできないのでした。
「余計なこと言わないでくださいよ、先生」
「そりゃあもう。オレは話のわかる紳士ですから?」
 これっぽっちも信用ならないことを言いながら、先生はネイトよりも先に、店の扉を叩きます。すると、内側から「どうぞ」という、低い女の人の声が聞こえてきました。
 先生は臆することなく扉を開きます。すると、独特な、少しばかり煙たさを伴う甘い香りがネイトの元まで漂ってきました。扉の中は薄暗く、ところどころに置かれた燭台の蝋燭がちらちらと炎を揺らしています。扉を閉めた途端、外の音もまるで聞こえなくなってしまい、まるで――世界から、この空間だけが切り離されたかのような。そんな錯覚に、ネイトは息苦しさを覚えます。
「こんにちは、ちょっくらお邪魔しますよ。オタクが腕のいい霊能力者だって聞きましてね。ちょっとご相談に来たって次第です」
 一方の先生はいたって普段通りの調子で、ずかずかと上がりこんでいきます。細い入り口の先には狭い部屋があり、そこに大きなテーブルが置かれていました。燭台の灯りだけではその全容を把握することはできませんでしたが、奇妙な形の像やら何やらが、天板に複雑な影を落としています。
 そして、先生の背中越しにテーブルの向こう側を伺うと、そこに座っていたのは、一人の女性でした。
 薄明かり越しにもはっきりとわかる、黒い喪服を纏った黒髪の女性。黒い帽子から垂らされたヘッドドレスが顔を覆っており、表情や顔立ちは定かではありませんでした。
「……そう」
 ぽつり。落とされた声は先ほどと同様に低く唸るようで、それもまたネイトの背筋をぞわりとさせます。顔のわからない女性は、黒い服とは正反対のしらじらとした痩せた手で対面の椅子を指します。
「どうぞ、お連れ様と一緒におかけになって」
 取材、という言葉を出すべきかどうか悩んでいるうちに、先生はさっさと上着を椅子の背に引っ掛けて座ってしまいました。その横顔は明らかにうきうきとしています。挑戦的、と言い換えてもよいと思います。
 ネイトも居心地の悪さを感じながら横に座ったところで、女性が聞こえるか聞こえないかくらいの声で囁きかけてきます。
「それで、何のご相談でしょうか」
「実はですね、妙に頭が重いっていうか、何かが覆いかぶさってる、みたいな感じがずうっとありましてね。医者に聞いてもよくわかんないって言われちまって、もしかして『憑かれてる』んじゃねーかって。何かわかったら教えていただけません?」
 随分ぺらぺらと出まかせが言えるものだ、とネイトは感心しかけて、ふと、「頭が重い」ということ自体は決して嘘ではないということを思い出します。先生はいつも、頭痛や倦怠感を散らす薬を他の薬と一緒に服用しているので、要するに持病というやつです。そして、かつてネイトには『あくまで薬は症状を散らすだけで、原因の解決にはなりませんけどね。そもそも原因不明なんですから』と言っていたはずです。
 つまり、全てが嘘というわけではないのでしょうが、原因がまさか霊のせい、とも思えませんでしたし、先生もそうは思っていないのでしょう。口元の挑戦的な笑みは消える様子がありません。
 果たして、目の前の女性はそれに気付いているのか気づいていないのか。うつむきがちの姿勢で先生の話を聞き届けた後、ぎりぎりこちらに届くくらいの声音で言いました。
「わかりました。それでは……、相談料を、いただいてもよろしいでしょうか?」
「はいはい、先払いね。おいくら?」
 女性が先生に向けて呟いた値段は、ネイトの感覚からすると相当お高いものでした。特に、霊能力などという胡散臭いものにそれだけの値段を支払えと言われたところで、ネイトなら絶対に財布の紐を緩めることはないでしょう。
 しかし、先生にとってはそんなもの、お遊びのためのポケットマネーの一部でしかないのでしょう。先生は、作家としての原稿代とは別に、一生遊んで暮らせる程度のお金を抱えているようでしたから。ですから、言われた通りの金額をぽんと現金でテーブルの上に置いて、口の端を深く歪めるのです。
「それじゃあ、よろしくお願いしますよ」
 女性はテーブルの上の金を手にして、提示した金額であることを検めます。やがて、そっとテーブルの横の箱にしまうと、改めて先生に向き合いました。
「では、拝見いたします」
 その言葉と共に、女性は顔を覆っていたヘッドドレスを持ち上げました。薄明かりの下でもはっきりとわかる、隈の浮いた、妙にぎょろりとした目。酷く顔色が悪いことも相まって、女性自身が幽霊であるかのような錯覚を覚えて、ネイトは喉元まで出かけた悲鳴を何とか飲み下します。
 そんな女性の双眸が、先生に向けられた、その時でした。
「…………っ!」
 女性の表情が、明らかに引きつったものに変わりました。ただでさえ悪い顔色が更に蒼白になり、次の瞬間には椅子を蹴るようにして立ち上がり、奥にあった扉の向こうへと消えていってしまいます。一体何が、と思う間もなく、……微かに。扉越しなので微かに、ではありますが、愉快ではない音が聞こえてきました。おそらくは、胃の中のものを吐き下している、そんな音。
 ネイトは呆然としてしまいます。もちろん呆然としていたのは、ネイトだけではなく先生も同じで、珍しくぽかんと口を開けたまま、その場に固まっていました。
 それでも、我に返ったのは先生の方が早かったようで、「しまった」と露骨に眉を顰めて呟いたのです。
「行きましょう、ネイト。これ以上、オレがここにいるのはよくねーです」
 先生は勢いよく立ち上がり、椅子の背にかけていた上着をひったくるように手にしてそのまま店を飛び出してしまいます。ネイトは先生と、店の奥とをしばし見比べていましたが、結局先生を追って店を出てしまったのでした。
「先生! 今……、何が、あったんですか?」
 どう考えても「霊能力者」の女性の反応は異常でした。突然体調を崩した、にしてもあまりにもタイミングができすぎていて……、明らかに「先生を見た」結果としてこの場を離れたようにしか見えなかったのです。
 ネイトの問いに対し、先生は色眼鏡越しの視線を店の扉に向け、声を潜めて言いました。
「あれこそが霊視ってやつですよ」
「え?」
「いやー、そういう人種がいるとは知ってましたが、こんなとこで『本物』にお目にかかるとは思いませんでした」
「本物……、ですか!?」
「ええ。本物である以上は、変に騒ぎ立てない方があのお姉ちゃんのためでしょうねえ。記事にすんなら別の奴探して適当に取材した方がいい」
 本物の霊視ってのは、そのくらい繊細なものなんですよ。そう付け加えて、先生は溜息をつきながら頭を掻くのです。
「ほんと、嫌なもん見せちまいました。こりゃ後でお詫びしねーとですわ」
「嫌なもんって……、先生、ほんとに何かに憑かれてるんですか?」
「さあ、どうでしょうねえ?」
 にたり、と笑う先生でしたが、先ほどのような挑戦的な表情というよりは、どこか力ない笑い方でした。そういう、何かを誤魔化すような顔をする先生が、ネイトは好きではありません。ただ、ネイトがそれを指摘するよりも先に、先生が口を開いてしまうのでした。
「さあさあ、代わりの霊能力者を探しましょ。今日中に取材しないと、原稿書くのも間に合わねーでしょ」
「先生に言われたくないです!」
 言い返しながら、つい、ネイトは霊能力者の店を振り返ってしまいます。
 あの女性が本物の霊能力者だったとしたら。ネイトはどうしても考えずにはいられません。
 ――あの人は、一体先生に「何」を見たのだろう?
 
 
 昨日はあんなに重苦しく感じた部屋でしたが、今日はどの家でも使われている記術灯があかあかと部屋を照らしあげていて、微かに染み付いた香のにおいがするだけでした。ネイトが昨日彼女と向き合った時は不気味さが勝りましたが、こうして、改めて明るい光の下で観察してみると、水晶の塊やちいさな石像、なんだかよくわからない針金細工など、統一感のないものが割と乱雑にテーブルの上に並べられていたことに気付きました。
「あの、これらは、何のためのものですか?」
「ただの飾り。それらしく見えないと、霊能力者の店っぽくないかなって」
 ネイトの問いに対し、彼女の言葉はいたってあっさりとしたものでした。思わず目をぱちくりさせるネイトに対し、部屋の奥に向かおうとしていた彼女は振り返って、鳥のような細い首を傾げます。
「幻滅した?」
「いいえ。……少し、驚いただけです。そんな簡単に、種明かしをしてもらえるなんて」
「だって、隠す意味ない。君は店の客じゃないし」
 ――君になら、言ってもいいと、思った。
 ぽつりと、それだけを付け加えた彼女は、それきり何も言わずにネイトに背を向けました。ネイトは言われた言葉の意味がわからずにぽかんとしてしまいましたが、彼女がどんどん奥に向かっていくのを見て慌ててそれを追いかけます。
 そうして、彼女に導かれた先は、どこにでもあるようなちいさな食卓でした。客間も兼ねている、のかもしれません。テーブルに椅子、棚などはごくごく質素なものでしたが、椅子のクッションやテーブルクロスには細かなレースの飾りが見受けられました。
「どうぞ、適当に座って。お茶、用意する」
「ありがとうございます。本当は、こちらが謝罪する立場なんですが……」
「それは、あたしも同じ。何も言わずに、いなくなっちゃったから。……だから、このくらいは、させて」
 そう言って、部屋の片隅のちいさな台所に向かいます。ネイトは言われたとおり、椅子に腰掛けながら、奥の彼女に向かって語りかけます。
「いえ、あれは……、急に具合が悪くなってしまったんですよね。それは仕方ないことですし、先生も全然怒ってないですよ。むしろ先生は『オタクが「本物」ってわかっただけ十二分です、興味深い体験でした』ってへらへら笑ってました」
「うわっ、あれ、見せるつもりで見せてたんだ。性格悪い」
「見せる……?」
 そう、先生はこの霊能力者のことを「本物」だと言ったのでした。先生の言うとおりであるとすれば、この人には何かが「見えて」いたに違いありません。……それこそ、吐き気を催すくらいの、何かが。
「その、昨日は、一体何が見えていたんですか?」
 先生はいつも軽薄な態度で誤魔化して見せますが、言葉にできない色々なものを抱えている、ということはネイトも察しています。察してはいますが、それが「どのようなもの」なのか具体的に知る機会は結局無いままでいました。
 ですから、興味はあったのです。果たして、先生の背後には何が見えたのか。
 しかし、ネイトの問いに対し、紅茶のポットを持って戻ってきた彼女はうつむき加減の姿勢で首を横に振ってみせたのでした。
「お客の話だから、それは言えない。お金も貰っちゃったし。それとも『聞いていい』って言われた?」
 その問いかけに、ネイトは一瞬答えられませんでしたし、彼女はそれが答えだと受け取ったのでしょう。それ以上は何も言わずに、温かな紅茶をネイトの前に差し出すのでした。
「ミルクと砂糖は適当に。あと、何かあったかな。お茶請け」
「あっ、いえ、お構いなく」
 ネイトの言葉もろくに聞いていないのか、再び奥の方に戻ってごそごそし始めた彼女が、不意に「うぁー」と呻きともなんともつかない声を上げました。
「超不味いスコーンあるんだった。減らすの手伝って」
「は、はあ、いただけるならいただきますけど、超不味いってめちゃくちゃ不安ですね」
「何か配分? 焼き加減? 間違った、んだと思うんだけど。よくわかんない。とにかく不味いから覚悟して」
 更に不安なことを言いながら、彼女は山盛りのスコーンと、マーマレードとジャム、そしてクロテッドクリームの皿が載ったものを持ってきました。見た目は普通のスコーン……、に、見えるのですが。
 恐る恐る、一つを手にとって、試しにマーマレードをつけて、口に運んでみます、が。
「……、なんとも形容しがたい、食感がします」
 食べられない、というほどではありませんが。それでも、ジャムやクリームをたっぷりつけて、紅茶と合わせることで何とか飲み下せる、という類の不可解な食感。スコーンという言葉や見た目から想像されるものとは明らかに違う何かを食べている、という奇妙な体験でした。
「でしょ。ほんと、幽霊が見えるだけしか取り得がない」
 言いながら、女性も細長い指でスコーンを一つ手に取り、もそもそと食べ始めます。その仕草だけ見ていると、やはり、多少風変わりではありますが、それでも昨日のような不気味さとは無縁のただの女性に見えました。
 それでも――、彼女は言うのです。
 幽霊が見える、と。
「……あなたには、本当に、幽霊が見えているんですね」
 ネイトも、既に、疑う気はなくなってしました。昨日の異様な様子、先生の言葉、それに彼女の態度。どうやら、ネイトの目には見えない何かが、彼女に見えるらしいということは間違いなさそうでしたから。
 そして、彼女もそんなネイトに対して、こくりと頷いて言うのです。
「そう。霧に焼きついた魂魄の痕跡、って言った方が正確だけど。子供の頃から、そういうものが見えたり、聞こえたりする」
「霧に焼きついた、魂魄の痕跡……、ですか?」
「幽霊って、そういうもの。人が強く強く思ったことは、ひととき、霧に焼きつく。死の間際に見た光景だとか。死にたくないって感情だとか。誰にでも多少はわかるものだけど、あたしは、人よりそれをはっきり感じやすい、みたい」
 君も感じたことはないか、と彼女は問う。街中を歩いているとき、もしくはどこか曰くつきの場所を訪れたとき。そういう場面で背筋がぞくりとしたり、何となく嫌な感じがしたり。そういう感覚こそが、「幽霊」の痕跡であることが多いのだ、と。
「だから、店やってる。って言っても、君の言う『先生』みたいのはレアで、八割思い込み。だから、そういうときはお金、返してる。何も見えないのに、言えることないし」
 もしかすると、店の名前もない、ちいさな店でありながら密かに話題になっているのも、彼女のそのような対応ゆえ、なのかもしれません。見えるものは見えるという。見えないものは見えないという。故にこそ「本物らしさ」として噂になっている、のだとは思うのですが、その一方でネイトはにわかに不安になってしまいます。
「それで、商売は成り立ってるんですか?」
 ネイトの言葉に対し、彼女は紅茶のカップを持ち上げようとした手を止めて、「ふふっ」と目を細めて笑います。
「君、なんか変だ」
「変、でしたか?」
「今まで、そんなこと、聞かれたことなかったから。あ、君がおかしい、って話じゃない。ダメ、言葉の選び方、下手くそ」
 眼鏡の下の目をきょろきょろとさせながら、彼女は言います。どうもこの女性は、喋ることがあまり得意ではないようでした。ただ、その言葉に悪意がないことは、ネイトにもわかりましたから、全く嫌な感じはしませんでした。本当に、ただただ言葉を選ぶのが苦手なだけ、なのだと思います。
 ネイトの中で、最初に感じていた不気味さや奇怪さよりも、「霊能力者」という肩書きを持つ彼女への興味の方が俄然大きくなっているのを感じます。そんなネイトの表情を見てほっとしたのか、彼女は再びうつむきがちになりながらも、ぽつぽつと言葉を続けます。
「えっと、商売としては、全然赤字。でも、最近は、物好きなひとの交霊会に呼ばれたりして、店以外のとこでお金貰ったり、少し、貯えもあるから。だいじょぶ」
 なるほど、霊能力者を名乗る人々が広まりつつあるのと同時に、霊能力者を招いて死者との対話を図ろうとする交霊会という会合が開かれているといいます。主に上流階級、もしくは中流でも上層に位置する人々の一種の娯楽として行われているものだ、とネイトは聞き及んでいました。
 彼女の噂はきっと、「本物らしい霊能力者」として、その手の人々の元にも届いているということでしょう。プラーンシール社で取り上げたいと言われた理由もよくわかります。
 その上で、先生が「彼女を取り上げるのはよくない」と言ったのも――先生とは違う理由でしょうが――正解だと思いました。噂、くらいでちょうどいいのです。話を聞く限り、彼女は別に「有名になりたい」わけではなさそうでしたし、仮にもっと名前が知られてしまっても、上手く人とやり取りができるようには見えませんでしたから。
 そんな彼女は、紅茶を一口含んだ後に、目を激しく瞬きさせながら言いました。
「うん、ここまで、喋ったの、初めてかも。聞いてくれてありがと」
「こちらこそ! 興味深いお話をありがとうございます。それと、これは個人的なお話として胸に留めておきます。今日は、仕事ではなく本当にご挨拶に来ただけなので」
「そっか。……うん、気分も楽になった。あたし、仕事以外で人と喋ったりしない、からさ」
 それから、細い指を組んで、躊躇いがちに口を開くのです。
「あのさ。そう、もし、よかったら、だけど」
「はい、何でしょう?」
「君の話も、聞かせてくれるかな。編集のお仕事、とか。普段どんなことしてるのかな、とか。気になる」
 ほとんど消え入るような声。多分、それは彼女なりの、なけなしの勇気だったのかもしれません。
 温かい紅茶に、お世辞にも美味しいとはいえないスコーンを前に。ネイトが彼女に興味を持っているように、彼女もまた、ネイトに興味を持ってくれているのだとわかり、ネイトは嬉しくなってしまいます。
「喜んで! ただ、その前に」
 その前に、という言葉に彼女の表情が強張ります。……本当に、この女性は仕事の外で人と喋ることに慣れていない、のでしょう。ネイトはその反応に自然と笑ってしまいながら、ずっと頭の片隅に引っかかっていた問いかけを投げかけます。
「順番が前後してすみません。あなたのお名前を、伺ってもよろしいですか?」
 そう、そんな初歩的なことを、今の今まで聞けていなかったのでした。
 彼女はその言葉に「あ」という顔をした後に、にっと笑顔を浮かべて、言ったのでした。
「ベアトリス。トリスでいい。よろしく、ネイト」

はらわたの六花

『先生』カーム・リーワードの行動は、担当のネイト・ソレイルからすればいつも突然で。
 今日も原稿をほっぽりだして、どこに行くのかと思えば「墓参り」なんて嘯くのです。今まで先生が誰かの墓参りに出かけたことなど一度もなかったので、ネイトは思わず問い返してしまったものでした。
「それを口実にサボろうという魂胆ですか?」
「流石に死人を理由にするのは後ろめたいですよ。知り合いの命日が今日だと思い出したんで、挨拶の一つくらいはしようか、って程度です。すぐ帰りますよ」
 先生の色眼鏡越しの視線は、カレンダーに向けられていました。過ぎ去った日をバツ印で潰しながら、日々の予定をそれはもう微に入り細に入り書き込んでいるそれで、先生はかろうじて「自分が生きている日」を把握するのです。
 先生は白髪混じりの長い金髪を結いなおし、大事な手帳に今日のペンを手挟んでネイトに向き直ります。
「で、ネイトはどうします?」
「もちろん、お供しますよ」
「ですよねぇ」
 何せこの困った作家先生は、下手に目を離すと大変なことになってしまいますから。
 
 
 先生の目的地は、鈍鱗通りのミスティア教会の裏手に位置する墓地でした。ここはネイトもよく知っています。出版社に雇われる前は、随分ここの墓守にお世話になったものです。
 と言っても、今日は墓守の老人は不在のようで、見知った見習いの少年が霧深い墓場を案内してくれました。
 先生の知り合いの墓は小さなものでしたが、墓石は綺麗に磨かれ、花が供えられていました。おそらくは家族がいるのでしょう。命日には欠かさず挨拶に来て、花を供えてくれる家族が。
 先生は道中で買ってきた白い花を手向け、右手を胸に当てて黙祷を捧げます。ネイトも名前と生没年しかわからないその人の魂魄が無事ミスティアの元に還っていることを祈ります。
 先生の過去を、ネイトは正確には知りません。戦時は時計台(女王国軍本部)に属していたというくらいで、それ以上のことは――想定はできても、先生の口から語られることはありません。時折、泡のように吐き出される断片的な思い出話と、先生の綴る「作品」そのものだけが、先生の過去を思わせるものでした。
 やがて黙祷を終えた先生が顔を上げて、ネイトを振り返りました。
「さて、用事も終わったことですし、飯屋にでも寄って帰りますか?」
「すぐ帰るって言ってました、よね?」
 ネイトは先生を睨みつけます。これは先生の常套手段で、一度でも外に出てしまうと、適当な理由をつけて結局なかなか家に帰ってくれないのです。そんなに原稿が嫌なら作家など辞めてしまえばいいのに、と思ったことは一度や二度ではありません。が、今日も先生はあくまで作家先生カーム・リーワードなのでした。
 かくして先生は「はいはーい」というとぼけた返事をネイトに投げかけて、存外素直に踵を返してくれそう、だったの、ですが。
「おやぁ?」
 一度は家の方向を向いた足が、何故か墓地の奥へと向けられてしまいます。ネイトは慌ててその後を追いかけます。と言っても、普段より一段と深く感じられる霧の中で先生の目を引いたのは、すぐそこにあった……、無数の花が捧げられた区画でした。
 ――共同墓地。
 身寄りのない、もしくは誰かもわからない人々が葬られた場所。特に、戦時から戦後にかけての混乱に際しては、この小さな鈍鱗通りの墓地にも、何人もの名も知らぬ人が葬られたといいます。ネイトがこの通りにやってきたのは戦後のことですから、当時の混乱はあくまで墓守づてに聞いた話ではありましたが。
 しかし、先生の興味を引いたのは墓地そのものではなく手向けられた花のようでした。服や靴が汚れるのにも構う様子もなく、土の上に膝をついてひとつの花を眺めているようでした。
「先生! 何してるんですか!」
「何って、だってネイト、こんな花、見たことあります?」
 声音には、墓地という場には似合わない好奇心が満ち満ちていました。この人はいつだってそうなのです。ネイトも仕方なく先生の横にしゃがみこんで、先生の言う「花」に目をやって――思わず、声を上げました。
「透明な……、花?」
 そう、それは、喩えるならば硝子細工のような花でした。茎や葉には微かに白い色がついていますが、それも半分透けていて、花は完全な透明。複雑な形状の六枚の花弁がまるで雪の結晶のように、霧明かりを浴びてきらきらと輝いているのでした。
「触るのははばかられますけど、作り物、にも見えないから不思議ですね」
 先生は姿勢を変え、手帳に何かを書き込みながら、いくつもの方向からその花を眺めます。図鑑でもこんな花は見たことがありませんよ、とぶつぶつ言いながら、完全にその花に意識を持っていかれているようでした。これは、力ずくでも引きずって帰らなければならないだろうか、とネイトが思いかけた時、横合いから声がかかりました。
「それは『獣のはらわた』にだけ咲く花なんですよ。一度摘むと三日もしないうちに霧に溶けてしまうそうです」
 見れば、鍔の広い帽子を目深に被った墓守見習いの少年が、いつの間にか側に立っていました。先生はその声でやっと我に返ったらしく、服のあちこちについた泥にも構わずに言います。
「『獣のはらわた』? あんなとこに花とか咲くんですか」
『獣のはらわた』。それは、この女王国首都の地下に存在する巨大な迷宮です。
 はるか昔、この島を荒らしていた巨大な鉱物獣を、初代の精霊女王エリアが討伐した際のこと。女王の力で獣の姿形は大地へと還りましたが、ねじくれた腸だけは地中深くの迷宮と化したといいます。もちろん記録すらも定かでない建国時代のお話ですから、真実かどうかを確かめる術はネイトにも、それに先生にもないでしょう。
 ただ、『獣のはらわた』が現在も前人未到の迷宮として首都の地下に存在している、ということだけは事実でした。
「『はらわた』には地上では見られない植物が多く見られるそうですよ。俺も詳しくは知らないんですが」
 少年は帽子の鍔を下げて言います。……ネイトは、この少年とはほとんど言葉を交わしたことがなかったことを思い出していました。寡黙で、自分から話をするということが少ない少年でした。
 そんなことも知らない先生は、「へえ」と嬉しそうに言いました。
「そりゃあ俄然『はらわた』にも行ってみたくなりますねぇ」
「ダメですよ、先生。法律で立ち入りが禁止されてるんですから。っていうか、入り口知ってるんですか?」
「知りませんけど、上層は家なしの住処になってるって話ですし。探せば案外簡単に見つかると思いますよ」
 それはネイトも噂として知っていました。地上に家を持てない人がいることも。そのような人の一部は、雨風をしのぐために地下で肩を寄せ合って暮らしているのだということも。
「多分、見つかると思います。俺も、そこから来ましたから」
 ぽつりと、墓守の少年が呟いた言葉に、ネイトは思わず「え?」と聞き返してしまいました。それはネイトも初耳でした。
「俺、親も家もなくして、『はらわた』に逃げ込んだんです。でも、そこで出会った人に教会に連れて来てもらって、ここで仕事させてもらってるんです」
 この花は、ここに連れて来てくれた人が手向けた花なのだそうです。と言っても、その人が直接手向けたものではなく、人づてに託されたらしいのですが。
「ここには、その人がとても大切にしてた人が、眠ってて。だから、俺の手で眠りを守ることが、その人への感謝と……、になると、思ってます」
 ネイトには、少年の声は一部聞き取れませんでしたが、先生は「なるほど」と頷いて、少年に向かって言いました。
「オタクも若い身空で大変な思いをしたんですね。ま、人生これからですからね。精々頑張ってくださいよ」
 先生には珍しく茶化した様子もなく、ぽんぽんと少年の帽子を叩き、ついでとばかりに問いを投げかけます。
「ちなみに『その人』はどうして直接来ないんです? 人づてに渡せるってことは、自分で来てもよさそうなもんですけど。『はらわた』住みの連中だって、地上に買出しに来るって話じゃないですか」
「その人だけは『はらわた』から出ようとしないんです。俺の時が例外だっただけで。俺もあれ以来、その人の姿を見たことは、ないです」
 出られない、ではなく、出ようとしない。
 その言葉を聞いて、ネイトの脳裏には闇にぼんやりと照らされた横顔が浮かびます。
 実は、ネイトも先生と出会う前に『獣のはらわた』に潜ったことがあるのです。そこで、不思議な男の人と出会ったことがあったのでした。
 少年の言う「その人」とネイトが出会ったその人が同一かはわかりませんが、外に出ようとしない、という姿勢は同じでした。あの人は今も『はらわた』に暮らしているのでしょうか。ランタンの頼りない灯りを頼りに、この花を丁寧に摘み取っていたのでしょうか。
「奇特な奴もいるもんですねえ。ああ、お話ありがとうございました、いいもんを見せてもらいました」
「いえ。お役に立てたなら幸いです」
 少年は帽子の鍔に手をかけて一礼しました。墓守は決して帽子を外さないものです。曰く「女神様に顔向けできる仕事ではないから」。ともあれネイトは先生と一緒に会釈を返して、帰路につきます。
 墓地を出るまで、先生は妙に静かでした。あの花のことを考えているのだろうか、と思っていると、墓地を出たところで不意に口を開きました。
「感謝と、贖罪。事情は知りませんけど、あの子は背負って生きてくんでしょうね」
 ――その贖罪に、終わりがなくとも。
 誰にともなく呟かれたその言葉を、ネイトは胸に刻み込みます。ネイトは先生ではありませんから、先生の言葉の意味全てを理解できるわけではありませんでしたが。
 それでも、三日と少しの後には必ず忘れてしまう、先生のために。

壁の暗号

 ――お引越しをすることになりました。
 そもそものきっかけは、ネイト・ソレイルが暮らしているプラーンシール社のおんぼろ社員宿舎の改築作業でした。その話を聞いた先生がネイトに「どうせ毎日オレの『監視』してるんですから、いっそここに暮らします?」と提案し、その言葉に大家兼管理人のマシューさんが同意した上で、更に「住人が増えるなら、これを機にお屋敷に引っ越さない?」と言い出したのです。
 この「お屋敷」、元々はここ鈍鱗通りでも「幽霊屋敷」と呼ばれていた、奇妙な噂が絶えない無人のお屋敷だったのですが、色々な巡り会わせの結果、マシューさんが買い取ったものなのです。この度やっと人が暮らせるくらいには修繕が済んで、ついにお引越しが始まった、というわけです。
 先生がマシューさんのところにお世話になるようになってから、大体二年とちょっとだと聞きますが、それにしては妙に膨らんでしまった荷物をより分け、不要なものを処分し――この時、めちゃくちゃ先生が抵抗しましたが、ネイトは頑張って無視を決め込みました――、必要なもののほとんどをなんとかかんとかお屋敷に運び込んで。
 かくして、元の部屋に残されたものといえば、壁一面に貼られたメモだけになりました。
 先生はその日の出来事をつぶさに手帳に記す他に、「これから必要なこと」は壁にメモとして残すようにしています。ですから、壁を埋め尽くすメモも随分と膨大になりました。
 それに、「先生のものでない」メモも随分増えた、とネイトは思っています。
 マシューさんの筆跡で書かれた、手近なお店や酒場への地図。ご飯の献立に、庭の手入れのお手伝いに関するお願い。そのうち、引越し先でも必要そうなものをより分けて、剥がして、手元の箱の中へ。いらなさそうなものは、ゴミ袋へ。
 それから、もちろんネイトの筆跡によるものも。〆切までのカウントダウン、勝手に仕入れたお酒をお酢に変えておいたというアナウンス、それに書き加えられた先生の手による罵倒。更にそこにネイトのツッコミと先生の言い訳が追加されて、それはもう酷い有様になっていました。これはひとまずゴミ袋の中へ。きっとまた、お屋敷に暮らすようになっても同じやり取りが繰り返されるのが目に見えていましたが、それはそれ。
 ついでに、「先生からネイトへの伝言」もいくつかあります。「床にものを置かない。あと、ネイトは足元に気をつけること!」だとか、「足元に気をつけろと言ったけど、頭上を疎かにしろとは言ってない!!」だとか。余計なお世話、と言いたいところですが、自分の普段の行動を顧みると言い訳できないのが困ったものでした。
 そんな新しいメモの下には、黄ばんだ古いメモ。これは、先生自身の手によるもので、ネイトには全く読めないもの。元より先生は悪筆で、先生の原稿に慣れたネイトですら時々読み間違えるくらいなのですが、そういうことではなく。先生は「自分にだけ読めればいい」メモを、暗号で残す癖があるのです。意味不明な数字と文字の組み合わせがいくつもいくつも並んでいる光景を初めて目にした時は、少なからず不気味に思ったものです。近頃は、それがすっかり当たり前の光景になっていた、わけですが。
 これに関してはどれが必要でどれが不要かはネイトにはわかりませんから、ひとまず全て引っ越し先に持って行くことにします。
 そうして、いくつものメモを剥がしては選り分け、剥がしては選り分けしているうちに、ネイトの目の前には、一際大きなメモが一枚残されることになりました。メモの中でも相当古いもの。おそらくは二年とちょっと前くらいから、ずっと貼られている、もの。
 もちろん、それもまた、奇妙な文字列で記されていて、ネイトには読み解くことができません。できません、が。
 ネイトの横で淡々とメモを剥がしていた先生が、いつもの調子で声をかけてきます。
「ネイト、とっととそいつも剥がして持っていきますよ」
「あ、はいっ」
 慌ててそのメモを剥がして、改めて手の中に収まったそれを見下ろします。
 そう、解読こそ出来なくても、今のネイトになら、そこに書かれている内容がわかるような気がしました。
 ――そこに書かれている内容は、きっと。
 
 
『オレの記憶は、三日とすこし(262143sec)しか保たない』

朝のラジオ

 ネイト・ソレイルの今日は、ラジオの音から始まります。
 微かなノイズを混じらせたラジオの音色は、だらしない割に朝だけは早い先生が起きてきた証拠です。……本当は起きて「いた」のかもしれませんが、そこを追及するのは流石にもうやめることにしています。先生はお酒かお薬がないと眠れないらしい、ということは、『監視』の名目と諸々の都合で一緒に暮らし始めてやっとわかってきたことでした。
 お酒を飲むと大概は悪酔いする先生のことなので、家中のお酒を、先生が隠したものも含めて徹底的に洗い出し、全てお酢に換えておくのは正解だとネイトは自負しています。先生がお酒とお薬を一緒に飲んでしまった日のことなど……、思い出すことすらおぞましい出来事でした。
 そんなわけで、先生は普段からお薬に頼っているわけですが、その効きが悪い日もあるのです。特に最近は薬に慣れてしまったのか、なかなか眠れていないと聞きます。今日は少しでも眠れていればいいけど。そんなことを思いながら、ネイトは手早く着替えて、鏡の前で軽く髪の毛を整えて――ちょっぴり寝癖がついているのは仕方がないものとして、部屋を出ます。
 扉を開けた途端、ラジオの音がはっきりと耳に届くようになりました。朝の時間は、いつだって同じニュースチャンネル。アナウンサーが今日の日付と時刻を告げ、首都とその周辺で起きた出来事をただただ淡々と読み上げていくだけの番組は、意外なことに先生が何よりも好きな番組なのだといいます。先生曰く「余計な情報は雑音と同じです」とのこと。先生の好みはネイトには未だに掴めないところがあります。
 ともあれ、先生は廊下を抜けた先にある居間のソファに腰掛けて、色眼鏡の下の目を擦り、欠伸混じりに手帳に何かを書き記しているところでした。お気に入りの刺繍入りベストに白いシャツ、人よりちょっぴり短い脚を気にした細身のスラックスに、ぴかぴかに磨かれた革靴。白髪混じりの金髪も既にきちんと結われていますし、顎鬚もいつもと全く変わらぬ長さで切りそろえられています。これだけ見れば隙のない様子、のはずなのですが、普段の先生を知るネイトは全く安心できません。何せこの人は、身なりを整えるのにこれだけ気を遣うわりに、ひとたび屋敷から出たら危なっかしいにもほどがあるのですから。
「おはようございます、先生」
 先生は重たそうな色眼鏡を定位置に戻しながら顔をあげ、にぃ、と笑います。左右のバランスの狂った、どこか、人を食った笑い方ではありますが。
「おはようございます、ネイト」
 その、他愛の無い言葉に、ネイトはとてもほっとするのです。いつもの先生がそこにいる、ということに。ネイトがここに来てから先生が「いつもの先生」でなかったことはないのですが、それでも、それでも。
 果たしてネイトの安堵に気づいているのかいないのか、先生は特に白髪の多い後ろ頭をがりがりとやりつつ、座ったままネイトを見上げます。
「ラジオ、うるさかったですかね」
「いえ、ボクが少し寝坊してしまいました。今日はマシューさん外出されてましたよね? 今から朝ご飯の準備しますから、待っててくださいね」
 朝ご飯、という言葉に、先生はきょとんとして、それから嬉しそうに頬を綻ばせました。「はいはーい、よろしくお願いしまーす」
 先生は料理ができません。やる気がないし、仮にやる気があっても覚えないので、これだけはもう「先生にはできない」ものだと思うしかありませんでした。ちなみに、ネイトがここに通う前にはどうしていたかというと、大家のマシューさんの御相伴に預かっていたか、そうでなければどこで流通しているものやら、元は軍用と思しき携帯食糧で済ませていた始末。ネイトが来てから先生が規則正しく朝夕の食事を摂るようになった、とマシューさんも大喜びです。……そのくらい、ネイトが『監視』を始める前の先生の食事情がどうしようもなく荒れたものだった、ということなのですが。
 台所に向かい、ちいさなフライパンを用意して、火にかけて。卵を溶いていると、微かに聞こえてくるラジオの音が変わったようでした。ニュースの時間が終わると、先生が次にかける番組は決まっています。タイトルと作曲者、そしてごくごく最低限のコメントだけが添えられる、音楽番組。古きよき歌から、最新の流行歌までをカバーするため、ネイトも毎日この時間は楽しみにしています。
 さて、今日の曲は――。
 弦の震える音に、聞き覚えのあるピアノの音。それから、伸びやかな女声が響きます。
 
  ねえ、あなたはきっと行ってしまうのでしょう?
  わかりますとも、あなたの眼に灯るほのおを見れば。
 
 ネイトは、思わず手にしたボウルを取り落とすところでしたが、何とかことなきを得ました。ネイトの料理は決して下手くそ、というわけではないのですが、どうしてもそそっかしくて、よくあちこち引っくり返して、先生に「またやったんですかぁ?」と呆れられてしまうのです。今日はなんとかそうはならずに朝食を作り終えることができそうです。ネイトの耳は、ずうっと、ラジオから聞こえてくる歌声に引っ張られていましたが。
 フライパンの上からスクランブルエッグをお皿に移し、付け合わせに缶詰の豆。塩と胡椒を振っている間に、先生の趣味で買い求めた新型トースターもしっかりとパンに焦げ目をつけてくれました。
 
  ねえ、あなたの手を握っていいかしら?
  ……最後じゃないって、信じたい、私のために。
 
 一通りの朝食を用意したところで、いつしか、その歌声に、別の声が混ざっていることに気づきました。柔らかく、どこか切ない響きの、そういう楽器なのではないか、と思わせるほどによく響く声。
 それが先生の声であることを、ネイトは知っています。ネイトが先生の顔を見てしまえば、すぐに消えてしまうものであることも。先生は歌うのは好きですし上手い方だと思うのですが、歌っているところを見られるのは嫌いという、なんとも難儀な性格なのです。
 本当はもう少し聞いていたい、と思ったのですが、このままでは折角作った朝食が冷めてしまいます。
「先生、朝ご飯できましたよ」
 そう声をかけて、皿を持っていくと、想像通り先生の歌は途絶えてしまいました。ちょっと気まずげな顔をして振り向いた先生は、けれど、ネイトの持ってきた朝食を前に頬の力を抜いたのでした。
「ありがとうございます。うん、……贅沢ですねぇ、自分で準備しなくてもいいって」
「そう思うなら少しは手伝おうって態度を見せたらどうですか?」
「オレが行ったら行ったで絶対に『邪魔』って顔するでしょ、オタク。だからこれでいいんですよ」
 まあ、確かにそうなんですけど。
 そう言いたくなる気持ちを、ぷくっと膨らませた頬に収めて。それから――、まだ続いている歌声に、耳を傾けます。
 
  ねえ、このまま、このまま、遠くへ行けないかしら。
  草原を越えて、あの山を越えて、遠くへ――。
 
 ちらり、ネイトの脳裏に閃くのは、遠い風景を眺める一人の女性の姿で。
 その人の目は、はるか、はるか、遠く。ここではない場所を見ていた……。
「ちょっと、ちょっとネイト。何ぼうっと突っ立ってんですか」
「あっ、すみません」
 慌てて食卓に皿を置いて席に着きます。すると、あたたかな食事が並んでいくのをぼんやりと見つめていた先生は、唐突に口を開きました。
「……この歌に、何か思い入れでも?」
 先生は、のらりくらりとしているようで、ひとをよく見ているひと、なのだとネイトは気づきつつあります。今だってそう。ほんの僅かな戸惑いから、ネイトの内心をずばりと言い当てて見せるのです。
 だから、ネイトは、ちくりとした胸の痛みを覚えながらも言葉を落とすのです。
「母が」
 歌声が呼び起こすそれは、自分を見送る母の顔。
 ネイト。自分をそう呼んでやわらかく微笑んだ、顔。
 その時のあの人は、とても優しい顔をしていた、けれど。
 そんな遠い日のイメージを軽く首を振ることで頭から追い出して、それから気を取り直してはっきりと言いました。
「母が、好きな歌なんです」
「確かに、ネイトの親御さんくらいの時代に流行った歌ですもんね、これ」
 先生の目はいつだって分厚い色眼鏡の下、どこを見ているのかも定かではありません。ただ、どうしてでしょうか。ネイトは不思議と、先生がじっとこちらを見定めているような気がしたのです。
 先生はネイトについて何も知りません。知らないはず、なのです。だから、何を思うこともない、はずなのですけれど。先生に見つめられていると思うと……、それも、普段は見せたことのないはずの「何か」を見られているかもしれない、と思うと体が強張ってしまいます。何も、先生に隠すつもりはない、はずなのですけれども。
 とはいえ、緊張も長くは続きませんでした。先生はいつもと何一つ変わらない、とぼけた調子で続けます。
「いい歌ですよね、オレも好きなんですよ、この歌。歌詞はありきたりかもしれませんけど、オレにとっては……」
 その後の言葉は、喉の奥に飲み込まれてしまって、ネイトの耳には届きませんでした。思い出の歌は、いつの間にか終わっていて、次の歌が始まっていました。先生は手帳に何かを走り書いて、それからペンを置いてフォークを手に取ります。
 いつもより、少し遅めの朝ご飯。ネイトは、満足げにスクランブルエッグをほお張る先生をちらりと見て、釘を刺しておくことにします。
「そういえば、先生?」
「何ですか、ネイト?」
「実は、あと三日で〆切なんですけど、原稿は進んでるんですよね?」
 その言葉に、先生は一瞬固まり、それからごくりと卵を飲み込んでみせてから、にたりと笑って首を傾げます。
「さあ……、どうでしょうね?」
「せんせぇー! 今日は! 半分書き終わるまで! 外に出しませんから!」
「ええー!? 横暴! あと三日あるんだから一日くらいのんびりしたって」
「昨日も一昨日も同じ台詞聞きましたからねそれ! 今日こそは! 仕事を! してもらいます!」
 そんなやり取りから、今日の一日が始まります。
 きっとどうということもない、先生とネイトのいつもの一日が。

ことのはじまり

 そもそものことのはじまりは、プラーンシール社の編集者が泣きながらこう言い出したことでした。
「もう私には無理です、配置換えをお願いします」
 ――これで、六人目でした。
 悪いことをした、と思いながら、コリン・フロレンスはその言葉を確かに受け取り、編集長に伝えることにしました。無理だと言われたことを続けていても、「お互いに」いいことはありませんでしたから。
 そう、きっと「先生」だっていい気分ではいられないことでしょう。
 コリン・フロレンスはプラーンシール社の編集者の一人です。ただ、いくつもの仕事を抱えていて女王国のあちこちを飛び回っているため、首都の片隅に建つ本社にいる機会はそうそう多くありません。そのため、自分が抱えていた仕事のうち、大事な一つを他の編集者に預けることにしたのです。
 それが、プラーンシール社お抱えの作家、カーム・リーワード先生の『監視』でした。
 一般的には「担当編集者」という言葉が正しいのだと思いますが、ことリーワード先生に関しては『監視』という言葉がもっとも相応しいとコリンは考えています。
 何せ、かの先生は……、放っておくと、何をしでかすのか全くわからないのです。
 散歩に出かけたと思ったらちょっとした事件に巻き込まれ、真犯人ともども警察にしょっ引かれていたり。
 〆切直前ということで部屋で閉じこもって原稿を書いていたはずが、気づいたら外をふらついていて、好みの女の子を口説いていたり。
 かと思えば、クイーンズティア川で溺れかけていたり――この時は、風に吹かれて川に落ちてしまったご婦人の帽子を拾おうと思って、誤って自分も落ちてしまった、とのことでしたが。
 ある時には行方不明になったかと思いきや、すっかり酔っ払って、酒場の看板を抱えて路上で寝ているところをお巡りさんに見つけてもらったこともありました。
 外に出せばトラブルに見舞われ、しかし家の中に閉じ込めておくことも難しい。そんなこんなのうちに、〆切を一節、時には一季以上破ってしまう。
 そういう、少々どころか相当困った人である先生には、どうしても『監視』が必要でした。本当は先生の挙動を熟知しているコリン本人が『監視』するのが一番いいのでしょうが、如何せんコリンは多忙な身なのです。先生の『監視』を他の人に頼んでなお体が一つでも足りないと思っているのですから、到底自分だけではどうにもなりません。
 しかし、この先生、問題を起こしたり巻き込まれたりする上に、とにかく面倒くさい人なのです。先生にケチをつけたくなる部分もたくさんありますが、この面倒くささが単純に「先生のせい」とも言い切れないのが、とにかく面倒くさいところでありました。
 そんなこんなで、今、ついに六人目となる『監視役』が音を上げてしまったのでした。
 これは、もう、しばらく自分がついていなければならないでしょう。……先生もまた、担当に辛い思いをさせてしまったことを、悔いているでしょうから。先生のほとぼりが冷めるまでは、新しい担当について話をしない方がいいでしょう。
 何、先生のほとぼりが冷めるのは、そう時間はかかりません。そういうものですから。ですから、コリンは次の『監視役』について思いをめぐらせるのです。
 先生は、話の通じない相手が嫌いです。一方的に話を押し付けてくる人間が嫌いなら、自分の意志を示さずに相槌を打つだけの人間も嫌いです。その上で、先生の面倒くさい性格と、性質に耐えられる強い心が必要です。時には先生を追いかけて捕まえるだけの機動力と体力も必要になります。あの先生、作家という肩書きに似合わずやたら行動力だけは高いのです。
 今回の担当は上手くやってくれると思っていたのだけれど。……いえ、上手くやっていたはずなのです、それこそ、一週間くらい前までは。その上で、この一週間で何があったのかは大体想像はつきました。ついてしまうだけに、コリンは苦々しい顔をしてしまうのです。おそらくは「事故」というべきなのでしょう。担当は悪くない、先生も悪くない。ただ、ただ、悲しいすれ違いを繰り返してしまって……、それで、もう、限界だと思ったのでしょう。お互いに。
 こんなことを繰り返しても、何もいいことはないと、コリンもわかってはいるのです。担当が変わっても、結局先生は同じことを繰り返してしまいます。担当は配置換えができますが、カーム・リーワードは一人しかいないのです。いくらほとぼりが冷めるのが早いとはいえ……、そのような経験を積み重ねている、ということは、先生のためにもよくないと思うのです。
 いっそ、筆を折ってしまえば楽なのに。コリンは、何度その言葉を飲み込んだことでしょう。
 先生の筆が遅い理由はわかりきっているのです。先生が、変な事件に首を突っ込みたがるのも。女の子に入れ込み、酒に溺れるのだって。要するに、逃げているのです。原稿と――それに付きまとう、あれこれから。
 だというのに、先生は意地でも「作家」であり続けようとします。作家、カーム・リーワードであり続けようとします。そうあろうとする理由もコリンはよく知っていて、だから、何も言えなくなってしまいます。
 せめて、側にいて、彼を見ている人がいてくれればそれでいい。それだけなのですが……、ただ「それだけ」がどうしたって難しいのです。
 はあ、と深い溜息一つ。この後、先生の様子を見に行かなければならない、と思うともう一つ溜息がこぼれ落ちてしまいます。コリン自身、先生のことは嫌いではないですが「苦手」であり、どう考えても荒れているとわかっている先生を訪ねるのはあまりにも気が重いことでした。
 その時、とん、と肩を叩く気配があって、コリンははっとそちらを振り向きます。そこには、社長兼編集長のジュード・クワインがコーヒーカップを横から差し出していました。
「コリン、今日も冴えない顔してんなあ、ほら、これでも飲んどけ」
「あ……、ありがとうございます」
 砂糖もミルクも入っていない濃いコーヒーは、あまりよく眠れていないコリンにはなかなかの刺激でした。無理をするのはよくないとわかっているのですが……、やらなければならないことは、まだまだたくさん。編集長の前でも、仕事の手を止めるわけにはいきません。
 ジュードもそれをよくわかっているので、強いてコリンを咎めることなく、横に座って言うのです。
「で、先生のお守りが音を上げたって?」
「はい。次の『監視役』を探さなければなりません」
「なら、こいつはどうだ?」
 無造作に手渡されたファイルには、栗色の髪をした少年の写真がクリップでとめられていました。少年……、少年と言って許されるでしょう。成人はしているようですが、そばかすの浮いたきりりとした顔立ちは、まだまだあどけなさを残しています。
「……この少年は?」
「今度からうちに入る、編集者希望の新人。うちの得意とする、新規技術分野に興味があるんだと。あと、カーム・リーワード先生の作品の大ファンだってな」
 大ファン。その言葉にコリンは露骨に眉を顰めずにはいられません。あの先生は、今となってはかなりの知名度を誇っている割に、自分にファンがいるなど欠片も思っていないし、ファンだという人間は「ストーカーでは?」などと切り捨てる始末。そんな先生に果たして純粋に先生の作品を好んでくれている新人を会わせていいのか、という疑念はありました、が。
「一応、俺もアレの背景はわかってるつもりだし、アレが一番よくわかってんだろうよ。このままじゃいけないってことはさ」
「そう、ですね」
「その新人、この前顔合わせしたが、なかなか骨のありそうな奴でな。頭の回転は速いし、受け答えもしっかりしてる。うちの入社基準としては文句なしだし、アレもそれなりに面白がるとは思うぜ。何よりも」
「何よりも?」
 言葉を鸚鵡返しにしたコリンに、ジュードは白い歯を見せてにたりと笑ってみせます。
「大ファンだっていう若人に迫られてたじたじになっているアレが見てみたい」
「悪趣味ですね」
 そう言いながらも、コリンもつい笑ってしまっていました。
 本当に、あの先生には困ったものなのです。だからこそ、あの先生が困った顔を見てみたい、という気持ちはコリンにもよくわかるのです。むしろ、コリンだって、常々そう思っています。
 だから……、コリンは、改めて手元のファイルを見つめます。明るく利発そうな少年の写真の横に書かれている名前を、見つめます。
 
 ――ネイト・ソレイル。
 
 果たして、君は上手くやってくれるだろうか。
 あの、人の中にいてなお「孤独」であり続ける先生を「見て」くれるだろうか。
 そんなことを、思うのです。

冷たい君のこえ

「話すことといっても、そう大した話はないんだけどな、刑事さん」
「そりゃあ、あなたにとってはそうかもしれないけど」
「それでもよければ、……喜んでお話しするよ。僕と、コノハのこと」
 公園のベンチに腰掛けた若き刑事は、ひとつ隣に座る木野下弘行に、「聞かせてもらいましょうか」と話を促した。木野下は小さく頷いて、刑事から視線を切って、公園の広々とした芝生に目を向ける。
「ここは、僕がコノハと初めて出会った場所なんだ」
「何だ、覚えてたの。すっかり忘れられてると思ってた」
「忘れられるはずもない。刑事さんには惚気を聞かせるようで申し訳ないけれど、初めて出会った時、本当に驚いたんだ。こんなに綺麗なひとが存在するのかって」
「ほんと、あなたってばいつもそんなこと言って。……悪い気はしなかったけどね」
 刑事はその言葉を聞いて、ほんの少し口の端に笑みを浮かべる。このような場で笑ってみせるのは不謹慎かもしれないが、率直に、ほほえましいと思ったのだ。
「そう、悪い気はしなかったし、わたしだって嬉しかったの。あなたのような人に出会えてよかったって、その時には本当に、本当にそう思ってた」
「僕はね。幸せ者だと思ったよ。コノハにも気に入ってもらえて、それからお付き合いが始まったんだ」
「あなたってば、蓋を開けてみれば本当におっちょこちょいで、注意力散漫で、わたしがいないと何にもできないんだから」
「そう、僕は色々と足らないところが多くて、よく怒らせてしまったね」
「怒ったんじゃないわよ。確かに、ちょっときついことは言っちゃったかもしれないけど……」
「勘違いしないでほしいのは、……そういうところも、好きってことなんだ」
「…………っ」
「怒ってるときに口を尖らせるところとか、僕に投げかけてくる言葉の一つ一つとか、そういうものが愛しくてたまらなかった。刑事さんにはわかるかな、そういう気持ち」
 刑事は「わかる気はするね」と相槌を打つ。人を好きになったことがないわけではないし、好きになればちょっとした挙動の一つ一つに愛しさを感じることも、まあ、わからなくはないのだ。
「恥ずかしいこと言わないでよね」
「恥ずかしいことかもしれないけど、……僕にとっては、大切なことさ」
 言葉を切って、木野下は刑事に視線を戻した。木野下の、切れ長の目に宿っている陰りがにわかに色を増す。
「だから、どうして」
「なら、どうして」
 
「コノハが殺されなきゃいけなかった」
「あなたに殺されなきゃいけなかったの?」
 
「僕は本当に何も知らないんだ。どうしてこの場所でコノハが死んでいたのか、何も、何も」
「嘘ばっかり。あなたがここに呼び出したのよ。話があるって言ったのに、その手で、突然わたしの首を絞めて!」
「苦しかっただろうな、辛かっただろうな、冷たくなったコノハを見たとき、本当に……、やるせなくて」
「ええ、とても苦しかった! 苦しくて、必死にもがいて、でもあなたは手を緩めなかった! わたしが冷たくなるまで、ずっと!」
 刑事はじっと木野下を見つめる。木野下は両手で顔を押さえて、ゆるゆると首を振った。これ以上は語ることも辛いとばかりに。刑事の唇から、そっと息が漏れる。
「うん、キノシタさんの言いたいことはわかった」
「わかってもらえてよかった」
「……っ、わかってない! 刑事さんは何もわかってない!」
 ベンチから腰を浮かせながら、刑事は「それじゃあ」と呑気な口調で言う。
「あと一つだけ、聞かせてもらえるかな」
「何かな?」
 木野下が顔を上げる。刑事はそんな木野下の顔を見ることなく、冬の訪れを前にところどころが枯れ気味の芝生を眺めながら言う。
「オガサワラ・コノハさんの死について。関係しそうな出来事に、心当たりあるかな」
「だめ、その人の言うことは全部嘘よ」
「心当たりなんてあるはずないですよ。僕にも、コノハにも」
「そんなの嘘! ねえ、わたしの話を聞いてよ! 刑事さん!」
 刑事は高い位置から木野下を見下ろして、鷹揚に笑ってみせる。
「ありがとう、キノシタさん。また後で何かお話聞かせてもらうと思うけど、その時は悪いけどよろしくね。これも俺たちのお仕事だからさ」
「……はい」
 木野下もゆるりと立ち上がり、「それでは」と深々と頭を下げて、その場から立ち去っていった。
 刑事は、語り手が去るのを見届けて。
 
 そして、「もう一人の語り手」に眼鏡越しの視線を向ける。
 
「いやあ、末恐ろしいねえ、君の恋人は」
「……聞こえて、いたの?」
「聞こえてるよ。だからそんなに耳元で叫ばないでね。痛いから」
 もう一人の語り手――小笠原木葉は、きょとんとして刑事を見た。
 刑事はあっちこっちに毛先が跳ねた茶色みの強い髪を掻きながら、改めて木野下弘行が去っていった方向を見やる。
「果たしてどこからどこまでがでまかせなのかわかったもんじゃないな」
 昨日、小笠原木葉がこの公園で死んでいるのが発見された。死体の様子から扼殺と断定。犯行時間は前日の夜と見られているが、目撃者はなく、捜査は難航しそうだというのが警察の現在の見立てであった。
 同棲相手である木野下弘行が怪しまれているのは確かだが、誰に対してもあの調子らしいというのがこの刑事が聞かされていた内容であった。
「ねえ、どうしてキノシタさんが君を殺したのかはわかる?」
「わからない。……そんなの、わたしにはわからないよ」
 すとんとベンチに腰掛けなおした木葉は透けた両腕で己の体を抱く。ぼやけた輪郭ではあるが、刑事の目は確かにそれを捉えている。木葉は戸惑いを隠せないといった様子で刑事を見上げていたが、不意に声を上げた。
「でも、でも! わたしがヒロユキに殺されたのは間違いないの! 刑事さん、お願い! ヒロユキを捕まえて! あの人の真意が聞きたいの!」
「とはいってもだね、君の言うことは調書に載せられないし、俺の妄言と言われてしまえばそれまでだ。実際、こうして喋っている君も俺の妄想かもしれないわけでね」
「わたし、妄想なんかじゃ……」
「君の声が俺以外に届かない以上、誰も君の実在を保証はしてくれないってことさ」
 刑事は大げさに手をひらひらさせてみせる。その様子をどう捉えたのか、木葉はしゅんと肩を落としてしまう。それでも、それでも、じっと、涙ぐんだ目で刑事を見上げるのだ。
「わたし。諦めないから。わたしの声を聞き届けてもらえるまで、絶対に諦めない」
「そうだね。俺も、諦めたつもりはないよ」
「……え?」
「俺が君の言葉を信じて捜査するのは自由だからね」
 その言葉に、木葉の表情が明るくなる。ただ、それと同時に不思議そうに首を傾げるのだ。
「でも、どうやって信じてもらうの?」
「なーに、色々やりようはあるさ。今までもそうやって仕事してきたからね、俺は」
 その言葉を木葉が信じるか信じないかは関係ない。刑事はそんなことを思い、朽葉色の目を細めて笑ってみせながらも。
「そう、起こってしまった事件をなかったことにはできないけれど」
 コートの裾を翻し、厳かに、宣言する。
「君のような人をなかったことにしないために、|警察《俺たち》はいるのさ」

なんてことない夜の話

 ビールをいっぱいに注いだグラスを手に取る。
「みんな、飲み物は持ったかー!」
「おーう」
「ばっちりですよ!」
「ではでは、乾杯!」
 乾杯の音頭に合わせて、そっとグラスを持ち上げる。グラスを打ち合わせる相手はいないけれど、歓声は確かにディスプレイの横に備え付けられた小さなスピーカーから聞こえてくる。
 ディスプレイに映し出された、黒猫のアイコンがちかちかと光る。その光に合わせて、聞きなれない女の声が聞こえてくる。
「誘ってくださってありがとうございます」
「いいってことよ。こうやって皆でわいわいする時間も、たまには必要だろ」
 俺は言いながら、ビールをぐいっと飲み干して、手酌で缶からグラスへとビールを移す。
 オンライン飲み会をしようと言い出したのが誰だったのか、俺ははっきりと思い出すことができない。ただ、このコロナ禍において誰もが鬱屈していたのは確かで、とんとん拍子に話が進み、いつもの面子で予定をあわせて、そして今日に至ったということだ。
 いつもの面子というのは、そう、いつもSNSやらゲームやら、とにかくオンラインでつるんでいる連中だ。住んでる場所も性別も職業もばらばらであるし、そもそも知らないことも多い。知る必要もないと思っている。
 もちろん顔も本名も知らなくて、ディスプレイに映し出されているのはそれぞれが設定したアイコンとハンドルネーム。
 これだけあれば、俺たちにとっては十分だ。
「今日のおつまみは何だい?」
「ふふーん、今日は奮発してピザを頼んじゃいました!」
「俺、柿の種しか用意してねーや」
 話す内容は、本当に他愛のないこと。それこそ、いつもSNS上で話していることとそう変わりはしない。
 ただ、それが「声」としてやり取りされるのは少し新鮮だ。ゲームでボイスチャットを使うことはあるが、こうしていつもの面子を集めて通話をするということは、今まで一度もなかったはずだったから。
「そっちこそ、最近仕事忙しそうだったけど、大丈夫?」
「全然大丈夫じゃねーですけど、今日が楽しみで定時で帰ってきました。明日行くの怖いな……」
「こんな状況なのに電車めっちゃ混んでて嫌んなっちゃう」
「わかるわかる。全然減らないですよね」
 ……本当に。本当に他愛ない話だけれども。
 こうして、いつもの面子で「他愛ない話」ができるということ自体を喜びたい。この息苦しい状況下でもなんとかかんとかやっていっているということ。そのことを冗談交じりで話せるような相手といえば、俺にとってはこいつらくらいしかいないのだから。
 ビールの缶が一つ空き、二つ空き。断って席をはずして、冷凍庫から氷を出してグラスに放り込み、とっておきのウイスキーを注いでやる。ついでにつまみを一つ追加して席に戻っても、連中は変わらず話をしている。それでいい。
「やっぱりこういう話ができるっていいね。職場と家を往復するだけになっちゃってるし」
「僕もですよ。誰とも話さない日もよくありますよ」
「これからもちょくちょくこういう会開くのがいいんじゃないですかね?」
 さんせーい、と何人かが声を合わせる。俺ももちろん賛成だ。この世間の混乱が収まらない以上はこういう機会はあった方がいいし、仮に収まったとしても、こういう機会はあっていいと思う。
「コロナが収まったら、オフ会もいいですよね!」
「お、オフ会やります? 場所取りならやりますよ」
「皆と会えるなら遠出してもいいかもしれないですね」
 なるほど、オフ会という手もあったか。とはいえ。
「うらやましいなあ。俺はちょっと遠すぎんだよなあ」
 残念ながら俺が住んでいる場所は辺境も辺境なわけで。なかなか人が集まれるような場所に出て行くのも難しい。ただ、可能であるなら顔を合わせるのもやぶさかではない。こうやって話のできる相手なら、面と向かってもきっと上手くやれるだろう。
 ウイスキーを一口舐めたところで、不意に、スピーカーから少し低めの声が聞こえてきた。
「楽しんでる、……さん?」
 言葉の後ろに微かにかすれて聞こえたのは、ひとりのハンドルネームだ。名前を呼ばれたのは黒猫のアイコンの彼女。「はえっ」とちょっと間の抜けた声を上げた彼女は、すぐにはきはきとした声で答えた。
「もちろんですよ。皆さんとおしゃべりできて、楽しいです」
 そういえば、彼女がいつからか話に加わっていなかったことに今更ながら気づいた。すぐに返事をしたことから、席を外していたわけでもないだろうに。
「ならよかった。さっきから黙ってるみたいだったから」
「皆さんのお話を聞いてたんです」
「あ、オフ会やるなら来る?」
「もちろん今の状態じゃいつになるかはわかんないけどさ」
「このメンバーなら誰が来ても楽しくやれそうだよね」
「そうそう! 上手い飯屋知ってるからさあ」
 そのまま、ぽんぽんとあちこちから言葉が飛んでくる。だから、誰も気づかなかったのかもしれない。黒猫の彼女が、問いかけに答えていなかったことを。
 やがて、夜も更けてきて、ウイスキーのグラスも空になった頃、「それじゃあお開きにしようか」と誰かが言った。
「それじゃあ、おやすみー」
「まあ、僕はこのままゲームしてると思うけどね」
「いえてる」
 そんな、挨拶だかなんだか判断のつかない言葉を残してひとつ、またひとつとディスプレイの画面からアイコンが消えていく。俺は、そのまま画面をぼんやりと眺めていた。
 別に、名残惜しくなったつもりはない。何せSNSではいつも話をしている相手たちだ、覗いてみれば変わらずそこにいるだろうし、声をかければこんな集まりだってすぐにできる。
 ただ、何となく……、そう、何となく、そうしていると。
 最後に残ったのは、俺と、黒猫のアイコンの彼女だった。
 彼女を飲み会に誘ったのは俺だ。いつもの面子の一人ではあるけれど、少し引っ込み思案なところのある彼女は「参加する」とは言っていなくて、それを俺が口説き落とした形になる。
 だから、少し心配だったのだ。彼女が本当に楽しんでいたかどうか。
 けれど、その思いは杞憂だったようで、彼女は弾んだ声で俺に話しかけてきた。
「とても楽しかったです。ありがとうございました」
「いや。また一緒に飲もうな」
「はいっ」
 嬉しそうな声に、俺は心底ほっとする。ほっとしながら、ひとつ、聞いてみることにした。
「なあ、もしオフやるなら、来るかい?」
 さっき俺自身が遠すぎるからと渋っておきながら、何となく引っかかっていたのだ。彼女はあの時、問いに答えてはいなかった。
 そして、黒猫のアイコンは少しの沈黙の後、ちかちかと光った。
「私は、無理ですよ」
「そんなに遠くに住んでるのか?」
「あ、いえ、そうじゃないんです。そうじゃ、なくて」
 それから、ぴたりと声が止んで、俺は不安になる。もしかして、顔を合わせるのが嫌とか、そういうことだったのならば申し訳ないことを聞いたと思う。言いづらいのも当然だ。
 しかし、俺の想像に反して、彼女は言った。
「もし、もしもですよ」
 ちかちかと。黒猫のアイコンが、光る。
「今、話しているそのひとが。本当は存在しないとしたら、どうしますか?」
「え?」
 何を言われたのかと思った。存在しない? それは……。
「声と文字列で、まるで『いる』ように見えるけれど。ウェブ上を漂う幽霊のようなもので。本当は、人として存在などしていないとしたら」
 どうしますか、と。彼女は言う。
 荒唐無稽な話だ。ウェブ上の幽霊? どこぞのアニメじゃあるまいし。
 だけど、そうだ。
 俺にとってのいつもの面子は、住んでる場所も性別も職業もばらばらであるし、そもそも知らないことも多い。知る必要もないと思っている。
 もちろん顔も本名も知らなくて、ディスプレイに映し出されているのはそれぞれが設定したアイコンとハンドルネーム。
 これだけあれば、俺たちにとっては十分だ。
 ……十分だと、思っている、けれど。
 その向こう側の顔を、肉体を、俺は今まで一度も認識したことが、ない。
 もちろん、今喋っている彼女だって。
 果たして沈黙した俺を、彼女はどう捉えたのだろう。しばし、俺と彼女の間に沈黙が流れ、やがて「ふふ」と小さな笑い声が聞こえてきた。
「なんて。冗談ですよ」
 そう、冗談だと彼女は笑う。なのに、何故だろう、その声に微かなノイズが混ざって聞こえたような気がして仕方ないのだ。
「また、誘ってくださいね。それじゃあ、」
 ――おやすみなさい。
 その声を残して、黒猫のアイコンもディスプレイから消えた。唯一残された俺も、ボイスチャットからログアウトする。そして、椅子の背もたれに深々と寄りかかる。
 ウェブ上を漂う幽霊、と彼女は言った。冗談だと言われながらも、何故だろう、広々とした空間の中に漂う、形も定かでない女の姿が頭の中に焼きついてしまった。
 ただ、その一方で、彼女はこうも言っていたじゃないか。「楽しかった」と。ならば、きっと、それでいいのだと思うことにする。
 結局のところ、彼女の言葉が本当に冗談なのかを確かめる手段は、俺にはないのだから。
 グラスの底に一滴だけ残ったウイスキーを舐めて。
 その風味をウェブ上の幽霊が知りえることはあるのか、なんてことを、考えた。

足跡を追う

「血痕と足跡は階下から屋上へと続いている。足を引きずっている様子も見て取れるね」
 かんかんかん、と音を立てて、中川は階段を上っていく。確かに血とそれに染まった足跡が、足を引きずるようにして上階に向かっているのが見て取れる。
 やがて、中川は階段の果てに位置する扉を開いた。金属の重たい扉が開くと同時に、ごう、という風の音が響き、中川の髪を揺らすのを見て取った。黒ずんだ足跡は、その先まで続いている。
「そして、屋上に辿り着いた後……、ここで、足跡は途絶えている」
 中川は足跡をたどるように歩いていくと、やがて立ち止まる。
 足跡は、屋上のフェンスの向こう側で途絶えていた。よく見るまでもなく、フェンスにはべったりと血の手形がついていて、血にまみれた何者かがそこを乗り越えた形跡があった。
「飛び降りた、と思われるだろうか。けれども、落下したなら『落ちた形跡』が必要だ。けれど、それは今のところ見つかっていない」
 遠まわしな言い方をしているが、要するに地面に落ちた死体は見つかっていないということだ。
「この血痕の様子だと、返り血を浴びたというよりも、当人が出血を伴う怪我をしていたと考えられる。故に、ここで靴を脱いで足跡を隠したということも考えづらい。足跡は隠せても血痕は残っただろうからね」
 でも、ひとつだけ。
 中川はそう言って人差し指を立てる。
「確かな痕跡が、発見されている」
「結論から言え」
「結論を急ぐのは君の悪い癖だよ。もう少し僕に喋らせてくれないか……、まあいいや。この下に、何者かが落下した形跡はなかった。けれど、血痕は残っていたんだ。ここから南に向けて、点々とね」
 南、というのはフェンスの向こう側、それよりも先。足場のない、虚空。
 
 
「つまり、ここを訪れた何者かは、『飛んだ』ということさ」
 
 
「ふざけるな」
「ふざけてなんていないよ。ここに残された手がかりは、全てここにいた何者かの『飛翔』を示している」
「そうじゃねえ。それがわかってるならとっとと追いかけろ、って言ってんだ!」
 俺の言葉に、中川はへらりと笑って、大きく肩を竦めてみせた。
「既に部下に追わせているよ。ドローンの使用許可ももらったところさ。けれど、ねえ」
 中川の視線がフェンスの向こうに向けられる。縦横無尽に走る道路に住宅街にいくつかのビル、当たり前に見える光景。実際、当たり前に暮らしているんだろう、大多数の人間は。
 だが、果たしてどこからどこまでを「当たり前」と定義すべきなのか、今の俺にはわからないままでいる。
 そんな俺の内心を読み取ったのか、中川はにやにやと笑いながら俺の目を覗き込んでくる。
「……人間が飛ぶなんてあり得ない、って。以前の君なら言い切ってたところだろうにね」
「事実を事実として受け止めただけだ」
 いつからか、捜査線上に浮かび上がってくるようになったのは、不可思議な現象とそれを引き起こす人間だった。魔法使い、超能力者、奇跡使い、何か色々な呼び名で呼ばれているが、とにかく「今までの人間」にはあり得ない能力を使う連中だ。
 当初は混乱したものだったが、そういうものがあるとわかった以上、事実は事実として受け止めるしかないのだ。
「俺たちも行くぞ。事件の重要参考人だ、ここで逃してたまるか」
「はいはい」
 中川は外套を翻す。俺もまたそれに続く。
 少しずつ、しかし確かに変わりつつある世界で、俺たちは変わらず足で捜査をする。俺には空を飛ぶような力などありはしなかったし、それで構わないと思っているから。

いたみ

 闇に浮かぶ二つの月に照らされて、両腕を失い歪な輪郭となった標的が、壁際でゆらりと身を起こす。ぼさぼさに振り乱された髪、青白いを通り越して土気色の肌、もはや被服としての役目を放棄している服。その全てが、標的の異常さを示している。
「……追い詰めましたよ」
 標的から目を逸らさぬまま、両腕で、杭打ち機を持ち上げる。小柄な人一人分ほどの大きさの杭打ち機は、がりがりと音を立てて次の杭を装填する。
 標的はぎらぎらと赤く染まった、人にあらざる目で私を睨めつける。そこに既に正気の色はなく、どうしようもなく乾いた欲望、つまりは目の前の人間に対する「食欲」だけをみなぎらせている。
 ――神よ、どうか、かの者をお救いください。
 手のひらに食い込む杭打ち機の重みを確かめながら、祈りを捧げる。ひとたび変貌させられた者は、人に戻ることはできない。故にこそ、祈らずにはいられないのだ。化物に囚われてしまった存在が、あの世で救われることを。
 浄化の聖句を唱えながら一歩を踏み込んだところで、不意に、標的が喉を震わせた。
 裂けた口から放たれたそれは、もはや咆哮ですらなかった。暴風すらも伴う強烈な「音」に、思わずたたらを踏む。
 次の瞬間、視界から標的が消えた。それを認識した瞬間に反射的に身を捻ってはいたが、刹那のうちに左肘から下がそっくり失われていた。
 痛みは、ない。
 痛覚は、狩人として生まれ変わった最初期に切り捨てた。傷を負った痛みで一瞬でも動きを止めれば、次の瞬間には「私」という存在自体がこの世から失われてしまうから。
 故に、左腕を取られた、という感触だけを信じて、振り向くと同時に片腕だけで杭打ち機を構えなおす。
 数歩分の間合いを取った標的の口から、ぼとりと、一瞬前まで私の腕だった肉の塊が落ちる。
 標的は、すれ違いざまにその吸血牙で私の左腕を噛み砕いたのだ。私から武器を奪い、同時に己の体から刻一刻と失われつつある生命力を、血液から吸い取ろうとしたに違いない。標的にとって、人の血液とは己の欲を満たし、身を癒す甘露であるはずだから。
 だが。
「あ、が……、ああぁっ!」
 標的が上げたのは言葉にならない苦悶の声。牙持つ口から吹き出すのは黒々とした煙。当然だ、この体を流れる血は既に人のものではない。神の祝福を受けた聖血は、この世にあってはならない穢れを、ことごとく焼き尽くす。
 聖血が回ったのだろう、全身から青白い炎を上げて動きを止めた標的に、今度こそ深く踏み込む。
「その肉体を、あるべき場所へ返していただきます」
 そして、
「神の御許へ」
 浄化の杭を、打ち込む。
 もはや、上がる声はなかった。胸元に大穴を開けた標的は、膝を折り、その場にくずおれる。次の瞬間、青白い炎が一際強く輝いたかと思うと、歪んだ輪郭もすっかり消えうせ、残された黒々とした灰が、音もなく風にさらわれていった。
 私は、胸元で印を切る。肉体も、魂も、神の御許で浄化されることを祈って。
 祈る。そうだ、私には、祈ることくらいしか、できない。
 かつて、唯一にして完全なる神は、はるかな大地を作り出し、太陽と月が巡る「時」を定め、大地に命を産み落とした。そうして産み出されたのが、植物であり、動物であり、そして、最も神の姿に近いとされる人類である。
 神の子たる人類は、神の加護の元で、時には大地にちいさな諍いをもたらしながらも、おおむね平穏に暮らしていたといえよう。
 しかし、ある時代になって、もうひとつの月――赤い月が空に浮かび、世界にはあり得ざる存在が跋扈しはじめることになる。
 
 ――吸血鬼。
 
 それは、唯一にして完全なる神が創りたもうたこの世界に、突如として混ざりこんだ「異物」である。
 人の血と生命力を糧とし、また人間を同胞へと作り変えるというおぞましい能力を持つ吸血鬼は、人類の天敵として世界に蔓延り、今もなお決定的な対抗手段を持たない人類は、吸血鬼のもたらす惨劇に身を震わせるばかりである。
 吸血鬼狩人として洗礼を受ける前の私が、変わり果てた姿の妻と娘を前に、吸血鬼と、何よりも吸血鬼に抗うすべを持たぬ私自身への憎悪を噛み締めるしかなかったように。
 故にこそ、私は残された命をかけて、神の名の下に吸血鬼を狩り続ける。吸血鬼に無残に殺されるか、それとも人の身に余る祝福の反動で体が内側から崩れ落ちるか、いずれかの終焉を迎えるその時まで。
 そう、であるはず、なのだが――。
 千切られた左腕の止血を簡単に済ませ、杭打ち機を右の肩に担ぎなおしながら、考えずにはいられない。
 何故だろう。近頃になって、妙な感触が胸の辺りにわだかまっているのが感じられるのだ。変調というにはあまりにも些細な違和感。その正体がわからないまま、心臓の位置を右手で押さえた、その時。
 突如として響いた、絹を裂くような悲鳴にぎょっとする。
 今回の標的は、今斃した吸血鬼だけのはずだ。索敵の術式を仕掛けても、それ以上の吸血鬼の反応はなかったはずではないか。
 と、声が聞こえた方に視線をやれば、ランプを手にした見知った顔が、真っ青な顔でこちらを見ていた。
「……マノン」
「せんせえぇぇ! 腕! 腕どうしたんですか! 先生が死んじゃう!」
 涙目で駆け寄ってきたのは、栗色の髪と目をした修道女だ。私よりも頭二つくらいは背が低く、手首など枯れ枝のように細い。きっと、私が力任せに触れでもしたら、簡単に消し飛んでしまうであろう、少女。
 本当に、どこにでもいるような、少女だ。
「腕の一本程度で騒がないでください。止血は済んでいますし、縫合すれば元に戻りますから」
 落ちていた腕を拾い上げる。ずたずたに噛み砕かれてしまった傷口を見る限り、新しく作ってもらった方が早いかもしれない。これが何本目の左腕になるのかは、もう数えてもいなかったが。
 それでも彼女は、自分の服が私の流す聖血で汚れるのにも構わず、必死の形相ですがりついてくる。
「それでも、ほら、すごい血ですし……っ!」
「この程度の出血は日常茶飯事です。それより、マノン」
 意識的に声を低くする。
 すると、彼女も私の言いたいことはわかっているらしく、身を竦ませて一歩下がる。
「宿でおとなしくしていなさい、とあれほど言ったはずですが」
「う、ご、ごめんなさい……。でも」
「『でも』ではありません。もし決着がついていなければ、私はあなたに意識を払った隙に殺されていたかもしれません。もちろん、戦う術を持たないあなた自身も危険に晒されることになります。わかりますね?」
 はい、と。答えた彼女はうつむき、それきり唇を引き結んでしまった。本気で落ち込んでいるのは、流石にわかる。
 言い過ぎただろうか。正しいことを言ったとは思うが、もう少し気の利いた言い方もあったかもしれない。
 ああ、どうにも、やりづらい。
 相手が吸血鬼である限りは、迷うこともない。吸血鬼というだけで、私が杭を打ち込むには十分だ。どれだけ人間らしく装ってみせても、吸血鬼の精神構造は人のそれとはまるで異なっている。吸血鬼が人間に餌として以上の存在意義を認めていない以上、私は、人の命と心を守るために杭を打つ。それが、かつて人間であったものだとしても――変化が不可逆である以上、狩人たる私が迷うわけにはいかないのだ。
 しかし、目の前の少女を、同じように割り切ることはできない。
 マノン。ある町に根を張っていた吸血鬼を焼却した際、己も狩人になりたいのだと宣言した少女。吸血鬼に狙われた友人の無事を祈りながら、己の無力を悔やみ、吸血鬼と戦う力を望んだ少女。
 すぐに追い返すべきではあったし、事実何度も試みたが、元より身寄りがなく、町にも居場所がないと訴える彼女を、そのまま捨て置くこともできなかった。
 結局、私の狩りの邪魔をしないという条件で、マノンの同行を許してしまっている。
 彼女が平穏に暮らせる土地を見つけたならすぐにでも置いていきたいところだが、何しろ私は吸血鬼狩人の身であり、吸血鬼が根を張る土地を渡り歩くのが生業だ。また、身寄りのない少女を任せられるほど信頼できる友人や仲間もいない。
 つまり、妙案が浮かぶまで、今しばらくは娘を思わせる年頃の少女を連れて歩かなければならない、というわけだ。
「マノン」
「は、はいっ」
 名前を呼ぶと、マノンは弾かれたように顔を上げる。夜闇に浮かぶ彼女の輪郭と、その中で星のように煌く瞳は酷く儚げで、今にもかき消えてしまいそうに見える。
 その面影が。私の腕の中で命の灯火が吹き消えた娘のそれと重なる。
 途端に、胸の違和感が増して、息苦しさを覚えるのだ。
「……仕事はこれで終わりです。宿に帰りましょうか」
 息苦しさを抑えこんで言葉を紡げば、マノンの表情がぱっと明るくなる。
「はい、先生!」
「先生、という呼び方はやめてくれませんかね……」
 私はマノンを吸血鬼狩人にする気はない。これだけは絶対に変わらない、と当人に言い聞かせているにもかかわらず、彼女は「先生」という呼称を改める気はなさそうだ。
 だが、吸血鬼狩人とは、人間を辞めることに他ならない。
 人の手に余る化物に対抗するため、祝福という名のもとに肉体を日々改造し、体内の血液を聖血と入れ替え、生まれながらのものを一つ一つ丁寧に削ぎ落とし、やっと吸血鬼と対等に戦える。
 マノンにその覚悟があるようには見えなかったし、あったところで、私は彼女を狩人に仕立てることはない。決して。
 このような思いをするのは、私一人で十分だ。
 私のような人間がこれ以上現れないように、私はこの身が滅びる瞬間まで杭を打つのだ。
 だから。愚かな望みなど捨てて、どうか――。
 つまらない感傷を首の一振りで振り払い、踏み出した途端、不意に視界が傾いだ。どうやら、少しばかり血を失いすぎていたらしい。
 右手でぐらつく頭を押さえて膝をつく。眩暈が止むのを待ってからゆっくりと顔を上げると、目の前にちいさな手があった。
 見れば、マノンが恐る恐るといった様子で、私に手を差し伸べていたのであった。
「先生……、酷い顔色です。どうか、お手を」
 不意に、その手を振り払ってしまえばいい、と気づいた。
 そうだ、突き放し続ければ、きっと彼女は諦める。名案ではないか。あるかどうかもわからないあ平安の地を求めながら、彼女を危険に晒し続けるよりはずっとましだ。
 名案だと、思っているのに。
「では、お言葉に甘えて」
 気づけば、マノンの手を取っていた。あたたかく、やわらかく、力をこめれば潰れてしまいそうな手を、そっと、握り締める。
 私は馬鹿なのだろうか。
 馬鹿、なのだろうな。
 あなたの悲しむ顔を見たくない、だなんて、この場だけの思いに流されてしまう私を、馬鹿という言葉以外の何で表せようか。
 そんな私の手を、マノンは強く引く。もちろん、彼女に私の体を持ち上げるほどの力はあろうはずもなかったが、立ち上がるきっかけにはなった。一度立ち上がってしまえば、多少の失血感はあるが宿まで戻るには問題ないはずだ。
「ありがとうございます。……重かったでしょう?」
 元々体は人より大きいし、今も祝福という名の改造を続ける体は質量を増すばかりで、しかも絡繰仕掛けの杭打ち機まで背負っているのだ。重くないはずがない。
 それでも、私の手を両手で握ったままのマノンは、二つの月とランプが生み出すやわらかな明かりの中で微笑んでみせる。
「はい。でも、わたしは、先生のように戦うことはできませんから。それ以外でお役に立てるなら、これほど嬉しいことはありません」
 嬉しいと言いながら、マノンの表情はどこか――寂しげに見えて。
 もしかすると、マノンはとっくに気づいてしまっているのかもしれない。私の堂々巡りの思考も、彼女にかつて失った娘の影を見ていることも、全て、全て。
 気づいていながら私の手を握っているのだとすれば、果たして、私は一体彼女に何ができるというのだろうか。彼女に、何を言えるというのだろうか。
 ああ――、胸が、軋む。
「先生? どこか、苦しいのですか?」
 マノンが不安げに私の顔を覗き込んでくる。その見開かれた双眸に、視線を合わせることができないまま。
「いいえ、大丈夫です。……大丈夫」
 そう、失血感以外の異常はないはずなのだ。
 なら、この胸の違和感は、一体何だというのだろう。
 今の私はその問いに対する答えを持たないが、かつての僕なら答えられただろうか。人の血肉と、人並みの感覚を持っていたころの僕なら。
 遠い日に捨てた「何か」が、今もまだ、胸を締め付けていた。

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今宵、メン・イン・グレイが

 どうしてこんなことに――と。
 考えないわけではないのだ。
 
 
 秋谷飛鳥とかいう作家は、この世界に異能……超能力を持つ人間はごまんといて、ただそれが一般的に知られていないだけだ、と言っている。
 何故なら、この世の中には『異能府』と呼ばれる秘密組織があって、そいつらが異能の存在を一般人から隠しているから。ひとたびその存在を知られてしまえば、異能を持つ者と持たざる者の間に軋轢が生じ、やがて現在まで築き上げてきた秩序が崩壊するから。
 故に、異能府は執拗に異能の存在を隠す。
 もし、誰かが異能をもって現実に干渉しようものなら、即座にそいつの前に現れて、そいつの存在そのものを無かったことにするとか、何とか。
 これが宇宙人相手だったら黒服の男……メン・イン・ブラックと呼ぶべきだろうが、この異能府の連中は、常に灰色の服を着ているらしい。秋谷飛鳥の記述によれば、光の当たる現実と、当たらない非現実の境界線の上に立つ者だから、ということなのだそうで。
 まあ、もちろんそんなものはフィクションの話。
 秋谷飛鳥といえば、現代日本で超能力者やら妖怪やら霊能力者がドタバタする話を書く、空想作家の代名詞みたいな存在だ。
 そう。そいつは完璧な作り話。
 灰色の男など、どこにもいやしないのだ。
 俺は、フルフェイスのヘルメットを被り、鏡の前に立つ。空色のライダースーツに、同じ色で揃えたヘルメット。今日もばっちり決まってる。流石俺。
 さあ、今日も世の中のゴミをぶちのめしに行こうか。
 
 
 俺が超能力に目覚めたのは、忘れもしない、中学二年生の夏。
 当時の俺は、勉強も出来なきゃ運動音痴もいいところ。とろくさくて、いつも下ばかり向いてて、まあ、要するに完璧ないぢめてくんだった。もちろん、血の気の多い馬鹿どもは俺をサンドバックと信じ、頭ばっかりでっかくなっちまった自称秀才どもはそんな俺を眺めてせせら笑うばかり。
 それでも、俺は下を向いて、怒りを胸の中に閉じ込め続けた。ひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん。積もりに積もった怒りが爆発したとき、それはただの怒りなんかじゃなくて、物理的な破壊力を持った何かに変わってた。
 ……今考えてみれば、それで人殺しにならなかったのが奇跡的だ。今は完璧に制御できるようになったが、当時は、気づいたら暴発しちまうような、とんでもなく危なっかしい武器だったから。
 だが、それから確かに俺は変わった。
 俺には力がある。普段は隠しているけれど、俺には誰にも負けることのない、無敵の超能力がある。そう思うだけで、俺の中のいぢめてくんはすっかり消えて、顔を上げて前を見ることが出来るようになった。
 そいつはとびっきり素敵なことさ。秋谷飛鳥とかいう作家は超能力者を否定的に描くことが多いけれど、それはあくまでフィクション。実際には、超能力ってのは人の心を明るくしてくれる、素晴らしい力なんだ。
 それは、何も俺自身を明るくするだけじゃない。
 この力を有効活用すれば、人の心だって、明るくすることができる。
 そう信じて、俺は窓から夜の街に繰り出す。空中に浮かぶ、目に見えない階段を駆け上がる。この浮遊感は何度味わってもいいものだ。高く、高く駆け上がってしまえば、闇にまぎれて俺の姿は誰にも見えなくなる。このまま空中散歩としゃれ込みたいところだが、俺にはやるべきことがある。
「……見つけた」
 ヘルメットの内側で呟く。街灯や窓の灯りできらきら輝く眼下の景色の中で、妙に薄暗い、頼りなく瞬く灯りに囲まれた空間を見据える。
 ここに、俺にぶちのめされるべき悪党がいる――高度を一気に落とし、接近する。闇に順応した目に映ったのは、一人の若い男。短く切りそろえられた真っ白な髪を靡かせた、
 灰色スーツの大男、だった。
 
 
 そもそも、その噂を聞いたのは、今日の昼間。行きつけのファミレスでのことだった。
 俺の席はいつも窓際の端と決まっている。空いていなければ諦めるが、そうでない限りはそこに陣取って大学の宿題をこなすと決めている。窓はいい、俺がこの手で守っている町が一望できるのだから。
 そうして、お気に入りのフルーツパフェをつつきながら、一体何の役に立つのかもわからないシャーマニズムのレポートを仕上げている時、不意に横から声が聞こえてきた。
「知ってます? 北区の事件」
「あー?」
「何でも、夜な夜な白髪の大男が現れては、道行く人を襲っているらしいですよ」
 ……それは、毎夜町を見回っている俺も知らない話だった。ちらりとそちらを見ると、まず目に入ったのはやたら派手な帽子だった。帽子を被った男の前に座っていたのは、銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男。どうも、事件の話を切り出したのはこっちの眼鏡らしい。
 帽子の男が「あー」と全くやる気の感じられない声を立てて、言った。
「何だあ、そのセンスの欠片もねえ都市伝説みたいなの」
「……さあ。私も詳しいことは知りませんがね。しかし、現にこの前、北区で暴走族の一団が全員、原因不明の複雑骨折で入院したらしいじゃないですか」
 ぎくり、とする。別に何も悪いことをしていないのだから、後ろめたく思う必要もないのだが、ついつい自分のこととなると変な汗が出てしまう。
 そう、奴等をボコしたのは紛れもなく自分だ。夜間に町を駆け回り、市民の安眠を妨害する。暴力沙汰を起こし、罪もない人々を傷つける。そんな、クズみたいな連中を取り締まることもできない警察に代わり、この俺が人知れず断罪を下してやったのだ。
 ただ、自分は白髪でもなければ大男でもない。見かけられていたとしても、いつもはヘルメットにライダースーツ姿だ、そう簡単にバレるはずもない。
 なら、こいつらは一体誰の話をしているのだ?
 思っていると、眼鏡の男の声が続ける。
「それに、北区のあちこちで建物の一部が壊されている、という噂もあります。実際に見たわけじゃないですが、行ってみます?」
「嫌だね、面倒くせえ」
「ですよねー」
 眼鏡の男は軽く肩を竦めて、フルーツパフェを食べ始めた。うん、美味いよな、ここのフルーツパフェ。
 それから、男たちの話は他愛のないものになってしまって、それ以上北区の大男の話には戻らなかった。
 パフェを平らげた後、俺はレポートを放り出してすぐに北区へ向かった。もちろん徒歩で。行く間にも、北区では俺がぶちのめした連中の噂と……その、建物をぶっ壊して歩くという白い大男の噂が耳に入ってくる。
 そして、実際に。北区のとある一角がぼろぼろになっているのを、この目で見てしまった。言葉通りに、『ぼろぼろ』だった。壁も、看板も、地面も、まるで一部分だけが砂になってしまったかのように、ざらついた断面を見せて崩れ落ちている。どうすればこんな傷が残るのか、さっぱり想像できない。
 それこそ、超能力か何かかと疑いたくもなるが、ほいほい超能力者がいてはたまらない。
 ついでに、実際に白髪男を見た、という奴に偶然接触することもできたけれど、怯えきってしまって話にならなかった。
 一体、この町に何が起こっているというのか。俺には見当もつかなかったが、一つだけ確かであったのは、その大男が無差別に町を破壊して回っている、ということだ。それは、決して許されることではない。
 白い男の目撃情報をかき集め、そいつが必ず深夜零時ごろ、北区のその一角に出没しているのだということを知った。
 その言葉を信じ、夜を待って飛びだした、のであったが……。
 
 
 にぃ、と。
 俺を見上げた白髪の大男は笑う。空から舞い降りてきた俺に驚くわけでもなく、ただ、ただ、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
「来たな」
 その声は、何処かで聞いたような声。一体、何処で聞いたのだったか、思い出そうとしていると、男は唐突にアスファルトを蹴って、こちらに拳を突き出してきた。
「うぉっ!」
 慌てて、横に跳んで地面に転がる。飛び掛ってきた男の拳は、一瞬前まで俺がいた位置を思いっきり貫き、その後ろの壁にぶつかる。普通ならば指がぼろぼろになってもおかしくないような、強烈な衝撃音とともに……壁が、崩れる。
 とんでもない、馬鹿力だ。
 背筋が凍る。だが、間違いない。こいつは放っておいてはやばい存在だ。転がったまま、人差し指を白髪男に突きつける。
「あん?」
 垂れ目がちの目で、こちらを見下ろしてくる白髪男に対して、
「喰らえ!」
 声と共に、指先から力を打ち出す。目には見えない力の塊が、白髪男の頭のすぐ側を掠めて壁に穴を穿つ。
「……っ?」
 白髪男が息を飲む。続けざまに両手を構えて、指先から力を放つ。無数の不可視の弾丸が、白髪男の体に叩きつけられるのがわかった。男は体を折った姿勢のまま、後方に吹っ飛んでいく。
 そうだ、これが、俺の能力。
 空気を操る能力――とでも言えばいいのか。とはいえ、とても限定的な能力で、相手の周囲の空気を丸ごと固めたり、無くしたりという器用な真似はできない。あくまで小さな弾を撃ち出したり、一瞬だけ固定した空気の上を駆け上がったり、その程度の能力だ。
 それでも、人の体を破壊するくらいなら、簡単にできる。できる、はずなのだ。
 だが、男はゆっくりと起き上がる。頭を擦ったのか、額から流れる血が白髪を赤く染めていて、壮絶な見た目になっているけれど……頬をつたって口元に落ちてきた血を長い舌で舐め取り、灰色のスーツの前ボタンを外してとびきりの笑顔を浮かべる。
「やるじゃねえか、なあっ!」
 その瞬間に、背筋に走る冷たいもの。咄嗟にアスファルトの上を転がったが、その判断が一瞬遅れていたら、腹に男の拳がめり込んでいたはずだ。手をついて何とか立ち上がり、血を流しながらもなおも戦意を失うことのない灰色スーツの男を見据えて……。
「いやー、見事引っかかってくれましたねえ」
 後ろから聞こえた声に、息を飲む。
 白髪男同様、どこかで聞いた声だ。いや、どこかで、なんて生優しいものじゃない。
 こいつらの声、まさしく今日の昼間、ファミレスで聞いた声じゃないか!
 白髪男の突撃を何とか避けて、そちらを振り向く。かろうじて灯っている明かりの下に立っていたのは、白髪男と同じように灰色のスーツを着た眼鏡の男だった。ファミレスでフルーツパフェを食べていたあの男。よくよく見ると、白髪男よりもずっと背が低く、華奢な体つきをしている。
 男は銀縁の眼鏡をくいと押し上げて言う。
「全く、最近勘違い野郎が多くて嫌んなっちゃいますよ。いちいち駆り出される我々の身にもなってください。噂を流すのだって、なかなかに骨だったんですからね」
「な、何を……ってうぉあっ!」
 一瞬気を取られたのが悪かったのか、白髪男の腕がわき腹を掠めた。掠めただけなのに、ぴしりという音と共に焼けるような痛みが走る。慌ててそこに触れると、恐ろしいほどに冷たくなっていた。
 温度を操る、超能力者――!
 超低温は、人体を破壊するという点では高温と何も変わらない、どころか高温よりもタチが悪い。めちゃくちゃな超能力だ。俺が言えたことではないけれど。
 慌てて地を蹴って、空に浮かび上がる。どうも、白髪男は空を飛ぶ能力までは持っていないのか、歯を剥き出して腕を構えているものの、即座に追ってくる様子はない。けれど、爛々と輝く目に睨まれて、俺は反射的に叫んでいた。
「……な、何だよ、何なんだよ、お前ら!」
「何、と聞かれましても、このカッコでわかりませんかね?」
 眼鏡男は灰色のスーツをちょいちょいと引っ張って言った。
 灰色の男。メン・イン・グレイ。
 ……まさか。
「『異能府』……?」
「ざーっつらーいと。ま、本当はうちらの組織に名称はないんですが、秋谷飛鳥とかいう作家が勝手に名づけてくれちゃったもんで。こちらも名乗るのに便利だからいいんですけどねえ」
 にこにこと笑う男に、反射的に指を構える。だが、この男も白髪男と同じように超能力を扱うのだろうか? 迂闊に攻撃して、手痛いしっぺ返しを喰らうことになりやしないか。頭の中をいくつもの考えがぐるぐる回って、どうしてもその一撃が放てないでいると、小柄な男は眼鏡をくいと押し上げて言った。
「さて、面白い能力を見せていただいたところで、少しお話をいたしませんかね、霧舘洋介さん?」
「……な……っ」
 どうして、俺の名前を。
 そんな俺の驚きを正しく察したのか、眼鏡の男は笑みを深めて言い放つ。
「この辺を荒らしまわっている異能のプロファイルくらい、把握済みですよ。それとも、そんなちゃちい格好で正体を誤魔化せるとでも思ったのですか、ヒーロー?」
 ヒーロー。男の口から放たれたその言葉が、酷く歪んで聞こえる。それは男の言い方のせいか、俺の心持ちのせいか。
「とにかく、正義の味方だか何だか知りませんが、異能持たざる者を持つ者のルールで裁かれちゃ困るんですよ。アンフェア、ってやつですね」
「うるさい! 力を持たない連中が手をこまねいてるだけで何もしないから、俺がこうして……」
「ええ、警察や法に携わる機関が無能なのは認めますがね。それでも、好き勝手に暴れられると困るんですよ。ねえ、セツ?」
 セツ、というのが白髪男の名前なのか、何なのか。それを聞いた白髪男は、ゆらりと眼鏡男の方を見て、
「んなこたあ、どうでも、いいんだよっ!」
 吼えると同時に地面を蹴った。完全に油断しきっていた俺の前で、巨大な白髪男の体が軽々打ち上げられ、そのまま男は壁を蹴って俺よりも高く、跳び上がっていた。見上げれば、男は笑顔で両手の指を組み、腕を振り上げて。
 次の瞬間、頭を打ち据える衝撃、視界の暗転。
 一瞬意識も失っていたのかもしれない。次に俺が認識したのは、地面に叩きつけられる感覚と、強烈な痛み。思わず悲鳴を上げてしまう俺だったが、今の一撃には超能力は使われていなかったのだ、と気づく。もしこれで超低温にさらされていれば、いくらヘルメット越しであろうとも即死だった、はずだ。
 頭が朦朧として、能力に集中もできない。とにかく、起き上がらなければ。このままでは、本当に、殺されてしまう。
 思って何とか体に鞭打って立ち上がろうとしていると、眼鏡男がひょいと俺の顔を覗き込んできた。と言っても、相手からはヘルメットしか見えなかっただろうけど。
 近くで見れば見るほど特徴のない顔をしている眼鏡男は、何故か苦笑を浮かべて言った。
「ごめんなさいねー。うちのバディ、アホなんで人の話聞いてられないんです」
「ごめんで済んだら警察いらない!」
 反射的に叫んでしまったが、こいつらに警察などというものは通用しないのかもしれない。灰色の男についての記述を思い出す。奴らは、異能をもって現実に干渉する奴を、その存在を、誰に知られることもなく、ことごとく抹消してきているのだと。
 それに気づいた瞬間、にわかに恐怖が襲い掛かってきた。
 俺は……もしかして、このまま消されてしまうのか。
「お、俺を、どうするつもりだ」
 声は掠れてまともに言葉にならない。けれど、眼鏡男は俺の意図を汲み取ってくれたらしい、先ほどの白髪男のそれに似た、とびきりいい笑顔で言った。
「我々メン・イン・グレイのすることくらい、お察しでしょう?」
 ひゅっ、と息を飲む。本当に殺されてしまうのか、俺は何も、何も悪いことをしていないのに。いや、俺のやっていることは何処までも私刑でしかなかったのかもしれない。しかし、それにしたって酷すぎる仕打ちだ。
 頭の中に思い描いていた、薔薇色の人生ががらがらと崩れ落ちる音を耳の奥で聞いた。現実には、白髪男が「もう終わりかよ、つまんねえなあ」と全く空気とか会話の流れとか読まない発言をしていたが、それは意識の表層を掠めただけで終わる。
 眼鏡男は、もう一度、銀縁眼鏡をくいと押し上げて――。
「――と、言いたいところですが」
「へ?」
「本日は、あなたに協力をいただきたいと思って参りました」
 慇懃に礼をする眼鏡男を、呆然と見上げて……それから我に返って、真っ先に言わなければならないことを叫ぶ。
「おいこれ協力を頼むような態度じゃないよな!」
「ま、協力というのはあくまで建前で、あなたに与えられた選択肢は、我々に協力するか、ここで抹消されるか」
 ぐ、と息を飲む。今この瞬間に万全であったとしても、この白髪男とまともにやり合って生き残れる自信が無い。俺の連撃を耐え切って、その上空を飛ぶ相手に跳躍だけで追いすがってみせるような、とんでもない身体能力。そして、一撃まともに喰らったら即死コースの、超低温を操る能力。
「それに、我々はあなたのプロファイルを握っている。物理的にあなたを殺さなくとも、社会的に抹殺することだって、不可能じゃないのですよ。例えば」
 すっ、と灰色の眼鏡男は懐に手を差し入れ、何かを取り出す。
 それは――。
「いやー、本当に恥ずかしい格好ですよね、このポーズとかどれだけかっこつけてるんですかマジでありえませんよねー」
「ちょ、何処で撮ったその写真っ!」
 ヘルメットを外し、ライダースーツ姿の俺が、ヒーローの真似事をしているという恐ろしい写真の数々。
 背景を見る限り、俺の自室。鏡の前で延々とポーズを取る俺の姿が、あますとこなく映し出されているわけで……。
「プライバシーの侵害にもほどがある!」
「それがうちのやり方なんで。とにかく、こんな写真ばら撒かれたら、仮に私であれば二度と世の中に顔向けできませんね」
「俺だって恥辱で死ねる!」
 ですよねー、といい笑顔で答える眼鏡男。こいつに逆らってはならない。白髪男よりも別の意味で危険だ。俺の本能に近い感覚がそう訴えていた。
「……というわけで、どうします?」
「選択肢ないじゃねえか! わかったよ、俺は何をすればいいんだ!」
 ほとんど悲鳴に近い声を上げると、眼鏡男はすっと笑顔を消して、言い放つ。
「……あなたも見たと思います。近頃、この町のあちこちを破壊している輩がいます」
「それは、こいつがやったんじゃ……」
 言いかけて、白髪男にぎろりと睨まれて慌てて口をふさぐ。それに、確かに何かがおかしい。白髪男の超能力は、温度を下げる能力。それで、こんなおかしな痕跡が残せるわけがないのだ。
「もしかして、この事件って」
「はい。我々は、この事件を起こしている異能を捕らえるべく派遣されました。しかし、なかなか尻尾を掴むことができない。あなたが犯人と考えて罠を仕掛けセツとやりあっていただきましたが、あなたの能力もまた、この事件とは関係ないとわかりました」
「決まってるだろ!」
 無様に倒れたまま、情けない姿をさらして。それでも、これだけは譲れない。譲るわけにはいかないのだ。
「俺は、ヒーローになりたかったんだ、こんなことするわけないだろ?」
「……ヒーロー? 馬鹿言ってんじゃねえよ」
 今まで黙っていた白髪男が、獣のように笑う。
「手前はなんだかんだ言い訳をして、力を使いたかっただけだろ? 俺はすげえんだ、他の連中にはできねえことができるんだ。それを、誇示したいだけじゃねえのか? なあ!」
 反論しようと、口を開こうとして……俺は、結局反論できなかった。
 ヒーローになりたい。誰かに幸せを分けてやりたい。その思いは本当だ。だが、その心の奥底には、自分にしかそれができない、という優越感があったことは、どうしても否定できなかった。
 悔しい。こんな、こんな野郎に見透かされるなんて。
 ヘルメットの下で唇を噛んでいると、眼鏡男が柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「ま、ともあれ、あなたの疑いは晴れました。ただ、異能であるあなたを放置するわけにはいかない。なので、こう言わせていただきます」
 一呼吸置いて。男は、よく通る声で言った。
「人知れず町を守る、ちょっとダークなヒーローになりませんか、と」
「……それ、って」
「この町を破壊して回る異能を捕まえるのに協力して欲しいのです。というより、ぶっちゃけ我々の仲間になっていただきたい」
 ちょっとダークなヒーロー。言い得て妙だ。超能力者の存在を隠す、灰色の男たち。だが、その活動は何も完全悪というわけではない。やり方はともかく、こいつらはこいつらで、起ころうとしている混乱を、未然に防ごうとしている。
 もちろん、その全てを認めるわけには、いかないけれど。
「俺に与えられた選択肢は」
「先ほどと同様です。組織が管理していない異能は全て危険分子と判断されますからねえ」
 ちらちらと写真を見せつけられる。遺憾ながら脅迫は続行していた。
「使い終わったらぽいっ、ってことはないのか」
「それができたら、とっくにセツはぽいされてます。というか、こんな血の気ばっかの破壊魔、今すぐにでもぽいしたいです私の精神衛生のためにも」
「おいアラン手前」
「私は本気ですよ。本気と書いてマジですよ」
 ……実は仲が悪いのだろうか、こいつら。
 しばし俺の前で睨み合っていた白髪と眼鏡だったが、やがて二人はやたら息の合った動きで俺を見て、声を揃えて言った。
 
『さあ、どうする?』
 
 選択肢なんて、最初から無いってのに。
 
 
 どうして、こんなことに――と。
 考えないわけではないのだ。
 新品の、灰色のスーツに腕を通す。気持ち悪いくらいぴったりなこのスーツは、眼鏡男が用意したものだった。自室の写真を盗撮するような奴だ、俺の身長体重スリーサイズくらいはとうに把握済みなのかもしれない。恐ろしい。
 ともあれ、着替えを済ませて、玄関の扉を開ける。
「来ましたね」
 闇に紛れるかのように、灰色スーツの眼鏡と白髪はそこにいて、俺を待ち構えていた。
 眼鏡男の不気味な笑みが、にぃと深められる。
「それでは……メン・イン・グレイの初仕事と行きましょうか?」
 逃げることなどできない。弱みを握られているから。
「ああ、任せろ」
 逃げるつもりもない。俺の相手は、俺たちと同じ超能力を持ちながら、その力を己の破壊欲を満たすためにしか使おうとしない本当のクズだから。
 ヒーローの夢を諦めたわけじゃない。もし、こいつらのやり方が俺の理想と完全にかけ離れているのなら、俺はきっと、全力でこいつらに抵抗するだろう。それこそ、命をかけたって構わない。
 けれど、今は。
 この、灰色の世界に足を踏み入れることから、ちょっとダークなヒーローの世界を知るところから、始めようと思う。
 眼鏡男は「頼もしいですね」とくつくつ笑い、白髪男は「俺一人でも十分なのにな」と不服そうに唇を尖らせる。
 それを横目に、俺は二人に並んで、夜の闇に一歩を踏み出した。

幕間:船長と歌姫

「なーにやってんの、アンタらは……」
 空賊船『紅姫号』の船長シエラは頭を抱えていた。
 シエラの前には、神妙な顔をした船員と、その船員に猫掴みされたシュンランがいた。シュンランは掴まれたままきゃあきゃあ何かを喚いているが、どれもがシエラの聞いた事の無い言葉だったため何を言っているのかはさっぱりわからない。
 そんなシュンランの声をBGMに、船員が重々しく口を開く。
「この嬢ちゃん、可愛い顔してとんでもないじゃじゃ馬だ、お頭……部屋を抜け出そうとしたの、もう三度目だよ」
「部屋に鍵はかけたんじゃなかったの?」
「確かに鍵はかけた。なのに何故か外に出てんだよ。ブラン博士の言うとおり、変わった術を使うみたいだ」
「で……その顔は?」
 シエラは船員の顔を見て、眉を顰める。よく見なくとも、酷い顔だった。頬は腫れ、唇は切れて血が滲んでしまっている。船員は情けない表情で溜息をつく。
「捕まえようとしたら、思いっきり殴られたんで」
 まあ、そりゃそうよね。
 シエラは諦めたように息をつき、シュンランに視線を合わせる。シュンランは喚くのをやめ、大きなすみれ色の瞳でシエラを睨んだ。可愛い顔をしているのに、なかなか堂に入ったガンのつけっぷりだ。目の前にいるシエラに負けやしないという意志が、怯えや不安に勝っているのだろう。シエラを真っ直ぐに見据えるその瞳に、曇りはない。
 ブランの言葉だけ聞く限りただの箱入り娘かと思っていたが、どうやらその認識は改めなければならないようだ。
「離してあげなさい」
「し、しかし、また逃げられるんじゃ」
「ここは風の海。これ以上何処にも行きようはないわよ」
 船員は渋々といった表情でシュンランを離す。シュンランは床に足をつき、すっかり乱れてしまったスカートの裾を整える。それから、もう一度シエラを見上げて、言った。
「あなたが、ここの『おかしら』さんですか。偉い人、ですね」
「そうよ。言っておくけど、『降ろして』って言っても無駄だからね。痛い目遭いたくなければ、大人しくしておくこと。アタシたちも、女の子相手だからって黙ってはいないからね」
 一応釘を刺してみると、シュンランはむっとした表情で眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。「降ろして」と言うつもりだったのだろうが、出鼻を挫かれてしまったのだろう。シエラはやれやれと肩を竦めて、シュンランを手招きする。
「おいで。狭い部屋に閉じ込められるのも飽きたでしょ」
 シュンランは一体シエラが何を言い出したのかわからないという様子で首を傾げたが、大人しくシエラの後についてくる。何という態度の違いだ、と船員が後ろで嘆く声が聞こえたけれど、とりあえず無視することにした。
 無理やり何かしようとしない限りは、シュンランも抵抗する気はないようだ。外からしか開けられない鍵を開けて抜け出した、というのは気になるが、今はまずこの不思議な少女を落ち着かせるのが先だろう。いちいち逃げ出して、船員たちの顔に手形をこさえられても困る。
 シエラはいくつかの階段を上り、船長室の扉を乱暴に開ける。
 そして、扉の向こうを見て……シュンランが「わあ」と声を上げた。
 目の前に広がっていたのが、淡い桃色の壁紙を基調にして、所狭しとふかふかのぬいぐるみが並べられた部屋だったからだろう。まさか、これが空賊船の船長室だとは誰も思うまい。ただし、部屋の主であるシエラはこれが当然だと思っているので「まさか」も何も無いのだが。
 シュンランはきょろきょろと辺りを見渡して、シエラにはわからない言葉で何かを呟いていたが、やがてシエラを見上げてふわりと微笑んだ。その表情があまりに無邪気で、シエラは呆気に取られてしまった。
 自分を捕まえた空賊船の船長を前に、そんな風に笑えるものなのか。戸惑うシエラをよそに、シュンランは鈴の鳴るような声で言う。
「可愛い、ですね。えと、あなたのお部屋ですか」
「ん、そうよ。気に入ってくれたならいいんだけど」
「はい。素敵なお部屋です。あの子、触ってよいですか?」
 ベッドの上に座っていた大きなクマのぬいぐるみを指差すシュンランに、「別に構わないよ」とシエラはぬいぐるみを取ってやる。元々小さなシュンランが持つと、白い体の半分くらいがふかふかの毛の中に埋まってしまって、何とも微笑ましい。
 シエラはぎゅっとぬいぐるみを抱きしめるシュンランを横目に、ベッドの上に腰掛ける。こうしてぬいぐるみを抱きしめている姿は、ただの少女にしか見えないけれど……
「ねえ、アンタ、名前は? アタシはシエラっていうんだけど」
「わたしはシュンランです。春に咲く、花の名前なのです」
 ぬいぐるみの頭に顎を乗せる形で、シュンランが答える。だが、シエラはそんな花の名前は知らない。花の名前には詳しくないが、それ以前に楽園では聞かないような音の並びだ。
 ただ、今はそこを気にしていても仕方ない。シエラは頭の中で言葉を組み立てながら、紅を引いた唇を動かす。
「シュンラン、アンタ、何で捕まったかわかってる?」
 すると、シュンランはこくりとぬいぐるみと一緒に頷いた。
「あなたたちも、『鍵』とわたしの『歌』が、必要ですか」
「そ。と言っても、アタシはアンタが何者なのかなんて、興味ないんだけどね」
「どういうこと、ですか?」
 シエラはひらひらと手を振って言う。
「アンタに興味があるのは、アタシじゃなくてブランの方。まあ、アンタが追われてるのは知ってるから、上手く使えば金になると思って協力してんだけど……」
 「使う」気にもなれないな、とシエラは嘆息する。金と財宝を求めてあちこちを荒らし回る空賊シエラ一味だが、ナマモノは専門外だ。それに、この少女に見つめられているうちに、この少女を利用する気などさっぱり失せてしまっていた。
 全く、ブランの奴が、変なものを捕まえさせたものだ。
 ぶつぶつ呟くシエラに、シュンランはかくりと首を傾げる。
「ブラン、誰ですか」
「アンタはまだ会ってなかったっけ。うちの船に乗ってる、一人だけ赤い服着てない奴。目つき悪くて、ニヤニヤ笑ってばかりの変態さん」
 シエラが言った途端、今までふわふわとした微笑を浮かべていたシュンランが目を見開いた。そして、不安げな顔つきでぎゅっと一際強くぬいぐるみを握りしめる。
「わたし、一度見ました。とても、怖い人です」
「怖い? 確かに、得体の知れない奴だけど」
 だが、ブランの人となりをよく知るシエラは、何故シュンランがそんなに怯えるのかわからず訝しむ。シュンランは首を小さく横に振って、俯きながらも何とか言葉を放った。
「……あの人は、笑ってるのに、笑ってないです。あの人は、怖いです」
 ――この子、よく見ている。
 シエラは内心舌を巻く思いだった。長年付き合ってきたシエラがやっとわかってきたことを、この少女は「一度見た」だけでそこまで言い当ててみせたのだ。
 確かに、長らく『紅姫号』に乗り合わせるあの男は、いつも笑っているように見えるが酷く冷え込んだ目をしている。どんなに陽気に振る舞ってみせても、何処かしらに凍りついた感情が宿っているような錯覚を抱かせる。「笑ってるのに、笑ってない」とは言いえて妙だ。
 けれど――
 不安がるシュンランの頭を、シエラは優しく撫でてやる。
「ね、シュンラン。アンタ、ブラン博士に何か言われた?」
「え……と、『悪いようにはしない。誰も悲しませないから』と」
 あの男らしい大げさな口ぶりだとシエラはおかしくなる。もちろん、不安でいっぱいのシュンランの前ではそれを表に出さず、その代わりにシュンランの髪に指を通す。光を透かして、微かに緑の煌きを抱く白い髪はさらりと指の間をすり抜ける。「なら、アイツはアンタには絶対に危害を加えないよ。アイツは、胡散臭いけど嘘はつかないから」
「そう、なのですか?」
「そ。だからそこは心配要らない。アタシたちもアンタには危害を加える気はない。ただ……アンタと一緒にいたあの空色の子は、どうしたものかなあ」
「セイル! セイルは、無事なのですか!」
 シュンランはぱっと顔を上げて、シエラを睨むように見据える。シエラは「大丈夫よ」とシュンランの頭をぽんぽんと叩いてみせた。
「あの子は無事。暴れられたら困るから、船倉に閉じ込めてあるけど……」
「セイルに会わせてください! わたし、セイルと約束したです。一緒じゃないと、嫌です」
 今までの従順さが嘘のように、シュンランは噛みつかんばかりの勢いでシエラに迫る。シエラは微かに眉を寄せて、何かを言おうと唇を開こうとして、
「ダーメ。あのガキには帰ってもらわにゃならねえ」
 横から割り込んできた声に、遮られた。
 シュンランははっとしてそちらに視線を向け、あからさまに怯えの表情を浮かべた。シエラは声だけでそこに誰が立っているのか理解し、視線を向けることもせず溜息をつく。
「博士。レディの部屋にはノックして入りなさい」
 いつの間にか部屋の中に入り込んでいたブランは、壁を背にして「悪い悪い」と手を振る。その上で、シュンランに向かってさらりと言った。
「悪いが、必要とされてるのは『鍵』とお前さんだけ。関係ない奴を巻き込むわけにはいかねえ。実際、それはお前さんの本意でもないはずだ、シュンランとやら」
 シュンランははっと息を飲み、言葉を失ったようだった。ブランは笑顔ながら「いつも通りの」冷ややかな目つきでシュンランを見下ろしている。否、冷ややかというよりは、シュンランの動きや息遣い全てを観察しているようで。
 しばし、沈黙が流れる。
 シエラはその空気の重さに耐え切れなくなって口を挟もうとしたが、その前に俯いていたシュンランがぱっとブランを見上げた。思わず目を見開くブランに対し、シュンランはきっぱりと言い切った。
「それでも、セイルと約束しました。わたしは、セイルと一緒に行きます」
 「行きたい」でなく「行きます」、か。
 シエラは一瞬しかセイルの姿を見ていない。綺麗な空色の髪をした、不思議な少年だとは思ったけれど、それだけだ。だが、シュンランにそこまで言わせる「セイル」がどんな人物なのかは気になった。
 そして、ブランは。
「……はは、ったく、ワガママなお嬢さんで」
 珍しくあからさまな苦笑を浮かべ、シエラに視線をやった。
「シエラちゃん、俺様、ちょっとあのガキんとこ行ってくるわ」
「何する気?」
「ふふ、秘密よん」
 女のように口元に手を当てるブランに対し、気色悪いよ、とシエラは投げやりに言った。ブランはそれには何も言葉を返さず、無骨な手をひらひらと振って部屋から出て行った。一体、あの男は何がしたかったのだろうか――という思いが脳裏を掠めるが、あの男に関して言えばそれこそ「いつものこと」なので気にするにも値しないだろうと思いなおす。
「セイル……」
 すみれ色の瞳にいっぱいの不安と焦燥を篭めて、シュンランが呟く。シエラはくしゃくしゃとシュンランの頭を撫でてやって、立ち上がる。
「心配しないの。アンタの大切なセイル君の無事はアタシが保障する。それよりさ」
 呆然とするシュンランの姿を見下ろして、にっと笑う。
「そんな薄汚れた格好じゃ可哀相でしょ。ちょっと付き合いなさい」
 
 
 そして――
 機巧の鳥と共に墜ち行く『紅姫号』の中。シエラは窓の外に見える純白の『凧』に指を伸ばす。
 そこに乗る少女に、届くことはないと知っていても……シエラは指の先を見据え、口を笑みに歪めた。
 
「……絶対に捕まるんじゃないよ、可愛い歌姫様」

03:空を泳ぐ紅の魚(4)

 セイルは、即座に言葉を放つことができず、目を見開く。
 そう、セイルは「何故ノーグを探すのか」という明確な理由を持っていない。けれど、初めてシュンランに出会ったあの日。シュンランが笑顔でノーグに会うのが楽しみだと言った、その瞬間が脳裏に蘇る。そう、会いたいと思うのに理由などいらない。思い出になりかけていた兄に、セイルも純粋に「会いたい」と願ったのだ。
 だから、「どうする」と問われても困る。でも一つだけ、願うことが許されるなら。セイルは銀の眼に力を込めて言葉を放つ。
「兄貴と、話がしたい。今まで何をして、どんなことを思ってたのか……誰でもない、兄貴の口から聞きたいんだ」
 ノーグ・カーティスは異端で罪人だ。
 最低でも、楽園に生きる者は皆そう思っている。
 けれど、誰が兄本人の口からそれを聞いたというのだろう。行方を眩ませてからの六年間、彼の言葉を聞いた人がどれだけいたというのだろうか。
 もちろんこれはセイルの勝手な願いでしかない。兄は語ることを望まないかもしれない。それでも、せめて思い出と同じ兄の声を聞かせてほしい……その願いだけは、誰にも否定させない。セイルは強く手を握りしめて、シエラを見上げ続ける。
 すると、シエラはふと唇を笑みの形にして、セイルの空色の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「あはは、かわいい顔して案外かっこいいこと言うじゃない。気に入ったよ」
「え、あ?」
「でも、ノーグ・カーティスの姿を見た奴なんてここ数年いないはずでしょ。どうやって探すつもり?」
 シエラは当然の問いをセイルとシュンランに投げかける。兄はシュンランと『ディスコード』のことを知っているというし、ディスも「嫌でも出てくる」と言っていたけれど、理由がさっぱりわからない以上どこまでその言葉に頼っていいものか。
 小さく眉を寄せ悩んでいると、横から声が割り込んできた。
「それなら、手がかりが全く無いわけじゃねえよ」
「え?」
 声の主は、今までシエラに言われて口を噤んでいたブランだった。シュンランは「本当ですか!」と声を上げ、ブランを期待に満ちた目で見上げる。
「教えてください、どんなことでもいいです。出来る限り早く、ノーグに会わないといけないです!」
 だが、ブランは笑顔ながらもセイルに対して向けていたのと同じ、背筋がちりちりするような零下の視線で応じる。
「別に構わねえと言いたいとこだが、タダで教えるわけにゃいかねえかな。一つ、嬢ちゃんに飲んでもらいたい条件がある」
「……条件、ですか?」
 シュンランの表情に、さっと影が走る。何しろ相手はセイルを倒し、先ほどまでシュンランをどこか遠くへ連れていこうとしていた男だ、警戒するのも当然と言えよう。セイルは怯えるシュンランを庇うようにして前に立ち、ブランを睨む。
 すると、ブランは不意に目を細めてみせた。それだけで、投げかけられる視線の冷たさは随分と和らぎ、セイルの背筋に感じていたちりちりした何かも消え去った。
「んな無理難題じゃねえ。俺様も奴には用があってな……船を降りるついでに、奴に会うまで同行させてもらいたいのよ」
「え……?」
 シュンランが、目を丸くする。もちろんセイルも全く同じ反応だった。確かに決して無茶な条件ではないが、あまりにも唐突すぎる。それに、即座に「はいそうですか」と言えるほどこの男を信用しきれていない、信用できるはずもない。
 思いながらシュンランを見ると、シュンランも不安と迷いを露わにしてブランを見上げている。兄の手がかりは欲しい、ただ本当にこれでいいのだろうか。セイルとシュンランが不安げな視線を交錯させた、瞬間。
 どぉん、という大きな音とともに、床が激しく揺れた。
 よろめいたシュンランをとっさに抱き止めたセイルは、そのまま背中から床に倒れ込んでしまった。走る痛みに息が詰まる。
「だ、だいじょぶですか、セイル!」
 慌てるシュンランに、セイルは小さくせき込みながらも何とか無理矢理笑って返してみせる。
「う、うん……でも、何が」
 言いかけたところで、甲高い警報の鐘が鳴り響き、天井の隅に引っかかっていた伝声管から野太い声が聞こえてきた。
『船長、敵襲だ!』
「ちょっと、見張り台は何してたのよ! 敵機の魔力反応は!」
 机に手をついた姿勢になり、ヒステリックな声で叫び返すシエラに、伝声管の向こうの声は一瞬言葉を詰まらせてから……重々しい声音で告げる。
『それが、おかしいんでさあ! 全く魔力の反応がねえ! 雲に紛れて砲撃してきやがって、初めて奴さんの方向がわかったんで』
「……何ですって?」
『とにかく、指示を! 下っ端の連中、完全に浮き足立っちまってる!』
「わかったわ、すぐ出る。砲撃の準備を進めて!」
『了解だ!』
 そこで、一度男の声は途絶えた。シエラは苦い表情で床に転がったままのセイルとシュンランを見やり、そしてブランに鋭く指示を下す。
「ブラン! アンタはこの二人を連れて『凧』で降りなさい! 狙いはその子でしょ、ここはアタシたちに任せなさい」
「了解。流石シエラちゃん、いい判断だ」
 ブランはにぃと唇を釣り上げ、セイルの肩を軽く蹴飛ばす。
「起きろ、ガキ。撃ち墜とされたくなきゃ、俺様について来い」
「で、でも!」
 シエラは、降りろと言った。つまりは、この船から逃げろと言っているのだ。だが、シエラは。そして、この船はどうなってしまうのだろうか。自分とシュンランを危険な目に遭わせた相手とはいえ、この気のいい船長を放って逃げるというのはどうにも気が引ける。
 しかし、ブランは有無を言わさずセイルの手を引いて立たせ、シエラにちらりと視線を向けてみせる。
「こちとら風の海の荒波を幾度も乗り越えてきたシエラ一味だぜ。お前さんが心配するまでもねえ。だろ、シエラちゃん?」
「は、アンタに言われるまでもないわよ!」
「ですよね? というわけで、行くぞ」
 ブランはそう言って、横に立つセイルを見下ろす。セイルは、シュンランの手を握りしめたままぐっと唇を噛む。もちろん、心配ではある。だが、今はシュンランを守るのが先決だ。
 シュンランは、不安を隠すようにセイルの手を強く握りなおし、すみれ色の目でブランを見上げる。
「信じて、いいのですか?」
「俺は冗談も言うし詭弁も弄するが、嘘だけは絶対につかない」
 氷色の瞳が、セイルとシュンランを貫いて。
「お前らは守りきる」
 唇から放たれた言葉には少しの躊躇いも感じられず、セイルはごくりと唾を飲み込む。そこには絶対の自信と、それを疑わせないだけの強い「何か」があった。それが何なのかはわからないけれど、セイルはブランに小さな頷きを返す。
「……わかった。俺は信じるよ、ブラン。シュンランを守って」
「お安い御用だ」
 ブランはコートの裾を捌き、前に立って歩き始める。セイルはシュンランの手を引いて、その背中を追いかけ始める。足元はぐらぐら揺れて、歩きづらいにも関わらずどんどんと早足で先に行こうとするブランを必死に追いかける。
 そんなセイルの背中に、シュンランが小さな声を投げかける。
「セイル。信じて、よかったですか?」
「俺は信じるよ。信じていい気がしたんだ」
 確かに胡散臭い男だが、「守りきる」という言葉だけは信じていいと思った。自分でも何故そう思ってしまったのかは、わからないけれど――
『完璧、詐欺に引っかかるタイプだな、お前は』
 ぼそり、とディスが頭の中で呟いたのは、ひとまず無視することにした。そしてディスもセイルに無視されたことはさほど気にしていないようで、明らかな不機嫌声で告げる。
『お手並み拝見と行こうか、ブランとやら』
 するとブランは、セイルたちには背を向けたまま、肩越しに手をひらひらさせてみせた。
「はは、偉そうな口利いてんじゃねえよ、ガキが」
「……聞こえてるんだ?」
 そりゃあそうよ、と当たり前のようにブランは言い、セイルの次の言葉を待たずに目の前の扉を開け放つ。扉の向こうは格納庫で、一人か二人がやっと乗れるような小さな船がいくつも並んでいる。
 その中で、ひときわ目を引いたのが、全てが赤く染められた船の中で唯一白い翼を持つ船だった。推進力となるような装置は見当たらず、風に乗るために必要な最低限の機能しか持たない、とてもシンプルな船だ。
 おそらく、これがシエラの言っていた『凧』なのだろう。単純ゆえに、一切無駄を排した美しいつくりをしている。
 ブランは小さな操縦席に飛び乗り、セイルたちを手招きした。
「狭いけど我慢しろよ。お互い様だ」
 セイルとシュンランは、お互いの体を押し合うようにして、何とか操縦席に収まる。ブランが天井から降りていた鎖を操作すると、格納庫の巨大な扉がゆっくりと開いていく。
 風が、激しくセイルの顔に吹き付けて反射的に目を閉じる。自分の声すら聞こえなくなるような風の音の中、そっと目を開けると……
 目の前に広がっているのは、青。
 セイルの髪と全く同じ色の、果てなき風の海がそこにあった。
「行くぞ」
 セイルたちの答えは待たずに、ブランは足元のスイッチを押して『凧』を空へと射出した。
 一瞬宙に投げ出され、落ちていくかのように思われた『凧』は、東へ向かう風を巧みに捉えてふわりと青い空間に浮かび上がった。そのまま、翼を折らんばかりに吹き荒ぶ風に乗って滑るように空を舞い降り始める。
 決して、簡単に飛ばせるようなものではないことくらい、セイルにもわかる。だが、操作しているブランには、目には見えない風の動きが全て見えているかのように軽々と『凧』を操ってみせる。セイルは風に煽られないように体を小さくしながらも、思わず歓声を上げた。
「すごい……!」
 セイルにとって、空はいつも地上から見上げるものだったから。銀の瞳に映る青い空と青い海も、その境界線に聳え立つ世界樹も、耳の横を行き過ぎる風の音も全てが新鮮で……自分が今どんな状況に置かれているのかも、すっかり頭から吹き飛んでしまった。
 ――これが、風の海。
 セイルの父が目指し続けていた場所。セイルがずっと夢見ていた場所。自分は今、まさにそこにいるのだ。その実感が、胸いっぱいに広がっていく。
 シュンランもまた目を丸くして空と海との境界線を見つめていたが……はっと息を飲んでセイルの頭の上を指差す。
「セイル、あれを!」
「あれ、って」
 セイルはそちらを見て、息を飲んだ。
 頭上に浮かぶ無数の白い雲。その合間から、ちらりと見えたのは巨大な翼を持つ鈍色の何か。目を凝らしてみると、それは船ではない。
「機巧の……鳥?」
 そう、それは機巧仕掛けの鳥だった。嘴から翼まで、全てが禁忌であるはずの鋼で造られている。そして、長い嘴ががぱりと開いたかと思うと、次の瞬間何かがそこから撃ち出されて『紅姫号』を襲う。どうやら、大砲のようなものらしい。
 ひっ、と息を飲むセイルをよそに、ブランもそちらに視線をやって、初めて眉を寄せて露骨に舌打ちをした。
「いやねえ、『エメス』の奴ら、マジになってやがら」
「『エメス』って、異端の秘密結社だろ? 何で、シュンランを狙うんだよ!」
 セイルは唸る風に負けないように声を張り上げる。すると、ブランは視線だけは機巧の鳥に向けたまま言う。
「そりゃあ、このお嬢ちゃんが奴らにとって必要だからさ。とにかく、とっとと離脱するぞ」
 ブランは言って操縦桿を横に倒して『凧』を旋回させる。刹那、落ちてきた『紅姫号』の破片が『凧』の軌道上を掠めるように落ちていった。一瞬でも旋回が遅れていたら、間違いなく『凧』の翼を折られていただろう。
 『紅姫号』も果敢に魔道砲台で応戦するものの、自由に雲と雲の間を飛び回る機巧の鳥は全く堪えている様子を見せない。一方的に機巧の鳥に攻撃されている『紅姫号』を不安げに見上げ、シュンランがぽつりと呟く。
「シエラたち、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ただやられているだけじゃないわよ」
 ブランは軽く言うと、「ほら」と『紅姫号』を目で示す。一端砲撃が止まった『紅姫号』を訝しげに見上げたセイルだったが、次の瞬間、激しい破裂音と共に、何かが機巧の鳥のいる雲の辺りにばら撒かれた。
 風に吹かれてセイルたちの元にも降り注いできたものは、蒼穹に似合わぬ雪のようであり……セイルはその一片を摘み上げると、首を傾げた。キラキラと輝くそれは金属の薄片だった。ただ、魔力の気配もセイルの目には視えない。何故こんなものをばら撒いたのか。
 そう思った瞬間に、異変が起こった。
 今まで素早く空を舞っていた鳥が急に動きを止めたのだ。そこにすかさず、『紅姫号』の魔道砲が放たれた。魔道機関によって高められた衝撃波は鳥の翼を撃ちぬき、鳥は鋼と鋼が擦られるような悲鳴を上げる。
 だが、今にも墜ちそうな鳥はもう一発、『紅姫号』に嘴からの砲撃を叩き込む。『紅姫号』の船体に大きな穴が穿たれ、『紅姫号』もまた魔力の煙を吐きながら風の海に沈んでいく。
「ブラン、『紅姫号』がっ!」
 セイルが悲鳴を上げると、ブランは笑みを深くする。
「何、あの程度の損傷なら致命的じゃねえ。船は修理すりゃ何とでもなるはずだ」
 その言葉に、セイルはびくりとした。ブランは「船は」と言った。ということは、中に乗っていた人々はどうなってしまったのだろうか。シエラは、それに赤い飛行服の男たちは。なおも言葉を続けようとしたセイルだったが、その言葉は喉から外に出ることはなかった。
 笑みを浮かべたままのブランの唇が小さく動いたからだ。
「――無事でいろよ、シエラ」
 その声は、笑みに反して何処までも低く、静かなものだった。
 『凧』は風を切り、ゆっくりと舞い降りていく。その先端が目指すは海の上に浮かぶ緑多き島……セイルは息を殺し、ただただシエラたちの無事を祈ることしか出来なかった。

03:空を泳ぐ紅の魚(3)

 薄暗い部屋の壁は鈍色のパイプに覆われていて、時折うっすらと魔力を含んだ蒸気が吹き上がる。部屋いっぱいに本でしか見たことのない魔道機関が立ち並び、駆動音を響かせている。
 これが、飛空艇の心臓部なのだ。そう思うと俄然セイルの胸の中に好奇の芽が生まれる。もっと近くで見たいな、と思ったその時、部屋の奥から声が聞こえた。
「……誰か、いるの?」
 まずい。
 ディスは呟き猫のように体を低くする。そう、ここはあくまで空賊の手のひらの中。決して油断をするわけにはいかないのだ。セイルも浮き立ちそうになった気分を押さえ込み、淡い魔力の光の中に目を凝らす。
 すると、大きな魔道機関の影から、ひょこりと何かが顔を出した。それは、とても背の低い少年だった。赤みの強い顔の色と丸っこい鼻、そして意外にがっしりした体つきを見ると、どうやらドワーフのようである。
「見慣れない顔だね。新入りさん?」
 少年は人なつこそうな笑みを浮かべてセイルの方に向かってきた。ディスは構えを解かないままではあったが、少年を値踏みするかのようにじっと見据えている。
 短い足でこちらに歩いてきた少年は、セイルの顔を覗き込んで「あっ」と声を上げた。
「君、もしかして昨日捕まった人? どうしてここに……」
 その時。どんどん、という激しいノックの音が機関室に響いた。少年もディスも同時にそちらを見る。次の瞬間、男のダミ声が響きわたった。
「そっちに空色のガキは来てねえか! あいつ、船倉から逃げ出しやがったんだ!」
 しまったな、とディスは苦い顔をして少年を睨む。少年は円らな瞳でこちらをしばらく見返したあと……小さい体には似合わぬよく響く声で言い放った。
「ううん、来てないよ!」
「ちっ、しゃあねえ。あのガキ、どこに消えやがったんだ……」
 ぶつぶつと呟く声が、徐々に遠ざかっていく。そして完全に聞こえなくなったところで少年は「これでしばらくは大丈夫」と笑った。
 ディスは不可解そうに少年を見て……とりあえず少年に敵意がなさそうだと判断したのか、『あとは任せた』とセイルに体を返してきた。突然自分の体の感覚が戻ってきて、セイルは目をぱちぱちさせて思わず自分の手を握ったり開いたりしてしまう。
 唐突に「任せた」と言われても。
 セイルは思ったが、とりあえず少年に改めて向きなおって小さく頭を下げる。
「ありがとう。助かったよ。でも、どうして」
「へへ、だって兄ちゃん、オレたち相手に一人でいい勝負してるみたいじゃん。なら、面白い方に味方したいだろ?」
「面白い……って、それだけ?」
「そ、それだけ。面白いことをする、ってのが『紅姫号』のルールだからな」
 少年は油ですっかり汚れてしまっている胸を張る。セイルには少年の言わんとしていることがさっぱりわからなかったが、それでも少年が今この瞬間に限っては敵でないことだけははっきりした。
「それにしても、どうしてここまで逃げられたんだ?」
「えっと……」
 どこまで言っていいものかは悩んだが、ディスのことは言わない方がいいだろう、と思う。となれば、少し語弊はあるかもしれないがこう言うしかない。
「ブランって人が出してくれたんだよ。それで、その人を捕まえれば、俺と一緒にいた子も解放してくれるって約束で、今その人を捜してるんだ」
 セイルの言葉を聞いて、少年は「ああ!」と手を叩いた。
「何だ、博士の気まぐれかあ。あの人、いつもそうなんだよなあ。船長の許可も無しに勝手なことばっかするんだ」
「博士?」
 少年の言葉に、セイルは思わず首を傾げる。どこをどう見ても、あのコート姿の怪しい男が「博士」と呼ばれるような人間には見なかったからだ。だが、少年はセイルの疑問符に対して当たり前のように言う。
「ブラン・リーワード博士。うちでは風読みをやってるけど、陸では結構有名な異端研究者らしいよ。船長の友達で魔道機関にも詳しいから、俺も色々教えてもらってんだ」
 異端研究者。
 楽園の影、禁忌に魅入られた存在。
 あの男も兄と同じ世界の住人なのだろうか、と不思議に思っていると、今まで黙っていたディスが頭の中で問いかけてくる。
『セイル。「風読み」って何だ?』
 世間知らずのセイルだって知っているような言葉をディスが知らない、ということにセイルは少しだけ驚く。ただ、ディスはどれだけ人くさかろうとあくまで剣なのだ。人の「常識」は通用しないのだろうと思い直す。
「天気を見たり、風の流れを読んだりして、どうやって船を飛ばすか決める人のことだよ」
 目の前に少年がいるので、口の中で早口に答える。それだけの説明でわかるのだろうか、とも思ったが、ディスはディスなりに『空の航海士みたいなもんか』と納得したようだった。
 それにしても、異端研究者が風読みを担っているというのもなかなか奇妙な話だ、とセイルは思う。風読みは空の船乗りの中でも最も難しい仕事だ。空を知り尽くし、船を知り尽くしていなければ到底風読みを名乗ることはできないと聞いている。
 果たして、あのブランという男は何者で、何を考えているのだろうか。疑問は増すばかりだが、ひとまずはあの男を捕まえるのが先決。セイルは不安を何とか振り切って、少年に問う。
「ブランが今どこにいるかは知ってる?」
「うーん、捕まえてきたあの子のことやけに気にしてたから、船長の部屋じゃないか?」
 捕まえてきたあの子……シュンランだ。セイルは思わず全身に力を入れるが、少年はそれには全く気づいていない様子で言葉を続ける。
「船長の部屋はここを出て階段と梯子で上っていけばすぐだ。博士との鬼ごっこ、頑張れよ!」
 鬼ごっこ、って。
 否定は出来ないけれど、きっと少年からすればこの状況も「面白いこと」なのだろうなと複雑な気分になる。セイルにとっては、面白くも何ともないというのに。
 だが……今はとにかく。
「うん、ありがとう!」
 礼を言い、人の気配がないことを確認して機関室を飛び出す。
『しっかしなあ、セイル』
 すぐそこにあった階段を駆け上るセイルに向かって、ディスがあきれたような声で言う。
『船長室って、まさにボスのいる場所じゃねえか。罠としか思えねえよ。んなとこ突っ込んで無事でいられると思うか?』
 流石に、セイルだってそのくらいは理解している。いくらディスが普通の人よりずっと強かろうと、セイルの体は一つ。部屋の中で多数の男たちに詰め寄られれば勝ち目はないだろう。
 しかし。
「……やってみないとわかんないだろ!」
 弱気は全部胸の中に閉じこめて、今は前へ、ただ前へ。
 シュンランと一緒にこの船から降りるまでは、迷ってなどいられないのだ。
『ったく、手前はヘタレなんだか無鉄砲なんだかさっぱりわかんねえな。危なっかしいったらありゃしねえ』
 ――でもまあ、そういうの嫌いじゃねえけどな。
 ディスの小さな呟きが、頼もしい。セイルも小さな微笑みでディスに応えて、外につながる梯子に飛びつく。
 ごう、と。耳元を風が駆けていく。少しでも手を緩めれば、セイルの小さな体を横薙ぎにして風の海の藻屑にしてしまいかねないほどに激しい、上空の風。それでもセイルはするすると梯子を上りきり、船の最上部へと降り立った。
 赤い飛行服の男たちは、まだ階下で騒いでいるようだった。こちらに即座に向かってくる様子はない……セイルはそう判断して、ひときわ大きく頑丈そうな扉の前に立つ。
 おそらく、ここが船長室。
 だが、この扉を開けた中に何が待っているのかはわからない。もしかすると、今までこちらを追いかけてきた男たちよりもずっと強い連中が、セイル待ち受けていないとも限らないのだ。
 ごくりと唾を飲み、躊躇いすらも飲み込んで。
 セイルは勢いよく扉を開いて――
 
 己の目を、疑った。
 
 船長室、と聞かされてきたはずのその部屋を満たしていたのは、無数のぬいぐるみに可愛らしい置物、床に散乱する少女趣味な服の数々だった。
 そんな混沌極まりない部屋の中にいたのは、派手な赤い服を着た女と、驚いてこちらを向くブラン。
 そして、おとぎ話のお姫様のようなふわふわとしたドレスに身を包んだシュンランだった。
 シュンランはセイルの姿を見て、ぱっと表情を輝かせる。
「セイル!」
 真っ白なドレスを引きずりながらこちらに向かってくるシュンランを、女もブランも止めようとしなかった。セイルはシュンランの体を抱き止めて、目を丸くしてシュンランを見つめる。
 よく見れば、シュンランの長い真っ白な髪には可愛らしい花の髪飾りがつけられていて、微かに化粧も施されているようだった。
「シュンラン! 大丈夫だった? 怖いことされなかった?」
「はい、だいじょぶです。セイルの方が、危なくありませんでしたか?」
 危なかった。確かに危なかった、けれど。
『で、一体、これはどーいう状況だよ』
 もはや呆れを通り越して投げやりな口調になったディスが言う。とはいえ、その声が聞こえているのはこの場にセイルだけだったに違いない。もしかしたら一応使い手らしいブランには聞こえていたのかも知れないが。
 ディスの疑問に対する答えではなかったが、ブランが「ははは」と笑ってみせる。
「安心しな、嬢ちゃんは言ったとおり無事も無事、大無事だよ」
「け、けど……このドレスは、一体」
「言っただろ、船長の着せかえ人形になってる、って」
 そういえば、そんなことも言っていた気がするが、まさか、ここまで言葉通りだとは思ってもいなかった。シュンランはちょっとだけ恥ずかしそうに目を落として、言う。
「その、似合っていますか?」
「も、もちろん! すごく似合ってる」
「よかった」
 慌ててこくこく頷いたセイルに向かって、シュンランはふわりと笑ってみせる。裾の広がったドレスの印象も相まって、それこそ空に咲く花のようで、セイルは否応なくどぎまぎしてしまう。
 口をパクパクさせることしかできないセイルを我に返らせたのは、今まで一度も口を開いていなかった女の一言だった。
「へえ、アンタがセイル。普通の子に見えたけど、ホントよくここまで来られたわね」
 そこで改めて、セイルは女を見る。柔らかそうな茶色の髪をウェーブさせ、とても派手な飛行服を着ているが、何となく子供っぽい可愛らしさが残る表情をしている。
「あなたは?」
「アタシが『紅姫号』の船長、シエラよ。うちの男どもが色々迷惑かけたわね」
「ねえ、シエラちゃん。それ、もしかして俺様も含んでる?」
 ブランがぼそぼそと問う。するとシエラが「当たり前でしょ、アンタが主犯じゃない」と鋭くブランを睨んだと思うと、次の瞬間にはシエラの拳骨がブランの頭を捉えていた。
 部屋の隅で悶絶するブランを華麗に無視し、シエラはセイルの前に立って胸を張る。
「賭はアンタの勝ちよ。この子を連れて船を降りなさいな。アタシたちはこれ以上この子には関わらないと約束するよ」
「え、で、でも」
 あまりにあっさりと話が進みすぎることに、セイルは逆に不安になってきて問い返す。シエラはにっと笑ってセイルの頭を撫でてみせた。
「手に入れた宝物を手放すのは空賊の流儀に反するけどね。それ以上に、一度した約束は絶対に守るのが紅姫号のやり方なの」
 ――それが、単なる食客が勝手にした約束であろうともね。
 シエラの瞳が、何とか悶絶から立ち直ったばかりのブランを冷たく射抜く。ブランは「あははは」と乾いた笑い声を立てて立ち上がる。
「や、それは悪かったってシエラちゃん。だから許して」
「紅姫号の掟、第十三条。博士、アンタに限って『忘れた』とは言わせないよ」
 シエラに指さされ、げ、とブランの表情が笑顔のまま凍りつく。セイルが「第十三条?」と首を傾げたのを見て、シエラがはっきりと言う。
「『船員、及びこの船に乗り合わせた者が船長の指示なく宝を持ち出した場合、死、もしくは永久追放に処すべし』。アンタ、勝手に約束したどころか、手に入れた剣まで持ち出したでしょ?」
 剣とは間違いなく『ディスコード』のことだろう。何しろ一度奪われたにも関わらず、他でもないブランの手からセイルに渡されたのだから。ブランは溜息混じりに頭をかくが、その表情はやっぱり笑顔だった。
「バレてたか……隠しきれるかなあとか思ってたんだけどさ」
「相変わらず人をバカにした物言いね。ま、アンタらしいっちゃらしいけど」
 シエラは頭を押さえて、深々と息をつく。それは、どこか諦めにも近い感情を含んでいるようにも聞こえた。
「何故やったかは聞かないから、とっとと船を降りて頂戴。今回ばかりは食客のアンタにも容赦はしないよ」
 ですよねー、とブランはあまり堪えていない様子でからからと笑う。本当に、何を考えているのかさっぱりわからない男だと思わずにはいられない。
 『ディスコード』を持ち出し、セイルを脅したかと思えば急に助け舟を出すような物言いをして。その結果、世話になった船を追い出されることになろうとも笑っている。
『……ホント、どういう神経してんだこいつ』
 低く唸るディスの言葉に、セイルも同意するしかなかった。箱入りのセイルが「一般的」という言葉をどれだけ理解しているのかは怪しいが、それでも目の前の男が一般からとんでもなくかけ離れた神経の持ち主だということくらいは、わかる。
 セイルがとても微妙な表情をしていることに気づいたのか、シエラはもう一度溜息をついて大げさに肩をすくめてみせた。
「ごめんね、こいつ頭は切れるんだけど紙一重の馬鹿なのよ」
「失礼な。俺様は紙一重の天才よ?」
「話がこじれるから黙って」
 シエラに睨まれ、ブランは「はあい」と両手をひらひら振って壁に寄りかかる。一応、うだうだ言いながらもシエラの言葉に従う気はあるらしい。
 改めてセイルたちに向き直ったシエラは、両手を腰に当てシュンランとセイルを交互に見やって言った。
「それで、アンタたちはこれからどうするつもり? 船から降ろすのはいいけど、行くアテはあるの?」
 いいえ、とシュンランは首を横に振る。そう、今までは逃げてばかりでこれから何処でどうするのかなど、何も決まってはいなかったのだ。それでもシュンランは、強い意志を込めたすみれ色の瞳でシエラを見上げてみせる。
「けれど、これからノーグの手がかりを探したいです。わたしには、ノーグの力が必要なのです」
「ノーグ? ノーグって、あのノーグ・カーティス?」
 シエラが素っ頓狂な声を上げる。
 当然だ、ノーグ・カーティスといえば楽園で最も有名な異端研究者にして犯罪者なのだから。セイルはいつもと同じ胸の痛みを感じてぎゅっとシャツの胸元を握りしめる。
 しかし。
 シュンランは、屈託のない笑顔を浮かべてセイルを振り返ってみせるのだ。
「セイルも、ノーグに会いたいのですよね。ノーグは、セイルのお兄さんですから」
「兄? ノーグ・カーティスに弟がいるなんて初耳だけど、アンタがそうなの?」
 シエラが驚きに目を丸くしてセイルを見やる。セイルは胸がばくばくと鳴るのを感じながらも、目をぎゅっと閉じて頷くしかなかった。
 否定はできない。できるはずもない。否定をしたら、兄との思い出全てを否定することになってしまうから。けれど、頷くことで返ってくるのは、いつも冷たい視線と言葉だった。今回だってそうに違いない、そう思って恐る恐る目を開けると……
 目の前のシエラは、真っ直ぐにセイルの銀色の目を覗き込んでいた。その瞳には、畏怖や憐憫の色は全くなかった。ただ、セイルを真っ直ぐに射ぬく視線だけがそこにあった。
「なら……アンタは、ノーグを探してどうするつもりなの?」

03:空を泳ぐ紅の魚(2)

『……うがああぁぁぁぁっ!』
 唐突に、『ディスコード』が頭の中で吠えた。
「わあっ!」
 あまりに突然で、しかもとんでもない大声だったのでセイルはひっくり返らんばかりの驚きだった。柱に縛られてなかったら、間違いなくその場に尻餅をついていたことだろう。
 しかし『ディスコード』はそんなセイルに構わず言葉を放つ。
『マジありえねえ何だあの野郎絶対頭おかしいだろ!』
「な、何が?」
『想像してたが斜め上すぎるだろあのキジルシ何で俺の使い手ってろくなのいねえんだ一番まともなのがこのガキってどういうことだよああもうこの先もマジでノーグに期待できねえぇ』
 人生……もとい剣生全てを儚むかのような大げさな口振りに、ただただセイルは呆気に取られるしかなかった。よく喋る剣ではあるが、これほどまで人の言葉を聞かずに一方的に喋り続けるというのは初めてだ。
「って……ブランもディスの使い手なの?」
『そうだよ! ああもうお前だけが良心だよ役立たずでも何でも今この瞬間一番安心したんだけどホント!』
 必死に言葉を並べ立てる『ディスコード』。セイルが「ディス」と呼んでも反発しないところを見るに、相当参ってしまっているようだ。
 「お、落ち着いて」と必死になだめながら、なおもべらべら言葉を垂れ流す『ディスコード』に問いを投げかける。
「その、使い手って兄貴と俺以外にもいるものなんだ?」
 セイルがそう問いかけたところで、『ディスコード』はぴたりと喋るのを止めた。セイルはびくりとして『ディスコード』の刀身を見つめてしまう。
 その沈黙は何故かとても不気味だった。言葉にならない、ほんの微かに伝わってくる『ディスコード』の感情は、苛立ちのような、苦しみのような、どうも不可解なものだった。
「ディス?」
『……ああ、使い手な』
 セイルが不安になって問うと、『ディスコード』はぽつりと言葉を落とした。そこに、もはや今までのおかしな気分の高ぶりは見えなかった。そして、一瞬伝わってきた不可解な感情も、セイルの勘違いであったかのように消え去っていた。
『俺の使い手ってのはんなほいほいいるもんじゃねえよ。けど、全くいないってわけでもねえ……要は「血」だ』
「血?」
『そうだ。俺を使える血統ってのがいくつかいてだな、俺の使い手は大体その末裔とか、どっかでその血を引いてる奴らで、あの男もそうなんだろ。手前とノーグが使い手なのも、別段おかしなことじゃねえ。兄弟だしな』
 『ディスコード』は当たり前のように言ったが、セイルは首を傾げずにはいられなかった。
「……なら、ちょっとおかしいかも」
『あん?』
「俺と兄貴、血は繋がってないんだ。俺、拾われた子だから」
 あ、と『ディスコード』が声を出した。明らかに「まずいことを言った」という意味合いの声なのはいくら鈍いセイルでもわかった。
『その……悪いこと言ったか』
「ううん。むしろ、そんな風に言ってくれたの、ディスが初めてかも。俺、こんな見た目だからさ、誰も実の兄弟なんて思ってくれなかったし」
 セイルが拾われた子供であることは、町の人間なら皆知っていた。空色の髪に銀色の瞳を持つ子供だ、きっと不気味に思った実の母親に捨てられてたのだ、と陰口を叩く者も多かった。
 だが、母はその全てを笑い飛ばして、周囲の白い目なんかものともせずに今の今まで自分を育ててくれた。むしろ、ちょっと溺愛しすぎなくらいに。父も、家にいることは多くないけれど優しくセイルを見守っていてくれた。
 もちろん、兄だって。
「別に、血が繋がってないこと自体は全然気にしてないから、ディスが気に病むことはないよ」
『いや、なんつーか……悪い』
 本当に気にしてはいないのだけれど。セイルは思ったが、『ディスコード』はいつも偉そうな彼には珍しく本気で謝っているようだった。
「何でそんなに謝るんだよ。何か変だよ、ディス」
『う、うるせえ。とにかく、この話は終わりだ! で、これからどうすんだよ』
 何だか無理矢理話を変えられた気もするが、確かに今はこんな話をしている場合ではない。
 本当は、このまま待っているだけでいい。待ってさえいれば、自分は無事に解放される。あの男が嘘をついていないという証拠は無かったが、何となく嘘だとは思えなかった。
 けれど。
 目を閉じれば、浮かぶのはこちらを見つめるすみれ色の瞳。耳の中には今もシュンランが歌う歌が響き続けていて……
「あのさ、俺」
『聞かずとも明らかか。行くんだろ』
 『ディスコード』はセイルの言葉を遮って、断言した。セイルは一瞬呆気にとられたけれど、すぐに力強くうなずいた。
「……うん!」
『ならとっとと行くぞ。手は貸してやる』
 『ディスコード』がそう言ってくれるなら、力強い。単純かもしれないが、それだけで何とかなるような気がした。
 何とか手を『ディスコード』の柄のところまで持っていくと、『ディスコード』は勝手に手の中に潜り込みセイルの体と同化する。そして、次の瞬間には刃と貸した右手がセイルの体を拘束していた紐をやすやすと切り裂いていた。
 鈍い痛みを訴える体を伸ばし、立ち上がる。殴られたような痕は一つもない、むしろこの痛みは関節からくるものだった。もしかすると、このところシュンランを連れて逃げ回ったり、鎧の男やゴーレム相手に立ち回ったりと、普段ならば絶対に使わない体の使い方をしていたからかもしれない。
 軽く伸びをして、先ほど薄く皮が切れてしまった喉に触れつつ、セイルは体の中に潜り込んだ『ディスコード』に微笑む。
「でも」
『何だよ』
「ディスは、止めると思った」
 『ディスコード』は、何だかんだといちいちうるさいが、無理難題をふっかけてくるような剣ではない。これまでも一般人のセイルをなるべく戦いから遠ざけるような判断を下していたし、今回もそうだとばかり思っていた。
 その『ディスコード』が、迷いなく「行く」と宣言したのだ。セイルが不思議に思うのも当然である。しかし、『ディスコード』は当然のこととばかりに言う。
『そうしないと俺の目的は達成できねえからな。目的のためには手前を散々利用させてもらうって言っただろ』
「う……うん」
 何だろう、さっぱり嬉しくない。ちょっと複雑な気分になっていると、『ディスコード』は『それに』と言葉を付け加える。
『個人的に、奴は気に食わねえんだ。俺と手前で、奴をぎゃふんと言わせてやろうじゃねえか』
 セイルにしてみれば気に食う、食わないの問題ではなかったが、「奴をぎゃふんと言わせる」という点でセイルも力強く頷く。
 あの男は、まるでセイルが自分の元にたどり着くのが不可能であるかのような口振りだった。だからこそ、笑いながらあんな不可解な条件を出したのかもしれない。ただの子供であるセイルに、自分の無力を突きつける為に。
 けれど、ここで負けてやるわけにはいかない。
 自分と『ディスコード』で、必ずシュンランを取り返すのだ。
「うん。行こう、ディス!」
 力強く一歩を踏み出したところで、不意に『ディスコード』が言った。
『もう一つ』
「何?」
『勝手に略すな、俺の銘は「ディスコード」だってあれだけ言っただろ!』
「だ、だって長いし慣れないし呼びづらいし! それに今までディスだって否定しなかったじゃないか」
『ぐ……』
 自分からは言えないだろうし、セイルもあえて言わなかったが……今まですっかり忘れていたに違いない。その証拠に、『ディスコード』はしばらく『うー、あー』と唸った挙げ句にやけくそ気味に叫んだ。
『くそっ、わかったよ何とでも呼べばいいさ!』
「い、いや、そんなに嫌ならいいんだけど」
『別に、嫌ってわけじゃねえよ。ただ、人みたいに呼ばれるのが気に入らないだけだ』
 それが「嫌」というのではないだろうか。
 しかし、何故そんなに人扱いされるのが嫌なのだろうか。セイルは不思議に思うが、『ディスコード』――ディスはそれ以上を語らずに『とっとと行くぞ』とセイルを促す。
 何故、ディスがそういう言い方をしたのか、気にならないわけではなかったけれど。今真っ先に考えるべきなのはシュンランのことだ。すぐに横道に逸れそうになる意識を目の前の扉に戻し……右手を振り上げる。
 そこに、言葉など必要なかった。
 右手が刃に変化したと思った次の瞬間には、扉にかかっていた鍵がまっぷたつに切断されていた。
『さあ、セイル。せいぜい大暴れしてやろうじゃねえか?』
 頭の中でディスが囁く。セイルは無言ながらも頷きでそれに応えて、扉を勢いよく蹴破り飛び出した。
「何だ……っ!」
 声に振り向けば、赤い飛行服に身を包んだ髭面の男が、目を丸くしてこちらを見つめていた。一体、何が起こったのかさっぱりわかっていない顔だったが……すぐにセイルが「逃げ出した」のだと気づいて、大声を上げる。
「おおい! 空色のガキが逃げ」
「黙りやがれっ」
 その声を遮って、セイルは情け容赦ない蹴りを男の鳩尾に叩きこむ。否、悶絶しへたりこむ男を見下ろすのはセイルではなく、男が声を上げた瞬間にセイルの体を乗っ取ったディスだ。
 ディスの判断の速さにはセイルも素直に感嘆する。ただ、体を借りるなら借りると一言言ってほしいところであったが。
 ディスは男を踏みつけながら眉を寄せ、露骨に舌打ちする。
「ち……今の声も聞きつけられたか。来るぞ」
 あちこちから響いてくる足音は、セイルにも聞き取ることが出来た。苦虫を噛みつぶしたような表情で左手に生やした刃を構えるディスに対し、セイルは頭の中から恐る恐る問う。
『斬るの?』
「相手は悪い空賊さんだぞ。斬って何が悪い」
『だけど、この人だって武器は持ってないし』
 事実、足下に丸くなっている髭面の男の手には、武器らしいものは一つもなかった。魔法を強化する装飾品すら見あたらない。見張る相手が丸腰の少年一人とみて油断していたのだろう。
 セイルの言葉に、ディスは頭に手を当て大げさに溜息をつく。
「あのなあ……んなこと言ってたら命がいくつあっても足らねえ。俺はともかく手前のな」
『う、でも』
「うるせえなあ、要は武器を使わなきゃいいんだろ」
 セイルの反論を遮って、ディスは諦めたように肩を竦め、これまたあっさりと左手の刃を体の中に引っ込めた。ディスがここまで素直にセイルの意を汲むとは思わず、セイルは『いいの?』と聞き返してしまう。
 ディスは仏頂面で虚空に、正確には頭の中のセイルに向かって言い放つ。
「そうしろって言ったのは手前じゃねえか」
『そうだけど、ディス、武器無しでも戦えるの?』
 体の中に潜り込みその形を自由に変えるとはいえ、『ディスコード』は基本的に剣の形をした武器だ。その中に宿る存在であるディスが剣を操ることに長けているならわかるが、武器を持たない戦いを知るとも思えなかった。
 しかし、ディスは腰に手を当て胸を張って言い放つ。
「『ディスコード』様を舐めんな。それに、今回は『倒す』ことが目的じゃねえからな」
 乾いた唇を舐め、廊下の向こうから駆けてくる男たちを見据える。船の廊下は狭いため、武器を振るえるスペースもないこともあるのだろう、やはり男たちも素手だった。
 そして、背後からも男たちの罵声が響く。ちょうど、挟み撃ちの形だ。
 前回もこんな状態だった気がする。前回は動くに動けない状態になってしまったディスを思い出し、セイルは思わず叫ぶ。
『来てるよ、ディス!』
「わかってら」
 ディスはいたって軽い口調でセイルに応じ、迷わず近くにまで迫ってきていた男たちの方へと駆け出す。まさか、セイルが真っ直ぐに向かってくるとは思わなかったのか、男たちに一瞬動揺の色が走ったのがセイルにもわかった。
 当然それを、ディスが見逃すはずもない。
 迷いつつもセイルの体を掴もうとした男の腕を軽くかわすと、男の肩に手を乗せ力を掛ける。そのままとん、と床を蹴ると、自分の手を軸にしてくるりと空中に回転し、勢い余ってつんのめり、床に倒れ込む男の背後に降り立った。
 それは、ほんの一瞬のこと。
 だが、セイルにはまるで全てがスローモーションのように感じられていた。
 呆気にとられた男たちを置きざりに、ディスはさっさと廊下を駆け抜けようとする。そこに至ってさすがに男たちも色めきたった。
「お、追え! あのガキ、ただ者じゃねえ!」
 やっと気づいたか、とディスはぺろりと舌を出す。前から後ろから迫ってくる男たちの間をすり抜け、時にはその頭上に跳び上がって蹴りを入れる。曲芸を思わせる軽やかな動きに、完全に飛行服の男たちは翻弄されていた。
 ただ、それでも男たちは執拗にセイルを追い続ける。「きりがないな」とぼやいて、ディスは角を曲がったところにある部屋に飛び込んで扉を背にして息を殺した。
 賊の追撃をかわしても息一つ切らしていないディスに、セイルも感嘆するしかなかった。
『すごいや、ディス』
 騒ぎ立てる男たちの気配が部屋の前を行き過ぎたのを確認して、ディスはぱんぱん、と手を叩く。
「はっ、本気になりゃこんなもんだ。今回は後ろを気にしなくてもいいしな」
『あ、そっか。この前は、シュンランを守りながらだったから』
 そゆこと、とディスは肩を竦めてセイルの言葉を肯定する。
 ディスの身軽な戦い方は、人を庇うには向かない。後ろを気にせずに済むこの場所に来て、初めて本領を発揮できたということなのだろう。
「それに……すごいのは手前かもな」
『え? どういうこと?』
「俺は技術を記憶してはいるが、どれだけ動けるのかは使い手の実力に依存する。実際に動くのは剣じゃなくて人だからな」
『ええと、ごめん、どういうことなのかよくわからないんだけど』
「だーかーらー! 手前の身体能力が半端ねえんだよ! 俺が飛んだり跳ねたりできんのは、手前の体が無茶な動きに耐えられるからだ。お前さ、何か訓練とかしてた?」
『まさか!』
 そんな記憶はない。何しろセイルは林の中の屋敷で生まれ育ち、林の中で一人で遊ぶか、おつかいとして町と屋敷を行き来するだけの生活を送っていたのだから。ディスの華麗な体さばきに耐えられるような訓練をしたことなどあるはずもない。
 ただ、一つだけ。
 引っかかったことが、あるとすれば……
『だけど、兄貴はよく言ってたっけ。俺って人より丈夫で力持ちなんだってさ。関係あるかどうかはわからないけど……』
 今まで、比べる相手がいなかったからそれが事実なのかは知らない。それに、兄は加えてこうも言っていた。
『ただし、その恵まれた力を決して暴力にしてはいけない。自分で考えて、その力が本当に必要だと思った場所で振るうべきだ』
 ――と。
 セイルは今までその言葉を守って、決して人に向かって拳を振り上げたことはない。何を言われても、指差されても、歯を食いしばって手を握りしめて、それ以上は何もしなかった。
 それが正しかったのかどうかは、今もわからないけれど。
 黙ってセイルの話を聞いていたディスは、ぽつりと言葉を落とす。
「なーるほどなあ……」
『ディス?』
「ま、要は元から性能がいいってわけか。性能がよい上に自由に使える手前は、つまるところ俺にとってとても都合のよい存在ってことだな」
『酷い!』
 事実かもしれないが、もう少し言い方というものがあるのではないだろうか。頭の中でむくれるセイルに構わず、ディスはふと部屋の中を見渡す。今までセイルも気にしていなかったが、偶然飛び込んだこの部屋は他の船の中の部屋とは全く趣を異にしていた。
『機関室……?』

03:空を泳ぐ紅の魚(1)

 泣き声が聞こえる。
 小さな、子供の泣き声。
 ああ……そうだ。泣いているのは自分だ。今よりももっと背が低くて、泣き虫だった頃の自分。
「どうした、セイル」
 そんな自分の横に、誰かが立っている。背の高い、眼鏡をかけた男の人。セイルよりもずっと年上の兄は、泣きじゃくるこちらの手の中をのぞき込んで、淡々と言った。
「また壊しちまったのか」
「ご、ごめんなさい。壊すなって、言われた、のに」
 小さな手の中には、精巧な飛空艇の模型があった。いつも仕事で忙しかったはずの兄が自分のために作ってくれた、楽園で一番美しい翼を持つ船。かつて楽園に生きた魔道機関の祖、シェル・B・ウェイヴが設計したとされる飛空艇『風精の翼』だ。
 けれど、その翼は片方が根元から折れていて、見るに堪えない姿になってしまっていた。
 それを見てしまって、また涙が零れて落ちる。だが兄は模型を観察して、ぽんぽんとセイルの頭を優しく叩いた。
「何、このくらいなら簡単に直るさ。貸してみろ」
「う、うん……」
 言われてセイルは恐る恐る、兄に模型を差し出す。兄は自分の机から針や接着剤を持ってくると、床に座り込んで黙々と模型を直し始めた。
 小さなセイルはその横に座って、兄の手元をじっと見つめている。そうだ、記憶が正しければ家にいるときの兄はいつもこうやって何かを作っていて、自分はその兄の指先を飽きもせずに眺めていたのだった。
 その時も、セイルは今まで自分が泣いていたことすら忘れて、みるみるうちに直っていく船を、目を輝かせて見つめていた。
 すると、兄は船を直す手を止めないままに、言った。
「セイル」
 何? と首を傾げる小さい自分に対して、兄は黒縁眼鏡越しに視線を向ける。
「……母さんが言ってたぞ。昨日も、家に閉じこもっていたみたいだな。たまには町に出たらどうだ」
 びくり、と。小さなセイルは震える。兄の声はあくまで淡々としていたが、それが余計にこちらを責めているようにも感じられて。
「だ、だって」
 再び両目に涙が浮かび、俯いて空色の髪の先端をいじりながら、蚊の鳴くような声で告げる。
「ぼく、みんなと違うんだ。青い髪で、魔法も使えないなんて、変だ、ってみんなが言うんだ」
 そして誰もが指をさして、時に笑い、時に恐れを浮かべる。何も知らない幼いセイルでも、そのくらいは理解できていた。十分すぎるほど、理解してしまっていた。セイルはそれに対し、膝を抱えて丸くなることしかできない。
 兄は小さく溜息をついて、言った。
「だから何だ?」
「え?」
 セイルは反射的に顔を上げていた。兄は、珍しく呆れたような声で言った。
「人と違って何が悪い。お前はお前で他の誰でもないんだ、違って当然だろ」
 それは、母にもよく言われたことだ。もちろん自分にも何度も何度も言い聞かせてきたが、どうしても納得できなかった。小さなセイルはぷうと頬を膨らませて兄を睨む。
「ぼくの髪とか目とか、変じゃないの?」
「お前だって昔、俺の顔が怖いと泣いただろ。誰にだって変な部分の一つや二つあるし、それを『変』と断ずること自体が馬鹿げている」
 ――だから、お前は胸を張っていていいんだ。何も悲しむことはない。
 兄はそう言って、未だ憮然としたままのセイルの頭を優しく撫でる。そして……ぽつりと、言葉を落とす。
「それにな、セイル。俺はお前が羨ましいんだ」
「ぼく、が?」
 そんなわけはない。兄は全てを持っている人だった。今のセイルが望んだとしても決して手には入らないようなものを、全て抱いていた。
 その兄が、一体自分の何を羨ましいというのか。
 記憶の中の兄は手の中の船を窓に……その向こうの青い空にかざしてみせる。
「ああ。何せ、お前には――」
 その時、兄が何と言っていたのか。
 兄がどんな顔をしていたのか。
 どうしても、思い出せなくて、
 
 
 規則正しい音の中に突然混ざったがたん、という揺れ。
 それでセイルの意識は現実に引き戻される。全身に走る鈍い痛みに小さく呻き、目を開ける。
 すると、まず目に飛び込んできたのは天井にぶら下がった小さな魔法光のランプだった。そして、天井近くまで積み上げられた木箱と荷物が、紐でくくられながらも今にも崩れ落ちそうな勢いでゆらゆらと揺らめいている。
 いや、揺れているのは荷物だけではない。自分が座っている床も、常に揺れているのだ。
 ここは……どこだろう。
 セイルは思いながら体を動かそうとして、何かが自分の腕を圧迫していることに気づく。見れば、周囲の荷物と同じように自分の体も紐でぐるぐる巻きにされていたのだ。
 そうだ。
 ラグナとかいう鎧の男と、影追いの女。シュンランをめぐって二人が睨み合っているところにいくつもの羽ばたき船がやってきて、煙幕に乗じてシュンランをさらっていこうとしたのだ。
 シュンランに向けて伸ばした腕も届かずに。
 自分は何者かに倒されて……そのまま意識を失ったのだった。
 ということは、自分は今捕らわれているということなのだろう。ここがどこかはわからないだけに、否応なく不安は増す。もし自分の状況を理解していたとしても、それはそれで不安になってしまっただろうが。
 シュンランはどこにいるのだろうか。危険な目に遭っていなければいいが、と唇を噛む。あの時、『ディスコード』の言うとおりシュンランを連れて逃げなかった自分に腹が立つ。
 体を柱にくくりつけている紐は固く、セイルが身じろぎしても簡単に緩む様子はない。鋼をも切り裂く『ディスコード』ならば、こんなもの簡単に切れてしまうのだろうが……
「あれ?」
 セイルは思わず声を上げる。
 そうだ、『ディスコード』はどうしたのだろうか。セイルが倒された時はセイルの中に入っていたはずなのだが、こんな時に黙っているとも思えない少年の声は聞こえてこない。
「……ディス? 『ディスコード』!」
 呼びかけてみるも、やっぱり返事はない。それどころか、体の中にあった「自分とは違うもの」の気配もすっかり消え失せてしまっていた。
 体中から血の気が引く。
 『ディスコード』すらも奪われてしまったとすれば、もはやセイルに成すすべはない。そして……ここにいられる理由もないのだ。
 どうしよう。どうすればいい。
 セイルは必死に頭を回転させるが、回転させればさせるほど、頭の中に浮かぶのは最悪の想像ばかり。腕を縛られてしまっているため実行には移せないが、まさしく「頭を抱えたくなる」状態だ。
 嫌な想像を振り払うようにぶんぶんと首を振ると、ふと荷物の向こうに見えた小さな窓が目に入る。
 窓の外に広がっているのは、青。
 春の空が、どこまでもどこまでも広がっていたのだ。
「ここは……」
 空の、上?
 その考えに思い至った瞬間、部屋の扉が勢いよく開いてセイルはびくりと体を震わせる。恐る恐るそちらを見ると……
「おっはようさーん、お目覚めはいかが?」
 セイルの不安も緊張も何もかもを綺麗さっぱり無視して、陽気に笑う男が立っていた。
 ひょろりとした長身に長いコートを羽織り、金茶から焦げ茶へのグラデーションを描く髪を、後ろでゆるく三つ編みにしている。年の頃は二十歳を越えた辺りか、もう少し上か。ぱっと見る限りさしたる特徴のない顔に、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
 もちろん、見たことのない男だ。
 だが、その声だけは聞き覚えがあった。もうもうと立ち上る煙幕の中、薄れゆく意識の中で聞いた、低くざらついた声音。間違いない、これは自分を背後から襲った男の声だ。
 セイルは一瞬緩みかけた気を引き締めて、銀の目で男を睨みつける。
「……お前っ、シュンランをどこにやった!」
 体を縛る紐を引きちぎらんばかりの勢いで言うが、男は愉快そうに口元に浮かべた笑みをさらに深くするばかり。
「おーおー、威勢がいいことで。でも、自分の置かれてる状況わかってるかしらん?」
 ぴん、と。
 一瞬空気が音を立てて張りつめたような気がして、セイルは出かけていた言葉を否応なく飲み込む。男の言葉はどこまでも軽く、ふざけたもので。脅すような言葉ではあったが、決してその言葉自体が恐ろしかったわけではない。
 だが、何故かセイルはこの男が「恐ろしい」と思った。
 それは、見上げてしまった男の目が、零下の色を湛えていたからかもしれない。笑っているのに、これほど愉快そうに笑っているというのに、目だけはにこりともせずにセイルを冷たく見据えている。その得体の知れない表情が、セイルにはとても異常なものに思えて……恐ろしかった。
「……あら? 今更怖気付いたか?」
 笑顔の男はセイルの顔を覗き込む。怖かった、怖かったけれど、セイルは真っ直ぐに男を見つめ返した。
「怖気付いてなんかない。シュンランは無事なのか?」
 それだけは、どうしても確かめなくてはならない。腹に力を込めて、男の反応を待つ。すると、男はくくっと喉を鳴らす。
「何だ、ただの泣き虫お坊っちゃまかと思ったら、意外と肝が据わってんじゃねえか。安心しろ、一応無事だぜ。ただ、今ごろ船長に着せかえ人形にでもされてるかもね」
 ふう、と溜息を吐き出し、大げさに肩を竦める男。思わぬ言葉に、セイルは銀色の目をまん丸くする。
「き、着せかえ人形?」
「そ。うちの船長、ホント可愛い子に弱いのよねえ。さらった理由、忘れてなきゃいいんだけど」
 ふざけて女のような言い回しをしつつ、男はちょっと遠い目をする。
「船長……って、そうだよ、お前ら何者なんだよ!」
「お前なあ、そのくらいは想像力働かせなさいな。窓の外見りゃ何となくわからね?」
 男は呆れ顔で窓の外を指す。やっぱりどこまでも青い空が続いているわけで、ここはどうやら倉庫のような場所で。気を失う前に現れた赤い羽ばたき船に、目の前に立つのは怪しい男。
「……もしかして、空賊、とか?」
「もしかしても何も、それしかねえだろ。ま、俺様親切ですから、何も知らないガキに教えてあげましょか」
 男は芝居がかった動きで両腕を広げて言う。
「この船の名は『紅姫号』。空を泳ぐ魚を駆るのは美しき船長シエラとその下僕たち。んで、俺様はここの食客ってところよ」
 『紅姫号』のシエラ一味。
 その名なら、セイルもよく知っている。『楽園』の各地に現れては消える謎の空賊であり、あらゆる種類の「宝」を集める存在なのだという。
 そして、一番の特徴は彼らの駆る船『紅姫号』。
 南の海を泳ぐ紅姫魚の名の通り、鮮やかな赤に塗られた飛空艇は、旧型ながら最新型の小型飛空艇と肩を並べるほどの飛行性能を誇るという。特に旋回能力は、現在風の海を行くどんな船よりも勝るという。ただし、性能が高い分扱いはとんでもなく難しいじゃじゃ馬であり、それ故にこの型を駆っているのはそれこそシエラ一味くらいのはずだ。
 これが、本物の『紅姫号』なのか。
 セイルは自分が囚われの身であることも忘れ、胸の中にふつふつと興奮が沸き上がるのを感じていた。外からこの型の船特有の曲線を見ることができないのがもどかしい。
 セイルがここまでよく知っている理由は、単にセイルが飛空艇に詳しいというだけでなく、この型がセイルの父の設計によるということもある。セイルの父は普段から家にいないが、それなりに有名な飛空艇技師だ。そもそもカーティス家とは代々続く飛空艇技師の家系なのである。もちろんノーグもかつては優秀な飛空艇技師であったという。
 セイルもまた、将来は父や兄のような飛空艇技師になるのだと信じて疑っていない。
 とはいえ。
 この船が空賊船であることだけは確か。セイルは興奮を何とか押さえ込み、目の前の男を睨む。
 そう、今は、とにかく――
「とにかく、シュンランに会わせて!」
「だーめ。あの子はお前みたいなどうでもいいガキが連れて歩けるような子じゃございません」
 ふざけた言い方ではあったが、男はなおも冷たい色の目でセイルを見つめる。まるで、セイルを「観察」するかのように。
「それにお前さん、知らないんでしょ。あの子が何者で、何故追われてるかなんて」
「う……」
「なら今のうちにとっととお家に帰るこったな。何、悪いようにはしねえさ、こいつ共々しっかりお預かりいたしますよ」
 と言って、男はコートの内側から何かを引き抜いた。それは、
「ディス!」
 いつの間にか、セイルの外に出てしまったらしい『ディスコード』だった。男の手の中の『ディスコード』は、何の変哲もないナイフにしか見えなかったけれど。
 男は柄の部分を摘むように持ち、ぷらぷらと揺らしながらその磨き抜かれた刀身に自分の顔を映し込む。
「あら、『ディス』なんて可愛いお名前で呼ばれてんだ。怖い怖い『鍵』が、随分丸くなったわねえ」
「返せよ、それはお前のものじゃない!」
「お前のもんでもねえだろ」
 セイルの叫びに、男はぴしゃりと言い切った。その声が異様に鋭くて、セイルはぐっと言葉を飲み込んでしまう。男は『ディスコード』を逆手に持ち、無造作にその切っ先をセイルの喉すれすれの部分に突き出した。
 『ディスコード』の刃と同じくらい、鋭く冷たいアイスグリーンの瞳が凍り付いたセイルを射抜く。その唇は、相変わらずだらしない笑みに歪んでいるけれど。
「お前さんの選択肢は二つに一つ、何もかもを忘れてこの船から降りるか、ここで死ぬかだ。選択の余地があるだけ有難いと思え」
 そっと首の皮に触れる、『ディスコード』の刃の感触。甲高い吠え声を上げてこそいないが、何をしていなくとも十分によく切れるナイフだ。これ以上男が力を入れれば、セイルの喉はあっさりと裂かれるだろう。
 息も上手く吸えずに、口を半開きにして。セイルはただ、男の双眸から目を離すことが出来ずにいた。
 死にたくない、そんな覚悟などセイルにはない。だが、ここで素直に「わかりました」と降りることが出来るだろうか。男は「全てを忘れて」と言ったけれど……忘れられるはずもない。
 腕の中に落ちてきた重さも。どこか懐かしい気がする不思議な歌声も。真っ直ぐに見つめる鮮やかなすみれ色も。そっと繋がれた手の温もりだって、全てこの体に刻み込まれてしまった。
 だから――
「……どっちも、選べない」
「あ?」
「俺は、シュンランと、ディスと、兄貴を探すって約束したんだ。死ねないし諦められない」
 ぷつり、と。
 喋った時に喉に刃が触れたのか、皮が裂けた感覚があった。けれど、セイルは男を見据える。目は逸らさずに、まるで金属のように硬質なその瞳を見つめ返す。
 殺されるだろうか。
 それでも、譲れないのだ。ここで諦めて、後悔しながら生きていくことはきっと死ぬよりも辛いはずだ。
 そんな風に考えていると。
「……は、はは」
 男は『ディスコード』の刃を引いて、笑いだした。今まで一度も笑わなかった瞳も、少しだけ緩んだ気がした。
「ははっ、ったくもう、俺様調子狂っちゃうぜ」
 『ディスコード』と同じようなことを言いながら、男は無造作にセイルの膝の上に『ディスコード』を置く。男の意図がわからず思わず首を傾げると、男はにやにや笑いながら言った。
「なら、調子狂ったついでに俺様がもう一つ選択肢を増やしてやろう。俺様を捕まえてごらんなさいな。そしたら、シエラちゃんに話を通してやってもいい」
「え……?」
「ただし、お前が脱走すりゃ船の連中は放っては置かないだろうな。しかもここはお空の上、下手すりゃどぼんってな」
 男は楽しそうに指先を下に落とす。確かに、下に何があろうとも、この高さから落ちれば命は助からないだろう。しかも、相手は男に加えこの船の乗組員全員。セイルの圧倒的不利だ。
 憮然とした表情になるセイルに対し、男は笑みを浮かべたまま言い切った。
「どれを選ぶかはお前の勝手。もちろん、ここでのんびりしてりゃ降ろしてもらえるさ。あの子は俺らが連れてくけどな」
「嫌だ。お前らの好きにはさせない」
 セイルは、ぐっと拳を握りしめて男を睨む。男はそんなセイルを見下ろして、ふと息をつく。
「嫌なら行動で示せ。俺様、口先だけの奴は嫌いよ。ま、せいぜい頑張りなさいな」
 言って下手くそな鼻歌を歌いながら倉庫の外に向かおうとした男だったが、不意にセイルを振り返って言った。
「あと、ガキに『お前』なんて呼ばれる筋合は無えな。俺様にはブランっていう素敵な名前があるの。ブラン・リーワード。そのちっちゃな脳味噌に焼き付けとけ、ガキ」
「が、ガキっていうなよ! 俺にだってセイルって名前が……」
 身を乗り出して噛みつく勢いのセイルだったが、男は余裕の表情で手をひらひらさせるばかり。
「はは、ガキはガキだろ。それじゃ」
 またな、と。
 気楽な挨拶と共に男は扉を閉ざした。その瞬間、船倉には今まで通りの静寂が戻った。静寂といっても、船の中に響く駆動音はもちろん絶えることはなかったのだけれども。
 セイルは、軽く唇を噛んでそれを見送ったが……落ち着いて考えてみれば、奇妙だ。何故、男はあんな提案をしたのだろうか。セイルを焚きつけるような真似をしたところで、あの男にも、空賊たちにも一つも利はないはずだというのに。
 しかも、男はこともあろうに『ディスコード』までセイルの元に置いていったのだ。ふと膝の上で沈黙を守るナイフに視線を移すと……

幕間:蠢動

『――申し訳ありません。「歌姫」と「鍵」の確保に失敗しました』
 淡い魔法光の灯火だけが揺れる闇の中、微かに雑音混じりの音声が響く。機巧仕掛けの車椅子に腰掛けた黒衣の男は、黒縁の眼鏡を押し上げ少年を思わせる声音で言った。
「状況を詳しく聞かせてもらおうか」
『はっ』
 緊張に満ちた声が、車椅子に取り付けられた受信機から漏れてくる。否、それは緊張と言うよりも……車椅子の男に対する畏怖のようであった。
『クラウディオ・ドライグが「歌姫」をドライグから脱出させ、「鍵」を持たせた模様です』
「ああ……それは部下の報告にもあったな」
『そして、「歌姫」はその後「鍵」の使い手である一人の少年と行動を共にしていたようです』
 使い手の少年? と男は疑問符を投げかける。
『はい。空色の髪を持つ少年と』
 受信機の向こうの声がそう告げた途端、車椅子の男が笑いだした。笑うといっても、微かに喉を鳴らすだけではあったが……めったに感情を動かすことのない男の笑い声を聞いて、受信機の向こうで息を飲む気配が伝わってきた。
「なるほど。それは確かに『鍵』の使い手に値する、か。これもまた運命という奴なのだろうな」
 運命など、これっぽっちも信じてはいないが。
 男は笑う。笑い続ける。乾いた、血の気の引いた唇を歪め、天井辺りに揺らめくほの青い光を鋭い瞳で見据える。
『捕縛用の魔機巧人形を持たせたラグナが二人を追跡していましたが、影追いの介入と、正体不明の飛空艇集団による襲撃があり……その後「歌姫」と「鍵」の使い手の少年の行方は不明です。おそらく、その集団に奪われたものと思われます』
「そうか。ご苦労、キルナ……そうだな」
 顎を指先で叩きながら、車椅子の男は受信機の向こうの声、優秀な部下である異端研究者、キルナ・クラスタに告げる。
「早急にその集団の正体と居場所を押さえろ。確定し次第、『鳥』を飛ばす」
『し、しかし!』
 キルナは男に対する恐怖を滲ませながらも、かなり強い口調で反論する。
『「鳥」はまだ試作段階! もしこれで失敗すれば、こちらの損害も測り知れませんよ!』
「だが、ついに『塔』の準備も整った……時は満ちたのだ」
 淡々と、感情の薄い声で告げられた言葉に、キルナは呼吸を忘れ沈黙した。それだけ、車椅子の男の言葉は衝撃的なものだった。
 どのくらい、沈黙が続いただろうか。
 沈黙を破った微かなノイズ混じりのキルナの声は、つい一瞬前までの重苦しい空気をどこかに置き忘れたかのような、隠しきれない高揚に上ずっていた。
『では、ついに!』
「そうだ。我ら『エメス』の計画が動き出す。蒙昧な楽園の民に、真実と真理を示す我々の悲願が叶う時が来た」
 言って、キルナには見えていないとわかっていながら男は口元を歪める。その歪な笑みの意味は、もしキルナが見ていたとしても、決して男が何故笑うのかを理解はできなかっただろうが。
「そのためにも一刻も早く、『歌姫』と『鍵』を奪取しなくてはならない。わかるな」
 キルナは「はっ」と鋭く返事をして、高揚のままに言葉を放つ。
『了解しました、「機巧の賢者」。このキルナ・クラスタ、必ずや「歌姫」と「鍵」を取り返してみせましょう!』
「ああ、頼んだぞ、キルナ」
 男も笑みを抑え、押し殺した声で言う。
 まだ笑うには早い、そう男は自らに言い聞かせる。何もかもは、今始まったばかりなのだ。全てが終わったときに笑っているのが誰なのかは……まだ、誰にもわからない。
 キルナは男の声を受け止め、そのまま通信を切ろうとしたようだったが、不意に不安を込めた声音で問いかけてきた。
『しかし……お体の方は大丈夫なのですか?』
 男は少しだけ沈黙し、膝の上で手を握る。上手く力を入れることが出来ない指先、触れれば折れてしまいそうな程細い手首。しかし、これでも以前よりはよほど上手く動けるようになっている。
「『回復』は順調に進んでいる。計画に支障はない」
 それどころかこの調子で「回復」すれば、予想よりもずっと早く計画を進行できるはずだ。女神側もこちらの動きには気づき始めている、奴らを出し抜き目的を果たすには、迅速な行動が不可欠だ。
「俺のことはいい。今は一刻も早く、『歌姫』を手に入れろ」
『わかりました。それでは、失礼します』
 ――人の子に、正しき導を。
 キルナの、祈りにも呪詛にも似た言葉が響く。男は「楽園に真理と真実を」と応じ、黒縁眼鏡の下で目を伏せる。
 そして、ノイズ混じりの通信が途絶え、辺りは不気味なまでの静寂に包まれた。
 男はゆっくりと車椅子から立ち上がる。不自由な足は自らの体重を受け止めるには弱すぎて、上半身のふらつきを抑えられない。だが、男は車椅子の縁に手をかけ、何とか背筋を伸ばしてその場に立つ。
 男がゆっくりと首を巡らせれば、背後の壁に描かれた紋章が目に入った。
 歯車の上に交差する、剣と杖。
 その剣の形は、空色の少年が握る禁忌の機巧『ディスコード』に酷似していた。
 『ディスコード』……それは遠き昔、楽園に不協和音を奏でた『世界樹の鍵』。今は行方が知れずとも、いつかこの手に握られることを運命づけられた絶対たる力の片割れ。
 そして、目を閉じた男は楽園を変える歌を歌う『歌姫』の後ろ姿を幻視する。長い銀色の髪を乾いた風に揺らし、荒れ果てた道を駆け抜ける、一人の少女。
 瞼の裏、幻の少女がこちらを振り向く。
 少女は、彼に向かって笑っていた。疑いを知らぬ、どこまでも透き通った笑い方で。
 記憶回路の片隅で輝き続ける、曇りなきすみれ色の瞳を首の一振りで払いのけ……男は闇の中一人、呟く。
 
「悪いな、シュンラン――今はどうしても、お前の歌が必要なんだ」

02:右手を繋ぎ、左手に剣(4)

「ディス」
 セイルの上着の裾を掴み、シュンランが小さく呼んだ。『ディスコード』は視線だけは男とゴーレムからはずさないままぶっきらぼうに言い放つ。
「『ディスコード』だ」
『……やけにこだわるね』
「俺は由緒正しき禁忌機巧『ディスコード』。人じゃねえんだから勝手に略すな」
 シュンランは一瞬言葉を飲み込んでから、もう一度セイルの服の裾を引っ張って言った。
「あの、ディス」
「少しは人の話聞けよ!」
 人じゃない、と言っておいてそれはあんまりな言い分じゃないかなあ、とセイルは頭の片隅に縮こまりながら思う。
 そしてシュンランは悲痛な『ディスコード』の主張などきれいさっぱり無視して言った。
「動きを止めればいいですか」
「……何?」
「少し、できます」
 思わず、『ディスコード』はシュンランを見やる。シュンランはすみれ色の瞳で真っ直ぐにこちらを見据えていた。その表情には迷いも不安も感じられない。
 いいだろう、と『ディスコード』は男に視線を戻す。刹那、迫っていた鋼の拳の一撃を刃で受け止める。刀身の角度を利用して力を外に逃がし、セイルの体に触れることを許さない。
 次の攻撃までの隙をついて『ディスコード』は男の足下を狙って蹴りを放つが、それは相手にも読まれていたのか男が数歩下がったのみで空を切った。
 ひゅ、と息を吐き、『ディスコード』はシュンランに言う。
「何すっか知らねえが、任せていいんだな」
「任されます」
 シュンランがすう、と深く息を吸う気配。一体何をするのだろう、とセイルが心の中で息を飲んだ、次の瞬間。
 鈴を思わせる声が、辺りに響き渡った。
 優しくもどこかもの悲しい、聞き慣れない旋律。けれど、何故か懐かしいとも感じてしまう歌声。セイルが月明かりの中で聞いた、あの歌をシュンランが歌い始めたのだ。
 何故、歌なんて……セイルが不思議に思ったのは、しかし一瞬のことだった。
 唐突に、男が驚愕の声を上げる。
「なっ……何だぁ!」
 見れば、男の鎧が見る間に凍り付いていくではないか。否、凍り付いているのは鎧というよりも、鎧の間から吹き出していた魔力だった。鎧の周囲に充満していた魔力が歌声に揺り動かされ、氷へと変換されているのだ。
 『ディスコード』の視線がゴーレムにも向けられる。同じように、魔力を吐き出し動くゴーレムは、ほとんど完全に凍り付き、動こうにも動けない状態に陥っていた。
 魔法。
 しかも今までセイルが見たことの無い、「歌による魔法」だ。
 辺りの空気も急激に温度を落とし、大気中の魔力がきらきらと煌めく。その中で、シュンランは高らかに歌う。柔らかな音が一つ生まれる度に、男たちの動きは確実に鈍っていく。
「……やるじゃねえか!」
 『ディスコード』は輝く空気の中軽々と地を蹴った。男が初めて焦りの表情を浮かべる。反応しようにも、体のほぼ全体を覆う鎧が動かなくてはどうしようもない――
 甲高い、刃が吠える音がシュンランの歌声に重なる。
 次の瞬間、腕に伝わる手応え。『ディスコード』の刃が、鎧に覆われた男の右肩を貫いたのだ。
「ぐ、ああああっ!」
 流石に悲鳴を上げる男の胴を、飛び込んだ勢いのままに容赦なく蹴り飛ばす『ディスコード』。刃に滴る血を払いながらシュンランを振り向く。
「今のうちに行くぞ!」
「はい!」
 歌を止めた途端に、凍り付いていた空気が急速に温度を上げていく。走りだそうとしていた『ディスコード』はシュンランが手を伸ばしてきたのを見て、微かに眉を寄せ……気づけば「セイルが」シュンランの手を取っていた。
 いつの間にやら、『ディスコード』は刃と共にセイルの中に戻ってしまっていた。五本の指を取り戻した左手を見つめ、セイルは首を傾げる。
「……あれ、ディス?」
『「ディスコード」だ、手前まで勝手に略すな。とりあえず俺の役目は終わった。あとは手前で何とかしやがれ』
「あ、うん」
 ありがとう。
 そう呟いたセイルに、『ディスコード』は「どーいたしまして」とやる気なさげに言い放つ。口は悪いし、偉そうだし、得体も知れないけれど……決して、悪い奴ではないようだ。
「行こう、シュンラン!」
「……はい」
 シュンランは微笑み、そっとセイルの右手を握る。男が「逃げるな」と叫んだ気がするが、それに素直に従う理由なんてどこにもない。肩を押さえてうずくまる男の横をすり抜けて、駆け出そうとしたその時。
「見せてもらったよ、『鍵』の使い手」
 セイルの行く手に、細い影が立ちはだかった。
 それは、先ほど撒いたはずの『影追い』の女――
「と、通してくださいっ」
 シュンランがセイルの手を強く握ったまま叫ぶ。だが、影追いはその場から一歩も動かないままにゆるりと首を横に振る。
「そういうわけにはいかないよ。『エメス』が動いているとはっきりわかった以上、後手には回れないんでね」
 『エメス』――セイルは小さく息を飲んだ。先ほどシュンランが呟いた言葉であり、セイルも嫌と言うほどよく知っている名前である。
 その名が示すのは、一つの組織。
 実体こそ明らかになっていないが、楽園の裏側に確かに存在するという、女神の秩序を否定する者……異端研究者の秘密結社だ。
 セイルの背後で、鎧の男が関節の氷を強引に剥がして立ち上がる。肩からぼたぼたと血を流しながらも、血走った目は獰猛に影追いの女を睨みつけている。
「は、女神の下僕か! どうやら、『鍵』と『歌姫』を手に入れるにゃ、手前を先にぶっつぶす必要があるみてえだな」
「その怪我でやる気かい。命知らずだね」
 女は眼鏡を人差し指で押し上げ、もう片方の腕を揺らめかせる。ゆったりと開いた袖から何か金属が触れ合うような音が響き、空気が緊張に凍る。
 影追いと鎧の男。一触即発の空気の中動くこともできずにいたセイルとシュンランだったが、その緊張を破ったのはセイルでもシュンランでも、まして睨み合う二人でもなかった。
「退きますよ、ラグナ! 今は影追いとやり合っても無益です!」
 新手か、と女はぱっと声が聞こえた方向を見る。セイルも思わず声が聞こえてきた方向を見やる。声は、シュンランの歌によってすっかり凍り付いてしまったゴーレムの真上、建物の上に立つ一人の男のものだった。
 魔道士なのだろう、簡素なローブを風に靡かせ長い杖を片手に握っている。ただ、その杖は普通の杖とは異なり、まるで機巧に仕組まれた歯車のごとき奇妙な意匠が施されていた。
 ラグナ、と呼ばれた鎧の男はぎり、と歯を鳴らしてそちらを見て……すぐに影追いに視線を戻して片手を握りしめる。ローブの男が非難めいた声で鎧の男をもう一度呼ぶ。
「ラグナ!」
「黙れキルナ! 『鍵』を奪おうっていう泥棒猫と、散々虚仮にしてくれた空色のガキをぶっ潰すまでは退かねえ!」
「泥棒猫とはまた失礼だね。ユーリス様の慈悲を理解しない異端に、人の言葉は高尚すぎるかな」
 一歩、女が歩み、一歩、ラグナが石畳を踏む。キルナというらしいローブの男が何かをわめいていたが、二人の耳には届いていないようだった。セイルはこれから起こる争いの気配を受け止め、せめてシュンランだけは逃がそうと彼女の手を強く握りしめる。
 再びの、緊張が呼ぶ奇妙な静寂が場を支配する。
 決して辺りが本当に静寂に包まれていたわけではない。キルナはなおも言葉を続けているし、通りのざわめきも微かではあるが届いている。遠くから聞こえる何かが羽ばたく音だって、耳に入っている……
 何かが、羽ばたく音?
 セイルがはっとして空を見上げた、その時だった。
『はいはーい、そこまでよ!』
 魔力による拡声装置を通しているらしい、ばりばりというノイズ混じりの女の声が辺り構わず響きわたった。刹那、青かった空が急に陰る。
 いや……陰ったわけではない。
 不意にセイルたちのいる道の上に、無数の羽ばたき飛空艇が現れたのだ。真っ赤に染まった羽ばたき艇の一つから、甲高い女の声が早口に宣言する。
『不毛な喧嘩はノンノン、可愛い子とすてきなお宝は、あたしたちがいただきよっ!』
「……っ、何を」
 影追いの女が呆気にとられて空を見上げると、羽ばたき艇からばらばらと何かが落とされる。煙を吐く球体のように見えたが……
「まずい、ラグナ!」
 キルナが叫んだ瞬間、地面に落ちた球体が大きな音を立てて破裂した。
 セイルはとっさにシュンランを庇い、衝撃に備えてぐっと目を閉じるが……思ったような衝撃はいつになっても襲いかかっては来なかった。ただ、目を開けたときには球体から発生した濃い煙が辺りを覆い隠していた。
 目を凝らしても何も見えない。ラグナがわめく声が聞こえたけれど、その声はあらぬ方向へ向けられているようだった。
「シュンラン、大丈……うわっ!」
 シュンランの手を引こうとしたその時、全く違う何者かの手がセイルの腕を掴み、無理矢理シュンランと繋いでいた手を引き剥がした。
「セイル!」
「さあさ、嬢ちゃんはあっちだ」
 セイルの耳に届くのは野太い男の声。そしてシュンランの悲鳴が遠ざかっていく……
「シュンラン! は、離せよ!」
 万力のように腕を締めあげようとする手を、セイルは軽く力を込めるだけであっさり振りほどいた。セイルの手を握っていた男が驚きの声を上げるのを聞き流しながら、シュンランの声を頼りにもう一度右手を伸ばす。
 掴まなくては。
 やっと、前を見て進もうと思えるようになったのだ。シュンランを守って、兄を探すために。
 こんなところで、離れるわけにはいかない。
『ダメだ、止まれセイル!』
 『ディスコード』の鋭い声が脳裏に響く、けれどもセイルは止まれなかった。シュンランが連れ去られる、その恐怖だけがセイルの背中を押していたのだ。
 そして。
「……そ、人の言うことは素直に聞くものよ」
 ざらついた声と共に首筋に走る軽い一撃。
 それが、セイルの体の自由を一瞬にして奪っていた。
「あ……」
 どさり、という嫌な音が耳の奥に響く。自分の体が地面に落ちた音だと認識する前に、セイルの意識も闇の中に刈り取られていく。
 ただ。
 シュンランの手を掴めなかった悔しさと。
「さ、冒険ごっこはこれで終わりだ」
 倒れた自分の上に降る耳慣れない声だけが、セイルの脳裏に焼き付いていた――

02:右手を繋ぎ、左手に剣(3)

「う……それは」
 セイルは即座に答えることができずに黙り込む。覚悟なんて、あるはずもなかった。確かに兄を探せと言われて、兄を探したくて、何者かに追われているとわかっているシュンランの手を握ったけれど。
 少しずつ、少しずつ。事態がわかってくるにつれ、不安が広がっていく。自分はここにいていいのか。自分は、シュンランの手を握っていていいのか……
 シュンランが不安げにこちらを覗きこんでくる中、セイルはそれに応えることもできずに俯く。
 セイルの沈黙をどう受け取ったのか、『ディスコード』は再びけだるい口調に戻って言い放つ。
『ま、これもノーグが出てくるまでの辛抱だな。それまでは使い手の手前をさんざん利用させてもらうさ。手前が怖気付こうと嫌と言おうとな』
「……じゃない」
 その言葉に、セイルは俯いたまま口の中で応える。
『あん?』
 『ディスコード』が疑問符を返してきたことで、セイルは意を決してはっきりと言葉を放つ。
「嫌じゃないよ。俺はこうしたいと思ってついてきてるんだ。それだけは、信じてほしい」
 もちろん、何がなんだかわからなくて怖いし、不安だけど。そう小声で付け加えて、セイルは苦笑する。『ディスコード』は一瞬呆気にとられたように沈黙し、その後苦々しく呟いた。
『ったく、真面目くんだなあ、やりづれえこって……』
「な、何だよそれっ!」
『あーはいはい。ただ、手前が役立たずなのは事実だ。手前、その様子じゃ戦ったこともねえんだろ?』
 それはそうだ。あの林の中の屋敷と小さな町だけが自分の世界だったセイルにとっては、誰かと戦うなんてありえないことだった。それこそ、かつて兄が語ってくれた勇者の昔話くらい、遠い世界の話。
『だから、手前はこの子を連れて逃げろ。迷うな、振り返るな、助かることだけ考えろ。手前が今、この子に出来ることはそれだけだ』
「う……うん!」
 だからお前素直すぎんだろ、と『ディスコード』が大げさに溜息をつく。
『もし、逃げられねえようなら俺が手を貸す。ただし、どうなっても文句は言わねえこと……例えば』
 ――こういう状況とかな。
 『ディスコード』のシニカルな声に、セイルははっと顔を上げる。道の先に、何かが立ちはだかっている。それが鋼の体を持つ小型のゴーレムであることは、すぐにわかった。
「……あれ、は」
 シュンランも硬い声を上げ、ぎゅっとセイルの右手を握りしめる。セイルは体を強ばらせながらも、問いかける。
「あれも、さっきの影追いの仲間?」
『まーさかー。影追いが鋼の人形なんて使うわけねえだろ。鋼も禁忌なんだから』
 言われてみればその通りだ。古代の機巧が禁忌であるのと同じように、鋼もまた女神ユーリスが最も厭うものの一つ。ならば、あれは一体……
「『エメス』……」
「え?」
 シュンランの小さな呟きに、セイルが問い返した瞬間。
『来るぞ! 貸せ!』
 『ディスコード』の叫びと共にセイルの体が勝手にシュンランの袖を引いて……跳んだ。刹那、一瞬前までセイルが立っていた位置に、巨大な鎧が落ちてきた。
 石畳が割れ辺り構わず飛び散る中、鎧を纏った昨日の男が青い目をこちらに向け、あからさまに舌打ちする。
「気づかれてたか!」
「はっ、気配がバレバレなんだよ!」
 セイルの喉を使い、『ディスコード』が吠えて左手を振るう。すると、左手が音もなく形を変えて一振りの刃を形作った。それは、ナイフが手の中に吸い込まれるときの手とも刃ともつかない不気味な刃とは違う……手首からすっと伸びた、微かに湾曲を描く研ぎ澄まされた短刀。
 『ディスコード』はシュンランをかばうように鎧の男の前に立ち、左手の刃を構える。
「しっかし、前門の変態、後門のゴーレムか……また厄介な」
 目を白黒させるシュンランと、細い道をゆっくりと迫ってくるゴーレムに視線を向け、あからさまに眉を寄せて『ディスコード』が呟く。だが、その言葉には焦りは見られない。それどころか、口元に微かな笑みすら浮かべている。
『「ディスコード」! 何を……』
「黙って見てろ、セイル」
 『ディスコード』はにぃと唇をつり上げ歯を見せて獰猛に笑う。セイルには絶対に出来ない笑い方で、『ディスコード』は宣言する。
「こいつを、ぶちのめすんだよ」
「ガキが、生意気な口利くんじゃねえっ! 『歌姫』の前に、手前の口を利けねえようにしてやるよっ!」
 鎧の男が、あの時と同じ重そうな鎧に似合わぬ俊敏な動きでセイル、否セイルの体を借りた『ディスコード』に迫る。
『危ない!』
「……だーから、黙ってろって」
 セイルが頭の中で叫ぶが、『ディスコード』は軽い口調で言い放ち、無造作にも思える動きで男の方へと一歩を踏み出す。頭を握りつぶさんとばかりに伸ばされた腕が鼻先にまで迫ったその瞬間。
 『ディスコード』は不意に倒れ込むような動きで腕の一撃をかわし、不安定な姿勢のまま石畳を蹴って懐に飛び込む。おそらく、男からはセイルの姿が急に見えなくなったに違いない。
 しかもこの鎧だ、いくら素早く動けるといえ、懐に入られれば腕も上手くは動かない。
 男がこちらの動きを察する前に、地面に手をついて跳ね上がった『ディスコード』が目にも留まらぬ速さで左手の刃を一閃させる。甲高い音色と共に、鋼の鎧の胸当て部分に一条の痕が生まれる。
 そこから見え隠れするのは、青や赤の配線に無数の歯車。そして今の一撃で断たれた細い管からは緑色の気体……魔力を凝縮したものが吹き出していた。
 セイルの見立て通り、男の鎧は魔道機関によって常識では考えられない動きを可能としているものらしい。だが、『ディスコード』はそれ以上に注意深く内部を観察し、呟く。
「魔道機関……いや、魔力を利用した禁忌機巧か」
 男は慌てて距離を取ると、一瞬前までの余裕をかなぐり捨て、叫ぶ。
「何だよその動きはよぉ! 手前、ただのガキじゃねえな!」
「いや、ただのガキだぜ。こいつはな」
 『ディスコード』も数歩下がり、首を振り、肩を回す仕草をする。まるでセイルの体の動き方を確かめているようでもあった。
「とはいえ俺も随分鈍ったな。一撃で決める予定だったんだが」
 のんびりとした口調で呟きながら、当たり前のような動きでその場に立ち尽くしていたシュンランの襟元を掴み、軽々と横に跳ぶ。
 すると、シュンランを狙ったゴーレムの腕が、空を切る。いつの間にか、ゴーレムはシュンランのすぐ側に迫っていたのだ。シュンランは呆然とすみれ色の瞳でこちらを見上げ、自分が助かったのだと気づきふわりと微笑んだ。
「あ、ありがとう、ございます……ディス」
「ん。あと俺は『ディスコード』だ。勝手に略すんじゃねえ」
 何故かものすごく不満そうに告げ、『ディスコード』は素早く左右に視線を走らせる。ゴーレムの動きはかなり緩慢で、身軽な動きをする『ディスコード』の敵ではなさそうだ。
 ただ、ゴーレムの体が退路を塞いでしまい、目の前の男に気を取られてばかりではいられないのも確か。セイルは頭の中から周囲の様子を把握して、少しだけ不安になってくる。
 『ディスコード』もそれには気づいているらしく、「黙ってろ」と声を低くしてもう一度告げた。もちろんそれは不安を露わにしたセイルに対してだろう。
 シュンランを庇うために壁を背にして、双方から迫る鋼を見据えながら『ディスコード』は眉を寄せて呟く。
「どうすっかねえ……手加減苦手だからいっそ殺しちまうか」
『ころ……』
「言っただろ、どうなったって文句は言うなって」
 そうは言ったけれど。
 シュンランと『ディスコード』自身を守るためなら、何をしたっていいというのだろうか。それは違うとセイルは強く思う。どんな奴だろうと、どんな事情だろうとそんな簡単に他人の命を絶っていいはずがない。
「甘えな、セイル。甘すぎる」
 セイルの意を汲んで『ディスコード』は不機嫌な声で言い放つ。
 甘い。それは、セイルも否定しない。
 逃げ回る覚悟すらなかったセイルに、誰かを傷つける、果てには殺してでも前に進もうなんて考えも及ばない。セイルにその力も覚悟もないから、今ここで『ディスコード』がシュンランを守ろうというのだ。
 けれど……そこで折れていいのだろうか。折れていいはずがない。セイルはなおも重たくのしかかる『ディスコード』の意識を振り払い、頭の中で言葉を放つ。
『……そんなことをするなら、俺の体を返してもらうからな』
「はっ、そうしないとここを突破できないとしてもか」
 『ディスコード』は言いながら、鎧の男の動きを牽制するかのように刃を構え直し足を擦る。男も先ほどの一撃で『ディスコード』に対する油断を払拭したのか、先ほどよりもずっと慎重に間合いを計っている。
 じりじりと、距離を詰められながらも『ディスコード』は動かない。動けないのかもしれない。
 確かに、左手にある刃は鋼をも斬り裂ける驚異の武器だ。剣の技術を持つ者が振るうならば、目の前の男一人両断する事も苦ではないはずだ。
 そして、『ディスコード』にはそれが簡単に出来るということも、体の中から観察しているセイルには何となく理解できる。
 だが。
 セイルは意識の中で一拍置いてから、きっぱりと言い切った。
『手加減できるんだろ。さっき手加減は「苦手」だって言った。なら不可能じゃないはずだ。やれよ!』
 すると、一瞬呆気にとられたように『ディスコード』は目を見開いて沈黙し……不意に小さく喉を鳴らした。今までの不機嫌そうな声とはうってかわって、とても愉快そうに。
「言うじゃねえか。ちょっと見直した」
 意外な反応に今度はセイルの方が呆気に取られてしまった。
 だが『ディスコード』がセイルの言葉に満足したのは確かなようだった。風を切るように左の刃を振るい、『ディスコード』は壮絶に笑う。
「とは言ったものの、どう突破するかな……一瞬でも、こいつらの動きが止まれば楽なんだが」
 ちらり、と銀の視線を向ける先には鋼のゴーレム。ゴーレムの狙いはあくまでシュンラン一人らしく、セイルの体がちょうどぴったりシュンランを庇っている状態のため、手を出しあぐねているようだった。
 とはいえ『ディスコード』が少しでも鎧の男に気を取られてシュンランから意識を離せばそれで終わり。「どーすっかねぇ」と『ディスコード』が息をついた、その時だった。

02:右手を繋ぎ、左手に剣(2)

「しまっ……」
 自分の失言を察し、シュンランは口を押さえるがもう遅い。女はゆらりと一歩、その場に固まってしまったシュンランに向かって踏み出す。
 じゃらり、と。
 女の袖口から何か金属が触れ合うような音が響く。その瞬間、セイルの手の中に握られた『ディスコード』が喚いた。
『逃げろ馬鹿! そいつは「影追い」だ!』
 影追い――!
 背筋が凍る。影追いといえば、禁忌と異端を狩るユーリス神殿の暗部。決して普通に人の目に触れることはないが、影ながら女神の意に反する存在を抹消する存在ではないか!
 何故、影追いがシュンランを追っているのか。
 シュンランが、何をしたというのか。
 ぐるぐると頭の中に疑問が生まれ、セイルの判断を鈍らせる。女がまた一歩シュンランに近づいているのを視界には捉えているものの、全てを正しく認識することができず呆然と立ち尽くすばかり。
 すると『ディスコード』が頭の中であからさまに舌打ちをした。
『ちっ、しゃあねえ……「借りる」ぞ!』
「借り……うわあっ!」
 セイルがその言葉を認識するよりも先に、体が動いていた。左手で包みを握りしめたまま身を屈めたかと思えば、流れるような動きで勢いよく足を突き出し、女の足下をすくう。セイルが動くとは思っていなかった女は大きく体勢を崩し、床に手をつく。
 それを見届けて、セイルは床を蹴ってシュンランの横に素早く駆け寄った。
 だが、一連の動きはセイルが意識して行ったものではない……そう、「体が勝手に動いた」のだ。
『何が、』
 起こったのか。
 そう言おうとして、唇が動かないことに気づく。それどころか、指一本とて自分の意志で動かすことができない。目が覚めているのに体が動かない、金縛りのような状態だ。
 唯一違うのは、体が勝手に動いていることだけ。
「まさか、『鍵』はアンタが……っ」
 女の言葉に、セイルは「はっ」と息を吐き出す。それは、セイルの意思とは違う……左手に握りしめた『ディスコード』の感情。
「悪いな、捕まるわけにゃいかねえんだよ! シュンラン!」
 伸ばされたセイルの右手が、シュンランの手を強く握る。その瞬間、体が自由を取り戻す。シュンランを見れば、青い顔で戸惑うような表情を見せてこそいたが、しっかりと頷きを返している。
 そうだ。考えるのは後……今はシュンランを連れて逃げるのだ。セイルは「行こう!」と手を引いて店を飛び出す。背後から女の声と店の主人の罵声が聞こえていたが、今はその全てを振り切って走り出す。
 白い鳩が舞う空の下、二人はユーリス国特有の白い壁をした建物の間を縫うように駆けていく。通りを行く人々が奇異なものを見るような目でこちらを見ていたが、構ってなどいられない。
 幾度も角を曲がり、ただ背後に迫る嫌な感覚から逃れるために、走って、走って、走り続けて。
 ある角を一つ曲がって振り返り、女が後をつけてきていないとわかって、セイルとシュンランはやっとのことで足を止めることができた。肩を上下させながら、セイルは塀に寄りかかって息を整える。
「た、助かった……かな」
「ごめんなさい、セイル。助かりました」
 シュンランは息を切らせながらも、すみれ色の瞳にセイルの顔を映し、微笑んでみせて……不意に不安げな顔になってセイルの銀色の瞳を覗き込んだ。
「今は、セイルですよね」
「え?」
「さっきは違いました。セイルではありませんでした」
 ぎゅっと、指先の感覚を確かめるかのように強く手を握りしめるシュンラン。だが、シュンランの言うとおりだ。今ここで手を握っているのは確かに自分だけれど、あの女に迫られた瞬間、シュンランに手を伸ばしたのは自分ではない。自分ではなくて――
「『ディスコード』……?」
「『鍵』が、どうかしたですか」
 まさか、とは思う。頭の中に語りかけてくる不思議なナイフではあるけれど、そんなことがあるわけがない。そう思って左手を見ると、いつの間にか左手に握りしめていた包みがほどけ、握っていたナイフの柄が半ば指先と同化していたことに気づく。
「げっ」
 思わず嫌な声を上げてしまったセイルの脳裏に、呆れたような少年の声が響く。
『慣れろよ』
「慣れないよ!」
 鎧の男と戦ったときは無我夢中だったから気にならなかったものの、落ち着いて見てみるとかなりグロテスクな光景だ。離れろ、と言わんばかりに左手を強く振るも、みるみるうちにナイフは左手と融け合い、果てにナイフの姿は完全に見えなくなってしまった。
 ただ、セイルにはわかる。
 体の中に、自分のものではない「何か」が入り込んでいると。それは異物を飲み込んだ感覚とも違う、奇妙にもやもやとした、それでいて決して不快ではない感触ではあったのだけれども。
「は、入っちゃった……」
『持ち歩くのも面倒だろ』
「そういう問題?」
 絶対何か間違っているような気がする。セイルがジト目で左手を見ていると、『ディスコード』は溜息混じりに呟いた。
『それに、いざって時に対応しやすいしな』
「いざって時……って、さっきみたいな?」
『そうだよ。手前が呆けていて、使いものにならねえ時だ』
 セイルはぐ、と言葉を飲み込む。あまりな言い方ではあったが、否定は出来ない。あの時、セイルは影追いを相手に躊躇ってしまった。相手があの鎧の男のような得体の知れない何かではない、明確な存在であり……本来決して刃向かってはいけない相手だと知ってしまっただけに、迷いが生まれたのは事実。
「……それで、俺を操ったのか」
『操るってより体を「借りる」イメージに近えな。お前からすれば「乗っ取られる」かもしれねえけど』
 けらけらと笑う『ディスコード』だったが、セイルからすれば笑い事ではない。得体の知れないナイフが体の中に入ってくるに留まらず、体を乗っ取られてしまうのだ。
「い、嫌だなあ」
『んなこと言ってる場合か。手前がヘマすりゃ俺が困るし、何よりシュンランが困んだよ。それに手前も、困るんだろ?』
「うっ」
 図星を突かれて、セイルは黙らざるを得なくなる。その様子をおろおろとしながら見ていたシュンランが、問うてくる。
「『鍵』は、何と言っているですか?」
「あ……ごめん。シュンランには聞こえないんだよな。『ディスコード』は俺の体を操れるんだってさ。それで、俺がぼーっとしてたから代わりにシュンランを助けてくれたんだと思う」
 言い方こそ悪いが、『ディスコード』は何も間違ったことは言っていない。何故シュンランが影追いに追われているのかわからないといえ、シュンランも『ディスコード』も兄を見つけるまでは捕まるわけにはいかない。
 そして、セイルも。ここで『ディスコード』を手放してしまえば、兄への手がかりを失うことになるのだ。
 ぐっと、左手を爪が食い込むくらいに握る。手の平に走る痛みと同じくらい、胸が痛かった。
「……ごめん、シュンラン。『ディスコード』が助けてくれなきゃ、あの人に捕まってたよな」
「よいです。セイルは謝らないでよいです」
 シュンランは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「追われているのはわたしです。本当は、セイルが頑張らなくてもよいですよ。こうやって」
 そっと、重ねた手を上げる。まるで、壊れやすく大切なものを捧げ持つかのように。
「手を繋いでいるだけで、心強いです」
 目の前で柔らかく微笑むシュンランは、決して無理をして笑っているようには見えない。多分、「心強い」という言葉も嘘ではないのだと思う。思うけれど、微かな胸の痛みは消えない。
 セイルが行き場のない、自分でもよくわからない痛みを持て余していると、シュンランが明るく笑ってセイルの手を引いた。
「さあ、行きましょう! 港はこちらですか?」
「あ、うん。多分そうだけど……」
 空を行き交う飛空艇がそちらに集まっていくから、シュンランが目指す方向は間違っていないはずだ。つられるように一歩を踏み出しながら、セイルは小さな声でシュンランに問う。
「でも……どうして、君は影追いに追われてるの?」
「かげおい? さっきのしんでんの人ですか」
「……う、うん。あの人は、異端研究者を追いかけることを専門としてる人で、でもシュンランは異端じゃないよね」
 セイルの言葉に、シュンランは笑顔ながら困った顔をした。シュンランがそういう顔をするのは、セイルの言っていることが根本から理解できていない証拠だ。
「理由はわからないです。でも、わたしは『しんでんには捕まるな』と言われてきました。あの人はわたしの危険です」
「神殿には、捕まるな?」
 誰から、何故そんなことを。セイルが疑問符を飛ばしかけた時。
『神殿絡みなら、その子は関係ねえな。十中八九、奴の目的は俺だろ』
 『ディスコード』がけだるげに言った。セイルは反射的に握りしめたままだった左手を見る。ナイフの姿は既にそこにはなかったが、変わらぬ少年の声が響く。
『何せ、俺は正真正銘の禁忌機巧だしな』
「……禁忌、機巧?」
 思考が、止まる。
 禁忌機巧。楽園には建前上『存在しない』、女神ユーリスが人族にもたらした知識とは異なる知識から生み出された古代の機巧。建前上存在しない故に、禁忌と呼ばれる存在。
 だが、セイルが話に聞いた機巧というのは、鋼や不思議な素材で造られた中身のよくわからない箱だったり、歯車が無数に噛み合って出来た魔法では動かない装置だったりと、セイルが今までの人生で目にすることのない形と機能を持っていたはずで。
 こんなごく当たり前なナイフの形をした機巧なんて、見たことも聞いたこともない。確かに喋ったり人のことを乗っ取ったりする、変なナイフではあるけれど……
『手前、今「変なナイフ」とか思っただろ』
「う、な、何でわかったんだよ!」
『はは、強く考えたことは俺様に筒抜けだから気をつけやがりなさーい』
「早く言えよ!」
『とにかく。俺は「在る」ってだけで十分影追いに追われるには値すんだよ。しかしマジで面倒なことになったな』
 『ディスコード』は人であれば顎に手を当てて考えるような口振りで言う。
『予想外に影追いの動きが早い。それに、手前が使い手だって知られちまったのは正直痛かった。その辺は俺も反省してるが』
「あ……っ」
 セイルは思わず声を上げてしまった。そうだ。さっぱり考えていなかったが、あの時『ディスコード』を持った状態で影追いの女と戦った地点で、セイルが『ディスコード』を持っていることは明らかになってしまったのだ。
 禁忌機巧を持つ者は、それだけで異端と見られておかしくない。影追いに追われる条件を、望まぬままにセイルまで満たしてしまっているのだ。
「ど、どうしてくれるんだよ!」
『だーかーらー、俺も反省してるって言ってんだろ。ま、ノーグとやらを探してこの子についてきゃ嫌でも手前も追われるわけだが』
 『ディスコード』は深刻な状況にも関わらず軽い口調で言い切ってから……急に声色を低くした。
『それとも。その覚悟もしてねえでのこのこついてきたってのか? この子が追われていることも、ノーグ・カーティスが異端研究者ってのも明らかだったんだ。影追いがしゃしゃり出てきた程度でびびって尻込みか』

02:右手を繋ぎ、左手に剣(1)

 隣町である、島唯一の港町は朝早くから賑やかだった。色とりどりの飛空艇が空を舞い、旅人や商人が通りを行き交う。そんな町だったから、朝から開いている食堂を見つけるのもさほど難しくはなかった。
 セイルとシュンランは小さな食堂で食事をとっていた。他に客の姿はなく、旅人とも思えない子供二人を不審に思ったのか給仕の女がじろじろとこちらを見ていたが、そんなことは気にならないくらいセイルは空腹だった。
 ふわふわのパンに炒り卵、たっぷりのサラダを二人は黙々と食べる。シュンランも「おなかがすいている」と言っていたとおり、セイルと同じくらいかそれ以上によく食べた。そういえば、昨日はセイルと出会ってから夜までずっと気を失っていたから何も食べていなかったはずだ、と気づく。
 料理をすっかり平らげ、食後の紅茶で一息ついて。
 セイルはやっとのことで話を切り出す。
「とりあえず、これからのことなんだけど……」
 何も考える暇もなく家を飛び出してきてしまったし、これから先のことなんて何もわからない。けれど、ただ立ち止まっているわけにも行かないのは、事実。
「一回、この島を出よう。ここからなら船も飛空艇も出てるし、君を追ってたあいつもまだこの島にいるんだろ?」
「はい、おそらく……ごめんなさい、セイルも巻き込んだです」
 シュンランは申し訳なさそうに手の中のティーカップに視線を落とす。セイルは慌てて「いいんだよ!」と両手を振る。
「事情はよくわからないけどさ、困ってるなら放っておけないよ! それに、俺、巻き込まれたとは思ってない」
「え?」
「シュンランは、俺の兄貴を探してるって言っただろ。俺、それまでは正直兄貴に二度と会えないんじゃないかって思ってた。思いこんでたんだ。でも」
 セイルは言葉を切って、シュンランを見る。六年もの間、異端研究者ノーグ・カーティスは誰からも恐れられ、楽園の姿ない悪魔のように語られ続けて。セイル自身までが兄の記憶を疑い始めていた、そんな時。
 シュンランは、笑顔で兄と会うのが「楽しみだ」と言った。
 そうだ、どうして闇雲に恐れる必要があるのだろう。自分の記憶の中の兄は、いつも優しかった。どんな顔をしていたのかは覚えていないけれど、小さなセイルを膝に乗せ、数々の胸躍る物語を語ってくれた少年のような明るい響きの声は、耳の奥に今も焼き付いているではないか。
「シュンランの話を聞いて、俺も兄貴に会いたくなったんだ。兄貴がどうして消えたのか、知りたい」
 セイルはぐっと、包みを握りしめる。兄だけが使えるという、そして何故かセイルにも使える『鍵』。これが何を意味するのかも、今のセイルにはわからない。シュンランにもわからないのであれば、兄に聞くしかないのだろう。
『んで、その兄貴とやらの手がかりはあるのか?』
 突如、頭の中に響くよく通るテノール。セイルはびくりとして、思わず手にしたカップを取り落としそうになる。それを見たシュンランもびっくりしたらしく、目を丸くしている。
「び、びっくりしたぁ……突然喋らないでよ。六年間誰も見つけられないくらいだから、正直さっぱりなんだけどさ」
『は、そりゃ面倒なこって。ただ、おかげさまで状況は随分飲み込めてきたわ』
「状況って」
 セイルが包みを見下ろしたところで、シュンランが依然目を丸くしてこちらを見ていることに気づいた。あれ、と思っているとシュンランが不思議そうに問いかけてくる。
「セイル、誰と話してるですか?」
「え……聞こえて、ないの?」
 この『鍵』を手にした時から、セイルには当たり前のように声が聞こえていたというのに。シュンランは、セイルの言葉を余計に不思議に思ったらしく、首を傾げるばかり。
 すると、声は呆れたような響きを込めて言った。
『あーあー、俺の声はお前にしか聞こえねえよ。そういう仕様なもんでな』
「仕様、なあ」
 何とも釈然としないが、とりあえず困った顔をしているシュンランに説明することにした。
「さっきから、このナイフが喋ってるんだ。本人曰く、俺にしか聞こえない仕組みらしいけど」
「『鍵』が、ですか?」
 突拍子もない話だ、簡単には信じてもらえないかとも思ったが……シュンランは、俄然目を輝かせてセイルの手の中の包みを覗き込む。
「『鍵』に不思議な力があるとは聞いていました。しかし、喋るのはすごいです! わたしの声は聞こえてるですか?」
『聞こえてるよ。使い手のお前が持ってる限り、お前が見たり聞いたりしたことは全部伝わるからな』
「俺が持ってれば聞こえるってさ。それで、えーっと……」
 『鍵』の名を呼ぼうとして、セイルは言葉に詰まる。あの時勢いに任せて一度呼んだ名前だが、どうにも馴染みのない響きだったこともあり、はっきりとは思い出せなかったのだ。声もセイルの戸惑いに気づいたのか、あからさまに不機嫌そうな声色で言い放つ。
『「ディスコード」だ、そのくらい一回で覚えろ』
「ディス、コード?」
 やはり、聞き慣れない名前だと思う。何か意味があるのだろうかと思ったが、セイルの語彙にそんな響きの言葉はない。シュンランの名前と同じように、言葉や名前としては珍しい音の流れなのだ。
 また忘れて相手を不機嫌にさせるのも何なので、ディスコード、ディスコード、と小さく口の中で呟いているとシュンランが小首を傾げて問いかける。
「不安な音の重なり、の意味ですか」
 何とも奇妙な言い回しだが、『ディスコード』は『よく知ってるな』と今までずっと憂鬱そうだった声を少しだけ高くした。驚いたのかもしれない。
『不協和音、ってのが俺の名の意味だ。ま、お前には理解できねえだろうがな』
「不協和音……」
 なるほど、それは確かに「不安な音の重なり」と言ってもいいだろう。
 ただ、不協和音はあくまで『不協和音』であって『ディスコード』などという変な言葉じゃない。一体どこをどうしたらそんな名前になるのか、本人(人?)に詳しく問うてみたいところではあったが、それよりもまずは聞いておかなくてはならないことがあった。
「それでさ、『ディスコード』。状況がわかったってどういうこと?」
『ああ、それな』
 『ディスコード』はため息混じりに――鼻も口もないナイフにつく息があるとも思えなかったが――言う。
『さっきも言ったとおり、俺はお前の手にある限りは外界を認識できる。だがその逆も然りでな』
「と言うと?」
『使い手の手にない限りは何もわかんねえんだ。つまり、今まで俺が何でこんなとぼけたガキの手に渡ったのかもさっぱりわかっちゃいなかったんだよ』
「が、ガキって何だよ!」
 セイルは思わず声を上げるが、『ディスコード』は知ったことではないとばかりにセイルの頭の中で高い口笛を吹き……すぐに気を取り直して真面目な声になる。
『俺は「鍵」だ。だが、お前はその意味も知らねえだろう。そっちの子もだ』
 そう、シュンランもこのナイフを『鍵』とは呼んでいたが、それがどのような存在なのかは把握していないようだった。ただ、不思議な、そしてとても大きな力を持っていて、使い手を選ぶ楽園唯一の剣。
 それだけしか、わかっていないのだ。
 全てをわかっているのはシュンランではなく……
『推測だが、その子は詳しい話なんて抜きにお前の兄貴ノーグ・カーティスを探せ、とだけ言われて俺を連れて逃げてきた。そして俺は即座にノーグの手に渡るはずだった、けれどもんな簡単なものじゃなかったし、想定外の事態も起こっちまった』
「兄貴は、行方不明で……俺の手に渡ってしまった?」
『そ。誰も弟であるお前まで使い手だなんて、想像もしてなかったんだろうよ。とはいえ、俺の考えが正しけりゃノーグとやらは俺がどういう役割を持ってるのかも嫌でも知ってるはずだ。ならお前のお袋さんも言ってたとおり、俺の前に出てこない理由はねえ』
 出てこない理由はない。
 『ディスコード』はそう言い切るけれど、セイルにはさっぱり理解ができない。六年もの間、楽園の表舞台から姿を消し家族とも会わずに逃げ続けている兄が、何故『ディスコード』の前には現れるというのだろうか。
「どういうこと?」
 セイルが手元を見下ろして問いを投げかけた、その時。
「お話中、ちょっと失礼するよ」
 セイルの知る誰とも違う声が、耳に飛び込んできた。
 顔を上げると、そこには背の高い女が立っていた。癖の強い赤毛の間から覗く長い耳は、女が人族で最も長命な種族、エルフであることを表している。ぱっと見る限り人間ならば二十歳前後に見えるが、おそらく実際にはセイルの母より少し下程度の年齢だろう。
 視線を追ってみれば、女は鼈甲縁の眼鏡の下から、シュンランをじっと見つめているようだった。
「えっと、何ですか?」
 セイルが応じると、女はついとセイル……というよりはその空の色を溶かした髪に目を移し、奇妙なものを見たかのように目を見開いた。だが、それはセイルにとってはいつもの反応だ。胸にちょっとだけ走る痛みを飲み込み、愛想笑いを浮かべる。
 女は「あ、ああ、ごめんね」と我に返ったように言うと、セイルに苦笑を向ける。
「実はね、ちょっと人探しをしているんだよ」
「人探し、ですか」
 セイルが首を傾げると、女は再びシュンランに視線を戻す。シュンランは、微かに肩に力を込めて女を上目遣いに見上げていた。大きく見開かれたすみれ色の瞳は、女の一挙一動全てを観察しているようでもある。
「その子によく似た女の子なんだけどね、どうもおかしな連中に追われているみたいなんだ」
 おかしな連中?
 セイルの脳裏に、昨日シュンランを追っていた甲冑の男の姿が蘇る。あれを「おかしな」と言わなければ何をおかしいと言えるだろうか。
「そいつらからその子を保護しようと思って来たんだけど、なかなか足取りが掴めなくて……と、何か心当たりがあったりするかい?」
 まるで、セイルが何を考えているのかを見透かしたかのごとく、女はセイルの顔を覗き込む。眼鏡の下から鋭くこちらを見据える瞳の色は、セイルの髪の色より微かに淡い、秋空の色だった。
 そんな風に見つめられていると、何だか息苦しくなってくる。シュンランのことを話すべきなのだろうか、だが知らない相手に話していいものかどうか。考えていると、シュンランがぽつりと言葉を落とした。
「あなたは、誰ですか?」
「ああ、私はこういう者だよ」
 言いながら女はゆったりした服の袖から聖印を取り出す。世界樹を象った銀の十字。それは、女神ユーリスを崇めるユーリス正統神殿の象徴であり、女が女神ユーリスに仕える聖職者であるという何よりの証拠であった。
 セイルはそっと安堵の息をつく。ユーリス神殿の聖職者といえば、あちこちで困った人を助ける人々だと聞く。きっと、噂を聞きつけてシュンランを助けに来てくれたのだろう。
「神殿の人、ですか。よかった」
「しんでん……!」
 安心しきったセイルの言葉に、シュンランははっと息を飲む。そして、『ディスコード』に至っては『げっ』とあからさまに嫌そうな声を上げた。何ともおかしな反応にセイルは反射的にシュンランを見る。
 すると、シュンランはがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
「あの、それ、別の人と思うです。行きましょう!」
 シュンランはセイルを促し、店の入り口に向かって駆け出す。だが、セイルは立ち上がったまではいいがその場から動けずにいた。
 何故、シュンランは逃げようとするのだろうか。
 神殿と聞いただけで逃げ出すなんて、それこそ異端研究者のようではないか……そう思いながらもシュンランの背を追おうとして、ちらりと女を振り返ると。
 女の意識は既にセイルにはなく、真っ直ぐにシュンランだけを見据えていた。
「何で逃げるんだい、悪いようにはしないよ!」
「でも、ダメです! まだダメです!」
 シュンランは振り向き、怯えた表情で叫び返す。
「わたしは、『鍵』を届けないといけないです!」
 その言葉を聞いた瞬間、女の表情が変わった。今まではどこか戸惑うような素振りを見せていた女だったが、頭の中のスイッチが切り替わったかのように、山猫を思わせる瞳をすっと細め冷たい気配を身にまとう。
「そうかい。やっぱりアンタが『鍵』を持ってるんだね」

幕間:影を追うもの

 空色少年が少女と出会った時より、少しだけ時は遡る。
 
 彼女は、久方ぶりの聖職服に袖を通しながら、何故自分がこの場に呼び出されたのかを考えていた。
 ユーリス神聖国首都センツリーズ、その中心に位置するユーリス神殿。楽園中の人々が一度は「巡礼」として訪れる、世界樹の根元に築かれた女神の正統神殿だ。
 だが、神殿の地下には人には知られぬ場所がある。
 女神の命を受け、女神の意志に反する「存在しない」ものを追い、刈り取る異端審問官『影追い』の集う空間。それが、この場所だ。
 彼女もまた名誉ある影追いの一人であり、長らく一つの任務を果たすために楽園中を駆け回っていたのだが。
 そんな彼女が、影追いの長に「本部に戻れ」と命じられたのが昨日のこと。
 ――一体、何を命じられるのだろうか。
 彼女は聖職服の袖から覗く自らの得物にそっと触れる。
 自分は影追いとしても、自分自身としても、まだ何も成していない……その思いが重く肩にのしかかっているように感じる。
 何故自分は影追いになったのか。それを自分自身に言い聞かせ続ける。もはや人の記憶からは忘れ去られつつあるあの日、自分から大切なものを奪い去っていった「あの男」の存在を楽園から刈り取るために、自分はここにいるのだ。
 早く、辿り着かなければならないのに。
 こんな所で立ち止まっている場合ではないのに。
 だが、これも影追いとしての任務。上の指示は絶対だ、逆らうわけにはいかない。
 鼈甲縁の眼鏡をかけ直し、鏡の中からこちらを見つめる猫目の女の姿を確認して、割り当てられた部屋を出る。
 部屋の外には長く、無機質な白い廊下が伸びている。
 彼女は靴音を立てながら、歩を進めていく。規則正しい音色は、まるで時計の針の音のようだと思う。時間はどこまでも残酷に時を刻む。
 あれから、六年が過ぎたのだ。
 全てが狂ってしまった、あの出来事から……
 二度と目を開くことのない大切な人。あの人の命を奪った煙を立てる鋼の武器。死体の上に残された剣と杖が交差した紋章。
 その全てが、脳裏に焼き付いて未だに色を失わずにいる。
「待っていて、姉さん……」
 紅を引いた唇を、引き締めて。
「絶対に、私があの男を殺す」
 決意を呟き、彼女は足を止める。長い道は終わり、巨大な扉が彼女の前に立ちはだかっていたが……それは彼女の訪れを知っていたかのように音もなく開いた。
 扉の向こうには、薄闇の広間があった。天井に取り付けられた色硝子のランプが、不思議な色を空間に投げかけている。
 そして、闇の奥には影追いの長が待っていた。闇の中に白い聖職服を纏うその姿は、彼女からはぼんやりと浮かび上がっているかのように見える。
 彼女は柔らかな絨毯の上を数歩進み、ぴんと背筋を伸ばして礼をする。
「影追い第四六二七番、参りました」
「ああ、楽にしてくれて構わないよ、チェイン」
 長は穏やかな声で彼女に言葉を投げかける。彼女、チェインは言われるままに少しだけ体の力を抜き、眼鏡の下から長を見つめた。
「君を呼んだのは他でもない。実は君にどうしても頼まなくてはならないことがあってね」
「それは、現任務より優先されるべきことですか」
 どうしても、それだけは聞いておかなければならなかった。チェインの言葉に、長は少しだけ考えてから言う。
「そうだね。けれども、この任務は君の今の任務に直結することでもある」
「……どういうこと、ですか?」
「女神と楽園を脅かす秘密結社『エメス』が力を増していることは、君も嫌と言うほど知っているだろう。彼らの背後で『機巧の賢者』が暗躍していることも」
 チェインは「はい」と短く返事をして、強く唇を噛む。長は彼女の反応を知ってか知らずか、淡々と言葉を続ける。
「そして、どうやら『エメス』の狙いは『鍵』らしい」
「『鍵』……彼らが信奉する『剣』と『杖』ですね」
「その通り。そのうち『杖』はレクス管理下、彼らでもやすやすと手が出せるものではない。だが行方不明だった『剣』がついに発見されたらしい」
 ごくり、とチェインは唾を飲み下す。
 『剣』と『杖』。対になって存在する『鍵』……『世界樹の鍵』は、遠い昔に女神の使徒が世界の礎たる世界樹を支えるべく生み出したものとされている。だが、裏切りの使徒アルベルトが女神に反乱を起こす際に持ち出し楽園に長き戦をもたらしたとも、伝えられている。
 実際にこれらが「何」で、どのような力を持つ存在なのかは、チェインも知らない。だが、最低でも女神に仇成そうとする『エメス』に渡せないことは、わかる。
「故に、チェイン。君には『剣』を確保する任務を負ってもらう。幸いなことに『剣』はまだ『エメス』の手には渡っていない、ただ」
「ただ?」
「一人の少女が『剣』を保持し『エメス』から逃げているようなんだ。その少女の保護もお願いしたい」
「その少女とは、何者なのです?」
 それはわからない、と長は首を横に振る。
「だが『剣』を持っている以上、今になって『剣』が世に出た理由も知っているはずだ。どうにかして『エメス』より先に確保したい。抵抗するならば、無理矢理にでも捕縛してくれて構わない」
 確かに、『エメス』が絡む任務であれば、あの男に近づくチャンスも増える。『エメス』が追っているものを確保すれば、あの男がついに表舞台に姿を現すかもしれないのだ。
 チェインはぐっと拳を握りしめる。開いた袖の中で、金属が触れ合う音が微かに響く。
「詳しい情報は後ほど送る。やってくれるな、『連環の聖女』」
「了解しました。女神ユーリスの代行者として、必ずやこの任務果たしてみせましょう」
 長に向けて頭を下げ、チェインは再び元来た道を帰っていく。
 『剣』と……それを持つ少女を追い、
 
 自分から全てを奪い去ったあの男に近づくために。

01:ボーイ・ミーツ・ガール(4)

 その夜。
 家の時計が零時の鐘を叩いても、セイルは寝付くことができなかった。
 青い空を背景に、白い少女が落ちてきた時の光景が脳裏に焼き付いて離れないのだ。光景だけじゃない、あの時感じた温かさ、少女の息づかい、その全てがまさに今そこにあるかのごとくはっきりと思い起こされる。
 そして。
 セイルはゆっくりと、右手を閉じて開く。あの不思議なナイフは母に預けたままだったけれど……果たして、あれは現実だったのだろうか。
 自分の手がナイフと同化して鋼を切り裂いた、その感覚はどう考えても夢ではないはずなのに、こうやって自分の手を見てみてもいつも通りの自分の手で、どうしても記憶の方を疑いたくなる。
 眠って目を覚ましたら、実は少女もあのナイフも全部夢で、自分にはいつも通りの明日が待っている。そんな気がするのだ。
 だから、眠れない。眠りたくないのかもしれない。
 小さく、ため息一つ……すると。
 歌が、聞こえた。
 囁くような優しい響き、耳慣れない、しかし不思議と心が安らぐ旋律。耳を澄ませるかぎり歌詞が乗せられているようだったが、言葉を聞き取ることはできなかった。
「この歌……」
 歌は、すぐ隣の母の寝室から聞こえているようだった。セイルはベッドから降り、音を立てないように気をつけて部屋を出てそちらに向かう。ほんの少しだけ開いていた母の部屋の扉から微かな光が漏れだし、そこから歌声も流れ出している。
 セイルは恐る恐る、扉の隙間から部屋の中を伺う。
 ランプのほの青い光が部屋の中を柔らかく包み込み、ベッドの上に腰掛けた少女をぼんやり浮かび上がらせている。少女は胸に手を当て、目を閉じて歌い続ける。セイルには意味のとれない言葉による歌を。
 何故か……懐かしいと感じてしまう、歌を。
 知らない。こんな歌は聞いたことがない、はずなのに。胸がぎゅっと締め付けられて、何故かとても切なく、涙が出そうな気分になる。理由のわからない感情にセイルが戸惑っていると、少女がふとこちらを見て、歌をやめる。
「……誰ですか?」
「あ、ご、ごめん。邪魔しちゃったかな」
 セイルは空色の頭をかきながら、部屋に入る。少女は「いいえ」と首を横に振って微笑む。
「その……ありがとう、ございました。わたしを、休ませてくれたのですね」
「ううん、気にしないで。具合はどう? 突然倒れちゃったから大丈夫かなって思ってたんだけど」
「もう、だいじょぶです。とても、疲れていただけですから。ごめんなさい、心配かけて」
 少女は申し訳なさそうに俯くが、そんな顔をしないでほしいと思う。ここに連れてきたのは自分だし、自分がそうしたかっただけだし……セイルはぐるぐる渦巻く思いを上手く言葉にできずに、口をぱくぱくされるばかり。
 本当は、ただ笑ってほしいだけなのだ。俯いている少女を見ているのが、辛いのだ。だから、何とか少女に思いついた内容を語りかける。
「そうだ。君のナイフは俺の母さんが預かってるから心配しなくていいよ」
「『鍵』、無事なのですね。よかった、です」
 少女は胸に手を当て、心から安堵の息をつく。
「あの変なナイフ、一体何なんだ? それに、俺の兄貴を探してるって言ってたけど……」
「『鍵』は大切なものです。楽園にたった一つしかなくて、使い手を選ぶとても大きな力を持った剣です。だから、色々な人が欲しがります。ただ、わたしは詳しく知らないです」
「知らないの?」
 はい、と頷き少女は窓の外に目をやる。藍色の空に浮かぶのは、無数の星。女神が流した涙の粒が、きらきらと宝石のようにきらめいている。
「けれど、ノーグ・カーティスは知っているです」
 少女の小さな唇から放たれる、兄の名前。
「ノーグは『鍵』を使えます。何でも知っていて、楽園の未来も知っていると聞きました」
「未来、も?」
 まさか。セイルは思わずにはいられなかった。
 セイルの記憶の中にいる兄は、確かに博識ではあったが未来を知るような、特別な人ではなかったはずだ。けれど、少女はそれを信じきっているのか真面目な表情で言葉を続ける。
「わたしは、ノーグに『鍵』を託して、知恵と力を貸してもらわなくてはならないです。だから、ノーグが住んでいたここに来ました」
「でも……兄貴は、六年前人を殺してからからずっと行方不明なんだ。俺も、行方は知らないんだよ」
「人を殺した、ですか?」
「うん。仲間を殺してね、逃げちゃったんだってさ」
 俺は、信じていないけれど。
 セイルは小さな声で付け加える。自分がどれだけ兄のことを知っているかというと怪しいけれど……信じるか否かは自分の心が決めることだ。セイルはこれまで自分にそう言い聞かせて、兄が消えてからの六年を生きてきた。
 もう、兄の顔も写真を見なければ思い出せないというのに。
 少女はちょっと表情を曇らせて、セイルを見やる。
「ノーグは、悪い人、ですか?」
「違う、と信じたいけど。正直……わからないよ」
 セイルも俯いて、拳を握りしめる。セイルの記憶の中には、無愛想だけれどいつも優しかった兄の声が刻まれている。そんな兄が罪を犯すわけがない、そう信じたいのに、完全には信じられない自分に腹が立つ。
 ただ、これがセイルの本心であることも、事実だった。
 セイルは恐る恐る少女を見る。余計に不安がらせることを言ってしまったかもしれない、そう思っていたのだが……セイルの予想に反して、少女は明るい笑顔を浮かべてセイルを見上げていた。
「それなら、確かめないとわからないですね。ノーグに会うのが楽しみです」
「た、楽しみ?」
「わからないものを知るのは、ちょっと恐ろしくてちょっとわくわくです。違いますか?」
 ちょっと恐ろしくて、ちょっとわくわく。
 変わった言い回しだったが、その言葉はすとんとセイルの胸の中に落ちた。きっと「好奇心」をわかりやすく表すとそういう気持ちなのかもしれない。
 そして、自分は。
 色々なものを闇雲に恐れるあまりに、そういう「わくわくする」気持ちを、いつの間にやらどこかに置き忘れてきてしまっていたのではないかと、思う。
「教えてくれてありがとうございます、セイル。わたしはこれからもノーグを探します。もしも見つけたら、セイルにも教えますね」
 少女はにっこりと笑うけれど、セイルは胸の中に生まれた不可解な感覚をどうしていいのかわからず戸惑う。何かが胸の奥から飛び出そうと、セイルをつき動かそうとしている。
 違う、この感情の正体なんて、わかりきっているじゃないか。
 それは――
「あのさ、俺も……」
 言いかけたその時、突如窓の外がかっと輝き、轟音が屋敷を襲う。「な、何だ?」とセイルが窓の外を見やると……外の林の中から、巨大な何かが迫ってきていた。人より少しだけ変わった視力を持つセイルは、普通ならばただ闇にしか見えない空間に銀色の目を凝らし、そこに存在するものをおぼろげに捉える。
 それは、丸い体から四本の足が生えた、鋼の固まり。魔道大砲を担ぎ、関節から薄緑に輝く煙を吐きつつ、赤く輝く硝子の単眼でセイルの家を見つめている。
「ご、ゴーレム? しかも、魔道機関の……」
「そんな、こんなところまでっ」
 少女が悲鳴を上げると、部屋の扉がばんと開いた。セイルと少女が同時にそちらを見ると、母がそこに立っていた。息こそ切らせていたが、その表情はあくまで余裕のある笑み。
「セイル、その子をつれて裏手から逃げろ」
「で、でも、母さんは……」
「なあに、母さんは絶対に大丈夫さ。ほらよ」
 セイルの不安を笑顔ではねつけ、母はセイルに手に持っていたものを投げる。とっさに手を伸ばして受け取ると、それは荷物でいっぱいになった旅鞄だった。そして、続けて投げられたものは白い包み。
 『鍵』だ。
 包みがセイルの手に収まったのを確認し、母は凛とした声で言う。
「『ディスコード』! セイルとその子を頼んだぞ。もうあんな思いはごめんだっ!」
『――言われなくともわかってら!』
 頭の中に響く少年の声。一体、何のことを言っているのだろうかと呆然とするセイルを、母が鋭く叱咤する。
「何してる! 逃げるんだよ、そしてノーグを探すんだ!」
「兄貴を?」
「奴をとっ捕まえろ、事情を吐かせろ! その子が現れた今なら捕まえられるはずだ!」
「それって、どういう」
 セイルの言葉は、しかし再び響いた轟音によって遮られた。今度は音だけでなく、激しい揺れが屋敷を襲う。あの馬鹿でかい大砲で撃たれたのだ、とセイルの意識は凍りかける。だが、横を見れば少女は背筋をぴんと伸ばし、意志の強そうな瞳で真っ直ぐに窓の外を見つめていた。もちろん、そこに不安の色はないわけではない。だが、それ以上の強い意志が彼女をそこに立たせているように見えた。
 自分も、ただ呆然と立ち尽くしているわけにはいかない。何もわかっちゃいないけれど、今は走るしかないのだ……鞄を背負い、強く包みを握りしめ。
「わかったよ。行ってくる!」
「ああ。無事に逃れたら、連絡くらいはよこせよ」
「母さんこそ、無事で!」
 行こう、とセイルは少女に手を差し伸べる。少女は迷わずその手を取る。セイルは少女と目を合わせ、同時に頷いて駆け出した。
 本当は不安しかない。
 あんな巨大な魔道機関のゴーレム相手に、ただの人間である母が太刀打ちできるとは到底思えない。けれど、母は「絶対に大丈夫」と言った。いつも適当なことしか言わない母だが、「大丈夫」と言った時はどんな手段であれ「どうにかする自信」がある時だ。だから、今だけはその言葉を信じて走る。
 家の裏手から出て、草木をかき分けて行く。月の光と、闇を見通す銀の瞳があれば、道なき道でも少女の手を引きながら何とか走り抜けられる。
 時折、段々と遠ざかり行く屋敷の屋根をちらりと振り返るけれど……ここで足を止めるわけにはいかない。
 ――走れ、セイル。
 繋いだ手と、片手に握りしめた包みの感覚だけを確かめながら、セイルは自分自身に言い聞かせる。走れ。走れ。今この子を守れるのは自分だけなんだ、と。
 ほとんど交わす言葉もなく、手を繋いだままどのくらい進んだだろうか。時に立ち止まり、時に少女に合わせて歩みを緩めながら、林を抜けた時には空の向こうは白み始めていた。
「……助かった、ですか?」
 肩で息をしながら少女がぽつりと呟く。セイルは「わからない、けど」と林を振り返る。もう、轟音も光も、ゴーレムの姿も見えない。母がどうなったのか、知りたいと思ったけれど……今は考えないことにする。
 母は大丈夫だと言った。
 大丈夫だ。絶対に。
「とりあえず、隣町に行こう。ここからなら、あと少し歩けばたどり着けるはずだよ」
「はい!」
 少女は疲れはてた顔ながらも、にっこりと微笑む。セイルも疲れてはいたが、その笑顔を見ただけで力が蘇るような思いだった。
 少女の手を引き、ゆっくりと歩きだそうとしたが。
「あ、そうだ」
 セイルは振り向いて、銀色の目で少女を見つめる。
「君の名前、まだ聞いてなかったよ」
 少女は、夜明けの光の中ですみれ色の瞳を細める。真っ白の髪が、朝の涼しい風にふわりと揺れる。
「わたしは、シュンランといいます」
 シュンラン。
 楽園には珍しい響きの名前だったが、セイルはその名前を確かにどこかで聞いたと思った。一体それがいつ、どこで聞いたものだったのかはさっぱり思い出せなかったけれど。
 少女、シュンランは無邪気に笑って白いスカートを翻し、握った手を振ってセイルの前に立つ。
「行きましょう、セイル。わたし、すっかりおなかがすいたです」
「あはは……俺もだ」
 セイルも笑って少女の横に並ぶ。
 まだ、何もかもが闇の中。けれど、ここから全てが始まるのだ、そう思うとセイルの中にむくむくと不思議な思いが沸き上がっていく。
 それは、先の見えない恐怖と、同じくらいの期待。
 空色の髪を春の風に揺らし……セイルは白い少女とともに、最初の一歩を踏み出した。

01:ボーイ・ミーツ・ガール(3)

 町外れの林に分け入り、道とも言えない道を行き何とか家まで辿り着く。少女がまだ背中で眠り続けているのを確認して、そっと扉を開けた途端。
「セイル……お前がそんなに積極的な奴だとは思わなかった」
 耳に飛び込んできたのは、そんな見当違いはなはだしい言葉だった。
「何がだよ!」
「一体その子と何があった。数十文字以内でわかりやすく母さんに説明しろ」
「何もないよ! いや、色々あったんだけど絶対意味違うだろ母さん!」
 玄関で息子を出迎えたセイルの母は、「まあ、冗談だけどな」とおどけて肩を竦めてみせた。セイルの空色とは似ても似つかない褪せた銀髪を肩の上で揺らし、涼やかな色の瞳を細めてセイルに背負われた少女を見やる。
「で、その子はどうしたんだ? 町の子、には見えないな」
「何だかよくわからないけど、この子、変な奴に追われてるみたいなんだ。とにかく、休ませてあげてもいい?」
 変な奴? と訝しげに眉を寄せる母だったが、すぐに軽く首を振って階段を指す。
「私の部屋に寝かせてやれ。話はそれからだな」
「ありがとう!」
 セイルはすぐに少女を背負ったまま階段を駆け上り、母の部屋のベッドの上に少女を寝かせた。少女はなおも昏々と眠り続けていて、胸だけが小さく上下している。セイルはしばらく、ベッドの横に立ち尽くして少女を見下ろしていた。
 果たして、この子は何者なのだろうか。あんな奇天烈な奴に追いかけられていたのだ、何か特別な事情があるに違いない。それに。
「ノーグ・カーティス、か」
 セイルは無意識に青い髪の先端を引っ張りながら、小さな棚の上に置かれている写真立てに目をやる。そのころはまだ珍しかった魔道写真機で撮られたセピア色の写真には、まだ赤ん坊のセイルとそれを抱いて微笑む母、その後ろに立つ穏やかな表情の父。
 そして、ほんの少しだけ、ぎこちない笑みを浮かべた黒縁眼鏡の少年の姿がある。
 セイルは兄の顔を克明に思い出すことができない。こうやって、写真で見て初めて「こういう顔をしていたのだったか」と思い出すくらいだ。それもそのはずで、十五も年の離れた兄はセイルが物心ついたころには家の外で働いていたのだ。母からは飛空艇技師だと聞かされていたが、実際に何をしていたのかは事件が起こるまで何も知らなかった。知ろうとも思わなかったのだ。
 ただ、時折家に帰ってくると、兄は色々な話をセイルに聞かせてくれた。女神と世界樹の神話、五人の使徒と竜の物語、遠い昔に生きた勇者の伝説、大きな声では言えない異端の物語まで。兄は博識で、どんなことでもよく知っていた。だから、セイルはいつも兄の帰りを楽しみに待っていた。
 けれど、兄はあの日から二度と家には帰ってこない。
 異端研究者ノーグ・カーティスは、楽園全てを敵に回し表舞台から姿を消したのだ。
 会えなくてもいい、せめて居場所だけでもわかればいいのに。そう思い続けて、六年が過ぎて。誰もがノーグの名を知りながら、何処に消えたのかは知られることがなかった。今や、生きているか死んでいるかも定かではない。
「兄貴……何、してんだろうな」
 その行方もわからぬ兄に、助けを求める少女。あの時少女が見せた表情は、ノーグを見つけたという喜びに満ち溢れていた。その分、セイルがノーグではないと知った時の少女の落胆が見ていられなかったが、何故この子はそんなにも兄を追い求めているのだろうか。
 わからない。考えていたって答えなど出るはずもないのだ。
 セイルは少女を起こさないようにそっと部屋を出て、階下に戻る。母が少しだけ心配そうな顔で「大丈夫だったか?」と問うてきたので、セイルは小さく頷く。
「よく眠ってる。多分、疲れちゃったんだと思う」
「そうか。とりあえず、何があったのかくらいは聞かせてくれよな」
 男っぽい口調で言いながら、セイルの空色の髪をぐしゃりと乱暴に撫でる。セイルは「わ、何すんだよ」とむくれるものの、母は笑うだけで取り合わない。それに、むくれては見せたもののセイルも撫でられるのは嫌いじゃない。母の手は温かくて、それだけで安心するから。
 テーブルにつくと、既にそこには紅茶と菓子が用意されていた。セイルは温かな紅茶を味わいながら、正面に座った母に向かってぽつりぽつりと語り始める。
「俺にも、よくわからないんだけどさ」
 言いながら、クッキーを一口。
「町から帰ろうとしたら、あの子が建物の上から落ちてきたんだ。それで、あの子を追いかけて変な奴まで落ちてきたんだよ」
「変な奴?」
「うん。何かすごいんだ、ごっつい甲冑を着てて……多分あれ、魔道機関で動くんだと思うんだけど、そんな奴があの子に襲い掛かったんだ。その時は何とか助かったんだけど、なんだか、あの子とあの子が持ってるものを追いかけてるみたいだった」
 それが、これなんだけど。
 セイルはあれから沈黙し続けているナイフを包みから取り出し、机の上に置く。母はそれを手に取ってまじまじと見つめ、突然「げっ」と声を上げた。
「待てよ、これ『鍵』じゃねえか」
「へ? 知ってるの?」
 意外な母の反応に思わず問い返すが、セイルの声など聞こえていないかのように、母は磨きぬかれたナイフの刀身を見つめたままぶつぶつと呟く。
「とすると、本国がヤバそうだな。それに、これが外にあることも既に知られてる、か」
「母さん? 聞こえてる?」
 セイルはもう一度、強く母を呼ぶ。母ははっとして、セイルに目を戻す。そして小さく舌打ちをして手の中でナイフを器用にくるりと回す。
「とにかく、こいつはあの子が目覚めるまで預かっとく。それで構わないよな?」
「あ……う、うん」
 有無を言わせぬ母の声色に、セイルは反射的に頷いてしまう。頷いてしまってから、セイルは少しだけ困った顔になりつつも言葉を付け加える。
「それで、あの子、このナイフを使える人を探してるんだ。俺も、何かよくわからないけど使えるみたい」
「まさか」
「不思議なナイフなんだ。ただのナイフに見えるのに、握ると頭の中に声が聞こえて、俺の手と同化するんだ。それで、金属だって斬れるようになる」
 まるで、昔兄が語ってくれた勇者が持つ伝説の剣のように。あの時の感覚を思い出し、右手を見つめるセイルは母が息を飲んだことにも気づかなかった。
「……ただ、あの子は俺じゃなくて兄貴を探してる」
「ノーグ、を?」
「兄貴はこのナイフの使い手で、あの子を助けてくれる人なんだって言ってた。詳しいことは、何もわからないけど……母さん?」
 母の沈黙に気づき、セイルは顔を上げる。
 母は、セイルが今まで見たこともないほどに、蒼白だった。ティーカップを握った両手は、小刻みに震えているようにも見えた。不安になって、セイルが声をかけようとしたその時、母はぎりと歯を鳴らしたかと思うと低い声で吐き捨てるように言った。
「あの野郎……今の今まで隠してやがったのか!」
「何のことだよ。さっぱりわからないんだけど」
「わからなくていい。母さんだって、わからない方がいいと思ってるんだからな」
 母はセイルには全く意図の通じない言葉を呟いて、席を立つ。セイルはなおも追及しようとしたが、母の目に睨まれて言葉を飲み込んでしまう。しばしの気まずい沈黙が流れたが、やがて母がいつも通りの微笑を浮かべてセイルの頭を撫でる。
「お前も疲れただろう。ゆっくり休めよ。ああ、それと……」
 不意に、母の表情が歪む。
「次こそ、頼んだものを買ってきてくれよ」
「あっ」
 少女を助けた時に道にぶちまけてしまい、しかもそのまま置いてきてしまった荷物を思い出し……セイルはただただ間抜けな声を上げることしかできなかった。

01:ボーイ・ミーツ・ガール(2)

 どすん、という鈍い音と共に、ちょうど一瞬前までセイルが立っていた位置に何かが落下してきた。
 それは、全身を奇怪な甲冑で覆った、一人の男だった。
 普通の人ならば骨の一つは確実に折れる高さから飛び降りながら、怪我一つない。それどころか、足下の石畳の方が衝撃に砕けていた。
 甲冑は音を立てて煙を吐き出す。セイルの目には微かに緑色を混じらせているように見える煙、魔道機関特有の魔力の蒸気だ。すると、あれは甲冑の形をした、一つの魔道機関なのか。そうセイルが思っていると、男の顔がぐるりとこちらに向けられる。
 鋭い青い目がセイル……否、その上に乗っかっている少女を捉え、獰猛な笑みに歪む。
「見つけたぜぇ、『歌姫』っ! ちょこまか逃げるのもここまでだ!」
 少女はぎりと歯を食いしばり高い声で何かを言い返すが、それもまた、セイルには聞き取れない音だった。もちろん目の前の男も彼女が何を言わんとしているのかは理解していないのだろう、うるさそうに首を振って、ずいと一歩近づいてくる。
「ぐちゃぐちゃ言ってんじゃねえ、さっさと『鍵』を寄越してこっちに来りゃいいんだよ!」
「嫌です! あなたは、あなたたちは、ダメです!」
 少女は今度はセイルにもわかる言葉を放ち立ち上がろうとするが、その前に男の腕が伸び、少女の首元を押さえてぐいと持ち上げる。
「や、やめろよ!」
 その瞬間、セイルも体を起こし、石畳を蹴って男に食ってかかろうとするが……
「邪魔だ、ガキが!」
 男は少女を押さえているのとは逆の手で、セイルを突き飛ばす。動きだけ見れば軽く突いたにしか思えなかったのだが、セイルの体は大きく吹き飛ばされ、壁に激突した。
「うあ……っ!」
 全身を走る激痛に、一瞬息が詰まる。ずるずるとその場に崩れるセイルの足下に、少女が落とした白い包みがあった。少女は苦しそうにもがきながらもセイルに目を向け、掠れた声を絞り出す。
「……『鍵』だけは……渡さない……」
 『鍵』?
 痛みで朦朧としながらも、セイルは何とか事態を把握しようとする。『鍵』というのはこの包みのことなのだろうか。ほとんど無意識に、セイルは包みに手を伸ばす。
 男は少女の体を持ち上げながら、セイルに向かって吠える。
「そいつをよこせ、ガキ!」
「い、嫌だっ!」
 さっぱり訳がわからないけれど、これをこいつに渡してはならないということだけはわかる。セイルは叫び、自分に何ができるとも思えなかったけれど、ぐっと包みを握りしめた。
 途端、握った指先から、全身に走る電流。体がかっと熱くなり、周囲の時間が再びゆっくりと流れ始める。
 そして。
『ったく、嫌んなるなあ』
「え?」
『状況はわからねえが、耳障りな遠吠えに弱いものイジメってか。三下にもほどがある』
 突如、セイルの脳裏に響く聞き覚えのない声。音域は高めだが、どこか憂鬱そうな少年の声。
『おい、ガキ。聞こえてるみてえだな』
「な……何だよ、これっ」
『説明は後。ぐだぐだ言うな、あの子が危ねえんだろ?』
 投げやりにも聞こえる声だったが、その指摘はもっともだった。セイルはぐっと唇を引き締めて、声に耳を傾ける。と言っても、その声は耳に聞こえているわけではなく、それこそ頭の中に直接流れ込んでくる「意識」のようなものだったが。
 声はそんなセイルの反応に小さく笑ってみせる。声だけしか聞こえないから表情はわからないが……やけに満足そうな響きではあった。
『物わかりがよくて助かるぜ。なら、「俺」を手にして走れ。あのイカレた甲冑野郎に向かってな』
 声は「俺」と言ったが、辺りに声の主は見えない。だが、セイルは声が聞こえてきた瞬間から感覚的に理解していた。
 少女が『鍵』と呼んだ、今はセイルの手の中にある包み。
 それが、セイルの脳裏に直接語りかけているのだ。
『さあ、立てよ』
「うん!」
 囁く声に導かれて。
 セイルは、再び立ち上がって地を蹴った。鬱陶しそうに腕を振りあげる男に向かって、一直線に。ただ、向かっていったところでどうすればいい? セイルの心に迷いが生まれそうになったその時、今度は声が吠える。
『呼べ! 俺の名は――』
 振り下ろされる腕、けれど目は逸らさずに。
 セイルは聞こえた通りに「その名」を叫ぶ。
「……『ディスコード』っ!」
 刹那。
 耳をつんざく、悲鳴のような響きが辺りを満たした。相対する男の目が、これでもかと言わんばかりに見開かれる。
 まさか、という男の唇の動きを目に焼き付け、セイルは右の手を振りかざす。包み布は既に剥がれ、その手には一振りのナイフが握られている。
 否、よく見れば「握られている」のではない。
 セイルの右手が、半ばナイフと同化しているのだ。
 力強く一歩を踏み込んで、刃と化した右手で男の腕に斬りかかる。男はとっさに足を引くが、セイルの刃は男の腕を包む分厚い金属の小手に触れ……紙か何かを切るがごとくやすやすと斬り裂き、男の腕の皮までも裂く。
 男は「のわぁっ」と素っ頓狂な声を上げ、腕を引く。深い傷ではなかったが、傷口から流れる血が石畳に弧を描く。
「す、すごい」
 これには、セイルも驚くしかない。すると、脳裏に再び声が響いた。
『呆けてんじゃねえ! もう一歩』
 踏み込むんだ、という指示が聞こえたような気がしたが、セイルがそれを実行に移す前に男は動きの妨げになる少女の体を投げ捨て、大きく後ろに跳ぶ。
「くそっ、聞いてねぇぞ、こんなガキが使い手なんてっ」
 斬られた腕を押さえ、体勢を整えようとする男だったが、その間にも徐々に周囲が騒がしくなり始めていた。セイルの右手の刃が放つ音に気づいた人々が、こちらに向かってきているのだとセイルも気づく。
「ちぃっ、見られんのは厄介だな。しゃあねえ、そいつは預けたぞ!」
『預けた、って元よりお前のもんじゃねえっての』
 ぼそり、とセイルの脳裏で呟く声だったが、どうやら甲冑の男には聞こえていなかったらしく、男はそのまま大きく跳んだ。甲冑が煙を吐き、重そうな外見にも関わらず軽々と塀の上まで跳び、そして屋根の向こうへと消えていった。
 セイルはしばし呆然と男が去っていった方向を見つめていたが、足下で少女が呻いたのに気づき慌ててそちらに駆け寄る。
「平気? 怪我とかない?」
「……はい、無事、です」
 無事とは言っているが、顔色は真っ青だ。それはそうだろう、あんな馬鹿力の男に首を絞めあげられていたのだから。それでも、少女のすみれ色の瞳は少しも光を失わずに真っ直ぐセイルを見上げている。
 セイルは何故かどぎまぎしながらも手を差し伸べ、少女の体を支えてやる。そして、その体が小さく震えていることにも気づいた。
 やはり、怖かったのだ。怖くないはずがない、あんな目に遭ったのだから。
 とにかくここを離れて、ゆっくり休めるような場所に連れて行ってあげよう。セイルがそう思ったところで、少女ははっとした表情になって辺りを見渡す。
「『鍵』は、どこですか! 持って行かれたですか!」
「あ、あれ?」
 セイルは反射的に自分の右手を見下ろしてしまう。この右手と一体化し、先ほどまで散々セイルの頭の中に語りかけてきていたあの不思議なナイフが、影も形も見えなくなっていたことに気づく。
 いつの間に、消えてしまったのだろうか? 必死な表情の少女に迫られ、セイルの背筋にも冷たい汗が流れた、その時。
『ここにあるっつの、ボケ』
「う、うわっ」
 呆れた声と共に、少女の手を握っていない方のセイルの手がぐにゃりと形を変え……次の瞬間、何事もなかったかのように手の中に一振りのナイフを生み出していた。
 正確には「生み出した」のではなく「取り出した」のだ。セイルは直感的に理解した。しかも、自分の意志とは全く関係なく、ナイフが自分からそこに現れたのである。
 先ほどはきちんと見ていなかったが、柄の部分が多少変わった意匠になっていること以外、本当にどこにでもあるような古びたナイフだ。
 しかし。
「あ、あなたが『鍵』を使える人、ですね?」
 少女は、すみれ色の瞳を輝かせてセイルを見上げる。だが、そう言われてもセイルには何とも言えず、首を傾げることしかできない。何しろ、手の中にあるナイフが何なのかもさっぱり理解していないのだから。
「使えるって、どういう」
「わたし、あなたを探してここまで来たのです、どうか、わたしたちを助けてください!」
 ぎゅっと強くセイルの手を握りしめる少女だったが、その言葉は要領を得ない。混乱するセイルだったが、次の瞬間少女の唇から放たれた言葉で、
「『鍵』の使い手、ノーグ・カーティス!」
 思考が、止まる。
 聞き間違えようもない、何度も聞いてきた名前だ。ただ、それは「自分の名前じゃない」。あまりに突飛な言葉を投げかけられて完全に固まってしまったセイルだったが、皮肉にも少女の握る手の強さが彼を現実へと引き戻した。
「違う、違うよ。俺はノーグじゃない」
 セイルはゆっくりと首を横に振る。少女は「でも」となおも言葉を続けようとするが、それを遮って言う。
「俺はセイル。セイル・カーティス。ノーグは俺の兄貴だよ」
「え……」
 今度は、少女が呆気に取られる番だった。そして、その表情がゆっくりと曇ってゆく。残されていた一抹の希望すら失ってしまった、そんな顔。セイルは今にも泣き出しそうな少女を見ていられなくなって、慌てて言葉を付け加える。
「でも、君は何で兄貴を探してるんだ? 君を助ける、って……うわっ」
 言いかけたところで、不意に少女の体ががくりと揺らいだ。慌てて少女の体を支えたセイルは、少女の顔を覗き込んでみる。少女は憔悴の表情で目を閉じ、完全に体重を預けて細い息をついている。
 緊張の糸が切れたのか、どうやら気を失ってしまったようだ。命に別状はなさそうだが、放っておくわけにはいかない。放っておくなどという選択肢は、思いつきもしなかった。
 ――とりあえず、家に帰って休ませてあげよう。考えるのは、それからだ。
 セイルは、起こさないように気を遣いながら少女を背に負う。抜き身のナイフはひとまず布に包み直して腰のベルトに挟み、誰かに見られる前に急いでその場から急いで離れる。ふと空を見上げて見れば、青空に映える純白の鳩が一羽、大きく弧を描いて飛び去ったところだった。

01:ボーイ・ミーツ・ガール(1)

 下を向くな、セイル。
 そんな風に俯いていたら、自分の爪先と地面しか見えないだろう。
 怖い? 色んなことを言われるから? そんな表面上の、しかも見当違いな認識しかできない奴らの言葉なんて、笑い飛ばしてやればいい。何を言われたところで、お前はお前だ。お前のいいところも悪いところも、全部ひっくるめて何一つ変わりはしない。
 もし、それでも辛いなら遠慮なく言えばいい、んなバカなこと言う奴は俺が全員ぶっ飛ばしてやるから。
 さあ、顔を上げて。たったそれだけで、お前の世界はぐんと広がる。
 ほら……今、お前の前には、誰がいる?
 
「……兄貴」
 セイルは、ぽつり、と言葉を落とした。
 だが、どこからも望んだ返事は返ってこない。それはそうだ、目の前にあるのは一枚の紙切れ。壁に貼り付けられた、一人の賞金首の似顔絵だったのだから。
 そこに描かれていたのは、一人の男だった。黒縁の分厚い眼鏡をかけ、目の上で綺麗に髪を切りそろえた学者風の男。微かに眉を寄せた難しい表情は知的であると同時にとても神経質そうだった。
 人殺しの異端研究者。今もなお逃亡中であり、同時に各地で同様の事件を起こしている……その記述を見ていられなくなって、セイルは深くかぶった帽子の鍔を下げて走り出す。
 そんなわけがない、と思う一方で、もしかするとそうかもしれないと考えずにはいられない自分が嫌で。もはやセイル自身ははっきりと彼の顔を思い出すこともできないのに、似顔絵の彼は六年前のあの日と変わらない顔で今もあちこちで難しい顔をしていて。
 何もかもが辛くて、セイルは張り紙から目を逸らす。そして、目的の場所である店に駆け込んだ。
 からんからん、というカウベルの音が響き、息を切らして入ってきたセイルを見て、カウンターに座っていた中年の女はふと目を上げて……あからさまに嫌な顔をして手元の雑誌に目を戻した。
 ちくり、と胸が痛む。
 わかっている。いつものことだ、気にしていたら何にもならない。
 自分自身に言い聞かせながら、母から言われたものを篭の中に放り込む。米に、牛乳に、料理用の酒、肉団子の缶詰。あとは無くなってしまった調味料を少々。野菜は庭のミソル草やレムの実が育ってきているから、今のところは買わなくとも大丈夫だろう。
 本当は、もっと色々欲しいものはあるけれど……わがままは言えない。いっぱいになった篭をカウンターに置いて、セイルは「お願いします」と声を上げた。
「……はいよ」
 店員の女は不機嫌そうな顔を隠しもせず、乱暴な手つきで商品を袋に詰めていく。居心地の悪さに、セイルは被っている帽子を両手でぎゅっと握りしめる。けれど、女はそんなセイルの様子に気づいているのかいないのか、大げさにため息をついて言う。
「それにしても、アンタの兄さんも早く捕まらないもんかねえ。この前もまた事件があったんだろう? 怖くて怖くてあたしらは夜まともに眠れないんだ」
「ご、ごめんなさい」
 自分のことというわけでもないが、セイルは頭を下げて謝る。そんなセイルを一瞥し、女は「はっ」と息を吐く。
「アンタに言っても仕方ないんだけどねえ。でも、もう六年だっけ? 女神様に逆らう異端なのにのうのうと生きてるなんて、罰当たりにもほどがあるよ」
 なら、「死んでしまえ」とでもいうのか。
 セイルはぎゅっと拳を握りしめる。何も知らないくせに、簡単にそんなことを言うなと……叫び出したかったけれど、ぐっとこらえる。
 自分だって、今の兄について何も知らないのだから。
 人殺しとして、女神への反逆者として、楽園の全てから追われる身になってしまった彼のことは、何も。
 女はやはり乱暴な手つきで袋を置き、セイルに手を伸ばして「五十五エイム」とだけ言った。セイルはエイム銀貨を数枚女に手渡す……その時に、初めて女と目が合った。女は一瞬セイルの目をまじまじと見て、すぐに嫌な顔をして目を逸らした。
 理由はわかっている。
 女の目かけた眼鏡に一瞬だけ映りこんだ自分の姿。目深に被った帽子の下から覗く、誰とも違う「銀色の瞳」。
「ありがとう、ございました。失礼します」
 セイルは耐え難い息苦しさを感じながらも、何とか言葉を吐き出して重たい足を扉の方に動かす。やっとのことで扉に辿り着いた時、これ見よがしに呟く女の声がセイルの耳に届いた。
「本当、兄が兄なら弟も弟だね。いつ見ても不気味な目だよ」
「……っ!」
 胸が苦しい。叫びだしたい。
 でも、全てを飲み込んで、セイルは扉を開けて小さな店を飛び出した。背中を追いかけてくるようなカウベルの音も振り切って、俯いたままに荷物を抱えて駆け出す。
 顔を上げろ。そうかつての兄は言っていた。下を向いていては足下しか見えないじゃないかと。けれど、今はそれでもいい。誰の目も見たくない、自分の足下だけがわかればいい。ここに自分が立っているということだけ、わかればいいのだ。
 本当に息が苦しくなってきて、セイルはその場に立ち止まった。少しだけ辺りを見渡してみるが、道行く人はセイルの姿を見ては目を逸らすばかり。
 小さな町だ、セイルが「誰」であるかくらい町の人間なら皆わかっている。「犯罪者の弟」、「女神に逆らう異端の血筋」。だから、皆セイルからは目を逸らして足早にその場から立ち去るのだ。
 それに、兄のことがなくとも昔からそうだった。誰もがセイルからは目を背け、見なかったことにする。見てはいけないものを見てしまったかのような顔をする。ずっとそうだったけれど、どうしても慣れない。
 決して慣れてはいけないことだと、兄も言っていた。
「けど……どうしろって、いうんだよ」
 呟く声も、誰にも届かずに。セイルは泣きたくなるほど惨めな気持ちになりながらも、ぐっと唇を引き締めて歩き出した。いつも通り、人の目を避けあえて狭い裏道を選んで家路につこうとしたが。
 不意に、細い道を強い風が通り抜けていく。
「わ……っ」
 荷物で両手が塞がっていたから、被っていた帽子の鍔も押さえることもできない。風にあおられた茶色い帽子が高く高く、空に向かって舞い上がる。
 そして、帽子の下に隠れていた髪がふわりと、春風に靡く。
 鮮やかな、空の青を湛えた髪が。
 しまった、と思ったけれど風はそんなセイルをあざ笑うかのように、帽子を遠くへ運んでいってしまう。
 だから、セイルは不自然に鮮やかすぎる空色の髪を風に揺らしながら、消えていく帽子を見つめていることしかできなかった。
 本当に、今日はついていない。抱えた荷物を置いてまで帽子を取りに走る気にもなれず、これ以上誰にも会わないことを願って一歩を踏み出すと。
 ――さあ、顔を上げて。
 遠い日の、兄の声が響いた気がした。
「……え?」
 もちろん、そんなものは空耳だ。けれど、セイルは顔を上げずにはいられなかった。
 目に映ったのは、風に靡くワンピースと白銀色の長い髪。
 建物に切り取られた青い空を背景に、くっきりと浮かび上がったそれは一人の少女の姿をしていて……
 今まさに、セイルのいる場所に向かって落ちてこようとしていた。
「え、えええっ! ちょっ、まっ」
 セイルは自分の目を疑った。疑ったけれど、それは一瞬のこと。このままでは、空から落ちてきた少女はなすすべもなく地面に叩きつけられてしまうだろう。
 荷物を投げ出し、手を伸ばす。がしゃん、と瓶の割れる音が耳に響いたけれど構ってなどいられない。力には自信があるが、落ちてくる人を受け止めたことなんてあるばずもない。不安と、最悪の事態を想像してしまった恐怖で手が震える。
 それでも、胸は、熱く強く鳴り響き。
 周囲の時間が、やけにゆっくりと流れていく。
 ぎゅっと目を閉じ、何かを両手に抱きしめたまま落ちてくる少女に向かって、目一杯に腕を伸ばす。
 心なしか、少女の落ちる速度までもが緩んだ気がして、セイルは「大丈夫だ」と確信する。
 目を閉じたまま真っ直ぐに落ちてくる少女を、しっかりと両の腕で支えてみせる。柔らかく、温かな少女の体は羽のように軽く、ふわりとセイルの腕の中に収まった。
 ――助かったのだ。
 セイルは、安堵の息をつく。その瞬間、時間が正常に流れ始めて……突如、セイルの両腕にぐんと少女の体の重みがかかった。
「わ、っと!」
 思わず少女の体を取り落としそうになるが、何とかこらえる。強く少女の体を抱きしめて、目を閉じたままの少女に声をかける。
「ねえ、君、大丈夫?」
 今の落下で気を失っていたらしい少女は、セイルの呼びかけに「ん……」と小さく呻き、ゆっくりと瞼を開く。
 白い睫に縁取られた瞳の色は、すみれ色。
 朝露に濡れる花の色が、セイルを射抜く。
 セイルは不意に先ほどの息苦しさと胸の高鳴りを思い出した。ただし、先ほどの緊張による息苦しさとは何かが違う。ぎゅっと胸が締め付けられる理由はわかるのだ。こちらを見つめている紫の瞳が、あまりにも澄み切っているから。どんな宝石よりも綺麗だと思ってしまったから……
 少女は霞がかかったような表情でセイルを眺め、不思議な、小さな鈴を思わせる声でぽつりと、呟いた。
「   ……?」
「何?」
 聞き慣れない響きに思わず問い返すけれど、少女はそれには答えずに軽く頭を振って数度ゆっくりと瞬きをする。どうも、自分が置かれている状況を把握できていないようだった。
「あ、えっとさ、君、そこの建物から落ちてきたんだよ! その、怪我とかない?」
 セイルはぼうっとした表情の少女に何とか状況の説明を試みる。とは言っても、こんな異常な状況である、慌てるセイルの言葉も相当しどろもどろでさっぱり要領を得なかったのだが。
 少女は目をぱちくりさせてそんなセイルを見て……ふわりと微笑んだ。
「だいじょぶです。助けてくれた、ですね」
 少し舌足らずで変わった喋り方だったが、まるで歌うような明るい響きを帯びていて、聞いていてとても心地よい。何故かはわからないが、セイルは自然と体が熱くなるのを感じていた。自分で自分の顔は見えていなかったけれど、頬もすっかり真っ赤に火照っていた。
 もはやこの状態では何か気の利いたことを言うこともできず、セイルはただ口をパクパクさせるばかり。
 すると、少女は再び微笑んだ。安心から自然に出た表情だったのだろう。いや、もしかするとセイルの表情が面白かったのかもしれない。セイルも少女につられて笑ってみせる。とんでもなく変な笑顔になっていたけれど。
「ありがとう、ございました。あ、あの」
 少女は微笑みながら礼を言い……その表情にほんの少しだけ、困ったような色が混じる。
「その、下ろしてもらえるですか?」
「あ、あああ、ご、ごめん!」
 今の今まで、少女はずっとセイルに抱き止められていたままだったのである。今度こそセイルは自分でもわかるほどに顔を真っ赤にして、少女を優しく下ろしてやった。
 まだ、腕の中には少女の温かさが残っていたけれど。
 石畳に高らかな靴音を鳴らし、少女のワンピースが揺れる。広がるスカートの裾や、風に靡く白い髪がまるで一つの花のようだとセイルは沸いた頭で思う。
 少女はまじまじとこちらを見つめるセイルの視線など気にも留めていない様子で、少しだけ不安げな表情を浮かべて、落ちてきたときにも握りしめていた白いもの――どうやら何かの包みのようだ――を強く握り直す。
 そして、自分が落ちてきた空を見上げて、
 突然、セイルに向き直った。
 その目はかっと見開かれ、恐怖とも怒りともつかない表情をあらわにしていた。あまりに唐突な少女の変貌に戸惑うセイルだったが、少女は何か意味のとれない言葉を叫びながら、突っ立っていたセイルの肩を掴み、そのままセイルもろとも勢いよく地面に倒れ込んだ。
 少女の手から包みが滑って石畳の上に落ちるのを、少女に乗っかられる形になったセイルは呆然と見つめていた。
 一体、何が……そう思った瞬間。

00:もしも夢から覚めるなら

 夢を見る。
 赤い、赤い夢だ。
 その赤は辺り一面に咲き誇る薔薇の赤か、彼の身を染める液体の赤か。
 それとも、彼の「手」を強く握る少年が抱いた、燃えるような赤か。
「では」
 囁きにも似て、それでいて冷たい空気を貫く声。
「この世界を、楽園に変えてほしい」
 記憶の片隅に、今も響き続ける凛としたテノール。それは楽園に生き続けることを決めた彼に対し、世界樹へ還りゆく少年が投げかけた最後の言葉。
「誰もが笑って暮らせるような、本当の『楽園』に――」
 綺麗事だ。
 そのくらいは彼にだって断じることができる。
 けれど、あの時の自分は少年に何と答えたのだったか。ゆらゆらと揺れる意識は夢とも現ともつかない境界を漂い続ける。
 答えはわかっている。わかっているけれど。
 自分は今も、終わりの見えない暗闇の中に揺れている。ゆらゆらと、揺り籠に揺られるかのごとく、遠い日の夢に留まり続けている。きっとこれからも、いつまでも、いつまでも……
 
「殿下、『鍵』はこちらに!」
 その時、鋭い声が聞こえた。それを「聞こえた」という言葉で表していいものか定かではなかったが、意味のある言葉が彼の意識の中に飛び込んでくる。
「ありがとう。これが奪われたら洒落にならないからね」
 闇の中、応える男の声。そういえば、どこかで聞いたような声だと思うけれど……闇に揺れる意識では、正しく判別することもできない。
 これもまた、夢だろうか。
 覚めない夢の、一幕なのだろうか。
 意識の片隅には赤い夢がちらつき、過去の象徴である少年の声と遠くから聞こえる声が複雑に混ざりあい、まどろみの中にある思考を余計に掻き乱すばかり。
 それでも、聞き覚えのある男の声は混濁する彼の意識の中で、一際高らかに響きわたった。
「今から私と君でここを脱出する」
 そして、と男は言葉を続ける。
「『機巧の賢者』ノーグ・カーティスを探すんだ」
 『機巧の賢者』――ノーグ・カーティス。
 聞きなれない名前、なのに彼はその名前を知っている気がした。いつか、誰かが。その名を自分に教えてくれたような……
「ノーグ・カーティス?」
 不意に、もう一つの声が聞こえてきた。
 今度は、彼の知らない少女の声だった。少しだけ舌足らずな、それでいて歌う鈴のような声色。ゆらゆら闇の中を揺らめく彼には、不思議と心地よく感じられる声。
「そう、異端研究者ノーグ・カーティス。不安要素は多すぎるけれど、今は彼を探し出すしかない。この『鍵』を扱える……我々が知る中では唯一の人物を」
 『鍵』、そんな言葉もどこかで聞いた。ただ、何もかも、何もかも。赤い夢の延長線上にあるようで、明確な意味と結びついてはくれなかった。もどかしく思うが、これもいつものことだ。彼は本来、自分一人ではまともに「思考する」こともできない存在なのだから。
「『鍵』を使えれば、争いは終わるですか? 皆、幸せですか?」
「……いや」
 遠い少女の声に、男は笑う。どこか、自嘲気味な声色で。
「使い方次第、使う者次第で力の方向性は変わる。『鍵』はもちろん、君の『歌』も」
「わたしの、歌も……」
 少女は呟いた。そこには小さな、しかし確かな不安が見え隠れしていた。
「なあに、不安がることはない、君は君の思うように歌えばいい。君なら間違えない。私が保証するよ」
 君なら間違えない。ならば、誰が間違えたのだったか。
 力の方向性、使う者の意志。男の声と赤い夢は、かつて彼の手を取った冷たい指先の記憶すらも呼び起こす。果たしてあれは「間違い」だったと言えるだろうか。正しさも、間違いも、主観に過ぎないとはわかっていながら考えずにはいられない。
 別に、あの時だって実際には誰も間違ってはいなかったのかもしれない。誰もが自分の信じたとおりに、自分の手にした力を振るっただけ。
 その終着点が、赤い夢だったというだけ。
 ただ……
「さあ、行こう」
 男の声と同時に、彼の意識を満たしていた赤い夢が消えていく。そして、闇の中に一筋の光が射し込んだような、そんな感覚が彼を支配する。もちろん今の彼には射し込む光を「見る」ことも、その温度を感じることもできなかったけれど。
 それでも、彼は知っている。
 これは「目覚め」の感覚。闇から光へ、心地よいまどろみの世界から、騒々しい現実へ引き上げられる感覚。もちろん、これもまた彼の無意識が生み出した夢なのかもしれない。
 けれど。
 彼はまどろみの中で「思う」。
 もしも、夢から覚めるなら、
 
 ――今度こそ「俺が」間違えないように。

名探偵

 部屋の真ん中に男性の死体が転がっている。
 死因は背中からナイフで一突き。ナイフは心臓にまで達していたらしく、ほとんど抵抗の痕跡もない。
 そして、Xの前には五人の男性が立っている。それぞれがXを睨み、何か言いたげにしている。実際のところ、言いたいことはいくらでもあるのではないだろうか、と私は思う。それでも黙っているのは、それがこの『異界』のルールだから、なのだろうか。
 Xの横に立つ、帽子を目深に被った少年が言う。
「さあ、名探偵」
 この『名探偵』というのが、どうやらXのことらしい。Xは黙りこくったまま、その場に立ち尽くしている。
「事件当時、現場にいたのがこの五人です。一人ずつ、証言を聞いていきましょう。もし犯人でないのなら、正しい証言をするでしょうが……、この状況です、犯人は『必ず』嘘をつくでしょう」
 少年は『必ず』という言葉を強調した。Xは相変わらず何も反応を示さない。そんなXに少年は帽子のつばを上げて怪訝な視線を向けたが、怪訝に思っているのはXも同じなのではないだろうか。
 何せ、この部屋に降り立った瞬間にはこの状況だったのだから。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 ……そして、今回の『異界』が、これだ。
 舞台は洋館の一室。窓は雨戸まで閉じられており、天井の明かりが煌々と部屋の中を照らし出している。
 用意された死体は一つ。容疑者は五人。
 五人は、少年の指示に従って一人ずつ発言していく。その一言一言は酷く短く、簡潔なもので。その一言ずつを少年は手元の手帳に書きとっていく。
 一人目のアルファ曰く、「俺はずっとチャーリーと一緒にいたんだ、俺もチャーリーも犯人なわけがない」。
 二人目のブラボー曰く、「犯人は、アルファ、チャーリー、デルタの中にいるはずです」。
 三人目のチャーリー曰く、「エコーは犯人ではない……」。
 四人目のデルタ曰く、「アルファ、チャーリー、エコーはずっと僕から見えるところにいたから、犯人ではないよ」。
 五人目のエコー曰く、「私は知っている。アルファかブラボーのどちらかが犯人だ」。
 一人が口を開いている間は、他の面々は堅く口を閉じている。まるで、そうすることが当然であるかのように。
 五人の話を聞き終わった時点で、少年は再びXに向き直る。
「名探偵。……誰が犯人なのか、わかりますか?」
 Xは相変わらずぼんやりとした調子で、すぐに答えることはなかった。だからだろうか、少年も、そこに待っている男性たちも、苛立ちの表情を見せつつあった。何か一つでも間違えれば、こちらがもう一つの死体になるのではないか、そんな気配に見ているこちらの方がはらはらしてくる。
 やっと口を開いたXの一言は、
「なんだ」
 ――だった。
 目を見開く少年と男性たち。Xは少年の手から手帳をひょいと取り上げ、ごくごく淡々と言葉を紡ぐ。
「単純な、論理パズル、ですね」
 論理パズル。問題から論理的に考えていくことで、必ずひとつの正答を導くことのできるパズルのことだ。
「犯人が『必ず』嘘をついていて、不足ない情報が揃っていれば、簡単です」
 Xは手にしていた手帳を閉じて、男性たちと正対する。
「犯人は――」
 Xの目がある一点に留まった、その時。ふ、と「その男性」が動いた。その手にナイフが握られているのを目にして、思わず私は引き上げを指示しかけるが、それよりも先にXが動いていた。
 手にしていた手帳を投げ出し、流れるような動きで突き出されるナイフの軌道から体を逸らし、そのまま腕を掴み取る。そして、次の瞬間には自分より遥かに大きな体を床に叩きつけていた。
「ぐ……っ!」
 呻き声をあげたその人物の手から飛んだナイフが床に落ち、それをXの爪先が手の届かぬ位置に蹴り飛ばす。これ以上抵抗されないよう、腕を極めた形で静止したXは、顔を上げる。すると、少年がぱちぱちと小さな手を叩く音がスピーカーから響いてきた。
「お見事な解決です、名探偵。……さあ、お帰りはあちらです」
 少年は慇懃な調子で手を扉の方に示す。そういえば、こんな扉は直前までこの部屋に存在しただろうか? 存在しなかった気がする。ここが『異界』である以上、『こちら側』のルールが通用しないのはいつものことだ。
 Xはもう組み伏せた男性が動かないとみて腕から手を離し、少年に向き直る。
「ひとつ、質問して、よいですか」
「何でしょう?」
「もし、今、私が刺されていたら。もしくは、正答を出すのに失敗していたら。どうなっていた、のでしょうか」
 少年は、軽く肩を竦めて、視線をついと横に向ける。
 そこには、――一つの死体が、転がっていた。
 
 
 Xの引き上げ作業に異常はなし。
 肉体に意識体を収め、起き上がったXと向き合う。
「しかし、あなたが『名探偵』とはね」
 Xは連続殺人の罪で死刑を言い渡された、正真正銘の「犯人」だ。何とも皮肉な話ではないか。
「発言を許可するわ。今回の『異界』について、あなたの所感を聞かせてくれる?」
 私の言葉に、Xは少しだけ考えるような仕草をした後に、ゆっくりと口を開いた。
「『必ず』嘘をつくなら、もしくは『必ず』嘘をつかないなら、いいのですが。……実際には、人は恣意的に嘘をつきます。もしくは、嘘だとわからないままに、嘘をつくことも、ありますよね」
 Xが言わんとしていることがわからなくて、私は首を傾げてしまう。Xも自分が何を言おうとしているのかよくわかっていないのか、「あー」と彼には珍しく意味のない声を出してから言った。
「世の中、先ほどの『異界』のように、もう少しシンプルならいいなと、思ったんです。もし、そうだったなら」
「そうだったなら?」
「……私は、ここまで、罪を犯さずに、済んだのかもしれない、なんて」
 私は。
 Xが何故、こうなってしまうまで罪を重ねてしまったのかを、知らない。
 Xはこうなるまでに――片手の指では数えきれないだけの人数を殺害するまでにどれだけの嘘をついてきたのだろう。そして、その中で暴かれた嘘と暴かれなかった嘘はどれだけあったのだろう。私には、想像することもできずにいる。
 私の沈黙をどう受け取ったのか、Xは目を細め、俯いて首を横に振った。
「冗談ですよ」
 ――ただ、一つだけはっきりしているのは。
「冗談というのは嘘ね」
「……わかりますか」
「あなた、嘘は下手そうだもの。冗談もね」
 なるほど、と。そう言ったXは、ほんの少しだけ……、笑ったようにも、見えた。