2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
読上
1-26:空言の英雄
発着場に降り立った俺を待っていたのは、『エアリエル』の知覚越しにも明らかな、殺気立った基地の面々だった。
|通信記術《コム・スクリプト》によるトレヴァーと俺の会話は、基地にも筒抜けだった。なら、俺が「何」であるのかも知られてしまったということだ。
――当然の帰結だ。
俺が「ゲイル」として生きると決めた時から、この結末は、常に予感はしていた。ただ俺に、それを受け入れる覚悟がなかっただけで。
『どうして君がそこにいるんだい、オズ?』
あの時、トレヴァーが投げかけた問いに、俺は、結局最後まで答えられなかった。
だって――、どうして、ここに、なんて。
『俺の方が、聞きたいよ……』
そんな、うわ言を漏らしてしまったのは、意識が朦朧としていたこともある。否、朦朧としていたからこそ、今まで「ゲイル」のポーズに覆い隠せていた本音が、言葉になってしまったとも言えた。
トレヴァーは、棒立ちの俺を撃たなかった。ただ、露骨な舌打ちと共に『ロビン・グッドフェロー』を転回させる。
『興を削がれたよ。ボクは帰る』
でも、と。
今までの高揚が嘘のような、低い、霧の海の底から湧きあがる声が響く。
『そう遠くないうちに、また来るよ。その時に、そんなつまらないことを言ったら、今度こそ、海の底に落としてやるよ。それとも――』
実際にその姿が「見えて」いるわけでもないのに、トレヴァーの目が、俺を冷ややかに見据えているのが、はっきりとわかる。
『それこそが君の望みなのかな、オズ?』
俺は、答えなかった。
ただ、トレヴァーの指摘が、胸を抉ったことだけは、間違いない。
――ゲイル、と。
同調する船体の内側から、セレスの声がする。ほとんど聞き取れないほどに薄れた声に、我に返る。そう、俺は帰らなければならない。セレスを、帰さなければならない。
酷い頭痛と倦怠感をかろうじて残されていた意志の力でねじ伏せ、『エアリエル』の飛行翅を廻らせて、基地を目指す。
もう一度、姿の無いセレスが名前を呼ぶ。
俺のものではない、名前を。
基地の姿が霧の海に浮かんで見えるその時まで、セレスの声を聞きながら、応えることはできずにいた。
同調を切り、ヘルメットとベルトを外して『エアリエル』の扉を開けた瞬間に、肩を掴まれて無理やり引き摺り下ろされた。ほとんど叩きつけるように地面に投げ出されると同時に、腕を捻り上げられる。
そこまで大げさな扱いをしなくとも抵抗する気なんて全く無いのだが、ことここに至っては、そんな言い訳が通用しないことくらいは、わかる。
この基地で一年を過ごした俺は、「英雄」ゲイル・ウインドワードなどではない、真っ赤な偽者だった。
それどころか、そのゲイル・ウインドワードに討たれたはずのオズワルド・フォーサイス――『原書教団』の教主、女王国どころか全世界に混乱を振りまいた世界の敵そのものであった。
客観的に見れば、警戒してしかるべきだろう。俺がもしオズ某本人でなければそうする、ってのもあまりに空しい仮定だが。
地面に顔をぶつけた衝撃で切れたのか、それともいつもの鼻血か、口の中に鉄っぽい味が広がる。だが、そんなことはどうだってよかった。戻れば必ずこうなることがわかっていても、俺がこの場に戻ってきた理由はただ一つだ。
強く押さえつけられる頭を、それでも無理やりに持ち上げて。せめて誰か一人にでも聞こえることを信じて、声の限りに叫ぶ。
「お前ら、聞いてただろう!? セレスを助けてくれ! このままじゃ、セレスが本当に死んじまう!」
基地に降り立つ瞬間まで、セレスは確かに「生きて」いた。今ならまだ間に合うはずだ。
だが、俺の言葉に応えたのは、真っ直ぐに向けられる銃口だった。
俺が愛用する玩具みたいな記術銃じゃない、相応の重みと威力を持つ、女王国海軍の基本装備である軍用実弾銃だ。
その引き金に指を添えているのは、お手本のような構えを見せる、ジェムだった。
「そんなことを言っている場合か?」
今まで聞いたこともない、ジェムの低く暗い声が、鼓膜に響く。
ジェムの見開かれた目には、周りの連中よりも更に一段苛烈な感情が宿っている。それが、オズワルド・フォーサイスに対する恐怖や嫌悪とはまた違う、俺という個人に対する怒りだってことくらいは、流石にわかる。
ジェム――ジェレミー・ケネットにとって、ゲイル・ウインドワードは英雄だった。目の前に現れた「憧れ」そのものだった。俺は、そんなジェムをずっと欺いてきたし、ゲイルに殺されたはずの俺がここにいること自体が、最強にして絶対不敗を誇ったゲイルの「英雄性」を否定する。
そりゃあ、許しちゃおけないだろう。引き金を引きたいだろう。
引きたければどうぞ、引けばいい。だが、明らかに優先順位を誤っている!
「『そんなこと』じゃねーよ馬鹿! 今まさに人が一人死のうとしてんだ、そっちの方が重要に決まってんだろ! とっとと助けろよ!」
ジェムは何故か鼻白んだ。俺はそんなに変なことを言っただろうか、と思っていると、今度こそ聞き慣れた声が割り込んできた。
「整備隊、衛生隊と協力してセレスティアの救助に入れ」
ざわり、と。俺を囲んでいた連中が動揺を見せるが、その人の輪を割って、車椅子が音も無く現れる。車椅子に座った軍服の男、基地司令ロイド・グレンフェル大佐は感情の伺えない、けれどよく響く声で宣言する。
「もう一度言う。整備隊と衛生隊はセレスティアの救助に入れ」
その一言で、俺を囲んでいた連中のうち、整備隊と衛生隊の連中が忙しなく動き始めた。その中にサヨの姿が見えなかったことが頭の隅に引っかかったけれど、その疑問を言葉にするよりも先に、ロイドがするすると俺に近寄ってくる。
銃口を俺に向けたままだったジェムが、慌ててロイドに声をかける。
「グレンフェル大佐! 危険です、下がってください!」
「この状態からは抵抗できないだろう。おい、顔を上げろ」
言葉の後半は、俺に向けられたものだった。命令に従うまでもなく、俺の体を拘束してる連中の一人が、俺の髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。だからこの髪抜けやすいんでやめていただけませんかね。
見れば、ロイドが車椅子の上から俺を見下ろしていた。ミラーシェードの奥でどんな目をしているのかは定かではないが、その仮面のような面構えから、何かしらの感情を押し殺していることは、想像がついた。
長い長い一呼吸を置いて、ロイドの薄い色の唇が開かれる。
「お前は、本当にオズワルド・フォーサイスなのか?」
言われてみれば、聞かれてはいなかったな。ここまで来て人違いもあり得ないだろうとは思うが、基地司令として確認しないわけにはいかないのだろう。
だが、まさかロイドにそんなことを聞かれる羽目になろうとは。少しばかり気が抜けて、つい口元を緩めてしまう。
「俺がゲイルじゃないってのは、さっきのログでわかるでしょう、先生」
「そうだな。あんな無様な飛び方をする|霧航士《ミストノート》は、お前だけだ」
ロイドは溜息混じりに言う。無様って言い方は酷くねーかな、事実だけど。俺がゲイルのように飛べないということは、教官であったロイドが一番よく知っているから、何一つ否定できない。
未だざわめきが支配する中で、ロイドはあくまで淡々と言葉を重ねていく。
「では、フォーサイス。教団は何故、今になって再び動き出した? 教主であるお前が知らないわけはあるまい」
これもまた、当然の質問だろう。俺がオズワルド・フォーサイスである限り。
だが、俺はその問いに対して、首を横に振る。
「知りません」
「……何?」
「知りません。何も」
ふざけるな、とジェムが叫んだのを、どこか遠くのものとして認める。
ふざけてなんかいないけれど、きっと、そう見えるに違いない。その程度には「オズワルド・フォーサイス」は罪を重ねすぎている。どうしてこんなことになってしまったのかわからないまま、当の本人を置き去りにして、俺は、世界の敵になっていたのだ。
ロイドは、諦めたように息を一つついて、地面に這いつくばる俺から視線を外す。
「詳細は、後ほど聞かせてもらおう。連れて行け」
「はっ」
俺を拘束していた観測隊の連中が、俺の腕を抱えて地面から引き剥がす。抵抗する気力も理由もないので、全身の力を抜いて連中の動きに身を委ねる。何より、頭が痛かった。地面にしたたかぶつけられたこともあるし、それ以前に久々に『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を覗いてしまった反動が、今になってぶり返している。
徐々にぼやける視界の中で、ジェムが何かを喚いている。せめてきちんと話を聞いてやらなければ、とは思うのだが、どうしても耳に入ってこない。
ただ、散々に罵倒しているのだろうな、というのが状況から判断できるくらいで。
このまま目を閉じれば、少しは楽になるだろうか。流石に、今ここで目を閉じて、次が無いなんてことはないはずだ。その方が幾分マシだと思わなくもないが。
――ああ、だが、その前にもう一つだけ。
重たい瞼をこじ開けて、まだロイドがそこにいることを確かめる。ミラーシェードがこちらに向けられたのを認めて、頭の中に浮かんだ質問を投げかける。
「……サヨは、どうしました?」
本来、サヨがここに居合わせないわけがない。セレスの体の管理を担当していたのはサヨなのだ。それに、俺がこうなった以上、むしろここに現れなければサヨに不都合が生じる。それがわからないサヨでもない、と思っていたのだが――。
ロイドの表情が、ここに来て初めて歪められた。その意味を問うまでもなく、答えはすぐに与えられた。
「イワミネ医師は先ほど、我ら女王国への反逆の意志ありとして自分が拘束した」
俺の問いに答えたのはロイドではなく。ジェムの声が、今度こそ、はっきりと俺の意識の中に割り込んでくる。
見れば、ジェムはぎらぎらと目を輝かせて、俺を見下ろしていた。敵意、憤怒、その他諸々の負の感情を、視線と声とで叩きつけてくる。
「だって、おかしいだろう? 誰もがお前に騙されていたと知った中で、あの女だけが何一つ動揺を見せなかった! 自分が問い詰めれば、何もかもを知っていたと供述した! お前がウインドワード大尉を演じていたことも、お前が、世界の敵であったことも!」
ああ。
馬鹿じゃねーか、サヨ。
「それどころか、お前の存在を秘匿し続けた協力者だと証言した! なのに、あの女は己のしたことを認めながらも開き直って自分に食って掛かった!」
そんな下らない理由で炙り出されたのか。俺に構わず、周りに合わせて知らぬ存ぜぬを貫き通せばよかったのに。ほんと馬鹿だろ、ゲイルを殺した俺を恨んでるはずのお前が、どうして一緒に捕まらなきゃならないんだよ。
「そうだ、イワミネ医師は撃たれて当然だ! 世界の敵を匿うどころか、|空言《むなごと》の英雄として祭り上げたという大罪を犯しながら、それが罪だと認識すらしていない者相手に持ち合わせる慈悲などない!」
ああ、本当に馬鹿だ。サヨも、こんなとこでぼんやりしてる俺も。
だが、それはそれ、これはこれだ。
――ジェムは今、聞き捨てならないことを言った。
「撃ったのか?」
「え?」
「サヨを、撃ったのか?」
俺の問いに、ジェムは一瞬だけ息を呑んだが、次の瞬間には俺を憎々しげに睨み付けて、きっぱりと一つ、頷いた。
それを合図に『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の扉を開く。要求は、この拘束を解く方法。瞬き一つのうちに投げ返された応答に従って、腕を捻る。一瞬緩んだ拘束を引き剥がし、力の入らない足で地面を踏みしめる。
明らかな狼狽を顔に貼り付けたジェムが、俺に向けた銃の引き金を引いたのが、いやにゆっくりと、見えた。
左の肩辺りが弾かれるような感覚。多分、当たったのだろう。痛みなど、認識する前にねじ伏せた。俺だって腐っても|霧航士《ミストノート》だ、その程度は無意識下で制御できる。
「ひっ!?」
ジェムの驚愕の面が迫る。次の一発を撃ち込まれるよりは、俺の方が速い。
振り上げた右の拳がジェムの頬に吸い込まれ、そのまま迷わず振りぬく。俺の腕だから大した力じゃないはずだが、不意を打ったからだろう、ジェムはその勢いのまま地面に仰向けに倒れこむ。
畜生。こんなことしたところで、何も変わらないってのに。倒れこんだまま、歯を食いしばって俺を睨めつけるジェムを見下ろし、心が冷え込むのを自覚する。無駄なことをするなと、俺の一欠け残された理性が囁く。
それでも、それでも、許せなかった。ジェムが、というよりも、俺のせいでサヨが傷ついた、という事実そのものが。
しん、と。あれだけざわついていた空間が、重たい沈黙に支配される。時間が止まったような錯覚は、しかしロイドの一声で打ち破られた。
「捕らえろ!」
我に返った観測隊の連中が、口々に声を上げながら、その場に突っ立っていた俺を殴り飛ばす。今度こそ、闇の中に落ち込む意識の中、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「……だから、それは俺の名前じゃないんだ、セレス」
口の中で呟いて。
瞼を、閉じる。
空言ミストノーツ
読上
1-25:掛け金を、はずす
――俺は、何をしている?
トレヴァーの動きを読み切ることもできない俺は、今やセレスの動きを眺めているに過ぎない。
どこからか流れ込むトレヴァーの声が、歌うように告げる。
『ゲイルほどじゃないけど、君も筋は悪くない。荒削りだけど、ゲイルとよく似てる』
気配はどこにも無いのに、首筋を舐められるような。気色悪さをどうしても振り払えない――それが、トレヴァーの飛び方だ。
仲間だった頃もそうだった。遥かに機動力で劣るはずの『ロビン・グッドフェロー』を駆りながら、『エアリエル』にぴったり追随し、その行く手を阻む連中を撃ち落としてきた。
変態だが、腕だけは確か。だからこそ、絶対に敵に回したくない相手だった。
隙が、見えない。言葉をどれだけ重ねたところで、トレヴァーは俺たちの前に尻尾を見せない。
船体に衝撃が走り、セレスが小さく呻く。胴体に針が突き刺さったのを、察する。
『……残念だね。出会ったのが「今」じゃなきゃ、もう少し愉しめただろうに』
トレヴァーの声を合図に、刺さった針が熱を帯びて弾ける、轟音。激しく揺さぶられる船体、魂魄に走る無数の警告。だが、セレスはその全てを受け止めながら、なおも、全力で離脱を図る。壊れかけの『エアリエル』は声を殺すセレスの代わりに甲高く吠え、青い翅を震わせて更に速度を上げる。
視界の端で捉える同調率はほぼ百パーセント。|魄霧《はくむ》汚染以上に船体の傷みを全て引き受ける苦痛を堪えながら、高く、高く飛び続けるセレスに耐え切れず、つい声を上げていた。
「同調を緩めろ! そのままじゃお前まで」
「ダメです、少しでも緩めれば撃ち落とされます!」
俺の声を遮ってセレスが叫ぶ。そうだ、セレスが正しい。『エアリエル』の優位は『ロビン・グッドフェロー』よりも速いということ、ただそれだけ。同調を緩めたタイミングは必ず隙ができる。そこを見逃すトレヴァーではない。
だが、それよりも、セレスが。
俺の思考を切り裂いて針が飛来するも、『エアリエル』の船体が破壊された際の熱が生んだ大気の揺らぎで、針の位置をかろうじて感じ取る。咄嗟に計算を走らせ、セレスに投げ渡す。
「……セレス!」
「はいっ」
セレスは、どこまでも、俺に忠実だった。
『エアリエル』を鋭角的に旋回させ、俺たちの行く手を塞ごうと放たれた針の隙間を、鮮やかな機動で抜ける。
それでも、それでも――。
『本当に、残念だね』
トレヴァーの宣告は、正しかった。皮肉なまでに。
がくん、と。『エアリエル』の船体が、急に力を失う。ほとんど反射的に操縦権を奪取して、形だけは立て直しながらも、船内を精査する。
精査自体は一瞬で済んだ。
だが、セレスの姿は、既に|正操縦士《プライマリ》席から消えていた。
――蒸発。
|霧航士《ミストノート》の寿命。許容量を超えた|魄霧《はくむ》を取り込んだ肉体は、|魄霧《はくむ》へ「還元」される。それは、怪我や病気による死とは異なるが、肉体の死に他ならない。
「嘘……、だろ」
思わず声が漏れていた。
わかってはいたんだ。セレスにとって、トレヴァーの相手は荷が重過ぎる。ジェムがそうであるように、セレスも「加減」を知らない。『エアリエル』は|正操縦士《プライマリ》が探査や兵装操作に意識を注がないがゆえに、更に加減を誤りやすい船だと。俺は誰よりもよく知っていたはずなのに。
「俺の、せいだ」
俺が躊躇わなければ。何もかもを捨ててトレヴァーと対峙する覚悟があったなら。
「そうだ、俺が殺したも同然じゃないか、あいつと同じ。俺が、殺した……」
――違います、ゲイル。
その時、セレスの声が聞こえた気がした。いや、幻聴でも何でもない、俺の魂魄はまだセレスの気配を感じている。そう、セレスはここにいるのだ。『エアリエル』の内側に。
――大丈夫です。わたしは、生きています。
ノイズ交じりの声が囁く。ほとんど消え入りそうになりながら、俺に必死に訴えているのが、感じ取れる。
「そうか、これが、人工|霧航士《ミストノート》……」
セレスは生きている。人工|霧航士《ミストノート》は、肉体が蒸発しても一定時間は魂魄が魂魄界に留まる。その間に新たな肉体と接続することができれば、セレスは事実上「死ぬ」ことはない。
だが、それはあくまで、無事に基地まで帰れたなら、だ。俺の耳にセレスの声が届くということは、セレスの魂魄は未だ『エアリエル』に同期したまま。すなわち『エアリエル』が落ちたとき、セレスが完全に死ぬということ――。
『さあゲイル、これで二人きりだよ』
だが、俺の焦りなんざ知ったこっちゃないとばかりに、トレヴァーが、俺の前に立ちはだかる。見えていなくても、わかる。『ロビン・グッドフェロー』の針は、俺が少しでも動いた瞬間に『エアリエル』の機関部を撃ち抜くであろうと。
『君が操縦しなきゃ「エアリエル」は落ちる。もちろん、ボクが撃ち落とす。でも、そんなのつまらないだろ?』
つまらない。
その、なんてことはない一言で、俺の内側で全てが噛み合った。過去から現在に至るまで、俺の内側で燻っていた感情も。セレスの飛び方に感じた羨望も。トレヴァーを前にして生まれた躊躇いも。セレスの喪失の原因も。何もかも、何もかも。
ああ、そうだな。お前の言うとおりだよ、トレヴァー。
ずっと、つまらないと思っていた。
あいつのいない海なんて、飛ぶ価値がないと、思っていた。
だが、やっとわかった。
そんなのただの言い訳だ。飛べない俺が、その理由をあいつの死に求めていただけの話。飛べないのに飛びたいと願った俺のわがままが、俺だけでなく、どこかあいつに似たセレスを危険に晒した。
「ごめん、セレス」
そう、俺は、どうしたって飛べないけれど。
せめて、この場だけは切り抜ける。それが、今の俺にできる唯一だ。
本当は、もう少しだけ、夢を見ていたかったけれど。
想像上の掛け金を外して、今まで制限していた『エアリエル』の知覚機能を全解放する。人間の魂魄には収まりきらない情報量が、どっと流れ込んでくるのを全身で感じながら。
「|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》、|開錠《ログイン》」
不可視の扉を、開け放つ。
どこぞのカルト教団が謳う圧倒的な生の情報――「原書」を満たした、不可視の記録装置にして演算装置、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が俺の目の前に開かれる。
書庫から伸ばされる幾重もの腕が、『エアリエル』が取得する無数の情報と、俺の要求を引き込み、内部の記述とを照らし合わせて応答する。
『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』はまさしくこの世の「全て」を網羅した記録装置だ。この世に存在するもの全ての情報は、閲覧者の要求に対してわけ隔てなく提供される。
当然、こちらに向けられた針の動きだって。
はっきり見えなくとも「存在する」以上は、軌道を算出できる。
応答に従って、減速。『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が投げかけてくる莫大な情報に脳が悲鳴をあげ、視野が徐々に狭まっていくのを感じながらも、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を通した演算を続ける。
一発、二発、三発。立て続けに投げかけられる針を、慣れない操縦でぎりぎり避けたところで、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に再度の要求を叩き込む。莫大な情報量に頭が締め付けられ、かき乱された意識で同調を失いつつある『エアリエル』の船体が傾ぐのがわかる。それでも、それでも。
「……頼む」
今、一度だけは。
この船を基地に帰す力を、俺に寄こせ。
一欠け残った理性で、光の矢を、放つ。演算を経て放ったはずの光の矢は、しかし『ロビン・グッドフェロー』がいる空間を貫きながら、その鞘翅の一部を穿っただけであることを、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の応答で理解する。
緊急回避――!
本来「|隠密《ステルス》」に割り振っている力を「機動」に変換する、『ロビン・グッドフェロー』の、たった一度だけの全力の回避行動だ。
読まれていた。こちらの動きの変化に瞬間的に反応した。俺の「能力」を知っているトレヴァーだからこその判断に、背筋が冷えると同時に、意識が遠ざかっていく。
まだだ、まだ早い。せめて、ここを切り抜けて基地までは戻らないと――。
その時、失意に満ちた声が、意識の片隅を震わせる。
『君……、ゲイルじゃないね?』
揺らぐ視界に、緊急回避に際して|隠密《ステルス》を解いた『ロビン・グッドフェロー』の姿が見えた。思ったよりもずっと近くに漂っていた、霧と同じ色をした船は。
『ねえ、どうして君がそこにいるんだい、オズ?』
あくまで冷ややかに、|俺の名《、、、》を呼んだ。
空言ミストノーツ
読上
1-24:トレヴァー・トラヴァース
その顔は俺からは見えてこそいないが、つり上がった細目を更に細め、口を裂けんばかりに吊り上げて。
『さあ、ボクの愛した君を見せてくれよ、ゲイル!』
心底嬉しそうに笑ってることくらいは、想像がつくってもんだ。
「右に転回!」
セレスに指示を飛ばし、『エアリエル』の探知網の範囲を狭める代わりに感度を上げる。
もう、ここからは勘の勝負だ。
何しろどれだけ目を凝らしたところで、『ロビン・グッドフェロー』の姿は見えない。消音記術で音すらも消して迫る相手を見つけるなんて、どだい無理な話だ。
気配もなく放たれる針型弾――|魄霧《はくむ》の充填動作が探知されやすい記術兵装でなく、『ロビン・グッドフェロー』に内蔵された物理兵装――を間一髪でかわし、声を上げる。
『おい、ざっけんなトレヴァー! 手前、いつ教団に寝返った!』
『寝返ったなんて人聞きの悪い』
トレヴァーの声が、四方八方から響く。通信の出所も綺麗に隠すから性質が悪い。
とはいえ、トレヴァーの居所がまるっきり「わからない」かというと、そういうわけでもない。
本来、敵陣の拠点爆撃を目的に造られたという|隠密《ステルス》攻撃|翅翼艇《エリトラ》『ロビン・グッドフェロー』は、性能を豪快に|隠密《ステルス》に振り切っているお陰で、それ以外の基本性能は他の|翅翼艇《エリトラ》に数段劣る。空対空に特化した『エアリエル』が全力で飛べば追いつけないし、『オベロン』のように広範囲に攻撃することも、遠くの敵を狙うこともできない。
故に、適当な距離を保ってさえいれば、攻撃が飛来するタイミングと位置で、相手の位置を推測することは、かろうじて不可能ではない……はず、なのだ。
白い海のどこかに潜むトレヴァーは、俺たちが肩を並べていた頃と何も変わらない、夢見るような口ぶりで語る。
『一度は船を降りたのは本当だよ。飛べない君に価値はない。そんな君を見て、ボクもすっかり萎えちゃってさ』
トレヴァーは、三年前、『原書教団』との抗争終結とほぼ同時に姿を消した。教団との戦いの末に撃ち落されたとばかり思っていたが、実際は、俺が重傷を負って飛べなくなったと知って姿を消してた、ってわけか。
完璧に軍紀違反なわけだが、それを「萎えた」って一言で済ませる辺り、この変態の変態ぶりが伺える。これだから|霧航士《ミストノート》にはろくな奴がいないんだ。
『だって、ボクは君と飛ぶために|霧航士《ミストノート》でい続けたんだよ? 自由に海を行く君を、ずっと間近で見ているために。でも』
――あの日、ゲイルの翼は、折れた。
『ゲイルのいない海なんて、いらないよ』
そう言ったトレヴァーの言葉は、どこまでも真っ直ぐで、純粋だ。純粋だからこそ、手に負えない。
トレヴァーにとって、|霧航士《ミストノート》という肩書きは手段に過ぎない。ゲイル・ウインドワードという|霧航士《ミストノート》と『エアリエル』という|翅翼艇《エリトラ》を間近で観測するための。
『愛するもののいない、海なんて』
そして、トレヴァーの愛とは、ゲイル・ウインドワードという個人に向けられたものじゃない。奴の愛が注がれる先は、そいつが「飛ぶ姿」ただ一つなのだ。
『でもね』
すぐ側を、針がかすめる。間違いなく、位置は近い。セレスに絶えず意識で指示を送りながら何度も『ゼファー』を撃ちこんでいくが、どうしても手ごたえがない。
『教団の再建とか何とか言ってる連中がさ、教えてくれたんだ。「エアリエル」が飛んでるって。ゲイルが、飛んでるんだって。ボクの興奮をわかってくれるだろう? この熱を、昂ぶりをさあ!』
つまり、トレヴァーにとっては『原書教団』に与することすら手段でしかない、ってことだ。
これは確かに、「寝返った」って言葉は正しくなかったな。
こいつは、こいつ自身の欲望を満たすために、俺の前に現れた。今までも焦がれて望み続けていたであろうことを、ついに実行に移した。ただ、それだけの話。
『ねえゲイル、ボクはね、一度でいいからこうしてみたかったんだ』
トレヴァーは、肌に絡みつく熱っぽい吐息の錯覚と共に、恍惚の声を吐き出す。
『何度も、何度も何度も何度も夢見るほどに。君と本気でぶつかり合いたかったのさ!』
今度こそ、針が、『エアリエル』の尾の辺りを掠める。確実に、こちらの動きが読まれ始めている。俺の方は、あいつの攻撃の出を読みきれてないってのに――!
「被弾しました。速度を上げます」
「セレス、だが」
「振り切るには、これしかありません」
わかっている。わかってはいるのだ。俺たちが生き残るには『ロビン・グッドフェロー』を上回るスピードで、奴の攻撃から逃れ続ける必要がある。
だが『エアリエル』が放つ警告が俺にためらいを生む。セレスの耐久限界は、刻一刻と迫っている。セレスが逃げ切っている間に、俺が、奴の動きを見切らなければならない。
わかっている――、のに。
頭の片隅が痺れて、上手く動いてくれない。
かつて、あいつはどうしていた。俺はどうしていた。振り切りたくてもどうしても振り切れない、振り切ってはいけない「それ」が、思考にブレーキをかける。
「ゲイル……?」
相手はトレヴァーだ、出し惜しみして勝てる相手ではないと「知って」いる。
だからこそ、俺は未だ全ての手を明かせずにいる。
「加速します」
俺の動揺を察したのか、セレスは俺の答えを待たずに『エアリエル』を加速させる。びりびりと船体に響く震えは、セレス自身の緊張と恐怖と、それ以上の覚悟の表れだ。俺には越えられない一線を、軽々と飛び越えて飛び続ける。
見えないトレヴァーを前にしても、迷いはなく。俺には見えない針の出を回避し続ける。セレスにも見えているわけではない、ただ、『エアリエル』を通して研ぎ澄まされた感覚と、数合の打ち合いから判断した「勘」に違いない。
空言ミストノーツ
読上
1-23:霧を纏うもの
俺の指示に応えて、セレスは勢いよく翅翼を羽ばたかせる。こちらの動きに気づいた戦闘艇が、『オベロン』から『エアリエル』に照準を移すが、セレスは俺の指示に忠実に従って、ばらばらに飛び交う弾の間を、荒々しい動きで縫ってゆく。
「派手に飛べよ、奴らの目を奪うんだ!」
俺たちが奴らの気を引いていうるちに、敵陣に向けて鱗粉を撒いた『オベロン』の、広範囲対空爆撃が炸裂する。いくら装甲を積んでいるとはいえ、『エアリエル』に警戒して接近をためらう連中は、『オベロン』の圧倒的火力に晒され、やがては霧の海を照らす花火になる。
そして、果敢にも近づいてきた奴らは、俺たちが確実に落とす。
セレスは『エアリエル』の速度を上げ、時には急激に落とし、敵の群れの中を自在に飛んでゆく。恐れを振り払うかのごとく、力強く、伸びやかに。周りの連中が静止して見えるほどに。
この海の全てが、セレスのためにあると錯覚するほどに。
――だが。
「セレス、少し抑えろ、汚染警告が出てる」
船体との同調率が上がれば上がるほど、船の性能を引き出せると同時に船体から受ける影響も上がる。要は、人体の許容量を超える|魄霧《はくむ》を取り込むことになる。
いくらセレスの体が|魄霧《はくむ》汚染への抵抗力を持っていたとしても、限界はある。『エアリエル』が伝える数値は、セレスの肉体がついに|魄霧《はくむ》許容量をオーバーし、侵蝕が始まったことを示していた。
しかし、セレスの答えは。
「問題ありません」
俺の魂魄の内側に、青い軌跡を描く。
「肉体は替えが利きますから。まずは、戦いを終わらせるべく、全力で飛びます」
反論しかけた俺の口を塞ぐように。セレスは少しだけ、笑うような気配を見せる。
「ゲイルと、基地に帰るために」
――ここで消える気はない、と。
セレスは言外に宣言する。
俺はその言葉に何も言えなくなる。つい最近までの俺は、いつ『エアリエル』の内側で蒸発してもいいと思っていた。今だって、それが変わったわけじゃない。セレスを任されたからここにいるだけで、セレスが俺の「目」すら必要としなくなれば、俺の役目は終わる。
だから、いつどこで消えたって、仕方がないと思っていた。
なのに、セレスは、俺との「帰還」を無邪気に信じている。
俺がここにいることを、当然と信じている。
やめよう。理性を総動員させて頭に浮かびかかったイメージをかき消し、目の前の船を落としにかかる。それと同時に、もう一つ、最大の懸念を探り続けるのも忘れない。
俺の勘が正しければそろそろのはずだが、未だ、動きはない。
どこから湧いて出たかもわからない、亡霊のような船たちは、それでも着実に数を減らしていく。その数を減らした奴らも、『オベロン』の金色の鱗粉に巻かれ、次の瞬間には火の玉に変わった、と思った途端。
『……くっ!』
突然、散布されていた『オベロン』の鱗粉が霧散する。ジェムの集中が途切れた? いや、違う――!
『退け、ジェム!』
警告があまりに遅すぎた、と気づいた次の瞬間、『オベロン』の腹が弾けた。
『が……、あっ!?』
船体と限界ぎりぎりで同調していたはずのジェムの悲鳴が魂魄に響く。俺たち|霧航士《ミストノート》は、船体の痛みを己の痛みと同等に感じるのだ、相当の苦痛に違いない。
とはいえ、あの冗談みたいな訓練を潜り抜けただけはある。痛覚を一旦意識の外に追いやったらしいジェムの、存外明朗な声が響く。
『損害は軽微、です! 一体何が……!?』
翅翼から散布される黄金の鱗粉は、敵を殲滅する武器であると同時に、船体への照準をあやふやにする「防壁」でもある。それが、何とか急所への攻撃を逸らしたのだろう。
だが、絶対に、次は無い。
混乱をきたすジェムに、せめて、言葉だけでも届けなければならない。
『新手だ! 観測隊を連れて逃げろ、お前の手には負えない』
『何故ですか! 自分はまだ戦えます!』
『頼むから退いてくれ、追撃、来るぞ!』
ジェムは俺の切羽詰った声に何かを察したのだろう、今まで兵装制御に割り振っていた同調領域を飛行能力に突っ込み、黄金の翅を羽ばたかせる。が、それでも遅かった。不可視の二撃目が『オベロン』の頭部を掠めて、弾ける。
頭部は「目」を司る。つまり、|翅翼艇《エリトラ》の霧を見通す目が失われた以上、戦闘継続は絶望的だ。ジェムも己の置かれた状況を理解したのか、苦痛の滲む声で『すみません』とだけ告げ、観測隊と共に基地へと飛び去っていくのを意識の片隅で捉える。
それでも、嫌な予感は、消えない。
予感だけじゃ、意味がないってのに。
「何が起こっているのです? 周囲に敵船の気配はありませんが」
「すぐわかる。とにかく加速だ!」
俺の命令の意味は、セレスには伝わらなかったと思う。それでも、セレスは俺の言葉に忠実に従い、一気に『エアリエル』を加速させる。
刹那、背後で、霧を裂く気配。それは俺の目には全く見えていなかったが、一瞬でも判断が遅れていたら『エアリエル』の船体に突き刺さった「針」であることは明らかだった。
今回はぎりぎりのところで読み勝ったが、次は――。
『やあ、ゲイル。久しぶりだね』
魂魄に飛び込んでくる声。肌をざらりと舐めるようないやらしい響きの、遺憾ながら「よく知っている」声。
『誰、ですか?』
『おや、君はゲイルじゃないのかい? よく似た飛び方をしているから、ゲイルだとばかり思ってたよ』
わたしは、と言いかけたセレスの口を塞ぐ。それから、つい先ほどまでジェムとの会話に使っていた、|翅翼艇《エリトラ》同士のために用意された帯域に捻じ込まれる、懐かしい声に応える。
『よう、トレヴァー。悪ぃが俺様は療養中でな、今は「翼」じゃねーんだ』
トレヴァー・トラヴァース。
俺の同期、第二世代|霧航士《ミストノート》。三年前のフォーサイス戦から|翅翼艇《エリトラ》艇、|霧航士《ミストノート》ともども行方知れずで、記録上は死亡とされた第六番|翅翼艇《エリトラ》『ロビン・グッドフェロー』の主。
そして、俺の独断と偏見によるろくでなし|霧航士《ミストノート》ランキング、堂々一位の変態だ。
その理由はいたって簡単。
『そんな! 今度こそ君の大事なとこに、熱く滾るものを突き刺して』
『やめろ変態サブイボが立つ』
とにかく、言うこと全て気色が悪いのだ。残念ながら、数年という時間はトレヴァーの語彙を変えるには至らなかったらしい。含み笑いの気配と共に、トレヴァーのねっとりとした声が知覚を蝕む。
『だって、こうでも言わなきゃ、君への思いは伝わらないじゃないか。ああ、ボクのスーツの下を見せてあげたいよ。限界にまで張り詰めたこの』
『セクハラで訴えんぞ』
まあ、訴えるよりも先に俺たちかトレヴァー、どちらかが海に沈むわけだが。|魄霧《はくむ》の海で邂逅するというのは、そういうこと――と言っても、トレヴァーとその愛機の姿はどこにも見えない。影も形も。
だが、トレヴァーとはそもそも「そういうもの」だ。
俺の知覚を通して相手の姿が確認できないことを察したセレスが、「なるほど」と声を上げる。
「これが『ロビン・グッドフェロー』。|翅翼艇《エリトラ》唯一の|隠密《ステルス》艇ですね」
「わかってるなら話は早い」
そう、こいつは|隠密《ステルス》艇をも捉える『エアリエル』の目を逃れる唯一の例外。
|翅翼艇《エリトラ》のずば抜けたスペックを九割九分「|隠密《ステルス》」に割り振った、「完全不可視」の船だ。
「気張れよセレス。こいつは――」
俺の知っているトレヴァー・トラヴァースは、ろくでなしで、変態だが。
「強い」
俺が知る中で、最も|翅翼艇《エリトラ》の扱いが「上手い」男だ。
空言ミストノーツ
読上
1-22:警戒と恐怖
『油断すんな、相手が戦闘艇のみとは限らねーんだ、制御だけに気を取られんなよ』
『何をおっしゃいますか、大尉! 油断などしておりませんよ!』
まあ、ジェムの反応はおおむね予想通りではある。それでも、ジェム一人ではこの場を切り抜けることはできない。絶対にだ。
『おっと、次の波が来ましたね』
ジェムの言うとおり、『エアリエル』の広域視野にも、どこから現れたのかもわからん教団の戦闘艇が映り込んでいる。ジェムが『オベロン』の翅を羽ばたかせ、ゆらりと動いたのを横目に、指示を飛ばす。
「セレス、『オベロン』の懐まで飛べ」
了解、という声とほぼ同時に、セレスは息つく間もなく『オベロン』のすぐ側、ほとんどお互いの翅翼が触れ合うくらいの位置に飛び込んでいた。きっと、あいつなら「かわいげのない飛び方」と言うに違いない、無駄も遊びもない動きで。
『危険です、大尉!?』
少しばかり『オベロン』の手前に出ていたからだろう、ジェムの警告が飛ぶ。いくら爆撃の方向や範囲を制御できても、対象そのものを指定できるわけではない。自ら『オベロン』の放つ鱗粉の只中に飛び込めば、間違いなく巻き込まれる。
だが、俺にだってこの位置を取らなければならない理由がある。
視野は三百六十度、だが意識は七時の方向に。
見逃すことのできない違和感に向かって、引き金を引く。
青白い光弾はゆるい曲線を描き、そこに存在する、霧に紛れて接近していた敵の|隠密《ステルス》艇を穿っていた。それと同時に接近をはじめていた戦闘艇の隊列が乱れ、敵陣の広域通信が意識の中に滑り込んでくる。
『……|隠密《ステルス》艇、一隻撃墜を確認!』
『作戦と違うぞ、どうなっている!』
にわかに焦りを帯びる、名前も知らない誰かの声に、俺は笑い声と共に返してやる。
『悪いな、どこぞの教主様じゃなくても、このくらいは見えんだよ!』
俺たちの船『エアリエル』には『オベロン』のような|翅翼艇《エリトラ》に固有の兵装は存在しないし、汎用兵装は貧弱、装甲も紙っぺら同然だ。だが、その分「飛ぶこと」に特化している。そして「飛ぶこと」を補助する知覚にも。わざわざ「目」のために二人目の操縦士を必要とする程度には、『エアリエル』の知覚能力は他の翅|翅翼艇《エリトラ》を遥かに上回っているのだ。
故に、『エアリエル』に|隠密《ステルス》は通用しない。他の|翅翼艇《エリトラ》は誤魔化せても、『エアリエル』の目は欺けない。
――ただ、一隻を除いては。
『も、申し訳ありません、大尉!』
ジェムの慌てた声に、俺は意識して口の端を歪めて返す。
『だから、油断するなって言っただろ? 広域攻撃って性質上、懐に入られると弱いのは、お前も知らないわけじゃないでしょ』
『うう……、すみません……』
『ま、俺らは広域殲滅には向かないからな。お互い様ってこった。お前は目に見える船の殲滅に専念しろ、俺たちが守るから』
ジェムは一瞬、呆気にとられる気配を醸し出した。が、すぐに嬉々とした声が返ってくる。
『はいっ! お任せください!』
ジェムの返事を聞くと同時に、『エアリエル』の船体が大きく傾ぎ、霧を蹴って一気に浮上する。回避行動。セレスがもう一隻いた|隠密《ステルス》艇の一撃を回避したのだ。
「ありがとな、セレス」
「はい。砲撃よろしくお願いします」
青い声に応えて、視界の端に引っかかっていた、ぼやけた輪郭として映る|隠密《ステルス》艇に狙いを定める。周囲の魄霧に溶け込もうとしても、『エアリエル』の前では裸も同然。足元から追いすがろうとするそいつに、光の矢を叩き込む。
一射目、二射目は掠めただけだったが、三射目が操縦席を穿ったらしい。がくん、と減速したそいつは、そのまま声もなく霧の海に沈んでいく。
……とはいえ。
『恐れるな』
『我らが教主を奪い、空言を語る英雄ゲイル・ウインドワードを、それに与する者全てを許すな』
『教主の予言に従い「人形」を滅ぼせ』
『もうすぐ奴も到着する、女王国の狗どもに、我らの正義を見せる時だ』
通信装備が貧弱なのか、対象を限定することもなく絶えず海に垂れ流されるノイズ交じりの通信が、『エアリエル』を通して俺の魂魄を震わせる。
振りまかれる『オベロン』の圧倒的火力を、誰一人として逃さない『エアリエル』の機動力を前にしながら、連中は全く退こうとはしない。勝ち目がないってことを決して認めようとはしない。
「……馬鹿だな。命ってのは、そうやって使うもんじゃねーだろ」
だが、それこそが『原書教団』という連中だ。原書――世界で唯一「正しい」女神の啓示を与えた教主オズ某が、今もなお連中を縛っている。まるで亡霊だ。いもしない亡霊に囚われ、もう一度現れるのだと疑わないそいつらに、哀れみすら覚える。
とはいえ、哀れだからといって手加減してやる道理もない。そんなことを考える余裕があれば、背中の辺りから離れない、二つの「嫌な予感」について思考を巡らせるべきだ。
一つ目は、予期される脅威が、未だ気配すら掴めないこと。
そして、
『意外と、粘りますね』
ジェムの呟きが意識の片隅を掠める。
そう、『オベロン』の爆撃に晒されながらも、連中はなお前進を続ける。これこそが、もう一つの嫌な感覚の正体だ。
『あの型の船にしては妙に遅いと思ったが、どうも速度を殺して装甲を厚くしてんな。あの様子だと、霧避けも入ってんぞ』
『……つまり「オベロン」と「エアリエル」への対策ということですね』
物理装甲に、|記術《スクリプト》の媒介――つまり『オベロン』にとっての起爆剤となる周囲の魄霧そのものを薄める装備。ジェムの言うとおり、火力こそあるが一点に攻撃を集中できない『オベロン』と、そもそもの火力が低い『エアリエル』に対しては、単純ではあるが有効だ。通常の戦闘艇じゃ速度で『エアリエル』に勝てるわけがないのだから、潔く速度を切り捨てて防御を固めるのは賢いと言っていい。
だが、それこそが、おかしいのだ。
俺の疑問をよそに、戦闘艇に守られながら、対地兵装を積んだ一回り大きな攻撃艇二隻が徐々に迫ってくる。あいつらが基地に到達した時点でこちらの負けだ。
今までの高揚から一転、通信越しに不安げな気配を滲ませるジェム。まあ、初めての実戦なんだ、当然の反応だろう。
『そのまま攻撃を続けろ、迷わなくていい』
『しかし』
『少しくらいのイレギュラーはあって当然、それすらも圧倒的な実力差でねじ伏せるのが|翅翼艇《エリトラ》と|霧航士《ミストノート》ってもんだ。油断は禁物だが、自信を持て。言っただろ、お前は飛べるんだから』
ジェムは、一瞬の沈黙の後、『はい』としっかりした声で応えた。なら、俺はその言葉を信じるだけだ。
愚直に金色の鱗粉を散布するジェムを意識の片隅に残しながら、周囲の探査を並行させる。新たに迫る二隻一組の|隠密《ステルス》艇が投げかけてきた機銃掃射をセレスが大きな弧を描くことで回避、正面に向き直ったところで、『ゼファー』を一気に撃ち込む。
そんな、ほとんど「作業」ともいえる動きをこなしながら、そっと『エアリエル』の内側に語りかける。
「セレス、お前は平気か」
「大丈夫、です」
大丈夫。まあ、大丈夫ではあるだろう。『エアリエル』がよこしてくる情報を参照する限り、セレスの肉体、魂魄共に異常なし。徐々に船内の汚染度は上がりつつあるが、戦闘継続は十分可能な範囲だ。
ただ『エアリエル』を介してセレスと繋がってる俺からは、青い水面の上に凛と立つセレスの薄い肩が、微かに震えているように見えたのだ。
「怖いのか?」
こわい。セレスが俺の言葉を復唱する。その間にも、もう一隻残された|隠密《ステルス》艇から放たれる銃弾が『エアリエル』を掠める。当たったわけではないが、きっと、船体と同調するセレスには「痛み」として感じられたはずだ。
俺が、確認できる最後の|隠密《ステルス》艇を撃ち落としたその時、セレスは声を落として呟いた。
「……少しだけ」
ぽつり、落とされた端的な言葉に含まれる動揺が、波紋となって広がる。
恐怖。そんな感情がセレスにあるとは、当初は思いもしなかった。セレスと出会ったあの日、|翅翼艇《エリトラ》を自在に操るその姿に、勝手にそう思い込んでいた。羨みすらした。
だが、そうではない。そうではないのだ。
あの時は、別の船に乗っていたから伝わらなかっただけで。今と同じ、もしくはそれ以上の恐怖を抱えて必死に飛んでいたに過ぎないのだと、初めて理解した気がした。
飛ぶのは楽しい。海は自由だ。ただ、戦場はそれだけでできてはいない。剥き出しの熱狂、背筋が冷えるほどの殺意。それらを肌で受け止めながら飛ぶというのは、ただ飛ぶのとは別の緊張を強いられる。
俺は経験上、そんなものは「当たり前」と認識しているけれど、セレスはそうではない。それでも、セレスはあくまで凛として。
「でも、ゲイルが『見て』いてくれるから、大丈夫です」
そう、言ってのけるのだ。
「……そう、か」
セレスに信頼してもらえるのは素直に嬉しい。だが、同時に鈍い痛みを覚えずにはいられない。体の内側の、もしくは魂魄の柔らかい部分がじくじくと膿んでいるような錯覚。
セレスの声を聞くたびに、あの日からずっと癒えない見えない傷が、ここぞとばかりに存在を主張するのだ。忘れるなと。己の手で、全てを台無しにしたあの日を忘れるなと。
もし次にそうなるとすれば、失われるのはきっと――。
脳裏に閃く嫌な想像を瞬き一つで追い払い、己を奮い立たせるべく、意識して声を出す。
「行くぞ!」
空言ミストノーツ
読上
1-21:戦場の金色
ゴードンの言うとおり、『エアリエル』は既に発着場に引き出され、乗り手を待っていた。おやっさんが腕組みして、いつもより更に険しい顔つきで俺たちを迎える。
「来たな。準備はできている。今すぐ飛べるぞ」
「サンキュ、おやっさん!」
セレスの手を借りて、副操縦席に乗り込む。ヘルメットをかぶり、同調器を繋げてシートに身を預け、一息で『エアリエル』の内側に潜る。
目の前に広がる鮮やかな情報の海の中から、『エアリエル』によって選別された情報を読み込んでいく。セレスとの同調率は六十パーセントそこそこを推移。『エアリエル』の離陸に問題なし。
「行けるぞ、セレス」
「了解です。『エアリエル』、飛びます」
セレスの声と同時に、青く輝く翅翼を展開した『エアリエル』はふわりと霧の海へと浮かび上がる。
風の歌に導かれてゆっくりと上昇しているところに、通信が入る。付与された識別番号が基地司令部であることを確かめて、回線を開く。
『「エアリエル」、聞こえるな』
『ああ、聞こえてる』
『はい、聞こえています』
聞こえてきたロイドの声は、普段の女言葉を封印した司令モードだ。そりゃそうだろうな、この状況下じゃ。
『三分前、迷霧の帳付近で、ジェムと観測隊が船籍不明の攻撃艇と戦闘艇の集団と交戦を開始したのを確認した。至急加勢しろ。座標は今送った通りだ』
声と同時に受け渡される情報をセレスと共有しながら、内心で舌打ちする。
観測隊の船は戦闘を想定していない。『迷霧の帳』の探査という役割上「自衛」と「撤退」のための兵装しか積んでいないはずだ。
そして我が基地の数少ない戦力の一つ、第八番『オベロン』は事実上最強と目される|翅翼艇《エリトラ》ではあるが、何しろ実験段階の上に、操縦者が実戦経験ゼロときた。飛ばすだけでも魂魄を削るあの船を、兵装含めて自在に操るにはまだ遠い。
とはいえ、ジェムは俺らの中でも抜群の同調適性と術式能力を持つ、|翅翼艇《エリトラ》共々規格外の|霧航士《ミストノート》だ。飛行能力を犠牲にして最大火力で固有兵装を展開すれば、大体の相手は追い払える。『オベロン』とジェムというのは、そういう類のコンビだ。
――だからこそ、嫌な予感が拭えないのだ。
「急ぐぞ、セレス」
「はいっ」
セレスは『エアリエル』を加速させる。魂魄には、緊張などの感情の乱れは見えない。セレスにとっては『エアリエル』で初の実戦だが、これなら後は俺さえしっかりしてれば何とかなりそうだ。
空気そのものを切り裂く感覚を全身で感じていると、ロイドの張りつめた声が響く。
『もう一つ。大尉、確かに伝言は受け取った。情報に間違いないか』
『町で、トレヴァーらしい奴の目撃情報があった。明確な証拠はねーが、俺様の勘じゃほぼ確実。奴が生きてて、わざわざサードカーテンを目指してきたとすれば、想像できることは一つだろ』
ロイドは露骨に舌打ちして、低く唸るような声で言う。
『了解だ。セレスティア、念のため第六番|翅翼艇《エリトラ》の襲撃に警戒しろ』
『第六番……、「ロビン・グッドフェロー」ですか?』
流石はセレス、現行の|翅翼艇《エリトラ》の名前は全部把握してたか。
『そうそう、あのゴキブリ艇だ』
『あのねえ、あれはタマムシがモデルよ……?』
知ってるよ、わざと言ってんだよ。
一瞬素に戻ったロイドは、咳払い一つでモードを切り替えて続ける。
『警戒したところで無駄かもしれんが、「いる」と想定して、被害を抑えることに専念しろ。現場の判断はウインドワード大尉に任せる』
『おいおい、責任重大だな』
『だが、お前にしかできないことだ。健闘を祈る』
――これは、やっぱり、わかって言ってんだろうな。
思うことはあるが、状況は熟考を許しちゃくれない。ロイドからの通信が切れると同時に、セレスが言った。
「指定海域に突入します」
「了解。視覚切り替えるぞ」
一気に『エアリエル』の情報精度を引き上げる。三百六十度を捕捉する複眼が、俺の魂魄に霧を見通した三次元の世界を映し出す。
慣れないうちはこの、人の視覚とは根本的に異なる空間認識に酷い酔いを覚えるもんだが、セレスは俺から流し込まれる情報にも動揺一つ見せず、淡々と処理していく。
「『オベロン』と観測船団を確認。ゲイル、いかがいたしますか」
「そのまま突っ込め」
我ながら雑な指示を飛ばしながら、基地所属船向けの帯域に調整した通信を投げ込む。
『聞こえるか、こちら「エアリエル」! 現着した、状況を説明しろ!』
『来たか、ゲイル! 遅すぎるぞ!』
観測隊隊長のブルースが、いやに軽い調子で声をかけてくる。
遅すぎるってどういう意味だ、とは、問うまでもなかった。一目見ただけで状況は理解できたから。
観測船団の前には、金色の翅翼がそれこそ視界を覆うかのように広がっていた。
――『オベロン』。
普段よりも数倍に膨らんで見えるそれは、固有兵装を展開している姿であり、実際に翅翼が巨大化してるわけではない。そう見えるのは、『オベロン』の翅翼から、金色の鱗粉を思わせる粒子が無数に散布されているからだ。
俺は模擬訓練データでしか見たことはなかったが、こうして『エアリエル』の目で改めて見ると、粒子一つ一つに込められている圧縮されたエネルギーが見て取れる。
放たれた金色の粒子は、『オベロン』自身が生み出した空気の渦を伝い、突出していた戦闘艇の一団にまとわりつく。
次の瞬間、粒子に篭められたエネルギーは、『オベロン』から放たれる命令記術により熱へと変換され、戦闘艇を次々と霧の海を照らす火の玉に変えてゆく。それは、さながら霧の海に咲く、色鮮やかな花火を思わせた。
「あの、あれが、固有兵装なのです? |記術《スクリプト》型の広域爆撃、ですか」
戸惑いを含むセレスの囁きが魂魄を揺さぶる。そういえば、セレスは他の|翅翼艇《エリトラ》の操縦訓練はしていても、固有兵装を目の当たりにしたことはなかったか。特に『オベロン』は試験段階であり公開されている情報も多くない。当然の疑問だろう。
「正確に言えば『オベロン』は汎用攻撃|翅翼艇《エリトラ》でな。超大型の翅翼を部分的に分解して、望んだ形に再構築する、言葉通り『何でもあり』な船だ」
翅翼そのもの。それが『オベロン』の持つ固有兵装だ。
通常、|翅翼艇《エリトラ》の翅翼は機体内で魄霧を圧縮し、「飛ぶ」という命令を与えて構築する。『オベロン』は、その「飛ぶ」という命令に他の命令を差し挟み、翅翼を他の形状に変えることができる。詳細はわからんが、魄霧圧縮機関と、命令を処理する解析機関が相当できるやつなんだと思っている。
が、当然ながら、制御はめちゃくちゃ難しい。いくら機関が有能でも、それを制御し、使いこなすのは船体を支配する|霧航士《ミストノート》だ。ジェムはそんなピーキーな船を操れるという点で、あまりにも希有な|霧航士《ミストノート》なのだ。
通信越しに、ブルースが口笛を吹く。
『いやあ、噂は聞いてたがすごい火力だな。お坊ちゃまの晴れ舞台って感じだ』
『……だろうな』
わかっている。乗り手の統制もろくに取れてないおんぼろ戦闘艇が相手なら、『オベロン』の敵ではない。
だが、俺が危惧しているのは、そんなことじゃあないのだ。
『おい、ジェム! 聞こえてるか!』
『はいっ! 申し訳ありません、|記術《スクリプト》制御に魂魄領域を割り当てており、お返事が遅れました。ウインドワード大尉、セレスティアさん、加勢感謝いたします』
――しかし、と。
付け加えたジェムの声は、明らかに高揚している。
『ここは自分に任せていただいて問題ありません。女王国が誇る|翅翼艇《エリトラ》、その第八番「オベロン」の力を見せつけてやります』
空言ミストノーツ
読上
1-20:這い寄る影
弛緩していた意識を引き締めて、先刻までセレスの手を握っていた右手で、上着の下に隠した銃の握りに手をかける。|魄霧《はくむ》充填型の|記術銃《スクリプト・ピストル》。指も自由に動かない俺が、かろうじて陸の上で使える唯一の武器だ。
そのまま、セレスが消えていったという方角に走る。――と言っても、靴底を引きずりながらの早歩きにしかならないが。
ああ、畜生。こんな時こそ『エアリエル』があれば。あんなデカブツじゃどうしようもないのも事実だが、ろくに動かない脚に比べたら『エアリエル』の方がよっぽど自由だ。
杖を握る左手に力が篭る。この間にも、セレスは遠くに連れ去られているんじゃないか。嫌な想像ばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。
そして、ガキが言った「裏道」に差し掛かったところで響く鈍い音と、呻き声。思わず痛む足を叱咤して、ひときわ細い道に飛び込む。
「セレス!?」
「あ、ゲイル」
耳に届いたのは、セレスのあくまで淡々とした声。
セレスは、細い道の真ん中に、俺が目を離す直前までと変わらぬ姿で立っていた。唯一変わっているのは、ポケットに、砂糖菓子の瓶が押し込まれていること。
そして、セレスの足元には、男が倒れている。その手にはナイフが握られているものの、白目を剥き、完全に気絶している。
セレスは這いつくばる男を見下ろしながら、てちてち歩み寄ってくる。
「刃物を突きつけられたため、加害意志ありと判断し防衛行動を取りました。問題ありませんか?」
「お、おう。問題ありませんね……?」
こいつ、こんな華奢な体で肉弾戦もできるのか。焦った俺が馬鹿みたいだ。
――とはいえ。
右手に隠し持っていた銃を抜き放つ。俺が突然動いたのに驚いたのか、目を丸くするセレスから目を離さず、銃口だけを背後に向け、二回、引鉄を引く。
悲鳴が、聞こえた。振り返ると、路地の角から体の半分を覗かせていたもう一人の男が、火薬式拳銃を取り落として膝をついていた。手から血が流れているところを見るに、狙い通りに手を撃ち抜けたらしい。外していたら、まず俺の頭か胸に風穴が開いたはずだ。
セレスが、ぱちぱちと二、三度瞬きをした後、大して驚いた様子もなく言う。
「ごめんなさい、気づいていませんでした」
こいつには、恐怖心、ってもんがないのか。とはいえ危険に晒されていたということは理解しているのか、申し訳なさそうに眉を下げる。別に、俺に対して申し訳なく思わなくていいんだよ。
「や、俺様も油断してた。何とか気づけてよかったよ」
いやはや、腕の力が入らないこの状態で、狙いを外さなかったのは奇跡みたいなもんだ。褒めてつかわす。どうせ誰も褒めてくれないから。
「しかし、後ろも見ずに、よくわかりましたね」
「ああ、窓に映ったのが見えてな」
もちろん嘘だが、手の内をセレスにはともかく、連中に聞かせてやる理由もない。突然のことで混乱してるんだろう、俺らから視線を外し、血まみれの手で銃を拾い上げようとする野郎を蹴飛ばし、頭を踏みつけ、地面にキスさせてやる。もちろん、銃を蹴って手の届かないところに追いやるのも忘れない。
「教団の残党か……、いや」
一拍置いて気づいた。俺はこの顔を知っている。
「金物屋のおっさん?」
相変わらず名前は知らないが、町で金物屋を営むおっさんだ。この前は朗らかに笑いかけてくれた四角い岩のような面が、今は血を滴らせながら俺を憎々しげに見上げていた。
「ゲイル、救国の英雄……。やはり我々の邪魔をするのか」
「『我々』ってことは、おっさんも、『原書教団』の信者か」
とすると、今セレスにのされた奴も、町の人間だろうな。いくら外の影響が少ない町だからって、教団の手が伸びてないわけじゃなかった、ってことか。
――もしくは、俺がサードカーテン基地にいるからこそ、か。
療養のためにこっちに移動したってことは公表していないが、情報ってのは必ず漏れるもんだ。ついでに、ついこの間『エアリエル』で教団の偵察船とその護衛を落としたばかりだ、もはやバレバレに決まってる。
つい苦いものを噛み締めたような気分になりながらも、おっさんが教団の信者であるなら、聞いておかなければならないことがある。
右手の銃で頭を狙いながら、おっさんを見下ろして問いかける。
「なあ、おっさん。あんたが信者だってんなら、聞かせろよ。教団は滅びた、教主も教典も失われた。なのにどうして今更動き出した」
「答えると思ったか?」
「期待はしてねえ。だが、セレスを攫おうとした理由くらいは教えてくれてもいいんじゃねーの?」
「セレス? ああ、その『人形』か」
おっさんは、血の滲む口元を歪める。その目は、俺の向こうに、俺ではない誰か――それこそ教主様を見ているかのような、恍惚とした光を帯びていて。
「先日、教主オズワルドが新たな原書を読み解き、我らに告げたのだ。その『人形』こそが、世界に新たな嵐を呼ぶ存在であると」
「……は?」
『原書教団』の教主様は、とっくのとうに死んでいるはずだ。
確かに、ごくごく稀に、肉体を失っても魂魄だけが「幽霊」として魂魄界に留まり、物質界にも何らかの影響を及ぼすことはある。だが、ことオズ某に関しては、それは絶対にあり得ないと言い切れる、はずなのだ。
なら、このおっさんは一体何を言っている?
「聞け、狂騒の担い手、戦乱を運ぶ青き翅よ! 我らが教主オズワルドは、女神の原書は、未だ失われてはいない。この世界に静寂をもたらすその時まで不滅なのだ!」
どうして、教主様と教典が「不滅」だと言い切れる?
あの日からずっと頭を支配していた鈍い痛みが、にわかに強まる。どうして、どうしてお前の影が消えてくれないんだ、オズ?
その時、唐突に甲高い音が割り込んできた。何だ、と思う間もなくセレスが俺の袖を引く。
「通信機、です」
セレスの青い目に見つめられて、頭に上っていた血がすっと引く。確かに、これは腰に提げた通信機の音だ。しかも緊急警報じゃねーか。頭は冷えたが、同時に嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
「ゲイルだ。どうした!」
通信機を取って呼びかければ、いつになく激しいロイドの声が耳に飛び込んでくる。
『すぐ戻れ、敵襲だ!』
「……っ!」
かろうじて「了解」という言葉だけ吐き出して、セレスに視線を投げる。セレスも通信機からの声は聞こえたのだろう、張り詰めた気配を漂わせて、こくりと頷く。
だが、そんな中で、螺子のゆるんだ笑い声が路地に響く。それは俺の足の下で這い蹲っているおっさんの声だった。どろりとした色の目で俺とセレスを睨めつける野郎は、何がおかしいのかげらげら笑いながら言う。
「どうする、ゲイル? お前はまた、暴力をもって新たな狂騒を生むのか? 惨劇の嵐を霧の海に生み出そうというのか?」
――遥か遠くを目指す。最初は、ただ、それだけだったのに。
頭の中によぎる、|魄霧《はくむ》の海を見上げていた、遠い日の横顔を振り切って。
「黙れ」
もう一度、足を、振り下ろす。足元で変な声が漏れたが、それきり何も言わなくなった辺り、おそらく気絶したんだろう。
同時に響く、急ブレーキの音。見れば、窓から身を乗り出したゴードンが顔面蒼白で俺たちに手を振っていた。
「ゲイル! 基地に帰るっすよ! ……って、その人たちどうしたんすか!?」
「こっちも襲われたんだよ! こいつら縛り上げるから手伝え!」
完全に後手だが、何もしないよりはマシなはずだ。ゴードンとレオの手を借りて襲撃者を縛って荷台に押し込め、セレスを促して後部座席に飛び乗る。
ハンドルを握るレオは、俺が扉を閉めるか閉めないか、というタイミングで車を急発進させた。人を跳ね飛ばさないか不安になりながらも、車のシートに身を預ける。
霧に霞む町が飛ぶように後ろに流れていくのを見るともなしに眺めながら、つい、考えずにはいられない。
――本当は、俺が飛ぶべきではないか。
教主様周りの話はさっぱりだが、教団がセレスを狙っていることだけははっきりした。ならば、わざわざ教団の連中の前にセレスを出すより、俺が飛んだ方がセレスのためじゃないか。
「ゲイル、不安ですか」
セレスの声が、俺の視野に青のイメージを生む。
窓から視線を戻せば、セレスがこちらを見つめていた。
「そりゃあな。……なあ、セレス、今回は」
「わたしが、飛びます」
言いかけた言葉を遮って、セレスは言い切った。
「ゲイルが何と言っても、わたしが飛びます」
セレスは、じっと俺の目を覗き込んでいる。俺の言いたいことなどお見通しだと言わんばかりに。
確かに、俺は、飛んではならない。『翼』でいるには、あまりにも限界に近すぎる。それでも「俺が飛ぶ」と言い切ればいいのだ。既に飛ぶ理由を失ったこの俺が、身を惜しむ理由なんてどこにもない。
だが、理性の一部が、この捨て鉢な感情に待ったをかける。
ああ、畜生。結局、進むにも退くにも中途半端な俺が、言えることはたった一つなんだ。
「そうか。……頼む」
「はい」
セレスが頷いたところで、車が急停止した。投げ出されそうになるセレスを何とか捕まえて、改めて前方を見れば、既に見慣れた基地の一角だった。
「『エアリエル』の準備はできてるみたいっす! 俺らは後ろの連中引き渡してきます!」
「了解、着替えたら飛ぶぞ、セレス!」
「はいっ」
セレスを連れて車を飛び降り、窓から顔を出すゴードンに指示を飛ばす。
「荷物は置いてく。サヨからの頼まれもんだから、後で渡しといてくれ」
「了解っす!」
結局セレスの服まで買いきれなかったが仕方ない、次の機会――もしあれば、だが――にしよう。セレスに手を引かれるまま部屋に戻ろうとしたが、一つ、危うく忘れかけていたことを思い出した。下手すると、教団の襲撃なんかよりよっぽど厄介なことを。
「そうだゴードン、至急ロイドに伝えろ、『トレヴァーが来てる』って!」
「は? トレヴァー?」
ゴードンの反応は正しい。俺だってそれだけ言われたら「何言ってんだ」で済ませるところだ。だが、俺の懸念が当たっていれば、ロイドには知っておいてもらう必要がある。
「いいから伝えろ、ロイドならわかるから!」
「りょ、了解っす」
「色々悪いな。後で飯奢るぜ、生きて帰ったらな!」
縁起でもない、という声を背中に受けながら、セレスと駆け出す。嫌な予感は止まないが、今はただ、目の前にある脅威に対応するしかない。
――それしか、今の俺にできることはないのだから。
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1-19:瓶詰の宝石
「なんだい、久しぶりじゃない、ゲイル!」
――助かった。
つい、そう思ってしまったことに罪悪感を覚えたが、セレスが俺から視線を外して声の聞こえてきた方に顔を向けたので、俺もとっとと意識を切り替える。
「よう、おばちゃん。元気してた?」
声をかけてきたのは、商店街で菓子屋を営むおばちゃんだ。名前は知らないが、この基地に転属して最初に町に下りた時から、毎度声をかけてくれる気のいい人だ。
背は低いが横に広い体を揺らす、赤い巻き毛のおばちゃんは、エプロンをかけた丸々とした腹を突き出して豪快に笑う。
「おかげさまで、旦那と子供ともども元気だよ。そっちは、近頃忙しいのかい?」
「別に、忙しい、ってわけでもねーんだけど。色々あってな」
暇を持て余して町に下りてきたくらいだから、忙しいわけじゃない。俺にとって「色々あった」だけの話だ。その「色々」の主な内訳であるセレスは、俺の手を握ったまま、じっとおばちゃんを見つめている。観察している、と言うべきか。
おばちゃんも一拍遅れてセレスに気づいたらしく、「おや」とどんぐり眼を瞬かせる。
「あんたが子供連れなんて珍しいね」
言いながら、おばちゃんはすすす、と俺の側に寄ってきて、焼き菓子のいい香りをさせながら囁く。
「まさか……、隠し子?」
「ねーよ! まかりまちがってもこんな大きな子供は作れねーよ!」
ついつい動揺してしまった俺を、おばちゃんは豪快に笑い飛ばす。
「あはは、冗談さ。でも基地にこんなかわいい子がいるなんて初耳だね。この子も軍人さんなのかい?」
「まあ、そんなもんだ」
正確には「備品」だが、その辺りは言っても理解してもらえるとは思えないしな。
明らかに軍人に見えないセレスを見ても、おばちゃんはそれ以上の詮索をしてはこなかった。基地に逃げてきた当時の俺も、時計台の公私に渡る熱狂的な視線に辟易していたから、おばちゃんを始めとした町の連中の素朴さには随分救われている。
おばちゃんはぺこりと頭を下げるセレスに朗らかに笑いかけ、「ちょっと待ってな」と道を挟んだ自分の店に引っ込んだかと思うとすぐに戻ってきて、ちいさな瓶をセレスに手渡した。
「よかったらお食べ」
「いただいてよいのですか?」
流石に「ものを手に入れるには金を払う必要がある」程度の常識は備えている――もしくは今日俺を見て学んだらしい――セレスは、小首を傾げる。
「お近づきのしるし、ってやつさ。気に入ったらまた来てちょうだいな」
セレスは、一瞬呆気に取られたように口を半開きにして、手の中に納まった瓶に視線を落とす。瓶の中に詰まっているのは、色とりどりの砂糖菓子だ。霧払いの灯を受けて輝くつややかな菓子は、宝石か何かにも見える。
じっと瓶を見つめていたセレスは、唐突に顔を上げた。その顔に表情らしい表情は見えなかったが、「嬉しい」のだろうなということは、
「ありがとうございますっ」
という声の弾み方で明らかだった。
セレスと顔を合わせた当初は無愛想な奴と思ったがそうじゃない。人並みの感情表現がわかっていないだけ、というのが近頃の感想だ。
おばちゃんも満足げに微笑んでセレスの頭を帽子の上から撫でた。何だか知らないが、セレスの頭は特別撫でやすいようにできているらしい。
瓶を光に透かすセレスはとりあえず横に置き、折角町に下りたのだから、聞いておきたいことがあったのだ。
「そういやおばちゃんさ、最近、基地の連中でも町の住人でもない顔って見た? こいつ以外で」
ぽんぽん、とセレスの帽子を叩く。ここ数ヶ月の間、セレス以外に基地に新人は入っていない。そしてこの島は、外界との交流をほぼ絶っている。もし「見ない顔」がいたなら、すぐにわかるはずだ。
おばちゃんは「うーん?」と首を傾げてから、ぽんと手を打った。
「そうだねえ、何となくゲイルに似た雰囲気の兄さんなら見たよ」
「あ? 俺様に似た雰囲気?」
「顔かたちは全然違うんだけど、不思議と『似てる』って思ったんだよね。見た感じあんたと同じくらいの年頃なんだけど、真っ白な髪で、手足がひょろりと長いのっぽの兄さんだったんだけど」
俺と同じくらいの年頃で、白髪にやたらと手足の長い長身痩躯の男。俺と雰囲気が似ているなら、|魄霧《はくむ》汚染の可能性がある。汚染が進むと、肉体に画一的な汚染の特徴が現れるからだ。肌の色が抜けたりとか、目の色が変色するとか。
そして、そんな特徴にぴったり合致する奴を、俺は一人だけ知っている、の、だが。
「町の人じゃないし、外からの商人にも見えなかったから、基地の新人さんかと思ったんだけど、違ったのかい?」
「似た奴は知ってるけど……」
そいつは死んだはずだ。最低でも、俺の認識では。とはいえ、オズ某ほどの確信が持てない以上「死んだ」と言い切れるわけでもない。特に、そいつに限っては百人が「死んだ」と言ってもそれを信じていいのかわからない類なのだ。
「どうしたんだい、ゲイル。顔色が悪いよ」
じゃあ、もし、奴が生きていたとしたら。生きていながら、今の今まで姿を眩ませていたのだとすれば、奴は――。
「あっ、ゲイルだ!」
甲高い声によって思考が遮られる。嫌な予感を覚えてそちらを見れば、見覚えのあるガキどもが徒党を組んでこっちに走ってくるところだった。
「ゲイルー! この前のお話の続き聞かせて!」
「帝国の機関巨人が攻めてきたとこからだよ!」
「違うだろ、たった一人で船団を壊滅させる話だろ!」
「うおおお引っつくな! 飛びつくな! 髪も引っ張るな、ハゲるじゃねーか!」
特に髪はやめていただきたい、この髪やたら抜けやすいんだ。これだから人工ものはいけない。まとわりつくガキどもを引き剥がそうと試みるが、何しろ次から次へと飛びついてくるもんだからきりがない。
「ええいお前ら落ち着け、落ち着けっていってぇ! 今足踏んだの誰だ!?」
睨みをきかせるが、ガキどもはけたけた笑うばかりで話にならない。くっそ、サヨも言ってたな、お前には威圧感やらカリスマやらが根本的に足らないって。
俺の腰の辺りに引っ付いているガキが、頬を膨らませて言う。
「だってゲイル、なかなか町に来てくれないんだもん」
「わかったわかった俺様が悪かった! だが俺様は! 買い物の途中なんだ! 終わるまで待て!」
――って、ちょっと待て。
「……セレスは?」
もみくちゃにされてる間に、帽子をかぶった姿が忽然と消えていたことに気づく。そういえば、セレスが砂糖菓子の瓶を受け取った時点で、俺はセレスの手を離していたじゃないか。
その時、少し離れた場所からわっと泣き声が聞こえた。見れば、背の低い癖っ毛のガキ――確か細工物屋の息子――が、その場にしゃがみこんでいる。今まさに石畳の上で転んだのだろう、手のひらと膝には血が滲んでいた。
そちらに駆け寄って、ざっと状態を確かめる。怪我は大したものじゃないが、どうも、走ってきて転んだって感じにも見えない。他のガキどもも様子がおかしいことに気づいたのか、転んだガキの周りに群がってくる。
「おい、どうした?」
俺の問いかけに、細工物屋のガキは、激しくしゃくり上げながらも口を開く。
「飛び出してきた変なおじちゃんが、突き飛ばしてきたんだ。それで、そこに立ってた、帽子のひとの手を掴んで走ってった」
「……マジかよ」
一瞬目を離した隙にこれか。おばちゃんに変なこと言われたせいで、子供を持つ父親ってこんな感じかな、とか考えちまうが、現実逃避をしてる場合じゃない。
「そいつ、どっちに逃げた?」
あっち、とガキは血の滲む手で道の先を指す。
「裏道を、曲がってった」
「ありがとな。痛かっただろうに、よく見てたな。助かったよ」
うん、と頷くガキは、涙を溜めながらも少しだけ落ち着いたようだった。俺は呆気にとられていた菓子屋のおばちゃんに声をかける。
「おばちゃん、ちょっとこいつ見てやってくれ!」
「あ、ああ」
おばちゃんが頷いたのを目の端に捉えて、杖に体重をかけて立ち上がり、ガキたちを振り切って走り出す。
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1-18:町へ
今日も賭けチェスに興じていたゴードンとレオに車を出してもらい、町に下りてゆく。霧避けを施した窓越しでも、周りの風景はおぼろげにしか見えないが、それでもセレスにとって基地の外は初めてだ。べったりと窓に張り付き、変わり行く景色を見つめている。
――基地の足元に広がる町の名は、フィオナという。
そもそもこの島は、百年ほど前、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》の調査中に発見された島だ。フィオナ町はその時点で既に存在していた、いわゆる「先住民」の町である。島が女王国に編入されてからの歴史は浅いが、フィオナの住人は「余所者」である基地の軍人たちも、おおらかに受け入れてくれている。
「じゃ、買い物終わったら連絡よろしくっす」
「おう、送ってくれてありがとな」
ゴードンたちも整備隊の連中に買い出しを頼まれているようで、俺たちを降ろした足で基地とは反対方向に走っていく。テールランプが霧にまぎれて見えなくなったところで、杖に重たい体を預ける。言い出したのは俺だが、早めに買い物を済ませて楽になりたいところではある。
「よし、まずは、サヨからの頼まれものを片付けちまうか。……セレス?」
道行く連中の邪魔にならないようにセレスの肩を引き寄せてやると、きょときょとと辺りを見渡していたセレスがぱくりと口を開いた。
「ふおぉ」
「お、おい、大丈夫か?」
「人がいっぱいいますね。すごいですね。目が回ります。すごいですね」
顔だけはいつもの無表情ながら、声は緊張と興奮で上ずっていた。なるほど、セレスは民間人の「町」自体が初めてだったか。これは今回ばかりは俺がしっかりしないとダメらしい。内心の不安をセレスには見せないよう、今まで寝癖を隠すようにかぶっていた帽子を脱ぎ、セレスの青い頭にかぶせる。
「う?」
「お前の髪は目立つから、それかぶってろ。あと、歩いてる間はどっか掴んどけ、はぐれたら困る」
特に、俺は足が悪いんだから探し回るにも苦労するわけで。賢明なセレスは俺の言いたいことを一発で理解してくれたらしく、こくりと頷いて、大きすぎる帽子を目深にかぶりなおした。
そして。
ひんやりとした指先が、俺の手に絡む。セレスの指は、あまりにも細く、透けるように白く、力を加えたら折れてしまう硝子細工のよう。霧の海を力強く飛ぶ|翅翼艇《エリトラ》の主とは思えない、つくられものの繊細さを改めて思い知る。
「行きましょう、ゲイル」
その声は、普段よりも弾んで聞こえた。『エアリエル』に乗っている時のそれと似ていて微笑ましい。
商店街の、霧払いの街灯の下、片手に杖を、片手にセレスの手を握る。手が空かないからサヨのメモをセレスに預け、頼まれたものを買いそろえていく。少しずつ増える荷物の袋を腕に提げたセレスは、店のショーウインドウを一つずつ丁寧に覗いていく。
「ゲイル、これは何ですか?」
という、疑問符つきで。
今、セレスが青い目で覗き込んでいるのは、玩具屋のディスプレイだった。色とりどりのぬいぐるみが並ぶ中で、ひときわ大きなアザラシのぬいぐるみが、霧の海を泳ぐかのように、天井から吊るされている。
「アザラシだろ」
「はい、それは知っています」
なるほど、セレスの知識は「魄霧の海を飛ぶ」ことに偏っているから、海を泳いだり飛んだりする生物は知ってるのか。生態を知らないと、探知できても避けられないからな。
「生きていますか? 死んでいますか?」
「いや、ぬいぐるみだよ。綿を布で包んで縫った、つくりもの」
「ほう。よくできています。この鳥や獣もぬいぐるみですか」
そうだよ、と頷いてやる。セレスはもう一度「ほう」と鳴いて、ウインドウに額をくっつけた。今までは質問が終わった時点で次の店に目が行っていたが、ここはどうもセレスのお気に入りらしい。
「お前、こういうの好きなの?」
「はい。かわいいと思います」
かわいい。セレスの口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。普段何事にも頓着しないから「かわいい」という言葉も知らないものとばかり思っていたが、そういうわけでもないらしい。
「そういや、どんなものが好きかって、今まで聞いたことなかったな」
「飛ぶために必要なこと以外、考えたことがなかったので」
いつものセレスらしい端的な答えだ。ただ、いつもと違って今回は続きがあった。
「しかし、かわいいものは、いいものであると感じます。これが『好き』なのだというならば、『好き』なのだと思います」
今日のセレスは妙に饒舌だ。しかも、まだセレスの言葉は続いていたのだ。
「わたしは、かわいらしいものが好きです。ゲイルは、何が好きですか?」
そう来るか。いや、来るだろうなとは思っていた。俺がセレスの好きなものを知らなかったように、俺も自分の好みについてセレスに語ったことはないんだ。
「飛ぶのは好きだぞ」
「それは知っていますので、それ以外が聞きたいです」
「だよなぁ」
だが、唐突に「好きなもの」を聞かれてもなかなか困るのだ。いくつか思いつくものはあるけれど、それが本当に俺の好きなものと言っていいのか、考えずにはいられない。
ただ、一つだけはっきりしているものがあるとすれば。
「青って色が、好きかな」
「空の色、ですか。『向こう側』の色」
「それだけじゃない。霧の薄い日に見渡す湖の深い青とか。『エアリエル』と同調している時に見える、霧を払う冷たい風の色だとか」
俺にとって「青」がいくら痛みの記憶を伴っていても、悪夢そのものであっても、嫌いにはなれない。絶対に、嫌いになんかなれないのだ。
セレスは「なるほど」と頷いて、ショーウインドウから視線を外して俺を見上げる。
青よりもなお青い、瑠璃色の瞳で。
「では、ゲイルは、わたしが好きですか?」
青いですよね、と付け加えて――、笑った、ような気がした。
思わず瞬きしてセレスをまじまじと見るが、笑ったように見えたのは一瞬のことで、今はただ無表情に俺を見つめるばかりだ。
これは……、何と答えるべきなんだ?
セレスを嫌いと思ったことは一度もない。だが「好き」と言い切ることには抵抗がある。セレスは、単純に「色」からの繋がりで「好き」かどうかを聞いているだけで、それ以上の意図があるわけではない、の、だろうが。
「ゲイル?」
もう一度。セレスが俺の名前を呼ぶ。
俺は、少しだけセレスの手を握る力を強め、
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1-17:ささやかな休暇
最初の実機訓練から三日が経過した。
教団の残党に動きはなく、時計台から連絡があるわけでもない、変わり映えのしない訓練の日々。
セレスと『エアリエル』で飛ぶのは楽しいが、一日に何度も飛ぶわけにもいかない。いくら|正操縦士《プライマリ》のセレスが|魄霧《はくむ》耐性を持っていて、|副操縦士《セカンダリ》側の汚染リスクが|正操縦士《プライマリ》より低いとはいえ、魂魄に負担がかかるのは間違いないのだから無理は禁物だ。
当然、暇な時間は増えていくばかりであって。
「つまり、何か面白いことねーかなって」
何だかんだ、セレスが来てからは欠かさず顔を出している朝のミーティング。寝癖でどうしようもなく跳ねまくっている髪を撫でつける俺に対し、ロイドがミラーシェード越しにもわかる慈愛と哀れみの笑みを浮かべる。
「そんなに暇なら、町にでも下りる?」
「……町、ですか?」
セレスが不思議そうに首を傾げる。今日のセレスの服は、サヨのお下がりのブラウスに、チェックのスカーフ。それと、下もサヨが色々用意してくれはしたんだが、俺が普段履いてるやつが気に入っちまったのか何なのか、サスペンダーで吊るして無理やり履いている。それでも、まあ、最初よりはよっぽどマシな見目になっただろう。
――とはいえ。
「外出許可くれるなら、セレスの服とか仕入れてくるぜ」
やっぱり、服は体に合ったもんが一番だ。それに、しばらくセレスと一緒にいて、足らないものもいくつかある。生活必需品っていうのは、案外その時になってみないとわからないものだ。
ロイドは「それもそうね」と苦笑してひらひらと手を振る。
「いいわよ。セレスティアも町は初めてでしょうし、今日一日は好きになさい。ただ、基地内ならともかく、町では何が起こるかわからないんだから気をつけなさいよ」
「はい」
そんな大げさな、と言いたいところだが、別に大げさじゃないから困る。あれから音沙汰ないとはいえ、教団の残党はどこに潜んでいるかわかったもんじゃない。四年前だって、当たり前の生活を送っていたはずの連中が、教団の構成員として粛々とテロの準備を進めてたんだ。
すると、今まで「気をつけ」の姿勢で俺たちの話を聞いていたジェムが、唐突に馬鹿でかい声をあげる。
「大佐! 危険が伴う以上、自分も是非ウインドワード大尉に同行させて」
「ダメよ」
「なっ、何故ですか!?」
「|霧航士《ミストノート》が全員基地から消えて、教団の連中に攻められたらお手上げじゃない」
何しろサードカーテン基地は、女王国軍の防衛拠点ではなく、あくまで迷霧の帳の観測拠点だ。その性質上、基地全体では武力らしい武力を保有していない。女王国軍の決戦兵器たる|翅翼艇《エリトラ》が二隻もあるのは、元|霧航士《ミストノート》ロイド司令が「教育」や「療養」って名目で|霧航士《ミストノート》を囲い込んでるからに過ぎない。
ついでに、基地の|霧航士《ミストノート》も実戦経験の無い半人前が二人に引退済みが一人。あとぎりぎり現役と言いたいほぼ戦力外が一人、つまり俺だ。このうち|翅翼艇《エリトラ》に乗れる三人が三人ともいなくなったら、基地は瞬く間に陥落する。ロイドの判断は、どこまでも正しい。
ジェムとて「正しい」ということはわかってるんだろう、ロイドの言葉に異論を差し挟むことはなかった。歯ぁ食いしばって、拳握り締めてふるふるしてるけど。こいつの謎の情熱には、一定の評価を与えたい。それが俺に関わりさえしなければ、だが。
「まあまあ、何か土産買ってきてやるから、んな残念そうな顔するなって」
「ふあっ、お、お、お土産ですかっ!? ウインドワード大尉が、自分にお土産を! ありがとうございます! 絶対に家宝にします!」
うん、言うんじゃなかったな。どうしようこれ。
期待はすんなよ、と念のため言い置き、他に話がないことを確かめて司令室を後にすると、横合いから声が聞こえた。
「おや、セレスティア……と、そのおまけじゃないか」
「おまけとは失礼な」
そちらを見れば、白衣姿のサヨがそこにいた。そのでかい胸は今日も白衣の下から強く存在を主張している。そして「おまけ」の俺を完全に無視して、セレスと向き合う。
「そのブラウス、あたしがあげた奴だね。なかなか似合ってるじゃないか」
「はい。ありがとうございます」
セレスはぴょこんと頭を下げる。サヨはそんなセレスがかわいくて仕方ないらしく、青い頭を両手で撫で回す。そんな犬猫みたいな扱いはやめてやってくれないか、気持ちはよくわかるが。
「でも、やっぱりサイズは大きいね」
「だろ。だから町に下りて、色々仕入れてこようと思ってさ」
俺が言うと、やっとサヨの視線が俺に向いた。相変わらずセレスへのそれとは正反対の絶対零度っぷりではあるが、ほんの少しだけ、普段の冷たさが和らいだような気がする。――何か、心境の変化でもあったのだろうか。
「外出許可出たんだ? なら買い物頼まれてくれない?」
「喜んで。ただし、俺様とセレスの手で持てる範囲でな」
自慢じゃないが俺の筋力は子供以下だ。サヨはやれやれとばかりに首を振って、胸ポケットから取り出したメモ帳に何かを書きつけ始めた。
俺が考えていたより遥かに多くの品物を書き込みながら、サヨが囁くように言う。
「血色よくなったね」
「そうか?」
「ああ、いいことだ。やっぱりあんたは、人の世話してるときが一番安定する」
皮肉か、と思ったが、俺を見上げる目に冗談の色は見えなかったから、案外本気で言ってるのかもしれない。
確かに、セレスが来てからは、悪い夢を見る機会は減っていたし、仮に見たとしても、思い悩むことが減っていたのは間違いない。
――それが本当に「いいこと」なのかは、俺にはわからないけれど。
「はい。無ければ無いで構わないよ」
サヨは、俺の胸元に破ったメモを押し付けてきた。何かびっしり書いてあるんだが、本当に遠慮を知らないなこいつは。
それでも、頼ってもらえるだけマシだな。こう言うのもなんだが、サヨに頼られるのは悪い気分じゃないのだ。
「りょーかい。じゃ、行ってくる」
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1-16:誰かの見た夢
その言葉と同時に、『エアリエル』が辺りに漂う霧を喰い始める。内燃機関に取り込まれた霧は、鈍い咆哮と共に『エアリエル』の背に青い二対の翅翼を生み出す。演算機関が走らせる記術によって、物理的な法則を無視して「飛ぶ」という力を与えられた飛行翅。
その非実体の翅が『エアリエル』の船体をゆっくり持ち上げるのを確かめる。視界に映る各種数値に異常なし、このまま飛ばして問題なさそうだ。
「セレス、今日はあくまで試験飛行だ、十五分制限で行くぞ」
「十五分制限、了解」
俺の言葉を抑揚の無い声で繰り返し、セレスは『エアリエル』の翅を一度、感覚を確かめるように羽ばたかせる。その一打ちで、『エアリエル』は|魄霧《はくむ》の海の只中に打ち上げられる。
見渡せば、三百六十度の白の中。俺たちはたった二人きりで、鋼の箱の内側から世界を眺める。
「ゲイル、わたしは、どう飛べばいいですか」
セレスの、戸惑いの声が響く。
そういえば、模擬訓練ではほとんど指示らしい指示はしてこなかった。俺が『目』の訓練に専念していたせいで、セレスの方まで手が回っていなかった、というのが正しい。
だが、今日は初めての実機での訓練だ。訓練艇『レディバード』以外に初めて乗る、正規型番を持つ|翅翼艇《エリトラ》。操作性はほとんど|仮想訓練《シミュレーション》と変わらないとはいえ、経験者の意見を仰ごうと思ったのだろう。
とはいえ、俺に言えるのは、一言だけだ。
「好きに飛べ」
「え?」
「好きに飛んでいい。俺様はずっとそうしてきたし、お前にそうしてほしい」
それは、いつのことかも忘れてしまった、遠い日の記憶。
『霧の海は自由だ』
そう言ったあいつの横顔を、思い出す。
実際には、|霧航士《ミストノート》という肩書きを持つ以上、俺たちはどこまでもしがらみにまみれた存在だけれども。今、霧の海で『エアリエル』に抱かれているこの瞬間だけは、しがらみからも、体の重さからも解き放たれて、自由に飛べる。飛んでいいのだ。
だから――。
「お前の飛び方を見せてくれ、セレス」
「……はいっ!」
その瞬間、セレスの声が、魂魄が、色を変える。深く静かにたゆたう青から、鮮やかな光はらむ青へと。それと同時に『エアリエル』が加速し、天蓋に向けて舞い上がる。
セレスの魂魄は船体の隅々に行き渡り、その翅翼の先端までをも支配して、『エアリエル』を躍らせる。『エアリエル』も霧を喰う激しい音を響かせながら、セレスの無茶とも言える指示に従って、時に矢のように鋭く、時に落ちる木の葉のように柔らかな動きで、霧の海を行く。
荒っぽいながらも、伸びやかな。飛ぶというシンプルな喜びを、『エアリエル』という名の翼持つ身で体現している。
それは、俺が今まで忘れようとしていた『エアリエル』の本来の飛び方。
海を行く風の歌を掴み、踊るように舞う、二対の翅翼。
二度と俺がこの身で感じることができないと思っていた、霧を裂く感覚。
ああ、と。思わず、声が漏れていた。
叫びだしたいような、泣きたいような、奇妙な感覚を押し殺す。今、強い感情を表に出してしまえば、セレスにそのまま伝わってしまうから。この感情の意味を聞かれても、きっと、俺には答えられなかったから。
高く、さらに高く。遥か彼方、誰一人として届いたことのない高み目掛けて、『エアリエル』は風と共に目には見えない階段を駆け上っていく。
――が、そろそろ、俺も役目を果たさなければならない。
「気をつけろ、高度限界が近い。天蓋に飲まれんぞ」
はい、と。少しばかり慌てた声が返ってくる。これは、俺が手綱握ってないと危ないかもしれない。こいつ、落ち着いてるように見せかけて、高揚すると周りが見えなくなるっぽいな。
「あの、ゲイル」
ゆるやかに『エアリエル』を降下させながら、セレスが言う。
「行きたいところがあります。よいですか?」
「制限時間内に行って帰ってこれるなら、ご自由に」
セレスは「すぐそこです」と言って『エアリエル』を加速させる。
確かにそれは「すぐそこ」だった。セレスが『エアリエル』を減速させ、空中で静止させたのは――。
「……迷霧の帳、か」
迷霧の帳。サードカーテン基地の西方に存在する霧の壁。女王国の最西端を意味するその霧の壁は、物言わず俺たちの前に立ちはだかっている。
この壁の先を、人の目で見通すことは不可能だ。否、「人の目」でなくともその向こう側を見通すことは叶わない。|魄霧《はくむ》を透かして、遥か彼方まで「見る」ことができるはずの『エアリエル』の目にも、それはただ白い塊としてしか映らない。今まで魂魄を通して聞こえていた風の歌も止み、完全な静寂に満たされている。
あまりにも濃い霧は、何もかもを拒絶する。何しろ人は|魄霧《はくむ》なしには生きていけないが、濃すぎる|魄霧《はくむ》には耐えられない。|翅翼艇《エリトラ》がいつか必ず乗り手を殺すように、肉体には|魄霧《はくむ》の許容限界がある。
だから、帳の向こう側は、未だ謎に包まれている。何があるのか、それとも何もないのか。何もかもが霧に包まれたままなのだ。
「で、こんな何も無いとこに、何の用だ?」
「……ゲイルには、お話ししておきたいと思ったんです」
ぽつり、と。セレスが言葉を放つ。青い波紋が広がるイメージと共に。
「わたしの、本来の運用目的を」
「本来の?」
「はい。元々、人工|霧航士《ミストノート》は戦闘用に開発されたわけではありません。戦闘用という触れ込みは、あくまで製作者が軍から開発許可と資金を得るための『建前』なのだそうです」
|翅翼艇《エリトラ》は女王国の決戦兵器であり、それを操る|霧航士《ミストノート》も戦闘用であってしかるべきだ。だが、それが「建前」だとしたら、一体、何のために?
いや、あえて問うまでもないのだと、一拍遅れて気づく。俺の目の前に立ちはだかっているものは何だ。誰一人としてその先を知らない、迷霧の帳じゃないか。
「……まさか、『探査用』なのか」
それならば「|魄霧《はくむ》への抵抗力を持つ」「替えの利く」肉体の意味も変わる。セレスのあり方は試行なのだ。前人未到の、迷霧の帳を越えるための。
「はい。今はまだ争いが完全には終結していないため、戦闘行動を命じられていますが」
俺の意識の内側で、セレスが、瑠璃色の瞳で帳を見据えているのが、ありありと感じ取れる。
「戦争が終わったら、わたしは帳の向こうに行くのです」
帳を見据えるセレスが何を思っているのか、何を感じているのか、俺には伝わらない。恐れているのか、喜んでいるのか、全く別の感慨を抱いているのか、それとも何も感じていないのか。何一つとしてわからない。
わからない、けれど。
「いいな」
「え?」
「いいなあ。うらやましい」
本当は、こんなこと言ってはならないのもわかっている。言ったところで、セレスとは違う、単なる人の身では到底叶わない。
それでも――、それでも。言わずにはいられなかった。
「俺も、見たいと思ってたんだ。帳の向こう側」
セレスが、俺を振り返る。もちろん俺の目にセレスの姿が見えていたわけではない。ただ、そういう「気配」があった。
「ゲイルは、向こう側に、何があると思いますか?」
その問いに対し、真っ先に浮かんだイメージを条件反射的に言葉にしていた。
「青い、空」
たどたどしく繰り返すセレスに小さく頷いて返す。
「誰かさんが、言ってたんだ。この世界のどこかには霧が晴れた場所があって、青空が、広がってるって」
つい、いつもの癖で誤魔化すような言い方をしたけれど、セレスには伝わってしまったのだと思う。一呼吸分の間をおいて、問いかけの声が投げかけられる。
「オズワルド・フォーサイス?」
「まあな」
「知っています。彼が夢に見た、天空の青も」
ぞくり、とした。
天空の青。それが一枚の絵の名前であることを、俺は、知っている。記憶にちらつく無数の青い絵の中で、唯一、名づけられたものであったことも。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、セレスは、あくまで淡々と、青い声を焼き付けてゆく。
「わたしの製作者、アニタ・シェイクスピア博士は、わたしに一枚の絵を見せて言いました。かつて、霧の晴れた場所を夢見る人物がいた。しかし、夢見た風景を『天空の青』と呼び、カンヴァスに描いた彼は、今はもうどこにもいない。誰も彼の言葉の真偽を確かめられない。それが、何よりももどかしいのだと」
そうだ、どこにもいない。いるわけがない。他でもない俺が葬ったのだから。
だが、何もかもをこの手で葬り去ったはずの俺の前に現れたセレスは。
「故に、その場所をこの目に焼き付けることが、製作者がわたしに課した役割であり、そこにあるかもしれない空の色が、わたしの名の由来なのです」
俺が捨てたはずのものを、いくつも、そのちいさな体に抱え込んでいたのだ。
胸の奥で、何かが軋むような音がする。鈍い痛みと、それ以上の熱を感じながら、こみ上げるものを飲み下す。気づいてはならない。意識してはならない。俺は俺自身の意志で葬り去ることを選んだんだ、それ以上を願っては、ならない。
ああ、今の俺は、どれだけ上手く笑えてるだろう。そんなことを思いながら、かろうじて、言葉をひねり出す。
「……あの頃の絵は、全部、燃やしたはずだったんだけどな」
とは言っても、あれが「全部」でなかったことくらいはわかっていた。オズ某は青い世界を描くことに固執しながら、完成したものには頓着しなかった。だから気づいた時にはあちこちに散逸してしまっていて、俺が火をつけたのはそのうちのいくつかに過ぎない。
「ゲイルが、彼の絵を処分したという話も伺っています。……何故、処分したのです?」
「見るのが辛かったから。それだけだ」
これは、嘘でも何でもない。
あの頃、毎日向き合っていた青い絵は、俺の、俺たちの飛ぶ理由そのものだった。だからこそ、二度と叶わないとわかっているそれを、目の当たりにするのは辛い、というだけの話。
セレスは、もう一度、俺たちの前に立ちはだかる帳に目を戻す。その向こう側を透かし見るように。
「彼には見えていたのでしょうか。あの帳の向こう側も」
「……さあな」
本当に、青い空が見えていたのか。それがこの向こう側にあるのか。
俺にはわからない。わからないのだ。
それきり、俺たちの間に言葉は絶えて。
残された時間が尽きるまで、『エアリエル』の駆動音を聞きながら、今はまだ越えることのできない場所を見つめていた。
空言ミストノーツ
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1-15:実機訓練
――その、青空の色とよく似たセレスは、発着場に引っ張り出された『エアリエル』の、|正操縦士《プライマリ》席に収まっていた。
元々俺と相棒が乗るために調整された座席は、当然セレスには大きすぎたのだが、いつの間にやら整備隊の手によって新しい小型のシートが用意されていた。足元も踏み台が取り付けられていて、準備は万全だった。実際にセレスを座らせてみれば、何もかもがぴったりだった。怖いくらいに。
そんなセレスと俺の様子を見守っていた整備隊を代表して、ゴードンが俺にまとわりついてくる。ガキのまんま大きくなったようなそばかすの散った顔を、満面の笑みにして。
「どうっすか、ゲイル! 我ら整備隊の力作っすよ!」
「まあ、お前ら暇だもんな……」
「いやあ、そんなしみじみ言われると、悲しくなるっす……」
俺の言葉に打って変わってしゅんとするゴードン。
だって事実じゃねーか。お前、この前だって仕事サボってブルースと賭けチェスに励んでたじゃねーか。俺もちょくちょく仲間に混ざってる身だが。
「ゲイル」
後ろからの声に振り向けば、ツナギ姿のおやっさんが怖い顔をして立っていた。と言っても、おやっさんの顔が怖いのはいつものことだ。
「よーう、おやっさん。悪いな、座席の改修なんて専門じゃねえだろ」
「お前の言うとおり暇だから構わんさ。それより、あの子が新しい|霧航士《ミストノート》か」
「ああ。見た目はガキだけど、腕は俺様が保証する。セレス」
小動物じみた動きでシートの座り心地や同調器の位置を確認していたセレスが、俺の声に応えてぴょこんと座席から飛び降りてきた。全身を屈めて危なげなく着地し、てちてちといつもの足音を立てて俺の横に並ぶのを確認してから、おやっさんの方に向き直る。
「このしかめっ面のおっさんが、サードカーテン基地整備隊の隊長、ヴィクター・ロスだ。俺様はおやっさんって呼んでる」
「『エアリエル』操縦士、人工|霧航士《ミストノート》試作型セレスティアです。ロス隊長、よろしくお願いします」
「おう、よろしく」
おやっさんがごつごつとした手を差し伸べると、セレスはその手をそっと握り返す。大きさも形も違いすぎて、同じ「手」というカテゴリでくくられるのが不思議なくらいだ。
ついでなので、他の面々も改めて紹介しておく。ゴードンは一度会ってるからともかく、演算機関専門のレオと翅周りを得意とするジャック。あと、この場にはいないのが数人。
俺の説明をふんふんと黙って聞いていたセレスだったが、俺が言葉を切ったところで、少しばかり眉を下げて言った。
「……すぐには、覚えられないかもしれません」
そりゃそうだ。一発で何もかもを覚えられるのは、それこそ人間を半分辞めてたどこぞのオズ某くらいだ。
「名前を覚えんのは後でいいけど、『エアリエル』を飛ばせるのは整備隊がいてこそだってことは忘れんなよ。船を使う奴と、整えてくれる奴。お互い仲良くやるのが一番だ」
セレスが『エアリエル』の『翼』であるように、『エアリエル』の『体』や『心臓』を管理する整備隊の連中も必要不可欠な存在なのだから……、とは思っているのだが。
「そんな風に言ってのけるのはお前さんだけだが」
「|霧航士《ミストノート》は|翅翼艇《エリトラ》ともども軍の秘密兵器っすからねえ。本当は、オレらみたいな下っ端が話しかけていいような存在でもねっすよ」
「あー、だから時計台では遠巻きにされてたんだな、俺様……」
やっぱり|霧航士《ミストノート》ってだけで敬遠されちまうってことか。しかも俺に至っては「英雄」なんて厄介な肩書きつきだ、皆さんから見たら相当近寄りがたい存在に違いない。
「でも、皆さんはゲイルと仲がよいのですね」
きょとんと首をかしげながらセレスが言うと、ゴードンが頭を掻きながら苦笑する。
「いやー、オレらだってめっちゃビビってたんすよ。何しろ、こんな辺境の基地に、誰もが知ってる青き翅の英雄殿っすよ? 粗相があったら首が飛ぶだけじゃ済まないって、みんな戦々恐々で」
だが、俺はそんなこと知ったこっちゃないから、ぴりぴりした空気を感じながらも、普段通りに振舞った。それ以外の振舞い方を知らないとも言う。
「まさかゲイルの方から近づいてくるとは思っていなかったから、随分整備隊内でも物議を醸した」
「そんなに俺様、問題人物扱いだったのかよ!?」
「どう扱うべきか読めなかったからな。だが、まあ、数日で誰もがわかった」
おやっさんは、重々しく頷いて、言った。
「ゲイルは阿呆なのだと」
「こらー!!」
いや、俺様が阿呆であることを否定したいわけじゃない。そういうわけじゃないが、流石に言い方ってもんがあるだろ。あと「ほんと阿呆っすな」「ん」とか言い合ってるゴードンとレオ、お前ら後で鋼板抱かせて正座な、覚悟しとけよ。
「ゲイルが馬鹿で阿呆だったおかげで、今、我々は良好な関係を築けているわけだ」
「いやいや全くフォローになってないよなそれ」
俺のツッコミを華麗にスルーしたおやっさんは、セレスの青い頭をぽんぽんと叩く。
「セレスと言ったな。お前さんの相棒は、優秀な教師ではないかもしれんが、善い男だ。見習うべきところはよく見習うといい」
……何か、やたらくすぐったいことを言われた気がする。
俺は、おやっさんや他の連中が思うような人間じゃあない。もし俺が、誰もが認める善人なら、きっとこんな形で燻っちゃいない。
とは、思うのだが。
「はい、わかります。ゲイルはいい人ですから」
おやっさんを見上げるセレスが、何の衒いもなくそう言い切るのを聞いてしまうと、いても立ってもいられない。もはや我慢の限界で、ぼんやり頭をなでられているセレスの手を取る。
「ほら! さっさと飛ぶぞセレス!」
「はい」
ああ、くそっ、やりづらいったらありゃしない。
背後で整備隊の連中が爆笑している。どうやら俺は相当赤くなってるらしい。くそっ、顔に出やすいのは俺が一番よくわかってんだよ!
俺に手を引かれるままてちてち歩くセレスは、大きな目を瞬いてこちらを見上げる。
「ゲイル、顔が赤いですが、熱でもありますか?」
「違う! 追い打ちかけんな!」
とにかく、連中の視線を振り切るように、セレスの手を借りて副操縦席に乗り込み、扉を閉める。目を覆う長さの前髪を後ろにやって、ヘルメットを装着し、同調器を取り付けたところで、周囲を確認する。この副操縦席は実のところ今まで一度も使われたことが無かったから、シート上から内部を確認したことがなかったのだ。
――初代『エアリエル』は、霧の海の底に沈んでいるはずだから。
とはいえ、俺の願いで初代と同じつくりになっているそこは、新しいという点以外は記憶のままだった。
『俺様がお前の翼になる。霧を裂いて、吹き払う翼に』
『そして、俺が霧の向こう側を見通す目に』
遠い日の約束が脳裏をよぎる。もう、二度と果たされない約束が。
ああ、本当に大馬鹿だよな。
俺はもう飛べないってのに、まだ、あの日の青い夢を忘れられずにいる。
『……ゲイル? こちらは準備できましたが』
そこに飛び込んでくる、青い声。一瞬浮かびかけたイメージを頭の片隅に押し込んで、シートの上で姿勢を正す。
『ああ、待たせて悪い』
感覚系への同調を開始して、『エアリエル』の目で周囲の状況を確かめる。
この一年間、俺に散々振り回されてきた整備隊は流石に慣れたもんで、既に格納庫側に退避している。船の内外で離陸に際しての懸念は特になし。
確認と同時に、同じく『エアリエル』に潜っているセレスの魂魄に向けて、目には見えない腕を伸ばす。
ここしばらく訓練を繰り返しているうちに、セレスの魂魄ははっきり「見える」ようになっていた。静かな水面に広がる青い波紋、その上に立つセレス自身のイメージ。どうも俺は昔から、相手の魂魄を視覚情報で捉える癖がある。この辺りは個人差があるから、セレスが俺の魂魄をどう捉えているのかはさっぱりわからんが。
セレスの方からも伸ばされた手を、掴む。自分の中にセレスの意識が混ざりこむ、いつになっても慣れることのない感触を確かめながら、肉体を介さない「声」を出す。
「問題なしだ。いつでもどうぞ」
船体の内側で響かせる魂魄の声。それに対し、セレスもまた、青い声で返す。
「了解。『エアリエル』離陸します」
空言ミストノーツ
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1-14:『原書教団』
「聞いたのか」
「はい、グレンフェル大佐から。いつ出撃になってもいいように準備を怠らないこと、また残党がどこに潜んでいるかはわからないため身辺には十分注意するように、と指示を受けています」
まあ、ジェムは|霧航士《ミストノート》だし、何よりこの性格だから、教団と繋がってるとは考えづらい。それはロイドも同じ見解なんだろう。サードカーテン基地最大戦力である俺とジェムが睨みを利かせていると思えば、教団の残党も手を出しづらいとは思うが。
それでも、ジェムは橄欖石の目を今ばかりは敵意にぎらつかせて言う。
「今になって教団が再び動き出したということは、教主が何らかの影響を及ぼしているのでしょうか」
「そりゃねーよ。あいつは三年前に死んだんだ」
「しかし、教団の残党は彼の名を呼んでいたと聞いています。もしかすると、何かしらの方法で生き延びているのかも――」
「ありえねえ」
俺は即座に断じた。ジェムも、一拍遅れて俺が断言した理由を悟ったのだろう、俺から視線を逸らしてうな垂れる。そう、俺がかの教主様の生死を知らないはずがない。教団とのいざこざに決着をつけたのは、他でもない俺自身なのだから。
「……すみません。ただ、自分はどうしても不安でたまらないのです。『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』は、世界中に、あまりにも多くの、今もなお癒えない傷を残していますから」
|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》。
それは、今から五年ほど前から急に名が知られるようになった過激派カルトだ。否、それは俺がそう認識しているだけで、それまでも水面下では着々と信者を増やしていたのかもしれないが、真偽は俺の知ったことじゃない。
「霧の女神が生み出す魄霧は万物の根源であり、生きとし生ける者、そして死せる者をも等しく包みこむ静寂の象徴である――だっけか。お題目は綺麗なのにな」
それが、教団の教えだ。この教え自体は何一つおかしくない、むしろ古くからの女神信仰そのものだ。ミスティア教皇庁は邪教として教団の存在を認めていないが、女王国では女神信仰の亜種であると認識している。そんな連中が過激派カルトとして一気に名を馳せたのには、でっかい理由があるわけで。
「しかし、狂騒を鎮め、静寂をもたらすためという題目で、あまりに多くの血が流れました。教団のやり方が間違っているのは間違いありません」
今から四年前、突如として、全世界で同時に、各地域の主要施設が爆破される事件が起こった。そして、全世界向けに、教主様からの声明が発信された。
この事件を起こしたのは我ら『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』であり、教団はこれより世界の狂騒を鎮めるため、戦乱の炎とその種火を消火する――と。
つまり、全世界に向けた宣戦布告だ。
事実、女王国でも各地で戦争に関わった要人が暗殺される事件が多発した。
うちの国の場合、背景には長きに渡る帝国との戦争があった。戦争に疲れていた連中が、相当数甘言に乗っちまって、暗殺やテロの片棒を担いだらしい。
それは帝国も同じようなもんだったらしく、二国は「教団」という共通の敵を得たことで、やむなく停戦協定を結んだ。かの停戦協定は今のところも有効で、現在、女王国はつかの間の平穏の中にある。
とはいえ、結局のところ教団のやったことは、狂騒を鎮めるためという名目の新たな狂騒に他ならない。教団の暗躍によって戦争とは無縁だった奴まで血を流し、時に死んだのだから、それを狂騒と言わずして何だってんだ。
そして今から三年前、女王国の|霧航士《ミストノート》隊が某島に築かれていた教団の要塞を急襲し、教主を討伐し、教団は解体された。
――解体された、はずなのだ。
女王国は教主の死を大々的に発表し、執拗な残党狩りも行った。他の国も同様だと聞く。
それでも、信ずるもののために動く連中を完全に狩り尽くすのは難しい。だからこそ残党が今もなお存在している――それは、まあ、わからなくもない。
ただ、そうだとしても、疑問が残る。
「何故、教団はセレスティアさんを狙ったのでしょう」
「さあなあ。それこそ、こっちを狙ってくる奴ぶん殴って吐かせるしかねーかもな」
気乗りはしないが、連中の考え方がわからない以上、そのくらいしか俺に取れる手はない。ジェムも「なかなか物騒ですね」と苦笑しながらも、それ以上の妙案はなさそうだった。所詮|霧航士《ミストノート》なんて脳味噌が筋肉でできてるような連中なんだから、そんなもんだ。
しばし沈黙が流れる。どうしても、奴らについて語ろうとすると言葉が出なくなる。だから、次に口を開いたのもジェムだった。
「大尉。自分は、今でも信じられないのです。かの教主が、我々と同じ|霧航士《ミストノート》だったということが」
きっと、長らく胸の中にしまいこみながら、言わずにはいられなかった言葉だったのだろう。苦しげに顔を歪めるジェムの目は、目の前の俺を見ているようで、俺とは全く別の誰かを見ているかのようだった。
「教主として君臨したかの|霧航士《ミストノート》が、一体何を考えて教団を率い、世界に殺戮をもたらしたのか。どうしても、僕には理解できないのです」
「……俺様にだってわからねーよ。わかりたくもない」
ほとんど意識はしていなかったのだが、自分でも驚くくらい、沈んだ声だった。
これには流石のジェムも、空気を読んだらしい。言いかけていた言葉を飲み込んで、力なく肩を落とす。
「すみません、大尉。あなたに言うことではありませんでしたね」
「いや、いいさ。ただの、事実だからな」
そう、事実だ。
どこぞの馬鹿野郎が教団の教主だったことも。
俺がこの手で、あいつを――。
「ゲイル」
声が、聞こえた。
そちらに視線をやると、パイロットスーツ姿のセレスがてちてちとこちらに歩み寄ってくるところだった。
「只今検査が終わりました。問題なしとのことです」
「そうか。じゃ、飛ぶか」
傍らの杖を取って、立ち上がる。
……俺は、上手く笑えているだろうか。ろくでもない話をしていたせいで、何だか、頬の辺りの筋肉が強張っている気がしてならない。
気を取り直したらしいジェムが、改めて背筋を伸ばして、お手本通りの敬礼を決める。
「ありがとうございました、ウインドワード大尉。お気をつけて」
おう、と軽く右手を挙げて、訓練施設を後にする。『エアリエル』の格納庫はすぐそこだから、歩くのもそこまで億劫ではない。億劫がっていてはリハビリにならないだろう、とサヨにいつも怒られるわけだが。
つらつら考えながら歩いていると、不意に、セレスが口を開いた。
「先ほどの話ですが」
「聞いてたのか」
「途中からですが。『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の教主とは、ゲイルの」
「ああ。流石に知ってるよな」
この一週間、自分から話したことはなかったが、何しろ有名な話だ。セレスもあらかじめ聞かされていたのだろう、「はい」と一つ頷く。その顔がいつも通りの無表情であることに、何故かほっとする。
「伺っています。『エアリエル』のかつての|副操縦士《セカンダリ》。青の千里眼――オズワルド・フォーサイス」
セレスがその名前を言葉にするのは二度目だ。その、懐かしい音の響きを確かめながら、俺は一つ一つ、俺自身の主観による言葉を並べていく。
「そう、オズ。オズワルド・フォーサイス。数年前に突然行方を眩ませた『エアリエル』の『目』。次に現れたときには世界の敵になってた『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の教主」
オズワルド・フォーサイス。
二度と自分から言葉にすることもないと思っていた、名前。
そして、
「俺様がこの手で殺した、馬鹿野郎だ」
俺とあいつが夢見た青空は、遥かに遠く。
陸に這いつくばる俺をあざ笑うように、脳裏に焼きついて離れずにいる。
空言ミストノーツ
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1-13:仮想の蝶
何が悲しくて、朝っぱらから他の奴の飛ぶ姿を見せ付けられなければならんのか――。
俺は腕を組んで、|仮想訓練装置《シミュレーター》に保存されている『オベロン』の|仮想訓練《シミュレーション》ログを眺めていた。
俺の横で完璧な「気をつけ」の姿勢をして、微動だにせず待機しているジェムのことは、無理やり意識から追い出す。頼むから集中させてくれ、俺に評価を頼んだのはお前なんだから。
画面に映る|翅翼艇《エリトラ》は、細い体に長い四枚翅を持つ『エアリエル』とは全く異なり、黒を基調にした小型の船体に金色の巨大な飛行翅、という形状をしている。上下に大きく揺れるふわふわとした動きは、ジェムの腕の問題ではなく『オベロン』という|翅翼艇《エリトラ》の特徴だ。
――とは、いえ。
「お前、ちょいちょい集中切れてね? 敵船を確認する度に、飛び方が急に不安定になるよな」
「……っ、お、おわかりですか。ご指摘の通りです」
「同調率が安定しねーのか? 『オベロン』って飛ばすだけでも難しいもんな」
|翅翼艇《エリトラ》の同調難度は船によって異なる。俺の『エアリエル』は難度だけで言うなら|番号持ち《ナンバード》|翅翼艇《エリトラ》の中で最も簡単だ。あれは操作性と複座型って仕様が乗り手を選ぶ、頭の悪い船だから。
それとは対照的に最新型で未だ実験段階の第八番『オベロン』は、極めて複雑な機構と固有の記術兵装を有していることもあり、特別な同調適性を求められる。
ジェムは俺の問いに対して少しばかり言葉を選んでいたようだが、すぐに顔を上げて、はきはきと答える。
「そうですね。恥ずかしながら、飛行に専念できない状況になると同調が緩んでしまい、高度と速度の維持が難しくなることは否定できません」
「うーん、『オベロン』は『エアリエル』とは全く勝手が違うから見当違いかもしれねえけど、同調率どのくらいで飛んでる?」
「飛行状態で九十パーセント超えを維持することを目標としています」
ああ、なるほど。つまりいつだって全力なわけだ。ものすごくジェムらしくて心がほっこりするが、それはあくまで今ここが訓練施設の中であり、砲弾飛び交う海の上でないからだ。
「六十パーセント、いや、五十パーセントでも飛ばせるか?」
「かなり不安定になりますが、何とか。同調が緩むときに、ちょうどそのくらいです」
「多少鈍くなってもいいから、その程度の同調率で高度と速度が安定するように訓練した方がいいぞ。『オベロン』の真価は兵装だ、飛ぶだけで同調率食ってる状態じゃ、兵装展開時には確実に足を止めなきゃならねえだろ。そこを滅多撃ちにされちゃ話にならん」
それはそうだ、という顔をしてジェムが固まる。こいつ、今まで絶対に気づいてなかったな。もう少し頭を使った方がいいと思うぞ。俺に言われたらおしまいだと思うが。
ただ、些細な問題を除けば、ジェム――ジェレミー・ケネットは、現在生きている中では最大の能力を持つ|霧航士《ミストノート》なわけで。
「いいじゃねーか。お前は飛べるんだ」
「え?」
「『オベロン』を自由に飛ばして、同時にあの兵装を運用するなんて、他のどの|霧航士《ミストノート》にも、それこそ俺様にもできねーんだ。後は、単純に訓練方法と経験の問題だ。自信持てよ、ジェム。お前は飛べる」
ジェムはしばし口を半開きにしたまま硬直していたが、やがて俄然目を輝かせ、びしっと背筋を伸ばして敬礼する。
「お言葉ありがとうございます、ウインドワード大尉! ご指摘を元に訓練方針を変更したいと思います!」
「お、おう、そりゃよかった。お役に立てたなら何よりだ」
どうもこの体育会系のノリには慣れないな。陸の上では脱力がモットーの俺としては、ジェムの全力投球ぶりがいっそうらやましい。昔ならともかく、今の俺がそれをやったら一日で寝込むぞ、絶対に。
そんな俺の引きっぷりに気づいているのかいないのか、ジェムはほう、と息をついて胸元に手を当てる。
「しかし、自分は真に幸せ者であります。青き翅の英雄、ウインドワード大尉に、自分の飛ぶ姿を見ていただけるとは」
「あのなあ、ジェム。俺ぁ、んな素晴らしい人間じゃねーよ」
本当に。大切な約束一つ守れたことのない俺が英雄だなんて、馬鹿げているにもほどがある。
だが、俺の鬱屈はジェムに伝わるはずもなく、それどころか、暑苦しいまでにぐいぐいと迫ってくる。
「そんなことはありません! 自分は、ウインドワード大尉の海を飛ぶ姿に憧れて|霧航士《ミストノート》を志したのです。霧裂く翅、疾風の申し子。女王国の最強の剣である大尉と『エアリエル』の姿を一度でも目にすれば、その姿に憧れない方がおかしいです」
……まあ、人の考え方は自由だ。俺がとやかく言うことでもない。
そうは思うのだが、苦々しい表情を浮かべることくらいは許してほしい。
|霧航士《ミストノート》は、俺を含めて大概がろくでなしだ。だって、そうだろう? 好き好んで、勝とうが負けようが早死にするってわかってる船に乗り込むような連中なのだから。
俺が英雄であるか否かの議論は横に置くとしても、俺の姿を見て|霧航士《ミストノート》になった、というなら、俺はジェムにとっての死神に他ならない。これから先長らく生きていける可能性のあった命を一つ、霧の女神に捧げたようなもんだ。
とはいえ、|霧航士《ミストノート》と|翅翼艇《エリトラ》は、それ自体が一セットの兵器だ。我が国最大の、決戦兵器。その特殊極まりない性質上、それこそ女王国が圧倒的不利な状況か、もしくは女王国の力を誇示すべき場面でしか投入されることはなかった。
そして、今、霧の海で戦闘はほとんど行われていない――はず、だ。
このまま帝国との間の交渉が上手いところに収まって、本当に戦争が終わってくれれば、ジェムが必要以上に飛ぶことはなくなる。|翅翼艇《エリトラ》で飛ぶ回数が少なければ、自ずと寿命は延びる。
そうであってほしい、と願いはするが、世の中そう上手くは行かないんだろうな。
モニタの前に頬杖をついて溜息を一つ。すると、じっとこちらを見下ろしていたジェムが口を開いた。
「そういえば、本日はセレスティアさんは一緒ではないのですか?」
「あ? セレスはサヨんとこ行ってる。今日は初めての実機訓練だからな、体調のチェックだってさ」
セレス。セレスティア。俺の新しい相棒となるべく送り込まれてきた、人工|霧航士《ミストノート》。
あいつが基地に来てから、一週間。
あれから同調訓練を繰り返して、お互いの意図が読める程度には同調できるようになってきた。相変わらず俺の『目』は半端にもほどがあるが、流石に一週間ぶっ続けで慣らしていけば、多少ましにはなった。これなら、実戦はともかく単純に飛ばすだけなら困らないはずだ。
「セレスティアさんは、いかがですか?」
「いや、すげーよ。俺がもたもたしてる間にも上手くなってる。俺様いなくてもいいんじゃねーかってくらい気持ちよく飛ぶからな、あいつは」
これはセレスが飛ぶために造られた人工|霧航士《ミストノート》だから、というだけではなく、あいつ個人の性格であり性質だ。飛ぶことが好き。その一点において、あいつは極めて貪欲に訓練を行い、日々新たな技術を身につけている。
せめて、俺がもう少し副操縦士としてまともに動ければ、もっと『エアリエル』が取れる行動の幅も広がるんだろうが――。
そんなことを思っていると、ジェムは一つ、いやに意味深な息をついて言う。
「自分は、セレスティアさんがうらやましいです」
「は? 何で?」
「何でって、ウインドワード大尉と同じ船に乗れるなんて、至上の喜びではありませんか。こればかりは、自分が『オベロン』の|霧航士《ミストノート》であることを残念に思います」
いやー、本当にぶれないなー、こいつは。
「いや、お前はそれでいいよ。お前と一緒に乗ったら、何かすごく疲れそうだ」
「何故ですか!? 僕の何がそんなに不満なのですか、実力ですか、それとも経験ですか!? 大尉のためなら僕は何でもする覚悟だというのにどうして!?」
「お前ほんと自覚ないよね! そういうとこが疲れんだよ!」
俺の言葉に、ジェムは「解せぬ」という顔をする。やっぱりわかってないなこいつは。あえてそれ以上を説明してやる気力も起きないけれど。
「とーにーかーくー、お前は『オベロン』の訓練に専念しなさい。セレスはセレス、お前はお前だ。それこそ、いつ何が起こるかわからねーんだから……」
いつ、何が。
セレスが来たあの日、俺の前に現れた教団の船を思い出す。乗り手が口走った名前と一緒に。ジェムも同じことを思い出したのか、興奮を一旦引っ込め、硬い面持ちで言う。
「……『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の残党が、セレスティアさんを狙っているらしいですね」
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1-12:いつかの風の歌
遠くから、声がする。
誰かを呼ぶ声。懐かしい声。俺の胸に痛みを呼ぶ、声。
「ゲイル!」
「うおっ」
それが「俺を呼ぶ声」だと気づいた瞬間、反射的に跳ね起きる。
あれ、何で寝てんだ。一瞬前まで、|仮想訓練装置《シミュレーター》の中で|仮想訓練《シミュレーション》を続けていたはずだったんだが、ある一瞬からぶつりと記憶が途絶えている。ぼんやりとする意識で辺りを見渡してみれば、どうも俺の体は訓練室の隅に置かれた長椅子に横たえられているらしく、
「ほんと、馬鹿だね」
いつの間にかやってきていたサヨに、すごい目で睨まれていた。
状況の想像はつくが、後ろ頭をかきながら、念のため問う。
「……えーと、俺、どうしたの?」
「訓練中に意識失ったんだよ」
やっぱりか。鈍く痛むこめかみの辺りを押さえて、深々と溜息をつく。
|副操縦士《セカンダリ》は|正操縦士《プライマリ》と違って、船体全体との同調を行わない分魄霧汚染のリスクは格段に下がるんだが、代わりに情報を捌く魂魄と、肉体上の魂魄器官である脳への負担という別のリスクがある。今回は、魂魄や脳がおかしくなる前に、魂魄が強制的に意識を落とすことを無意識レベルで判断したんだろう。
「大佐から聞いたよ。今回は|副操縦士《セカンダリ》としての訓練だったんだろ。それで意識飛ばすなんて、あんたらしくもない」
「そう、だな」
確かに、自分で飛んでもいないのに、限界も見えなくなるくらい本気になっちまうなんて、らしくなかった。サヨの言うことはよくわかる。わかる、けれど。
「歌が」
「え?」
「歌が、聞こえたんだ」
あの日以来、ずっと聞こえなかった、風の歌。霧の海を舞う喜びと祝福に満ちた歌声が、『エアリエル』を通して、確かに聞こえたんだ。
仮想の海を飛んでいる間に見えていた光景を、この手に掴んだセレスの気配を、『エアリエル』の飛び方を、そして魂魄に焼きついた旋律を一つひとつ思い出すたびに、胸の中に鈍い痛みと、それ以上の熱いものがこみ上げてくる。
言葉にならないそれを持て余していると、サヨの背後からひょこりと青いものが顔を出した。セレスだ。不安げに青い眉尻を下げて、サヨの白衣の袖を引く。
「イワミネ医師、ゲイルは大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。慣れない負荷で一時的に意識が飛んだだけで、異常はないよ。でもこいつ、自分の限界が見えてないとこあるから、悪いけど、これからも気にしてやってちょうだい」
「はい」
セレスは背筋をぴんと伸ばして快活な返事をするが、俺は条件反射的に唇を尖らせずにはいられない。いくら一緒に飛ぶことになってるとはいえ、何で俺がこんなひよこみたいなちびっこに見張られなきゃならんのか。
とはいえ、実際に意識飛んでる以上、言い訳はできないな。それに、心底俺のことを心配していたらしいセレスの顔を見ていると、ものすごく悪いことをした気分になるのだ。本当に、らしくないとは思うけれど。
「……そうだよな。一人で飛ぶわけじゃ、ねーんだもんな」
つい、口をついて出た言葉に、サヨがぎょっとする。
何か変なことを言っただろうか、と思っていると、サヨの手が伸びてきて、俺の額に触れた。白くしなやかな手は、見た目どおり少しだけひんやりしていた、が。
「うん、熱は無い」
「俺のこと何だと思ってんだお前!?」
ちょっと殊勝なことを言うとすぐこれだよ。一度は引っ込めた唇をもう一度突き出してみるも、サヨはいたって真剣な顔で、俺を睨んでくる。その目の鋭さと、その奥に見え隠れする苛烈な感情に、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
サヨが、俺のことをどう思ってるのかなんてわかりきってるじゃないか。だから、俺はその冷ややかで、突き刺すような視線をただ受け止めるしかない。
とはいえ、それもごく一瞬のことで、サヨは白衣を翻して俺とセレスに背を向ける。
「大佐に報告してくる。安静にしてな」
「あ……ああ」
いつの間にかロイドの姿が消えていたのだと、今更ながらに気づく。きっと、サヨを呼びに行った辺りで他のやつに捕まって基地司令の仕事に戻ったんだろうな。
高い靴音を立てて、サヨが訓練室を出て行ったのを確認したところで、意識せず深い溜息が漏れる。どうやら、自覚はなかったが相当緊張していたらしい。サヨと顔を合わせると、どうもペースが狂ってしまっていけない。
もう一度、意識して深呼吸をして。それから、こちらを真ん丸い目でじっと見下ろすセレスに向き直る。
「何か、悪いな。訓練、中断させちまって」
「いいえ。ゲイルの健康が第一です。わたしが飛べたとしても、ゲイルが万全でなければ『エアリエル』は全ての能力を発揮できませんから」
「……いくら万全でも、全力は出せねーけどな」
セレスは首を傾げるが、その言葉にもならないささやかな疑問に答える気にはなれなかった。どうしても、頭の中に、嫌な記憶ばかりがちらついてしまうから。
代わりに、どうしても聞いておきたかったことを問う。
「『エアリエル』で飛んでみて、どうだった?」
あくまで今回は仮想訓練装置での模擬訓練だが、それでもセレスにとっては初めての「二人での」飛行だったはずだ。操縦士同士の同調は、船体との同調とはどうにも勝手が違うから、その辺りをセレスがどう感じているのかは、これからのためにも聞いておかなければならなかった。
セレスはぱちぱちと青い睫毛に縁取られた瞼で瞬きして、それからぽつりと言った。
「楽しかったです」
「……お、おう?」
想像の斜め上を行く回答に、肩透かしを食らった気分になる。だってお前、それはないだろう。ガキじゃないんだから、いや、ガキなのか? それにしたってあまりに幼稚な回答じゃないか。
と、思ったのもつかの間、セレスはいつになく饒舌に、弾んだ声で語り始める。
「飛ぶのは楽しいです。それが、仮想の海であっても。人の体とは違う、飛ぶためのかたちに、魂魄そのものが作りかわる感覚。船の中心から、翅翼の先まで、隅々まで行き渡った『わたし』が、持てる感覚の全てで風を感じる。それが、楽しくて楽しくてたまらないのです。特に『エアリエル』は素晴らしいですね、『飛ぶ』という一点において、これほど優れた船はありません」
――こいつは。
ああ、そうか、こいつはそういう奴なんだ。
気づけば、自然と笑ってしまっていた。
いつしか俺が忘れてしまっていた、霧の海をただただ自由に舞う喜びは、セレスの飛び方にありありと表れていたではないか。
青い飛行翅を霧の中に閃かせ、長い尾を振るって、セレスに導かれて、風の歌と共に踊る『エアリエル』の姿をもう一度脳裏に思い描く。高く、高く舞い上がった『エアリエル』は、霧を運びゆく冷たい風に乗り、どこまでも飛んで行けるという確信があった。それはセレスの飛び方を見た俺の「確信」であり、『エアリエル』を通して伝わってきたセレスの「確信」でもあったのだと、思う。
何も、あの伸び伸びとした飛び方はセレスが「飛ぶために造られた」人工|霧航士《ミストノート》だから、というわけではなく、セレスのれっきとした個性なのだということが、今、はっきりと理解できた。
懐かしい、感覚だ。いっそ、泣きたくなるほどに。
「ゲイル? どうかしましたか? どこか痛みますか?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」
どうやら相当変な顔をしてたらしい。油断するとすぐ顔に出るから困ったもんだ。かつて夢見た色をしたつくりものの|霧航士《ミストノート》は、遥か彼方まで広がる水面を思わせる瞳で、俺を見つめている。
「セレス。少し休んだら、もう一回、飛んでみるか」
「はいっ」
セレスはぱっと顔を輝かせる。表情はほとんど変わらないのに、明らかに「嬉しそう」とわかる顔をするのが、何ともくすぐったい。
そうだ、俺はまだ息をしていて、息をしている以上、飛び続ける。それ自体は今までと何も変わらない。
ただ、飛ぼうとしているのが俺一人でなくなっただけだ。
一人と一人、俺たちはこれから、手を取り合って霧の海を飛ぶ。
――それは、案外、愉快な日々かもしれない。
いつしか忘れていた感情が少しだけ蘇る、そんな気がした。
空言ミストノーツ
読上
1-11:同調訓練
「じゃあ、早速同調訓練でもしましょうか」
というロイドの鶴の一声により、昨日の今日で訓練開始と相成った。
俺もセレスも、訓練以外に特にやることがないのは事実だったので、訓練室へとセレスを案内する。基地司令の癖にやっぱり暇であるらしい、ロイドと一緒に。
「ここが俺たち|霧航士《ミストノート》専用の訓練室……、って、何してんだお前ら」
部屋を覗けば、壁沿いに並べられた演算機関から伸びている無数の配線に床の半分以上が覆われていて、その配線の終着点である部屋の中心に、鋼の箱――仮装訓練装置が鎮座ましましている。
で、その訓練装置の入り口で、床に座り込んでチェスを打ってる見慣れた顔があった。
「おーう、ゲイル……、と司令!?」
褪せた金髪を刈り上げたマッチョ野郎のブルースが、顔を上げたかと思うとびくっ、と大げさに跳ねる。いつも泰然自若としているブルースらしくもない反応に、つい吹き出しちまったじゃねーか。でも、基地司令のロイドがこんな朝っぱらからこんな場所に顔を出すとは誰も思ってないよな。俺も思ってなかった。
慌ててチェス盤を片づけようとするブルースと、それを阻止せんとする対戦相手、ゴードンの無言の牽制が繰り広げられる。なるほど、ブルースの方が負けてるから、これを好機と見て無効試合にしようとしてんな。
そんなブルースの涙ぐましい努力のかいもなく、ロイドが呆れ顔でぱんぱんと手を叩く。
「はいはい、見なかったことにしといてあげるわよ。暇なのは仕方ないものね。代わりに、こいつらの訓練終わったら私も参加させてちょうだい」
「えー、それは嫌っす。司令お強いんですもん、絶対カモられるじゃねっすか……」
そこで初めてチェス盤から顔を上げ、明らかに「嫌」という表情を隠しもしないどころか、ごくごく正直に主張するのは、ぼさぼさ頭にそばかす顔のゴードン。
ゴードンは誰に対しても素直なのがいいところであり、ちょっと危なっかしいところでもある。若手ではとびきり腕がいいのに、こんな辺境も辺境の整備隊に配属されてるところを見るに、その性格が災いしたんじゃないかと思わなくもない。
まあ、対するロイドは海千山千の変態たちをばったばったと斬り伏せてきた|霧航士《ミストノート》みんなの先生であるわけで、ゴードンの率直な物言いにも嫌な顔一つせず言い放つ。
「いいじゃない、後でゲイルから取り返せば」
「ちょっと!? 俺様をカモ扱いすんのやめてもらえませんかね!?」
何でこっちに矛先が向くんだよおかしいじゃねーか。確かに俺、この基地の誰にも賭けチェスで勝ったことないからカモなのは全く否定できないが、ロイドが巻き上げた分を俺から回収するのはどうかやめていただきたい。
そして、これがこの基地では当たり前の光景であることを知らない唯一のちびっこ、セレスは俺の横で目をまん丸くして固まっている。
それにやっと気づいたらしいブルースが「おお」といつもの朗らかな笑顔を取り戻して、立ち上がってセレスに向き合う。俺よりも更に背が高く横にもでかいブルースを前にすると、それこそ巨人と小人みたいに見えるな。
「君が司令の言っていた人工|霧航士《ミストノート》だな。俺はブルース・コーウェン。海軍大尉、サードカーテン基地観測隊隊長だ。で、こっちのそばかすがゴードン・ワイト。整備隊所属の一等兵だ」
「人工|霧航士《ミストノート》試作型、セレスティアです。よろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げるセレスの頭を、ブルースが遠慮会釈もなくそのやたらとでっかい手でごしごしと撫でながら、俺に向かって言う。
「ゲイル、新入りをいじめるなよ」
「いじめねーよ。お前、俺様を何だと思ってんだ」
「人のことを全く考えない飛行馬鹿」
「うーん、それは否定できねーなー……」
つい唸ってしまう一方で、ゴードンは駒を動かさないよう、慎重に床に置いていたチェス盤を持ち上げて言う。
「|仮想訓練《シミュレーション》は『エアリエル』のモードに切り替えといたっす。すぐ使えるっすよ」
「気が利くわね、ありがと」
「じゃ、俺らも仕事に戻りますかね」
二人は部屋を出て行こうとするが、「おおっと手が滑ったぁ!」とかいうブルースの声と、ばらばらとチェスの駒が床に落ちる音、それに重なるゴードンの「ちょっと、ゲイルじゃないんすから、そういうのやめてくださいよ!?」という非難の声が聞こえたのは、気のせいということにしておく。
ぎゃあぎゃあ喚きながら二人が訓練室から出て行ったところで、ロイドがミラーシェード越しにセレスを見上げて言う。
「セレスティア、『エアリエル』の模擬訓練の経験は?」
ブルースとゴードンの行方が気になるのか、じっと部屋の扉のあたりを見つめていたセレスが、くるりとロイドに向き直って言う。
「時計台では番号持ちの適性検査と、それぞれ短期の訓練は経験しています」
はきはきとしたセレスの返事に、ロイドは満足げに「なるほど」と頷いてから、俺の方に視線を戻す。
「それじゃ、これからはセレスティアが|正操縦士《プライマリ》として、あんたが補佐で訓練していくわよ」
「えー」
「『えー』じゃないよ、ガキじゃないんだから。これ以上あんたに|正操縦士《プライマリ》を任せると、いつ目を離した隙に消えるかわかったもんじゃない」
さすがロイド。完全に見透かされている。
「もちろん、今のあんたに前任と同じ精度も求めてない。まずは制限ありで、正副の同調を中心に訓練していきましょう」
そこまで言われてしまっては、逆らっても仕方がない。気は進まないが、きょとんとしているセレスを訓練装置に押し込んで、俺も狭苦しい箱の内側にもぐりこむ。
箱の中には無数の計器と見慣れた座席が一つ、その座席の首の辺りからは、同調器のコードが垂れ下がっている。
『あー、あー、聞こえてる?』
ロイドの声が、上部スピーカーから聞こえてくる。司令直々のオペレーションとは人材の無駄遣いにもほどがあるが、元教官としての血が騒いだとみえる。
『|正操縦士《プライマリ》、聞こえています』
『副操縦士、聞こえてる』
『オーケイ。只今より、同調訓練を始めるわよ』
――同調訓練。
|翅翼艇《エリトラ》は身体的な操縦技術を必ずしも求められない、特殊な船だ。従来の手動式操縦も可能ではあるが、船の真価を引き出すには同調式操縦という技術が必須になる。特に、第八番『オベロン』は手動操縦機能を持たない、完全同調式だ。
|霧航士《ミストノート》に必要とされる能力とは、操縦の腕前や戦闘に対する知識と技術以上に、この「同調」に関する才能に他ならない。
同調とは何かといえば、言葉通り、自分自身の魂魄を船体に重ね合わせて、自分の体の一部として扱う技術だ。|翅翼艇《エリトラ》に搭載した演算機関によって実現している機能とのことだが、詳細は知ったことじゃない。とにかく、船と同調できれば飛べる。そういうもんだ。
故に、|翅翼艇《エリトラ》の操縦席は簡素なもので、魂魄器官である脳と船体とを繋ぐ同調器と、肉体を固定するための座席、あとは手動操縦用の操縦桿とペダル、最低限の計器くらいだ。と言っても、これらが必要とされるのは緊急時のみで、俺がこれを使う羽目に陥ったことは一度もない。
同調訓練は、実機で飛ぶ前に、船体との同調の感覚を掴むための訓練だ。これが上手くいかない状態で実機で飛べるわけがなし、仮に上手く飛べたとしても実機での飛行は魂魄汚染による蒸発のリスクを負うという点で、実のところ|霧航士《ミストノート》の訓練は八割方この手の|仮想訓練《シミュレーション》の繰り返しになる。
そして、俺の愛機『エアリエル』の同調訓練には、もう一つの段階がある。セレスが時計台で『エアリエル』の|仮想訓練《シミュレーション》を経験している以上、ロイドの言葉通り今回はそちらが中心だ。
もう一つの段階とは、操縦者同士の同調。
第五番|翅翼艇《エリトラ》『エアリエル』は、現在女王国内に配備されている|翅翼艇《エリトラ》の中では唯一の複座型だ。これは主に俺のわがままによるもので、|翅翼艇《エリトラ》最速を実現するための無茶と言っていい。
|正操縦士《プライマリ》は『翼』――操縦を。
|副操縦士《セカンダリ》は『目』――探査を。
通常一人の|霧航士《ミストノート》が負うべき役割を分割することによって、|副操縦士《セカンダリ》操縦士は機体から与えられる莫大かつ雑多な情報を精査し、|正操縦士《プライマリ》は|副操縦士《セカンダリ》から与えられる精度の高い情報を元に操縦に専念できるという仕組みだ。ただし、これは正副操縦士が正しく役割を果たし、同時に二つの魂魄の同調が緊密でなければ意味が無い。
実のところ『エアリエル』自体は最新型かつ特殊な固有兵装を有する『オベロン』と違って複雑な機構を持たず、同調して「飛ばす」だけなら難しくはない。ただ、正副操縦士の足並みを揃える難しさが、『エアリエル』の操縦士の座を長らく一つ空けたままにしていた、といえる。
――そう、俺もあいつ以外の誰かと『エアリエル』に乗るのは、これが初めてだ。
|副操縦士《セカンダリ》がいなくとも、|正操縦士《プライマリ》さえいれば『エアリエル』の操縦は可能だから、今までは『エアリエル』の内部演算に『目』を任せて誤魔化し誤魔化し飛んでいた。だが、もう、俺のわがままばかり通せる段階でもない、ということなんだろう。
うなじの辺りに同調器を取り付ける。シートに体を預け、ベルトを締めて全身の力を抜く。同調器を通して脳から魂魄に向けて信号が飛ぶ気配を感じ、瞼を、伏せる。
そこまでは、『エアリエル』実機で飛ぶ際も変わらない、いつもの手続きだ。ただ、今回は|副操縦士《セカンダリ》側ということで、ここからはまるで勝手が違う。|副操縦士《セカンダリ》側の手続きを一つ一つ思い出しながら、仮想の『エアリエル』の全体像を意識する。
『準備はできた? では、同調訓練、開始』
ロイドの声と同時に、瞼を閉じたままでありながら、視界が開ける。魂魄が|仮想訓練装置《シミュレーター》と同調し、俺自身の肉体とは違う知覚――仮想の『エアリエル』の知覚を得た証拠だ。
ただ、普段とは違って「視える」光景には無数の数字や文字、記号が重なって見えてほとんど風景を見通すことはできない。それに加えて、耳にも肌にも膨大な情報を突っ込まれて魂魄が悲鳴を上げる。
これこそが、『エアリエル』|副操縦士《セカンダリ》の「感じる」世界だ。
この莫大な情報の渦から、|正操縦士《プライマリ》の必要とする情報だけを取捨選択してほぼノータイムで受け渡すのが|副操縦士《セカンダリ》の役割なわけだが、改めて|副操縦士《セカンダリ》席に座ってみると、あまりの負荷に酷い頭痛がする。
――これでも、実際には『エアリエル』が内部演算機関で自動選別した、五十パーセントの情報に過ぎないのだが。
もちろん、『エアリエル』は考えて情報を選別しているわけではなく、演算機関の機能によって画一的に「頻繁に使われる情報」以外を切り落とす。落とされた中には、本来必要だったはずの情報も少なくない。
故に、百パーセントの情報を自分で選別できるのが一番いいわけだが、俺には無理だ。人間を辞めたどこぞの馬鹿と同じ真似はできない。
何とか受け取る情報を選別していけば、視界が幾分クリアになった。視覚に映りこむ仮想の発着場は、俺の見慣れたサードカーテン基地の風景だ。ただし、|正操縦士《プライマリ》たるセレスにとっては初めて見るであろう光景。
それでも、『エアリエル』という船を介して直接魂魄に届く声は、いたって落ち着いたものだった。
「離陸準備。ゲイル、行けますか」
「オーケイ。いつでもどうぞ」
行きます、と。
セレスの言葉と同時に仮想の『エアリエル』が熱を帯びる。セレスの魂魄が船体の隅々まで行き渡り、全ての重さを脱ぎさった船体が浮かび上がったのを、全身に伝わる感覚で察する。
そんなセレスの『目』となるべく、想像上の腕を伸ばす。『エアリエル』の内側に満ちる雑多な情報の中、セレスの中心に当たる気配を探そうとしたその時。
――青。
意識の中に突如として閃いた、いつか俺が見た風景にあまりにもよく似た、「青」の奔流に思わず息を呑む。
次の瞬間、『エアリエル』が加速して、一気に高みへと上り詰める。全身を震わせ、魄霧を変換した青い四枚の翅翼が風を切って、
歓喜の、歌が――。
空言ミストノーツ
読上
1-10:空の夢を見る
そんなこんなで薬だけ預かって医務室を出ると、いつの間にかセレスが一人きりで、ぽつんと立ち尽くしていた。
「あれ、ジェムは?」
「ケネット少尉は訓練に戻りました」
俺と違ってあいつはクソ真面目だからな。本当に、俺に対する一癖も二癖もある態度さえどうにかなるなら、俺だってここまでジェムをこき下ろすこともないのだが。
そんな風に思っていると、大きな目を見開いてこちらをじっと見上げていたセレスが、口を開く。
「それと、一つ質問があるのですが」
「おう」
「ケネット少尉が言っていましたが、イワミネ医師は、ゲイルの恋人なのですか」
本当に、あいつは余計なことしか言えないのだろうか。実は俺に恨みがあって、わざとやっているのではなかろうか。ろくでなし|霧航士《ミストノート》ランキング期待の新人にろくでなしポイントを積み増しながら、首を横に振る。
「昔の話だ。とっくに関係は解消してる」
確かにセレスの言っていることは、事実ではあった。とはいえ、|霧航士《ミストノート》の恋は長続きなんてしない。すれ違いからの破局か、片方が蒸発して消えてなくなってしまうことがほとんどだ。ろくなもんじゃない。
サヨとの関係性なんて、その最たるものと言える。
つい、過去のあれこれを思い出して苦いものを噛み締めてしまう俺を、セレスは無表情で見上げ続けている。が、どうしてだろうか、その目はいやにきらきらしているように見える。ジェムの輝きが感染してしまったかのように。
「っていうか、お前、そういうの気になるタイプ?」
「恋人、というものの定義がよくわからないため、ゲイルの感覚に興味があります」
「……ああ、なるほど」
恋とか愛とか下世話な興味とか、そういうのとはごくごく無縁の「知的好奇心」というやつか。その感覚には覚えがある。遠い日に死んだ馬鹿野郎が、まさしく「好奇心に殺された猫」であったから。
「何か、お前との付き合い方がわかってきた気がするよ」
「そうですか。ありがとうございます」
セレスはどこまでも真顔でぺこりと頭を下げる。
何も知らない人の形は、いつか、己の好奇心に殺される日が来るのだろうか。
そんな未来が来なければいい、とは思うのだが、そもそも俺がその未来にまで存在していられるかどうかを思うと、鈍い頭の痛みがそれ以上考えることを邪魔する。
だから、何も考えないようにして、長い廊下を行く。
セレスのてちてちというちいさな足音が、俺の背中を追いかけていた。
梯子の上から見上げた空はどこまでも白い、いつもと何一つ変わらない空だった。
青空を見に行こう。そう言ったあいつに連れられ、仕事道具の梯子を抱えて、下町では一番高かった建物にこっそり忍び込んだ。屋根の上に梯子をかけて、てっぺんまで登ったところで、もちろん青空なんて見えなかった。
その頃の俺たちはあまりにもガキで、この世の道理も知らなくて、俺たちが見上げた先にある白濁の空が「魄霧の天蓋」と呼ばれていて、現在に至っても誰一人その果てを見たことのない、高度限界だったことも知らなかった。
知らなかったからこそ、俺たちは見えもしないその向こう側に目を凝らして。
「嘘つきって、言わない?」
「言うわけねーだろ。お前が嘘なんてつかねーのは、俺様が一番よく知ってる。だから」
約束を、交わしたのだ。
俺たちの、二度と叶わない約束。
それが――。
「おはようございます、ゲイル」
瞼を開けば、いつぞやの約束とよく似た色をした顔が、すぐ目の前にあった。
「……おう、おはよう、セレス」
一拍遅れて、昨日のどたばたが頭の中に蘇る。
幸か不幸か、あれは俺の魂魄が生み出した夢ではなかったらしい。まさしく俺にとっては「夢のような」色をしたつくりものの|霧航士《ミストノート》、セレスは青い睫毛を持つ瞼で一つ、ぱちりと瞬きしてから言う。
「よく眠れましたか?」
「うーん……びみょー……」
寝つきが悪いのはいつものことだ、眠りが酷く浅いのも。そして、見たくもない夢を延々と見せられることも。だが、それを知らないセレスは、ちいさな顎に指を添えて言う。
「睡眠の質は大事です。やはり、ゲイルがベッドで寝た方が体力と疲労の回復になるのではないでしょうか」
「馬鹿、んなこと気にすんなっつーの。これからはお前の方が働くことになるしな、きちんと休んでもらわにゃ、俺様の気分が悪いしゆっくり寝るどころじゃねえよ」
「しかし」
「いいんだ。それよりも」
はい、と横になったままの俺の顔を覗き込むセレスが、生真面目な顔で言う。そんなセレスにこんなことを言うのは気が引けるのだが、それでも、どうしても言わずにはいられなかった。
「服を! 着ろ!」
セレスは、全裸だった。
またか、またなのか。鈍い頭痛を感じながらも、セレスから目を逸らす。下着姿ならまだ許容してもよかったのだが、一瞬目に入った姿は間違いなく全裸だった。それはもう、言葉通り一糸まとわぬ姿だった。
「お前は何ですぐ脱ぐんだ……」
セレスは俺の質問に対し、不思議そうな――そう、何故か不思議そうな顔をして、淡々と答える。
「被服によって各部の可動が制限され、各種行動に支障が出ると考えています」
「でーまーせーんー! 服着ただけで支障出るなら、俺ら全員全裸なはずだろ!」
想像してみろ、めっちゃシュールだぞその光景。
「っていうか製作者はお前に何を教えてきたんだ!」
「『そもそも生物として被服を必要とすること自体が不完全な証。つまり完全な被造物である君は服を着る必要などない』と。つまり、被服は基本的に不要であると」
――次に時計台に戻ることがあったら、奴を正座させることから始めよう。今決めた。
だが、その言葉を愚直に遂行するセレスに罪は無い。噛んで含めるように、しかし妙な勘違いはされないように、慎重に言葉を選びながら説明する。
「お前が服を必要としなくとも、残念ながらここは人間による人間のための社会だ。で、人間社会の必須条件は衣食住、被服は社会で生きていくために必要不可欠なんだ。オーケイ?」
「オーケイ。被服の必要性を理解しました。只今より着用します」
「頼む」
話せばわかってくれるのはありがたい。同期とかジェムとか、俺が何を言ってもわかってくれない連中ばかりだから、その点めちゃくちゃ気は楽だ。
俺の顔を覗き込むのをやめて、部屋の隅でもぞもぞ着替え始めたセレスを薄目で確認する。
「着替えたら、飯食ってロイドんとこに行くぞ。朝のミーティングだ」
はい、という声を背中で聞きながら、俺も何とか起き上がる。セレスが起きて着替えているのに、俺が下着とシャツ姿で転がったままというのも無いだろうし。体がばきばき言ってるのは、床の上に慣れないマットで寝たからだろう。数日で慣れてくれることを祈るばかりだ。
不思議なルームメイトに、奇妙な命令。何から何まで、変なことだらけだ――と思いながらも、別に、それを嫌だとは思っていない、どころか少しばかり楽しいとすら感じている俺自身が、一番不思議ではあった。
空言ミストノーツ
読上
1-09:黙っていることしかできない
「……何でわかった」
「見てればわかるよ。グレンフェル大佐が止めてるのに毎日『エアリエル』で飛んでる辺り、ほとんど自殺志願としか思えないけど」
「んなことねーよ、今日は仕方なかったといえ、普段は最低限の同調しかしてない。汚染はほとんど進んでないはずだぜ」
ただ、サヨの「自殺志願」という言葉は、俺のあり方を正しく示しているとは思う。俺というよりも、|霧航士《ミストノート》全般のあり方というべきか。その中でも俺が極端に走っているのは、理性的にはわかっている。あくまで、理性的には。
とはいえ、サヨも俺の性質はわかりきっているわけで、ゆるゆると首を横に振る。
「まあ、あんたの飛び狂いを今更どうこう言う気はないよ。ただ、ここしばらくの衰え方は異常だよ。魄霧汚染とは別に、きちんと人並みの生活送れてる?」
サヨの言葉に、俺は思わず苦い顔をして目を手元の書類に落とす。そこに書かれていたのは、几帳面なサヨらしい事細かな記録だ。他でもない、俺についての。
俺自身の希望でこのサードカーテン基地に転属になったのは、今からちょうど一年前。
それまで俺は首都の軍本部、時計台にいて、サヨの世話になっていた。言葉通りだ。セレスにも説明したとおり、俺は今から三年前、先代の『エアリエル』を失って、俺自身も致命傷を負って人事不省に陥っていた。
――それ以上に大きなものを失ってしまった、という事実からは目を逸らす。
かろうじて意識を取り戻した後は、時計台の軍病院でサヨの治療を受け、丸々二年をかけて、不完全ながらも立って歩ける程度の体と二代目の『エアリエル』を取り戻し、飛ぶ感覚を思い出すためにこちらに移ったわけだ。時計台どころか女王国内でも一、二を争う再生術士であるサヨがこんな辺境にいるのも、俺の経過観察という理由が大きい。
あの時、わざわざついてこなくても大丈夫だ、と軽くあしらおうとした俺に対し、サヨはこちらを睨み殺しそうな目つきで言ったものだった。
『ゲイル・ウインドワードという「救国の英雄」の生死は、女王国全体の士気に関わる重大事だ。あんたの身勝手でぽんと蒸発されたらたまったものじゃないから、あたしが見張ろうってんだよ』
大げさな、と言いたいところではあったが、二年間の寝たきり生活で、嫌というほどその重みはわかってしまったので、笑い飛ばすこともできなかった。
我らが女王国は、長らく隣国である帝国との戦争の只中にある。今はとある馬鹿のせいで停戦状態にあるが、その馬鹿が死んだ今、どうなるかわかったもんじゃない。
だから、かつて帝国との戦争で、もしくは件の馬鹿率いる『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』との抗争で、不敗を誇った|霧航士《ミストノート》ゲイル・ウインドワードは女王国の武力の象徴であり、帝国にとっての脅威であり続けなきゃならない。
別に、戦うために飛んでいたわけではないのに。
俺は、俺自身が知らない間に、望んでもいない「英雄」という称号を与えられていた、というわけだ。
お前のことは女王国の誰もが見つめていると。身勝手な行動は慎まなければならない立場なのだと。誰もが俺にそう言って、俺を縛ろうとする。
で、そんな息苦しい日々から離れるためにも、サードカーテン基地への転属を希望した。今まで戦争にも教団のあれこれにも巻き込まれたことのない西の辺境において、俺の「英雄」としての名声は、大した影響を及ぼさない。知られてこそいるが、その程度だ。
それで、多少は楽になったはずだった。はず、だったのだが。
手元の書面は、刻一刻と俺の体が限界に近づいていることを、厳然たる数値として突きつけてくる。魄霧汚染の深度もそうだが、それ以上に心身の異常を見て見ぬ振りしてきたツケが回ってきている、ということを俺よりも正確に把握しているのが、この名医サヨ様だ。
今更、サヨを――そして俺自身を誤魔化したところでいいことはない。一つ、深く溜息をついてから、口を開く。
「……ここしばらく、ほとんどまともに寝られてねーんだ。寝ると、悪い夢、見るから」
「悪い夢?」
「あの頃の」
その一言だけで、サヨの表情が強ばる。それはそうだ、「あの頃」のことはサヨにとっても苦い記憶でしかないはずだから。
「いつ頃から?」
「夢を見るのは前からだけど、眠れないほど頻繁になったのは、ここ一ヶ月くらい」
「そういうことは早く言うんだよ馬鹿。もうあんたの介護は御免だよ」
サヨは額に手を当てて深々と溜息をつく。それは俺だって嫌だ。寝たきりだった二年間はめちゃくちゃ辛かったし。体も辛かったが、何より精神的に堪えたのだ。
「薬が少しよくないかもね。変えてみるよ」
「ああ、頼む」
なるべくサヨに余計な心配をかけたくはないのだが、この際仕方ない。俺の調子が悪いと、セレスにも迷惑がかかるだろうし。薬でどうにかなるなら、その方がいい。
話はこれで終わりと見て、杖に体重を預けて立ち上がる。用もないのに入り浸っていると、サヨから悪口雑言を投げかけられるのは目に見えているので、素早い退散は俺の心を守る手段でもある、のだが。
「……あ、そうだった。俺もサヨに用があったんだ」
「あんたが? そりゃ珍しいね。何だい」
これを、俺が言うのはものすごく気が引ける。だが、言うことと言わないでおくこと、どちらがこれからの精神衛生に悪いかといえば後者なので、仕方なく口を開く。
「お前の服を譲ってくれ」
「ゲイル……、ついにあんたも変態性癖に目覚めちまったんだね……」
「ちげーよ! 何で当たり前のように俺が着ること前提なんだよ!」
「冗談だよ。あの子のかい? あんたの服着てたもんね」
俺を見上げてにやりと笑うサヨ。俺をおちょくるのがそんなに楽しいかお前は。何となくわかってたけど。いつもの頭痛とは違うタイプの頭痛を感じながらも、頷く。
「あいつ、服持ってきてないらしくてさ。サイズ合わないかもしれねーけど、無いよかマシかと思って。もし今着てないやつとかあったら、譲ってくれねーかな」
「わかった。見繕っておくよ。仲間にも声かけとく」
「そりゃ助かる。持つべきものはいい友達だ」
いい性格の、と言いたかったがぎりぎりのところで堪えた俺を誰か褒めてほしい。
サヨは紅を引いた口元に笑みを浮かべ、やれやれとばかりに大げさに肩を竦めてから、打って変わって低い声で言う。
「……無理はするんじゃないよ」
俺は、その言葉に対して笑った。今の俺には、ただ、笑ってみせることしかできなかったから。もちろん、サヨの冷たい視線が突き刺さったのは言うまでもない。
空言ミストノーツ
読上
1-08:軍医サヨ・イワミネ
「……で、お前は何でここにいんだよ」
「ふあっ、ウインドワード大尉!」
部屋を出た瞬間、目の前にジェムがいた。
お前はストーカーか。悪気が無ければいいってもんじゃないぞ。
とは思うのだが、今のところ具体的な実害は無いので、事情を聞いてやることにした。
「先ほどイワミネ医師から、ウインドワード大尉にすぐ来るよう伝えてほしい、と言われまして」
「お前はいつから俺様相手のメッセンジャーになったんだ」
お前は女王国が誇る|霧航士《ミストノート》であって、俺様のお世話係でもメッセンジャーでもありません。
「まあいいや、ちょうどサヨんとこには顔出すつもりだったんだ。行くぞ、セレス」
「はい」
俺が無造作に一歩を踏み出すと、セレスがこくこくと頷いて、俺の袖のあたりを掴んだ。
先ほど散々大騒ぎしたが、セレスは今のところ、俺のシャツとツナギを無理やり身に着けている。もちろんシャツはだぼだぼ、ツナギは上半身部を丸めて腰の辺りで縛り、足の辺りを何重にも折った挙句それでも微妙に引きずっているが、まあ、それでも、下着でほっつき歩かれるよりはマシ、と思うしかない。
すると、許可してもいないのに自然と俺たちについてくるジェムが、セレスを見下ろした。何しろセレスは背が低いから、誰が見ても大体は見下ろす形になってしまう。
「ウインドワード大尉の新しいパートナー、人工|霧航士《ミストノート》の方ですね」
「知ってんのか」
最低限、俺はさっきロイドから聞くまでこれっぽっちも知らなかったんだが。話を聞いてなかったのはもしかして俺だけだったのか。
「はい。『エアリエル』の操縦士として人工|霧航士《ミストノート》を実験的に運用してみる、という話は以前から伺っていました」
「何で当事者の俺様がそれを聞かされてねーんだよ、おかしいだろ」
「まことに申し上げにくいのですが、大尉が、毎朝のミーティングに出ていなかったからではないかと……」
うん、俺様が悪かったことだけは、よくわかった。
ロイド直属の部下、という扱いであるサードカーテン基地の|霧航士《ミストノート》は、毎朝ロイド司令直々にお言葉を賜る仕組みになっている。だが、何しろここは暇だ。一年のうち仕事の九割は「自主訓練」、残りの一割は「観測隊の手伝い」である。ついでに、|霧航士《ミストノート》なら既にジェムがいるわけで、俺が海をふらふらしていてもそう問題は起きない。
そんなわけで、俺にとって朝は『エアリエル』との散歩を楽しむ時間だったのだ。今日この日までは。
……さすがに、新入りにいきなり不真面目な態度を見せ付けるのもアレなので、明日の朝くらいはロイドのとこに顔を出そう。スケジュールの相談にも乗ってもらいたいし。
そんなことを考えながら歩いている間に、いつの間にやらジェムはセレスに向かって明朗快活な自己紹介をしていた。
「自分は|翅翼艇《エリトラ》第八番『オベロン』操縦士、ジェレミー・ケネット少尉です」
「はじめまして、ケネット少尉。人工|霧航士《ミストノート》試作型、識別名称セレスティアです」
セレスは青い頭をぺこりと下げてから、顔を上げてじっとジェムを観察する。あのジェムも、そこまでじっくり見つめられるという経験には慣れていないのか、明らかにどぎまぎしている。しかし、そこは流石というか、すぐに我を取り戻し、輝かんばかりの笑顔を浮かべてみせた。
「セレスティアさん、ですね。もし、何かお困りのことがありましたら、遠慮なく頼ってください! 同じ|霧航士《ミストノート》として、出来る限り手助けさせていただきます」
「ありがとうございます」
淡々と答えるセレスは、ジェムと対照的にあくまで無表情だ。先ほどから表情がほとんど動いていないところを見るに、これからの意思疎通に多少の不安が残る。まあ、素直ではあるみたいだから、大丈夫だと思いたいが。
ぽつぽつと、大して中身のない自己紹介をしているうちに、医務室に辿りついた。すっかり見慣れてしまった灰色の扉が、俺たちの前に立ちはだかっている。
「憂鬱だ……」
と、呟いた瞬間、素早く扉が開いて何かが俺の額に直撃した。
「いってぇ!?」
「聞こえてるよ、ゲイル」
見れば、白衣を纏ったやたらと胸のでかい女が俺の目の前に立ちはだかり、手にしたファイルをもてあそんでいた。どうやら俺の額を強打したのはそのファイルの角らしい。黒髪に黒い目、俺らより少しばかり濃い色の肌、という東方の特徴を持つ女は、その切れ長の目で俺を冷ややかに睨みつけている。
扉の前で待ち構えていたのか。油断ならない奴なのはわかっていたつもりだが、そうまでして俺をいじめたいかあんたは。
とはいえ、それを指摘すると数倍増しの無慈悲な罵倒になって返ってくるので、出来る限り当たり障りのない言葉を選ぶ。
「よ、よう、サヨ。あー、他の連中は?」
「今はちょうど休憩時間。とっとと入りな。……おや?」
サヨの目が、俺から少しばかり下げられて、俺にひっつくセレスへと向けられる。セレスはジェムに対してそうしてみせたのと全く同じ動きで頭を下げた。まるで、そういう仕掛けの人形であるかのように。
「はじめまして。人工|霧航士《ミストノート》試作型、識別名称セレスティアです」
「ああ、あんたが。話は聞いてるよ。あたしはサヨ、サヨ・イワミネ。ここの軍医だよ。傷病者全般を看るけど、専門は|再生記術《リジェネレイト・スクリプト》だ。これからよろしく」
やっぱり、サヨもセレスの配属は知らされてたのか、あっさりとセレスの存在を受け入れている。それどころか、俺の前では不機嫌そうな面ばかり晒すサヨらしくもなく、晴れやかな笑顔すら浮かべてやがる。
「はは、なんだい、人工|霧航士《ミストノート》だなんていうから、もっとごつい野郎か何かかと思ってたけど、随分かわいい子じゃないか」
「体型は、|翅翼艇《エリトラ》搭乗時の重量負荷を下げるために小型に設定されています」
「そういうことじゃないんだけどねえ……。ね、ちょっと顔触っていいかい?」
「どうぞ」
セレスが顔を突き出すように背伸びしてみせる。サヨは遠慮も何もあったもんじゃない手つきで、セレスの頬をつついたり伸ばしたりしはじめる。
「なるほど、肉体の組成は人間のそれと変わらないんだね。ああ、すごくもちもちしてる。若いってうらやましいよ」
俺へのつれない対応とは打って変わって、セレス相手にうっとりしてるぞ、大丈夫かこのお医者さん。セレスはセレスで、何をされても嫌な顔一つせず、それどころか微動だにせずサヨをじっと見つめているし。何だこの珍妙な光景は。
無意識に唇を尖らせていると、ジェムがちらりとこちらを見て、遠慮がちに口を開く。
「……ウインドワード大尉、妬いてますか?」
「妬かねーよ」
サヨの、あまりにもあんまりな態度に引いてるだけだ。そもそも、俺がセレスに妬いてどうすんだ。サヨは俺のもんじゃない。最低でも、今は。
しばしセレスのほっぺたをもちもちしていたサヨは、不意に我に返ったのか、「ありがとね」とセレスを解放し、ぎろりとこちらを睨む。
「さて、本題だけど」
「お、おう。貰った薬は飲んでるぞ? きちんと朝晩飲んでるぞ?」
「そりゃ珍しいこともあったもんだね。でも本題はそこじゃない」
サヨがつかつかと部屋に入っていくので、俺も背中を丸めてそれを追……、おうとしたが、ごく自然にセレスとジェムが後ろからついてくるので、片手で遮って戸を閉めた。この手の話は流石に人に聞かせるもんじゃない。
サヨは自分のデスクの椅子に腰掛けると、顎で俺にもう一つの椅子を勧めてきた。嫌な予感を覚えながらも腰を下ろした途端、腕の中にファイルが投げ込まれた。恐る恐る中に入っていた書類を取り出したところで、サヨが切り出す。
「あんた、最近、前よりも調子悪くなってない?」
空言ミストノーツ
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1-07:つくりものと一緒
俺を見上げるセレスの目はまるで鏡だ。俺と、俺が捨てたはずのものを映し出す鏡。そこに映る俺の姿を直視する勇気はなかった。できることといえば、話の矛先を逸らすことくらいだ。
「なら、セレスのことも教えてくれよ。俺はお前と違って事前知識がねーからさ」
「しかし、今のわたしに話せることはあまりありませんが」
「いいぜ、何でも。そもそも俺様、人工|霧航士《ミストノート》ってやつがどういうもんなのかよく知らねーから、その辺りから教えてくれよ」
どういうもん、と。セレスは俺の言葉を鸚鵡返しにする。
「あっ、俺様馬鹿だから、難しい話はやめてくれよ」
「はい。人工|霧航士《ミストノート》の開発理由はゲイルが認識するとおりなので割愛しますが、従来の|霧航士《ミストノート》の脆弱性を克服するため、わたしは『肉体』を複数保持し、換装する仕組みになっています」
「肉体を……、換装?」
はい、とセレスはいたって真面目な顔で頷く。もちろん冗談でも何でもないんだろうが、発言のあまりのトンデモ加減にくらくらする。
いや、俺だって馬鹿とはいえ|霧航士《ミストノート》、セレスの言いたいことはわかるのだ。
万物は物質界と魂魄界の双方に座を持ち、肉体が死ねば魂魄は消え、魂魄が消えれば肉体も死に至るわけで、それは|霧航士《ミストノート》だって例外じゃない。しかも、|霧航士《ミストノート》の場合は単純に撃ち落とされる他に、もう一つ、逃れようもない死が待っている。
「ゲイルはご存知とは思いますが、|霧航士《ミストノート》の主要な死亡原因は戦死でなく蒸発です」
|魄霧《はくむ》汚染による蒸発。何も|霧航士《ミストノート》に限った現象じゃないが、ほとんど|霧航士《ミストノート》の職業病のようなもんだ。物質界に漂う|魄霧《はくむ》はそのままなら無害だが、|翅翼艇《エリトラ》は|魄霧《はくむ》を取り込んで圧縮して濃度を高めることで船体を浮かばせ、推進させ、兵装を運用する。この時、圧縮された|魄霧《はくむ》は万物を本来あるべき形――つまり|魄霧《はくむ》へと還そうとする力を持っている。これが|魄霧《はくむ》汚染であり、その最終段階が肉体の|魄霧《はくむ》化、つまり蒸発である。
この汚染は|翅翼艇《エリトラ》との同調が深ければ深いほど加速する。俺なんかは蒸発ぎりぎりで踏みとどまっている段階だから、全力で『エアリエル』を飛ばすことは許されない。飛ばしたら確実に死ぬ。そういうことだ。
「この肉体には可能な限りの汚染防止処置が施されていますが、それでも仮に蒸発に至った際には魂魄を新たな肉体に結びつけることで、繰り返しの運用が可能になります」
「新たな肉体……、って、そんなもんが本当にあんのか」
「はい。現在魂魄と結びついている『わたし』を含め、試作体三体を当基地に輸送しました。常態では凍結保存されていますが、緊急時には即時の解凍が可能です。当然、換装する以上肉体的な経験は初期化されますが、魂魄は経験を保有しているので、魂魄依存である|翅翼艇《エリトラ》の操縦には支障ありません」
つまり、蒸発しにくくて、蒸発したとしても「替え」があるってことか。反則だろ。
「とはいえ、長時間代替の肉体が用意されない場合は、魂魄も消失します。魂魄は単一なので運用の際は注意願います」
理想としては蒸発する前に換装すること、とセレスは言うが、まあそんな上手くは行かないだろうな、ってのは想像つく。その辺りも含めて、未だ「実験段階」ってことなんだろうな。あの変態エロ魔女も、とんでもないことを考えるもんだ。だからこそ変態エロ魔女なんだが。
「既に肉体の換装実証実験は完了していますが、実際の運用場面における換装機会や手順に関するデータはこれからの実践で取得していくとのことです」
「そもそも、換装が必要な事態にならないといいけどな……」
換装が必要ってことは、蒸発覚悟で飛ばなきゃならない瞬間があるってことで、それはつまり実戦だ。さっきは雑魚相手だったから軽く凌げたが、もはや自由に飛べない俺と、どんな飛び方するかも知らないちびっこがどれだけまともに戦えるかは正直怪しい。
溜息を一つついたところで、見慣れた扉が目に入る。
「……っと、ついたぞ。ここが俺様の部屋だ」
ドアの取っ手に手をかけることで、鍵が開く。どうも魂魄に特有の波長――「魂魄紋」を利用した認証鍵らしいが、開けって思えば開くもんだとしか知らない。これから同じ部屋を使う以上、後でセレスの魂魄紋も登録してもらわないとな。
当のセレスは、無表情ながらも興味津々といった様子で部屋を覗き込み、
「あまり、ものは多くないのですね」
ごくごく率直な感想を口にした。
言いたいことはわかる。部屋にあるのは、作りつけのクローゼットと、安っぽい寝台。ぱっと目に入るのはそのくらいだ。服は普段脱ぎっぱなしで投げ捨ててあるのだが、つい最近纏めて洗ってクローゼットに放り込んだばかりだ。新入りにむさくるしいところを見せずに済んだ俺のタイミングのよさを盛大に褒めてやりたいところである。
まあ、それに、ものが少ないのには理由もある。
「飛ぶのに、俺様自身と船以外のもんは必要ねえだろ」
「なるほど」
セレスもその説明で納得したのか、こくりと頷いた。それから、持ってきていた小さなトランクを指す。
「ゲイル、わたしの荷物は、どこに置けばいいでしょうか」
「あー、そうだな。その辺、適当に置いとけばいいぞ。で、俺様ちょっと着替えるから、あっち向いとけ」
「なぜですか?」
きょとん、と。セレスはすごくかわいい顔で首を傾げやがった。
「お前には、男の裸を眺める趣味があるのか?」
「今まで他者の肉体を観察する機会はなかったので、興味深く思います」
「いいか、見るんじゃねーぞ! 裸をまじまじ見るのはマナー違反です!」
誰だこいつに常識教えたの、と思いかけて、かつていい笑顔で俺を解剖しようとした変態エロ魔女の顔が浮かんで諦めた。うん、親が親なら子も子ってことだ。
ともあれ、セレスが俺の言葉を守ってくれていると信じて着替えを寝台に投げ、パイロットスーツを脱いで下着だけになる。普段ならこのまま昼寝に入るところだが、セレスの前ではそうもいかないので、きちんと服を着る。
何とか見られる形になったところで、セレスの方を振り向いて――。
「おい」
「はい」
「どうして脱いでんだ」
俺が着替えてる間、いつの間にかセレスの方もパイロットスーツを脱ぎ捨てていた。
が、それはいいとして、どうして全裸なのか。
真っ白い肌に、凹凸の極端に少ないすとんとした体つき。パイロットスーツ越しにも明らかではあったが、つややかに張った肌が改めてつくりものらしさを感じさせる、ってそうじゃないぞゲイル落ち着け。
まじまじ見るのはマナー違反、って言ったのは俺なのに、思わず凝視しちまったじゃねーか。しかもセレスは恥ずかしがりも嫌がりもせず、不思議そうに目をぱちぱちさせている。
これ、もしかして一つ一つ丁寧に指示しなければわからないやつなのか。|霧航士《ミストノート》の教育を任されて、どうして一般常識から入んなきゃならないのかはさっぱりわからんが。
「服を着なさい」
「パイロットスーツと下着以外は持っていません」
「荷物少なすぎだろ! じゃあせめて下着を着ろ!」
素直に頷いてトランクから下着を引っ張り出すセレスを尻目に、せめて何か着られそうなものを、と思ったが、何しろ俺とセレスの体格はあまりにも違いすぎる。
「――服を仕入れるしかねーな、こりゃ」
横目の端で見たセレスは、目をぱちくりさせるだけ。要するに、全く事態を理解していない。何だか、いつもとは違う意味で、頭が痛かった。
空言ミストノーツ
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1-06:限界に立ちつくし
――厄介なことになった。
俺はつい口から飛び出しそうになった溜息を、何とか喉の奥に押し込める。ジェム相手ならともかく、この、本当に右も左もわからない顔をした小動物に言うことじゃない。
「じゃ、案内するぜ。毎度連れてくわけにはいかねえから、早めに覚えろよ」
杖を持ち直して歩き出そうとしたとき、片手に小ぶりのトランクを手にしたセレスティアが、ついと俺の袖を引いた。
「あの、ウインドワード大尉」
「あ?」
そういえば、顔を合わせてから初めて「はい」以外の言葉を聞いたな、とかどうでもいいことを考える。すると、セレスティアは精一杯背伸びして、俺と目を合わせて問いかけてくる。
「足が悪いのですか?」
――せめて、そのくらいは説明しておいてくれないものか。
俺が司令室にたどり着くまでに、ロイドがどれだけ俺について説明したかは知らないが、この様子だとほとんど何も話してないんだろうな。
自分で説明するにはあまりにも情けない話なのだが、これから一緒に飛ぶ相手だ、簡単には説明を加えておく。
「三年前、下らないヘマして手足が使い物にならなくなった。今は随分よくなったけどな」
それでも、杖なしで長時間立ってるのはきついし、腕や手の力は依然として皆無に近い。もし俺が普通の飛行艇の操縦士なら、とっくに船から引きずり下ろされてただろう。
未だに俺が|霧航士《ミストノート》でいられるのは、|翅翼艇《エリトラ》の操縦が、|霧航士《ミストノート》の身体能力にほとんど依存しないからだ。もちろん機動の負荷に耐えられる最低限の筋力は必要だが、そこさえクリアすれば手足が不自由でも何とでもなる。
その代わり、通常、|霧航士《ミストノート》の寿命は限りなく短いわけだが――。
「体がこれでも、飛ぶだけなら困らねーからな。陸では面倒かけるかもしれんが、そこは堪忍してくれ」
「はい、わかりました。意識します」
セレスティアはこくこくと頷く。ぼんやりしてはいるが、ろくでなしに定評のある|霧航士《ミストノート》らしからぬ、素直ないい子らしい。素直なのはいいことだ、本当に。
そうだ、ついでに言っておかなければならないことがあった。
「それと、俺様のことはゲイルでいい」
「ゲイル、大尉?」
言うと思ったよ。これは俺の言葉が足りなかったと反省すべし。
「階級もいらねえ。敬称もだ。めんどくせーだろ、一緒に飛ぶのにそんな呼び方じゃ」
単純に、階級やら敬称やらで呼ばれるのが好きじゃないだけなのだが。特に、これから一緒に飛ぶ奴にいちいち「ウインドワード大尉」なんて呼ばれちゃこそばゆくて仕方ない。
「しかし」
「いいから。基地の連中にもそう呼ばせてんだ」
ただし、ジェムを除く。あいつは何を言っても聞かないからもう諦めた。
「代わりと言っちゃなんだが、お前のことはセレスって呼んでいいか」
「セレス」
「……嫌か?」
どうも不安になる。何しろ、こいつの感情はさっぱり読めない。常に目を大きく見開いて、じっとこちらを見つめてはいるが、その間、表情が全く動かないのだ。笑いもしなければ、嫌な顔もしない。つくりものだからなのか、それともこいつの性格なのか。それすらも判断できないまま見つめ合っていると、やがてセレスティアが口を開いた。
「セレス……。セレスですね。はい、わたしはセレスです。よろしくお願いします、ゲイル」
今のは、自分の中で新しい呼び名を納得するまでの時間だったのだろうか。
考えたところで答えは出なさそうなので、早々に頭から追い出した。とにかく、セレスティア、改めセレスと仲良くやっていく方法を考えるしかない。
しかし、人造の|霧航士《ミストノート》、か。
開発が進められている、というのは時計台に残っている連中から聞いていたが、それがこんなちびっ子だとは思いもしなかった。それこそ、|翅翼艇《エリトラ》を動かす機能だけを持った、かろうじて人の形をしているだけの物体だと思いこんでいた。
人の形を、しているだけの――。
『そうだ。これが、人である必要はない』
刹那、頭の中に閃いた声に、鈍い頭痛と眩暈を覚える。
『人の形をしているだけでいい。不要なものは全て削り落とせ』
くそ、嫌なこと思い出しちまった。壁に手をついて、その冷たさを確かめながら、眩暈が止むのを待つ。それから瞼を開けば、セレスが瞬きもせずにこちらを見ていた。こいつ、本当に人から目を逸らすってことをしないんだな。
「ゲイル? どうかしましたか? 顔色が悪いです」
嫌なことを思い出した、ってこともあるが、顔色が悪いのはそれだけというわけでもないはずだ。『エアリエル』を降りてからずっと、全身に重石を積んだような感覚に囚われているから。
「いや、ちょっと疲れてんだな。久しぶりにまともに飛んじまったしさ」
「魄霧許容限界、ですか」
「まあな。だから、お前さんが呼ばれたんだろ。俺様の後釜として」
かけていた色眼鏡をずらして、その下の目を見せる。普段は色眼鏡と伸びるに任せてる前髪で隠れているが、俺の目の色は薄い緑みの青をしている。それは魄霧汚染がほぼ限界に至ったことを示す、一つの指標だ。
「俺様も、蒸発する前に、少しは真面目に仕事をしろってことだろうな」
本当は、いつまでも、飛んでいたいのに。
飛ばなくては、ならないのに。
そんな風に思っている間も、セレスが俺をじっと見上げている。きれいな、青い瞳をしている。かつてどこかで見た、どこまでも深く果ての見えない、青。そんな青を縁取る睫毛の色は、それよりも淡く、光をはらむ薄青。
どれもこれも、俺たちが、かつて目指した場所の色に似て――。
やめよう。ただでさえ疲れてナーバスになってんだから、変な記憶を掘り起こしてもろくなことにならん。特に、あいつがいた頃の記憶なんて。
「……ま、立ち話もなんだ、行くぞ」
「はい」
司令室から、いやに長く感じられる廊下を歩いて、居住区域へ。
てちてちと小さな足音を立てながら歩くセレスを横目で見やる。セレスは背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐに前を見て、俺が最初に言った「早めに覚えろ」という指示に従って、歩いている場所を目に焼き付けようとしているようだった。
そう真面目すぎるのも考え物だぜ、と。
からかおうとして、不意に言い返す声が聞こえた。
『お前が不真面目すぎるんだよ、ゲイル』
ああ、そんなことも言っていたっけな。思い出したくもなかったけれど。どうも今日は、昔のことを思い出したくて仕方ない日らしい。嫌な日だ、本当に。
くさくさする気分を変えるためには、他の話をするに限る。と言っても、初めて顔を合わせるちびっこと当たり障りのないお喋りをする技術なんて、俺にはない。
と、いうわけで。
「……なあ、俺様については、どれくらい聞いてんだ?」
最も当たり障りのないだろう話題、自己紹介から始めることにした。
と言っても、セレスが俺のことをどれほど聞かされてるのかは未知数なので、まずはそこを探ってみる。既に知ってることを二度三度聞かされても鬱陶しいだけだろうし。
セレスは、歩きながらちらりと俺を見上げる。おおかた、道を覚えるという俺からの指示と、今俺から与えられた質問、どちらを優先するか迷ったのだろう。で、ためらいの後、それらを同時にこなすことを選んだらしく、セレスは前方に視線を戻す。いいことだ、前見て歩かないと危ないからな。
「わたしが知っているのは、あなたの名前がゲイル・ウインドワードであること。
女王国海軍大尉、第二世代|霧航士《ミストノート》であること。
|翅翼艇《エリトラ》第五番、高機動戦闘艇『エアリエル』の|正操縦士《プライマリ》であること。
三年前までは時計台の|霧航士《ミストノート》として活動していて、帝国との戦闘、また『原書教団』との戦闘において不敗を誇ったこと。
そして、『原書教団』教主オズワルド・フォーサイスを討って教団解体のきっかけを作った、女王国の英雄であること」
英雄。そう、確かにゲイル・ウインドワードは英雄なのだろう。客観的には。
俺の主観では、単なる人殺しに過ぎないわけだが。しかも、最悪な部類の。
だが、そんな下らない感傷はこの際どうだっていいわけで。「そのくらいです」と言って口を閉じたセレスの、薄青の頭をぽんぽんと叩いてやる。
「結構知ってんだな」
「知っているだけです。わかっては、いません」
わかっては、いない――。その言葉に、胸が跳ねる心地がした。
『どれだけ知識を詰め込んでも、わかってなきゃ意味はない』
そう言った誰かさんのことを、思い出してしまったから。
「だから、これから、たくさん教えてください。ゲイルのこと」
空言ミストノーツ
読上
1-05:セレスティア
彼――ということは、男なのか? 顔つきは女のようにも見えるが。年齢が若すぎるせいで、そのあどけない顔立ちと小さくぺったりとした体格から性別を判断するのは不可能だ。
きょときょとと不思議そうに俺とロイドとを見比べるそいつをよそに、ロイドは淡々と言葉を続けていく。
「彼は、本日からサードカーテン基地に配備される『備品』だ」
「人間じゃねーか」
どこからどう見ても、人間だ。記術による操り人形の線も考えたが、記術仕掛けの絡繰にしてはあまりにできすぎている。見た目も、反応も。
そんな俺の反応は十分想定の範囲内だったのだろう、ロイドは深く頷いて言う。
「確かに組成はほぼ人間と等しいが、我が軍では彼を人間としては扱えないのだ。ウインドワード大尉、お前は人工|霧航士《ミストノート》を知っているな?」
「人工|霧航士《ミストノート》って、すぐ消えちまう|霧航士《ミストノート》の代替品として開発されてる、使い回しの利く|霧航士《ミストノート》だよな。時計台の変態エロ魔女が開発してる」
「変態エロ魔女ってあんたね」
ごめんロイド、素でツッコませてしまった。ロイドも一拍置いてそれに気づいたのか、小さく咳払いをしてから、モードを切り替えて続ける。
「知っているなら話は早い。彼は、二年前に稼動を開始した、我が軍初の人工|霧航士《ミストノート》だ。とはいえ、実戦経験はゼロ。時計台で各種|翅翼艇《エリトラ》の|仮想訓練《シミュレーション》を一年ほど経験したそうだが、実際に|翅翼艇《エリトラ》に乗ったのは先ほどの『レディバード』が初めてだそうだ」
初めての|翅翼艇《エリトラ》で、あの操縦技術か。|翅翼艇《エリトラ》の操作方法は全機体統一されているとはいえ、操縦感覚はばらばらだ。俺だって『エアリエル』以外を操るには、多少の練習が要る。
その手の感覚を生まれながらに身に着けていて、しかも人並み外れた――何年も訓練を積んだ|霧航士《ミストノート》にすらできない飛び方をしていた、人工の|霧航士《ミストノート》。いずれ来たる蒸発に怯えることもなく、ただ、目指した場所に向けて飛んでゆけるなら。
唇に痛みを感じて、初めて自分が唇を噛んでいたことに気づいた。そんな俺を、つくりもののちいさな|霧航士《ミストノート》が、じっと見上げている。感情の見えない、真っ白な面で。
「……見るなよ」
目を逸らす。だが、視界の端では、なおもそいつがじっと俺を見ていた。止めてくれ、頼むから。
俺の動揺を知ってか知らずか、というか絶対わかってるのだろうが、ロイドが口元にうっすらと笑みを浮かべて声を張る。
「さて、ウインドワード大尉。ここからが本題だ」
もはや、嫌な予感しかしなかった。
この場に名指しで呼び出されている以上、いくら鈍い俺でも、この後何を言われるかくらいは予想がつく。
「ウインドワード大尉には、この人工|霧航士《ミストノート》の教育、そして最終的に実戦運用可能かどうかの判定を下してもらう」
「えぇー」
素直な感想が思わず口をついて出た。正直なことはいいことだって、じっちゃんが言ってた。俺、祖父さんの記憶ないけど。ついでに、相手が時計台のお偉いさんならともかく、勝手知ったるロイドだ。つい身を乗り出して突っかからずにはいられない。
「おいロイド、俺は嫌だぞ、教育係なんて。なんで時計台の連中じゃなくて俺に回ってくんだよ。適任者ならいくらでもいるだろ、ジーンとかさ」
嫌だし、何より無理だってことくらい、ロイドだってわかっているだろうに。
俺には教育なんて向いていない。ただ自分が飛ぶことしか考えられない俺に、他人を教えることなんてできやしない。それこそ、何人もの曲者を立派に|霧航士《ミストノート》として育てあげてきたロイドの方がよっぽど適任だ。
だが、ロイドは「ほんと馬鹿ねえ」と司令モードを崩して肘をつく。
「時計台の面々は簡単には手が離せないの。一番暇なのがあんたってこと。それに、あんただって、いつまでも現役じゃいられないのよ? というより、もう現役とも言えないでしょ、その体じゃ」
つい色眼鏡の下から睨みつけてしまうが、長い付き合いであるロイドは、俺がどうして嫌がっているのかもお見通しなのだろう、とてもいい笑顔で俺を見上げる。
「『エアリエル』のノウハウは、あんたにしか伝えられない。今のあんたが自由に飛べないなら、自由に飛べる奴を作らないといけないの」
「……っ」
悔しいが、全く、言い返せなかった。
今の俺は、自由に飛べない。ぼんやり浮かんでるだけならともかく、全力で飛ぼうとすれば三分足らずで蒸発する。だからといって、飛ばないということは、俺にはできない。
――できない、のだ。
「飛ぶなって言ってるわけじゃない。その子と一緒に飛べ、って言ってるのよ。『エアリエル』には二人分の席がある。あんたは馬鹿だけど、そのくらいはわかるでしょう?」
「ああ、わかるよ。……くそっ」
それでも、つい、悪態をつかずにはいられない。限界は俺自身が一番よく知っているし、上がとっとと俺を|翅翼艇《エリトラ》から降ろして「お飾りの英雄」にしたがっていることも、何となくは感じていたんだ。だから、いつか、決断を迫られるとは思っていた。だが、それが今日だとは思ってもいなかったのだ。
飛び続けるためには、この条件を飲むしかない。そもそも、俺の翼たる『エアリエル』が軍のものである以上、色々と文句をたれはするが、結局のところ拒否権は俺にはない。
その『エアリエル』も、今この瞬間、いつまで俺の翼でいてくれるのかわからなくなってしまったわけだが。
それでも、問答無用で『エアリエル』から引きずり下ろされるよりは、まだ救いのある措置だと思うことにする。その辺りは俺の「飛行狂」っぷりを知るロイドの温情なのだということも、わかるから。
俺の沈黙を肯定とみなしたらしいロイドは、背筋を伸ばして立ち尽くしていたそいつに、ミラーシェード越しの視線をやる。
「セレスティア」
セレスティア。天上、を意味する言葉。女の名前なのか。さっき『彼』って呼ばれてたのに。
すると、セレスティア、と呼ばれたそいつが、ついと細い顎を上げて言った。
「はい」
先ほど魂魄通信で受け取った「青い声」が、今度は実際に鼓膜を通して響く。
「君を本日付けで、|翅翼艇《エリトラ》第五番『エアリエル』の操縦士として扱う。ゲイル・ウインドワード大尉を教官として、訓練を行うこと。訓練スケジュールはウインドワード大尉に一任する」
「はい」
「へいへい」
しかし、訓練スケジュールって言われてもな。訓練生時代に何をやってたのか忘れたわけじゃないが、何一つとして参考にならないことだけは確かだ。俺の訓練は、何というか、訓練とはいえないシロモノだったから。
「また、君は本日から、ウインドワード大尉の部屋を共同で使用すること」
「はい」
「へいへ……っておい!?」
思わず流しそうになったが、おかしくないか。
「部屋くらいくれてやれよ! 余ってんだろ!?」
「彼は人の形こそしているが『備品』だ、部屋を与えるなどおかしいだろう?」
「で、本音は?」
口元を引きつらせながら問うと、ロイドはにっこりと笑顔を浮かべ、
「だって面白そうじゃない」
と、のたまいやがった。
「ちくしょうそう言うと思ったよあんたって奴ぁ!」
「まあまあ、一応さっきのが表向きの理由。あと『エアリエル』で一緒に飛ぶとなれば、お互いの理解も必要でしょう。同調訓練の一環だと思って」
「思えるか! っつーかその子女の子だろ!?」
「違うわよ」
「は?」
「女の子じゃないわよ。人工|霧航士《ミストノート》は、生殖能力を設定されてないから性別が無いの。だから、セレスティアは男性でも女性でもないわ。ほら、何一つ問題ないと思うけど」
なるほど、こいつが男にも女にも見えたのは、そもそもどちらでもなかったからか。だからロイドも便宜上「彼」と呼んでたのだろう。それはわかる。
……だからって、いいのか本当に。
「性格的っつーか魂魄的にどっち寄りとかねーの?」
「シェイクスピア博士によると、魂魄は女性ベースらしいけど」
「ダメじゃねーか。問題ありありじゃねーか」
「でも、色々言うけど、あんたさえ変なことしなきゃ、何も問題はないわけよ」
ロイドの言う通りではある。ごくごく正論で、あまりにも正論だった。今までギャーギャー言ってた俺が悪かった、と素直に認めたくなるほどに。しかも、ロイドはにやにやと笑みを浮かべて追撃を決めてくる。
「そもそもあんた、巨乳専じゃない。子供とか少年に欲情するケはないでしょ」
「時と場合による。溜まってりゃ欲情することだってあると思う」
「その正直さだけは評価してあげるわ。人として最低な回答だけど」
うん、あまりに正直すぎるのもよくないなって答えてから気づいた。
当のセレスティアさんは、何の話をしているのかわからない、とばかりにぽかんとしていらっしゃる。今のやり取りは理解されても困るのでそれでいいが、こいつ、部屋の問題以前に話通じるのかな。未だ「はい」以外にうんともすんとも言わないだけに、どうも不安になっちまう。
「とにかく、部屋割りは上官命令だ。問題が起きそうならその時に相談しろ」
「ふえーい」
こういう時に限って都合よく上官面しやがって。あと問題起きそうになった時には大体手遅れな気がするけどいいのかそれで。
何とも釈然としない心持ちながら、どうせ逆らっても無駄なので、肩を竦めて言う。
「で、話は終わり? 俺様、部屋に帰っていい?」
「本題は終わり。あと、こっからはオフレコなんだけど」
ロイドが崩した口調で話しかけてくる。「何だよ」と返した俺の声が明らかな不機嫌さを含んでいたことに関しては、どうか見逃していただきたい。正直俺だっていっぱいいっぱいなんだ。
実際、ロイドは見逃してくれたのだろう。口元に苦笑を浮かべながら、机の上に置かれていたスイッチを押す。その瞬間、外から聞こえていた音がぱたりと止んで、重苦しいくらいの静寂が部屋を包む。
防音結界だ。ロイドが、他人に聞かれたくない話をする時の。反射的に背筋を正して、ロイドの言葉を待つ。
ロイドは今までのにやにや笑いを引っ込めて、いやに低い声で言う。
「……あんた、教団の動きについて、どのくらい把握してる?」
「あ? さっぱりに決まってんだろ。さっき、輸送艇の連中から聞いて、初めて教団の残党が動いてるって知ったレベルだよ」
「まあ、あんたはそうよね。実は、教団の残党がセレスティアを狙ってるらしいの」
この、小動物みたいな面した人工|霧航士《ミストノート》を――?
思わずそちらを見ると、いつの間にか、セレスティアはじっと俺を見つめていた。その、真ん丸い瑠璃色の目を見つめ返しながら、どうにも釈然としないものを感じて、改めてロイドに向き直る。
「だが、輸送艇の連中は、どうして襲われるかわかってなかったみてーだぞ」
「この情報は、セレスティアを造ったシェイクスピア博士から直接聞いたものよ。だから、ほとんどの人間は何も知らない」
嫌な話だ。今日何度目になるかもわからない舌打ちを、一つ。ただでさえ自由に飛べない俺に、別の理由で自由とはいえない教え子ときたか。
「目的も理由も未だ不明。詳細は私の方で調べておくけど、基地の外に出る時は気をつけて。あと――サードカーテン基地外部の人間にも」
「外部って、時計台の人間も含めてか」
「もちろん。輸送艇の連中は今すぐ帰すからともかく、これ以降ね」
ロイドがそう言うなら、警戒するに越したことはない。事実、つい三年ほど前まで、教団の信者は時計台の内側からも、俺らの足を散々引っ張ってきたのだ。時計台の人間が来ることはめったにないだろうが、何とも面倒くさい。
とはいえ、今の俺にできることは、ロイドの言いつけを守ることだけ。
「了解だ、ロイド先生」
投げやりな敬礼と同時に横を見れば、セレスティアは、何故かロイドではなく俺を見上げていた。いつになく、張り詰めた顔をしているだろう、俺を。
空言ミストノーツ
読上
1-04:サードカーテン基地
霧の海に浮かぶ辺境のちいさな島、サードカーテン島の西端。それが、俺の今の寝床たるサードカーテン海軍基地だ。と言っても軍事拠点というわけではなく、本来は第三の帳、つまり「世界の端」とも言われる未踏の霧の壁、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》を観測するための根拠地だ。
輸送艇と『レディバード』の着陸に関しては基地の連中に任せて、俺は、俺――というか『エアリエル』のために基地の建物の隙間に切り取られた、正方形の発着場へと降下する。離陸に滑走を必要とする揚力を利用した一般的な飛行艇と違って、|翅翼艇《エリトラ》は飛行翅による垂直離着陸が可能な分、必要なスペースはごく少ない。
普段通りに難なく降り立ったところで、『エアリエル』との同調を完全に切る。途端、視界が風防に広がる霧一色になって、重苦しい疲労感が体を押しつぶそうとする。昔はここまで酷くなかったはずだが、衰えってこういうものなんだろうな。
手探りで体を固定していたベルトとうなじの辺りに接続していた同調器を外して、ヘルメットを脱いで首をめぐらせる。頭がいやに重いのは、何も同調の後遺症というだけではなく、あまりにも色々ありすぎて、魂魄の処理容量を超えちまってるからかもしれない。
平和ボケしたこの頭は、突然起こったことを正しく認識してくれないようにできている。単に、面倒くさくて深く考えようとしていないだけだが。
もう一度頭を振ったところで、突然『エアリエル』の扉が激しく叩かれた。一応、着陸後も外の音声だけは通すようにしてあったのだが、そのせいで外から投げかけられる声も、ストレートに俺の耳に飛び込んでくる。
「ウインドワード大尉! 生きてますか!? 蒸発してませんか!?」
「してねーっつの人聞きの悪ぃ! 今出る!」
ほんと人聞きが悪いにもほどがある。蒸発するときは気持ちよく飛んだ末に『エアリエル』と心中するって決めてんだから、こんなどうでもいい場面で蒸発したいとは思わない。
とにかく、このまま死んだことにされちゃたまらない。慌てて開錠の釦を押して、外に這いずり出る。と、目の前に手が差し伸べられた。
「大尉、ご無事で何よりです。さあ、お手を」
見上げれば、黒に白と黄色のラインが入ったパイロットスーツに身を包み、鮮やかな赤毛をそれはもう完璧なおかっぱ頭にした好青年が、はじけんばかりの爽やかな笑顔で俺を見つめていた。
きらきらしてる。すごくきらきらしてる。目とか。あと全体的な雰囲気とか。何かもうきらきらしすぎてて目も当てられないくらい。
ろくでなし霧航士ランキング期待の新人、ジェム――ジェレミー・ケネット少尉。一応俺の後輩に当たる最新|翅翼艇《エリトラ》の乗り手だが、諸事情により軍本部でなくこの辺境で訓練をしている。
そして、これまた何故か、俺にことあるごとに付きまとってくる。何故か、と言いながら理由はわかりきっているのだが。
……せめて、お前がかわいい女の子ならよかったのになあ。
今まで散々思ってきたことをもう一度頭の中で繰り返し、その不毛さを噛み締めながらも、素直に手を借りる。残念ながら、俺一人では『エアリエル』から降りることもままならない。
何とかふらつく両足で地を踏む。足の付け根や関節に鈍い痛みを感じるが、もうこれは如何ともしがたい。ああ『エアリエル』、なんでお前は俺の足じゃないんだ。できることなら、二十四時間お前に乗っていたい。お前に比べて生身の重さったらないよマジで。
そんな俺の内心の嘆きなど絶対に気づいちゃいないジェムは、一体どこから取り出したのか、手に握り締めていたものを差し出してくる。
「眼鏡をどうぞ! こちらが杖になります!」
「お、おう、サンキュ」
ダメだ、いつになってもこの扱いには慣れない。俺はお姫様か何かか。もう三十も半ば近いおっさん相手に何をやってるんだこの青少年は。そんなことしてる暇があったら、もっといい子探しなさいって。
俺が相当すごい顔をしているにもかかわらず、ジェムはそのきらきらとした笑顔を崩すことなく、かいがいしく俺の世話を焼く。正直、恥ずかしいのでやめていただきたい。
ヘルメットと交換で色眼鏡をかけて、杖を返してもらったところで、ジェムはぴんと背筋を伸ばし敬礼をする。
「改めましてウインドワード大尉、グレンフェル大佐からの伝言です。『至急司令室まで来なさい、ハリーアップ!』とのことです!」
ロイドの口調まで再現しなくてもよかろうに、とは思うのだが、その内容はちょっと聞き捨てならなかった。
「は? 俺様に? さっきの輸送船の連中じゃなくて?」
「ウインドワード大尉にも同席していただきたい、とのことです」
……嫌な予感しかしない。
本当はとっとと着替えてゆっくり休みたかったんだが、どうも、それだけでは済まされない感じがひしひしする。
だが、ロイドからの呼び出しとあっては逆らうわけにはいかない。逆らったら後が怖すぎる。仕方なしに杖をついて司令室に向かおうとしたその時、ジェムの声が背中から聞こえた。
「お供いたします!」
「お前は呼ばれてねーだろが! ついてくんな! ハウス!」
「そんな! 僕はウインドワード大尉のお世話係では」
「いつ俺様そんな係作ったの!? お前の頭ん中ほんと都合よくできてるよね!」
まとわりつくジェムを杖で追い払いながら、たかが知れているとはいえ早足でその場から逃れようと試みる。
あと格納庫の方からこちらを窺う整備隊の、顔を真っ赤にして笑うのを全く堪え切れてなかった奴。主にゴードンとレオ、覚えたからな。俺は体こそろくに動かないが、目はいいんだ。後で鋼板抱かせて砂利の上で正座させてやるから覚悟しとけよこんちくしょう。
途中で何とかジェムを撒いて、司令室の前。ろくに力の入らない手で、三回ノックする。
「誰だ?」
「ゲイル・ウインドワード大尉でありまーす」
「……入れ」
司令モードのロイドの声が、呆れを含んだニュアンスで入室を促す。いやまあ、緊張感の無い俺が悪いのはわかっているが、どうもこの基地のゆるーい雰囲気に感化されたというか。これ、多分にロイドの人柄もあるとは思うのだがいかがだろうか。
そんなことをつらつら思いながら、「失礼します」と司令室に足を踏み入れる。
途端、目に入ったのは、青だった。
言葉通りだ。
俺に背を向けて立つそいつは、小さくて、青かった。
俺と同じ型――そもそも|霧航士《ミストノート》はみんな同じ型なわけだが――の、これまた俺と同じデザインである薄青に白のラインが入ったパイロットスーツ。スーツが浮き立たせる体のラインは頼りなく、背丈もやたらと低い。遠目から見ても、俺と頭一つ以上違うのではなかろうか。
何よりも、目を引くのは、短く切りそろえられたその髪の色だ。
染めている、にしてはいやにつややかで自然な、淡い青色。光の加減によっては、白を溶かしたようにも、深く底の見えない青にも見える、不思議な色。
色眼鏡を通して見ているからだろうか、とレンズを少し下げてみるが、レンズの色は俺の見ている光景に何ら影響しないということがわかっただけだった。
すると、そいつが、不意にこちらを振り向いた。
髪の色よりも色の濃い、混じりけのない青。澄んだ|瑠璃《ラピスラズリ》の瞳が、真っ直ぐに、俺を映し込む。
「……あ」
――青の作り方を、教えようか。
記憶の奥で、囁く声がする。
――|瑠璃《ラピスラズリ》の青。|瑠璃《ラピスラズリ》を細かく砕いた粒子を溶かすことで、鮮やかな青が生まれる。
もはや永遠に交わされることのない会話。俺がこの手で焼き尽くした、カンヴァスの青さ。
あの日から幾度となく俺を苦しめてきた鈍い頭痛に、ついこめかみを押さえたその時だった。
「遅いぞ」
奥から聞こえてきたロイドの声に、やっと、我に返る。青い――少年? 少女? ぱっと見では判断できない――そいつは、俺をじっと見つめたまま、首を傾げていた。
何とか視線をそいつから引きはがし、色眼鏡の位置を直してロイドに意識を向ける。
「すみませんね。ジェムを振り切るのに手間取って」
正直なところを言葉にすると、あー、それは仕方ないわねー、と小さく呟いたのが聞こえた。ロイドは本当に物分りがよくて助かる。
ロイド・グレンフェル大佐。
我らがサードカーテン基地司令。そして、俺の師匠でもある、元|霧航士《ミストノート》。口調こそちょっとばかり特徴的だが、俺様調べ「ろくでなし|霧航士《ミストノート》ランキング」に含まれていない、ごく数少ないまともな人物だ。まともだからこそ、|霧航士《ミストノート》で唯一それなりの地位に上り詰めた、ともいえる。
白髪交じりの灰色の髪を撫でつけ、この基地の人間には珍しくきっちり軍服を纏っているロイドは、机の上に肘をつき、整った顔を覆うミラーシェードの色眼鏡をこちらに向けた。
俺と同じく、ロイドの目は魄霧汚染で強い光にめっぽう弱い。ついでに、俺以上に汚染の度合いが酷いロイドの足は、膝下辺りから跡形もなく蒸発していて、長らく車椅子で生活している。蒸発が両足だけで済んだからこそ、今、まだこうして生きているともいえるが。
ほとんどの|霧航士《ミストノート》は、愛機の中で、己の形を失うものだから。
そんな数少ない「|霧航士《ミストノート》の生き残り」であるロイドは、司令として声をかけてくる。
「楽にしていいぞ、ウインドワード大尉」
「ではお言葉に甘えて」
長話でないことを願いつつ、壁にもたれかかる。それをミラーシェードの色眼鏡越しに確認したロイドは、話を始める。
「さて、君に来てもらったのは他でもない。そこにいる『彼』についてだ」
空言ミストノーツ
読上
1-03:ゲイル・ウインドワードの三十秒
宣言して、『エアリエル』に潜る。先ほどよりも、ずっと深く。頭のてっぺんから爪先まで、俺自身が丸々『エアリエル』そのものへと作りかわるような感覚と共に。
一息で、霧を、裂く。
俺の狙いに気づいたのだろう、速度を上げて上昇しかけた戦闘艇の姿を目に焼き付けたまま、彼我の距離はあっけなく消し飛び、戦闘艇の上方に陣取る。
何も、本当に距離が「消し飛んだ」わけじゃない。滞空状態から、瞬間的に加速しただけだ。
俺の愛機、|翅翼艇《エリトラ》第五番『エアリエル』の真髄は、個性豊かな他の|翅翼艇《エリトラ》とは違い、ごくごく単純な高速機動。単純だからこそ誰よりも速く飛べる。そういうことだ。
『……っ』
戦闘艇の操縦士は、何か、気の効いたことを言おうとしたのかもしれない。魂魄にノイズのような意識が混ざりこむ。
だが。
「つまんねーんだよ、お前」
俺は、そんな、お手本通りの飛び方の奴と遊びたいわけじゃない。
何とかこちらの射程から逃げようと船体を捻らせる戦闘艇に照準を定め、意識の中で弓を引く。それだけで、『エアリエル』は俺の意を汲んで唯一の武装を構えてみせる。
|記術《スクリプト》型演算式砲台『ゼファー』。照準を合わせた標的に向けて、|魄霧《はくむ》から生成した熱線を放つ、典型的な|記術《スクリプト》型砲台だ。|記術《スクリプト》型という性質上、|魄霧《はくむ》の中を飛ぶ限り弾数は無限。反面、物理弾のような破壊力はなく、熱が周囲の|魄霧《はくむ》に散らされる都合射程も短い。高速で動く『エアリエル』にとっては「連射は利くが針並みの火力の近接格闘武器」と言っても過言ではない。
それでも。
「じゃあな」
ほとんど鼻先が触れるくらいにまで踏み込めるなら、どうってことはないのだ。
矢を放つイメージと同時に『エアリエル』から射出された青白い熱線は、狙い違わず戦闘艇の操縦席をぶち抜いた――ということを魂魄の片隅で認識すると同時に、更に飛行翅を羽ばたかせる。
目指すは、基地の監視海域から今まさに脱出しようとしていた、偵察艇だ。
『ひ……っ』
喉を引きつらせるような、緊張と恐怖の感情が、通信として魂魄に流れ込んでくる。それはそうだろうよ、どれだけ必死に逃げたところで、『エアリエル』から見れば陸の亀と同然だ。その性能差は、ごくごく単純なものだからこそ、向こうさんもばっちり理解しちまったんだろう。
――逃げ切れない、と。
偵察艇は、身の軽さを生かして速度を殺さないまま旋回し、こちらに機銃の銃口を向ける。逃れられないとわかった以上、緊急用の武装を使ってでも、せめて一矢報いようというのだろう。
確かに『エアリエル』は他の|翅翼艇《エリトラ》と比べても、それどころか一般的な戦闘艇と比べても圧倒的に装甲が薄く、脆い。ついでに鞘翅を持たず、飛行翅を発生させる機関が剥き出しである以上、貧弱な機銃の一撃でも、まともに喰らえばあっさり墜ちる。
とはいえ、それは、あくまで「攻撃が当たれば」という話であって。
機銃の銃口を睨んだまま、更に加速。周囲の霧を喰らう『エアリエル』の駆動音の咆哮が響き渡る。もっとだ、もっと速く。そう求めているようにも聞こえて、ほとんど無意識に笑い声が漏れた。
もっと速く。もっと遠く。誰の手も届かないように。戦いの海にいたころに、何度も繰り返した言葉を、もう一度だけ繰り返して。
俺は、偵察艇の機銃の射程に飛び込む。飛び込むだけではなく、そのまま、こちらに向かってくる偵察艇に向けて飛び続ける。高さも方向もぴったり合わせたまま、真っ直ぐに。ただ、真っ直ぐに。
偵察艇は、トリガーを引かなかった。否、きっと、引けなかった。
お互いの鼻先が接触するその直前、偵察艇は一気に加速をかけて、下方に逃げた。
つまんねー奴。そのまま衝突ルートを取れば、確実にこっちを落とせたってのに。偵察艇が本来敵いっこない|翅翼艇《エリトラ》を撃墜するという功績を、こいつは死の恐怖に負けて逃したってことだ。
どっちにしろ、霧の海で俺に銃を向けた以上、死ぬのは変わりないのにな。
『狂ってる……!』
『褒め言葉だ』
今度は意識して口元を歪め、向こうが体勢を立て直すその前に『ゼファー』を立て続けに撃ちこむ。狙いはちょいと甘かったが、それでも『エアリエル』の眼は、こちらの一撃が奴さんの機関部を穿っていたことを教えてくれる。
ゆっくりと、しかし確かに墜落していく偵察艇から、不意に、ノイズ交じりの、声が。
『……申し訳ありません、今、あなたの御許に』
――やめろ。
『教主、オズワルド』
――やめてくれ。
理性の制止を振り切って、遠い日の記憶が閃く。
意識の奥底で、今もなお俺を掴んで離そうとしない、夢見るような横顔。明るく輝く瞳。その視線の先にあった青いカンヴァス。その向こうの、青い空。
何もかもが今はもう、ここにはない。どこにも、ない。
わかりきっているはずなのに、俺は、まだ。
――やめろって、言ってんだろ!
「沈めよ。二度と戻ってくんな!」
無理やり、意識にまとわりつくものを振り払って、熱線を連射する。今度こそ、操縦席までを撃ち抜かれた偵察艇は、叫び声一つ残さず霧の海に飲まれ、そのまま反応が消えた。
辺りに残されたのが味方の船だけであることを確認して、速度を落として旋回し、『エアリエル』との同調を緩める。水面に浮かび上がるような感覚と同時に、自分の体のどうしようもない重さを思い出して、鈍い頭痛を覚える。
一つ舌打ちして、思い出しかけてしまったあれこれを頭の奥底へと押し戻す。
どうか忘れさせてくれ、オズ。お前はもう、どこにもいないんだから。
自分自身に言い聞かせていると、低層に浮かぶ輸送艇から通信が入ってきた。
『流石は我が国を幾度となく救ってきた英雄殿。見事です』
見事、か。
つい、笑ってしまう。自分の顔は見えないが、相当変な面になっているに違いない。ほんと、何が「見事」だっていうんだ。たった一人きりで、本来の『エアリエル』の性能を引き出すこともできない、この俺が。
そんな卑屈な考えに囚われながらも、気を取り直して改めて問う。
『今の、件の教団の船だったよな?』
『ええ……残党でしょう』
『残党?』
『数ヶ月前あたりから、「|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》」の残党が小規模ながらも各地で活動を再開したと、時計台でも話題になっています』
一体どこに船を隠し持っていたのかはわかりませんが、と。輸送艇に乗っている連中も、不思議そうな声を上げている。
完膚なきまでに潰したはずのあのカルトが動き出している、とでもいうのか。拠り所の教主様と教典を失ってなお、連中を駆り立てる何かがあると?
とはいえ軍本部――時計台で噂になっている、というなら信憑性は高そうだ。これは、後でロイドに詳しく話を聞く必要があるか。
『で、何でお前らは教団に狙われたんだ?』
かの教団が女王国軍、というか俺に恨みがある、というのはまあわかる。だが、こんな辺境に向かう輸送艇を襲撃して何になるというのだろうか。俺の疑問は、そのまま向こうさんの疑問でもあったらしく、訝しげな声が返ってくる。
『何故この輸送艇と備品が狙われたのかはわかりかねます』
やっぱり、備品って言ってるよなあ……。
疑問に疑問が重なって、何だかよくわからなくなってきた。ので、一旦考えることを放棄して、ふわふわと頼りなげに浮く『レディバード』に声をかける。
『あーっと、そっちは大丈夫か、「レディバード」の』
そういえば名前をまだ聞いていない、と気づいたが、正直どうだっていいと思いなおす。どうせ、基地に着けば任務終了、その後のことは俺のあずかり知らぬことだ。
『大丈夫。です』
一秒くらいのラグの後、たどたどしい、子供のような声が聞こえてきた。「青い」イメージを連れてくる、感情の動きがほとんど聞き取れない淡々とした声。声音から判断すると女、だろうか。つかみどころのない、妙な響きの声だ。
ただ、よくよく聞いてみると、先ほどまでの完全な無感情ではなく、少なからず興奮が混ざっているようにも聞こえた。
『すごい、です。あなたが何をしたのか、ほとんど見えませんでした』
そりゃあ、普通の|翅翼艇《エリトラ》じゃ、ろくに視認不可能だろう。『エアリエル』は速度という一点に特化した|翅翼艇《エリトラ》なのだから。
――とはいえ。
『高速機動中の、最低限の弾数による的確な砲撃。並みの技術では不可能です。素晴らしいです』
手放しに褒められるのは、なんだ、くすぐったいけれど、悪い気はしない。さっきは言及されるだけでも鬱陶しかったってのに、何でこうも感じ方が違うんだろうか。
色々と引っかかるものはあったが、こちらも正直な感想を述べることにする。
『や、お前さんの方がすげーよ。「レディバード」でそんなに飛べる奴、初めて見た』
『そうなの、ですか?』
返ってきたのは、やたらぼんやりとした声。……こいつ、腕はいいけど性格に問題ありそうだな。|霧航士《ミストノート》ってやつは、どうしてこう変なやつばかりなのだろうか。もちろん俺様も含む。
そうこうしている間に、基地の方から輸送艇に指示が飛んでいたらしい。輸送艇は『レディバード』を引き連れて、基地の方に船首を向ける。
そして、俺の方にもロイドからの通信が入ってきた。
『お疲れ様。とりあえず、あんたも基地に戻ってきなさい』
『連中の墜落地点は確認しねーの? 連中について何かわかるかもしれねーだろ』
自分で言っといてなんだが、操縦席をピンポイントで狙っちまったから、情報量に期待はできない気もする。一番狙いやすい場所を真っ先に狙うのも、こういう場合ばかりは考えもんだな。
『撃墜ポイントはこっちで押さえてるから、後で観測隊を向かわせるわ。だから、あんたはふらふらしてないでとっとと帰りなさいな』
『へいへい』
我らが司令にそう言われてしまっては、帰らざるを得ない。俺だって好き好んで上司に逆らって、営倉に叩き込まれたいわけじゃない。まあ、そこ以外は俺自身の気分が何よりも優先されるところではあるが。
『あんたのその自由さ、ほんとうらやましいわよねえ……』
どうでもいいけど、|通信記術《コム・スクリプト》は時々考えてることがそのまま漏れてしまうのがいただけない。その辺りをどうにか改善できないものか、今度、アーサーか誰かに聞いてみるべきかもしれない。
そんなどうでもいいことを思いながら、徐々に近づく基地に視線をやる。
空言ミストノーツ
読上
1-02:青色の声
救援要請。
ちらつく青い影を瞼の力で追い払い、一拍置いて、その言葉の意味を理解する。
誰かが、何者かに、襲われている。女王国の端っこも端っこである海上で。
そんなこと、俺がこの基地に逃げ込んでから一度もなかった。毎日のように海をほっつき歩いているにもかかわらず、だ。巻き込まれたら十中八九死に至る迷霧の帳の側を好き好んで飛ぶのは、それこそ基地の観測隊か、海を飛んでないと息苦しくて死にたくなる変人、つまり俺くらいだ。
とはいえ、要請された以上駆けつけない理由はない。今、この海を飛んでるのが俺しかいないなら、尚更。
「頼むぜ、『エアリエル』」
俺の半身ともいえる『エアリエル』は中身を半分欠いたまま、通信が発生した座標に向けて真っ直ぐに飛ぶ。
目標は、すぐに見つかった。『エアリエル』の霧を広く見通す視界に探査記術を走らせれば、それがうちの船籍の船であることはすぐにわかる。時計台時代に世話になった、河豚に似た形の小型輸送艇だ。
それに加えて、輸送艇の周囲を舞う、丸々とした船にも見覚えがあった。
『レディバード』。
天道虫という雑な名前の通り、丸い真っ赤な船体に透き通った飛行翅を覆う、これまた赤い鞘翅が特徴の、量産型|翅翼艇《エリトラ》だ。俺が訓練生時代に散々乗せられた、因縁の船でもある。
「こりゃまた、随分懐かしい船が出たな」
つい、舌打ちと一緒に独り言が口をついて出るのは、悲しい条件反射のようなもんだ。魂魄回線を開いてなきゃ誰にも聞かれないのだから、構うことでもないんだが。
ただ、俺はあんな飛び方をする『レディバード』を知らない。|翅翼艇《エリトラ》の飛行翅を自在に操るには、ある程度の技術と、それ以上の同調適性が要る。新米|霧航士《ミストノート》の訓練艇でもある『レディバード』は適性の制約がゆるく設定されているが、反面操縦性能はすこぶる悪い。そんな『レディバード』を、風も重力も感じさせず舞うように操る|霧航士《ミストノート》なんて、俺は知らない。
そう、一人しか、知らない。
先ほど響いた「青い」声も、きっと、あの『レディバード』に乗る|霧航士《ミストノート》だ、と。気づいた途端、激しい喉の渇きと、胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。『エアリエル』が俺の異常を察して警告を投げかけてくる。
――何でもない、大丈夫だ。
意識して呼吸を整えながら、『レディバード』から意識を引き剥がす。今は状況の把握が先だ。
「それと、あれは……」
霧を見通す目は、輸送艇と『レディバード』を追う小型飛行艇を三隻捉えていた。『エアリエル』の探査記術は、それらが船籍不明の偵察用と思しき複葉飛行艇一隻と、それを護衛する重武装の単葉戦闘艇二隻であることを告げている。
とはいえ、あえて『エアリエル』に言われるまでもなく、その船には見覚えがあった。
「教団の……、幽霊船?」
幽霊船。自分で言っておきながら、酷い頭痛を覚える。
まさか、教団は、三年前に解体されたはずで、連中の船だって一つ残らず接収しただろう。そう思いたかったのだが、俺の視界に映る小型艇は、かつて全世界を恐怖に陥れた『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』が操っていたそれと完全に一致していた。
何故、今になって教団が? という戸惑いの間に、輸送船を守るように弾むように飛び回っていた『レディバード』の機関銃が、突出した戦闘艇の腹をぶち抜いていた。
――操縦だけじゃなく、砲撃の腕もいいときた。
つい舌を巻いてしまうが、俺の記憶が正しければ『レディバード』の武装は基本的にそれ一つ。しかも物理兵装である以上、弾数にも限界がある。
案の定『レディバード』はその連射を最後に逃げに徹し始めたが、向こうさんは『レディバード』も輸送艇も逃がす気はないらしく、執拗に『レディバード』に張り付いている。
これは、のんびり観戦している場合でもなさそうだ。
女王国海軍に共通の帯域を指定して、『エアリエル』を通して通信記術を展開する。
『聞こえるか。こちらサードカーテン基地所属、|翅翼艇《エリトラ》第五番「エアリエル」|正操縦士《プライマリ》、ゲイル・ウインドワードだ』
決まりきった口上を早口に吐き出す。まずは事情がわからないと話にならない。続けて話を聞こうとした、その時。
あの「青い」声が、頭の片隅で囁いた。
『ゲイル・ウインドワード』
ゲイル。名前を呼ばれただけで背筋がぞくりとする。嫌な感覚ではない。むしろ、それとは正反対の。
だが、その感覚の正体を確かめる前に、船団からの通信が割り込んでくる。
『ウインドワード大尉! 青き翅の|霧航士《ミストノート》、救国の英雄か!』
――救国の英雄。
その空虚な響きに、高揚はさっぱり消え失せて、苦虫を噛み潰すような心持ちになる。どうせ向こうには見えてないのだから、どれだけ渋い顔をしても許されると信じている。
俺は「英雄」なんて肩書きが欲しくて飛んでるわけじゃない。結果として、そうなってしまっただけだ。どれだけ高く、どれだけ速く飛んでも、本当に欲しいものは永遠に手に入らないってのに。
つい頭の中を支配する余計な思考を振り払い、向こうからの声に集中する。
『こちら時計台の輸送艇「ホワイトカーゴ」! サードカーテン基地への備品輸送の途中に、船籍不明の武装艇に襲撃を受けている! 救援を願う!』
「うちに輸送艇が来るなんて聞いてねーぞ」
念のため通信の外で呟く。今日が特別な日だと知っていれば、近くまで迎えに行くくらいはしたぞ。何せ暇なんだから。普段あまりにも何も起こらないせいで、今日も何も起こるまいと信じていたあたり、俺自身の平和ボケを自覚させられたが。
『で、そっちの「レディバード」は? 護衛か?』
たかが物資の護衛に、訓練生っぽいとはいえ|霧航士《ミストノート》をつけるのも大盤振る舞いすぎる。それとも、運ばれてくるものがそれほど重要なもんなのか。平和なだけが売りのうちに厄介なもんを持ち込むのは、正直勘弁してほしいんだが――。
『それが「備品」だ、死守してくれ!』
うん? 今、何て言った?
俺の耳が悪いのか。音声でなく魂魄レベルの通信だから、そうそう聞き間違えることもないと思うんだが。
向こうさんの意図が気にはなるが、聞き返している暇もない。死守すべき対象が『レディバード』である以上、とにかく動いてから考えるしかない。
ふわふわ弾むように飛ぶ『レディバード』とそれを追う戦闘艇の間が開いた瞬間を見計らって、飛行翅を一つ打ち鳴らし、その空隙に滑り込む。
『あ』
『何だかよくわかんねーけど助太刀する。下がってろ』
戸惑うような声を上げる知らない|霧航士《ミストノート》に声をかけるのと、ほぼ同時に。
『ゲイル・ウインドワード……。本当に、こんな辺境にいるとはな』
『ああ? いちゃ悪ぃかよ』
頭ん中に割り込んできた憎々しげな野郎の声に、因縁をつけ返す。通信の出所は目の前の戦闘艇だ。|魄霧《はくむ》を喰いながら滞空する『エアリエル』に対し、奴さんは水平に旋回しながら、ぎりぎり『エアリエル』の武装の間合いの外で距離を測っている。案外冷静だな、こいつ。
それだけ、俺と『エアリエル』の手の内がバレてるってことでもあるんだが。有名人って辛いよな、ほんと。
『つーか気安く呼ぶんじゃねーよクソ野郎。手前、何様だ?』
『答える筋合いはない』
そりゃそうだ。俺も、もしお前の立場だったらそう言うだろうよ。
さて、ここからどう出るべきか。というか、俺は勝手に散歩してただけだから、当然交戦許可も降りてないわけなんだが、これ、撃ったら絶対後で怒られるパターンじゃねーか。でも不可抗力っていい言葉もあるし撃っていいかな、とかなんとか思っていると、
『……「エアリエル」、こちらサードカーテン基地。聞こえてる?』
やっと、聞きなれた声が聞こえてきて、ほっと息をつかずにはいられない。
予想外の事態が立て続けに起きすぎて、そろそろ考えることを諦めかけていたのだ。意識だけは戦闘艇――そして、その一方で反転して逃げに入っている偵察艇へと向けたまま、相手を絞って言葉を投げる。
『よう、おはようさん、ロイド。何かうちの船籍の連中が、件の教団の船に襲われてたんだが、一体どうなってんだ?』
我らが基地司令ロイド・グレンフェル大佐は、教官時代から何一つ変わらない、やたら癖の強い女言葉で言う。
『ええ、こちらも確認してる。まあ、朝のミーティングにも参加せず、勝手に飛び出した馬鹿にしてやる説明はないけど』
『おおっと薮蛇』
どうやら、今日の全体予定も聞かずにふらっと『エアリエル』で飛んでしまった俺が悪いっぽい。何となく予想はしてたけど。いやほら、飛びたかったんだからしゃーないよね。押さえきれない本能ってあるじゃない。
ロイドも俺のこの持病は嫌ってほどわかってるはずで、それ故だろう、俺にだってわかる呆れと諦めを含んだ溜息をついて、投げやりに言う。
『ま、出撃指示の手間が省けたと思うことにしましょ。さて――|翅翼艇《エリトラ》第五番「エアリエル」|正操縦士《プライマリ》、ゲイル・ウインドワード大尉』
ロイドの口調ががらりと変わる。サードカーテン基地司令として、そして基地で唯一、俺たち|霧航士《ミストノート》に直接命令を下せる上司として。低く、しかしよく通る声で宣言する。
『説明は後だ、所属不明の船舶を漏らさず撃滅しろ。三分だ』
『は、馬鹿言え』
三分。それは、俺が『エアリエル』で戦闘可能な時間に他ならない。それ以上の戦闘行動を禁じる、という釘刺しであり、同時に、それだけの時間があれば十分であろう、という信頼でもある。
だが、この俺が。「飛行狂」ゲイル・ウインドワードが。そんな生ぬるい飛び方をする気は、さらさら無い。
『三十秒だ』
空言ミストノーツ
読上
1-01:ゆめの青空
青――それは、遥か遠くに広がる色の名前だ。
俺とあいつの目の前には、一枚のカンヴァスがある。部屋を埋め尽くさんばかりの無数のカンヴァスの中でも、一際大きな一枚。
「今回はまた大作だな、オズ」
「まあな」
――青。
カンヴァスを埋め尽くすのは、青だ。だが、その青もカンヴァスの上下で色合いが異なる。上は、グラデーションを描く薄い青。そのところどころに、白い煙のようなものが浮かんでいる。そして、ちょうどカンヴァスの中心を走る線によって区切られた下半分は、深く、今にも飲み込まれそうな底の深い青を湛えている。ただ、表面には白いさざめきが散っていて、光を孕んでいることがわかる。
どこまでも広がる青空と、空を映す巨大な水面。
それはまさしく「この世の誰も見たことのない」光景だ。天が青いわけがない。こんな巨大な水溜りが存在するはずがない。カンヴァスを指差して笑う奴を何人も見てきた。
だが。
「また夢に見たのか? 青い空の夢」
「ああ」
俺は大げさに息をついて、傍らに佇む相棒を見上げる。
その澄み切った瞳は、真っ直ぐにカンヴァスに向けられているようで、きっと、遥か彼方を見ている。それは、鮮やかな光と、青に満ち溢れた世界だ。誰一人として見たことのない、もしかしたらこの世界ですらないかもしれない「どこか」を見据えて離さない。
やがて。
「なあ、ゲイル」
ぽつりと、青い沈黙に包まれていた部屋に響く、声。
「いつか辿りつけるかな、この景色に」
「決まってんだろ。そのために俺様がいんだから」
そう、俺は、俺たちは飛び続ける。
霧に包まれた空の向こう側、未踏の領域目掛けて。
「約束しただろ。俺様がお前の翼になる。霧を裂いて、吹き払う翼に」
「そして、俺が霧の向こう側を見通す目に」
「ほら、最高のコンビじゃねえか」
目を合わせることもなく、お互いに差し出した手と手を打ち鳴らす。『翼』と『目』である俺たちにとって、そのくらいは造作も無いことだったから。
そうだった。こんな他愛の無い約束を、無邪気に信じていたのだ。
――俺が、あいつを殺す日までは。
瞼を開けば、目の前に広がっているのは、白。
|魄霧《はくむ》の海。魂魄界から物質界に流れ出す微細な粒子に覆われ、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた純白の世界がそこにある。
右も左も、それどころか上下すらも曖昧な霧の中、俺はたゆたう鋼鉄の船に身を預けている。シートに横たわる肉体を外側から眺めているような感覚は、重たい体に囚われた陸の上よりもずっと気が楽だ。
視界を覆う探知網に異常なし。今日も至って平和なもんだ。退屈と言い換えてもいい。
だからだろうか、遠い日の記憶を思い出してしまったのは。
――青。
それは、あの日カンヴァスに広がっていた色の名前だ。
あの頃のことは、思い出すこともないと思っていた。思い出したところで、二度と戻ってはこない。この船には俺一人しか乗り合わせていない。もう一つの席は、空っぽのまま、沈黙している。
だから、青いカンヴァスが増えることも、もう、ない。
「……つまらねえな」
思ったよりも、嗄れた声が喉から漏れた。案外長い時間眠っていたのかもしれない。我らが司令に「船の中で寝るなんて|霧航士《ミストノート》失格よ」とかなんとか怒られそうだが『エアリエル』は俺が眠ってようが何だろうが、俺を振り落とすことはない。
ああ、つまらねえ。
もう一度口の中で呟いて、『エアリエル』に潜る。
体を置き去りにして、水中に潜るように、魂魄だけが『エアリエル』と同期する感覚を確かめて。長い尾を持つ細くしなやかな船体から伸びる、薄青の半実体の飛行翅を、強く、羽ばたかせる。
霧を蹴って、ぐん、と加速し、空気の塊が船体を叩くのを肌で感じる。それでも、まとわりつく霧を振り払うことはできない。
それはそうだ、魄霧の海は全ての源、俺たちが息をしてるのも、飯を食えるのも、魄霧のお陰だ。もちろん『エアリエル』が飛ぶのだって、大気中の魄霧を取り込んで、内部機関で圧縮して飛行力に変換しているから――訓練生時代に嫌ってほど習ったことだ。
だから、魄霧を振り切ることなんて、できるはずもない。仮にできたとすれば、それは『エアリエル』が墜ちる時だ。
なのに俺の脳裏にちらつくのは、いつだって、あの青いカンヴァスだ。光に満ちた青い空と、その青を鏡のように映しこんだ、遥かに遠くまで続く水面。
そして、そのカンヴァスを夢見るような目で見つめていた、あいつの姿。
「ああああ、畜生!」
吠えた声が、本当に俺の喉から出たものかはわからない。船体と同調していると『エアリエル』の駆動音ですら、自分の声と錯覚することがあるから。
それでも、叫ばずにはいられなかった。言葉にならない叫びが、誰にも届かないまま、風の歌一つ聞こえない静寂に飲み込まれていく。
いらいらして、むしゃくしゃして、たまらなかった。
どれだけ飛んでも、俺はもう、あの青には届かない。あいつが俺の側から消えた今、飛ぶための「理由」はすっかり失われた。
あれだけ気持ちよく響いていた風の歌も、聞こえなくなった。
それでも、飛ばずにはいられない。飛ぶために俺は生まれてきた。飛ぶことは俺の本能そのものだ。だから、俺は、つまらない海をたった一人で飛ぶ。意味もなく、目的もなく。
この、使い物にならない体が、消えてなくなるその日まで。
ああ、と。腹の底に溜まっていた声を使い果たして、最後には情けない呼吸が喉から漏れた。
叫ぶだけ叫んだら、何だか、気が抜けてしまった。がむしゃらに、真っ直ぐに飛び続けていた『エアリエル』の速度を落とし、意識を引き剥がしながら呟く。
「帰るか、『エアリエル』」
もちろん『エアリエル』は応えないから、勝手に同意だと思うことにして、基地の方角を確かめる。この白く濁りきった世界の中でも、『エアリエル』の目は霧を見通して帰り道を俺に示してくれる。
ゆったりと長い体を廻らせて、基地の方に頭を向けた、その時だった。
『……う……せい……』
「……ん?」
一瞬、魂魄の中に何かが割り込んでくる感覚があった。
通信記術。魂魄界を通し、対象の魂魄と情報を受け渡す記術だ。軍の基本的な通信方法で、『エアリエル』にも送受信用の魄霧機関が積まれている。どうやらそれが俺の魂魄に割り込みをかけてきたらしい。
ただ、基地からの通信とは明らかに波長が違う。とはいえ、魄霧の海を漂う無関係の通信を傍受したわけでもなさそうだ。こんな、魚一匹、鳥一羽見えない辺境の海を行く物好きなんて、そうそういるはずがない。
なら、今のは一体――?
最低限の機能だけを立ち上げていた『エアリエル』の視覚と、探知網を最大限に展開する。三百六十度を見渡す視界の只中に「俺」という存在が頼りなく浮かぶ錯覚に陥りながら、声の出所を探る。
その時、もう一度、先ほどよりもずっとはっきりと、声が。
『……を、要請します』
――青。
頭の中に閃いたのは、声と、溢れんばかりの色彩。
その色彩は、俺の頭の片隅にこびりつく記憶と結びついて、白く濁っていた視界に青い空のイメージが重なる。それは、あの日のカンヴァスと同じ、色。
もちろんそれは単なる幻視で、すぐに俺の目の前から消え去ってしまったけれど。それでも、呟かずにはいられなかった。
「青、だ」
魂魄を介した通信は、声だけを届けるわけではない。ものの形や色を伝えることだって、できる。
だが、こんなのは初めてだ。ただただ「青い」とだけ感じる、声は。
聞いているだけで背中の真ん中辺りを震わせる、機械的な声。もう一度、もう一度その声を聞かせてほしい。声の正体を、確かめさせてほしい――。
その願いどおり、今度こそ、俺の魂魄は明確にその声を受け止めていた。
『救援を、要請します』
空言ミストノーツ
読上
003:永久
ラビットは、重い痛みを感じる頭を上げた。窓からはカーテン越しに淡く光が差し込んでいる。
朝。
それに気づいて、腕に力を込めてゆっくりと身体を起こそうとする。
腕に伝わるひやりとした感触に、彼は自分が寝ていた場所がいつものベッドではなく天体望遠鏡の下の床であることを思い出した。
ただ、起き抜けの思考回路では、何故自分がこんな所に寝ていたのかが思い出せない。
しばらく、ラビットの赤い瞳は灰色の天井と真上にある古ぼけた望遠鏡を見つめていた。いや、見つめていたというよりかは大体その辺に目線を彷徨わせていたという方が正しい。
ラビットはほとんど目が利かない。光に弱いのもそうだが、左目は盲目であり、右目の視力も著しく低下している。視力補助装置を常に身に付けていなければ外もまともに歩けない状態だ。流石に寝るときは装置も外しているが。
やっとのことで彼は起き上がると、側に置いてあったはずの視力補助装置のコードを手で探る。手に触れたとわかると自分の元に引き寄せて頭の右側に取り付ける。脳に直接送り込まれる情報で視界が急に明るくなった。この装置の弱点といえば、視界が本来の視界から多少ずれてしまうこと。しかしラビットにとってはあまり関係の無いことだ。
視界を確保すると、その場に座ったまま何かを思い出そうとして思考回路を働かせようとした。
昨日何があったのか。
そう、昨日は軍に追われていた少女をそのままここに連れ帰ってきたような気がする。何をすれば良いかわからなくなって戸惑っていたとはいえ、軽率な判断だったとラビットは思う。どんな理由があっても、地球において星団連邦軍の権力は絶対だ。変な揉め事を起こしても後で困るだけだ。
その少女はどうしたのか。
それがどうも思い出せないまま、ラビットは立ち上がって部屋を出て、自室に向かった。何とも昨日の記憶が曖昧になっていた。
――もしかすると、全て夢だったのではないか?
ラビットの頭の中にそんな考えがよぎる。何とも馬鹿らしい考えではあったが、そう考えると納得はいく。少なくとも、下らない夢ばかり見ている自分にとっては。
ラビットは自室のドアを開けた。窓のカーテンは開いていて、それほど強くもない光がラビットの目を焼く。とっさに目を手で覆いつつも、彼の視線は窓の下のベッドに向けられていた。
――やはり、夢ではなかった。
真っ白なベッドに寝ていたのは一人の少女。昨日、ラビットが連れて帰ってきた少女だった。記憶は定かではなかったが、おそらく少女が憔悴しきっていたからそのまま寝かせたのだろう。
少女は深い眠りについていて、規則正しい寝息が聞こえてくる。ラビットは机の上に置いておいた黒硝子の嵌められた眼鏡をかけると、改めて少女の方を見た。
少女の青色がかった銀の髪が窓の隙間から吹き込む風に揺れる。ゆっくりと眠っているところを起こしても悪いと思い、ラビットは自室を後にした。
『おはようございます、現地時間で朝六時丁度をお知らせいたします』
その時、小さな天文台中に澄んだ女の声が響き渡った。天文台に仕掛けられていた主電脳が動き出したのだ。
「おはよう、龍飛(タツヒ)」
ラビットは廊下を歩きながらどこに向かってでもなく、声を発した。すると、女の声が返ってきた。
『おはようございます、ラビット。昨夜はよく眠れなかったのですか? 疲れた顔をしておいでです』
この人工知能は、名を龍飛という。ラビットがここにやってくるよりも昔からこの天文台の機能を支配する管理電脳だ。前の住人が設定したらしい、古びた天文台には似合わぬ高性能な人工知能であり、ほとんど人間と変わりない感情機能を有している。
ラビットは鈍く痛むこめかみを押さえながら、小さく呟く。
「そうかもしれないな……」
『お気をつけ下さい、ラビット。今は貴方がワタシの主人なのですから。貴方が居なくなったらワタシはまた長い間独りきりです』
「ああ、わかっている」
ラビットは階段を下りながら言う。そして、下の階のキッチンに向かい、棚の中のコーヒーカップを手にとった。
「龍飛、珈琲を沸かしてくれ」
『朝食はよろしいのですか?』
「ああ、食べる気にならない」
そう、ラビットが言うと、台所の中に仕込まれた装置が動き始める音がした。カップを装置の上に置くと、ラビットは椅子に座り、テーブルの上に置いてある小型の立体映像映写機を見た。そこには蜻蛉の羽を生やした一人の美しい女性の映像が浮かび上がっていた。これが、龍飛の仮想映像だった。
「何か、夜のうちに変わったことはあったか?」
ラビットが龍飛に向かって話し掛ける。龍飛は優しげな笑みを浮かべて答える。
『一件通信がありました』
「珍しいな。誰からだ?」
『識別番号、一○六四八九-A六九八……クロウ・ミラージュ様からです』
「ミラージュ女史? 今更何の用だ」
『確認後、連絡を求むということでした』
「わかった」
ラビットはそう言って、装置の上に置いておいたコーヒーカップを手に取る。何時の間にか、カップの中には熱いコーヒーが注がれていた。
『飲料用水の残量が残り僅かになっているようです。至急、追加を勧めます』
「水はここでは高いんだ」
ぶつぶつと言いつつも、ラビットはコーヒーをすすりつつ、立体映像映写機の前に置かれたキーボードを叩く。すると、映し出されていた龍飛の姿が消え、黒い画面が浮かび上がる。ラビットが情報を打ち込み終えると、『接続中』という文字が浮かび上がり、点滅した。しばらくその状態が続いた後、画面が急に明るくなって、一人の少女の顔が映し出された。
「ミラージュ、私だ」
『………』
映し出された黒髪の少女は、眠そうな目でラビットを見つめた。
「連絡を寄越してきたようだったが、何の用だ?」
『……トワ……話す』
普通の人間なら明らかに苛立つであろう口調で、画面の少女……ミラージュは言った。
「トワ?」
『貴方……昨日、トワ……』
断片的な言葉しか紡ごうとしないミラージュを押しのけるようにして、画面にもう一人の人物が現れた。今度は赤い髪が特徴的な、軍服を身に纏った男だった。
『すいません、クロウがどうしてもあの子と話したいって言うから……』
この男は、ミラージュの相棒であるレオン・フラットという軍人だった。ラビットもミラージュ同様面識がある。
「フラット少佐、『トワ』というのは?」
『貴方が昨日、軍に追われていた少女をここに連れてきたでしょう? その少女です』
ラビットは驚いた。既に、軍にはここの場所……そして少女の行方が伝わっていたということに。
当然ながらこのミラージュもフラット少佐も軍の人間だ。元々ミラージュとは時折連絡を取り合っていたが、少女のことなど、昨日出会った自分でもよく覚えていなかったのに、ミラージュが知るわけないと思っていたのだ。
「軍は、私がその少女をここに連れてきたことを知っているのか?」
『いえ、知るわけないですよ。我々が知っているのは、クロウの能力で、です』
「何か関係があるのか?」
ラビットがそう言ったとき、背後で物音がして、ラビットは振り返った。後ろでは、あの少女が階段の柱の後ろからこちらを見ていた。
「……起きたのか?」
少女は頷く。そして、ゆっくりとした足取りでラビットと画面の方に向かう。画面のフラットは安堵の笑みを浮かべつつ、言った。
『丁度良かった、クロウ、あの子だ』
少女は画面と向き合うと、再び画面に現れたミラージュに向かって話し掛けた。
「クロウ、ひさしぶり」
その声は、どこか不思議な響きがあった。ラビットは一瞬その声が誰かに似ているような気がして、不思議な懐かしさを覚えた。
『ひさし……ぶり』
「迷惑かけてごめんなさい」
『ううん、メイワク……な、わけない』
とてもスローペースな会話。ラビットはその様子をじっと見つめていた。観察していた、と言ってもいい。少女は真っ青な瞳で画面のミラージュの黒い目を覗き込んでいた。
『よかった、安心……』
「うん、ありがとう」
そう、言って少女は画面から目を離し、ラビットの方を見た。ラビットは少女の横でミラージュに向かって言った。
「もういいのか」
『……あ』
「?」
『気をつけて……軍、動き……』
「動き出した?」
『トワ、追って』
そこで、通信が途切れた。画面がパッと黒くなる。ラビットは溜息をついて椅子にもたれかかる。今度は少女がその大きな青の瞳でラビットを覗き込む。
「……トワって、名前なのか?」
ラビットは少女に向かって言った。
「うん」
少女は頷く。
「変わった名前だな。どういう意味だ?」
ラビットが問う。
「……『永久』って書いて、『トワ』って読むの」
少女が答える。
「永久……か。いい名前だ」
ラビットは少女、トワに向かってテーブルの横にある椅子を指差した。
「立っていたら疲れるだろう。座ればいい」
「うん」
トワは椅子に座る。少女にとっては大きな椅子で、小さな足が床から浮いていた。
一瞬の間を置いて、ラビットは話しはじめた。
「軍に、追われているのだな」
「うん」
「何故、追われているのか、話す気はあるか?」
「……ううん」
「そうか」
ラビットは黙り込んだ。何を話せばいいか迷っている様子でもあった。何しろ、話したくないものを無理やり聞く気もなかった。その間もトワはじっとラビットを見ていた。
「聞いてもいい?」
トワはラビットに向かって言った。
「ああ」
「貴方の名前は?」
ラビットは逡巡してから答えた。
「……ラビット」
「兎さん?」
「そう。そのラビット」
トワは自分自身に確かめるように何度か頷いてから、もう一度ラビットに向かって言った。
「もう一つ、聞いてもいい?」
「ああ」
「ここはどこの星?」
「ここは地球だ。それも知らなかったのか?」
「ううん、でも、そうじゃなかったらどうしようかと思って」
ラビットは首を傾げた。トワはずっとラビットを見つめていた。ラビットは急に気恥ずかしくなってきて目を逸らしてから、トワに話し掛けた。
「ここの人間ではないのだろう? 地球に来て、何をする気だ?」
そういえば、似たことを昨日問われた気がするとラビットは思う。トワは少し考え込むような仕草をしてから、答えた。
「わたし、この星が見たかったの」
「こんな灰色の何もない星が?」
「何もなくないよ。だから、クロウにも手伝ってもらったの」
「クロウ・ミラージュとは知り合いだったのか?」
「うん、友達」
トワは少し笑顔になって答えた。
それから、二人ともしばらく無言だった。ラビットは何を言っていいかわからず、トワは何か言おうとして言葉を選んでいるようだった。
少し経って、トワが口を開いた。
「あのね、ラビット、お願いがあるの」
ラビットはそらしていた目をトワの方に戻した。トワの表情は昔ラビットが見た誰かにとてもよく似ていた。
「何だ?」
ラビットはトワの言葉に少し当惑した。だが、この後の言葉にはもっと当惑させられることになる。
「……わたし、ラビットと一緒にこの星を見たいの」
Planet-BLUE
読上
002:天文台の兎
天文台に住み着いた一人の物好きの話は町でも有名だった。
その天文台は町から少し離れた丘にあり、とんでもなく古い。宇宙に人々が出て行く前にはあったであろうとも言われている、今にも壊れそうなおんぼろ天体望遠鏡が目印になっていた。
そこは昔一人の爺さんが管理していたのだが、その爺さんが死んでからはもはや廃墟同然だった。しかし、そこに三年程前からいきなり、一人の物好きが住み着き始めたのだ。
その物好きの名は「兎(ラビット)」。
奴がラビットと呼ばれている理由は見ればすぐにわかる。真っ白の肌に真っ白な髪、そして真紅の瞳。まるで白兎だ、と言ったのが町の誰かは知らないが、気づけば奴は自然にそう呼ばれるようになっていた。
ただ、実際に町の人間でもラビットの姿を見たことのあるものは少ない。いつもお化け屋敷のような天文台に閉じこもっていて、町に姿を現すことはほとんどないからだ。俺もこう言いながら、奴を実際に見たのは数日前に一回、その前となると一ヶ月ほど前になってしまう。
俺がラビットを初めて見た時の印象は、「人間らしくない奴」だったと思う。真っ白な外見もさることながら、言動からしてもどこか浮世離れしていてこの世ならざるものというか、人間の匂いがしないというか、そんな印象を持たされる。
奴がどこから来たのか、何者なのかを知るものはいない。俺も聞いてみたがそれには答えてもらえなかった。
さて、そんなラビットにまつわる話を一つしよう。
それは数日前のこと。久々に俺の小さな店にラビットが姿を現した。
奴は相変わらず細い体付きをしていてどこか虚ろな表情を浮かべていた。さっぱり似合っていない分厚い色眼鏡は奴に言わせると特徴である真紅の目が光に弱いから身に付けているのだそうだ。とにかく、ラビットは店の中を見回して目に付いたものを適当に買い物篭の中に入れていた。
その時、俺は奴の方をちらちらと伺いながらも、意識は店に取り付けてある衛星放送受像機に向いていた。受像機では、報道員が甲高い声で何かを言っていたような気がする。記憶が正しければ、多分。
『星団連邦軍大尉が地球に来た』
とかいう話題だったと思う。そして、俺は驚いた。この話自体は決して珍しい話ではない。調査のために政府の連中はしょっちゅう地球にやってくるのだから。つまり、俺が驚いたのはそっちではなくて、ラビットが食い入るように受像機の画面を見ていたことだった。
「どうかしたのか?」
俺が言うと、ラビットはしばらく無言で画面を見ていたが、ふと俺の方に目を向けた。
「連邦軍が何を考えているのかがわからない」
「いつものことだろ、そんなの」
「……だが、随分変わってしまったと見える」
「お前さん、軍関係の人間だったのか?」
「ああ、昔な」
それきり、ラビットは黙り込んでしまった。相変わらずこの男は多くを語らない。お互いが無言のままで、しばらくは受像機から流れてくる声だけが店の中に響いていた。
ラビットは買い物篭を俺の前まで持ってきた。俺は篭の中の品物を見ながら奴に言った。
「しかし、お前さんも物好きだな」
「何がだ?」
「お前さん、此処の人間じゃないんだろう? 多分太陽系圏だろうが地球じゃない」
奴は少し驚いたような表情になった。普段表情が薄い奴だけに、そんな表情を見られるとちょっとだけ気分がいい。
「凄いな。見ただけでわかるのか」
「あとは訛りとかな。けどよ、もうすぐ終わっちまうってわかってるこの星にどうしてわざわざ居るんだ? 自殺希望か?」
半分冗談交じりに言った俺の言葉に、ラビットは多少の困惑を交えながら答えた。
「……ああ、そんなところだ」
「マジかよ」
俺は吐き捨てるように言ってから、品物の値段を告げた。奴は俺に金を手渡すと、また受像機の方を見やった。いつのまにか報道番組は終わっていて、静かな音楽が流れていた。確か、五年くらい前に死んだ地球のピアニストの曲だと思った。
ラビットは呟くように言った。
「あと、一年も無いな」
「そうだな」
俺がそう言ったその時、外がにわかに騒がしくなった。窓の外を見やると、赤い軍服を着た連中が店の前を走り抜けていった。「どこに行った?」「見失った!」などと口々に言いながら。
「連邦軍の連中か?」
俺の言葉を聞いていたのかいなかったのか、ラビットが片手に自分の買った品物を持って、無造作に扉を開けた。俺も興味本位でラビットの後に続く。
外では何人もの軍人がそこら辺を歩いていた通行人を捕まえては何かをわめき散らしていた。流石に何を言っているかは聞き取れなかったが、やけに苛立った様子ではある。
「何があったんだ? 一体……」
俺が呟いた横で、ラビットは何やら困った顔で下を向いていた。俺がその目線を追うと、そこには一人の女の子がいて、不安げな表情でラビットの服を掴んでいた。いつからここに女の子なんかがいたのだろう? 俺はまずそう思った。
「服、放してくれないか……?」
ラビットがぼそぼそとそんなことを女の子に向かって言うが、女の子は余計に怯えた様子でラビットの服に顔を埋める。
「どうすればいいんだ? これ……」
言われても、俺にだってわからない。ただ首を傾げるくらいしかできなかった。
その時。
「見つけたぞ! あの子供だ!」
軍人の一人が大声をあげた。よりによってこちらを指差しながら。それと同時に大きな足音がこちらに向かってくるのもわかった。女の子は一瞬はっとしたような素振りを見せる。
「そこの男、その子供を引き渡すんだ!」
子供とはやっぱりラビットにしがみついているこの女の子のことらしい。ラビットは女の子を見る。女の子はラビットの後ろに隠れて首を横に振っている。明らかに怯えている様子だった。
「この子が何かしたのか?」
俺は声を張り上げた。軍人達は俺の言葉の半分も聞かないうちに怒りも混ざった声で言った。
「貴様等民間人が知る必要は無い! さあ、我々と共に来るのだ!」
言葉の後半は女の子に向けられたものだったらしいが、女の子は相変わらず首を横に振りながらラビットの服に顔を埋めていた。軍人の一人が、痺れを切らしたように言う。
「仕方ない、実力行使もやむを得ないと大佐から言われているからな。無理やりにでも連れ帰るぞ!」
その声を合図に、俺たちのほうに軍人達が歩み寄ってくる。そして、女の子の身体に軍人の手がかかるかというその時、奴は動いた。ラビットは気分を害したような表情で軍人の手を払いのけた。
「何をする! 我々の邪魔をするつもりか?」
憤る軍人達に対して、ラビットは冷ややかに言い放つ。
「近頃は馬鹿の管理がなっていないな。一昔前なら未開惑星送りだぞ? こんな連中は」
俺はというとこの状況に恐れをなして既に逃げ腰になっていた。が、ラビットは毅然とした様子で軍人と相対していた。普段口数の少ない奴にしては珍しく憤りのこもった言葉を吐き出す。
「貴方がたの言う『大佐』にも呆れたものだな。実力行使もやむを得ないだと? そんな言葉は貴方がたのような馬鹿相手に使うべき言葉だ。このような少女に対して使うとは、世も末だな」
ラビットの言葉は、初めからかなり苛立っていた軍人達の怒りを頂点に達させるのには十分だった。一瞬、連中は怒りに我を忘れて、ついでに女の子の存在も忘れて、ラビットに飛び掛った。
勝負は、一瞬でついた。
この時まで、俺はラビットが紋章魔法の使い手だとは知らなかった。そう、奴が手袋を外して、手の平に描かれた紋章が輝いた瞬間に、軍人連中は皆その場に倒れこんだのだ。一体何が連中に起こったのか、俺にはよくわからない。ただ、それが紋章魔法の効果なのは何となくわかった。
「言っておくが、」
ぴくりとも動かなくなった軍人に向かってラビットは言う。
「貴方がたが先に仕掛けてきたのだから、これは正当防衛だ」
その間ずっとラビットにしがみついていた女の子は、初めて顔を上げてラビットの方を見た。奴はまた困惑したような表情に戻って口の中でぼそぼそと言う。
「その、だから、服、放してくれないか……?」
しかし、女の子はラビットにくっついたまま離れようとはしない。
「貴女を追っていた連中はもう居ないぞ?」
いくらラビットがそう言っても女の子は首を横に振るだけだった。俺はにやりと笑ってラビットに言った。
「何だよ、お前さん、懐かれちまったんじゃねえの?」
「そう、なのか……?」
「まあ、とりあえずこの子が落ち着くまではお前の家にでも置いといてやればいいじゃねえか。な?」
俺は女の子に同意を求めたがやはり答えてはくれなかった。そんなものだとは思っていたが。
「いいのか?」
ラビットが女の子に同意を求めたところ、女の子はラビットを見上げてこくりと頷いた。何だ、この違いは。そう思いながらも、俺は肩を竦めた。
「お前さんが幼女趣味でない限り心配はねえよな」
ラビットが冷たい目線を俺に向けたのは言うまでもない話なのだが。
あれから数日が過ぎて、ラビットは俺の前には姿を現していない。軍人達は何やらわめきながらも町の近くに泊めてあった船で帰っていった。多分報告か何かに戻ったのだろう。
あの女の子はあれからまだラビットの家……天文台にいるのだろうか。
それよりも、あの女の子は何者なのだろうか。
軍は何のために女の子を追っていたのだろうか?
おそらく……いや、間違いなく厄介事を背負い込んでしまったラビットのことを考えながら、俺は店で暇な時間を過ごしていた。
天文台の兎は、今はまだそこにいる。
Planet-BLUE
読上
001:地球―序章
星団暦で六五七年、地球暦(西暦)で三九八九年。星団連邦政府は十年後の三九九九年十二月二十五日、太陽系第三惑星地球に巨大な発光体『ゼロ』が接触すると発表した。
そして、政府はこの事態に際し何の関与もしないということも。
その理由として、発光体の正体が未だに掴めないこと、発光体の軌道を逸らす計画を実行するだけの時間が残されていないということなどが挙げられるが、それは単なる建前にすぎない。
本来の理由は、今地球が滅びようとも、星団連邦にとって得にはなれど決して損害にはならないということ。
地球はとうの昔に星が保有していた資源を使い尽くし、現在は連邦政府が管轄する他の惑星からの援助で全てを賄っている。今や地球という惑星の存在は政府からすれば決して得ではなかった。それを考えてみると、今回の判断もある意味では理に適っていた。
こうして地球は事実上、政府から見捨てられた。
現在地球の人口は一千万程度。首長星級の惑星にしてみればかなり少ない数値を叩き出している。そして、今回の発表で地球からはほとんどの人間が退避すると考えられていた。
が、現実は違った。
地球に住む人間のほとんどは政府に対し「地球に残る」という意思表示を行ったのだ。政府は困惑した。何度も退避を呼びかけたが、実際に他の惑星に退避したのは未来のある子供達とその家族くらいだった。
結局、政府は住民を退避させることをほぼ諦め、地球への経済的援助も最低限度のもの以外は打ち切った。あと政府がすべきことは、もはや無意味な避難船の派遣だけであった。
かくして十年の時が過ぎ、終末は迫る。
これは、青き惑星だった一つの星の物語。
Planet-BLUE
読上
遠い未来がここにある
『先生』カーム・リーワードはだらしなくてサボり癖が酷くて酒と女が大好きなどうしようもない人ですが、こと「作家として」は尊敬すべき点が多々あると、担当ネイト・ソレイルは認識しています。どのように培ってきたか想像もつかないほどに広範な知識や経験は、戦中の軍人たちを描いた著作『霧の向こうに』に遺憾なく発揮されています。
ですから、その言葉には一瞬耳を疑ったのでした。
「私的な旅行はこれが初めてなんですよ」
記憶の限りでは、と。女王国縦貫鉄道全線開通記念特別列車のチケットを手にした先生は、少年のような顔をして言ったのでした。
「楽しみですねぇ。鉄道旅行なんて贅沢、遠い、遠い未来の話だと思っていましたから」
錯綜レトロスペクト