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クッキー / Augmented Fourth - The Girl Who Cried

 二三六九年十一月某日
 
 
「決めた! もう決めた! あの野郎からの仕事は二度と受けねえ!」
 お得意様からの一仕事を終えて、馴染みの酒場でぐだぐだ飲んで。結果として、酒場を出る頃には、俺はいい気持ちになるどころか、仕事の愚痴を吐き出すだけの装置と化していた。
 ……それを自覚する程度の理性は、まだ残っている。
 どこかぐらぐらする地面を踏みしめながら、幼馴染とよく似た紫苑の瞳を細め、爽やかな笑顔を浮かべるお得意様を思い出す。その唇から放たれる言葉は、いつだって、爽やかさからは程遠い生臭い依頼であることは、わかりきっていたはずなのに。
「ったくよう、あの人でなしが……」
「あのマッド・ドクターが人でなしなのは、今に始まったことじゃないけどな」
 わかりきったことを言うな、とばかりに肩を竦める『何でも屋』シスルの青白い面に、酔いの色は全く見えない。
 まあ、この全身機械仕掛けの変人様は、「酔えないし、味もわからないから、飲んでもつまらない」という、もっともだが付き合いの悪い理由により、いつも通り水をちまちま舐めていたんだ、酔ってないのも当然なんだが。
 こうも精巧に人の形を模していて、聴覚や触覚は人並み以上なんだから、味覚くらいつけてやってもよかっただろうに。そう、今はどこにもいない開発者様にもの申したくもなる。野郎が付き合いよくなったところで、俺は嬉しくも何ともないが、それはそれ、これはこれ。
 俺がお得意様の人でなしっぷりを主張しているのをしばし黙って聞いていたシスルは、俺の言葉が一旦途切れた時点でぼそりと言った。
「でも、あの博士の仕事が無いと、採算合わないってぼやいてなかったか、アンタ」
「言うな! 今はそれを忘れておきたい時なんだ」
「はいはい」
 不毛なのは俺もわかっている。わかっていても、どうしても、文句を言いたいことはあるのだ。
 やあフジミくん、今日も仕事熱心な君に、一つお願いしたいことがあるんだ。
 そんなお得意様の朗らかな決まり文句が頭の中にぐるぐるし始めるのを、何とか追い払おうと首を振ったところで、ふと、視界に妙なものが飛び込んできた。
 それは、きょろきょろと辺りを見回しながら歩く、一人の娘だった。年齢は十五、六といったところか。目深に帽子を被っているから、顔立ちは判別できないが、体つきといい、羽織っている柔らかそうなコートの仕立てのよさといい、この辺では見かけない娘であることは、間違いない。
「……見慣れない娘だな」
 シスルも、俺と全く同じ感想だった。
 普通、裾の町外周を、見知らぬ女が一人で出歩いていることなんて、ありえない。ガキなら尚更だ。見知った顔であっても、心ない連中に捕まらないように、比較的安全な道を選んで歩くことくらい、常識だ。
 だから、こんな、俺みたいなろくでもない野郎がふらふらしている裏通りに、知らない小娘が歩いてるってこと自体が異常なのだ。
 とはいえ、異常だからと言って、俺らが関わる理由もない。これが俺好みの胸と腰をしたいい女だったら違ったかもしれないが、ガキは俺の趣味じゃない。
「ま、構わず行こうぜ」
 と、シスルを振り向いたところで、横に立っていたそいつが、いつの間にやらそこにいないことに気づいた。嫌な予感がして娘の方を見れば、既にシスルが知らない娘に歩み寄ろうとしていた。
「うおおい、お人好しもいい加減にしろハゲ!」
 俺と正反対に小さい方が好みだってのは知ってるが、わざわざ厄介事を呼び寄せる気かあのアホは。だが、俺の叫びもむなしく、シスルは娘の前で視線を合わせるように頭を下げて、俺から顔は見えないものの、十中八九気障な微笑を口元に湛えて言った。
「こんにちは、お嬢さん。何かお困りのことでも?」
 このハゲは、どうしてちょっと芝居がかった物言いしかできないんだろうか。自分がハゲでグラサンで黒コートの、見かけだけで言えば完全なる不審人物であるという自覚はないんだろうか。
 あったとしても変わらないんだろうな。こいつはそう言う奴だ。
 観念してそちらに近づくと、娘は呆然とシスルを見上げていた。やがて、ちいさな唇が、動く。
「……アンタも」
「ん?」
「アンタも、あたしのことを捕まえに来たんでしょ!」
 突然、割れるような喇叭の音色が聴覚を埋め尽くし、一瞬で、酔いが吹き飛ぶ。
「シスル、避けろ!」
 と咄嗟に叫んだはいいが、多分、避けようもなかったはずだ。
 次の瞬間には、シスルの身体は、見えない力に弾き飛ばされて、壁際に積み重ねられていたゴミの山に突っ込んでいた。
 俺は、刹那の出来事に呆然としつつも、現象の正体だけは理解していた。
 ――念動力。
 あの音色の膨張は、間違いなく能力発動の前兆だった。超能力者って奴は、珍しいものの皆無じゃない。特に、俺らみたいな後ろ暗い業界には、決して少なくない人種だ。俺自身がそうであるように。
 ひたり、と。
 娘が、シスルから俺に視線を移す。分厚い、不恰好な眼鏡越しに、鋭い視線がこちらに突き刺さってくる。割れるような音色は、まだ、止まない。能力の予兆を聞き取れるにしても、わかったところで、逃れることが出来なきゃ意味がない。
 しかし、この顔、どこかで見たことがあるような――。
 次の瞬間、シスルが何事も無かったかのように、身体を起こした。片手で頭を押さえて、首を左右に振り振り、掠れた声を出す。
「あー、いったぁ……不燃ゴミの日でよかった……」
 確かに、これで生ゴミだったら目も当てられない。その場合は、責任を持って俺が笑い話としてあちこちに言いふらしていただろう。惜しい。
「痛覚切ってなかったのかよ」
「想定してないところで切るかよ、逆に危ないだろ」
「そりゃそうか」
 普通に返答されたところを見るに、痛そうだが堪えてはいないようだ。安心した。こいつはともかく、俺はかよわい一般人なんだ。荒事となれば、こいつを盾にして逃げることだって考えなきゃならん。薄情というなかれ、正当な自己防衛手段だ。
 さて、どう逃げようか、と考えている間にも、娘は猫のように背中を丸めてシスルと俺を睨みつけている。未だに、警戒と激しい音色は消えていない。だが、シスルがあの一撃を耐え切ったことに恐怖を覚えたのかもしれない、薄い肩が震えていた。
「……アンタ、何なの?」
「ああ、私は見かけより丈夫にできててね。機械仕掛けの身体も、悪くないもんだ」
 シスルは、左手で額を押さえたまま、苦笑を浮かべてみせる。娘は「機械仕掛け」とシスルの言葉を繰り返して、唇を噛んだ。
「そうじゃない」
「何がだ?」
「あたしのこと、追って来たんでしょう? それなのに、どうして」
 混乱した様子で頭を抱える娘に対し、シスルは、珍しく明らかな困惑の音色を奏でながら、ひらひらと手を振ってみせた。
「あー、ちょっと待ってくれ、落ち着いてくれ。あと、超能力で殴るのもやめてくれ、結構痛かったんだ」
 シスルは溜息混じりに、大げさに肩を竦めて言う。
「まず、私たちは塔の追っ手じゃなく、ただの通りすがりだ。そっちの男は塔関係者ではあるが民間の『運送屋』だし、私に至っては、どちらかといえば塔とは関わり合いになりたくない身だ。だから、君を捕まえてどうこう、という気は全くない」
 それで安心してくれ、というのも無理だろうが、と付け加えるシスルを、娘はじっと見つめていた。シスルの心の内まで値踏みするように。ただ、こいつは顔だけ見ててもさっぱり感情が掴めないから、正確に読み取るのは難しいとは思うが。
 果たして、娘がどうシスルを見定めたのかはわからない。だが、少しだけ、ほんの少しだけ、警戒音が緩んだ。その瞬間を、このハゲが聞き取れたわけではないはずだが、間髪入れずに言った。
「とにかく、立ち話もなんだから、どこかで座って話をしないか。その方がお互いに話しやすいだろうし、君も、塔の連中から逃げるのに疲れてるだろう。
 もちろん、我々が信用できないなら、立ち去ってくれて全く構わない。その場合は我々は君を追うことはないし、ここで君に出会ったことも忘れよう」
 勝手に話を進めんなよ、と口を挟みかけたところで、シスルは、とびきり気障な笑みを浮かべて言った。
「どうかな、ミス・エリザベス・カーシュ?」
 ――おいおい、マジかよ。
 
 
 《歌姫》リザ――エリザベス・カーシュ。
 一年に一度行われる、統治機関《鳥の塔》主催のオーディションで、見事この国唯一の偶像《歌姫》の肩書きを勝ち取ったシンデレラ・ガール。その姿は、毎日朝夕に《鳥の塔》のテレヴィジョンに映し出されているのだから、もちろん俺だってよく知っている。
 桃色に染め上げた髪をツインテールにして、現実味のないひらひらした服に身を包んだガキは、いつも満面の笑みと共に、俺たちに歌を振りまいてくる。
 歌自体は極めて陳腐で、旋律も構成もお粗末なもんだが、リザ本人が作ったわけでもないだろう。塔のお抱え音楽家どもは、一体何をしているのだろうか、と他人事ながらに心配したくなる。
 だが、それでも。
 リザの歌声は否応なく、心の中に入り込んでくる。遠慮も情けもなく踏み入ってきては、圧倒的な存在感で呼びかけてくるのだ。心穏やかでありますように。あなたが、幸せでありますように。
 そんな洗脳まがいの歌を、毎日聞かされるのは拷問に近い、と常々思っているのだが、ほとんどの連中は、《歌姫》の歌を当たり前のように受け入れているようだ。それとも、俺が特別悪く考えすぎなのだろうか。
 そんなことを考えながら、目に付いた店で買ったクッキーと、リザの分の甘い紅茶の入ったカップを手に、商店街と住宅街のちょうど合間に位置する広場に戻る。
「適当に色々買ってきた……って、おい」
「何だ」
「何でいつの間にか懐かれてんだ、お前」
 ちょっと俺が目を離していた間に、何があったのかはさっぱりわからない。だが、この国のアイドルが、いつの間にやらハゲ野郎の袖を掴んで、そっと寄り添っているのは、見間違いようもなかった。
 シスルは、俺の言葉にふっとニヒルな笑みを浮かべて、答えた。
「これが人徳ってやつさ」
「自分で言うんじゃねえ。あと傍目から見ると犯罪にしか見えねえからな」
「ヒースに捕まらないことを祈るよ。捕まったら舌噛んで自殺してやる」
「本当にお前、ガーランド隊長嫌いな」
 あと、多分舌噛んでもそう簡単には死ねないだろう。確か、呼吸が停止しても三日は生きていけるように作った、とウィンが豪語していたはずだから。死にたい時に死ねない、というのもなかなか嫌な話だ。
 ともあれ、下らない話はその辺で切り上げて。菓子の入った袋を投げ出し、ベンチに腰掛ける。リザは俺の方をちらりと見て、俺の手から紅茶のカップをひったくると、すぐに目を逸らした。何だこの差は。何なんだこの差は。
 シスルは、「どうぞ」とリザにクッキーの袋を差し出しつつ、俺に向きなおった。
「ひとまず、私とアンタのことを話して、こっちの事情は一通り納得してもらえた」
「事情つったって、酒場の帰りに偶然見かけて、お前が迂闊にも声をかけたってだけだろ」
「否定はしない。で、このお嬢さんは、人目を盗んで塔から抜け出した結果、塔の怖い人に追われているようだ。私のことも、塔の追っ手だと勘違いしていたらしい」
「どっからどう見ても、堅気じゃねえもんな」
 俺はともかく、こいつはどう控えめに見ても単なる通行人には見えない。外周の住民は、こいつが人畜無害の愉快なハゲであることを知っているが、《鳥の塔》で歌って暮らすアイドル様からしてみれば、不気味な仕事人にしか見えなかっただろう。
「で、どうして《鳥の塔》のお姫様が、塔を降りてこんな外周まで逃げてきたんだ?」
 俺の問いに、リザはクッキーを手にしたままじろりとこちらを睨んできた。
 テレヴィジョンに映る華やかな笑顔とは打って変わって、目の前のリザは眉間の皺を一時たりとも緩めようとはしない。ピンクのツインテールは目立つと判断したのか、帽子の下から、何の変哲もない栗色の髪を下ろした姿だ。これを、《歌姫》リザと判断するのは難しい。
 俺が、すぐにこの娘をリザと気づけなかったのには、もう一つの理由があったのだが。
 リザは、シスルの後ろからじろじろと無遠慮に俺の顔を眺めた後に、吐き捨てるように言った。
「……アンタに話すことなんかないよ」
「おいおい、つれないな。別に取って食おうってわけじゃねえんだから」
「男はみんな狼だって、特にアンタは狼だってシスルが言った」
「ハゲ手前裏切ったな!」
「嘘はついてないと思うが」
 ひとまず、しれっとしたハゲ頭を一発引っぱたいとくことにした。俺は狼であることを否定する気はないが、ガキは対象外だ。
 全く、失礼なガキだと思いながら、俺は最大の疑問を投げ込む。
「つか、お前、本当に《歌姫》リザなのか?」
「――!」
 リザの肩が跳ねると同時に、俺を睨みつける視線が更に強くなる。さっきの様子を見る限り、結構強烈な超能力を持ってるみたいだが、びくびくしてても始まらない。
「お前の声、どう考えても、《歌姫》の歌と一致しねえんだよ。よく似てはいるが、似てるだけだ」
 本当か、と訝しげな声を上げるシスルを睨む。
「俺の耳を疑うか?」
「疑わない。アンタの耳がいいのは、よく知ってる」
 シスルは物分りがよいからやりやすい。
「それでも、彼女はミス・カーシュに似すぎていると思うが」
 正直、こいつの観察力には恐れ入る。アリシアといいこいつといい、俺の周りにいる連中は、ちょいと感覚が鋭すぎやしないか。耳だけが取り得の俺としては、そっちの方が不気味だ。
「よく似た他人ってことはねえの? それこそ、影武者とかさ」
「違うよ。あたしは確かにリザだよ。エリザベス・カーシュ」
 リザはよく通る声を上げてから、ぎゅっと、一際強くシスルの袖を握り締めて、そこに顔を埋めるようにしながら、何かを押し殺した声で言った。
「でも、おっさん、すごいね。本物の《歌姫》じゃないってのは当たってるよ。あたし、あんな歌、歌ってないもの」
「どういうことだ?」
「あたしは、歌ってるふりをしてるだけ。あの歌を歌ってる本物の《歌姫》は、別の人」
 その時、建物の間から天に向かって聳える《鳥の塔》が、テレヴィジョンに華やかな《歌姫》リザの姿を映し出し、夜の訪れを告げる。
『こんばんは、エリザベスです! 今日は一日お疲れ様でした――』
 よく聞けば、口上は確かに目の前の娘の声と一致している。だが、歌が始まってしまえば、びりびりと背筋に響く感覚を伴う、誰ともわからぬ声が俺の意識の中に入り込んでくる。
「……あの歌を歌ってるのは、誰なんだ?」
 俺の問いに、リザは唇を尖らせて「わからないよ」とふてくされたように言う。
「あたしは《歌姫》のふりをすることだけが、仕事だから。それ以外は、何一つ教えてもらえない」
 俺とシスルは、思わず顔を見合わせてしまった。そんな話はシスルも初耳だったのか、驚きを隠せないようだった。リザはシスルの袖を掴んだまま、細いズボンに覆われた足をぶらつかせる。
「あたしね、《歌姫》になるのが夢だったんだ。テレヴィジョンに映るヴィクトリアを見て、いつか、ああいう風に皆に歌を聞いてもらえたら、どんなに気持ちいいだろうって思ってた」
 ヴィクトリアは先代の《歌姫》だ。近頃はめっきりメディアへの露出もなくなってしまったが、俺はヴィクの方が好みだ。あの胸といい、あの腰から尻にかけたラインといい――と考えているうちに、ふと、ひやりとした感覚を覚えた。
 思い出す。ヴィクはどんな歌を歌っていたか。どんな声で、歌っていたか。
「――けれど、ヴィクも、本当は歌っていなかった?」
 俺の問いに、リザは重たい表情で頷いた。どういうことだ、と困った顔をしているシスルに、俺は自分の推測を言葉にする。
「歌は違うが、ヴィクの歌も、リザの歌も、同じ人間が歌ってる。ヴィクでもリザでもない、誰かの歌だ」
 そして、それが誰なのかは明らかにされていない。興味がなかったから、考えたことも無かったが、改めて思い返してみれば違和感だらけだ。
 唇を噛んで、俺の言葉を聞いていたリザは、搾り出すように言った。
「塔の偉いさんが考えることなんて、あたしにはわからない。でも、見た目だけしか評価されない、知らない誰かの代わりでしかない、あたしの声で歌うことも許されない、そんな《歌姫》なんてもう嫌なんだ」
「だから、塔を抜け出した?」
 シスルの問いに、リザは頷いて、それきり俯いてクッキーをもそもそ摘むばかりだった。俺はもう一度シスルと顔を見合わせてしまい、何ともげんなりする。
 いきなり《歌姫》を拾って、しかも、こんな重たい話を聞かされたんだ、そりゃあ嫌になるってもんだ。
 だが、その時、シスルがとんでもないことを言い出した。
「そうだ、リザ。もし、嫌でなければ、君の歌を聞かせて欲しいな」
「え、あ、あたしの?」
「そう。君の本当の歌声が聞いてみたいんだ。私と隼以外に観客がいないのは申し訳ないが」
 突然の言葉にうろたえるリザ。そりゃそうだ、ほとんど見ず知らずの相手に「歌え」と言われれば、戸惑わないほうがおかしい。俺だって、万全な状態でも突然「弾け」って言われたら嫌だって言う。
 けれど、そんなリザに穏やかな微笑を向けて、シスルは言葉を続ける。
「まあ、こいつはやたら厳しいけどな。少しでも音が外れてると嫌な顔をする」
「音が狂ってると気持ち悪いんだよ。悪かったな」
「だから、耳のいい奴は嫌いなんだ」
 シスルは吐き捨てるように言って、大げさに首を横に振った。俺、何かこいつに悪いことしただろうか。さっぱり思い出せないが、どうも不興を買っていたらしい。別にこいつに嫌われたところで、痛くも痒くもないが。
 そんな俺とシスルのやり取りを呆然と見ていたリザは、急にくすくす声を殺して笑い出した。それを見て、シスルが心底嬉しそうに言う。
「何だ、そんな風に笑えるんじゃないか。笑った方がずっと素敵だ」
「むず痒いこと言うんじゃねえ、鏡見ろハゲ」
「髪が無いだけで、思ったことを正直に言うことも許されないのか」
「お前は改善できるのにしないのが悪い」
 その瞬間、リザがついに噴き出した。腹を抱えて笑いながら、ぴょんと立ち上がる。柔らかそうな栗色の髪が揺れて、いい香りがした。
「あはは、久しぶりに、思いっきり笑わせてもらった気がするよ」
 振り向いたリザの笑顔は、テレヴィジョンで見るものよりも、ずっと可愛かった。おかしいな、ガキには興味ないはずなんだが。
「そうね、お礼に、一曲だけ聞かせてあげるよ」
 テレヴィジョンから流れてくる《歌姫》の歌が途切れたのと同時に、リザが、すう、と息を吸って。
 そして、歌が、始まる。
 曲はテレヴィジョンの中で歌うリザと同じ《歌姫》の歌。陳腐な詞に、お粗末な構成。お世辞にも、いい曲とは言えない。それに、リザの歌声は、《歌姫》と違って完璧でもない。ところどころ音が外れているし、拍にも乱れが見える。
 けれど、不思議と心地よいと感じる自分に気づく。誰とも知らない《歌姫》の、何もかもを圧倒するような歌声じゃない。軽やかで、柔らかで、温かな。そんな声音だった。
 リザは、胸の上に手を置いて、気持ちよさそうに歌っている。その、開かれた心が、声にも現れていたのかもしれない。音楽は、いつだって、奏でる者の心を容赦なく暴き立てるものだから。
 そうやって、曝け出された心の音色を「聴く」のは、悪くないもんだ。
 そうして、最後の音が消えるのを確かめて。俺は、手袋を嵌めたままの手を叩いた。シスルも、同時に拍手をリザに贈る。
「上手いじゃないか」
「アンタもそう思うか」
「ああ。俺は本物の《歌姫》より好きだな」
「奇遇だな、私もだ」
 リザは、真っ赤になって、俯いてしまった。口では強気なことを言っているが、本当は相当恥ずかしいんだろう。人前で何かを披露するってのは、そういうことだ。
「けど、どうしてこんなに上手いのに、歌わせてもらえねえんだろうな」
「それは、機密に触れるものでね。君たちに教えるわけにはいかない」
 突然、俺たちとは違う声が――なおかつ、俺が一番聞きたくなかった声が、響いた。
 はっとして横に視線を向けると、広場の入り口から、白いコートを纏った男が、ゆったりとこちらに歩いてくるところだった。後ろに撫でつけた、白髪交じりの金色の髪に、どうしても胡散臭さの拭えない笑顔。
「やあ、ハヤトくん、シスルくん」
「どうして、手前がここに」
 俺の最大のお得意様――《鳥の塔》環境改善班のリーダー、研究主任ミシェル・ロードは、紫苑の瞳を細めて言った。
「何、かわいい《歌姫》がいなくなったと聞いて、慌てて探しに出たのさ。と言っても、こんなところまで逃げているとは、主導して探している面子は想像もしていなかったみたいだがね」
「……研究所の主任様が、どうしてたかがキャンペーン・ガールをわざわざ探しに出るんですかね」
 らしくもない嫌味な口調で言ったのはシスルだ。シスルも、この野郎には嫌な縁があるらしく、言葉には隠しようのない刺が混ざっている。
 だが、そんな刺も、この狸には通用しない。
「何、私は《歌姫》リザの大ファンだからね。彼女が消えてしまったら、私は生きていけないのさ」
「大嘘つき」
 ぼそりと、シスルの袖にしがみついたリザが呟いた。
「アンタが好きなのは、あたしじゃなくて、あたしの能力のくせに」
 ミシェルは、リザの搾り出すような言葉をあっさりと黙殺した。
 仕方ない、こいつはそういう奴だ。人の言葉を喋っているというのに、さっぱり話が通じない。自分に都合のいいことだけを聞いて、それ以外は思考に入り込みもしないか、聞いていたところで曲解するばかり。
 こんな人でなしはとっとと排斥されてしかるべきと思うのだが、遺憾ながらこれはこれで、人間離れした天才だ。《鳥の塔》にはなくてはならない、高層の頭脳の一人であるがゆえに、そう簡単に消えてはくれない。
 それに、俺個人にとっては、最も厄介だが最も金払いのいいお得意様だ。
 消えてもらいたいが、消えてもらっちゃ困る、そんな極めて面倒くさい野郎が、このミシェル・ロードというクソ野郎なのだ。
「君たちには感謝している。我が《鳥の塔》の誇る《歌姫》を、丁重に保護してくれたのだからね。さあ、リザ、塔に帰ろうか」
 もし、これがミシェル一人であれば、神楽を呼んで逃げてもよかった。だが。
「……逃げ道はなさそうか」
「無理だな。囲まれてる」
 全く、耳がよすぎるってのも嫌なもんだ。姿を隠して俺たちを取り囲んでる連中の、鋼を引っかくような音色さえ聞こえなけりゃ、ちょっとした希望だって抱けたってのに。
 シスルも、ミシェルが一人で来ているとは思っていなかったのだろう、「やっぱりな」と諦めたように肩を竦めた。すると、唇を噛んで小さく震えていたリザが、意を決したように立ち上がった。
「ごめん。あたし、行くよ」
「リザ」
「あたしのわがままで、アンタにまで迷惑かけられないしね」
 リザは、一歩、俺たちから離れて。
「歌、聞いてくれてありがとう。本当に、嬉しかった」
 透き通った声で、そう、言った。
 どうしようもなかった。俺も、シスルも、一歩、また一歩と離れていくリザを止めることはできない。
 それでも、低く、獣が唸るような声でシスルが言う。
「そうやって、アンタはまた《歌姫》候補を食いつぶすのか」
 その言葉にミシェルは答えず、代わりにシスルに胡散臭さこの上ない笑顔を向ける。
「ついでに、君も一緒に来てくれればとても嬉しいんだがね、シスルくん?」
「断る。しつこい男は嫌われるぞ、ドクター・ロード」
 シスルはいつになく鋭い語調で言う。ミシェルは「今更さ」とくつくつ笑いながら、指を鳴らした。その瞬間に、黒い背広を纏った男たちがばらばらとあちらこちらから姿を現し、リザを取り囲む。
 リザは、抵抗しなかった。丁重に扱うように、というミシェルの声に従い、黒服たちはリザを連れて俺たちから離れてゆく。ミシェルもまた、俺たち――多分、シスルに向かって、だろうが――に対して片目を瞑ってみせて、そのまま背中を向けた。
 その時。
「アンタは折れないでね、シスル」
 ふと、耳に届いたリザの声は、多分ミシェルやリザを取り囲む連中には聞こえなかったんだろう。シスルは、黒服に囲まれて、もう姿も見えなくなってしまった《歌姫》に向かって、ぽつり、呟いた。
「……ああ。折れるには、まだ、早すぎるよ」
 その声が、リザに聞こえたのかはわからない。
 ただ、それを確かめることもできずに、俺は、奴らの音が完全に聞こえなくなるまで、そこに固まっていた。
 やがて、俺と同じように固まっていたシスルが、「行くか」と言って、結局半分以上中身の残ったクッキーの袋を掴んで立ち上がる。俺も一緒に重い腰を上げながら、つるりとした後ろ頭に呼びかける。
「なあ、お前、俺がいない間に、あいつと何話してたんだ」
 シスルは、振り向いた。口元には薄い笑みを浮かべ、重たそうなミラーシェードを中指で持ち上げてみせる。
「かわいい女の子の秘密を言いふらす趣味は無くてね」
「おい、気になる言い方するんじゃねえよこのハゲ」
「アンタこそ、リザはガキだからって興味ないんじゃなかったのか」
「それとこれとは話が別だろ」
 居心地の悪い沈黙が、落ちた。シスルは、その場に立ち止まったまま、しばし唇を噤んでいたが、やがて、静かに言った。
「悪い、隼」
「別に、話せねえことは誰にだってあるからな。手前がそう言うなら、それ以上は聞かねえ。今日のことを丸ごと忘れとくことにするさ」
「……ありがとう」
 別に、こいつのためじゃない。これから、あのお得意様の仕事を請けながら、変わらず仕事をしてかなきゃならん、俺自身のためだ。
 ここでリザと出会ったこと、《歌姫》の秘密の一つを知ってしまったこと、リザの本当の歌声を聴いたこと。何もかもを、忘れてしまえばいい。俺には何一つ関係のない話なんだから、余計なもんを背負っている理由はない。
 ――きっと。
 未だもやもやする感情を断ち切るためにも、頭を強く掻いて、灰色の空を仰ぐ。
「っつあー、すっかり酔いも覚めちまったじゃねえか。飲みなおすしかねえなぁ」
「そうだな、たまには私もご相伴に預かるか」
「お前、酒は酔えないし味わえないし、金ももったいないって言ってなかったか」
「今はそれを忘れておきたい時なんだ。そういうこともあるだろ、隼」
 シスルは、ミラーシェード越しに俺を見つめてくる。一体、この分厚いレンズの下で、奴がどういう表情をしているのかはわからない。音色を読み取れば、感情の一端くらいはわかるかもしれないが、あえてそうしたいとも思わなかった。
 だから、視線を外して、リザの消えていった道の向こう、曇天に聳える《鳥の塔》を見上げて。
「ま、そういう日もあるわな」

新聞 / Perfect Fifth - The Truth Is NOT Tender

 二三六八年十一月某日
 
 
 ベッドの上で眠る女を置いて、宿の一室を後にした。
 夜明けを過ぎたばかりの裾の町は唸るような雑音に満ちていて、隔壁という檻に囚われた、巨大な獣を連想せずにはいられない。
 町の中心に屹立している白い塔――統治機関《鳥の塔》は昼夜テレヴィジョンから面白くもなんともない公営番組を垂れ流しているし、町に住む連中の中には、昼夜が完全に逆転している奴も多い。そもそも、太陽が灰交じりの雲に隠されて久しいこのご時勢、昼も夜もさほど関係ないんだろう。
 ちらちらと瞬く外周の街灯の下で、手をすり合わせて白い溜息を吐く。
 夜明けの空気の冷たさと、びりびり来る鼓膜の振動は、いつものことながらなかなかに堪える。決して、この煩さが嫌いというわけじゃあないが、この町から一歩も出ることなく暮らせるかと問われれば、ノーだ。
 一体昔の自分は、どうやってこの町で暮らしていたのだったか。遠い記憶を呼び起こそうとして、そのほとんどが思い出したくもない雑音だったことを思い出して、すぐに思考の扉を閉ざす。
 しかし、表に出てきたはよいが、行きつけの飯屋が開くまでには少し時間が必要だ。仕方なく、早朝から開いているドリンクスタンドで熱い珈琲を一杯買って、側のベンチに陣取ることにする。
 町が目覚めはじめる音を確かめながら、ろくに味のしない珈琲をちまちまとやる。塔で栽培された豆を使った珈琲を知っているだけに、町に出回る珈琲のほとんどが、どうにも味がしない割に薬くさく感じて仕方ない。
 果たして、「本物」を知ることが、人生においてどれほど有益なのか、未だにわからない。嘘と偽物に満ちたこの終末の国において、何が「本物」であるかを判断することが、まず至難ではあるんだが――。
 その時、ふと、傍らのごみ箱から飛び出しているものが意識に入る。
 新聞だ。安っぽい紙の一面に印字されているのは、ど派手な色使いの、誇張はなはだしい見出し文句。
『歌姫ヴィクトリア暗殺未遂、か?』
 そんなニュース、聞いたこともない。久々に見るヴィクの写真が気になって新聞を取り上げてみたが、書いてあったことといえば、根も葉もない噂を、それが植物であるとわかっていながら尾びれや背びれまで付け加えちまったような、とんでもなく下らない内容だった。
 ――でもまあ、そんなもんだろう。
 一面の端に踊るのは、丸を背にした兎のマークと意匠化された『顧兎』という漢字。月の兎、を意味するという名を冠した顧兎新聞といえば、その八割がデマとガセネタと作り話という、新聞の片隅にも置けない新聞だ。
 新聞というより新聞の体裁をとった娯楽読み物、と表現した方がよっぽど正しいんだが、外周の住人は重々それを承知した上で顧兎新聞の存在を受け入れているようだ。外周のあちこちで見られるこの新聞は、信憑性は横において、その話題の愉快さからごく一部の層の間で人気がある。どこぞの誰かさんも、確か、熱心な読者だったはずだ。
 とはいえ、新聞というものがそもそも好きではない俺がこの新聞を手に取ったことは、ほとんどない。あったとして、一度や二度あったかなかったか。情報を仕入れるだけならば愛車のラヂヲで十分だし、もっと深い情報が知りたいなら携帯端末に頼ればいい。端末は町の外では無力だが、町の中にいる限りはどんなことでも調べられる。その情報の真偽は、手元の新聞以上に怪しいもんだが。
 ざっと目を通してみるが、「幻の黄金ザリガニを追う」や「超常能力の発現と電子ジャーの関連性」といった、子供騙しでももっと面白いことは書けないのか、と眉を顰める見出しが並んでいる。電子ジャーはちょっと気にならなくもないが――と、自然と片隅に載せられた小さな記事が目に入る。
 太い黒文字で書かれた見出しはこうだ。
「三年前の悲劇が語る塔の闇」
 その下には「爆発事故は塔の隠蔽工作? 兵隊の目撃証言と消えた少女」という物騒な言葉まで続いている。
 外周を拠点とする新聞屋には、ろくに外周を顧みない塔を敵視し、あることないこと書き散らす連中も多い。塔の腹が黒いことは今更誰も否定しないが、黒い腹を抱えてい続けられているのには、それなりの理由がある。そうして、塔の黒い腹を維持するために、真実を掴んで消えていった新聞屋がいかばかりか、俺は知らない。知りたくもない。
 記事の内容自体は、さっきのヴィクの話題とそう変わらない、根も葉もない噂に彩られた空っぽの記事。こんなものでは、塔も一顧だにしないだろう。誰もがいつもの作り話だと笑う、そんな書き方だ。
 だが、その末尾に示された「フェアフィールド」の文字に、背筋がぞくりとする。
 フェアフィールド。その名を持つ記者を、俺は、嫌というほど知っていた。
 その時、手元に影が落ちたことに気づいて、顔を上げると。
「おはよ、ハヤト」
 ひらり、と手を振る、鮮やかな金髪をポニーテイルに結った一人の女。
 まさしく、手元の新聞に名前を躍らせていた、顧兎新聞社のアリシア・フェアフィールド記者ご本人だった。
 嫌な偶然だな、と思いながらも、手にしていた新聞を畳んで、アリシアの大きな目を見あげる。
「久しぶり、アリシア。相変わらず下らない記事書いてんな」
「『下らない』は、うちに限っては褒め言葉よ」
 にっと白い歯を見せて笑うアリシア。
「こんな朝っぱらから仕事か、精が出るな。今日は、赤毛の兄ちゃんは一緒じゃねえのか」
 俺の言葉に対して、アリシアは奴には珍しく、少しだけ笑い方を鈍いものに変えて肩を竦めた。
「ん……、まあね」
 ――嫌な偶然に加えて、嫌な予感がひしひしとする。
 アリシアは、ほとんどの場合相方の野郎と一緒に行動する。野郎には興味がねえから名前も覚えちゃいねえが、アリシアと同年代の、ぱっとしない赤毛の野郎だったはずだ。アリシアと組まされた奴はことごとく一ヶ月で新聞社を止めていったというが、あの野郎はそれなりに長くアリシアの相方、もっと正確に言うなら「制止役」を務めているようだ。
 この核弾頭をきっちり制止できているかどうかは、全く、別の話として。
 それでも、制止役抜きのアリシアを放置することが、どれだけの厄介事を呼ぶかは推して知るべしってやつだ。塔に忍び込もうとして危うく警備の兵隊に銃殺されかけたり、危ない情報を掴んじまって塔の代行者に追われたりなんて、こいつにとっちゃ日常茶飯事だ。近頃は少し鳴りを潜めていたようだが、そこは相方の功績と考えるべきだろう。こいつのトラブル量産体質が、そう簡単に治るとも思えない。
 その相方がいない今、どれだけの意味があるかはわからなかったが、念のため釘を刺しておく。
「お前、またやばいことに首を突っ込もうとしてんじゃねえだろうな」
 すると、アリシアは、父親譲りの紫苑の目をぱちぱち瞬かせ、それから視線を遠くに逃がした。おい、その露骨な誤魔化しやめろ。わざとだとは思うが、それにしたってきつい冗談だ。
「……死んだら、花くらいは贈ってやるよ」
 笑えない冗談に、笑えない冗談で返してやると、アリシアはぷうと頬を膨らませた。
「大丈夫だって、そうそう簡単に死んでなんかやらないんだから」
「まあ、今まであれだけやって生きてんだから、悪運は相当だろうな」
 でしょう、とでも言いたげに顔を覗き込んでくるアリシアを睨む。
「けど、次があるかどうかはわからねえ」
 微かな痛みを訴える、手袋を嵌めた指先を、合わせて。
「あのクソ野郎はともかく、お袋さんをあの世で泣かせるようなことは、すんなよ」
 アリシアは、一瞬虚をつかれたように目を丸くして、それからくしゃっと顔を歪めて「らしくないなあ、ハヤト」と言った。そりゃあ、俺だって「らしくねえな」と頭ん中で呟かずにはいられない。
 本当は、無関心でいればいい。俺が、ほとんどの奴にそうしているように。
 だが、アリシアだけは、俺にとってある意味で特別だった。
 アリシア・フェアフィールドは、三流娯楽新聞の『記者』であり、俺にとっては「幼馴染」だ。年は俺の方が相当上だから、そう表現するのはちょいと間違っているかもしれない。
 それでも、『運送屋』を始める以前の俺を知っていて、なおかつ、今も変わらず付き合っている、ほとんど唯一の相手だ。そして、女でありながら、俺が欠片も「そういう対象」として見られない唯一の相手でもある。
 俺はアリシアがそれこそ鼻垂らしてぴいぴい泣いてる頃から知ってるわけで、そんなガキを「女」として見られるわけがない。知る、ってのは得てしてそういうことだ。
 記憶の中じゃ未だガキのままだってのに、現実ではすっかり女らしい体つきになっちまったアリシアは、俺の横にすとんと腰掛けて、まだ半ば闇に包まれた空を見上げる。
「でも、そうだね。母さんのことを言われちゃうと、弱いなあ」
 アリシアの母親は、数年前に亡くなっている。元々体の弱い人だったが、ある日悪い風邪をこじらせて、そのまま息を引き取ったのだと聞く。
 葬儀には顔を出さなかったが、棺が埋められるところは、遠目に見ていた。その日は鈍色の雨が降っていて、黒い傘を片手に差したアリシアの横顔は、悲しんでいるというよりは、怒りを必死に堪えているように見えたことを、思い出す。
 そこに、アリシアの親父がいなかったことも。
「何となくわかってるんだ」
 一瞬、過去の記憶に引きずられかけていた俺の意識は、アリシアの声で現実に引き戻される。アリシアは、灰色の空に向かって細い腕を伸ばして、目を細める。
「あたし一人の力じゃ、あたしの望むものは、手に入らないって。それでも、どうしても、立ち止まっていられないの」
「望むものって?」
「単純だよ。『本当のこと』」
 本当のこと。
 確かに、答えとしては単純だ。
 だが、それを手に入れることがどれだけ難しいかは、息をしているだけでもわかる。何もかもが狂っちまった『魔法使い』バロック・スターゲイザーの《大人災》以来、この国を回しているのは統治機関《鳥の塔》で、その塔は、確かに生き残った人類を生かすことに尽力している。ただし、そこにどのような手段を用いているのか、そのほとんどが謎に包まれている。
 とはいえ、この国に生きる連中の大多数は「生きる」だけで精一杯で、本当のことが隠されていることを理解していても、追い求めようなんて気は起こさない。俺もそういう「大多数」のうちの一人だ。
 けれど、中には、塔が隠してきた真実を暴こうとする物好きもいる。この、『新聞記者』アリシア・フェアフィールドのように。
 アリシアの仰ぐ天には、いつだって、《鳥の塔》が聳え立っている。雲に隠れかけているその白い巨体を見据えて、アリシアは言葉を紡ぐ。
「あたしは、ただ、本当のことを解き明かしたいの。塔が、あたしたちに隠してることを」
「それは、新聞記者として、か?」
「もちろん、記者としての矜持もある。でも、ほとんどあたしの個人的な理由で、自己満足だってことくらい、ハヤトだってわかってるでしょ」
 俺は、その言葉に肯定も否定もできない。アリシアが塔に執着する理由は十分想像できるが、それをこいつの「自己満足」と言い切れるほど、俺はアリシアを理解しちゃいない。幼馴染で、どんな顔で笑って泣くのかも、どんな音を奏でるのかも知り尽くしていたって、心の奥底までを覗き見ることなんざ、俺にはできっこないんだ。
 だから、代わりに問いかける。
「それで、今は、何を追っかけてんだ? この記事を見る限り、随分古い話を掘り起こしてるみてえだが」
 手元の記事が言う『爆発事故』は既に三年前の話だ。記憶が正しければ、爆発だったか何だったかわからんが、確かに裾の町外周で事故が起き、かなりの人数が死んで話題になった、はずだ。
 結局、その事故が何であったのか、俺は記憶していない。話題にならなかったのか、俺が単に忘れているだけなのかは判然としないが。
 アリシアは、紫苑の瞳で俺をひたと見つめて、硬い表情で言った。
「ハヤトはさ、《歌姫》に興味ある?」
 一体、何を言われたのかと思った。《歌姫》。それは、この新聞の一面に載っている女のことであり、もしくは、テレヴィジョンやラヂオで能天気な歌を歌っている、まだ女にもなりきれてない小娘のことだ。《鳥の塔》が、灰色に沈むこの国に希望をもたらすために選び出した、キャンペーン・ガール。
 ただ、それと、この記事との間に何の関係があるというのか。
 首を傾げていると、アリシアはぽつり、ぽつりと言葉を落とし始めた。
「塔は、定期的に《歌姫》のオーディションを開催して、次代の《歌姫》を決めてる。でも、《歌姫》を決めるっていうのは、あくまで表向きの目的なんじゃないかって思ってる」
「……《歌姫》を選ぶ以外の目的なんて、考えもつかねえけど」
「オーディションの参加者が、何人も消えてる」
「何?」
「それと、裾の町では誰もがオーディションに参加する権利があるけれど、辺境から《歌姫》を目指して来る子たちは、事前に塔の兵隊に選ばれてやってくる。そして、ほとんどがオーディション後に行方を絶ってる」
「初耳だな」
「そりゃそうよ、塔が巧妙に隠してるもん。それに、名前も公表されないオーディション参加者のその後なんて、普通気にしないしね。特に、辺境から来た見ず知らずの人間の行方なんて、誰も考えない」
 だけど、と。アリシアは唇を噛む。
「確かに《歌姫》候補者は消えていて、そして、あの事件の時に突然現れた」
「あの事件、ってのが、外周の爆発事故か」
 アリシアは、俺の言葉に小さく頷いた。それと同時に、頭の上の方で結ばれた金色の髪が、尻尾みたいに揺れる。
「現場を目撃した人たちが、今になってやっと証言してくれたの。あの日、外周北地区で、見慣れない少女たちが目撃されていた。その目撃情報のいくつかは、オーディション以来姿が見られなかった少女と一致していたの。そして、その少女たちを追って、武装した塔の兵隊たちが現れた」
「武装? 相手はただの子供じゃねえのかよ」
「わからない。ただ、話を聞く限り、少女たちは武器らしいものを何一つ身につけてなかったみたい。それどころか、この寒さの中、病人が着るような白い薄手の服一枚だったって話も聞いてる。そんな少女たちが、兵隊に追われていたの」
 あまりに、現実離れした話だ。だが、アリシアの表情があまりにも真剣で、茶々を入れることも躊躇われる。その間にも、アリシアは訥々と言葉を紡いでいく。
「やがて、少女たちと兵隊が接触して――少女たちと兵隊たちは、どちらも壊滅的な被害を被った」
「兵隊たちも?」
「そう。何故かはわからないけど、辺り一面血の海で、少女の死体と兵隊の死体が折り重なっていた、らしいの。結局、その後すぐ塔から増員がきて、死体をきれいさっぱり片付けちゃって、表向きには『爆発事故』として発表した」
 塔が、黒い腹を必死に隠そうとしているのは、いつものことだ。これも、そうやって秘密裏に処理されてしまった事柄の一つ、なのだろう。
 だが、どうしてもわからない。わからないことだらけだ。
 俺の困惑を受け取ったか、アリシアは目を伏せて、膝の上で拳を作る。
「少女たちはどこに消えていたのか。何故、兵隊たちに追われていたのか。そして、どうやって兵隊と一緒に死んだのか。わからないことだらけだけど、いくつかわかることだってあるよ。
 塔が《歌姫》候補として集めた少女たちには、何か秘密が隠されていること。
 それが、武装した兵隊を使ってまで、隠したい秘密だっていうこと」
 ぎゅっ、と。膝の上に置かれた手が、握り締められる。ただでさえ白い指先が、更に力を篭めて白くなる。
「あたしは、どうしても、その秘密を知りたいの。次の《歌姫》オーディションに紛れ込めば、その一端を掴めるかもしれない、とも思ってるんだけど」
「おい」
 アリシアの言葉は、俄かに信じられるもんじゃない。ただ、その表情を見る限り、冗談を言っているようでもない。そして、その一端にでも事実が混じりこんでいるとすれば、アリシアが《歌姫》候補となれば、話の中の娘どもと同じ結末を辿るのではないか、という思いが生まれる。
 ――もし、そうなってしまったら、俺は。
「なーんて、ね」
 突然、明るい声で言って、アリシアはぱっと立ち上がって俺を振り向いた。紫苑の瞳は大きく見開かれていて、唇にはわざとらしい笑み。
「そんなことがあったら怖いなあ、って話! 本気にした?」
「……お前なあ、珍しく深刻そうにしてると思って、大人しく聞いてやったのに」
「あはは、だってあたしは『顧兎新聞社』の記者だよ? 八割はデマとガセネタと作り話に決まってるじゃない」
 そう、それはわかりきっている。俺の手の中にある新聞は、決して真実を語るわけじゃない。真実を語るツール、の形を借りた荒唐無稽な作り話。冗談のわかる連中による、冗談のわかる奴のための娯楽だ。
 だが。
「じゃあ、残りの二割はどうなんだ?」
 俺の言葉に、アリシアは答えなかった。ただ、父親によく似た目を伏せて、不敵に笑ってみせるだけで。
 やがて、空はゆっくりと明るくなりはじめ、俺の耳に届くノイズもにわかに音を増す。そんな中、アリシアは金色の尻尾を揺らして、白い塔を、灰色の町を背負うようにして立っていた。
「さってと、そろそろ時間だから行かなきゃ。今度はご飯でも奢ってね」
「ああ、考えておく。だから」
「死なないよ。あたしは、絶対に」
 きっぱりと、町を包むノイズにも負けない声が、響く。それと同時に、澄んだ高い音色が鼓膜を打つ。アリシアの紫苑の瞳は、俺を見ているようで、俺ではないどこかを見ている。
 そうだ、いつだって、こいつの瞳はこの町の奥深くに根を張り、それでいて高き場所から町を見下ろしている、一人の男の姿を映しこんでいる。
 そして、アリシアはひらりと手を振って、「またね」と言って駆けて行った。
 俺は、そんなアリシアに何の言葉も返せなかった。返せないまま、ただ一人、ベンチの上に取り残される。
 そして、
『おはようございます、エリザベスです! 今日も一日、頑張ってくださいね! それでは本日の一曲目、聞いてください――』
 テレヴィジョンの中から呼びかけてくる、《歌姫》リザの声だけが、目覚めゆく世界に響いていた。
 
 
 翌日。
 昨日とは別の女を置いて、安宿を後にして。
 ほとんど燃えつきかけた煙草を咥えてふらふら歩いていると、馴染みの露店の店主が声をかけてきた。
「よう、ハヤト。何か買ってけよ」
「ああ、そうだな。じゃ、いつものと、あとこいつを」
「どういう風の吹き回しだ?」
「たまには、事情通を気取りたくてな」
「言ってろ」
 いくらかの小銭と引き換えに、煙草を一箱と、新聞を受け取る。安っぽい紙に印字されている、ど派手な色使いの誇張はなはだしい見出し文句は、その八割がデマとガセネタと作り話。
 ――そうして、残りの二割に真実を託す。
 それが、あいつなりの戦い方なのだろう。そう思いながら、紙の表面を撫ぜて目を伏せる。
 アリシア・フェアフィールド。
 あいつの戦いはあいつ一人のもので、俺には何一つ関係ない。
 関係ない、けれど。
 澱んだ空気と重たい雑音を貫く、澄み切った音色を思い起こし、祈るように新聞を開く。

アタッシェケース / Minor Sixth - The Blue Bird of Trouble

 二三六九年三月某日
 
 
「ちょいとお邪魔するよ」
 そう言って、鴉の鳴き声と共に突然助手席に乗り込んできたのは、見慣れない女だった。
 褐色の肌をした、とびきりの美女だ。鼻筋の通った顔立ちに、長い睫毛に縁取られた透き通った青い目。頭の上の方で結った、青いメッシュの入った銀髪が揺れるのが視界の端に映る。だが、何よりも目を惹くのは、開いた胸元だ。大きく開いた上着の下で、きつそうに服の中に収まる豊満な胸が形作る、深い谷間が目に焼き付く。
 呆然と胸元を見つめてしまっていた俺だったが、女も俺みたいな反応にゃ慣れっこなんだろう、嫌な顔一つせず、更に俺に向かって体を……つまり、その胸を近づけてくる。
『ハヤト、侵入者です。何をしているのです』
 スピーカーから、叱咤するような神楽の声が響く。いやだが、仕事中ならともかく、今は何をしていたわけでもない。こういう嬉しいサプライズは、喜んで享受すべきじゃないだろうか。
『……ハヤト、無駄かと思いますが念のためもう一度言います、侵入者です』
 何か、呆れられた気がする。人工知能に呆れられるなんてどうなの、と頭ん中で冷静な俺がツッコミを入れてきた気もするが、あえて無視して意識を目の前の女に戻す。女は、ここまで走ってきたのか、額に汗を浮かべ、獣を思わせる獰猛な笑みを口元に浮かべている。
「いやあ、悪いね。ちょいと一息つきたくてさ」
「姐さんみたいな美女なら、いつだって大歓迎さ。しかし、随分物騒なもんをぶら下げてんな。姐さん、『荒事屋』か?」
「いや、ちょいと違うんだが、っと、窓開けてもらっていいか?」
 女はひょいと腰に下げていた、女の手には似合わないごつい拳銃を持ち上げる。神楽が嫌々といった態度で窓を少しだけ開けると、その隙間を狙って女が突然発砲した。耳を劈く音、そして少し離れたところで倒れる人の影が、いくつか。遠目に見た感じ、明らかに堅気とは思えない連中だった。
 いんいんと銃声の余韻が響く中、女は俺を振り返って、にっと白い歯を見せて笑った。
「ああ、そうそう。あたしゃブルージェイってんだ。本職は『傭兵』。ま、確かにここじゃ『荒事屋』みてえなもんだけどな」
 ――ブルージェイ。
 名前と顔くらいは、知っている。裾の町では結構な有名人だ。
 元は辺境を渡り歩くフリーの『傭兵』だったが、卓越した射撃の腕前を見込まれて《鳥の塔》にスカウトされた、最強にして最凶の第六遊撃部隊――通称『殲滅部隊』の一員。だが、今から数年前に、突然塔を下りて、再び『傭兵』業に戻ったという噂も耳にしていた。
 この様子を見る限り、噂は本当であったらしい。写真で見るより、ずっと色っぽい姐さんだったってことには驚かされたが。もちろん、嬉しい驚き、ってやつだ。
 ブルージェイは、抱えていた大きなアタッシェケースを指先でつついて言う。
「実は、こいつを外周北地区まで運ばにゃならねえんだが、どうも結構やばいブツらしくて、妙な連中に追われるハメになっちまってさ。北地区まで、運んでってくれねえかな」
「それは、依頼と考えていいか? せめて危険手当でもねえと、やってらんねえよ」
「あー、手持ちの金はそんなにねえんだけど。そうだな」
 突然、ブルージェイが俺の顎に手を伸ばしてきて、俺がそれに反応できないうちに、柔らかな唇を押し付けられていた。唇はすぐに放されたが、俺の鼻先で青い瞳が愉快そうに笑っていた。
「一晩、いい思いをさせてやる、ってのでどうだい?」
 こりゃあ、ろくなことにならない予感がする。そんなことを思いながら、唇に触れた柔らかな感触を確かめるように、下唇を舐めて。
「乗った」
 ろくなことにはならないだろうが、美女との出会いってのは、いつだって危険に満ちているもんだ。この判断をいずれ後悔するかもしれんが、それは後の話であって今ではない。
『……ハヤト……』
 もし、神楽に生身の肉体があれば、ぞくぞく来る絶対零度の視線で見つめてきたことだろう。そんな想像が容易にできる程度には、神楽の声が冷たかった。しかし、助手席にいい女を乗せるという念願が叶ったのだから、喜んでくれたっていいじゃないか。
 と、そんな浮かれた思考を、一旦頭の片隅にどかす。尖った音色が、じわじわと近づいてくるのがわかったからだ。しかも、一方向じゃない、包囲を狭めるように、四方から。普段は厄介でしかないこの聴力も、こういう時は役に立つ。視覚で捉えられなくとも、大まかになら距離だって把握できる。
「来てるな。完全に包囲される前に、突破すっか」
「おう、頼むぜ、『運送屋』のハヤトさんだっけか」
 そういえば、名乗っていなかったような気もしたが、散々神楽が俺の名前を呼んでくれてんだから、知られて当然だと思いなおす。
 愛車を発進させ、音の薄い方角に向けてハンドルを切り、建物と建物の隙間に伸びる細い路地に飛び込む。
 我が愛車は見かけこそポンコツだし、中身も相当古い型ではあるが、操縦補佐型人工知能の神楽をはじめとしたいくつかの機能や装備は、かの《赤き天才》ウィニフレッド・ビアス博士による特別製だ。多少の妨害程度なら、俺と愛車だけでどうとでもなる。
 それに、横に座ってるのは元『殲滅部隊』の射手ときた。これなら、どんな奴が来たところで、恐れることなんかない――そう思いかけた時、だった。
 突如耳を劈いた、割れる寸前まで張りつめたリードの音色。
 そのあまりの音圧に、一瞬、判断が遅れた。
 次の瞬間、何かが降ってきて、フロントガラスの目の前、ボンネットに着地した。
 強烈な音色に、その他の音が何もかもかき消される。そんな、爆音の静寂のうちに、そいつが、顔を上げる。
 毛穴一つない、羽の刺青だけが目立つ白い禿頭、目を覆う分厚いミラーシェード。その、整った唇は堅く引き結ばれ、すっかり聞き慣れた、けれど普段とは明らかに違うノイズを奏でている。
 ――やっぱりお前か、シスル。
 言葉にはならなかった。喉がしびれて、動かなかった。普段はどこまでも静かな音色を奏でるこいつの、圧倒的なまでの殺意を正面からぶつけられりゃ、誰だって身が竦むってもんだ。
 だが、こっちの神楽だって有能な相棒だ。咄嗟に状況を判断し、俺が動けなくなっていることを察して、すぐ側の曲がり角で自動的にハンドルを切る。もちろん、シスルもそれを想定していたのだろう、振り落とされる前に自分から車体を蹴って、地面に着地する。その着地点を狙って、窓から身を乗り出したジェイが銃を撃ったが、その前にシスルは建物の間に滑り込み、姿を消していた。
『呆けている場合ですか、ハヤト』
「すまん、神楽。助かった。そのまま、運転を続行してくれ」
『了解しました』
 視界から奴の姿が消えて、やっと、喉が緊張から解放された。神楽の声には明らかな呆れが混ざっていたが、意図的に無視した。俺はあくまで、善良でひ弱な一般人だ。
 そして、善良でひ弱な一般人であるはずのないブルージェイは、俄然目を輝かせ、舌なめずりをした。まさしく、獲物を目にした肉食獣の形相だ。
「すげえな、完全にいかれた動きしてたぜ。あれが、噂のビアス博士の最高傑作か」
 ああ、と頷くと、ブルージェイは、シスルが消えた辺りを振り返り、小さく息をつく。
「意外と華奢なんだな。どんな過酷な状況下からも生還する『何でも屋』だっていうから、もっとごっつい野郎だと思ってたぜ」
「ウィン曰く、戦闘用の義体じゃねえらしいからな。もっとも、小型に造る方が格段に難しいらしいが」
「さっすが、《赤き天才》様は何もかもが規格外だな」
 そう、《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスという女は、どこまでも規格外だ。塔の頭脳を結集させたところで未だ完成の目処が立っていない人型全身義体を、たった一人で、ほとんど人と変わらぬ形で現実のものにしてしまったのだから。
 しかも、その世紀の大発明である義体を、どこの馬の骨ともわからん野郎に、「ちょうどそこで死に掛けてたから」という酷い理由でさらっと譲っちまったんだから、あの女の思考回路はわからない。多分、あの女以外の誰にもわからない。
 ブルージェイは、手にした銃の弾を入れ替え、口の端を歪める。
「けど、あの程度の動きなら捉えられなかねえな。ガーランドの三男坊に比べりゃ、まだまだ人並みさね」
「『討伐者』と比べんじゃねえよ、あれこそ人外中の人外じゃねえか」
「それでも、奴はどこまでも人間だったぜ。馬鹿正直で、もの知らずで、かわいいところもあるガキんちょさ」
 そういや、こいつ、塔にいたころは『討伐者』ホリィ・ガーランドと組んでたんだったか。前に、ガーランドの第四番――ホリィ・ガーランドの「弟」から見せられた、ホリィの写真を思い出す。そこには、確かにこいつの姿もあったはずだ。そして、俺が名前だけ知っている、あの女の姿も。
 件の女について、こいつの評価を聞いてみたいという思いがちらりと覗く。ただ、聞いてどうするのか。あの女について、俺が知ったところで意味はないし、何の得もない。
「……さて」
 ブルージェイの声と、鴉の鳴き声が、微かに緊張を帯びる。それで、俺の意識も現実に引き戻される。
「奴さん、どっから仕掛けてくる気かねえ。兄さん、あの『何でも屋』には詳しそうだけど、何か知ってることはねえの?」
 それを、この女に言ってしまってよいものか。シスルが関わっているとなれば、この女を置いて、とっととこの場から逃げた方が利口だ。シスルは、俺がそこにいるからといって、手加減してくれるほど生ぬるい奴じゃねえ。それこそ、俺が死んだところで「運が無かったな」の一言で終わらせかねない奴だってことは、俺が一番よく知っている。
 だが。
 ブルージェイは、「どうなんだ?」と俺の方に身を乗り出してくる。甘い中に獣の匂いを混ぜた吐息、密着する胸の弾力。その胸の感触を、ぴったりとしたズボンに覆われた長い足の付け根を意識してしまえば、もはや、素直に答えるしか選択肢はなかった。
「奴は、アンタと直接やり合おうとはしねえだろうな。元とはいえ『殲滅部隊』の射手に正攻法で挑んで勝てるほどの腕じゃねえ」
 ブルージェイは意外そうな顔をしたが、実のところ、荒事における奴のアドバンテージは、人間に不可能な動きを可能とする義体の性能一点で、それ以外の技術や能力は素人に毛が生えた程度だ。産毛一本生えてない奴に使う言葉じゃない気はするが。
 それでも、奴は裾の町でも有数の『何でも屋』であり、どんな厄介な相手を前にしても、最低限の仕事をこなした上で、生きて帰ってくるわけだが――。
「あのハゲの得意分野は義体の性能を使った白兵戦、と思われがちだし、大概の連中はそう思っている。いや、奴に『思わされてる』と言った方がいいか」
「どういうことだ、それ」
「奴の最大の武器は、生身の脳味噌だ。もっと正しく言うなら、目的のためには手段を選ばない性格と、卑怯で姑息な手を、相手にとって最悪のタイミングで披露する判断力と計算高さだな」
 例えば、今、この瞬間のように。
 気配も、音色も感じさせず、唐突に、フロントガラスが真っ赤に染まる。俺の視界は完全に封じられ、ブルージェイも「うおっ」と驚きの声を上げるが、ここまでは想定内だ。
「神楽、予備視界は生きてるか?」
『問題ありません。運転続行します』
「頼むぜ。方向は逐次指示する」
 先ほどまであれほどまでに強烈に響いていたシスルの音色が、今は全く聞こえない。奴は、俺の聴力を知っているから、漏れ出すノイズをカモフラージュしてんだろう。普通の人間が、意識して自分の放つ感情やら何やらを抑えこむことなんざできるはずもないが、奴の自己制御能力は折り紙つきだ。
 それでも、耳を澄ませて、こちらに向けられている音色を探っていく。シスルの音は捉えられなくとも、他の追っ手がどう動いているのかは、手に取るようにわかる。正面から近づいてくる音、こちらと同じ速度で背後から追いかけてくる音。相手も俺と同じく地元の連中なんだろう、外周の複雑な道を、少しも間違うことなく追いかけてきている。
 ただ、俺の目的は、シスルや連中をどうこうすることじゃなく、目的地までこの女とアタッシェケースを送り届けること。だから、奴や他の追手の気配がしない方向を選んで、指示を下していく。
 しかし、シスルはその程度の浅知恵でどうにかなる相手ではない。その証拠に、全く音の聞こえてこなかった場所から、突然、機銃の攻撃が降り注いで装甲を凹ませてくることもあれば、地面にばら撒かれた小型の炸裂弾がタイヤの破損を誘っているのを、事前に察した神楽が間一髪で避ける。
 どれもこれも、シスルが仕掛けた自動装置の罠だ。フロントの視界を封じられているだけに、それらの罠を避けながら進むのも困難を極める。しかも、それで少しでも足を緩めれば、背後から迫ってくる連中の餌食だ。
 だからといって、装備した機銃を使えば、間違いなく建物にも被弾する。こいつは、街の外に現れるバケモノや、ものの道理もわからない強盗戦車に使うもんだ。決して街中で使うようなもんじゃない。
 もちろん、ブルージェイが何もしていないわけじゃない。身を乗り出して追っ手に向かって発砲、その全てが見事なヘッドショット。それでも、次から次へと新手が現れて、きりがない。
 弾を篭めなおすために、車内に引っ込んできたブルージェイは、なおも獰猛な笑みを唇に浮かべたまま言った。
「えげつねえなあ、あの兄ちゃん。行く道行く道罠だらけじゃねえか」
「ああ、だから奴とは街中でやり合いたかなかったんだ」
 裾の町、特に外周は、完全にシスルの手の内だ。いつ、どんな時にも対応できるよう、本人にしかわからない罠を無数に仕掛けてある。俺もそのやり口のほんの一部しか見たことがないが、相手を罠で動揺させ、自分の有利になるよう追い込むのは奴の十八番だ。
 実際、俺たちは追い詰められていた。神楽が、淡々とわかりきった事実を告げる。
『ハヤト、この先は行き止まりです』
「知ってる」
「いやあ、完璧にやられっぱなしだな。ここまでしつこいたあ、予想外だったぜ」
 だが、この状況下にあっても、ブルージェイは愉快そうに笑っていた。一体その余裕はどこから出てくるのか、と思っていると、予備視界のディスプレイに、高く聳える壁が映し出された。もはや前に進むこともできず、戻ろうにも背後から迫ってくる奴らがそれを許さないだろう。
「悪い。どうやら、ここまでみてえだ」
 全く、できもしないことを請け負うもんじゃない。相手がシスルとわかった時点で、荒事に慣れていない俺に、勝ち目なんざなかったのだ。
 ブルージェイは、そんな俺に、にぃと笑いかけて。
「なあに、ここからが正念場さ」
 扉を開き、アタッシェケースを片手に助手席からひらりと飛び降りた。緩やかに波打つ青交じりの銀髪が、揺れる。
「お前さんは、そこに隠れてな。流れ弾喰らうかもしれねえから」
「何する気だ?」
「ちょいと一芝居、だ」
 ばたん、と音を立てて扉が閉じられる。その瞬間に、後部座席の向こう側に一台の車が迫ってくるのが見えた。逃げ道も完全に塞がれた今、俺の車と相手の車の間に、アタッシェケースを片手に提げたブルージェイだけが立っている。
 神楽に命じて、車の外の音声を拾うよう設定しつつ、俺は、じっとブルージェイの動きを見つめる。
 ブルージェイは、追っ手の車に向かって、ハスキーだがよく響く声で言う。
「いやあ、やられたやられた。あんたらが腕利きの『何でも屋』なんか雇うから、こっちは大損だぜ」
 車から、一人、また一人と黒い戦闘服を着た野郎どもが現れ、銃口をブルージェイに向ける。だが、ブルージェイはまだ動かない。得物の拳銃はホルスターの中だ。
「流石のあたしも、ここまで追い詰められちゃあ、負けを認めるしかない」
 刹那。ブルージェイの姿が、一瞬揺らめいた気がした。次の瞬間、空いていた片手にはいつの間にか拳銃が握られ、その銃口は、
「……って言うと、思ったかあ?」
 アタッシェケースに、向けられていた。
 ブルージェイに迫ろうとしていた野郎どもの間に、動揺が走る。
「みすみす奪われるくらいなら、この手でぶち抜いちまった方が気持ちいいよなあ?」
「貴様、その中身が何かわかっていて言ってるのか!」
「当然。だが、あたしの雇い主からは、お前らに奪われるくらいなら、ぶち壊しちまって構わん、って言われてるしな」
 その場合は報酬もゼロだけどな、とブルージェイはあくまで愉快そうに言う。じわり、と連中の間に焦燥が滲んだ。その時だった。
 音も、なく。
 天から降ってきた黒い影が、ブルージェイの手にしたアタッシェケースを、その腕ごと蹴り飛ばしていた。たまらず手から離れたケースは、戦闘服の野郎どもの目の前に滑ってゆき、そのうち一人に確保された。
 そして、蹴り飛ばされ、地面に投げ出される形になったブルージェイは、すぐに猫科の獣の動きで体勢を整え、地面に降り立った影を睨んだ。だが、その目に宿っているのは、怒りではなく、あくまで喜色。
「気配も読ませないなんて、やるじゃねえか」
 ゆらり、亡霊のように立つのは、もちろんシスルだ。袖の中にワイヤーが消えていくのが見えたから、先ほども今も、壁に引っ掛けたワイヤーを頼りに、建物の屋根から飛び降りてきたんだろう。相変わらず無茶なことをする奴だ。
 シスルの片手には、抜き身のナイフが握られている。正直、これがまともな戦場なら、接近戦以外にまともな攻撃手段を持たないシスルが、圧倒的不利だっただろう。だが、この四方を壁や障害物に囲まれた空間では、勝負の行方は予測できない。
 ブルージェイは、先ほどの一撃でも手放さなかった拳銃の銃口をシスルに向けて、高らかに宣言する。
「さあ『何でも屋』、あたしと踊ろうぜ!」
 刹那、シスルとブルージェイは同時に動いた。拳銃から放たれた最初の一発が、牽制とばかりにシスルの足下に穴を穿つ。シスルは、臆することなくブルージェイに向かって踏み込んでみせるが、ブルージェイは軽い足取りでシスルの一撃を避けた。射手、と言われているが、しなやかな身体の動きを見るに、体術も決して苦手じゃないらしい。
 シスルの大振りな攻撃で生まれた隙を見て、ブルージェイが銃を構える。だが、次の瞬間、シスルの姿はその場から掻き消えた。最低でも、俺にはそう見えた。その正体は、いつの間にか野郎が再び仕掛けていたワイヤーだ。壁に打ち込んだワイヤーを高速で巻き取ることで、不安定な体勢から、無理やり身体を動かして狙いを外したのだ。
 その異様な動きに、ブルージェイも一瞬戸惑ったようだが、シスルの瞬間移動の正体がわかってしまえばどうということはなかったのか。牙を剥くように笑い、シスルから距離を取る。そして、シスルもすぐに俺の車を盾にして、射線から逃れる。
 だが、その膠着も、ほんの一瞬のこと。
 突然、真っ白な光が俺の目を焼いた。車の中にいた俺でさえそうなんだから、その場にいた連中も、目を焼かれたに違いない。その証拠に、俺の耳に響く音色のほとんどには苦悶の響きが混ざっている。
 ――閃光弾。
 真正面から食らえば、意識すらも刈り取られる強烈な光。こいつもシスルの十八番だ。相手の目を潰し、感覚を潰し、自分が決して「負けない」状況を作り出すことにかけて、奴の右に出る奴はいない。
 だが、そんな中、鴉が、高らかに鳴いた。
 俺の耳は、ブルージェイが上げる音を、確かに捉えていた。あの女は、今の目潰しを的確に予測し、目を塞いでいたのだ。シスルって野郎が何を仕掛けてくるのかを、今まで見てきた罠と、今のほんの一瞬の交錯から理解したに違いない。度重なる戦闘を潜り抜けてきた戦士の勘、みたいなやつなんだろう。
 ぼんやりとしか捉えられない視界で、おそらくブルージェイのものであろう影が、体を低くして構えるシスルに銃を向ける。
「取った!」
 拳銃が、火を噴く。だが、シスルは「避けなかった」。肩を狙った一撃を真っ向から受け止め、ナイフを握った腕の付け根から、得体の知れない液体が噴出す。一瞬、それを目で追ってしまったブルージェイの懐に潜ったシスルは、空いた左手でその豊満な胸を鷲掴みにする。何それ羨ましい、と思う間もなく、ブルージェイが激しく痙攣して地面に転がっていた。
 武器が使えないときのために、手に、スタンガンのようなもんを仕込んでたんだろうな。相変わらず、準備のよいことだ。こいつの戦法は、準備が全てみたいなもんだから、当然といや当然なんだが。
 そこまで強烈な電圧じゃなかったのか、ブルージェイはすぐに上半身を起こし、頭を振る。だが、痺れが残っているのか、すぐには立てないようだった。目の前に立つシスルを見上げ、掠れた声を上げる。
「は……っ、やりやがったな……」
「それはこっちの台詞だ。修理代、高いんだぞ」
 シスルの答えに、ブルージェイは目を丸くして、それからにやりと不敵に笑う。
「挑発に乗らなきゃいいじゃねえか。お前さん、クレバーに見えて相当の馬鹿だな」
 その言葉には答えず、シスルは懐から取り出した布を咥え、左手だけで手際よく己の右腕を縛り上げて止血した。血、と言っていいのかどうかはわからんが、あの得体の知れない液体を流したままにしておくのは、やっぱりまずいんだろう。
 そして、未だ地面に座り込んだままのブルージェイに、左手を差し伸べた。ブルージェイは、きょとんとシスルの手と、顔を覆うミラーシェードを見比べる。シスルは、当たり前のように首を傾げて問う。
「立てるか?」
「あ、ああ。もう大丈夫だが……何か、毒気抜かれんなあ。さっきまで、殺す気でかかってきてたってのに」
「私の仕事はこれで仕舞いだからな。アンタも、今更抵抗はしないだろう」
「はは、見た目も中身もすげー割り切りっぷりなのな、お前。安心したよ」
 ブルージェイは苦笑して、シスルの手を借りて立ち上がる。ぱんぱん、と服についた汚れを払い、銃をホルスターに収める。
「ま、あたしとしても、いい頃合いだ。せいぜい、上手く逃げるこったな」
「何?」
「あーあ、折角出会えた昔なじみと、ゆっくり話でもしたいところだけど。ま、それは次の機会ってことで」
 え、と。シスルが、間抜けな声を上げる。ブルージェイはその反応に満足したのか、にっと白い歯を見せて笑う。
「じゃあな。今度こそ最後まで生き抜けよ、お友達」
 そんな言葉を残して、ブルージェイは路地の向こうに軽やかに駆けていった。シスルは、しばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、不意にちらりと俺に目をやった後、そのままアタッシェケースを抱えた男たちを追って、路地を折れて消えた。
 そして、俺だけが、その場に取り残される羽目になった。
『ハヤト、いかがいたしましょう?』
「あー……、そうだな。帰るか」
 ブルージェイも去ってしまった今、俺ができることといえば、ただそれだけだった。とりあえず、フロントガラスをべったりと染める真っ赤な塗料は、後で綺麗に洗うことにして、予備視界を頼りにバックで車を発進させる。
 そして、最初の十字路までバックしたところで、突然、去ったとばかり思っていたシスルが助手席に飛び込んできた。
「隼、逃げるぞ」
「は?」
「早く!」
 一体何を言われているのかわからずに戸惑う俺を差し置き、神楽が『了解しました』と言って、シスルが来た方向とは逆に車を急発進させた。こいつ、最近俺よりもシスルの言うことを聞くようになってないか。一応俺がこの車の持ち主のはずなんだが、それでいいのかこの相棒。
 だが、俺だって知らないわけじゃない。その理由や事情はわからなくても、「シスルの忠告は十中八九正しい」のだ。
 そして、俺は今回も、その正しさを思い知ることになる。
 アタッシェケースを抱えた男たちが消えた方向から、爆発音が響いたからだ。振り返って見れば、一瞬前まで俺たちがいた辺りまで、爆発が届いていた。多分、これで俺一人だったら、目も当てられない死体と化していたに違いない。
「……おい、どういうことだ?」
「ジェイは、囮だったんだ。私たちを引きつけて、ちょうどいいタイミングで荷物を放棄する。そして、求めるものを手に入れたと思い込んだ我々を、ぼん、と一網打尽さ」
 シスルは、やれやれと肩を竦めてみせる。
「私たちは、ジェイを雇った側に、上手く踊らされたってわけだ。きっと、目的のものはとうに他の連中の手で運ばれてるんだろうな」
「で、お前はそれに気づいたから、とっとと逃げたんだな」
「ジェイが教えてくれなかったら危なかったがな。彼女の気まぐれに救われたよ」
 ふ、と息を吐くシスルに、重い音圧を伴う殺意の音は欠片も感じられない。いつもの、静かなリードの音色だけが、耳に心地よく響いている。ブルージェイも言っていたが、こいつの「割り切りっぷり」は賞賛に値すると常々思っている。
「それにしても、隼。どうしてアンタが、ジェイに付き合ってたんだ? こういう、露骨に荒事絡みの仕事は請けない主義だろう、アンタは」
「……い、いや、まあ、たまにはな」
『ハヤトは、突然この車に侵入してきた女性に鼻の下を伸ばし、一夜を共にするという条件で依頼を安請け合いしました』
「神楽あああああ!」
 こいつ、俺のこと主人だと思ってないだろう。絶対に思ってないだろう。しかも、シスルはシスルでけたけたとガキみたいに笑ってやがる。睨みつけてやると、シスルはニヤニヤとした笑みを口元に貼り付けたまま、言う。
「まあ、隼らしいとは思うが、それで当のブルージェイはふらりと姿を消してしまったわけか」
「あっ」
 そうだ、危険手当くらいは貰ってしかるべきこの状況、だというのに今この助手席に座っているのは、いつもと変わらない、どうしようもなく、色気も何もないハゲ野郎なわけで。
「つまり、ただ働きってことだな」
 このやり場の無い思いは、ハゲ頭をグーで殴ることで、少しだけ慰められた気がした。ほんの少しだけ。

雨傘 / Major Sixth - The Living Thing

 二三六九年六月某日
 
 
「いつの間に少女趣味に目覚めたんだ、隼」
「どう見たらこれが俺のに見えんだよ、視力大丈夫かハゲ」
「因果関係はともかく、視力が悪いことは認めてやるよ」
 中央隔壁を出て、果てしない荒野を行く、いつもの仕事。助手席に座って軽口を叩くのも、いつものハゲでグラサンの『何でも屋』。全身これ機械仕掛けの変人シスルは、目を覆うミラーシェードを指先で持ち上げて、露骨な苦笑いを浮かべてみせる。
「で、どうしたんだ、これ」
 これ、というのは助手席の足下に突っこまれた傘のことに違いない。黒地に白いレースがあしらわれた、ちいさな雨傘。どう見ても、三十路男が使うもんじゃねえ。
 咥えた煙草の煙を一つ飲み込んで、仕方なしに答える。
「こいつも、仕事といや仕事かな。蟻んこに頼まれたんだよ。持ち主に返してくれってな」
「蟻んこって、アンソニーか?」
「そう。あの、馬鹿でかい図体の最新兵器様さ」
「兵器というか、工事現場で重機として働いているのはよく見かけるが」
「塔の最新鋭の六脚戦車でも、アルバイトでもしなきゃ生きていけない世の中なんだろ」
「世知辛いなあ」
 もちろんお互い冗談なんだが、事実、工事現場で粛々と与えられた仕事をこなす自律式戦車の姿を見てしまうと、ちょっと塔の『最新兵器』の扱いに関して色々と思いを巡らせたくもなる。
「しかし、どうして彼がこんな傘を?」
 こいつの疑問はもっともだ。戦車が傘、なんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。それでも、そんな馬鹿馬鹿しい出来事が実際に起きているのだから、世の中ってのはわからない。
「借りたんだと。境界地区の女の子に」
 ほう、と言うシスルの表情は相変わらず白けたもんだが、こいつの作り物の顔は、感情を直接表現するには如何せん不器用にすぎる。だから、表情に出ていなかったとしても、実際には相当興味があるんだろう。目で見てわからなくとも、一段高くなった音を聞けば、すぐにわかる。
「何がどうして、と聞いてもいいのかな?」
「正式な仕事じゃなし、問題ないぜ。ま、大した話じゃねえんだけどな」
 思い返してみれば、本当に、大した話ではないんだが。
 あの日、何故か俺の目の前に突然現れた、蟻型戦車のことを、思い出す。
 
 
 俺は統治機関《鳥の塔》認可の『運送屋』であり、つまり顧客からの信頼を得やすい代わりに、塔からの依頼はそう簡単に断るわけにはいかない。
 そんなわけで、その日も俺は塔に招かれ、お得意様である、とある博士の厄介な依頼を抱えてげんなりしていた。あの博士の人使いの荒さはどうにかならないだろうか。これがビジネスだけの相手であれば上手く言い訳をでっち上げて依頼を突っ返すことも出来なくもないんだが、恩を売られてしまっているだけに、断るに断れない。
 絶対に厄介事を持ち込んでくるだろう、小さな箱を懐に隠して。塔の地下にある車庫に繋がるエレベーターを降りた俺の目の前に、「それ」はいた。
 何というか、「それ」は一瞬見ただけでは「それ」としか形容できなかった。
 もう少し具体的に観察すれば、「それ」が巨大な蟻だということはわかるのだが、それがわかったところでどうしろというのか。
 黒光りする殻に覆われた身体は、昆虫の特徴を踏まえて綺麗に頭、胸、腹に別れていて、それぞれが滑らかな曲面を描いている。そして、そのうち胴部から生えた六本の脚が、巨体をしっかりと支えていた。目はレンズになっているのだろう、きゅい、と小さな音を立てて俺を見つめて、思った以上に滑らかな動きで頭を下げた。
「突然失礼します、フジミ・ハヤトさんでよろしいでしょうか」
 突如として耳に入ってくる、男とも女ともつかない声。一体どこから声を出してるのかわからないが、それは確かに、目の前の蟻から放たれていた。見かけの恐ろしさに似合わない、妙に穏やかな声に、俺は思わず正直に頷いてしまった。
 すると、巨大蟻は「申し遅れました」とあくまで丁寧に言葉を紡いだ。
「私、自律式六脚戦車AB0063-D、通称『アンソニー』と申します。こちらが名刺になります」
 顎の辺りからするりと二本のマニピュレータが伸び、俺の目の前に差し出される。その先端には、塔の連中が持つのと全く変わらない、羽のマークが刻印された名刺が握られていた。手にとって見てみたところ、環境改善班、環境適応班共同開発の自律式六脚戦車AB0063-D、という文字が刻まれていた。もちろん、『アンソニー』という見かけに似合わぬ愛称も。
 塔の上層部が、高性能の人工知能を搭載した戦車を開発しているという噂は聞いていたから、これが噂の戦車様なのだろう。確かに、滑らかな動きといい、妙に人間臭い喋り方といい、金と人の力が相当注ぎ込まれた代物であるに違いない。
 受け取った名刺をためつすがめつしていると、蟻――アンソニー氏は言いづらそうに切り出した。
「実は、裾の町に詳しい『運送屋』であるフジミさんに、一つ、お願いしたいことがあって参りました」
「お願い? 仕事の依頼なら、研究所か軍の窓口を通してくれよ」
 この蟻の所属が研究所か軍なのかはわからないが、普通、塔からの依頼は決まった窓口を通して請けることになっている。時々、お得意様みたいな例外もあるが、出来れば例外は少ないに越したことはない。
 しかし、アンソニーは少しだけ困ったような声音になって、首を小さく横に振る。
「いえ、依頼は依頼なのですが、極めて個人的な依頼でして、《鳥の塔》とは関係がないもので」
「個人的な依頼、なあ」
 正直、乗り気になれないのは確かだった。何しろ相手は、存在自体が塔の重要機密と言っても差し支えない最新兵器様だ。変に関わり合いになって、俺が厄介事に巻き込まれるのはごめんだ。ただでさえ、厄介事を持ち込むお得意様から、厄介事の種を預かってるってのに。
 とはいえ、わざわざ俺をご指名してきたのだから、何も聞かずに追い払うのも悪いかもしれない。……というのは単なる建前で、本音を言うならば、無碍に扱った瞬間に豹変して襲い掛かってこられたりしたらたまらないじゃないか。どんなに紳士的でも、怖いものは怖いのだ。
「あー、請けられるかはわからねえけど、話くらいは聞くぜ。手短に頼む」
 何しろ、この巨大蟻、車庫の一部をすっかり塞いじまってるんだ。今は車庫から出ようとする車も無いからいいが、相当邪魔臭い。アンソニーもそれには気づいていたようで、辺りをきょろきょろ見渡してから言った。
「こちらを、持ち主に返してほしいのです」
 一度体の内側に仕舞われていたマニピュレータが再び伸びる。その先端には、白いレースに縁取られた、黒い雨傘が引っかかっていた。
「……傘?」
「はい。二週間ほど前、道路工事の任務により、境界地区へ赴いていたのですが」
「道路工事……」
 工事現場に突如として現れる巨大蟻、という噂はあちこちで耳にしていたが、それも事実だったらしい。本当にいいのか、最新鋭の戦車を便利な重機扱いして。塔の感覚は未だによくわからない。
 アンソニーは、俺の戸惑いも意に介さず、よく通る声で続ける。
「工事中に雨に降られてしまいまして。私自身は雨天行動可能とはいえ、他の作業員が雨を避けて一時工事を中断したため、邪魔にならないよう、工事現場の端で待機しておりました」
 まあ、当然の成り行きだろう。こいつは屋外の活動を想定された戦車様なのだから、雨なんてものともしないのだろうが、普通の人間は雨に晒されることに耐えられない。雨に少し触れただけでも、毒素の割合によっちゃ命に関わりかねないこのご時勢、賢明な判断ではあるだろう。
 工事現場の端で、足を折って大人しく待機している蟻の姿を想像すると、ちょっと微笑ましいものもあるが。
「その時、付近に住んでいると思われる民間人の少女が通りがかり、私に傘を貸してくださったのです。私だけ雨に晒されているのはかわいそうだから、と言って」
「貸すって、その娘はどうしたんだよ」
 自分の傘を貸してしまったら、自分が雨に降られることになる。それもわからないような馬鹿なガキだったのか、と思ったが、どうもそうではなかったらしく、アンソニーは音もなく首を横に振った。
「雨に降られている家族を迎えに行く途中だったのか、一回り大きな傘を持っていましたから、彼女が雨に晒される心配はありませんでした。もちろん、私には雨傘など不要ですから、丁重にお断りはしたのです」
「それでも、押し付けられたのか」
「ええ、まあ」
 これが人間なら、薄く苦笑いを浮かべていたに違いない。蟻をそのまま模した顔に表情なんざなかったが、穏やかな声と、チェロを思わせる柔らかな弦の音からも、それは容易に読み取れた。
 そう、人殺しの兵器とは思えないくらい、柔らかな音色をしていたと思い出す。少しの雑音も混じっていない、少しの音のずれもない、心地よく鼓膜を震わすAの音。
 そんな音色を、傘を渡したガキも聞きつけたんだろうか。十中八九、単なる好奇心だろうが、つい、そんなことを考えちまう程度には、目の前の兵器様の音色にすっかり感心していたんだ。
「しかし、あの任務以来境界地区まで赴く機会がなく、傘を借りたままになってしまいました。このままでは、傘を貸してくれた彼女も困ると思い、この傘を彼女の元まで届けていただきたいのです」
「なるほど。一応は塔の最新兵器だもんな、任務がねえと外に出るのは難しいわな」
「そうなのです。どうか、お願いできないでしょうか」
 再び、深々と頭を下げられてしまって、俺は参ってしまった。出来れば、塔関連の連中からプライベートな依頼は受けたくないのだ。厄介事の種を量産する趣味は俺にはない。
 けれど、その時の俺は血迷ってたんだろう、がりがりと頭を掻きながらこう答えていた。
「ま、いいぜ。境界地区なら、仕事で回ることにもなりそうだからな」
「本当ですか?」
 ああ、きっと嬉しそうに笑ったんだろうな、と。そんなことを思う。
 どこまでも、どこまでも、澄んだ音色。俺がどこかで忘れちまってた音を奏でながら、蟻は、そっと雨傘を俺に渡した。手に微かに触れたマニピュレータに、もちろん人並みの温度はなかったけれど、不思議と温かかかった。単純に、内部で熱されていただけだと思うが。
「お願いいたします。それで、依頼に対する報酬の方ですが」
「ああ、別に金はいいよ。どうせ仕事のついでだ。それに、お前、自由に使える金なんて持ってねえだろ」
「え、ええ、仰るとおりなのですが、しかし」
「何、塔の最新兵器様に直々に仕事を依頼された、なんて貴重な経験ができただけで十分だ」
 何よりも、俺は目の前の蟻の形をした兵器が奏でる音色を、気に入ってしまった。ただ、それだけだった。それを、こいつに伝えたところで理解してもらえるとも思っていなかったから、言葉にはしなかったが。
 アンソニーも、それ以上食い下がってはこなかった。しばしの沈黙の後、マニピュレータを顎の下に戻し、前脚を器用に揃えて、音もなく頭を下げた。
「ありがとうございます、フジミさん」
 
 
「……で、結局傘の持ち主は見つかったのか」
「すぐにな。受け取った場所はわかってたし、ガキの写真も貰ってたし」
 片手で携帯端末のスイッチを入れ、あの日アンソニーから受け取った該当の写真を呼び出す。端末の上に立体的に浮かび上がるのは、片手に大きな傘を提げ、灰色のレインコートに身を包んだ、何の変哲もないガキんちょの姿。
 ただし、俺は、シスルが投げかけてきた問いに、正しく答えていない。
 そして、あえて答えなくても、このハゲは俺の意図を正しく汲み取る。
「それでも、会えなかったんだな」
「ああ。俺が仕事を請ける前日に、流行り病で死んでた」
 言って、端末の電源を落とす。浮かび上がっていたガキの姿も、ふっと掻き消える。
 こういうことも、この国で運びの仕事をしてりゃよくあることだ。そして、仕事柄か、それとも生死の境界線を経験してしまった故か、俺以上に人の生き死にに淡白なシスルは、大した感慨もなさそうに「残念だな」とだけ言って、淡々と更なる問いを投げかけてくる。
「この傘、どうするんだ?」
「どうすっか悩んでんだよ。その場合については、取り決めてなかったしな」
 普通の依頼ならば、受け取り先が不在の場合の取り決めも交わすのだが、何しろイレギュラーな仕事だったもんで、当たり前のことを失念していたのだ。
「アンソニーに突っ返そうにも、会えるかどうかもわからんしな」
「なら、私が預かっておこうか」
「お前が使うのか?」
「まさか」
 それとも見たいのか、と言われて俺は全力で首を横に振った。何が悲しくて、ハゲでグラサンで色気も何もあったもんじゃないマネキン野郎が、レースのついた少女趣味の傘を差してる姿を目撃しなければならんのか。それなら、あの巨大蟻がマニピュレータで傘をちょこんと掲げていた方がまだ可愛らしい。
「仕事柄、アンソニーに会うことも多いから。その時にでも事情を話して、どうしたいか聞いてくるよ」
「そうか。悪いな、頼む」
「精々彼と争い合う羽目にならないことを祈っておくさ」
「争う確率の方が、圧倒的に高いんじゃねえか」
「そりゃあな」
 くつくつと、おかしそうにシスルはつくりものの横顔で笑う。
 シスルは、塔の認可を受けている俺とは正反対に、大きな声では言えない組織を後ろ盾に持つ『何でも屋』だ。その性質上、どうしても塔側の連中とは対立しがちになる。このハゲ自身は、どの勢力にも寄ろうとしない極めて中立的……もとい俺とどっこいどっこいの「無関心」な野郎なんだが。
「ただ、彼は塔が組んだ人工知能とは思えないくらい良識的だからな。仕事上争うことはあれど、話くらいは聞いてくれそうだ」
 その言葉に、俺は一瞬ものすごい違和感を覚えて。それから、すぐに違和感の正体に気づいてしまって、息を飲む。
「どうした、隼?」
 シスルが、不思議そうに問いかけてくる。その声と被さって、聞きなれた、ダブルリードのCの音色が聞こえる。そう、聞こえて当然だ、目の前の奴は機械仕掛けの身体をしていても、あくまで脳味噌は生身で、つまり「人間」なのだから。
 だが、それならば。
「あの蟻、人工知能なんかじゃねえぞ」
「何?」
「音が、聞こえてたからな」
 俺の耳は、人の気配や思考を固有の音として認識する。だが、脳味噌を持つシスルの音色が読み取れて、電子回路で思考する神楽から音色が伝わってこない以上、この聴力には決定的な線引きが存在している。
 その線引きの意味を知っているシスルは、ちいさく息を飲んだ。
「彼も、私と同じだというのか」
 シスルの声は、硬かった。それはそうだろう、こいつは裾の町、否、終末の国唯一と言われる、脳味噌以外のほぼ全てを機械仕掛けのつくりもので補っている人間だ。塔の研究者が寄り集まっても、現時点では不可能といわれる、完全人型全身義体。その、唯一の成功例がこの変人なのだ。
 だが、俺の耳がいかれてなければ、あの蟻もこいつ同様に、脳味噌だけを蟻型六脚戦車に詰め込んだ、ある種の義体に違いない。
「だが、ウィンに言わせれば、人の脳で『人間』以外の形を動かすのは極めて難しい、という話だったが……」
「仕組みは俺にもわかんねえよ。俺にわかるのはただ一つ」
 広がる荒野を眺めながら、静かに佇む巨大な蟻の姿を思い出す。
 そして、目には見えない弦が奏でる、Aの音色を思い出す。
「奴が、とびきりいい音を奏でるってことだけさ」

写真機 / Minor Seventh - Follow His Phantasmagoria

 二三六九年二月某日
 
 
 そいつには、深く関わるなと誰かさんが言った。
 俺だって、いい女以外と関係を持つのはごめんだと、誰かさんに答えた。
 
 なのに俺は今、何故か「そいつ」を横に乗せて、終わった世界の荒野を走っている。
 そいつは、女みたいな顔をした優男だ。柔らかそうな黒髪に、眼鏡越しにもわかる長い睫毛に縁取られた大きな目、顔立ちから判断するに東洋系。海も陸地も旧時代からまるっきり変わってしまったこの国では、もはや洋の東西もないだろう、と主張する奴もいるが、何だかんだで旧時代の価値観ってのは根強いもんだ。
 軍用の外套に身を包んだそいつの横顔は、どきりとするほど端整で、正直いつ変な気を起こしてしまうかと内心びくついている。俺はいい女にしか興味は無い。興味はないはずなんだ。
「実は、ですね」
 ぽつり、と。形のよい唇からこぼれた声が、俺の妄想よりずっと低かったことで、何とか現実に引き戻される。
「私、首都の外に出るの、これが初めてなんです」
「そうなのか? 噂を聞く限り、監視を騙くらかしてでも外に飛び出してく、はた迷惑な悪ガキだと思ってたが」
「酷い噂もあったものです」
 くつくつと、優男はおかしそうに笑う。
「違うのか?」
「いえ、九割がた合ってます。それでも、外に出られる機会は今まで無かったんです。隔壁の向こうは、こんなに広いのですね……」
 俺の経験上、初めて外に出た奴は大体同じことを言う。ただ、こいつがそんなありきたりな感想を抱く、という点は興味深かった。あり方からして俺とは全く違う生物であるこいつまでもが、と言うべきか。
 柔らかな物腰に似合わぬ、硝子を引っかくような不愉快な音を頭の隅で聞きながら、上着のポケットから煙草を取り出す。そういえばライターはどこにやっただろう。もう片方のポケットを探っていると、横から何かが差し出された。
 見れば、黒地に銀の意匠が施された、使い古されたライターだった。俺は思わず前に伸びる道からそいつに視線を向けて、問うていた。
「……お前も、吸うの?」
「ええ、時々」
「似合わねえな」
 素直な感想を吐き出して紫煙を吸いこむ。決して美味いとは言えない香りを確かめながら、どうしてこんな奇妙な道中になったのかを、思い出してみる。
 
 
「フジミ・ハヤトさんですね?」
 はじまりは、馴染みの酒場に響いた、よく通る声だった。
 よどみも訛りもない、お手本どおりの共通語。《鳥の塔》の上層に住むいけ好かない貴族を彷彿とさせる声の主は、知った顔だった。黒髪に眼鏡、薄汚れた浮浪者然とした格好ながら、妙に垢抜けた空気を纏った優男。
 とはいえ、そいつと会話を交わしたことがあったわけじゃない。純粋に、俺たちのようなちょっと後ろ暗い業界では有名な奴だから、人相も知っていた、というだけの話。
 そして、出来ることならば、関わり合いになりたくない野郎でもあった。
「廃品街の散歩者が何の用だよ? 仕事か?」
 そういう事情もあって、つい言葉がきつくなったことは認める。だが、そもそも俺は男相手には大体こんな感じだ。それを知ってか知らずか、優男はにこにこと人好きのする笑みを浮かべて頷き、俺の横を指して「座ってよいですか?」と問うてきた。
 男をはべらせる趣味は無いのだが、仕事の話なら仕方ない。渋々頷いて、そいつの同席を許す。
 優男は、慣れた様子でマスターを呼び止め、何故かグラス一杯の水を頼んだ。酒場なんだから酒を飲めよ、という俺に対して「酔えないのでいいです」と答えた変わり者は、二、三、俺のくだらない茶々に応じた後、仕事の話を切り出した。
「……実は、フジミさんに、私が外に出るためのご協力をお願いしたいのです」
 その瞬間に俺が抱いた嫌な感情は、間違いなく表情に出ていたのだろう。そいつの笑顔も、苦笑に変わったから。
 ――だが、たまにこういう勘違いした奴がいるのだ。
 俺は《鳥の塔》認可の『運送屋』で、つまり、ものを運ぶのが仕事だ。相当やばいものでなければ、隔壁から他の隔壁へと、塔とは無関係のものを運ぶことも黙認されている。
 ただ、これだけは、理解しておいてもらわなければならない。
「俺は、基本的にナマモノは運ばないぞ」
 基本的に、というのは、塔からの依頼であれば断れないからだ。だが、逆に塔からの正式な依頼でなければ、ナマモノ――人を運ぶことは、時に罪に問われる。ある家族の夜逃げを手伝おうとした同業者が、翌日隔壁の染みになってた、なんて話は日常茶飯事だ。
 そんな危険を冒すくらいなら、別の仕事を選ぶ。塔の認可、という肩書きは時に邪魔なこともあるが、塔からの直接の仕事も請けられ、顧客からの信用を得やすいという意味では極めて有用だ。要は、一つの仕事を断った程度で、俺の生活が立ち行かなくなるということには、なりえない。
 故に、ナマモノを運ぶだけの仕事だ、というなら速攻で断ってやろうと思っていた……のだが。
 優男は、俺がそう言うのを見越していたのか、意を得たりとばかりににっこり微笑み、片手に提げていた鞄から何かを取り出してカウンターの上に置いた。
「フジミさんが、物品専門の『運送屋』であることは存じております。ですから、フジミさんにはこれを運んでほしいのです」
「……はあ。これを運ぶだけでいいのか」
 これ、というのはカウンターの上に鎮座する黒くて四角いものを指した言葉だ。俺もこの仕事を始めて長いが、フィルムに像を焼き付けるタイプのアナクロな写真機は、初めてお目にかかる。こんなものを製造している物好きが、まだこの世にいるってことが驚きだ。
「それで」
「まだ何かあんのか」
「私を、護衛として雇ってください」
 そう来たか。
 俺は渋面を作りながらも、上手い条件だと、内心で認めざるを得なかった。
 エリック・オルグレン。それが外周のあちこちで見かけられるこの優男の偽名であることは、外周で少し危ない仕事を請け負う連中の間じゃ常識だ。『廃品街の散歩者』という二つ名通り、家無しが廃品を寄せ集めて作った外周の一区画『廃品街』にちょくちょく出没する、素性不明の浮浪者……ということに、なっている。
 なっている、というのは、それがあくまで『仮の姿』であることも広く知れ渡っているからだ。
 そして、こいつの本当の姿は、外周どころか中央隔壁の住人なら、まず知らない奴はいないだろう。
 ――外周治安維持部隊隊長、ヒース・ガーランド。
 ガーランド、と聞けば、塔関係者ならばまず《鳥の塔》産人造人間を思い浮かべるだろう。《大人災》後のいかれた環境に適応するために、遺伝情報を徹底的に弄くられて造られた、フラスコの中の新人類。
 その一人として数えられ、かつこの町で最も名の知られた存在が、この『第四番』のガーランドだ。ガーランド・ファミリーの存在がろくすっぽ知られていない外周では、ガーランドといえばこいつ一人を指すと思っている輩も少なくない。
 物腰こそ穏やかで、親しみの持てる好青年に見えるが、こいつは相当の厄介者として知られている。
 本来ガーランド・ファミリーと呼ばれる人造人間は、生まれた時から塔への忠誠を叩き込まれて育つのだとか。奴の次に有名であろう『討伐者』こと『第三番』ホリィ・ガーランドがいい例だ。俺は噂でしか知らないが、《鳥の塔》にたてつく勢力をナイフ一本でことごとく惨殺したという『討伐者』。戦場でその姿を見て、生きて帰った奴はいないらしい。故に、ホリィの名前だけが一人歩きしていて、かの人物が実在したかどうかも怪しまれていたりもするが、それはそれ。
 とにかく、ガーランドと呼ばれる一族は、その存在をもって塔に貢献する連中だ……と思っていた時期が俺にもあったのだ。
 この優男が、現在進行形でそのイメージを盛大にぶち壊しているのだが。
「……護衛、なあ」
 俺はとんとん、とカウンターを指で叩き、写真機とヒース・ガーランド――本来はエリックと呼ぶべきなのだろうが、もはや公然の秘密なので内心ではそう定義づけた――を交互に見やる。
「まあ、お前の腕なら、護衛としては十分か。何しろ超人様だもんな」
「ホリィと一緒にされちゃ困りますけどね。私、何せ素行不良だったもので、今になって訓練不足を痛感しています」
 それでも、生半可な連中では、こいつに太刀打ちできないはずだ。その程度にはヒース・ガーランドの実力も知れ渡っている。
 ヒース・ガーランドは、『討伐者』と呼ばれ畏怖されたホリィ・ガーランドと違い、裾の町外周の治安維持という閑職に進んで就いた、正真正銘の変わり者だ。しかも、その理由が「塔から出来る限り離れたかったから」だとまことしやかに噂されている辺り、塔の狗としてどうなんだ。
 とはいえ、悪辣を極めた旧隊長の首を切って隊長に就任した後は、外周の住民を第一に考え、事件となればすぐに出動するフットワークの軽さを見せている。近頃では活動が住民にも受け入れられ、地に落ちていた治安維持部隊の心象は随分改善されてきている。
 今まで名の知れていたガーランドとはまた違う意味で「優秀」ではあるのだ。この男は。
 ただし、事情通によれば、その行動のほとんどはこいつの独断専行、時には塔の命令を真っ向から無視しての行動であるらしい。
 そもそも、外周どころか塔の外で活動すること自体が、塔の命令に反しているという話もある。何しろ、ヒース・ガーランドが隊長に就任するずっと以前から、エリック・オルグレンを名乗るガキが外周をふらついていたというのだから……こいつの存在がどれだけ塔の頭痛の種だったのかは、窺い知れるというものだ。
 こいつがただの放蕩貴族であれば、塔もそこまで頭を悩ませることはなかっただろう。だが、人造人間ガーランドの肩書きを持ち、それだけの実力と権力を握っているだけに、塔としては見て見ぬふりもできない。厄介にもほどがある。
 その厄介者を前に、俺は正直どうすべきか悩んでいた。道中の安全は保証されるといえ、こいつの望みを叶えるということは、塔の意向に反する可能性がある。というか、俺のような半民間の『運送屋』に依頼を持ちかけてくる時点でほぼ確定だろう。
 もちろんガーランドも阿呆ではないから、俺が躊躇する理由は見通していたに違いない。写真機を手に持って、こう付け加えた。
「ご安心ください、目的を果たせばすぐに帰りますし、その間に何が起ころうとも、フジミさんにはご迷惑がかからないよう取り計らっておりますので」
「……信じていいのか、それ」
「こればかりは、信じていただくしかありませんね」
 ガーランドは苦笑した。確かに、どう取り計らっているのか証明しろといわれて証明するのも難しいだろう。おそらく、人に言えないような根回しを相当やってのけているだろうから。
 それに、そこまで言うなら、少しばかり乗ってやろうかという気分になっていた。
 何よりも、気になったのだ。塔きっての変人ヒース・ガーランドが、首都の外に何を求めているのか。
 その時、誰かさんの「ヒース・ガーランドには深く関わるな」という声が、一瞬頭の中をよぎったが……気のせいだと、思うことにした。
 
 
 かくして、俺は問題児を連れて隔壁の外へと繰り出した。守衛の目を誤魔化すのに苦労するかと思いきや、守衛はガーランドの姿を認めながらあっさりと通してくれた。既に根回しは済んでいたのだろう。用意周到なことだ。
 すっかり短くなってしまった煙草の、最後の煙を惜しむように吐き出して。吸殻を灰皿に押し込もうとしたが、灰皿は既に吸殻で溢れかけていた。捨ててくるのを忘れたのは不覚だ。
「……それにしても、第十七隔壁に、何の用なんだ?」
 何とか吸殻を灰皿に収めて、じっと窓の外を見つめているガーランドに問う。ガーランドは、こちらを振り向いて、穏やかに微笑みながら答えた。
「実験施設の写真を撮りたいのです」
「実験施設、なあ。確かにあの隔壁は、随分と妙な研究をしてたって聞くが」
 隔壁は、《鳥の塔》が国の各地に建造した人類の居住区……ではあるが、実はもう一つの顔を持つ。
 それは、実験場としての側面だ。
 塔は、旧時代の常識が通用しないこの世界で、どう人類が生き延びていくかを模索し続けている。今横に座っているガーランドも、そういう研究の末に生み出された環境適応型人造生命なわけだ。
 そして、過酷な環境下で人類が身を寄せ合う隔壁は、塔にとっては貴重な実験施設なのだ。
 隔壁内の人間は、俺のような隔壁間を渡り歩く仕事をしていない限り、隔壁の外に出ることは皆無と言っていい。故に、己の隔壁が、塔によってどのような形に「仕立て上げられて」いても、それが奴らにとっては当たり前で、他の隔壁との差異や異様な空気に気づくことはない。
 ガーランドが目指す第十七隔壁は、その最たるものだったといえよう。
 俺も、その隔壁が『楽園』と呼ばれていた頃に一度足を運んだことはあるが……あれは、どう見ても異常だった。ガーランドも、外の世界を知らないとはいえ、塔である程度の情報を仕入れてはいたのだろう、淡々と言った。
「汚染された土壌はすっかり浄化され、自然からとうに失われた花が咲き乱れ、食物にも水にも困らない。まさしく、絵に描いたような『楽園』だったと聞きます。しかし」
 しかし。
 かつて『楽園』と呼ばれた、その隔壁は。
「数年前、第十七隔壁は謎の崩壊を遂げた。謎、と言いますが、その原因は塔が隠蔽しているだけで……因果関係は、既に明らかであると見られます」
「見られる、ってことは、詳細は知らないのか」
「我々ガーランドは『特別』ではありますが、そう『偉い』わけじゃありません。エリートとして扱われていても、塔の全てを知る立場にはなりえないのですよ」
「そりゃそうか。ガーランドってのは、あくまで実験体のブランドでしかねえもんな」
「ええ。優秀ですよー、美味しいですよーって焼印を押された家畜みたいなもんです」
 綺麗な顔して怖いことを言う。確かにブランド、って言葉自体、本来はそういう意味なんだが。
「私個人は、家畜プレイに甘んじる趣味もないですが」
「『プレイ』は余計だろ」
 見かけと物腰で騙されかけていたが、本当に試験管生まれ塔育ちの無菌培養エリート様なのかこいつ。言葉の端々が怪しいんだが、それ一体どこで覚えてきたんだ。
 俺のツッコミにも全く動じた様子はなく、ガーランドは横顔に酷薄な笑みを浮かべ、どこまでも淡々と告げる。
「私は、塔の『隠せば無いものと同じ』という体質が、物心ついた時から嫌いでしてね。気づけば、己で確かめなければ気が済まない性質になってまして。これも、その一環ですね」
 言って、両手の間に収まっていた写真機を撫でる。
「そりゃ、塔からも目つけられるわけだ」
「近頃は色々煩くて嫌になっちゃいますよ。お仕事は好きなんですけどねえ」
 この場合の「お仕事」とは、治安維持部隊のことだろう。近頃の部隊の働きぶりを肌で感じる限り、その言葉に嘘は無いはずだ。態度こそ剣呑なところはあるが、根は生真面目な野郎ではあるらしい。
 むしろ、真面目だからこそ……塔の体質が、肌に合わなかったのかもしれん。
 ガーランドは、それ以上己の目的について語らずに、再び視線を窓の外に逃がした。
「そういえば、フジミさん」
「あん?」
「もう、ピアノは弾かれないのですか?」
 一瞬、手から力が抜けた。反射的に、視線を前から横に座る野郎に向けてしまう。どうせ、前から来る車なんていないから、大事はないが……そいつは、あくまでしれっとした風に横を向いていた。
「……どこまで調べてやがる」
「依頼する相手を選ぶには、最低限その方の背景に関する情報が必要かと考えておりますゆえ。不快に思われたら申し訳ありません」
 つまり、俺の経歴も大方は理解されているってことか。
 本当に真面目な野郎だ。くそったれなほどに。手袋越しに、ハンドルを握る力を強める。強まった、という事実が指先から伝わってきて、俺を安堵させてくれる。
 誰かさんが、ヒース・ガーランドに関わるなって言った理由が、ここに来てやっとわかった気がした。
 こいつは、味方であるうちはいいが、決して敵に回しちゃならねえタイプだ。そして、敵や味方というカテゴリに含みたくなければ、そもそも関わらないことが一番だ。きっと、そういうことなのだろう。どこかの誰かさんは、本当によくこの野郎を研究してやがる。
 だが――もはや手遅れだな。
 思いながら、二本目の煙草を咥える。
 すると、ガーランドはライターを差し出す代わりに、手を出した。
「……高いぞ」
「構いませんよ」
 口寂しいんですよね、と言ってガーランドは艶やかに微笑む。本当に、これが女だったら押し倒して唇を塞いでやるんだが。ライターと交換でなけなしの煙草を一本渡しながら、そんな不毛なことを考えずにはいられなかった。
 
 
 首都から第十七隔壁まではそれなりの距離があり、故に、いくつかの隔壁を経由する必要がある。
 流石の俺でも、夜通し車を走らせたくはない。夜に明かりを焚けば、寄ってくるのは図鑑にも載ってない突然変異の獣と、金目当ての夜盗だ。いちいちそんな危険を冒してたら、いくら命があっても足らん。特に今回は急ぎの仕事ってわけでもないんだから、尚更だ。
 夜になる前に、最寄りの隔壁に立ち寄って、宿を取る。俺の記憶が正しければ、そこまで物騒な隔壁でもなかったはずだから、隔壁内では別行動でよいだろう、とガーランドに提案した。
「迷子になってもぴぃぴぃ泣かないで、自力で宿に戻ってこいよ」
「あっはは、流石にそんな歳じゃないですよー」
 愉快そうに笑ったガーランドは、そのままふらりと商店街の方に歩いていった。長身にそれなりの体格をしているから、人ごみの中でも目立つかと思いきや、あっさりと人波に紛れて消えてしまった。これも人造人間様の一種の特殊能力かもしれない。
 かく言う俺が向かう場所はもちろん決まっている。仕事以外のプライベートな部分をどうこう言われる筋合いはない。あの野郎なら、おそらくどうこうも言わないだろうが。
 かくして、野郎との二人旅で完全に枯渇していた心の安らぎを取り戻し、危ういところに向かいかけていた欲望の始末も済ませた頃には、すっかり世界は闇に包まれ、頼りない街灯と、この時間が稼ぎ時となる店の明かりだけが隔壁内を照らしていた。
 頭の隅に響くノイズも、ほとんど途絶えている。時折、甲高い音が遠くから響くこともあるが、そのくらいだ。たまにはこういう静寂も悪くない。中央隔壁の夜は、どうにも騒がしすぎるから。
 ゆらゆらと宿に帰り着くと、ガーランドはちいさな灯りの下で何かを書き付けているところで、俺の存在に気づくとふと顔を上げた。眼鏡は外していて、黒い双眸――と言っても、これはコンタクトレンズの色らしい――を縁取る睫毛の長さが、余計に目に付く。
「お帰りなさい。よい夜をお過ごしだったようですね」
「まあな。お前は何してんだ?」
「聞き込みの結果を、記録していたのです」
「こんなところに来てまで仕事か。ご苦労なこったな」
「いえ、これは仕事というより……趣味、みたいなものです。自己満足というか。この旅自体もそうですが」
 ガーランドは困ったような顔で笑う。その表情が妙に引っかかって、思わず問うていた。
「……何を、調べてんだ?」
 問うてから、しまったなと思う。本来、俺の役目は運ぶことだ。俺自身が危険な目に遭うようなことがないように最低限の話は聞くが、そうでない限り、依頼人の事情に口出しはすべきではない、というのが一般認識だ。仕事は仕事でしかない以上、余計な情報はそれこそノイズのようなもんだ。
 ただ、写真機を連れたこいつの探索行の目的は、全くわかっていない。その疑問を晴らそうと思うのは……きっと、間違っていないと自分に言い聞かせる。
 ガーランドは、俺と手元の紙束とを見比べて、それから長い睫毛を持つ瞼を少しだけ伏せて言った。
「フジミさんは……ホリィをご存知ですか。私の、双子の兄です」
「『討伐者』ホリィ・ガーランド? あれだろ、塔に対する反乱分子を残らず殺しつくしたっていう」
「ええ。では、少しだけ質問を変えます。実際に、見たことはありますか?」
「いや、ねえな。正直、噂ばっかりが一人歩きしてるだろ、あれ」
「そうですね。誰に聞いても、同じような答えになります。ホリィを見知っている者は、我々ガーランド・ファミリーと塔の関係者以外にほとんどいないと言っていい」
 そこで、一度ガーランドは言葉を切った。しん、という静寂が薄暗い部屋に落ちる。その中で、ただ、ガーランドの放つ不愉快な高音だけがじりじりと俺の頭を浸食する。
 やがて、ぽつり、と。声が落とされた。
「ホリィの存在は、そのほとんどが塔に蓄積された無機質な記録でしかない。誰かの『記憶』では、無いのです。だから」
 口元は笑っているのに、全く感情の感じられない瞳をした、つくりものの男はこう言った。
「私は、ホリィの足跡を知りたい。塔の記録とは違う、私の知らないホリィの記憶を、知りたいのです」
 何故だろう。その言葉に、背筋が凍る。
 それを表す上手い言葉がなかなか浮かばなかったが、ああ、あれだ。
「ストーカーみたいだな。気色悪ぃ」
「はは、そうかもしれませんね。私、元々は諜報部でしたし、ストーキングならお手の物です」
 それに、と。ガーランドは目を細めた。
「死人が、今更ストーカーを怖れることもないでしょう」
 一瞬、聞き間違えたのかと思った。だが、それ以外に聞き間違えようがあるだろうか。
「……ホリィ・ガーランドは、死んでるのか?」
 そんなの初耳だ。確かに近頃噂をとんと聞かなくなったが、死んだという発表も聞いてはいない。単純に俺が知らないだけか、それとも。
 ガーランドは、そんな俺の戸惑いを的確に受け止めてみせた。他の連中からも同じような反応をされたことがあるのかもしれない。よどみない口調で、言う。
「公式には発表されておりませんが、四年ほど前に」
「四年前……って、十五、六ってとこか?」
 噂でしか知らない『討伐者』の正確な年齢なんか知るはずもないが、この男の双子だというのだから、ガーランドの年齢から逆算するならそのくらいのはずだ。そもそも、ガーランドの年齢が見た目どおりでないというなら、その限りではないが……。
 とはいえ、「そう考えていただいて結構です」というガーランドの言葉で俺の見立てがそう間違ってなかったことは証明された。証明されたところで、何となく重苦しいものが胸につかえたような感覚に囚われるだけだったが。
 そのくらいの歳で死ぬガキなんざ、山といる。別に、『討伐者』様が特別ってわけじゃない。それが……今まさに目の前で遠い目をしている男の、関係者でなければ。
「本当に、これからだったのです。何もかもが。なのに……ままならないものです」
 俺は、ホリィ・ガーランドを知らない。顔も、声も、奏でる音も。だから、そいつがどんな奴だったのか、想像することもできない。きっと、目の前の男と同じ顔をしているのだろうな、と思うくらいで。
 だから、それ以上深入りするのは避けて、質問を変える。
「で、何か情報はあったのか」
「はい。彼は、以前確かにここを訪れていたようです。とはいえ、滞在期間はさほど長くなかったみたいですね」
「……第十七隔壁に向かうのも、ホリィ・ガーランドの足跡を追うためか」
「そういうことです。私の調査が正しければ」
 ぱたん、とファイルを閉じて。ガーランドは静かに、言った。
「件の隔壁の崩壊に、ホリィが関与しているはずなので」
 
 
「おや、あの時の兵隊くんじゃないか」
 目的地に最も近い第十六隔壁で――突然、声をかけてくる輩がいた。
 ぼうっと道を歩いていたガーランドは「ふぇっ」という間抜けな声を上げて振り向いた。俺ものんびりとそちらに目をやると、真っ白な髭を生やした爺さんが、軍用外套を羽織ったガーランドを見上げていた。
 爺さんは、眼鏡の下でちいさな目をぱちくりさせてガーランドの姿を確かめ、それから激しく瞬きして首を横に振った。
「ああ、すまない、人違いかな」
 そりゃあ人違いに決まってる。首都から一歩も出たことがないガーランドが、辺境の爺さんに顔を知られているはずもない。
 ガーランドも、その言葉にやっと我に返ったようだったが、代わりにいつになく真剣みを帯びた面持ちで、爺さんに向き合った。
「それは……私とよく似た、赤い目の少年でしょうか」
「そうそう。兎みたいな目をした、綺麗な男の子だよ。親戚かい?」
「はい。私の兄だと思います」
 兄――『討伐者』ホリィ・ガーランドか。ガーランドが第十七隔壁に向かうまでの町々で『討伐者』の足跡を追っているのはわかっていたが、実際にそいつがここにいた、という話を直接聞くのは初めてだ。
 兵隊らしからぬ柔らかな物腰のガーランドに安堵したのか、爺さんは「そうかい」と穏やかな表情を浮かべる。
「彼は今も首都で働いているのかい? それに、あの時の女の子も、向こうで元気でやっているかな」
 その問いに、ガーランドは動じることもなく、笑みすら浮かべて「はい」と答えた。ホリィ・ガーランドが死んでいるという事実は、あえて語る理由もないということだろう。代わりに、ごく自然に爺さんを道の脇に導きながら、世間話でもする風に言葉を重ねていく。
「兄がこの町に訪れた時は、随分大変だったようですね」
「そう、第十七隔壁の崩壊で、難民が大勢詰め掛けてな。ああ……私はここの医者なんだが、怪我人が大勢いた中でも、君のお兄さんが連れてた子は酷い怪我を負ってて、正直、治療が間に合ったのが奇跡のような状態だった」
 連れてた子、ということは、ホリィ・ガーランドがここに訪れた時、一人ではなく最低でももう一人、娘を連れて旅をしていたということか。しかも、爺さんの口ぶりからするに、その娘は兵隊ではない。兵隊が、民間人の娘を連れている状況なんて――しかも、その兵隊っていうのが、かの『討伐者』だなんて――正直、想像しがたい。
 同時に、「どこかで聞いた話だ」と、思いもしたけれど。
 そして、ガーランドは既にその情報を知っていたのかもしれない。爺さんの言葉に合わせて、動揺一つ見せずに的確に相槌を打っている。
 ただ。
「君のお兄さんは、その子が峠を越えるまで、泣きながら横についていたよ。朝も夜も、眠ることなくずっとだ」
 そこに話が及んだところで、ガーランドが、
「……ホリィ」
 と囁いた掠れ声だけは、やけにはっきりと耳に届いた。
 医者の爺さんは、ガーランドに促されるまま、色んなことを語ってみせた。ガーランドが聞いてもいなかったことまで。
 どうにせよ俺にとっては何の意味もない話だったから、右から左に抜けるだけで、頭に入るはずもない。
 その中で何となく把握できたことをまとめてみると、第十七隔壁が崩壊した当時、ホリィ・ガーランドは旅の途中であり、仲間の兵隊一人と、民間人の娘一人を連れて旅をしていた。また爺さんは、ホリィが塔に反抗する者を殺戮する人間兵器であったことは、知らないようだった。『討伐者』の高名も、ガーランド・ファミリーの存在も、一歩首都を出ればその程度の知名度だ。
 だから、爺さんの中で、ホリィは何ら特別なところのない、赤い瞳の少年兵でしかない。そして、一人の少女のために涙を流すことのできる、心優しい子供という認識のようだった。
 何故、ホリィが少女を連れて第十七隔壁から逃れてきたのか。少女が大怪我を負ったのか。それは爺さんの話からはわからなかった。だが、第十七隔壁の崩壊とそれらが結びついている……と、ガーランドが考えているのは、ほぼ間違いないだろう。
 結局、爺さんの話からわかることなんて、そのくらいだ。だが、ガーランドはどんなに細かいことでも聞き出してやろう、とばかりに爺さんの話に喰らい付いている。一体何がこいつをそんなに夢中にさせるのか、俺にはさっぱり理解できない。
 爺さんもガーランドに乗せられて喋るがままだったが、ふと、言葉を切ってガーランドに問い返す。
「しかし……この辺は、君のお兄さんから聞いていないのかい?」
「ええ、実は当時のこと、兄はほとんど語ってくれなくて」
 悲しい出来事だったそうですから、とガーランドは整った眉をハの字にした。悲しいことを思い出させてしまったならすみません、と付け加えもして。
 爺さんは、そんなガーランドの言葉に重々しく頷き、言った。
「そうだな、あの事故ではあまりに多くの命が失われた。うちの診療所に来た患者の中には、一命は取り留めたが絶望に囚われて自死に走る者もいたよ。今でも、あの事件を引きずっている元十七隔壁の住人は決して少なくない」
「……まだ、第十七隔壁の事故は過去ではないのですね。この町では」
「その通りだよ、兵隊さん」
 ガーランドは押し黙り、町を囲む隔壁に視線を投げた。隔壁の向こうなど、流石の超人ガーランド様でも見通すことはできないだろうが、見通そうとしていたものは、たった一つだろう。
 この短い旅の目的地、第十七隔壁。
「兄は……あの場所で、何を見たのでしょう」
「それは私にもわからない。第十七隔壁の住人に話を聞いても、どうも支離滅裂でな。跡地に確かめに行った者もいるようだが、芳しい成果はないようだ」
 塔は何か掴んでいるのだろうか、という爺さんの問いに、ガーランドは首を横に降る。上は何か知っているかもしれないが、自分は何も知らない、と付け加えてみせる辺りは妙に正直だ。
 沈痛な面持ちで頷いた爺さんは、腕に嵌めた時計を見て、ふと苦笑を浮かべる。
「ああ……随分長話をしてしまったな」
「いえ。貴重なお話を聞かせていただけて、よかったです。ありがとうございました」
 そんな爺さんに対して、ガーランドはにっこりと笑って一つ手を叩いた。
「そうだ、もう一つだけ、お願いがあるのですが」
「何だい?」
 ガーランドは、肩から提げていた黒い写真機を持ち上げて示す。
「写真を一枚、撮らせていただいてもよろしいでしょうか」
 それは、任務の一貫か何かなのか、と訝しげな顔をする爺さんに対し、そんな大層なものではありません、とガーランドは笑顔で首を振った。
「こんな離れた地で、兄を知る人に出会えた記念として」
 無邪気に写真機を構えるガーランドは、玩具を与えられた子供の顔をしていた。ころころと印象の変わる奴だ。得体が知れない、とも言う。
 爺さんは突然のガーランドの申し出に戸惑いを浮かべていたが、やがて写真機の前に立つ。
 そこで、ガーランドは思い出したように、少し離れた場所で煙草をふかしていた俺を振り向いて、小首を傾げて言った。
「フジミさんも入りませんか?」
「関係ねえだろ、俺は」
 それに、俺は写真ってやつが大嫌いなんだ。
 
 
 翌日。
 明け方から第十六隔壁を発ち、物好きで命知らずな金持ちが利用する、とんでもなく高い金をぼったくる装甲バスや、塔からの物資を運ぶ車と時々すれ違いながら、第十七隔壁にたどり着こうとしていた。
 不意に、どこまでも続くと思われた灰色の世界の向こうに、ぽつりと何かが生まれる。
「……あれが」
 勝手に俺の煙草を吸いながら、手元のファイルを見ていたガーランドが、煙と共に言葉を吐き出す。
 徐々に近づいてくるそれは、巨大な隔壁。だが、今まで訪れたどの隔壁とも違うのは、隔壁全体が巨大なドームに覆われていること、そしてドームのほとんどが壊れて崩れ落ち、その間からよくわからないものが突き出して、奇怪なシルエットを浮かび上がらせていることだ。
 ガーランドが煙草を吸殻でいっぱいになった灰皿に押し付け、写真機を手に取る。……第十六隔壁で吸殻を捨てたはずが、既にこの量になっているのは、俺じゃなくてガーランドのせいだ。そろそろ煙草代を割り増し請求しても許されるだろう。
 そんな俺の思惑など知らず、ガーランドは窓を開けて身を乗り出す。その時、無造作に横に除けたファイルから、何かが零れ落ちたのを、視界の端で捉える。
 それは――写真だ。煤けた、一枚の写真。
 写った像を何気なく眺めて、思わず呼吸が止まる。
 写っていたのは、三つの影。一つは、目を変な機械で覆っている、ガーランドとよく似た、だがずっと幼い顔をした兵隊。もう一つは、肌の黒い、長身の女。やはり兵隊だ。実のところ、この女は見たことがある。今は塔を降りてフリーの傭兵をやっていたはずだ。
 最後にもう一つ。屈託無く笑う娘。微かに色を混ぜた白い髪、触れれば折れてしまいそうなやせっぽちの体。片目を覆う医療用の眼帯が、やけに鮮やかで。
 そして俺は、この娘を知っている。兵隊に連れられて、辺境から首都へ向かった娘。そう、そうだ、どこかで聞いた話だと思っていた。俺は、この娘が首都に向かったことを知っている。首都に辿り着いたことも知っている。声も、音も、知らないまま、ただ、ただ、知識として……。
 風の音と共に、かしゃりという音が数回響いた。我に返ってそちらを見ると、ガーランドが写真機を構えて、シャッターを押したところだった、ようだ。もう一つ、軽い音が響く。
「撮れたのか?」
 窓から身を乗り出したままのガーランドに聞いてみると、ガーランドは頭を引っ込めて肩を竦めた。
「さあ。デジタルじゃありませんから、現像しないとわかりませんね」
「何でんな不便な写真機持ってきたんだよ」
「私は、形から入る主義でして」
「そうかい」
 答えにもなっていない答えを聞き流す。
 ガーランドは、一旦写真機を膝の上に下ろして……それから、ファイルから零れ落ちた写真に、目を移した。
「見ましたか」
「見た。そいつが、ホリィ・ガーランドか」
「はい」
 ガーランドは、写真をファイルに戻し、視線を窓の外に逃がして言った。
「――ここが滅びた、日」
 ぽつり、と。窓から入り込む冷たい空気に、言葉が流されていく。ただ、その後に続いた言葉は、やけにはっきりと聞き取ることができた。
「ホリィは十四歳で、当時から優秀な『討伐者』で、しかし、父は彼が心無い殺戮兵器となることを望んではいませんでした。父は……我々ガーランドを、人類繁栄のための実験体と割り切るには優しすぎましてね」
 父、というのはガーランド・ファミリーの開発者にして遺伝情報のベースとなっている、ハルト・ガーランドのことだろう。俺も一度見たことあるが、研究員とはとても思えない、マッシブなおっさんだ。元々は歴戦の兵隊だった、という噂もあるが、真相は知らない。
 ただ、塔に出入りするようになればわかるが、塔の研究員って奴の大半は頭の螺子が数本すっ飛んでいる。そんな連中の中で、ハルト・ガーランドは極めて真っ当な精神の持ち主だ。あまりに真っ当すぎて、周りの連中のぶっ飛びっぷりに胃を痛めているとかいう噂には事欠かない。
 そのハルトが、「息子」の一人であるホリィに妙な情を寄せても不思議ではないのかもしれない。
「そこで、父はホリィに一つの任務を下しました。辺境に住む、一人の少女を《鳥の塔》まで護送するように、と」
「……護送?」
「はい。ホリィにとっては初めての、己の戦闘技術を求められない任務であったと思います。何故、その任務がホリィに与えられたのかは、私は知りませんが……ホリィは当時の相棒と二人で辺境に向かい、少女を連れて首都を目指していました」
 その途中で、ホリィたち三人は第十七隔壁に立ち寄ったのだと、いう。
「その時の第十七隔壁はまさしく楽園だったと、ホリィは言っていました。しかし、それは、必ず見えない犠牲を伴うものであって、いつか、必ず破綻するものであったとも」
 開きっぱなしの窓から外を眺めるガーランドの表情は、知れない。その声がどうして、こうもはっきりと俺の耳に届くのかも、わからない。俺がおかしな聴覚を持っているということもあるが、それ以上に――ガーランドの声が、特別よく響くのだということだけは、何となく、わかったけれど。
「その犠牲が何であったのか、ホリィがどう隔壁の崩壊に関わったのかは、決して私に語ってはくれませんでした。ただ、その崩壊に関する一連の事件を通し……護送すべき少女が瀕死の重傷を負ったことで、ホリィは己を責めていました。ずっと、ずっと。首都に戻り、少女の傷が、すっかり癒えてからも。私は、その時まで、そんなホリィを一度も見たことがありませんでした」
 人らしい心など持ち得ずに、ただナイフだけを手にしていたというホリィ・ガーランド。その殺戮兵器が、一人の少女を思い、己を責めていたのだと、いう。
「そう……帰ってきたホリィは、まるで別人でした。致命的に欠けていた他者への共感を身につけ、人と同じように怒り、泣き、そして笑うことを覚えていた。その点では、父さんの試みは成功したと言えるでしょう」
 ざあ、と。一際大きく風が吹き、灰交じりの砂が窓から入り込んでくる。だが、それすらもものともせず、もう一度身を乗り出してシャッターを切ったガーランドはきっぱりと言い切った。
「しかし、それ故にホリィは死んだ」
「……どういう意味だ?」
「ボーイ・ミーツ・ガールから始まった物語は、どちらかの欠落、もしくは双方の欠落で幕を閉じるものです。つまりは、そういうことです」
「意味わかんねえよ」
「わからなくて、いいです。多分、わからない方が……いいです」
 ガーランドは写真機を下ろし、窓を閉めた。
 何となく、釈然としない心持ちで、意識を前方に戻す。
 既に、第十七隔壁はすぐそこに迫っていた。崩壊した隔壁から伸びるオブジェは、まるで、一個の「樹」のようであった。終末の国から失われて久しい、自然から生み出された造形が、地面に大きな影を落としている。
 それを見上げて、ガーランドはぽつりと呟いた。
「……滅びてもなお、美しいものは美しいのですね」
 美しい。
 確かに、そうなのかもしれない。
 人の息吹が感じられなくとも、命の音色が聞こえなくとも、ただ佇んでいる「それ」には見るものを圧倒させる何があった。
 かつて門であっただろう場所にまで車を寄せて、停める。
 とにかく……これで、俺の片道分の仕事は終わりだ。
「ついたぞ。第十七隔壁、楽園の跡地だ」
 確かに写真機は第十七隔壁にたどり着いた。その後、運んだものがどうなるかは、俺が知ったことではない。結果的に、首都に運びなおすことになるのだろうが、そこに至るまでの経緯は、正直、どうだっていいのだ。
「……ありがとうございます、フジミさん」
 一礼したガーランドは、ふわり、と音もなく車を飛び降りて門に向き合う。
 何も語らぬ第十七隔壁。その全てを捉えるように、旧い写真機を構え。
「ホリィ。あなたは、今も己を責めているのかもしれませんが……」
 かつてそこに立ったであろう一人の兵隊と同じ姿をした男は、どこにもいない誰かに向かって、言った。
「あなたは、確かにクジョウ・スズランを救ったのですよ」

絵本と手紙 / Major Seventh - Her Long Absence

 二三六七年十二月某日
 
 
 第四十六隔壁の門をくぐってすぐに、同行していた隊商と別れた。
 町の大通りをはずれ、細く曲がりくねった道を行き、集合住宅が落とす影が途切れた場所に、それはある。
『間もなく目的地に到着します』
 頭上のスピーカーから響く神楽の声に軽く返事をして、ハンドルを回す。
 狭い庭の奥に建つ、時代錯誤のおもちゃのような建物。門には、錆びた看板が取り付けられていて、よく見れば共通語と旧日本語で併記された、以下のような言葉が読みとれたはずだ。
 ――『蒲公英の庭』。
 だが、枯れた庭に蒲公英なんて咲いているわけがない。首都でも、生きた植物なんて塔や内周のプラントでしか見られないのだから、当然といえば当然なのだが。
 ならば、何故こんな名前なのか……初めて来た時にそう思ったことを、一拍遅れて思い出す。そして、どうでもいいと思って、思考から排除したことも。
 門の前に停まろうと、ゆっくりとブレーキを踏み込んだその時、門から一人のガキが顔を出した。薄汚れた服には似合わない、長く伸ばした真っ白な髪を、砂混じりの風に揺らして。
 ガキんちょは、俺の存在に気付いたのか、顔を上げて棒きれみたいな腕をぶんぶん振る。
 薄板の震える音が、この距離からでもはっきりと耳に届く。ノイズ、と言い切るにはあまりにも透明な、クラリネットの音色。
「隼!」
 極めて正しい発音で俺の名を呼んだそいつは、俺が車から降りるとすぐに駆け寄ってきて、きらきら輝く大きな瞳で見上げてきた。
「よう、春蘭。久しぶり」
 九条春蘭。それが、この白いガキの名前だ。
 白い肌に白い髪、菫色の瞳。常に薄暗く沈んだこの隔壁において、こいつはいつだって鮮やかだった。単純に色彩の問題というだけでなく……こいつが、常に晴れやかな笑顔を浮かべているからかもしれない。作ったものではなく、何かをごまかすためでもない、心が求めるままの笑顔。
 それが、俺には、どうにも眩しすぎる。
 思わず視線を逸らした俺の袖を引っ張って、春蘭は首を傾げる。
「姉ちゃんからの手紙、持ってきてくれた?」
「ああ。新しい本も預かってる」
「本当? それじゃ、先生に言ってくるね!」
 薄汚れたスカートの裾を翻して、長く伸ばした白い髪を左右に振って走っていく。
 それを見送って、助手席に置いておいた包みを取り上げる。
 茶色の紙で包まれたそれは、数冊の本を包んだもの……らしい。中身を見せてもらったわけではないから、それが実際に本であるかどうかは、開けてみなければわからない。
 それと、封筒が一つ。飾り気のない茶色の封筒に書かれた文字は、癖こそ強いが、読みとるのはたやすい。表面には共通語で「蒲公英の庭のみんなへ」、裏には「九条鈴蘭」という旧日本語での署名がある。
 九条鈴蘭。
 見慣れた名前だ。
 だが、俺は、その名を持つ女を知らないままでいる。こうして手紙を運んでいる、今ですら。
 
 
 『蒲公英の庭』は、どの隔壁にも一つはある、孤児院というやつだ。
 世話になったことがないから詳しいことはわからんが、孤児が奴隷同然の扱いを受ける、名ばかりの孤児院も数多いと聞く。だが、ここは、塔の庇護なんかほとんど届かない辺境中の辺境でありながら、手厚く子供たちを養っている、と俺は認識している。
 その証拠に、連中は貧しくはあったが、いつだって明るかった。その中でも、春蘭の天真爛漫っぷりは群を抜いていたが。
 院長に話を通して手紙を渡し、今回の絵本の中身を確認する。首都で仕入れたのだろう、真新しい絵本の表紙には『不思議の国のアリス』『人魚姫』『ピーターパン』の文字。どれもタイトルは知ってるが、ストーリーはろくに知らない。
 ただ、『人魚姫』の表紙に描かれた人魚の娘は、やたら美人だった。流れるような金髪に、青い瞳。隠されてこそいるが、整った形の胸に、魅惑的な腰のくびれ。これで足が人のものであれば、その爪先から腿へ指を滑らせて、それから――。
「いつも、本当にありがとうございます、藤見さん」
 その声に、俺の意識も架空の美女から現実に引き戻される。院長は、しわくちゃの顔をほころばせて俺を見ている。相当の婆さんに見えるが、本当に婆さんと呼んでいい年齢かどうかは判断できない。
 ともあれ、絵本に意識を奪われていたことを悟られないように、精一杯の営業スマイルを浮かべる。
「いえ。仕事ですからね」
「あの子は、元気にやっていますか?」
 あの子――俺が知らない、誰かさんのこと。知らない以上、その質問に正しく答えることは不可能だ。
 だから俺は、いつもそうしているように、笑顔と言葉でごまかす。
「ええ、是非、みんなの前で手紙を読んであげてください」
 そうですね、と微笑んだ院長は絵本と手紙を手に、子供たちの待つ広間に向かう。俺もそれに続いて部屋を出ようとして、ふと、棚の上に置かれた写真立てを見た。
 そこに映っているのは、おそらくこの孤児院にいる、もしくは「いた」子供たちだ。その中で、俺の目を引くのは一つの写真だ。色褪せて、輪郭もぼけた写真だったが、そこに映っている子供の顔は、かろうじて見て取れる。
 つぎを当てた薄いワンピースに、片目を覆う医療用の眼帯。短く切りそろえられた白い髪に白い肌、それに、明るく笑うその顔は春蘭とよく似ている。
 九条鈴蘭。名前の通り、春蘭の実の姉らしい。
 そいつが、首都――統治機関《鳥の塔》に向かって旅立ったのは、今から三年前の話だという。何故塔に招かれたのかは、孤児院の連中も詳しくは語らないし、俺も興味がないから深く聞いたことはない。
 以来、九条鈴蘭は《鳥の塔》から定期的に、蒲公英の庭へ送金を続けている。
 そして、ある時期から、俺に絵本と手紙を預けてもいる。ただし、代理人を通して。だから、俺は九条鈴蘭という女の名前も、顔も知ってはいるが、そいつを抱いたこともなければ、どんな音を奏でるかも知らないままでいる。
 別に、知らなくても、仕事には困らないのだが。
「先生、鈴蘭姉ちゃんから手紙来たんだろ?」
「わあ、綺麗な絵本!」
「こっちにも見せろよー!」
「姉ちゃん、何て書いてきてたの?」
 歓声を上げるガキどもの声が聞こえてくる。無意識に手に取ってしまっていた写真を棚の上に戻して、声の上がった広間に顔を出す。
 俺が手紙を運んだ日はいつもそうだが、ガキどもは汚れた顔に晴れやかな笑顔を浮かべて、困り顔の院長に群がっている。すると、春蘭が院長の手から手紙を取り上げて、高く掲げた。
「みんな、静かにー! 姉ちゃんからの手紙、読むよー!」
 春蘭の声は、吃驚するくらいよく通る。それに気圧されるように、あれだけ騒いでいたガキどもが各々の言葉を飲み込む。それを見渡して、満足そうに頷いた春蘭は、丁寧に畳まれた手紙を開いて、鈴の鳴るような声で読み始めた。
 
「蒲公英の庭のみんなへ
 
 みんな、元気にしてるかな?
 院長先生を困らせたりはしてないかな?
 この前の本は読んでくれたかな?
 今回も、わたしの好きな絵本を三冊選んでみました。まるで、物語の世界がすぐそこにあるような、素敵な絵がお気に入りです。みんなに、気に入ってもらえたら嬉しいです。
 前回の手紙から少し間が空いてしまったので、今、みんながどうしているのか、気になっています。出稼ぎに出た椿ちゃんからは、何か連絡があったでしょうか。椎くんの風邪は、よくなったのでしょうか。とても心配しています。
 わたしは、今の仕事にやっと慣れてきました。やっぱり、詳しいことを説明することはできないのですが、とてもやりがいのある仕事です。この前は、塔の研究員さんとお仕事をしましたが、この研究員さんが、春蘭と同じくらいの男の子でびっくりしました。首都では、色んな人が色んなお仕事をしていて、いつも驚きでいっぱいです。
 そうそう、最近は、空いた時間で本を読むこともできるようになってきました。次は、その中でも面白かった本を送りたいと思います。みんなにはちょっと難しいかもしれませんが、とてもわくわくする本です。楽しみにしていてくださいね。
 そちらも、色々大変なこともあると思いますが、絶対に諦めないでください。もし、辛いことがあっても、いつもの歌を歌って、笑顔を忘れないでください。どうしても耐え切れないときは思いっきり泣いて、疲れて眠って、それから新しい一日を始めるのが一番です。わたしも、遠くから応援しています。わたしのお仕事が、少しでもみんなの生活の助けになればいいなって、心から願っています。
 それでは、今回はこの辺で。みんなからのお返事、待ってます。
 あと、いつもお世話になっている隼さんへのお礼は忘れないでね。
 
 九条鈴蘭」
 
 ……何故だろう。
 感想をお互いに語り合うガキどもを見ながら、胸に浮かんだ違和感の理由を考える。
 だが、俺は九条鈴蘭を知っているわけじゃない。今までも、何度か手紙の内容を聞かされはしたが、今回同様、大した内容じゃない。
 気のせいか、と思いたかったが、ふと目を上げれば、春蘭がじっと手紙を見据えている。視線で穴を開けようとしているのか、紙の奥に隠れている何かを探し当てる気なのか、とにかく真剣に手紙を睨んでいる。
「どうした、春蘭」
「これ、姉ちゃんの手紙なのかな?」
「はあ?」
 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。だが、それは春蘭が見当違いのことを言ったからじゃない――俺も、その可能性を疑っていたからだ。
「でも、字も、書いてることも姉ちゃんなんだよなあ……うーん、何で、変だなって思ったんだろ」
 春蘭は、俺の反応を気にした様子もなく、首を傾げている。さらり、と絹糸のような髪が肩から流れ落ちるのを自然と目で追いながら、つい、話を逸らす。
「そういや、いつもの歌ってなんだ?」
 すると、春蘭が、手紙から目を上げないまま答えた。
「姉ちゃんが好きだった歌。『私のお気に入り』」
 旧時代のミュージカル映画、『サウンド・オブ・ミュージック』に使われていた歌のタイトルだ。あの独特のメロディ・ラインは嫌いじゃない。ただ、実のことをいえば、どんな歌詞なのかは全く知らない。
 春蘭は、俺が何も言わないうちから、歌を口ずさみ始めた。耳慣れたメロディに乗せられていたのは、あまりに他愛の無い言葉ばかりだった。
 子猫の髭、やわらかな手袋、きらきら光る薬缶。
 ――それもこれも、みんな、『私のお気に入り』。
 いつの間にか、ガキどもが春蘭の声に合わせて合唱を始めていた。ガキどもの声は、全くといっていいほど音程が合っていない、騒音とも言うべき音の重なりだった。だが、決して、不快ではない。
 普段から俺の頭を埋め尽くしているノイズに比べれば、ずっといい。
 ガキどもの歌は、『私のお気に入り』から自然と『ドレミの歌』へと続いていく。これも同じ『サウンド・オブ・ミュージック』の中の一曲だったはずだ。
 わいわい歌うガキどもを見渡して、春蘭はにっと歯を見せて笑う。
「映画では、怖い思いをしている時には、好きなこと、楽しいことを思い浮かべるのがいいんだ、って家庭教師の主人公が子供たちに向けて歌うんだよ」
「……そういう話だったのか。さっぱり知らんかった」
「姉ちゃんが教えてくれたんだけどね」
「お前の姉貴は、映画、見たことあったのか?」
「なかったと思うよ。多分、本で読んだんじゃないかな」
 本当に、九条鈴蘭って女は本が好きだったらしい。それとも、現在進行形で好き、と言うべきなのだろうか。
 本と歌を愛する一人の女の姿を、一枚の写真をベースに頭の中に思い描こうとするけれど、どうにも上手く形になってくれない。白い髪、目を覆う眼帯、棒切れのような手足。いなくなったのが数年前なのだから、いい女になっていてよさそうなもんだが、俺の中でそいつは常にもやもやとした、人の形すら怪しい「なにか」でしかない。
 そんな下らないことを考えていると、手紙を握り締めた春蘭が、既に歌の体を為していない大騒ぎを初めてしまったガキどもに向けて、大声を張り上げる。
「ほら、みんな、隼にお礼!」
 春蘭の声に導かれ、ガキどもが一斉に俺に頭を下げる。
「ありがとうございました!」
 声は微妙に揃ってないが、それが「心のこもった」礼であることは、声と共に響いてくる音色からも、わかる。だからガキは苦手なんだ、どこまでも真っ直ぐすぎて、俺の感情をどう逃がしていいかわからなくなる。
「ふふ、みんな、春蘭には敵いませんね」
 気づけばすぐ側にいた院長が、穏やかに微笑みながら、そっと俺に一つの封筒を差し出す。ぱんぱんになった封筒の表には、下手くそな文字で九条鈴蘭の名前が書いてある。多分、ガキの一人が書いたんだろう。
「みんなのお手紙を、鈴蘭に届けてあげてください。後で、私からのお返事もお渡しします」
「はい、確かに受け取りました」
 封筒を受け取ると、春蘭が突然割って入ってきた。菫色の瞳はきっとつりあがり、鏡のように俺の顔を映しこんでいる。そう、俺の顔から、嘘やらごまかしやらを、全部剥ぎ取ろうとするかのごとく。
「絶対に、絶対に渡してね!」
「ああ、わかってるって」
 そっと、分厚い封筒に手を添えて笑う。
 絶対なんてどこにもないんだ、そんな思いは胸の奥に閉じ込めたまま、笑う。こんなガキに見破られるほど、俺だって浅はかじゃない。
 そして俺はいつも通りにこの手紙を持ち帰り、また、絵本と手紙を運ぶのだ。
 持ち帰った手紙が、九条鈴蘭に渡されるかも、わからないまま。
 俺の運ぶ手紙が、九条鈴蘭本人からの手紙かも、わからないまま。

ポスター / Octave - Cinderella's Whereabouts

 二三六九年一月某日
 
 
 歌や音楽は、人が生きていくために必ずしも求められるものじゃないが、旧時代から、ある種の力があると考えられている。心に働きかけ、一定の指向性を与える力。ガキの心を落ち着かせて、眠らせるための子守唄もそうだし、兵隊の行軍につきものの、士気を高める行進曲だってそう。
 その力を恐れて、人に一部の歌を口ずさむことを禁じた時代も少なからずあるようだが、人が持って生まれた「歌う」能力や「奏でる」能力と、音楽を望む力には敵わないようで、人の口から歌を奪うのが難しい、ということを証明してきただけだ。
 当然、一度終わっちまったこの世界にも、音楽が満ちている。
 そうでもなきゃ、やってられないのかもしれない。
 がたごと揺れる愛車の旧型カーステレオからは、ヴァイオリンとピアノの音色と共に、高い女の歌声が流れている。すっかり聞き飽きてしまったメロディと、当代の《歌姫》リザ・カーシュの歌声。
 この歌声も、どこかで誰かが望んでいるものなんだろう。それが一体どこの誰なのか、俺には皆目検討もつかないが。
「……国の平穏と未来を担う《歌姫》募集、ねえ」
 助手席で、ポスターを広げたシスルがぽつりと呟く。ちらりと横を見やれば、毛穴もない青白い禿頭が否応無く目に入る。普段どおり、目元は分厚いミラーシェードで覆われてるから、どんないやらしい目でポスターに描かれたリザを見てるのかはわからん。ただ、その人形じみた薄い唇は、皮肉げに歪んだ笑みを浮かべていた。
「《鳥の塔》も、キャンペーン・ガール集めに熱心なもんだな」
「ま、おかげさまで俺らは今、仕事にありつけてんだ。文句は言えねえ」
 まあな、とシスルも軽く肩を竦める。機械仕掛けとは思えない細かすぎる動きに、開発者であるかの変人――《赤き天才》の、無駄ともいえる拘りが伺える。
 今回の俺の仕事は、今こいつが持っているポスターを、第十二隔壁に運ぶことだ。荷台には、これと同じポスターが山と積まれ、己の役目を果たす時を待っている。隔壁に届けば、役人の手でこれが町中に張り巡らされることだろう。
 そして、今年も《歌姫》を目指す怖いもの知らずの娘たちが、首都の中心に聳え立つ《鳥の塔》を目指すんだろう。
 統治機関たる《鳥の塔》が、《歌姫》を大々的に募集するようになったのが、正確にいつのことなのか俺は知らない。ただ、俺が物心ついた時には、《鳥の塔》の表面を覆うテレヴィジョンに、きらびやかな服を纏い、笑みを振りまいて歌う《歌姫》の姿が映し出されていた。
 《歌姫》の仕事はもちろん、歌を歌うことだ。世界の九割を破壊した《大人災》を経て、かろうじて生き残った連中もゆるやかな滅びの中にある。そんな、未来の見えない日々に、歌声を通して一抹の癒しを与えるべく《歌姫》がいる。
 ――というのが、統治機関《鳥の塔》の主張だ。
 果たして、《歌姫》の存在に何の意味があるのか、と首を傾げる人間も多い。特に《鳥の塔》からの援助が薄くなりがちな裾の町外周や辺境の住人は、《歌姫》にかける金があるならば、外周や辺境に対して食糧や物資を増やせと訴える。そりゃ当然の訴えだろう。
 それでも、《鳥の塔》は《歌姫》を求め続けている。
 年に一回、新たな《歌姫》を決めるオーディションを行っているが、そのオーディションには裾の町だけでなく、辺境からも多くの娘が参加する。それはそうだ、《歌姫》に選ばれた者は、その家族を含めて、生涯手厚い援助を受けることが出来るのだから。ポスターの言葉を信じるならば。
 要するに、《歌姫》とは、現代のシンデレラなんだろう――そんなことをほざいていたのも、今まさに横に座っている野郎だったはずだ。ハゲでグラサンで全身黒尽くめで飾り気も何もあったもんじゃない見かけのくせに、妙に気取った物言いをするのが、こいつの悪い癖だ。
 口元の笑みをおそらく意識的に深めて、シスルはポスターに描かれたリザの口元を、皮手袋の指先で撫ぜる。
「今年は、一体どんな子が《歌姫》に選ばれるんだろうな」
「俺はガキにゃ興味ねえからな。ヴィクみてえな美女なら、毎朝の目覚めも少しはよくなるかもしれねえけどさ」
 当然だが、《歌姫》になれる可能性は極めて低い。オーディションに参加した全員が塔のお眼鏡に適わないことすらある。
 それでも、毎度、《歌姫》オーディションが近くなると、裾の町は祭のような賑わいを見せる。事実、一種の祭ではあるんだが。どの娘が《歌姫》に選ばれるか、新聞や雑誌を眺めながら賭けに興じるのは、裾の町における一般市民の数少ない楽しみだ。もちろん、その中には俺も含まれているわけだが。
「しかし、可憐なシンデレラばかり集めて、塔の中ではどんな審査をしてるんだろうな」
 シスルは、白い顎を撫でて言う。
 確かに、《歌姫》オーディションの内容は常に謎に包まれている。《歌姫》候補となった娘たちから話を聞いても、曖昧な微笑が返ってくるばかりだ、とアリシアが唇を尖らせていたことを思い出す。情報を集めるのが仕事の新聞記者でさえそれなのだから、俺たちが、《歌姫》を選び出すまでの過程を知ることなんて、出来るはずもない。
 だが……。そうだ、アリシアの奴、こんなことも言っていたはずだ。
「そういや、《歌姫》オーディションに参加した娘の中には、そのまま行方知れずになる娘もいるらしいな。それも、一人じゃなくて、何人もさ」
 流石に雑学博士のシスル様でもそれは初耳だったのか、ポスターから顔を上げて、妙に凄みの効いた声で問いかけてくる。
「誰が、そんな話を?」
「アリシア。あいつ、《歌姫》にご執心みたいでな。《歌姫》候補に話を聞いたり、オーディションに潜入を企んでみたり、なかなか際どいこともやらかしてるみたいだぜ」
 とはいえ、『新聞記者』アリシア・フェアフィールドの興味は、《歌姫》そのものよりも、《歌姫》というキャンペーン・ガールを集める塔の思惑なんだろうが。あの娘の、塔への執着はちょいと極端だ。
 かのお嬢さんの極端さを、俺以上に知っている……というよりアリシアに巻き込まれる形で思い知っているシスルは、深々と溜息をついて言った。
「あれだけ忠告したのにまだ懲りないのか、あいつは」
「痛い目遭わねえと懲りない、っつか痛い目遭っても懲りないタイプだからな」
「厄介な奴だよ、本当に」
 シスルの言葉には、深い深い感慨が篭っていた。ほとんど毎度のごとく、塔の怖い人に追われるアリシアに助けを求められてんだから、その気持ちもわからんでもないが。
「そんな厄介な奴を、いちいち助けちまうお前もお前だろ」
「そりゃ、見たら放ってはおけないだろ。……お人好しだって言われちゃ、それまでだけどな」
 シスルは唇を尖らせて、俺から視線を逸らした。一応、お人好しだって自覚はあったのか。自覚があったところで、結局いつも同じことを繰り返しているのだから――。
「厄介な奴」
「知ってるよ、そのくらい」
 溜息交じりに言ったシスルは、再びポスターに目を戻したようだった。俺も、まだまだ見えない目的地の方角に視線を戻す。草一本生えない荒野を眺めていたところで、何も面白くないわけだが。
「で、あの核弾頭娘は、消えたお嬢さんたちの行方については、何て?」
「結局、塔の連中に邪魔されて調べられなかったらしいな。今度は、オーディションに潜入して探ってやる、って鼻息荒くしてたが」
「やれやれだな。もう私は知らんよ」
「お人好しのシスル様でも、オーディションまでついていってやる気はねえか」
「変装でもすりゃ紛れ込めるだろうが、体調べられたら一発退場どころか、塔の研究所に連行されかねないだろ。そんな危険を冒してまで助けてやる義理はないな」
 ただでさえ、《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスが個人的に作成した完全人型全身義体ということで、塔には目をつけられているこいつだ。塔に捕まったら、言葉通りにバラされかねない身としては、そんな危険な真似、まず選択肢から外してしかるべきだろう。
「……つか、仮に潜り込む場合、女装でもすんのかお前は」
 一瞬、頭の中に、きらびやかなドレスを身に纏ったハゲでグラサンの野郎を思い浮かべてしまって、自分で自分の想像力にげんなりする。だが、シスルはあくまでしれっとした顔で「まあ、そうなるだろうな」と言い切った。
「募集要項には女性のみ、とは書いてないが、集まるのは女性ばかりだろ。悪目立ちしても意味がない」
「いつも悪目立ちしていることを、全力で棚に上げたなこのハゲ」
「普段目立ってれば目立ってるほど、目立つ特徴を隠せば気づかれにくいものさ。言っておくが、仕事上変装なんて日常茶飯事だし、私はその状態で何度かアンタとすれ違ったことあるぞ」
「マジか」
「マジだ」
 こいつが得意とする護衛の仕事において、変装は、クライアントに張り付くための有効な手段なんだろう。脳味噌以外のほぼ全身がつくりものなんだから、体型や顔を丸ごと変えちまうことだって、わけないのかもしれない。最低でも、髪を生やす程度は朝飯前だろう。こいつに体毛が無いのは、単に「手入れが面倒くさい」というだけの理由だったはずだから。仕事の真面目さ、正確さと裏腹に、自分のことに関してはとことんズボラなのが玉に瑕だ。
 それはそれとして、いくら姿を弄っても変えようのない「音」が聞こえてる俺にも存在を気づかせなかった辺りは、流石、依頼完遂率九割強を誇る『何でも屋』だ。外周の荒事を生業とする同業者や、塔の代行者からも一目置かれているだけはある。
「それでも、お前が女の格好してても、嬉しかねえな」
「何だ、綺麗なお姉さんだったら、中身は何でもいいんじゃなかったのか。動いて喋るだけのマネキンでも、女の形さえしてれば欲情できる、って言ってた気がするんだが」
 言ってしまった気がする。そして事実なのが悔しい。
「綺麗なおねーちゃんである限り、本能が求めちまうことは否定できん。そしてお前のようなハゲ野郎に欲情してしまったことに確実に後悔するだろう。故に全くもって嬉しくない」
「なるほど。難儀だな」
 シスルは、全く難儀とも思っていない風に呟いて青白い禿頭をつるりと撫でた。こいつにも、生物としての肉体を持っていた頃はあるはずなのだが、既にそれは記憶の彼方、二度と思い出すこともない事柄なのだろう。
 それはそれで、何とも味気ない人生だとは思うが。
「っつか、お前は、綺麗なおねーちゃんを前にして、むらむら来ることとかねえの?」
「それ、前にも聞いてなかったか」
「覚えてねえな」
「生殖機能がない以上生理的欲求もない、って話はしたと思うが。確かに、可愛い女の子が裸の上にパーカーを一枚だけ着てたりすれば、そそられるものはあるが」
「すげーマニアックだな」
「アンタにだけは言われたくない」
 俺は別にそんなマニアックな趣味はない。博愛主義者と言ってもさしつかえないだろう、もちろん美女に限るが。
 それで、取り留めのない話は一旦途絶えた。わざわざ、話題を探してまでこの沈黙を破る理由もないから、愛車を内部から制御している相棒の神楽に、声をかける。
「神楽、適当になんかかけてくれ」
『了解しました』
 スピーカーから心地よい女の声がして、その次に流れてきたのは、ピアノの音色だった。ドビュッシーの『月の光』。そして、この音の鳴らし方は、間違いなく《鳥の塔》お抱えのピアニスト、カノン・レオーニのもんだ。
 反射的に嫌な顔をする俺と対照的に、シスルが相好を崩す。
「ああ、私が前にリクエストしたのを、覚えていてくれたんだな」
「お前なあ、俺の相棒に勝手に仕込むんじゃねえよ」
「いいじゃないか。アンタは嫌いか、ドビュッシー」
「……別に、嫌いじゃあない」
 ならいいだろ、とシスルは軽く言って、助手席に身体を沈めた。そして、流れてくるピアノの音色に合わせて、鼻歌なんぞ歌い始めた。お前本当に護衛やる気あんのか、と言いたくなるが、これでやる時はきっちりやってくれる奴なだけに性質が悪い。
 何となく悔しかったから、鼻歌に耳をそばだてながら、ぼそぼそ呟いてやる。
「音が全体的に上ずってる、減点五」
「厳しいな。というか、何点満点から引いてんだそれ」
「さあな」
 適当に言ってんだから、基準なんてあるわけないだろう。シスルはちぇっと舌打ちをして、それきり鼻歌を歌うのはやめた。ざまあ見ろ。
 しばし、沈黙が流れた。窓の外に広がる荒野に何ら変化はなく、シスルも、手にしていたポスターを後部座席に戻した以外に特に動こうとはしなかった。いつの間に曲が変わっていたのか、スピーカーから流れ始めた『子供の領分』だけが、時間の経過を知らせてくれる。
 どのくらいの距離を走っただろう、メーターを見ればわかるだろうが、あえて確かめる気にもならないまま、ふと、頭の中に浮かんだ思いを言葉にする。
「なあ、シスル」
「何だ?」
「《歌姫》って、何のためにいるんだろうな」
「らしくないな、隼。アンタみたいな奴は、そもそも、何か疑問に感じることも面倒くさがると思ってたんだが」
「そう思われてる自覚はあるし、俺自身らしくねえなとは思う」
 このハゲの言うとおり、俺は俺自身に関係のあること以外には興味を抱かないし、抱いたところですぐに忘れる。それを、アリシアは『薄情』だと言ったし、そうなのかもしれない。
 そして、それでいいのだとも、思っている。
 だから、今の問いだって、疑問に思ったこと自体は珍しいが、きっと問うたこと自体忘れてしまうようなもんだ。そんなことを思いながら、シスルの答えを待つ。
 俺の下らない質問に対し、性根が生真面目な『何でも屋』は、指先を口元に持っていって、俺の質問への答えを探しているようだった。別に、んな真面目な答えは期待していないんだが、と思いかけたところで、薄い唇が開かれる。
「私個人の意見としては、夢を与えるため、だと思っている」
「夢ぇ?」
 普段からロマンチストじみた物言いだが、その実、本質的にはリアリストなこの男から、そんなあやふやな言葉が出てくるとは思わなかった。だが、シスルはいたって真面目な顔をして、ひらりと片手を振った。
「そう、夢さ。誰だってシンデレラになれるかもしれないという、夢」
「馬鹿馬鹿しいな」
「馬鹿馬鹿しいのは否定しないけどな。けれど、その馬鹿げた夢に、生きてゆく理由を見出す人間だって、確かにいるのさ」
「……シスル?」
 一瞬、シスルの声に、ちいさな刺が混ざった気がした。だが、それは、果たして刺だったのだろうか。それすらわからないままに、シスルの淡々とした言葉は続く。
「何が理由であっても、生きていられるのはいいことだ。私は、そう思っている」
 私は、に強勢を置いたところを見るに、それは本当にこいつの個人的な思いなんだろう。
 夢。夢か。俺の辞書からは、とっくのとうに抜け落ちちまった言葉。いや、最初からなかったのかもしれない。もはや、何もかも思い出せないが。
「そうして、無邪気な夢と希望を抱いたシンデレラ候補の中で、《歌姫》となれるのはたった一人。しかも、それ以外の娘は一人、また一人と消えていくわけか。何ともいえない話だな」
「そうだな」
 シスルは、それきり視線を窓の外に逃がした。また、沈黙が流れるかと思ったが。
「――シンデレラの行方は、誰も知らない」
 ぽつり、呟かれたシスルの声は、誰に向けられたものだったのか。
 終わらないシンデレラの夢を乗せて、俺たちは終わりゆく世界を行く。

人形 - The Five Black Keys 5

 二三七〇年二月某日

 
「だーかーらー! 私はこの姿で満足しているんだ、余計なものはいらないって言ってるだろう!」
「余計なもの? 余計なことがあるか! 人間とは文化的な生物だ、生まれたままの姿で一生を過ごす動物と違い、己のかたちに手を加えていくことで、己をよりよく見せる術を身に着けた生物なのだ! 今からでも遅くない、お前も『人間』を主張するなら、少しは見た目を整えろ! 面倒くさいというなら、私が一から見繕ってやってもいいんだぞ」
「大きなお世話だ」
 また始まったよ。
 俺は、店の手伝いの女から茶のカップを受け取り、溜息をつく。
 目の前では、この店の主人である『人形師』の爺と、馴染みの『何でも屋』シスルが、どこまでも低レベルな言い争いを繰り広げていた。
 外周地区の外れに位置する『人形屋』は、呼び名の通り古今東西の人形を売る不気味な店だ。このご時勢に一体どんな需要があるのかは知らんが、何だかんだで俺が『運送屋』を始めた頃から潰れずに残っているところを見るに、一定の需要はあるらしい。
 どちらかといえば、爺の「人よりも人らしい人形を作りたい」という欲望を突き詰める過程で副業となった、義肢や人工皮膚作りが金になっているのかもしれんが、その辺の詳細は知ったこっちゃない。
 ずずり、と苦い茶をすすって、正直な感想を言葉にする。
「飽きねえなあ、あいつらも」
「ご主人様は、シスル様のことを特別気にかけていらっしゃいますから」
 立ち並ぶ人形を背にした手伝いの女が、銀のトレイを手にしたまま、そっと囁いた。
「シスル様は、ウィニフレッド・ビアス博士の作品ではありますが、シスル様のかたちを提供したのはご主人様です。故に、ご主人様は、自分の作品でもあるシスル様が、己のかたちに頓着なさらないことを、深く憂いているようです」
「ふうん」
 シスルの今の姿形が爺の作品だってのは、初耳だ。確かに《赤き天才》様がきちんと人の形をしたものを組み立てられるとは思わないから、納得はできる。あの女は、造形は不得手ではないが、ごてごてといらんものを付け加えちまう天才だ。シスルが立派に人の形を保っているところを見るに、爺が色々横から口を出していたんだろう。
 まあ、そんなことは俺の興味の範疇外だ。俺は、この無数の人の形をしたものに監視されている空間から、一刻も早く離れたいんだ。だから、爺とシスルの言い争いが一瞬途絶えた隙をついて、声を投げかける。
「おいハゲ、俺たちは仕事に来てんだ。いい加減我に返れ」
「ちっ」
 おい、こいつ露骨に舌打ちしたぞ。あれだけ言って、まだ言い足りないと見える。そんなに『人形師』の爺の言い分が気に食わないのか、お前は。
 爺も「全く、頑固な餓鬼だ」とぶつぶつ言いながら、荷物を取りに奥に引っ込んでいった。それを確認して、シスルもふうと深く息をついてカウンターにもたれかかった。
 そこに、手伝いの女がトレイの上の、二つ目のカップをシスルに渡す。既にカップから湯気は失われていて、どれだけの間不毛な口論をしていたのかが窺える。
「シスル様も、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 シスルは、打って変わって、気障な態度で応じる。女はぺこりと螺子巻き人形のように頭を下げて、それから古めかしいメイド服の胸元にトレイを抱いて問うた。
「シスル様、一つ、ご質問してもよろしいでしょうか」
「何だい?」
「何故、そこまで、ご主人様の提案を固辞なされるのですか? 私はその理由に興味があります」
 淡々と言う女の声からは、何の感情も感じられない。微かな、ほんの微かな音色は聞こえてくるが、その音が何なのかも判別しがたい。本当に興味を抱いているならば、もう少し、感情のざわめきが聞き取れてもよいものだが。
 正直、この女も不気味なもんだ。いつからか爺の下で働いている娘だが、何をしていても眉一つ動かさない。それこそ、目の前の機械仕掛けの『何でも屋』より、よっぽど人形じみている。
 俺は人形ってやつが嫌いだ。人でもないのに人の形をしているものを見ると、背中がぞわぞわして仕方ない。それと同じ感覚を、目の前の、人であるはずの女に抱いている。動いているシスルに対しては、そんな風に思ったこともないってのに。
 対するシスルは、俺と同じような不快感は欠片も抱いちゃいないんだろう。気障ったらしい笑みを口元に浮かべ、手伝いの女に語りかける。
「私は人形の美しさも好きだ。けれど、それは、美しくあるべくして、つくられたからだと思っている」
 シスルは、軽く首を動かして、視線を巡らせる。壁に所狭しと並べられた人形は、爺の趣味なんだろう、どいつもこいつも煌びやかな服を身に纏って、化粧まで施されている。
 かたち、という意味では、シスルのあり方もこいつらと何一つ変わらない。人の手でつくられた、人のかたち。それでも。
「私のこの身体は、ただ『生きる』という目的のために存在している。だから、人として生きるための最低限が備わっていれば、それでいい。余計な装飾は必要ない。機能を伴わないかたちに、意味などないだろう?」
 シスルの問いに、女は答えなかった。きっと、同じように問われたとすれば、俺も答えられなかったと思う。
 『機能を伴わないかたちに意味などない』――それは、こいつの口癖みたいなもんだ。体毛も、性を規定する部位も、奴にとって『意味のない』部位を何もかも取っ払い、それでいてかろうじて人間のかたちをしているこいつの、持論だ。
 ただ、俺は、シスルの持論を否定こそできないが、反発めいた感情を覚えずにはいられない。一体どこに反発しているのか、言葉にはならない。ただ、何となく、こいつの言い分は気に食わなかった。
 女は、じっとシスルを硝子みたいな目で見つめ、微かな軋みを感じさせる声で、囁いた。
「シスル様は、かつてのあなたが、お嫌いなのですか?」
 その言葉に、シスルは、虚を突かれたようだった。口をぽかんと開けて、立ち尽くす。
 もちろん、俺だってそうだ。どうして、今のシスルの話をしていて、そこから俺も知らない過去のこいつの話になるのか。
 だが、女は涼しい顔をしてそこに立っている。シスルは、しばし呆然と女を見ていたが、やがて、ほとんど息遣いのみで問うた。
「……どうして、そう思う?」
「わかりません。ただ、ある種のかたちを『意味などない』と定義なされるシスル様を見ていて、不意に、そう思ったのです」
 差し出がましいことを申し上げてすみません、と付け加えて、女は深く頭を下げた。しばし、シスルはそんな女を見下ろしていた。口元に、手袋を嵌めた指をつけて、何かを考えているようだった。
 そして、ぽつりと、言葉を落とした。
「……確かに」
 よく通る声が、俺の耳にだけ響くCの音色と重なり合う。
「私は、過去の自分が好きではないのかもしれない。脆くて壊れやすくて、なのに余計なものばかり抱えて、どうして息をしているかもわからなかったから」
 ただ、その「壊れやすさ」や「余計なもの」は、それはそれで、人間を定義するものに他ならない、のかもしれない。人間でなかったことのない俺には、それ以上思いを巡らせることもできなかったし、そんな面倒くさいこと考えてやる気もなかったが。
 シスルは、俯いたままの女から、店の奥から一抱えほどの箱を持ってきた『人形師』の爺に視線を移して、そっと呟いた。
「難しいな、『人間らしさ』というものは」

レコード - The Five Black Keys 4

 二三六九年十二月某日

 
 これは何だ、とシスルは問うた。
 レコードだ、と俺は答えた。
「レコード? あれだよな、二十世紀辺りに存在した、音声再生媒体」
「そう。物理的に磨耗していくのが、耳に聞こえるだけでなく、目にも見えるのがいいんだとさ」
「……金持ちの感覚は、よくわからんな」
「お前も似たようなもんじゃねえか。基本的に紙じゃないと本読まねえだろ」
「最近は携帯端末でも読むぞ。紙の本は、持ち運びには不便だしな」
 だが、「最近は」とわざわざ言っているのだから、紙の方が好きなのは間違いないだろう。俺はそもそも本というか文字の書かれたもの全般が好きじゃないから、このハゲの嗜好はさっぱりわからん。
 いつも通り助手席に収まった『何でも屋』シスルは、ミラーシェード越しに、透明な袋に入ったレコードをためつすがめつしていた。ただの黒い板切れに、そんなに興味を惹かれるもんなのだろうか。理解の範疇外にある野郎のつるりとした頭を横目に眺めつつ、念のため釘を刺す。
「壊すなよ」
「善処する」
「不安になる言い方すんな」
 こいつが絶妙に不器用なのはわかってんだ。慌てて片手でレコードを奪い取る。荷物を壊された日には、信用問題、つまりは俺の飯の種に関わるのだ。シスルは軽く唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して質問を投げかけてくる。
「で、何の曲が入ってるんだ? 旧時代の音源か?」
「つい最近録音されたもんだが、曲自体は旧時代のもんだな。モーリス・ラヴェル『水の戯れ』、だとさ」
「演奏は?」
「カノン・レオーニ」
「いいね。彼の演奏は好きだよ。天才と称されるだけはあるよな」
 カノン・レオーニ。
 それは、統治機関《鳥の塔》の上層部が抱えるピアニストの一人だ。かつては『神童』と呼ばれ、今もなお『天才』の名をほしいままにしている、生まれながらのピアニスト。
 そもそも、ピアニストという職業自体、塔の上でしか成立しない。確かに町の酒場や劇場にはピアノを弾くことを生業とする奴もいるが、演奏技術や音楽の知識、歴史を正式に学び、ピアニストと名乗って許されるのは塔のピアノ弾きだけと言っていい。
 そのような、塔の上のピアニストの役割は、ただ、ピアノを弾くことだけだ。塔の上層に住まう貴族どもの娯楽として、ステージに立つことが仕事。その点では、酒場や劇場のピアノ弾きと何ら変わりはない。ただ、塔にピアニストと認められた時点で生涯の生活が保証され、本当に「ピアノを弾くこと」以外の何も考えずとも生活が成り立つという一点で、単なるピアノ弾きとは根本的に異なる次元の存在だ。
 そんな、ピアノを弾くためだけに存在する連中の中でも、一人だけ突出した腕と表現力を持つのが、カノン・レオーニという野郎だ。
 シスルは、「いいなあ、どんな演奏なのかな」としきりに俺が脇に避けたレコードを覗き込んでいたが、不意に、顔を上げて言った。
「ただ、私は、昔の方が好きかな」
「……昔?」
 思わず問い返してしまった。すると、シスルは不思議そうな顔をして、こちらを見た。当然、分厚いミラーシェードの下の目が、どんな表情をしているのかなんて俺にはわからん。わからないが、声を聞くだけでも「不思議がっている」のを察することは、できる。
「知らないのか? アンタは、何となくこの手の話には詳しいと思ってたんだが」
「いや」
 そうじゃない、俺は誰よりもそれをよく知っている。
 だが、こいつがそこに言及するとは、夢にも思わなかっただけで。
 一瞬の動揺を悟られちゃいないかと不安になり、ただ、動揺が悟られたところで大した問題でもないと思いなおして、心からの感想を吐き出す。
「あんな機械みたいな演奏、つまらねえだろ。俺は、今の方が断然いいと思うが」
「もちろん、現在のミスター・レオーニの演奏は、自由で、伸びやかで、情景が鮮やかに目蓋の裏に浮かぶ素晴らしい演奏だと思う。心に響く音色、と言われればその通りだ」
 それでも、と。シスルは、視線を灰色の町並みに移して、淡々と言った。
「かつての、張り詰めた、自分で自分を極限まで律した音色。私は、あの氷のような音色を、何よりも好ましく思ったんだ」
「それは」
 言いかけて、口を噤む。シスルの訝しげな音色を受け止めながら、小さく息を吐く。
 そう、こいつがあの頃の音をどう解釈しようと、俺には関係のない話だ。氷のような。結構じゃないか。透明で、硬くて、尖った音色。今も耳の奥に響き続けるそれを、どのような言葉で形容することも、自由だ。
 ――けれど。
 少しだけ、ほんの少しだけではあるが。かつて捨て去ったはずの熱を帯びた感情と、指先の痛みを思い出して、ハンドルを握る指に力を篭める。
 磨き上げられた真っ白なピアノ。白と黒の鍵盤を前に座る一人の男。呼吸。そして。
 どうにも、忘れられないもんだ。覚えていたところで、もはや何一つ意味のない記憶だというのに。俺は今も、あの野郎を殺した日を、忘れられずにいる。
 忘れないで、と幼馴染のアリシアは、俺の服の裾を握って何度も叫んでいたけれど。言われるまでもない、忘れたくたって、忘れられないんだ。
 一度思い出してしまえば、そう簡単に蓋をすることもできない。その、溢れ出てしまったものを少しでも自分の中から追い出すべく、マネキン人形じみた青白い禿頭を横目に、言葉を、吐き出す。
「なあ、シスル」
「何だ」
「塔の上のピアニストについて、ちょっとした怪談でもしてやろうか」
「怪談?」
「そう。本当にあった怖い話ってやつだ」
 シスルは、返事をしなかったが、好奇心をくすぐられているのは音でわかる。顔だけ見てると何も感じていないようにも見えるが、実際には大げさなまでの感受性と好奇心でできているこいつだ。怪談、なんて馬鹿馬鹿しいフレーズを聞いて、興味を持たないはずもない。
 だから、俺は返事を待たずに、勝手に話を始める。シスルというよりは、自分自身のために。
「塔のピアニストには、二種類の人種がいる。一つは、才能を見出されて《鳥の塔》に招かれて教育を受ける連中。もう一つは、生まれた時からピアニストになるべく、英才教育を受けて育った連中だ。実のところ、ピアニストと呼ばれる大多数は前者なわけだが、お前が好きなカノン・レオーニは後者になる。
 十五年ほど前まで、そうやって招かれた連中の教育に当たっていたのは、クリスティアーノ・レオーニ――カノン・レオーニの父親だ。自身も塔生まれ塔育ちの生粋のピアニストで、かつては、人一倍高いプライドを抱え、塔一番のピアニストを目指して日々その腕を磨いていた。だが、そいつは、言っちまえば努力家だが凡才だった。ガキの頃は『神童』なんてもてはやされたもんだが、いつの間にやら、外から招かれた連中に敵わなくなっちまった。それに気づいたクリスティアーノは、すぐに塔専属のピアニストとして活動することを止めて、後進の育成に専念し始めた。
 だが、クリスティアーノは、ピアニストの頂点に立つという目標を諦めたわけじゃなかった。凡才であり、決してその場には到達できない自分の代わりに、息子を、その座に押し上げようと考えたわけだ」
「よくある話じゃないか。それのどこが怪談なんだ」
 一度、言葉を切った俺に対し、シスルが呆れ半分の声を上げる。俺は神楽のナビゲーションに従って道を右に折れ、辺りの風景を確かめてから続ける。
「まあ、話はここからだ。クリスティアーノは、最低限、生命維持に必要な行動を除き、常にピアノの前にいることをカノンに強いた。そうして育てられたカノンは、まさしく『弾く機械』だった。複雑な楽譜を一目見ただけで理解し、一つのミスもなく弾くことに関して、カノンの右に出る奴はいなかった。
 しかも、クリスティアーノの教育の成果か、カノンは日々ピアニストとして成長を続けていた。一日前までは知りもしなかった技術を、翌日には最初から身についていたかのように弾きこなす。楽譜をそのまま音にしていただけだった演奏が、次の瞬間には一つの大きな流れとして耳の奥を震わせる。そんなカノンがピアニストとして名を売るまでに、そう時間はかからなかった。
 だが、そこまで優秀なピアニストでありながら、カノンは人前に姿を現さなかった。クリスティアーノが、それを許さなかった。今もそうだな。カノンのものである、という演奏は、ほとんどが録音されたものとしてしか人の耳には届かない。生演奏ですら、姿を隠すものを間に挟んでいるってんだから、徹底してるよな。
 何故、カノンは姿を隠しているのか。その謎は、塔の上のピアニストたちの間ですら、解明されてなかった。
 そんなある日、一人のピアニストが、カノンの秘密を解き明かすために、夜の練習室に忍び込んだ。忍び込んだ、という噂だけは、ピアニストたちの間に広まった。だが、それきり、そのピアニストは忽然と姿を消しちまったんだ。
 それから、何人ものピアニストが消えていった。実のところ、その前からぽつぽつと消える奴はいたんだが、それは塔に連れてこられた連中が、練習の厳しさに耐え切れず逃げ出したもんだとばかり考えられていて、『消えた』とは認識されていなかった。けれど、カノンの正体を探ろうとした奴が消えてから、カノン、もしくはクリスティアーノが何かしてんじゃねえかって噂が広まっていった。
 そうしている間にも、一人、また一人とピアニストが消えていく。怖気づいて、カノンの名前を聞くだけでも震え上がるピアニストもいる中で、とある若いピアニストだけは、カノンの正体を追い求め続けた。
 そして、ついにある夜、練習室でピアノを弾くカノンの姿を、目撃した。
 ――ピアノの前に座っていたのは、人ではなかった。
 それは、何人もの人間を無理やりにくっつけたような、肉の塊だった。
 酷くねじくれた巨体を持つカノンは、数本の腕で一心不乱にピアノを弾いていた。いや、その化け物は、カノン・レオーニという名前で呼ばれてこそいたが、一人の人間ですらなかった。混ざり合って一つの肉の塊になってはいたが、表面に浮かぶ顔は、一つ一つが消えたピアニストたちの顔をしていたんだ。
 そして、化け物の指が奏でる音は、今まで消えたピアニストたちの技術を、そっくりそのまま模倣していた。それに気づいたピアニストは、震えが止まらなかったそうだ。ピアニストをその身体に取り入れて、技術を奪う。そうすることで、化け物は日々進化するピアニスト、カノン・レオーニとして君臨していたと、気づいちまったんだからな。
 カノンの正体を知ったピアニストは、慌てて逃げ出して、他のピアニストたちに自分が見たものを語った。そして、あの化け物は何なのか、カノン・レオーニとは何者なのかを、自分たちの師であるクリスティアーノに問いただそうとした。
 だが、クリスティアーノが、何を考えていたのかは、結局わからずじまいだった。
 何故なら、クリスティアーノは、ピアニストに息子の姿を見られた翌日には、首を吊って死んでいたからだ。遺言によると、自分は何も間違ったことなどしていない、ただ、至高のピアニストをこの手でつくり上げたかっただけだ、とか何とか。まあ、遺言の真偽なんざ、俺の知ったこっちゃないが。
 それから、異形の化け物がどうなったのか?
 きっと、今もまだ、そこにいるんだろう。『天才』カノン・レオーニとして。
 そうして、他のピアニストから奪った指先で、至高の音楽を奏で続けてるんだろうよ。そういう化け物として生みだされちまった以上、それしか知らねえわけだし、そうして生きていくしか道はねえんだから」
 それで、話は終わりだった。
 シスルは、じっと俺の方を見つめたまま、しばし沈黙していたが、やがてぽつりと問うてきた。
「その話は、本当なのか?」
「まさか。塔の音楽家たちの間で、まさしく『怪談』として語られてる法螺話さ。だが、実際にカノンの姿を見た人間は塔の中でもほとんどいないし、カノンの名が表に出るようになってから、カノンと同年代のピアニストの名前が挙がらないのも、事実だが。ま、どこからどこまでが嘘なのかは、俺の知ったことじゃねえってこった」
 シスルは、納得できないとばかりに俺をミラーシェードの下から睨んできた。本当に「睨んで」いることを確かめたわけじゃないが、眉のない眉間に寄せられた皺と、少し音量を上げたCの音から察するに、睨まれていることは間違いないだろう。
 ただ、作り話に作り話を重ねはしているが、俺は、この怪談を単なる法螺と笑い飛ばすことはできない。カノン・レオーニは確かに、ピアニストとなるべき連中を食いつぶしてきた「化け物」だった。
 その事実を、俺は、一生抱えて生きていくんだろう。決して癒えることのない、指の痛みと一緒に。
 何となく居心地の悪さを感じて、傍らのレコードに、一瞬だけ視線を落とす。
 カノン・レオーニ。
 日々進化する至高の機械であることを強いられ、今、役目を立派に果たしている、本物のピアニスト。奴は、何を思ってピアノの前に座っているのだろう。今の奴は、どんなピアノを弾くのだろう。
 もし、許されるのならば、このレコードの中身を聞かせて欲しいとすら、思う。本当にその瞬間が来たら、いつものように耳を塞いでしまうかもしれないが。
 その時。
「隼」
 黙したまま俺を見つめていたシスルが、不意に、今更な質問を投げかけてきた。
「前から塔の事情に詳しいとは思ってたが、もしかして、アンタも、塔の上のピアニストだったことがあるのか?」
 その問いに、俺は、用意してあった言葉で、答える。
「さあ、どうだろうな」
 シスルは更に眉間の皺を深めるけれど、別に、誤魔化したくてそう言ったわけじゃない。
 かつての俺を『ピアニスト』と称するべきかは、今の俺にもわからない。
 ――ただ、それだけの、話。

鍵 - The Five Black Keys 3

 二三六九年五月某日

 
 きぃ、という現実の扉が立てる音と同時に、飛び込んでくる無数のノイズ。
 いい具合に酔っ払ってる客の音は、聞いているだけでこっちの耳が痛くなってくる。飲むこと自体は嫌いじゃないだけに、この耳に搭載された無駄な機能が恨めしい。目には目蓋があるものの、耳には蓋はない。耳に栓をすれば確かに楽にはなるが、そうすると聞こえなければいけない音も聞こえなくなるから困ったもんだ。
 話し相手がいるなら、まだ音を意識しなくても済むもんだが、いつもなら水片手に俺の愚痴に付き合う『何でも屋』シスルが、珍しく「そういう気分になれない」なんて言ってとっとと帰りやがった。そんなわけで、夜の女を捕まえる時間になるまでは、酒場で時間を潰すしかなかった。
 せめて、少しでも煩くない場所へ、と思ってふらふらと店の奥へと歩いていき、妙に静かな席を見つけた、と思ったその時。
 目が、合った。
 音に意識を持っていかれていただけに、そいつがそこにいることに、一瞬、気づけなかった。グラスを手にしたそいつは、すう、と金色の目を糸のように細め、背中が泡立つ声音で言った。
「お久しぶりですねえ、フジミさん。お花ちゃんは一緒じゃないのですか?」
 ――あのハゲ、勘がよすぎるだろ。
 額から冷たい汗が流れるのを感じながらも、俺はかろうじて頷いて、答えた。
「相変わらず、お花ちゃんにご執心なのな、|月刃《ユエレン》」
「そりゃあもう」
 月刃は、恍惚とした笑みを浮かべて、左手の指――かつて「お花ちゃん」ことシスルから奪ったのだという、機械仕掛けの指に舌を這わせる。ぬらぬらと、長く赤い舌が白い人工皮膚を舐めまわすのを、俺は、目を逸らすこともできずに見つめていた。全身にくまなく鳥肌が立つのを感じながら。
「お花ちゃんのことを考えるだけで、胸が高鳴るのですよ。ああ、今度はどうやって、あの腕を折り取ってあげましょう。足を、体を、何もかもを奪いつくした時、お花ちゃんはどんな悲鳴を上げてくれるでしょう。そして、美しい曲線を描く頭を割って、お花ちゃんを唯一定義する肉塊に触れた時、私の目には何が映るのでしょう。ああ、お花ちゃん。色を失った世界に咲く、至高の赤い花」
 早口にまくし立てられる言葉は、俺が喋っているものと同じ共通語のはずだが、さっぱり理解できない。というより、理解したくないし、してはいけない。
 俺にできることは、ただ、深々と溜息をついて、
「本当に、救いようのない変態だな、お前さんは」
 心からの言葉を、吐き出すことだけだった。

 
 月刃は、業界の間では名の知れた『殺し屋』だ。
 誰にも気取られず、標的を刀一つで確実に殺す腕は、業界でも高く評価されている。興が乗って標的以外の相手も殺してしまうらしいが、その腕に免じて大目に見られている。要するに、典型的な快楽殺人者というやつだ。
 別に、それだけなら外周の『殺し屋』にはよくあることだ。シスルのように、殺しを厭いながら仕事として割り切ってる奴は決して多くない。
 ただ、この野郎は、それとは全く別の次元で、どうしようもない変態なのだ。
 いつからかは知らないが、ハゲでグラサンのサイボーグを「お花ちゃん」なんてけったいな愛称で呼び、語尾にハートマークをつけながら追い回す輩は、終末の国広しといえど、こいつただ一人だろう。
 月刃曰く「これはお花ちゃんへの純粋な愛」とのことだが、月刃の愛は俺の目から見ても歪みきっている。好きだから殺したい。いたぶるだけいたぶって殺したい。そんな愛を胸に生きる月刃に対し、もちろん「お花ちゃん」ことシスルはドン引きしている。その結果、俺でもわからなかった月刃の気配を的確に読み取って回避する術まで身に着けたと見える。何というか、あのハゲの苦労が忍ばれる。同情はしないが。
 とにかく、月刃から見れば、この世界は「お花ちゃんと獲物とその他」という極めてシンプルな構造をしている。だからきっと、俺の存在は、月刃にとって「お花ちゃんとよく一緒にいる有象無象の一人」という認識なのだろう。もしシスルと関わっていなければ、名前も顔も覚えられていないに違いない。
 その方が、よっぽどマシだったかもしれないが。
 お花ちゃん、という存在に紐づいてしまっているだけに、この変態に絡まれる羽目に陥っている今、特にそう思わずにはいられない。
 ご一緒にどうですか、という言葉に逆らうこともできず、俺は嫌々ながらに月刃の前に座る。シスルとつるんでるせいで、何度かこいつと言葉を交わしたことがあるが、こういう形で向き合うのは初めてだ。そして、月刃から音色が聞こえないことを、改めて確かめる。
 元々音色を持たないつくりものの相棒・神楽とは違う。月刃は確かに「生きた人間」でありながら、音色を巧妙に隠している。シスルも似たことをやってのけるが、奴のそれは一時的なものだし、こいつほど完全に音色を隠蔽はできない。
 俺の耳に届く音は、人間の気配というか、何というか、とにかく上手く言葉にはできない存在感、みたいなものだと思っている。俺のように明確に聞き分ける能力がなくとも、何とはなしに感じ取れる「何か」だ。それを隠し通す術を持つ月刃は、やはり一流の『殺し屋』なんだろう。
 月刃は、得体の知れない泥のような酒を一口舐めて、「ああ、しかし残念です」と大げさに嘆く。
「お花ちゃんに会えないとは。今日までフジミさんと仕事だと思っていたのですが」
「まあ、ついさっきまでは一緒にいたが……、って何でんなこと知ってるんだよ」
「私は、お花ちゃんのことなら何でも知っていますよ。いつ、どんな仕事をしているのかも、休暇を誰と過ごしているのかも、今読んでいる本のタイトルだって、何もかも、何もかも」
 薄い唇を恍惚の笑みに歪めて言い放つ月刃。一体どういう情報網であいつの動向を掴んでるのかなんて、考えたくもない。
 なので、すぐに考えるのを止めて、いつもの酒を一杯頼む。アルコールでふやけた脳が、この野郎の記憶をすっかり消し飛ばしてくれることを祈って。
 ただ、酒を待っている間に、気になっていたことが、つい口をついて出た。
「しかし、どうしてあんなハゲが好きなんだ、お前さんは」
「おや、あなたには、お花ちゃんの素晴らしさが理解できていないのですか? 私の知っている限り、お花ちゃんと特に親しくしている中の一人だと思っていましたが」
「俺と奴は、単なる依頼人と護衛の関係だ。特別親しいつもりはねえよ。確かに、煩くなくて付き合いやすい奴だとは思うが、それ以上でもそれ以下でもねえ」
 仕事上、護衛とは、下手をすれば半月くらいは余裕で寝食を共にしなきゃならなくなる。それなら、護衛として有能であることと同じくらい、常に側にいて苦にならない相手というのは、重要な条件だ。
 そして、俺にとって「苦」の基準は、煩いか煩くないか、その一点だ。
 耳障りなノイズを奏でる奴、甲高く響き渡る音色を奏でる奴、蟲の羽音じみた音を奏でる奴、この世に存在するほとんどの奴は、俺にとって煩くて敵わない。まあ、月刃みたいに全く音が聞こえない奴もいるにはいるが、それはそれで得体が知れないから嫌だ。
 そんな中で、シスルの奏でる、どこまでも一定したダブルリードのCは、耳に心地よい。ただ、それだけの話。
 俺の「煩い」という言葉を、正しく月刃が受け止めたとは思わない。受け止めてほしいとも、思わない。ただ、月刃がついた溜息が、心の底からの安堵を篭めていることだけは、はっきりしていた。
「安心しました。あなたはお花ちゃんを『仕事の付き合い』と考えていて、愛しているわけではないのですね」
「おいおい、俺があのハゲを? 勘弁してくれ」
 まず、男に愛を囁く趣味がない。あのハゲに恋愛感情を抱くなんて、考えるだけでも寒気がする。まあ、まさしくそういう感情を抱いている野郎を前にすると、一体何が一般的な感覚かもわからなくなってくるが。
 月刃は、肘をつき、細長い指を組んでにっこりと笑みを浮かべる。
「ええ、よかったです。私の恋路を邪魔する可能性のある者は、一人残らず排除しなければなりませんからねえ」
 ――怖ぇ。
 今まさに、喉元に刃を当てられているような錯覚を抱く。ゆらゆらと酔ったような口調ながら、細められた金色の瞳に、温度は、ない。
 月刃はもう一口酒を舐めると、「ああ、そうそう」と話を変えた。
「私がお花ちゃんを愛している理由、でしたね。よくあるでしょう、一目惚れというやつですよ」
「一目惚れ……なあ」
「限りなく無駄を削り落としたあの姿もさることながら、何より、その機械仕掛けの身の内側に咲かせる花の美しさに、私は一目で恋に落ちたのです」
「花?」
 今の話しぶりからするに、「花」というのは「お花ちゃん」というシスルに対する呼称とはまた違う意味を持っているんだろう。そしてサービス精神旺盛な月刃さんは、酒が回っていることもあるのか、丁寧に解説を加えてくれる。
「私の目にはですね、人の命が、光り輝く花の形で見えるのですよ。生きとし生ける者は必ず、己の身の内に一輪の花を持っています。ただ、ほとんどの人間はそれに気づかずに、弱々しい蕾を抱えたまま生涯を終えます。もったいない話です、己の持つ美しさに気づくことなく、灰色の生涯を終えるなんて」
 単なる狂人の戯言、と言い切ってしまえばそれまでだが、俺には、それがただの戯言だとは思えなかった。命の花を見る能力――それは、俺の聴力と似通ったものと、考えられたからだ。
「私は、その花が最も美しく咲き誇る瞬間を愛しています。命の花は生の渇望によって輝く。故に、私は人を斬るのです。惰性のままに生きていた者が、避けがたい死を前に『生きたい』と叫んだ瞬間こそが、何よりも美しい花を咲かせるのですから」
 美しいものを見るために、殺す。
 悪趣味極まりない台詞に、運ばれてきた酒を口にする気も失せる。最初からわかっていることではあったが、こいつは、俺からねじれた位置に存在していて、完全に理解を拒んでいる。
 事実、それが誰にも理解されないことは、月刃だってわかってんだろう。俺が嫌な顔をしているのを見ても、うっすらと口元の笑みを深めるだけで、勝手に話を進めていく。
「しかし、お花ちゃんは、私が今まで出会ってきた、誰とも違いました。
 お花ちゃんは、『死』を前にして初めて咲かせると思われた命の花を、その身の内に常に咲かせているのです。今でもはっきりと思い出せます。お花ちゃんの姿に重なるように咲いていた、燃え盛る真紅の花、その鮮やかさを」
 赤い花。俺にはそれがどんな姿をしているのかも、わからない。ただ、月刃がここまで執着するくらいなんだから、それだけすごい花なんだろう。すごい花、という言葉を使ったところで、全然イメージはできないのだが。
「果たして、それはお花ちゃんが一度死を経験したからか、それとも、最初からそうであったのか。それは、私にもわかりません。わからないからこそ、私は、お花ちゃんをもっと知りたいと思うのです。その体の奥の奥まで、脳味噌の隅々まで舐めつくして、お花ちゃんの存在を、あの花の正体を確かめたいのです。
 そして、ただでさえ美しいあの赤い花が、最期の瞬間にどんな鮮やかな色で輝くのかを、知りたいのですよ」
「……そりゃあまあ、大層な目標で」
 一応相槌は打ったが、既に考えることは放棄している。一瞬、月刃にばらばらにされたあげく、脳味噌を引きずり出されているシスルの姿を想像してしまったが、そのイメージを何とか振り払う。縁起でもない。
 月刃は、ひとしきり言いたいことを言って満足したのか、グラスの中の液体を一気に飲み干して、立ち上がる。
「さて、と。私はそろそろお暇させていただきますかねえ。私がここにいると、フジミさんが落ち着けないようですからね」
「わかってんじゃねえか」
 月刃は、イカレではあるが馬鹿じゃない。それだけに、やりづらいんだ。月刃はおかしそうに笑い、「そうそう」と懐に手を入れて、何かを俺の前に差し出してきた。
「フジミさんにお願いなのですが、これをお花ちゃんに返してほしいんですよ」
「……鍵?」
 黒い鍵だ。輪になった部分に鎖が通され、ペンダントになっている。
 そういえば、確かにあいつの首にこれと同じペンダントがかかっていたことがあった、かもしれない。野郎の胸元なんて見ていてもつまらんから、意識して見たことがなかったが。
 詳しく聞いてみれば、この前の仕事でやり合った時に、シスルが落としたものなんだそうだ。以来、シスルは華麗に月刃を避けて通ってるものだから、すっかり返しそびれているのだそうで。
「お花ちゃんが大切にしているもの、らしいです」
「『らしい』、な。何もかも、何もかも知ってるんじゃなかったのかよ」
「お花ちゃんが語らないことは、流石の私でも知りえませんよ。私は、人の咲かせる花と、その色が見えるだけで、心の中身まで読めるわけではありませんからねえ」
 ――その点で、俺と、こいつの能力は、極めて似通っているんだろう。
 俺も、あくまで人の音色が聞こえるだけで、そいつが考えていることを言葉として読み取れるわけじゃない。俺にとっての「音」が、月刃にとっての「花」だとすれば、月刃も、俺と同じジレンマを抱えているに違いない。
 だからこそ、シスルのことを、シスルの咲かせる赤い花の意味を「知りたい」と思うのかもしれない。
 恋し、愛すればこそ。
 理解はできない。してはいけない。けれど……正直に言えば、羨ましくも、思う。それだけの強烈な思いを、己の指針に据えることができる、この男を。
 俺にはそれができない。できなかったからこそ、今、ここにいる。それでいいのだと思い極めてはいるが、羨ましい、と思うことは止められない。馬鹿馬鹿しい話だが、それが現実だ。
 そんな俺は、月刃の目にはどう映っているんだろうか。何色の花を咲かせようとしているんだろうか。
 思いながら月刃を見るも、月刃はもちろん俺の思いには応えちゃくれなかった。その代わりに、ひらりとしなやかな手を挙げるだけで。
「それでは、また」
「……『また』は無いことを祈るよ」
 かろうじてそれだけを呟いて。
 手袋の上で黒い鍵を弄びながら、去りゆく男の背中を見送った。

造花 - The Five Black Keys 2

 二三六八年十二月某日

 
 女と一夜を過ごす時、俺の中には、いくつかのルールがある。
 女の名前を聞かないのはその一つ。一度抱いた女を二度と抱かないのも、その一つ。
 俺にとって、女とは自分自身では上手く御しきれない欲望を、一時的にでも処理するための道具だ。故に、情を抱くほどの関係を作る気は、ない。
「アンタは、一人の女を恋うることはないのか?」
 ある日、ハゲでグラサンの誰かさんの問いに、俺は確か、こう答えたのだった。
「俺は、一つ所に立ち止まったら死んじまうもんでな」
 もちろん、大嘘だ。どこぞの誰かさんも、俺の答えに苦笑するだけで、本気にはしていなかったと思う。
 ただ、多少は、真実を含んでもいる。俺には、誰か特定の一人を「特別」に思う能力が、とことん欠けている――一応、その自覚はある。いつからそうなってしまったのかは、俺自身、よくわかってはいない。最初からそうだったのかもしれない、とは思うけれど。
 そんな、下らない思考を頭の隅に追いやって、名も知らない女の肩を抱き寄せる。仄暗い、小さなランプの光だけが揺らめく部屋で、女は生白い腕を俺の肩にかけて、深い、口づけを寄越してくる。熱い呼吸、舌に伝わる甘さを、心行くまで味わう。
 それから、顔を離した女の顔を、改めて見やった。決して美女というわけではないが、長い睫に縁取られた黒目がちの目と、目尻の黒子が蠱惑的だ。それに、何よりも、触れた肌の温度と弾力が俺の好みだった。
 その温度を確かめるために、もう一度、女の体を強く抱きしめる。湿った肌を重ね合わせていると、接触している場所から一つに交じり合って、お互いの体温を共有しているような錯覚を抱く。
 だが、俺とこの女とは決して一体にはなれない。
 俺の耳に届く不愉快なノイズが晴れない限りは、絶対に。
 それでも、せめて今この瞬間だけは、耳に響く雑音を忘れようと、名前も知らない女の体を貪る。行為に没頭し、内側に溜まっていた欲望をぶちまけるまでの間だけは、俺の世界を取り巻く不愉快な音色も、忘れていられるから。
 不毛だな、と。脳裏で誰かさんが囁く。
 不毛で結構。どうせ、俺が蒔いた種から生えるもんなんて、ろくなもんじゃあねえ。なら、不毛な方がよっぽどマシだ。
 ……そういう意味じゃねえってのも、わかっちゃいるが。
「ねえ」
 そっと、耳元に囁かれた声は、微かに枯れていた。鼓膜を震わす音色も、かさかさと軽くて薄いものが触れ合う音。
「一つ、あなたにお願いをしたいの」
「お願い?」
「そう」
 俺は払った金に応じた仕事を求めているだけで、買った女に「お願い」をされる立場ではない。そう言うと、女は「その通りね」とあっさり認めながらも、囁きを続ける。
「虫のいいことを言っているのはわかってる。もちろん、叶えてくれなくてもいい、ただ、聞いてくれるだけでいいの。駄目かしら」
「まあ、聞くだけなら」
「ありがとう」
 女は礼とともに、今度は触れるだけのキスを寄越した。
 そして――。

 
 ある娼婦が死体で発見された。そんなニュースを聞いたのは、あの女を抱いた翌日の夕刻、愛車の中でのことだった。ボリュームを上げますか、という神楽の問いに、俺はぼんやりと頷いて、流れてくるノイズ交じりの声に耳を傾けた。
 外周の暴力組織の一員だったとか、その組織を裏切って、敵対組織に情報を流していただとか、色々と言われていたような気もするが、俺の頭にあったのは、あの女の黒目がちの目と、目元の泣き黒子だけだった。
 俺は死体を見ていないから、それが昨夜抱いた女であるという確証があったわけではない。ただ、あの女が囁いた言葉を信じるならば、既に生きてはいないはずだ。
 だから、きっと、死んだのはあの女なのだろう――そんなことを思いながら、琥珀色の液体を煽る。仕事帰りの馴染みの酒場は、今日も変わらず騒がしいが、俺が陣取ったカウンターの端は、その中ではまだ静かな方だ。
 そこに、不意に、一つの音が生まれる。
 ただ、決して不愉快な音ではない。少しだけ上ずったC、深い呼吸に導かれた二枚のリードが奏でる、柔らかな音色。それが聞き慣れた音であることを確かめて、酒のグラスから視線を逸らさぬままに声をかける。
「よう、シスル。お前も仕事帰りか」
「ああ。マスター、水を一杯もらっていいかな」
 ハゲでグラサンの『何でも屋』シスルは、いつも通りに冷やかしみたいな注文をして、断りもなく俺の横に座った。
「俺の隣は、美女しか許してねえんだが」
「それで、実際に美女が座っていたところは見たことがないんだが」
「うるせ」
 奏でる音はともかく、いちいち一言多いという意味で煩いハゲは、俺の手元に置かれていたそれに気づいたのだろう。横目に見えた表情こそ無表情のままだったが、微かに、響く音色が変わった。
「花なんて珍しいな、隼。女にでも贈るのか」
「いや、逆だ。贈られたんだよ。昨日抱いた女にな」
 俺は、昨日の女から「お願い」されて受け取った、一つの造花を指でつつく。女の豊かな黒髪を飾っていた、ちいさな薄青の花。
 シスルは小さく鼻を鳴らし、呆れたような声を上げる。
「一夜の女からの贈り物は、受け取らない主義じゃなかったのか」
「そうだな。どうかしてるとは思う」
 気まぐれ、と言ってしまえばそれまでだ。ただ、俺らしくもない気まぐれではある。自分でそう思うんだから、間違いない。
 そんな俺を、一体どう思ったのかは知らない。ただ、明らかに「気に食わない」という気配と音色を漂わせながら、シスルが淡々と言った。
「その花の名前を知ってるか、隼」
「いや、知らんな」
「勿忘草、だ」
 ――私を忘れないで。
 私は明日、殺される。それだけを言った女が寄越してきた、ちいさな花。飾ってもいい、捨ててもいい、ただ、今この瞬間に、受け取るだけ受け取って欲しいのだ、と。
 そう言った女の心中など、俺は知らない。
 知らない、けれど。
「重いな」
「だろうな」
 きっと、この花を渡す相手は、誰でもよかったんだろう。偶然、最後にあの女を抱いた男が俺だっただけの話。それでも、この青い花を「重い」と思わずにはいられない。私を忘れないで。まるで呪詛じゃないか。
 どうするんだ、と。シスルはからかうように問うてきた。ただ、俺の答えは、最初から決まっていた。その花の名前を聞くまでもなく。
「きっと、すぐに失くす。それで忘れる」
「アンタのその無責任さは、嫌いじゃない」
 シスルはふっと息をついて、それから俺の手元から、花を取り上げた。シスルの、革手袋に覆われた指先が、茎を摘んで青い花をくるりと回す。
「それでも、受け取った以上は、覚えておける限りは覚えておいてやれよ。別に、それ以上は望まれてないんだろう」
「……まあ、そりゃそうだが」
 死んだ女が、生きている俺に対して何の影響を及ぼすわけでもない。なら、意識して忘れることもないだろう、とは思う。無論、意識して覚えておこうとも、思わないが。
「私も忘れられそうにはないがな。死にゆく女の空っぽの笑顔は、どんな時も、脳裏に焼きついて離れないもんだ」
 一瞬、聞き流しかけたが、すぐに我に返ってシスルを見やる。シスルは、青い花をくるくる回しながら、青ざめた横顔で呟いた。
「全く、嫌な仕事だよ」
「そうか、お前があの女を?」
 シスルは、俺の問いに答える代わりに溜息をつく。
「だから、殺しの仕事は嫌いなんだ」
 微かに歪めた唇に、つくりものの青い花を寄せて。
「記憶の始末が、面倒だからな」

鉛の箱 - The Five Black Keys 1

 二三六七年十月某日

 
 『運送屋』と一言で言ってもこの国における業界はピンからキリまで、強盗まがいの奴だっている。
 かく言う俺は、統治機関の《鳥の塔》から隔壁間を巡る認可を受けた『運送屋』だ。俺らの業界では、塔からの認可があるかないかで、仕事の質も量も大きく変わる。安全で、確実で、信頼の置ける『運送屋』のイメージが、鳥の羽を模ったハンコ一つで得られるのだ。面倒な手続きを踏んででも、認可を受ける価値はある。
 唯一、難点があるとすれば……塔認可の『運送屋』は、塔からの依頼を断ることが難しいという一点だ。
 それが最大の難点である、ともいえる。

 例えば、何が入ってるかわからない箱を渡されて、目的地だけを告げられた場合とか。

「なあ、隼」
 助手席からの呼びかけに、俺はあえて視線を前方に固定したまま答える。
「何だ?」
「何か面白い話でもないのか、赤面必至の羞恥エピソードとかさ」
「ねえっつの。仮にあったところで誰が言うかハゲ」
「全く、サービス精神が足らないなあ」
「野郎に振りまくサービスなんてありませーん」
 別に、助手席側に視線を向けたって、運転に支障はないのはわかりきっている。
 何しろフロントガラスの向こうに広がっているのは、地平線の向こうまで続く荒野。地面の状態は決してよくないが、そこは悪路走行に長けた……逆に言えばそれだけが取り得の愛車だ、相棒の車両搭載型人工知能、神楽の力を借りるまでもなく、目を瞑ってたって前には進む。
 正直、変化の見えない荒野を眺め続けているのに、飽き始めたところではある。
 だが、それで、助手席側を見たところで、目の保養になるわけでもない。
「あーあ、隣に座ってんのがヴィクなら、こんな不毛な数時間を過ごすこともねえのに。あの美貌、あのエロい体! ヴィクになら人生捧げてもいいんだが」
「今のご時勢、歌姫といえばヴィクよりリザじゃないのか?」
「あんなのまだまだガキじゃねえか。まあ、どんなガキでも、手前よか絶対にマシだろうけど、なあ?」
「結局誰でもいいんじゃないか。なら、その辺で好みの女を買って、助手席に座らせときゃいいだろ。アンタの身の安全は保障されないけどな」
 おかしそうに笑うそいつを、思わず横目で睨んでしまって、やっぱり後悔した。
 どんなに夢を見たところで、俺の横には首都の《歌姫》なんか座っちゃいない。そこにいるのは、青白い肌をした、骸骨みたいな野郎だ。刺青を入れた禿頭に、目を覆う仰々しいミラーシェード。鼻筋や口元は人形みたいに綺麗だが、そりゃあそうだ、こいつの身体は頭のてっぺんから爪先まで、よく出来た人形なんだから。
 理由は知らんが、こいつは脳味噌以外の全てを機械に換装しちまった、俺の知り合いの中でもトップクラスの変人だ。と、同時に、俺にとっては最も信頼のおけるボディーガードでもあった。高いがそれに見合った仕事をする、という点では定評がある。
 俺は溜息をついて、不毛に過ぎる仮定を言葉にする。
「高望みしたって仕方ねえし、あくまで仕事とはいえ、手前がせめて女ならなあ」
 どんな女だっていいってわけでもないが、ハゲでグラサンの人形を助手席に座らせている図を考えれば、正直女なら何でも構わないという気分になってしかるべきだ。
 すると、『何でも屋』シスルは細い顎を撫でて言う。
「別に女の形になれなくもないけどな。それこそ、アンタ好みの綺麗なお姉さんに作り変えてもらうことだって、できないわけじゃ」
「よしなれすぐなれ三分待ってやるからなれ」
「三分じゃ無理だ。あと、中身はこんなんだけどいいのか」
「見かけさえよければ欲情できる」
「……動くマネキンに欲情するとか、不毛に過ぎるんじゃないか」
「うるせ」
 シスルは軽く肩を竦めて、視線を窓の外に逃がした。俺も視線を前に戻して、なおも意味の無い会話を続けようと試みる。
「で、そういうお前さんは、綺麗なおねーさんにむらっと来たり、襲いたいとか思ったことねえのかよ」
「機能が備わってないから、よくわからないな。そりゃあ、かわいい女の子を見かければ幸せな気分にはなるが、世間一般の欲情とは違うんじゃないか」
「その身体になる前はどうだったんだよ」
「どう、って言われても、そういう欲求とは縁遠い生活だったしな」
「どんな苦行だそれ。僧か、僧なのかお前は」
 確かに、そのつるりとした頭と黒尽くめの服は、百歩譲って坊主に見えないこともない。それ以前に暴力組織の一員にしか見えないってのは、言わないお約束だ。
 そこで、一旦言葉は途絶えて。俺が最も避けたかった沈黙がやってきた。そこで訪れるのが、単なる静寂ならどれだけ幸せだろう。俺には縁遠い世界だが。
 それに今回ばかりは、沈黙を恐れていたのは、シスルだって同じだったはずだ。
「なあ、隼」
 見ていて楽しいはずもない荒野を眺めていたシスルが、ついに呟いた。
「後ろから、何か、聞こえてるよな」
「……言うなよ、考えないようにしてたのに」
 そう、そうなのだ。
 俺とシスルとの間で、こうも意味の無い会話が続くことなんて、いつもならありえない。
 シスルは厳つい見かけによらず話好きで、単に話をしている分には愉快な野郎だ。そうでなければ、いくら評判のいい『何でも屋』といえ、わざわざ一緒に仕事をしたいとは思わん。仕事は安全に確実に、そして楽しく。これは何だかんだで大切なことだ。
 これで、こいつがハゲでグラサンの動くマネキンじゃなくて、とびきりの美女だったら言うことなしだったんだが、それは高望みに過ぎると思うことにしている。
 とはいえ、無理やり実のない話題を探すほど、お互い会話に飢えてるわけでもない。
 この不毛極まりない会話も、考えないようにするための手段に過ぎない。
 後部トランクから聞こえてくる、明らかに不穏な音のことを。
「おい、これ動いてるぞ絶対! びちゃって言ったぞびちゃって!」
「知らねえよ、依頼人が何も話してくれねえんだもんよ!」
 本当に意識しないようにしてたんだが、聞こえてくる音は明らかに生物特有のそれだ。このトンデモ聴覚をこれほど恨んだことはない。聞こえなければわからないままでいられたことだって、絶対にあると思うんだよ俺。
 シスルに視線をやると、シスルはミラーシェード越しにもわかる「遠い目」をして、こいつには珍しく完全に魂の抜けた声で言った。
「もうやだ私おうち帰る」
「……自力で帰れるなら、降ろしてやるよ」
「…………」
「…………」
「くそおおおおお! どうして私は車型に変形できないんだよおおお!」
「余計な機能はいらねえって言ったのどこのどいつだ!」
「過去の私を殴りたい!」
 わかった、わかったから肘掛を叩くのはやめてくれ。いくら腕が細いといえ、機械仕掛けの力で叩かれたら、愛車の寿命が縮む。
 そして、俺たちの願いむなしく後部トランクから聞こえる謎の音は続いている。びちゃびちゃ、という水気を含んだ音に、何かが激しくぶつかるような音まで加わっている。一体何だっていうんだ帰りたい。
「な、何か、出てきたりしないだろうな?」
「一応、頑丈そうな鉛の箱だったが……何か出てきたらお前が上手くやってくれ」
「それは依頼内容から外れてるから却下」
「おい護衛。俺の身を守ってこその護衛だろ」
「私の仕事は外部からの暴力に対する護衛であって、運んでるものに襲われることまでは想定してない!」
「俺だって想定してねえから!」
 誰だって、こんな荷物を運ぶことは想定していない。したくない。
 仕事を放棄することが許されるなら、ここに放り投げて逃げ去ってしまいたい。だが、投げ捨てずに何かが起きてしまう「かもしれない」リスクと、投げ捨てて「ほぼ確実に」失職するリスクを天秤にかければ、自ずと答えは決まってしまう、わけだ。
 耳を塞いだシスルが、意識して苦い顔を作ってこちらを睨んでくる。俺を睨まれても困るんだが。
「最低でも、正体不明っていうのはやめてくれよ……」
「仕方ねえだろ、塔の連中秘密主義なんだから。案外、塔が開発したモンスター、スライムか何かだったりしてな」
「おいやめろ、奴ら物理攻撃は全く効かないし、種類によっては肉も金属も溶かすんだぞ。私が敵う相手じゃない」
「えっ、スライムってそんな恐ろしいもんなん?」
「スライムがかわいいのは『ドラゴンクエスト』だけだ」
「鳥山明は偉大だなあおい」
 いらない知識がまた一つ増えた。多分明日には忘れてると思うが。
 とはいえ、金属を溶かすスライムとなれば、鉛の箱なんてとっくに溶けているはずだ。鉛だけ溶かさない種類、とか言われたらそれまでなのだが。
 当然、モンスターなんて空想の存在でしかないが、どんな荒唐無稽なことが起こってもおかしくないのが《鳥の塔》の研究室だ。旧世界の空想から生まれたモンスターが現実に存在しても、さほど驚かない。驚かないが、俺に迷惑かけることだけはやめてほしい。
 その時。
 ぴたり、と音が止んだ。
 シスルと思わず顔を合わせる。聞こえ続けるのも嫌だが、いきなり聞こえなくなるのも不安だ。しん、と静まった空間に、車の立てる音と、シスルの放つダブルリードを思わせるCの音色、それと背後から響く形容しがたきノイズが耳に届く。
 ノイズが聞こえているから、いきなり死んだということもなさそう、だが。荷に何かがあれば、俺の責任が問われる。それが、どんな荷であろうとも。シスルも不安になったのか、後部トランクの方に顔を向けたが……。
 突然、がん、と車全体を震わす音が響き渡った。
 それを皮切りに、トランクからの激しい揺さぶりが車を襲う。
「うわああああ」
「ぎゃああああ」
 怒ってる、絶対に怒ってるぞこの音。
 閉じ込められているとでも思っているのか、何なのか。俺にはさっぱりわからないが、ひとまずこのまま放っておくと、箱どころかこの車まで破壊されかねない。
 すると、シスルが顔を上げて叫んだ。
「あれは、町か? 町だよな?」
 確かに、シスルが指差した先には小さいが、確かに町を示す隔壁と、町の中心に聳え立つ《森の塔》が見えた。《鳥の塔》が築いた衛星都市のひとつ、俺たちの目的地だ。
 そう、あそこまでたどり着けば、この箱ともおさらばできるのだ!
「町だ! 俺たちは、助かったんだな!」
 と、叫んだ瞬間に、背後から、一際大きな音が響いた。今にも箱を壊しかねない勢いと、憤りを反映した空気を震わすノイズ。
「急げ、嫌な予感がする!」
「言われなくても、急いでるっつの!」
 アクセルは既にベタ踏みだが、何しろ丈夫なだけがとりえのポンコツだ。俺の焦りをそのまま反映してくれるわけもなく、もたついた動きで隔壁に近づいていく。背後の箱はなおも暴れ続けたが、間一髪で門の中に滑り込む。
 俺の焦り方をいぶかしむ門番に、《鳥の塔》の紹介状を押しつけるように渡す。
「責任者を呼べ、早く、早くしろ!」
 それでも、俺の望みは通じたのか、すぐに箱を受け取りに、白い大きな車がやってきた。降りてきたのはこれまた白い、研究員の集団だった。
 すぐに長と思しきおっさんが指示を飛ばし、箱を俺の車から奴らの乗ってきた車に移し始める。その時、研究員の一人が怪しげな機械で何かを照射してたが、あれは、何なのだろう。その瞬間に、箱が音を立てるのをやめて、ノイズも聞こえなくなったから「何かした」んだな、ということだけはわかったが……それ以上は、考えないことにした。
 あれよという間に鉛の箱は白い車に収められ、研究員も統率の取れた動きで車に戻っていく。ぼうっと突っ立っていることしか出来なかった俺に、長のおっさんが笑顔で声をかけてくる。
「ご苦労だった、フジミくん。傷一つなく運んでくれるとは、さすが塔認可の『運送屋』だな。報酬は本日中に、規定の口座に振り込んでおくよ」
「は、はあ」
「それでは、また何か依頼することもあるかもしれんが、その時はよろしく頼むよ」
 また、は勘弁してくれ。
 そんな俺の心の叫びが届くはずもなく、白い車はとっとと走り去ってしまった。俺たちを散々悩ませた鉛の箱を連れて。

 やがて、横で立ち尽くしていたシスルが、呟いた。
「……中身、結局何だったんだろうな」
「その話はもういい、忘れよう」

1-44:青空のゆめ

 久しぶりに、青い空の夢を見た。
 
 俺はたった一人で、青い空と、大きな水溜りの狭間に立っていた。
 いつか目にした大きな鳥が俺の真上を横切って、遠く、遠くへ飛んでゆく。
 その姿が見えなくなるまで見送って、俺は、何もかもに背を向ける。
 ――次にこの光景を見るときは、きっと、
 
 
 目を開けば、すっかり見慣れてしまった独房の低い天井が淡い光を投げかけていた。
 あれからすぐ、脳を中心とした一通りの検査を受ける羽目になった。もちろん、検査を受けてる間、延々とサヨに説教されたのは言うまでもない。撃たれて絶対安静とか言われてる割に元気じゃねーのサヨ。心配した俺が馬鹿みたいだろ。
 で、鼻腔からの出血と極度の疲労以外に問題がないとわかると、化膿しかけていた肩の傷だけ手当てを受けて、即座に独房に叩き込まれた。
 独房からの脱走だとか、勝手に『エアリエル』に乗り込んだことだとか、ついでにオズワルド・フォーサイスとしての事情聴取とか。俺がここに押し込まれる理由はあまりに多すぎて、抵抗も言い訳もできないし、する気もなかった。無駄な抵抗をして基地の連中に迷惑をかけたいわけじゃない。
 とはいえ、ロイドはロイドで後始末や時計台への報告に追われているらしく、俺の処分は後回しになりそうだ――と、ジェムが仏頂面で俺に伝えに来たことを思い出す。
 あいつ、俺のこと嫌いなくせにちょくちょく顔出すの何なんだろうな。ゲイル様専用メッセンジャーは廃業したんじゃなかったのか。
 毎日のように顔を見せるジェムに対し、セレスは、来ない。
 ジェム曰く「オズワルド・フォーサイスの脱走に手を貸した罪で謹慎中」とのこと。とはいえセレスは扱い上「備品」だから、管理者であった俺とロイドの責任ということで大きな罰が与えられることはない、という。
 そして、謹慎が解かれたとしても、セレスが俺に会いに来ることは許可されないだろう、とも。
 それはそうだ。一度は俺の脱走に手を貸してしまった事実がある以上、俺に近づければまた「俺に影響されて」――ということになっている――俺を利する行動を取る可能性が高い、と考えるのが普通だ。
 だから、俺はセレスの顔を見ることなく、ここを去ることになるだろう。
 その後のことは、俺にはわからないが、あえて『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に聞いてみる気もなかった。何が待っていようとも、全力で足掻くだけだ。生きてゆくために。セレスとの約束に、少しでも近づけるように。
 その時、視界の片隅を、ぴょこんと青いものがよぎった、ように見えた。
 ――青い、もの?
 妙な既視感に慌てて起き上がり、肩の痛みにしばし悶え苦しむ。そろそろ学習すべきだ。俺の体は、大体において自由じゃない。
 とにかく、何とか寝台から降りて扉に近づいてみると。
「ゲイル」
「うおっ」
 セレスが、鉄格子越しに俺を見上げていた。
 幻でも見てるのではないかと思ったが、頭と知覚器官を売り物にしてる俺が、見ているものを疑ってちゃ話にならない。
「お前、どうして」
「グレンフェル大佐から、メッセンジャーを頼まれましたっ」
 相変わらずの無表情ながら、その声は妙に弾んでいる。何かいいことでもあったのだろうか。それに、わざわざセレスに言伝を頼んだということは、ロイドに思惑でもあるのだろうか。
 ……と、考えたところで答えが出ないことをあれこれ思い悩むのは俺の悪い癖だ。考えるよりも、話を聞いた方が絶対に早い。
「聞かせてくれ」
「はいっ。時計台には今回の一連の出来事を隠蔽するので、もうしばらくサードカーテン基地にてゲイルとして過ごせ、とのことです」
「……は?」
 ちょっと、待て。
「もう一度頼む」
「はい。時計台には今回の一連の出来事を隠蔽――」
「そこ! そこな! いいのかそれで!」
 軍本部に対して教団の襲撃やら何やらを隠蔽するとか、基地司令として在り得ざる判断だろ。
 いや、本当に、そうなのか?
 ことはそう単純ではないのか。俺一人が、首を差し出して済む問題ではなく――。
「……ロイドは、時計台を信用してねーのか」
「はい。今回の事件で、教団の残党が一定数存在することがわかりました。彼らが、教主と呼ばれる何者かの指示を得て動き出していることも」
「その上、セレスの居場所や『オベロン』の能力まで連中に漏れてた。ザルっぷりにもほどがある」
 引っかかっていたのはそこだ。セレスの存在や、試験運用中の『オベロン』の性能は部外秘だったはずだが、連中はどちらも「最初から知っていた」かのごとく襲撃してきた。
 当初からロイドは警告していたはずだ。時計台の連中も信用はするなと。なるほど、信用に値しないのは間違いない。だが――。
「それでも、襲撃そのものを隠蔽するのは不可能だろ。|翅翼艇《エリトラ》二隻も動かして派手にどんぱちやらかしたんだ」
「はい。なので、襲撃は確かにあったと報告しているそうです。ただ、原因やその間に起こった出来事の詳細などは『突然の襲撃で詳細は不明』と」
 教団の襲撃目的がセレスの存在にあったことも。
 教団の残党が『オベロン』の性能を知っていて対策してきたことも。
 |翅翼艇《エリトラ》第六番『ロビン・グッドフェロー』と|霧航士《ミストノート》トレヴァーの関与も。
 そこまで聞いて、やっと、俺にもわかった。
 時計台に情報を隠蔽すると言い切った、ロイドの狙いが。
「……そうか、何もわかってない体を貫いて、向こうさんの出方を見るのか」
 何せ俺たちは、時計台に潜む教団の影を確信しちゃいるが、尻尾を掴めたわけじゃない。
 だから、布石を打つ。襲撃の失敗を受けた連中が動くのを待ち構え、正体を炙り出そうというのだ。
 危険な賭けだ。下手をすれば、サードカーテン基地全体を危険に晒す賭け。ただ、ロイドはそうしなければならないのだ。どこに裏切り者が潜んでいるかわからないこの状況下で、馬鹿正直に全てを語るのは、それこそ最大の愚策なのだから。
「ついでに、その作戦を取る以上『オズ』の存在は不都合でしかない、か。今、俺の正体を知ってんのはこの基地の連中だけだしな」
 だから、ロイドは俺の正体も隠蔽する。
 サードカーテン基地は、突然の教団残党からの襲撃を、基地に所属する三人の|霧航士《ミストノート》士が退けた。それだけが語られなければならないのだ。
 なるほど、という言葉と共に、溜息が口をついて出る。
「……こりゃ、長い戦いになりそうだな」
 俺たちは、待たなければならない。何事もなかったふりをして、しかし、決して警戒は緩めることなく。この弱小基地が、軍本部に潜む影と水面下の戦いを始めようってんだ。生半可な覚悟じゃやってけない。
「はい。ですから、グレンフェル大佐はこうおっしゃっていました」
 ――散々迷惑と心配をかけたんだから、その分、死ぬ気で働いてもらうわよ。
 セレスの言葉が、ロイドの声と被って聞こえて、つい力なく笑ってしまう。
 ロイドは、端から俺を疑ってなかったし、時計台に引き渡す気も毛頭なかった。ただ、試されてはいたはずだ。俺がこれからも、この場所で、ゲイルとして生きていけるのか。
「伝えといてくれ。『全力で働くけど、死ぬ気はさらさらない』って」
「わかりました」
 セレスはうっすら微笑んだ。これが冗談だとわかってくれたと思いたい。
 それにしても、あれこれ思い悩んだのが馬鹿みたいじゃないか。いや、馬鹿なんだな。この数日間色んな奴に馬鹿馬鹿言われてたが、言われて当然のことをしてきたし、これからもあまり変わらない気はする。
 それに、俺がいつかは裁かれる、という事実が変わったわけじゃない。
 ただ、それまでの猶予が――セレスと飛んでいられる時間が、少しだけ伸びた。それだけでも、十分すぎるというものだ。
「で、いつ、ここから出してもらえんだ?」
 こんこんと鋼の扉を叩く。ロイドが俺の正体を隠蔽すると決めた以上、俺がここにいるのは不自然だろう、とは思ったのだが。
「それに関してですが」
 セレスは眉を寄せて言う。
「大佐がゲイルを疑っていないとはいえ、ゲイルが教団の教主であったのは事実です。そのため、教団と接点がないことを確かめるまでは出せないとのことです」
 必要なのはわかるのだ。今だって、基地の連中全員が、俺の無実を納得したわけじゃない。特にジェム辺りは、未だ疑いの目を向けてきている。だから、その手続きは決して無駄にはならないが――。
「……それはそれで、長い戦いになりそうだな」
 げっそりすることくらいは、許してほしい。
 セレスはといえば、申し訳なさそうに上目遣いで俺を見ている。別にセレスが悪いわけではないのだから、そんな顔はしないでいただきたい。
「代わりに、と言ってはなんですが、ゲイルに差し入れです」
 セレスの顔が鉄格子から見えなくなったと思うと、扉についた、食事の盆を出し入れするための隙間から、つい、と皿が差し込まれる。
 取り上げてみると、載っていたのは、色とりどりのちいさな粒だ。どこかで見覚えがあるな、と思っていると、セレスが再び鉄格子から顔を覗かせて言う。
「この前、お菓子屋さんからいただいた砂糖菓子です」
「ああ、おばちゃんの」
 襲撃のどたばたですっかり忘れてたな。思い返してみれば、セレスのポケットにねじ込まれていたはずの瓶が、基地に戻ったときにはどこかに消えていたのだ。
「あれ、なくしてなかったのか」
「はい。車の中に落ちていたのです。とてもおいしかったので、是非、ゲイルにも食べてもらいたいと思って」
 事前に許可を得れば差し入れは自由なのです、と言いながら、俺が菓子を食べるのを、目を輝かせて待ち構えるセレス。
 何だか落ち着かないものを感じながらも、皿の上の菓子を一つつまんで、口に入れる。柔らかく優しい甘さを感じた次の瞬間には、ほろりと溶けて消えていく。
「……確かに、美味いな」
 そういえば、食べ物を「美味い」と思えたのは久しぶりかもしれない。
 今までは、何を食べてもほとんど味を感じられなかったのだ。ゲイルの代わりに生きている俺が、何かに幸せを感じること自体が間違いだと、思い込んでいた。
 だが、もう、それも終わりだ。
 俺は、俺として生きていこう。ゲイル・ウインドワードの名を背負っていても、この人生は俺だけのものなのだから。
 もう一つ、砂糖菓子を口に放り込んで。嬉しそうにこちらを見上げるセレスに向けて、笑いかける。
「俺がここから出られたら、一緒に、おばちゃんに、お礼言いに行こうな」
「はい」
 一緒に、と。セレスはちいさな声で繰り返す。
 一緒に。ささやかだが、大切な約束だ。かつての俺たちが果たせなかった約束でもある。だから、今度こそ約束を違えることなく、凸凹生きていこうと思う。
 いつか、セレスと一緒に、迷霧の帳を超える日を信じて。
 そのためには、まず、一刻も早くここを出なければならない。今度はセレスの手は借りられないが、まあ、何とかなると信じよう。信じる心は大事だ。
 その時、あっ、という唐突なセレスの声に我に返る。空色の頭を上げたセレスはとんとん扉を叩きながら言う。
「あと一つ」
「まだ何かあんのか」
「ゲイルもそろそろ独房生活に飽きる頃だと思うので、適当な暇つぶしの道具くらいは差し入れても構わない、とグレンフェル大佐が」
「そんな微妙な気遣いをするくらいなら、早く出してくれって伝えてくれ」
「伝えておきますが、多分、早くはならないと思います」
 知ってるよ。それでも文句を言わなきゃやってらんないんだよ。
 そんな俺の声にならない訴えを知ってか知らずか、セレスはこくんと首を傾げる。
「ゲイルは、何か欲しいものはありますか?」
 欲しい、もの。
 ゲイルとして過ごしていた時は、生活に必要なもの以外は何一つ求めなかったことを思い出す。ゲイルが、そういう奴だったから。あいつは、霧の海を飛ぶことができれば、その他には何もいらなかった。
 だが、俺が、これから俺らしく生きていくなら。
 そうだな、と。自然と口元が緩むのを感じながら、瞼を伏せる。
 瞼の裏に焼きついた青空のイメージと、それを見上げる俺とセレスの姿を思い浮かべて。
「絵を描く、道具を」
 そして、もう一度、描いてみよう。
 
 俺たち二人で目指す、青空を。
 
 
 
《Act 1: Vector to the Azure - End of File.》

1-43:「また一緒に」

 発着場に降り立った俺たちを待っていたのは、『エアリエル』の知覚越しにも明らかな、どこか奇妙な面持ちのサードカーテン基地の面々だった。
 微妙な既視感を覚えながらも、『エアリエル』との同調を切る。自分自身の肉体を自覚した途端に、割れるような頭痛と全身の重さ、それに呼吸の不自由さを理解する。
 ――ああ、これは、もしかしなくても、やっちまったか。
 魂魄レベルでは意識していなかったが、脳を含めた肉体の方が『エアリエル』からの情報や『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の応答に晒されて極度に疲弊していたとみえる。
 初めて『エアリエル』で飛んだ時や長期戦、短期であっても膨大な情報を必要とするといつもこうだ。いくら『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が反則的な能力であろうとも、俺の肉体の脆さはいかんともしがたい。特にここしばらく衰えていただけに、その反動は大きかったとみえる。
 とはいえ、これが初めての経験じゃないこともあって、内心は冷静だ。ただ、問題は――、
『ゲイル!? 大丈夫ですか!?』
 この状態から、全く、動けないってことだ。
 反応のない俺に気づいたらしいセレスが、周りで固唾を呑んで見守っているらしい連中に慌てた様子で呼びかける。
『ゲイルからの応答がないのです、救助をお願いします!』
 その声を聞いた瞬間、にわかに周囲が騒がしくなる。整備隊の面々が副操縦席の扉に取り付く気配がするが、一方でそこの昔馴染み二人。サヨとロイド。
『ああ、いつものやつだね……』
『おそらくね……』
 お前ら、いくらなんでも落ち着きすぎだろ。緊張感ってものがまるで感じられないぞ。
 とはいえ、ロイドも慣れたもので、扉を開こうとする整備隊の連中に対して素早く指示を飛ばす。
『いいか、慎重に、しかし迅速に運び出せ』
『了解っす』
 緊張に満ちた声はゴードンのものだろう。重たい扉が開く音と共に、うっすらと開けたままだった目に、急に光が差し込んで反射的に瞼を閉じる。次の瞬間、ゴードンの声が今度は直接耳に届いた。
「うわあ」
 うわあ、じゃねーよ馬鹿。と言いたいところだが、呼吸が浅すぎて喋るのも辛い。めっちゃ血の味する辺り、多分思った以上に出血してるなこれ。
「こ、この血なんなんすか? これ、どこから出血してるんすか?」
「鼻腔からの出血。いつも無茶するとそうなるんだよそいつ」
「えっ、鼻血にしてはやばい量出てません!?」
「頭に負担がかかるから、ちょうどそのあたりの血管が切れやすいんだ。ただ、今回ばかりは脳もやってるかもしれないから、動かすときは気をつけて」
 サヨがあくまで冷静に、というか冷ややかに解説を加えてくれる。まずいな、これは怒っている。
 血まみれになってしまったヘルメットを外し、体を固定していたベルトも外してもらって、やっと息がつけるようになった。喉に詰まった血を軽く咳をして吐き出したところで、揺らぐ視界の中、ゴードンが俺の顔を覗き込んだ。
「あっ、生きてるっす!」
「死んで、ねーよ……」
 折角ここまで戻ってきたってのに、死んでたまるか。
 ぐらつく頭では上手く外界を認識することはできないが、整備隊の連中が何とか俺の体を操縦席から引きずり出したのは察する。『エアリエル』の外の空気を吸って、吐き出す。大丈夫、まだ、この体は呼吸を覚えている。
『エアリエル』から降ろされてすぐに、俺の体は何かの上に横たえられる。感触からすると担架か何かだろうか。全く、何から何までお世話になります。後でありとあらゆる方向から文句を言われる気がするから既にちょっと逃げたいけど、この体じゃ逃げるも何もない。
 いやに重たく、自然と垂れ下がろうとする瞼を無理にこじ開けて、置かれた状況を把握しようとしていると、不意に影がさした。
 サヨが、俺を睨みつけていた。これは予想通り怒っている。絶対に怒っている。
「意識はありそうだね。聞こえてる?」
「……ああ」
 何とか答えると、険しかったサヨの表情が、少しだけ和らいだ。……これは、もしかして、怒っていたのではなくて、心配してくれていたのだろうか。無理しないと帰って来れなかったとはいえ、悪いとは思っているのだ。
 だから、せめて。
 痛みに強張る顔の筋肉を少し緩めて、何とか、笑って。
「ただいま。約束は、守ったぞ」
「馬鹿」
 サヨの手が、俺の額の辺りを軽く叩いた、のだと思う。ほとんど触れる程度の叩き方だったのは、俺の体を案じてのことだろう。
 すると、サヨの後ろの辺りから、ぴょこりと青いものが顔を覗かせた。と思った次の瞬間には俺の横に飛び出してきたセレスが、いつものぼんやりとした表情とは打って変わって、今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの顔で俺にすがりつく。
「ゲイル! 死ぬのですか! こんなところで死んでしまうのですか!」
「死なない死なないから揺らすなめっちゃ頭痛い」
 誰かセレスのこと押さえとけよ、折角整備隊の連中が慎重に運んでくれたのに台無しじゃねーか。流石に、サヨや整備隊の連中も慌てた様子でセレスを俺から引き剥がす。いつものセレスは絶対にこんな突拍子もない行動を起こしたりしない分、予測がつかなかったんだろうな。俺も正直びっくりした。
 セレスが整備隊の連中の腕の中でじたばたしているのを横目に、サヨが、一際疲れた顔で俺を見下ろす。
「……ねえ」
「ん」
「この子、あんたに似たんじゃない? 真面目に見えて全然人の話聞かないとことか」
「あー、否定できねー……」
 なるほど、言いえて妙というやつだ。サヨが常日頃から俺のことをどう思っていたかは、改めて問いただしたいところではあるが。
 しばし拘束から逃れようともがいていたセレスだったが、俺とサヨの様子が落ち着いているのを見て、冷静さを取り戻したらしい。抵抗をやめ、きょとんと首を傾げて問いかけてくる。
「ゲイルは、死なないのですか?」
「意外と元気そうだし、この様子なら命には別状ないと思うよ。精密検査は必要だけどね」
 セレスに説明しながら、器用に俺だけを睨んでくるサヨ。だから悪かったとは思ってるって。本当だって。
 セレスはじっと俺を見下ろして、それからそっと手を伸ばしてきた。今度は、無理に俺を動かそうとする様子が見えなかったからだろう、俺を囲む連中もセレスの動きを止めることはしなかった。
 セレスの手が、俺の、動かない手を握る。確かな温もりが、触れ合った肌を通して伝わってくる。『エアリエル』を通して、霧の海を二人で踊ったあの瞬間のように。
 セレスは、俺の手の感触を確かめるように握るだけで、何も言わなかった。言葉が、出てこなかったのかもしれない。それはそれでありがたかった。俺も、セレスに何を言えばいいのか、さっぱりわからなかったから。
 そうしているうちに、少しばかり、意識もはっきりしてきた。ぐらぐら揺らいでいた視界も少しずつ安定してきたところで、人の垣根が割れた。その向こう側から近づいてくるのは、車椅子に乗った男――我らが基地司令ロイド先生だ。
 ロイドはミラーシェード越しに俺を見下ろして、低い声で言う。
「よく逃げずに戻ってきたな、フォーサイス」
「……逃げ場なんてないですしね。命令には従いましたよ」
「わかっている」
 俺たちは、長らく所在不明だった『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の要塞母艦を落とし、教団に雇われていた――と、本人は欠片も思っていなかっただろうが――トレヴァーをも落とした。|翅翼艇《エリトラ》第六番『ロビン・グッドフェロー』と共に。
 これで全てが終わりというわけでもないだろうが、ここまでこてんぱんに伸したんだ、しばらくは教団が大規模な襲撃をかけてくることもないだろう。
 沈黙が流れる。あれだけ騒がしかった周りの連中も、いつしか、固唾を呑んで俺とロイドを見つめていた。発着場に漂う張り詰めた空気の中。
 よくやった、と。
 ロイドは、唇だけでそう言った。それが、俺――オズワルド・フォーサイスに対して、基地司令としてのロイド・グレンフェル大佐が言える、唯一だったのだと思う。だから、俺もあえて言葉にすることはなく、小さな頷きだけでそれに応えた。
 そして、ゆるりと首を振ったロイドは、静かにこう告げた。
「今は、体を癒せ。……全ては、その後だ」
 その後。
 そう言ったロイドの真意を、俺は知らない。基地司令として告げるロイドの口元は引き締められ、その目はいつも通りのミラーシェードの奥に隠されて、どうにも表情を読み取ることができなかったから。
 ただ、その後に待つものが何なのかは、言うまでもない。
 俺は、オズワルド・フォーサイスとして、世界の敵として裁かれることになる。
 納得などできない。どうしようもなく理不尽だ。だからこそ、俺は戦う。俺の声がどれだけ無力であろうとも、生きることを諦めないと決めたのだから。
 ロイドは、しばし俺の顔を見つめた後に、ふ、と微笑んだ。
「いい顔になったな、フォーサイス」
「そりゃどうも」
 一体どこがそう見えたのか知らないが、ロイドに褒められるのは、悪い気分じゃなかったから。俺も、ほんの少しだけ口元を緩めた。上手く笑えたかどうかは、わからないけれど。
 ロイドは、俺から視線を外し、傍らに立っていたジェムに声をかける。
「ケネット少尉」
「はっ」
「セレスティアを拘束しろ」
 え、と。ジェムが固まる。もちろん、俺の手を握っていたセレスも、弾かれたように顔を上げた。
 だが、当然の措置だろう。セレスはともかく、ジェムがその命令に驚く方が不思議だ。
「セレスティアは、オズワルド・フォーサイスの脱走に関与し、なおかつ本来は戦闘行動を許されていないフォーサイスを『エアリエル』に搭乗させた。その責任を問う必要がある」
 ジェムは数秒の間硬直したままではあったが、次の瞬間には「すみません」と小さく呟きながらも、容赦なくセレスを拘束しにかかった。セレスは全力でジェムに抵抗するも、相手が素人ならともかく、同じ|霧航士《ミストノート》でしかもめちゃくちゃ真面目に訓練を積んでるジェムに拘束されては勝ち目はない。
 それでも、振り回した足はジェムの脛の辺りをがんがん打ち付けてるし、爪も手の甲に食い込んでいる。ジェムが涙目になっているのは、見間違いではないだろう。
 やっぱり俺の教育が悪かったのかなこれ。今更だが、セレスのこれからが心配になる。
「こらこら、やめてあげなさい。ジェムがかわいそうだろ」
 俺が声をかけると、セレスと、何故かジェムまでぎっと俺を睨む。
 ……これは「かわいそう」って部分が気に障ったかな。繊細すぎだろ。
 セレスは一応抵抗こそやめたが、身を乗り出すようにして、声を上げる。
「しかし、ゲイルは!」
「俺は大丈夫だ。言っただろ、最後の最後まで足掻いてやるって」
 もちろん、足掻いたところで状況がよくなるとは思えない。思えないけれど、セレスを誤魔化したつもりもない。これが、今の、俺の本心であることは、間違いないのだ。
 セレスは、唇を噛む。溢れそうになるものを、喉の奥に押し込めるように。その代わりに、潤んだ青色の目でじっと俺を見据えて――たった一つの言葉を、放つ。
「また一緒に飛びましょう、ゲイル!」
 また、一緒に。
 それが実現する可能性は、極めて低い。
 だが、今だけは信じても許されるだろう。セレスの言葉を。俺の胸の内から湧き上がる思いを。
 いつか、きっと。
 必ず、もう一度二人で飛ぶその日を信じて。
 ――俺は、笑う。
 
「ああ。またな、セレス」

1-42:ラストダンス

『……これから、どうするのです?』
 戦場に降り注いでいた豪雨は、既に止み始めていた。
 静寂を取り戻した海に漂うのは、いつしか、俺たちとジェムだけになっていた。
 ジェムから入ってきた通信に、俺はすぐには答えられなかった。どうするのか、という問いに対して言うべきことは決まっているが、それを言葉にするのは躊躇われた。すると、セレスが不意に言葉を開いた。
『ケネット少尉。先に、戻っていてくれませんか。わたしは、もう少しだけ、飛んでから帰ります』
 ジェムは何かを言いかけたようだったが、何か気が変わったのか『わかりました』と返してくる。
『では、先に帰還します。どうか』
 ――よい航海を。
 |霧航士《ミストノート》らしい言葉を残して、ジェムは金色の光を撒きながら霧の向こうに消えていった。
 あまりにあっさりとした反応に、何とも拍子抜けしてしまう。色々と文句やら何やらを言われると思っていたから。セレスの手前、多少は遠慮したということなのだろうか――。
 そんなことを考えていると、セレスが俺の手を引いた。あくまでイメージに過ぎないが、それでも、その手の感触に従って、一歩を踏み出す。
 もう、計算はいらなかった。『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の扉を閉じて、『エアリエル』の膨大な知覚にも一つずつ鍵をかけ、最低限の「目」だけを残し、ただ、ただ、白い世界の中に、飛び込む。
 極限まで頭を酷使したからか、妙な脱力感に支配されていて、思うように意識が働かない。そんな俺の手を引いて、セレスは先ほどよりもゆったりと、しかし真っ直ぐに飛び続ける。
 風が肌を撫ぜる感触、空気の薄さと冷たさ、長い翅翼で霧を裂く、確かな手ごたえ。
 そして――風の、歌声。
 戦場では戦いを進めていくための「情報」としてしか捉えられないそれらを、今は、何一つ考えずに、ただ全身で感じる。セレスの手を通して伝わってくる感覚を、セレスの耳を通して伝わってくる懐かしい旋律を確かめる。
 俺は今、霧の海にいる。『エアリエル』に乗って、確かに飛んでいるのだと。ずっと忘れようとしていた、自由に飛ぶことの喜びを、セレスと共に感じている。
「ゲイル」
「ん」
 青い波紋に乗せたセレスの声は、静かだった。俺たちの周囲を満たす、霧の海のように。
「終わりましたね」
「ああ」
 それきり、言葉は絶えた。いや、もはや、俺たちの間に言葉なんていらなかった。『エアリエル』という翼を通して、お互いを感じてさえいれば、それで。『エアリエル』と、俺と、溶け合うようにしてそこにいるセレスが、つい、と俺の手を引く。
 俺はその手を握りなおして、セレスのリードに従う。
 一つ、霧の海を跳ねた『エアリエル』は、風の歌に合わせてゆったりと踊りはじめる。先ほどのように、霧の海に一緒に踊る相手はいなかったけれど、セレスは俺の意識を掴んだまま、くるくると回る。『エアリエル』の翅翼で青い軌跡を描きながら、それは、まるで、ワルツを踊るかのように。とにかく不器用な俺は、ただただセレスについていくのに精一杯だったけれども、そんな俺を前にして、セレスは、微笑んでいた。
 本当に、楽しそうに、微笑んでいたのだ。
 だから――俺も、自然と、口元を緩めていた。
 繋がれたイメージの手は、セレスの温度を伝えてくる。セレスが確かにここにいるのだと、伝えてくる。その温度をもう一度確かめるため、手を、固く握る。手のひらに焼き付けるように。
 色々あった。セレスと共に過ごした日々は、指折り数えてみれば両手の指で足りるほどなのに、失われた四年間とゲイル・ウインドワードとして過ごした三年間より、ずっと、強く、鮮やかに、記憶されている。
 俺だけが知る夢の色をした|霧航士《ミストノート》は、最初から、俺の手を握って離そうとしなかった。
 そして――。
「なあ、セレス」
 何ですか、と。歌うような声が返ってくる。翅翼をぴんと伸ばして、一つ宙返りしてみせたセレスは、俺に青い目を向ける。
「ありがとな。お前のお陰で、俺は飛べた。お前は――」
 その目を、真っ直ぐに見つめ返して。
「最高の『翼』だ」
 その言葉に、セレスは一瞬動きを止めた。それに合わせて『エアリエル』も虚空に静止する。
 妙な沈黙が流れる。
 もしかして、変なことを言ってしまっただろうか。思わず身構えてしまう俺に対して、数拍、真顔で俺を眺めていたセレスは、不意に、破顔した。
「ありがとうございます、ゲイル!」
 大輪の青い花が、今、目の前に咲いたかのような。鮮やかで、華やかで、誇らしげな、堂々たる笑顔だった。
 もちろん「|霧航士《ミストノート》として」は色々と足らない点もあるだろう、トレヴァーの言うとおりセレスの飛び方はまだまだ荒削りであるし、何より経験が圧倒的に不足している。だがそれは「成長の余地がある」と言い換えられる部分である。
 それに、何より。
 暗い海の底に沈んで息を殺していた俺に向かって、手を伸ばしてくれた。他でもない俺の翼になりたいと、望んでくれた。こうして、手を取り合って、飛んでくれた。
 俺がもう諦めていた夢を、思い出させてくれた――。
 どこまでも、どこまでも、セレスは俺の『翼』だった。
 ――手放すことが、惜しくなるほどに。
 一際強くセレスの手を握り締めて、いくつもの未練を感じながらも、俺は、どうしても言わなければならなかったことを、切り出す。
「でも、きっと、これが最後になる」
「え?」
 セレスは「俺の言うことがわからない」という意味の疑問符を飛ばす。
 そうだな、セレスにはきっと、わからないだろう。俺をこの場にまで引きずり出した時点で、セレスがわかっていないことは、理解していた。
「戻ったら、今までどおりにはいられない。俺は独房に逆戻り、お前とも二度と会えないかもな」
 何しろ、俺はオズワルド・フォーサイスなのだ。俺自身が罪を犯していようがいまいが、俺の「存在」それ自体が原因となって、混乱を引き起こしてしまった。その責任は取らなきゃならない。
「……っ、しかし! それは、ゲイルが悪いのではないのですよね?」
 セレスが俺の「罪」についてどこまで知っているのかは、知らない。ただ、セレスが俺を疑っていない、ということは素直に嬉しく思う。
 だから、正直なところを言葉にする。それがセレスに対する誠意であると信じて。
「そうだな。俺は悪くないと、信じてる。理不尽だとも、思ってる。だが、周りがそれを認めてくれるとも限らない」
 何しろ俺の認識は、ほとんどが「推測」であり、言ってしまえば「妄想」だ。あえて希望的観測を述べるなら、俺の責任能力の不在を認めてもらえる可能性も、無きにしも非ずといえよう。
 だが、きっと、時計台は俺を許すまい。
 オズワルド・フォーサイスはいわば、体のいい人柱だったのだ。世界を混乱に陥れた教団の完全敗北を、全世界に突きつけるための。その俺が「生きて」いたとなれば、しかも本来は死んでいた英雄を演じていたとなれば、女王国の面目丸つぶれもいいところだ。
 だから――、最悪殺されることはなくとも、俺が二度と表舞台に立つことはないだろう。
 それだけは、ほとんど、確実なことだった。
 聡いセレスは、これだけの言葉で俺の立ち位置を把握してくれたのだろう。魂魄の水面を激しく波立たせながら、はっきりと言った。
「納得できません」
「ああ、俺も、納得はしてない」
 そう、納得なんてできるもんか。
「未練だらけだ。こんなところで終わってたまるか。だから、最後の最後まで足掻こうと思ってる。地面に這いつくばって、泥水を啜ることになろうとも」
 ――生きてやろうと、思っている。
 俺一人が抵抗したところで高が知れているが、足掻くのは勝手だ。俺が、俺の人生を全うするために、それは、必ず必要なことなのだ。
 セレスは何かを言おうとしたのだろう。口を開きかけて――言葉を放つ代わりに、翅翼を閃かせた。今までの踊るような飛び方をやめて、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、一点を目指して飛び始める。
 セレスの行き場のない怒りを、やるせなさを、風に吹き飛ばそうとするかのごとく。
 行く先は聞くまでもなく、すぐにわかった。
 目の前に立ちはだかるのは、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》。初めてセレスと飛んだ時に、セレスの「目的」を聞かされた場所。
 分厚く、深く、俺たちの視界を塞ぐ帳を前に翅翼を下ろしたセレスは、帳を睨みながら口を開く。
「わたしは」
 俺の魂魄の内側に浮かんで消える、青い波紋に乗せて。
「ゲイルと、もっと飛びたいです」
 セレスの感情までが、肌を伝ってもぐりこんでくる。
「ゲイルと一緒に飛ぶのは楽しいです。わたしの目では見えない景色が見えるのも。わたしの行く手が切り開かれていくのも。わたしには思いもつかないような方法を選び取れるのも。こうして手を取り合って飛べるのも。全部、全部、ゲイルがここにいるからです。一緒だから、楽しいのです」
 それは、熱だった。普段どこまでも淡々としているセレスからは想像もつかない、激しい熱。言葉にできない、様々な意味を篭めた熱が、俺ただ一人に向けられる。
 それに、何よりも――。
 そう言ったセレスは、俺を振り向く。
 遠い日に夢見た水面の色で、俺を、映しこむ。
「あなたが夢見る青い空を、見てみたいです」
 ――一緒に。
 その言葉を噛み締める。俺がずっと欲しかった言葉を、噛み締める。
 俺は、その言葉があるからこそ飛べるのだ。不完全な|霧航士《ミストノート》でありながら、俺が今この瞬間、|霧航士《ミストノート》でいられる理由は、セレスがそう望んでくれたからだ。
 ただ、そんな「理屈」は、今は抜きにしよう。難しく考える必要はない、セレスと一緒に風を切った感覚が、繋いだ手の温もりが、何よりもの答えなのだから。
「……俺もだ。気が合うな」
 心からの言葉を、セレスに、捧げる。
 遠い日に見た青い夢を瞼の裏に描き、その夢が叶った光景を夢想する。俺の横に、セレスが佇んでいる光景を。それは、夢というにはあまりにも現実感を帯びていて、それでいて現実から完全に乖離した、夢。
 セレスはじっと俺を見つめたまま、動かなかった。自分が動いてしまったら、この時間が終わってしまうと、思っていたのかもしれない。
 果たして、それは正しいのだろう。
 この翼がもう一度羽ばたけば、俺は基地へと戻ることになる。それをセレスが惜しんでくれているということが、何より、嬉しかったのだ。
 それでも、俺は時間を動かすことを選ぶ。立ち止まるよりは、前に進むことを、選ぶ。それが俺たちの別れを意味するとしても。
「前に言ったもんな。|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》の向こう側には、青い空が広がってるって。そう、昔から、信じてたんだ。確信があった。それが単なる夢じゃなくて、世界を記す『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の記述なら、もしかすると本当にあるんじゃないかって、今も思ってる」
 セレスはいつか、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》を越える。その向こう側を見に行く。もちろん、俺はそこにはいない。いないのだろう、けれど。
「一緒に行けたらいいのにな。お前と二人で見る青空、綺麗だろうな」
 セレスはしばし、凍りついたように固まっていたが、やがて、そのちいさな唇を動かして、そっと囁いた。
 
「今から、行きますか」
 
 ――ああ、なるほど。
 それは、考えもしない選択肢だった。
 俺とセレスの二人で、『エアリエル』を駆って、帳の向こう側へ。
 
「逃避行か。そりゃあ面白そうだ」
 
 俺は笑う。そう、きっと、面白いだろう。誰も見たことのない場所に向けて、真っ直ぐに飛んでゆく青い翅翼を思い描いて、瞼を伏せる。
 ああ、それは、なんて甘美な光景だろう。
「だけど、俺は、行かないよ」
 わかっている。この船では、今の俺たちでは、帳の向こうには届かない。どうしたって、途中で蒸発するのがオチだ。
 生きて帰ると約束してしまった以上、俺は、その誘いを飲むわけにはいかないのだ。
 セレスも、俺の答えはわかっていたのだろう。一つ頷くと、もう一度|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》に向き直った。
 帳はもの言うこともなく、真実を隠したまま俺たちの前に広がっている。その大きさと深さを思う。思いはするけれど――。
「さあ、帰るか」
 今、俺が向かうべき場所は、ここじゃない。
 セレスが向かうべき場所も。
 俺たちは前に進まなきゃならないのだ。いつか、この帳を突き抜けて夢見た場所に至ることを夢見て、ただ、がむしゃらに、前へ。
 セレスは俺の言葉を受け止めて、俺の手を強く強く握り締める。肉体を伴わない魂魄のイメージだとわかっていても、痛みを感じるほどに、強く握って。
「はい」
 ――と、静かに、答えた。

1-41:君がための六十秒

 さあ、本番はここからだ。血の味のする唇を舌で湿し、魂魄で声を上げる。
「セレス!」
「はい」
「ここからは好きに飛べ、全力だ!」
 
 ――大博打の始まりだ。
 
 俺の声に応えたセレスは『エアリエル』との同調率を一気に引き上げ、まさしく『エアリエル』そのものとして翅翼を振るう。
 その細くもしなやかな体躯と、その背に伸びた大きく長い青の翅翼は、煙の尾を引きながらも高く、高く、上り詰めていく。
 |翅翼艇《エリトラ》の高度限界は通常の戦艦より遥かに高い。他の連中に手を出されない位置、|魄霧《はくむ》の天蓋ぎりぎりまで一息で駆け上ったセレスは、見えない『ロビン・グッドフェロー』を相手取り、踊り始める。
 水面を蹴るような、弾むような動きで針を回避。即座に、俺が弓を引き絞るイメージから光の矢を放つ。計算は正しかったはずだが、トレヴァーは更に俺の思考を先読みして、矢が穿つはずだった場所からぎりぎり逃れていたらしい。矢は虚空を穿って霧散する。
 ――次だ。
 一回、二回。交錯のうちに『ロビン・グッドフェロー』を狙うチャンスは来るが、そのことごとくをかわされる。計算で位置情報を求めるとはいえ、撃つタイミングや入力する弾道の癖は、俺自身に依存する。そして、俺の癖はトレヴァーが一番よく知っている。俺が、トレヴァーの癖を知るように。
 ただ、闇雲に撃つだけじゃ当たるはずもない。俺は一度も、トレヴァーを本当の意味で捉えられたことはないのだから。
 セレスは青い波紋を霧の海に広げながら、『エアリエル』を駆る。いつ、どこから、その胴体を穿たれるかもわからない。そんな極限に近い状態に置かれながら、セレスの動きには少しの乱れもない。この前のような焦りも感じられない。
 右も左も、それどころか上下すらも曖昧なミルク色の海に、セレス自身の色でもある青い軌跡を描いて。
 ただ、ただ、伸びやかに、翅翼を広げて舞い踊る。
 そうだよ、トレヴァー。ゲイルの飛ぶ姿を愛したお前なら、焦がれて仕方ないであろう飛び方だ。
 お前のそういうところを、俺は、信じているんだ。
 お前はセレスを愛してくれる。セレスから目を離せなくなる。
 ――だから、きっと。
 がつん、という音と共に船体が揺さぶられる。ついに針が掠めて、その衝撃で爆発した爆風に巻き込まれたに違いない。だが、この感覚と『エアリエル』からの報告を見るに、刺さってはいない。内側まで壊されてはいない。
 まだです、と。セレスは静かに言う。撃たれた痛みを押し殺し、虚空を蹴ってひらりと宙返りをして、一瞬にして体勢を立て直す。
 残り時間は、あと四十五秒。
 なおもセレスとの同調を深めていく『エアリエル』は、周囲の|魄霧《はくむ》をがんがん喰らいながら青い翅翼を震わせる。もっと高く、もっと速く。内燃機関の咆哮は、セレスの声には表れない、内側の猛る心をそのまま表しているように感じられる。
 だが、それはトレヴァーも同じことだ。奴のセレスに対する興奮は、目には見えていないにも関わらず周囲の空間全てから伝わってくる。圧倒的な、プレッシャーとして。
 少しでも気を緩めれば、この四方八方から伝わる熱が襲い掛かってくるのだ。次の瞬間には、トレヴァーの激情に喰い尽されて、海の藻屑となるだろう。
 だが――。
「……? 気温が」
 急に、がくんと下がる。『エアリエル』が数値としての温度を叩き出し、警告を発する。
 ミルク色をしていた海が、にわかに灰色を帯び、霧を見通して見上げれば「雨雲」が俺たちの上だけを覆っている。
 いつの間にか、そう、いつの間にか。
 晴れていたはずの海は、今にも泣き出しそうな気配に包まれていた。
 俺たちの周囲をちらちらと舞う、金色の鱗粉と共に。
「『オベロン』の、鱗粉……?」
 セレスの疑問の声と同時に、ざあっ、と一気に雨が降り出した。『エアリエル』は表面で雨を弾きながら、ぼんやりと青い光を投げかける。翅翼は雨を透かし、雨の中に煌く金色の鱗粉を舞い上げる。
 その突然の冷たい雨の中で、俺は、その下から俺を見上げる『オベロン』の姿を見た。俺が口を開こうとしたところで、
『……言われなくても、わかってる。自分は冷静じゃなかった』
 ぽつり、と。ジェムの声が、響いた。
 金色の光を帯びた雨の中、きっと、あいつは、俺を――『エアリエル』を、真っ向から見据えているに違いない。それを察して、思わず口元が緩む。
 第八番|翅翼艇《エリトラ》『オベロン』の鱗粉は、何も、爆破だけに特化したものではない。基本の命令を「爆破」に設定しているというだけで、鱗粉の性質は、操縦者の命令で自由に変化する。
 |魄霧《はくむ》を変換した翅翼の一部である金色の鱗粉には、そのままでは実体がない。だが、それに実体を与えるという命令を加えた場合、どうなるか。
 |魄霧《はくむ》から複雑な「もの」を作ることは難しいものの、つくりが簡単な「もの」であれば、『オベロン』の翅翼と解析機関、そしてそこに指示を与えるジェムのよく出来た頭脳があれば十分生成可能だ。
 例えば――「水」だとか。
 突如として空気中に発生した水蒸気は、上空の冷たい大気に飲まれ、ひときわ濃い|魄霧《はくむ》と反応しあって雲へと変化する。そして、この一帯に、激しい雨を降らせたのだ。
『……天候兵器!?』
 ここに来て、初めて、聴覚に響くトレヴァーの声に焦りが混じった。
『本来の「オベロン」の設計理念は「戦場の掌握」だ。戦場を思うがままに書き換える、金色の蝶』
 ジェムの、押し殺した声が戦場一帯に降る。金色の雨そのものであるかのように。
『「ロビン・グッドフェロー」の|隠密《ステルス》性能は、|魄霧《はくむ》を纏って周囲の霧と同化し、知覚を「騙す」ことに特化している。ならば、騙せないくらい大きな「差」を生み出してやればいい!』
 そうだ、それこそが『ロビン・グッドフェロー』の唯一にして最大の弱点。
 周囲の環境と同化するという性能上、外界の急激な「変化」に対しては|隠密《ステルス》性が鈍るのだ。新たな状況に同化するまで、一瞬、必ず、隙ができる。
 例えば、激しい雨に晒されて、その空間にぽっかりと船の形の穴が生まれる――とか。
 それでも、トレヴァーは雨を浴びて輪郭を現した『ロビン・グッドフェロー』の鞘翅とその下の飛行翅を閃かせて、雨の中に舞う。諦めた様子はない――というより、ここからが、トレヴァーの本領だ。
『エアリエル』よりも遥かに性能の劣る船であるにもかかわらず、その動きはあまりにも素早く、一瞬俺が見失いそうになるほどだった。ゴキブリ、と俺が称する理由もわかるというものだ、こいつは、どんな逆境の状況下でも、その超絶技巧による気持ちの悪い機動でしぶとく生き残る。
 セレスが全力で『エアリエル』を飛ばしていながら、その後ろにぴったりとくっついて、必殺の一撃を加えようと針をつがえているのが、俺の知覚に焼きつく。
 ――それでも。
 そのしぶとさが通用するのは、お前をよく知らない奴だけだ、トレヴァー。
 最初から――、俺は、この瞬間ただ一度を狙ってたんだから。
『なあ、トレヴァー。知ってるだろ』
 弓を引き絞るイメージ。そして、
『俺は、勝てない戦いなんて、仕掛けない主義だって』
 矢を、放つ。
 見えてさえいれば、狙うのはたやすい。トレヴァーの取りうる回避行動の全てを予測した上で、最大の効果を発揮するように、続けざまに撃ちかける。
 そのうち二本は空を切ったが、確かな手ごたえはあった。見れば、俺の放った矢のことごとくが、『ロビン・グッドフェロー』の鞘翅に突き刺さり、一本は目――視覚部を穿っていた。
 だが。
『……っ、まだ、まだボクは落ちてないよ、オズ!』
 一瞬虚空に硬直しながら、すぐに首をもたげた『ロビン・グッドフェロー』は、大きく全身を揺らしながらも旋回する。確かに、今の攻撃は機関部を穿ってはいない。もう、こちらなどほとんど見えていないはずなのに、必殺の一撃を撃ちこもうと、極めて正確に『エアリエル』に狙いを定めてくる。
 撃たれる、と判断したセレスが叫ぶ。
「来ます、ゲイル!」
 そして、更に加速しようとするのを、そっと、押しとどめる。
「いや、もういい」
「何故」
 セレスの問いに、首を横に振る。
 ――カウントを開始してから、ジャスト六十秒。
「|時間切れ《リミット》だ」
 がくん、と。『ロビン・グッドフェロー』の船体が、一際大きく揺れて、虚空に静止する。
 その動きの意味を悟ったセレスが、呆然、といった様子で口を開く。
「まさか」
 本当に俺が狙っていたのは、この瞬間だった。
 ――だってさ、トレヴァー。
「|魄霧《はくむ》許容限界。蒸発だ」
 ゲイルと同じくらいお前を楽しませてくれる奴を前にして、お前が蒸発を恐れるはずもないなんて、わかりきってんだよ。
 元々、トレヴァーの汚染状態が限界に近いのは、町で話を聞いた時からわかっていた。俺が人前から姿を消した七年前には、まだトレヴァーに汚染の特徴は出ていなかったから、あれからずっと海を飛び続けて、許容限界ぎりぎりまで|魄霧《はくむ》を溜め込んだのだと察したのだ。
 だから、俺は六十秒「全力で逃げ切る」ことを選んだ。トレヴァーが全力を出して、蒸発するよう仕向けた。
 確実に、トレヴァーに勝つために。それと、もう一つ、理由はあったけれど。
『甘いね、オズ』
 ノイズ交じりの声が、響く。消えゆく肉体を眺めながら、トレヴァーが何を思ってるのかなんて、俺にはわからない。いくら俺がトレヴァーをよく知っていても、蒸発する瞬間にこいつが何を思うかなんて、流石に想像もつかない。
 ただ、その声が、笑っていることだけは、わかる。
『本当は、撃ち落とせただろう』
『……まあ、な』
 ジェムが雨を降らせてくれるかどうかは賭けだった。賭けに負けた場合、セレスの腕でぎりぎり六十秒もたられるか否か、だと思っていたのだが、賭けが成功した時点で、勝利は確定していた。
 連続で一点に撃ちこめば、鞘翅を貫いて、機関部や操縦席を撃ち抜くことだってできたはずなのだ。
 ただ――。
『撃ち落としたら、お前の質問に答えられないだろ。答えを知らないまま死んだお前に、化けて出られても面倒くさい』
 一瞬、沈黙が流れた。それから、トレヴァーは大声で笑い出した。腹を抱えて、という形容がよく似合う笑い方。抱える腹ももう無いのかもしれないが、それでもトレヴァーは笑っていた。そういえば、こいつが、声を上げて笑ったところを初めて聞いた気がする。
『ははは、相変わらず律儀だね、君は! でも確かに、このままじゃ死ぬに死に切れない!』
 更に一段、ノイズを深めながら。トレヴァーはふと笑うのをやめて。
『じゃあ、改めて問おうか。――どうしてここにいるんだい、オズ?』
 あの時俺が答えられなかった問いを、もう一度、投げかけてくる。
 トレヴァーは、本当に、知りたかったのだと思っている。こいつは、言葉の選び方にはいくらか問題はあるが、余計なことを何一つとして言わない男だったから。その言葉の全ては、この男の心からの言葉であると、信じられたから。
 だから、俺も。
 今度こそ、心からの答えを、伝える。
『夢を、諦められなかったからに決まってんだろ。お前と同じだよ、トレヴァー』
 俺が|霧航士《ミストノート》になった理由はたった一つ。
 俺の頭の中に広がる、青い空をこの目に焼き付けるためだ。
 諦められない。諦められるはずもない。俺は一人では飛べないけれど、俺の「翼」がここにある限り、飛ばずにはいられないのだ。あるかもわからない、けれど決して忘れることのできない夢目掛けて。
 ゲイルと――自分を楽しませてくれる奴と共に飛ぶ、という夢を追い、それゆえに俺たちの前に立ちはだかったトレヴァーは、くすりと笑って、言った。
『それでこそだよ、頭でっかち。その答えが、欲しかったんだ』
 ノイズが。今度こそ、トレヴァーの声を侵蝕していく。
『ああ、……ってきた……、ねえ』
 俺の聴覚を狂わせる激しいノイズの中でも、何故か、はっきりと。
『……決着を、オズ』
 その、望みだけは、聞こえた。
『ああ。セレス』
 ふわり、と。セレスは雨に濡れる『ロビン・グッドフェロー』の目の前に降り立つ。もう、奴の目はセレスの姿を映しちゃいなかっただろうけれど。それでも、きっと、そこに俺たちがいるのだということは、わかったのだと思う。
 小さな笑い声が、聞こえたから。
 俺は、弓を引いて、正確に狙いをつけて、放つ。
 鞘翅の下、飛行翅をすり抜け、その下の機関部を正確に貫くように。
 青い光の矢は『ロビン・グッドフェロー』の内側に吸い込まれ、そして――。
『    』
 ノイズと共に爆発したかと思うと、そのまま落下し、霧に飲まれて見えなくなった。
 その気配が完全に失われたことを『エアリエル』の知覚で確認し、俺は『ゼファー』から手を離して、
『……じゃあな、トレヴァー』
 奴の最期の言葉に、応えた。

1-40:対決、要塞母艦

 向こうからはきっと『エアリエル』が豆粒みたいに見えているに違いない。いくら一騎当千と謳われる|翅翼艇《エリトラ》でも、流石にたった一隻で母艦に挑んだことはない。特に『エアリエル』は戦闘艇との撃ち合いに特化した船で、デカブツの相手は専門外だ。
 とはいえ。
『「ロビン・グッドフェロー」は何をしている! 足止めもできないのか!?』
 母艦から響く声には、つい、笑ってしまう。
「あいつが『足止め』なんて、本気でするわけねーだろ」
 トレヴァーが本気で俺たちを追ってはこないということは、わかりきっていた。時々思い出したように針を投げてくるが、残弾を考えて意図的に手を抜いている。
 もちろん奴の言いたいことも、はっきりわかる。『ボクらの逢瀬の邪魔をする無粋な連中を片付けろ』、だ。トレヴァーの望みは俺たちとの全力の戦いであって、結局のところ教団の連中はお互いにとっての邪魔者でしかないのだ。
 本当に勝手な奴だよな。とはいえ、とっとと片付けなきゃ、仮に要塞母艦が何もしなくても、業を煮やしたトレヴァーに俺たちが撃ち落とされるのがオチなんだ、やるしかない。
 要塞母艦は「要塞」の呼び名に恥じない堅牢さで、俺たちの前に立ちはだかる。その防壁の隙間に設置された砲塔から、少しでも掠めようものならこっちの肉体含めてごっそり持っていける質量の、物理砲弾が放たれる。
 とはいえ、それだけ馬鹿でかいってことは、軌道演算もしやすいってことだ。戦闘機の間を抜ける際の、空中に散らばる機銃の弾の軌道を読むよりはずっと楽だ。
 ごう、と。すぐ側を行き過ぎる砲弾の気配を感じながら、そっと、セレスに呼びかける。
「セレス、怖くないか」
 はい、と。翅翼を閃かせるセレスの魂魄が、青く揺れて。一つ、二つ、それこそ踊るように砲弾をかわしながら、セレスは凛と背筋を伸ばす。
「怖くありません。嬉しいんです、ゲイルと一緒に飛べるのが」
「……そっか」
 俺も嬉しいよ。俺はろくでもない奴だけど、そんな俺を信じてくれるセレスのために、この力を振るえることが。
 回避はセレスに任せて、俺は、ただ真っ直ぐに弓を引く。
 圧倒的火力を広範囲に撒き散らす『オベロン』の翅翼とは比べようもない射程も威力も貧弱な光弾砲『ゼファー』。普通に撃てば、まず要塞母艦の分厚い装甲に無力化される。
 だから、俺は『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に、更なる要求を叩き込む。
「演算完了」
 |翅翼艇《エリトラ》の兵装は、|翅翼艇《エリトラ》のコンセプトと、乗り手の希望に基づく。『エアリエル』はゲイルのわがままで「飛ぶ」ことに特化したせいで、やたら装甲は薄いしこんな軽い武器しか載せられないわけだが。
 その際、俺が唯一望んだことがある。
「軌道設定。発射」
 ――弾道を手動入力する機能を搭載しろ、と。
 敵船を自動的に追尾する兵装は、他の|翅翼艇《エリトラ》に搭載されている。一般的な|魄霧《はくむ》機関の熱源を追尾する兵装もあるし、|翅翼艇《エリトラ》の優秀な演算機関を利用して、照準を合わせた敵船を捕捉した上で追尾する兵装もある。後者は開発当時は七割以上の命中率を誇り、現行兵装の中でも優秀と言われている。
 その中で、俺の希望は|霧航士《ミストノート》全員に笑われるものだった。
『手動で弾道を設定したところで、当たるわけがないだろう』
 確かに、人の頭で、お互いの船の動きを読みきって――しかも着弾する瞬間までの「未来の」動きだ――手動で弾道を指定するなんて、狂気の沙汰だ。
 だが、俺にとって、この機能はどう考えたって必要だった。その時、唯一俺の言葉を笑わなかったゲイルが言った言葉は、今もはっきりと思い出せる。
『そりゃあ、オズは、完璧主義者だもんな』
 そう、七割などと言わず、狙った相手を確実に撃ち落とすために。
 俺は、俺自身に備わった機能――『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を利用して『ゼファー』を操る。
 翅翼から連射された光の矢は、ただ撃った時とは異なる複雑な曲線軌道を描いて、最も近い砲塔に襲い掛かる。正確には、弾を放った直後の砲塔の「内側」に。光の矢がぽっかりと開いた穴の中に吸い込まれていき、次の瞬間、砲塔が、根元から盛大に爆発する。
「ふおぉ」
 セレスが思わず、といった様子で声を上げる。
「なるほど、何故手動設定が用意されているのか不思議でしたが、これも、ゲイルのための武器なのですね」
「そういうことだ。……っと、来るな」
 もう一方から飛来する砲弾の一つを『ゼファー』の連射で撃ち落としつつ、セレスに指示を飛ばす。流石に次々に飛び交う弾を全部撃ち落とせるほど『ゼファー』の連射性能はよくない。だが、ほんの少しの隙間でも作ってやれれば、セレスが抜けるには十分だ。
 船体を思い切り傾け、伏せた青い翅翼が砲弾の隙間をすり抜ける。青い軌跡が、金の鱗粉舞う霧の中に煌くのを、視覚の片隅で判断しながら、次々に弓を引いて、放つ。一つ、また一つと砲塔を片付けていく。目に見える以上、こちらに向けられる砲塔の数は有限で、それならば一つずつ潰していけばいい。
 そのダメージは、着実に、本体にも積み重なるものだから。
 徐々に、徐々に、要塞母艦からこちらへの照準が鈍りはじめる。あのサイズの船だから、内側から操るには相当の人数が必要だろう。そいつらの統制が乱れているのが、分厚い装甲越しにもわかる。
『狂ってる……、こんな、こんなこと、ありえん……!』
 要塞母艦から漏れ出るノイズは、未だ現実を直視できていないようだったけれど。
「セレス」
 セレスはその声だけで、俺の意図を汲んだ。二対の翅翼を打ち鳴らし、母艦の船底近くまで潜りこむ。俺は既に一度は打ち抜いた砲塔に向けて、もう一度照準を合わせる。
 要求に対する書庫の応答を信じて、弓を引き、放つ。
 青く輝く光の矢は、既に崩れつつあるその場所に真っ直ぐ突き刺さる。一発では何も変化はなかったが、二発、三発と撃ちこんでいくうちに、船底の一箇所――船の心臓である機関部が轟音を立てて弾け飛ぶ。
 かくして、分厚い装甲には一つたりとも傷がついていないにも拘わらず、巨大な鯨はずぶずぶと霧の海に沈み始める。
『くそっ、くそ……っ、何故だ、教主オズワルド! 何故、我々が女神に見放される……!?』
「んなもん、俺が知らねーんだから世話ねーよ」
 そもそも、教団の教えなんて、教団幹部がでっち上げた「建前」に過ぎない。連中は手中に収めた俺――『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の利権を維持するために、人を集め、金を集め、そして狂騒に駆り立てただけだ。
 そんな本質すら理解してない奴に、何を言ったって無駄だろうけれど。
「海の底で待ってろ。教主様直々に会いに行くから、文句はその時言え」
 どうせ、俺も長生きはできない身だ。ゲイルに会いに行く日だって遠くはない。
 ゆっくりと沈み行く要塞母艦を見送ったところで、虚空からトレヴァーの口笛の音が響いた。
『いつ見てもその精密射撃はぞくぞくするよ。今は味方じゃない分、尚更ね』
『お褒めに預かりどーも』
 俺だって腐っても|霧航士《ミストノート》、『エアリエル』の|副操縦士《セカンダリ》だ。言葉通り「飛ぶこと」しか考えない相方を生かすには、このくらいの曲芸はできなきゃ話にならなかった。俺はゲイルやトレヴァーのようには飛べない。その分、連中が疎かになる部分を徹底的に補う。そういう風に鍛えてきたのだ。
 戦って、戦って、戦い抜いて。
 全ての戦いを終わらせた向こう側に待っている、夢のために。
 とはいえ、今の俺が、再びあの日の夢を見据えるには、もう一つ、どうしたって排除しなきゃならない壁がある。
『さてと、ご期待通り邪魔者は排除したぜ、トレヴァー』
 まだ海に残されているだろう戦闘艇には、もはや意識を割くことをやめる。その辺りは、ジェムを信じていればいい。
 だから、俺はセレスの手を握り直し、冷たい風を全身に受けながら、全感覚を研ぎ澄ませて、どこからか聞こえてくるトレヴァーの言葉に耳を済ませる。
『正直驚いたよ。オズ、君は、海の上では何一つとして面白くない男だと思ってた。ゲイルとボクが気持ちよく飛ぶための露払い役。ただそれだけだって、思ってた』
 でも、と。実際に見えているわけでもないが、奴の薄い唇の端が、引き上げられたのが目に浮かぶ。
『ああ、不思議だね、ボクは今、ゲイルよりも誰よりも「君たち」に興奮してる!』
 次の瞬間、船尾に衝撃が走る。やられた。セレスの動きを抑えていた分、想定以上にトレヴァーの接近を許していた。ほぼゼロ距離で針を撃たれては、読めたところで避けようがない。
 セレスは速度を上げ、船体を捻るようにして旋回する。折れかけた長い船尾が虚空に煙の尾を引き、前後のバランスが崩れる。何とかトレヴァーを振り払おうとしているのだろうが、その程度の機動でトレヴァーが惑わされるとも思えない。
 既に、トレヴァーの笑い声は聞こえなかった。声も笑いも抑えこみ、完全に俺たちを「狙う」体勢に入ったことを察して、俺も『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の狭間に、更に深く潜りこむ。俺という存在が限界まで希釈され、仕組みの一部として組み込まれる、そんな感覚と共に。

1-39:決着のために

 言葉と同時に投げかけられる、針。
 だが、今の会話と先ほどの針の投げかけられた位置から、瞬時に『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が針の軌道を想定して返してくる。
 あの時は無様に突進して突破することしかできなかったが、今、『エアリエル』の翼を担っているのは俺じゃない。セレスは俺の指示を忠実に守り、攻撃のことごとくを最低限の動きで回避していく、が。
『いいね、そのつれない動き、ぞくぞくする』
『お前、被虐趣味もあったのかよ、ほんと気色悪ぃな』
『でも、逃げてるだけじゃ、君たちの基地は守れないんじゃないのかい?』
 そう、トレヴァーの言うとおり、俺の相手はこいつだけじゃない。
 俺たちの前に立ちはだかるのは、目に見える脅威――海を行く鯨を思わせる教団の要塞母艦と、そこから放たれる数だけは多い小型戦闘艇だ。
『敵は「青き翅の」ゲイル・ウインドワード!』
『我らが教祖と世界の調和を取り戻すためにも、英雄を騙る大罪人を|魄霧《はくむ》へ還し、新たなる脅威の芽を摘み取るのだ!』
 確かに、俺は空言の英雄だけどな。連中の言葉に、浮かびかける嘲笑を噛み殺す。
 それと、もう一つ。頭の片隅では『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の入出力とセレスへの指示を続けながらも、つい、側にいるであろうトレヴァーに聞かずにはいられなかった。
『……なあ、連中には言わなかったんだな。俺がオズだってこと』
『どうして?』
 トレヴァーは、一時『エアリエル』に針を投げかけるのを止め、心底不思議そうに疑問符を投げ返してくる。
『本気の君と踊る最初で最後の機会なのに、教える理由なんてどこにもないよ』
 なるほど、確かにその通りだ。教団が未だオズの生存を信じている理由はわからないが、俺が生きてここにいると知れば、連中は俺の身柄を拘束する手段を取るだろう。それは、「俺たちと飛ぶ」というトレヴァーの目的とは、真っ向から反する。
『それでこそトレヴァーだ。本当に変わらないな』
『君だって、何も変わってないだろう? 一人で何もかも抱え込むとこも、つまらないことで思い悩むとこも、全部、全部さ』
『はは、耳が痛えー』
 トレヴァーがどれだけ俺の事情を理解してるかは知らないが、あまりにも正しすぎる指摘につい笑ってしまう。笑いながら、続けざまに飛来する針を撃ち落とし、セレスに呼びかける。
「セレス、ちょっと無理させるぞ」
 セレスは「はい」と短く答え、意識を引き締める。手短にここからの作戦を伝えると、セレスの怪訝な気配が伝わってくる。
「『ロビン・グッドフェロー』は?」
「トレヴァーは最低限相手してやりゃいい」
 トレヴァーが俺をよく知るように、俺だって奴のことはそれなりに理解してるつもりだ。だからこそ、トレヴァーの酔狂が続くうちに、全てを片付ける必要がある。
 わかりました、と答えるや否や、セレスは『エアリエル』の翅翼を閃かせ、群れを成す戦闘艇の只中に突っ込んでいく。ほとんど暴挙とも言える動きに動揺したのか、ジェムが『オベロン』を通して叫ぶ。
『……セレスティアさん、何を!?』
 訓練ログを見た時にも思ったが、すぐに意識が逸れるのはジェムの悪い癖らしいな。
 金色の翅翼が生み出す鱗粉の領域を巧みにすり抜けてきた戦闘艇を、すれ違いざま『ゼファー』の一撃で歓迎する。戦闘艇は目前にまで迫った『オベロン』の腹に照準を合わせたまま、煙の尾を引いて海に沈んでゆく。
 あ、と。一拍遅れてそれに気づいたジェムの、間抜けな声が響く。
『ぼーっとしてんなよ、ジェム』
『っ、言われなくてもわかってる!』
『嘘だろ。お前、わかってなかっただろ』
 俺のツッコミに『ぐっ』と言葉に詰まるジェムに和む。時計台にいた頃から散々馬鹿にされてきたから、指示を素直に聞かない奴には慣れてるってのもある。ジェムの反抗ぶりなんてかわいいもんだ。
『……そういう素直なとこお兄さん嫌いじゃないぞ』
『貴様に言われたくない!』
『悪かった、なっ』
 別に、喋りだけに気を取られてるつもりはない。『オベロン』の攻撃が途絶えた隙を狙って飛来する戦闘艇に光の矢を撃ちこみながら、改めてジェムに呼びかける。
『ジェム!』
『貴様の命令は聞かないぞ、フォーサイス!』
『独り言だ聞き流せ! 「オベロン」の火力はこの場を切り抜けるには必要不可欠だが、このままじゃお前が息切れする』
 ジェムは答えない。だが馬鹿じゃないんだ、わかってはいるはずだ。自分の能力が、全ての敵を落とすには足りないことも。このままのペースで戦い続ければ、蒸発の可能性が高いということも。
 ただ、慣れない実戦で頭に血が上って、本来『オベロン』がすべき行動に、考えが至ってないだけだ。
『「オベロン」の真価は何だ? 冷静になれ、頭を使え、お前は飛べる上に立派な頭がついてんだ。俺様よりよっぽど優秀なんだから、できない道理はねーだろ』
 俺は首から上しか取り得がなかったんだ、そんな超高性能の|翅翼艇《エリトラ》を操れる分、ジェムの方がとびきり恵まれてんじゃねーかうらやましい。もちろんセレスもうらやましい。汚染耐性があってあれだけ自由に飛べるのめちゃくちゃうらやましい。何せ『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』以外の俺のアドバンテージなんて、今まで積み重ねた経験くらいなのだから。
 ジェムは無視を決め込んだつもりだったのだろうが、『……頭を』と呟いたのは聞こえた。そういうところが素直だって言ってんだよ、いいことだ。
『どうにせよ、このままじゃ埒が明かないしな。俺たちは、今からあいつを落とす』
 俺とセレスが目指すのは、敵陣の最後衛、要塞母艦だ。|翅翼艇《エリトラ》を数十隻は抱え込めるくらいの巨大な船に、俺たちは今から、たった一隻で立ち向かう。
 無茶だ、と。ジェムが言ったのは聞こえた。それでも、俺は笑って返す。
『無茶でもやらなきゃならねーからな。ま、何とかなるだろ』
『何とかって……!』
 ――だからこそ、お前次第なんだ、ジェム。
 本当に無茶なのは、目標を落としたその後なのだから。
 俺とジェムが駄弁っている間も、連中は俺たちを見逃しちゃくれない。目の前を埋めるほどの機銃掃射を、セレスは一気に身を捻って上昇することで回避。そのまま翅翼を広げ、更に速度を上げて、戦闘艇の群れの間を、一息で抜ける。
「速度そのまま、同調率も六割を維持。露払いは俺がやる」
「了解」
 きっと、連中は『エアリエル』が己の横を行き過ぎたことに、一瞬遅れて気づいたに違いない。編隊の最後尾についていた連中が、慌てて船首を巡らせるが、遅い。
 この瞬間のために、|魄霧《はくむ》を容量いっぱいまで充填しておいた『ゼファー』を、放つ。『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の力を借りて、射程ぎりぎりから相手の最も脆い場所――操縦席へと、光の矢をぶち込んでいく。
 船が、次々と霧の海へと落ちてゆく。光の矢を受け、残った奴は『オベロン』の鱗粉に焼き尽くされて。本当はとっくの昔に海の底に沈んでいる、ゲイル・ウインドワードへの呪詛を吐きながら。
「もう、二度と戻ってくんじゃねーぞ」
 果たして、落ちてくる奴らを見て、海の底のゲイルはどんな顔をするだろう。案外、笑顔で迎えるのかもしれない。あいつにとって、霧の海を飛ぶ奴はみんな「同類」でしかなかったから。
 そんな益体もない空想を振り払い、俺は目の前に聳える――そう「聳える」という言葉が正しいほどに巨大な――要塞母艦を見上げる。

1-38:金色の死と無色の針

 言葉と同時に『エアリエル』の奥底にまで一息に潜る。「俺」と『エアリエル』の境界線が完全に消失し、魂魄全体が一つの感覚器官へと変質すると共に、全身が霧の海の只中に投げ出されるような感覚に陥る。
 頼りない体は、俺の意思を離れて真っ直ぐに飛び続ける。『エアリエル』の動きは全てセレスが握っているから、当然なのだが。
「――セレス」
 目指すは、
「『オベロン』の前に、飛び込め」
 金色の死が舞う空間だ。
 了解、という返事が聞こえるか聞こえないかのうちに、セレスは『エアリエル』を躍らせる。恐れもなく、迷いもなく。俺の意図を問いただすこともせず、仲間に爆破される可能性すら微塵も考えずに、霧裂く青の翅翼は、金色に染まった虚空へと飛び込んでいく。
 セレスの無鉄砲さには俺の方が冷や冷やするが、そんなセレスが「翼」だから、俺も無茶ができるってもんだ。
「要求」
 それ以上の言葉は要らない。俺の意図は『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に光の速さで伝わり、相互の情報を照らし合わせた上で、最適解を導き出す。
 その最適解を、視覚上に投影する。『エアリエル』がこれから進むべき道として、空間全てを埋め尽くしているように見える金色の鱗粉の「狭間」を、指し示す。
 セレスは驚くべき正確さで、俺の指示に従った。俺と視覚を共有し、海の上に記された道を駆け抜け、『オベロン』の真ん前に飛び込んで。
 俺は、
『オズワルド・フォーサイス……!』
 地を這うような声を上げるジェムに、向き合う。
『よう、邪魔して悪いな。だがロイドからの命令もある。今回ばかりは、一緒に飛ばせてもらうぜ』
 通信越しでもジェムの敵意がひしひしと伝わってくるが、この場での敵は俺じゃないってことを、どう理解してもらおうか。
 魂魄の八割で演算を続け、セレスに指示を送りながら、残りの二割でジェムへの気の利いた言葉を考える。とはいえ、一度俺に対して抱いた反発というか、失望はそう簡単には拭えないとも思っている。
 ――失望。そうだな、あれは失望だったのだと思う。
 俺はジェムの期待を裏切った、というか裏切っていた。俺がオズワルド・フォーサイスである、という事実より、俺がジェムへの裏切りを長らく隠していたことに、ジェムは怒っているし、失望してるんだろう。
 そんなジェムを説得するのは、俺にはまず無理だ。
 ジェムの協力を今、ここで、即座にとりつけることは、いっそ潔く諦める。ジェムだって馬鹿じゃない、俺に協力しなくとも、すべきことはわかっているはずだから。
 ただ、一つだけ。
『どうして、ここに来た』
 ジェムの問いは、隠し切れない棘に満ちていた。というか、そもそも隠す気もないのだろう。後方のブルースが『おいおい』と取り成そうとするが、それは俺の方で制する。
 俺に、ジェムの説得は無理だ。無理だが、たった一つ、言っておかなきゃならないことがあったから。
 どうして、俺が今、ここに来たのか。その理由だけは。
『決まってる。俺が、|霧航士《ミストノート》だからだ』
『……っ、|霧航士《ミストノート》の座を汚したお前が! |霧航士《ミストノート》を語るなんて』
『そんなお綺麗なもんじゃねーよ、|霧航士《ミストノート》なんて。どいつもこいつも、面倒くさいろくでなしばかりだ』
 もちろん、俺、オズワルド・フォーサイスも含めて。
『女王国のためと叫んで敵陣の只中で自爆した奴。手に余るほどの報酬を求めた挙句にその全てを残して蒸発しちまった奴。恋人と喧嘩別れしたまま二度と戻ってこなかった奴』
 |霧航士《ミストノート》の歴史は短いが、それでも両手の指よりは多く存在した|霧航士《ミストノート》の中で、まともな奴を探す方が難しい。
 中でも、ある意味で極めつけのろくでなしだったのが、
『それに、国も金も名誉も関係なく、誰よりも速く高く、遠くまで飛ぶための「方法」として|霧航士《ミストノート》を志した奴』
 ゲイル・ウインドワードという男だったのだと、思っている。
 もしくは、その男と共に、あるかもわからない夢を追い求めた俺自身である、と。
『……なあ、ジェム。お前はどうして霧の海を飛ぶ?』
 俺の問いに、ジェムは答えない。ただ、唇を噛むような気配が伝わってくるのみ。ジェムは真面目だからな、一笑に付したってよかったのに、一瞬でも俺の言うことを吟味しちまったんだろう。俺は、ジェムのそういうところが好ましいと思う。
『別に答えはいらねーよ。ただ、俺もお前も同じ穴の狢、理由はそれぞれだが、己の魂を|翅翼艇《エリトラ》に捧げた馬鹿野郎だ』
 そして。
『なあ、トレヴァー! お前だってそうだろう?』
 棒立ちになったジェムに投げかけられた針を、『ゼファー』の一撃で焼き落とす。針に仕掛けられた爆薬が虚空で爆発する音と熱が、知覚を震わせる。
『――っ!』
 ジェムは、一拍遅れてその事実に気づいたらしい。伝わってくる意識が、ぴんと張り詰めるのがわかる。それに対して、
『ふふ、やっぱり君の「目」は誤魔化せないね』
 気持ちの悪い通信を割り込ませてくるゴキブリ野郎は、いたって楽しげなものだった。
『ああ。この前は手ぇ抜いて悪かったな』
『ゲイルのいない君なんて、つまらないと思ってたけど。なかなかどうして』
 舌なめずりするような音を立てて、トレヴァーはくつくつと笑う。
『感じさせてくれるじゃないか、オズ?』
 だから、その含みのある発言だけはどうにかならないか。これさえなければ、|霧航士《ミストノート》士の中じゃまだ能力性格ともに比較的まともだってのが、|霧航士《ミストノート》士の人材不足を痛感させられる。
 とはいえ、これが、こいつのセクハラ発言を聞く最後になると思うと、寂しいとも思うのだ。こんなものを寂しいと思う俺の神経もいかれてるんだろうな、きっと。
 だが。
 ――霧の海で対峙した以上、結末は、たった一つ。
『今日は最後まで踊ってやるよ、トレヴァー』
『ゲイルじゃないのは残念だけど、本気の君とその「翼」なら、十二分に愉しめそうだ』
 姿を見せない|霧航士《ミストノート》は、虚空に含み笑いを響かせながら、朗々と宣言する。
『さあ、踊ろう。君たちとボクとで、高みに上り詰めよう』
 ――そして。
 
『踊り疲れたその翼を、ボクが、もぎ取ってあげるよ』

1-37:海へ

 俺の声に従い、セレスは『エアリエル』の薄青の翅翼を一際強く羽ばたかせる。
 ――加速。
 俺の目――もはや俺自身の知覚なのか『エアリエル』の知覚なのかもはっきりしない――には、前方を見据えるセレスの背中が見えた。その背からすらりと伸びる、空の青の翼も。
 伸びやかに、しなやかに、しかし真っ直ぐに。『エアリエル』と一体となって、セレスは海を貫いてゆく。
 知覚の網を広げながら速度と距離をカウント。戦闘海域まであと少しだと声をかけようとした、その時だった。
『フォーサイス、何をしている!』
「うおっ」
 突如意識の中に飛びこんでくるロイドの声。どうやら、俺たちが飛び立ったことがロイドまで伝わったらしい。知覚の網はそのままに、魂魄の一部を通信のために開く。
『よう、ロイド。ちょっくらお邪魔してるぜ』
『あんたねえ……』
 おそらくは反射的に、普段のノリで返すロイド。
 うん、先生が言いたいことはよくわかる。俺も正直、セレスに連れ出されるまでは、この期に及んで『エアリエル』に乗るとは思ってもいなかったから。
 だが、セレスをけしかけた奴には言われたくない。もちろん、これを言ってしまうと、通信を聞いてる他の連中にロイドまで疑われる羽目になるから言葉にはしないが。
『脱走の罪は重いぞ、オズワルド・フォーサイス』
 半ば投げやりに――もちろん、わざとだ――言葉を吐き出すロイドに、俺は笑う。
『どんな罪を犯したところで、首を切られる以上の仕打ちはねーだろ?』
『……そうだな』
 溜息交じりの声が響く。俺相手にこんな茶番を打たなきゃならない司令殿の苦労が偲ばれる。
 やがて、ロイドは『仕方ない』と声を低くして言った。
『ことここに至っては、降りろというよりは、こう命令した方が早いな』
『何なりと』
『セレスティアと共に先発隊と協力し、教団の残党と「ロビン・グッドフェロー」を撃滅しろ。一隻漏らさずだ』
 背後で、通信を聞いてる連中からのざわめきが聞こえる。当然だ。俺はオズワルド・フォーサイスで、世間的には「教団の教主様」なわけで、その俺に、教団の船を落とせと命じているのだから。
 そんな命令に何の意味があるのか。フォーサイスが従うとは思えない。司令は一体何を考えているのか。そんな野次が聞こえてくるが、ロイドはその全てを無視し、俺一人に対して言い放つ。
『お前ならできるだろう、フォーサイス。散々引っ掻き回してくれたんだ、今この瞬間くらいは役に立て』
『はは、先生は厳しいな』
 それは、基地司令というポーズをとってこそいるが、建前をすっかり引き剥がしたロイドの本音だったに違いない。
 なるほど、俺はロイドに迷惑かけっぱなしだからな。昔から今この瞬間に至るまで。そしてきっと、これから先も。
 我ながらとんでもない不孝者だ、とつい苦笑しながらも『了解』と返す。
『期待を裏切らない程度には、お役に立ちます』
 できるだろう、と言われたからには「できない」なんて言えるはずもない。俺の全力をもってことに当たる、それだけだ。
 ロイドは『よろしい』と言って、今度はセレスの名を呼ぶ。
『セレスティア、もはや言うまでもないとは思うが、以降はフォーサイスの指示に従え。現場での戦術指揮は元よりこれの専門分野だ、特に|霧航士《ミストノート》の指揮はな』
『はい』
『先発隊にも同様の内容を伝えておく。ただし、以降はお前の力でどうにかしろ、フォーサイス。私が手を貸せるのはここまでだ』
『へいへい』
 観測隊隊長のブルースはともかく、あのジェムが素直に俺の指示に従ってくれるとは思えないんだが、これはその場に至った時に考えるしかないな。
 ロイドは一つ、息をついて。
 通信を終える時の決まり文句を――いつもより、ずっと穏やかに、投げかける。
『では、健闘を祈る』
 それは、言葉通りの「祈り」だったのだと思う。俺たちへの、必勝の祈り。
 確かにその言葉を受け止め、『エアリエル』の移動距離を計算しながら更に知覚の網を広げていく。その網の先端が、ついに、観測隊の尻尾を掴む。
「もうすぐ戦闘海域に突入する。準備はいいな」
「了解。問題ありません」
 セレスは淡々と、しかし微かな高揚の気配を漂わせて応答する。
 内心めちゃくちゃ緊張している俺とは正反対に、セレスはもはや不安も恐怖も感じていないようだった。ただただ、霧の海を飛ぶことへの喜びに満ちている。
 そうだったな、と。俺もほんの少しだけ笑って返す。
 海に、笑顔で飛び出していくゲイルを思い出す。あいつが笑っていたのは、戦いを喜んでいたのではない。それを理由に「飛べる」ことを無邪気に喜んでいた。
 ――|霧航士《ミストノート》ってのは、そういうもんだ。
 認めよう。セレスは、あいつと同類だ。飛び方も、心の有様も。
 そして、それでいい。正しい方向に導くのは俺の役目だ。だからこそ『エアリエル』は「二人で一つ」の船なのだ。
「突入します!」
 セレスの声と同時に、今まで最低限確保していただけの視界を、一気に開く。
 俺の魂魄が捉えたのは、後方に待機する観測船四隻。ただしそのうち一隻は前方から炎を上げながら、ゆっくりと後退を始めている。
『「エアリエル」! 本当に来たのか……!』
 ブルースの驚きの声が、こちらにまで届く。広域通信の枠を開いて、声を投げ返す。
『ああ来てやったぞ! 戦況は!』
『ほとんど「オベロン」の一人舞台だ、だが、ゴキブリが捕まらない!』
 俺以外からもゴキブリって呼ばれてるんだが、いつ広まったんだろう。まあいいか。実際なんかゴキブリみたいだもんな、姿が見えないのにかさかさ動いてプレッシャーかけてくる辺り、とてもゴキブリっぽい。
 視線をその先に向ければ、俺の目にも鮮やかに映る、金色に輝く薄片が飛び交っている。『オベロン』は相変わらず火力全開で、目の前の敵をぶっ潰しにかかっている。否――。
『くそっ、どこだ、「ロビン・グッドフェロー」!』
 ジェムの声が通信越しに届く。それに対し、くすくすという笑い声だけが虚空に響く。トレヴァー・トラヴァース。霧に紛れ、影も形も、声の出所すらも見せようとしない「最優」の|霧航士《ミストノート》が、|翅翼艇《エリトラ》間通信を通してジェムに語りかけているのだ。
『惜しいなあ、君。能力は評価できるけど、勢いだけじゃあ、誰も振り向いてくれないよ?』
『黙れ……っ!』
『ふふっ、焦らされるのは好きじゃない? 早くやりたくてたまらない、って声してる』
 ああ、本当にトレヴァーは性格が悪いったらない。この数分に満たないやり取りで、ジェムの性格を的確に見抜いて散々に煽っていたと見える。でもつい弄りたくなるトレヴァーの気持ちもわからなくはない。というか今まで散々弄られてきた俺から見ても、ジェムは格好の標的に違いない。
 それにしても、ジェムも相手が本気を出してないことはわかってんだから、多少は手を抜くことを覚えたらどうか……、と思わなくもないが、ジェムにそれを求めたところで無駄なのはわかっていた。
 だから、とりあえず、当初の想定どおりにことを進めることにする。
「セレス」
「はい」
「まだ全力は出すな。ただ、ここからは俺の指示に従ってくれ。多少、無茶を言うかもしれねーけど」
 セレスでないとできないことだから、と。
 言いかけた俺の口を塞ぐように、セレスが振り向いた、気がした。もちろん、全ては『エアリエル』と同調している魂魄レベルの話で、実際にセレスが振り向いたわけではあるまい。
 ただ、セレスの背中を見つめていた俺の目を、セレスが、|瑠璃色《ラピスラズリ》の目で見据えて――、笑う。
「わたしは、飛べます。ゲイルの『翼』ですから」
 だから、と。
 セレスは、俺に向かって、魂魄の手を差し伸べる。全幅の信頼をこめて、魂魄の全てを俺に向けて開け放って。
「ここからはあなたが導いてください、ゲイル」
 そう、言い切るのだ。
 差し伸べられた手は、俺の視覚では細く折れそうな、白い手のかたちをしていた。俺の服の裾をつまみ、時には俺の手を握り。そうして、この海にまで導いてくれた、ちいさくも確かな力を持った手。
 一度は振り払ってしまった、手。
 その手を、今度こそ強く、強く、二度と離さないように掴む。
「任せろ」

1-36:空白を埋めて、今

 かくして、手早く着替えを済ませ――るわけにはいかなかった。セレスの手を借りながら、のたのたスーツを着る。仕方がない、左の肩から先は鈍痛に支配されていてほとんど感覚がなかったから。
「……腕」
 セレスが不安げに俺を見上げる。まあ、懸念事項の一つであることは間違いない。とはいえ、この程度はまだ許容範囲だ。
「飛ぶには支障ないさ。特に俺は『目』だしな、頭と感覚さえ生きてりゃいい」
 俺の視線を受け止める『エアリエル』は、何を語ることもなく、ただそこに佇んでいる。翅翼を展開していない状態のそれは、飛行翅の骨組みを背負った、長い尾を持つ鋼の箱でしかない。だが、その青い船体に描かれた、風をモチーフにした白の紋様は『エアリエル』をよく表している。
 ――風になる。
 それはゲイルの口癖だった。自身が風の名を持つあいつらしい口癖。あいつも、『エアリエル』も、何にも囚われず、気の向くままに翅翼を広げ、目指す場所に向けて駆ける風であった。
 俺はどうしたってゲイルじゃなくて、奴のようにはなれなくて。
 それでも。
「……借りるぞ、ゲイル」
 その名を一度でも借りた身として、今だけは一陣の風になろう。この場所から飛び立つ翼を導く風になろう。
 俺と並んで『エアリエル』をじっと見据えていたセレスに向き直る。
「セレス」
「はい」
「乗る前に、一つだけ、約束してくれ」
 セレスの青い目がこちらに向けられる。ぱちり、と一つ瞬きをするその目の青さを、そこに俺が映っていることを確かめて、口を開く。
「この戦いでは、戦闘途中での蒸発は許さない」
「何故?」
「わかるだろ、俺は飛べねーんだ。この前はトレヴァーの気まぐれで首が繋がったが、次はない。だから、お前に消えられた時点で俺たちの負け。お前も俺も、霧の海に沈む」
 そう、次は絶対にありえない。「|翅翼艇《エリトラ》で飛ぶ」ことにかけて苛烈なまでの情熱を持つトレヴァーが、霧の海において、俺に二度もの怠慢を許すとは思えない。
「しかし、前回は、全力で飛ばなければ『ロビン・グッドフェロー』から逃れられませんでした。今回も、全力を出さなければ難しいと思います」
「そうだな。あいつを落とすためには、全力じゃないと無理だ。だが、全力を出していいのは六十秒だけだ」
 六十秒、と。セレスは繰り返す。
 前回飛んだ感覚から考えるに、セレスの|魄霧《はくむ》許容限界は、同調率百パーセント以上で連続五分から十分。通常、同調率を限界まで引き上げた場合、船内の|霧航士《ミストノート》が三分で蒸発していることを考えると、驚異的な耐久性だ。
 だが、いくら耐久性があったところで蒸発しては意味がない。今回は、生き残ればいいわけじゃない。トレヴァーを、必ず落とさなきゃならないのだ。
 そして、俺は、あの野郎に勝つために、セレスと約束をする。
「それ以外のタイミングでは同調率を下げた状態で飛べ。全力を出すタイミングは俺が指示する。……できるな」
「できます」
「じゃあ、約束だ。今度は消えるなよ、セレス」
「はいっ」
 いい返事だ、と俺はセレスの空色の頭を撫でる。つくられたひと、であるセレスは、それでも、俺と同じ温度をしている。
 この手に感じる温度を、命を、失いたくない。今度こそ失ってはならない。
 とはいえ、そんな決意をセレスに知られるのは気恥ずかしくて。最後に一つ、ぽんと軽くセレスの頭を叩いて、ことさらに明るく宣言する。
「よっし、じゃあ、行きますかね」
 どれほど過酷な戦いを前にしても気負わぬゲイルの図太さを、今一度くらいは分けてもらいたいと願いつつ、一歩を踏み出した――ところで、不意に背後で声がした。
「ちょっ、えっ、大丈夫なんすか!?」
「いいから!」
 本来こんな場所で聞こえるはずもない声に、思わずぎょっとして振り向いてしまう。
 まさか、とは思ったが残念ながら俺の耳は人並み以上にはよいわけで、つまり、聞こえてきた声を正しく聞き分けていた。
 ゴードンとレオに支えられたそいつを目にして、俺は目頭に手を当てて首を振らずにはいられなかった。
「サヨ、お前、安静にしてろよ馬鹿」
「馬鹿はどっちだ。何飛ぼうとしてるんだい、その怪我で」
 気の強そうな目で俺を睨むサヨの顔色は、明らかに悪い。軍きっての再生術士も、自分が怪我しちゃ十分な治療はできないのだから、当然だ。しかも、この様子だと無理やり抜け出してきたに違いない。
 ジェムに撃たれた箇所なのだろう腹の辺りを押さえながら、それでも、サヨは俺から目を逸らさずに。
「……オズ」
 俺の、本当の名前を呼ぶのだ。
 俺はつい、その責めるような視線から逃れたい衝動に囚われる。
 サヨと顔を合わせるのには躊躇いがあった。今この瞬間だけではなくて、いつだってそうだった。俺に生きろと言ったのも、俺がゲイルとして生きられるように手を尽くしたのもサヨだ。
 ただ――否、だからこそ、サヨを直視できずにいた。
 俺はゲイルを殺した。サヨにとって最も大切な人間であったはずの、ゲイルを。実際に手を下したわけではないが、ゲイルの死の原因を作ったのは間違いなく、俺だ。
 その俺に生きることを強いたサヨが、俺を生かす意図を語ったことはなかった。もちろん、建前ならいくらでも並べ立てられるし、俺だって理屈は理解している。だが、サヨの本音は一度も聞いたことがなかった。
 俺を見据える鋭い視線が、狂おしい感情を秘めていることを、物語るだけで。
 そのサヨが、青ざめた顔の中で唯一赤く色づいた唇を、開く。
「一つだけ。言わせて」
「……ああ」
 覚悟を決める。
 何を言われても、きちんと受け止めよう。今まで、俺はサヨから逃げ続けてきた。本当の意味で向き合ったことはなかった。
 本音を、聞こうともしなかった。
 唇を引き締めて、今度こそ真っ直ぐにサヨを見つめて、次の言葉を待つ。一呼吸の間をおいて、サヨのほとんど囁くような声が、鼓膜を震わせる。
「絶対に、生きて帰ってきて」
「……生き、て」
 この期に及んで、まだそんな建前を言うのか。俺を恨んでいるお前が――。
 喉元まで出かかった言葉は、サヨの目に涙が浮かんだことで、永遠に封じられた。
「あんたまで、いなくならないで」
 サヨの唇からこぼれる言葉は、想像していた、俺への恨み言なんかじゃなくて。
「|霧航士《ミストノート》ってやつが揃いも揃って薄情で、自分を大切にしない奴らばっかりだってのはわかってるけど! それでも、もう、あたしの前から誰かがいなくなるのは、辛いんだよ!」
 ――辛い。
 そうか、俺は、そんな単純なことにも、気づけていなかったのか。
 サヨは、大切なものの喪失を、今の今まで噛み締め続けていた。俺への怒りより、ずっと喪失の痛みの方が大きかった。だから、サヨにとって、俺は今も、ゲイルの仇ではなくて、ゲイルがいたころと何も変わらない「|霧航士《ミストノート》の友人」だったのだ。
 同じ喪失を抱えて、癒えない空虚に苦しみながら、俺は、サヨを理解することを拒んでいた。今の今まで。
 いくつも、いくつも、言葉が頭に浮かんでは消える。言いたいことはいくらでもあった。今までサヨと向き合ってこなかった分、溜まりに溜まっていた言葉があふれそうになる。
 だが、きっと、サヨが求めている言葉はたった一つだ。
「請け負った」
 帰ってきた俺が、サヨと言葉を交わせるかはわからない。今まで散々飲み込んできた言葉を伝えられるかはわからない。それでも、今ここで、約束することはできる。
「俺は、必ず、生きてこの基地に戻ってくる」
 サヨは、俺の答えに少しだけ驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ微笑んだ。
「『ゲイル』はそんな顔しないだろ」
「……お、おう」
 一体、今の俺はどんな顔をしてるんだ。さっきから顔を笑われてばかりいないか。
 複雑な気分でサヨを睨むと、サヨは、ふ、と気の抜けたような息をついて、俺が勝手に思い込んでいた棘の消えた、柔らかな声で言う。
「でも、あんたはそれでいいよ、オズ。何だか、昔に戻ったみたいだ」
「……サヨ」
「約束してくれてありがとう。行ってらっしゃい」
 ひらり、と。白い手を振るサヨに、俺も片手を挙げて返す。
「行ってくる」
 そして、サヨに背を向けて『エアリエル』の操縦席に乗り込む。手を貸してくれるセレスが、ちょこんと首を傾げて俺に問う。
「もう、お話はいいのですか?」
「話したいことはいくらでもあるけど、長話してる場合でもねーだろ」
 そうですね、とセレスは頷いて俺の手を離し、温もりの余韻を感じながら、副操縦席の扉を閉じる。
 そして、俺のいる空間は風防から差し込む霧明かりだけに包まれる。
 呼吸を整えながら、前髪をあげてヘルメットを被る。この決まりきった手続きも最後かと思うと、感慨深いものがある。いつだって、ここで過ごす日々の「終わり」を意識してはいたが、覚悟ができていたとは言えなかったから。
 それに、ゲイルが死んだあの日から、俺がオズワルド・フォーサイスとして飛べたことは、一度もなかったから。
 だが、今回は違う。
 俺は――最後の最後に、たった一人の俺として、霧の海を飛ぶ。
 同調器越しに俺の魂魄が船体と繋がり、流れ込む『エアリエル』の知覚情報に、俺の脆弱な魂魄が、脳が悲鳴を上げる。いつになってもこの感覚には慣れないが、今回はここからが本番だ。
「『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』、|開錠《ログイン》」
 目には見えない扉を開く呪文を口ずさむ。本当は声に出す必要などないけれど、それはそれ、雰囲気というやつだ。
 その瞬間から、俺は『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』とを繋ぐ一つの「橋」になる。これ自体は『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』を名乗った連中が俺にしたことと何も変わらない。
 唯一違うのは、俺という「橋」を通じて流れる情報を、俺自身の意志でセレスと同期するということ。
 意識の片隅で、セレスの声が青い波紋を帯びて囁く。
「ゲイル、準備できました」
「こちらもオーケイ。『エアリエル』の状態も問題なし。行けるぞ」
「では」
 ――飛びます。
 まるで散歩にでも出かけるような気安さと共に、セレスは青い翅翼を伸ばして、地面に別れを告げる。
 ふわりと持ち上がるような感覚と共に、『エアリエル』は霧の海に飛び込む。全てが白く濁った世界を、俺は『エアリエル』の目で見据える。後ろに残してきたサードカーテン島は、既に、遥か遠い。
「さて」
 魂魄の内側を激しく流れていく情報。その中から必要なものを拾い上げつつ、すっかり乾いていた唇を舐めて。
「航海を、はじめようか」
 
 今、戦いの海へと、舞い戻る。

1-35:足跡は確かに

 騒々しい足音が、すぐ横を行きすぎる。
「……いいぞ、出よう」
 物陰に隠れて息を殺すセレスの背中を叩く。セレスは無言で頷き、俺の手を取って歩き出す。走ろうにも、俺の足がついてこないから仕方ない。
 靴底を引きずりながら、身を隠すべき場所を『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に要求。応答に従い、基地の連中には見つからないよう、抜き足差し足『エアリエル』の待つ発着場に向かう。
 応答を一つ受け取るたびに、頭痛が深まる。『エアリエル』のできのいい解析機関を借りてすら、要求と応答には限界がある。それを全部生身で続ける負担はあまりにでかい。今までは連続で『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を覗くこともなかったから、意識すらしなかったが――。
 嫌な汗が額を伝う。セレスも俺の様子がおかしいことに気づいたか、くい、と俺の右手を引く。その青い眉尻は不安げに垂れ下がっていた。
「ゲイル、大丈夫ですか」
「大丈夫、じゃないなぁ……」
 虚勢を張るのも億劫なので、正直に答える。
 だが、ここで見つかって、独房に連れ戻されちゃ意味がないのだ。この手を掴んでくれたセレスのためにも。俺を信じてくれたロイドのためにも。何より、セレスと共に飛びたいと望む俺自身のためにも。
「でも、あと少しだ。多少の無理は、大目に見てくれ」
 セレスの背を、もう一度叩く。セレスは、じっと俺を見上げた後、きっぱりと頷いた。ここは無理をしてでも前に進まなきゃならない局面だと、セレスもわかってくれたらしい。それ以上は何も言わず、手を引いてくれる。
 その間も、基地内には通信が飛び交っている。早口に語られるのは近海の戦況だ。
『「オベロン」、教団戦闘艇と交戦開始!』
『報告にあった教団の要塞母艦、遠方に確認』
『観測部隊は「オベロン」の支援に徹するべしとの指示』
『正体不明の攻撃により観測艇一隻が中破、第六番|翅翼艇《エリトラ》と見られます』
 次のポイントに身を隠したところで、セレスは小声で問うてくる。
「ケネット少尉は、大丈夫でしょうか」
 観測隊の基地待機組が言い争う声に耳を澄ませながら、俺の見解を答える。
「微妙だな。戦闘艇はいくらかかってきてもジェムの敵じゃねーが……」
 飛び交う喧騒には、先ほどから「要塞母艦」という物騒な単語が混ざっている。情報を総合するに、どうやら俺たちが捕まえた連中が吐いてくれたらしい。現在の教団の拠点は、第三の帳近くに隠してあった要塞母艦なのだと。
 ……俺も人づてに聞いたことはあった。三年前、教団の残党狩りが行われ、奴らが『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の知識を元に開発した兵器のほとんども押収された。だが、唯一、建造途中だったとされる要塞母艦の行方だけがわからなかった、と。
 迷霧の帳は、その魄霧の濃度ゆえに記術頼りの探査も狂う。故に、サードカーテン基地の監視海域ぎりぎり外のあたりを彷徨うことで、追っ手を撒いていたということだろう。その要塞母艦が姿を現したということは、本気でこの基地を潰しにきていると見ていい。いやはや、面倒くさいことになったもんだ。
「しかし、『ロビン・グッドフェロー』は積極的に戦闘に参加していないようですね」
「だろうな。奴のこだわりが、今回ばかりはありがたい」
 もし、ここでトレヴァーが本気で立ち回っているなら、とっくに『オベロン』や観測艇を無視して基地そのものに攻撃を仕掛けている。本来、『ロビン・グッドフェロー』は敵地に潜入しての拠点爆撃を意図した船なのだから。
 だが、絶対に奴は「そんなのつまらない」と言い切るに違いない。長らく恋焦がれた相手とやりあうために、奴はここまでやってきたのだ。だからこそ、今は力を温存して待ち構えている。
 俺たち二人が、目の前に現れるのを。
「とはいえ、トレヴァーがいつまで待っててくれるかもわからねーからな。急ぐぞ」
 俺の側を観測部隊の連中が通過したのを確認して、セレスを促す。
 ついに発着場の扉が見えた。重たい足をどうにか引きずり、扉の裏に張り付く。
 当然だが、扉の向こう側には人の気配がする。声からするに、整備隊の連中だ。流石にこればかりは、今までのようにやり過ごすのは無理だと『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』も告げている。
 セレス一人ならともかく、俺が出て行って『エアリエル』に乗り込もうとすれば、抵抗されるに決まってる。俺とセレスで、できる限り素早く相手を無力化する方法を『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に要求、しようとして。
「行きましょう、ゲイル」
「おい、セレス!?」
 セレスが、俺の手を一際強く引いた。策もなく出て行ってどうする、という抗議すらできないまま、俺たちは隠れる場所もない発着場に飛び出してしまう。
 見れば、既に、整備隊の面々が『エアリエル』の周囲に集っていた。そいつらの視線が、一斉に俺に向けられて、思わず背筋が凍る。おいおい、独房から直行だったから、武器一つ持ってないんだぞ。これでタコ殴りにでもされようものなら、飛び立つどころじゃない。
 緊張に身を竦める俺を、一番扉に近い位置に立つおやっさんが鋭く睨めつけて。
「待ってたぞ、ゲイル」
「……え?」
「遅いっすよ! もー、途中で捕まっちゃったかと思って冷や冷やしたんすから!」
 ゴードンが声を上げ、周りの連中が笑いながら頷く。一瞬前の緊張が嘘のような和やかさは、流石の俺にもわかる。
 ……って、どういうことだ。
 呆然と立ち尽くす俺の前に大股に歩み寄ってきたおやっさんは、そのごつごつとした手で、俺の胸を叩く。
「飛ぶんだろう? 『エアリエル』の準備は済んでる。お前の分も含めてな」
「だけど、俺は」
 おやっさんだって、俺が捕まる瞬間を見てたじゃないか。俺がゲイル・ウインドワードじゃないと、思い知ったはずじゃないか。どうして俺なんかを待っていた?
 口をぱくぱくさせるばかりの俺を見上げて、おやっさんはよく響く声で言う。
「セレスが、言ったんだ。お前と一緒じゃないと飛ばないと」
 セレスに視線を落とせば、セレスは真っ直ぐに俺を見上げて、こくこくと頷いていた。その一貫ぶりにはただただ感服するしかない。本当に、俺が捕まったことにも、俺がセレスを遠ざけようとしたことにも、何一つ納得していなかったと見える。
「もちろん、お前の正体を考えれば再び『エアリエル』に乗せるなどあり得ない話だ。銃口が俺たちに向けられるという、最悪の事態も考えた。だが」
 おやっさんは、いつだって険しかった表情を緩め、白い歯を覗かせる。
「最低でも俺は、今までお前が見せた全てが演技だったとは思えなかった。そんな器用な奴でもないだろう、お前は」
 おやっさんの後ろでレオとゴードンがニヤニヤしながら頷く。っていうか何で皆ニヤニヤしてるんだ。俺が何をしたっていうんだ、とそちらを睨めば、ゴードンは両手を挙げながらもへらへら笑いながら言う。
「いや、今まで正体バレなかったのは正直すげーと思うっすよ。すぐ顔に出る上にカッとなりやすいのに、英雄殿を演じきったことには心から感服っす」
「全っ然褒めてねーなそれ!」
 くっそ、めちゃくちゃ馬鹿にされてるじゃねーか。俺を何だと思ってるんだ。あえて聞かないけど。怖いから。
 おやっさんも、周りの連中と同じように、いつになく愉快そうに笑いながら俺の胸をもう一度叩く。
「この基地に来る前に、お前が何をしてきたのか。どうしてお前が正体を隠して『ゲイル』としてこの基地にやってきたのか。そんなことは俺たちの知ったことじゃない」
 おやっさんの目は、どこまでも真っ直ぐで。
「俺たち整備隊にとっては、お前と過ごした一年が全て。それだけだ」
 真っ直ぐな言葉が、この胸に届く。
「お前が常日頃から言う通り、俺たちは船を万全の状態に整える。お前たち|霧航士《ミストノート》はその船で飛ぶ。今こそお互いの役割を果たす時だ。そうだろう、ゲイル」
 確かにそれは、俺自身の主義だ。ゲイルではない俺の考えだ。本当は飛べない俺にも万全な翼を用意してくれる皆に、感謝を忘れてはならないと。
「おやっさん……」
 セレスも言っていたじゃないか。俺がこの基地で過ごした一年間は、嘘じゃない。
 胸の中に渦巻く何もかもを押し殺して、ゲイルという仮面を被ってこそいたけれど、その時に俺が感じたこと、俺に周りが感じたこと。何もかもが嘘だったわけじゃない。
 嘘じゃないってことを、皆わかっていて、俺だけが目を背けていた。
 だけど、今、やっと飲み込めた気がした。俺がゲイルとして歩んできた足跡は、俺を否定するものじゃない。それどころか、俺がここに生きてきた、何よりもの証拠だった。俺一人が、それに気づいていなかっただけで。
「……ありがとう、おやっさん。皆も」
 自然と、感謝の言葉が、口をついて出る。
 すると、横合いからゴードンが「ひいっ」と変な声を上げる。
「殊勝なゲイルとか気持ち悪いにもほどがあるっす」
「うるせえゴードン! お前、後で砂利の上で鋼板抱いて正座な!」
 こいつはどうあっても混ぜっ返さないと気がすまないのか。俺が言えたことでもないのはわかってるが、一瞬ちょっとぐっと来てしまったのが馬鹿みたいじゃないか。
 多分、俺はとてつもなくぶすっとした顔をしてたのだと思う。「美男が台無し」と絶対に思ってもいないことを言いながら、レオが俺に何かを投げつけてくる。薄青に白のラインが入ったそれは、俺のパイロットスーツだ。
「ほら、とっとと着替えろ。んな格好じゃ飛べないだろう?」
 おやっさんの言うとおりだ。「悪いな」と応じて、改めて俺の手の中に収まったそれをしばし眺める。もう、二度と袖を通すこともないと思っていたのに、わからないものだ。
 その時、つい、と袖を引かれてそちらを見れば、セレスが俺をじっと見上げていた。
「ゲイル」
「あ?」
「嬉しいのですか。笑っています」
 ……なるほど。俺は俺自身が思っている以上に、顔に出やすい性質らしい。片手で緩む頬をさすりながら、溜息混じりに言う。
「ああ、そうかもな」

1-34:嘘吐きの翼

 手で覆った目が、熱い。ゲイルを失ったと理解したあの日から、ずっと閉じ込めて鍵をかけていた感情が、溢れて止まらない。もう、弱音は吐かないと決めたはずだったのに。喪失を受け入れられたはずだったのに。
 そんなこと、できるはずがなかったのだ。どうしたって「ゲイル」の影と向き合い続けなきゃならなかった俺が、後悔を拭い去れるはずもない。
 どうして。どうして、ここにゲイルがいないんだ。
 俺じゃダメなんだ。俺はゲイルじゃない、セレスの望む|霧航士《ミストノート》じゃない。俺はただ、あいつの猿真似をしていただけの、空っぽの人間なんだ。
「ゲイル!」
「見ないでくれ」
 こんな俺を見ないでくれ。
 こんな俺をゲイルと呼ばないでくれ。
 こんな俺のことなんて忘れてくれよ、セレス。
 そう、心から望んでいるにもかかわらず、目を覆っていた腕を無理やり剥がされる。はっと顔を上げれば、滲んだ視界にセレスの青さだけが焼きつく。
 そして、右の手首を強く握られたまま、声が、降ってくる。
「それが! そもそも、見当違いだと言っているのですっ!」
「……え?」
「ゲイルは! ゲイルが、ゲイル・ウインドワードという人間だから、わたしが一緒に飛んでいたとでも、思っているのですか!?」
 何を言わんとしているのかが、さっぱり理解できない。
 ……というのが、顔に出てしまったのだと思う。セレスは眉間の皺を更に一段深めて、俺の手首を握る手を強める。
「わかってないのは、ゲイルの方です。ゲイルは、本物のゲイルのフリをするのが嫌だと言いました。本物のゲイルがいないと飛べないとも言いました。それは、ゲイルの本当なのだと思います。でも、でも!」
 たどたどしく、しかし、有無を言わせない口調で、セレスは言葉を重ねていく。
「わたしが出会って今までを過ごしてきたゲイルは、たった一人です。英雄と呼ばれた、記録としてのゲイル・ウインドワードではなくて、今、ここにいる、ゲイルなのです!」
 ――今、ここにいる。
 その言葉の意味を理解した瞬間に、思わず震える声で言っていた。
「違う」
 そうじゃない。そうであってはならない。
「お前は、勘違いしてる。お前が見ていたのは、ゲイル・ウインドワードの演技であって、俺じゃない。ここにいる、俺じゃない! お前に、俺は見えてなかったはずだ!」
「それなら! 答えてください!」
 セレスは握ったままだった俺の手首をぐいと引く。ほとんど鼻がくっつくくらいの距離にまで、お互いの顔が近づいて。すぐ目の前で、セレスのちいさな唇が開かれる。
「わたしにかけた言葉の一つ一つの、全てが嘘だったのですか」
 ――……それは、違う。
「青い色が好きだと言ったのは、嘘だったのですか」
 ――違う。
「霧の向こう側を見たいと言ったのも、嘘だったのですか」
 ――違う。
「わたしを死なせないために飛んでくれたのも、嘘だったのですか!」
 ――違う……!
 答えろ、と言われたはずなのに、言葉が喉につかえて呆然とするばかりの俺の胸を、セレスの拳が叩く。決して強い力ではないそれが、どうしようもなく、胸に響く。
「ゲイルは馬鹿です、阿呆です、どうしようもない嘘つきです! どうして、わかりきった嘘をつくのです! どうして、自分自身に嘘をつくのです! どうして、自分を誤魔化して、大切なことから目を逸らすのですか!」
 今、ここに来て、やっと思い知った。
 ロイドが「セレスはしぶとい」と言った理由を。
「一人で飛べないなら、飛びたいって言えばいいんです! もう、ゲイルの言う『ゲイル』はいないのかもしれません! しかし!」
 セレスは――、
「わたしが、ゲイルの翼になってはいけないのですか!?」
 俺が押し殺していた声にならない「叫び」を、たった一人、聞き届けていたのだ。俺がずっと俺自身についていた嘘を、とっくに、暴いていたのだ。
 俺は飛べないんじゃない。飛ばなかったのだ。
 俺は誰にも許されない。失った翼は二度と戻らない。ともすれば暴れ出しかける感情に鍵をかけ、長らく焦がれた夢を諦めようとしていた。
 けれど。
「……セレス」
 無意識に、名前を呼んでいた。
 セレスティア。その名の通り、この世ならざる空の色をした、俺の夢と同じ色をしたセレスは、ぽこり、と一つ俺の胸を叩く。
「わたしは、『あなた』と飛びたいのです。ゲイル・ウインドワードでもオズワルド・フォーサイスでも構いません。『あなた』の翼になるために、ここにいます」
 ――それでも、飛べない理由があるとすれば、と。
 セレスは俺に語りかけてくる。その後の言葉は、聞かなくてもわかった。納得させろ、というのだろう。自分を納得させるだけの理屈をぶつけてみせろ、と。
「……はは、あー、参ったな」
 そんなことできるわけないだろ、馬鹿野郎。
 セレスの言うとおり、馬鹿なのは俺の方だ。周りに理解されないからって拗ねて、つまらない意地で本音を覆い隠して、物分りのいい奴を気取ろうとしたのが間違いだった。何もかもセレスにはお見通しだった、というわけだ。
「完敗だ。なるほど、俺は馬鹿で阿呆で大嘘つきだ。お前が全面的に正しい」
 全身の力を抜いて、溜息をつく。改めて、セレスを前に緊張していたのだと思い知らされる。
「お前の言うとおりだ。もう少し、わがままでよかったんだな」
 今から何をしようと、俺を待つ結末は変わらない。俺がオズワルド・フォーサイスである限り、この世界は俺を許さない。
 だが――、だからこそ、好きにすればいいのだ。存在しないものとして鍵をかけたそこを開けば、いくらでも未練が顔を出す。その全てを満たせなくとも、俺の首が胴体を離れる瞬間に後悔しないよう、駆け抜ければいい。
 |霧航士《ミストノート》の命は、そうでなくたって、どこまでも短いのだから。
 目下、俺の目の前に立ちはだかるのは、無粋な教団の残党と、そいつらに便乗するトレヴァーだ。今度こそ、あいつと決着をつけなければならない。あいつはきっと、俺を待っているだろうから。
「……ゲイル、行きましょう」
 セレスが、俺の手を引く。今までの鬼気迫る表情から一転して、淡く、笑みすら浮かべて。
「あなたが望むなら、わたしがあなたの『翼』になります。霧を裂き、吹き払う翼に」
 どこかで聞いたのか、それとも偶然の一致なのか。セレスがいつかのあいつと全く同じ口上を述べたことに、思わず笑ってしまいながら。
「お前が『翼』なら、俺はお前の『目』になろう。霧の向こう側を見通す目に」
 いつかと同じ言葉を、けれど、あの日とは全く違う心持ちで繰り返して、新たな「翼」の肩を叩く。
「……飛ぶぞ、セレス」
「はいっ」
 とは、言ったものの。つい、聞かずにはいられない。
「で、お前、どうやってここの鍵開けたんだ」
「グレンフェル大佐に頼まれました。『基地が陥落した場合、教団にフォーサイスの身柄を奪われる可能性がある。一時的に別の場所に移すから連れて来い』と。ただ、ゲイルを連れて行かれてはわたしが困りますので、命令には従いません」
 えーと、これ、わざわざセレスに頼んだってことは、要約すると「ジェムとセレスだけじゃトレヴァーの相手は荷が重いから寝てないで働けボケナス」ってことじゃねーかな。本音と建前を使い分けなきゃならない基地司令も大変だ。
「……先生には後で一緒に叱られような」
「はい」
 正直、脱走に命令違反とか叱られるじゃ済まされない気もするが、その辺りは仕向けた張本人のロイドがどうにかすると信じるしかない。せめて、俺に全責任を引っかぶせてくれることを期待する。
 開いた扉を前に、一つ、深呼吸をする。警報の鳴り響く中、肺に吸い込んだ空気は、張り詰めた気配に満ちている。いつまでたっても、出撃前の緊張には慣れることができずにいる。
 だから、ゲイルがいつもそうしていたように、俺もあいつを真似て、口の端を引き上げる。今だけは、あいつの無鉄砲さを見習うべきだ。
「じゃ、『エアリエル』を奪いに行きますか」
 セレスは「はいっ」と元気よく頷き、俺の手を引いた、のだが。
「痛い痛い痛い左手はやめて肩の辺りからちぎれるからやめろやめろって」
 ああもう、最後まで締まらねーな。
 でもまあ、そのくらいが、俺にはお似合いだ。
 
 ――行こう。
 
 これがきっと、俺の|最終飛行《ラスト・フライト》になる。

1-33:ひとりでは飛べない

 ――警報。
 サードカーテン基地に転属してから一度も聞いたことのなかった緊急警報の音色が、俺の意識を現実に無理やり引き戻す。染み付いた経験というのは、どうも俺の理性よりも強く肉体を制御しているらしい。
 警報に続いてロイドの声が響く。教団の船団が再び攻めてきた、おそらくは『ロビン・グッドフェロー』も一団に混ざっているはずだ、と。何となく、基地全体がばたばたしているのは、この独房からでも感じ取れる。
 だが、俺にできることは何もない。セレス一人でも『エアリエル』は飛ばせるし、何よりジェムの『オベロン』は上手く使えば『ロビン・グッドフェロー』を炙り出せる。ロイドも『ロビン・グッドフェロー』の弱点を知らないわけではあるまいし、勝ち筋がないわけではないのだ。
 ……まあ、現行最も「上手い」|霧航士《ミストノート》であるトレヴァーを前に、どれだけ作戦を遂行させてもらえるか、という最大の懸念はあるわけだが、どれもこれも、俺の関知できる範囲を逸脱している。
 俺が取れる唯一の行動は、けたたましく鳴き喚く警報を聞きながら、大人しくしていることだけだ――と改めて横になった途端、激しく扉が叩かれた。
「どういうことだ、オズワルド・フォーサイス!」
 横になったまま扉の鉄格子を見れば、ジェムが相変わらず敵意剥き出しの形相でこちらを睨めつけていた。とはいえ、因縁をつけられる覚えもないので、目を細めて睨み返す。
「あぁ? 何がだよ」
「教団の長が何を言う、奴らを扇動しているのは貴様だろう!」
「だから言っただろ。俺は何も知らない。連中が勝手に動いてるだけだ」
 ……本当に。もし俺が指示を下してるなら、もう少し上手くやるっつーの。それを言ったら余計に話がこんがらがりそうだから、沈黙を選ぶが。
「それより、こんなとこで油売ってていいのか、|霧航士《ミストノート》様。今、まともに戦えるのは手前だけだ、さっさと出撃しろよ」
「……っ、貴様に言われなくても!」
 顔を真っ赤にしたジェムが、激しい足音を立ててその場から駆け去る。
 いや、疑われてしかるべきではある。しかし本当に知らないのだから仕方ない。いっそ、何か知ってれば基地の連中の助けにもなれるというのに、いつも、俺は周縁から渦中を眺めていることしかできない。
 今だって、この独房の扉越しに、外の騒ぎを聞き届けるくらいしか――。
 と、扉に目を戻した途端、固く閉ざされていたはずの扉が弾け飛ぶように開いた。思わず「ひっ」と喉が鳴る。一体何が起こったのかわからずに混乱していると。
 騒がしさを貫く、青い、青い、声が。
 
「ゲイル、飛びますよ」
 
 セレスの姿をとって、そう、告げた。
 
 ――意味がわからない。
 本来ロイド以外に開く権限を持たないはずの独房の扉が開いたことも。セレスが今もなお俺を「ゲイル」と呼ぶことも。そもそも「飛ぶ」とは一体どういうことなのか。
 何もかも、さっぱり、わからない。
 しかし、セレスは俺の混乱など知ったことではないとばかりに、ずんずん独房に入ってくる。反射的にずるずる寝台の上を後じさりながら――もちろんすぐに壁に背中をぶつけるわけだが――まとまらない思考を必死に撚り合わせて問いかける。
「え、ちょ、お前、どうしてここに」
 ダメだ、現在の状況と「セレスがここにいる」ことの関係がどうしても理解できない。この緊急事態下でセレスが来る理由がどこにあるっていうんだ。これはもしかして悪い夢の続きなのか、と思い始めたその時。
 セレスが、珍しく眉間に皺を寄せて、きっぱりと言い切った。
「納得ができませんでした」
「……は? 何が?」
 思わず間抜けな声を上げると、セレスはきっと俺を睨みつけて。
「何もかもです!」
 と、いつになく激しい語調で言った。
 俺が何も言えずに口をぱくぱくさせている間に、セレスは言葉を連ねていく。
「ゲイルは、二度と姿を現すなと言いました。しかし、その要請に正当性がないと判断しました。正当性があると主張するならば教えてください。何故、ゲイルはわたしの姿が見たくないのですか。何故、ゲイルはわたしの声が聞きたくないのですか。ゲイルは、わたしという個人に対して嫌悪感を抱いているのですか」
「いや、それは、お前がどうこうって話じゃなくて」
「もし、そうでないのだとすれば、ゲイルは何故わたしと飛べないと言ったのですか。飛べない理由を教えてください。わたしに、納得ができるように!」
「ちょっ、そのっ、待ってくれ!」
 勘弁してくれ、今はそんなことを論じている場合じゃないだろ。なのにセレスはじっと俺を見据えて離してくれそうにない。納得できない、そうセレスは言った。つまり、納得するまでテコでもここを動く気がないということだ。
 驚きの波が引くと、苛立ちが募ってくる。今まで徹底的に従順であったというのに、何故かこんな時に限って我を張るセレスに対する苛立ちと、それを上手くあしらうことすらできない、不器用な俺自身への苛立ち。
 奥歯を噛み締めて、セレスを睨む。納得できないというなら、俺だってそうだ。
「まず、お前はなんで俺のことをゲイルって呼ぶんだ! 違うって言ってんだろ!」
「ゲイルが、そう言ったからです」
 ――何だって?
「ゲイルは言いました。『俺様のことはゲイルでいい』と。階級や敬称もいらないと」
「……お、おう、確かに言ったな」
 遺憾ながら俺は俺自身の記憶を疑えない。そう言った、という記憶がある以上、セレスの言葉は正しい。
 そして、俺はゲイル・ウインドワードではない、とは言ったが、セレスからの呼び方を改めた記憶はない。確かにそうだが、融通が利かないにもほどがあるんじゃないか。
 ……と、思っていると。
「それに」
 セレスは、寝台にへたりこむ俺を見下ろして、青よりも青い目を、瞬かせる。
「ゲイルは、何と呼ばれたいのですか」
「ああ?」
「わたしがオズワルド・フォーサイスと呼べば、ゲイルは納得するのですか」
 そうだ、と言おうとして、口を噤む。
 本当に?
 本当に、そうなのか?
 俺はどうして、そんなところに拘っているのか。呼び方くらい、どうだっていいはずだ。事実、セレス以外には「好きに呼べ」と言ったはずじゃないか。
「……違う、そうじゃない」
 なら、俺は何をそんなに嫌悪しているのか。それは、きっと、表面的な呼び名なんかじゃない。呼び名よりもよっぽど根本的な「認識の相違」が、俺の意識をぎりぎりと苛むのだ。その青すぎる視線と一緒に。
 ああ、そうだ。
 初めて出会った時から、セレスは俺の懐に踏み込んできた。最初は違和感しかなかったけれど、すぐに、セレスが側にいることを心地よく感じる自分に気づいたのだ。
 だが、それは――。
「呼び方だけ変えたところで意味ないよな。お前が見てるのは、俺じゃないんだから」
 今までセレスの側にいたのは、どこまでも「オズワルド・フォーサイス」ではない。
「お前が言う『ゲイル』は、どこにも存在しないんだ、セレス」
 セレスの青い目に映っていたのは、俺の中に遺された記憶から形作った、本来の俺からは程遠い「ゲイル・ウインドワード」の仮面だ。
 どんな時でも上を向き、口元に笑みを絶やさずに。実のところ、海の上しか見ていない人でなしでありながら、それでも、俺が憧れてやまなかった男の姿だ。
「ゲイル」
 ああ、セレスの目に映る俺は、きっと酷い顔をしている。
 今まで必死に意識しないようにしてきたのに、セレスの鏡のような青い瞳は、否応なく俺を暴き立てるのだ。ゲイルの顔をしていながら、どうしたってゲイルになりきれなかった「俺」を。
「……そうだよ、それが、嫌だったんだ」
 だから。
「ずっと、ずっと、嫌だったんだ」
 うつむいて、顔を覆って、セレスの青すぎる目を遮って。それでも、胸の奥から湧き出てくる言葉を、止めることができない。
「ゲイルのフリをし続けるのも、英雄って呼ばれるのも。俺が、殺したも同然なのに。俺のせいで、あいつは死んで。俺だけが、生きてっ」
 こんなこと、セレスに言ったって仕方ない。
 今更泣いても喚いても、目の当たりにしてきた「事実」が覆りなんてしない。
 それでも、
「俺は、一人じゃ飛べないのに」
 俺は、
 
「何で、ここにいないんだよ、ゲイル……!」
 
 あいつがいないと、飛べないんだよ――!

1-32:あの日の真実

 何故ゲイルが死んで、俺がここにいるのか。きっと、誰だって聞きたいことだ。
 ただ、それは「俺だって聞きたい」のだ。尋問の時、ロイドに向かって「何故か」と問い返したのと同じ。
 それでも、いくつか想定できることはある。あくまで、俺の主観による、極めて曖昧な認識でしかないのだけれど。
「これは、後から聞いた話と、俺自身の記憶を継ぎ接ぎした『妄想』に過ぎないんですが」
「ええ、構わないわ」
「ゲイルは、俺の助けを求める声を、聞いたんだと思います」
 ロイドはその言葉だけで、俺の言わんとしていることを理解したようだった。深い溜息と共に、言葉を吐き出す。
「そう。あんたたちは、繋がってたのね。あんたが囚われた、その後も」
 かつて、俺とゲイルは常に『エアリエル』を通して魂魄を同調させてきた。結果『エアリエル』の外でもお互いの魂魄を探す癖がついていたのだ。声に出さなくとも意思疎通が成り立つこともあれば、離れていてもゲイルの感情が伝わることだってあった。
「発見された時、俺の魂魄はずたずただったそうですが、それでも、修復可能な損傷でした。完全に壊してしまうと『虚空書庫』の閲覧もできませんから、連中も加減したのでしょう。だから、無意識に助けを求めていたのだと、思います。動くことも考えることもできないまま、ただ、助けてほしい、とだけ」
 当時のことはほとんど記憶していないが、絶えず助けを求めていたというおぼろげな認識だけは残っている。生きているとは言えず、さりとて死ぬこともできない俺の、最後の足掻きだったに違いない。
「ゲイルは、俺が教団を率いているという噂を信じなかった。教団との戦闘にも消極的だった。そうですよね、先生」
「ええ。でも、三年前の教団の本拠地強襲だけは率先して飛んだらしいけど……、そう、あんたの声が聞こえていたなら、当然ね」
 ゲイルは最初から、俺を殺す気なんてなかったのだ。俺たちの船で、俺を迎えに来た。ただ、それだけだった。それだけだったのに。
「ゲイルは、俺を助けに来て、殺されたんです。俺を救出しようとした隙を突かれて」
 ロイドが息を呑んだのは、扉越しにもわかった。
「ただ、ゲイルが連中の気を引いたお陰ですかね、当時ゲイルの僚機を務めたアーサーが、俺の回収に成功して帰還した、と聞いています」
 それもこれも、全て後から聞いた話なので、どこまで事実かは俺にはわからない。それでも、ゲイルが俺を助けに来て、結果命を落とすことになったということだけは、間違いないと思っている。
 覚えてなどいないはずなのに、ゲイルが俺の目の前に現れた瞬間を、命を失った瞬間を、はっきりと思い描くことができるから。『虚空書庫』が、要求もしていないのに、その時のイメージを俺の内側に焼き付けてしまったから。
「その後は、多分、十分想像できると思います。ゲイルの死は公表できない。俺の生存も公表できない。どちらも、女王国の士気や世界の情勢に関わる重大な問題だったから」
「だから、あんたが『ゲイル』の名前を背負った」
「それ以外に選択肢が無かったから……、とは、言い切れませんけどね」
 本当は、一息に殺してもらいたかったのだ。
 居場所を奪われ、使いものにならない体と、あやふやな真実を抱えたまま。二度と「オズワルド・フォーサイス」として生きることが許されないなら、死んだ方がよっぽど楽だと思ったのだ。
 だが、俺がそう伝えた時、サヨは静かな、しかし確かな怒りを篭めた目で俺を見下ろして、言い放ったのだ。
『あんたは生きろ。ゲイルの仮面を被ってでも、地面を這いずり回ってでも生き続けろ。それがゲイルとあたしのために、今のあんたができる、唯一だ』
 ――と。
 サヨは俺を恨んでいるのだ。ゲイルの死の原因を作った、俺を。そう思えば、少しだけ気が楽になった。
 俺には、生きる目的が与えられている。それが憎悪や怨恨に起因するものでも、俺のこれからが、俺のせいで死んだゲイルと、ゲイルを失ったサヨのためのものであると思えば、まだ、立ち上がれた。立ち上がらなければならないと、思えたのだ。
 そこまでを説明したところで、ロイドが「どうかしらね」と静かに言った。
「……それは、本当に、恨んでたのかしらね」
「どういうことです?」
「いいえ、あんたが気づいていなければそれでいいわ。とにかく、あんたはそうして『ゲイル』として今まで生きてきた、ってわけね」
 はい、と答えたところで、言葉が尽きた。
 耳に痛いほどの静寂の中、時折チェスの駒を動かす声と音だけが、独房の扉を挟んで響く。
 白の歩兵の射程に飛び込んだ駒を刈り取ったところで、ふと、この機会に聞けていなかったことを聞いておこうと思った。多分、これが最後の機会であろうから。
「あの、俺からも聞いていいですか」
「どうぞ」
「先生、俺がオズだって、気づいてましたよね?」
 最低限、俺がサードカーテン基地に転属した当初から、ロイドは俺が「ゲイルではない」と確信していたはずだ。「俺」とわかっていたかどうかはまた別の話として。
 案の定、ロイドは小さな笑みの気配と共に、声を投げ返してきた。
「ええ。でも、いつからわかってた?」
「確信したのはセレスが来てから。その前から、そうかなとは思ってましたけど」
 ロイドは、司令として命令を下す際に、個人を指す記号として「ゲイル・ウインドワード」と呼ぶことはあっても、プライベートでは一度も俺を「ゲイル」と呼ばなかったから。
「そうね。あんたがゲイルじゃないっていうのは、すぐにわかったわ。証拠はどこにもなかったけど。ただ、ほとんど『完全な』ゲイルの模写から、オズなんだろうなって思ってた程度で。あんたは完璧主義者だから、やるなら徹底的にやるでしょう?」
「そりゃ、やると決めたら手は抜けませんから」
 黒の騎士を動かしてから、ロイドはくすくすと笑いながら言う。
「セレスを『エアリエル』の操縦士として教育しろ、っていうのは時計台の指示だけど、あんたを教育係に任命したのは、ご想像のとおり、あんたがオズだったからよ。ゲイルが他人を教えるなんて、逆立ちしても無理だわ」
「やっぱりそうですよね」
 予測はできていたけれど、改めて言われると情けない話だ。俺ではなくゲイルが。あいつは気のいい奴だが、人として色々足りてなかったから、ロイドの判断は極めて正しい。
 ただ、それと同時に、どうしても疑問が拭えなくて。俺は、乱れそうになる呼吸を何とか整えながら、問いを、投げかける。
「……先生は、俺を疑わなかったんですか」
 時計台で己を偽り続けるのに耐え切れず、転属を希望したのは俺自身だが、それでも気が休まったことは一度もなかった。
 いつ、この平和極まりない生活が終わるのか。じりじりとした不安を抱えながら、しかし、一年の間、俺はゲイルの役を全うし続けてしまった。
 ――どうして、ロイドは俺を告発しなかった?
 それこそが、今に至るまでの最大の疑問だったのだ。
 すると、ロイドは「あのねえ」と呆れた声を上げ、笑い声すら混ぜながら言う。
「私の知ってるオズは、そんな大それたことをできる人間じゃないわよ」
「……なるほど」
 思わず、心の底から納得してしまった。ロイドは本当に俺という人間をよく理解している。
 そうだ、俺の望みなんて、ほんの些細なものだったのに。それすらも、俺の手を遠く離れて二度と届かないものになってしまったことを思い知る。
 戻らないものを思っても仕方がない。どうしようも、ない。
 想像上のチェス盤に向き直ろうとした俺の意識に、ロイドの声が割り込んでくる。
「それで、あんたは、どうしたい?」
「……どうしたい、とは?」
 問いの意味が、全く理解できなかった。
 ロイドは、「物分りの悪い生徒ね」と溜息混じりに言葉を加える。
「あんたの説明は理解できたわ。教官として、あんたをよく知ってるから。ただ、信じない奴が大半でしょうね。私もサードカーテン基地司令という立場なら、あんたの話は『妄想』だと言って切り捨てる」
 サードカーテン基地を、守るために。
 世間に知られている姿の方が偽物であったとしても。どんな理由があったとしても。今まで基地の人間全てを騙し、英雄の名を騙った『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》の教主オズワルド・フォーサイス』を野放しにはできないのだ。
 当然だと思う。もし俺がロイドの立場なら同じ判断を下す。
 なのに、ロイドは「でも」と続けるのだ。
「私や周囲の判断と、あんたの希望の間にはなんにも関係がない。ねえ、あんたは、今、どうしたい?」
 俺はロイドから見えないのをいいことに、強く、強く、唇を噛む。そうして、反射的に浮かびかけた答えを飲み込んで、その代わりに想像上の駒を動かす。
「白の騎士を、b6へ」
「オズ、質問に答えなさい」
 見えなくたって、ロイドはきっと俺の動揺に気づいている。この胸に狂おしいまでの感情が渦巻いていることも。
 それでも。
「その質問に、何の意味がありますか?」
 俺は何も望まない。望んではならない。そう思い極めてここにいるのだ。何もかもを捨て去った今、その決意すらも折るわけにはいかないのだ。
 ロイドは、俺の言葉に深く溜息をついた。そこには多分に失望の感情が篭められていたのだと思う。
「そう。そうね、あんたの問いに答えるなら、私の質問に意味はないわ。だけど」
 ロイドはほんの少しだけ、声のトーンを下げた。
「最期の瞬間に後悔しないようになさい。|霧航士《ミストノート》の命は短い、あんたの生きたいように生きて、笑って死になさい」
「それは、命令ですか」
「まさか。命令されなきゃ従えない?」
 俺は、ロイドから見えないとわかっていても、首を横に振った。ロイドの言葉に従う、という意味ではない。仮に命令されたって従える気がしない、という意味だ。
 俺の生きる目的は、行くべき道は、既に閉ざされている。この扉は俺の意思では開かない。この廊下の先に待つのは断頭台である。
 それを認めた以上、何も考えないようにすること以外、俺にできることは何一つないのだから。
「あーあ、これは足掻いても勝てないわね。|投了《リザイン》よ」
 一瞬前までの真剣な語調が嘘のように、あっけらかんとロイドが言う。
「鈍ってるわね。最近、あんまり打たせてもらえてないからかしら」
「賭けチェスは流行ってますけど、ロイド相手じゃ賭けになりませんしね」
 うちの基地で、ロイドに敵う奴はいないんだ。賭けを持ちかけてもいいことはない。
「しょうがないわね。次までには勉強し直しとくわ」
 ――次。
 あるはずもない、仮定。
「ロイドまで、そんなこと言うんですね」
「あら、誰かにも言われた? 例えば、セレスとか」
 俺は沈黙をもって肯定とする。すると、ロイドは大げさに溜息をついてみせた。
「セレスもかわいそうよねえ。本気であんたのこと心配してるのに『二度と俺の前に姿を現すな』なんて言われたら、流石に傷つくわよ」
 バレてるじゃねーか。俺とセレスの間に何があったのかも、俺が何を言ってしまったのかも。独房の会話は全て記録されているだろうから、大方それを参照したのだろう。
 全く性格が悪い、と思っていると、ロイドのいやに明るい声が扉越しに響く。
「セレスはしぶといわよ。覚悟しときなさい、『ゲイル』」
 思わず立ち上がって、鉄格子越しにロイドを睨もうとするが、その時には既にロイドは扉の前を離れ、廊下を遠ざかっていくところだった。
 途端、全身の力が抜けてしまって、そのまま、背中から寝台に倒れこむ。左の肩が酷く痛んだが、もう、どうでもいい。
 何もかも、何もかも、どうでもいい。
 どうでもいいと思いながら、頭の中に響く声が、今もなお消えてくれない。
 青い、青い、声が――。

1-31:見えない盤面

 ゲイル、と。
 知らず知らずのうちに声が出ていた。
 その声が、かつての俺とまるで違うことに気づいて、今見ていた光景が夢であったのだと理解する。
 そんな不愉快な目覚めを、何度経験しただろうか。目覚めなければいいのに、と思ったのも何度目だったか、と考えかけて、数える意味を感じなかったので魂魄の片隅に追いやる。
 結局のところ、俺は、過去の記憶に溺れきることもできずに、今と過去の間を浮き沈みし続けている。「今」にどれだけの意味があるのかもわからないけれど、まだ、俺の肉体と魂魄は、この時間に縛り付けられたまま離れてくれない。
 窓もなく、時計もない、明かりも一定のこの独房では、時間の流れも曖昧だ。届けられた夕食が冷めて表面が乾き始めているところを見るに、夜も更けてきた時刻だろうか、と呆けた頭で判断する。
 食欲はない。
 ここに連れて来られてから食事に手をつけた記憶がないが、全く空腹を感じない。
 じくじくと痛みを訴える左の肩を刺激しないよう、右の肩を下にして横になったまま膝を抱える。
 せめて、もう少し夢の中にいたかった。どうせ、そのくらいしか今の俺にできることもなかったから――。
 瞼を閉じかけたその時、何かが近づいてくる気配がした。足音、ではない。それが何であるのかを鈍った頭で判断する前に、音が止まる。そして、二回のノックの音と共に。
「久しぶりに遊びましょう、オズ?」
 ロイドの声が、聞こえた。
 まさか、と思いながらも何とか体を起こして、鉄格子越しに廊下を見る。
 そのまさかで、車椅子に乗ったロイドがひらひらと手を振っていた。ミラーシェードの向こう側の表情は計り知れないが、口元は親しげな――俺のよく知る笑みを浮かべている。
「基地司令が、こんなとこで油売ってていいんです?」
「私だって、慣れない仕事が大量に降ってきて疲れてんのよ。わかりなさい」
 今まで、サードカーテン基地はあまりにも暇だった。長らく時計台の|霧航士《ミストノート》をやっていた俺が、暢気な空気に眩暈を覚えたくらいには。その基地司令として着任して今までやってきたロイドにとって、この緊急事態は紛れもなく「慣れない仕事」のはずだ。
 とはいえ、それだけが理由とも思えない。
「で、本当の目的は?」
「ゆっくりあんたの話が聞きたいのよ、オズ」
「でも、俺に話せることなんて……」
「いいのよ、どうでもいいことで。私はあんたと話したいだけだし、ここでの話は、よくも悪くもあんたの処遇には関わらない」
 よくも悪くも。なるほど、俺がここで洗いざらい吐いたところで、逆に丸々嘘をこしらえたところで、何一つ俺の未来は変わらないということだ。そして、ロイドが言葉を違えるような男でないことは、俺が一番よく知っている。幾分気が楽になったので、その場に座り込み、扉に背を預ける。
「で、何で遊ぶんです? 俺、出られませんけど」
 扉にもたれかかったまま、こんこんと後ろ手に叩く。ロイドは声だけで笑って返してきた。
「チェスでもどう? 私の記憶が正しければ、今のところあんたが勝ち越してたでしょ」
「ここからじゃ盤面もろくに見えませんよ」
「見えなくたって十分でしょ。その程度、あんたにはハンデにもならないじゃない」
 ロイドの言うとおり、何度も目隠しで打たされた経験はあるし、それ故に負けたこともない。|翅翼艇《エリトラ》を操ることと、体を使うことはてんでダメだが、純粋な首から上だけの勝負で後れを取る気はさらさらない。
「いいでしょう、受けて立ちます。今のところ俺の三十一勝三十敗十二引き分け、無効試合が二です」
「ここに来てからゲイルとして打った回数は除いて、ね」
「当然。あの下手さを再現するのもなかなか大変だったんですからね」
 ちなみに無効試合の内訳は、突然乱入してきたゲイルが盤面をひっくり返したのが一回、トレヴァーに追いかけられたゲイルを匿った結果うやむやになったのが一回。これだから|霧航士《ミストノート》ってやつは。主にゲイルとトレヴァーな。
 ロイドは、車椅子に座った膝の上に、訓練生当時よく目にした携帯用のチェス盤を乗せているのだろう。駒を置く音を響かせながら、楽しげに笑う。
「どうやら、記憶力と頭の働きは健在みたいね」
「まあ……、意識さえあれば、ですけどね」
 つい、自嘲気味な呟きが漏れてしまう。だが、そのくらいは許してほしい。俺が、一連の出来事に対してあやふやな言葉しか選べない理由は、何もかもその一点に起因するのだから。
 ロイドは一瞬駒を置く手を止めたが、すぐに再開して全ての駒を盤の上に載せ終わったようだった。
「手番は選ばせてあげる。どっちがいい?」
「では先攻で。白の歩兵をe4へ」
 かつり、と。駒が盤を移動する音が響き、俺の想像上のチェス盤の上でも駒が動く。ロイドはほとんどそれにかぶせるように相対する黒の歩兵をぶつけ、しばし、間髪入れずに切り結ぶ。
 数合のやり取りの後、ロイドが女王の駒に手を出したところで一拍呼吸を置くことにした。盤面の状況を確かめながら戦術を検討していると、ロイドがぽつりと問うてきた。
「ねえ、オズ」
 思考を続けながらも「はい」と返事すると、次いで質問が投げかけられた。
「何で、姿を消していたの?」
「……馬鹿馬鹿しい話です。一言で言えば、誘拐されたんです」
 誘拐? と、怪訝な声が聞こえてきた。そういえば、サヨも全く同じ反応だったと思い出す。本当に、馬鹿馬鹿しい話だ。大の大人が誘拐だなんてお笑いだが、当事者の俺にとっては笑い話でも何でもなかった。
 扉の側に置かれた盆から、水のコップを取り上げて、口を湿す。どうしたって、長い話にしかならないから。
「七年前、俺は、現在の教団幹部と呼ばれている連中に誘拐され、監禁されました。理由は単純で、俺が『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の閲覧権限保持者だったから、です」
 奴らはこう主張した。
 世界の全てを記述する『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を解析することができれば、世界の真実を手にした人類は更なる飛躍を遂げる。是非、唯一の『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』閲覧権限を持つ君に協力してほしい、と。
「俺はもちろん拒否しました。別に、世界の真実になんて興味ありませんし。それより、早く戻らなければゲイルや皆に迷惑がかかるとばかり、思ってた」
 俺が協力する姿勢を見せなかったことで、連中はすぐに本性を表した。俺が進んで協力するなんて、最初から思ってなかったんだろう。拘束されて床に転がされた俺を見下ろす連中の目は、明らかに人ではなく「もの」を見る目だった。
『そうだ。これが、人である必要はない』
『人の形をしているだけでいい。不要なものは全て削り落とせ』
 そう言ってのけた連中は、まず、俺の手足と声を奪った。とはいえ「人の形」を残すために、腱を切り声帯を潰すという形で。その後、薬と術で魂魄を壊すことで俺の自我を奪った。挙句の果てには、物理的、精神的な抵抗ができなくなった人形同然の俺を、解析機関に括りつけた。頭蓋骨を切除して、脳に解析機関との接続端子を埋め込むという形で。
「解析機関を通して『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の情報を読み出せるように、俺を『部品』として組み込んだわけです。そんな、意志も思想も持たない、問いに答えを返すだけの『書庫』が、『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』教主オズワルド・フォーサイスの正体です」
 今も俺の手足が不自由なのは、戦闘での怪我ではなくこの時に受けた傷の後遺症だ。治療を受けて腱自体は繋がっているが、四年に渡る『書庫』として過ごした時間は、人らしい動きを忘れるのには十分すぎた。
「……長い話になりましたね。d4の歩兵を一歩前へ」
 想像上の盤面を確認し、駒を動かす。ロイドは「なるほど」と俺の話かチェスの戦局かどちらに対してかわからない感想を漏らしてから、低い声で言う。
「つまり、あんたは三年前に教団の本拠地が壊滅するその時まで、表向き教団の教主として祭り上げられながら、実際には連中の言う教典――『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』として使い潰されていた」
「ええ。先生は話が早くて助かります」
「でも、どうしてあんたが狙われたの? 『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』なんて実在自体が疑われてるじゃない」
 そう、それは当初、俺も疑問に思っていた。
 ロイドは俺の能力――もしくは「異常性」を正しく理解している。俺が『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の閲覧権限所持者であることも。その事実を知るのはロイドと、軍関係者でもごく一部。|霧航士《ミストノート》の同期と『エアリエル』の設計に携わる変態エロ魔女アニタ・シェイクスピア博士、それに直属の上司くらいだったと思う。
 他の連中は、俺のことを「少し勘のいい奴」としか思っていなかったはずだ。そもそも『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』なんて、一部の神学者の間で実在が議論される程度のオカルトで、存在を知らない奴が大半だ。
 ただ、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』は確かに存在するし、書庫に触れられる人間も実在するわけで。
「ほとんど記憶はないですが、かろうじて捉えられた連中の話を総合するに、どうも連中を組織したのは数十年前に死んだ、先代の閲覧権限保持者らしいんです」
「……何ですって?」
 これは流石にロイドも初耳だったらしい。教団が爆発的な勢いで勢力を広げ始めたのが今から数年前なのだから、その前身が長らく息づいていたこと自体が意外だったのだろう。俺だってそんな教団、実際に囚われるまで存在も知らなかったのだ。
「で、厄介なことに先代が死に際に予言したらしいんですよ。自分が死んでも新たな教主が現れ、信ずる者に無限の知識を与えるだろう、と」
 かくして、血眼になって『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の閲覧権限保持者を探し求めていた連中の手にかかった俺は、『教主』の肩書きを持つ、もの言わぬ書庫と成り果てた。
 三年前――、ゲイルが、俺を助けに来るその時までは。
「黒の歩兵をb5へ」
 ロイドは、盤上の駒を動かし、静かに問いかけてくる。
「三年前、何があったの? どうしてゲイルが死んで、あんたが『ゲイル』にならなきゃならなかったの?」

1-30:夢を見ていた

「何ふさぎ込んでるんだよ」
「……ほっといてくれ」
 つい、棘のある言葉を投げ返しながら顔を上げれば、ゲイルが俺を見下ろしていた。
 光をはらむと燃えるように輝く、赤みの強い金髪に、柔らかな|琥珀色《アンバー》の瞳。鮮やかな色彩は、重く沈んだ色をした俺とは大違いだ。魂魄レベルの「色彩」も含めて。
 長らく『エアリエル』を通して同調し続けているからだろうか、俺の目には『エアリエル』を介さない今もゲイルの魂魄が色として見えている。目にも眩しい金色として。
 やけにきらきらして見えるゲイルは、俺の横に座ると、椅子の背にもたれかかって、天井を仰ぐ。
「もしかして、またロイドに怒られたのか?」
 俺が答える前に、いつの間にか目の前を通りがかっていたらしい――そう、こいつはいつだって気配を見せないで近づいてくる――トレヴァーが、口元に笑みを貼り付けて言う。
「らしいよ。まあ、ロイドも手を焼く問題児だからねえ、オズは」
 トレヴァー、とゲイルがたしなめるような声音で言う。とはいえ、言い方はともかくとして、トレヴァーの言うことが間違っていたことは、今まで一度もない。
「いいさ、事実だ。俺が飛べないことも、先生の手を煩わせてることも」
 ロイドに怒られた、というゲイルの指摘は正しくはない。ロイドは前の戦闘のログから、俺が決定的に欠いた部分――つまり、飛行能力の欠如を指摘したに過ぎない。それが、どうにもならない「適性」であるとお互いわかっていながら。
 ゲイルがいるならそのままで十二分だ、とロイドは言う。ただ、例えば戦闘中にゲイルが蒸発したら。そうでなくとも、ゲイルが戦闘不能の状態に陥ったら。俺は一人で戦場を飛ぶことになる。それで無事に帰還できるだけのビジョンがあるか、と問われて、答えに窮したのだ。
 つまり、俺が落ちこんでいるのは俺自身の情けなさに対してであって、ロイドのせいではない。
 再びうつむきかけていた顔を上げると、いきなり、トレヴァーの細い目が目の前にあってびっくりする。近い。やけに近い。瞼を縁取る白い睫毛とは対照的な小さな黒い目が、俺をじっと見据えている。
「オズ」
「何だよ」
「その口癖、止めたほうがいいと思うよ」
「え?」
「『俺は飛べない』って」
 口癖、のつもりはなかったが、ざっと記憶を見直してみるに、確かに口癖と思われておかしくないくらい、同じ言葉を繰り返していたことに気づく。
 それは、いくら逆立ちしても変えることのできない俺の「適性」だ。俺は致命的に、|翅翼艇《エリトラ》との同調適性が無い。全|翅翼艇《エリトラ》中最も単純な『エアリエル』ですら、俺にとってはただ「真っ直ぐ飛ばす」だけが精一杯で、ゲイルのように全身全霊で『エアリエル』の力を引き出すことができない。
 その、事実を語っているに過ぎない、つもりではあったのだけれど。
 トレヴァーは、いつになく真剣な顔つきで、薄い色の唇を開く。
「君はいつか、それを言い訳にしそうだからね。自分で飛べようが飛べまいが、ボクらは|霧航士《ミストノート》だ。己の命すらも翅翼に捧げる『飛行狂』だ。その事実は変わらないんだよ、オズ」
 どきり、とした。トレヴァーの言葉に。その視線に含まれる静かながらも苛烈な非難の色に。
 そして、ゲイルもけたけたと笑いながら、俺の背中を強く叩く。
「……こればかりはトレヴァーが正しいな。反省しろよ」
 舌打ちが口をついて出る。簡単に言ってくれる。これだから、飛べる連中は嫌なんだ。ただ、こいつらの言葉に苛立ちを覚えた以上、図星ということでもある。
 どんなに他人や自分自身が俺をこき下ろそうと、俺もまた、|霧航士《ミストノート》なのだ。
 こいつらのように自由には飛べなくとも。
 生まれついたこの「目」をもって、ゲイルや仲間を導く|霧航士《ミストノート》だ。
 つい、トレヴァーから視線を逸らして、けれどその言葉の意味をじっくり吟味していると、ゲイルが急に立ち上がって、俺の腕を引いた。
「オズ、そうやってじっとしてっから落ち込むんだ」
「は?」
「飛ぶぞ」
 待て、出撃許可は出てないだろ。『エアリエル』を勝手に飛ばせば、また上官にどやされる。もう訓練生じゃないのだから少しは落ち着けと、俺までロイドに呆れた顔で見られるのは目に見えている――!
 そんな俺の必死の訴えなど、ゲイルに届くはずもない。「飛ぶ」と言ったゲイルは、絶対に言葉を覆さない。俺を連れ出すのだって、飛ぶための建前に過ぎないのだから。
「トレヴァー! ゲイルを止めてくれ!」
 せめて、横でニヤニヤしているトレヴァーに助けを求める。俺の声は聞こえなくとも、「天敵」たるトレヴァーが何か言ってくれれば、少しは効果が上がるかもしれないという願いがあったのだが。
「ふふ、これは間近で舐めるようにゲイルを見つめるチャンス」
「畜生、こいつ話通じないんだった!」
 わかってはいた。わからないふりをしておきたかっただけだ。
 ゲイルは半ば「一緒に飛ぶ」と宣言したも同然のトレヴァーに対して「げっ」という顔をしながらも、俺の体を引きずるのを止めない。
 こうなってしまっては、ロイドか誰かが通りがかって止めてくれないと無理だ。なす術も無く引きずられながら、俺は腹の底から、深く、深く、溜息をつくしかなかった。
 
 
 これが過去の記憶であることを、一拍遅れて把握する。
 ――俺は、本当の意味で物事を「忘れる」ことができない。
 それが、物心ついたころから開かれていた『虚空書庫』の影響かどうかは知ったことではないが、とにかく、俺は一度目にした風景を、耳にした音色を、この肌に触れた何もかもを、忘れることができない。
 いくら「忘れたい」と願ったって、本当は忘れられないとわかっていながら、過去の記憶を意識の奥底に封じていた。そうしなければ、今の俺が「俺」を続けていくことに耐え切れなかったから。
 だが、もうよいのだと、俺の一部がそっと囁く。
 抵抗をやめて、記憶の海に飲まれて。現実から遠く離れた、積み重ねられた過去の底に沈んでしまえばいい。そうすれば、きっと楽になれる。
 ――二度と、目覚めさえ、しなければ。
 
 
『なあ、オズ』
 ゲイルと過ごした、幼い日を思い出す。
 俺が描いた青空を探しに行こうとして、下町で一番高い建物に登って、その上に更に梯子をかけて。それでも、頭上にかかる霧を越えることができなかった日。
『もっと高い場所に行こうぜ。俺とお前の、二人でさ!』
 それが、ゲイルとの最初の約束になった。
 そして、一つの約束が果たされると、新しい約束が増える。何しろ、霧の海は厚く深く、何より高く高く俺たちの前に立ちはだかっている。梯子では届かないなら飛ぶ手段を探し、最も速く高く飛ぶ手段として|霧航士《ミストノート》を選んだ今もなお、霧の海の向こう側なんて、夢のまた夢。
 そもそも「青い空」なんて、俺だって夢でしか見たことのない代物だ。空が青いなんて話、他の誰からも聞いたことはない。俺の想像力による、他愛ない子供の夢でしかない可能性だって、否定できなかったんだ。
 ――それなのに。
「なあ、オズ」
 あの日と同じように、ゲイルは俺に語りかけてくる。『エアリエル』に響くゲイルの声は、俺の内側に黄金色の波紋を生む。
「今日は、どんな夢だった?」
 青い翅翼を広げた『エアリエル』は、ゲイルの手によってゆるやかに制御され、ゆったりと霧の海の低層を泳いでいる。上下左右、三百六十度の白に埋め尽くされた視界の中、たった一隻、翅翼の青い光を投げかけながら泳ぐ。「視覚」に特化した俺とは対照的に、「聴覚」に依存した感覚系を持つゲイルから伝わる、風の歌声を聴きながら。
 実際はトレヴァーの『ロビン・グッドフェロー』が追随しているのだろうが、戦闘でもないのに全力で探知する理由もない。俺も最低限の知覚を維持しながら、ゲイルの問いに答える。
「いつもと変わらない。青空と、その下に広がる湖のような風景」
 俺が、そんな夢を見るようになったのは、いつからだっただろう。物心つく前からだった気がする。気づいた時には、脳裏に青い空の風景が焼きついて離れてくれなかった。
 しかも、その夢はごく細部まで思い出すことができる。空にたなびく白い煙の形も、数も。水面を走る波の色も。何もかも、何もかも。
 それを、俺は、遥か高い場所から見つめている。それがどこなのかもわからないけれど、たった一人で見つめていることだけは、間違いなかった。
「そうだ、今日は鳥が飛んでたな」
「鳥?」
「ああ、俺の頭のすぐ上を行きすぎたんだ。『エアリエル』の視界で見るのと同じくらい、はっきり見えたよ。力強い羽を持った、大型の鳥だ。俺の知らない形をしてた」
 鳥とは言ったが、霧の高層を飛ぶ鳥とは、また違う種類の生物だったかもしれない。一瞬の交錯で見えた鋭い目は、空を見据える、|琥珀色《アンバー》の輝きに満ちていた。ゲイルのそれと、よく似た色の。
「次はその絵にしようか。青空を飛ぶ、鳥の絵」
「いいな。今から楽しみだ」
 ゲイルは声を上げて笑いながら、『エアリエル』を加速させる。半透明の翅翼を震わせて、ぐんぐんと高度を上げていく。
「おい、ゲイル。同調しすぎるなよ、戦闘とは違うんだ」
「わかってるって!」
 子供の時と何も変わらない、わかってるんだかわかってないんだかさっぱりわからない、ただ快活なだけの返事に鈍い頭痛を感じながらも、ゲイルの同調率を監視する。一応、今のところは言葉通りに低い同調率を守ってくれているようではあった。こんなところで蒸発されちゃたまったもんじゃない。
 上層の風を掴んだゲイルは、風が奏でる旋律を口ずさみながら飛んでゆく。俺が『エアリエル』を通して見た風景は、そのままゲイルの目にも映っている。ちょうど群れをなして飛んでいた鳥の間に『エアリエル』を割り込ませて、まるで一羽の鳥になったかのように、自由に飛び続ける。
 ――鳥、か。
『エアリエル』を通しているこの状態なら、俺の頭の中のイメージをそのままゲイルに伝えることだってできる。言葉では表現し切れなかった、夢の中の「鳥」の姿も誤りなく伝えることができる。
 だが、ゲイルがそれを頑なに拒否するのだ。
『俺様がお前と同じものを見んのは、本物を前にした時だけでいい』
 と言って。そして、白い歯を見せて俺に笑いかけるのだ。
『だから、その時までは、お前が絵を描いてくれよ。お前の絵、好きだからさ』
 だから、俺は|霧航士《ミストノート》として霧の海を行く傍ら、絵を描き続けている。最初にゲイルと出会ったその日から、ずっと。
 |魄霧《はくむ》を運ぶ冷たい風が『エアリエル』の船体を叩く。その冷気を肌に感じているのだろう、ゲイルは、ほう、と息をつく。きっと、その目は真っ直ぐに――空の高みを、見据えたまま。
「見てみてーな。青い空」

1-29:翼などなくて

「……? 『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の教典、です。一説には、霧の女神が世界の全てを記した書物であると」
 そう、確かにそれは「原書」だ。だが、教団が象徴として掲げるそれと、俺が捉えているものは、まるで実態が異なることをほとんどの人間は知らない。
「奴らのいう『原書』を収めたものを、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』と呼ぶ。世界の法則と、過去から現在に至るまでの全ての出来事を記録する、その名の通りの『書庫』。これ自体は、意思も明確な目的もなく、ただただ記録を積み重ねるだけの『仕組み』に過ぎない。
 魂魄界に存在するらしいが、通常目には見えないどころか、どんな方法でも知覚できない。だが、ごく稀に、この馬鹿でかい書庫の入り口を無意識に知っていて、その中身を覗き見れる奴が現れる」
 何故、そんな仕組みなのかは俺の方が聞きたい。ただ一つ、はっきりしているのは、
「現在唯一の『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』閲覧権限保持者。それが、俺だ」
 ということ、だけ。
 現在、と言いおいた理由は簡単だ。過去から現在に至るまで、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の閲覧権限を持って生まれる人間は、何人も存在しているからだ。ただ、今は俺――オズワルド・フォーサイスただ一人である、それだけの話。
「かいつまんで言えば、この世界に存在するものを知る。過去に起こったことを知る。それに、今まで蓄積されてきた記述から『これから起きること』を推測する。それが『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』というモノであり、俺が持つ権限だ」
「なるほど、それで『ロビン・グッドフェロー』の攻撃を回避できたわけですね。攻撃が見えなくとも、どのタイミングでどの位置に攻撃を受けるか推測できれば、回避は可能です」
 セレスは物わかりがよくてありがたい。そう、俺にとって『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』とは行動の指針を示すものだ。この前、町でセレスが襲われたときに、見てもいない相手を狙い撃てたのも、この能力ゆえである。
「それでは『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を見れば全てがわかるということですか?」
 いや、と。俺はかぶりを振る。
「書庫に収められた『原書』の記述は人の知識とはまるで形が違うし、そもそも人の魂魄に収まりきるもんでもない。俺が書庫の記述をまるまる理解するのは事実上不可能で、的を絞った『要求』を投げて『応答』を受け取るだけの代物だ。……俺の意志で使う限りは」
 セレスが不思議そうに首を傾げたのが目に入ったが、その当然の疑問は一旦横に置いて、話を続ける。
「それと『エアリエル』の知覚機能は『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を併用すること前提で設計されてる」
「『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を、ですか?」
「お前も|仮想訓練《シミュレーション》で|副操縦士《セカンダリ》席に座ったことがあるからわかると思うが、あれは人が処理しきれる設計じゃない。『エアリエル』が取得する情報を『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』と照らし合わせることで、初めて完全に機能する。|副操縦士《セカンダリ》の役目は『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の橋渡しで、それ以上でも以下でもないってのが、あの船の設計思想だ」
 つまり、『エアリエル』のずば抜けた飛行性能がゲイルのためのものなら、知覚性能は俺のためのものだ。どこまでも、どこまでも、「俺たち」のために調整された船、それが『エアリエル』という船の本質だ。
「タネを明かせばそんなとこだ。それでも、俺一人じゃトレヴァーを落とすなんて夢もまた夢だけどな」
 誰かの「目」であることで初めて海にいることが許される出来損ないの俺と、|霧航士《ミストノート》として完成しているトレヴァーとじゃ比較にもならない。
 仮にトレヴァーの動きが読めても、その動きに対処できなければ意味がない。あの時かろうじて攻撃が回避できたのは、俺がオズだと気づかれていなかったからだ。知られてしまった以上、二度目はない。
 ――でも、まあ、二度目については考える必要もないのか。
 冷たい扉に触れる。俺とセレスとを隔てるこの扉が開くことはない。次にこの部屋から俺が引きずり出されるのは、時計台に送り出される時だ。その後のことは、もう、考えたところでどうしようもない。
 どうしようもない、というのに。
 セレスは、真っ向から俺を見据えて、俺に問いかけるのだ。
「ゲイル、次はいつ飛べますか?」
 ――いつ?
「ゲイルの能力があれば、わたしは、戦えます。今度は『ロビン・グッドフェロー』とも戦い抜いてみせます」
 セレスの目を覗き込むと、胸が、激しく鼓動を打ちはじめる。口の中が乾いて、扉に触れていた指先に、力が篭る。
 それでも。
「俺は」
 それでも、何とか、言葉を搾り出す。
「俺は、飛べない」
 それが精一杯の俺に対して、セレスは心底不思議そうな顔をして更に問いを重ねてくる。
「何故ですか?」
 何故?
 何故なんて、決まっているじゃないか!
「……っ、お前にだって、聞こえてただろ! 俺は、ゲイル・ウインドワードじゃない! 女王国の英雄なんかじゃない、それどころか、お前らの敵なんだよ!」
 冷静さを欠くな、と頭の中で囁く声が聞こえるけれど、一度吐き出してしまった言葉はどうしたって止められなかった。
「俺は『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の教主、オズワルド・フォーサイスだ。世界の『平穏』を望んだ挙句に、世界中に泥沼の争いを振りまいた馬鹿野郎だ、許されるわけがねーだろ!」
 そう、この世界は俺を許しはしないし、許されたいわけでもない。
 なのに、なのに――!
「それは、ゲイルの罪なのですか?」
 セレスの無邪気な問いは、俺の柔らかい部分を突き刺してくる。
 今の今まで「ゲイル」であった俺の罪。俺の、本当の罪はどこにあったのか。その問いの意味を考える前に、衝動的に叫んでいた。
「ああ、そうだよ! 俺の罪だ、何もかも俺の罪だよ! だから!」
 痛む頭を押さえて、セレスを睨めつける。その、青すぎる目に映る俺は、きっと、あまりにも酷い顔をしている。
「もうやめてくれ、俺は飛べない! 次なんてないんだ! 俺はもう『エアリエル』の|霧航士《ミストノート》ですらない、お前と一緒に飛べるような人間じゃないんだ!」
 違うんだ、本当は、こんなことを言いたいんじゃない。
 セレスにだけは伝えるべきなのだ。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして俺がもう飛べないのか。セレスは、俺が嘘と誤魔化しに隠し続けてきた真実を求めてくれたのだから。
 だが、俺は。
「ゲイル、」
「頼むから帰ってくれ、もうお前の顔なんて見たくない、声も聞きたくない、二度と俺の前に姿を現すな!」
 セレスの言葉を遮り、俺の口から飛び出したのは、ほとんど「悲鳴」だった。
 セレスはただでさえ大きな目を更に見開いて、俺をまじまじと見た。表情は相変わらず変わらなかったけれど、その目がにわかに潤んだように見えてどきりとする。
 しばし、口をぱくぱくさせるような仕草をしたが、唇から言葉が出ることはなく、やがて視線を切って廊下の向こう側に駆けだし、すぐに俺の目からは見えなくなった。
 そうなって初めて、俺は自分の言葉を振り返って、鉄格子に頭を打ち付ける。
「……くそっ」
 何も、セレスを傷つけたかったわけじゃないのに、感情に流されて酷いことを言ってしまった。これでは、もはや謝ろうにも謝れない。
 いや、これはこれでよかったのかもしれない。
 俺に、失望してくれればいい。俺のことなんて忘れて、『エアリエル』の新しい操縦士として、誰よりも高く飛んでくれればいい。
 伸び伸びとしたセレスの飛ぶ姿を思い浮かべるたびに、脳裏にちらつくのは、青い、青い、波紋。
 俺が夢見てきたそれに最も近い、色。
 そう、口から飛び出した悲鳴は、俺が隠し通してきた本音でもあったのだ。セレスの姿は、声は、忘れたい夢を思い出させる。俺が俺自身で握り潰してしまった夢を。それは、酷い痛みを思い起こす、二度と戻らない「喪失」の記憶でもあって。
 だから、これでいい。
 脳裏に焼きついた、潤んだ瑠璃色の目に今もなお見つめられているような錯覚に陥りながらも、再び寝台に横たわって、瞼を閉じる。
 あとは、セレスの全てを俺が忘れてしまえばいい。俺がずっと忘れられなかった青い夢と一緒に、葬ってしまえばいい。
 それでいいのだ。
 きっと。

1-28:交錯する過去と、

「……おい、オズ? 大丈夫か?」
 魂魄の奥に響く声に、我に返る。
 気づけば、目の前にはゲイルの顔があった。目尻が垂れた琥珀色の目が――どこまでも見慣れたそれが、真っ正面から俺を見つめている。
 一体、俺は、何をしていたのだったか。
 目の前ですらりとした体躯を晒す『エアリエル』は、飛び立つ瞬間を待ち構えている。
 そう、そうだった。帝国の機関巨人が女王国の領海に現れたと、俺たちに出撃命令が下ったのが、今から十五分前の話。急な出撃はいつものことだ、どうということはない。
 ――ただ。
「お前、また、寝てないのか?」
 ゲイルの言葉に含まれた呆れの響きに、つい、苦いものを噛み締める。
 また。そう、確かに昨夜は寝ていない。指にこびりついた絵の具の青さが、つい先刻まで絵筆とパレットを手にしていたことを物語っている。
 嫌だな、いくら趣味の自由が許されているとはいえ、それが原因で任務に支障をきたすなんて、子供じゃあるまいし。「目」を全うするには、頭の働きだけは正常でなければならないのに、こんなぼんやりした頭ではゲイルの足を引っ張るだけだ。
「悪い、ゲイル。今から飛ぶってのに」
「別にいいさ。いつも『目』はお前に頼りきりだしな、たまには気ぃ抜いてもいいだろ。真面目すぎんのも考え物だぜ」
 けたけたと笑いながら俺の肩を叩くゲイルに、気負った様子はない。
 だが、今から俺たちが赴くのは、戦場だ。魄霧の海には、帝国の機関巨人が待ちかまえている。幾度となくこちらの船に風穴を開けてきた機関仕掛けの槍、弾をことごとく弾く鋼の鎧。今までは勝利を収めてきたが、今回も必ずしもそうなるとは限らない。
 何も『エアリエル』の性能とゲイルの腕を疑うわけではない。ただ、敵は相対するたびに新たな兵器と戦術で俺たちを翻弄する。それに、他でもない俺自身が対応しきれるのか――。
「大丈夫だ」
 堂々巡りに陥りかけた思考をぶった切る、声。思わず眉間に力が入るのを感じながら、ゲイルを睨む。根拠のない言葉は嫌いだと言っているのに、こいつはいつだって適当にものを言う。
 だが。
「俺たちは死なねーよ。だって」
 霧に包まれた空を見据える、その目には。
「お前が見た青空を、まだ、見つけてねーんだから」
 俺に振り向いて見せる、その曇り一つない笑顔には。
 いつからかずっと夢見続けている、空の青が映り込んでいるように見えて、俺は、ゆるりと首を振る。
「……そうだな」
 そう、約束をしたんだ。
 俺と、お前と。青い空を見に行こうって。それまで、お前は死なないんだろう、ゲイル。どんなに深い霧の海も、雨のように降り注ぐ砲弾の中も、笑いながら飛んできたお前の言葉は、理屈などないけれど、どこまでも真っ直ぐだ。
 だから、その言葉を信じて、俺はお前の「目」でいよう。
 俺は一人では飛べないけれど、夢見た場所に連れて行くと言ってくれた、あの日の約束を信じて――。
 
 
「……ル……」
 ――青。
 それは、かつての俺が夢に見た色。
 あいつが俺のために求めてきた色。
 そして。
「ゲイル!」
 俺の頭に波紋を投げかける、声の色。
 
 
「……っ!?」
 反射的に飛び起きて、その動作一つで全身に走る痛みに、「寝ていた」のだと気づく。
 ――ゲイルはどこだ?
 そう、一瞬でも思ってしまった自分に舌打ちをする。違う、今まで見ていたのは夢だ。もしくは「過去」だ。あいつが確かに生きていた頃の、俺が致命的な馬鹿だった頃の、記憶。
 未だ鈍く痛み続ける左の肩を押さえて、硬く閉ざされた扉を見やる。外から監視できるようにだろう、扉の上部に開いた鉄格子のはめられた窓から、廊下の壁が見える。
 ……声が、聞こえた気がしたのだが。
 思っていると、ぴょこん、と何か青いものが鉄格子の向こう側に一瞬見えて、消えた。
 何だ、今の。
 そう思いかけて、一つだけ思い当たるものに気づいて、慌ててベッドから飛び降りる。
「セレス!?」
 扉に張り付いて、鉄格子越しに廊下を見れば、そこには、最後に『エアリエル』に乗った時と寸分変わらない姿のセレスが背筋を伸ばして立っていた。
 あの時『エアリエル』の内側で蒸発したという事実すらも、感じさせずに。
「無事、だったのか……」
 つい、安堵の息が漏れる。ロイドが嘘をつくとも思えなかったが、この目でセレスの姿を確かめるまでは、不安が張り付いて仕方なかったから。
 鉄格子の向こう側のセレスは、瑠璃色の目をまん丸くして俺を見つめた後、ちいさな唇を開く。
「はい。肉体の換装を完了しました。心配かけて申し訳ありません」
「……謝るな。お前は、トレヴァー相手によく戦った。これは、完全に俺の失態だ」
 最初から相手がトレヴァーであるとわかっていながら、俺は全力を出し惜しんだ。むしろ、『トレヴァーであったから』と言った方が正しいかもしれない。
 トレヴァーは、俺をよく知っていたから。
 俺が全力を出せば、必ず俺がオズであると気づくから。
 だが、それが一体何だっていうんだ。命を惜しむ理由もない俺のつまらない意地が、セレスを危険に晒したのだ。俺の失態以外の何物でもない。
 だが、セレスは俺を責めることも罵ることもせず、ただ一つ、ゆっくりと瞬きをして、首を傾げる。
「あの時、わたしが蒸発した直後、何をしたのです? 肉体消失後の記憶は曖昧ですが、普段と違ったのはわかりました」
 セレスは『エアリエル』の内側にいたから、俺の挙動は見えていたのだろう。俺が、今まで封じていた『エアリエル』の全知覚を総動員させて、かつそれでも捉えられないはずのトレヴァーの動きを見切ったことも。
 今更、これをセレスに理解してもらったところで何にもならないが。質問に答えない理由もない。一つ、息をついて、できる限り平易な言葉を拾い上げながら、言葉を、放つ。
「セレス。『原書』は知ってるか」

1-27:尋問

「起きろ、フォーサイス」
 声と、同時に側頭部に走る痛みに、否応無く覚醒を促される。
 意識は覚醒するものの、妙に朦朧としている。いつもの頭痛や倦怠感とは違う、思考をまとめようにもまとまらない、不自然にふわふわとした感覚。これはどうも、薬か術で意識レベルを制限されている気がする。
 自覚したところで何が変わるわけでもなし、とにかく目を開けて、置かれた状況を認識するところからはじめる。
 まず視界に入った三方の壁の位置から、ここは小部屋であるらしい。壁は丈夫かつ防音加工が施されている。今まで見たことない部屋だが、普段は使われていないのだろう。それこそ、こんな物々しい状況にならない限り、使う必要の無い部屋。
 物々しい、といえば俺の状況も相当物々しい。
 寝てる間にパイロットスーツは脱がされていて、ジェムに撃たれた傷に包帯が巻かれて固定され、肌には散々小突かれた結果である青黒い痣が点々としている。全身だるくて痛いのはこれのせいか。完全に自業自得だ。
 その上で、椅子に括りつけられるように体と腕を縛られている。どれだけ警戒されてんだ、俺がとことん無力だってのは、ロイドが一番よくわかっているはずだが。
 そのロイドは、俺の正面に位置取り、俺を真っ直ぐに見ている――と思う。相変わらず、ミラーシェードの下の目がどこを見ているのかは定かじゃない。
 そして、その横でロイドを守るように、ジェムが背筋を伸ばして立っている。相変わらず憎悪にぎらついた目をしているが、頬は俺が殴ったからだろう、赤く腫れている。だからなのか何なのか、いつ腰の銃を再び向けられてもおかしくない雰囲気だ。
 いやだな、こんな雁字搦めの状態からできることなんてないのに。仮に自由であろうと、俺がロイドやジェムを害する理由なんてどこにもない。
 ……いや、さっきジェムを殴ったのは、俺も冷静じゃなかった。それだけだ。
 あともう一人、誰かが後ろに立っている気配がする。推定ブルース。基地の偉い人そろい踏みとは、俺も偉くなったもんだ。全く嬉しくないが。
 ロイドは、ご丁寧にも俺が状況を把握するのを待っていてくれたようだ。俺が改めて目の前のミラーシェードに視線を戻すと、ロイドが重々しく口を開いた。
「先ほど言ったとおりだ。詳しい話を聞かせてもらう」
 もはや俺も黙っている理由はない。重たい頭を揺らして、浅く頷く。
「もう一度だけ確認する。お前は、オズワルド・フォーサイスで間違いないな」
「はい。自分は、元女王国海軍中尉、|霧航士《ミストノート》オズワルド・フォーサイスであります」
 ほとんど無意識に「|霧航士《ミストノート》」と名乗っていたことに、自分で驚く。こんな無様を晒しながら、なお|霧航士《ミストノート》を気取ろうっていうのか、俺は。
 当然ながら、ジェムは汚物を見るような目で俺を睨んだ。だが、ロイドは表情一つ浮かべることもなく、基地司令としての言葉を並べ立てる。
「では、フォーサイス。質問に答えろ。黙秘は認めない」
「はい」
「お前が寝ている間に魂魄紋を精査した。――お前の魂魄紋は、軍に残されたゲイル・ウインドワードの登録情報と一致している。だが、私の記憶とは相違している。軍の登録情報を弄ったな?」
「はい。自分は、軍の保有するゲイルの魂魄紋と自分の魂魄紋の登録情報をすり替え、ゲイル・ウインドワードに『成り代わり』ました」
 登録情報のすり替えは俺がやったわけじゃないが、その辺りは調べればすぐにわかることだ、あえて言うまでもない。
「その外見は、イワミネ医師の施術らしいな。軍最高峰の再生記術士の手を借りれば、いくらでも見かけは似せられるだろうな」
 そう、今の俺の外見はサヨが手を加えた結果だ。元々背格好はゲイルと近かったし、お互いに|魄霧《はくむ》汚染の特徴を持っていたから、誤魔化しようのない顔や髪、あと少し骨格をいじった程度。今までバレなかったところを見るに、そう似てないわけでもなかったはずだ。
「サヨ――イワミネ医師が、供述しましたか」
「ああ。己が、オズワルド・フォーサイスをゲイル・ウインドワードに『仕立てた』のだと。それ以上のことは、意識が朦朧としていることもあって聞けなかったが」
 それはそうだ。サヨは俺たち|霧航士《ミストノート》と違って、痛覚制御の訓練を受けたわけでもない。撃たれりゃ痛いし、そもそも「撃たれる」なんてことに慣れているはずもない。
 無意識に唇を噛み締めていたことに気づいて、口元を緩めるついでに痛む唇を動かす。
「イワミネ医師の容態は?」
「質問を許可した覚えはないが、命に別状は無い、とだけは言っておく」
「……よかった」
 つい、安堵の息が漏れる。サヨが、俺なんかのために命を捨てるようなことは、あってはならない。絶対に、あってはならないのだ。
 ロイドは全く表情を変えないが、横のジェムは俺の反応に苦々しい顔を浮かべる。わかってはいたが、表情豊かな奴だ。軍人としてはどうかと思うが。
 一拍を置いて、ロイドが次の言葉を投げかけてくる。
「お前は、七年前に軍から逃亡して『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』を立ち上げ、四年前には全世界規模の要人殺害を主導した。そして、三年前、女王国|霧航士《ミストノート》隊により殺されたことになっていた」
 それはあくまで質問ではなく、単なる事実の確認だ。だが、ロイドの言葉は俺の認識では正しくない。
 それでも俺は、誤りを証明することができないし、自分に罪がないと言い切ることもできない。俺が教団の主として祭り上げられ、その結果として世界に混乱をもたらしたという事実だけは、否定しようがないのだから。
 ロイドは一度言葉を切り、こちらを探るような表情をする。いつもはどこを見ているのかもわからないミラーシェードの下の目が、今だけは真っ直ぐ俺を見ているのだと、わかる。
「いつから、ウインドワードに成り代わった」
「三年前から。しばらくは軍病院の集中治療病棟で、イワミネ医師の援助を受け正体の隠蔽と成り代わりの手続きを行い、その後本格的に『ゲイル・ウインドワード』として活動を開始しています」
「三年前、つまり、お前が死んだことになった時期から、か」
 ロイドは一段声のトーンを下げて、決定的な問いを、放つ。
「本物のゲイル・ウインドワードはどこにやった?」
 頭の片隅に、あの日あいつと肩を並べて眺めた青空の絵が浮かんで、泡のように消える。俺があいつの名を名乗るようになってから、この手で焼き尽くし、描くことをやめた、俺たち二人の夢。
 ――だって、もう、あいつは。
「……亡くなっています。三年前に」
 ぽつり、考えるよりも先に零れ落ちた言葉は、軋むような響きを帯びていた。
 そして、俺の言葉を聞いたジェムは、顔色を真っ青にして、震える唇で言う。
「嘘、だ」
 嘘じゃないんだ、ジェム。
 ゲイルは死んだ。俺のせいで、霧の海の藻屑と消えた。
 うろたえるジェムを一瞥したロイドは、すぐに俺に視線を戻す。こちらには動揺は見えないところを見るに、想定はしてたんだろう。俺が「ゲイル」を演じていた時点で、ゲイルが生きている可能性は限りなく低いと。
「我々の認識とは逆に、ウインドワードは死に、お前が生き残っていた、ということか」
 はい、と。答えたつもりの声は、掠れていた。
 俺が感傷を抱いてはならないことは、誰よりも俺が一番よくわかっている。責が俺にある以上、俺があいつの死を悲しむのは筋違いだ。
 それでも、苦しくて仕方ないのだ。今もなお、忘れられない記憶が蘇っては、あいつの不在を自覚させられる。俺自身があいつの姿をしているだけに、ことあるごとに今はもういないあいつと向き合う羽目になる。
 ただ、そんな日々も、もう終わりだ。終われば楽になれるかと思っていたけれど、胸の空虚は結局、何一つ変わらなかった。あいつが死んだ事実が覆るわけでもないのだから当たり前だ。
 ロイドは、しばし、口を引き結んで俺を観察していたが、やがて重々しく口を開く。
「何故ウインドワードに成り代わった。お前は、我々を欺き、何を企んでいる」
 ……何故?
「何故、でしょう?」
 その時、初めてロイドが眉間に力を篭めた。こんな回答に意味がないことは、俺にだってわかる。ただ、そうとしか言えないのだ。
「ふざけているのか?」
「ふざけてなんて、いません。自分は、どうしてここにいるのか、わからない」
 トレヴァーの問いに答えられなかったように、俺は、オズワルド・フォーサイスは、その問いに明確な答えを持たない。
 俺の態度を見かねたのだろう、ジェムが拳を握り締めて一歩前に出るが、ロイドに「待て」と制される。そして、いやに静かな声で、問いかけられる。
「ふざけていないのだとすれば、お前は、特に明確な目的もなく、教団とも無関係に、漫然とウインドワードに成り代わっていたということか」
 ああ――、本当に、ロイドには敵わないな。
 ロイドは、いついかなる時も俺のことをよく見ている。そうでなきゃ、俺が、目的もなく、意味もなく、ただ「日々を過ごす」ためだけにゲイルを演じていたなんて真相に、届くはずもない。
 力の入っていた口元を緩めて、小さく息をついて答える。
「……はい、ご想像の通りです」
「っ、そんな言葉、信じられません!」
 ジェムが噛み付くように声を上げる。言葉はロイドに向けたものだったが、視線はあくまで俺を捉えて離さない。その瞳が映すのは、疑念と不信か。こればかりはジェムが正しいと、俺ですら思う。
 俺の言っていることはめちゃくちゃだ。周囲をゲイルの仮面で欺き通しながら、目的はないと言う。『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の教主でありながら、教団とは無関係だと言う。
「この男は、間違いなく何かを隠しています! そうでなければ、おかしいですよ!」
 ああ、おかしいよな、ジェム。でも、俺は本当にわからないんだ。どうして、こんなことになってしまったのか。
「ここは、多少強硬な手段を使ってでも、真相を吐かせるべきでは――」
「やめろ、ケネット少尉」
「し、しかし」
「これ以上、このやり方で聞いても、有効な情報は得られそうにない。教団と無関係である、という供述が真にしろ偽にしろ、この男はそれ以上のことを答えないだろう」
 ロイドは、ジェムの口を塞ぐかのように、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で畳み掛ける。
「今は、ここまでだ。我々には、他にも考えなければならないことが、あまりにも多すぎる。この男にばかりかかずらうわけにもいかない」
 ロイドの言うとおりだ。俺なんかに構ってる暇があれば、近いうちに再び攻めてくるであろう、教団の連中とトレヴァーに対抗する術を考えた方がずっと建設的だ。
 ロイドは、車椅子を動かして背を向ける直前、椅子にくくりつけられたままの俺を一瞥して言う。
「フォーサイスは、独房に入れておけ」
 はっ、というジェムと、今まで押し黙っていたブルースの返事を受け、ロイドは車椅子を廻らせて部屋を去ろうとする。
 本当は、そのまま見送るべきなのはわかっている。
 わかってはいたけれど、つい、言葉が口をついて出ていた。
「ロイド、先生」
「……何だ」
「セレスは、無事ですか」
 どうしても、これだけは確かめておきたかった。俺のミスで蒸発したにもかかわらず、セレスは最後の最後まで、俺に語りかけていた。大丈夫だと言いながら、その声は酷く苦しげだった――。
 ロイドは、少しだけこちらを振り向いて、冷え切った声で言う。
「無事だ。だが、お前にはもはや関係のない話だろう」
 関係のない、話。
 そうだった。俺はもうゲイル・ウインドワードではないし、『エアリエル』の|霧航士《ミストノート》士でもない。
「……そう、ですね」
 一体、俺は何を期待していたのだろう。セレスが無事である、それだけで十分なはずなのに、何かが手の中から滑り落ちてしまったような、錯覚。
 その正体を掴む前に、体に衝撃が走る。ジェムに殴り飛ばされたのだ、と一拍遅れて気づいたときには、俺の体は椅子ごと床に倒れていた。
 遅れて来る全身の痛みをやり過ごしながら目だけをそちらに向ければ、ジェムは上げた足で俺の肩を蹴り飛ばす。おいやめろ、傷口蹴るのは反則だろ。意識が朦朧としているせいで、痛覚の遮断もできずに悶えていると、ジェムの激しい声が降ってくる。
「この……、裏切り者! |霧航士《ミストノート》の恥が!」
「やめろ、ジェム。大佐からの命令は『独房に入れる』ことだ、暴行を加えることじゃない」
 俺との間にブルースが割って入り、ジェムは露骨な舌打ちをして俺に背を向ける。助かった、と思えばいいのか。痛みでそれどころじゃないんだが。
「悪いな、ゲイル……、じゃないんだっけか。ややこしいな」
 ブルースが溜息混じりに俺の縄を解く。朦朧とする意識で、それでも無理やりに肩の痛みを押さえ込んでそちらを見ると、ブルースは俺の顔をまじまじと覗き込んで、問うてくる。
「で、何て呼べばいい?」
 なるほど、そんなことを言われるとは、思ってもみなかった。確かに俺はゲイルじゃないが、だからと言って今まで「ゲイル」と呼んでいた奴が別の人間だったと言われても、ぴんと来ないのだろう。
 とはいえ。
「お好きに。どうせ」
 ――近いうちに、俺の首は胴体を離れる。
 それが、世界の敵になった馬鹿野郎の、正しい末路だろうから。