2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

苺のショートケーキ

 アキは、キッチンに立ち尽くし、焼きあがったスポンジと、ボウルに入った生クリームを見つめていた。冷蔵庫の中には、粒の揃った真っ赤な苺が、白い丘の上に並べられる時を待っている。
 普段ならば、すぐにデコレーションに突入するところだが、今日だけは、じっと、もの言わぬそれらを見つめているばかりだった。
 早く作り始めなければ、今日が終わってしまう。これは、今日というこの日に、完成させなければ意味がないものだ。
 けれど。
 けれど――。
 出来上がりを待つケーキを前に、アキは、全てを、思い出していた。
 ナツと出会った日のこと。手作りのアップルパイをまた食べたいと言ってくれたこと。初めて二人きりでデートに出かけた日のこと。同棲を始めた日のこと。ナツのリクエストで菓子を作っては、二人で分けて食べた日々のこと。
 そして、今日この日に起こったこと、全てを。
「……そうだ」
 ぽつり、と。意識もしないまま、言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「もう、帰らなきゃな」
 ――おかえりなさい、アキさん。
 そう言って出迎えるナツの笑顔、身体を抱きしめるあたたかな両腕、何もかもを受け入れてくれるキス。
 そうやって、迎えてもらえるのが当たり前だと思っていた。いや、どこかで当たり前ではないと気づいてはいたけれど、それを考えることを拒否していた。
 けれど、それも、今日で終わり。一つの決意と共に、拳を握り締めて。
「アキさん? 何してるの?」
 ひょこり、と隣の部屋からナツが顔を出す。普段と何も変わらない笑顔のナツに向かって、アキは、いつになく静かな声で言った。
「ナツ。手伝ってくれないかな」
 今まで、そんなことは一言も言ったことがなかった。ナツが「手伝わせてほしい」と言った時には喜んで手伝いを頼んだけれど、どうにもうまくいかないとわかったナツ自身が、それっきり何も言わなくなったのだ。だから、アキもナツに直接「手伝ってくれ」と言ったことはない。
 そして、この日も、そんなことは「言っていない」はずなのだ。
 けれど、アキは意を決して、その「ありえない」言葉を放った。
 ナツは驚きに目を丸くして、それから、ふ、と小さく息をついた。眩しさに目を細めるような微笑みは、涙を堪えているかのようだった。
「……全部、気づいたんだね、アキさん」
「ああ」
 そう、何もかもに気づいたし、その何もかもを認めたのだ。
 だから、アキは「来てくれ」とナツを手招く。ナツは、恐る恐るといった様子でキッチンに近づいてきて、小首を傾げる。
「わたし、一緒に作っていいの? アキさんの迷惑になっちゃうよ」
「ナツと作りたいんだ。一緒じゃないと、意味がないよ」
 アキは、笑った……と、思う。今の自分が上手く笑えるはずもなかったけれど、きっと、上手く笑えたと信じることにする。ナツが、寂しげに、でも確かに、晴れやかに笑ってくれたから。
 そんなナツに頷いて、そっと、ボウルを渡す。ナツは、泡だった生クリームを見下ろして、それから、アキを見上げた。
 見上げた、のだと、思う。
 アキの目は、その姿をほとんど捉えてはいなかった。目に溢れた涙が、ナツの姿を正しく映すことを、許してはくれなかった。眼鏡を上げて、袖で無理やり涙を拭いて。
 ――はじめよう。
 引きつった声で、そう、囁く。
 二人の、最後の日が、始まる。

ホットココア

 アキは、暗闇の中で目を開けた。
 胸が引きつるように痛くて、呼吸が乱れる。けれど、病というわけではない。この痛みは、自分が忘れていた、忘れようとしていた痛みだ。
 闇の中にちらつく、最悪のイメージ。脳裏に焼き付く悪夢を打ち消したくて、ナツの体を抱き寄せる。眠るナツは、微かに声を上げただけで、目を開ける様子はなかった。
 ――あたたかい。
 その温もりは、アキの胸にも染み渡り、自然と痛みが鎮まっていく。そのまま、温もりに身を委ねて優しい眠りに誘われてゆけばいい。きっと、今度はいい夢が見られるだろうし、明日もナツの明るい「おはよう」で目覚められるはずだ。
 ――本当に、それでいいのか?
 その時、ふと脳裏に浮かぶ、問いかけ。
 何となく、最初から違和感はあったのだ。その違和感に、気づかないふりをしていた。いや、最初の時点で全てに気づいてしまったら、この胸の痛みに耐えられなかったに違いない。
 だから、何もかもを受け入れた。ナツの「おかえり」と、ナツと二人で過ごす優しい日々を。受け入れている間は、この胸の痛みさえ、すっかり忘れていられたから。
 けれど、今は違う。確かに胸は痛い。張り裂けそうに痛い。ただ、その痛みの理由を、落ち着いて考えられるようになった自分がいる。
 そうして、自分について考えていくうちに、ふっと、言葉が唇から零れた。
「……そっか。そう、だったんだな」
 すると、腕の中のナツがもぞりと動いた。
「アキさん?」
「ああ、ごめん。起こしちゃったかな」
「ううん。ちょっと目が覚めただけ。アキさんこそ、どうしたの?」
「……嫌な夢を見てね」
「どんな夢か、聞いていい?」
 うん、と。一つ頷いて、ぽつり、ぽつりと、腕の中にいるはずのナツに向かって語りかける。
「ナツがね、いきなり、俺の前からいなくなっちゃうの。それで、俺は何も手につかなくなっちゃって、ナツの行方を捜すんだ。でも、ナツは見つからない。見つからないまま、何年も、何年も過ぎちゃって。俺は、どうしようもなくて、ただ、息だけをしてる。そんな夢」
 ナツが、アキの腕の中で、軽く息を飲んだ気配がした。けれど、何も言わなかった。だから、アキは、ふっと胸の中に浮かんだ言葉を、ナツに投げかけてみる。
「ナツはさ、俺と一緒に暮らしてて、幸せ?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
「なんとなくね、不安になっちゃったんだ。今までのこと、全部、俺が幸せでいたいための自己満足で、ナツのこと、きちんと考えてあげられてたのかな、って」
「わたしは、幸せだよ、アキさん」
 ぎゅっ、と。ナツの両腕が、アキを抱きしめる。
「大丈夫だよ、アキさん。わたしに何があっても、アキさんに何があっても、わたし、ずっとアキさんのこと、大好きでいるよ」
「……ありがとう、ナツ」
 ナツの肩を抱き寄せて、唇を重ね合わせる。全身に染み渡る温もりと、胸に響く痛みを感じる。そして、それを、二度と忘れまいと誓う。
 唇を離し、アキはナツの温もりを名残惜しみながらも布団から這い出た。眼鏡をかけて、闇の中にいるナツに声をかける。
「……ココアでも飲んでくるよ。お休み、ナツ」
「うん。お休みなさい、アキさん」
 ナツの声を背中に聞きながら、部屋を出て、キッチンに向かう。小さな明かりをつけると、見慣れたキッチンの姿がおぼろげに浮かび上がる。
 今まで、ずっと自分が立っていた場所。ナツと自分自身のために、菓子を作り続けてきた場所。これからも、そうであるべき、場所。
 上の棚からココアの粉を取り出し、牛乳を火にかける。揺らめくコンロの火を見つめ、

 アキは、覚悟を決めた。

チョコレートクッキー

「……これ、何?」
「チョコレート、クッキー……?」
 答えたナツの言葉にも疑問符がついていたから、目の前にあるものがクッキーに見えないことは自覚しているのだろう。自覚は大事なことだとアキはしみじみ思う。
 とはいえ、皿一杯に積みあがったそれを、どうすべきか。アキは、思わず腕組みをして考え込んでしまった。
 そこにあったのは、ちいさく薄い円盤状をした、漆黒の物体だった。確かに形だけならクッキーに見えるかもしれない。明らかに食べ物にあるまじき焦げ臭さを漂わせているが。
「ご、ごめんね。材料、無駄にしちゃった」
「それは構わないよ、菓子作りには失敗がつきものだし。でも、ここまで焦がすのもすごいな……」
 うう、とナツが肩を落とす。そんなナツに、どういう言葉をかけるべきかとアキは微かに眉を寄せる羽目になる。
 実のところ、ナツが菓子作りを失敗するのは、これが一回目ではない。アキが仕事に行っている間にキッチンに立って、菓子作りに挑戦するのはいいのだが、毎回毎回、アキの理解を超えた物体が誕生するのだ。
 ちなみに、以前「プリン」だと言っていたものは、やっぱり黒かった。黒くてぷるぷるしていた。それでもナツが作ってくれたものだから、と言って一口は食べたのだが、墨汁みたいな味がしたことだけしか覚えていない。それ以上のことは、多分、頭が覚えていることを拒否したのだろう。
「どうして、アキさんみたいにうまくいかないんだろうなあ」
「俺だって、最初からうまく作れたわけじゃないって。自分の好きな味を作れるようになるまで、散々失敗を重ねたもんだよ」
 流石に、ここまでの失敗はしたことないけれど。
 その言葉は、喉の奥の方に飲み込んだままにしておく。
 ナツは、食べられたものではないクッキーを一つ摘み上げて、指で擦りながらしゅんとする。
「アキさんに、いつも作ってもらってばかりだから。たまには、お礼をしたいな、って思ったんだけど……。迷惑、かけてばかりだね。ごめんなさい」
「迷惑なんてことないよ。それに、お礼なんていらないよ。ナツは、いつも俺にご飯とお味噌汁作ってくれるでしょ」
「わたし、ご飯とお味噌汁しか作れないし」
「それで十分だよ。ナツが、俺のために作ってくれて、俺と一緒に食べてくれるってだけで、何より嬉しいんだから」
「そう、なの?」
「そうなの」
 その瞬間、ナツがぱっと笑顔になった。そうだ、その笑顔さえあれば、他には何もいらない。どんなに甘くておいしい菓子よりも、ナツの笑顔が一番の幸せなのだから。
 ただ、今日ばかりはその笑顔も長続きはせず。ナツは、皿の上のクッキーを睨んで、ぽつりと言った。
「で、このクッキーはどうしよっか」
「どうしようねえ」

フルーツゼリー

「アキさん、雨降ってきたよ」
「あら。洗濯物は大丈夫?」
「うん、今取り込んだからだいじょーぶ」
「ならよかった」
 アキは、読みかけの文庫本を手に、ごろりと床の上で寝返りを打った。窓の外から聞こえてくる雨の音が、心地よく耳に響く。
 こういう日は、好きな本でも読みながら、一日家でごろごろしているに限る。忙しい時には、昼も夜も、時に休日もなく駆け回っていることもあるのだから、たまにはこういう、「なんでもない日」もあっていいと思う。
 ナツも、透明なカップを片手に、寝転ぶアキの横に座る。カップの中身は、アキ特製のフルーツゼリーだ。淡く黄色みがかったゼリーの中に、色とりどりの季節の果物が浮かんでいる。
 文庫本から目を上げて、ゼリーを食べるナツを見つめる。銀色のスプーンを咥えるナツは、嬉しそうに目を細めてゼリーを味わっていた。自分で作ったものをおいしそうに食べてもらえるのは、とても、幸せなことだと思う。
 それから、つい、誘惑に耐え切れなくなって、ナツに声をかける。
「一口ちょうだい」
「うん、いいよ」
 そもそもアキが菓子を作るのは、ナツに食べてもらう以前に「自分で食べたい」からだ。軽く味見はしたが、そんなにおいしそうに食べられると、自分だって食べたくなる。
 スプーンの上に、ゼリーに包まれた真っ赤なさくらんぼをのせて。ナツは、「あーん」と言って仰向けになったアキの口元にスプーンを持っていく。アキは、少しだけ顔を出して、ゼリーを口に含む。甘く、微かに爽やかな酸味のあるゼリーに、さくらんぼがよく合っている。我ながら、なかなかにおいしく作れたと思う。
 さくらんぼを咀嚼しながら冷蔵庫の中に並ぶゼリーを思い返し、あと何日この味を楽しめるか、と考えていたその時。
 突然、カップとスプーンを置いたナツが、片手を伸ばしてアキの髪をわしゃわしゃと弄り始めたものだから、「わっ」と変な声を上げてしまう。ナツはおかしそうに笑いながら、くしゃりと軽くアキの髪を掴む。
「アキさん、すごく髪の毛くるくるしてるよ」
 元々、アキの髪はかなり癖が強い。そして、湿気のある日はその癖が酷く出てしまう。自分で自分の頭を見ることはできないから、一体どのくらいくるくる巻いてしまっているのかわからないが、きっと、相当酷いことになっているのだろう。
 とはいえ。
「雨の日は仕方ないよ。今日は一日外に出ないからいいでしょ」
「そうだね。それに、髪の毛くるくるしてるアキさんもかわいいよ」
「……かっこいい、ならもっと嬉しいんだけどな」
「むー、でもアキさん、どちらかというとかわいい系だと思うの」
「えー」
 言いながら、文庫本を横において、ナツの体を引き寄せる。ナツは「わっ」と、先ほどのアキと同じような声を上げて、アキの体の上に倒れこんだ。
 その、ちいさくあたたかな体を抱きしめて、アキはくつくつと笑う。
「まあ、ナツに気に入ってもらえるなら、かわいい系でもいいかな」
「もう、アキさんってば」
 一瞬頬を膨らませてみせたナツは、すぐに目を細めて微笑み、アキのあちこちに跳ねてしまう髪に、もう一度優しく指を通した。アキもそれに応えるように、ナツの髪に触れる。ナツの栗色の髪は、すべらかで、微かにしっとりと濡れたような感触がした。
 雨音が、二人のささやき以外の、他のすべての音を消し去っていた。

トリュフチョコレート

 今日はなんだか、ナツが不機嫌だ。
 丸く形を整えたチョコレートに、ココアパウダーをまぶしながら、アキは思う。テーブルの向こう側では、ナツが、今にも噛み付きそうな形相でアキを睨んでいる。これだけ甘いものばかり食べているのだから、噛まれたら甘い味がするのかな、などと下らないことを一瞬思ったが、そんな冗談を言っても笑ってくれそうにもないくらい、不機嫌だ。
 どうしたのだろう。首を傾げつつ、それなりに上手く作れたと思うトリュフチョコレートを指して、問いかける。
「チョコ、味見してみる?」
「いい」
 すげなく断られてしまった。普段なら、自分から「味見したい」と言い出すナツが、アキの作ったチョコレートを食べようとしないのは、明らかに、おかしい。
 どうしてしまったのだろう。自分は、そんなにナツの機嫌を損ねることをしてしまっただろうか。そんな風に考えてもみたが、全く原因が思い当たらない。その間にも、どんどんナツの頬が膨れていく。
 しばらくは、気のせいだと思うことで現実から目を逸らしていたが、結局は睨まれているのにも耐え切れず、恐る恐る問うた。
「……ねえ、ナツ。どうして、そんなに怖い顔してるの?」
 すると、ナツはさらに眉を寄せて、低い声で言った。
「アキさんは、乙女心がわかってないよ」
「は?」
 そりゃあ男なんだから乙女心なんてわかるはずがない、と言いたくもなったが、ナツの次の言葉を聞いて、やっと腑に落ちた。
「そんなにおいしそうなチョコ作られちゃったら、わたし、どんなチョコ用意しても敵わないじゃん」
「ああ、そんなこと、気にしてたのか。別に、俺は気にしないのに」
「わたしが気にするの! 今日はバレンタイン・デーなのに、これじゃあ、いつもとなんにも変わらないよ」
 更に頬を膨らませて、ナツが抗議する。だから、アキは、そんなナツの頬を軽くつついた。やわらかい頬は、マシュマロのような手触りがした。
「ナツが用意してくれたチョコだもん、おいしくないはずはないでしょ」
 唸ったナツはまだ納得できていないようで、目の前に並んだトリュフチョコレートを睨んでいる。それでも、やっと顔を上げて、真っ直ぐにアキを見上げた。
「チョコ、もらって、くれる?」
「俺が『ください』って言いたいくらいだよ」
 率直な気持ちを篭めた言葉に、ナツもやっと安心したようで、アキにとっては酷く久しぶりとも思える笑顔を見せた。やはり、ナツは笑っていたほうがいい。ナツの笑顔は、どんな甘味よりも、アキの心を浮き立たせてくれるものだから。
 ナツは、後ろ手に持っていたちいさな箱を両手で持ち直し、アキに向かって手を伸ばす。アキは、そんなナツの手を包み込むようにして、その箱を受け取った。ピンクとブラウンを基調にした包装に、レースのリボン。ナツらしい、かわいらしい箱だ。
「ありがとう、ナツ。嬉しいよ」
 一体、どんなチョコレートを用意してくれたのだろう。アキが想像をめぐらせる一方、ナツは、しばらくもじもじと上目遣いにアキの表情を伺っていたが、やがて、いつも通りにこう言った。
「ねえ、アキさんの作ったチョコレート、味見していい?」
 全く、今までの不機嫌さは何だったのか。そのおかしさに笑みを零しつつ、アキは大きく頷いた。
「もちろん」

シュークリーム

「おかえりなさい、アキさん……、アキさん?」
 玄関の扉を開けるなり、アキはナツの体を抱きしめていた。
 言葉もなく、ただ、両腕でナツの存在を確かめる。そうすることで、何とか、自分をこの場所にとどめるように。
「……何か、あったの?」
 その問いには、答えられなかった。口を開けば、体の中に詰まったどろどろとした感情が、言葉となって飛び出して、ナツを傷つけてしまいそうだったから。
 だから、こくりと小さく頷いて、あとは、ナツに体重を預けるだけ。
 ナツは、最初こそどうすればよいのかわからなかったのか、手を虚空に彷徨わせていたが、やがて、そっと、アキの背をさすった。指先から、いたわりの感情が伝わってくる。
「お仕事、大変だったんだね」
 一つ、頷く。
 ナツだって仕事をしているし、仕事である以上、決して楽しいことばかりではないはずだ。だから、なるべく、仕事による疲れや気分の悪さはナツには見せないようにと思っている。
 けれど、時々、どうしようもなくなることがある。格好悪いし、ナツにも悪い。そう思いながらも、ナツの体を抱きしめる腕に、力を篭めずにはいられない。
 ナツの温もりを感じることで、少しずつ、少しずつではあるけれど、体の内側のどろどろも収まっていく。ナツと出会う前までは、この感情をどうあしらってきていただろうか、と考えてみたが、すぐには思い出せなかった。
 とにかく、今のアキには、どうしてもナツの存在が必要だった。
 そんなアキを、ナツはあたたかく細い両腕で包み込む。ちいさな子供をあやすように、耳元で、ゆっくりと語りかけてくる。
「今日ね、おいしい、シュークリームを買ってきたの。ゆっくり休んで、それから、二人で食べよう」
 アキは、もう一つ、小さく頷いて。
「ごめん、ナツ」
 やっと、それだけは言えた。
 ナツは、にっこりして、それからアキの癖の強い髪に指を通した。
「いいの。アキさんに頼ってもらえるってだけで、嬉しいんだから」

マドレーヌ

 意外だったなあ、と。チエは電話越しに言った。指輪を嵌めた左手で受話器を持ったアキは、壁に寄りかかって問う。
「何が?」
「アンタが、なっちゃんと長続きしてること」
 チエはアキの高校時代からの友人で、実のところ、アキの「元彼女」でもある。ただ、恋人である期間はそう長続きしなかった。普通の恋人らしく二人で過ごし、あちこちにデートに出かけ、そしていざ、ことに及ぼうとした時に、アキがふと「自分たちはこういう関係じゃない気がする」と言って、それにチエが同意して別れたのだった。
 それであっさり別れ、こうして今も親しい友人として付き合っていられるのだから、やっぱり、自分たちは「恋人」ではなかったのだと思っている。
 そんな、アキにとっては大切な友人であるチエが、溜息混じりに言う。
「アンタって、もてるけど、一人の女の子と長くつきあえるタイプじゃないって思ってたから」
「もてるかどうかは置いておくにしても、俺も、今まではそう思ってたよ」
 かつて、アキは「恋人」というものがよくわかっていなかった。かわいい女の子は好きだが、だからといって、パートナーとして相手を見つめ続けていることはできなかった。
 ナツと、出会うまでは。
「でも、ナツを初めて見た時に、気づいたんだ。ああ、俺はこの子に会うために今まで生きてきたんだなあって。それからは、もう、ナツ以外の女の子には興味も持てないし、ナツ以外と一緒にいることなんて、考えられないんだよなあ」
「うわ、いらっとする」
「なんでさ」
「それは彼氏のいない女の僻みであります」
 チエはぶすっとした声で言った。アキが記憶している限り、チエは相当男にもてたはずだ。明るく華やかで、頭も切れるチエに、アキの友人の男たちは何人もアタックしては、華麗に玉砕していたと記憶している。アキは単純に「気が合う」からチエと付き合っていたが、チエをパートナーにしたいと望む男は、今もかなりいると思っている。
 付き合ってみないとわからない、チエの猫のような気まぐれさや、気性の荒さを受け入れられれば、の話なのだが。
 それでも、アキはそれこそがチエのチエらしい部分だと思っているから、心から、チエの幸福な未来を祈って言葉をかける。
「いつか、きっと素敵な相手が見つかるよ。だって、俺にだって見つかったんだよ?」
「そうであることを、祈ってる。で、アンタらはいつ結婚するの?」
「来年くらいには、小さな式は挙げたいと思ってる」
「その時には誘ってよ。これでも、愛のキューピッドなんだからね」
「もちろん」
「なっちゃんのこと。本当に、幸せにしてあげてよ。あんないい子、アンタにはもったいないくらいなんだから」
「うん」
「泣かせたら、承知しないからね」
「その言葉は重いな」
 少しだけ、不安はあるのだ。自分にはそのつもりはないけれど、それでも、ナツを悲しませてしまう可能性を、考えることがある。自分を見上げて、涙を零すナツの顔を想像するだけで、胸が苦しくなる。
「だけど、俺も、ナツの泣き顔は、見たくない」
「なら、せいぜい頑張ることだね。あと、仕事で無理しすぎないこと。アンタ、ほっとくといくらでも抱えこむんだから。じゃ、そろそろ切るよ」
「あ、今日、マドレーヌを作ったんだけどさ。チエも食べる?」
「相変わらずの菓子狂いだね、アンタも。でも、アンタの作ったやつなら食べたいな。明日、なっちゃんに持たせてくれる?」
「わかった。それじゃ、また」
 またね、と。受話器の向こうでチエが言って、その後電話が切れた音がした。つー、つーという音を確かめて、受話器を戻す。
 その時、すぐ後ろでじっとこちらを見つめていたナツの存在に気づいた。眉間に皺を寄せ、いつになく難しい表情をしている。
「……チエさんと、何のお話してたの?」
 ナツの目には、露骨な嫉妬が揺らめいていた。ナツは、チエがアキの「元彼女」であることも知っているから、当然といえば当然の反応だ。
 でも、そんな風に嫉妬してもらえるのも嬉しいと考えてしまう辺り、つくづく馬鹿だと思う。思いながらも、そっと、ナツの額にキスをする。
「ナツのこと。ナツを泣かせたらどうなるか知らないぞ、って脅されちゃった」
「……本当に?」
「本当さ。明日チエにも聞いてみな」
 むう、と未だ納得していない様子のナツの、ぷっくり膨らんだ頬をつついて、アキは晴れ晴れと笑いかける。
「さ、折角マドレーヌを作ったんだ。一緒に食べよう。あったかい紅茶を淹れてさ」

すいかのシャーベット

「大丈夫だった、アキさん?」
「だいじょばない。暑い……」
 汗ですっかり重くなってしまった服を着替えて戻ってきたアキは、そのままテーブルに突っ伏した。クーラーの効いた部屋は心地よいが、火照ってしまった体が人並みの温度に戻るまでには、あと少しかかりそうだ。
 ぼんやりと、涼しい風に身を委ねていると、ことんと音がした。視線を上げれば、笑顔のナツが、ちいさな皿をアキの顔の横に置いたところだった。
「今日もお仕事お疲れ様。昨日作ってたシャーベット、美味しくできてたよ」
「本当?」
 アキが体を起こすと、ナツがスプーンに真っ赤なシャーベットをすくい取って、アキの口元に持っていく。
「はい、あーん」
 言われるがままに口を開くと、待ちに待った冷たさと、夏らしい爽やかな甘みが舌の上に広がった。昨日、すいかで作ったシャーベットだ。アキはその後味まで確かめて、小さく頷いて自分のスプーンを手に取る。
「うん、これはいいな」
 甘さはさっぱりとしたもので、二口、三口と自然にスプーンが進む。そのうちに、ゆっくりと暑さも引いていく。
 単純に凍らせてもおいしいみかんなどと比べて、すいかは、シャーベットにするには多少手を加える必要がある。そのため、今まではそのまま食べてばかりだったが、最近親戚から丸々一玉すいかをもらったのを機に挑戦してみたのだ。初めてでこれなら上出来だろう、と自画自賛していると、正面に座ったナツと目が合った。ナツは、自分の分のシャーベットを口に運びながら言う。
「お仕事、大変だったんだ」
「うん、こんな日に、長々と外回りさせられててさ。嫌んなっちゃうよ」
「今日、特に暑かったもんね」
 ナツの視線が、窓に向けられる。窓の外は既に暗くなっていたが、昼間に散々熱された空気は、そう簡単に熱を収めてはくれない。今日も熱帯夜だろう。
 既に半分になっているシャーベットをもう一口。アクセントに入れた薄荷の香りを微かに感じて、アキはふと、同じ香りを今日どこかで感じたのだと思い出す。
「そういえば、今日、変なものを見たんだ」
「変なものって、お化けとか?」
「うん、お化けだと思う。でっかい蜻蛉が、空から落ちてきたんだよ」
 突拍子もない話ではあったが、ナツは、アキの言葉を不審がる様子もなく、興味津々といった様子で問うてくる。
「でっかいって、どれくらい?」
「ほら、この近くに小さな公園あるだろ。あの公園を覆うくらい。でも、そんなでかい図体してるのに、俺以外には見えてないみたいだったね」
 ナツは、それを聞いて、微かに眉を寄せる。
「そんなに大きな蜻蛉が落ちてきたら、わたしなら、びっくりして逃げ出しちゃうよ」
「俺だってびっくりしたけど、なんか暑さでぐったりしてたから、水とアイスあげたらまた飛んでいっちゃった」
 夏の空色をした蜻蛉の姿を思い描きながら、シャーベットを更に口に運ぶ。空に消えていったあの蜻蛉は、何故か、薄荷の香りがしたのだった。もちろん、その香りだって、アキにしか感じられないものだったかもしれないが。
 そんなアキに対して、ナツはスプーンを口元に寄せたままそっと息を漏らす。
「アキさんって、霊感強いもんね。いいなあ」
「そんなにいいものでもないよ。見たくないものも、見えちゃうから」
「でも、アキさんが見てる世界を、一度でいいから見てみたいなって、思うの」
 ナツは、大きな目を細めて、虚空を眺める。アキの目にも、そこには何も見えない。
 ただ、ナツの言いたいことも、わからなくはなかった。アキは、いつだって人とは少しだけ違う世界を見ている。この目で見える風景と、ナツの見ている風景は、同じ場所にいて、同じすいかのシャーベットを食べているこの瞬間でも、違うはずなのだ。
 自分だって、ナツの目に映る世界を見てみたい、そんな風には、思う。
 思っていると、ナツが、不意に身を乗り出して、アキの顔を覗き込んできた。思わず目を見開くアキに対して、ナツはささやくように言う。
「ねえ、もし、わたしが死んで幽霊になっても、アキさんなら気づいてくれるかな」
 アキは、一瞬ナツが何を言い出したのかわからず、その言葉を理解した瞬間に眉を顰めずにはいられなかった。
「縁起でもないこと言うなよ」
「えへへ、ごめんね」
 でも、と言ったナツは、真っ直ぐにアキの目を見つめたまま、夢見るように呟いた。
「アキさんと一緒にいられるなら、心細くないなって、思っただけ」

ジェリービーンズ

「わ、どうしたの、これ?」
 ちいさな皿の上に落とした色とりどりの粒を見つめて、ナツが首を傾げる。
 アキは、そんなナツに、一つの袋を差し出した。袋の表面には、いやに派手な文字と色とりどりの粒が描かれていた。
「ジェリービーンズ。友達が、土産にって渡してきたんだけど、どうにも、食べる気が起きなくてね」
「アキさんが、そんなこと言うのは珍しいね」
 菓子と名のつくものを、ナツ以上に愛してやまないアキだ。もちろん、おいしい方がいい、とは思っているものの、与えられた菓子を食べる前に文句をつけたことはほとんどない。そのアキが、菓子を前にして、手を出すことなく苦い顔をしているのは、ナツから見ても不思議だったのかもしれない。
 とはいえ、アキとて、菓子なら何でもいい、というわけではないのだ。
「……だって、ねえ」
 ほら、と袋を裏返す。そこには、袋の中に入っているビーンズの一覧が載せられていた。その横に書いてある文字は英語だったから、英語が苦手なナツは眉を顰めたけれど、よくよく見れば難しいものではないとわかったのだろう。ひとつひとつ、指でアルファベットを追って、「げっ」と声を上げた。
「何これ。腐った卵味?」
「そう。それでこっちは、スカンク味」
「食べ物の味じゃないよ、それ」
 ナツはげんなりした様子で、袋をアキに押し付ける。
「でも、こんなお菓子どうするの?」
「んー、まあ、同僚とか後輩を適当に言いくるめて食わせるよ」
 今日もくるくる巻いてしまっている髪に指を通しながら、アキは苦笑混じりに言う。何だかんだでノリだけはいい仕事仲間だ。ぎゃあぎゃあ言いながらも、きっと平らげてくれるに違いない。
 中でも、「何ですかこれ、ひどいですよっ」とすごい顔をする後輩の顔を思い描いてみると、自然と口の端に笑みが浮かぶ。それを見て、ナツはぷぅと頬を膨らませてみせた。
「アキさん、いつも後輩ちゃんをからかって遊んでるみたいだけど、そんなに女の子をいじめちゃだめなんだから」
「まあ、ナツがそう言うなら、今回は容赦してやるか」
 ――あれ?
 言葉に出してみて、微かな違和感を覚える。自分の名前を呼ぶ、後輩の声。そう、仕事場でいつも顔を合わせている後輩が、自分にはいる。それは間違いのない話だ。
 けれど、それを、ナツは知っていただろうか。自分は、今まで、ナツに後輩の話をしたことがあっただろうか。後輩が、からかいがいのある子犬みたいな娘であると、言ったことがあっただろうか。
 ぽつり、と生まれた違和感は、言葉にできない不快感となって胸の中に焦げ付く。
 だが、そんなアキの異変に気づいた様子もないナツは、皿の上にいくつか転がっているジェリービーンズを、大きな黒い目で覗き込んでいる。
「こっちは、食べるの?」
「これは、俺が買ってきた、普通の味のやつ。多分、普通」
「多分、っていうのが不安なんだけどな」
 ナツの渋い顔が面白くて、アキはつい吹き出してしまう。その瞬間に、胸に引っかかっていた感覚も、溶けて消えた。
「いらないなら俺が全部食べるけど」
「んー、折角だから、一個ちょうだい」
 アキは一つ、皿の上から真っ赤な粒を拾い上げて、ナツの口元に持っていく。ナツは、恐る恐るといった様子で口を開けて、ぱくりと赤い粒を口に含んだ。それから、しばらくもぐもぐと咀嚼して、ほっとした表情で言った。
「よかった、ラズベリーだよ、ほら」
 顔を近づけて、そっと、唇を重ねる。
 その口付けは、確かにラズベリーの甘酸っぱい香りがした。

アップルパイ

「アキさん、今日は何を作るの?」
「そろそろ林檎の季節になってきたからね。アップルパイでも作ろうかと思って」
「やった! アキさんのアップルパイ、大好き」
 赤々と輝く果実が、テーブルの上に転がっている。林檎の酸味に、香るシナモン。そしてさくさくとしたパイ生地の食感を想像して、アキはつい溢れそうになる唾を飲み下す。
 林檎が出回るようこの季節になると、アキは、必ずアップルパイを作らずにはいられなかった。もちろん、元々は自分で食べるためで、今はナツと一緒に食べるために、だ。
 まあ、大概は張り切って作りすぎて、自分とナツでは食べきれなくなって、仕事場に持って行ったり、ナツの友達に食べてもらうことになるのだが。
 今回も、明らかに二人分には多すぎる林檎の皮をむき、角切りにする。それから、鍋の中で煮詰めてゆく。そうしていると、食欲をそそる甘酸っぱい香りが、部屋いっぱいに漂ってくる。
 パイの中身が大体出来上がったところで、いつの間にやら横に来ていたナツが、アキの手元をのぞき込んで、弾んだ声で言った。
「覚えてる? アキさん」
「ん?」
「わたしが初めて食べた、アキさんのお菓子がアップルパイだったの」
「そういやそっか。あの頃は、チエによく味見してもらってたから」
「そう、仕事場でチエさんから貰ったんだけど、今まで食べた中で一番おいしくて、びっくりしたの」
 チエは、アキの高校時代からの友人だ。そして、ナツの同僚でもある。そう、確かにナツと出会ったきっかけは、チエに預けたアップルパイだったのだ。
 あの日も、今と変わらず作りすぎたアップルパイを、友達と一緒に食べて、とチエに押しつけて。そうして、パイを気に入った同僚がいるから、その子のためにもう一度作ってやってくれないか、と頼まれたのだった。
「今もまだ、覚えてるよ。実はわたし、最初、アキさんって女の子だと思ってて」
「ああ、だから顔を合わせたとき、驚いてたんだ」
 今でもはっきりと思い出せる。
 チエに誘われて、初めてナツと顔を合わせた日。ナツは目を見開いて、「ええっ」とすっとんきょうな声を上げたものだった。その時はどうしてそんな反応をされたのかもわからずに戸惑いながらも、驚き、うろたえるナツから、目が離せなかった。
 何故驚いているのか、何故そんなにうろたえるのか。その理由なんてもはやどうでもよかった。ただ、目の前にいるナツそのものに、目を奪われていたのだ。
 慌てて謝るナツに、何も謝ることなんてないよ、と言うと、ナツは安心したようにふわっと笑ったのだ。ちいさな花が咲くように。
 その瞬間、ああ、この子しかいない、と確信した。信じるのに理由なんていらなかった。これがきっと、「一目惚れ」という奴だったのだと思う。
 そうして、今、ここにいるナツは「あの時はごめんね」と眉をハの字にする。
「チエさんのお友達で、お菓子作りの達人だって聞いてたから、つい勘違いしちゃって」
「あいつ、本当に言葉足りないからねえ。かわいい女の子じゃなくて残念だった?」
「ううん」
 ナツは、そっと、アキの身体によりかかる。甘酸っぱい林檎の香りの中に、ふと、陽だまりのようなあたたかな香りが混ざる。ナツを見れば、大きな目をぱちぱち瞬かせ、はにかむように笑っていた。
「アキさんが、アキさんでよかった」
 そっと、ちいさな唇が紡ぐ言葉。アキは、にわかに頬が熱くなるのを感じ、それをナツに見られないよう、ナツの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「えへへー」
 ぼさぼさの頭になったナツは、それでも嬉しそうに笑う。笑いながら、鍋の中で飴色になった林檎を、ひとつ、摘んで口に入れた。
「おいしい」
「つまみ食いしすぎないでね、アップルパイがただのパイになっちゃうから」
「はーい」
 元気よく返事をするナツは、あの日と同じ、花のような笑顔を浮かべている。その笑顔が今、自分の横にあることを噛み締めながら、今度は優しく、ナツの頭に触れた。

プリン

「おかえりなさい、アキさん!」

 扉を開けた瞬間に、弾む声が耳に飛び込んできた。
 後ろ手に扉を閉めたのと同時に玄関に姿を見せたナツは、風呂上がりなのだろう、小花を散らした柔らかな生地のパジャマを着ていた。肩の上で綺麗に切りそろえられた栗色の髪は、しっとりと濡れている。
 そして、その姿に見とれてしまっていた自分に気づく。
 毎日見ている光景だけれど、いつだって、ナツを目の前にすればこうなってしまう。それに、今日は特別疲れているからだろうか、ナツの姿を見た瞬間に、ふっと肩の力が抜けた気がした。
「ただいま、ナツ」
 気を取り直して、そっと顔を近づけて、軽く唇を触れ合わせる。濡れた髪から漂う、シャンプーの香り。ナツが大きな目を細めて、にっこりした。
「遅くまでお疲れさま。夕飯は食べてきたのかな」
「軽くね」
「今日は遅くなるって聞いてたから、『時計うさぎ』のプリンを買っておいたの。食べる?」
「もちろん!」
 アキはぱっと顔を輝かせる。『時計うさぎ』の洋菓子はどれもおいしいと思っているが、プリンはその中でも一番の好物だ。あの滑らかな舌触りとほのかな甘さは、自分ではどうにも真似できなかったから。日々、近づけようと努力はしているのだが。
「それじゃあ、鞄置いて着替えてくるよ」
「うん、その間に用意しとくね」
 そう言ったナツの頬にもう一度軽くキスをして、急いで部屋に向かう。そして、自分とナツ、二人の部屋を何気なく見渡して、ほっと息をつく。仕事の疲れも、吐き出した息と共に体の外に抜けていくのを感じた。
 ナツと一緒に暮らし始めたのは、今から半年ほど前のことだ。一目惚れからの告白、そして一年間の交際を経ての同棲。一目惚れなんて、ナツと出会うまでは信じてもいなかったのに。その認識を完全に覆されて、しかも認識を覆してくれたその人が、今も変わらずそこにいてくれるという幸せ。
 それが、「幸せ」なのだということを、改めて噛み締める。
 この仕事をしていると、時々、大切なものをどこかに置き忘れてしまうような感覚に陥ることがある。痛みすら伴う激しい感情や悪意を前に、自分から大切なものを一旦脇に避けてしまうこともある。そのまま、脇に避けたことも忘れてしまうことも。
 けれど、ナツの顔を見ると、明るく弾んだ声を聞くと、自分の中にぽっかり開いてしまった空洞を、あたたかなものが埋めてくれる。見失いかけていた、あたたかなものを、思い出させてくれる。
 今も、そうだ。空っぽになって、からからに乾いていた感覚は、もう、どこにも残っていない。ナツの「おかえり」だけで、今、アキはやわらかく、あたたかなものを胸の中に感じている。
 それが、きっと「幸せ」ということなのだろう。
「アキさーん?」
 部屋の外から、アキを呼ぶ声が、聞こえる。
「まだー?」
「ごめん、ちょっと待ってて!」
 慌てて着替えて、部屋を飛び出す。
 そして、二人でお互いに大好きな菓子を、ゆっくりと味わうのだ。
 それも、ひとつの「幸せ」のかたちだと、信じている。

008:空に捧げる歌

 深夜。荒野の真中に、一台の車が止まっている。
 鈍色の車の運転席で静かに眠っているラビットの顔を、覗き込むトワ。放送無線機からは、ノイズ交じりではあるが澄んだ声と、美しいピアノの音色が絶えず流れていた。トワは手を伸ばし、ラビットの真っ白な髪に触れた。さらさらと、トワの手の上に白い糸が流れる。
『眠らないのですか、トワ』
 そんなトワの横に、蜻蛉の羽を持った立体映像の女性が映し出された。
 龍飛だ。
「龍飛」
『それとも、眠れないのですか』
 トワは、龍飛の方を向いて……小さく、頷いた。
「ねえ龍飛」
『何ですか?』
 トワの細い指が、放送無線機の方に向けられる。
「これ、なんていう歌?」
 澄んだ女性の声は、静かだが美しい旋律を歌っており、伴奏で流れるピアノの音色はその歌声を包み込むような、不思議な音色を奏でていた。トワは今まで、この曲を何度も聴いてきたし、車の中では絶えずこの曲がかかっていたように思う。
 龍飛は言った。
『「空に捧げる歌」です。この地球の中でも有名な歌手とピアニストである、トーン姉妹が共同で制作した唯一の曲です』
「そうなの?」
『そして……ラビットが一番嫌いな曲です』
「嫌い?」
 トワは首をかしげた。嫌いなら、いつも車の中でかかっている理由が分からない。が、龍飛ははっきりと首を縦に振り、明るいブラウンの瞳でトワを見た。
『はい。ラビットは口癖のようにおっしゃってました。「私は、この歌が一番嫌いだ」と』
「なら、何で聴いているの?」
『わかりません』
 龍飛は申し訳なさそうに言った。トワは再び、ラビットの方に顔を向けた。ラビットは静かに眠ったままで、起きる気配は見せなかった。その間も絶えず、優しい旋律が聞こえてくる。本当に、美しい曲だ。
 
 ――あの光を目指す貴方を
   私はいつまでも見つめています
   手の届かぬ月に寄り添う貴方を
   私は……
 
「私はどこまでも追い続ける……」
 トワは透き通った声で歌い始めた。しばらく、狭い車内にトワの歌声と放送無線機から流れてくるノイズ交じりの女の声、そしてピアノの旋律だけが聞こえていた。
 曲が終わると、龍飛が拍手を送った。
『お上手ですね』
「……歌うのは好きなの」
 トワは少し、嬉しそうに微笑んだ。龍飛もその人形のような顔に微笑をたたえる。
 今度は、放送無線機からピアノの音色だけが流れてきた。さっきとは又違う、少し寂しげな、悲しげなそんな旋律だった。
 しばらくは、車の中はピアノの音色だけに包まれていた。
『この曲を弾いている、ピアニストのミューズ・トーンという女性について、ワタシは昔ラビットから聞いたことがあります。有名な話ではありますが……彼女は、五年前に死んでしまったのです』
 龍飛は、ふとそんな事を言った。トワは龍飛の方を見て、青い目を見開いた。
「……どうして?」
『これも、全てラビットから聞いた話なのですが、五年前、ミューズ・トーンは一人の軍人と恋に落ちたそうなのです。しばらくは幸せな日々が続いていたのですが、それも、長くは続きませんでした』
 龍飛は、漆黒の闇に塗り潰された空を見上げるような仕草をした。トワもつられて空に目をやる。空には強く輝く青い星と、月しか浮かんでいなかった。
『ある日、ミューズはコンサートのためにある町に向かった……そこで、何かが起こったのです』
「何か?」
 トワは聞き返した。龍飛は何を言っていいのか迷っているような、そんな表情を浮かべた。
『ワタシも、ここについてはラビットに何度か問い直したのですが、理解はできませんでした。ただ、ラビットに聞いた話をそのまま言うとすれば、「全てが、消えてなくなった」そうなのです』
「全てが……消えてなくなった?」
 龍飛は困ったように苦笑した。
『ええ。その町は白い光に包まれて消滅したそうです。そこだけ穴が開いたかのように、何もかもが、なくなったとのことです』
 トワはその出来事に心当たりがあった。自分の胸に、手を重ねる。心臓の鼓動が手のひらに感じられる。
 そして、少し堅い、石の様な感覚も。
「無限色彩……」
『トワ? どうかしましたか?』
「ううん、何でもない。それで、恋人の軍人さんは、どうなったの?」
『その町にいた全ての人間も同時に消滅してしまったそうですから、その軍人も、おそらくは消滅しただろうとラビットはおっしゃいました。結局、全ては光の中に埋没したと、そうおっしゃってもいました』
 ピアノの音が、一瞬途切れた。
『そして、姉の死を悲しんだ歌手である妹のセシリア・トーンは以来歌を歌うことも無くなり……結局、二人で共に作った最初で最後の作品があの「空に捧げる歌」になってしまったと、そう聞きました』
「空に、捧げる……」
『この歌は、トーン姉妹お互いの愛する者への思いを綴ったものなのだそうです。ミューズの恋人を「月」、そしてセシリアが愛した者を「太陽」にたとえているのだと聞いたことがあります。どちらも空に存在するものとして、「空に捧げる歌」という題なのだそうです』
 そう言って、龍飛は漆黒の空からトワへと目線を戻した。ひどく優しげで、しかしいつもどこか物悲しげな表情を浮かべている人形のような顔をトワに向ける。
『以上が、ワタシが知っているミューズ・トーンについての話です』
「ありがとう、龍飛。面白かった」
『ええ』
 龍飛は微笑んだ。
『さあ、もう寝た方がいいですよ。ラビットが、心配します』
「そうだね。大丈夫、もう……眠れる」
 そう言って、トワは助手席にもたれかかった。ピアノの物悲しげな旋律を聴きながら、目を静かに閉じた。
 
 
 トワは、瞼の裏に、爆発するように広がる純白の光と、それに……一人の、こちらに向かって手を伸ばしている男の姿を見たような気がした。ただ、爆発にもかかわらずその場は静寂に包まれていた。聞こえてくるのは、遠くから聞こえるピアノの音色、ただそれだけだった。
 ――泣いている?
 男は、涙を流していた。漆黒の、夜の闇色をした髪を爆風に靡かせ、手をこちらに向かって伸ばしていた。周囲の景色が全て光の中に埋没していく中、男の姿だけは妙に近く、そしてはっきりと見えていた。
 ――貴方は、誰?
 しかし、トワの意識もやがて遠ざかっていく。脳裏に走る鈍い痛みと共に、男の姿も白い光にかすんでいく。ただ、光を裂くような鋭い声だけが、トワの脳裏に響き渡った。
「ミューズ――っ!」
 
 
 静寂が、訪れていた。
 いつしか放送無線機から流れていた音楽も途絶えていた。
 眠っているように見えた運転席のラビットが、微かに目を開けて空を見上げる。
 漆黒の空に浮かぶ滲んだ三日月だけが、鈍色の車を見つめていた。

007:第一の対峙

 ――軽率だった。
 ラビットは、ホテルの窓から外を眺めつつ溜息をついた。
 ――思えば、トワが軍に追われている地点から、あらゆる手段を向こうが取ることは想像しておくべきだった。例えこれほど小さな町であっても、トワが訪れる可能性が一パーセントでもあれば……
 窓の外、ひびの入った人通りの少ないレンガの道を赤い軍服を着た男が一人、歩いていた。さっきは別の男が歩いているのも見た。
 ――軍の連中が張っていてもおかしくはない。
 町では、すでに赤い軍服の男が何人も配置されているようだった。ラビットは何とかその中をかいくぐってこの小さな、客もないホテルに辿り着いたのだ。ホテルの主人は何も知らなかったので助かった。どうも主人によると、軍の人間がここに来たのは二日前のことらしい。
「ラビット、どうするの?」
 ベッドの上に腰掛けていたトワが、不安そうに聞いてきた。ラビットは窓からトワに目を移し、肩を竦める。
「気づかれていなければいいのだが……しかし、この状態だと下手に出て行っても捕まるだけだな」
「ごめんなさい、わたしのせいで」
「何故謝る? このくらいは覚悟の上だ。貴女が軍に追われていたのを失念していた、私のミスだ」
 ラビットは最後の方は吐き捨てるように言って、再び軍人が歩いている道に目を戻す。前回……初めてトワに出会ったときのように、いきなり大勢の軍人が詰め掛けてくるという様子ではない。むしろ、人数としては少なすぎるくらいだ。
 ――人海戦術は無駄と気付いたのか? だが、それにしては……
 町の規模からして、大体二十人くらいの兵しかいないという計算になる。それではもし目的のトワが発見されたときにすぐに対応できるのかは怪しい。そのくらいの人数の目を欺くことなら、不可能ではないとラビットは考える。
 ――指揮官が優秀なのか? それとも逆に何も分かっていない馬鹿か?
 考えながら、窓から離れる。軍人がこちらを向きかけていたからだ。こんな客が来そうにもないホテルに客がいたら怪しむに決まっている。傍にあった椅子に腰掛け、トワを見た。トワは不安げな表情ながらもラビットの考え事の邪魔にならないように、ベッドに横になり、静かにラビットの方に目だけを向けている。
 ――そういえば。
 ラビットは、トワに目をやりながら、旅立つ時に聞いた話を思い出していた。
『レイ・セプターが彼女を追ってる』
 星団連邦政府軍大尉レイ・セプター。連邦軍ではかなりの有名人だ。ラビットが知る限り、過去には性格的に問題があり、未開惑星送りになっていた男だ。
 だが数年ほど前からだろうか、急に少数精鋭を誇る遊撃隊、アレス部隊に所属換えとなり、数々の功績を残してきている男。階級こそ大尉だが、その功績……特に戦闘能力に関するものが認められ、次期の『軍神』称号最有力候補にも挙げられているとも言われている。
 ――しかし、そんな有名人が何故政府の管轄からも外された小さな星の任務についている? 私情を考慮して考えても、妙な話だ。
 ラビットは考える。答えは出そうにもないが、考えていなければ更に不安になるような気がしていた。
 ――だが、本当にレイ・セプターが動いているなら、いくらトワを傷つけることはできないと言え、こちらの分が悪い。それに、あれが相手ならば、今の私では太刀打ちできない上に、不利な条件が重なっている。
 左手にはめた銀色の籠手を見つめる。旅立つ前、男から受け取ったもの。これがどのような物品かはラビットもよくわかっていたが、今すぐに使いこなせる自信はない。
 左手を下ろし、大きな旅行鞄を立てる。大きいがあまり重量はない。色々と特殊な加工がされているのだ。顔を上げるとふとトワと目が合う。
 ――結局、私にできることといえば……
「いつまでもここにいるわけにもいかない。すぐに連中が嗅ぎ付けるだろう。だから、私の言うことを少しだけ聞いて欲しい」
「うん、わかった」
「貴女はこの鞄を盾にして、そこに隠れていて欲しい。そして、私が合図をしたら、すぐに鞄を持って私と一緒に走れ。わかったな?」
「うん」
 トワは不安げな顔こそしていたが、しっかりと頷いた。ラビットも安心し、そしてすぐにまた厳しい顔つきになって耳を済ませた。……堅い靴音が聞こえてくる。階段を上る音のようだ。それは段々とラビットのいる部屋に近づいてきている。トワはすぐにさっきラビットが指し示したドアのすぐ横に鞄を立て、後ろにうずくまった。
 ドアが、ノックされた。
「すまない、連邦政府軍の者だが、少し話を伺いたい」
「ああ、わかった。すぐに開ける」
 鍵を外し、ドアを開けたラビットの眉間に銃が向けられる。条件反射的に両手を挙げるラビット。真紅の軍服に身を包んだ軍人は、銃を片手にラビットの全身を珍しげに見た。
 それは当然だろう。真っ白な髪に真っ白な肌、それに分厚いサングラスまでかけているときたら、不審を通り越して純粋に「珍しい」というものである。
「……最近のお偉方は随分と過激なことをなさいますね」
 ラビットは口端を歪めて皮肉混じりに言ったが、軍人は気に触ったようでもなく、機械的に言った。
「何、貴方が怪しいものでなければすぐに終わる」
 その言葉は、「貴方を疑っている」のと同じ意味である。軍人は、ラビットに銃口を向けたまま部屋の中に一歩足を踏み入れ、部屋を見渡す。何かを探すように……
 ラビットからは一瞬だけ目が離れた。
 ラビットはその瞬間を見計らって、軍人の銃を手で払いのけ、無防備な胴体に右手をつける。
「貴様……っ!」
 軍人はそれに気付き、ラビットに目を戻す……が、遅かった。
「『死呼ぶ神の槍(グングニル)』!」
 右の手の平に刺青された紋章。そこから放たれた青い光に軍人の胴体が貫かれる。軍人の身体は吹っ飛び、壁に当たって崩れ落ちる。
「行くぞ、トワ!」
 ラビットの声と共にトワが鞄を手にドアから出る。ラビットも軍人が起き上がりそうになっているのを確認し、慌てて廊下に出た。階下が騒がしい。きっと今の騒ぎを聞きつけてホテルの主人がこちらに向かってでもいるのだろう。見つかると厄介だと察したラビットは、迷わず上の階へと向かっている階段を、トワの手を取って駆け上った。
 階段の先は屋上だった。ラビットは躊躇せず、少し段差のある隣の家に飛び移る。トワもすぐにラビットの後を追って飛び移った。
「怖くないか?」
「大丈夫」
 トワのしっかりとした声が、ラビットを少しだけ安堵させた。
 
 
『報告します。第七エリア異常なし。監視を続けます』
「了解」
 町の中心にある広場。そこに真紅の軍服に身を包んだ、金髪の若い軍人がいた。
 彼こそが、星団連邦政府軍大尉、レイ・セプターだった。
 通信機から聞こえてくる声に言葉を返すセプター。通信機を持つ右手は生身の腕ではなかった。おそらく最新型の義手なのだろう、手袋の下からは表皮を貼っていない金属部分が覗く。
『……第六エリア、異常なし』
『第三……』
『異常ありません』
 馬鹿らしい、とセプターは思った。ここに『青』が来る確率はそう高くない。確かに『青』が初めに発見された町からこの町は一番近い。道を通っていれば必ず訪れる場所ではあるが、『青』が今もまだこの町に滞在しているという確固たる保証はない。
 それでも『青』の目撃情報が圧倒的に足りていない今、セプターに取れる方法といえばこのくらいしかなかった。
 その時。
 通信が入った。通信機から聞こえてきた声は妙に上ずっていて聞き取りにくかったが、おおよそこんなことを言った。
『第五エリアにて、『青』を発見、確保に失敗しましたっ! ターゲットは『青』ともう一人、白髪の男で……ホテルにいたところを捕獲しようとしたのですが……現在建物の屋根の上をエリア九に向かって移動しています……応援を……』
 こんな簡単に見つかるものか、と一瞬呆れるが、あまりにぜいぜいと苦しそうな呼吸をする通信を送ってくる兵の様子に緊張を取り戻す。
「了解した。そっちは休んでいろ」
 セプターはそう言って、一回通信機の電源を切る。
 『白髪の男』の話は聞いていた。確か、『青』の保護作戦に参加していた軍人を紋章魔法で倒し、そのまま『青』を連れてどこかへ消えたという話だった。やはり、現在も『青』とともに行動しているらしい。
「紋章魔法……か」
 セプターの中では紋章魔法にはあまり良い思い出がない。いや、どちらかというと思い出したくない思い出と言った方が正しいのかもしれない。
 それを振り払うように軽く頭を振り、再び通信機の電源を入れ、周波数を町にいる全員の仲間に合わせてから言った。
「エリア五にて『青』が発見された。現在エリア九に向かって移動中とのこと、至急エリア九に移動し、保護作戦を開始しろ。俺もすぐ向かう」
 
 
「やはり、追ってきたか」
 ラビットは、家々の屋根の上をトワの手を取りながら走っていた。ちらりと背後に目をやると、二人ほどの軍人が後を追ってきていて、そして屋根の下を並走する軍人も何人か見えた。攻撃を仕掛けてこようとは思っていない模様だ。捕縛対象のトワがすぐそばにいるからだろう。
 しかし、ラビットには圧倒的に持久力が足りない。それにトワの方が心配だ。まだ平気そうだが、息を切らせ始めている。このままでは埒が明かないと思ったが、紋章魔法はそう簡単に何度も使えるものではない。基本的な攻撃魔法はこう不安定な体勢では最大の効果は発揮できない。
 それに、ラビットは気付いていた。
 自分たちが追い詰められていることに。
「ラビット!」
 トワが叫んだ。
 とある建物の屋上に足を踏み入れる。だが、その先の道はなかった。大きな道に分断されてしまっていて、その先に行けなくなってしまったのだ。高さもかなりある。ここから道に飛び降りるということは自殺行為だ。
「……ここまでか」
 ラビットも苦い顔をして、呟いた。
「その通りだ」
 朗々とした声が響く。ラビットは後ろを追ってきていた軍人の方を振り返り、トワをかばうように前に出る。軍人たちはいつの間にかほとんどが屋根の上に上ってきていたらしく、十人ほどがラビットとトワを取り囲むようにしていた。そして、その中の一人が、一歩前に出た。金髪の軍人だ。
「その少女をすぐに渡せば、危害を加えるようなことはしない。大人しく応じてくれ」
「レイ・セプター……」
 こんなにすぐに出会う事になるとは。ラビットはそう思って眉を寄せた。トワは怯えた様子でラビットの服の端を掴む。金髪の軍人、レイ・セプターは意外そうな顔をして言う。
「へえ、俺の名前を知ってるんだな」
「貴方は随分な有名人だからな」
 ラビットは皮肉混じりにそう言った。セプターはその言葉にこもった皮肉をものともせず……もしかすると皮肉だと気付いていなかったのかもしれないが……言った。
「それなら俺の実力もわかってるだろう? 痛い目見ないうちに言うことを聞いてくれないか。俺だって実力行使には出たくない」
「そうだろうな」
 ラビットの言葉はあくまで否定的な響きがこもっていた。
「ラビット、わたし」
 トワは、ラビットの服の裾を掴んだまま、消え入りそうな声で言った。
「わたし、行くよ。ラビットに……これ以上迷惑かけられない」
「待て」
 ラビットは、トワの腕を強く掴んだ。トワは目を丸くし、ラビットを見上げる。ラビットはそれきり、黙り込んで動かなくなる。何かを、待っているかのようにも見えた。
 セプターは難しい顔でラビットを見据えていた。軍人たちもその場から動こうとはしない。
 奇妙な沈黙が、その場に流れた。
 ヴゥゥ……という、何かの羽音のような音が聞こえてきたような気がした。その瞬間、迷わずラビットはトワを抱き上げ、屋上の手すりを越えて、跳んだ。
「なっ……!」
 いきなりの行動に、セプターは焦った。この高さから落ちたら、例え死ななくとも骨の一本や二本折れてもおかしくはない。手すりに駆け寄り、下の道を見る。
 そして、信じられないものを見た。
 足元に浮かぶ青白い光の輪、それを踏み台にして、まるで階段を下りるかのように空中を駆け下りるラビットの姿を。
 紋章魔法の高位、『闇駆ける神馬(スレイプニル)』だ。
 ――やられた。
 セプターは頭を抱えた。相手は紋章魔法士だ。このくらいの芸当、できてもおかしくは無かったのだ。
 即座に自分の背後に控えている軍人たちに向かって鋭く、指示をする。
「すぐに降りろ! 武器使用も許可する! だが、『青』だけは傷つけるな、いいな!」
 
 
 ラビットは道に降り立ち、向こうから走ってくる自分の車を見据えた。
 車を支配している龍飛がコントロールする、無人の車を。
 車はラビットたちの前で止まり、扉が開く。すぐに乗り込むと、急発進させる。後ろから、軍人たちが銃を発砲してくるのが見えた。
 少しの衝撃が走る。
「龍飛、被害状況は?」
『後部灯破損。機関に異常はありません』
「それならそのまま走ろう。あの男のことだ、すぐに他の計画を考える。それまでは逃げ続けられるだろう」
 そう言って、助手席のトワを見る。トワはまだ不安そうな顔をしていたが、ラビットがほんの少し口端を上げると、トワも薄い笑顔を浮かべる。
「トワ?」
「何?」
「私は、貴女といて迷惑だと思ったことは無い。だから安心しろ」
 その言葉を聞いて、トワが意外そうな表情を浮かべる。それから、また笑顔を浮かべて、頷いた。
「……うん」
 
 
「逃げられたか」
 セプターは去り行く車を見つめ、吐き捨てるように呟いた。
「ラビット、か。厄介な相手だな」
 右手に握られた、銃が組み込まれている機械剣を強く握りなおす。
「だが……」
 
 
 これは、あくまで第一の対峙に過ぎない。
 セプターはそう思い、にぃと笑った。

006:行く先

 ラビットとトワを乗せた車は荒野を走っていた。あちこちにひびが入ったアスファルトの道が荒野の真中に細い線となって続いていた。
「どこに行きたい?」
 ラビットが前を見たまま言った。トワは少し考えてから、答える。
「まだ、よくわからない。でも、ここから東に行きたい」
「東? 何故」
「……わからないけど、そっちに呼ばれてる気がする」
「そうか」
 ラビットはそれきり黙って車を運転していた。トワもしばらくは黙って窓の外に広がる果てしない荒野を見つめていたが、再び口を開いた。
「ラビットは」
「何だ」
「ラビットはどうしてわたしと一緒にいてくれるの?」
「貴女が一緒に行きたいと言ったからだろう」
「でも」
「私に断る理由もない。ただ、それだけだ」
 トワは納得がいかないといった表情でラビットを見た。ラビットはサングラスの下の瞳でちらりとトワを見やったが、すぐに道に目を戻して言う。
「それなら、私からも質問させてもらっていいか」
「何?」
「……何故、私なんだ?」
「どういうこと?」
「他にも貴女と一緒に行ける人間はいるだろう。だが、何故私なんだ?」
 トワの大きな目が、ラビットを見た。
「ラビットは、わたしを守ってくれた」
「それだけか?」
「うん」
「私が貴女を途中で見捨てることだってあるかもしれん。普通ならば軍に命を狙われてまで貴女を守りきろうとまでは考えないし、私だってそうなのかもしれない……それでも私のことを信じられるのか?」
「見捨てたりしないよ」
「何故そう言いきれる?」
「……わからない。だけどわたしはラビットを信じる」
 ラビットはその言葉を聞いて、目の上に手を当てた。そして、微かに目を細め、口端を歪めて言う。
「全く、思い込みの激しいお姫様だ」
「わたし、お姫様じゃないよ」
 トワはそう言って少し不満げな顔をする。
「何、ただの喩えだ。だが貴女は私のことを美化しすぎてやいないか? 私は、自分が大切にしているものを守れるほど強くはないし、その自信もない……」
 ラビットはそう言いながら、一瞬目をトワに向けた。トワはさっきから変わらず真っ直ぐにラビットを見ていた。真っ直ぐ見つめられるのに慣れていないラビットは、すぐにまた道に目を戻してしまう。
 再び、車の中に沈黙が訪れた。車のエンジンが立てる軽い音と拡声器から流れてくるピアノの音が妙に遠く聞こえる。
「わたし、『白』を探しているの」
 トワが、急に言った。ラビットは驚き、自分の耳が捉えた言葉を改めて確認するようにトワを見る。
「何だ、いきなり」
「『白』を探しに来たの」
「しろ?」
「ラビットは『無限色彩』って知ってる?」
「いや、知らないな」
 放たれたラビットの言葉が嘘であることに、トワは気付いていなかった。
「不思議な力を持っている人のことを、無限色彩保持者っていうの。それで、その人の持ってる能力を無限色彩っていうの」
「超能力者とは違うのか?」
「違うの。超能力と似てるけど……無限色彩は、超能力よりも大きくて、強い力」
 トワは、そこで一回言葉を切った。ラビットは話の続きを待つように、黙ってアスファルトの道を見ていた。
「あと、無限色彩を持っている人は、身体に『ジュエル』がついているの」
「ジュエル?」
「うん。色のついた宝石みたいなもの。そのジュエルの色によってその人の無限色彩の強さが決まるの。『青』が一番強くて、『赤』が一番弱い」
「……『白』は?」
「二番目に強い。でも、わたしが探している『白』は、『青』と同じくらい強いんだって」
「その『白』がどこにいるかはわからないのか? どんな特徴を持っているか、とか……」
「わたしは知らないの。白いジュエルを持っていることと、この星にいることくらいしかわからない。だから……この星を見て回りながら、『白』を見つけようと思ったの」
 そう言って、トワはラビットから、車の外の空に目をやった。果てしなく続く荒野、それに白い雲に覆われた空が広がっていた。絶えず流れているピアノの乾いた音色が、妙にその光景とよく合っている。
「トワ、貴女も、無限色彩とやらを持っているのか?」
 ラビットの言葉に、しかしトワは答えなかった。
 
 
「その『白』は、この星を美しいって言ってたんだって」
「……美しい? この星が?」
「だから、わたしもそれを確かめたかったの。それが、もう一つの目的」
「この星が美しいと思うとは、どれだけ妙な感性の持ち主なのかが伺えるな」
「そんなことないよ。だってラビットも、そう思っているんでしょう?」
「何故そう思う?」
「……だって、ラビットもこの星にいるから」
 ラビットは、トワの言葉に絶句し、戸惑った。トワはそんなラビットに気付いたのか気付かなかったのか、窓の外を見ながら、言った。
「……町だ」
 ラビットもそれに気付き、そちらに目をやる。トワの興味が他に移ったのに少なからず安堵しながら。
 荒野の真ん中の道を取り囲むようにして小さな家々が立ち並んでいるのが見えた。
「行くか?」
「うん」
 
 
 白い雲の切れ目から、青い星が覗いていた。
 破壊を呼ぶ、青い星が――

005:旅立ちの日

 ラビットは天文台の入り口前に車を着けた。
 車はおそらく二十四世紀型のものなのだろう、特徴的な流線を描いた鈍色の車体だった。
 車を降りて、一つ、溜息をつく。
 ラビットは、トワが『この星を見たい』と言った時、何も言葉を返すことができなかった。
 何しろ、『この星を見たい』と言われても、何を見せればいいかもわからない。
「それに、私も、何も知らない」
 ラビットは元々この星……地球の人間ではない。どこの出身かは彼自身が口を閉ざしているため、誰も知ることはないのだが。
 しかし、ラビットはトワの願いを聞き届けることにした。トワが何故政府に追われているのかはわからないし、何のためにこの星に来たのかも詳しく話そうとはしない。だが、このままこの天文台にトワを置いておいても、すぐに政府が嗅ぎ付けてトワを追ってくるだろう。そうなれば面倒なことは目に見えていた。
 何を見せればいいかわからないのなら、とりあえずどこかに行ってみよう、それから考えればいい。ラビットはそう思っていた。
「ラビット」
 声をかけられて、ラビットは声の聞こえた方向に目をやった。そこには少し大きめな真っ白のワンピースを着たトワが立っていた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
 そう言って、トワはラビットの横に歩いてきた。ラビットは車のドアを閉め、エンジンを点検し始めていた。
「……ラビット」
「何だ?」
「横にいていい?」
「ああ」
 そっけない返事をするラビットだったが、トワは嬉しそうに笑ってラビットの横に立った。ラビットは黙々と点検を進めている。
「……ラビット」
「何だ?」
「龍飛はどうするの?」
「………」
 龍飛。ラビットの住む天文台の管理をするメインコンピューター。……そして、彼女は機械でありながら酷い寂しがりやだった。
 ラビットが天文台に住み着く前……そこには一人の老人が住んでいたという。彼女は老人の話し相手として作られた存在だった。老人が死んだ時、彼女は寂しさのあまりに機能を全て凍結させ、自らの意識も凍結させたらしい。ラビットが住み着いてから、すぐに機能を解凍したらしいが。
 彼女の感情は、ほとんど人間と変わらないほど高度なものだ。それは、数年彼女と共に過ごしたラビットもよく知っていることである。
 トワは龍飛と何回か言葉を交わしているうちにいつの間にか仲良くなったらしい。だからラビットにこんなことを言ったのだろう。
「置いて行くしかないだろう? 彼女はこの天文台そのものなのだからな」
 ラビットは天文台を見上げた。トワは明らかに寂しそうな顔をした。
「独りは、寂しいんだよ?」
「………」
 再び、ラビットは黙り込むしかなくなっていた。少し考えて、ふと何かを思いついたかのように顔を上げた。
「少し、待っていろ」
 ラビットは手を止め、天文台に向かって歩き始めていた。トワは「待っていろ」と言われたので、その場に立って空を見上げた。
 少し灰色がかった白い空。空にはまだ昼間だと言うのに、青い星が浮かんでいた。
「青い、星」
 トワは、ポツリとつぶやいた。
「私と……同じ」
「――『青』」
 トワではない、ましてやラビットでもない声に、トワははっとして振り返った。そこには一人の人間が立っていた。黒いスーツを着て、金色……いや、むしろ黄色と言った方が正しいか……のウェーブがかった長い髪を乾いた風に靡かせ、青い色のレンズが入った眼鏡をかけている、どこか中性的な若い男だった。
「……誰?」
 トワは怯えをあらわにして問いかける。男は穏やかな表情を浮かべていた。しかし、この男は、トワが最も嫌うもの……軍の人間であることをトワは感覚的に察知していた。
「ん? ラビットの知り合いよ。ラビットは?」
 女のような口調で喋る男に、無言でトワは天文台を指差す。男は「そう」と答えて、しばらく天文台とトワを交互に見つめていた。しかし、この前にトワを捕まえようとした軍人たちとは違って、どこか物珍しそうにトワを見つめるだけで、何をするわけでもなかった。
「あの……」
「何?」
「貴方は、軍の人ですよね?」
「ええ、そうよ」
「何故、わたしを捕まえないんですか?」
 男はその質問を受けて、一瞬虚を付かれたような顔をしたが、すぐにくすくすと笑いをこぼした。
「そんなことを言ったらミラージュ姫だってそうでしょう? 彼女もああ見えてれっきとした軍の学者さんだし。ま、あたしはラビットに用があるだけで貴女に用はないわ。だから捕まえたりはしないわよ、安心して」
 声こそ男のものだったが、その仕草は妙に女性的だ。しかしながらそれがよく似合っていた。元々外見が少し女性に近いということもあるのだろうが。
 そして、彼の言う「ミラージュ姫」がトワに接触を求めたクロウ・ミラージュの通称であることにトワが気づいたのは、一呼吸後のことだった。
「クロウを知っているの?」
「知っているも何も、ミラージュ姫は軍の中でも有名人よ」
 そんなことを話していると、玄関のドアが開き、ラビットが顔を出した。そして、トワと話している男を見て、絶句した。
「………!」
「お久しぶり、兎さん。元気してた?」
「何故、貴方がここに?」
 男は驚くラビットの顔を、下から覗き込んだ。
「決まってるじゃない。姫から貴方がこの子をかくまってるって聞いて飛んできたの。もちろん本部には知られないようにね」
「本部……軍はまだこちらの事を知らないのか?」
「表面上はね。まだうちの戦乙女さまが気づいていないから、もしかしたら全く気づいてないかもね。その逆もありえるかもしれないけど」
 結局のところどうとでも取れるということだ。適当なことを軽く言う男に、ラビットは嘆息した。
「仕方ないな……私はとりあえずここを出る」
「ええ、その様子じゃそうでしょうね。でも、気をつけて」
 男は初めて、笑みを抑えて少し真面目な表情になった。
「……レイ・セプターが彼女を追ってる」
「………!」
 ラビットの表情が一気に険しくなった。トワは怯えた表情でラビットにしがみついている。
「あの男が?」
「彼が、この子の身柄を保護する権利をうちの戦乙女さまからいただいてきたの。何考えてるかは知らないけどね。もし厄介事に巻き込まれたくないなら、今のうちに彼女から手を引いたほうがいいわよ?」
 言葉だけ聞くとどうも軽く聞こえてしまうが、そのトーンは低く、この男なりには本気なのだろうと言うことが何とか伝わってきた。トワはそれを察したらしく、悲しそうな顔を浮かべてラビットを見上げた。
 ラビットはしばし目を伏せていたが、ふと、真っ直ぐ男を見据えた。
「もう厄介事には十分なっているだろう。レイ・セプターは何とか撒いてみせる。彼女が満足いくまでは、とりあえず彼女に付き合うつもりだ」
 男は、ラビットの言葉を聞いて長い長い溜息をついた。
「ええ、アンタならそう言うと思ったわ。わかってる。ごめんね、わざわざこんなこと聞いて」
 そう言いながら、男は左手にはめていた金属製の籠手のような物をはずし、ラビットに向かって投げる。ラビットはそれを受け止めながら、サングラスの下の瞳を丸くした。
「……いいのか? こんなものを軍の人間でもない私に渡しても」
「構わないわ。今のあたしには必要ないけど、アンタには絶対に必要だもの」
 言って、男は微笑む。そして、まだどこか不安げな表情でラビットにしがみついているトワの青銀の髪に軽く触れた。
「ごめんね、不安な思いさせて。大丈夫よ、ラビットなら貴女を裏切ったりはしないわ。あたしと違って……ね」
 少し、自嘲気味な笑みが、男の表情に混じったような気がした。トワは不安げな表情こそ崩さなかったが、男への緊張は解けたらしく、ラビットから離れて男を見た。
「あたしが伝えたかったのはこれだけ。後はアンタだけでどうにかしなさいよ」
「ああ、わかっている、元々貴方の力だって借りるつもりはなかったが……しかし、ありがたくいただいておく」
 ラビットは男から渡された籠手のようなものを左手にはめた。ラビットがはめるにはサイズが大きかったが、抜けるというほどでもなかった。
「貴方の動きは気づかれていないのか?」
「あたしの行動が基本的にノーマークなのは知ってるでしょう?」
「それはそう、だが……」
「それじゃあ、あたしはこれで。……お願いだから、無茶だけは、しないでね」
 男は、そう言って歩いてその場から立ち去った。とりあえずラビットは視界から男が消えるまでは見送ったが、視界から男が消えるなり足元に置いてあった黒い一辺が二十センチメートルくらいの箱を手に取った。
 何、これ?とでも言いたげな表情のトワに、ラビットは少し笑顔を見せた。
「すぐにわかる」
 一言だけ言うとラビットは再び車へと向かい、手にした箱を車の機関部に取り付け始めた。再び沈黙が流れ、トワはせわしなく動くラビットの手を覗き込んでいた。
「ねえ、ラビット」
「何だ?」
「さっきの人、誰?」
 ラビットは手を休めることもなく答える。
「私が軍人だったころにいろいろと世話になった。変なやつではあるが信頼には値する」
「……あの人」
 トワは深い海の青を映し出した瞳でラビットを見た。
「今まで出会った人の中で一番血の匂いがした」
 ラビットはその言葉に一瞬手を止め、まじまじとトワを見つめる。トワは眉を寄せ、心配そうな顔を浮かべていた。
「怖かった」
「不思議だな。私はそんな匂いなんて感じなかったが」
「匂い……じゃないのかもしれない。でも、わかったの。あれは血の匂い」
 ラビットは思わず止めてしまっていた作業を再開し、目も機関部の黒い箱に戻す。
「そうか。……あの男は、昔、軍の中で一番力のある軍人だった」
「力のある?」
「いや、わかりやすい表現をすると、『一番人を殺した』軍人か」
 ラビットはそこで言葉を切り、息をつく。手は止まらずに作業を続けている。
「ただ、事故に巻き込まれてな。身体が使い物にならなくなって、一線から退くことになった。だから今は軍の中では情報収集を主な仕事としている。……仕事というか半分以上趣味だがな」
 言葉とともに手を止め、ラビットは「できたぞ」と言って黒い箱のスイッチを入れた。すると、車内に設置された立体映像投影機に一人の女性の姿が映し出された。……龍飛だ。
「龍飛」
 トワが嬉しそうに呼びかける。龍飛もトワに向かって笑いかけた。
「メイン人格をコピーして移し変えた。あくまでコピーだが、主電脳ともリンクさせてあるからいいだろう、龍飛」
『ええ、十分です、ラビット』
 龍飛は人口音声で言った。声に抑揚は少なかったが、喜んでいるのだろう。
「さて……準備もできたな。……行くか」
 ラビットは天文台の扉に全て鍵をかけた。
 ――こことも、もうお別れだ。
 ふと、天文台から覗く巨大な望遠鏡に目が行く。古びた、何世紀も前の望遠鏡。
 ――もう、帰れないだろう。
 トワの存在も、トワを追う軍人も、さっきの男の忠告も、これからの旅の過酷さを物語っているようだった。しかし、彼がトワを見捨てるなんて事は、できるはずもなかった。
 彼自身がお人よしであるということもあるが、それ以前に……トワが、自分に近い存在であるように感じてしまっていたから。
「十二翼の堕天使」
 ラビットは、トワにも聞こえないくらいの声で呟いた。
「貴方の片翼、確かに譲り受けた」
 左手にはめた籠手のようなものを見据え、ラビットは続ける。
「……しかし、貴方の翼でも手に余る」
 目を、空に向ける。太陽と一緒に輝く青の星。
「あと、一年もない時間で、私たちはどこまで行けるだろう?」
 
 その答えは、今はまだ誰も知らない。

004:知る者

 クロウ・ミラージュは古びたバイオリン片手に閑散とした部屋の真中に座っていた。目はいつものように虚ろで、どこを見ているのか定かではなかった。
 部屋のドアがノックされる。
 ミラージュは何も言わず、ただドアの方を見た。すると、相棒のレオン・フラットが入ってきた。少し不安げな表情をしている。
「クロウ、落ち着いたか?」
「………」
 ミラージュは小さく頷いた。相変わらずの無表情だったが。
「いきなり通信を繋げたいって言った時には驚いたが……クロウ、何で君はあの少女を逃がしたんだ?」
「………」
 ミラージュは問いには答えず沈黙だけを返した。ともすれば眠り込んでしまうような表情で。
「あの少女は政府にとっても重要な存在だろう? もし、君が逃がしたと知れれば、やっぱり」
「でも、友達だから」
 ミラージュはフラットに向かって言った。今度はフラットが虚を突かれたように黙り込む。
「……トワ、悲しそう、いつも。だから、私」
 ミラージュの漆黒の瞳が、少し揺れた。
「私……トワ、送った。トワ、地球が、いい……言った。会いたい……って」
「会いたい?」
「多分……『二番』に」
 フラットは少し考え込むような仕草をした。それを見ながらミラージュは舌足らずな言葉で続ける。
「トワ……私、同じ。『二番』も」
「そうだな。あの人はクロウと同じ『白』だったな。でも、あの子は……」
「『青』。同じだけど、違う。全て……始まり。だからトワ、独り……誰とも、違う」
 ミラージュは俯いた。
「わかる。……独りは本当に寂しいんだ。私はとてもよく知ってるから」
 一瞬、ミラージュの放った言葉が鮮明になった。フラットはそんなミラージュを抱きしめた。ミラージュは手にしたバイオリンを思わず落としてしまった。
「……でも、もう、独りじゃないだろ?」
 フラットはミラージュの耳にささやくように言った。ミラージュは目を見開いたまま硬直していた。
「トワも、『二番』に任せておけばきっと大丈夫だ。あの人も……独りがどれだけ辛いか、知ってる」
 ミラージュは少し落ち着いてきたのか、フラットの赤い髪に触れながら、また元の舌足らずな口調に戻って言った。
「うん……そう、だね……ありがと、レオン」
 
 
「『青』が逃げ出した……その時、『黒』はどうしていたのだ?」
「気絶していました。『青』の力だと思います」
「なるほど。しかし、時計塔には『青』の力を抑える効果があったはずだが……」
「『青』の力が予想以上だったのだろう? ヴァルキリー大佐」
 小さな部屋で、四人の軍人が何かを話し合っていた。
「予想以上、か……だが、『青』がいきなり此処を抜け出すような性質だとも思えないがな」
 ヴァルキリーと呼ばれた女が言う。ヴァルキリーは美しい銀の髪をした女である。ただ、その耳は長く伸び、先が尖っていた。この特徴は、彼女が純血の太陽系圏人種(ソーラー・ヒューマン)ではないことを示していた。おそらく、妖霊系圏人(エルフィン)の血を濃く引いているのだろう。
「わからないぞ? 何しろ奴は『青』だ。何を考えているかなど我々の思うところではない」
 ヴァルキリーの隣に座っていた大男がやたらとやかましい声を上げる。多分本人は意識していないのだろうが、ヴァルキリーは微かに眉を顰めた。
「お言葉だが、スティンガー大佐。『青』を捕まえるためだけに一隊を地球の某所に送り込んで、その場所の住民にまで迷惑をかけたという事例が報告されているが……?」
「私は『青』を保護しろと指示しただけだ。現地の指揮はセプターに任せたはずだがな」
 大男、スティンガーは壁に寄りかかって何も発言しようとしない金髪の男に目を向けた。
「そうだったな? セプター大尉」
 金髪の男、セプターはスティンガーを一瞬だけ見て、再び目線を彷徨わせるだけで、何も口にすることは無かった。
「セプター!」
「……はい、スティンガー大佐」
 表情ひとつ変えず、機械的な淡々とした口調で答えるセプター。しかし、スティンガーにとってはそれで満足だったらしい。勝ち誇ったような表情でヴァルキリーに言う。
「どうだ? ヴァルキリー」
「ああ、そうらしいな」
 ヴァルキリーは「下らない」という表情を隠しもせず適当に答え、四人目……青く髪を染めた青年に向かって言った。
「海原少尉。その後の『青』の様子はわかるか?」
「いえ、それが……」
「何だ? 『青』の発する精神信号は送られてきているはずだろう?」
 が、海原はヴァルキリーやスティンガーの方を真っ直ぐ見つめようともせず、蚊の鳴くような声で言った。
「昨日の基準時間にして午後三時以降、信号が何かに妨害されて受信できなくなってしまったのです。地球に存在しているのは確かなのですが、それ以上は……」
「何だと!」
 スティンガーの大声が海原を襲った。海原は「ひっ」と言って下を向く。ヴァルキリーはスティンガーをなだめながら、海原に向かって言う。
「『青』が放つ信号は特殊なものだ。それを妨害できるものなど、普通では存在しないと思うがな。ただ、海原少尉が嘘をついているとも思えない。スティンガー大佐、海原を責めるのはお門違いだ」
「ちっ」
 スティンガーは舌打ちをする。それと同時に、今まで自ら何かを語ろうとしなかったセプターがゆっくりと口を開いた。
「ヴァルキリー大佐。『青』の保護、私に任せてもらえないだろうか?」
「何? セプター、貴様は確かに地球配属だが、貴様なぞに『青』は」
 セプターに向かって何かを言おうとしたスティンガーは、ヴァルキリーの言葉に遮られた。
「セプター大尉。『青』の恐ろしさを知らない貴殿に、『青』を確保できるとは思わないが」
「ああ、そうかもしれない。最低階梯の『赤』でも『あのような惨事』を引き起こせるのだから、『青』がどれだけの力を秘めているのかなど、測れるはずもない」
 そう言ったセプターの声は微かに激しさを込めていたが、表情に変化はない。
「ああ……貴殿はあの事件をよく知っているからな。クライウルフが死んだ、あの事件を」
「その名前はもう口にしないで欲しい。とにかく、私に『青』の保護を任せて欲しい」
 ヴァルキリーはしばらく考え込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。
「わかった。レイ・セプター大尉、貴殿に『青』の保護を命ずる」
「ヴァルキリー!」
「黙れ、スティンガー大佐。『青』に対する主導権は私にあることを忘れたか?」
「ぐっ……」
 怒りを顕にするスティンガー。だが、ヴァルキリーはセプターに言う。
「この作戦について、全ての決定権は貴殿に一任する。相手が未知の『青』であることを考慮し、作戦に他の部隊を使うことも許可する。いいな。詳しいことは後日、連絡しよう」
「……感謝します」
 そう言って、セプターは部屋から出て行った。スティンガーはセプターの後姿を悔しそうに見ていた。
「どうした? スティンガー大佐」
 ヴァルキリーが言った途端、スティンガーは何も言わないまま部屋を出て行った。海原が不審そうに眉をひそめる。
「大佐、どうしたのですか?」
「おそらく、『青』を保護するという名声を得る機会を逸して悔しいのだろうさ。それより、海原。今回の通信障害についてなのだが、一つだけ、心当たりがある」
 海原は驚いたように目を見開く。ヴァルキリーはどこか自嘲ぎみな笑みを浮かべて言う。
「ただ、これは今やほとんどありえない話だがな」
「どういうことですか?」
「五年前、セプターの相棒だったクライウルフが死んだのはよく知っているだろう?」
 いきなり何の話をし始めたのかと海原は首を傾げるが、構わずヴァルキリーは淡々と続ける。
「そして、クライウルフも『無限色彩』の持ち主だ」
「もしかして」
「『精神の支配者』とも称される奴の能力は、精神感応の上位能力とされる『精神操作』を越え『傍受妨害』に及ぶ。奴の力の大きさは、本人も無意識ながら精神波の伝達障害を引き起こす。これなら、『青』の精神波情報も伝わらなくなる可能性がある。……まあ、奴は『あの事件』で死んだわけだが、仮にこの能力を持っている人間が地球に居れば」
「……しかし、『無限色彩』の持ち主同士が出会うなど、危険すぎます」
「そうだな……クライウルフの時もそうだった」
 ヴァルキリーはそこで黙り込んだ。海原もそんなヴァルキリーを見上げ、何を言えばいいか悩んでいるように見えた。
 しばらくして、ヴァルキリーは重々しく口を開いた。
「今は、あの悲劇を繰り返さないことを、祈るばかりだな……」

「おかえり」の魔法

「ねえ、アキさん? 起きてるかな。
 わたしね、時々、考えちゃうんだ。アキさんが、どうしてわたしと一緒にいてくれるのかな、って。
 アキさんは、いつだってわたしの側にいてくれて、わたしの大好きなものを作ってくれて、一緒におしゃべりをしてくれて、わたしが寂しい時にはぎゅってしてくれる。こんな素敵な人に巡りあえたことが、奇跡みたいだな、っていつも思ってる。
 でも……、ううん、『だから』、なのかな。
 これは、わたしが見てる長い長い夢で、ふっと目を覚ましたら、アキさんはどこにもいないんじゃないか、って。思っちゃうことが、あるの。
 うん、わかってるよ。わたし、今、アキさんの温かさを感じてるもの。アキさんはここにいる。確かにここにいるって、わかってるよ。
 だけど、なんだろうな。上手く言えないんだけど、アキさんを見てるとね、わたし、アキさんのために何ができてるんだろうな、って思っちゃうことがあるの。
 だって、わたし、アキさんみたいに料理は上手くないし、お菓子作りだって全然ダメ。いつもお仕事で大変そうなアキさんのためにも、何か頑張ってみよう、って思っても、いつも結局助けてもらっちゃってる。これじゃあダメだな、って思ってるんだけど、上手くいかないの。
 アキさんは、そのたびに優しく笑って、それでもいいんだよ、って言ってくれる。いてくれるだけでいいんだよ、って言ってくれるよね。
 わたし、すごく嬉しい。嬉しいけど、ほんの少しだけ、胸がきゅって痛くなるの。
 どうしてだろう。どうしてだろうなあ。
 ……なんだか、ごめんね。今、アキさんにぎゅってしてもらって、こんなに幸せな気分なのに、こんな話してごめんね。
 でもね、アキさん。一つだけ、どうしてもアキさんに言いたいことがあるの。
 わたし、どうしようもなくドジでおっちょこちょいで、これからも、アキさんに迷惑ばかりかけちゃうと思う。だから、わたしにできることを、ずっと、ずっと考えてて。やっと、答えを見つけたような気がしたんだ。
 ――どんな時も、笑顔で『おかえりなさい』ってアキさんを迎えてあげようって。
 わたし、アキさんのために何もできないかもしれないけど、元気なことだけが取り得だから。
 アキさんが、本当に辛くて苦しくて、笑うことも忘れちゃうような時でも、ここに帰ってきた瞬間だけは、辛かったことをさっぱり忘れられるように、わたしは笑って『おかえりなさい』って言うよ。それから、すっきりして、もう一度明るい朝を迎えられるように、いっぱいお話ししよう。楽しいことも、辛いことも、いっぱい、いっぱい。
 そうしたら、今度は笑って『いってらっしゃい』って言うの。
 うん、わたしにとっては、当たり前のことなんだけどね。でも、きちんと、言っておきたかったの。それが、きっと、わたしがアキさんのためにできる、一番大切なことだと思ったから。
 ありがとう、アキさん。わたし、今、とっても幸せだよ。これ以上は何もいらないって思うよ。あ、でもでも、アキさんが作ってくれるお菓子は楽しみなんだから。また、いっぱい作ってね。
 えへへ、太らないように気をつけないとね。アキさんは羨ましいなあ、あんなに食べても、全然太らないんだもん。
 ん、大丈夫。わたしは大丈夫だよ、もう元気になったから。明日は笑顔でおはようしようね。
 わたしの話、聞いてくれてありがとう、アキさん。
 それじゃあ、おやすみなさい」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(1)

 雨が、降っていた。
 
 八束結の記憶を手繰るならば、部屋を出る二十四分前に降り始めた雨は、いつしか地面を激しく叩く大雨となっていた。
 小さな体に似合わぬ大きな紺色の傘を傾げ、底の潰れたローファーで、水たまりを避けながら歩く。その跳ねるような足取りは、踊っているようにも見えた。
 しかし、転属初日から雨とはついていない。
 思いながら、ひときわ大きな水たまりを飛び越える。ほんの数日前にこの町に越してきた八束にとって、勤務地に向かうこの道も、見知らぬ道だ。とはいえ、迷子になるという不安はない。地図はしっかり頭の中に入っているし、方向感覚には自信がある。
 それでも、ふと、不安になるのだ。いくらこの雨とはいえ、ここまで人っ子一人見かけなかったこともそう、八束の身を包むのが雨の音だけであるということもそう。
 寒さからではない悪寒が背筋を駆けて、ぶるりと震える。寒いはずはない。いくら大雨とはいえ、九月初頭の空気はまだ真夏の熱を残している。ならばこの悪寒は何か。
 考え始めるとどんどん悪い方へと想像が膨らむのはわかりきっているのだ、八束は頭を振って前を見る。大丈夫、人がいないのは偶然、他に何の気配も感じられないのは、突然の大雨だから。それだけ。それだけなのだ。きっと。
 うねうねとカーブを描く道を辿り、木々に囲まれた細い道に入ったとことで、八束の足はぴたりと止まった。黒目がちの瞳に映っていたのは、道の先に倒れている、何者か。
「……大丈夫ですかっ?」
 ほとんど反射的に、傘を投げ捨てて駆けだしていた。しかし、八束の声を聞いても、倒れている人物はうつぶせになったままぴくりとも動かない。その横には豪快に倒れたバイクの姿もある。
 スーツや靴下が汚れるのも構わずアスファルトの上に膝をつく。フルフェイスのヘルメットに隠された顔は見えず、ヘルメットをはじめ、全身に強く擦ったような傷がある。ただ、かろうじて、呼吸はしているとわかる。肩を叩いてもう一度声をかけてみるも、意識は戻らない。ただ、苦しげな呼吸だけが聞こえている。
 その姿に唇を噛みつつも、腕時計を確認。――八時ちょうど。
 携帯電話を取り出して、一一九番を叩く。通話が繋がると同時に、口を開く。
「もしもし、救急です。場所は待盾市鍋蓋三丁目、林に囲まれた道です。バイクの転倒事故のようで、バイクから投げ出されていた運転手は、呼吸はありますが意識がなく――」
 そこまで一気に説明したところで、八束は口を開いたまま、言葉を失った。
 ついとその人から視線を上げたその時、目に入ったものが、信じられなくて。
 カーブになっている道の先に立ち尽くしていたのは、白い衣を頭の上からまとった人影。
 そして、
 
 ――その人影には、足が、なかった。
 
 
 
 朝から降り始めた雨は、全く止む気配を見せない。
 目には見えない空気の重さに、ただでさえ重たい頭がさらに鈍い痛みを訴える中、南雲彰は黒い傘を肩にかけ、頼りない足取りで野次馬の間をかき分けていく。
 かき分けると言っても無理に人を押し退ける必要などなく、相手が勝手に避けてくれるので楽なものである。その時に投げかけられる意味ありげな視線も、気にしなければどうということはない。
 野次馬の向こう側には、雨合羽を着た警官たちが人垣を作っていて、南雲もまたそのうちの一人、南雲より一回りくらいは若い警官に引き留められる。
「ちょ、ちょっと、こちらは立ち入り禁止ですよ」
 言葉と視線に怯えを滲ませる警官をぼんやりと見下ろし、コードのついた手帳を示す。
「俺、待盾署の南雲っていうんだけど、蓮見ちゃんいる?」
「……へっ?」
 警察手帳と南雲の顔とを交互に見比べて目を白黒させる警官。すると、その後ろから、よく通る女の声が聞こえてくる。
「あっ、その人は通してあげて。ヤクザみたいな面構えだけど、一応、本物の警察官だから」
 こっちですよ、と手を振っているのは、他の警官と同じく合羽姿の女だった。その周りには、南雲も顔を知っている警官が数人、珍妙な顔をしている――おそらくは、笑いを堪えているのだろう。
 南雲は呆然としたままの若い警官の横をすり抜けて、「蓮見ちゃーん」と女――交通課の蓮見皐に手を振ってみせた。
「ヤクザなんて酷いな、こんなに人畜無害でフレンドリーなのに」
「でも、そう見えるって自覚はしてますよね、南雲さん」
「うん」
 しれっと頷く南雲には、蓮見も苦笑するしかないようだった。
「あんまり、うちの新人いじめないでくださいね」
「いじめてるつもりはないんだけど」
 新人らしい若い警官に視線を向けると、緊張なのか恐怖なのか何なのか、びくりと震えて助けを求めるように仲間の警官に話しかける。
「あのっ、あの方は?」
「あー、お前は見たことなかったか。あれが待盾署名物、秘策の南雲さん」
「秘策!? 神秘対策係って、実在したんですか!?」
 ひどいな、と内心思いつつもその評価を否定する気にはなれない。同じ署に所属していても、見かけからして自己主張の塊である南雲を知らない警官は未だ一定数存在するし、南雲の所属を知らない――知っていたとしても実在を疑う者はそれ以上に多い。だから、この警官の反応は決して目新しいものでもなく、南雲にとっては「何度も繰り返したやり取り」の一つに過ぎなかった。
「で、バイク事故だって聞いたけど」
 南雲は蓮見越しに事故現場を見やる。とはいっても、バイクの運転手は既に病院に搬送されており、今は数人の警官が激しい雨の中、現場検証を行っている。
「はい。ただ、この雨だから、検証には時間がかかりそうで」
「そりゃ大変。俺を呼んだのは、猫の手でも借りたいってとこ?」
 猫よりも使えないと思うけど、と仏頂面で嘯く南雲に対し、蓮見は「いえいえ」と首を横に振る。
「手伝ってもらいたい、というのは確かに間違いじゃないんですけど。ちょっと、こちらへ来ていただけますか?」
 蓮見に手招きされて、南雲はひょこひょこ後ろをついていく。他の警官たちの好奇の視線は、わかっていながら無視を決め込む。いちいち構っていたら、時間がもったいない。
 蓮見が向かったのは、路肩に停まっていた警察車両であった。「見てください」と言われるがままに、窓越しに後部座席を覗きこむ。窓が濡れているのと、南雲自身の視力の低さからすぐには判別できなかったが、よくよく見てみれば……。
「女の子?」
 そう、一人の少女がそこにいた。
 座席に横たえられているその姿は、よく出来た人形のようだ。
 しっとりと濡れた黒髪は、腰の辺りまで伸びている。瞼を閉じていても、その睫毛の長さが目立つ。綺麗に切りそろえられた前髪の間から覗く眉は太く、意志の強さを感じさせる。今時珍しい、古風な印象の美少女である。
 少女の服装は、少しサイズが大きいのではないかと思われるブラウスに黒のスカート姿。その上で全身ずぶ濡れらしく、ブラウスから下着が透けて見える。とはいえ、子供の下着を見たところで興奮する南雲でもなく、蓮見に視線で説明を求める。
 蓮見は、こほんと軽く咳払いをしてから、口を開いた。
「本日明け方、ここでバイクが横転し、投げ出された運転手が重傷を負いました。今もまだ、意識は戻っていないと聞いています」
「で、この子が、事故と何の関係があるの?」
「わかりません」
「……は?」
「一一九番通報があったのが、午前八時前後。通報は女性の声だったそうです。しかし、その電話は途中で、その女性の悲鳴で途絶えたという報告が入っています。救急からの報告を受けて我々が駆けつけた時には、バイクの運転手と共に、彼女が倒れていたんです」
 通報の主がこの少女であろう、というのが蓮見の見解であった。妥当な線だろう、と南雲も思う。
「この子に怪我はない?」
「はい。単に気絶しているだけのようで、救急隊員からも特に問題なしと言われています。ただ、事故との関係がわからないため、目が覚めるまでは我々で預かることになりまして」
 ふうん、と南雲は改めてしげしげと少女を観察する。窓越しでも、薄い胸が上下していることは、わかる。蓮見の言うとおり、命に別状は無さそうだ。あどけない顔立ちや、めりはりに欠ける体つきから判断するに、中学生くらいだろうか。それにしては妙に大人びた服装をしているけれど、と考えながら蓮見に問う。
「身元とかは、わからないの?」
「わかってますよ。そうでなければ、南雲さんをわざわざ現場に呼んだりしませんって」
「……どういうこと?」
 思わず振り返り、蓮見に問う。この少女に見覚えはない。普段は起きているんだか寝ているんだか怪しい南雲だが、本来記憶力はそう悪い方ではないと自負している。それに、この少女の顔は、かなり特徴的だ。もし一度でも見ていれば、印象に残っていてもおかしくないが……。
 蓮見は軽く肩を竦めて、苦笑交じりに言う。
「所持品から名前はすぐにわかりました。彼女は八束結さんというのですが、綿貫係長から名前くらいは聞いてますよね?」
 やつづか、ゆい。
 あまり聞かない苗字だなあ、という印象は、この場においても有効だった。つまり、南雲はこの少女の名前を知っていた。
 知っては、いたけれど。
「……うちの、新入り?」
「はい」
 八束結巡査。本日付で待盾署に配属される、という話は聞いていた。そして、南雲の直属の「後輩」になるということも。南雲の所属する係に新人が入るということ自体耳を疑ってはいたが、それにしても。
「いやまさか。どう見ても中学生でしょこの子」
「身分証によると一九八三年生まれだそうです。二十二歳ですよ二十二歳」
 いやいやないない、と頭を振る南雲だったが、蓮見がこのような場で下らない冗談を言うタイプでないことは、南雲もよくよくわかっている。
 しばし現実から逃避しようと色々と想像の翼を広げてはみたが、結局、窓越しの眠り姫を眺めて。
「……マジかあ……」
 そう、呟くしかなかったのであった。
「マジです。そんなわけで、南雲さんには、彼女を一旦秘策に連れて帰ってほしいんです」
「蓮見ちゃん、俺が車運転できないの知ってるじゃん」
「お姫様抱っこという手があるじゃないですか」
「やだよ。腕が疲れるし、それ以前に不審者扱いでまた捕まるって」
「……『また』って、捕まったことあるんですか?」
「決定的に捕まったことはないけど、職務質問はのべ十回くらい」
 一瞬、気まずい沈黙が流れた。それでも、すぐに気を取り直したらしい蓮見が、溜息混じりに言う。
「顔、早く覚えてもらえるといいですね」
「ね。で、本当にお姫様抱っこで署まで帰れって?」
「まさか。運転手をつけますのでご心配なく。でも、そこから先はお姫様抱っこをお勧めします」
 どうして、そんなにお姫様抱っこ推しなのか。お姫様抱っこはそこまで乙女心を掻き立てるものなのか。それとも、「南雲が人形のような美少女をお姫様抱っこしている」という愉快な図を期待しているのか。どうも、後者のような気がしてならない。蓮見は実際にその現場を見ることはないというのに、物好きなものである。
 ともあれ、改めて車の中の「お姫様」を確認した南雲は、そっとため息をつき、骨と皮だけの己の腕を撫ぜて呟く。
「……もうちょっと筋トレしとけばよかったな」
「意外と乗り気じゃないですか」
 蓮見の呆れ混じりのツッコミは、聞かなかったことにした。

少年

 好き好んで不幸になりたがる奴なんていない。
 当然僕もそうだし、君だってそうだろう?
 人は誰しも「幸せになりたい」と望んでいる。
 それぞれの幸福を目指し、果てなき航海を続けているのさ。

  (一〇八一年 名無しの魔道機関学者、妖精使いに語って曰く)

 
 夢を見た。
 青い、青い夢。
 視界一面に広がる、「この世にあらざる」青い薔薇の夢。
 胸を締め付けるような、不意に悲しくなってしまうような、透き通ったアオが目蓋の裏に焼き付く。
 だけど、何故か、彼は確信していた。
 それはとても、幸せな夢なのだと――

「セイル?」
 声をかけられて、セイルははっと目を開ける。目の前には、大きな双眸があった。白目のない金色の瞳の中で針のように細くなった瞳孔をぼうっと見つめてしまうセイルに、ルームメイトのクラエスはふうと大げさにため息をついて肩を竦めた。
「僕の顔に何かついてる?」
「あ……あー、ごめん。ぼーっとしてた」
 セイルの言葉に、クラエスは「最近いつもそんな感じだね」とぴんと伸びた髭を揺らしてくすくすと笑う。
 確かに、クラエスの言うとおりだとセイルも思う。学校へ向かう道でも、授業中でも、こうやって細かな作業をしている途中だって、不意にセイルの心は現実から空想の世界に旅立ってしまう。
 そして、頭の中に浮かぶのはいつも、青い薔薇の咲く花畑。
 ある日からずっと見続けている、不思議な夢だ。
「また、青い薔薇の夢を見ていたのかい?」
「実はそうなんだ」
「大丈夫? 夜、きちんと眠れてないんじゃないか?」
「うーん……確かにそうかも」
 セイルは言って、手に持っていた造花をかざす。紙を幾重にも重ねて作ったそれは、セイルの夢に出てきたものとよく似た、現実には存在し得ない青い薔薇だった。机の上には、同じような紙作りの青い薔薇がこれでもかとばかりに積みあがっている。
 それは、セイルとクラエスをはじめとしたライブラ国立リベル上級学校の生徒たちが作る、学校と寄宿舎を飾る聖ライラ祭の花飾りである。
 遠い昔、楽園には「魔王」と呼ばれた男、イリヤが君臨していた。「悪魔」と呼ばれる異界の怪物を自在に操り楽園を恐怖に陥れた魔王だったが、女神ユーリスの神託を受けた聖女ライラが魔王をこの地で打ち倒した。
 その時に、心優しき聖女は魔王の亡骸に花を手向けた。それが聖女の奇跡によって生み出された、「存在し得ない」青い薔薇だったと言われている。
 以来、魔王の恐怖が払われた日を「聖ライラの日」と名付け、ここリベルの町ではその一週間前から青い薔薇飾りで町を飾り、平和を祝う盛大な祭りを行う。それが『聖ライラ祭』である。当然ユーリス神殿でも執り行われる祭ではあるが、リベルのそれは遥かに規模の大きなもので、この時期には楽園のあちこちから観光客が訪れることでも知られている。
 旧レクスの生まれであるセイルにとっては、今年が初めてのリベルで送る聖ライラ祭だ。辺りを包む祝祭の空気は、セイルの心を自然と弾ませる。明日が祭の初日と思えばなおさらだ。わくわくする心を抱えて、大人しく眠れるはずもない。
 きっと、そんな祭に浮き立つ気持ちが、自分に聖なる青い薔薇の夢を見せているのかもしれない……そう思っていると、クラエスが言った。
「明日から冬休みだしね。わくわくするのはわかるよ。そういえば、セイルはこっちに来て初めての冬休みだけど……家には帰るのかい?」
「ライラ祭が終わったら一度帰るよ。それまでは祭を目一杯楽しんでこいってさ。クラエスは?」
「僕は家もすぐそこだしね。ユーリスの日には帰るけど、それ以外はずっとここにいるつもりだよ」
「そっか。それじゃあ一日は一緒に回ってよ。俺、どんなものがあるのか全然知らないからさ、案内してほしいんだ」
 セイルがにっと笑うと、クラエスも目を細めて微笑んだ。人間のセイルに比べると表情の少ない獣人のクラエスだが、入学から今まで部屋を共にしてきたのだ、今ならクラエスの表情とその意味もしっかりと見て取れる。
「いいよ。別に約束があるわけでもないしね」
「やった! ありがとう、クラエス!」
 飛び上がるように喜ぶセイルを、クラエスは穏やかな表情で見つめる。セイルよりも二つ上の先輩であり、リベルの生まれであるクラエスにとっては、聖ライラ祭も決して目新しいものではないのだろう。もちろん、楽しみでないわけはないことくらい、その顔を見ればわかるけれど。
 クラエスは丸みを帯びた指先で最後の薔薇を折り終わると、それをセイルに手渡した。
「さ、これで最後だ。後はこれを飾り付けるだけだね」
 セイルは机の上に積みあがった手作りの薔薇をつぶさないように慎重に木箱に入れながら、横で一緒になって詰めるクラエスを見る。
「えっと、どこに行けばいいんだ?」
「君の担当は確か南門だったはずだよ。僕は別の場所の手伝いに行くけど、一人で大丈夫かい?」
 薔薇の花をいっぱいに詰めた木箱を抱えたセイルは、「大丈夫、大丈夫!」とからから笑う。セイルの体は同じ年齢の少年たちの中でも小さいから、ほとんど木箱に埋まるようになってしまっていたけれど、中に詰まっているのはふわふわした紙の薔薇だ、別段重くはない。
「それじゃ、行ってくるな!」
 肘で扉を開けて踊るような足取りで外に出ようとしたセイルに、「ちょっと待って」とクラエスが声をかける。セイルが立ち止まって振り向くと、不意に首に暖かなものが巻き付けられる。
 それは、柔らかな毛糸のマフラーだった。
 手のふさがっているセイルの代わりにしっかりとマフラーを結んでやったクラエスは、まぶしそうに金色の目を細める。多分、窓から差し込む西日が本当にまぶしかったのだろう。
「もうすぐ日が暮れるからね。外は寒いよ」
「ん、ありがとな。じゃ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 クラエスの声に背を押され、セイルは寮を飛び出した。
 外に出たセイルの体に、北からの冷たい風が吹き付ける。木箱を抱えたまま小さく震え、白い息を吐き出す。
 だが、その空気を冷たいと感じたのも一瞬のことだった。耳を澄ませば聖ライラの日を祝う曲を練習する笛と太鼓の音が聞こえてきて、別の場所からは町を飾り付ける人々の弾んだ声が響いてくる。
 いつもと同じ、けれど普段とは違う色に変わろうとしている道を駆けながら、セイルは笑う。辺りを行き交う人々も、誰もが笑っていた。
 祭が始まる。
 一年の終わり、聖ライラ祭が始まる。
「セイル、遅いぞ!」
 級友の声が響く。セイルは笑顔で「ごめん!」と叫び返して、仲間たちの待つ輪の中に飛び込む。
 赤く染まり始めた雲一つ無い空に、季節はずれの蝶が、羽を広げて飛び立った。

 乱れた寝台で、わたしは目を覚ましました。
 どうやら、一日中泣き明かしてしまったようです。服すら纏わず、ただ、タオルケットだけを被ったはしたない姿で。
 けれど……、どうして、そんなに悲しい思いをしていたのでしょうか?
 まだ、ほろり、ほろりと涙は頬を伝って落ちるけれど。
 ぽっかりと、胸に穴が開いたような感覚だけがそこにあって、けれど、何を失ってしまったのかは、わたしにはどうしてもわかりませんでした。
 わたしの手には、一振りの鋏が握られていて、それから、床には……、明らかにわたしのものではない、長い黒髪がばらばらに落ちていました。
 一体何があったのか、わたしにはわかりません。わからない以上は考えても仕方のないことだと思うしかありませんでした。この学園では、時々、不思議なことが起こるものです。おんなのこが魔法を使えるように、ありとあらゆる不思議が、起こりえるものです。
 とにかく、部屋をきちんと片付けなければなりません。
 今日が休息日でよかったと思いながら、タオルケットで涙を拭って、まずはきちんと服を着ようと思ったところで……、ふと、胸元に刻まれた「しるし」が目に入りました。少しだけ紫を帯びた、赤い「しるし」。くちびるの、痕跡。
 それを目にした途端、やっと止まったと思った涙が、頬を伝って落ちました。
 なにか、わたしにとって大事なものが、この「しるし」を残したまま、消えてしまった。
 それだけは、確かなこと、であったはずなのに。何一つ思い出すことができなくて、私はまた、その場にしゃがみこんで、「しるし」の微かな痛みを感じながら、とめどなく涙を流すことしかできませんでした。
 
 
 
 
 翌日の朝のホームルームで。
 ひとりのおんなのこが「いなくなった」のだと、先生は言いました。
 けれど、誰もが不思議そうな顔をするばかりでしたし、わたしも不思議に思うだけでした。
 何せ、そんなおんなのこの名前を、聞いたこともありませんでしたから。
 ただ、不思議と。
 
 ――なきどり、さよ。
 
 その響きは、わたしの耳の奥に染み入るようでした。
 ああ、ひとりいなくなったなら、おんなのこのお墓を作らなければなりません。いつからかは忘れてしまいましたが、それが、わたしの役目なのでした。
 お墓の準備に必要なのは、おんなのこの材料であるお砂糖とスパイス、それから……、墓標には何を飾りましょうか。ふと、鞄を見れば、何故か普段入っていないはずの鋏の柄が覗いていて。何となく、これがそのひとの墓標に相応しいように思えました。この鋏はわたしのもの、のはずですが、きっとそれがいいという不思議な確信がありました。
 ならば、もうひとつ、埋める「すてきなもの」も決まっています。
 つまらない授業を終えて、放課後のチャイムが鳴ったらお墓を作りに行きましょう。
 墓標は鋏、埋めるものはお砂糖とスパイス、それからわたしが大好きだった、あのひとの鴉の濡れ羽色の髪。
 ……あれ、わたしは今、何を考えていたのでしょうか?
 ちらり、ちらついたおぼろげな「おんなのこ」の輪郭を振り切るように、軽く首を振って。
 
 わたしは、一時間目のチャイムの音を、聞く。

さよなきどり

 おんなのこの間には、密やかな約束事がありました。
 消灯後、こっそりと自分の部屋を抜け出したら、お目当ての子が待つ部屋の扉を三回、それから少しだけ間を空けて二回、ノック。このノックに対して、一回のノックはオーケイ、のお返事。二回のノックは今日はダメ、のお返事。
 本当は、消灯後の出歩きは――特に他のおんなのこへの部屋への出入りは禁止されているのですが、寮監に見つかりさえしなければどうということはありません。見つかってしまったら相応の罰を受けてしまいますが、それは「見つかった方が悪い」のです。見つからない限りは、それは「なかったこと」なのだというのが暗黙の了解。
 夜におんなのこ二人がすることといえばひとつ、「お互いのかたちを確かめること」です。自分たちが、「おんなのこ」という形をしていることを確かめるための、ちょっとした夜遊び。いたずら、と言い換えてもいいのかもしれません。
 だって、先生は言葉や図で説明してくれるだけで、わたしたちがどのようなかたちをしているのか、はっきりと教えてくれるわけではありません。いつか「おんなのひと」になるときの手続きだって、やったこともないものを、ただ説明されただけでわかるようなものではありません。
 だから、わたしたちはおんなのこの形を確かめると同時に、いつか「おんなのひと」になるときのための手続きを実際に試してみるのです。もちろん、それは単なる真似事に過ぎないのですが、わたしたちの、密やかな、楽しみでもありました。
 ただ、それだって、誰だっていいというわけではありません。かたちを確かめるということ、手続きの真似事をするということ、それは、よっぽど気を許していなければできることではありません。中には、どんなおんなのこの部屋にも遊びに来るような子もいますが、そういう子はごくごく少数派。
 わたしも、今までに、そのひそやかな遊びをしたのは三回くらい。お菓子作り仲間の子と、お互いの少しふっくらとしたおなかを触って声を殺して笑ったりして。お互いによく似た形をしているけれど、少しずつ違う部分に触れ合ったり。それから……、教えてもらった手続きを試してみたり。でも、それはあんまり面白くなかったことは覚えています。何だか、くすぐったくて、それから、何よりも痛みを伴って。それ以来、夜に二人で遊ぶことはなくなっていました。
 けれど……、今夜は、その時とはまるで違う気分で寝台に腰掛けていました。妙に背筋に力が入ってしまって、一番怖い先生の授業を受けているときのようながちがちの姿勢になっていることくらいは、鏡を見なくてもわかります。まだ、この部屋にはわたし一人しかいないのに。
 そう、それもこれも、女史が悪いのです。
 いえ、悪いというのは語弊がありました。女史は何も悪くないのです、ただ、あまりにもわたしにとって突然であった、というだけで。
 ――夜、あなたの部屋に行ってもいいですか、なんて。
 放課後、そっとわたしにだけ呟かれた「こえ」。その「こえ」はいつも通り、わたしには意味しか伝えてくれなくて、ほとんど反射的に「はい」と答えてしまってから女史の顔を見ようと思った頃には、女史はもう教室から姿を消していたのでした。
 はい、と答えてしまってよかったのか。わたしは、未だにわからないままでいます。
 あの夜……、わたしの想いを女史に伝えてから。女史が、わたしの想いを受け止めてくれてから。わたしと女史は、特に今までと変わらない日々を過ごしていました。変わったことといえば、わたしが、女史の顔を見るのが恥ずかしくなってしまったことくらい。それから、女史は本当にいつも通りでしたが、さりげなく、わたしと一緒にいてくれる時間が増えた、くらい。
 女史は今もなお、外向きには孤高のひとであり続けていて、わたしから見ても、そう、想いを伝えた今ですら、女史はどこか近寄りがたい存在でした。同じ場所にいながら、わたしたちとはまるで別の世界に生きているような。もちろん、一緒に食事をしたり、他愛のない言葉を交わしているときには違和感を忘れてしまうのですが、それでも、それでも、女史というのはどこかで、「そういうもの」であったのです。
 ですから、その女史がこの部屋に来て。わたしたちとは別の世界の何かではない、わたしと同じ「おんなのこ」であると確かめるということは、何となく「あってはならない」ことなのではないか、なんて。そんなおかしなことまで考えてしまう始末です。
 本当は、そんなはずはないということもわかっています。女史は、同じ学園で、同じ教室で、同じように授業を受けている、わたしと同じおんなのこなのですから。強く気高くあるようで、ほんとうはわたしと同じように思い悩んだり、嫉妬に苦しんだりする、ごくごく等身大の、おんなのこなのですから。
 そんな女史の「部屋に行ってもいいですか」という言葉が、単なる戯れだとは、思いたくありませんでした。女史はそもそもそういう冗談を言うような人ではありません。なのに、不安になってしまうのです。あの女史が、果たして、わたしの部屋の扉を叩いてくれるのでしょうか。
 ……と、思った、そのときでした。
 とん、とん、とん、と。ごく微かなノックの音が、三回。わたしは慌てて立ち上がり、扉の側で耳をそばだてます。すると、少しの間を空けて、確かに、ノックの音が、二回。
 わたしは、そこで不思議と躊躇ってしまいました。あれだけ頭の中をぐるぐるしていた不安はもうどこにもありません。嬉しくないわけがないのです。のぼせあがってしまうような熱が、体の中から湧き上がってくるのがはっきりとわかります。だって、この扉の向こうには女史がいて。これから、わたしたちは秘密の遊びに興じるのですから!
 なのに、どうして躊躇う理由があるのでしょう? わたし自身にもわからないまま、粘つくような躊躇いを感じながらも、ノックを、一回。
 すると、しばしの沈黙の後に、そっと、扉が開かれました。
 そこに立っていたのは、わたしよりもずっと簡素な寝間着姿の女史で。わたしの大好きな鴉の濡れ羽色の髪は、頭の後ろで緩くまとめられていました。
 女史はいつになく緊張した面持ちで、そっと「言い」ます。
 ――入ってもいいですか?
 とても今更なその言葉がおかしくて、わたしはついつい声を殺して笑ってしまいました。その反応が不服だったのか、女史のいつも困ったような――これが別に意識したものでなく、元からそういう顔なのだ、ということも最近知ったことですが――眉が顰められたので、今度こそ躊躇いを振り切って、「もちろんです」と女史を部屋に招き入れました。
 寄宿舎のおんなのこたちの部屋はみんなおんなじ。柔らかなカーペットの上にベッドがひとつに本棚と机、それにクローゼットがひとつずつ。大きな窓にはカーテンがついていて、このカーテンの色は部屋の主によってさまざま。わたしはパステルの水玉模様。女史のお部屋のカーテンは何色なのでしょうか――。
 そんなことを考えている間に、扉が閉じる音がして、女史の両手が、わたしの頬に触れました。ひやり、いつもわたしより冷たい女史の指先が、火照ったわたしの頬を冷やした、と思った次の瞬間、女史のくちびるがわたしのくちびるを塞いでいました。
 女史のくちびるは指先と同じで少しだけ冷たくて、けれどその内側は確かな熱を帯びていました。それがわたしに伝わってしまうくらい、深い、深い、息が苦しくなるようなくちづけ。わたしはただただ、突然の女史のくちづけを受け入れることしかできませんでした。きっと、くちびるを通して、女史にも伝わってしまったことでしょう。わたしの戸惑いと、その一方での、こういうかたちで、女史と触れ合える喜びが。
 何秒くらいそうしていたことでしょう。そっと、くちびるを離した女史は、先ほどよりもずっと柔らかな表情で微笑んでくれたのでした。わたしがくちづけで想いを伝えるのとは正反対に、女史は、くちづけよりもずっと、表情でものを語るひとであって……、それが、今までわたしの見たことのないような優しさを帯びていたことに、わたしは胸が高鳴るのを感じていました。
 ああ、女史は。ほんとうに、わたしとの時間を求めてくれている。
 そう思うと、ただでさえ熱を帯びていたからだが更に熱くなるのを抑えきれなくて。思わず、こんなことを口走ってしまいました。
「あの、ごめんなさい、シャワーを浴びてもいいですか? すぐに終わりますから」
 本当は、先ほど浴びたばかりなのです。髪の毛もまだ少し濡れたまま。女史だってそうだということは、わたしにもわかります。女史の髪からは、淡く爽やかなシャンプーの香りがしましたから。
 それでも、こんな……、こんな火照ってどうしようもないからだのまま、女史と触れ合うのはなんとも気恥ずかしかったのです。結果としては、同じことだとわかっていても。
 そして、もしかすると女史も同じ気持ちだったのかもしれません。「そうですね」と、ぽつり、「こえ」が届いて。女史はわたしに向かって艶やかに笑んでみせました。
 ――お先にどうぞ?
 女史からすれば、気を利かせたつもりなのかもしれませんが、女史の前で自分だけがシャワーを浴びる水音を聞かれるというのは、それはそれで想像してみるとひどく緊張するものでした。だから……、と言っていいのかはわかりませんが、わたしはもうひとつの提案を持ちかけることにしたのです。
「……一緒に浴びませんか?」
 その言葉は、どうも、女史にとっては想定外だったようで、明らかなうろたえが表情に浮かびました。ただ、それもごく一瞬のことで、強張った表情を緩めて「言い」ました。
 ――あなたが、それでよければ。
 不思議と、どこか煮え切らないような、女史らしくもない言葉ではありましたが、「否」でないことだけは確かでしたので、わたしは女史の冷たい手を引いて、浴室に向かいます。
 寄宿舎の浴室は、ひとりのために作られたにしては豪勢で、シャワーに加えてちいさな浴槽もあります。考え事をするときは、半分くらいまで湯を張った浴槽につかって、ぼんやりと過ごすこともよくあります。
 でも、今日は……、「ひとり」ではないから。いつもは広く感じる浴室も、少しばかり狭く見えてきます。
 浴室の前で、わたしは恐る恐るパジャマの釦に指をかけます。わたしのかたちを女史の前に晒すのはどうにも躊躇われます。何しろ、服の上からでもはっきりと、女史よりもずっと肉がついているのがわかってしまうのですから。
 それでも、勇気を出してパジャマと下着を脱ぎ捨てて、普段は隠されているわたしのかたちを曝け出します。そうして女史を見ると、わたしより一拍遅れるかたちで、ほとんど音もなく、そのかたちをわたしの目の前に現していました。
 ほっそりとした手足。小ぶりながら綺麗な形をした胸に、少しだけあばらの浮いた横腹。かたちも、気配も、どこか「薄い」印象を与えるその姿のなかで、しかし、最も目を引くのは――。
「……傷……」
 そう、かつて女史の手首に傷を見出したように。女史のからだにも、いくつも傷痕が走っていました。特に、胸の辺りに、執拗なまでに。
 けれど、女史は少しだけ笑ってこう「言う」だけでした。
 ――ただの痕です。今は痛くありませんから、気にしないでください。
 気にならないといったら嘘になってしまいます。けれど、女史が「気にしないで」と言うからには何も言えなくなってしまうのでした。
 そんな女史を伴って、浴室へ。まだ少しだけ湿ったタイルを踏みながらシャワーの温度を確かめていると、女史はどこか居心地が悪そうにきょろきょろと視線を彷徨わせていました。
 その様子がなんとも普段の女史らしくなくて、わたしはつい、問いかけずにはいられませんでした。
「女史は……、こういうことは、初めてですか?」
 誰かとかたちを確かめること。教わったことの真似事をすること。
 女史は少しだけ頬を赤らめて、小さく頷きました。
「『先輩』とも?」
 意地悪な質問だ、と言ってから気付きました。ただ、わたしの中では今もなお、顔も知らない「先輩」への棘々しい感情がじくじくと疼いているのです。醜い感情だと思います。きっと女史も気を悪くしたに違いありません。けれど、実際には女史は苦笑いを浮かべるだけで、こう「言った」のでした。
 ――先輩から教わったのは、くちづけまでですから。
 ああ、あの甘くて熱いくちづけは、わたしだけのものではないのです。少しばかりの失望を覚えなくはありませんでしたが、それでも。
「なら、ここからは、女史にとっての『はじめて』ですね」
 そう思えば、失望が喜びに変わるのです。そう、ここからは、わたしと女史、ふたりきりの秘密の触れ合い。
 泡立てた石鹸で体を洗いながら、お互いのかたちに触れる。最初は「自分でできますから」と断った女史の手を取って、わたしの胸に触れさせる。女史とわたしは、おんなのこの形をしているけれど、少しずつ違って。これはその「違い」を確かめるための、儀式。
 今まではあまり意識していませんでしたが、女史はわたしより少し背が低くて、からだを近づけるとその熱い吐息が肩のあたりに触れるのです。石鹸の香り、泡のぬめる感触、それから女史のわたしより少しだけ低い体温と、わたしに触れるてのひら。その全てを感じながら、わたしも女史のかたちを確かめます。
 汗ばむ体を清めるつもりが、更に熱をあおるばかりの、ふれあい。時についばむようにくちびるを重ねながら、お互いの指を絡めて。そうして、シャワーの湯が石鹸を全て洗い落とした頃には、わたしの体の内はじれったいような、くすぐったいような、不思議な感覚でいっぱいになっていました。
 もちろんこの感覚は初めてではありませんし、それがどういう意味合いであるのかも知っています。そして、きっと、女史も同じなのだと思います。シャワーの熱だけとは思えないほどに頬を赤く染めて、普段は冷ややかさを湛えている目も、熱に潤んでいるようにすら見えました。
 シャワーの蛇口を閉めて。浴室の外に用意しておいた二人分のタオルの片方を女史に手渡して。
 ――わたしは、濡れた体を拭きながら、女史の方を振り向いて何かを言おうとしたのだと思います。
 けれど、それは実際には言葉になりませんでした。何を言おうとしたのかすらもわからないまま、女史の細い指先が、思った以上の強い力でわたしの手を握り締めたのです。
 呆然とするわたしを引きずるように、白い肢体を濡らしたままの女史は浴室を出て、そのままわたしの体を寝台に押し付けて。
 こえは、聞こえませんでした。
 女史は、何も「言い」ませんでした。
 いつの間にほどけていたのでしょう、女史の、言葉通りに濡れそぼった鴉の羽の色をした髪が、わたしの目の前に垂れてきて、どきりとします。
 呆然とするわたしの上に跨った女史が深く笑みを浮かべたかと思うと、片手でわたしの手首を握り締めたまま、わたしの全てを飲み込まんとばかりに、深く、乱暴なくちづけをして。
 それからのことは、はっきりと言葉にすることはできません。わたしの頭はぼうっとしたまま、ただただ、女史のなすがままにされていました。時折、女史のかたちに触れようと手を伸ばそうとしても、それはすぐに女史に捻じ伏せられて、代わりに、わたし自身も知らなかった、ひときわ熱を帯びる場所にくちびるが落ちてくるのです。
 決して、女史は最初のくちづけ以外は乱暴ではありませんでした。むしろ、ひどく丁寧に、壊れやすいものを扱うように、少しずつ、少しずつ、焦らすように。おんなのこの器の中にある「わたし」というものを暴いていくのです。
 怖くないと言ったら嘘になります。つい声を上げてしまう私に対して、女史は柔らかく、けれどどこか獰猛な笑みを浮かべたまま、何一つ言葉を発することはありません。「こえ」を聞かせてくれることはありません。
 しかし、恐ろしいと思う以上に、嬉しかったのです。ここまで女史がわたし、というひとりを求めてくれていること。わたし自身もしらなかった、「わたし」を暴いてくれること。
 そうして、女史に翻弄されているうちに、いつの間にか、女史の指は、今までわたしが自分でもほとんど触れたことのない、最もやわらかくて大切な場所、おんなのこの「おんなのこ」としての場所に触れていました。
 以前、友達とした「真似事」では痛みしか感じなかったそこは、不思議と痛みなどなく女史の指を受け入れていました。指先が動くたびに耳に届く音が恥ずかしくて、思わず「やめて」と声が漏れてしまいましたが、それは本音ではないでしょう、とばかりに女史は丁寧に指でそこを解していくのです。
 もちろんこれはどこまでも「真似事」で、それ以上ではありません。……ほんとうは、「おんなのこ」と「おとこのこ」のふたりがいて、初めておんなのこの大切な場所が本来の役目を果たすのです。ただ、その手続きのためには、いくつかの手順を踏む必要があって、女史がしているのはその手順の一部。固く閉ざされたおんなのこの内側に触れるための、一番大事なこと。
 初めて先生から仕組みを聞いた時には、そんなことが本当にできるのか、と思ったものでした。だって、自分で触れるそこはあまりにも狭く閉ざされていて、小指一本通るのかもわかりませんでしたから。
 けれど、今は確かに先生の言葉が正しかったのだと、ついつい場違いなことを考えてしまいます。自分の体はまるで自分のものでないように、女史に今まさに「つくりかえられている」ような心地で、仰向けで息を荒げたまま、女史の指を飲み込む感触だけを与えられているのですから。
 女史はゆっくりと、ゆっくりと、ごくごく優しくわたしの体に触れていましたが、不意に、その手が止まりました。いいえ、女史の体が、まるで時を止めてしまったように、凍りついたのです。
 ゆるり、と。女史は濡れた指でわたしのそこをなぞって、それから。
 ――足りません。
 と、初めて「こえ」を出したのでした。
「……足り、ない……?」
 息が上がってしまって、上手く声が出せません。女史はそんなわたしの声にも気づいていないように、私の腿の上に跨った姿勢で、垂れた髪で顔を隠したまま、ぽつり、ぽつり、と言葉を落とします。
 ――わかってた、じゃ、ないですか。
 ――わかって。
 ――なのに。
 女史の「こえ」は、いつになく耳障りな音に聞こえました。頭の中に響くものを「聞こえる」表現するのはおかしな話ですが、それでも、女史の「こえ」がここまで乱れて聞こえるのは初めてのことでした。
 いいえ、ただ「乱れている」なんて言葉では済まされません。それは、わたしの頭の中をかき回すような、言葉ではない雑音としてぶつけられて、こちらの頭までおかしくなってしまいそうな……、女史なりの「叫び」、というべきだったのかもしれません。
「だ、大丈夫、ですか? 何が……っ」
 すっかり力の抜けていた体を何とか起こして、うつむいたままの女史にすがりつこうとして……、思わぬ力で再び寝台に叩きつけられました。もし、背が壁にぶつかっていたら、ひどい痛みを感じていたであろう、そのくらいの激しさで。
 そして、女史はふらりと立ち上がると、ざらざらとした言葉にならない「こえ」を漏らしながら、ふらふらとわたしの机の方に歩いていきます。何だかひどく嫌な予感がして、わたしは慌てて上体を起こしましたが、その時にはもう、手遅れでした。
 ざくり、と。
 音を立てて、床に落ちたのは。
 長い、長い、黒髪でした。
 しらじらとした裸体を晒す女史の手に握られたのは、一振りの鋏で。それで、長い髪を切り落としたのだ、と思考が追いつくまでに、一呼吸かかってしまいました。
 ざくり、ざくり。
 一息には切り落とせなかった髪に乱暴に鋏が入れられて、わたしがあれだけ憧れた髪は、あっさりと息吹を失っていきます。床に落ちた髪は、もう、女史のものではありません。
 ――足りません。
 裸足で自らの髪を踏みつけて、女史は雑音混じりの「こえ」を放ちます。
 ――あと、何が余計なのでしょう?
 ――何を削ぎ落とせば、本当に、欲しい、ものが。
 ゆるり、と。俯いていた女史が、顔を上げてみせます。長い髪に覆われていない女史の顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えて……、不謹慎にも、今まで見た女史の表情の中で、もっともうつくしい、と、思ってしまいました。
 しかしそれもごく一瞬のこと。
 女史は、手にした鋏を、自らの胸に向けたのです。
 ほとんど、無意識の領域でした。次の瞬間には、わたしは仰向けに倒れこんだ女史に圧し掛かるようにして、何とか女史の鋏を持った手を押さえ込んでいました。
 先ほどもそうだったように、女史の力は華奢に見えて強く、少しでも気を抜いたら押し返されてしまいそうで。わたしは必死に起き上がろうとする女史を押さえ込みます。
 女史は、いつになく強い視線で私を見すえながら、ざらざらとした「こえ」で「言い」ました。
 ――離してください。
「離せません」
 ――離して。
「離せません!」
 ……だって、この手を離したら、あなたは。
 言いかけたわたしを遮るように。
 
「離せよ! オレには必要ないものなんですよ!」
 
 それは。
 わたしの、聞いたことのない声でした。
 甲高く響く、今にも泣き出しそうな、悲鳴。
 それが女史のくちびるから放たれたものだと、わたしは、いつ、気づいたのでしょうか。
 そのくらい――、その声は、わたしの知る女史の「こえ」とはあまりにもかけ離れていて。それでも、間違いなくこれが女史の「声」であると、その時初めて知ったのでした。
 その時、ばたばたと、激しい足音が部屋の外から聞こえてきて、無理やりに――おそらくは合い鍵を使ったのでしょう、鍵が開けられて、寮監の先生が駆け込んできました。
 そのあとのことは……、よく、覚えていません。
 ただ、鋏を手にした女史を、わたしが押さえ込んでいるという構図。それから、女史が明らかに正気を失っている様子から、女史に非があると判断された、ということだけは間違いのないことでした。
 わたしは裸の上にタオルケットを被った姿で、先生に「落ち着くまでそうしていなさい」と言われ、夜の密会を咎められることもなく、ただ、ただ、引っ立てられるように連れて行かれる女史を見つめていることしかできませんでした。
 部屋を後にする女史は、わたしを振り向くことはありませんでした。
 泣き出しそうな顔をしてもいませんでした。
 すとん、と感情だけが抜け落ちてしまったような顔で、重そうな瞼を伏せて。
 ――ごめん。
 そう、わたしだけに聞こえる「こえ」をひとつだけ残して、そして、部屋の扉は堅く閉められたのでした。
 ひとり。
 取り残されたわたしは、女史の手からいつの間にかこぼれ落ちていた鋏を拾います。
 床には、わたしが大好きだった、鴉の濡れ羽色の髪が――もう、かつての色を失って、ばらばらに広がっていました。
 振り向けば、先ほどまでそのひとがいたと確かにわかる、乱れた寝台。
 けれど、女史は、ここにいない。
 どこにも、いない。
 わかってしまったのです。女史はもう、この部屋には二度と戻ってこない。いいえ、わたしの目に映るどこにも、戻ってきてくれくれないのだと。
 そう思った途端、ぽろりと、涙がこぼれました。途端に、堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなくなってしまいました。
 わたしは何を間違ってしまったのでしょうか。
 わたしは女史に何をしてしまったのでしょうか。
 どれだけ問いかけようとしても、そこにそのひとはもういないのです。一振りの鋏と切り落とされた髪だけが、そのひとの「答え」として残されているのに、わたしには「問い」がわからないのです。
 届かないとわかっていながら、そのひとの名前を呼ぼうとして。
 
 
 ――そういえば、女史の名前を知らないことに、今更気付いたのでした。

よなきうぐいす

 わたしたちの学園は、硝子張りの天蓋で外界から切り離されています。
 理由は簡単で、おんなのこは柔らかく、繊細で、かたちが定まるまでは外界のあれこれは刺激が強すぎるから。卒業の日までには、立派なおんなのことして学びを終えて、外界に出られるようになるのだと先生たちは口をそろえて言います。
 もちろん、世界の全てのおんなのこがそうでないことは、わたしにもわかっています。私と同じくらいの年頃でも、おとこのことおんなのこが一緒に学ぶ学校がたくさんあるということも。しかし、それは先生たちのいう「立派なおんなのこ」になるための手続きとはかけ離れているのだといい、この学園の理念には反しているのだといいます。詳しいことはわたしにはわかりませんが、わたしはこの学園しか知りませんから、そういうものなのだ、と思うことしかできずにいます。
 もちろん、外界と通じるもの――携帯電話をはじめとした通信機器の持込は禁止されていて、家族や外の友人と連絡をするためには、寄宿舎にいくつかある電話を使う必要があります。唯一、制限がない通信といえば、それこそ己の手で認めた手紙くらいでしょうか。
 ああ、いいえ、もうひとつだけ。
 寄宿舎の談話室の片隅に、どうにも調度品とはかみ合わない埃っぽいパーソナルコンピュータがひとつ。通信は極端に制限されていて、ものを調べるなら、図書室に向かった方がよっぽど早いくらいです。
 それでも、電子メールをやり取りするには、その、たったひとつのコンピュータを使う必要があるのでした。メールだけは制限されていない――ただし、メールのやり取りの中身は先生に見えるようになっているといいます――ので、寄宿舎の中でも数は少ないのですが、コンピュータを利用している人もいます。
 いいえ、もう少し正確に言いなおしましょう。
 わたしが消灯前に談話室に訪れると、そこにはいつも女史がいます。そもそも寄宿舎のコンピュータを使う物好きなど、女史しかいないのでした。何しろ、家族への連絡は電話で事足りますし、メールをわざわざ出すような相手もわたしにはいませんし、他の子たちもきっとそうでしょう。
 そんな中で、女史だけはいつも消灯ぎりぎりの時間まで、コンピュータに張り付いて、わずかにちらつく画面を食い入るように見つめているのでした。
 ――いつからか。あの、もう誰のものかも思い出せない「墓場」を見た時からか。
 わたしは、以前よりもずっとよく、女史を見つめるようになりました。ふと視界に入ったときに見惚れるだけでなく、彼女が普段はどんなことをしているのか、彼女は何が好きで、何を苦手としているのか。そんな、共に過ごしていれば当然わかるようなことを、わたしは何ひとつ知らないまま女史と同じ教室にいたのだと、あの日に初めて気付いたのです。
 近寄りがたいひと、というのはわたしの勝手な思い込みで、女史はわたしを鬱陶しがることもなく、時には気さくに話に応じてくれました。言葉を交わしていても女史とわたしの間にはまだ弾力のある壁のようなものを感じますが、それでも、女史と他愛のない話をしている間は、女史の鴉の濡れ羽色の髪も、その憂いを秘めた目も、ほんの少しだけ笑みを浮かべることのあるさくらの花びらを思わせるちいさなくちびるも、わたしひとりのもののように思えたのです。
 いつから女史とそんなに仲良くなったのか、とこっそり耳打ちしてくるおんなのこもいましたが、それはわたしと女史だけの秘密。女史は「秘密」とは言ってはいませんでしたが、わたしが秘密にしておきたかったのです。そうすれば、わたしと女史との時間は、誰にも邪魔されずに済みましたから。
 ……けれど。けれど、この時間だけは、わたしの心をざわめかせる時間だったのです。
 消灯時間直前の、わたしたち以外に誰もいない談話室には、女史が叩くキーボードの音だけが乾いた音を響かせています。かたかた。かたかた。かたかた。
 女史はわたしの存在にも気づいた様子はなく、しらじらとした横顔を画面に向けたまま微動だにしません。その視線は、きっと、今日も画面に映るメールの文面を一文字余さず読み取っているのでしょう。
 どうしても、わたしはそんな女史の横顔を直視することができずにいます。今も、なお。
 何故なら、女史の横顔は画面を見つめたまま普段見せているそれよりもずっと深い憂いに沈んでいるのですから。誰にも、それこそわたしにも見せない表情を、誰でもない、ただ文字列だけを映し出す画面に向けているということ、それ自体がわたしの心をざわつかせて仕方ないのです。
 ……つまり、そこに映し出されている文字列は、誰よりも、何よりも、女史の心を動かすものであって。同時にそれが女史の「大切なひと」からの文であるとわたしが知っていたからに他ならなかったのです。
 女史に「大切なひと」がいると聞いたのは、いつの話だったでしょうか。
 夕日の差し込む二人きりの教室だったでしょうか。不気味な標本の並ぶ理科準備室でしたでしょうか、それとも、しん、と静まり返った音楽室の片隅だったでしょうか。時折、女史は何かを視線で追うような仕草をすることがあることを、この頃のわたしはもうわかっていました。わたしには見えない、何か。それが何なのかどうしても知りたくて、口ごもる女史に問い詰めたのです。
 大したことはないですよ、と「言い」ながらも、女史は。
 わたしの見たことのない、苦しげな、それでいて熱を帯びた視線で「言った」のです。
 ――「大切なひと」のことを、思い出していたのです。
 それはもう卒業してしまった、学園の先輩なのだと女史は教えてくれました。ですから、学園にいる限り、そのひとの姿が見えるはずはありません。それでも、つい、そのひとと過ごした記憶を追ってしまうのだといいます。わたしと、共にあるその時ですら。
 わたしが、女史にとってそこまでの存在でないと言ってしまえばそれまでです。女史がわたしのことをどう思っているかなど、一度も直接聞いてみたことはありませんでしたから。女史の心の中に焼きつく「先輩」のことを聞いてしまったら、尚更、わたしの臆病が問いかけを喉の奥に閉じ込めてしまうのです。
 女史、あなたの目には何が見えているのでしょうか。
 そこには、あなたの心を動かす何が書かれているのでしょうか。
 それは、あなたの過ごしている「今」よりもずっと大切なことなのでしょうか。
 声にならない声で、返ってこない問いかけだけを頭の中にいくつも並べ立てていた、その時でした。
 ――もう、消灯時間ですかね?
 不意に女史の声が「聞こえ」ました。いつの間にか、女史はわたしがそこで見ていたことに気づいていたようで、重そうな瞼を持ち上げて椅子の上からこちらを見上げていました。
 柱時計に視線を走らせれば、消灯十五分前。少しくらいは消灯時間を過ぎても寮監は見逃してくれますが、そろそろ部屋に戻った方がいい時間なのは間違いありません。
 それでも、それでも、わたしはつい、女史に問いかけていました。
「また、『先輩』からのメールですか?」
 そのつもりはなかったのに、ざらざらと、醜い赤い棘がくちびるから零れ落ちてしまったような嫌な感触がしました。女史は果たしてわたしのくちびるから落ちた棘に気づいたのでしょうか、それとも気づいていなかったのでしょうか、うっすらと色づいたくちびるを少しだけ持ち上げてみせました。
 ――そう。……こんなもの、さっさとやめてしまえればいいのに。
 その「こえ」は、わたしの想像したものよりもはるかに冷たく、どこか、捨て鉢な響きを帯びているように思えて、わたしはびっくりしてしまいました。先ほどまでの、何かに焦がれるような横顔はどこにも見えなくて、こちらを見上げる顔に張り付く表情は、……わたしに女史のうっすらとした表情の違いを正しく見分けられている自信はありませんが、それでも、自嘲、のように見えました。
「それでも、女史は毎日メールを、見ていますよね」
 ――やめてしまったら、二度と続かないでしょうからね。
 あなたも経験はありませんか、と女史は問いかけてきます。遠い昔、たとえば遠くへ越してしまった友人と手紙のやり取りをしなかったか。そうでなくとも、恩師に年の頭に手紙を送らなかったか。それを、一度やめてしまったら、もう二度と手紙を書くことなどなくなるということを。
 そのように、わたし自身の近しい経験として落とし込んでみれば、いくらでも思い当たるふしはありました。机の中にしまいっぱなしの愛らしい音符模様の便箋と封筒は、誰のためのものだったでしょうか。もう、それすらも、思い出せないことに気づきました。
 だから、女史はメールを綴るのだと。そうせずにはいられないのだと「言い」ました。まるで、本当はそんなこと、望んでいないかのように。
「メールの相手は、女史の、大切なひと、なんですよね」
 ――そうですね。大切なひとでした。当時の自分にとっては。
 かたり、とエンターキーを押した女史は、メールの送信画面を見るともなしに眺めながら、「言う」のです。
 ――今は、「今の」先輩のことがなにもわからずにいます。
 日々言葉のやり取りをしているのに、通じている気がしないのです。
 女史の「こえ」は空気を震わせることはなく、あくまで意味だけがわたしの中に届くのですが、そこに、一抹の寂しさのようなものが含まれているように感じられたのは、果たしてわたしの思い違いでしょうか。
 女史は、ぽつり、ぽつりと、わたしが求めたわけでもない「先輩」の話を吐き出していきます。最初は、その、顔も知らないひとに棘々しい感情を抱いていたわたしも、女史の言葉を聞いていくにつれ、不思議と、わたしと女史との境界線が消えていくように感じられるのでした。
 先輩は、きれいなひとだったのです、と。女史は「言い」ました。
 わたしから見れば「きれいなひと」とは女史のことに他ならなかったのですが、その女史が「きれい」だと思ったのは、後にも先にも「先輩」一人だったのだそうです。
 わたしは今の女史しか知りませんが、かつての女史も、そう友人の多いほうではなく、ひとりで教室で過ごしていたことが多かったのだといいます。閉じた硝子の天蓋の下、教室と寄宿舎とを行き来するばかりであった女史の手を引いたのが、「先輩」だったのだと女史は「言い」ます。
 ――あの、校舎裏のお墓も、元は先輩が作っていたものなのですよ。
「誰」を葬ったのかは定かではないけれど、ひっそりと存在するおんなのこの墓。その中のいくつが女史の手によるもので、それ以外が「先輩」の手によるものなのか、わたしにはわかりませんでしたが、女史の不思議な癖が「先輩」のものだとわかると、また、引っ込みかけていた棘がこぼれてしまいそうになり、慌てて飲み込みます。一度こぼしてしまったものですが、それでも、女史にはできる限り、この棘は、見せたくなかったのです。
 だからといって、女史は「先輩」にそれ以上の特別な思いは抱いていなかったのだと思います。もしくはそう思いたいだけなのかもしれません。わたしが。
 女史の話は淡々と続いていきます。淡々と、淡々と。
「先輩」は卒業してしまって、それからは、メールでのやり取りになりました。手紙よりは少しだけ早く、少しだけ多くを物語れるから。女史は卒業してなおそのひとと、できる限り多くを話したかった。たくさんの言葉を交わしたかった。
 ――けれど、本当にそれでよかったのか、わからないのです。
「先輩」のメールは、いつも近況を告げるところからはじまります。それはほとんど、楽しくやっている、周りはよい人に恵まれている、という類のものなのだそうです。それから、女史の言葉にひとつひとつ、丁寧に答えていくのだといいます。その人が、学園を去る前と何一つ変わらない。その「言葉」だけ取れば。
 ただ、どうしても、女史にはその「言葉」が信じきれないのだと、軽く首を横に振ってみせるのです。
 かつて、「先輩」が側にいたときには、そのひとが笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、それとも困っているのか、どれだけ誤魔化していたとしてもひと目でわかりました。「先輩」が、一体どんなひとを好んでいて、どんなひとを嫌っていて、誰とどのような付き合いをしているのか、全てではないにせよ、女史にも見えていたはずなのです。
 だから、女史はどこか苛立たしげに乱暴に踵で床を蹴り、ほんの微かに眉を寄せるのです。
 ――今、先輩がどのような顔をしているのか。こんな言葉では、何もわからないでしょう?
 画面に並ぶのは無機質な文字列。光のオンとオフで構成されている、人の感情を交えることのない、ただ意味だけを伝える記号の羅列。そういう意味では女史の「こえ」も近いような気がしましたが、女史はわたしが思っていたよりもずっと表情豊かなひとであったから、その喩えは適していないのかもしれません。
「Re:」から始まるメールはいくつも続いていて、「先輩」と女史とのやり取りの長さを感じさせずにはいられません。ちくちくと痛む胸、けれど、どうしてでしょう、女史の方がずっとずっと苦しそうに見えるのです。
 女史はくちびるを開かないまま、ただただ「こえ」をあげるのです。
 ――大丈夫よ、心配しないで、私は楽しくやっているわ。……なんて、そんな他愛のない言葉のひとつひとつが、何一つ嬉しく感じられないのです。先輩のその言葉が真実だとしたら、尚更。
 わたしの脳裏に閃くのは、わたしに背を向けて駆けていく女史の姿でした。制服の裾を揺らして軽やかな足取りで、その向こうにいるたくさんの「誰か」の元に向かっていく女史。いいえ、わたしが見ているのは女史ではなく、女史から見た「先輩」でしょうか。
 ――言葉を重ねるたびに、先輩の言葉がゆっくりと冷えていくように感じるのです。おかしいでしょう、同じただの「文字列」に過ぎないのに。
 ああ、女史は嘲笑ってみせるけれど、わたしにはわかってしまうのです。女史のその感情が、今、わたしの中に巣食っている赤い棘と同じものであることを。今、「先輩」に女史の手を取られることをわたしが何よりも恐れているのと、きっと同じ。
 女史は、「先輩」の手が自分から離れることを恐れているのです。もしくは、既に離れているということを自覚することを。
 ――気遣いの言葉だって決まりきったリプライ。一通目から今までを通して見比べてみれば、ほとんど同じ文面の繰り返し。
 頭ではわかっているのです、と女史は「言う」。この学園での生活は、そう大きく変わることなどありえないのです。故に、女史が記せる内容自体が同じようなものばかり、「先輩」からの回答も当然同じようなものになるに決まっている、決まっている、のですが。
 ――先輩に、自分の言葉は伝わっているのでしょうか。
 ――先輩は、本当にこちらを思って返事をくれているのでしょうか。
 ――この「こえ」は、泥の中に飲み込まれているだけで、先輩には届いていないのではないでしょうか。
 ――本当の先輩は、もう、自分のことなんて忘れてしまっているのではないでしょうか。
 女史の「こえ」に抑揚はなかったけれど、キーボードを置いた机に肘をついて深く俯き、細く折れそうな指で己の顔を覆って、搾り出すように、最後の言葉を「吐き出した」のです。
 ――そう、思ってしまう自分が何よりも醜くて嫌いだ。
 ああ、わたしは、まだ、女史のことを何もわかっていなかったと、その時初めて気づかされました。級友に見せてない表情を見てきた、というだけで、女史について誰よりも詳しく知っているような、そんな優越感に浸っていたのだと。
 でも、それは何一つ正しくありませんでした。
 わたしは……、多分、今この瞬間まで、女史が「とくべつ」だと思っていたのです。それが、わたしが勝手に女史との間に感じていた柔らかな壁の正体。
 女史はひとりであるのが当たり前だと思っていました。女史とはそういうものなのだと思っていました。穢れなく、透明で、凛として。孤高、であるからこそうつくしい、そういうひと。だから、わたしも女史と共に時間を過ごすようになった今でさえ、こうして、一歩分の隙間を空けて立っていたのです。わたしが、女史を穢すことがないように。この胸に渦巻く棘で、女史を傷つけないように。
 けれど、今、女史が吐き出した「こえ」は、わたしが口から吐き出してしまうものと同じ棘をいっぱいに含んでいて。わたしが顔も知らない「先輩」へのとめどない感情をそのまま吐き出していました。
 だから、今、この時ばかりは、わたしと女史の間の壁がなくなって。
 そう、頭で理解する前に、わたしはつい口を開いていました。
「女史」
 わたしの呼び声に、顔を覆っていた女史がゆるりとこちらを見上げました。今まで見たことのない、ひどい顔でした。ありとあらゆる、健全とはいえない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った顔。自分自身が嫌になってしまう日のわたしと同じ、顔。
 そんな女史の頬に、そっと指をかけます。女史の頬はひんやりとしていて、そして、しろい肌のきめ細やかさが指から伝わってきました。それでも、女史の頬は確かに人並みの柔らかさをしていました。つくりものではない、わたしと同じ、おんなのこの感触。
 女史は虚ろな目でわたしを見上げます。果たして、今の女史にわたしは見えているのでしょうか。わたしではなく、はるか遠く、ここにはいない「先輩」を見ているのでしょうか。わたしにはわかりません。
 そう、女史の気持ちも、「先輩」のこともわたしにはわかりません、けれど、女史にはわかってもらいます。わたしの、気持ちを。
 女史の頬から顎に指をかけて、こちらを向かせて。
 わたしは、その、淡いさくら色のくちびるに、くちづけるのです。
 くちびるからこぼれる棘も、その源である女史への想いも、全て、全て、口移し。
 それがわたしの「魔法」。女史は「こえ」を伝えるけれど、わたしは「こころ」を伝えます。くちびるとくちびるを触れ合わせた一瞬だけ。その時抱えている思いを全部、全部、きれいなものも、きたないものも、なにもかも、なにもかも、「わたし」という器から、「女史」というもうひとつの器に分け与える、そんな魔法。
 くちづけはほんの一秒にも満たない、触れ合うだけのもの。それだけでも、わたしの言葉にならない「想い」は伝わってくれたのだと思います。ぽかん、と。初めて、女史がいつも半分ほど伏せている目を見開いてわたしを見上げました。
 それから、少しだけ、指先に伝わる女史の頬が、熱を帯びるのを感じました。わたしの眼に映る女史は……、頬を赤らめて、くしゃりと顔を歪めて、今度こそ間違いなく「わたし」たった一人を見ていました。
 ――ほんとうに?
「嘘なんてつけませんよ」
 そう、おんなのこの魔法は嘘をつけません。わたしのように、「こころ」をそのまま伝えるような魔法なんて、尚更。
 嘘なんかではないのです。わたしの、女史への想いは。
 女史は戸惑うように二、三回瞬きをして、それから改めてわたしを見上げました。頬を真っ赤に染めたまま、先ほどまでの鬼気迫る渦巻く感情もすっかり抜け落ちた、顔で。
 ――つまらないでしょう?
「つまらなくなんてありませんよ」
 ――あなたに何ができるわけでもありませんよ?
「わたしだって、そうです。でも、これがわたしの気持ちです」
 わたしの、偽らざる、「こいごころ」です。
 恋、とは決してうつくしいものではない、と言ったのは友達だったでしょうか、それとも先生だったでしょうか。確かに、まるできれいなものではありませんでした。身の中から吐き出される棘、じくじくとゆっくり炙られるような胸の痛み。
 だからこそ。だからこそ、これは「恋」だと思ったのです。
 わたしは。
 このひとに。
 こいを、している。
 ――もっと。ずっと。たくさん、傷つけるかもしれません。
 そっと、頬に添えたわたしの手に、震える冷たい指先を絡めて。女史は「言い」ました。なぜか、今にも泣き出しそうな顔で。
 女史は「こえ」を伝えることしかできず、わたしは「こころ」を伝えることしかできません。だから、わたしは女史の「こころ」がわかるわけではありません。それでも。
「傷つけてくれても、いいです。わたしに、傷痕を残してください」
 恋とは痛みを伴うものであると、わたしは、覚悟をしています。
 女史はわたしの答えを確かめるように、強く、強く、爪が食い込むような強さでわたしの手を握り締めて。
 それから、片手でわたしの首の後ろに手を当てて、今度は――女史が、わたしに、くちづけました。
 今度は、触れるようなくちづけではなく、ずっと、ずっと、深く。消灯のチャイムが鳴るそのときまで、女史はわたしからくちびるを離すことはありませんでした。
 それこそが。
 女史の、「こえ」よりもはるかに確かな、こたえでした。

はかばどり

 誰がこまどりを殺したか、と言われても、わたしは何も知りません。
 
 マザーグースの話ではなくて、現実に「殺された」誰か。それとも、何もかもがただの思い違いで、本当はそんなことはなくて、ただ、学園からいなくなってしまったしまっただけなのでしょうか。
 わたしには何もわからないまま、突然、クラスメイトのひとりの席が空になっている、そしてそれはこれからもずっとそうである、ということだけを思い出していました。
 そして、わたしにとってただひとつだけ確かなことは、今のわたしは、学園にいる誰もが忘れ去ってしまったような、校舎裏の荒れた花壇の前に立っているということでした。
 ひとりではなくて、スコップを手にして花壇に穴を掘る、女史と一緒に。
 
 
 お砂糖をもらったので、一緒に見ていただこうかと思って、と女史は「言い」ました。相変わらず女史の声は聞こえなくて、ただ、彼女が考えている意味だけが何とはなしに伝わってくる、それだけ。
 校舎の陰になって、薄暗いなかでも、むしろ薄暗いからこそしらじらと映える女史の横顔からは、何の感情も感じ取ることはできません。
 女史が何を考えているかなんて、きっと学園の誰もわからないでしょう。先生たちだって、女史のずば抜けた成績を褒めはするけれど、女史について深くを語ることはありません。わたしだって、女史に連れられた理由を聞かされこそしたけれど、それが本当に「理由」なのかもわからないまま。後で、他のクラスメイトに「女史と何をしていたのか」と質問攻めになることは目に見えています。
 ……もちろん、嫌、なんてことはありません。まるで、自分の周りに誰もいないような振舞い方をする女史に、少なくともわたしは「ひと」として見えている、ということ。時間を共にしていい相手だと思われていること。それは、ちょっとした優越感の芽として、わたしのやわらかな部分から顔を出してくるのです。
 けれど、現実に視線を戻せば、目の前にある土からは何かが生えているわけではなく。……ただ、端からいくつか何かを埋めたような痕跡と、それぞれの微かに盛り上がった土の側に、目印であるかのように「何か」が突き刺さっていました。それはペンであったり、定規であったり、時には櫛であったり。雨風にさらされてぼろぼろになったそれらは、何も語らないけれど、どこか、背筋がぞくりとするような心地がして、思わず腕で自分の体を抱きしめていました。
 そんなわたしに気付いているのかいないのか、どう思いますか、と女史は問いかけてくるのです。それ以上の問いかけはなくて、多分、女史が目にしているその不思議な……、花ひとつ咲いていない花壇についての問いかけなのだと言うことは、かろうじて、わかるのですが。「どう」と言われても、上手く言葉が出てきません。
 ただ、そう、何となく、連想したものは。
「……お墓、に見えます」
 ああ、なんてとんちんかんなことを言ってしまったのだろう、と思ったのもつかの間、女史の細い顎が少しだけ動いて、その……、淡い色のくちびるが、微かに笑みを描いたのでした。
 
 そう、これは「墓」なのです。
 
 女史は、確かにわたしに「言った」のでした。
 そして、スコップで花壇の一角に穴を掘りながら、饒舌に語りだしたのです。女史がこんなに言葉を並べ立てているところを見たのは、初めてでした。……それどころか、わたし以外に、これだけの言葉を聞かせたことはあるのでしょうか。そのくらい、女史はいたって静かながら不思議と熱の篭った眼差しで、自分が掘り進めている穴を見つめて「語る」のです。
 今、女史が穴を掘っているのは、いなくなったひとりのおんなのこのためなのだといいます。
 そのおんなのこのことは、わたしだって知っています。わたしたちのクラスメイト。誰よりも明るく笑って、誰よりも魅力的な声をして、誰よりも人を惹きつけ、それでいて、誰よりも危うさを覚えさせる眼差しをした、……そのおんなのこの名前を、わたしは、今すぐに思い出すことができずにいました。
 わたしが思い出せるのは、そのひとは「空を飛ぶ」魔法が使えたということ。学園の天蓋を越えることこそできませんが、言葉通りにふわりと空を飛ぶのです。おとぎばなしの魔女のように、箒は必要ありません。空を蹴って、青い空を泳ぐように、高く、高く舞う彼女は何よりも自由で、空から降ってくるきゃらきゃらという笑い声は、わたしたちにとって当たり前のものでした。
 けれど、その彼女が、「墜落」したと。
 今日の朝のホームルームで先生は言いました。確かに今日の朝のホームルームに彼女の姿はありませんでしたし、ざわざわと、居心地の悪いざわめきが教室を支配したことは記憶に新しい……、はず、なのですが。
 帰りのホームルームの頃には、担任の先生もいつも通りの言葉を告げて、皆、いつも通りにそれを聞き流して、主を失った空っぽの机のことなんて気にすることなく、そのまま放課後に入ったのだということを、今、女史に「言わ」れて初めてはっきり思い出すことができました。それまで、今日、ひとりのおんなのこがいなくなったことを、すっかり忘れていたことに気づいたのです。
 忘れていましたか、と。女史は淡々と「言い」ました。全部ではないけれど、確かに忘れていたのは事実でしたので、わたしはひとつの頷きで返しました。女史はいつも半分くらいまで伏せられている瞼を更に閉ざして、そういうものなのです、と呟きました。
 女史は、わたしよりずっと以前からその違和感に気づいていたらしいのです。クラスメイトが時々、ふっと消えていく。消えたということすら意識していなければ忘れてしまう。それを知ってから、女史はこの「作業」を始めたのだそうです。いなくなってしまったおんなのこのお墓を作る、という作業を。
 もちろん、消えた女の子が死んだかどうかなんて誰にもわかりません。女史にもわからないのだといいます。ただ、いたはずのものが、いなくなって、忘れられていくのがただただ寂しいから、自己満足としてこうしているのだといいます。
「この、ペンや定規は、いなくなった女の子のもの、ですか?」
 わたしの問いかけに、女史は、さあ、と端的に答えました。どれだけお墓を作っても、忘れてしまうものは忘れてしまうのです。ただ、この場所にお墓を作るようにしている、という習慣だけは忘れずにいられているからこうしている、それだけの話なのだと、どこか皮肉っぽい響きで「言い」ました。
 しん、と静まり返った花壇の墓は何も語ってくれません。かつてそこに誰がいたのかも、どうしていなくなってしまったのかも。
 唯一、わかるのは、今、女史が作ろうとしている墓は今日いなくなったおんなのこのためのもの、であるということ。もう、名前も、思い出せなくなりかけている、おんなのこのための……。
 ――誰がこまどりを殺したか?
 不意に女史が「言い」ました。ほとんど囁くような響き。きっと、わたしがもっと深く考え込んでいたら聞き取ることもできなかったでしょう、声ではない「こえ」。
「マザーグースですか?」
 いいや、現実の話ですよ、と女史は言います。その、冴え冴えとした横顔によく似合う、冷たい「こえ」でした。
「……殺された、と言っているのですか?」
 女史ははい、ともいいえ、とも言いませんでした。何せ、わたしがいなくなった彼女のことを思い出せないのです、女史にだって全てが思い出せるわけではないのは間違いないでしょう。なのに、女史はどうして突然、そんな物騒なうたの一節を「現実の話」なんて言い出したのでしょう。
 ――これは、あくまで、ただの想像ですが。
 女史はじっと、手元の穴を見つめながら「言い」ます。
 墜落するだけの理由が、彼女にあったのではないのでしょうか、と。
 女史の「こえ」が響くたびに、ひとつ、ひとつ、忘れかけていた、今も忘れ続けているひとりのおんなのこの姿が蘇ってくるような気がします。いつでも人の輪の中にいたおんなのこ。よく響く笑い声と、それから、それから。
 ふと、脳裏によぎるのは、割れた硝子のきらめき。静まり返った空間の中で聞こえる荒い息遣い、椅子を両手で握り締めたひとりの、おんなのこの、すがた。
 ――普段から、彼女は、ひどく情緒不安定だったはずです。
 誰をも惹きつける魅力の反面、荒れ狂う感情を胸に抱いたおんなのこ。人の輪の中心にいはしたけれど、その輪を形作っているのは果たして魅力だけだったのでしょうか。
 もちろん魅力もあったと思います、と、まるでわたしの心を読んだかのように女史は「言い」ました。そうでなければ、本当にただただ遠巻きにされるだけだったでしょうから。まさしく、自分がそうであるように、と。女史はちいさな口の端を少しだけ持ち上げてみます。
 わたしは、女史が魅力的でないなんて、全く思いません。しかし、女史の言葉を否定することもできませんでした。
 女史が誰かと一緒にいるところなど、わたしには想像できませんでした。女史がひとりでいるのは当たり前のことで、それに疑問を覚えたこともありませんでした。女史は「そういうもの」だったのです。
 けれど、女史のつくりもののような指が汚れて、爪の間に土が入り込んでいるのを見ると、女史もまたわたしと同じおんなのこでしかないのだと、改めて気づかされる思いでした。わたしは、わたしたちは、勝手に女史を「そういうもの」だと思い込んだまま、女史をひとりに「して」いたのでしょうか。
 そんなわたしのいたたまれない気持ちに、女史は果たして気づいているのか、いないのか。うっすらとした笑みを消して、手にしたスコップを地面に刺し、傍らの地面に置いてあった鞄の中から何かを引き出します。
 それは、一本のカッターでした。
 桃色の柄に、自分のものという主張のつもりでしょうか、空色のテープが巻かれています。女史はそれをわたしに手渡しました。よくよく見れば、カッターの刃と柄の隙間や、空色のテープの一部に、黒ずんだ何かがこびりついているのがわかりました。わかって、しまいました。
「……墜落した彼女の?」
 女史はひとつの頷きだけでわたしの問いかけに答えました。いつ手に入れたのかはわかりませんが、きっと件の彼女がいなくなる前には、女史の手にあったものなのだと思います。今日の朝目にした彼女の机には、もう、何も残っていませんでしたから。
 もう一度、カッターに目を落として、それから、わたしは問わずにはいられませんでした。
「これは……、血、ですよね」
 女史はもうひとつ、頷きました。特に何の感情も見出せない横顔で。
「女史は、これを誰の血だと思っているんですか?」
 その言葉に、女史は不思議そうな顔をわたしに向けました。そんなこともわからないのか、という顔に見えましたが、別にわたしの愚かさを嘲ることもなく、落胆を見せるわけでもなく、ただただ、当たり前のようにこう「言った」のです。
 彼女自身の血でしょう、と。
 つう、と。女史は土に汚れた右の指で、自らの左の手首に線を描きます。よく見れば、女史の血管が透けて見える手首にもうっすらと傷痕がありましたが、それについて問いかけることはできませんでした。
 とにかく、女史は、墜落した彼女が、自らの手首に刃を走らせていたであろう、ということを、示唆してみせたのでした。
「けれど、どうして?」
 彼女はその問いに、ご存知ありませんか、と首を傾げて「言い」ます。
 手首を切るという行為は、確かに致死の可能性を秘めますが、実際に死に至る可能性は極めて低い。どちらかといえば、自らを傷つけるという行為によって、自らを慰めるものであることがほとんどです、と女史は饒舌に「言い」、それからこう、付け加えたのです。
 もしくは、自らがこれだけ傷ついているのだと「見せつける」行為である、と。
 きっと彼女の場合は後者だったのでしょう、女史は自らの左手首を撫ぜながら「言い」ました。彼女は誰かに見てもらいたかったのでしょう。どのような手段であっても「注目される」ことが彼女にとっての全てであったのではないでしょうか、と。
 女史の言葉を聞いていると、薄れていた、もはや完全に消えかけていた彼女の姿が少しだけ思い出されたような気がしました。わたしの知っている彼女は、そう、その時は屋上のフェンスの向こうに立っていて、笑っていたのでした。
『もし、ここから一歩踏み出して。飛べなかったら、死んじゃうよね』
 おんなのこの「魔法」は、わたしたちの中にある……、と、先生は言います。けれど、実際にそうではないということもあるのです。魔法は、おんなのこを形作る「すてきなもの」のひとつで。自分自身の「すてきなもの」を見失ってしまう時、魔法もまた、おんなのこの手をすり抜けてしまうのです。
 その時のわたしは……、彼女を止めたのでした。別に彼女に対して特別な感情があったわけでもありませんが、目の前で彼女が墜落するところを思い浮かべてしまって、たまらず彼女に向かって手を伸ばしたのでした。
 フェンス越しに伸ばした手が彼女の服の裾を掴むまでに、彼女は屋上の縁を蹴って――もちろん墜落などせず、きゃらきゃらと高らかに笑ってみせたのでした。
『大丈夫。あたしは飛べるもの』
 ええ、知っています。知っていました、けれど。
 からかわれたのだ、と、わたしは腹が立ったのを思い出していました。彼女の笑い声を背中に聞きながら、屋上を走り去ったです。それきり、彼女とは関わらないようにしていたのです。
 わたしが彼女を見限ったところで、彼女には親しい友がたくさんいて。彼女はいつだって輪の中心にいるのだから、わたし一人が彼女から離れたところで彼女にとってはどうということはなかったはずです。
 ――けれど、それが、積もりに積もったらどうでしょう?
 女史は、わたしの心を読んだかのように「呟いて」みせました。
 ぞくりと、背筋に冷たいものを注がれたような感触。ああ、どれだけ彼女が魅力的で、彼女を慕っていたとしても、わたしがあの日腹を立てて彼女から離れたように、同じようなことを繰り返されて、果たしてそのまま彼女を慕い続けていられるのでしょうか。
 彼女の血痕の残るカッター。フェンスの向こう側の彼女の影。
 わたしは、もう、彼女についてほとんど思い出すことはできないけれど、果たして、彼女は誤って墜落したのか。それとも――。
「誰がこまどりを殺したか……?」
 古くから語り継がれてきたマザーグース。
 他愛のない、言葉遊びの繰り返し。けれど、まさしく死んだこまどりの墓を前にして。
 ――犯人は、こまどり本人を含めた、彼女に関わった『全員』ではないでしょうか。
 女史は、きっぱりと「言い」きるのです。
 彼女は誰かに見ていられなければ耐えられなかった。けれど、彼女にとってその手段は結果的にはその「誰か」を失うことにしかならなかった。それとも、誰かが彼女を諫めて、本当の意味で共に手を取っていたら何かが変わったのでしょうか。いくつもの選択肢は浮かぶけれど、それは全て「もしも」の話。
 事実として、彼女は墜落した。その結果だけは揺るがないのです。
 その時。
 ――まあ、最後の一矢を放った自分が言うことではありませんが。
 女史は特に感情を交えずにそう「言った」のです。いいえ、女史の「こえ」はいつだってそう。ただ、意味ばかりをわたしに伝えてくるばかりで、女史の感情を伝えてくれるわけではないのです。
 けれど、『最後の一矢』とはどういうことなのでしょう。
 その言葉をそのまま取るならば、彼女を殺したのは女史だということになってしまいます。先ほど、女史は彼女に関わった『全員』だと言ったばかりだというのに。
 果たして私の混乱は女史に正しく伝わったのでしょう。女史はあくまで静かに、昨日起こったことを告白したのです。
 昨日の昼時、昼食の時間。わたしたちは大体が連れ立って食堂で食事を採りますが、何人かはめいめいのパンや甘いものを手に好きな場所で食事をするものです。女史も、そういう「誰かと共に食事をしない」ひとりでした。
 女史が屋上に赴いたのは、あくまで気まぐれ以外の何でもなかったようでした。人がいない方が、静かでいい。ただそれだけ。
 ただ、その日に限ってそこには先客がいたのです。今までなら、きっとたくさんの「友達」に囲まれて食事をしていただろう彼女が、たった一人。女史がそこにいることに気づいた彼女は、フェンスの向こう側から、わたしにしたのと同じ問いかけをしたのです。
『もし、ここから一歩踏み出して。飛べなかったら、死んじゃうよね』
 そうして、足を一歩、虚空に踏み出してすらみせたのです。
 そんな彼女を目にしたという女史は、少しだけ困った顔をして、わたしに「言う」のです。
 柄にもなく、腹が立ってしまったのです、と。
 腹が立つ。いつも静かな横顔をさらしているこのひとには、とても似合わない言葉でした。ただ、嘘のようにも聞こえませんでした。女史は、ひとりのようでいて、わたしよりもずっと彼女のことを知っていました。よく、見ていたのでした。
 ですからきっと、その時の彼女がどういう心持ちでフェンスの向こうに立っていたのか、その問いを投げかけてきたのかも、わたしよりよくわかっていて。わかっていたからこそ、彼女の変わらない態度に、苛立ちを覚えたのでしょう。全ては己の招いたことなのに、まだ同じことを繰り返そうというのか、と。
 だから、女史は、こう「言った」のだといいます。
 
 死にたければ勝手に死ね、「誰か」の承認なんて必要ないでしょう?
 
 それは。
 誰か、を必要とし続けていた彼女にとって、決定的な「否定」であろうことは、頭の鈍いわたしでも、十分にわかることでした。
 その時は、彼女は女史を振り返ることもなく、飛び去っていったということでしたが……、
 ――結局、翌朝には彼女は墜落していました。
 どうしたって、その事実に帰結してしまうのです。
 女史は、その事実について、特にそれ以上の言葉を加えることはありませんでした。きっと女史の中では終わってしまった出来事なのです。彼女の言葉を借りれば、「こまどり本人を含めた、彼女に関わった『全員』」が罪人であった、既に決着した事件。
 きっと、明日にはこれが誰の墓なのかも忘れてしまうのでしょうね、と女史はいつもより少し強い空調に揺れる長い髪を押さえながら「言い」ました。
 この学園からいなくなったおんなのこのことを、わたしたちはどうしてか忘れてしまいます。今はまだ、かろうじて記憶の片隅に焼きついている彼女の飛ぶ姿も、笑い声も、何もかも、忘れてしまうのでしょう。
 それでも、女史は淡々と作業を続けるのです。
 まずは、掘った穴の側に、消えた彼女を示すカッターをそっと立てました。それは確かに墓標のように見えました。
 続けて鞄から取り出したのは、赤いリボンで封をされた茶色の小袋と、それから――。
「あっ」
 思わず声が出ていました。
 それは昨日、わたしが女史に渡した砂糖の袋でした。袋に刻まれた水玉模様は、奇しくもカッターに巻かれたテープと同じ、空色をしていました。
 その二つを、掘った穴の中へ。
 ――お砂糖とスパイス。その他の材料は知らないので、これだけです。
 それは、マザーグースの一節。わたしたち「おんなのこ」を形作るもの。お砂糖とスパイスと、それからすてきなもの。消えてしまった彼女そのものを葬ることはできないから、せめて、その「一部」だけでも葬ろうというのでしょう。
 わたしたちがすぐに忘れてしまうとしても。もはや名前も思い出せない「彼女たち」はここにいたのだと、この花壇に立つ墓標たちが教えてくれるように。
 女史は、わたしを見上げて、ほんの少しだけ、小首を傾げてみせます。
 ――何か、すてきなものは持っていますか?
 すてきなもの。突然そんなことを言われたところで、弱ってしまいます。鞄の中に入っているものといえば、筆記用具に宿題用のノートと教科書、それから……。
 それから?
「これは、どうでしょうか」
 日課となっている放課後のお菓子作り。そのために持ってきていたアラザンが、ちょうど一袋。銀色の小粒が、斜めに差し込んできた夕日を浴びて赤く染まって見えました。
 ――ああ、これはいいですね。お砂糖の仲間といえば、仲間ですが。
 女史は、くちびるの端をほんの少しだけ持ち上げました。笑った、のかもしれません。それもすぐ、陰になって見えなくなってしまいましたが。
 袋を開けて、二つの小袋の上に銀色の粒を雨のように降らせます。土の中でもなおきらめくそれは、夜空に輝く星粒のようでした。星を掴むかのように空を飛ぶ彼女の、ようでした。
 アラザンを撒いた後は、スコップで丁寧にそこを埋めなおします。小袋二つぶん質量の増えたそこは、ほんの少しだけ盛り上がり、墓標代わりのカッターと共にまさしく「墓」としての形を成して見えました。
 ……わたしと、女史以外には、そうは見えなかったとしても。
「女史は、いつも、誰かが消えたらこうしているんですか?」
 わたしは、スコップの土を払って片付けを始める女史に、つい問いかけていました。女史は嫌な顔ひとつせず、わたしの問いに答えてくれました。
 ――気づいたときだけですけどね。ただの、自己満足です。
 確かに、自己満足以外の何でもないと言ってしまえばそれまでです。葬った本人が葬ったという事実すらも忘れてしまう、名前のない墓たち。けれど、そう言った女史の横顔は、ひどく穏やかで、どこか寂しげで……、わたしの知らない顔を、していました。
 女史は、果たして彼女にあの言葉を投げかけたことを後悔しているのでしょうか。それは、女史でないわたしにはわかりません。
 ただ、その横顔が、とても、とても。
 うつくしかったということだけは、きっと、忘れない。
 忘れたくない、と思ったのでした。

 これは、とっておきの秘密のお話。
 
 おんなのこは、ひとつだけ、ちいさな「魔法」を使えるの。
 お砂糖とスパイスの他に混ざった「すてきなもの」のひとつ。
 いつしか、おんなのこがおんなのこでなくなってしまうときまで、ちいさな「魔法」はおんなのこと共にある。
 
 ……けれど、「おんなのこでなくなる」って、どういうことだろう?
 
 
 もちろん、今となってはその意味がわからないほどわたしも子供ではありません。
 ほんのちいさな「魔法」は今もわたしの側にあります。わたしはまだおんなのこで、きっとこの学園を卒業するまではおんなのこであり続けるのでしょう。
 硝子張りの天蓋に覆われて、たくさんの花があちこちに咲く、まるで温室のような学園で、わたしたちはおんなのこであることを学び続けます。国語に数学、科学に、……わたしたちからは少しばかり遠いものに思える社会。「立派なおんなのこ」としての礼儀作法。それから、もちろん、ひとの体のことも。
「おんなのこ」のほかには、「おとこのこ」がいます。成長していくうちに、こどもでなくなって、おとな――「おんなのひと」と「おとこのひと」になるのです。おとなになったら、つがいを作って、子供を成す。もちろんそれは、誰かに強いられてするものではない、とせんせいたちは言ってくれるけれど、わたしは今からちょっぴり不安。
 何せ、こんなちいさな学園の中の、おんなじおんなのこですら、スキとキライがあって。それなら、今まで、ほとんど見たことも触れたこともないおとこのこのことをどう思えるのかなんて、わかるはずもありません。すてきなものなのか、おそろしいものなのか、それすらも、わからないのです。わたしにはおとこのこのきょうだいがいなかったから、尚更。
 それでも、いつかは必ず考えなければならないことなのだと、せんせいたちは口をそろえて言います。「おんなのこ」が「おんなのひと」になるときのこと。今はただただ意味もなく体の中で作り出されては吐き出されているだけのちいさなちいさな「卵」を、ひとの形にするための手続きを経て、「おんなのこ」は、「おんなのひと」になる。そして、その手続きには、必ず、この学園にいない「おとこのこ」、もしくは「おとこのひと」が必要なのだといいます。
『今は、まだ、そういう仕組みなんです』
 ぽつりと、「おんなのこ」の授業の先生が口にしたのを、わたしはどうしてか知らないけれど、妙によく覚えています。今は、まだ。それなら、これからはどうなのでしょうか? 先生にその時聞いておけばよかったのですが、機を逃してしまった以上、わざわざ聞きにいくようなことではなかったから、結局、そのままになってしまっています。
 そんなことを思っているうちに、帰りのホームルームを告げるチャイムが鳴りました。いつの間にか授業は終わっていたみたいです。どうしても政治や経済の授業は退屈です、だって卒業までこの学園から出ることのないわたしにとっては、まるで、遠い、遠い世界のお話のよう。遠い世界の物語である以上は、それこそ、おとぎばなしのように華やかであったり、愉快であったりすればよいのに、なんて言ったら、きっと笑われてしまうと思いますけれど、わたしは本気でそう思っています。
 ホームルームでは、担任の先生はいつもの注意を、いつもの調子で繰り返します。
 魔法はみだりに使わないこと。
 必ず時間までに寄宿舎に戻ること。
 宿題は大切だけれど、消灯時間は守ること。
 すっかり聞き飽きてしまっているものですから、既にみんなの心は放課後の楽しみに向かっていて、さわさわと落ち着きのない気配が教室いっぱいに広がっています。わたしの心も、調理室で作る予定のシフォンケーキのことでいっぱい。ふわふわで、舌の上でとろける、優しい甘みのシフォンケーキ。食べる前から、口の中にいっぱいの甘みが広がる。
 けれど、それも、ほんの一瞬のこと。
 不意に視界に入ったそれに、わたしの心はきゅっと惹きつけられてしまいます。
 鴉の濡れ羽色というのは、ああいう色を言うのでしょうか。
 私はいつも、そのひとを視界の端に捉えるたびに、そんなことを思うのです。背を覆うほどに伸ばした後ろ髪、綺麗に眉の辺りでそろえられた前髪、そのつややかで吸い込まれそうな黒は、わたしや、他の級友たちには絶対に真似できない、生まれながらの色。
 ぼんやりと窓の外を見るそのひとの横顔はどこか寂しげで、長い睫毛に縁取られた瞼はいつだって半分くらいまで落とされています。
 そのひとを、わたしは「女史」と呼んでいました。わたしだけではなく、クラスメイトのほとんどがそう呼んでいるはずです。学内一の成績を誇るそのひとへの敬意と、それと、おそらくは近寄りがたさで。
 女史はわたしからしたら遠いひと。遠すぎるひと。席はすぐ側にあるし、いつだって手を伸ばせば女史の肩や手に届くけれど、きっと、そんなことをしても、女史は嫌な顔ひとつしないだろうし、こちらを一瞥して、それっきりになることはわかりきっています。つまり、女史に「届いた」とは、言えないんだってこと。
 そんなことを考えているうちに、ホームルームの終わりのチャイムが鳴って。今日の日直の号令と共に、授業が終わって放課後が始まります。
 さあ、材料を持って調理室に向かわなければ、と、荷物を抱えたところで、不意に肩を叩かれました。
 振り向けば――あの、女史が。伏し気味の目を、真っ直ぐこちらに向けていました。
「え、あ、あの」
 遠いひと。遠すぎるひと。そのひとが、今、わたしの肩を叩いて、わたしの目を見ているのです。緊張で喉が渇いて、頬に血が上って、心臓が急にばくばくと音を鳴らします。もしかしたら女史にも聞こえてしまうんじゃないかと、心配になるくらい。
 けれど、女史はそんなわたしの動揺なんて、きっとどうでもいいことだったでしょう。顔色も、表情も、ひとつも変えることなく。
 もし、持っていたら、砂糖を一つまみくれませんか、と。
 女史はさくら色のくちびるを開くこともなく「言い」ました。
 わたしは、女史がくちびるを開いたところを、食事の場以外で今の今まで一度も目にしたことがありません。ただ、別に声を出さなくても、何も不便はないのです。それが女史の魔法ですから。
 しかし、どうしてお砂糖なんて?
 そんな疑問も、じっとこちらを見つめる女史の視線を受けてしまっては、音もなく溶けて消えてしまいます。水の中に混ぜられたお砂糖のように。
「ちょ、ちょっと待っててくださいね。本当に一つまみでいいんですか?」
 うん、と女史は頷きました。とはいえ、もし足らなかったら困ってしまうでしょうから、シフォンケーキ用に多めに用意しておいたお砂糖の袋を切って、そこから、手のひらサイズの水玉模様の袋に砂糖を半分くらいまで入れて、リボンで丁寧に封をします。大事なお砂糖が、こぼれ落ちないように。
「どうぞ、お役に立てれば幸いです」
 ありがとうございます、と女史はぴんと姿勢を伸ばして丁寧に一礼します。さらりと、いい香りとともに鴉の濡れ羽色の髪が揺れるのを、わたしはただ、呆然と見つめていることしかできませんでした。
 女史は、鞄を背負うと、手の中の袋を大切そうに両手で捧げ持ち、そしてそのままわたしの前を通り過ぎる――かと思いました。
 けれど、ふと、何かを思い出したかのように振り向いた女史は、少しだけ。ほんの少しだけ、ただでさえ寂しげに垂れた眉尻を、もう少しだけ下げて「言った」のでした。
 
 ――そろそろ、ひとり、いなくなりますよ。

靴 / Unison - Cinderella's Whereabouts

 二三七〇年十月某日
 
 
 ここ一週間にかけて降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
 邪魔になっちまった傘を片手に、馴染みの酒場を後にする。昼間っから何飲んだくれてるんだ、と親父に嫌な顔をされたが、遠出の仕事を一件片付けた後なんだ、少しくらいは見逃して欲しいもんだ。
 微かにふらつく足で、水溜りを踏んで、酒場の裏手に足を踏み入れる。普段は、俺と同じような酔っ払いがごろごろしている路地も、毒混じりの雨が過ぎ去ったばかりだからだろう、人っ子一人見えない。
 いや、それは間違いだったと、一拍置いて気づく。
 薄汚れた裏路地の中で、一人だけ、やけに目に付く女がいた。
 突き出した屋根の下に並べられた、空き箱の一つの上に座った、黒い女。
 別に、俺が目を奪われるほどのいい女ってわけじゃあない。そりゃあ、外周の寂れた路地裏には似合わない、小奇麗な格好をしてはいるが、シルエットを見る限り圧倒的に艶っぽさが足らないし、細すぎる身体の線も好みじゃない。
 だが、どうしたって、そいつは俺の目を引いた。
 身体のラインをくっきりと浮き立たせる喪服に、幅広の黒い帽子に顔を隠した姿に反し、スカートから突き出しているのは、真っ白な裸足。そいつは、細くしなやかな足をぶらぶらと揺らしながら、陽気に鼻歌なんざ歌ってやがる。
 そりゃあ、俺でなくとも目を向けて当然だろう。
 そいつが歌っている歌は、俺もよく知っている。揺れるリズムの中に、微かな物悲しさを感じさせるメロディ。
 ――『私のお気に入り』。
 ぞくり、と。背筋に何やら冷たいものが走る。まさか、そんなはずはない。旧い歌とはいえスタンダード・ナンバーだ、どこで誰が歌ってたっておかしくはないはずだ。
 そう思いたがっているのに、どうしても、歌を紡ぎだす口元から目が離せない。顔の大半は見えていないが、俺は、あの唇を知っている気がする。うっすらと紅を引いた、整った形の唇。
 さあ、と雨上がりの冷たい風が、頬を撫でて。女は、帽子を押さえて、こちらに顔を向けた。
「……っ!」
 喉の奥で、呼吸が、詰まる。
 左の目を覆う、医療用の眼帯。その上にかかる、柔らかそうな白い髪。そして、こちらを真っ直ぐに見据える、片方だけの鮮やかな紫苑の瞳。
 写真でしか見たことはないが、見間違えるはずもない。こいつは、こいつは。
 固まって声も出せずにいた俺が不思議だったのか、女は目をぱちくりさせて。花が咲くように、にっこりと、笑ってみせた。
「こんにちは、雨が止んでよかった。そちらはお仕事帰り?」
 女の唇から飛び出したのは、鼻歌の延長上とも思える、馴れ馴れしい言葉。初対面の女に、そんなことを突然聞かれる覚えもない。だが、不思議と不快感はなかった。
 きっとそれは、この女と顔を合わせた瞬間、初めて顔を合わせた気がしなかったから。俺の行く手には、いつもこいつの名前や顔がちらついていたってこともあったが、それ以上に、上手く言葉では言い表せない感覚が、この女に対する警戒心を薄れさせていた。
 もし、顔を合わせたら、色々と聞き出したいこともあった。どうして、辺境から《鳥の塔》に招かれたのか。どうして、今まで姿を現さなかったのか。どうして、どこぞの誰かさんに荷物と手紙を託していたのか。
 けれど、実際にこうして出会ってみると、その言葉は全部無粋で馬鹿馬鹿しい質問に思えてくる。何より、この酔った頭では、上手い質問なんか思いつかないし、話を聞いたところでろくに覚えてなんかいられないだろう。
 だから、酒の勢いも手伝って、舞台に引きずり出された大根役者を気取り、女の座る箱に体重を預ける。
「ま、そんなとこだ。お前さんは?」
「わたしは、お墓参りの帰り。でも、靴が壊れちゃって」
 ほら、と女が指差す先には、石畳の上に転がった、一足の黒い靴があった。こいつの言うとおり、片方はヒールが根元から完全に折れちまってる。確かにこれじゃあ、まともに歩けやしないだろう。
 裸足の爪先に、靴を引っ掛ける。ぷらんと揺れた靴は、すぐに石畳の上に落ち、毒混じりの水溜りに波紋を広げた。
「だから、ここで雨宿りしてたんだけど、これからどうしようかなって思ってたとこ」
 そう言った女の手元に、何かが丸められていることに今更気づく。それから、数拍数える間に、それが「何」であるのかを悟ってしまった。
「靴はともかく、タイツまで脱ぐなよな」
「タイツって、濡れると窮屈なんだよ」
 ぺろり、と女は悪びれた様子もなく舌を出す。果たしていつ脱いだんだろうか。ここで脱いだとなれば、いくら人目がなかったとはいえ、剛の者だ。俺の好みではないといえ、その場面だけは是非見たかった。
 すると、女は身を乗り出して、俺の顔を覗き込んできた。紫苑の片目に、少しだけ歪んだ形で俺の顔が映りこむ。少しだけ眉を寄せたその眉も、目を縁取る睫毛すら、微かに紅色が混ざった綺麗な白だ。写真で見た印象よりも、遥かに鮮やかに目に焼き付く、白。
「もしかして、何かえっちなこと考えてる?」
「考えさせるようなことを言うお前さんが悪い」
 別に弁解する理由もないから、きっぱりと言い切る。女は唇を尖らせて、しばし俺を睨んでいたが、やがて「ま、いっか」と笑顔を取り戻す。
「さてと、そろそろ帰らなきゃ、怒られちゃうな」
「裸足で帰る気かよ」
「この子はもう履けないしね。少しくらいだいじょぶだよ」
 言って、水溜りの上に飛び降りようとするものだから、慌てて声を上げる。
「ちょっと待て! そこで待て、動くな」
「えっ」
 この国の雨に毒が混ざっていることなんて常識だ。いくら少しくらい濡れても問題ないとはいえ、裸足で水溜りに突っ込むなんて、どう考えてもまともじゃない。
 実際、頭の螺子がちょいと緩んでるっぽい女は、疑問符を浮かべ、小首を傾げてこちらを見ているが、構わず靴を拾い上げる。
「靴、借りるぞ」
「う、うん?」
 まだわからないのか、本当に頭が弱いのかもしれない。馬鹿な女は嫌いじゃないが、それはあくまで俺の好みだった場合で、そうでなければ単に厄介なだけだ。これ以上関わり合いにならないためにも、とっとと用件を済ませちまうことにする。
 通りを抜けて、用件を済ませて戻ってきた時、女は何だかんだで俺の言葉を守って、同じ場所に座っていた。ただ、歌っている歌は、先ほどとは違った。
 ――全ての山に登れ、全ての川を渡り、全ての虹を追え……。
 確か、これも映画『サウンド・オブ・ミュージック』の歌だったな。本当に、好きなんだろうな。黒いスカートから細い足を突き出し、背筋をぴんと伸ばして、今度は小声ながらもきちんと歌詞を載せて歌っていた。
 少しだけ上ずってはいるが、極めて絶対に近い音程。相対的な音の幅は完璧だから、聞いていて不愉快ではない。相当耳と喉がいいんだろうな、俺だって音感はあっても歌は歌えないってのに。
 とはいえ、気持ちよく歌ってるところ悪いが、俺の役目はそいつの歌を聴くことじゃない。
「ほら、これやるよ」
 ぽん、と石畳に投げ出したものを見て、そいつは歌うのを止めて、俺とそれとを交互に見やる。
「え、その、いいの?」
「雨水が掃けるまで、そこにいるつもりかよ。いいから履けって」
 俺が仕入れてきたのは、当然、新しい靴だ。ちょうど、この路地には行き着けの靴屋があったから、ちょうど同じサイズの靴を見立ててもらった。とはいえ、靴屋にあったものから選ぶしかなかったから、喪服には到底似合わない真っ赤な靴だったが。
 それでも、女はぱっと笑顔になって。
「嬉しい、ありがとう!」
 どこまでも、真っ直ぐな感謝の気持ちを、投げかけてくる。その言葉のこそばゆさに、鳥肌の立つ感覚に襲われて、つい目を逸らしてしまう。
 ああ、そうだ、こいつはガキと一緒だ。嘘もごまかしもない、ただただ剥き出しの思いを、言葉と音でぶつけてくる。それがプラスでもマイナスでも、どうにも刺激が強すぎて、目を逸らさずにはいられない。
 とはいえ、女は俺がどう思ってるかなんて、知ったこっちゃないのだろう。鼻歌混じりに赤い靴に真っ白な爪先を滑りこませ、石畳の上に立ち上がる。薄く広がった水溜りに、波紋が広がる。
 踊るように、その場でくるりと回った女は、俺に笑いかけてくる。
「ぴったりだよ」
「そりゃそうだ、こっちの靴と同じサイズなんだから」
「本当の本当に、貰っていいの?」
「しつこいな。いいって言ってんだから、素直に貰っとけ」
「うん」
 もう一度、ありがとう、と今度は小さな声で囁いて。女は、そっと手を差し伸べてきた。
 真っ白な、触っただけで壊れちまいそうな、枯れ枝のような指先。本当は俺も手袋を外すべきなのかもしれないが、そのまま、差し出された手を軽く握る。すると、女は両方の手で俺の右手を包み込んできた。
 その瞬間、微かな違和感が手袋を通して伝わったが、その正体を知る前に、女の手が離れた。
 女は、晴れやかな笑顔を浮かべて、俺を見つめる。眼帯で覆われていない、紫苑の瞳が俺を見ている。遠くの喧騒と、お互いの呼吸の音だけが支配する静寂に、俺にしか聞こえないノイズが――。
 途端、ぐらり、視界が揺らぐ。気づいた。気づいてしまった。
 歌と螺子の外れた言動に気を取られて意識が及んでいなかった、この女の、音色に。
「……なあ、お前」
 言いさした俺の唇に、女の指先が当てられる。その指先の冷たさに、俺の疑惑は確信に変わる。
 女は初めて、俺のよく知った表情で、にやりと笑って。
「それじゃ、またね、隼」
 ごく正しい発音で、俺の名前を呼んで。
 背を向けた女は、喪服の裾を翻し、赤い靴を鳴らして駆けていく。俺は思わず手を挙げて呼び止めようとしたが、すぐに、そいつの背中は路地を折れて消えてしまった。
 伸ばした手が、力なく、落ちて。
 俺は、一瞬前まで女が座っていた箱に、へたり込むように座っていた。
「ああ……、くそっ」
 悪態だけが、唇をついて出る。
 どうして、どうして今この瞬間まで、気づかなかったんだ。聞こえていた音色は、どこまでも、「いつも通り」だったというのに。
 耳の奥の奥にまで響き渡る、柔らかな音色。いつだって、ほとんど音色を変えることのない、ノイズというにもはあまりにも透き通ったファゴットが奏でるCの音律と、丁寧な呼吸の気配。
 その呼吸を真似て、肺の奥深くまで息を吸い込んで、吐き出す。
 俺は、あの女を知らない。名前と、姿形を知っているだけで。家族と歌と絵本を愛していることを、知っているだけで。そんな女は知らない、俺には関係ない、と何度も繰り返していたというのに、心のどこかで知った気になっていた。
 そいつを抱きしめたときの温度も、鼓膜の奥に響く音色も、知らないくせに。
「シンデレラの行方は、誰も知らない――か」
 誰かさんの言葉を借りて、足下に転がった靴を軽く蹴飛ばす。靴は軽くバウンドして、地面に溜まった水が一緒に跳ねる。
 それでも、靴は何も語らない。魔法使いが用意した魔法の衣装なら、不思議な力で何か語ってくれたのかもしれないが、確か硝子の靴だけは魔法でなく本物だった。だからきっと、シンデレラの行方なんざ、教えちゃくれない。ここにある靴だって、同じだ。
 その代わり、十二時の鐘が鳴っても、決して消えやしない。
 奴は、どういうつもりで、俺の前に姿を現したのだろう。そして、言葉を交わそうなんて思ったのだろう。
 少しだけ考えかけたが、やめた。
 考えたって、わかるはずがない。俺が、結局のところ九条鈴蘭のことを何一つ知らなかったように。どこぞの誰かさんのことを、その音色でしか判断できないように。そして、いつだって、俺には判断しきれないように。
「全く、わけわかんねえ奴」
 吐き捨てるように呟いて、立ち上がる。
 酔いはすっかり醒めてしまった。いい気持ちで眠るためにも、もう一件寄ってから帰った方がよさそうだ。
 あの女の抜け殻みたいな靴に背を向け、一歩を踏み出して、立ち止まる。
『それじゃ、またね、隼』
 頭の中でリフレインする、震えるリードの音色と歌うような声。
 そうか、確かに奴は、「またね」って言ってたな。
 自然と口の端が歪み、あの女がいた場所を振り向いて――。
 
 
 以来、助手席の椅子の下に、あの靴を置いたままにしてある。
 それ自体に意味があるわけでもない。俺が女物の靴を履くわけがないし、そもそも踵の折れた靴なんて、使い物にもならん。
 だが、それが、どこぞの誰かさんへの、ささやかな意趣返しになると信じて。
 俺は、今日も愛車にキィを差し込む。


[ Cinderella's Whereabouts / End of File. ]

オルゴール / Minor Second - What a Wonderful World

 二三七〇年八月某日
 
 
「どうしても、探してもらいたいものがあるのです」
 
 生憎、俺は『捜し屋』でも『何でも屋』でもなく、ただの『運送屋』だ。
 それでも、お得意様が連れて来たその娘の言葉を、突っぱねる気は起きなかった。別に好みの女でも何でもなかったが、女の頼みを無碍に断るような奴と思われたくはない――というのは単なる建前で、ただ、娘のかんらん石を思わせる目に、消えた一人の女を重ねちまっただけなんだと思う。
 そんな事情を抱えて、俺は、境界地区にいた。
 《鳥の塔》が聳え立つ首都の、内周の中流住宅街と外周スラムの狭間に位置する地区は、何とも混沌とした町並みでそこにある。外周も相当に混沌とした様相を呈してはいるが、常に薄暗く澱んだ空気を湛える外周と違い、境界地区の混沌は、並び立つぎらぎら輝く明かりと、人の熱気によるものだ。
 境界地区の空気は嫌いじゃない。だが、少々煩すぎる。
 狭い駐車場に車を置いて、見張りを神楽に任せて外に出る。食い物と機械油とその他諸々が混ざりあった、胃が重たくなる臭いに辟易しつつ、一つひとつ、店のショーウィンドウを覗いていく。
 『運送屋』という職業上、道や店にはそれなりに詳しいが、それぞれの店が何を売ってるか、その詳細までは把握していない。何軒目で見つかるだろうか、と今から面倒くささが頭をもたげてくるのを感じていると、不意に、声をかけられた。
「あれ、ハヤトじゃん。久しぶり」
 顔をそちらに向ければ、人ごみの中でも鮮やかに映える金色の尻尾を揺らして、顔馴染みが立っていた。『新聞記者』アリシア・フェアフィールド。ただ、いつもの動きやすそうな素材の服ではなく、裾の広がったキュロットにストライプ模様の入ったタイツ、上は細かなレースの刺繍が入ったハーフコートと、仕事とは思えない服装をしている。
「何だ、今日は休暇なのか。折角久しぶりに会ったんだ、飯でも食うか? 奢ってやるよ」
 大きな運びの仕事を一つ片付けたばかりで、俺の財布は珍しくも潤っている。しかし、アリシアはつれないもんで、ぺろりと真っ赤な舌を出す。
「残念、今日はこれからシスルとデートなの」
「またあのハゲとかよ、変わり映えしねえな。たまには相棒を労ってやったらどうだ」
 俺は男の肩を持つ趣味は無いが、それでも、アリシアの相棒にだけは同情している。周囲から見りゃあからさまな好意をアリシアに寄せているにも関わらず、当のアリシアは全く気づいた様子もなく、それどころか他の男とデートときた。正直、少しは報われてもいいのではないか、と、アリシアに振り回されている姿を見ている身としては、しみじみ考えずにはいられない。
 が、俺の珍しくもありがたい忠告は、アリシアにはさっぱり届いていないようで、不思議そうに首を傾げるだけだった。
 駄目だこれは。諦めろ相棒くん、望みは薄すぎる。
「しかし、あのハゲのどこがいいんだ」
「一緒にいると面白いじゃん。ハヤトだって、あいつと仕事してればわかるでしょ?」
「まあ、面白い奴だってのは、認めるが」
 変な奴、と言った方が正しいとも思う。身体のほとんどを吹っ飛ばされて、全身を機械に換装してかろうじて生き延びたという背景があるはずなんだが、奴の飄々とした言動や音色からは、その重さが全く感じられない。致命的に何かが抜け落ちている気はするが、それを差し引いても、奴ほど「安定した」野郎を俺は今までに見たことがない。
 この国に生きる連中のほとんどは、どっかがいかれてるもんだ。それは、例えば下手くそな奏手が奏でるヴァイオリンの音色にも似た、耳障りなノイズとして俺の耳に届く。どいつもこいつも、質や頻度は違えど、必ずそういうノイズを奏でてるもんだ。
 もちろん、それは俺だって例外じゃない。俺自身の音色は聞こえないから、何がどう狂っちまってるかはわからねえが、もし、何もいかれてなきゃ、俺の指は今も自由に動いているだろうし、親父も首をくくることはなかっただろう。
 とにかく、そんな連中の中でも、奴は特別その手の雑音と縁の無い野郎だった。だからこそ、奴に護衛を任せる気にもなる。俺は男に興味は無いが、ただ一緒の空間にいるだけなら、神経に障るノイズを立てる女より、限りなく環境音に近い音色を奏でる野郎の方が数倍マシだ。
「でも、ハヤトが徒歩でこの辺うろついてるのは珍しいね。何かお探し?」
 思えば、この地区のことなら、俺よりアリシアの方がよっぽど詳しい。闇雲に探すより、まずはものの試しに聞いてみた方がいいかもしれない。
「オルゴールを探してんだよ」
「オルゴール? 女の子にプレゼントでもするの?」
 それだったらちょっとセンスを疑うよ、とアリシアは苦い顔をする。一体こいつは、俺を何だと思っているのか。女がんなもん貰って喜ぶわけないことくらい、重々承知している。女って生き物は、男よりも遥かに現実的かつ実際的なもんだ。
 ただ、それもシスルなら許されるかもしれない。奴なら、気障な台詞とすかした笑みをお供に、外套のポケットから小箱のオルゴールを取り出したとしても、何の違和感もない。本当にハゲの癖に生意気だなあいつ。
 想像上の禿頭をぎりぎり締め上げながらも、アリシアにはきちんと説明を加える。
「お得意さんからの依頼でね。境界地区で売ってるらしい、綺麗な小箱のオルゴールをご所望なのさ」
「ああ、それなら、イルマさんのお店に売ってるかも。こっちこっち」
 アリシアは、俺の言葉を聞くや否や、軽い足取りで俺の前に飛び出した。
「おい、ハゲとのデートはいいのかよ」
「まだ待ち合わせまでには時間があるから。店もすぐそこだしね」
 実際、アリシアの言う店は、道を二つ折れた先にあった。狭い道に少しだけ張り出した屋根を持つ、ちいさな玩具屋だ。錆びた看板には『イルマの玩具店』という文字が書かれている。
 ショーウィンドウを覗き込めば、俺もガキの頃に触った掌大の車や飛行機、旧時代の動物たちを模したぬいぐるみ、それに、片隅に両手で収まるくらいの、幻想的な装飾が施された、金属の箱があった。箱の横から螺子が飛び出しているところを見るに、これがオルゴールだろう。依頼人の話とも、合致している。
 アリシアは、紫苑の瞳でそのオルゴールを見つめて、不意に「懐かしいな」と言葉を落とした。
「昔ね、ショーウィンドウに張り付いて、このオルゴールを眺めてる女の子と知り合ったの」
「へえ」
 特に興味もないから、適当に相槌を打つ。アリシアも、別に俺が聞いていようがいまいが関係ないのだろう。まるで、オルゴールそのものに語りかけるように続けられた言葉を、しかし、次の瞬間には「興味ない」と切り捨てることができなかった。
「この辺じゃ見かけない女の子だったから、つい、声をかけちゃったんだ。あたしより二つか三つくらい年下だと思うんだけど、やせっぽちで、白い髪に白い肌をしてて。それと、目を患ってたのかな、片目に眼帯をしてたのがすごく印象に残ってる」
「……何だって?」
 白髪に眼帯、棒切れのような身体。刹那、脳裏に閃いたのは、褪せた写真だった。よく、誰かさんに頼まれて赴く孤児院に飾られた、かつてそこにいた娘の写真。塔の兵隊に連れられて、首都に向かったのだという一人の娘。
 アリシアは、オルゴール越しにその娘の姿を思い描いているのか、紫苑の瞳を細めて言った。
「辺境から、《歌姫》候補としてこの町に来たんだ、って言ってたんだけど、あれ以来、姿を見てないの」
 オーディションを境に消えた《歌姫》候補。北地区の爆発事故、と言われている少女たちと兵隊の衝突、そして死。かつて目の前の女から聞いた言葉が、次々に蘇る。それらのイメージに、姿だけしか知らない娘の背中が被さって、消える。
「その娘の、名前は聞いたのか?」
「スズラン、って名乗ってた。白い、ちいさな花の名前だって」
 ――間違いない。
 そいつは、第四十六隔壁の『蒲公英の庭』から首都を目指して旅立った、九条鈴蘭だ。
 まさか、アリシアの口からその名前を聞くことになるとは、思ってもみなかった。だが、それと同時に、ここで九条鈴蘭の名前を聞いたことに、さほど驚いていない自分にも気づく。何故かはわからないが、ここで九条鈴蘭の足跡を知ることも、必然だという思いがあった。
「なあ、アリシア」
「何?」
「お前が《歌姫》候補を追ってる理由は、塔や親父云々ってだけじゃなくて、その鈴蘭とかいう娘の行方を知るためでもあるんだな」
「実は、そう」
 アリシアは、振り向きもせずに頷いた。
「もし、あたしが調べていることが本当なら、あの子も、何か大きな事件に巻き込まれてるのかもしれない。そう思うと、知らないままでいるのが、怖いの」
 俺は、何も言えなかった。いくつかの推測はあったけれど、それらに確固たる証拠がない以上、アリシアには話すべきではなかったから。
 アリシアは、俺の沈黙をどう捉えたのだろう。俺の表情を窺うように、大きな目をこちらに向けて、それからほんの少しだけ、微笑んだ。
「あと……もし無事なら、もう一度、会いたい」
「会いたい?」
「すごく、変わった子だったの。地に足が着いてない雰囲気なんだけど、でも、すごくしっかりした受け答えをする子でさ。あたし、ここで色んな話を聞かせてもらったんだ。辺境のこと、ここまでの旅のこと。それに、この町が、どれだけ素敵かってこと」
「この町が?」
 俺の視界に入るのは、ごみごみとした境界地区の建物ばかり。それと、灰色の空に聳える《鳥の塔》か。こんなもの、俺にとっては見慣れたもんだ。確かに、塔を初めて下りた時には、塔のモニタから眺める景色とのあまりの違いと、激しい音色の応酬に圧倒されたもんだが、それを「素敵」と思ったことは一度もない。
「あの子にとっては、あたしにとっては当たり前のことも、『素敵』だったんだと思う。あたし、そう言われて、目から鱗が落ちた気分だった。その感覚は、あたしがすっかり忘れてて、本当は失っちゃいけなかったものなんだ、って思ったの」
 腕を広げて、晴れやかに笑う九条鈴蘭の姿を幻視する。ああ、きっと、妹とよく似た顔で笑ってたんだろう。
「だから、一度じゃない、何度でも、お話をしたいんだ。あの目が見つめる世界を、もっと知りたい」
 アリシアは、ショーウィンドウにそっと、額をつける。きっと、九条鈴蘭も同じように、額をつけてオルゴールを眺めていたのだろう。片方だけの、紫苑の瞳を煌かせて。
 紫苑。そう、九条鈴蘭も、アリシアと同じ、紫苑の瞳をしていたはずだ。
 そして、アリシアと同じ色の瞳は、この世界を映しながら、きっと別のものを見ていた。灰色に沈んだ、雑音だらけの世界なんかじゃない、鮮やかな色と無数の楽器が奏でるハーモニーに満ちた、夢のような世界を。
 それは、かつての俺が、どこかに置き忘れちまった世界に違いない。俺にだって、この世界が鮮やかに見えた頃が、あったはずなんだから。
 その世界を見つめ続けていられる九条鈴蘭ってやつは、とんでもない幸せ者なんだろう。果たして、そいつが、今も同じ世界を見ているかどうかは、わからないけれど。
 わからないけれど――。
「また、会えるといいな、その鈴蘭とやらに」
「珍しいね、ハヤトがそんなこと言うなんて。どうせ『俺には関係ない』って言うんだと思ってた」
「悪かったな。たまには、そういう気分の時もあんだよ」
 本当は、ここで、俺が知っていることを全部ぶちまけるべきだったのかもしれない。九条鈴蘭が、今も故郷に金を送っていること。時々、人づてに俺を使って絵本と手紙を届けさせていること。
 けれど、どうしても、それは言葉になってくれなかった。俺に依頼をしてくる奴が他言無用と言い置いていることもあるが、それ以上に、俺が下手なことを言って、アリシアがこれ以上危ない橋を渡るところは、見たくなかった。
 黙っていてもろくなことにはならないと、わかっていたとしても。
 その時、アリシアが細い腕に巻いた腕時計を見て、「あっ」と声を上げた。
「流石にこれ以上いると遅れちゃう」
「アイツ、時間にはうるさいからな」
「そうなんだよね、急がなきゃ。それじゃ、またね、ハヤト」
「ああ」
 せわしない奴だ、と思いながら、駆け足で離れていくアリシアの背中を見送る。
 そうして、店でオルゴールを買い求める。金は依頼人があらかじめ渡してくれていたから、問題なく買うことはできた。そうなればこの地区に用は無い。早足に、愛車の置いてある場所に戻る。
 やがて、愛車のずんぐりとした姿が見えてくる。それを確かめて、俺は、目を閉じて、今回の依頼人の姿を思い出す。白衣を身に纏ったちいさな研究員は、あの女と同じ目を、あの女と似ても似つかないおどおどとした態度でこちらに向けていた。
「どうして、オルゴールなんだ?」
「わたしの、大切な人が、教えてくれたのです」
 あまりにも、消えた《赤き天才》に似すぎている娘は、ぽつり、ぽつりと言葉を落とす。
「ショーウィンドウの中の、箱の形をしたオルゴールのお話でした。手に取ったわけでも、奏でたわけでもなく、ただ硝子越しに見ただけのお話です。しかし、あの人の中では、箱の中には、たくさんの素敵なものが詰まっていました」
 たくさんの、素敵なもの。
 もはや、依頼人の言っていた「あの人」が、九条鈴蘭であることを疑う気は起きなかった。九条鈴蘭の目を通せば、何もかもが「素敵」なものに変わってしまうんだろう。見たことのないオルゴールの中身も、俺に取っちゃ何の感慨もない、裾の町の風景も。
 そんな、幸せな九条鈴蘭は忽然と姿を消した。アリシアの前から。そして、依頼人の前から。
「あの人は、もう、どこにもいないから。せめて、あの人が好きだったものを、見てみたいのです」
 そう言った娘の目には、涙が宿っていた。
 俺は、何も言えなかった。言えるはずもなかった。
 その、もう、どこにもいない誰かさんのオルゴールが、今、俺の手の中にある。
 オルゴールを小脇に抱え、愛車の扉を開ける。いつも通りに、スピーカーから相棒の声が聞こえてくる。
『おかえりなさいませ、ハヤト』
「ただいま、神楽」
 扉を閉めて、膝の上にオルゴールを載せる。
 螺子を巻く。
 流れてくる音色に、耳を澄ませる。
 曲目は、こともあろうに『私のお気に入り』。九条鈴蘭が、好きだったという歌だ。
 俺は、九条鈴蘭を知らない。写真を通して姿かたちは知っているけれど、その棒っきれのような身体を抱いたこともなければ、どんな声で歌うのかも、どんな音色を奏でるのかも、知らない。
 当然、今、どこにいるのかも、知らない。
 知らなくていいのだ。俺は、誰かさんに頼まれるまま、荷物を運び続けていればいい。九条鈴蘭の行方なんて、俺が気にすることじゃない。
 だというのに、どうして、こうも落ち着かない気分になるのか。
 胸の中にじりじりと燻る行き場の無い感情を抱えたまま、ただ、螺子が切れるその瞬間を、待つ。

ロケット / Major Second - Peacemakers

 二三七〇年五月某日
 
 
 話が違うじゃないか。
 俺が第一に思ったのは、それだった。もしもの時のために――この「もしも」への備えを渋る奴が真っ先に死んでいくもんだ――連れて来た『何でも屋』シスルも、仏頂面ながら、明らかな非難の音色を俺に向けている。
 だから、俺だって話が違うと思ってるんだ。
 俺たち二人に向けられた、ざっと見た感じ十といくつかの銃口。それを構えているのは、黒い装束に全身を包んだ連中だ。顔まで布で隠しちまってるから、相手さんがどういう連中なのかはさっぱりわからない。ただ、俺たちに向けられている音は敵意の不協和音で、鼓膜が痛いったらない。
 ただ、ここまであからさまに音色を響かせているところをみるに、練度は低そうだ。塔の兵隊や代行者の連中は、標的を前にしても、ほとんどそれとわかる音色を感じさせないもんだ。もしかすると、俺みたいな能力者に対する訓練も積んでるのかもしれんが、その辺は俺の知ったことじゃない。
 結局、目の前にいる連中が、正規の訓練を受けていないとわかったところで、それで俺の命が助かる保障にはならない。
 俺は、横に立ち尽くしている護衛の脇腹を肘でつつき、小声で言う。
「なあ、シスル先生よ」
「何だ」
「これ、突破できそうか」
「アンタを見捨てれば確実なんだが」
「護衛の台詞じゃねえな。前金泥棒にもほどがあるぞ」
「アンタこそ、らしくないな。どうしてここまで接近されるまで気づかなかったんだ」
「某隊長の言葉を鵜呑みにしてたことは認めざるを得ない」
「奴には関わるなって私があれだけ……!」
 そう、今回に限ってはこのハゲは何一つ悪くない。こいつの忠告は、いつだって的確だ。的確であることを、俺が失念していた。
 シスルの言葉が正しければ、今回の依頼人が、まともな仕事を寄越してくるはずがないのだ。わざわざ「特に危険はないと思いますが、是非シスルさんを連れて行くことをお勧めします」と親切に教えてくれた辺りで疑うべきだった。
 後悔は常に先に立たないものだ。しかし、無事に帰れたら依頼人の後ろ頭を一発くらいどついたところで、きっと許されると思う。
 そんな、不毛な思考を広げかけたところで、黒い輪の後方から、鋭い野郎の声が飛んできた。
「塔の狗どもが、ここに何の用があって来た」
 俺は、害意が無いことを示すために両手を挙げる。それに合わせて、シスルも無表情に両手を開いて肩の上に挙げてみせた。全身凶器のこいつにしてみりゃ、手が空いていたところで支障ないんだろうが。
「俺は塔の人間じゃねえ、塔の認可を受けちゃいるが、個人の『運送屋』だ。今日はこの家の主、フランシス氏に届け物があって来た」
「届け物?」
 俺が答えると、黒尽くめたちの間に微かなざわめきが走った。俺の答えは、こいつらの想定外だったと見える。
 とはいえ、この程度ではもちろん信用なんざされるはずもなく。じわり、と包囲を狭めながら、先ほど問いを投げかけてきた野郎が言う。
「誰から、何を届けろと言われた」
「そいつは、守秘義務に抵触するから言えねえな」
 『運送屋』としちゃ、当然の答えだ。当然ではあるのだが、そりゃあ相手の不興を買いもするわけで、弛緩しかけていた空気が一瞬で引き締まり、耳に響く不協和音も俄然音を増す。
 しかし、ここで退いてちゃ『運送屋』として失格だ。横の『何でも屋』と違って、決して仕事に真面目な方でもないが、一応は業界人としての矜持も持ち合わせているつもりだ。
「とにかく、この家の主に会わせてくれよ。そうしてくれりゃ、疑いも晴れるはずだから」
「そんな話、信用できると思うか!」
 そりゃあ信用されるとは思ってないが、それにしたってこっちの話を聞こうともしない連中だ。そもそも、聞く気のある連中ならば、銃を向けてくることもないとは思うが。
 それにしても奇妙な構図だ。俺たちが今から向かおうとしているのは、どこからどう見てもごく普通の一軒家だし、届ける相手も民間人、という話だったが。どうにも、この連中の警戒心は半端じゃない。
「っつか、お前らは何なんだよ。この家にいる奴に、何か頼まれたの?」
「違う。我々は、フランシス隊長を塔から守るべくここにいる。あのお方は、我々の希望の象徴だ、今、ここで失われるわけにはいかない」
 さっぱり話が見えてこない。正直、通してもらえないんだったら、一旦出直すことも考えたほうがいいだろうか、と思い始めたその時、シスルは無表情ながらも大げさに肩を竦め、溜息混じりに言った。
「別に、我々はこの家の人間に危害を加えるつもりはないし、荷物さえ届けられればそれでいい。もし、あなた方が、我々を恐れているならば、武装解除でも監視でも、あなた方が満足するようにしたらどうだ。私はそれで一向に構わんよ」
「お前、それでいいのかよ」
「まあ、仮に武装が無くたって自分ひとりで逃げるくらいなら」
「だからお前護衛としてその姿勢どうなの」
「冗談だ」
 冗談なのはわかってるんだが、不安になるからやめてほしい。俺は、お前と違って、どこまでもか弱い一般成人男性なんだ。
 再び、連中の間にざわめきが走った。今度は、おそらくシスルの言葉を吟味しているのか、かなり長い間口々に何かを言い合っていた。その間も、銃口はこちらを向いているから、俺は両手を挙げて気をつけをした姿勢のまま、待たされる羽目になったのだが。
 やがて、連中の中から、やたら体格のいい、リーダーと思しき野郎が出てきて、頭巾を外した。深い皺の刻まれた、精悍な顔つきの野郎だ。だが、見たところ、酷くくたびれているようにも、見えた。
「お前たちの話はわかった。武装解除と監視を条件に、フランシス隊長に会わせよう」
 
 
 俺の荷物の届け先、フランシス氏が住む家は、中に入ったところでどこまでも普通の家だった。首都――裾の町基準で言えば、むしろ相当小ぢんまりとした部類だろう。そんな中、ノックもせず、鍵も閉まっていなかった扉を無造作に開けた連中のリーダーは、顎で俺たちを中に招いた。俺たちの背中には、黒尽くめが持つ銃が突きつけられている。そうまでしなくとも、俺は非力な『運送屋』だ、抵抗のしようもないんだが。
 シスルは、背中に押し付けられた銃口に臆した様子もなく、きょろきょろとせわしなくあたりを見渡して、それから先頭の男に向かって声をかけた。
「ここには、この家の主一人が住んでいるのか?」
「ああ」
「見た感じ、一人で住んでいるにしては、家財道具が多い。ただ、相当長い間使われていないようにも見える。家族はどうしたんだ?」
 リーダーは、シスルの言葉に面食らったようだった。俺もちょっと面食らった。この状況で、そんなところを観察してたのか、こいつは。
「……今は、フランシス隊長一人がこの家で暮らしている。だが、六年前までは、何もかもが違ったのだ」
「六年前? 一体何があったんだ?」
「まずは、隊長に会うことだ。お前たちが本当に何も知らないなら、それが、一つの答えになるはずだ」
 また、もったいぶったことを言うもんだ。はっきりしない野郎は嫌われるぞ。とはいえ、余計なことを言った瞬間に、心臓ぶち抜かれかねないから黙っているが。
 案内されたのは、家の中でも一番奥まった場所にある部屋だった。扉を潜ると、決して質のいいものではない寝台の上に、一人の男が座っている。年のころは四十がらみだろうか。白髪の混じった黒髪をぼさぼさに伸ばし、髭も伸び放題だ。何より、その目は、俺たちの方に向けられてはいたが、完全に焦点が合っていなかった。伝わってくるノイズも、ぼんやりとした、酷くピッチの狂った金管の音。正直、耳を塞いでしまいたいくらい、不愉快な音色だ。
「隊長、お客様です。隊長に、届け物があると」
 リーダーの男は、推定フランシス氏の横に歩み寄る。だが、推定フランシス氏は返事もせず、虚ろな瞳で壁と天井の境目辺りを眺めているだけ。
「……彼が、ミスター・フランシスか?」
 俺よりも先に、シスルが口を開いた。リーダーは重い表情で、頷いてみせた。
 まさか、荷物の受け取り手が、話の通じる状態でないとは思いもしなかった。相手が死んでて、荷物を依頼人につき返すことは決して少なくないが、こういう例は流石に初めてだ。
 リーダーは、俺に向き直り、苦々しい感情の音色を響かせつつ言った。
「見ての通り、隊長はまともに話が出来る状態ではない。だから、我々にも、隊長宛の荷物を見せてもらってもよいだろうか」
「ああ、この際仕方ねえな。荷物はこれだ」
 俺は、懐から包みを取り出す。掌に収まるくらいの、ほんのちいさな包みだ。それを、リーダーの男の、ごつい掌に載せてやる。
 俺たちを背後から監視している連中の音色が、緊張の気配を増した気がするが、俺はそれには気づかぬふりを通した。まだ、俺が、フランシス氏やリーダーにちょっかいを出すかどうか、気を張っているらしい。ご苦労なこって。
 だが、その中身は、本当に大したことのないものだ。おそらく、フランシス氏以外の全ての人間にとっては。
「……これは」
 封を開いたリーダーが、低い声を漏らす。その指先には、金色の細い鎖に丸く平べったいペンダントトップがぶら下げられた、安っぽい首飾りが引っ掛けられていた。シスルは、ひょいとリーダーの手元を覗き込み、「ほう」と息をついた。
「ロケットペンダントか」
「そうだ。中身を確認してくれよ」
 後半の言葉は、シスルではなく、リーダーに向けたものだ。リーダーは、小さく頷いて、ロケット部分をそっと開いた。そして、そこに嵌め込まれている写真を確かめて、深く溜息をついた。
「間違いない。これは、かつて、隊長が身に着けていたものだ。あの時に、なくなったものとばかり思っていたが……」
 写真に写っているのは、一人の女と、ちいさな子供。子供の顔は、ベッドの上で微動だにしない、フランシス氏とよく似ている。要するに、そういうことなんだろう。
 リーダーは、すぐにフランシス氏を振り返り、そして、虚空を映した黒い瞳の前に、ロケットの中の写真をかざす。
「隊長。隊長の大切な写真、戻ってきましたよ」
 その瞬間、ほんの一瞬のことだったが、俺の耳に届く音色が変わった。背筋をざわつかせる不愉快な音色がふっと途絶え、すっ、と深く息を吸い込むような気配を感じて。しかし、その次の瞬間には、再び耳を塞ぎたくなるような音が聴覚を支配した。
 今の感覚は何だったのだろう、と思ってフランシス氏を見れば、今までぴくりとも動かなかったフランシス氏の手がゆるりと伸ばされて、リーダーの手から首飾りを取り上げていた。
 ああ、と。だらしなく開いた口から、言葉にならない声が漏れる。
 そのまま、フランシス氏は、両手の上に写真の納まったロケットを載せた姿勢で、動かなくなった。ただ、虚のような目から、涙が零れて落ちていくのを、俺も、シスルも、その場にいた連中も、言葉も無く見つめていることしかできなかった。
 
 
 フランシス氏の部屋を辞した俺たちは、客間に通されていた。俺が本当の『運送屋』であることを認めてもらえたのか、銃は向けられていない。監視の連中も、この家を見張る作業に戻り、ここにはリーダーの男一人だけが残っていた。
 フランシス氏の世話もしている、というリーダーは、勝手知ったる他人の家とばかりに、客人用の茶器を出し、辺境名物の、ほとんど無味無臭のくせに薬っぽい後味だけが残る茶を振舞ってくれた。
 その間、ほとんど、言葉はなかった。そして今この瞬間もシスルとリーダー野郎の音色だけが響いていたが、不意に、俺たちの前に座ったリーダーが深く頭を下げ、この場の沈黙を破った。
「お前たちのことを、不当に疑ってすまなかった。どうしても、塔の連中にフランシス隊長を渡すわけにはいかないのだ」
「どうにも話が見えてこないが、あなた方は、随分塔の連中を毛嫌いしてるようだな。いや、この町全体が、か」
 シスルは、手元のティーカップを手探りしながら言う。
「普通、《鳥の塔》の認可を受けた『運送屋』といえば、すんなり通してもらえるものだ。だが、ここでは逆に《鳥の塔》の紋章をつけているだけで嫌な顔をされて、散々調べられる羽目になった」
「もちろん、ここだけ、ってわけじゃねえけどな。《鳥の塔》を毛嫌いする隔壁は、辺境には多い。だが、お前らみたいに、突然こっちの事情も聞かずに銃を向けてこられることは、そうそうねえよ。事情くらいは聞かせてもらってもいいか」
 別に、俺個人としちゃ、こいつらの事情はどうでもいい。ただ、この仕事をしていく上で、それぞれの隔壁の情報を収集することは重要だ。特に辺境の隔壁は、独自の文化や風習を持っていることも多い、それらの情報を同業者と共有していくためにも、ここで聞いておくことには意味がある。
 リーダーも、ここまできて黙っている気はなかったのだろう。しばし、口の前で指を組んで難しい顔をした後に、低い声で切り出した。
「この隔壁は、見ての通り、とても貧しい」
「まあ、辺境はどこでもこんな感じだけどな」
 人が、旧時代と変わらぬ生活ができるのは、それこそ《鳥の塔》のお膝元、中央隔壁――裾の町くらいのもんだ。辺境の隔壁は、《鳥の塔》の定期的な物資補給こそあれど、到底十分とは言えない。
 ただ、この事実を知っている人間は裾の町でもそう多くないし、逆に辺境の隔壁で暮らす連中も、それが当たり前になっちまっているから、疑問にすら思わない。格差を肌で感じられるのは、俺みたいな、わざわざ危険を冒して隔壁から隔壁を渡り歩く変人くらいだ。
「もちろん、この隔壁にも、定期的に《鳥の塔》から兵隊がやってきて、食糧や物資を供給する仕組みになっていた。
 だが、塔の兵隊たちは、その度に好き勝手に振舞った。働き盛りの者たちを不当な理由で徴集し、ほとんど賃金も出さずに働かせる。欲望のままに、ものを奪い、女を襲っては犯した。そんな連中を、我々は、黙って見ていることしかできなかった。
 だが、ある日、一人の勇気ある者が、声を上げた。このままではいけない、自分たちの力で、自分たちの町を守るのだ、と。
 その勇気ある者こそが、フランシス隊長だった。
 フランシス隊長は、兵隊たちの振る舞いに怒りを抱く者たちを率い、武器を集め、蜂起した。そして、塔の兵隊たちをこの隔壁から追い返すことに成功したのだ」
 その後、反乱の事実を知った《鳥の塔》は、何度か隔壁に兵隊を送ってきたが、フランシス氏はとんでもなく有能な指揮官で、そいつらをことごとく返り討ちにすることに成功したらしい。
「つまり、フランシス氏は、この町の英雄ってことか」
「ああ、そういうことだ。この町においては、まさしく神に等しい存在なのだ。我々を目覚めさせ、理不尽に抗う力を与えたもうた、神」
「だが、抗うだけでは、この隔壁を救うことにはなるまい。辺境は、《鳥の塔》からの援助がなければ生きてはいかれない。緩やかに飢えていくだけだ」
 シスルは、いつになく厳しい声で言った。確か、こいつも出身は辺境だとかいう話だから、色々と思うところがあるのかもしれない。
 リーダーは「もちろん、その通りだ」とシスルの言葉を認めた上で、話を続ける。
「《鳥の塔》からの物資を受け取る仕組みを欠いたこの町は、当然、そのままでいれば滅びるしかない。だが、塔の兵隊をそのまま受け入れてしまえば、また同じことの繰り返しだ。それを恐れた我々は、直接首都に赴き、町の現状や兵隊の暴虐非道な振る舞いを訴えることで、状況の打破を図った」
「馬鹿なこと考えるもんだな。そんなの、聞いてもらえるはずがねえだろ」
 鼻で笑っちまうような言葉だ。実際、笑っちまったかもしれない。だが、あくまでリーダーは渋い表情のまま、俯いた。
「そう、冷静に考えればその通りだ。だが、我々になら――否、フランシス隊長にならそれができると信じ込んでいた。不可能を可能にしてきたフランシス隊長ならば、この町を、本当の意味で救ってくれると。
 かくして、フランシス隊長率いる一隊が、首都に向かって旅立った。だが、《鳥の塔》は当然その動きに気づき、我々を塔に対する反逆者とみなして、第六遊撃部隊を差し向けてきたのだ」
「第六遊撃部隊……『殲滅部隊』、か」
 シスルが低い声で言った。リーダーは、重々しく頷いた。
 第六遊撃部隊。それが、主に《鳥の塔》への反逆者を一人残らず殲滅するために出撃する部隊であることは、裾の町の常識だ。奴らは、反逆者狩りをするだけでなく、これから《鳥の塔》に反逆しようとしている連中の心を折るという重要な役目を背負っている。故に、そのやり口は凄惨かつ徹底的だ。噂だけでも、背筋が冷たくなるほどに。
「私やここに集っている者は、町に残っていたために、命を繋ぐことになった。だが、首都に向かった者たちはことごとく殺された。フランシス隊長、一人を除いて。
 そして、遅れて到着した別働隊が、かろうじてフランシス隊長を助け出すことに成功し、隊長の口から、第六遊撃部隊による襲撃と本隊の壊滅を知らされた。
 隊長の話では、遊撃部隊といっても、そこに現れたのはたった一人の少年だった。《鳥の塔》の略式軍服を纏った、まだ十四、五くらいにしか見えない少年」
 なるほど。
 やっと、依頼人が、何故俺にこんな依頼をしたのか、飲みこめてきた。この仕事は、事情を知らなければ意味がない。特に、依頼人とこの長々とした物語の間に横たわる背景を。
「それが、『討伐者』ホリィ・ガーランド」
 ホリィ・ガーランド。
 《鳥の塔》がこの終末の国の環境に適応させるべく造り出した、フラスコの中の小人。ナイフ一本で形あるもの全てを殺す、史上最強と謳われた血まみれの兵隊。
 そして、今はもう、この世にはいないらしい、三番目の花冠だ。
「『討伐者』は、噂に違わず、ナイフ一本だけを手にしてそこにいた。そして、気づいた時には、その場にいた全員が息の根を止められていたそうだ。我々の持てる、最大の武装をしていたにも関わらず、だ」
 改めて話を聞いていると、化け物としか思えない。一応、遺伝子的にはどこまでも人間だ、と今回の依頼人は言っていたけれど、正直本当かどうか怪しい。九割人間やめている隣のハゲですら、そんな人間離れした戦い方はできないのだから。
「だが、『討伐者』は、隊長だけを見逃してその場を去った」
「……ホリィ・ガーランドが? そんなこと、ありえるのか」
 シスルが、訝しげに無い眉を寄せる。その問いももっともだ。ホリィ・ガーランドといえば、業界の人間なら知らない奴はいない殺戮兵器だが、その実態はどこまでも謎に包まれている。何故なら、奴と相見えた奴は、ことごとく殺されているからだ。
 そう、今までに、生き残りなんて、一人もいないはずなのだ。
「私も、耳を疑った。それでも、確かに隊長は生きていた。生きては、いたんだ」
「だが、心は殺されていた、か」
 シスルは、溜息交じりに、ちらりと扉を見た。扉の向こう、家の奥では、今もまだ家族の写った写真をじっと見つめ続けているフランシス氏がいるだろう。
「助けられた時点では、まだ話もできた。だからこそ、ガーランドに出会った事実も知ることが出来た。しかし、隊長は見えないガーランドの影に怯え続け、やがて完全に我を失ってしまった」
 かくして、カリスマであったフランシス氏を失ったこの隔壁は、《鳥の塔》への抵抗を続けることもできず、さりとて塔に許しを請うこともできないまま、ゆるやかな滅びに向かっているのだという。
「隊長の家族も、ある時期を境に失踪してしまった」
「夜逃げか」
「そうともいう」
 かっこつけた言い方したところで、夜逃げは夜逃げじゃねえか。
 だが、そうなっちまったのも、わからなくもない。ただでさえ困窮を極めてるってのに、イカれた旦那を抱えて生きていくなんて、普通の神経じゃ耐え切れない。しかも、その旦那が《鳥の塔》への反逆者とくれば、塔の報復だってあるかもしれん。そりゃあ、逃げたくもなるってもんだ。
 シスルは、唇に指をつけ、何かを考えていたようだったが、やがて呟くように言った。
「……しかし、あなた方は、フランシス氏を見捨てないのだな。家族にすら見限られたというのに」
「心を失ってはいるが、今でも隊長は我々の希望であり、この町の象徴なのだ。《鳥の塔》に抵抗し、『討伐者』ホリィ・ガーランドと出会って唯一生き残った者として、我々に希望を与え続けている。
 それに、我々は今もなお、諦め切れていないのだ。再び、フランシス隊長が、我々の前に立ち、未来を示す夢を見続けている」
 そいつは、とんでもなく虫のいい夢想だ。シスルも、同じようなことを考えてるんだろう、無言でリーダーを見ていた。
 リーダーも、俺たちがどんな風にその言葉を受け止めたかは、理解しているんだろう。自嘲じみた微笑をくたびれた面に浮かべて、溜息と共に言葉を落とした。
「そんな馬鹿げた夢があるからこそ、我々は、まだ生きていられるのだ」
 
 
 フランシス氏の家を出た後も、俺たちは無言だった。
 別に、無言であることに意味はない、と思う。俺もシスルも無口とは言わないが、必要のない時には黙っていることも多い。だが、この沈黙を気まずいと思っている自分を自覚してもいる。
 ちらりと、横目でシスルを窺うも、野郎は唇を閉ざしたまま、うんともすんとも言わない。一体、その鋼の頭蓋骨の下では、何を考えてるんだろうか。俺が聞き取れるのは、あくまで言葉にならない音色だけ、誰の頭ん中も正しく理解はできないのだ。
 その時。
「隼、あれを」
 不意に耳に入ったシスルの声に、ふと、そちらを見れば。
 ちょうど、かの家の窓が開いていて、そこからフランシス氏の姿が見えた。あれだけ警戒しておきながら、随分と無用心な、と思っていたが、ふと、気づいた。
 フランシス氏は、黒い瞳で、確かにこちらを「見て」いた。
 息を飲み、つい、その場に立ち止まってフランシス氏を見据える。穏やかな微笑を湛えた奴さんは、胸元に手を当て、深く、頭を下げた。その手には、金色の鎖が握られているのが、見えた。
 伝わってくる音は、柔らかく澄み渡ったホルンのD。狂った奴には到底奏でることもできない、理性によって統制された音色だった。
 ――あれは、演技だったのか。
 仲間たちを欺き、俺の耳すら欺いてみせたかつての反逆者は、俺たちに向かって手を振っている。
 シスルは、そんなフランシス氏を見据えて、ぽつりと呟いた。
「結局、彼は、静かに生きていたかっただけ、ということかもな」
「ああ……そうだな」
 きっと、塔に逆らったのも、連中を率いたのも、全ては自分が望む平穏のため。だが、周囲は平穏に生きることを許しちゃくれなかった。今更、引き返すことも出来なかった。急き立てられるままに、平穏から遠く離れた場所を駆け抜けることしか出来なかった。
「おそらく、『討伐者』との対峙をきっかけに、彼は、やっと立ち止まることができたんだろうな。望んだ形では、なかったのだろうが」
 ふ、と。シスルは息をつく。その横顔からは、感情を読み取ることはできなかった。奏でられる、普段と何一つ変わらぬように感じられる、Cの音色からも。
「一体、ミスター・フランシスは、彼とどんな言葉を交わしたんだろうな」
 
 
 ――あれから、数日。
「お疲れ様でした、フジミさん」
 ごっつい装置で目を隠し、ふわりと口元だけで微笑むのは、外周治安維持部隊隊長ヒース・ガーランド。
 環境適応型人造人間、ガーランド・ファミリーの第四番にして、『討伐者』ホリィ・ガーランドの双子の弟。
 そして、今回の依頼主だ。
 俺は、報酬を貰うために外周治安維持部隊の詰め所に足を運んだ。そして、今、胡散臭さ数割増しの微笑みと向き合っているわけだ。
 シスルはついてこなかった。あいつは、このお巡りさんが嫌いで嫌いで仕方ない。人に対して「嫌い」という言葉をほとんど使わない奴らしくもないことだ。だが、あいつも何だかんだで人間なんだな、と変なところで安心もする。
 そして、俺も、ちょっとこの野郎を嫌いになりかけているのは認める。
 今回の依頼を通して得た情報をざっと話して聞かせると、ガーランドは興味を惹かれたのか、食いつくように身を乗り出していた。この野郎は、あの機械仕掛けの変人と同じくらい、もしくはそれ以上に、好奇心に殺されるタイプかもしれん。
 フランシス氏の状態、隔壁と《鳥の塔》の間にあったいざこざ、そしてホリィ・ガーランドとの対峙。一通りを話し終えたところで、満足げに頷くガーランドに向かって本題を切り出す。
「なあ、ガーランド隊長。ついでにいくつか聞かせてくれ」
「どうぞ、私に答えられることであれば」
「あのロケット、どこで手に入れたんだ」
「ホリィから預かっていたんですよ。いつか、持ち主が見つかったら、返して欲しいと」
 ホリィ・ガーランドが。
 あれを手に入れる機会といえば、間違いなくフランシス氏以外の連中が全滅した、首都付近での戦いだろう。その時に、フランシス氏はホリィ・ガーランドに生かされた。その代わりに、ロケットのついた首飾りを失っていた、ということか。
「どうして、ホリィ・ガーランドは、持ち主を生かしたんだ? ホリィ・ガーランドといえば、必殺の仕事人じゃなかったのかよ」
「どうしてでしょうね。私はホリィではありませんので、彼の感情を知ることは難しい。彼がいなくなってしまった今は、尚更」
 ガーランドはうっすらと無精髭の生えた顎をさする。つくりものじみた形をしていても、普通に髭は伸びるんだよな、と妙なところで感心していると、ガーランドはふと口元に笑みを浮かべ。
「ただ、ホリィも、人間ですから」
 まるで、俺の心をそのまま読み取ったかのようなタイミングに、ぞくりとする。口元は朗らかに笑っているのに、張り詰めた弦の響きが、俺を不安にさせる。
「どんなに優れた殺戮兵器でも、血の通った、涙を流す、人間ですから。きっと、フランシス氏の姿に、何か思うことでもあったのでしょう」
「思うこと……なあ」
 俺は、ホリィ・ガーランドを知らない。
 顔も、声も、きっと目の前の野郎と同じだろうし、噂だけならいくらでも聞くけれど。俺はホリィ・ガーランドという男に出会ったことがないし、そいつが、どんな音色を奏でるのかなんて、知るはずもない。
 だから、そいつが、戦場で一人残されたフランシス氏と、フランシス氏が大切にしていた家族の写真を目にして、何を思うのかなんて、わかるはずもない。
『一体、ミスター・フランシスは、彼とどんな言葉を交わしたんだろうな』
 ふと、そう呟いたシスルの声が、頭の中に蘇る。
 だが、それを俺が知ることはない。知ることに意味もない。きっと。
 だから、この話はここで終わりにする。考えないようにすれば、三日くらいで、頭ん中からもほとんど痕跡も残さずに消え去ってくれるだろう。
 ただ、一つだけ。どうしても、聞いておきたかったことを、聞いておくことにする。
「最後に。どうして、シスルを連れてけって言ったんだ?」
 どうしてもわからなかった、最後の問いかけに対し。
 ヒース・ガーランドはとびきりの笑みを浮かべ、人差し指を口元に寄せて。
「それは、秘密です」
 
 当初の予定通り、一発殴っておくことにした。

眼球 / Minor Third - The Multitude of Colors

 二三六五年二月某日
 
 
 俺は、頼まれた荷物を携え、巨大な屋敷の前に立った。
 荷物――小ぶりのトランクには、『取扱注意』などと書かれたステッカーが所狭しと貼られていて、妙に不気味だ。中身を詳細に確認していない以上、尚更だ。
 だが、目の前の屋敷も、ところどころ窓が破れ、壁のほとんどが黴とも何ともつかない黒いもので覆われている辺り、不気味さ、という意味ではいい勝負かもしれない。
 中で待ち構えているものがある程度予測つく分、この屋敷の方が、幾分マシだとは思っているが。
 門に取り付けられた呼び鈴を鳴らし、返答を待つ。すると、門の上にちょこんと乗せられていた、鳥の嘴みたいな変な形をしたスピーカーから『あー、ハヤトいらっしゃーい。鍵は開いてるから奥までどうぞ』という気の抜けた女の声が降ってきた。鍵開いてんのかよ、このご時勢に無用心にもほどがある、と思いかけてやめた。
 聞こえたわけじゃないが、無数の、刺さるような視線を感じたのだ。当たりをつけてそちらを見れば、ごくごく小さな写真機がじっとこちらを見つめていた。きっと、同じようなものがいくつも、屋敷の周りや中に設置されてんだろう。
 もし、少しでも怪しげな動きをすれば、どこかに隠された家主謹製の玩具が、情け容赦なく俺を切り刻んでくれるに違いない。そして、無残な姿になった俺を見下ろして、玩具が思い通りの働きをしたことを、無邪気に喜ぶんだろう。
 ウィン――《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスとは、そういう女だ。
 
 
 前に訪れた時よりも遥かに汚くなっている廊下を抜け、研究室に入る。用途不明のガラクタと、それを無理やり押し分けて作った片隅のスペースに置かれた大きな机と小さな椅子。その椅子に、白衣を纏った赤毛の女が、俺に背を向けて座っていた。
 ガラクタが圧倒的に増えていること以外は、前に来た時と、何も変わらないように見える。だが、言葉にならない明らかな違和感が、そこにあった。思わず眉を顰めてしまうが、振り向いたウィンはそれに気づかなかったのか、童顔にぱっと笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、ハヤト。何ヶ月ぶりかなあ」
「ほぼ一年ぶりだと思うけど」
「そっかあ、あたし、しばらく塔に篭りっきりだったもんねえ」
 唇に人差し指を当てて、とろんとした目を瞬かせる様子は、どう見ても二十歳そこそこの娘にしか見えない。だが、俺が物心ついたころから、この女は何一つ変わっていない。塔は、その頭脳をもてはやすより先に、こいつが老化に真っ向から逆らっている不思議を追究すべきなんじゃなかろうか。
 机の横に置かれた、無数のコードと細かな機械仕掛けの箱、妙な存在感を誇る球体で構成されたガラクタを何となく眺めながら言う。
「そっちは、塔の仕事はいいのか?」
「うん。最近、長期休暇貰っちゃったんだあ」
 いいでしょう、とばかりにウィンは胸を張る。大きな胸の上で、白と黒の鍵を模したペンダントが揺れていた。
「長期休暇って、上はいい顔しなかっただろ」
「うん、今抱えてるプロジェクトどうするんだ、って言われたから、ミシェルとハルトに押し付けちゃったあ」
 ハルトには悪いことしちゃったかなあ、とのたまうウィンだが、その顔に悪びれた様子は全くない。あと、軽く言ってくれるが、ミシェル・ロードとハルト・ガーランドといえば、それぞれ塔の研究者の二大勢力、環境改善班、環境適応班のトップだ。そんな偉い奴に仕事押し付けてのうのうと休暇を満喫しているとか、普通の神経じゃ到底無理だろう。
 正直、ミシェル・ロードに関しては「ざまあ見ろ」と言いたいところだが。
「でも、上の人が指示する仕事ばかりしてるのも、飽きちゃったから。たまには、好きなことを好きなだけやる時間が欲しかったんだよう」
「塔でも、好き勝手やってるくせによく言うぜ」
「ばれたか」
 てへ、と唇を出すウィンに、俺はただ、溜息を返すことしかできない。
 どんなに阿呆なことを言っていても、どんなにただのガキにしか見えなくても、目の前の女は、《鳥の塔》の最重要人物の一人。旧時代にも成しえなかった科学技術の発展を、たった一人で担っていると言ってもおかしくない、至高の「頭脳」だ。
 高度な人工知能の作成、超能力の仕組みの解明、大型食糧プラントの開発に、情報網の整備と拡張現実との融合。ちいさな枠組みに囚われることない、自由奔放な発想から生み出される新たな技術は、ただ終わり行くのを待つばかりと思われていたこの国にいくつもの希望をもたらしている。
 俺が今、こうして仕事をしていられるのだって、この女のおかげだ。
 だからこそ、こういう時には、逆らうこともできないのだが。
「で、でででっ! 例のものは持ってきてくれたかな?」
 椅子から跳び上がって、俺の目の前に顔を寄せるウィン。化粧っ気はないし、決して美女とも言えないが、小動物のような愛嬌のある大きな目が、こちらを覗き込んでくる。居心地の悪さに目を逸らしてしまいながらも、片手に持ったままだったトランクを押し付ける。
「ほらよ。扱いには気をつけろ、って人形屋の爺に散々言われたよ」
「うんうん、そうだろうねえ。ありがと、ハヤト」
 いいこいいこしてあげよう、と丸っこい手を伸ばしてきたのを思わず避ける。そりゃあこいつの頭ん中ではガキのままなのかもしれんが、現実にはもう二十代も後半だ。いつまでも子ども扱いされてちゃたまらない。だから、伸ばしてきた手に、代わりにポケットから取り出した契約書を握らせる。
「荷物の中身をご確認のうえ、書面へのサインと支払いをお願いします」
「はいはい」
 ウィンは苦笑して、トランクを開ける。中身は『ウィンの発明品の材料』としか聞かされておらず、一応詰め込むところは確認させてもらったが、新聞紙やら何やらで厳重に包まれていて、結局何なのかはわからないままだったのだ。
「あー、俺は、中身見ないほうがいいか?」
 念のため聞いてみたところ、ウィンは「どうして?」とばかりに首を傾げて言った。
「見てていいよ。隠すようなものでもないしねえ」
 一つの包みを持ち上げたウィンは、机の上で紐を解いて、紙を丁寧に剥がす。
 紙の中から現れたのは、口の広い硝子の瓶だった。中には液体が満たされているようで、そこに沈められているものを確認したところで、思わず、己の目を疑った。
「……それ、何だ?」
「見ての通りだよ。眼球。つくりものだけどね」
 それは、わかる。つくりものだってことは、わかる。それでも、聞かずにはいられなかったのだ。
 瓶の中に入っていたのは、紛れもなく人間の眼球だった。きっと、材質は硝子か何かだろうが、細い血管まできっちり再現されていて、今まさに人間の顔から抉り出したかのような不気味さを湛えている。
 だが、ウィンにとっては、こんなもの不気味でも何でもないんだろう。瓶を明かりに翳し、嬉しそうに歌っている。
「色々あるよ、あか、あお、みどり。あっ、この色も綺麗。ほらほら」
 嫌々、ウィンが指した方を見ると、瓶の中の眼球と目が合った。どこぞの新米『新聞記者』と同じ、紫苑の瞳をした、眼球と。
 一瞬頭の中に浮かびかかった、ぽっかりと穴の空いた目でこちらを振り向く幼馴染のイメージを追い払い、正直な感想を言葉にする。
「悪趣味だ」
「そうかなあ」
 ウィンは俺がどうしてそう思ったのかもわかっていないらしく、不思議そうに首を傾げている。
「で、こいつを何に使う気なんだ。あの変態爺よろしく、人形作りにでも目覚めたのか?」
「うん、大体そんな感じで間違ってないよ」
 ぺたぺたとスリッパを鳴らして、ウィンは部屋の真ん中に置かれている作業台に向かう。向かいながら、俺が聞いているかどうかなんて関係なく、話を続ける。
「この目は、元々等身大の人形に使う人工眼球なんだけど、これを少し弄くって、この子に取り付けたいんだあ」
 言って、ウィンは作業台の上にかかっていた布を外す。その上に横たわっているものを見て、俺は思わず「うえ」と嫌な声を上げてしまった。
 ――人間だ。
 作業台に横たわっていたのは、青白い肌を持つ人間だった。身体を覆うものは何もなく、体毛も、男の象徴も、女らしい凹凸もない身体を晒している。頭部は丸ごとくりぬかれていて、鋼の頭蓋骨の内側がいやに目に付く。頭蓋骨には、無数の針や金属の紐のようなものが仕掛けられていた。
 流石に、これも眼球と同じつくりものだってことくらいは、すぐにわかった。だが、皮膚の細かな皺や、手足の爪とその付け根まで人と変わらないのだから、その精緻さに舌を巻くと同時に、嫌なものを見てしまったと思わずにはいられない。
 どうしてかは上手く説明できないが、人と同じ形をしているものってのは、どうも好きになれそうにない。
 だから、その死体じみた人型のものから目を離し、ウィンを見る。ウィンは俺の不愉快な感情なんかさっぱり理解しちゃいねえんだろう、大きな胸を張って言う。
「よく出来てるでしょ? この子を造るために、わざわざお休み貰ったんだから」
「ああ、まあ、確かによく出来てんな。こいつ、動くのか?」
「それが、まだ動かないの」
 俺の問いに、ウィンは打って変わってしゅんと俯いてしまった。
「神経の接続が、なかなか上手く行かなくてね。でも、あと少しだと思うんだよ。それが成功すれば、この眼球も、きっと役に立ってくれるんだけど。ただ、そのためには一旦回路を切断して、別の領域から仮に……」
 いつの間にか、ウィンは眼球の浮かぶ瓶を撫で撫で、俺ではなく自分自身との会話を始めてしまった。この女にはよくあることなので、別段不思議でも何でもない。ただ、会話の相手がいきなりいなくなると、目の前に広がる光景の不気味さと、ずっと感じている違和感を意識せずにはいられない。
 背中がちりちりする、嫌な感覚。別に目に見えてさえいれば、もしくは「何も感じなければ」こうも意識する必要はないのだろうけれど。
 流石に、耐え切れなくなって、虚空と会話を続けていたウィンに向かって、声を上げる。
「さっきから、気になってんだが」
「ん? どしたん?」
「この部屋、誰か隠れてんじゃねえか」
 俺の言葉に、ウィンはただでさえ大きな目を、零れ落ちそうなくらい見開いた。
「どうして?」
「二人分聞こえんだよ。聞きなれねえ音だ」
 それが、違和感の正体だった。だが、最初は、それが「この部屋にいるだろうもう一人の音」であることも分析しきれずにいた。言葉を切って、黙って音の出所を探って、初めてここまでわかったのだ。
 確かな違和感を感じさせつつも、その音は、それこそ空調の立てる音や、風が窓を叩く音とそう変わらない自然さで、部屋の雰囲気に溶け込んでしまっていたから。普通、人が立てる音というのは、もっと主張が激しいものなんだが、この部屋に流れ続けている音は丁寧な息遣いで奏でられる、静かなCの音色。
 すると、ウィンは、すぐに声を上げて笑い出した。
「あはは、やっぱりハヤトは鋭いなあ。仕掛け、聞きたい? ねえ、聞きたい?」
 にやにやと笑顔を浮かべて、迫ってくるウィン。「聞きたい」と聞かれたら「聞きたくない」と答えたくなるのが人情ってもんだが……。
「このまま隠れて見られてるなんて、気色悪ぃからな。聞かせてくれ」
「別に隠れてなんていないんだよぅ。ずっと、ここにいるんだからね」
 ここ、と言われても。
 俺の視界に入るのは、用途のわからないガラクタと、強いて言えば作業台に横たわる人の形をしたつくりもの。だが、音の出所がそれでないことくらいは、わかる。目の前の人型細工は、死体と同じようにただそこに在るだけの「もの」に過ぎない。
 ただ、いくら耳を澄ませても、音がどこから聞こえているのかは、さっぱりわからないのだ。隠れていない、というウィンの言葉も引っかかる。思わず眉を顰めてしまうと、ウィンはこつこつと、俺のすぐ側に置かれていた装置を指先で叩いた。
 機械の箱が繋がれた、鋼の球体。ガラクタの中でも、妙な存在感があると思ったそれに意識を向ければ、確かに、音が聞こえてくる。柔らかく広がる、Cの音が。
 唇と喉が渇く。握った手に冷たい汗が滲む。こんな感覚は、初めてだった。人の形をしていないものから、音色が聞こえてくる、なんて。
 視覚と聴覚の決定的な齟齬に混乱しながらも、かろうじて、問いを投げかける。
「――それ、何だ?」
「人間の中身。もちろん、生きてるよ」
 今は眠ってるみたいだけどねえ、と、球体に繋がった積層モニタに浮かぶ波線を眺めながら、ウィンはうっとりと微笑む。
 なるほど、寝てるから静かなのか、ってそういう問題じゃない。両腕で抱えられる程度の大きさの球体の中身を、見通すことはできない。だが、そこに詰まっている、皺のよった肉の塊を否応なく想像して吐き気を催す。
 中身。そう、中身だ。俺が音を聞き取れるということは、そいつは人並みに思考と感情を持つ中身に違いない。
「こいつ、何者なんだ?」
「えへへ、それはハヤトにも秘密ぅー」
「中身って、身体はどうしたんだよ」
「なくなっちゃったの。ばーんってやられて、ばらばらになっちゃったんだよ」
 簡単に言ってくれるが、普通はそれで即死だろう。ウィンは両手を広げて、「ばーん」と「ばらばら」の様子をわざわざ丁寧なジェスチャーで伝えてくれながら、やがてその片手を頭に持っていった。
「でも、奇跡的に脳は無傷だったから、ちょうどいいやって、実験に使わせてもらうことにしたの」
 このアマ、ちょうどいいや、って言いやがったぞ。あまりにあんまりな物言いだが、塔の研究員ってのは大抵こんなもんだ。俺のお得意様なんかよりは、ウィンの子供じみた感覚の方がまだマシだと思っちまう辺り、俺も相当塔の連中の倫理観に毒されちまっているのかもしれない。
 ウィンはにこにこ笑って、軽く球形の装置を指先でつつき、その指をそのまま、真っ白な人型細工に向けた。
「この子をね、こっちの子に移植するんだよ」
 なるほど、だから頭蓋骨が開いてたのか。この球体の中身を、あの金属製の頭ん中に移し変えるのだろう。ただ、四肢を機械仕掛けにした奴の話は知ってるが、脳味噌以外全てを機械で代用する「全身義体」ってやつは塔の上層にたむろするエリートどもでも、未だ実用段階には持ち込めていないはずだ。
 それを、この《赤き天才》は、たった一人で実現させようとしている。
 そして、きっと実現させちまうだろう、という妙な確信がある。この女は、いつだってそうだった。今にも眠っちまいそうな目つきで夢物語を語れば、その翌日には夢だったはずのそれを、現実にしちまう。
 だから、この不気味な人形細工が動き出すのも、そう遠い話じゃないんだろう。
 ――しかし。
「無断で実験に使われるそいつは、たまったもんじゃねえだろうな」
 頭ん中を勝手に持ち出されて、変な女に脳味噌弄繰り回された挙句、自分のものではないつくりものの身体にぶち込まれる。俺なら、いっそ一思いに殺してほしいと思うだろう。そうまでして、生きていたい理由も特に無い。
 だが、ウィンはきょとんと首を傾げて、とんでもないことを言い出した。
「無断じゃなくて、きちんと許可は取ったよ。今も話し合いしながら進めてるし」
「……そいつ、意識、あんのか?」
「もちろん。ちょっと話してみる? ちょうど、お目覚めの時間だし」
 ウィンの言葉に反応したのか、それとも偶然か、積層モニタに描かれていた破線が微かに乱れ、今までよりも大きな波を描き始めた。それと同時に、俺の頭の中に響いていた音も、少しだけ音量を増した。静かなダブルリードの音色は、そのままに。
 ウィンは、球体に顔を近づけて、「おはよう」と声をかける。
「気分はどう?」
『おはよう。気分はすこぶる良好』
 装置に取り付けられたスピーカーから、ノイズ交じりの声がした。声変わり前の子供のような音程の、けれど、妙に落ち着き払った声が。
『誰かそこにいる?』
 どういう仕組みかはわからないが、この装置の中に詰まっている脳味噌は、ウィンの声をはじめとした、周囲の音を把握することができるらしい。ウィンは、ちいさな子供に語りかけるような、優しい声で言う。
「お客さんがいるの。お友達のフジミ・ハヤトくん」
『私は、喋ってよかった?』
「いいよ。ハヤトは、ここで見聞きしたことを言いふらすような子じゃないから」
「随分信用されてんだな、俺は」
 だが、ウィンの言葉はある意味では正しい。俺はきっと、今日ここで見聞きしたことを誰に語ることもないだろう。きっと、三日もすれば、曖昧な記憶になっちまっているだろうから。
 俺自身に何ら関係のないことを、わざわざ覚えておく理由もない。そういうことだ。
 俺は、恐る恐る装置を覗き込む。装置から俺の姿は見えていないのか、一拍の後に装置のスピーカーが声を放った。
『はじめまして。ミスター・フジミ、でいいのかな』
「ミスター、なんてこそばゆいからやめてくれ。『運送屋』の藤見隼だ、隼でいい」
『どういう字を書く?』
「苗字は花の『藤』に、見る、の『見』。名前はハヤブサとも読む『隼』で一文字」
『隼、空高く飛ぶ鳥の名前。素敵な名前だ』
 素敵、なんて言われると体中が痒くなってくるから、正直やめてほしい。こいつ、見かけからしておかしいが、脳味噌の中身も相当変わった構造をしているんじゃなかろうか。
 これ以上、一方的にこっちの話をしてやる義理もないので、とっとと問い返す。
「お前は?」
『昔の名前と肩書きは、体と一緒に置いてきた。だから、今は誰とも言えないな』
 妙に芝居がかった口調と言葉の選び方に、こそばゆさと同時に苛立ちすら湧いてくる。気障な野郎は好きじゃない。反射的に装置をはたきそうになって、なんとか堪える。相手は脳味噌だけでかろうじて生きてる半死人だ。これが原因で死なれたら、ちょいと寝覚めが悪い。
 俺のこの寛大な心に気づいてもいないであろう脳味噌野郎は、少しだけ間を置いて、ぽつりと言った。
『ただ、呼び名という話なら、ウィンは私のことを「シスル」と呼ぶ』
「……シスル?」
 耳慣れない単語だ。シスル、と名乗った相手もそれは承知しているのか、すぐに言葉を付け加えた。
『綴りはT-H-I-S-T-L-E。刺のある花の名前』
 旧時代の植物か。なら、知らなくて当然だ。旧時代の植物を実際に目にすることなんて、一般人では皆無に等しい。ただ、かつての緑溢れる時代に思いを馳せる連中が、子供に花の名前をつけることは少なくない。
 まあ、ウィンがそんなノスタルジーを持ち合わせているとは、到底思えなかったが。
 そのウィンが、眼球の入った瓶を人形の横に置いて、歌うように言う。
「シスル、今日はハヤトに、君の新しい目を持ってきてもらったんだよ。シスルは何色が好きかな?」
 シスルは、少しだけ間を置いて、それから言った。
『少しだけ、考えさせてくれるかな』
「もちろん、構わないよ。あ、ちょっと待ってて。折角起きたんだし、今のうちに、次の実験の準備しちゃうね」
 俺がここにいることを、この女は本気で忘れてるんじゃなかろうか。眼球の瓶を置いたまま、ぱたぱたとスリッパを鳴らして、隣の部屋に消えていってしまった。ぽつんと、喋る脳味噌の前に取り残された俺は、どうしていいかわからずただ呆然としていたが、ふと、シスルが完璧な発音で俺の名前を呼んだ。
『隼』
「あ?」
『すまない、驚かせてしまったよな』
「ああ。いろんな連中を見てきたが、脳味噌だけで喋ってる奴は初めて見たよ」
 多分、これから先もお目にかかることはないだろう。お目にかからないほうが、俺の精神衛生上いいに決まっている。
「ほんと、物好きな奴だな。そんなになってまで、生きたいって思うのかね。俺にはさっぱり理解できねえや」
『私にも、正直、よくわからない』
 シスルは、あくまで静かな音色を奏でたまま、言った。
『何もかもを失って、そうまでして生きる理由があるのかと問われたら、上手く答えられる気がしない。ただ、何もかもを失っても、「生きたい」って思いだけは残ってたから。その思いは、大切にしたいと思ってる』
「……そういうもんか」
 生きたい。それは、脳味噌一つになっても、生きた音色を奏でる力を残すくらいの、強い望みだったに違いない。ただ、こいつの奏でる音色は、そんな貪欲で強烈な思いとは裏腹に、どこまでも静かだった。
『だから、ウィンには感謝してるんだ。あの人は、私の声を聞き届けてくれた。私の望みを魔法のように叶えてくれて、新しい生き方まで用意してくれようとしている』
「あの女は魔法使いだからな。不可能なんか、何一つねえよ」
 もちろん、魔法使いってのは比喩だ。《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスは、《大人災》を起こしたバロック・スターゲイザーのような、本物の魔法使いじゃない。それでも、何もかもをぶち壊すことしかできないスターゲイザーと正反対に、ウィンは『創り出す』ことにかけて、まさしく魔法のような腕を見せる。
 鼻歌交じりに突拍子もない発明品を創り出し、失われたものをそれまで以上の形で創り出し、そして、俺やこいつの未来を創り出す。ウィニフレッド・ビアスってのは、そういう女だ。
 はは、と小さくシスルは笑って、それから、少しだけ声を落として言った。
『けれど、魔法使いは、自分自身に魔法をかけることはできないものさ』
 その言葉を聞いた途端、心臓の鼓動が跳ね上がった。何故か、触れてはいけないものに、触れちまったような錯覚を覚えた。
 この脳味噌野郎の言うとおり、ウィンは、奴自身のためにものを創り出すことはない。ウィンの才能は、他の誰を救っても、自分自身を救うことはない。奴がそういう女だということは、それこそ、物心ついた頃から知っている。
 それだけ、俺は奴の背中を、見つめ続けていたのだから。
『……私は、どれだけ、ウィンに報いることができるかな』
 ――俺は、どれだけ、ウィンに報いることができるだろう。
 手袋を嵌めた手を、握って、開く。この手で、この指先で。果たして、塔を降りたあの日から、俺はウィンに何をしてきただろう。ウィンがここにいる間、どれだけのことができるというのだろう。
 そんな思考の泥沼に陥りかけて、すぐに思考を閉ざした。結局、俺がウィンのために出来ることは、ウィンの要請に応えることだけだ。
 だから、きっと、こいつも同じ。
「生きてさえいりゃ、それで十分かもしれねえけどな」
『どういうことだ?』
「ウィンは、お前を生かした。それはお前の望みだったのかもしれんが、何よりもウィンがお前に生きることを望んだ。だから、お前は生きればいい。胸を張って、ただ、生きるために生きればいい」
『そういうもの、なのか?』
「俺は、ウィンにそう言われたからな。だから生きてる。報いたいなら、そのついで程度に考えとけばいいんじゃねえか」
 シスルは、呆気に取られたようだった。流石に、ウィンがそういう奴だってことまでは、まだ、わかってなかったのかもしれない。俺だって、あの変人と二十年付き合ってて未だ理解できてねえんだ、そうそう簡単に理解されてたまるか。
 しばしの沈黙が流れ。
『そうか』
 不意に、シスルは言った。
『私は、生きていて、いいんだな』
 初めて、その時、音が変わった。音色の中に、波が生まれた。圧倒的な音のうねりに、息を飲む。これほど強い音色を、静かな息遣いの中に隠し持っていたのか。それでいて、決して、音は割れることなく、僅かなノイズを生むこともなく響き渡る。
 そのうねりは、一瞬だった。本当に一瞬だったけれど、耳の奥にはまだ、二枚のリードの響きが残っていた。
 内心の動揺を隠すように、作業台に置き去りにされた眼球の瓶に視線を逸らす。こちらを見られているような感覚を何とか無視して、話を切り替える。
「で、お前、結局何色にするつもりなんだ? 目玉」
『どうしようかな。どんな色が似合うのかも、わからないからね』
「赤、青、緑に紫もあるけど。元々は何色だったんだ?」
『さあ、何色だっただろうね?』
 愉快そうにシスルが言ったところで、ウィンが何やら奇妙なコードや装置を抱えて隣の部屋から戻ってきた。これ以上長居しても、実験の邪魔になるだけだろう。とっととお暇することにする。
 渋るウィンに無理やり書類にサインさせると、ウィンは珍しく真面目な顔で、俺の手を握りしめてきた。ウィン自身が開発した手袋は、俺の触覚に正しく人の温度を伝えてくれる。
 ウィンがまだ、人間の温度でそこにいることを、伝えてくれる。
「だいじょぶだと思うけど、シスルのことは、言いふらしたりしないでね」
「もちろん」
 この脳味噌野郎は、俺に強烈な印象と音色を残しこそしたし、僅かな連帯感もあったが、それ以上でも、それ以下でもない。きっと、数日もすれば記憶は薄れてゆくはずだ。いつもの通りに。
『またな、隼』
「次があるかは、わからんけどな」
 ウィンに呼ばれない限り、俺はこの館を訪れることはないだろう。だから、この奇怪な野郎と再び出会うことも、そうそう考えられない。
 だから、奴が何色の目玉を選んだのか、その答えを知ることもない。
 ――まあ、野郎の目の色なんざ、興味もないんだが。

人間 / Major Third - The End of His Journey

 二三六七年十一月某日
 
 
「ナマモノは、運ばないんじゃなかったのか?」
 ハゲでグラサンの『何でも屋』シスルが放った問いに、俺は奥歯の方から湧き出すような苦みを噛み締めながら、こう言うことしかできなかった。
「……塔の依頼じゃ、断れねえんだよ」
「難儀なもんだな」
 こいつらしい、軽い言葉。だが、その奥に篭められた感情は、微かに響きの変わった音色を聞くまでもなく、容易に推測できる。
 機械仕掛けの顔は、自由に感情を表現するには不器用で、故に愛想の無い奴だと思われがちのシスルだが、実のところ人一倍感情豊かなことは、少しでもこいつと付き合えばすぐにわかることだ。
 だから、こいつが愉快に思っていないことくらいは、すぐにわかってしまう。
 それでも、仕事に対しては生真面目なこいつだから、その感情を露骨に表に出すことはなく、仕事道具の入った鞄を持ち上げて、口の端を歪める。
「ま、私は、アンタから金を貰ってる身だからな。その分の働きをするだけだ」
 そんなこいつに、どう言葉をかけるべきだったのか、わからないまま。
 俺は、今回の「荷物」が来るのを待つことしかできなかった。
 
 
 深い、深い、感嘆の溜息が聞こえてきた。
 思わずバックミラーでそちらを見ると、今回の「荷物」が窓に張り付いて外の風景を見ていた。俺にとっちゃ見飽きた、果てなく広がる荒野を。
 今回の荷物――塔の元研究員だというそいつは、俺よりも五つは上に見えたが、純粋培養の塔の人間らしく、血色のいい、染み一つない肌をした野郎だった。全く、俺はどうも運がない。研究員にだっていい女はいるはずなんだが、お得意様を含め、俺の仕事に絡むのはいつだって野郎ばかりだ。つまらん。
 つまらんが、荷物の機嫌を取るのも『運送屋』である俺の仕事だ。嫌々ながらも、後部座席に向かって問いを投げかける。
「どうした?」
「あ、ああ……いや、町の外に出るのは初めてでね。つい」
「塔のお偉さんは誰でもそう言うよな。つまらねえ景色だろ」
「とんでもない! スターゲイザーの爪痕がそのまま残る大地は、隔壁にいては決して知ることはできないからね!」
 鼻息荒く、男は身を乗り出す。「危ないから立つな」と釘を刺して、バックミラー越しの視線を、もう一人の同乗者に投げる。
 研究員と並ぶように後部座席に収まったシスルは、乗り込むときに男と簡単な挨拶を交わしただけで、それきりマネキン人形さながら微動だにしない。求められない限り、喋らないつもりだろう。普段は陽気で飄々とした野郎だが、いざ「仕事」となればいくらでも自分を殺せるのも、こいつの特徴だ。
 そうでなくとも、こいつも俺と同じく今回の仕事には乗り気でなかったから、テンションが下がるのも当然かもしれん。
 そんな重苦しい空気も読めないのか、男だけは目をきらきら輝かせながら、シスルに向き直る。
「それに、《赤き天才》の最後の作品である君に会えたのも嬉しいよ。塔では未だに、ここまで精巧な義体は造られていないから」
 シスルの肉体は、脳味噌を除いたほぼ全てが機械仕掛けだというが、その身体の製法は謎に包まれている。というより、製法を唯一知っている奴が、忽然と消えてしまったのだ。
 《鳥の塔》随一の頭脳を持つ《赤き天才》――ウィニフレッド・ビアス。
 俺もよく知っているあの奇人は、塔の研究員が何人も額を突き合わせて完成させることのできなかった全身義体を鼻歌交じりに造り上げ、それを、素性もろくにわからない野郎にぽんと与えちまったのだ。
 ――それが、今、「シスル」という名で呼ばれているこのハゲだ。
 こいつ自身、自分の身体がどう造られて、どうして動いているのかなんて全く知らない。ただ、こいつにとっては、これが唯一の「身体」であることに変わりない。その心臓すらつくりものであったとしても、こいつはどこまでも「人間」であり、生きた音を立てている。
 シスルは、重たそうに髪一つ生えてない頭をあげて、男と視線を合わせた、のだと思う。奴の視線は常に分厚いミラーシェードの下で、目の動きを追うことはできなかったから。
「随分塔でも有名なようだな、私は」
「そりゃあそうさ。是非塔に来てもらいたい、と誰もが言っているよ。けれど、君は一度その誘いを断っているそうだね」
「生きたままバラされて、虫の息のところを偶然ウィンに助けられた身なのでね。二度とそんな思いはしたくない、と思うのは当然だろ」
 さらりとのたまうが、そいつが常軌を逸した、凄惨な出来事だったということくらいは容易に想像できる。そして、言外に「塔に行けば同じ思いをする」と告げたシスルの言葉を聞いて、男は息を飲み、やがてぽつりと呟いた。
「……当然、か。君は正しいよ、シスルくん」
 俯いた男の奏でる音色が、微かに軋む。
「僕は、どうやら人としての『当然』すらも、忘れてしまっていたようでね」
 シスルは表情を殺したまま、返事をしなかった。それを話を促す無言と受け取ったのか、男は俯いたまま、低い声で言葉を吐き出し続ける。
「塔の中では、日々、色々な実験が行われていて、その中には、塔の外で行えば犯罪となることだってたくさんある。
 例えば、君たちは、ガーランド・ファミリーを知っているだろうか。この国の環境に適応すべく、遺伝子操作で造り出された強化人間のことだが」
 相変わらずシスルは沈黙したままだから、代わりに俺が「まあ、一応」と答えるしかなかった。
 ガーランド、といってまず思い浮かべるのは、外周治安維持部隊の隊長様、ヒース・ガーランドだろう。穏やかな物腰で人好きのする優男だが、腐敗した部隊を一年足らずで立て直した有能な指揮官だと聞く。
 そいつこそが、《鳥の塔》産人造人間、ガーランド・ファミリーの四番目だった、はずだ。
「この国の未来のため、という大義名分を掲げ、人の手で人を造ることも厭わない。そうして造った人間相手に、自分には到底耐えられない、過酷な実験を強いることも厭わない。僕ら、そして彼ら被検体には、先ほどシスルくんの言った『当然』など存在しない。ただただ、実験を繰り返し、データを採取する日々が続くのさ」
 過酷な実験、という言葉一つでは、到底内容の想像なんざ及ぶはずもない。上層のインテリとはかけ離れた生活をしてる、俺みたいな奴には、尚更。
 それとも、シスルにはわかるんだろうか。野郎と同じように、俺の知らない世界からやってきた、こいつには。そんなことを考えながら様子を伺っても、ぴくりとも動きやがらない。もしかして、聞き飽きて寝てんじゃなかろうか。ミラーシェードの下の目は誰にも窺えないから、十分にありえる話だ。
 その間にも、男のご高説は続く。
「実験の対象はガーランドの子供たちだけじゃない、生まれながらに、超常的な力を持つ者たちにも及んでいる。
 大きな声では言えないが、塔ではそのような『力持つ子供たち』を秘密裏に集めている。彼らは一様に、現在の塔では解析できない能力を持っていて、その能力の正体を探り、利用することができないかという研究が進められている」
「それも、この国の未来のために、か」
 からかい混じりに言ってやると、男の、血を吐くような言葉が返ってきた。
「ああ、そういうことだよ……」
 バックミラー越しに見る男は、背中を丸めて頭を抱えていた。
 だが、その程度のことなんざ、聞かされたところで吃驚はしない。あの真っ白な塔が、真っ黒なもんを抱えてるのは、裾の町では常識だ。当事者ならば思うこともあるのかもしれんが、正直、俺にとっちゃ興味の対象外、右から左へ抜けていく知識でしかない。
 だって、俺には何も関係ない。塔の中にいるらしい俺の知らない誰かのことも、こいつが抱えているものも。俺が藤見隼として生きて、この仕事を続けていくために必要なものではありえない。
 俺が今ここですべきは、ただ、聞くだけ。頭にも残らない話を、荷物が満足するまで聞き届けるだけだ。
「悲鳴が、耳の奥で聞こえてるんだ。今も、塔からこんなに離れたのに。あの子達の声が聞こえるんだよ。『帰りたい』、『助けて』、『どうしてこんなことをするのか』ってね。
 だけど、その頃の僕には、聞こえているのに、意識に入らなかった。不思議だよ、今はこんなにも苦しいのに、あの頃は何も感じなかった。それどころか、単なる雑音だとしか思えなかった」
 雑音。鼓膜を震わせ続けるノイズ。
 そう、ここに響き続けている音も、声も。ただのノイズでしかない。虫の翅が震える音に似た、不愉快なノイズ。
 ――だが。
「だけど、そんな中で、唯一、僕にも聞こえる声があったんだ」
 刹那、重たく震えていた翅の音が、止まる。
「あの子は、他の子達と何も変わらない被検体だった。助けを求める子達と同じ実験を受け、常に生と死の狭間を漂っていた。なのに、被検体と研究員を隔てる分厚い硝子の壁越しに、僕に笑いかけてくるんだ」
「そりゃあ、既に壊れちまってたんじゃねえのか?」
「違う、あの子はどこまでも正気だった。どうして、故郷から連れ出されたのか。どうして、実験を繰り返されなければならないのか。どうして、塔から出ることも許されないのか。その全てを理解した上で、なお、笑っていたんだ。それどころか、僕にねぎらいの言葉を投げかけすらしてくれた」
 それは、本当に正気だったのか。
 俺にはわからない。こんな野郎の言葉だけで判断できることでもないし、判断すべきでもない。徐々に熱を帯びていく言葉を聞く限り、話の中の子供だけじゃない、こいつ自身の正気すらも疑わしくなってくる。
「あの子はいつだって笑っていて、故郷に待つ家族の話をしてくれた。自分がここにいれば、家族を助けてあげられる。それに、もしかしたら、それ以上のものも助けられるかもしれない。それはとても素敵なことだ……。
 そう言って真っ直ぐに、僕を見ていたんだ。とっくに身体は壊れかけてたのに、目には強い光が宿っていて」
 ゆっくりと、顔を上げた男の唇が、動く。
「あれは、確かに『覚悟』だった」
 無意識に唇を噛んで、我に返る。
 俺としたことが、この野郎の話に聞き入っちまっていたことに、気づかされる。
「それに気づいた瞬間、僕は何をしているんだろう、と思ってしまったんだ。僕がしていること、塔に囚われたあの子達にしていること、何もかもがおかしい気がして。それからは、仕事も全然手につかなくなって、周りからも変な目を向けられるようになった。
 だけど、おかしいのは僕なのだろうか。それとも周りなのだろうか。
 それすらもわからないまま、それでも僕は塔にいた。ぐるぐると、堂々巡りする思いだけを抱えて、ただ、笑い続けるあの子を見ていた。あの子が、僕に答えを与えてくれるんじゃないか、そんなすがるような思いがあった」
 そこで、研究員は一旦言葉を切った。ぼんやりと、ぽっかり開いた深い穴のような目つきで、虚空を見上げて。
「けれど、あの子は死んだ」
 殺されたんだ、と。そいつは言った。
「あの子は突然、僕ら研究員に逆らって、塔から脱走しようとしたのだという。僕は信じられなかった。あんなに強い覚悟を抱いていた子が、今更その言葉を覆すなんて、思いもしなかった。けれど、確かにあの子は死んで、僕は拠り所を失ってしまった。
 僕はたった一人、取り残された思いだった。
 ただ、もう、塔にはいられないということだけは、わかった。塔を下りて、遠くへ、誰も僕を知らない場所へ行きたかった」
 それからのことは、君たちが知っている通りだと、男は言う。
 男の「塔を下りる」という願いは上層に聞き届けられ、俺たちが依頼を受けて、男を隔壁の外まで運ぶことになった。言ってしまえば、それだけの話だ。
 俺にとっては、どこまでも、それだけの話だ。
「でも、これでよいのかと、今でも思っている」
 男は、指先を強く組んだまま、誰に向けたものかも定かではない言葉を紡ぎ続ける。
「僕はただ、逃げただけだ。あの子と同じ境遇の子供たちを置いたまま、周りを変えることもできないまま。今でも子供たちは、生きることも死ぬこともできずに、塔の中にいる。彼らを助けることはできなかったのか、少しでも変えることはできなかったのか……」
 その時。
「気づけただけ、よかったと思うがな」
 沈黙を決め込んでいたシスルが、突然、口を開いた。
 俺には、シスルが何故こんな余計なことを言うのか、どうにも理解できなかった。だが、何も知らない男は、痛みを堪えるように引きつった顔で笑う。
「はは、そういうものかな」
「私の感覚が、どこまで一般的と言えるかはわからないが」
 そう付け加えたシスルは、口の端を少しだけ歪めて男に向き直る。
「アンタが言ってた娘だって、助けを望んでいたわけじゃないんだろう? それでも、アンタに笑いかけてたのは、アンタに『気づいて』もらいたかったんだろうさ。自分がここにいるということに気づいて、理解して、記憶してもらいたかったんだろうさ。きっとな」
 男は、目を丸くしてシスルを見つめ、それから、今にも泣き出しそうな顔をして小さく頭を下げた。
「……ありがとう、シスルくん」
 ――らしくねえよ、シスル。
 飛び出しかけた言葉を、俺は無理やり喉の奥に押し込んだ。礼の言葉を投げかけられたシスルが、珍しく「やってしまった」とばかりに小さく舌打ちしたからだ。
 もちろん、そんな奴の反応にも、男は気づいちゃいない。
 なんてハッピーな奴なんだ。
 ハッピーな奴だからこそ、塔は、俺にこの仕事を任せたんだろう。本当に、腹が真っ黒にもほどがある。自分たちでどうにかしてくれよ、とも思うが、普段から黒い飯の種を貰っている立場じゃ、強くものを言えるはずもない。
 だから、今の俺に出来ることは、
「全く、嫌な仕事だな」
 腹の底に溜まった思いを、虚空に向けて吐き出すくらいだ。
 
 
 翌日。一夜を過ごした隔壁を発って、数時間。
 荒野の向こうに、切り立った崖が見えてきた。鋸の刃のようにぎざぎざとした断面を晒す名も無い崖は、隔壁間を移動する『運送屋』にとっては現在地を示す目印として機能していた。
 そんな崖を眺めていた男が、口を開く。
「きっと、あの子はこの向こうからやってきたんだな……」
 塔を下りても、結局、こいつの意識は塔に置かれてるんだろう。塔に囚われたままの子供たちと一緒に。
 すると、相変わらず言葉少なだったシスルが、男に問うた。
「もう少し、近くで見てみるか?」
「いいのか?」
「別に、急ぐ旅でもなし、少しくらい構わないだろ」
 バックミラー越しに、シスルに視線を投げる。シスルは、小さな頷きで言葉の無い問いに応えた。
 本来なら、この崖を迂回して、その先を目指す予定だった。ただ、頃合いといえば頃合いなのかもしれん。どうあれ、判断はシスルに任せるしかない。俺の仕事はあくまで運ぶことだけ、そこから先は、奴の領分だ。
 ペダルを踏んで、加速。舞い上がる砂埃の向こうに、崖が近づいてくる。好奇心から来る緊張に高鳴る翅の音と、全く別の意味の緊張に張り詰める薄板の音色が、響く。
「この辺で降ろしてくれ、隼」
「ああ」
 言われなくとも、既に減速を始めていた。分厚い影を落とす崖の足下で、車を停止させる。扉の鍵を外して振り向けば、シスルが口元を微かに歪めてみせた。
 悪いと、思っていないわけじゃない。
 とはいえ、こんな面倒な仕事を頼めるのも、こいつくらいだ。
 男を促し、シスルが車を降りる。何かを語らいながら遠ざかる二つの背中を見るともなしに見ながら、煙草に火をつける。荷物がいると、煙草もろくに吸えやしない。だからナマモノを運ぶのは嫌なんだ。
 でも、もう、これ以上気を使う理由もない。
 シスルと男の姿が、大きな岩の向こうに消えたのを確認して、目を閉じる。それで、目を開けたときには全てが終わっている……ならいいんだが、その間も、見えなくなった二人の姿を、無意識に耳が追いかけちまう。
 奴らの会話が聞こえてくるわけじゃない。俺の耳が捉えるのは、そいつが固有に持つ音、単なるノイズのようなものだけ。だから、奴らが俺の視界外で何をしているのかなんて、俺がわかるはずもない。
 それでも。
 乾いた空気を伝わる、三発の銃声と。
 片方の音色が途切れる瞬間くらいは、聞き分けられる。
 それにしても、塔も悪趣味な依頼をするもんだ。
 
 首都の――《鳥の塔》の目の届かないところまで運んで、殺してくれ、だなんて。
 
 どうして、塔が俺にそんな依頼をしたのかは、知ったことじゃない。
 ただ……あの男を塔から下ろすことで、余計なことまで外に知られることを恐れるのは、当然だったのかもしれない。
 あの野郎は、お喋りにすぎた。聞いているこっちまで、逆に野郎を心配したくなるくらいには。あんな奴を外に放り出すことは、塔としても見過ごせなかったのだろう。
 だからといって、己の仕事に疑問を持って、まともに働けなくなっちまった奴を、塔に残しておく理由もない。そして、塔から下りたはずの奴が、塔の足下で死なれるより、塔の目も手も届かない場所で死んでくれた方が都合がいい。
 結局、俺に依頼が回ってきたのは、単純に俺の手が空いていたからだろう。
 ……そう、思うことにする。
 砂を踏む足音が近づいてきたのに気づいて、目を開ける。冷たい風に黒い衣を揺らすそいつは、骸骨みたいに青白い頭をしていて、まるで死神だった。いや、今回ばかりは「まさに死神だ」と言うべきか。
 そうして帰ってきた死神――シスルに、表情はなかった。
 男の命を絶った銃は、既に外套の下にしまわれていた。かろうじて嗅ぎ取れる硝煙を漂わせ、何事も無かったかのように、助手席に乗り込んでくる。
 ただ、青白い顔に浮かぶ表情が薄いのはいつものことだが、纏う音色は、明らかに普段のものとは違った。張り詰めた、激しく震えるリードの音色。
 何かがおかしい。人殺しの仕事なんて、何度だってこなしているこいつだ。俺の目の前で数人の男の首を切り裂いた時は、平然とした様子でナイフの血を拭いていたはずじゃないか。
 背筋に冷たいものが流れるのを感じながら、乾いた喉を何とか動かす。
「おい、シスル――」
「隼」
 凛、と。
 鼓膜を震わすノイズすらも貫いて、真っ直ぐ届いた声に、俺は言葉を飲み込んだ。
 前を向き、俺に真っ白な横顔を晒すシスルは、いつになく強張った声で言った。
「できれば、二度とこんな仕事はしたくないな」
 俺にわかるのは、どこまでも音色だけだ。音色はあくまで「音」でしかなくて、意味のある言葉を伴った「声」ではない。だから、シスルが何を思って、その言葉を吐き出したのかを正しく理解することなんざできやしない。
 この車を出て、あの研究員が死ぬまでの間に、あの二人の間にどんなやり取りがあったのかだって、当然、わかるはずもない。
 だが……。
「ああ。悪かった」
 答える俺の耳には、なおも強く、強く、壊れそうな音色が響き続ける。
 それは、俺が初めて聞く、奴の心からの「弱音」だった。

弔花 / Perfect Fourth - Requiescat in Pace

 二三七〇年一月某日
 
 
「邪魔なんだけど」
 俺は、窓から身を乗り出して、決して広くない道を占領する巨大な黒蟻に向かって言った。蟻は、びくっと人間じみた反応をして、それからこちらに無機質な視線をよこした。
「すみません、すぐに移動します」
「頼む」
 蟻――もとい最新型自律式六脚戦車のアンソニーは、長い脚を器用に動かして、道路の片側を空けた。いつ見ても、機械仕掛けだというのに、妙に滑らかで不気味な動きだ。同じ機械仕掛けのどこぞの誰かさんとは、形が全く違うだけに、不気味さの質も違う。つまり、どっちもどっち、ということだが。
 しかし、街中の、しかも外周の道端にこの最新兵器様がいらっしゃるのは珍しい。アンソニーを街で見かけるのは、それこそ戦闘が起こっている現場か、もしくは工事現場くらいだったから。
 それとも、今からここが戦場になるとでも言うのだろうか。仕事があるんだから、勘弁して欲しい。この、塔の技術を結集させた気色悪い戦車には、建物一つを軽く吹き飛ばす程度の火力はあるらしいから、下手にうろうろすれば俺も愛車も一撃で粉砕されかねん。
 そんな俺の懸念を読み取ったのか、アンソニーは穏やかな声で言った。
「本日は、相棒の付き添いで参りました。あくまで私用であり、作戦行動ではありませんのでご安心ください」
「ならよかった。お前の相棒って、確かクールビューティなお姉ちゃんだよな」
「ええ、『代行者』シルヴィ・ルクレールです。今、あちらでお話をしております」
 車を蟻の横に並べて、通りの向こうに視線をやって。それから、ちょっと自分の目を疑った。
 少し離れた場所に立っているのは、そりゃあもう目が覚めるような美人のお姉ちゃんだ。短く切りそろえた黒髪、少しきつそうな青い目、そして真っ白な肌。血なまぐさい仕事には全く似合わない、氷の像みたいな美女だ。もちろん、ぴったりとした黒い背広が浮かび上がらせる、胸や腰のラインも素晴らしく整っている。これが塔の怖い人でなけりゃ、速攻で口説きにかかるってのに、と常々遠目に見ながら思う。
 だが、その横には、美貌の『代行者』とはさっぱり釣り合いの取れない野郎が立っていた。
 見間違えようもない。髪一本生えていない青白い禿頭に、鳥の羽を模した刺青。それに、顔の上半分をほとんど覆うミラーシェード。いつも通り頭以外の全身を黒い衣に覆ったそいつは、おなじみの『何でも屋』シスルだった。
「……何やってんだ、あいつ」
「シスルさんは、先ほど、ここを通りがかりまして。それから、五分ほど彼女と話をしています」
「何話してんだ?」
「それは私にもわかりかねます」
「最新兵器なんだから、超聴力で聞こえたりしねえの?」
「可能かもしれませんが、人の話を盗み聞くのはマナーに反する行為と思われます」
 相変わらず、この蟻はどこまでも人並み以上の倫理観を備えた蟻である。一体これのどこが兵器なのか、果たして兵器として運用できるのか、いつも不思議に思う。記録によれば一定以上の戦果を挙げているらしいから、いざ戦場に赴けば人が変わるのかもしれない。蟻が変わる、と言うべきかどうかは悩ましいところだ。
「でも、シスルがいきなりナイフを抜くことだってあり得るんじゃねえの?」
「ええ。ですから、シスルさんが敵対行動に移れば、すぐにでも動けるよう、ここで待機しています」
 その可能性はゼロに近いと思いますが、とアンソニーはおっとりと付け加える。
 正直に言えば、俺もそう思っている。あのハゲは、いつになく陽気な音色を奏でて、身振り手振りを加えてシルヴィに話しかけているようだったから。
『ハヤト、どうなさいますか?』
「あー……」
 神楽に問われて、俺は思わず額に手を当てた。ここで立ち往生していても仕方ないのだ。俺も、ちょうどシルヴィとシスルが立っている場所に用がある。あの二人がどいてくれるまで待つのは流石に馬鹿馬鹿しいから、仕方なしに道の端に車を寄せて、荷物を抱えて降りる。
 シルヴィが、扉の閉まる音に反応して、こちらに視線を向けて微かに眉を寄せた。それと同時に、金属を叩いたような硬質の音色も俺に向けられる。それで、シスルもこちらに気づいてひらりと手を挙げてみせた。
「やあ、隼」
 仕事が絡んでいない時の野郎は、どこまでも暢気だ。それと対照的に、『代行者』シルヴィは険のある顔つきで俺とシスルを交互に睨んでいる。特にシスルを。最低でも、俺はともかくシスルが歓迎されていないことだけは、はっきりとわかった。
「何してんだお前ら。珍しいツーショットにもほどがあんぞ」
「いやあ、こんな場所で麗しのミス・ルクレールを見かけたもので、ついつい声をかけずにはいられなくて」
 その言葉に、シルヴィは露骨すぎるほどに表情を歪めた。大層な嫌われようだ。一体何をやらかしたんだこいつは。
「お前、クールビューティー系は近寄りがたいって言ってなかったか」
「ミス・ルクレールは別格だ」
「一体何の話をしているんだ」
 シルヴィの声と放たれる硬い音色には、明らかな苛立ちが篭められていた。流石にシスルと違って、俺は塔の怖い人を相手に冗談をいう度胸も実力もない。何せ、後ろには塔最強と名高い蟻も待ち構えているのだ。それ以上余計なことを言うのは止めて、率直に用件を切り出すことにした。
「悪いが、俺はここに届け物の仕事を請けててね。通してもらえるか」
「……そうか。仕事の邪魔をしてすまない」
 シルヴィは、青い目を伏せて、音もなく道を空けてくれた。だが、そのつるりとした頭ん中に好奇心ばかり詰め込んだサイボーグ様は、遠慮なく俺の手元を覗き込んで言った。
「弔花か」
「つくりもんだけどな」
 今どき生花なんて、塔の研究所でしか手に入らない。お得意様に頼めば手に入ったのかもしれないが、今回ばかりはお得意様に頼む気になれなかった。まあ、こういうもんは、気持ちさえ伝わればいいのだ。きっと。そういうことにしておく。
「奇遇だな。私も一輪、花を手向けようと思っていたところだ」
 シスルも、外套から一輪、やはりつくりものの花を取り出してみせた。真っ白な、百合の花。俺が抱えている花束と同じ花だ。
 俺はあまり驚かなかったが、シルヴィは息を飲み、目を見開いて俺とシスルを見据えた。表情は相変わらず堅いが、驚いていることははっきりと伝わった。
 やがて、塔の『代行者』のお嬢さんは、ちいさな唇を微かに動かした。
「何故」
「俺はただ、人に頼まれただけだ。ここまで足を運べない自分の代わりに、花を手向けてくれってな。お前は?」
「私は、噂に聞いた少女たちの命日と聞いて。知ってしまったからには、花の一つくらいは手向けないと気が済まなくてな」
 シスルは、白い造花の茎を摘んだまま、軽く首を振った。
「……噂?」
「この通りで起こった『事故』の噂さ」
 事故、という言葉を使いながら、野郎の声には全くそれを信じていないという響きが混ざっていた。そう、実際にここで起こった出来事は事故なんかじゃない、らしい。だから、思わず問うていた。
「アリシアから聞いたのか」
 件の事故の真相を追っていた『新聞記者』の名前を小声で囁くと、シスルは「まあな」と小さく頷いてみせた。あいつとこのハゲは、それこそ同じベッドで寝る仲なんだから、聞いていたところで不思議じゃないが。
「その前から、この辺じゃそれなりに有名な話だったんだがな。爆発するはずもない場所での爆発事故、そこで亡くなった何人もの少女たちと、塔の兵隊。因果関係はさっぱりわからないが、彼女たちが、望んで死んだわけでないことくらいは、想像できるさ」
 こいつの目は、相変わらず分厚いミラーシェードの下に沈んでいて、どんな感情を映しこんでいるのかは判別できない。ただ、常に目を隠しているのは、飄々としているようで、根っこの部分では感情的かつ感傷的なこいつが、その事実を周りから隠すためじゃないか、と邪推している。こいつは、表情筋こそ不自由だが、どこまでも、感情に対して素直な音色を奏でてみせるから。
 その時、シルヴィが突然頭を押さえて、ふらりと身体を揺らした。それを慌ててシスルが支えようとするが、シルヴィはその手を乱暴に払った。シスルはそれに対して嫌な顔一つせず、ただ、申し訳無さそうに頭を下げた。
「すまない、ミス・ルクレール」
「いや、構わない」
 シルヴィは、睨むようにシスルを見据えながらも、きっぱりと首を横に振った。
「どうしたんだ?」
「何でもない」
 取り付く島も無いってこのことなんだろう。シルヴィは、視線を逸らし、鋭い、けれどどこか脆い横顔を俺に晒した。
 そんなシルヴィを、妙に遠い表情で見つめながら、シスルが俺に囁いた。
「彼女は、どうも、この場所に因縁があるらしい」
「因縁?」
「それ以上は、私も知らない」
 それは嘘だ、と確信した。音色を聞くまでもない。野郎は嘘を吐くのは決して得意でない。顎を少しだけ上に上げて、ミラーシェード越しの視線をわざわざ虚空に投げてくれるのだから、わかりやすいったらない。
「お前さ、嘘つくならもっと気の利いた嘘をつけよ」
「悪かった。気持ちよい嘘つきになれるよう、精進しよう」
 ただ、それ以上話す気が無いということも、わかった。確かに、これはこいつの問題じゃなくて、シルヴィ・ルクレールという女の問題だ。べらべらと言いふらしていい理由はない。
 だから、俺もそういうものかと納得することにして、目の前の建物に向き直る。
 そこに佇んでいるのは、寂れた教会だ。旧時代の建築様式を真似た建物からするに、旧時代の教えを生真面目に守ってる変わり者によるものだろう。世界の九割を滅ぼしちまった《大人災》から数百年、その人災の主、『魔法使い』にして新世界の神、バロック・スターゲイザーの信者ばかりがはびこるこの時代には珍しいもんだ。神もスターゲイザーの気まぐれも信じちゃいない俺としてはどうでもいい話だが、まあ、人の思想信条ってやつは自由だとは思う。他人に迷惑をかけない限りは。
 あの事故で死んだ連中は、塔の『掃除係』が片付けちまったから、実際にこの教会の墓地に眠っているわけじゃない。だが、墓地の片隅に、ひっそりと、墓が立っているのだという。理不尽に命を奪われ、その存在すら語られることのなかった、少女たちのために。
 そんな場所に、思想も心情も持たない俺が、こんな、重たい花束を抱えて立つのは、何とはなしに不似合いな気がした。それが俺の仕事であって、この花束を手向けようとしているのは、俺ではなく依頼人ではあるのだが。
 それでも、つい。
 じっと、何かを探し求めるように、教会の扉を見つめているシルヴィに声をかけていた。
「『代行者』のお嬢さん」
「何だ」
「この花、お前さんが手向けてやってくれよ」
 シルヴィの前に、百合の花を差し出す。微かによい香りがしたのは、つくりものの百合の花じゃなくて、目の前の『代行者』の香水の香りだろう。微かに薬っぽさも混ざった、すっとする香り。ローズマリーだろうか。
 シルヴィは、俺の言葉に露骨に戸惑いを見せた。今の今まで、張り詰めていた硬い音色に、ふっと、柔らかな丸みを帯びた音色が混ざる。柔らかなマレットで、金属の鍵盤を叩いた音色に似ていた。
 そんな、どこか複雑な音色を奏でるシルヴィの、真っ青な瞳を見つめて言葉を続ける。
「縁もゆかりもない俺よりも、きっと、アンタが手向けたほうが、死んだ連中も喜ぶんじゃねえかと思ってな」
 俺は、死者の音色まで聞き取れるわけじゃない。だから、誰が花を手向けたところで、何も変わりゃしねえと思っている。だが、何となく、この氷みたいなお嬢さんが見せた壊れやすさが、酷く、心に響いちまったんだ。
 シルヴィは、すぐには俺の持つ花に手を出さず、ぐっと指出し手袋を嵌めた手を握り締めて、あくまで硬い声で言う。
「私が手向けたところで、誰も喜ばないだろう」
「そうなのか?」
「私は、何も、覚えていないから」
 覚えていない。その言葉が引っかかったが、それをシルヴィに問うのは、きっとナンセンスってやつだろう。
「まあ、いいじゃねえか。何かが減るもんじゃなし、俺も次の仕事が待ってるしな」
 仕事があるなんて嘘だ。だが、シスルよかよっぽど上手い嘘だとは思う。
 シルヴィは、散々躊躇った後に、恐る恐るといった様子で俺の持つ花束に手を伸ばしてきた。一瞬だけ、俺の手に触れた指先には、氷を思わせるかたちに似合わない、人間の温度が宿っていた。
 そして、百合の花束は、シルヴィの手に移った。
 真っ白な花束は、黒髪に黒い衣装、白い肌のシルヴィによく似合っていた。そのまま、一枚の絵にしたいくらいに。俺に絵の才能が無いことが悔やまれる。
 せめて、その姿を目に焼き付けておこう、と思っていたら、ものすごい形相で睨まれた。下心が見えちまったのかもしれない。
 シルヴィは、しばし、唇を引き結んだまま、道に迷った子供じみた困惑の表情で百合の花を見つめていたが、やがて、小さく頭を下げて、俺に背を向け、教会の扉の奥に消えていった。
 珍しく、何の茶々も入れずにそれを見送っていたシスルは、やがて俺に向き直って口元だけで微笑んだ。
「それじゃ、そろそろ私も花を手向けてくるよ」
「なあ、シスル」
「何だ」
「あのお嬢さん、『覚えてない』って言ってたな。あの事故の関係者なのに、その時の記憶が無いっていう意味なんかね」
 件の事故で、ことごとく死んだ娘たち。それが「娘たち」というのが引っかかっている。アリシアの言葉が正しければ、それは、塔が選んだ娘たちであるという。もし、シルヴィ・ルクレールが、その「娘たち」の一人だったとしたら。
 そんな、他愛ない妄想がふっと浮かんだだけだったのだが、シスルは、曖昧な笑みを口元に浮かべながら、言った。
「それに関しては、ノーコメントでいいか」
「お前が何か知ってるってことだけはわかったがな」
 うっ、とシスルは顔を逸らす。本当にこいつ、仕事の外だとポンコツだな。仕事中の、やたら切れる面を知っているだけに、そのギャップの酷さが際立つってもんだ。そのギャップがなきゃ、相当とっつきづらい奴だったかもしれないが。
 シスルは、しばし何かを誤魔化すように視線を逃がしていたが、やがて諦めたように息をついて言った。
「私は、例の出来事に関しては、あくまで想像でしか物事を語れないんだ。私自身が目にしたことは、何一つないから。ただ」
「ただ?」
「ミス・ルクレールが、例の出来事に関して記憶を操作されているのは間違いない。本人は自覚していないようだが、しかし、何とはなしに、感じるものはあるらしい」
「記憶を消したのは、塔か」
「まず、そうだろうな。猟犬に、余計なことを考える余地を与える連中じゃないだろう」
 言って、シスルの顔が、灰色の空に向かって聳える《鳥の塔》に向けられる。塔の腹が黒いのは、今に始まったことじゃない。だが、迷子のように、白い花を見つめていたシルヴィを思い出すと、少しだけ、胸にちりっとしたものを感じないでもない。
 シスルは、塔を見つめたまま、ほとんど独り言のように呟く。
「私としても、彼女の記憶は戻らないほうがいいと感じているがな」
「手前は、そう言うと思ってたよ」
「そうか?」
 シスルが、こちらに向き直って苦笑する。そう、こいつはいつだってそうだ。そういう奴だとわかってるから、俺は、言わずにはいられなかった。
「手前は、いつだって、今だけを見据えてるからな。今そこにある何もかもをあるがままに認める、ってのは確かに手前の強みだ。だが、それが、誰にでも出来るとは思わないほうがいい」
 過去に己の足を取られながら、その過去を拠り所にしないと生きていけない奴だっているし、それがきっと、大多数だ。もちろん、俺も含めて。もしかすると、シルヴィ・ルクレールだってそうかもしれない。どれだけ捨て去りたい記憶であっても、それが無いと立てない奴は、確かにいるのだ。
 とはいえ。
「なーんて、らしくねえ説教だな。忘れてくれよ」
 俺は、こいつに説教できる筋合いなんざねえ。こいつはこいつで、そうならなければ生きていけなかったはずだ。過去という拠り所を、かつての己の形を、完全に見失っちまったのだから。
 それでも、シスルは、何処までも真っ直ぐに俺の言葉を受け止めて。
「心しておこう」
 そう、答えやがる。こいつの愚かしいまでの真っ直ぐさは、俺にはどうにも眩しすぎる。
 こうして相対すると、シスルにせよ、シルヴィにせよ、俺とは全く別の世界の人間だってことを、思い知らされる。立場とか、境遇とか、んなわかりきったことじゃない。そもそもの、奏でる音色の違いというか。クサい言い方をすれば、「心のあり方」みたいなもんが違うんだろう。
 つい、普段は意識しないことまで考えさせられて、酷く居心地が悪い。こんな場所からは、とっとと離れることにする。
「じゃ、俺は仕事に戻るわ。悪いな、引き止めて」
「いや、私こそ。じゃあな、隼」
 軽く手を振って、片手に百合の花を携えた野郎は教会の中に消えていった。それを確認して、俺は深々と息をついた。どうも肩に力が入っちまってたようだ。らしくない、と思いながら車に戻り、やはり大人しく待っていたアンソニーに軽く会釈する。
「お仕事は終わったのですか、フジミさん」
「ああ。……お前の相棒、いい女だな」
「はい。とても優秀な『代行者』です」
 そういうことじゃねえんだよ、とツッコミを入れたくなったが、もしかすると今のは、この蟻型兵器なりの冗句だったのかもしれん。伝わってくる音色に、微かな、笑いのようなさざめきが混じっていたから。
 この蟻の面から表情なんざ窺えないし、どっかずれた受け答えをする奴ではあるけれど。張り詰めた心を抱えるシルヴィと、真面目だが決して四角四面というわけじゃないアンソニーは、何だかんだでいい取り合わせなのかもしれない。
 例えば、徹頭徹尾堅い表情をしていたシルヴィが、アンソニーの言葉にふっと、微笑みをもらすことだって、あるのかもしれん。きっと、その笑顔は、とびきり綺麗なんだろう。
 そんなことを思いながら、車の扉を開けて。じっと、こちらを見つめていたアンソニーを振り返って、言ってやる。
「泣かせんじゃねえぞ、色男」
 背中を、アンソニーの声が追いかけてきた気がするが、一体何を言われたのかはわからないまま。
 俺は、扉を閉じて、車にキィを差し込んだ。