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02:ワンダリング・ウォーターインプ(14)

「――それの、何が悪いんですか?」
 わかるはずが、なかった。
「河童のミイラを盗むという行為はれっきとした犯罪です」
 犯罪、という言葉に翔が身をびくりと震わせる。だが、翔のしたことは間違いなく罪だ。八束は「翔さん」とはっきり彼の名を呼び、言葉を続ける。
「今からでも、しかるべき手続きを経て真実を明らかにし、法の審判に委ねるべきと思います」
「うん、八束はそう言うと思った。だから、俺も黙ってたんだよ」
 やれやれ、とばかりに南雲は大げさに首を横に振った。何か言いたげな菊平を視線と手の動きで制し、いつになく穏やかな声で言う。
「確かに、八束の言ってることも、わかる。俺らが法を無視してちゃ意味がない」
「なら」
「でもな、八束。世の中っつーのは、そんなに単純じゃねえのよ。例えば、今回の事件、最初から警察が動いていたとしよう。警察は当然、近所の連中にも聞き込みをするだろうし、大っぴらに神社の中を捜索するだろう」
 それらは、もちろん人の目に付く。今までろくに大きな事件もなかった、平穏な住宅街であれば尚更目立つはずだ。
「そうすると、当然、噂になるわけだ。どこそこの誰それが犯罪に手を染めた、ってな。一度生まれた噂は、尾ひれやら背びれやらをつけて、いつしか根も葉もない化け物になる。それは『償い』とは全く無関係の『見せしめ』であり『重圧』であり、ぶっちゃけ『悪意』でしかない」
 ――見せしめ。重圧。悪意。
 こちらを見つめる無数の視線を思い出し、八束は反射的に両腕で己の身体を抱いていた。
 いつからだろう、それらを黙って受け止めるのが正しいと思いこんでいた。あの時、自分は間違ってしまったのだから、己の愚かさに対する当然の罰であると思っていた。
 しかし、よくよく考えてみれば、確かに南雲の言うとおりだ。それらは決して、当たり前のものではない。法で定められている罰とは全く無関係の、理不尽ともいえる仕打ちでしかないのだ。
 南雲の、人よりも淡い朽葉色の瞳は、どこまでも静かに、けれど不思議な熱を帯びて八束を見下ろしていて。
「わかるか。俺らのやり方は、正義なのかもしれない。だけど、必ずしも、人の心を守ってくれるわけじゃないんだ」
「……っ」
「まあ、そこまで先輩が考えてたかどうかはわからんけどね。でも、少なくとも翔くんの立場について、危惧はしただろうってこと」
 ――南雲は、そこまで考えて、菊平に協力を申し出ていたのだ。
 自分の浅はかさに腹が立つ。困っていた菊平の力になりたいという思いは本当ではあったが、彼の思惑や抱えていた不安のことは、全く考慮に入れていなかったのだ。
 それと同時に、警察という組織の役割についても、考えずにはいられなかった。自分のしていることが間違っているとは思わない。思わないけれど、傷つく存在の可能性を改めて認識してしまった以上、無視できない棘のある塊として腹の底に転がっているような錯覚に陥る。
 南雲は、片方だけ手袋で覆った手を合わせる。
「さて、話はちょっと逸れたけど、菊平先輩が警察に届け出ることはないって城崎さんは思ってた。だから、俺たちが『警察の人間』って言われて焦ったんだ。話が違うってな」
「なるほど! それで、笠居さんに」
「そういうこと。首尾よく河童のミイラを手に入れた城崎さんは、先輩に『黒鯨の髭』を出すよう脅迫するつもりだったんだろう。でも、そこには俺たちがいた。俺らが単なる個人として協力していることを知らない城崎さんは、警察の捜査が入ったと勘違いし、『黒鯨の髭』どころではないと思い込んで証拠の隠滅に走ったわけだ」
 判断としては下の下だが、それだけ城崎は焦っていたのだろう、と南雲は言う。
 本当に警察の手が入ったなら、すぐにでも捜査の手は伸びるに違いない。その時に河童のミイラを手にしていれば、完全に言い逃れができない――と。
 もはや、城崎はぎりぎりと歯ぎしりの音を立てるだけで、言葉も出ない様子だった。
 これで、ほとんどの謎は解けた――と思ったが、八束には一つ、解せない箇所があった。
「しかし、河童のミイラは『黒鯨の髭』とは釣り合わないと聞きました。脅迫は成立しますか?」
 かつて、菊平は言っていた。『黒鯨の髭』とは、この一帯を守る神とも言うべき大妖怪との契約の証であり、おいそれと人に見せられるものではない、と。期間を定めてとはいえ、一般に公開できる河童のミイラとは扱いが根本的に異なるはずなのだ。
 しかし、南雲は特に悩むことも無く、あっさりと答えてみせた。
「するでしょ。翔くんを引き合いに出されれば」
「翔さんを、ですか?」
「翔くん本人は、城崎さんの言う通りに、河童のミイラを盗めばいいと思ってたと思うよ。でも、城崎さんにとって、河童のミイラは単なる口実に過ぎなかったと思うんだ。要は『翔くんが河童のミイラを盗んだ』っていう事実の公表と引き換えに『黒鯨の髭』を得ようとした……、俺はそう思うけどね」
 噂の力の大きさは、先ほど南雲が言及したとおりだ。もし、意図的に城崎が悪意ある噂を広めようとしたならば、おそらく翔の心には大きな傷が残るだろう。
 つまり、実際に天秤に載せられたのは河童のミイラではなく、翔少年であった――。
「……手前、そんなことを考えてやがったのか!」
 低い、怒気を篭めた声。菊平が、拳を握り締め、今にも城崎に殴りかからんとしていた。城崎は城崎で顔を真っ赤にしたまま、尖った顎を逸らす。
「ふん、今まで何一つ気づかなかった馬鹿が何を吠える」
「何を!」
 このままでは暴力沙汰になりかねない、と判断し、八束は菊平と城崎の間に割って入る。菊平が八束の名を非難めいた声音で呼ぶが、構わず城崎の顔を見据える。
「どうして、そんなことを?」
「決まっているだろう、『黒鯨の髭』は遠き日の伝承に語られた、伝説の獣の存在を示している。かつてこの大空を飛んでいたという黒鯨の存在を証明することができれば、私を排斥した愚かな連中を見返すこともできよう!」
 城崎の目は血走り、ぎらぎらとした輝きを帯びている。目の輝きとその口元に浮かぶ獰猛な笑みは、己が見据えている目標を何一つとして疑っていないことの表れだ。
 確かに、城崎にとってその目的は崇高であり、他の何にも代えられないものだったのかもしれない。かつて、怪物ハンターとして得た名声を取り戻すために、必要なものであったのかもしれない。
 ――しかし。
「そんなことのために、あなたは、翔さんを利用したというのですか!?」
「利用? とんでもない。この世界に名を残す研究に協力できたのだ、むしろ感謝してもらいたいものだな」
 ぐるうり、とその顔が翔に向けられる。翔は「ひっ」と怯えて菊平の背中に隠れた。菊平もまた、怒りをあらわにしながらも翔を庇うように手を広げる。
 ただ、既に城崎の目に菊平たちの姿は映っていなかったのかもしれない。恍惚とした表情で、空を仰ぐ。
「私は、こんなところで終わるような人間ではない。科学という名の闇に覆われて隠されてしまった、幻の獣たち。彼らを再発見するという偉業が達成されたその時、私の名は、この世界に記憶されることになるのだ! 素晴らしいことではないか、そうだろう?」
 その声は、一体誰に向けられたものだったのだろう。乾いた笑いを上げながら放たれた言葉に、八束は、反射的に叫び返していた。
「全く! 素晴らしくなんてないですっ!」
 虚空を見据えていた城崎の目が、ひたりと八束に向けられる。その暗さ、澱みに正気の色は見えなかったが、不思議と恐怖は感じなかった。否、八束が「人間」に心から恐怖したことは、今まで一度も無かったのだと思い出す。
 今の八束を支配していたのは、恐怖などではない。ただ、ただ、身の内に燃え盛る怒りの感情だ。
 両の足で石畳を踏み締め、真っ向から城崎に向き合う。
「あなたは間違っています! その目的があなたにとってどれだけ崇高であろうとも、誰かを傷つけ、陥れるようなやり方が正しいわけがありませんっ!」
「今まで私を理解しようとしなかった愚昧な人間のことなど、どうして私が考慮しなければならないのだ? そう、私はただ、かつて受けた仕打ちを返しているだけに過ぎない。当然の報いというやつだ!」
「……っ、あなたって人は……!」
 八束の怒りが限界に達しかけた、その時だった。
「はいはい、ストップストップ」
 ぱんぱん、という軽い音。南雲が手を打ち鳴らした音だと気づいたのは、一拍の後だった。八束は拍子抜けして、つい拳に入っていた力を抜いてしまう。それは菊平も、そして城崎すらも同じだったのだろう、ぽかんと南雲を見つめていた。
 一瞬だけ生まれた妙な静寂の中、南雲は幽鬼のごとき顔からは想像もできない明るい声を上げる。
「悪いけど、俺たちの仕事はここまでっす。先輩には言いましたよね、俺たちはあくまで『犯人を見つける』とこまで協力する、と」
 その言葉の意味は、見つけた後の始末は知ったことではない、ということだ。
 それは、あまりにも無責任に過ぎないか。八束は声を上げようとしたが、それよりも先に南雲の言葉が続いた。
「そして、仮に先輩が城崎さんを殴ろうもんなら、俺は傷害の現行犯として先輩を捕まえなきゃならなくなる。善良な市民としてね」
「……何が言いたい」
 菊平の声は、ほとんど唸りに近いものだった。爆発しそうな感情を、無理やりに押さえ込んでいることがはっきりと伝わる声。それでも、南雲はあくまでのらりくらりとした態度を崩そうとはしないのだ。
「正式に警察として動いてない以上、俺たちには城崎さんをどうこうする権利も義務もないってこと。もちろん、先輩にもっす。立場上、私刑を容認することはできないんすよ」
「だが、こいつはどうなる! 野放しにしろっていうのか?」
「うん、まあ、仕方ないっすね。そんなわけですから、城崎さんも帰っていいっすよ」
 南雲はぴらぴら手を振る。八束が呆気に取られたように、城崎も不可解そうな顔で南雲を見やったが、すぐにステッキで強く石畳を打ちつけ、声を荒げる。
「ふん、言われなくとも帰らせてもらうぞ! 貴様ら覚えておけ、寄ってたかって私を責め立てたことを、必ず後悔させてくれよう!」
 ステッキを振り、城崎は肩を怒らせてその場から去っていった。その背中に食って掛かりそうな菊平の前に、南雲がすっと体を割り込ませる。
 菊平は激しく歯を鳴らしたかと思うと、南雲の襟元に掴みかかった。
「おい、南雲! 手前何やってんだよ! あいつを逃がして何になる、翔のことは……」
「やだなあ、先輩落ち着いてくださいよ」
 襟を掴まれながらも、仏頂面でひらひらと両手を振った南雲は、突然、声を低くして囁いた。
「俺が、何も手を打ってないとお思いで?」
 菊平の動きが、ぴたりと止まった。そして、次の瞬間には全身に入っていた力が抜けて、南雲の襟を掴んでいた手もだらりと落ちた。すっかり気勢を削がれてしまったらしい菊平は、深々と溜息をついて言った。
「……お前、そういや、そういう奴だったな」
「わかっていただけて何よりです」
 南雲はおどけた調子で、やたらと慇懃に一礼する。
 一体南雲は何をしたのだろうか。気になりはしたが、南雲はそれ以上を菊平にも、八束にも語る気はないらしく、大げさに肩を竦めるだけだった。
「ほら、あんなクソジジイを殴ったところで、手が痛くなるだけでしょ。それなら、嫌なことすかっと忘れて気持ちよく過ごした方がいいと思うんすよ、俺」
 南雲の言い分は、いい加減に聞こえるが真理でもある。忘れる。それは人間に与えられた――ただし、八束には欠落している――能力の一つだ。もちろん、意識して忘れるのは簡単なことではないだろう。
 だからこれは、きっと、一種の祈りなのだ。言葉こそ軽いけれど、南雲なりの精一杯の、祈り。理解はされづらい、彼の「優しさ」と言い換えてもいいだろう。
「そうですね。河童は無事戻ってきましたし、翔さんがどうして河童を持っていかなければならなかったのかもわかりました。南雲さんのおっしゃるとおり、我々の役割はこれでおしまいです」
「……ああ、そうだな」
 菊平は、笑おうとしたのだと思う。ただ、あまりにも色々なことがありすぎたからだろうか、その表情は鈍かった。
 それに――。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(13)

 しん、と。静寂が耳の奥に響く。
「どういうことだ、翔……?」
 菊平が呆然とした声で、翔に呼びかける。だが、翔はそれ以上は言葉にはできないようで、一人、唇を噛んで俯いている。
 だから、というわけではないが。八束はどこまでも淡々と言葉を続けていく。頭の中に組み立てておいた文字列を読み上げるように。
「翔さんが河童を盗んだと考えた理由はいくつかありますが、最も決定的だったのは、箱についた爪の跡です。単なる爪跡にしては小さいところから、子供があの箱を持ったと考えて間違いありません」
 翔の手は、元々あまり大きくない八束の手よりも一回りくらいは小さく見えた。指紋を取れない以上それ以上のことはわからないが、翔の顔を見る限り八束の想定が外れていないだろうということもわかる。
「そして、翔さんが河童を盗んだと考えれば、『どのようにして』河童のミイラが消えたのかは説明できます。だって、翔さんは自由に鍵を持ち出せる立場にあったのですから」
 菊平は最初に説明してくれていた。社の鍵は全て家に持ち帰って管理している、と。それならば、菊平の家の人間であれば手に取れる可能性があった、と考えられる。もちろん管理の方法によっては難しいかもしれないが、菊平の行動をよく見てさえいれば、翔でも鍵を手にする方法はあったと思われる。
 そして、菊平の家から神社まではほとんど距離はない。翔が夜、家を抜け出して神社に向かうことも十分可能であったはずだ。
 また、河童の足跡が銀の絵の具で描かれていたのも、翔の手によるものだろう。これに関しては、翔の持つ絵の具箱を確かめればわかる。小学校の図画工作で銀の絵の具を使う機会はそこまで多くない――ということは、南雲から教わった。それでありながら急に絵の具が減っているとなれば、本来使わないような用途で使われたと考えてしかるべきだろう。
 八束の説明を難しい顔で聞いていた菊平は、腕を組んで問う。
「だが、ミイラはどうしたんだ? うちに持ち帰ったってのか?」
「いいえ。家に持ち帰れば何かしらの手がかりが残ってしまう、と考えていたのでしょう。それに、ミイラが入った箱は、縦四十センチに横二十センチと、それなりに大きなものです。そのため、ミイラを一旦社の中に隠したんです」
「……社の中、だって?」
「翌日、河童が所定の位置から消えたと知った神主さんは、その日学校が休みだった翔さんと手分けして、社の中と外に、河童の手がかりを探していたと考えています」
 八束はそれを実際に見ていたわけではない。だが、境内に残っていた足跡の記憶から、二人が手分けして探していたのは間違いないと思っている。ある一部には小さな足跡が、別の箇所には大きな足跡が多く残されていることが明らかであったから。
「翔さんはその時に、河童を隠した場所を探すふりをして『見つからなかった』と報告したのです。翔さんが見つからないと言った場所を、神主さんが更に詳しく見るとは思えませんからね」
 菊平は、小さく唸った。翔は唇を噛んでうつむいていたが、八束の「推測」を否定はしなかった。
「そして、翔さんは河童のミイラを隠し通しました。ここまで来てしまえば、あとは誰も見ていないタイミングで河童を移動させるだけで、河童は完全に失踪するわけです」
 しん、と。静寂が訪れた。菊平も、翔も、口を利けずに黙り込んでいた。そして、この瞬間までは黙って八束の推測を聞いていた城崎だけが、重々しく口を開く。
「つまり、この少年が河童を盗み出し――、私に渡した、と」
「はい」
「馬鹿馬鹿しい。私とこの少年の間に、何の関係があるというのだ?」
 そうですね、と八束は少しばかり目を細めて、城崎と翔を交互に見やる。
「わたしは、この仮説を立てた時、どうしてもわからなかったのです。翔さんが、どうして河童のミイラをわざわざ盗まなければならなかったのか。そして――それが、城崎さんの手に渡ったのか」
「でも、それだけの理由はあるよ。絶対に」
 八束の言葉を次いだのはもちろん南雲だ。南雲はちらりと城崎に視線を投げかけた後に、翔の方に向き直る。
 翔は蛇に睨まれた蛙のように怯えて立ちすくんでいたが、南雲はゆったりとした動きで翔の前に膝をついて、視線を合わせて言う。
「翔くん、君の目的は、河童を盗むことじゃない。河童の身柄と引き換えに、お父さんから『黒鯨の髭』を引き出すことだったんじゃないかと思ってるんだけど、どうかな」
「……っ!」
 翔が、はっとして南雲を見やった。そして、震える声でこう言ったのだ。
「ど、どうして、わかったの?」
 その言葉は菊平にとって意外なものだったのだろう、ほとんど身を乗り出すように南雲に食って掛かる。
「どういうことだ? 何でそこで『黒鯨の髭』が出てくるんだ」
「翔くんが関わってる可能性を考えた時に、ぴんと来たんすよ。先輩、翔くんって、よくクジラさまの話してませんでした?」
 その言葉を聞いた菊平が、露骨に苦い顔をして身を引く。どうやら、心当たりがあるらしい。
「もっとも、ここからは俺の想像なんで、違ったら言ってほしいんすけどね。
 翔くんは、黒鯨――クジラさまの存在を信じていた。もしかしたら、クジラさまらしいものを何度か目にしたことがあったのかもしれない。でも、先輩は翔くんの言葉を信じなかった。神社には『黒鯨の髭』っていう、クジラさまが存在した確たる証拠もあるはずなのに、だ。
 それで、翔くんはどうしても確かめたいと思ったんだろう。クジラさまは本当に存在するということ。神社に奉納されている『黒鯨の髭』が、本当に空を飛ぶ鯨の髭であること」
 そんなもの、存在するはずがない――。
 八束は、内心でそう思いはしたが、言葉にはできなかった。唇を噛んで痛みを堪えるような顔をしながらも、語り続ける南雲を真っ直ぐに見据える翔の姿から、目を離せなくて。
「ただ、そう考えた時、いくつか問題があったわけだ。大きなものは二つ。
 一つ目、『黒鯨の髭』が本当に鯨の髭であることを翔くんには証明できない。まあ、そりゃそうっすよね。多分、普通に海を泳いでる鯨の髭だって見たことないんだから、そう簡単にわかるはずないわけで。
 二つ目、『黒鯨の髭』を手にすることがそもそもできない。何しろ河童のミイラ以上に大切に保管されてるわけで、社の鍵を開けられる翔くんでも、そう簡単に手に取れるような場所にはなかった、もしくは保管されてる場所を知らなかったと考えられる。
 その二つを、どうにか解決しようと思って、翔くんはある人物に相談を持ちかけた。それが」
 ――怪物ハンターである、城崎与四郎氏だった。
 見れば、城崎は暗い目つきで、南雲を睨みつけている。
「君たちは、どうあっても私を疑いたいようだな」
「だって、河童が歩いたように見せかけて持ち去るなんて、翔くん一人で考えられると思います? そもそも、河童が水銀の足跡を残すなんてエピソード、普通は知らないでしょ。一般的な河童の性質ではないわけですし」
「だが、少年の家は河童との関わりを持つ神職の一族だ。そのくらいは知っていたとしてもおかしくはあるまい」
「ま、その可能性はゼロじゃないっすよ。でも、城崎さん、さっき『足跡』って聞いただけで即座に『水銀』って答えましたよね。相手は河童なんだから、それこそ普通に『水かきのついた小さな足跡』でもよさそうなものを」
「うぬ……っ」
 歯ぎしりし、言葉を失う城崎。それ以上反論がない、と判断したのだろう。南雲はあくまで飄然とした態度を崩さずに言葉を続けていく。
「城崎氏もかねてからクジラさまに興味を持っていた、というのは確か先輩も言ってましたよね。翔くんもそれを知っていて、ある時に城崎氏に話を持ちかけたんでしょう。
 その後は簡単です、やはり『黒鯨の髭』を研究したがっていた城崎さんは、河童の公開に合わせて盗み出し、河童と引き換えに『黒鯨の髭』を引き出させるという賭けに出た」
 八束は、南雲の言葉を一つずつ吟味していたが、少しばかり引っかかりを覚えて、南雲の言葉が途切れたところを狙って、疑問を言葉にする。
「しかし南雲さん、それは、かなりリスクの高い賭けではないかと思います」
「どうして?」
「例えば、菊平さんが警察に届けるなどすれば、すぐにでも犯人はわかってしまいます。詳細な捜査の手段を持たないわたしたちでもここまでは突き止められたんですから、きちんと捜査すれば――」
「城崎さんには、それはないっていう確信があったんだろ。『ない』というより『できない』と言うべきか」
 ふ、と。南雲は一旦息をつく。それから、仏頂面ではあるが、おどけた様子で肩を竦めて言った。
「河童が消えた時点で、それができる人間は限られていた。そして、当の菊平先輩が、それに気づかないはずはないんだ」
 南雲の眼鏡越しの視線を受け止めた菊平は、一瞬身を強張らせたが、すぐに肩の力を抜いて、力なく言った。
「……南雲、お前」
「先輩、最初から気づいてたんすよね。翔くんが河童の盗難に関わってるって」
 えっ、と翔が声を上げて、うつむいていた頭を上げる。父と子の視線が、虚空で交錯する。言葉にはならないやり取りが、そこにあった。
 南雲はそんな二人を、色の薄い瞳で見据えたまま、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「だから、警察には届けたくなかった。警察が踏み込めば、少なくとも真犯人はわかるだろうけど、翔くんも強く追及を受けることになってしまう」
 なるほど、当初、菊平がああも八束の提案に対して鈍い反応しか返さなかった理由は、やっと理解できた。
 しかし。
 八束には、どうしてもわからなかった。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(12)

 ――それから、三日後の午後三時。
「……君たちは、一体何なんだね?」
 城崎与四郎は、心底不愉快そうな表情を隠しもせずに、目の前に立つ二人――、八束結と南雲彰をじろりと睨めつけた。
「私はここの神主に用があるんだが」
「はい、存じております。『黒鯨の髭』の件ですよね」
 八束は、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で、はきはきと答える。そんな八束とは対照的に、南雲はただそこに立っているだけでも精一杯という様子で、ゆらゆら揺れながらチョコを咀嚼している。
 あまりにも意味不明な組み合わせに、触れたらまずい二人組とでも思ったのかもしれない。不機嫌さは隠さないまでも、無理に押し通ろうとするでもなく、城崎はステッキで石畳をつく。
「君たちは警察官というお話だったが、こうして私を邪魔する以上、私に用があるのだろう。私が何か法に触れるようなことをしたとでも?」
「いえ、実は我々、今回は警察の仕事というわけではなく、神主である菊平亮介さんのお手伝いとして、ある調査をしていまして」
「調査、だと……?」
 ぴくり、と城崎の白い眉が上がった。僅かな変化を記憶に留めつつ、言葉を続ける。
「はい。こちらの神社に河童のミイラが奉納されていることは、城崎さんもご存知ですよね」
「もちろんだ。かつてこの町が妖のものと共存していた時代に贈られたというミイラであろう? ミイラそれ自体は全くの偽物ではあるが、それが河童の一族から贈られた、という点に関してはなかなか興味深い。それが何か?」
「はい。実は、こちらのミイラが行方不明になっていたのです」
 行方不明、という言葉に城崎は特に反応を示さなかった。「それがどうした」とばかりに片手でしゃくれた顎を撫ぜている。
「行方不明になったのは、十月二日。今から五日前です。実際にはその前の夜の時点で消えていたのかもしれませんが、その辺りの事実関係は不明です。神主さんは忽然と姿を消した河童の行方を知りたいと望み、古くからの友人である南雲さんに河童の捜索を依頼しました。わたしはそれのお手伝いをしています」
 お節介、と言った方が正しいのかもしれないが、それはこの際横に置いておく。
 八束の一挙一動を追うようにじっとこちらを見つめていた城崎は、数拍の後、深々溜息をつきながら、ゆるゆると首を横に振る。
「で、君は河童のミイラを私が盗んだと疑っているのか?」
「どうしてですか?」
「わざわざ私の前で喋るのだ。私が関係者であると疑っている他に、何か理由でもあるとでも?」
 八束は答えなかった。ただ、沈黙が肯定であるということは、城崎にもわかったのだろう。にわかに顔を赤くして、吐き捨てるように言う。
「あれは確かに興味深い品だが、そのものに価値があるわけではない。私がこの神社に奉納されているというものの中で、価値があると考えているのは『黒鯨の髭』だけだ」
「では、河童のミイラの消失には無関係であると?」
「当然だ。ミイラが消えた当日、私は確かに家に居た。もしアリバイが必要なら家の人間が証明してくれるだろう。仮にアリバイが無かったとしても、私がどうやって河童を盗んだというのかね。見たところ、あの社の扉は外側から施錠できるのだろう。まさか、施錠されていなかったとでも?」
「いいえ、当日は確かに施錠されていたとのことです」
「それなら私には不可能に決まっている」
「はい、おっしゃるとおり、どう考えても城崎さんには不可能であると結論しています」
 八束も、城崎の言葉に同意した。城崎は八束が色々と考えうる理由を言い連ねてくるとでも思っていたのだろうか、拍子抜けしたような顔をして――、次の瞬間、きっと目を吊り上げた。
「君は、私を馬鹿にしているのかね?」
 しかし、八束は全く臆することなく、じっと城崎の目を見つめて言う。
「いいえ。ただ、城崎さんが無関係というわけでもない。そう考えています」
 二人の視線が虚空でぶつかる。八束はそれでもいつになく心が凪いでいるのを感じていた。真実に迫っている時はいつもそうだ、身の内からあふれ出す熱ではなく、どこまでも静かで冷たい空気の中にいる。それは、八束たちの間を吹き抜ける風の温度にも似ていた。
 やがて、ゆっくりと城崎が口を開く。
「その考えに根拠はあるのか」
「はい、もちろんです。意味もなく人を疑うようなことはしたくありませんから」
「どうだろうな。警察という連中は信用ならん。人の言葉を信じようとせず、それでいて自分たちに都合のいい事柄だけを積み上げて、さも事実のように語る」
 城崎は、明らかに八束たち――、というより「警察」という肩書きの人間を拒絶していた。ただ、それは八束も十分に想像できる反応であった。
 今日に至るまでの空白の時間、八束は城崎与四郎という人物について、過去の記録を探っていた。有名人ながら落ち目だという話は何も単なる噂ではないようだ。未確認生物を追うという怪物ハンターの活動は、当初こそメディアがこぞって取り上げていたが、近頃はほとんど話題になっていない。例外はオカルトを専門に取り扱う『幻想探求倶楽部』くらいか。笠居大和が城崎を知っていたのも、編集部からの繋がりであったらしい。
 そして、城崎の行動は、その激しい気性もあっていくつかの問題を抱えていた。待盾署にも、菊平との間で起こった諍いに似た問題行動が報告されている。城崎が己の活動を認めない相手をステッキで殴ったことで、傷害罪に問われたこともあるらしいが、これは彼が抱えた問題のごく一部であろう、というのが八束の見立てである。
 テレビや出版の業界から干されたのも、単に怪物ハンターとしての活動が停滞していただけでなく、それらの問題行動が大きな原因なのだろう。とはいえ、本人はそれを否認し続けているようだが。
「もちろん、信じていただかなくとも結構です。わたしたちは、わたしたちのやり方で、この場に起こったことを解き明かすだけですので」
「それが致命的に間違っていたとしたら?」
 城崎の言葉に、八束はどきりとする。
 ――間違っていたと、したら。
 忘れてはいけない、けれど向き合いきれずにいる記憶が、蘇る。
 声、声、声。誰もがこちらを見ている。誰もが人差し指を向けて非難している。逃げてはいけない。これは自分が受け止めなければいけないことだとわかっていても、息が苦しくて膝が震えて仕方ない。
 蓋からあふれ出した記憶の波に飲まれかけた、その時。
「まあ、間違ってるかどうかっつうのは、最後まで聞いてから判断してもらえますかね。あと少しなんで、お付き合いください」
 どうにも掴みどころがなく、それでいて妙によく通る声が八束の鼓膜を震わせた。八束の目の前から無数の目は消えて、今そこにいる城崎と、すぐ横に立っている南雲の存在を改めて意識する。
 城崎の意識は、声の主である南雲に向けられたらしい。鷲鼻を上げてそちらに視線をやる。
「……そう、先ほどから気になってたんだが、君は一体何なんだ?」
「南雲と申します。八束の同僚で、菊平さんの後輩っす。まあ、単なる河童探し要員の一人って思ってくだされば結構です」
 単なる、というにはあまりにも存在感の大きい見た目をしているわけだが。長身痩躯に黒スーツ、ついでにやたらつややかなスキンヘッドの男など、なかなかお目にかかれない。
 木々の間から漏れ出す陽光を頭部で照り返している南雲は、仏頂面のまま言う。
「いやね、最初は河童が自発的に居なくなったんじゃないか、って話もあったんですよ。何しろ、変な痕跡もありましたから」
「痕跡とは?」
「足跡です。ある種の河童が足跡を残すのは、もちろん、怪物ハンターの城崎さんならご存知かと思いますが」
「ああ、もちろんだ。水銀の足跡だろう? まさか、その足跡があったというのか」
「あったんですけど、八束の見立てではいたずらですね。銀色に光る塗料を使って足跡を描いたようでして。それに、ご存知の通りミイラは偽物であることが明らかですしね、そんなわけで、盗難ということで話を進めてたんですが――」
 南雲が、妙に含みのある間を挟む。今まで苛立ちを押さえ込んだような表情で南雲を睨めつけていた城崎も「何だ?」と疑問符を投げかけてくる。
「実は、単なる盗難と考えるには、まだ気になることがありまして。それで、城崎さんに是非意見を伺いたかったのです。いやあ、ほんと、お忙しいところ悪いとは思ってるんですよ。でもこれが解決するまで俺らもそう簡単に帰るわけにはいかなくて」
「それで、本題は一体なんだ。無駄な会話の引き伸ばしはいい加減にしないか」
「……おや、引き伸ばしだと思われます?」
「どう考えてもそうだろう。君たちの言葉には何ら意味がない。私に聞きたいことがあれば最初から聞けばいいのだ。時間の無駄というものだ」
「まあ、そうですね。余計なこと喋りすぎだって、いつも怒られるんですよ」
 更に苛立ちを深めるばかりの城崎に対して、南雲はあくまでのらりくらりと言葉を連ねるばかり。見ている八束の方がはらはらする。
 とはいえ、止めろと言われた以上、長々と続ける気もなかったのだろう、今までの間の抜けた声音とは正反対の明朗な発声で言う。
「本題は一点です。さっき八束が言った通り、城崎さんが、河童の盗難に関わっているかどうか。我々がそう考える根拠は一つ、城崎さんのあのやたら目立つ車が、消えた河童が発見された場所の、すぐ側で目撃されていることです」
「それのどこが根拠だというのだね? 私がどこにいようと勝手だろう。私は、河童が消えていたことすら知らなかったのだ。発見場所の近くにいたのは単なる偶然だ」
「本当に、そうですかね?」
「くどい。それとも、君たちはそんなに私を犯人に仕立て上げたいのかね」
「そんなことは……!」
「八束」
 しっ、と南雲に制され、言葉をぐっと呑み込む。南雲の横顔を見れば、顔を真っ赤にして完全に怒りを爆発させようとしている城崎をじっと観察していた。視線、表情、言葉、何一つとして見落とすまいという、彼には珍しい強固な意志のようなものが感じられる。
 だが、そんな南雲の奇妙な静けさに、城崎は気づいていなかったのだろう。ステッキを握る手は震え、今にも南雲に向かって殴りかかりそうな熱を感じる。
「私は何も関わってなどいない! それに、もう河童は発見されて無事に戻ってきているのだろう? 君たちのしていることはもはや捜査ではなく、私に対する名誉毀損ではないのかね? ええ?」
 ――ここだ。
 八束は、すかさず声を上げていた。
「無事だと、どうしてわかるのですか?」
「な、何?」
「南雲さんは、河童が見つかったとは言いましたが、『無事戻ってきた』とは言っておりません。城崎さん、何故河童が無事であるとご存知なのですか?」
「ぐ……」
 紅潮していた城崎の頬から、にわかに血の気が引く。今の言葉が完全に失言であったことを悟ったのだろう。
「紛失した物品が、言葉通り『無事』に戻ることはまれです。ですから、城崎さん、あなたは盗まれた河童の状態を知っていた。どのように発見され、神社に戻されたのかも。だから『無事』なんて言葉が出るのです」
 城崎の喉から、唸るような声が漏れる。だが、言葉にするにはもう少しばかり時間が必要だった。しばしの沈黙の後、城崎は血走った目を八束に向けて、地を這うような声で言う。
「だが、私は盗んでいない」
「しかし、無関係と言えないのは間違いありません。あなたは、行方不明になった河童のミイラを確かに手にとり、それを知り合いである記者、笠居大和さんの家の前に置き去りにした。その理由は、笠居さんに、河童盗難の罪を擦り付けるためと考えます」
「違う! そんなものは君たちの妄想だ、それなら君は私がどうやって河童を手に入れたのか説明できるのか!?」
「ええ、説明できます」
 きっぱりと、八束は宣言する。
 まさか、ここでそう言われるとは思っていなかったのか、城崎は急に勢いを失い、かくんと顎を落とした。
 それを横目に、八束は視線を石段の方へと投げかける。そこには、あらかじめ、城崎の目の届かない位置で三人の話を聞いていた菊平と、その横で、今にも泣きそうな顔をしている菊平の息子――翔の姿があった。
「お姉さん……」
 ぽつり、と。冷たい空気の中に流れるのは、掠れた声。
「ごめんなさい、お姉さん、おれ……」
「わかっています、翔さん」
 八束は、あくまで静かに、彼の名を呼ぶ。
 
「河童のミイラを盗み出したのはあなたですよね、菊平翔さん」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(11)

「……城崎のクソジジイが?」
 八束の説明を聞いた菊平の第一声はこれだった。
 既に窓の外は暗く、社務所の部屋は煌々と蛍光灯の明かりに照らされている。そんな中で、座布団の上に正座した八束は小さく頷きを返して、続ける。
「笠居さんの家の近くで見かけられたそうです。正確には城崎氏本人ではなく、城崎氏の車ですが。ただ、特徴は一致していますし、この辺りで他に似たような車を見た記憶は、少なくともわたしは一度もありません」
「八束の記憶はあてにしていいっすよ。こいつ、一度見たり聞いたりしたものは絶対忘れないんで」
 そう、見聞きしたものを完全に記憶し、劣化なく保持し続ける能力は、八束の持つ最大の武器だ。正確に言えば「忘れる」という能力を欠いているということなのだが、こと事件の解決においてはこの記憶力が最大限に生かされる。
 菊平と笠居は一瞬の驚きの後、どこか疑うような視線を投げかけてくる。確かに、珍しい能力であることは八束も自覚している――ただし、八束の隣の部屋に住む学生さんも似たような能力を持つので、そこまでレアなわけでもないのではないか、と錯覚することはあるが。
 とにかく、疑われるのには慣れている。それに、重要なのは八束の記憶力そのものではなく、記憶された内容だ。
「わたしの記憶能力を今この場で証明するのはナンセンスと判断します。まずは、話を続けますね」
「あ、ああ」
 八束のきっぱりとした物言いに、菊平は少々気圧されるように頷いた。それを確認して、八束はこの場にいる全員にしっかりと届くように、一言一言の発声に気をつけながら話を続けていく。
「城崎氏の車が目撃された情報はそれのみのため、関係を断定することはできません。そのため、先に現時点ではっきりしていることを確認します」
 頭の中には、先ほど聞いてきた全ての情報がある。そのうち、今回の事件に関係している部分だけを抽出し、要約していく。
「笠居さんの家に河童の入った紙袋が置いてあったのは間違いないようです。置かれたその瞬間を目撃した人はいませんでしたが、情報を総合すると昨日の朝、笠居さんが仕事のために外出し、夜帰ってくるまでに紙袋が置かれたと考えてよさそうです」
「八束、念のための確認だけど。誰も見てないときに自分で置いたって可能性は排除しちゃって大丈夫?」
 座布団から長い足を投げ出した南雲が、菊平の用意した煎餅を食べながら言う。珍しく甘いものに手をつけていないのだな、と思ったが、既に手元に無数のチロルチョコの包みが落ちていることから、どうも口直しであるらしい。それにしてもこの男、何個チョコレートを持ち歩いているのだろう。謎は尽きない。
「今のところ否定はできませんが、勤務場所に確認を取れば、菊平さんが通勤以外のタイミングで家に戻るだけの時間があったのかは確認できるのではないでしょうか」
「昨日は一日編集部で原稿書いてましたしねぇ。自分が家に帰ってないことは証明できると思います」
「オーケイ。笠居くんもありがと。ってなわけで、笠居くんが河童盗難の犯人って線はほぼ消えたと思っていいと思いますよ、先輩」
 みたいだな、と。菊平は深々と溜息をつき、笠居に向き直る。
 そして、畳の上に指をついて、深く頭を下げた。
「疑って悪かったな、笠居さん」
「い、いえ、わかっていただければいいです。それに、河童も無事だったわけですしね」
 むしろ笠居の方が恐縮している様子で、わたわたと両手を振る。
 そう、確かに河童は戻ってきたわけで、これで菊平の依頼は終わったと判断することもできるのだ。
 南雲にちらりと視線を向けてみると、南雲は空になった煎餅の袋を折りたたんで丁寧に結んでいた。そして、綺麗なリボン型になった透明な袋を満足げに畳の上に置いたところで、口を開いた。
「先輩はどうします?」
「……何がだ?」
「河童は見つかったんで、解決は解決なんすよ。笠居くんが犯人かどうかってのは念のための確認ですし。何でもないのに俺が神社の周りうろちょろしてると、神社の心象も悪いでしょ。主に見た目的に」
 南雲は何だかんだで己の見た目が恐ろしいことはきちんと自覚しているらしい。自覚は大切なことである。それで改善を考えない辺りが南雲の南雲たる所以であるわけだが。
「で、先輩は犯人を知りたいですか?」
 いたって飄然とした口ぶりで言う南雲の表情は、相変わらずの険しさである。ただ、何故だろう。眼鏡の下の、黒々とした隈に囲われた目は、普段の虚空を眺める茫洋とした色ではなく、菊平を観察するような、もしくは値踏みするような、妙に鋭い色を湛えているように見えた。
 そして、菊平はそんな南雲の視線に射抜かれて、一瞬言葉を失ったようだった。だが、それはあくまで一瞬のことで、唾を飲み下して低い声で答える。
「……知りたいに決まってんだろ。次に同じようなことが起こらないとも限らねえんだ」
「本当に? 案外、知らない方がいいこともあるかもしれませんよ」
「お前、昔っからそういうこと言う奴だったよな。けど、今回ばかりは最初から最後まで俺の責任だ、どんなことでも、知らなきゃならんと思ってる」
 何故だろう。菊平の声は、精一杯の力を振り絞っているようにも思えた。南雲といい、菊平といい。二人の間には、言葉ではない別の張り詰めた何かが働いているような錯覚にすら陥る。それが「何」なのかはわからないが、八束の肌にもはっきりと伝わる緊張感。
 しばし、重たい沈黙が流れ――。
「ま、そうですよね」
 あっけらかんと言い放った南雲は、後ろ頭を掻く。その瞬間、ふっと何かから解放されたような感覚に陥り、八束自身は何もしていないのに呼吸を止めていたことに気づかされた。
「なら、乗りかかった船ですし、最後まで付き合いますよ。八束は?」
「元よりそのつもりです」
 ぴしりと背筋を伸ばして返事をする。まあ八束はそうだよねえ、と南雲は肩を竦める。
「ただ、一つだけ。先輩に念押ししておかなきゃならないことがあったんだ」
「な、何だよ」
「俺たちは、今回に限っては警察としてじゃなくて、先輩の友達としてお節介を働いている身っすよね。だから、犯人を探す手伝いはするけど、それ以上のことは何もできないし、してはいけない立場なんです」
「ああ、それは承知してるつもりだが、何か問題あんのか?」
 一体何を言われるのだろう、と思っていたのだろう、多少肩に力の入った菊平が怪訝な顔をする。だが、南雲は「いいえ、単なる念押しです」とだけ言って、菊平から視線を逸らし、それきり黙った。言いたいことはこれで全て、ということに違いない。
 とにかく、これで方針は決まった。ここからは、残された謎を一つずつ解き明かす必要がある。
「では、真犯人を知るためにも、今、わかっていないことを整理しましょう」
「そうだな。まず、犯人は誰であるのか」
「最も怪しいのは城崎のジジイだよな?」
 城崎に対してあまりいい感情を抱いていないらしい菊平が、眉間に皺を寄せて言う。しかし、八束は軽く首を横に振る。
「確かに、怪しくはありますが犯人と言い切るのは尚早と考えます」
「どうしてだ? 笠居さんの家の側で見かけられたんだろ? どう考えても河童のミイラを置きにきたとしか思えないだろ」
「城崎氏があの近くにいた可能性は高いでしょう。しかし、笠居さんの家に河童を置いた証拠は今のところありません。何より、『河童のミイラを持っていた』ことを証明できていないんです」
 む、と菊平の眉間の皺が深まる。八束の記憶では、城崎が神社に現れたのは昨日夕刻のこと。何とも悪趣味な黒塗りの車を鳥居の前に停めていたことを覚えている。
 その時手にしていたのはステッキのみであり、河童のミイラを持ち歩いていたようにも見えなかった。ミイラはそのまま持ち運ぶには脆すぎるし、箱ごと持ち運ぶとなればそれこそ適切な大きさの袋が必要になる。
 また、城崎はその前に一度、神社を訪れているという。その時には、河童のミイラにケチをつけるだけつけて帰っていったというが……。
「城崎氏は、河童が消える前に神社で河童のミイラを見ていた。それには間違いありませんよね」
「そうだよ。そう簡単に忘れられるか」
「では、それ以外のタイミング城崎氏を見かけたことはありますか? 河童のミイラが消えた後だったり、もしくは城崎氏が河童を見に来るよりも前などです」
 その問いに、菊平は少しばかり記憶を探るように顎に手を当てて黙り込んだが、十秒も経たないうちに口を開いた。
「河童が消えた後で城崎を見たのは八束ちゃんも一緒にいた、あの時だけだ。だけど、河童のミイラの展示を始める前なら、城崎は何度かうちに来てんだよ。こいつは八束ちゃんにも話したことあったと思うけど」
「はい。『黒鯨の髭』に関するお話ですね。その時、河童のミイラのお話は?」
「うちの神社には、『黒鯨の髭』以外にも、妖怪との講和の象徴として河童のミイラなんかが伝わってる、って話はしたが、興味を持ったようには見えなかったな」
 もちろん、俺が城崎の思惑に気づかなかっただけの可能性もあるが、と菊平は補足する。八束とて、話している相手の思惑を全て把握できるわけがなく、むしろ言葉を鵜呑みにして相手に騙される、なんてことが日常茶飯事のレベルだ。だから、相手が嘘をついている可能性、を無視してはならない。
 とはいえ、今ここにいない相手の思惑を考えても埒が明かないので、まずは菊平の話を前提に考察を続けていくことにする。
「しかし、今回『黒鯨の髭』には変化はなかったのですよね?」
「河童が消えた後に不安になって確認してみたが、変わらず安置されている。まあ、置いてある場所も違うしな」
「そうなのですか?」
 それは初耳だ。その声に反応したのか否か、視界の端で、ほとんど眠りかけていた南雲がぴくりと動いたのが目に入る。ちらりとそちらに視線を向けた菊平は、顎を撫ぜつつ続ける。
「代々、神社に伝わる物品はそれぞればらばらに保管してあるんだ。あ、場所は内緒な。捜査に必要、ってんなら考えるけど」
「いえ、大丈夫だと思います。河童の消失とそちらは別の問題であると考えます」
 とは言いながらも、八束の頭の中には、一つの可能性が見え始めていた。それはまだ単なる可能性に過ぎないが、「どうして」河童を盗み出したのか、という点に関わる気がしているのだ。
 ただ、それだけではやはり足らない。城崎を犯人だと仮定して考察を進めても、必ず一つの壁にぶち当たることになる。
 ――「どうやって」、河童を盗み出したのか。
 この一点が判明しない限り、この事件は本当の意味で解決することはないのだ。
 密室に見えた社から、忽然と消えた河童。銀色の足跡を残すという、趣味の悪い遊びすらも織り交ぜた消失に、八束はまだ納得のいく解が見出せずにいた。
 だが、南雲はどうだろう?
 南雲の観察眼は、八束とは全く別種のものだ。常にぼんやりしていて、人の話もろくに聞いていないところはあるが、彼はいつも八束には見えていなかったものを見つめている。
 それが、彼の言う「嗅覚」なのかもしれないけれど。
「……南雲さん、いかがですか?」
 問うてみると、南雲は剃り上げた後ろ頭を掻きつつ、逆に八束に問いを投げかけてきた。
「そうだな。八束は、どう考えてる? やっぱり城崎さんが犯人だと思う?」
「今のところ、それ以外に有力な人物がいないため、城崎氏を犯人と仮定した場合の状況を想定していました。ただ……、どうしても、城崎氏に河童が盗めたとは思えないんです」
「だよね。俺もその点は同感だ。仮に城崎さんにアリバイがなかったとしても、忍び込むのは無理があるんだよな」
 鍵は外側からかけられており、鍵は菊平が自宅にて保管。無理に開けたなら何かしらの形跡は残るはずだが、八束の見立てではその可能性はなし。窓を覆う雨戸は完全に施錠されており、壁に人が忍び込めるような穴は見当たらない。床に関しても同様の確認をしている。
 何かを見落としているのだろうか。重要な、何かを。
 それとも、そもそも城崎が盗んだという前提が根本的に間違っているのだろうか。
 思索の海に潜りかけていたその時、南雲がぽつりと言った。
「件の密室は本当に密室だったと思う?」
「……いえ、実際には違った、と思います。密室であってはならない。そうでなければ河童は消えない。それこそ、河童のミイラが自分で蓋を開けて、自発的に歩いていかない限りは」
「河童が歩いて逃げた説、まだ引きずってる?」
「まさか。河童は架空の生物です」
 だよね、と南雲はおどけて肩を竦める。南雲も別段本気で言ったわけではなさそうだった。
「とすると、社の密室が密室でない根拠。もしくは、その瞬間だけ密室を破る方法が必要なんだろうな」
 南雲は、おそらく彼自身が考えをまとめるためでもあろうが、一つずつ、要素を言葉にしてくれる。それによって、八束の中でも雑多に撒き散らされていたピースが、まとまりを持った塊として捉えられていく。
「うーん、密室を破る一番簡単な方法は、当然だけど鍵を開けて普通に入ることだけど」
「それはそうですが、鍵は神主さんが保管しているもののみです。しかも、それは当日神主さんの自宅の方にあったと聞きます。神主さんが自分で鍵を開けたと?」
「あー、念のため言っとくがそれはねえぞ。何で自分で鍵開けて河童盗まなきゃならないんだ。それができるなら、もっと上手くやるしお前らにも頼まねえよ」
 菊平は呆れたように口を挟んでくる。八束も「そうですよね」と頷いたその刹那、閃きがあった。足らないと思っていたピースの一つが、記憶の闇の中で瞬いた、そんな感覚。
 だが、それは――、それは。
「南雲さん」
「なーに? 何か気づいた?」
 南雲は、本当に八束の変化を見逃さない。いつもあれだけぼんやりしていても、どんなに仕事に不真面目であろうとも、八束が南雲をただのダメな人間と思えないのは、こういう気配りの細やかさにある。
 だから、八束は見下ろしてくる視線の鋭さに臆することなく、一つの疑問を言葉にする。
「本当に、城崎氏は犯人なのでしょうか?」
 それを聞いた菊平や笠居が、驚きの声を上げる。
「待て、どういう意味だそれ?」
「この期に及んで真犯人が別にいるってことですか!?」
 ただ、南雲だけは特に表情を変えるわけでもなく、視線だけで八束に話の先を促す。
「城崎氏には、あの密室を破ることができなかった。もちろん、神主さんが密室を破る理由もありません。しかし、たった一人だけ――」
「……八束」
 ぽつり、と。南雲の声が、八束が続けようとする言葉を遮った。八束は、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んで、南雲の言葉を待つ。
「言いたいことは、わかった。それなら納得できる」
「しかし。その場合、動機に関しては振り出しに戻りますが」
「その辺りは俺がフォローする」
「できるんですか?」
 八束の仮定であれば「どうやって」河童を盗んだのかは説明できる。だが「どうして」の部分が説明できなかったのだ。明らかに、理由が欠け落ちていたから。
 しかし、南雲はこめかみの辺りを指でとんとん叩きながら、眼鏡の下の目を細めた。
「言われて、引っかかってたことを思い出したから。多分、繋がった」
 南雲がそう言うなら、信頼してよいだろう。南雲がこうして八束の手の届かない部分に思考を回してくれるからこそ、八束は一つのことについて迷うことなく思考を働かせ続けることができるのだ。
 その時、菊平が「おいおい」と言いながら割って入ってきた。
「どういう話になってるんだ? 俺らにもわかるように説明しろよ」
「はい、もちろんお話しいたします。ただ、そのために、城崎氏を呼んでいただきたいのです」
「……何?」
「犯人であるかどうか、という点とは別として、城崎氏に話を聞かなければ、この事件は終わらないと思います。『黒鯨の髭』について話がある、と言えば城崎氏も都合をつけていただけるのではないか、と考えます」
 それに――、呼び出す口実ではあるが、あながち嘘でもないのだ。
 この事件には、『黒鯨の髭』も少なからず関わっていると考えられるから。
 菊平は、目の奥の奥に八束の真意を見出そうとするかのように、じっとこちらを睨みつけてくる。だから、八束も真っ直ぐに菊平を見つめ返す。
 しばしの沈黙の後、菊平は溜息交じりに言った。
「わかった、城崎の爺さんに連絡をつけよう。会える日取りがわかったら連絡する」
「お願いします」
 八束は、ぺこりと頭を下げる。
 すると、頭の上から、か細い声が聞こえてきた。
「あのぅ、自分はどうすればいいですかねぇ」
 ――そういえば、とそちらを見れば、笠居が困った顔で八束を伺っていた。
 笠居が今回の事件に関わっていないということは、この場の全員が確信している。ただ、笠居が犯人に罪を着せられかけたことは間違いない。事件の経過は気になるようで、すぐ立ち去る気にはなれずにいるようだった。
 すると、南雲は先ほどまでとは打って変わって、いつもの茫洋とした口調で言う。
「そうだな。笠居くんには、ちょっとやってほしいことがあんだけど。俺の個人的なお願いで」
「は?」
 笠居の口から、間抜けな声が漏れた。そんな申し出を受けるとは、想像していなかったに違いない。正直に言うならば、八束も想定していなかった。目を白黒させていると、南雲は笠居の肩をぽんぽんと叩いて言う。
「いやー、笠居くんだって気になるでしょ? 真犯人」
「そりゃ気になりますけど、自分にできることなんてないですよ?」
 そうかな、と。南雲は目を細める。きっと、彼なりに笑っているつもりなのかもしれなかったが、単に眼光が鋭くなるだけの効果しかないことに、気づいているのだろうか。笠居が怯えている気がするのは、全くもって気のせいではないと思う。
「だから、真犯人を教えるのと、あと俺の持ってる笠居くんが面白がりそうな情報いくつかと引き換えに、協力してくんないかな。大したことじゃあないんだけど、本当に個人的なお願いだから、詳しくは後で一対一の交渉になるけど」
「……引き換えにもらえる情報、って何ですか?」
「そうだな。『例の事件』の真相について、とかどう?」
 南雲の提案の意味は、八束には理解できなかった。だが、それを聞いた笠居の表情が一変したところを見るに、笠居にとって重要な意味を持つ条件であった、ということだけは判断できた。
 ふう、と息をついた笠居は、その肉付きのいい顔に苦笑を浮かべて言う。
「それをちらつかされて、やらないなんて言ったら『幻想探求倶楽部』の恥ですわ」
「オーケイ。じゃ、詳細は後でメールで送るわ。名刺ちょうだい」
 渡してませんでしたっけ、と首を傾げながらも、笠居は南雲と、ついでに八束にも名刺を手渡してくれた。
 南雲は目を細めて名刺の中身を確認すると、ゆっくりと腰を上げる。
「じゃ、今日はこの辺で」
 菊平が、座ったままひらりと手を振る。
「ああ……。よくわかんねえけど、解決するならいいや。頼むぜ、お二人さん」
「はい。お任せください」
 八束もぴょんと立ち上がって、菊平と笠居に挨拶をした後、南雲とともに社務所を後にした。
 夜の闇はすっかり周囲を包み込んでおり、頼りない明かりに照らされた境内は、しんと静まり返っていた。微かに八束の頬をなでて過ぎ去っていった風は、いやに冷たかった。
「しかし、なーんとなく嫌な予感はしてたんだけど、ここまでよく当たるとはな」
 ぽつり、と。南雲の呟きが、夜風に流されてゆく。
「嫌な予感――、ですか?」
「そ。だって、河童を見に来た時点では、こんな厄介ごとに巻き込まれるなんて八束だって思ってなかったでしょ」
「それはそうですが、厄介ごととは思っていませんよ。神主さんのお悩みを解消できるなら、わたしは本望です」
「八束は考え方がシンプルで羨ましいよ」
 ……今のは、褒められたのだろうか、それとも遠まわしにけなされたのだろうか。判断に苦しんでいると、南雲の手が八束の頭を乱暴に撫でた。
「ま、俺たちの役目はあくまで事件の解決だからね。精々気張って行きますか」
 八束は、南雲を見上げてきっぱりと頷く。
「はいっ。時計うさぎの不在証明と参りましょう」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(10)

 こつこつ、とアスファルトに音程の異なる三つの足音が響く。
 暮れ行く西の空に輝く夕日が、三つの影を道路の上に伸ばしていた。やけに小さいのと、少し横に大きいのと、縦に長いの。あまりにも凸凹で共通点の見出せない足下の影を、つい目で追ってしまう。
 もちろん、影で遊んでいるわけではない。今から、河童が見つかった状況を確認しに行くのだ。――が、その前に。
「南雲さん、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「笠居さんは、河童の失踪に関係していると思われますか?」
 今まで聞いた話だけでも、もやもやするものがあった。銀色の痕跡を残して消えた河童。それから二日の後に突然見つかった河童、それを神社まで持ってきたという笠居。何かが繋がりそうで繋がらないもどかしさがある。
 南雲が八束の思考をどれだけ汲み取ったのかはわからない。だが、八束が最も聞きたかった言葉を的確に返してくる。
「んー、笠居くんは犯人じゃないとは思うよ」
 それを聞いて、笠居が顔いっぱいの期待を篭めて南雲を見上げる。とはいえ、当の南雲はつれないもので、虚空をぼんやりと眺めるばかりであったけれど。
 八束は「犯人じゃない」という南雲の言葉を噛み締めながら、改めて問い直す。
「根拠はありますか?」
「ノー根拠ではないよ。まだ、今回の出来事を丸々は説明できないけど」
「わかりました。現在の南雲さんの考えを聞かせていただけますか」
 八束が身を乗り出すと、南雲は「んー」とこめかみの辺りをこりこり掻きながら喋り始める。
「八束もわかると思うけど、笠居くんが河童を盗んだ犯人だと仮定するなら、笠居くんの供述には嘘があるってことだ」
「はい、その通りです。河童が家の前に落ちていた、という前提がそもそも嘘であることになります。……やはり、南雲さんも違和感がありますか」
「違和感もあるけど、笠居くんの話で一番愉快なのは、現実に、落ちてた河童を神社に持ち込んじゃったことだろ。犯人だったら絶対やらないよ、そんなアホなこと」
 言われてみれば、あまりにもシンプルな話であった。シンプルすぎて、逆に何か裏があるのではないかと考えすぎていた部分でもある。ただ、厳然たる事実として笠居が河童のミイラを神社に持ち込んでいることだけは、確かなのだ。
「逆に犯人であるとするなら、犯人とバレる覚悟を決めてでも先輩に河童を返すだけの理由が必要なわけだ。でも、その理由は今のところ見当たらないでしょ」
「そう、ですね」
 単純に情報が足らないという可能性もある。ただ、考えれば考えるほど、笠居が犯人ではありえない、という考えの方が強くなってくる。
 とはいえ、まだ仮定の段階だ。全ての情報が揃うまでは、考えの一つとして頭の片隅に置いておくことにする。
「あと、笠居くんが犯人であろうがなかろうが、確認が必要なんだよな」
 南雲はちらりと笠居に視線をやる。笠居は「何です?」と怪訝な顔をする。
「あんた、神社から河童がいなくなってたってこと、知ってた?」
「いやぁ、そんなの知るわけないじゃないですかぁ! だから本当にびっくりしたんですよ、ミイラが神社のものだって聞いて」
 そう訴える笠居の様子からは、嘘をついているようには見えない。が、八束の見立ては大体において当てにならないことは、八束自身が一番よく知っているので、印象で判断してはいけないと己によくよく言い聞かせる。
 南雲は感情が全く伝わってこない仏頂面で笠居の言葉を受け止めて、一拍置いて「やっぱりそうだよね」と己のつるりとした頭を撫ぜた。
「うん、そうじゃないとおかしい。笠居くんは正しいよ。河童が消えたことは、菊平先輩が隠してたんだから。俺たちと、菊平先輩くらいしか知らないはずだ」
 ――あと、知っている人間がいるなら、犯人くらいだろうね。
 ほとんど囁くように、南雲の薄い唇が動く。それで、八束もやっと思考が南雲の考えに追いついた。
「なるほど……。笠居さんは、神社から河童が消えていたことを知らなかった。だからこそ、河童のミイラに詳しいであろう、神主さんのところに持ち込んだんですね。それがまさしく神社の河童であるとは知らず」
「で、河童が消えて気が立ってた先輩にめっちゃ怒られて今に至る」
 笠居の今日の動きに関しては、何となく把握ができた。何故神社に河童を持ち込んだのか、という問題も、あくまで想定ではあるが納得のできる理由である。
 南雲は相変わらず視線を空に逃がしたまま、手首に下げたコンビニ袋からチロルチョコを補充する。
「いやまあ、笠居くんが嘘吐きじゃない証拠もないけどね。ほら、嘘を誤魔化すために嘘ついてくうちに、どんどん面白いこと言い出すタイプかもしれないじゃん?」
「南雲さんは自分のこと何だと思ってるんですかねぇ」
「さあね」
 笠居のじと目をあっさりといなす南雲の内心は相変わらず計り知れない。笠居に対して、どんな感情を抱いているのかも、頭の先から顎の先まで土気色の面から見出すことはできないのだ。
 きっと、南雲の内心を計れなかったのは笠居も同様だったのだろう。どこか不安げな表情で南雲を見やり、そして八束にそっと耳打ちしてくる。
「……南雲さんって、いつもこんな感じなんですかね?」
「はい。遺憾ながらいつも通りです。でも、今日は比較的機嫌はいい方だと思いますよ」
 仕事の話を振る時よりよっぽど反応はいいから、機嫌は悪くないはずだ。少々意地悪な物言いは、彼の性質なので気にしても仕方ない、と思うことにしている。
 ただ、初めて――の割にはある程度知っている風でもあるが――南雲とやり取りを交わす笠居にとっては、南雲の見かけ上の恐ろしさと反応の薄さは十分な脅威なのだろう。だから、不思議そうな顔をして八束に問いかけてくる。
「いやぁ、よくわかりますね。八束さんは、南雲さんとはどのくらいの付き合いなんです? やっぱりそれなりに長いんで?」
「わたしが待盾署に転属になってからなので、一ヶ月ほどになります」
「一ヶ月であの強面に慣れるのはすごいですねぇ……」
 笠居は本気で感心しているようで、何だか妙にくすぐったい。
 もはや八束も笠居も声を全く落としていないが、話が聞こえているはずの南雲は特に気を害した様子でもない。西からの日差しが眩しいのか少し目を細めて、チョコをもしゃもしゃ咀嚼しているところを見るに、話に積極的に加わる気もないようだ。南雲のマイペースさはいつものことながら、もう少しばかり愛想というものを見せた方がよいのではないか。八束がいつも冷や冷やしていることに気づいているのだろうか。
 考えたところで、南雲の態度が改善するわけがないのは八束が一番よくわかっていたので、意識を切り替え、この機会に一つ気になっていたことを笠居に問うてみることにした。
「そういえば、笠居さんは南雲さんとお知り合いなのですか? 先ほど、少しだけ南雲さんのことをご存知であるかのようなお話をされていたと思うのですが」
 すると、笠居は露骨に困った顔をした。もしかして、聞いてはいけないことだったのだろうか、と思っていると、頭上から声が降ってきた。
「笠居くんは、どうも俺のこと調べてたみたいなんだよね。物好きだよねえ」
「南雲さんのことを、ですか……? 笠居さんは、オカルト系の雑誌の記者さんですよね。南雲さん、何かオカルトに関わっていたことがあるのです?」
「今まさに」
 南雲は飄々と言い放つ。――確かに、南雲の言うとおり、八束と南雲はオカルトと否応なく関わる秘策であり、今まさに河童というオカルトの申し子を相手にしているわけだが。八束が言いたいのはそういうことではない。
 むっとして頬を膨らませていると、南雲はすぐに肩を竦めて言う。
「っていうのは冗談として、八束が来る前にちょっとね」
 ちょっと、という曖昧な言葉には引っかかるものがあった。ただ、何となく。本当に何となくだが、南雲にそれ以上の話を聞くのは躊躇われた。
 プライベートな話だから詮索しないでくれると嬉しい、という南雲の言葉が、頭の中に蘇る。直接的な拒絶ではないけれど、普段は全く感じられない壁のようなものを、その鋭い視線の奥に感じずにはいられなかったのだ。
 妙なもどかしさを感じていたその時、笠居が声を上げた。
「あ、こちらが自分の家です。家って言ってもアパートですけど」
 その一言で、八束の全身を支配していた呪縛が解けた。南雲についての疑問も一旦は横に置いて、八束は目の前に建つアパートに意識を向ける。
 見たところ築三十年くらいと思しき、二階建てのアパートだ。そのうちの一階の最も東側にある一室が、笠居の今の住居であるようだ。
「河童のミイラは、ここに置いてありましてね」
 笠居が指したのは扉のすぐ手前。ただ、扉にはぶつからないように、少しだけずれた位置に置いてあったらしい。
「……紙袋が突然置いてあって、驚いたり、疑ったりはしなかったんですか?」
 知らない相手からの贈り物とあっては、警戒して当然であろう。そう考えはしたのだが。
「うち、時々ご近所さんが余った野菜とか置いてってくれるから、今回もそれかなと思って特に疑わなかったんですよねぇ」
 その言葉に、八束は思わず納得してしまった。
 八束も現在は市内の安アパートに暮らしていて、よく大家さんや隣人の料理好きな大学生などが、差し入れを持ってきてくれるのだ。どうも、八束の食生活を心配した南雲が根回しした結果らしいのだが、何だかんだで助かっているのは確かだ。八束が不在の時は、メモつきでタッパーが玄関の扉にぶら下げられていることも多い。
 つまり、笠居が河童のミイラを受け取ったのも、普段の行動の延長でしかない。
 内気そうな容貌に反し、ご近所づきあいはすこぶる良好のようだ。暮らしやすさという点では大切なことだが、今回ばかりはそれが笠居にとって悪い方向に働いてしまったのが悲しいところではある。
「でも、中に入ってたのが河童のミイラだったものだから、本当にびっくりしてしまいまして。一応、いつも差し入れしてくれる人たちには聞いたんですよ、この紙袋は誰が持ってきたのかって。でも、誰も知らなかったんですよねぇ」
「なるほど。……今から、もう少し、アパートの人たちに、この紙袋が置かれるまでの状況を細かく聞いてみたいのですが、ご協力お願いしてもよろしいでしょうか」
 流石に、スーツ姿の八束と南雲だけが突然訪問しては、警察であるかどうかを抜きにしても、確実に住人に怯えられてしまう。何しろ、一見中学生にしか見えない女と、ヤのつく自由業にしか見えない男の組み合わせだ。強行犯係の先輩が「組長が溺愛してる孫娘とそのボディーガード」と評したのを、「センスあるよね」と南雲が絶賛してたのは記憶に新しい。
 というわけで、アパートの住人への質問は、主に笠居に委ねられた。
 後ろに立って話の内容を聞く八束と南雲に不審の目を向けられることは変わりなかったが、それでも、相手が笠居ということもあって、かなりスムーズに情報を集めることはできた。
 そのほとんどは、既に笠居から聞いた話であり、紙袋を置いた人物の手がかりになりそうなものは何一つなかったのだが。
 ――ただ、一人だけ。
 紙袋を置いた人物はわからないまでも、この近くで見慣れないものを見たという人物がいた。アパートの二階、西側の部屋に住む女性の証言である。
「そう、朝型だったと思うわ。あそこの角に、珍しい車が停まってたのよねえ」
 珍しい、車。
 その言葉に、つい最近目にしたものが浮かんでくる。
「何か、やな予感がするな」
 ぼそりと、南雲が呟いた。
 実のところ、八束もそれは感じていた。普段は予感というものを信用しない身であるし、そもそもの感覚が鈍いことに定評もある。そんな八束でも、次に来る言葉だけは、はっきりとわかってしまったのだから。
「――真っ黒な、すっごく高そうな車だったのよ」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(9)

「違うんです、自分は無実なんですぅー!」
 戸を開けて、八束結が社務所に一歩足を踏み入れた途端、聞こえてきたのは甲高い悲鳴であった。
「何これ」
 黒縁眼鏡の下で目を細めた南雲彰の言葉は酷く端的であったが、それ以外に何も言いようがなかったのだろう、と思う。八束だって全く同じことを考えていたから。
 八束たちの訪問に気づいたのか、奥から顔を出した菊平亮介が、げっそりとした顔で「おう」と手を上げた。八束はぺこりと一礼し、それから改めて菊平を見上げる。
「ご連絡ありがとうございます。河童消失事件に進展があったと聞いて来ました」
 八束の携帯電話に菊平から連絡があったのは、午後二時三十五分。南雲の机の上に、新たな住人である黄緑色の河童さんが加わったすぐ直後のこと。電話に出た八束の挨拶が終わらないうちに、菊平が言ったのだ。
『消えた河童が見つかった』
 ……と。
 しかし、そこまではよかったのだが、どうも菊平の言葉は歯切れが悪かった。しかも、後ろから何か喚くような声が聞こえてくる。電話越しで通信状況もあまりよくなかったため、その声をきちんと聞き取ることはできなかったが。
 ただ、単純に河童が見つかって解決、というわけではない、ということだけはわかった。
 とりあえず、仕事が終わり次第すぐに行く、と約束して電話を切ったのが、今から一時間前のことである。
「悪いな。けど、お前ら仕事はどうした。まだ終業には早いだろ」
「暇だったんで来ましたー」
「暇じゃないですよ! わたしが全部片付けたんじゃないですか!」
 八束の抗議は、案の定南雲の耳を右から左に抜けていったようで、眼鏡越しの視線が完全に虚空を眺めている。
 実際には、菊平の連絡を受けた後、綿貫の許可を得て駆けつけたわけだが、どうしても本日分の任された仕事だけは終わらせたかった八束が、南雲の分も含めて一気に片付けたというわけだ。南雲は「完璧主義者ぁ」と囃したが、与えられた仕事をきっちりこなすのは、最低限の常識であると八束は考えている。
 ――そういうところが、完璧主義者と呼ばれる所以であることも、わかってはいるのだが。
 ともあれ、まずは状況の確認からだ。
「お話によれば、河童が見つかったというお話ですが」
「ああ。河童を盗んだ犯人もな」
 そう、菊平が言いかけたとき。
「違うって言ってるじゃないですかあああ!」
 すぱーん、という音と共に、畳の広間の戸が開き、一人の男が顔を出した。丸々とした体つきをしたオタク風の男。つい昨日見たばかりの顔だ。ただ、人のよさそうな丸顔は真っ赤になっており、よく熟れた林檎を連想させる。
 八束は、呆気に取られながらも、何とか確認の言葉をひねり出した。
「……ええと、笠居さん、でしたね」
 ぶんぶんと上下に首を振る笠居大和。そして、八束と南雲を改めて見やり、赤かった顔が蒼白になる。
「ま、まさか、逮捕ですか!? 警察の人がここにいるってことは、それしか」
「まさかー」
 腰に手を当てた南雲が、険しい表情とは裏腹のいたって暢気な声で言う。
「現行犯ならともかく、今来たばかりの俺たちが、ここで騒いでるだけのあんたを逮捕するのは不可能だよ」
 いたって正論である。警察官は、そこまで自由に手錠を操れるわけではない。その言葉と、南雲のいたってゆるい姿勢が限界まで張り詰めていた笠居の緊張を解いたようで、その場にへたり込んでしまった。苛立ちをあらわにしていた菊平も、いつもと何一つ変わらない態度の南雲に毒気を抜かれたようで、ふうと溜息をついて笠居から視線を切った。
 南雲は、コンビニ袋から本日の甘味であるきなこもちチロルを取り出しながら、菊平に向き直る。
「で、状況聞かせてもらってもいいっすか? あ、俺じゃなくて八束に」
「南雲さん……」
 それが最も合理的であることはわかっているが、南雲に言われるとサボりとしか思えないのが彼の人徳というやつだろう。実際に、南雲はそれきり何も言わずきなこ色のチョコレートを口に放り込むばかりであったから、サボりの可能性は否定できずにいる。
 菊平は、あくまでマイペースな南雲を珍獣を見るような目で見やったが、気を取り直すように首を振って、八束の方に視線を向けた。
「そうだな。まずは、状況を説明するよ。入ってくれ」
 八束と南雲は招かれるままに畳の間に入り、菊平が用意した座布団の上に座る。廊下に座り込んでいた笠居も、不安げな顔をしながらもついてきて、八束の斜め横に座った。
 きっちり足を曲げて正座した八束は、背筋をぴんと伸ばし、菊平に向き合う。
「では、今日何があったのか聞かせてください」
「ああ。今日も朝から今まで、境内で消えたミイラを探していた。ミイラそのものがいなくても、せめて、何か手がかりのようなものが落ちてないかと思ってな。だが、昨日一昨日とあれだけ探して何も出てこなかったんだ、今日に限って出てくるってこともなかった」
 あれだけ探しても見つからなかったのだから、もう二度と出てくることはないのではないか。そんな思考もよぎったらしい。最低でも、自分と協力者である八束と南雲だけの力では限界なのかもしれない、と。
 しかし、そんなことを考え始めた時、声をかけられた。
「そこの記者にな」
 昨日と同じような格好をした笠居は、紙袋を片手に、困った顔で菊平に話しかけてきたのだという。
「一体、何と?」
「『河童のミイラを拾ったのだが何か心当たりはないか』ってな」
「ひ、拾った?」
 八束は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。見れば、笠居は亀のように首を縮めていた。
「家の扉の前に置いてあったんですよぅ。紙袋に入って」
「置いてあった!?」
「自分、中身見てびっくりしちゃいまして。だけど、誰がそんなことをしたのかもわからない。それで、河童のミイラといえばこの神社だと思って、ここに来たんですよ」
 にわかには信じがたい話だ。ちらりと横の南雲を見ても、南雲はチロルチョコを黙々と口に放り込んでいるだけで、何を考えているのかさっぱりわからないため、全く役に立たない。
 こちらが疑いの目を向けていることは承知なのだろう、笠居は、俄然おろおろしながら言葉を続ける。
「そしたら、神主さんがここの河童だっていうし、自分が河童を盗んだ犯人だって言われるしで、もう何が何だかわからなくて困ってたんですよ!」
「そんな怪しいこと言われれば、疑うに決まってんだろ」
「だからあ」
 また不毛な言い争いが発生しそうだったので、慌てて八束が菊平を制止する。
「神主さんも落ち着いてください。まずは状況をはっきりさせないと話になりません。笠居さんが嘘をついているとはっきりしたわけじゃないんですから」
「む……」
 菊平は八束の言葉に、小さく唸りながらも浮かしかけていた腰を下ろした。八束は内心で胸を撫で下ろし、できうる限り落ち着いた声で菊平と笠居に言う。
「その、河童のミイラはどちらに? できれば紙袋も一緒に見せていただきたく思います」
「ここにある」
 菊平が、背中側に置いてあった箱と紙袋を前に出す。目測で縦四十センチ、横二十センチ程度の古びた木の箱。元々風呂敷に包まれていたのだろう、無地のクラフト紙の紙袋と一緒に、紫色の風呂敷も置いてある。
 八束が見る限り、箱自体は、何の変哲もない箱であるように見える。
 ――が。
「……っ、八束、確認終わったら呼んで。外にいるから」
 南雲が、弾かれるように立ち上がって、早口に言い残すと飛び出すように部屋を出て行った。八束は、ぽかんと口を開け、南雲が出て行った戸を呆然と見つめてしまった。菊平と笠居もそれは同様だったようだが、数秒の後、ぽんと手を叩いた菊平が言った。
「あー、ミイラだけはダメなんだ、あいつ」
「ミイラ……、あ、なるほど」
「えっ、えっ、なんで笠居さんまで訳知り顔なんですか!?」
 八束が思わず声を上げると、今まで諍い合っていたのが嘘のように、菊平と笠居は顔を見合わせて微妙な顔をした。一体、何だというのだろう。
 しばし微妙な沈黙が流れたが、菊平が溜息混じりに言った。
「まあ、後で南雲に直接聞いてみろよ。俺の口から言うもんでもない」
「は、はあ……」
 どうも納得はできないが、南雲から聞け、と言われてしまった以上ここでごねても仕方がない。本題は南雲ではなく、あくまで目の前の河童のミイラなのだ。
 菊平の許可を得て、手袋をした上で箱の蓋をそっと開ける。
 中には、柔らかそうな布の上に、黒ずんだ色をした、干からびた物体が横たわっていた。獣のような骨格を持つ、奇妙なミイラ。
 ――これが、河童のミイラ。
 もちろん偽物は偽物であり、八束の目からもそれが実在の動物を繋ぎ合わせたものであることは判断できた。それでも、箱の中に眠るそれは不思議な存在感を湛えていた。菊平から、この神社に代々伝わる物語を聞いたからかもしれないが。
 そして、八束はこれを見るために玄波神社を訪れたのだ、ということを今更ながらに思い出す。それが、何故かミイラ探しに発展してしまって、今やっと八束の手の届く場所にまで戻ってきたわけだ。
 ……それでも、まだ、謎は解けない。
 笠居がここに河童のミイラを持ってきたことはわかった。だが、それまでの行方は依然としてわからないままだ。どのようにして、河童が消えたのかも。
 白い手袋の指先で、箱の周囲を確かめる。古い箱のため、随分と木の繊維が付着する。下手に力でも入れようものなら壊れてしまうかもしれない――、と考えてみたところで、箱の側面に違和感があることに気づく。
 よくよく見てみれば、小さな傷がいくつか見て取れた。爪の跡、だろうか。それにしては妙に細かな傷だと思う。また、他の傷に比べると傷の周囲の削れ具合などから比較的新しい傷のようにも見えた。
「神主さん、こちらの箱の傷は、紛失前からついていたものでしょうか」
「あ?」
 菊平が、八束が持ち上げた箱の側面を覗き込む。目を細め、眉間に皺を寄せてじっと傷痕を眺めてから、首を横に振った。
「いや、正直わからねえな。箱の傷は意識してなかった」
「そうですね、特に目を留めない部分ではあると思います」
 八束も素直に菊平の言葉を認めた。特に、ミイラそのものでなくそれが入っていた「箱」なのだから、菊平の意識が向いていないのも当然だろう。
 ただ、違和感であることは間違いない。単なる思い過ごしの可能性もあるが、全てが明らかになっていない以上、少しでも気になった点は頭の中に刻み込んでおく必要がある。箱の形状、傷、その状態。また、ミイラの姿を細部まで確認しながら菊平に問う。
「ミイラに関しては、消える前と後とで何か変化はありますか?」
「俺が見る限りは特にない。何かを入れたり出したりしたわけでもなさそうだ」
「なるほど」
 八束は蓋を閉じ、笠居に向き直る。笠居は小さな目でおどおど八束を見返してくる。その様子を見る限り、彼が河童を盗み出した犯人とは考えづらい。ただ、今まで当たってきた事件でも、一見して犯人とは思えない人物が犯人であることは多々あったのだ。単純に決め付けるわけにはいかない。
 では、これから確認すべきことは何か。消えていたはずの河童が発見された場所がどこであるか、だ。
「あの、笠居さん」
「は、はいっ」
 返事の声も裏返っている。そこまで緊張しなくてもよいのに、と思いながらも構わず話を続ける。
「この河童を見つけた場所に連れて行っていただけませんか」
「それって、つまり自分の家ですか」
「はい。どのような状況だったのかを確認したいのです。よろしいでしょうか」
 笠居は八束の申し出に対して一瞬は逡巡したようだったが、すぐに小さく頷いた。
「それで、自分の疑いが晴れるなら。ここからそんなに遠くないんで、今すぐにでも案内できますよ」
「ありがとうございます。それでは、お願いします」
 八束は箱を丁重に菊平に返し、腰を上げる。思い立ったらすぐ行動、が八束のモットーだ。拙速は巧遅に勝る、かどうかは状況次第なわけだが、黙って状況の変化を待つよりは、動きながら考えた方が性に合っている、と言った方が正しい。
 八束に続けて腰を浮かせかけた菊平が、八束に問う。
「俺は一緒に行った方がいいか?」
「菊平さんは、河童のミイラを見張っていていただけますか。また、何かあったら大変ですから」
「確かに。じゃ、頼む」
 菊平に一つ頷きを返し、八束は部屋を出る。すると、南雲は玄関の上がりの辺りに腰掛けていた。毎日毎日きちんと剃っているらしい形のいいスキンヘッドをゆらりと揺らして、こちらを振り向く。
「あ、話終わった?」
 玄関と部屋とを隔てていたのは薄い扉一枚と狭い廊下だ、話は大体のところ聞こえていたのだろう、とは思う。ただ、南雲は時々目を開けて寝てるようなことがあるため、後できちんと情報を統合すべきであろう。そんなことを思いながら「はい」と返事をする。
「今から、河童が発見された笠居さん宅に向かいます」
「了解ー」
 南雲は立ち上がると、八束の後ろで身を縮ませていた笠居を見やる。八束は「いつものこと」と思ってそこまで意識はしていなかったが、南雲の身長は日本人にしては妙に高いため、ほとんどの場合は完全に「見下ろす」形になってしまう。
 もちろん、笠居に対してもそうだ。
 べったりと隈の浮いた鋭い目に睨まれた――ただし、南雲自身は全く睨んでるつもりはないらしい――笠居は、変な息を吐いて硬直している。あまり長く人と目を合わせようとはしない南雲には珍しく、じっくりと笠居を観察した南雲は、やがて軽く肩を竦めて視線を逸らす。
「あんた、よく貧乏くじ引くタイプじゃない?」
「……人聞き悪いですねぇ」
 そうは言いながらも、笠居は南雲の言葉を否定はしなかった。ただ、唇を尖らせただけで。それで南雲は満足したのか、猫背を更に丸めて社務所の戸を開け、いつもと何一つ変わらない仏頂面のまま顎をしゃくった。
「じゃ、案内してよ、笠居くん。件の河童を見つけた場所にさ」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(8)

「……あなた、南雲彰さんですよね?」
 待盾署からここに至るまで八束も口に出していなかった、南雲の「名前」。
 それを呼んだ人物は、いつの間にかベンチに腰掛けた南雲の目の前に立っていた。
 眠気で重たい顔を上げた南雲は、無言をもって肯定とした。返答が億劫だったと言った方が正しいか。
 もちろん、そこにいるのは笠居と呼ばれていた小太りの男だ。鳥居の前の車が消えているところを見るに、城崎は既に去った後だろう。そこまで確かめたところで、意識を目の前の男に戻す。
 笠居は、にこにこと人懐こそうな笑みを浮かべてこそいるが、その細めた目は妙にぎらついた光を帯びている。目の前に座っている己の内側までを暴きたてようとする目。
 ――記者という人種特有の、嫌な目だ。
 唾を吐きたくなるような衝動は、しかし目の前の記者には伝わらなかっただろうし、伝わらなくてよかったとも思う。感情的になったところで、何もいいことはない。
「噂には聞いてましたが、本当にまだ待盾にいたんですね」
「いちゃ悪い?」
 しかし、内心の不機嫌さを覆い隠しきれるほど、南雲も大人ではない。声にだけはどうしても感情がにじみ出てしまう。目の前の記者はそれを感じ取れる程度には敏感だったのか、ぎくりと表情を強張らせた。
「あ、いや、別に、悪かないですけど」
「用件は手短にね。俺は暇じゃない……、って言ったら嘘になるけど、あんまり機嫌がよろしくない」
「暇なのは事実なんですね」
「そうなんだよね。いやまあ、好きで暇してるからいいんだけど。ぬいぐるみ作りもはかどるし」
 笠居の目が、露骨な困惑に揺れた。
「……ぬいぐるみ?」
「そう、ぬいぐるみ。哺乳類は結構作ったし、たまには不思議生物シリーズでも作ってみようかなと思ってたところで、河童の話題はいいタイミングだったよね。河童の次はやっぱり猫又かなと思ってるんだけど。いやあ、猫又は憧れるよね、ただでさえ魅力的な尻尾が二本とか、ご褒美でしかな」
「ちょ、ちょっと待ってくれません?」
 慌てた様子で差し込まれた言葉に、南雲は眉間の皺を一段深めて返す。
「何、まだ俺喋ってんだけど」
「用件は手短にって言ったのそっちですよね!?」
「俺が手短にするとは言ってないもん」
「めんどくさい人だ! この人めんどくさい人だ!」
 思わぬいい反応に、警戒心が少しだけ緩む。こちらのボケに的確なツッコミを入れてくれる人材は貴重なのだ。八束はその点、こっちが意識してボケているのに重ねてボケてきたりするので頼りにならない。反応の面白さ、という点では八束ほど面白い娘もいないのだが。
 とはいえ、今はそういう話ではなかったことを思い出す。かわいそうな記者をいじめるのはこの辺にして、意識を切り替える。
「で、何の用? 俺が『あの』南雲だってわかった上で声かけたってことは『例の事件』関連?」
 どうしても低くなってしまう声に、笠居は明らかに怯えた表情を見せながら、両手をぶんぶん振る。
「別に、そんなつもりじゃないですよぅ。あの事件は既に終わった話じゃないですか」
「……兎穴入りでな」
 口の中で呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
 兎穴入り。秘策特有の隠語だ。
 兎とは『不思議の国のアリス』に登場する、時計を手にした白兎のこと。少女アリスを、兎穴の向こう側――、不思議の国へと導く存在を指す。
 要するに「兎穴」とは「ここではないどこか」の象徴であり、「兎穴入り」というのは妖怪や幽霊といった「この世ならざるもの」の手によるものとして片付けられた事件を指す。
 それらは全て表向きには犯人不明の迷宮入り事件として扱われている。だが、南雲は知っている。いくつかの事件は、今もなお兎穴の向こう側にあるのだということを。
 ――『例の事件』もまた、時計うさぎの手によって、兎穴の向こうに隠された事件だということを。
 そんな南雲の内心を知る由もない笠居は、落ち着きなく南雲の顔色を伺いながらも、果敢に言葉と続けていく。
「単純に、近年最大級のオカルト事件に関わったあなたが、今どうしているのか気になった。それだけです。『幻想探求倶楽部』の記者たるもの、オカルトと名のつくものに興味を持つのは当然ですからね」
 その言葉に、嘘の匂いはしなかった。あくまで単なる興味で声をかけてきたということか。苦々しさとほんの少しの安堵がない交ぜになった、奇妙な感情を胸の中で転がしながら、南雲は意識して軽い口調で言う。
「下卑た好奇心は身を滅ぼすよ?」
「こんな仕事を選んだ時点で覚悟の上ですよ」
 笠居は胸を張り、きっぱりと言った。その答えに何ら迷いは見えなかったけれど、南雲はふと小さく息をついて、半眼で笠居を見上げる。
「痛い目に遭った経験がないから言えるんだぜ、それは」
 別に、今更被害者ぶるつもりはない。
 いくつかの感情が混ざってはいるが、経験から来る率直な感想のつもりだ。
 笠居も、南雲の言葉の意味を正確に、もしくは南雲の想定以上には察してくれたのだろう、顔色を青くして、軽く顎を引いた。
「……すみません。あなたの前で言っていい言葉じゃなかったですね」
「いや、別に気にしてないし、もっと堂々としててくれないかな。そこで謝られると、こっちもやりづらい」
「は?」
「俺は記者って人種が嫌いではあるけど、あんたっていう個人に恨みないしね。お互いフランクに行こうよ。その方が俺も気が楽だ」
 南雲が言い放つと、笠居は意外そうな顔をした。そんなに変なことを言っただろうか、と小首を傾げていると、笠居は先ほどよりは幾分緊張が抜けた顔で言った。
「もっと怖い人かと思ってましたけど、いい人なんですね、南雲さん」
「うーん、よく『イイ性格』の人とは言われるよ」
「あー、わかる気がします」
 このやり取り、つい最近もした気がするのは気のせいだったか。ついでに、これだけの会話で『イイ性格』と認定されるのは流石に解せない。とはいえ最初に言い出したのは自分なので、下唇を少しだけ突き出すだけに留めた。
「まあ、あんたが俺に話しかけた目的はわかったよ。で、満足した?」
「特に答えらしい答えはもらえてない気はしますけど、まあ、今も待盾にいて警察官をやってるってことがわかりましたんで。この町を拠点にしていれば、またお会いできそうですしね」
「まあなあ」
 南雲は八束とは違って、生まれも育ちも待盾であり、これからも待盾を離れることはないだろうと思っている。それを考えれば、決して広くはない都市だ。いつかは再び相見えることもあるだろう。
 それに。
「オカルト専門の記者なら、案外すぐに関わることがあるかもな」
「……何か?」
「いーや、何でもない。さ、話が終わったなら帰った帰った」
 ちょいちょいと追い払うような手の動きをすると、笠居は渋々といった表情ではあるが一歩退いた。それから、ふと何かに気づいたように問うてくる。
「南雲さんは?」
「相方待ち。女の子だしね、家までは送ってあげないと」
 本当はすぐ家に帰りたくない口実でもあるのだが、そんなこと笠居に伝える理由もない。笠居は怪訝そうに南雲を見つめていたが、やがて簡単な挨拶を残して鳥居の向こう側に去っていった。
 そして、南雲だけがその場に残された。
 深く溜息をついて、いつの間にやら入っていた肩の力を抜く。
 どうしても、記者という人種は好きになれそうにない。人の情報を詮索する、という点において南雲の仕事もさほど変わりはないかもしれないが、彼らの仕事はそれを「人の目に留まるように加工する」ことにある。
 その結果を、責任を、彼らが十分に負うことはない。
 最低でも、南雲が負ってきたものを、彼らが背負ったことがあるとは思えない。
 とはいえ、あの笠居という記者からは、さほど嫌な感覚はしなかった。南雲自身が回りくどいことを嫌うからだろうか、彼の態度は愉快とまではいかないがそう不愉快でもなかった。記者としてはあまりに率直にすぎると思うが。
 今は眠くてまともに頭が働いていなかったが、次に会うことがあれば、こちらの持つ情報をいくらか開示する代わりに、市内のオカルト情報の一つや二つくらいはねだってもよいかもしれない。秘策はとにかく、情報収集があまりにも脆弱だから。
 そんなことを思いながら、手首から下げたコンビニ袋に残された、最後の一つのチロルチョコを拾い上げて、包みを剥がして口に放り込む。そして、背もたれに体重を預けて足を大きく投げ出した姿勢で、すっかり闇に包まれている空を見上げる。
「八束、遅いな」
 
 ――そう、その時既に、笠居との再会を予感はしていた。
 けれど、その時期についてまでは想像が及ばなかったのだ。南雲らしくもなく。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(7)

「っつあー、本当に面倒くさい爺さんだ!」
 菊平は、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて大げさに溜息をつく。その様子を一通り見届けたところで声をかける。
「あの、神主さん。わたしたちが警察であることを、明かしてよかったのですか?」
 昨日、河童を見に来た学生、梅川恭一には、河童を公開しない理由を、八束たちの協力含め詳細には説明していなかったはずだ。それに、最初は警察官である八束や南雲を関わらせることにも躊躇いを見せていた。理由はわからないが、おそらくは河童が消えた事実を広めないために。
 だが、今ばかりは河童が消えたという事実は隠しながらも、八束たちの立場は隠そうとしなかった。そこに何となく引っかかりを覚えたのだが、菊平はゆるりと首を振って苦笑する。
「あの人、ほんと面倒くさくてさ。ああでも言わなきゃ帰ってくれなさそうだったからな。正式な捜査でもないのに、ダシにして悪かった」
「いえ、それは構いません。神主さんが困っていたのは、よくわかりましたから」
 菊平がどうして城崎氏に対してああも棘のある態度を見せたのかは不明瞭ではあったが、城崎氏の来訪を迷惑がっていたということだけははっきりとわかった。そこで、一つ思い出された事柄があった。
「昨日神主さんがおっしゃっていた『面倒くさい客』というのは、もしかして城崎氏のことでしたか」
 昨日、梅川青年を帰らせた後に菊平は言っていた。「昨日はちょうど面倒くさい客が来てるところで、そっちの対応に追われちまったんだ」と。
 八束の言葉に「そうだよ」と頷いた菊平が、そのまま言葉を続ける。
「あの爺さん、怪物ハンターだっけ? テレビにも出てるような有名人が、どこから聞きつけてきたのかこんな寂れた神社のミイラを見に来てさ。それだけならいいが、ミイラの保存状態にケチつけてきて、河童のミイラの歴史だとか、各地の河童の目撃情報だとかを講義し始めるんだよ。知らねえっつの、俺はミイラ職人じゃねえし河童博士でもねえんだから」
 ――それは面倒くさい。
 八束も他人事ながら思わず口をへの字にしてしまう。
 自分自身、時々、頭の中の知識を最初から最後まで言葉にすることで相手を辟易させてきた経験があるものの、城崎のそれは度を越しているようだ。
 相手が必要としない知識までひけらかすのは、自己顕示欲、というやつであろうか。あの妙に芝居がかった仕草も、自分という存在を相手に強く示す手段だったのかもしれない。
 このまま喋らせておくと、いくらでも城崎への恨み節が続きそうだったので、八束は菊平の言葉が切れたところで口を挟む。
「一緒にいた方は? 先ほど『幻想探求倶楽部』の記者であるというお話は聞こえてきたのですが」
「あの人も、一昨日の昼頃に来たのは覚えてる。とはいえ、ミイラについてあれこれ聞いてきたけど、特に変わった話はしなかったな。市内に住んでるって話をしたくらい。ああ、この人だ」
 菊平は、財布の中から一枚の名刺を取り出した。白い紙に文字だけが書かれたごくごくシンプルな名刺には、確かに「幻想探求倶楽部記者 笠居大和」の文字があった。その名前と、先ほど目にした丸い顔とを頭の中でしっかりと結びつける。
「あの人、城崎さんとつるんでるのかね」
「いえ、ここで会ったのは偶然みたいでしたよ。お互いに既知の関係みたいでしたが」
「まあ、『幻想探求倶楽部』ってオカルト専門雑誌だしな。オカルト関係者には顔が知れてんのかもしれないな」
 言う菊平の表情は、どうにも鈍い。その心労は察するが、八束としてはまだ、聞いておきたいことがあった。
「あと、もう一つ聞かせてください。『コクゲイの髭』って何のことですか?」
 びくり、と。あからさまに菊平の肩が跳ねた。思わぬ反応に、八束の方がびっくりして目を丸くしてしまう。目をぱちぱちさせていると、菊平も八束の顔を見て我に返ったのか「すまん」と言い置いてから続けた。
「うちの神社の宝のようなもんさ」
「コクゲイってクジラさまっすよね」
 ふと、唐突に降ってきた南雲の言葉に、そう、と菊平は頷く。
「そのクジラさまの髭が、この神社に保管されてるんだ」
「……クジラさま……」
 そういえば、南雲も言っていた気がする。玄波神社には、鯨の姿をした神が祀られているのだと。江戸川くらいしか水場らしいものを持たない待盾において、どうして鯨なのか、気になったことを思い出す。
「そのお話、もう少し詳しく聞かせてもらってもよろしいですか?」
 今回の事件に直接関係あるとは思えなかったが、純粋に興味を引かれた。身を乗り出して食いついた八束に、菊平は一瞬面食らったようだったが、すぐに気を取り直したように腰の辺りを一つ叩いた。
「それなら中で話そう。折角だから、ケーキも切ろうか」
「よろしいのですか?」
「丸々一つは家族で食べるにもちょっと多いしな。一切れでよければ食ってけよ」
「はい!」
 自他共に認める甘味マニアの南雲が自分のおやつとして買ってきたケーキだ、美味しいに決まっている。まだ見ぬ甘味にわくわくしながら頷くと、菊平はケーキの箱を持ったまま八束に畳敷きの広間を指す。
「そっちの部屋で待っててくれ。これ、切ってくから」
「わかりました」
 ぴしっと一礼し、靴をきれいにそろえて上がろうとした、その時だった。
「……悪い、俺はちょっと風に当たってくる」
 微かに響いた掠れ声に、八束はふと視線を上に向ける。ゆらゆらと頭を揺らす南雲が、限りなく細くなった目で八束を見ていた。
「どうしましたか?」
 聞いてはみたが、先ほどから南雲の口数が極端に減っている辺りで十分回答は想像できた。案の定、南雲は黒縁眼鏡を押し上げて、目を擦りながら言った。
「眠くて」
「眠いのは仕方ないですね。話、聞いておきますね」
「お願い。下のベンチのとこにいる。できれば」
「ケーキ、南雲さんの分ももらっておきますね」
「流石は八束。頼んだ」
 南雲の要望くらいはお見通しだ。こくりと一つ頷いて返すと、南雲はふらふらと、頼りない足取りで社務所を出て行った。外はすっかり暗くなっていたから、転んだり石段から足を踏み外したりしなければいいのだけど、と余計な心配をしながら部屋に足を踏み入れる。
 すると、そこには先客がいた。
 部屋の入り口からはちょうど壁に隠れて見えなかった部屋の隅で、少年が一人、教科書とノートを広げていた。八束と目が合った瞬間、目を真ん丸くしていたが、すぐに肩の力を抜く。
「こんばんは」
「こんばんは、翔さん。こちらにいらしたのですね」
 八束はにっこりと笑って、一つ礼をする。少年もぺこりと頭を下げた。
 菊平翔。菊平の息子だ。昨日、翔が菊平に弁当を渡しに来た時に、一度顔を合わせている。大人しいが利発な少年、というのが八束の翔に対する第一印象であった。翔の大きな目は、今も真っ直ぐに八束を見つめている。
「学校の宿題ですか」
「うん」
 それだけを言って、翔は再びノートに鉛筆を走らせる作業に戻った。八束も、翔から少し離れたところに座布団を敷いて座る。
 それから、三分ほどして菊平が二人分のケーキの載った皿を持って部屋に戻ってきた。
「お待たせ。あーっと、翔、お前は後でな」
「えー」
 漂う甘い香りに、翔は顔を上げて抗議の声を上げる。しかし、菊平は首を横に振って言う。
「今食べたら飯食えなくなるだろ。夕食の後のデザートだ」
「……うん、わかった」
 多少不満げではあったが、翔は小さく頷くとまた視線をノートに落とした。菊平は軽く肩を竦め、八束の前に座った。
「さて、と。クジラさまと『コクゲイの髭』についてだったな」
「はい」
「と言っても、大した話じゃねえ。昔から、この待盾って町には妖怪や幽霊なんかがよく現れる、ってのは八束ちゃんも知ってるよな」
 はい、と八束は深く頷く。八束が所属する神秘対策係という奇天烈な係が組織されたのも、待盾という土地の特異性による。記録によれば、一般的な都市と比較して七倍から多く数えて十倍ほど、超常現象の目撃情報が寄せられるという。無知の闇が晴れて久しいこの現代にありながら、だ。
「今でこそありきたりな新興都市だが、それこそ江戸時代の中期までは、妖怪と人とが当たり前に共存する土地だった、と言い伝えられている。例えば河童のミイラも、その時代に河童の一族から送られたものだって話だ」
「……河童の一族、ですか?」
「ああ。詳しい記録が残ってるわけじゃないんだが、爺さんの話によると、河童との友好の証として、河童の姿に似せた品が贈られたって話だ。それがあのつぎはぎミイラってわけ」
「随分悪趣味ですね」
 黄緑色の布を広げて、かわいい河童のぬいぐるみを作ろうとしていた南雲とは大違いだ。菊平も肩を竦めて答える。
「まあ、妖怪の考えることだからな」
 八束は相槌を打ちながら、添えられた小さなフォークでケーキを一切れ口に運ぶ。口に含んだ途端、芳醇なカカオの香りと上品な甘さが口の中に広がる。そしてスポンジの触れただけで溶けてしまうような柔らかな舌触りは、八束が生まれて初めて体験する食感であった。
 わかってはいたが、改めて南雲の甘味に対する妥協のなさを思い知る。未だに、彼がどうして警察官なのか不思議で仕方ない。南雲の常日頃の主張を聞く限り、こだわりがあるからこそ甘味を仕事にしたくなかったのかもしれない、とは想像できるけれど。
 ……と、盛大に逸れかけた思考を、何とか菊平の話の方に戻す。一応、耳に入ってさえいればいつでも完璧に思い出せるが、自分のために教えてくれる内容を、ただ聞き流すのは失礼だ。
 菊平は、淡々と、きっと今まで色々な相手に聞かせてきたのだろう、遠い日の御伽話を語り続けている。
「長きに渡って続いた共存だが、問題は多々あった。人間と妖怪は、お互いに感覚があまりにも違いすぎたんだ。ある妖怪の目に見えているものが人間には見えず、人間にとって大切なものが、ある種の妖怪にとってはゴミ同然であったり、な。妖怪同士の間だって、種族が違えばいさかいが起きる。そうして、少しずつ少しずつ、歯車が狂っていったんだ」
 己とは違う、という理由で、ゆっくりと何かがおかしくなっていく。それは、何も人間と妖怪の違いだけではなかったのではないか。八束はふと、そんな思いに囚われる。
『あなたは、我々とは別の存在なのですから』
 そんな、優しく諭すような声が脳裏に蘇る。甘い、甘い、声。触れただけで溶けてしまうような、柔らかく心地のよい――。
 思わず、手元のチョコレートケーキを見つめてしまう。それとこれとは全く別の存在であることはわかっているのに、無意識に触覚と味覚のイメージと、聴覚のイメージを重ね合わせてしまったらしい。唇を噛み、口の中に残っていた甘さを飲み下す。
「……八束ちゃん、どうかした?」
 菊平の声が、やけに遠くから聞こえた気がして、はっとする。
 自分で自分の顔を確認することはできないが、きっと相当酷い顔をしていたのだろう。気を取り直して、頭に蘇りかけた声を記憶の奥底に閉じ込めて蓋をする。
「いえ、何でもありません。続けていただけますか」
「あ、ああ。それで、妖怪たちも人間たちも、我慢の限界に至っちまったんだろうな。町全体で小さな事件がぽつぽつ起きはじめたと思えば、すぐに大きな暴動にまで発展しちまった。しかもただの暴動じゃねえ、妖怪が関わってんだから、外から見りゃ百鬼夜行にしか見えなかった」
 百鬼夜行。鬼や妖怪が群れを成し、町を練り歩いているさまを指す。『百鬼夜行図』と呼ばれる絵は八束も見たことがあるが、描かれた妖怪たちの生々しい姿に背筋が凍り、しばらく何度も夢に出たことを思い出す。
 今の話だって、あくまで言い伝えとはいえ、妖怪たちが町全体を大騒ぎしながら練り歩く姿を思い描けば、身の内から震えが湧いてくる。
「それを心から悲しんだのが、待盾の妖怪たちを取りまとめていた大親分みたいな妖怪だった。それが、クジラさまだ。山のような巨大な体を持つ、真っ黒な鯨の妖怪と言われてる。だから、黒い鯨で『黒鯨』とも言う」
 メルヴィルの『白鯨』なら知っているが、『黒鯨』か。地面の上に横たわる巨大なシロナガスクジラを想像してみるが、どうもしっくりこない。鯨といえば本来は海の生物なのだから当然なのだが。
「クジラさまは、妖怪たちと人間たちの間に目に見えない世界の壁を作って、妖怪たちは壁の向こう側に引っ越した。お互いに、お互いに対する怒りを忘れるその時まで、頭を冷やそうと言って。そして、妖怪ほど長くは生きられず忘れっぽい人間たちのために、クジラさまは、妖怪たちがかつてそこにいた証として、自分の髭を残していったのさ。その髭をもたらされたのが俺らのご先祖様で、保管場所がこの玄波神社ってわけだ」
「髭は今も実在しているのですか?」
「もちろん。……あくまで伝承だし、髭って言われてるものも流石に本物の鯨の髭じゃないだろうが、確かに『黒鯨の髭』はここに保管されている」
 菊平は神主という立場ではあるが、伝承を頭から信じているわけでもなさそうでほっとする。これで、残された宝が本物の鯨の髭であり、確かにここに妖怪がいた証拠だとでも言われたら、八束は絶叫して社務所を飛び出していたところだ。
「ま、昔話はこんなところだ。爺さんの話によれば、今もクジラさまは、空の上から妖怪と人間をあまねく見守ってるそうだけどな」
「空の上、ですか?」
「そう。さっき言わなかったっけか。クジラさまは海を泳ぐように、空を飛ぶんだそうだ」
 空飛ぶ鯨。妖怪と考えると恐ろしくはあったが、巨大なシロナガスクジラがゆったりと空を泳いでいるところを想像する限り、陸上をびちびち撥ねる鯨の図よりはしっくり来る――、と考えていると、いつの間にかこちらを見つめていた翔と目が合った。翔は、何か言いたげに八束を見つめていたようだったが、八束と目が合った途端に目を逸らしてしまった。
「さて、話はこの程度だ。俺も実のところ、爺さんから聞いた話くらいしか知らないからな」
 立ち上がりかけた菊平を、「あっ、あと一つ」と呼び止める。怪訝そうな顔をする菊平に、八束は頭の中にあらかじめ組み立てておいた言葉を投げかける。
「先ほどの城崎氏は、『黒鯨の髭』についてお話されていましたよね。こちらの神社の秘宝とも呼べるものが、何か城崎氏に関係あるのでしょうか」
 どちらかといえば、こちらが本題だ。河童のミイラにしつこくケチをつけたという城崎。彼がここを訪れた目的は、どうも本当はミイラの鑑賞ではなかったのではないか、と八束は感じていた。そう感じた根拠が『黒鯨の髭』という言葉だった。
 八束の言葉を聞いて、菊平は露骨に眉間の皺を深めた。この男はどうも、隠し事はあまり得意ではない方なのかもしれない。人のことを言えた義理ではないが。
「城崎さんは、どうも最近クジラさまの正体を追いかけてるみたいでな。それで『黒鯨の髭』を鑑定したいって言い出したんだ」
「鑑定、ですか」
「正体がはっきりしてる河童のミイラと違って、髭はおいそれと外には出せん。今まで詳細な鑑定もしてなかったし、これからもする気はなかったんだ。髭の存在を疑えば、クジラさまの信頼を疑うのと同じだからな。だから最初に断ったんだが、ああやって何度も何度もうちに来ては、『黒鯨の髭』を見せろってつついてくる」
 菊平と城崎の間にはそんな事情があったのか。八束は目を丸くして菊平を見つめずにはいられなかった。
 とはいえ、秘宝の扱いについては、あくまでこの神社を任されてきた者たちの問題だ。八束が口を挟めることではないと判断して、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「もう、話はいいかな」
「はい。あ、ただ」
「まだ何かあるのか?」
 怪訝な顔をする菊平に、八束は多少のばつの悪さを感じながら、既に空になっていた己の皿を指差した。
「ケーキ、南雲さんの分も一切れ貰っていいですか。南雲さん、これ食べるの楽しみにしてるんです」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(6)

 大きな車は鳥居を塞ぐように停められており、完全に邪魔になっていた。ただでさえ細い道である、もし車が入ってきたらすれ違うこともできないだろう。
「昨日は、あんな車、無かったですよね……」
「随分悪趣味だねー。もしかして、ヤのつく人だったりするかな」
 仮に本職であっても、きっと、見かけだけなら南雲ほどは恐ろしくはないだろう、と思わずにはいられない。その程度には、南雲の存在感は堅気からかけ離れている。
 しかも、今日は仕事帰りということもあり、細身の黒スーツに黒い革靴姿である。そこに剃り跡一つ見えないスキンヘッドと、黒縁眼鏡の下でぬらりと光る鋭い目つきという、絶対にお近づきになりたくない出で立ちだ。実際、ここまで歩いてきて、ほとんどの通行人は八束と南雲を避けるように、必ず数歩離れた場所を通っていた。
 とはいえ、見た目と中身が一致しないことに定評のある南雲は、後ろ頭を掻きながらのんびりと言う。
「あそこ通らないと入れないけど、あんまり近寄りたくないなー」
「南雲さんに言われたらおしまいな気がします」
「八束も言うねぇ」
「あっあっうめぼしはやめてくださいっ」
 両のこめかみを拳でぐりぐりされて、八束は慌てて身をよじる。しばしのゆるい攻防の後、何とか解放された八束はすっかりぼさぼさになってしまった髪の毛を整えつつ、車の辺りに目を凝らす。
 どうやら、ちょうど車の運転手が車から降りようとしているところだった。南雲も車の方の動きには気づいたのだろう、ぎりぎりまで目を細めて囁く。
「見える? 俺さっぱりなんだけど」
 薄暗がりとはいえ、ちょうど車は街灯の下にあり、八束にははっきりとその様子を窺うことができる。八束の目が人よりいいということもあるが、それ以上に――。
「南雲さん、先ほども思いましたが、そろそろ眼鏡買い替えましょう」
 やだよめんどくさい、といういつも通りの返答があったところで、車を降りた運転手に意識を集中させる。
 仕立てのよいスーツを隙なく纏い、片手にステッキを提げた、寂れた小さな神社には似つかわしくない初老の男だ。真っ白な髪を撫で付け、鷲鼻の下のちょび髭としゃくれた顎が特徴的だった。
 そして、八束は、この男の顔を知っていた。
「あっ、あの方、城崎与四郎さんですね」
「怪物ハンターの爺さんか。やっぱ河童に用なのかね」
 河童のミイラなんて、怪物ハンターにとっては珍しくもないと思うけど、と南雲が眉間の皺を深くする。
 怪物ハンター。八束はテレビを持っていないため彼を扱った番組は知らないが、新聞や雑誌の記事で何度も取り上げられている以上、八束が彼のことを「知らない」道理はない。
 日本各地の未確認生物を追う男であり、その冒険は度々テレビで放映されていると聞く。とはいえ、実際に未確認生物を捕らえたことは一度もなく、未確認生物が存在したと思しき痕跡を見つけるだけなのだという。
 今から二年ほど前までは毎日のように彼の名が新聞のテレビ欄に躍っていたが、最近はほとんど名前を聞かなくなったと思い出す。
 八束の目から見る限り、胡散臭い男だとは思うのだが――。
「つまるところ、山師ってやつだよな」
「南雲さん、聞こえますよ」
「本人だってそう言われてることくらいわかってんだろ。もしわかってなかったら、余計に近寄っちゃいけない物件だけど」
 そんな人聞きの悪いことを言いながら、南雲はゆったりと歩き出す。とりあえず、相手がヤのつく人でないとわかった以上、特に危険はないと判断したようだ。八束も慌てて小走りに南雲の後を追う。
 そして、ちょうど鳥居の前、つまり車のすぐ側まで接近したところで、どたどたという足音が聞こえてきて、八束はついそちらに視線を向けてしまう。
「あっ、城崎さん! 奇遇ですねぇ、こんなところでお会いするとは」
 八束たちとは逆の方向から駆けてきた足音の主は、ぼさぼさの髪をした小太りの男だった。南雲より少し若いくらいだろうか、リュックサックを背負い、首からはカメラを提げた、びっくりするくらいステレオタイプなオタク風の男である。
 そして、城崎にとって、そのオタク風の男は知らない顔ではなかったらしく、しゃくれた顎を指先で撫ぜながら、にたりと笑みを浮かべる。
「おお、君は『幻想探求倶楽部』の記者だったね」
「はい、カサイです。城崎さんも河童のミイラを見に?」
 ああ、と笑顔で応じる城崎と、更に最近の城崎の活動について質問を重ねるカサイとやらの横を、そのまま通り過ぎようとする。城崎と男の視線が一瞬こちらに向けられた気がしたが、ひとまず無視を決め込む。
 だが、どうしても一つだけ気になることがあって、八束は南雲の袖をそっと引く。
「……あの、『幻想探求倶楽部』って、確かオカルト専門の雑誌でしたよね」
「ばっか八束、黙って歩けって、目をつけられたら面倒だ」
「あっ、待ってください南雲さんっ」
 背の高い南雲が早足になると、八束の短い足では到底追いつかない。ぱたぱたと足音を立てながら、何とか南雲の背中に追いつこうと駆けてゆくのだが。
 ほんの一瞬。これが、聞き間違いでなければ、だが。
「『南雲さん』……?」
 カサイと呼ばれた男の呟きが、八束の耳に引っかかった。
 一瞬振り向きかけるも、「八束」という南雲の声で我に返り、前を向く。そして、何とか南雲の背中に追いつくと、後ろの二人には聞こえないように囁く。
「今、何かあの人、南雲さんに反応してませんでした?」
「人違いじゃない? ほら、スキンヘッドだと人相は記憶しづらいって聞くし。実際何度か間違えられたことあるし」
 八束は眉の形や鼻の高さ、輪郭や体格など全ての形をそっくりそのまま記憶して照らし合わせるため、それこそ骨格を変えるレベルで意識的に人相を変えていない限り「人違い」という概念とは無縁だ。もちろん、普通の人間が八束と同じような記憶を持たないこともわかってはいるため、小さく頷いて、そのままシームレスに首を傾げる動作へ移行する。
「しかし、南雲さんの顔と言うより、名前に反応していたようですが」
「……まあ、そうだろうね」
 南雲の声は、聞き違いとは思えない、深い溜息を含んでいた。ただ、そこに含まれた感情まではわからなかったため、疑問符を投げかける。
「何か思い当たる点がありますか?」
「あるけど、今回の事件には絶対に無関係。すっごいプライベートな話だから、詮索しないでくれると嬉しい」
 下手な誤魔化しを加えずに「ある」と率直に言ってくれるのが、南雲の好ましいところだと八束は思っている。そして、八束への希望を真っ直ぐに伝えてくれるところも。人の気持ちを慮るのが下手くそという、八束の特性を理解した上での発言であろう。
 だから、八束も一つ頷いて、南雲の顎の辺りを見上げる。
「わかりました。では、この話はここまでにします」
「ありがと。まあ、詮索するまでもないかもしれないけどね」
 もう一つだけ小さな溜息を添えて、南雲は石段に足をかける。石段は柔らかな灯火に照らされており、夜に近い薄闇の中でも足元が見えないということもない。八束も軽やかなローファーの靴音を立てながら石段を一歩、また一歩と上ってゆく。
 そして、社の前に辿りつく。
 社の戸は既に閉ざされており、暗がりの中の影として物言わず存在している。代わりに、横に建っている社務所の方に明かりがついていた。内側には確かに人の気配がある。
 八束は戸を軽く叩き、腹の底から声を上げる。
「こんばんは! 神主さんはいらっしゃいますか?」
 それから数秒の後、ぱたぱたという足音が近づいてきて、戸が横に開いた。着替え終わったところだったのか、随分ラフな格好の菊平が、八束とその後ろに立つ南雲の姿を認めてほっと息をついたのがわかった。
「八束ちゃんか。それに南雲も」
「あの後どうなったか気になって来ました。あ、あとこれ差し入れっす」
 片手で戸を閉めた南雲は、もう片方の手で持っていた箱を菊平に突き出す。菊平は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながらも、箱を受け取った。受け取ってしまってから、怪訝な顔で南雲を見やる。
「これ、何だ?」
「見ればわかります」
 訝しげにしながらも、菊平はその場で箱を開く。中には、かわいらしいデコレーションが施されたチョコレートケーキが丸々一つ入っていた。社務所の玄関がチョコの甘い香りに包まれる。
「本当は、俺のおやつになる予定だったケーキです。ご家族で召し上がってください」
「南雲さん、予定に関する言及は余計じゃありませんか」
 八束はついつい指摘せずにはいられなかった。ただ、この箱が、今まで対策室の冷蔵庫の中に入っているのを目撃していたからわかる。このケーキは、元々は南雲の「自分へのご褒美」だ。ただし、仕事をしようとしない南雲のどこにご褒美を享受する要素があるのかは永遠の謎である。
「あと、一人でワンホール食べる気だったんですか」
「……八分の一くらいは、八束と綿貫さんに分けたげるつもりだったよ?」
「それ、実質わたしは十六分の一しか食べられない計算ですよね。十六分の一カットとか、薄すぎて自立しませんよ絶対」
 誤魔化すように「てへっ」とかわいく首を傾げる南雲の顔は、不気味な仏頂面のままである。そのちぐはぐさに当初は違和感しかなかったが、今となっては当たり前のものとして受け止めてしまっている自分が切ない。
 そんな八束と南雲のやり取りを唖然として見つめていた菊平が、やがて「ははっ」と笑い声を上げた。
「お前ら、つくづく面白いな」
 その言葉を受けた南雲は、眉一つ動かさずに、しかし極めてゆるーい声音で応じた。
「よく言われます。警察辞めて漫才コンビ組んだ方がいいかなって時々考える」
「考えないでください! わたしは嫌ですからね!」
 八束がきゃんきゃん声を上げてみせても、南雲はどこ吹く風とばかりにそっぽを向くだけだ。暖簾に腕押し、糠に釘。南雲彰というのは、いつだってそういう男である。
「まあ、立ち話もなんだ。ひとまず奥に――」
 菊平がそう言ったところで、扉が乱暴に開かれた。ぎょっとしてそちらを見ると、先ほど鳥居の前に迷惑駐車をしていた城崎と、オカルト雑誌の記者らしい男が立っていた。
「失礼するよ、菊平くん!」
 城崎の大きな口から放たれたのは、朗々たる声。人に聞かせるための声だ、と八束は思う。大勢の人を前にして、その全員に届かせるための声。こんな狭い場所で聞かされると、単純にうるさいだけなのだが。
 菊平は、その姿を目にした瞬間、露骨に眉を寄せた。それが意味するところは、苛立ちと嫌気、だろうか。
「城崎さん」
「今日は随分静かだが、例の河童はどうしたのかね?」
 対する城崎は、何がそんなに愉快なのか、満面の笑みを浮かべている。ステッキの握りの部分に両の手を重ね、ぴんと背筋を伸ばした姿で立っている。さながら、舞台の上の役者のように、堂々と。
「都合により展示は見合わせ、って鳥居の前に張り紙してありましたよね?」
 菊平の声には、八束にもはっきりとわかる棘が混ざっていた。その棘は、明らかに八束たちではなく、新たな来訪者たる城崎とカサイとかいう男に向けられていたわけだが――。
 八束は、そっと、南雲の袖を引いて囁く。
「……張り紙、してありましたか」
「あったよ。八束は車に気を取られてたから、目に入ってなかったと思うけど」
 いくら一度記憶したものを忘れない八束でも、「目に入っていない」ものを思い出すことはできない。観察力を鍛えろ、というのは前の上司の口癖だったが、つまりはそういう詰めの甘さを指摘していたのだろう、と分析する。
 気をつけなければ、と思ったその時、ステッキをついた城崎が八束を押しのけるようにして菊平の前に出た。八束が抗議の言葉を放つ間もなく、歌うような城崎の声が響き渡る。
「ふむ、河童を見せられない理由があるのかね? 私は是非もう一度あの奇妙な姿を見てみたいと思っていたのだが。君もそうだろう、カサイくん?」
 カサイと呼ばれた記者は実際には興味があるのかないのか、「そうですねぇ」と軽く答える。だが、それで城崎は満足だったようで、口元の笑みを深めた。菊平は二人を何ともいえない表情で見据えていたが、やがて重々しく口を開いた。
「いえ、内輪でちょっとした厄介ごとがありましてね。まあ、すぐに解決しますよ。警察の人にもお願いしてますしね」
 ちらり、と菊平が八束たちの方に視線をやったことで、初めて城崎の意識がこちらに向けられた。微かに、息を呑むような気配と共に。
「警察……? こちらの方々か?」
 その声には、明らかな疑いの色が篭められていた。それはそうだろう、自分で認めるのは悔しいが、八束と南雲の二人が一目で警察官と見抜かれたことは、今までに一度もない。
 だから、というわけでもないのだが、八束は鞄から警察手帳を出して城崎とその後ろで目を丸くしている記者に見せる。
「待盾署の八束です」
 横に立つ南雲は頭をふらつかせているだけで、何も言わない。南雲のことも紹介すべきかと逡巡している間に、目をぱちぱちさせていた城崎が口を開いた。
「なるほど、確かに警察の方のようだ。……菊平くん、我々は一旦退いた方がよろしいかね」
「ええ、すみませんがお願いします。出来る限り早く河童の展示を再開したいとは思っています」
「ああ、頼んだよ」
 にぃ、と。城崎の口が三日月のような笑みを浮かべる。動きが大げさなせいだろうか、どうも八束には城崎の考えが上手く読み取れない。助けを求めるように南雲を見ても、南雲は眠そうに目をこするばかりで、話を聞いているようにも見えなかった。
「では、日を改めることにしよう」
「そちらの、カサイさんでしたよね。わざわざ来ていただいたのにすみません」
「あ、いえ、自分は別にいいんですけど――」
 菊平に声をかけられて、カサイ、と呼ばれた男は慌てて返事をする。何か、別のことを考えていたところに、虚を突かれたような。そんな慌てぶりであった。しかし、そのカサイの言葉に被さるように、城崎の朗々とした声が響き渡る。
「それと、『コクゲイの髭』の件、考えていただけたかな?」
 コクゲイの、髭?
 その言葉に、菊平の眉間の皺が余計に深まった。それだけで、城崎も彼の考えていることを理解したらしい。溜息をついて肩を竦め、菊平に背中を向ける。
「忙しいところ、お邪魔したね。失礼するよ」
「はい。それでは、また」
 菊平はかろうじてそれだけを言って、頭を下げた。城崎は「ふん」と鼻を鳴らし、カサイを引っ張るようにしてその場から去っていく。
 そして、その場に訪れた沈黙に――、
「嵐が過ぎ去った」
 ぽつり、と落とされた南雲の呟きが、妙によく響いた。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(5)

 ――翌日。
「休暇中にそんな事件があったのですね」
 八束結の報告を受け、待盾警察署刑事課神秘対策係係長の綿貫栄太郎は狐に似た目を糸のように細めて微笑んだ。
 今日もそう都合よくオカルト事件が舞い込んでくるわけはなく、秘策は暇であった。と言っても、実際には「お前らどうせ暇なんだろ」と刑事課の他の面々が事務仕事を押し付けてくるので、言葉通りに「暇」というわけではないのだが。
 八束は盗犯係から回されてきた「怪盗☆白狐仮面」なるふざけた名前の怪人に関する手書きの捜査記録やら何やらを猛スピードでパソコンに打ち込みつつ、一方で綿貫への説明を再開する。
「はい。とはいえ、神主の菊平亮介さんは内々で何とか解決できないかと考えているようです。そのため、我々も神主さんの友人として、河童のミイラ探しのお手伝いをしています」
「なるほど。警察には知らせずに、ですか」
「……できれば、きちんと捜査したいのですが。鑑識を通せば一発だと思うんですよね」
 昨日の捜査は完全に空振りに終わってしまった。だが、銀色の痕跡にしろ建物の周囲に残された足跡にしろ、鑑識の目を通せばすぐにでも答えが出るものであるのは間違いない。それに、もし箱や社の扉、壁などから指紋を取ることが許されれば、それだけで犯人がわかるかもしれないのだ。八束がもどかしいと思うのも当然だ。
「しかし、警察を関わらせたくない、というのはわからないでもありませんね。何しろ、我々が関わってしまえば、『河童が消えた』という事実は確実に周囲に伝わってしまうでしょうから」
「そういうものですかね」
 八束は一旦キーボードを叩く手を止めて、こくんと首を傾げる。
「神主さんの意図が、わたしにはよくわかりません。何故河童が消えた事実を公表しないのか。公表することに、どんな不都合があるのか」
 とはいえ、それは、今考えて答えの出ないことであることも、わかってはいるのだ。
 あれから、帰り際に菊平にそれとなく聞いてはみたが、「大したことじゃないから、騒ぎにしたくない」という答えしか返ってこなかった。その時浮かべていた苦々しげな表情まで、はっきりと思い出すことができる。
 大したことでない、わけがない。それだけは八束も確信している。あのミイラの来歴は詳しく知らないが、神社に代々保管されてきたものである以上、貴重なものであって、菊平にとっても重要なものであるはずだ。
 ただ、どうも菊平は簡単に理由を明かす気はないように見える。ある程度、情報が揃わなければ菊平に意図を問い詰めることも難しいだろう。
 難しい。難しいとは、理解しているけれど――。
「まあ、その辺りは追々わかってくるんじゃないですかね。話を聞く限り緊急性は感じられませんし、そう焦ることもないと思いますよ」
 微笑を浮かべる綿貫の言葉は、どこまでも落ち着いていて。無意識にささくれ立ってしまっていた感情も、少し落ちつく。答えの出ないことを考えるより、確実に情報を手に入れてゆくことを考えるべきだ。焦って結論を急ぐようなことだけは、してはならない。
 そう、自分はかつて、焦りのあまりに決定的なミスを犯したではないか――。頭の奥底で記憶の蓋が開きかけたのを、そっと閉ざす。同じミスは、二度と犯さない。意識的に深呼吸をして、ざわついていた頭の中を静めてゆく。
「で、そちらは黙々と何を作ってるんですか」
 綿貫は、八束に向けていた穏やかな微笑みから一転、明らかな呆れの感情をあらわに八束の正面のデスクに鎮座ましましている南雲彰に顔を向けた。
 南雲は、手元に向けていた眼鏡越しの視線をちらりと綿貫に投げかけて、ぼそりと低い声で呟いた。
「河童」
 そう、南雲の手に握られているのは針と糸、そして明るいグリーンの布であった。
 普段は南雲の机の上をこれでもかとばかりに埋め尽くしているぬいぐるみたちと、ひときわ目立つチュッパツリーは一時的に来客用ソファの上に避難しており、代わりに愛用のピンクの裁縫箱と、適切なサイズに切り抜かれた布、ぬいぐるみの内側に詰める綿、そしておそらく「目」になるのだろう釦などが広げられている。
 ――ひとまず、人並みの仕事をしていないことだけは、はっきりしていた。
 八束は眉間に皺を寄せ、唇を尖らせる。
「南雲さん、少しは仕事しませんか。してるフリだけでも構いませんので」
「やだよめんどくさい」
 針を針山に刺し、元は灰皿だったのだろう、縁に窪みのある硝子の器に山盛りになったチロルチョコを一つつまみ上げ、南雲はぼんやりとした声で言う。
「それより八束、あの後、菊平先輩から連絡はあったの?」
「いえ、今のところは」
 八束は、デスクの上に置いた携帯電話をちらりと見やる。特にストラップも何もつけていない、ごくごくシンプルな「ザ・ケータイ」といった趣の携帯電話だ。連絡先は昨日菊平に伝えてあるが、今のところ電話やメールを受信した様子はない。
「本日の仕事が終わったら、一度様子を見に行こうかとは考えています」
「ふうん。じゃ、俺も付き合うよ。何だかんだ、進展は気になるし」
 ストロベリー味のチロルチョコを口に含む南雲は、普段と何一つ変わらない仏頂面であり、内心は知れない。ただ、「気になっている」というのは嘘ではないだろう、と思う。
「何だかんだ付き合いよいですよね、南雲くん。昨日も八束くんに市内を案内していたらしいじゃないですか。普段もそのくらい動いてもらいたいものですが」
 綿貫がわざとらしい嫌味をこめて言うも、南雲はしれっとしたもので、口をもぐもぐさせながら言う。
「だってほら、押し付けられた仕事じゃないですし。何かあっても俺に責任とか無いですし」
「勤め人とは思えない論理ですよねえ……」
 そして、南雲の答えは、十分綿貫にも予想できたものだったらしい。特に気にした風もなく、ただ呆れたように肩を竦めるだけであった。おそらく、この二人の間で、それこそ数え切れないほど同じようなやり取りが繰り返されてきたのだろう。そう確信させる程度には、綿貫の諦観が窺えてしまう。
 気を取り直すように軽く咳払いをした綿貫は、人差し指を立てて言う。
「もう一ついいですか、南雲くん」
「はい?」
「今回は特に、鼻につくようなものはないのですか?」
 ――鼻につく?
 何か変な匂いでもしているのだろうか、と八束は鼻をふんふんさせてみるが、普段の対策室と変化は感じられない。ただ、綿貫の言葉を受けた南雲は、いつになく眉間の皺を深めて「んー」と唸った。
「どうだろ。正直、よくわかんないんすよね」
 猫背を伸ばして、背もたれに体重を預ける南雲。骨と皮だけの痩身とはいえ、日本人離れした長身を持つ南雲の体重を受けて、椅子がぎぃと嫌な音を立てた。
「それっぽい匂いはするんですけど、関係ない気もするし」
「頼りないですねえ」
「だって俺、犬じゃなくて人間っすよ。あと場所がよくない。神社ですしね」
「あー……。なるほど」
 八束にはさっぱり話が見えないが、二人の間には共通の認識があるらしい。綿貫は南雲に向けて、うっすら妖しげな微笑を投げかけて。
「まあ、常のごとく、ではありますが」
「現場の判断は、俺に任せる?」
「ええ。今回は正式な仕事でもありませんしね、南雲くんの思うままに判断すればいいと思います。もちろん、明確な事件性があれば報告してほしいところですが」
 南雲は綺麗に剃りあげた後ろ頭をつるりと撫ぜて、溜息混じりに言う。
「事件性……、ね。まあ、了解です。期待はなさらず」
 綿貫はそんな南雲の要領を得ない応答でも十分満足したのか、口元に浮かべた笑みを深めて八束に向き直る。
「八束くんも。早く、消えた河童が見つかるといいですね」
「はいっ、頑張ります!」
 びしっ、と敬礼する八束の前で、南雲は再び背中を丸めて、河童のぬいぐるみを縫う作業に戻っていた。
 結局、八束の再三の抗議が南雲の耳に届くことはなく、今日も全ての事務作業は八束一人の手に委ねられたのであった。
 
 
 ――終業時刻。
 八束は南雲を半ば引きずりながら待盾署を飛び出した。本日分の仕事は、自分のものはもちろん、本来南雲に与えられていたノルマ分まで全て片付け済みである。
 だから南雲が仕事をしないのかもしれないが、放っておいても仕事をしてくれるわけではなく、結果として仕事が山積してしまう。つまるところ、八束の仕事が増えるだけなのだというのも、この一ヶ月で嫌というほどわかっていた。
 どうすれば南雲に仕事をさせられるのか。それは、現在の八束に与えられた至上命題の一つであるが、今のところ有効な策は存在しない。
 ただ、今は南雲の怠惰さ加減よりも、河童のミイラの行方について考える方が先だ。先だとは思うのだが、一つだけ頭に引っかかっていたことを問うことにした。
「南雲さん、一つ質問させてください」
「どうぞ?」
 南雲は、八束のすぐ横をゆったりとした足取りで歩きながら言う。
「先ほど、綿貫さんが『鼻につく』とおっしゃっていましたが、どういう意味ですか?」
「ああ、大したことじゃないよ。八束は、あそこにある看板の文字普通に読めるでしょ」
 と言って、指したのはブルーの地に白の文字で矢印と地名が書かれた交通標識だ。ここから右に曲がって、しばらく進めば埼玉県に入ることがわかる。だが、それがどうしたというのだろう。
 不思議に思っていると、南雲はちらりと八束を見下ろして、眼鏡の下の目を細める。
「八束は人より目がいいし、記憶力も抜群だろ。俺はほとんどのところ八束に劣ってるけど、人よりちょっと鼻がよくて、少しばかり勘が働く。その二つは、同時に感じられることがほとんどだけど」
 ――要するに、違和感、だよな。
 付け加えて、南雲は虚空に視線を戻す。
「普段しない匂いがすれば、普段と違う『何か』があるってことだ。それを俺自身が『勘』と思い込んでるだけかもしれないし、また別の概念なのかもしれない。とにかく、その程度のふんわりとした認識を指して『鼻につく』って表現する」
「なるほど。違和感を察知する能力が優れているのは、素晴らしいことだと思います」
 勘、という曖昧なものを信じているわけではないが、かつて捜査一課に所属していた経験から、彼らが「勘」と呼ぶものを完全に否定しているわけではない。本人も自覚していない、経験から来る判断力が決して無視できないことは、自身の経験からも明らかなのだ。
 南雲の場合、おそらく、少しばかり人より鋭い嗅覚で嗅ぎ取った違和感によって、経験則が裏付けられる、ということなのだろう。
「それが、今回の河童の消失に関しては上手く働いていないということですか?」
「いや、違和感はあるんだよ。あるけど、それが何なのか、そもそも事件に関係しているのかもさっぱりって感じ。俺の感覚って、大体はその程度のもんなのよ」
 結局のところ、河童の行方を知る役に立つわけではない、ということだ。
 ただ、違和感はある、と南雲が感じ取っている以上、やはり「何も無い」ということはありえないのだ。実際に河童が消えているのだから、今更ではあるのだが。
「せめて、神主さんの方で何か進展していればいいのですが……」
 言いながら、神社の位置する細い路地に足を踏み入れた瞬間。
 
 八束の目に入ったのは、黒塗りの高級車であった。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(4)

 ――河童の足取りを追う。
 
 もちろん、河童のミイラが歩いて逃げた、という言葉を鵜呑みにしたつもりはない。河童の足跡のように見せかけた、銀色の痕跡を信じたわけでもない。
 ただ、誰かの手で持ち去られたと考えれば、痕跡は必ず残るはずなのだ。人間は空を飛んで逃げることなどできないのだから。
 特に神社の境内は、人がよく通るような場所こそ石畳に覆われているが、地面がむき出しになっている部分も多い。仮に人の目を避けたなら、舗装されている場所でなく、裏手の林の中を通っていてもおかしくない――、というのが八束の考えだ。
 かくして、敷地内の捜索が始まった。
 ……八束と、菊平の二人で、ではあったのだが。
 南雲はどうしたのかといえば、八束が河童の捜索を提案して飛び出したところで、
「俺はエネルギー切れです」
 と呟き、そのまま賽銭箱の横にうずくまって動かなくなった。正確には、もそもそとチロルチョコをむさぼりはじめた。こうなってしまった南雲は、本人が満足するまで決して動かないので、仕方なく八束一人で捜索に臨むことになったのだった。
「まずは、周辺に何か手がかりがないか、ですね」
 河童の盗難が社の中で起こったのはまず間違いないはずだ。河童が入っていた大きな箱は動かされた形跡がなく、その内側だけが綺麗に消えていたのだから。
 どうやって建物に忍び込み、盗み出したのかという問題は解決していない。
 とはいえ、事件が起こった場所は覆しようもない。つまり、周辺に逃亡の形跡が残っているはずだ。そう考えて、コンクリートで埋められた建物の周囲と、その外側の木々の根が張り出した土の地面を見つめていたのだが。
「新しい足跡、多いですね」
 ジャージの膝や肘、腹の辺りが汚れるのも構わずに、這いつくばって地面を観察していた八束は、顔を上げて眉を寄せる。
 コンクリートの上に残された土のついた足跡や、土に刻まれた靴の痕跡はいくつも見つけられた。それはもう、くっきりはっきりと。だが、河童を盗んだ存在が残したものにしては、あちこちに足跡がつきすぎている――。
 そう思った時、呆れたような菊平の声が割って入った。
「そりゃそうだ、朝から今まで河童探してたから」
「ああ……」
 それはそうだ、と思うと当時に肩の力が抜ける。
 鑑識に頼めるなら足跡の鑑定もできようものだが、八束一人でこの境内のあちこちに刻まれた足跡のうち怪しい足跡だけをピックアップするのは流石に不可能に近い。
 どうやら、足跡から犯人の足取りを追うというのは現実的ではないようだ。また別のアプローチを考えなくては、と思いながら体を起こしたところで、ふと地面の上の一点が視界に入った。
「そういえば、やけに小さな足跡がありますね」
 詳細に観察すれば、大きな足跡の上に小さな足跡、という形だ。つまり時系列からすると、小さい足跡の方が後ということになる。と言っても足跡の新しさからいうとそこまで二つの間に変わりはないように見えるが。
 八束の声を聞いた菊平は、「ああ」と苦笑する。
「翔の足跡だな」
 知らない名前だ。八束は、ジャージの膝を払って立ち上がりながら、菊平に問いかける。
「翔、とはどなたですか?」
「俺の息子だ。朝のうち、一緒に河童を探してたんだよ。今は一旦家に帰ってる」
「息子さんがいらっしゃるのですね。おいくつですか?」
「十歳だ。小学四年生」
 十歳。二十二歳の八束から見れば「子供」と感じられるが、よく考えると八束と南雲の歳の差もそのくらいだと気づいて思わず微妙な顔になる。子供扱いしないでほしい、と八束は繰り返し南雲に訴えているが、南雲の目を通せば、八束は相当幼く見えているのかもしれない。
 ……と、すぐに横に逸れかける意識を本題に戻すため、首をぶんぶん振る。今は南雲のことはどうでもいいのだ。
 突然頭を振り始めた八束を怪訝な顔で見ていた菊平だったが、ふと、口元が小さく動いた。
「なあ、八束ちゃん。一つ聞いてもいいか。河童とは全然関係ない話なんだけどさ」
「はい、何なりと」
「……南雲のこと、なんだけど」
 思考から遠ざけようとしていた南雲の名前が菊平の口から出たことで、八束はぎょっとして問い返す。
「南雲さん、ですか?」
「あいつ、最近どんな感じだ? 荒れてたりしないか」
 最近、と言われても、八束はここ一ヶ月ほどの南雲しか知らない。なので、その範囲で南雲のことを一つずつ思い返し、率直に言葉に変換していく。
「顔は怖いし何考えているかよくわからないところもありますが、いつも、のんびりしていて穏やかな人ですよ。そういえば、声を荒げてるところはほとんど見たことがありませんね」
 一度だけ。そう、たった一度だけ、南雲の逆鱗に触れてしまったことはある。ただし、それは「八束の食事が三食カロリーメイトとサプリメントのみである」という事実に対してだったので、正直南雲の怒りのツボは未だによくわからない。
 ただ、南雲彰という人物が、見た目どおりの人間でないことくらいは、一ヶ月程度の付き合いである八束でもわかる。怠惰で面倒くさがりでとてつもなく扱いづらいが、根はとても心優しい人物、というのが南雲に対する評価だ。
 そんな八束の言葉を聞いて、菊平は心底安堵したように長く息をついた。
「なんだ、マジで面構え以外は何も変わってねえんだな」
「昔は違ったのですか?」
 あのスキンヘッドと仏頂面が昔からというのは、流石に考えにくい話ではあるが。菊平はにやりと口元に笑みを浮かべて、秘密を告げるようにそっと囁く。
「まあな。あいつ、俺の中学時代までの後輩なんだけどさ。あれで昔は天使みたいな面してて、女子にきゃーきゃー言われてたんだぜ」
「天使!?」
 天使のような、南雲。
 全く、想像ができない。
 坊主のような、ならまだわかる気はするが……、いや、やはり納得できない。言葉から連想される天国やら浄土やらというものとは無縁としか思えない、いっそ冥府から現れたと言われた方がしっくり来る、それが南雲という男である。
 どれだけ微妙な顔をしてしまったのか、自分ではわからない。ただ、菊平が反射的に噴き出す程度には変な顔をしていたのは、間違いなかった。
「ほら、あいつ、顔はいいだろ」
「はい。いつも難しい顔してますし、顔色もとてつもなく悪いですが、それを差し引けばとても綺麗な人ですよね」
 それは八束も当初から認めていることだ。長身痩躯で色白、少しつり気味の目、人より色の薄い瞳、すっと通った鼻筋に整った形の顎。常に白を通り越して土気色の肌をしていたり、目を限界まで細めて眉間に皺を寄せていたり、目の周りにべったりと隈を貼り付けたりしていなければ、スキンヘッドを考慮しても恐ろしげには見えないはずだ。
「昔はあんなしかめっ面じゃなくて、いっつもにこにこしてたんだよ。髪の毛も天パでふわふわしてて、まさしく絵に描いた天使って感じだったんだぜ」
「にこにこふわふわくるくるな南雲さんですか!?」
 その姿は、完全に八束の想像力を超越していた。手始めに「髪の毛のある南雲」というものを想像してみるも、ふわふわというよりも鬱蒼と茂ったアフロのかつらを被った、怖い顔の南雲しか思い浮かべられない。考えれば考えるほど、むしろ普段の南雲よりも威圧感が増している気がした。アフロの質量の分。
 八束の斜め横にすっ飛んだ思考に気づいているのかいないのか、菊平は口元に浮かべていた笑みをふと消して、やけに低い声で言う。
「それに、あいつ、色々あっただろ。上手くやれてんのかな、ってちょっと心配だったんだ」
「色々? 南雲さんに何があったのですか?」
 八束はこくりと首を傾げて問いかける。どうも、それは菊平にとって意外であったらしく、目を丸くして八束を見やる。
「もしかして、何も聞かされてないのか?」
「そうですね、『何も』が何を指すかにもよりますが、南雲さんの事情に関しては、特に知る機会がありませんでした」
 改めて考えるまでもなく、八束は南雲について、ほとんど知らないと言っていい。
 南雲彰という名前であること。五年前から秘策に所属していること。可愛いものと甘いものをこよなく愛していること。スキンヘッドはファッションかと思いきや、半分以上は若ハゲを誤魔化すためであるらしいこと。そのくらいだ。
 先輩であり相棒である南雲だが、あくまで自分とは別の人間である。理由もなく私的な事情に触れるのはマナー違反であることくらいは認識している。今まで、無意識に相手のテリトリーに土足で踏み込む真似を何度もしてきたという、大きな後悔と共に。
 ただ――、何故、南雲が秘策にいるのかは、八束の頭の中にもちいさな棘として引っかかっていることではあった。
 普段は怠惰な態度で八束を振り回す南雲だが、捜査員としては決して無能ではない。一ヶ月前の幽霊騒ぎで、自分の役割を見失いかけていた八束を叱咤し、適切なアドバイスを投げかけ、幽霊とバイク事故との間の因果を見出してみせたことは記憶に新しい。
 八束が細かな違和感一つひとつに対する分析を得意とするのに対し、南雲は出来事全体の枠組みを見出す能力に優れている。これは八束に致命的に欠けている能力であり、だからこそ、係長も八束と南雲を組ませているのだろう、と想像している。ここまでは、八束でも十分考えが及ぶ範囲だ。
 だが、そこから先。八束や係長が「優れた能力を持つ」と認めている南雲が、どうしてこんな閑職で暇と能力を持て余しているのか、満足できる説明を得られたことはなかった。
 もちろん、知らなくても困ることはない。南雲は広く確かな視野を持つ相棒である。それだけで十分ではある。
 あるのだけれど――。
「まあ、知らないなら俺が言うことでもねえか。悪いな、変なこと聞いて」
 菊平がばつが悪そうに頭を掻きながら呟いたので、慌てて首と手をぶんぶん横に振る。
「いえ、そんなことありませんっ! 興味深いお話ありがとうございます!」
「そう? ならいいんだが。あ、南雲には俺が色々余計なこと言ってたって内緒な」
 菊平はにっと笑って、口の前に人差し指を寄せる。八束も、菊平の動きをそっくりそのまま真似するように、人差し指を立てて目を細める。
「はい、内緒です」
 
 
 一方その頃、賽銭箱の横に座り込んだ南雲は、六つ目のチロルチョコを咀嚼しているところだった。
 チロルチョコはどうもキャンディ類に比べるとコストパフォーマンスが悪い。マイブームではあるのだが、次に出歩くときは別の甘味の方がいいだろうか、と思っていると、石段を誰かが上ってくるのが目に入った。
 どうやら、男の子のようだ――、と眼鏡越しにもぼやけて見える視界で判断したその時、石段を登りきった何者かが、まだ声変わりもしていない高い声で言う。
「だ、誰?」
 明らかな警戒。それはそうだよなあ、と南雲は内心で苦笑する。賽銭箱の横に蹲っているスキンヘッドのおっさんなど、不審なことこの上ない。七つ目のチロルチョコの封を開けながら、顔だけを上げて言う。
「こんちは。君、菊平先輩んとこの息子さんだよな」
「そうだけど、お父さんの友達?」
「……まあ、友達っつーか後輩だね。君のお父さんなら、多分裏手にいるんじゃないかな。俺の友達と一緒に探し物中」
 南雲は少しだけ首をめぐらせて、拝殿の裏手を視線で示す。恐る恐る、といった足取りで近づいてきた少年は、四角い箱の形をした包みを抱えて、不安げに南雲を見ていた。
「おじさんも、河童を探してるの?」
 その問いに、南雲は「ん」と顎を引きながら考える。どうやら、この少年は河童の消失を知っているらしい。
「俺は休憩中だけど、今、俺の友達が手伝ってる。あと、おじさんは南雲っていいます。君は翔くんだよね」
「う、うん」
「うーん、君が三歳くらいの時に一緒に遊んだこともあるけど、流石に覚えてないよな」
 仮に覚えていたとしても、それが今の南雲と結びつくとも思えなかったのだが。
 案の定、翔は怪訝そうな顔を更に深めただけだった。
 南雲は、七つ目のチロルを口の中に放り込み、表情は変えようがなかったので、出来る限り穏やかに聞こえるように心がけながら声をかける。
「それ、お弁当?」
 それ、とは翔少年が抱えている箱のことだ。一瞬、翔は目を真ん丸くしていたが、すぐにこくこくと頷いた。
「お父さんと一緒に食べなって、お母さんが」
「もうお昼時だもんな。じゃ、お父さんのこと、呼んでこようか」
 ゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをする。甘いものを摂取したので、先ほどよりは随分頭が働くようになっている。
 翔はもう一つだけ頷いて、ふと視線を上に向ける。南雲もつられてそちらを見るが、特に変わったものは目に入らない。木々の間から、いつもの空が見えるだけだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 それだけ言って、弁当箱を抱えたまま裏手に小走りで駆けて行く翔。その小さな影を眺めていた南雲は、ふむ、と顎をさする。
「……まさか、なあ」

02:ワンダリング・ウォーターインプ(3)

 失礼します、と一言断り、履物を脱いで上がる。
 中は薄暗く、外より気温が下がったような気がしてぶるりと震える。空気の匂いも、肌に感じられる質感も、一歩建物の中に足を踏み入れただけで随分変わった気がする。これが、神の気配というやつだろうか――と考えてしまい、恐れ多さに身が竦む。
 対する、横の南雲はいたって自然体であり、一つ、大きく欠伸をしたと思えば、二つ目のチロルチョコをコンビニ袋から取り出すところだった。
「……南雲、飲食禁止な」
「ちぇー」
 とはいえ、ここの主である菊平の指摘に、渋々ながらも出しかけたチョコを再び袋の中に収め、入り口の柱の辺りにもたれかかった。
 いつものことではあるが、南雲の挙動の危なっかしさには、はらはらせずにいられない。こんな神聖な場所で神の怒りにでも触れたらどうするのだ、と考えるのだが、「何言ってんの八束、神様なんているわけないじゃない」と真顔で返す南雲の姿がまざまざと想像できてしまったので、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
 ぎしりぎしりと床板を鳴らしながら、菊平は奥に置かれた台の前に立つ。そこには古びた木の箱が置かれていた。ところどころが朽ちかけているところを見るに、相当長い年月を過ごしてきたのだろう、ということがわかる。
「こいつが、河童の入っていた箱だ。この中にもう一つ箱があったんだが……」
「内側の箱ごと消えていた、ということですね」
 菊平が今にも壊れそうな蓋を開け、八束は台の上の箱を覗き込む。そして、菊平の言うとおり、もう一つ何か四角いものが入っていたのだろう、ということは箱の内側に染み付いた痕から判断できた。
 しかし、それ以上に八束の注意を引いたのは、内側に残されたもう一つの「何か」だ。
「神主さん、このきらきら光るものは何ですか?」
 薄暗いから詳細はわからないが、八束の目には、箱の縁の辺りに、微かに光沢を持つ何かが付着しているように見えたのだ。一目ではそれが「何」かを判断することはできそうになかった。
 しかも、よく見ればその光沢を帯びた何かは、八束には見えていなかった箱の側面、そして床の上にもぽつりぽつりと落ちているようだった。何か小さなものを引きずっては持ち上げる、そんな痕跡に見えて、極めて不気味だ。
 それを不気味だと感じたのは、何も八束だけではなかったらしい。
「それが、俺にもわかんねえんだ。ただ……」
 菊平が、言いづらそうに口をもごもごさせていたが、やがて意を決したように八束に視線を向けて言った。
「ある地域の河童は、水銀の足跡を残すって話だ。もしかすると、これも……」
 その言葉に、八束もはっとした。
 ――だから、「歩いて逃げた」なのか。
 背中に戦慄が走り、にわかに足が震えだす。河童など存在しない、架空の生物である。そう思えば何も怖くない、そのはずだった。だが、目の前に河童が歩いていった痕跡が残っている以上、確かにこの場には河童が存在したということになる……。
 ぎょろりとした目玉が、拝殿の薄闇の向こう側からこちらを見つめているような感覚に、唇を噛み締めた、その時だった。
「んなアホな話があるかって」
 南雲の明朗な声が、八束を不毛なイメージの海から引きずり上げた。
「水銀の足跡って、牛久の河童じゃねっすか。茨城と一緒にしないでいただきたい」
「南雲さんがどうして茨城県をそんなに敵視するのか不思議で仕方ないです」
 それに、南雲はオカルト嫌いと豪語する割に意外とオカルトそれ自体に詳しいのが不思議ではある。八束より神秘対策係にいる期間が長い分、その手の事件に多く接してきたからだろうか――とは思うが、南雲がまともに仕事をしているところを見たことない以上、その姿が全く想像できないのが困りものである。
 南雲はぺたぺたと箱の前まで歩み寄ると、箱に付着した銀色の何かを睨む。
「それに、これ、本物の水銀なの?」
 俺は水銀ってよくよく見たことないからわかんないけど、と南雲が眼鏡の下から八束に視線をやる。南雲の顔はどう見ても不機嫌そうにしか見えなかったが、実際に考えていることはいつだって、表情とは裏腹だ。
 今だって、そう。
 八束は、内心の恐怖を理性で押さえ込み、南雲に一つ頷く。そして、背負っていたナップザックを下ろして、中から取り出すのは一対の白い手袋とペンライトだ。それを見た南雲が、半ば呆れたような声音で言う。
「お前、そんなもん持ち歩いてんのな」
「いつ事件が起こるかわかりませんから。備えあれば憂いなしです」
「仕事熱心だよねー、ほんと」
 南雲の揶揄を聞き流し、手袋を嵌めてライトをつけ、箱に付着したものを観察する。ライトの光を動かして、反射の加減を確かめる。
「水銀ではなさそうです」
「それはよかった。まあ、本当に河童が水銀を生産するっていうなら、俺、とっくのとうに乱獲して売り払ってるだろうけどな」
「南雲さんの発想って時々斜め上ですよね」
 河童の希少性と水銀の価値の関連については議論の余地がありそうだが、それはそれとしてもう少しじっくりと銀色に煌く何かを観察する。
「そうですね……。見た目から判断するなら、顔料と展色材の混合物。つまり、水彩絵の具の銀色、だと思います」
 本当は、きちんと鑑識に回して調べたいところだが、今回は正式な捜査ではなく単なるお節介なのだから、わがままは言えない。目に見えている事象と、八束の脳内に綴じこまれている情報と照らし合わせて判断を下す。
 菊平は八束の言葉を聞いて、ぼさぼさの頭を振って眉を寄せる。
「水彩絵の具、ってことは、何だ、いたずらってことか?」
「おそらくは」
 八束はこくりと頷いて返す。わざわざ絵の具で河童が歩いたような痕跡を残している以上、誰かの手によるいたずらとしか考えられない。
 顎に手を当てて、思案げにする菊平に対して言葉を続ける。
「この偽物の『足跡』をつけた人物が、ミイラを持ち去ったのでしょうか。神主さん、河童が消えたのは、昨日から今日までの間なのでしょうか」
「あ、ああ。昨日までは確かにミイラはここにあった。何人か見に来たから、そこは間違いない。で、暗くなってきた辺りで箱を締めて、戸に鍵をかけて帰った。今日来た所で河童が消えていたことに気づいたんだ」
「戸の鍵はどちらに?」
「家がすぐそこだからな、いつも持ち帰ってる」
 なるほど、と八束は頭の中で菊平の言葉を反芻しながら、ぐるりと視線を巡らせる。入り口に大きな戸。こちらは外側から鍵をかける仕組みらしい。また、窓はあるものの、光を入れたくないのか現在は雨戸で固く閉ざされている。こちらは内側から鍵がかかっている。
「雨戸はずっと閉じたままだったのでしょうか」
「そうだな。昨日はずっと閉めておいた。ミイラに光を当てるのもよくないからな」
 雨戸を検分してみる。どこか一つくらい鍵が壊れている可能性を考えたが、どの窓もきちんと鍵がかかっていたことは間違いないようだ。
 そして、帰り際、戸にも確かに鍵をかけたと菊平は言っている――。
「では、誰かが侵入して河童を盗んだ、と考えるのは難しいということですか」
 菊平の言葉だけを聞く限り、そうとしか思えない。この拝殿は昨夜から菊平が河童の不在を知った今朝まで密室だったということになる。
 だが、その場で事件が起こっている以上、完全な密室はあり得ない。
 そう言った、かつての上司を思い出す。八束が本部の捜査一課に所属していた頃も、不可解な事件に直面することは多かった。もちろん、河童などという奇妙な存在が関わることはなく、「人の手によるもの」であることがはっきりしている犯罪ではあったけれど。
 それでも、人はこちらが思う以上に突飛な方法で、犯罪の証拠を隠すことがある。そのくらいは、八束も経験上嫌というほどわかっている。
 消えた河童のミイラ。まるで河童の足跡のように残された銀の絵の具の痕跡。それを追いかけても、そちらにあるのは雨戸だけ。そこにはもちろん鍵がかかっている。
 残された銀色の痕跡に意味がない、ということはないだろう。そこに誰かがいた紛れもない証拠であり、また痕跡を残すだけの理由があったことも示している。しかし、それ以上のこと――例えば「誰が」それを残したのか、「何故」それを残したのか、という点に関しては、全く考えが及ばない。
 どうも思考の材料が足らないようだ。これでは河童が消えた理由は判断できそうにない。だが、今のままでは一体「何」が足らないのかも見当がつかない。
 腕を組み、堂々巡りを始めた思考を改めて手繰りなおそうとしたその時。
「あのー、すみませーん」
 入り口の辺りから、声が聞こえた。八束の知らない男の声だ。
 八束と一緒に腕を組んで考え込んでいた菊平が、慌ててそちらに向かう。
「いらっしゃい。昨日はほとんどお相手できなくて悪かったね」
「いえ。こちらこそお忙しいところお邪魔して申し訳ない」
 見れば、ダークグレーのニットの帽子を被った男が、ぺこりと先客である八束と南雲に対して頭を下げていた。八束も反射的に深々とお辞儀をして、改めて男を見やる。
 年齢は二十代の前半といったところだろうか。近場の住人なのだろう、軽装で肩掛けの鞄を提げている。目尻の垂れた、人のよさそうな青年だ。青年は、強張った顔つきの菊平に気づいていないのか、笑顔を浮かべて続ける。
「それで、改めて河童のミイラを見せていただきたいと思ったのですが」
「あ、ああ……」
 菊平はしどろもどろになりながら、青年に対して申し訳なさそうな顔を向ける。
「本当にすまないんだが、ちょっと色々立て込んじまっててな。ミイラの公開を差し止めてるんだわ」
 河童のミイラが消えた、ということをきちんと伝えなくてよいのだろうか。声をあげかけた八束の口は、ぬっと突き出された大きな手によって塞がれた。
「む、むむむぅー!」
「余計なこと言わないでいいんだよ」
 もちろん、八束の口を塞ぐ手は南雲のものだ。不審げにこちらを見る菊平と青年に「おかまいなく」と返した南雲は、八束の頭の上から囁きかけてくる。
「先輩は、ことを大きくしたくないんだろ。河童が消えたって事実を知られるのが、先輩にとって不都合なのかどうかは知らんけど」
「……そうなのです? 通常、皆さんに知ってもらった方が情報は集めやすいと思いますが」
「通常はね。そうできないだけの理由が、先輩にはあるのかもしれないな。でも」
「でも?」
 南雲は一つ、大きく欠伸をして、眼鏡を押し上げて目を擦りながら言う。
「まあ、俺らがそこを気にしてちゃ話にならんからね。先輩の事情は先輩の事情、河童が消えたという事実とは別のお話でしょ」
「む……」
 確かに、南雲の言う通りではある。あるけれど、どうも何か引っかかるものを感じている。その引っ掛かりを、八束は臆することなく――とはいえ、もう一度口を塞がれるのは不本意だったので、出来る限りの小声で――囁く。
「しかし、完全に無関係ではないと思います。河童のミイラが、神主さんにとってどのような存在なのか。それによって、河童が消えた『理由』は変わるのではないかと考えます」
 具体的なことは何一つわかってはいないものの、河童のミイラが歩いて逃げたわけではない、という立場を取る以上、それは何者かに持ち去られたのだ。何者かが持ち去ったなら、その人物には河童を盗みだすだけの理由がある。そして、その理由は必ずしもその個人で完結した思惑であるとは限らない。
 例えば、持ち去った人物と、持ち主の間に因縁がある場合だとか。
 南雲は、今にも人を殺しそうな目で八束を睨んだ、もとい「見つめた」後、ふと息をついて存外穏やかな声で言った。
「何だ、そこまで気が回ってたんだ。ちょっと意外」
「わたしだって、考えて発言をしているつもりですっ!」
 むっとして頬を膨らませる八束だったが、南雲はそのぷくぷくのほっぺたをつついて、軽い口調で言い放つ。
「でも、それを論じるのは今じゃない。先輩の口を割らせるにも、それ相応の準備が要ると思うのよね」
「準備、とは?」
「言いたがらないことを、そう簡単に明かしてくれるわけないでしょ? だから、先輩がどうして河童の紛失を知られたくないのか、理由を証拠と合わせて示す必要がある。そうするくらいなら、河童が誰に盗まれたのかはっきりさせる方が手っ取り早いかもしれないけど」
 八束は、南雲の言葉をゆっくりと噛み締めるように吟味する。とはいえ、今この段階で、八束が言えることは一つだった。
「……どちらも、難しそうですね」
「そりゃな。まずは地道に河童を探すしかないだろうな。探してるうちにわかってくることもあるでしょ、きっとね」
 いつものことながら頼りない物言いだ、と思いながら南雲を見上げると、南雲はぺこぺこと頭を下げあっている菊平と青年の方を見ていた。
 南雲に気を取られて向こうの会話の流れはよくわからなかったが、青年の声が、ふと八束の耳に飛び込んできた。
「では、ミイラの展示を再開したら、ご連絡いただければと思います」
「ああ。わざわざ来てくれたのに本当に申し訳ない。必ず連絡する」
「ありがとうございます。それでは、また」
 青年はもう一度深く頭を下げて社を後にした。その背中が石段を降りていくのを見届けた後に、彼の連絡先であろうメモを片手に溜息をつく菊平に問うた。
「今の方は?」
「近くの大学に通ってる学生だ。民俗学を専攻してるらしくて、それでうちの河童のミイラに興味があるそうだ」
 なるほど、と八束は頷く。河童といえば柳田国男の『遠野物語』にも記述されているように、民間伝承の定番ともいえるテーマだ。河童と一言で言っても日本各地でそれぞれ違う姿をしていたり、性質が異なったりと、突き詰めればなかなか奥の深いテーマなのかもしれない。
 思いながらちらりと菊平の手元に視線を走らせてみる。薄暗い中でも、ノートの切れ端に書かれた文字列は見て取ることができた。
 梅川恭一、という名前と十一桁の携帯電話の電話番号。それを一秒足らずで脳味噌の片隅に焼き付けて、視線を上げる。
「昨日もいらしていたのですか?」
「そ。だけど間が悪くてな、昨日はちょうど面倒くさい客が来てるところで、そっちの対応に追われちまったんだ。で、河童の話を詳しく聞きたきゃ今日もう一度来いって言ったんだがこのザマだ」
 軽く肩を竦める菊平の言葉に、どうにも引っかかるものを感じて八束は首を傾げずにはいられない。
「面倒くさい客、ですか?」
「こういうのを見せてると、ケチつけてくる奴も少なくないんだ。それで、昨日は特に面倒な奴だったから、追い払うのに苦労した」
 言いながら、菊平は深々と溜息をつく。偽物とわかりきっているとはいえ「河童のミイラ」という奇妙なものを見せるというのは、面倒とは切り離せないらしい。その時のことを思い出したのか、苦々しい顔つきで虚空を睨んでいた菊平だが、すぐ気を取り直したようで、こちらに視線を戻してきた。
「で、これからどうすればいい?」
 どうすればいい、と言われても今のところ手がかりが少なすぎる。
 少しでも、情報を得なければならないことだけは、はっきりしているのだが――。
 助けを求めるように南雲に視線を向けてみるも、南雲は立ったままゆらゆら船をこぎ始めている。甘いものを食べていない時の南雲は、大体においてこんなものである。
 そんなわけで。
「……河童の足取りを追いましょう」
 今の八束が思いつく限りのことを、言葉にした。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(2)

 ――河童が、歩いて、逃げた。
 
 八束結がその言葉の意味を正しく受け止めるまでには、数秒の時を要した。
「そ、そんなこと、ありえるんですか?」
 ぺたり、ぺたりと、耳の奥で足音が聞こえる。湿り気とぬめり気を帯びた、緑がかった褐色の肌を持つ影が、八束の脳内でぐっと首をもたげ――。
「いやー、ありえねーだろ」
 ぼそりと呟く声が頭上から降ってきて、八束の妄想はあっけなく打ち切られた。
 南雲彰。八束の教育係かつ相棒であるその男は、綺麗に剃りあげたスキンヘッドをゆらゆらさせながら、黒縁眼鏡の下の隈の浮いた目で神主の菊平亮介を睨む。八束より頭一つ以上背の高い強面の男に見下ろされ、菊平の表情に怯えに似たものが走った、ような気がした。
 しかし、南雲の薄い唇から放たれるのは、いたって軽く、間延びした声である。
「先輩も、ちょっと落ち着いてくださいって。河童のミイラは歩きませんし、そもそもここに奉納されてるミイラは偽物だって、先輩のお爺さんも言ってたじゃねっすか」
 南雲が先ほどから菊平を「先輩」と呼び、いい加減ながらも普段より丁寧な言葉を使っているところから考えるに、どうも菊平は南雲の先輩――おそらくは学生時代の――であるようだ。南雲の実家が近所らしいことを考えると、幼い頃からこの神社には縁があったのだろう。
 菊平は、南雲を半眼で見上げつつ、がしがしと頭を掻く。
「言われてみりゃ、そりゃそうだよなあ。だが、うーん……」
「ミイラが逃げたと思われるような根拠があるのですか? ご相談いただければ、わたしたちも協力できるかもしれません。財産の保護もまた、警察の重要な役割です」
 八束は身を乗り出すようにして、菊平の顔を覗き込む。すると、何故か菊平はたじろぐように一歩下がって、少しだけ八束から視線を逸らした。
「い、いや、大したことじゃねえしな。わざわざ警察の世話になることもないさ」
 どうも煮え切らない菊平の態度に、八束は眉を顰めずにはいられない。
「しかし河童のミイラといえば、偽物であっても珍しいものですし、奉納されていたということは、神社にとって大切なものでもあると考えます。それに、先ほど神主さんは随分と慌てていらしたようです。大したことがない、というには――」
「八束、先輩が困ってるからその辺にしとけ」
 突然、わしっ、と頭を掴まれる感触に、八束は思わず「ぴゃっ」と変な声を上げてしまう。見上げれば、南雲が大きな手で八束の頭をしっかり押さえ込んでいた。
 そのまま、八束の頭をぐしゃぐしゃ撫でながら、南雲がぼんやりとした調子で言う。
「でも、八束の言うとおりだとは思いますよ、先輩。相談できない理由でもあるんすか」
 菊平は、口をへの字にして黙り込んでいたが、八秒の後に重々しく口を開いた。
「だって、なあ。河童のミイラが逃げたとか、警察に言っても信じてもらえるわけねえだろ。馬鹿にされて終わるだけだ」
 お前らもそうだろう、と言わんばかりの疑いの視線が投げかけられるが、八束はぴんと背筋を伸ばして胸を張る。今こそ、己の出番なのだから。
「心配ご無用です! わたしたち秘策――待盾警察署刑事課神秘対策係は、奇妙奇天烈摩訶不思議、オカルトにまつわる事件の捜査を専門としております。どのような不思議であろうとも、真摯にお話を伺った上での捜査をお約束いたします!」
 こんなこともあろうかと、あらかじめ用意しておいた口上を一気に言い切り、菊平に頷いてみせる。だが、菊平は呆然と八束の顔を眺めた後、かくん、と首を曲げて横の南雲を見上げた。
「……本当に、そんな係あんの?」
「遺憾ながら実在するんすよ」
 南雲は仏頂面のまま、大げさに肩を竦めて言った。
 待盾警察署刑事課神秘対策係、通称「秘策」。
 八束と南雲は、そんなけったいな部署に所属する警察官である。
 一ヶ月前、とある事情により、C県警察本部の刑事部捜査一課から待盾署に転属となった八束は、まず、待盾という都市の奇妙な特徴を思い知らされることになった。
 ここ待盾市は、昔から、ありとあらゆる超常現象が集まる「特異点都市」だというのだ。
 妖怪や幽霊、超能力者に魔法使い。人が「不思議」と呼ぶものは、大概待盾のどこかで見かけられる、とか何とか。説明のつかないものに恐怖を感じる八束にとっては、とことん暮らしづらい土地である。
 しかも、物的、人的被害を伴うオカルト事件も過去から現在に至るまで多々発生しているというのだ。幽霊や妖怪を罪に問えない以上、いくつもの事件が闇へと葬られてきた。
 しかし、「不思議」とは現実に存在し得ないからこその不思議である。オカルト事件も、実際には人の手による犯罪であることがほとんどだ。待盾という土地に遍在するオカルト――「罪に問えない」対象に己の罪を隠し、追及の手から逃れんとする卑劣な犯罪。それがオカルト事件の本質と言ってもいいだろう。
 故に、待盾署には「神秘対策係」が存在する。
 神秘対策係は、オカルトが関わる事件を専門に扱う部署であり、強行犯係や盗犯係といった他の係とは別に、独自の捜査を行うことが許されている。
 ただし、神秘対策係に許されているのは、あくまで「オカルトが人の手によることの証明」までである。その後は、他の係が全面的に解決するのを眺めていることしかできない。
 そんな、極めて微妙な立ち位置にある神秘対策係だが、今回のように「オカルトと思われる事件」に積極的に関わることができるという点は極めて重要だ。
 まさに今の菊平のように、オカルトに見えるが故に他人に相談できず、見過ごされてきた出来事を、一つの「事件」として扱い、解決に導く。それが秘策の最も重要な役割であると、八束は自負している。
 ――とはいえ、まず知名度が低すぎるという点と、存在を知られたところで胡散臭げな目で見られる点に関しては、早急な改善が必要だと思っているが。
「とにかく、わたしと南雲さんは、オカルトに関する事件を取り扱っていますので、いくらでも相談に乗りますよ!」
 どんと胸を叩くと、呆然としていた菊平が、口元の緊張を緩めて苦笑した。
「南雲は、オカルト嫌いだと思ってたんだがなあ」
「嫌いですよ。だからこそわかることも色々あるってことです」
 それに対し、南雲はしれっとした態度で、手首に下げたコンビニ袋から一口サイズのチョコレートを取り出す。そろそろ糖分が足りなくなってきたのだろう。
 南雲は常に甘いものを口に含んでいないと落ち着かないようで、普段から必ず飴やチョコレートを持ち歩いている。ここ数日はチロルチョコの気分らしく、かわいらしい包みのチョコがコンビニ袋の中にぎゅっと詰まっている。スキンヘッドに強面な男が大きな手でチョコの包み紙を剥く光景は、なかなかにシュールである。
 ――それにしても、南雲のオカルト嫌いは、意外とよく知られているらしい。
 八束はオカルト全般を恐ろしいものと認識しているが、南雲はそれとは正反対に、恐怖心が欠落しているとしか思えないくらい肝が据わっている。その一方で、分厚い眼鏡の下から、絶対零度の視線でオカルトと呼ばれる現象を観察するのだ。
 南雲はオカルトを信じようとしない。その姿勢は、見かけに反して柔和な彼らしくもなく頑なで、八束には不思議に思えるのだった。
 ともあれ、菊平は南雲と八束を交互に見て、それから社へと続く石階段を振り返って……、ゆっくりと首を振った。
「でもまあ、まずは自分で探してみるよ。忙しいところ、邪魔しても悪い」
「俺らめっちゃ暇っすよ。だって知名度低いんだもん」
「南雲さん、一言余計です」
 警察官、特に刑事と呼ばれる人種はそうそう暇なものではない、というのが一般認識であり、大概においてそれは正しい。ただ、八束と南雲に一般的な認識は全く通用しないのが現実であった。
 本当に忙しければのんびり散歩もしていないし、河童のミイラに興味を持つこともない。そういうことだ。
「しかし……、本当にお手伝いしなくてよろしいのですか?」
 八束としては、暇であろうがなかろうが、菊平さえ望めば捜査に臨むつもりでいる。歩いて逃げたというミイラの行方も気になるし、それ以前に菊平が困っているのは明らかだ。神秘対策係という役割を抜きにしても助けになりたい。それが偽らざる八束の思いである。
 だが、菊平はどこか冴えない顔つきで、小さく頷くのだ。
「ああ。ありがとな、気使ってくれて」
 そう言われてしまっては、八束も強制はできない。それでも、話を聞いた以上、このまま引き下がっていいのか。悶々とした思考に陥りかけたその時。
「菊平先輩、勝手に見るのはダメ?」
 今まで無言でチロルチョコを咀嚼していた南雲が、朗らかに――ただし、顔に張り付いているのは死人を思わせる強張った仏頂面だ――言った。これには菊平も驚いたのか、目を見開いて南雲を見上げる。
「捜査じゃなくて、勝手に覗いて好き勝手言うくらいは許してくれませんかね。八束は河童に興味あるみたいですし、俺も行方は気になるんすよ」
 言いながら、再び八束の頭をもしゃもしゃ弄る。どうやら、南雲にとって八束の頭は弄るのにちょうどいい位置らしい。八束としてはいい迷惑なのだが。
 菊平は、腕を組んで南雲を探るように見据えていたが、ふと肩の力を抜いて、深く息をついた。
「わかった。お前らなら、何かわかるかもしれんしな」
 言って、菊平は八束たちに背を向けて、石段に向けて歩き出す。八束と南雲は、一瞬お互いの顔を見合わせてから、菊平の後について歩き出す。階段の前についたところで、振り返った菊平は南雲の顎の辺りを見上げた。
「お前、本当にいい奴だよな、南雲」
 言われて、南雲は一瞬面食らったように目を激しく瞬かせたが、すぐに普段どおりの人を睨み殺しそうな目つきに戻って、大げさに肩を竦めてみせる。
「いやあ、そんなことないっすよ。『イイ性格』とはよく言われますけど」
「そっちの方がしっくり来るのは違いねえな」
 南雲の言葉に、苦笑いを浮かべる菊平。確かに、南雲は「いい奴」でなく「イイ性格」だと、八束も常々思っている。それを南雲がわざとやっているらしいのも、彼の「イイ性格」ぶりをよくよく表していた。
 社に向かう階段は急で、八束は足元に気をつけながら一段一段登っていく。そうして、最後の一段を登りきったところで顔を上げると、石畳の先に木造の社が建っていた。大きな建物ではないが、どことなく静謐な雰囲気を漂わせている。
 菊平は、八束と南雲を振り返ると、「ちょっと待ってろ」と言い置いて社の中へと消えていった。残された八束は、手水場や社務所など、見慣れない境内の様子を観察しながら、ふと、虚空を眺める南雲に視線を移す。
「南雲さん」
「何?」
「意外でした」
「何が?」
 南雲は何も考えないまま返事をしているのだろう、その声はいつも以上にふわふわとしている。もしかすると眠いのかもしれない。そんなことを思いながらも、言葉を続ける。
「南雲さんは、こういう事件には関わりたがらないと思っていたので」
 南雲は、オカルトを好まず、己からオカルトが関わる事件を求めて神秘対策係にいるわけでもない。
 それは南雲本人から語られたわけでも、上司から聞いたわけでもなかった。ただ、普段の怠慢ぶりを見るに、好きでこの部署に配属されたわけでないのは確かだと思っている。
 だから意外だったのだ。いつもなら、秘策の仕事を前にしてもソファに寝そべってぬいぐるみと戯れているばかりのこの男が、「河童が歩いて逃げた」などという怪しげな話に積極的に関わろうとしたことが。
 しかし、八束の疑問に対する南雲の答えはいたって単純だった。
「気は進まないけど、先輩が困ってるのは見過ごせないよ」
 この男、基本的にはとことんやる気に欠けているが、時々、妙にお人よしな一面を見せる。特に、目の前で困っている人間を放っておけないところがあって、南雲からそういう言葉を聞くたびに、八束は不思議と心が温かくなるのを感じるのだ。
 そんな八束に南雲が何を思ったのかは、土気色の仏頂面から測り知ることはできない。できないけれど、南雲は「それに」と溜息混じりに言う。
「お前、俺が言わなくても勝手に調べる気だったでしょ」
「うっ」
 見抜かれている。八束が絶句していると、南雲は八束の頭を無造作に叩いた。散々弄られてぐしゃぐしゃになっている頭に、柔らかな感触が伝わってくる。
「ま、お前一人だと不安だしな」
「それ、どういう意味ですかっ!?」
「言葉通りだよ」
 南雲のそっけない返事に、ぷくっと頬を膨らませたところで。
「入っていいぞ」
 と、菊平の声が建物の奥から聞こえてきた。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(1)

 ――俺には、ちょっとした才能がある。
 
 そう、南雲彰は自負している。
 とっておきの甘いものを食べている時、新作の巨大ぬいぐるみに目を取り付けている時、眠気に耐え切れずに瞼を閉じる直前の一瞬、八束結のほっぺたを伸ばしている最中、えとせとらえとせとら。そう、八束のほっぺたは、すあまのようにしっとりすべすべもちもちとした触感で極めて気持ちいいのだが、それはそれとして。
 そんな他愛の無い行動の隙間に、全く関連性のない閃きが、すっと差し込むことがある。
 いわゆる「刑事の勘」――と呼ばれるものかは知らない。南雲の実感としては、刑事になる前からずっとこんなものだったので、同僚や先輩が見せる経験則から来る研ぎ澄まされた「勘」とも異なる気はしている。
 とにかく、その正体が何であれ。
 南雲の「嫌な予感」は、極めてよく当たるのだ。
 
 今日だって、朝からそんな予感はしていたのだ。
 だが、わかっていたところで回避できるとは限らないことも、経験上嫌というほど理解しているわけで。
「南雲? 南雲じゃないか! 珍しいな、お前がうちに来るなんて」
「ひとちがいですぅー」
 神も仏も信じぬ南雲が、久々に訪れた近所の神社。その、大注連縄を飾る鳥居をくぐった瞬間に声をかけられ、迷わず全力の棒読みで返す。場合によってはこれだけで十分逃げられるのだが、今日は何しろ間が悪すぎた。
「南雲さん、呼ばれてますよ!」
「人違いにしておきたいんだよ八束、少しは空気読んでくれよ」
 袖をつんつんと引き、明朗快活な発声で南雲の名を呼ぶ八束に、南雲は遠い目をするしかなかった。
 だが、「勘」やら「嫌な予感」などという感覚的なものを何一つ信じない八束に対し、前からやってくる男とエンゲージするまでの数秒以内に満足な説明ができるわけもなく、つまるところ手詰まりだった。
 見知った顔である神主姿の男は、二人の前で立ち止まると、腰に手を当てて南雲の顔を睨みつけた。
「やっぱり南雲じゃねえか。しれっと嘘つくなよハゲ」
「いやほら、他人のふりをしたいお年頃なんです」
「何言ってんだお前」
 男は露骨に呆れた顔を浮かべたが、すぐに気を取り直したのか、眉根に深く皺を刻み込み、深い溜息混じりに言った。
「何だ、お前も河童を見に来たのか?」
「まあ、そうっす。正確には、見に来たのは俺じゃなくて、こっちだけど」
 直立不動で立っていた八束を視線で指すと、八束は一歩前に出て、ちいさな胸を張る。
「初めまして、こんにちは! あなたがこちらの神主さんですか? わたし、八束結と申します」
 ぴょこん、と深く頭を下げ、勢いよく上げるまでの一連の動作は、あらかじめその通りの動きをするように作られた、ばね仕掛けのおもちゃを思わせる。
 八束の「つくりものらしさ」は、何も動きだけではない。綺麗に切りそろえられた漆黒の前髪、黒々とした眉、そして黒目の部分が大きいぱっちりとした目。肌の白さや人よりちいさな体、すとんとした体型も相まって、妙に日本人形めいた印象を与えるお嬢さんだ。
 ただし、着ているものがきらびやかな和服でなく、上下サツマイモ色のジャージ――しかも校章が入っているところを見るに、学校指定体操服というやつだ――であるという点において、とてつもなくアンバランスではあるのだが。
 ここしばらくずっと一緒にいる南雲でさえそう思うのだから、きっと、初めて目にした神主には、とても強烈な印象として目に焼きついたのだろう。目を白黒させながら、明らかに動揺した様子で言う。
「お、おう、ここの神主の菊平亮介だ、よろしく」
 ただ、神主――菊平亮介が見せた動揺は、
「南雲、お前、ロリコンだっけ……?」
 何も、八束の見た目によるところだけではなかったようだ。
 顔を寄せ、明らかな疑いの視線を向けてくる菊平に対し、南雲はそっと溜息をついて、認識の誤りを訂正する。
「確かにちっちゃい方が好みだけど、流石に中学生は犯罪でしょう」
「中学生じゃありません! 二十二です、成人してます!」
 小声で喋っていたはずなのに、八束の耳にはしっかり届いていたらしい。短く太い眉の間に皺を寄せ、ぷくりと頬を膨らませる。すましていれば人形のように整った顔をしているのに、表情を浮かべた瞬間にぷくぷくの豆柴に思えてくるのが南雲にはいつも不思議でたまらない。
 ともあれ、このまま菊平を混乱させておくのも忍びない上に八束がうるさいので、話を進めることにする。
「冗談は置いといて、こいつはうちの同僚です」
「同僚……、ってことは警察官かよ。似合わねえなあ」
「似合わないって、どっちが?」
「どっちも」
 ですよね、と南雲は肩を竦める。八束が警察官に見えないのは今に始まったことではないが、同程度かそれ以上には、南雲自身もそうは見えないと自覚している。二人並んでいる時は尚更だ。更に、今日に限ってはお互い私服ということもあって、「らしくなさ」をことさら助長している。
「今日はお互い非番でして。八束はこっちに越してきたばっかなんで、適当にこの近く案内してたんすよ」
「道中の掲示板に、玄波神社で、河童のミイラを公開していると聞いて、是非一度見てみたいと思って参りました!」
 八束が、珍しくうきうきと南雲の言葉を継ぐ。
 ここ、玄波神社は、待盾の地域一帯を守護する『クジラさま』を始めとした、何柱かの神々を祀る神社であるらしい。生まれも育ちも待盾である南雲は、親からそう聞かされてきた。
 側を流れる江戸川くらいしか水場のないこの地域でどうしてクジラの神が祀られているのか。理由は知らないのだが、とにかく水にまつわる神が多く祀られている神社だ。
 そして、この神社には、いくつか奇妙なものが奉納されていることでも知られている。
 その一つが、河童のミイラだ。
 日本各地に、河童と考えられているミイラは存在するが、全身が揃っているものは極めて稀だと言われているが、実はそのうちの一つがここに奉納されているのだ。
 正直、ミイラなんて、言葉を目にするのも嫌だったのだが、数年に一度の虫干しついでのミイラ一般公開、というポスターを見つけてしまった八束がポスターを目にして曰く。
『南雲さん、河童とは実在する生物なのでしょうか?』
 流石と言うべきか何というか、八束は物事を疑うということを知らない。ポスターの戯画化された河童の絵を前に、明らかに尻込みし、涙目でこちらを見上げる八束を、南雲は心底の呆れとともに観察していた。
 しばしの気まずい沈黙の後、八束の問いに対しては、一言だけ返したのだった。
『ねーよ』
 神主である菊平――付き合いがあった当時は彼の祖父が神主だったのだが――と知り合いである南雲は、河童のミイラの正体も当然知っている。かつて菊平とその祖父から聞いた内容によれば、猿などの動物のパーツを繋ぎ合わせた真っ赤な偽物であるらしい。
 なおも不安がる八束に、噛んで含めるように説明したところ、今までの怯えようが嘘のように『なんだ、そんなものなのですか』とあっさり言い放った。
 そして次の瞬間、俄然目を輝かせてのたまったのだ。
『河童の偽物とは、どのようなものなのでしょう。この機会に是非見てみたいです』
 ……と。
 正直、全く気乗りがしなかった。八束と違って、南雲はミイラを見たいと思わないどころか、一時たりとも関わり合いになりたくなかった。しかも、朝から何となく嫌な予感がして仕方ないのだから、やる気なさは倍率ドンである。
 だが、散歩をせがむ豆柴のごとく潤んだつぶらな目で見上げられれば、断れるはずもない。南雲は子犬に弱いのだ。かわいい動物全般に弱いともいう。
 そんなわけで、玄波神社に案内するだけ、という条件で神社にやってきたはいいが――。
「か、河童のミイラ……、ね……」
 八束のきらきら熱視線攻撃を受けた菊平が、先ほどとはまた違う動揺を見せた。今日が始まってからずっと背筋に圧し掛かっていた嫌な予感が、さらに一段階深まった、そんな感覚。これ以上踏み込んだら絶対に面倒くさいことになる、という虫の知らせ。
 しかし、どうにも好奇心には勝てなくて、つい、口を挟んでしまった。
「どうしたんすか、菊平先輩。河童、絶賛公開中なんすよね」
「あ、ああ、昨日まではな」
「昨日までは? ポスターでは、あと一週間ほど公開期間があったと記憶していますが」
 八束が小首を傾げる。その、愛玩動物を思わせる仕草に弱いのは何も南雲だけではなかったらしい。菊平は八束から気まずげに視線を逸らして、口の中でぼそぼそと言う。
「いや、見せたいのは山々なんだが……」
「山々なんだが?」
 八束は菊平の言葉を鸚鵡返しにして、菊平の顔を覗き込もうとする。八束に悪気は無いと思うのだが、菊平の立場ならめちゃくちゃ嫌だろうなあ、と思わずにはいられない。八束の言動はいつだって真っ直ぐで、しかも一度でも不思議に感じてしまうと、喉元に喰らいついた挙句なかなか離そうとしないのだ。
 人から情報を聞きだす姿勢としては稚拙極まりないが、それでも相手が無視できないだけのパワーで押し切るのが八束というお嬢さんである。本人にその自覚はないだろうが。
 菊平も、何らかの誤魔化しの言葉を捻り出そうと口をもごもごさせていたが、やがて諦めたのか、肩から力を抜いてぼそりと呟いた。
「河童が、いなくなったんだ」
「いなくなった?」
 八束が、かくんと口を開く。南雲も、もし内心と表情が一致するならば、八束と同じような顔をしていただろう。
 何しろ「盗まれた」でもなく「消えた」でもなく「いなくなった」、だ。
「まさか、河童が歩いて逃げたとでも言うんすか?」
 当然だが、本気で言ったわけではない。南雲は神も仏も信じなければ、天使も悪魔も妖怪も、もちろん河童の存在だって信じていない。いなくなった、というのもレトリックに過ぎない。
 そうでなければならないと、思っていたのに。
「……その、まさかなんだ」
『はあ?』
 菊平の思わぬ言葉に、八束と南雲の声が唱和した。
 もしかして、思った以上に厄介な事件にぶち当たったんじゃないか?
 いつも以上に鈍く痛むこめかみの辺りを指で押さえて、南雲は深く、深く嘆息する。
 
 ――南雲の「嫌な予感」は、極めてよく当たるのだ。遺憾なことに。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(14)

「お疲れ様でした、南雲くん、八束くん。では、今回の事件に関して、報告書の作成を――」
「プリン食べてからね」
 綿貫の言葉をあっさりぶった切って、そそくさと冷蔵庫に向かう南雲。冷蔵庫の前で丸まっている細長い背中を見つめながら、八束はぽそりと綿貫に問う。
「……南雲さんって、いつもこうなんですか?」
「いえ、普段の数十倍はきちんと働いてくれました。八束くんがいたから、かっこつけてたのかもしれませんが」
 確かに、きちんと働いてはいたけれど。それにしても、曲がりなりにも上司である綿貫に対する扱いが、ぞんざいすぎやしないだろうか。それに、これで「数十倍」ということは、普段はどれくらいやる気がないのだろうか。完全に八束の想像力を超えている。
 すると、つかつかと歩み寄ってきた南雲が、八束の前に何かを置いた。一拍遅れて、それが黒い器に入ったプリンであることを理解する。きちんと小さな銀のスプーンもついている。
 びっくりして顔を上げると、南雲は気難しそうな表情のまま、手でプリンを指す。
「今日はお疲れ様。どうぞ」
「え、でも、これって南雲さんのプリン、ですよね?」
 そもそも、南雲がこの事件に積極的に関わったのは、綿貫にプリンの入った冷蔵庫を人質(?)に取られたからだ。南雲にとっては大切なプリンを、人に渡してもよいものなのか。
 しかし、八束の危惧を仏頂面で受け止めた南雲は、左手で持った二つのプリンを八束に見せる。
「まだまだあるからだいじょぶ。遠慮なく食べて食べて」
 あっさりとそう言って、もう一つのプリンを綿貫の机の上に置いた。
「綿貫さんも、どうぞ。甘いものは頭を活性化させますよ」
「ありがとうございます。しかし、南雲くんは甘いものばかり食べてるんですから、もう少し普段から頭を使ってもいいんじゃないですかね……」
「やですよー、疲れちゃいますもん。今日はへとへとですぅー」
 そう言って、ふらふらソファに向かったかと思うと、そのままばふっと倒れこんだ。手の中のプリンを全く傾けることなく倒れた辺り、この動作も慣れたものなのだろうなあ、と思う。
 うつぶせの体勢で、足をぶらぶらさせながらプリンを食べはじめた南雲。そのつるりとした頭を眺めながら、八束は、つい呟かずにはいられなかった。
「南雲さんって、やっぱり、変わってますね……」
「ええ、ちょっと気難しいというか、取り扱いに困るというか」
 見ている限り、「ちょっと」どころじゃない気もするが。一緒に行動してみて、決して悪人でないということはわかったが、だからといって「わかりやすい」かというと、絶対にそんなことはない。八束は、そう思っている。
 綿貫は、プリンの器片手に深々と溜息をつき、軽く肩を竦めてみせる。
「でも、まあ、何とかなるでしょう。これからは、八束くんもいますしね」
「わたし、ですか?」
「ええ。南雲くんは、放っておくとダメになっちゃうタイプですので、適度に構ってあげてくださいね」
 それは、人ではなくペットの扱いではなかろうか。そう思っていると、ソファに横になった南雲が間延びした声を上げる。
「綿貫さーん、それ、俺の方が世話される側みたいじゃないですかー」
「そう言ってるんですけど、何か間違ってますか?」
「うーん、間違ってない」
「間違ってないんですか南雲さん!?」
 自覚があるというのは大切なことだが、その自覚はどうなのだろうか。南雲は特に反論もせず、もぐもぐと、満足げにプリンを咀嚼するばかり。
 果たして、この男の頭の中はどのような構造になっているのだろうか。
 先ほど、八束の前で見せた、何かを堪えているような影は、一体どこに行ってしまったのか。
 色々と考えながらも、席について、南雲から受け取ったプリンをひとさじ、口に含んで。
「……っ、お、美味しい……!」
 口の中でとろり、とろけるバニラ風味のカスタード。ほろ苦いカラメルと混ざり合って広がる風味は、八束が今まで味わってきたどのプリンとも異なる、絶妙なハーモニーを奏でている。
 そもそも、八束は今まで、片手の指で数えるほどしか「プリン」という甘味を食したことはなかったのだが。それにしても、このプリンが格別美味しいものである、ということくらいはわかる。
 一口、二口と、身体が求めるままにプリンを口に運んでいると、同じようにプリンを食し始めていた綿貫が、ぽつりと呟いた。
「南雲くんの、美味しいものを探す手腕だけは本物ですよね……」
 その言葉に含まれていたのは、感嘆と、おそらくはそれ以上の呆れだった。要するに「仕事もそれくらい一生懸命やってくれ」という意味だ。
 南雲が、それに気づいていないはずはない、とは思うのだが。
「綿貫さん、俺、この仕事辞めたら、お菓子食べる人になりたい」
「『作る人』ですらない辺り、クズ極まりない希望ですね南雲くん」
 グルメリポーターか何かだろうか。とにかく、南雲にやる気が皆無なことだけは、はっきりした。
 綿貫をちらりと見やると、綿貫は、もう一度、腹の底からの溜息をついた。多分、南雲にどうこう言うことを、諦めたのだと思う。これで何度目の諦めかは、ここに来てすぐの八束には判断できなかったけれど。
 そんなやり取りを眺めながら黙々とプリンを口に運んでいた八束は、不意に、大切なことを思い出す。プリンショックですっかり忘れていたが、まだ、今回の事件は終わっていないのだ。
「そういえば、沖さんの容態は、どうなりましたか?」
 今回の被害者である沖穣治がどうなったのか、まだ、八束は知らない。
 綿貫も「ああ」と口元に苦笑を浮かべる。
「聞いたところ、昨夜、意識を取り戻しましてね。聴取を行ったところ、一年前の轢き逃げを認めているそうです。例の『幽霊』を見てしまったからですかね、酷く怯えた様子だったと聞きます」
「ふうん。やっぱり、あの幽霊人形も沖さんの動揺を狙ったもんだったんだな」
 一通りプリンを食べ終えた南雲が、プリンの器とスプーンを床に置き、上体を起こしてソファの背に腕をかける。
 しかし、それならば。八束が今まで見てきた光景、聞いてきた言葉が、脳内に展開されていく。そう、どうしても一つだけ、わからないことがあったのだ。
「……あの、係長、南雲さん」
 八束が解き明かしたのは、今北が沖に向かって仕掛けた罠の仕組みだけ。一番重要なところが、明らかになっていない。
「今北さんは、どうして、沖さんが麻紀子さんを殺した犯人だと、知っていたのでしょうか」
 警察ですら掴むことのできなかった、一年前の轢き逃げ犯の正体。
 今北は、麻紀子の霊が教えてくれたのだと言っていた。だが、その「幽霊」は今北によって作られた、ただの人形だった。
 では、一体、今北に沖の存在を伝えたのは、誰だったのか――?
「案外、ほんとに麻紀子さんが教えたのかもしれないよね」
 ぽつり、南雲がそんなことを呟いたものだから、八束は全身にぶわっと鳥肌が立つのを抑えられなかった。今北が作った人形でも、南雲の話術によって生み出された虚構でもなく。本物の幽霊が、そこに、いたとでもいうのか。
 ぼんやりと浮かぶ、うつくしくも恐ろしげな今北麻紀子の幽霊を想像してしまい、「ひいっ」と喉の奥で悲鳴を上げる。
「な、ななな南雲さんっ!? お、脅かさないでくださいっ!」
「ごめんごめーん」
 南雲も、悪気はなかったのだろう、ひらひらと大きな手を振る。
「まあ、その辺も、今北さんの話を聞いてけばいつかわかるっしょ。で、その辺りは本職の皆さんにお任せすればよくて、つまり俺は休んでいいと」
 今北の取調べは他の係の仕事とはいえ、一応、自分たちも「本職」ではあるのだが。そんな八束の内心のツッコミも届くはずはなく、南雲は再び上体をソファに埋もれさせた。
「南雲くん、食べ終わったなら報告書の作成ですからね?」
「だいじょぶです綿貫さん、俺が動くまでもありません。八束はできる子なので、きっと俺の分まで頑張ってくれると信じてる。頑張れやつづかー、負けるなやつづかー、俺はソファの上から応援してる」
「南雲さーん!? やる気! やる気出しましょう! 報告書の作成までが今回のお仕事ですっ!」
 慌ててソファに駆け寄るも、南雲はソファの角に顔を埋めたまま、もごもごとくぐもった声を上げる。
「やる気スイッチは江戸川に投げ捨てました。今頃元気でやってると信じてる」
「南雲さんのやる気スイッチは、生き物なのですか……?」
「知らないのか八束。東京湾まで下った後、秋になると産卵のために遡上するって」
「鮭じゃないんですから。真剣な声で法螺吹くのやめてください」
 流石に、それが法螺であることくらいは、八束にだってわかる。ただし、卵が孵化して南雲のやる気が増えてくれるなら、それはそれでいいことなのではないか、とも思うのだが。
 とはいえ、投げやりな法螺を吹き続けるだけの気力すらないらしく、南雲はソファからはみ出した足を大げさにぶらぶらさせる。
「というわけで、後は任せた。八束の頭があれば、俺の分も含めてちょちょいのちょいでしょ? 適材適所っていい言葉だよね」
「南雲さんの適所ってどこなんですかっ!?」
「ここ」
 つまり、ソファの上。
 その瞬間、八束の頭の中で、何かがぷつっと切れた気がした。
「南雲さん、しっかりしてくださいっ! せめて仕事してるフリくらいしてください!」
 必死に南雲の肩を引っ張るも、なかなか南雲は南雲で強情なわけで、ソファにしがみついて離れない。力にはそれなりに自信がある八束だが、相手は細いとはいえ八束より頭一つ以上大きな南雲だ、抵抗されるとそう簡単にはソファから引き剥がせない。
「くうっ、負けませんよ!」
「いやだー。しごとなんてしたくないんだー。はなせー」
 八束はこんなに必死だというのに、対する南雲は棒読みと来た。これがまた、八束の神経を逆撫でする。
「係長! 係長からも、何とか言ってくださいよ!」
「あー、南雲くん、仕事しないって言い出したら梃子でも動かないんで無理です」
「それで、今までどうやって仕事させてたんですか!?」
 今までの綿貫と南雲の言葉から考えると、南雲がこういう行動に出るのは、多分これが初めてではないはずだ。何しろ、今回の事件において「数十倍はきちんと働いていた」らしいのだから。
 南雲から綿貫に視線を向けると、綿貫は八束の真っ直ぐな視線を避けるようにふいっと横を向き、たそがれた空気を背負って言った。
「その分、僕が頑張っていたというか……」
「係長も南雲さんのこと甘やかしてたんじゃないですかっ!」
「ううっ、否定できません」
 綿貫は胸を押さえて八束の言葉を認める。
 まあ、つまり。これはこれで、日常茶飯事だということだ。
 今までの空気とのあまりの差異に、ただただ戸惑うばかりではあるものの。
 八束は、ソファにかじりついたままの南雲を見下ろす。攻勢が止んだと見た南雲は、恐る恐る顔を上げ、ずれた眼鏡越しに八束を見上げる。
 八束の大きな目と、南雲の細められた目が、お互いを映しこんで。
「南雲さん」
「はい」
「せめて、この係の報告書の書き方くらいは、教えてください」
「……えー、めんど」
「残りのプリン、わたしが全部食べていいということですね」
「ごめんなさい俺が悪かったです」
 今までの抵抗がまるで嘘のように、ぴょこんと身を起こす南雲。今までのは茶番だったのか、と、脱力感に襲われる。
 だが、茶番だとわかってしまうと、気が抜けると同時に口元が緩んでしまう。
「今日は、あと少しだけ付き合ってください」
「プリンの命がかかってちゃ仕方ないなー、もう」
 立ち上がって頭を掻く南雲を見上げて、八束は笑う。頼れるんだか頼りないんだかよくわからない『教育係』にして『相棒』は、難しい顔で八束を見下ろすばかりだが。
 それでも、最初に感じた恐ろしさは、もう、どこにもない。
「よーし、ちゃっちゃとやろう。さくっと終わらせて、ゆっくり休も。な、八束」
 ぽんぽんと頭を叩くその手の感触を、くすぐったくも温かく感じながら。八束は、背筋を伸ばして、声を張る。
「はいっ、よろしくお願いします!」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(13)

 うわごとを呟き続ける今北のことは、南雲があらかじめ連絡をつけていた名も知らぬ警官たちに任せ、八束と南雲は帰途につくことになった。
 ここから先は他の係の仕事であり、神秘対策係の出る幕ではない――そう、南雲が言ったから。
 そのこと自体には異論はない。なかった、のだが。
 八束は、ゆらゆら頼りない足取りで歩く、南雲の背中に声をかける。
「あのっ、南雲さん!」
「どうしたの、八束」
「先ほどの話、本当なんですか?」
「先ほどの話って?」
 南雲は、ゆっくりと振り向いた。黒縁眼鏡の下で、隈の浮いた目を眩しそうに細めている。その目尻に涙が浮いているのは、なんてことはない、単純に欠伸をかみ殺しているだけだ。
 足を止めた南雲の横に小走りで並び、八束は一気にまくし立てる。
「今北麻紀子さんが、今北さんの背後に立っていたという話です! 南雲さんには、本物の幽霊が見えていたんですか!?」
 南雲は、妻のことを最もよく知るはずの今北が驚くほど、事故で死んだ今北夫人の姿を再現し、最後に今北に残した言葉を思い出させてすらみせた。八束には何も見えていなかったが、南雲の目は、確かに、今北の背後に立つ「何者か」を見ているようだった。
 だが、南雲はいたって軽く「まさか」と言い放った。
「資料で奥さんの顔を見たから、言ってみただけだよ。ホット・リーディングってやつ」
 ホット・リーディング。相手の情報をあらかじめ調べておいて、その情報をまるで相手の心を読んだかのように提示することで、相手にこちらの話を信じさせるという話術。ある種の占い師や詐欺師がよく使う手法の一つだ。
 それに――。
「……もしかして、麻紀子さんが最後に今北さんに言葉を残していた、というのは、コールド・リーディングですか」
 対して、コールド・リーディングは事前調査なしに相手の反応や挙動から情報を読み取り、相手の共感を引き出すことだ。今回の場合、あらかじめ今北の動揺を引き出し、そこを更に揺さぶることで、今北に「今北真紀子の遺言」を思い出させたのだろう。
「そうそう。博打みたいなもんだったけど、上手く嵌ってくれてよかった」
 あまりにも古典的な技術で堂々と幽霊の物語を作り出した手腕には、八束も舌を巻かずにはいられなかった。
 しかし、それはそれで、不思議に思うことがある。
「でも、南雲さん、どうしてわざわざ、今北さんを騙すようなことを言ったのです?」
 八束の推理を、今北は認めていた。そのまま聴取を続けていても、今北が黙秘を貫くようなことはあるまい、と八束は考えていた。だが、南雲は剃り上げた頭をゆるりと振って、目を細める。
「もちろん、単純に犯行を認めさせるなら、八束の推理と用意した証拠で十分だったよ。でも、それだけじゃ、今北さんは己の行動が『罪』であったとは認めない。絶対に」
「……あ……」
 今北の、余裕に満ちた態度を思い出す。今思い返してみれば、今北が認めたのは犯行への関与だけで、そこに罪の意識は全く無かったのだ。全ては、妻である麻紀子の霊が指示したことだといって。
「人の罪を仕事上必要である以上に暴きたてる趣味はないし、今回だって、ちょっとやりすぎかなとは思ったんだ。別に、今北さんが罪を認めようが認めまいが、俺には関係ないし」
 神秘対策係は、「オカルト事件の真相を暴く」ことに特化した係であり、それ以上でも以下でもないから、と南雲は無造作に包みを剥いたチュッパチャプスを口に含み。
「でも、それは、濡れ衣着せられた麻紀子さんに悪いかなと思って」
 小さな声で、そう、付け加えるのだ。
 幽霊など存在しない。誰よりもそう主張していた南雲の口からそんな言葉が出るとは思わず、八束は思わず目を見開いてしまう。南雲は、相変わらずぼんやりとした仏頂面で、飴をころころ舐めているだけだけれど。
 そんな南雲を、どう評するべきかわからないまま、ただ、頭に思い浮かんだ言葉を言葉にする。
「南雲さんは、不思議な人ですね」
「よく言われる」
 きっと、誰も――南雲以外の誰も、その内心は理解できないのかもしれない。
 最低でも、八束は、南雲が何を思ってこの場に立ち、言葉を紡ぐのか、わからないままでいる。表情を失ったその面から、正しく感情を読み取るのは困難を極める。
 ただ、決して、見かけのような恐ろしい人間ではないということ。八束に手を差し伸べ、死者の思いを汲み取る程度には、優しい人なのだろうということ。
 そのくらいは、わかる。
 わかったつもりで、いる。
 けれど――。
 ぐるぐると思考を廻らせていると、南雲が不意に言った。
「まあ、あの程度の法螺話で今北さんを揺さぶれたのは、八束のお陰だけどね」
「ふぇっ」
 このタイミングで自分の名前が出てくるとは思わず、つい、すっとんきょうな声を上げてしまう。
「八束が、幽霊の正体と事故の原因を突き止めてくれなければ、今北さんに話を聞かせることもできなかった。今回の事件に関して言うなら、俺は、何もしてないよ」
 そう言った南雲の声のトーンが、少しだけ変わった気がして。八束ははっとして南雲を見上げる。南雲は、口から突き出した飴の棒をくるくる回しながら、ぼんやり虚空を見つめていたけれど。
『俺は、何もしてないよ』
 その言葉は、八束の耳には「自嘲」に聞こえたのだ。
 ――どうして。
 思わず立ち止まってしまうけれど、南雲は構わず歩いていく。どこか頼りない足取りで。その丸まった背中を見て、八束は言葉を失う。今北と対峙した際に一瞬だけ垣間見た、いやに悲しげな横顔が脳裏に浮かんで、消えて。
 わけもわからないまま、手を、伸ばしていた。
 
 
 
 耳元で囁く声を聞いた。
「迷惑かけてごめんなさい。それと、あの人に伝えてくれてありがとう」
 南雲は振り返らない。本当に幽霊の声が聞こえたなんて言ったところで、八束を余計に怖がらせるだけ。今までそうしてきた通り、見えても聞こえてもいないという体で振舞ってみせればいい。
 ――無駄に強い霊感は、公正な捜査には支障をきたすものだから。
 法は、この世ならざるものの関与を認めない。だから、南雲も、それを捜査の上での考慮には入れないようにしている。……あくまで、出来る限り、だけれども。
 ただ、久しぶりに、この霊感も役に立ったのかな、と思う。
 幽霊や妖怪などのこの世ならざるものを、「本物」か「偽物」か見分ける程度の能力。生まれついての霊感にはその程度の利用価値しかないが、それでも、このような形で役に立つのなら、まあ、悪くはないかもしれない。
 それが偽物だと見抜いた後のことは、きっと、自分以外の連中がどうにかしてくれるのだろう。今回、八束がそうしてくれたように。
 そう、今回の事件に関して言えば、南雲は何もしていない。何かを考えたわけでもなく、事件を解決しようと積極的に動いたわけでもない。ただ、自分の目で見て感じ取ったものを、言葉にして「伝えた」だけに過ぎない。
 それ自体、単なる気まぐれ、その時の感情に流された結果だけれど――。
「南雲さん!」
「ん?」
 突然、ぱたぱたと駆け寄ってきた八束が、南雲の服の袖を掴む。意志の強そうな太い眉毛の下で、潤んだ、黒い部分の多い双眸が、真っ直ぐに南雲を見上げている。ああ、本当に綺麗な女の子だよな、と思っていると、八束が凛とした声で言った。
「そんなこと、ありません!」
 唐突ともいえる八束の言葉に面食らう。この娘は、一体、何を言い出したのだろう?
 目を白黒させる南雲に対し、八束は一つ一つの言葉を、常に霞がかったような意識を貫く、よく響く声で紡いでいく。
「南雲さんは、最初から、わたしのことをずっと気遣っていてくれました。わたしが間違えそうになった時は、きちんと止めてくれましたし、わたしが、この事件の全てを解き明かしたいと望んだ時は、嫌な顔一つしないで助けてくれました。南雲さんがいなければ、わたしは、この事件を解決することも、神秘対策係の役目を全うすることも、できませんでした」
 ――そうか。
 南雲は、一拍遅れて、八束の言葉の意味を察する。
『俺は、何もしてないよ』
 いつしか口癖になっていた、言葉。八束は、ほとんど無意識に言ったその言葉に対して、必死になって反論しようとしている。そこまで八束を必死にさせるものがあるとも、思えなかったのに。
「南雲さんは、わたしにとって、絶対に必要な人です。だから」
 八束は、子犬のような真っ直ぐな目で、南雲を見上げて。その瞳に、戸惑う南雲の姿を映しこんで、こう、叫ぶのだ。
「だから、そんな、辛そうな顔、しないでください……!」
 ――ああ、と。思わず、声が漏れていた。
 声に感情が出てしまっていたのか。それとも、八束が勝手に解釈したのか。絶対的な記憶能力を持つ八束と違い、己の言葉を正しく思い返すことのできない南雲には、何一つとしてわからない。
 ただ、八束が。この時だけは、南雲の心境を正しく理解していたのだと、思い知らされる。
 それと同時に、何故だろう。ふっと、肩の力が抜けた。
「……そっか、そんな辛そうに見えたか」
「はい。間違っていたら、すみません」
「ううん、間違ってはいないよ。大したことじゃあ、ないんだけど」
 本当は、軽く肩を竦めて笑顔の一つでも見せられればよかったのかもしれないけれど。生憎、南雲は、そんな当たり前のこともできないのだ。
 だから、せめて、明るく聞こえるように心がけながら。
「でも、ありがと、八束。少しだけ、気が楽になった」
 八束は、黒目がちの目を大きく見開いて、不思議そうに首を傾げる。
「わたし、お礼を言われるようなこと、言いましたか?」
「お前が俺のことを必要だって言ってくれたように、俺も、お前に助けられた部分があったのかもな、って思って」
「いえ、わたしなどまだまだなのだと、今回は痛感しました。南雲さんをきちんと助けられるよう、精進しなければなりません」
 ふんす、と鼻息荒く宣言する八束の姿は、何ともユーモラスだ。南雲に「笑う」という能力があれば、きっと、笑ってしまっていたと思う。
 とはいえ、ここ何年も「笑う」ということをしていないのだ、おそらく今も何ともいえない仏頂面をしているだろう――と自己分析している南雲を、八束は澄んだ黒の瞳で見据えて、笑いかける。
「それでも、少しでも、南雲さんの気分が楽になったなら、何よりです」
 その、無邪気で何の衒いもない言葉。それ自体が、南雲にとっての救いとなっていることを、きっと八束は知らない。今はまだ、知らないでいてほしいと思う。
 南雲の袖から手を離した八束は、そっと、南雲の前に小さな手を差し出す。
「改めまして。これからも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします、南雲さん」
 どうやら、本格的に、綿貫の策に嵌ってしまったらしい。狐と呼ばれたがるあの狸親父の、してやったりというにやにや笑いが目蓋の奥に浮かぶ。
 けれど、屈託なく笑いかけてくれる後輩を邪険に扱えるような南雲でもなく。八束のちいさな手を、手袋を嵌めていない右手でしっかりと握る。あたたかな、人の温度が手の平越しに伝わってくる。
 いつからか、感じることすら疎ましいと思っていたそれが、今は、不思議と心地よい。
「ご指導ご鞭撻とかって立場じゃないんだけどね、ほんと」
 これだけは、どこまでも事実だ。南雲の方がご指導ご鞭撻いただきたいくらいに、一線から離れて過ごしてきたのだから。どんな事情があったにせよ、つい先日まで一線にいた八束に勝る部分など、ほとんどないはずだ。
「でも、まあ」
 ――こんな関係は、悪くないかもな。
 そんな、いつぶりかもわからないくすぐったくなるような思いを、不自由な表情の代わりに、声と言葉に乗せて。
「秘策の『相棒』として。これからよろしく、八束」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(12)

 八束には、何も見えてなどない。今北の言葉は、ただの戯言だ。
 そう思いたいのに、今北の血走った目に映っているものの気配を、肌に感じる。冷たい、緊張に満ちた気配に気圧されかけた、その時。
 
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ」
 
 静かに、しかし、よく響く声。
 それが誰の声か、一瞬判断できなかった。
「好き勝手言ってるが、そんなの、単なるあんたの思い込みじゃねえか」
 八束を庇うように伸ばされた、折れそうな腕。それで、やっと、これが南雲の声なのだと理解する。今までの、どこか眠たげな響きを帯びていたそれとは全く違う声で言い放った南雲は、正面きって今北と向き合う。
 今北は、余裕すら感じさせていた表情を消して、苛立ちをあらわに南雲を睨めつける。
「一体、どこが思い込みだというんです?」
 その、狂気じみた視線を真っ向から受け止めてなお、南雲は仏頂面を少しも動かさなかった。けれど、声は。声だけは。
「目を閉じて、耳を塞いで。そうして頭ん中で作り上げた都合のいい幽霊なんだろうなあ、今、あんたに囁いてる麻紀子さんは」
 人の感情を読み取るのが苦手な八束にもはっきりとわかる、激しい「怒り」の響きを帯びていた。
 ただでさえ恐ろしげに見える南雲に凄まれたのだ、今北も恐怖を感じたのか少しだけたじろいだようだった。それでも、南雲からは目を逸らさず、甲高い声を上げる。
「刑事さんに何がわかるっていうんですか?」
「わかるさ。俺には、ずっと見えてたから」
 ――え?
 八束は、己の耳を疑う。
「確かに、俺たちは『ここに幽霊はいない』と言ったよ。麻紀子さんが死んだ、その場所にはな。でもね、今北さん、あんたの背後にいないとは言っていない」
「な……っ!?」
 今北は、ほとんど条件反射的に自分の背後を振り向いた。だが、そこには樹が立っているだけだ。つくりものの幽霊も、もちろん、本物の幽霊だって見えなかった。しかし、南雲は今北ではなく、じっと今北の背後を見つめていた。
「ふ、ふざけているのか!? 麻紀子は、麻紀子は、確かにここに……」
「だから、それはあんたの妄想で、あんたが作った偽者だろ。全くもって、麻紀子さんには似ても似つかない、お粗末な偽者」
 南雲が、一体何を言っているのか。八束には、わからない。
「も、妄想なわけない、妄想に囚われているのは、刑事さんの方じゃないですか?」
 そう。八束も、今北と全く同じことを、考えていた。
 ここに、幽霊はいない。それを証明することが、八束と南雲の役目ではなかったのか。
 戸惑う八束を、南雲がちらりと横目で見やる。最初からそうであったように、感情の感じられない、淡い色の双眸で。
 八束は、南雲の感情を表情から計り知ることはできない。ただ、彼が「正気」であることだけは、何故だろう、はっきりとわかった。だからこそ、胸が締め付けられるような、息苦しさに囚われる。
 ――南雲さん?
 問いは声にならない。
 南雲は少しだけ目を細めてみせた後に、再び今北に向き直った。そして、目を白黒させる今北に向かって、投げやりに言い放つ。
「正直、あんたにだけは言われたくないねえ」
「見えてるなら言ってみてくださいよ、さあ、麻紀子の顔は、姿は! 何を言っているのかだってわかるんだろう、南雲刑事!」
 今北は、ほとんど錯乱に近い状態にあった。対する南雲は、落ち着き払ったまま一歩、今北に歩み寄る。ほとんど息が届きそうな距離まで青ざめた顔を近づけ、分厚いレンズの下で目を細めたのが、八束にもわかった。
「ああ、よーく見えてるよ。あんたにはもったいないほど、きれいな人だ」
 ぞくり、と。聞いている八束の方が、背筋に冷たいものを感じて震える。
「事故の日の格好なんだろうね。白いシャツに、紺のスカート。栗色に染めた長い髪を上でまとめてるのは、いつものことだったのかな」
 今北の表情が強張るのにも構わず、南雲はいつになく饒舌に語り続ける。
「その日は雨だったもんね、お気に入りのベージュに紺のラインの入った傘を差して出かけたんだってさ。今も、傘を差したまま、そこに立ってるけど」
「ま……、麻紀子……?」
 動揺。己の罪を暴かれても余裕を保っていたこの男が、今初めて、激しく動揺している。しきりに、南雲の視線の先――己の背後を振り返るけれど、きっと、今北の目には何も見えていないのだろう、すぐに南雲に視線を戻す。疑いと、しかし、少しずつ積み重なっていく別の感情を篭めて。
 それでも、南雲は。決して、そこから、目を逸らそうとしないのだ。
「ねえ、今北さん。本当は何も見えてないんだろ? そんな辛そうな顔させてんのにも気づかないで、馬鹿なことしくさってさあ」
 今北の指先が小刻みに震える。口の端が奇妙な形に歪んでいるのは、どのような感情からか。
「麻紀子さんの声が本当に聞こえてたなら……、いや、違うか」
 南雲はかぶりを振る。八束は、今や完全に南雲の言葉に呑まれていた。きっと、今北もそうだったのだろう、呆然としたまま、南雲の言葉を待っている。
 そして、南雲は。
「せめて、麻紀子さんの最後の言葉さえ、思い出していれば」
 決定的な言葉を、今北に、投げかける。
 今北は「ひっ」という引きつった呼吸と共に、一歩後ずさる。八束が見る限り、今北の顔に張り付いた感情はただ一つ、恐怖。
 南雲は、そんな今北を追い込むように、更に一歩、大股に踏み込み、遠ざかったはずの距離を一気に詰める。
「やっと思い出したんだな。あんたにとって、麻紀子さんは大切な人だったんだろう。復讐を考えるほどに。なのに、そんな人の言葉をすっかり忘れちまって、なあ?」
「忘れてない、忘れてなどいない! 麻紀子は、麻紀子は確かに最期に言っていた、『ただ、あなたの幸せを祈っている』と! だが、どうしてあなたがそれを!」
「……だから、さっきから言ってるじゃない。俺には見えてるし、聞こえてるんだもの。ねえ、麻紀子さん」
 ぞわり、と背筋に走る悪寒。八束には何も見えていない、そのはずだというのに。
 確かに、感じたのだ。南雲の視線の先に「何か」がいるのだということを。
 おぼろげに、頭の中に思い浮かぶのは、今北に向けてベージュの傘を差しかけた、一人の女性。南雲の言葉通り、栗色の髪をした、うつくしいひと。
 今北ももう一度、恐る恐る、己の背後を見て。
「ああ……」
 小さな声が、その、乾いた唇から漏れ出した。
「そう、か。そうだったな、麻紀子……。お前は、何も恨んではいなかった。ただ、私の幸せだけを祈って、祈っていたはずじゃないか……」
 八束は、今北麻紀子の死を、記録の上でしか知らない。だから、彼女が死に際に、夫である今北に何を求めたのかを知ることもない。ここにいるのだという彼女の声も聞こえないのだから、当然だ。
 けれど、今北は、喘ぐような息遣いで、背後の虚空を見据えて。
「私だけが、彼女の願いを聞き届けていたはずなのに」
 どうして、今の今までそれを忘れていたのだろう――?
 今北の言葉は悲痛な響きを帯びていた。今、この瞬間、今北は思い出していたのだろう。妻が残してきた、何もかもを。最も大切なものであった、彼女の本当の願いを。
 今北はその最も大切なものを忘れて、罪を犯していたのだ。いつしか、それが「彼女の願い」であると思い込んで。
 あらゆる感情をその面に浮かべる今北とは対照的に、厳しい視線を投げかけていた南雲は、硬く響く声で言う。
「時の経過は、否応なく大切な記憶を磨り減らしていく。そうして生まれた虚ろな穴を、都合のよい妄想が埋めていくことは、よくあることさ」
 その言葉は淡々としていて、南雲はどこまでも冷静で、冷徹だった。だが、今北に向けたその言葉の後に、唇が小さく動いたのを、八束は見逃さなかった。
 声にならずに消えたその言葉を、唇の動きだけで読み取って、どきりとする。
 正しいかどうかはわからなかったが、八束には、南雲がこう言ったように見えたのだ。
『俺も、そうだから』
 南雲の仏頂面は、今に至るまで感情らしいものを表現してはいない。最初に、彼が「そういうもの」なのだと言ったとおりに。
 なのに、どうして。
 その横顔が、酷く悲しげに見えたのだろう。
「……南雲、さん?」
 思わず、呟きが漏れる。南雲はその呼びかけに応えるように、眼鏡の下から視線を投げかけてきた。顔は恐ろしげながら、いやに柔らかな色を湛えた双眸が、八束を射抜く。
 ただ、それもほんの一瞬のこと。
 今北の、「ああ」という、力の無い声によって、八束の意識も現実に引き戻される。
「そうか、あの日から絶えず聞こえていたのは、私自身の声だったか……」
 南雲は小さく息をついて、今北の背後に立つ「何者か」から、今北に視線を戻す。
「そうだ。全て、あんたが考えて、あんたが実行したこと。何もかも、何もかも、紛れもなくあんたの罪だ、今北さん」
 ゆらり、と伸ばした手で、今北の肩を強く掴んで。
「今も麻紀子さんを大切に思っているなら、その麻紀子さんに、あんたの罪を擦りつけるんじゃねえよ」
 静かな、けれど、有無を言わせぬ凄みを帯びた声。それが、決定打となったのだろう。今北の全身から力が抜けて、地面に膝をつく。
「あ、ああ……、麻紀子、私、私は……」
 茫然自失として、虚空に向けてうわごとを呟くばかりの今北を。
 眉間に深い皺を刻んだまま、虚空に視線を投げかける南雲を。
 八束は、ただただ、見つめていることしか、出来なかった。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(11)

「おや、この前の刑事さんたちじゃないですか」
 今日も、今北は幽霊が出た樹の根元に立っていた。足元の花瓶には真新しい花。亡き妻に捧げる、弔いの花だ。八束は、そんな今北に会釈をした。
「一緒に、妻の冥福を祈ってはくれませんか?」
「はい」
「八束」
 背後に控えている南雲が、いつになく鋭く八束の名を呼ぶ。しかし、八束は首を軽く横に振って、今北の横に立った。
 そして、手を合わせて目を閉じ、この場で死んだ一人の女性に向けて祈りを捧げる。
 八束は今北の妻を知らない。顔や経歴は確認したが、どのような声で喋るのか、例えば八束を前にしたらどんな言葉をかけてきたのか。何一つ、何一つわからない。
 それでも、今は一つだけ確かなことがある。
 その「一つだけ」を胸に、顔を上げて目を開く。
 同じように祈りを捧げていた今北が、ふと八束に顔を向けて、微笑を浮かべたのを横目で確認する。
「それで、この辺りで見かけられる影の正体はわかりましたか?」
 ――その問いを、待っていた。
 八束は、花瓶に生けられた花に視線を向けたままではあったが、きっぱりと首を縦に振った。
「はい。それを、今北さんに是非お話したいと思いまして。あの影の正体がわかったのも、それに、何故ここで事故が起こったのかわかったのも、今北さんのおかげなので」
「私のおかげ、ですか?」
 不思議そうな声を上げる今北だが、その口元に浮かんだ笑みは消えず、視線は八束に注がれたまま微動だにしない。うなじの辺りにじりじりと冷たい気配を感じながら、それでも八束は退かない。
 恐れることなど、何一つない。相手は正体不明の幽霊などではなく、今確かに目の前にいる人間なのだから。
「それに、事故が起こった理由、というのは――」
「今北さん、おっしゃっていましたよね。この場で事故が起こる可能性について」
「それは、ただの想像ですし、荒唐無稽な『もしも』の話じゃないですか」
「本当ですか?」
 今北の言葉が終わらぬうちに、八束は問いを重ねる。八束がここまで強く踏み込んでくるとは思わなかったのか、今北は面食らったように激しく瞬きをしたが、すぐに調子を取り戻して問い返してくる。
「刑事さんは、どうお思いですか? 私は、まず、八束刑事がどう考えたのかを知りたいですね」
「わたしは、今北さんの『妻の幽霊が突然目の前に現れた』という言葉をヒントに、事故がこの場に現れた影――幽霊のせいではないかと仮定しました」
「刑事さんが、幽霊の存在を信じるとは驚きですね。私が妻の声を聞いた話をしても、全く取り合ってくれなかったじゃないですか」
「はい。わたしは、幽霊の存在を信じていません」
 さっきまで震えてたくせに、とか、幽霊を怖がってるのは信じてるのと同じなんじゃない、とか。何らかの茶々を入れてくるかと思われた南雲は、意外にも八束の後ろに立ったまま、飴を舐め続けるだけで、口を挟もうとはしなかった。
 だから、八束は一拍呼吸を置いて、そのまま言葉を続ける。
「ただ、幽霊そのものではなくとも、『幽霊に見える』ということは重要だと考えています。特に、事故を仕組んだ人間にとっては」
「仕組んだ、ということは、あれは正確には事故ではなく、誰かの手による『事件』であった、ということですか?」
 今北は八束の言葉に驚くこともなく、淡々と言葉を紡いでいく。それが事故でなく事件であったことを、最初から知っていたかのように。
 ――そう、実際に、知っていたはずだ。
 八束は確信と共に、初めてそこで、今北の顔を見据えた。
「ええ。それは、わたしより、全てを仕組んだあなたの方がよくご存知だと思いますが。そうですよね、今北さん」
 今北の表情から、ふっと、笑顔が消える。
「……八束刑事は、私を疑っていると?」
 今までの鷹揚な態度がまるで嘘のような、凍りついた声。その目には、鋭くも暗い光が宿っている――そのように、八束には見えた。
 八束は、そんな今北の声も、視線も、全て真っ向から受け止めて、
「はい」
 力強く、頷く。
 
 
「南雲さんは、今までもこういう事件を扱ってきたんですよね」
 この場に足を運ぶ直前、八束は南雲に問うた。南雲は今日の分のチュッパチャプスをコンビニ袋に移しながら言う。
「ここまで本格的に扱うのは、これが初めてだな。いつもなら、状況からいくつかの可能性を仮定だけして、あとは他の係に投げちゃうし」
 ――それに、俺には到底、手の届かない事件だってある。
 俯きながら放たれた南雲の声は、今まで聞いてきた中で最も低く、暗く響いて。八束は、冷たい指で背筋を撫ぜられたような、嫌な感覚に襲われる。
 一体、今の感覚は、何だったのだろう。南雲は、今まで何を見てきたというのだろう――その問いが八束の口に上る前に、南雲がふと顔を上げて、一瞬前に見せた影が嘘のような、軽薄な口調で言う。
「俺たちは、そういう事件を『迷宮入り』ならぬ『兎穴入り』って呼んでる」
「うさぎあないり、ですか?」
「白い兎を追って、少女が飛び込んだ兎穴の向こうは、世にも奇妙なワンダーランド。この世の法も何もかもが通用しない、ナンセンスな世界だった」
「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』ですね」
「そう。時計を持った二足歩行の兎は、アリスを不思議の国に招く存在だ。在り得ざるもの、の体現者だな。そんな空想の兎に真相を隠されちまった事件が『兎穴入り』」
 兎、というのはもちろん一つの喩えだ。八束にも、そのくらいはわかった。
 つまり、幽霊、妖怪、超能力者。人間の想像力から生まれた、オカルトの住人たち。
「俺が知ってる限り、この町ではかなりの数の事件が兎穴の中にある。中には、もしかしたら人知を超えた『本物』も混ざっていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どうあれ、今の俺たちには、証明できなかったものだ」
 待盾という「特異点都市」においては、そんな不思議がまかり通ってきた。八束には考えられない世界だが、南雲はその世界の中で生きてきたのだ。
「だが、今回の事件はそうじゃない。不可思議な事象はあれど、それが理解を超えたワンダーランドの入り口でないことを、八束、お前が証明するんだ」
 そんな南雲の、常にどこか焦点が曖昧だった、淡い朽葉色の両眼が。
「それが、俺たち秘策に与えられた役割。時計うさぎの不在証明だ」
 その時だけは、真っ直ぐに、八束を見据えていたのだと、思い出す。
 
 
 時計を持った兎は、ここにはいなかった。
 不思議の国のすぐ側で起こったこの事件が、手の届く現実であると、証明するのだ。
 八束は今北に向かって、一つ、一つ。言葉の響きを確かめながら、宣言する。
「今北基彦さん。我々は、あなたが沖穣治さんに対し、罠を仕掛けたと考えています」
「何を根拠に……、って聞けばいいですかね」
「意外とノリがいいっすね」
 南雲の声には、呆れにも似た響きが混ざっていた。実際、呆れていたのかもしれない。
「こうして、刑事さんに詰め寄られるなんて、ドラマの中でしか起こらないと思っていましたからね。不謹慎ながら、少し興奮していますよ」
「余裕ですね、今北さん」
「当然ですよ。私は人殺しなどではありませんから。改めて、私を疑う根拠を聞かせてください、八束刑事」
 人殺しではない――。そう言いながら、今北は八束の言葉をことさらに否定するでも、犯人呼ばわりした八束を罵るわけでもなく、ただ、八束がその根拠を語ることを待っている。
 先ほどから今北が見せているのは、自分が犯人だと解き明かせるはずもない、という余裕。余裕、なのだろうか?
 言い知れない不安を覚えていると、南雲が、軽く八束の背中を押す。
「……続けよう、八束。お前は、お前の信じたことを貫け。フォローは任せろ」
 その言葉に、八束はぱっと南雲を見上げる。南雲はもちろん笑ってなどいなかったし、相変わらず視線は虚空を彷徨っていたけれど、それでも、「フォローは任せろ」という言葉は八束の不安を一気に取り去ってくれた。小さく頷いて、今北に向き直る。
「続けます。被害者である沖穣治さんは、推定七時三十分ごろ、この道を通過しようとした際、バイクが転倒し投げ出され重傷を負いました。しかし、単にハンドル操作を誤ったわけではなく、何らかの障害物がタイヤに引っかかったことによる転倒であると考えられました」
「何らかの障害物?」
「はい。しかし、現場にはそれらしい障害物は残されておりませんでした。それに、沖さんが転倒してからわたしが沖さんを発見し、救急を呼ぶまでの間、誰かが片付けたというわけでもなさそうでした。今北さんも、その時間は家にいたそうですね」
「ええ。それは間違いありませんよ。近所の方も証言してくれるでしょう。それで、何故私が疑われなきゃならないんですか」
「正直に言えば、障害物の件だけなら、今北さんを疑う理由はなかったんです。ただ、ここで不可思議な白い影が見かけられたこと。それが重要だったのです」
 何故、そこで影の話になるのか、とばかりに今北が眉を寄せる。八束はそれには構わずに、花瓶に飾られた花に視線を向ける。
「かつて、ここで今北さんの奥様が亡くなられる、痛ましい事故がありました。以来、数回に渡って、ここで幽霊が目撃されているそうですね。わたしも、沖さんの事故現場で、幽霊のような白い影を目撃しています」
 あれから、改めてこの地域で幽霊の目撃情報を聞き込みしたところ、どうもこの二ヶ月ほどで、五回ほど幽霊に似た白い影が目撃されていた。
 それは必ず雨の日であり、時刻は七時から八時の間であった。
 そして、しばらくしてからもう一度その場を見ると、幽霊は忽然と消え去っていた、という証言も一致している。
「雨の日、七時から八時の間。これらは沖さんが事故に遭った状況と一致します」
「妻が事故に遭ったのもそんな日でしたからね。現れるなら、当然その時刻でしょう」
「しかし、例えば、大きな人形が木の下に吊るされている。それを幽霊と誤認することも、十分ありえるんじゃないでしょうか。普段ありえないものがそこにある、それだけで強い違和感が与えられます。雨という視界の悪さでは、尚更でしょう」
「……一体、何の話をしようとしているのですか、八束刑事。話が見えないのですが」
「そうですか?」
「仮に、その白い影が妻の幽霊でなく、人形であったとしましょう。そして、八束刑事の言い方からすると、その人形も、私が仕掛けたものであると」
「そうですね」
「不可能でしょう。八束刑事は言っていましたよね、私は障害物を片付けられる状況になかった。それは、人形に関しても同じはずです。最低でも、今回の事故の日に関しては」
「ええ。条件は、沖さんを転倒に導いた障害物と何も変わりません。しかし、わたしは障害物の姿を見ていませんが、幽霊が『白い布を被った人の形をしたもの』であることは視認しています」
 それが幽霊などでなく、現実に存在している「白い布」であるならば、それには、確かに消えるだけの理由があるのだ。
「そこで、一つの可能性を考えました」
 八束は、手袋を嵌めた手で、鞄から一つの袋を取り出す。透明な袋の中には、一本の白い紐が入っていた。
「全ての事象に、ある繊維が使われた、という可能性です」
 それを目にした今北が、ひゅっと息を呑む。
「これは、合成繊維の一つであるビニロンの原料、ポリビニルアルコールを紡糸して作ったロープです。この繊維の性質は、合成繊維を研究されている今北さんなら、もちろんご存知だと思いますが」
 ――水溶性。
 今北は、ぽつりと呟いた。八束は、その言葉に頷く。
「今、わたしが持っているのは、六十度以上の温度で溶けるものですが、化合物の割合によって水に溶ける温度を変化させることが可能ですよね。これを利用して、今北さんは罠を仕掛けたのではありませんか。道路にロープを張るという、極めて単純な罠を」
 それがロープによる罠であるとわかれば、あとは簡単だ。今北のアリバイは、あくまで「ロープを片付けること」に対するアリバイでしかない。ロープを仕掛けることなら、可能だった。あとは道路の冠水を利用し、雨に流されるのを期待すればいい。
「幽霊も全く同じです。このロープと同じ繊維で作った布を、人の形に整えて樹の枝につるす。やがてロープが樹から伝う水で溶け、布も地面に落ちた後、雨に溶けて地面を流れていくという仕組みです。奥様の轢き逃げをしたという沖さんに『妻の幽霊』を視認させ、同時に罠から意識を逸らすための方策であったと考えています」
 そして、今まで、何度か幽霊が目撃されたのは、雨量と溶けるまでの時間をテストしていたからだろう、と八束は考えていた。
 何しろ、この計画は、雨という不確定の要素に左右される。温度、雨量、それらに対して幽霊のかたちをした布がどのくらいの速度で溶けて流れていくのか。それらが把握できた今、計画は実行に移されたのだ。
 八束は、袋に収められたロープを今北の鼻先に突きつける。
「この時期の雨の水温で溶けるような繊維の存在を知る方は、そう多くないと考えます。つまり、繊維の存在を知り、かつ入手できる可能性がある人物。それは今北さん以外には考えられません」
 今北は、八束が予想したような、激しい動揺を見せることはなかった。ただ、八束が導き出した結論には少なからず驚いていたのだろう、目を見開いて八束の推理を聞き届けた後、数拍を置いて問うてきた。
「この繊維によって、罠が仕掛けられたことの証拠はあるのですか?」
「ありますよ。バイクのタイヤに、同一の成分が付着していたことがわかっています。また、同様のものがガードレールの柱、道路の排水溝、樹の枝に微量ながら付着しているのも。繊維が使われた、これ以上とない証拠です」
 これは、八束の要請を受けた南雲が、鑑識に掛け合ったことではっきりした。
 ――そう、そこに存在したのは、幽霊などではなかったのだ。
「以上が、今回の事件の全容。不思議など何一つありません。全ては、今北さん、あなたの手による仕掛けである。我々は、そう考えています」
 八束が、真っ直ぐに今北の小さい目を見据える。今北は、しばしの沈黙の後に「なるほど」と、深い息とともに言葉を吐き出す。
「やはり、何かしら、証拠は残ってしまうものですね。永遠に騙し通せるとは思っていませんでしたが、思った以上に早かった」
「……否定はしないのですか」
「ええ。ここまで明らかになっていて、今更何を否定しろというのです」
 軽く肩を竦める今北。
 ただ、そこには人を一人痛めつけた、という罪の意識があるようには見えなかった。八束はじりじりとした不快感をうなじの辺りに感じながら、それでも言葉を重ねていく。
「では、沖穣治さんに対して、害意があったことも認めるということですね」
「いいえ、それは少し違います」
「……違う?」
「確かに、私はあの男を殺そうとした。しかし、私が望んだことじゃありません。あくまで、あいつが望んだこと」
 今北の目は、見開かれたまま瞬きもしない。それは、目の前の八束を映してはおらず、はるか遠く――ここには既にいないはずの、「誰か」を見つめていて。
「私には、今も見えてるんですよ。奴を殺せと訴える妻の姿が」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(10)

「おかえり、八束。じゃ、今回の事件をざっと整理しよう」
 八束が服を着替えて対策室に戻った時には、南雲は机の上のテディベアを不在の綿貫の席に乗せなおし、自分の机の上には事件の資料を広げていた。八束は「はいっ」と返事をして、席につく。
 南雲は一拍置いてから、あくまでぼんやりとした口調で話し始める。
「えーっと、今回、俺たちが解決しようとしている事件は二つ。まず一つは、鍋蓋三丁目の路地で幽霊が観測される事件。もう一つが、同じく鍋蓋三丁目の路地でバイクが転倒し、運転手が意識不明の重態に陥ったこと。俺が言うまでもないと思うけど」
「いえ、そのままお願いします」
 言葉に出すということは、決して無駄ではない。八束が己のすべきことを南雲の言葉から見出したように、頭の中でぼんやりと渦巻いているものを言葉にするという行為は、状況を確かめると同時にお互いの認識に齟齬がないかを確かめる行為でもある。
 南雲は小さく頷いてから、ぽつりと言葉をこぼす。
「俺さ、何だかんだ、バイク運転手が事故ったのと、幽霊の目撃情報との間には、関連性があるって考えてるんだよね」
「確かに、今北さんも、『妻の幽霊が突然目の前に現れた』などと言っていましたが。しかし、幽霊が実在しないとおっしゃったのは南雲さんです」
「うん、本物の幽霊の出番はないと思ってる」
 本物の、とあえて強調されると、では南雲は本物の幽霊というものを知っているのだろうか、と薄ら寒くなる。
 南雲はそんな八束の動揺に気づいた様子もなく、何故かぬいぐるみに囲まれて机に聳え立つチュッパツリー――よく、コンビニのカウンター辺りに置いてある、チュッパチャプスのスタンド型ディスプレイだ――を弄りながら言う。
「まあ、まずは二つの事件を整理しようか。あ、八束も食べる? おすすめはコーラ味」
「えっと、では、いただきます」
 特に断る理由も見当たらなかったので、素直に貰っておくことにする。南雲はツリーから飴を抜き取って、こちらに差し出してくる。そういえば、こういう飴を食べたことはあっただろうか。もしかすると、初めてかもしれない。そんなことを思いながら、派手な色の袋を外す。
 南雲も自分の飴を手に取り、袋を外して口に含む。袋の記述を見ると、ストロベリー味のようだ。八束は恐る恐る、コーラ味だと言われたそれをぺろりと舐めてみる。強めの酸味と、口の中に広がる人工的な甘み。一口目はいいが、ずっと舐めていると口の中がすっかりその味に染まってしまいそうだ。
 大きな飴を口の中でもごもごさせながら、資料に目を落とす南雲に話しかける。
「あのっ、飴、好きなんですか?」
「好きだし、甘いもの食べてないと頭が働かなくて」
 一応、彼なりに意味のある行為らしい。ただ好きだというだけで、所構わず食べているわけではなかったようで、安心する。とはいえ、人前でも常に口に物を入れているのはどうか、とは思うわけだが。
 気を取り直して、八束は飴を舐め舐め、手元の資料をざっと眺める。じっくり読むのは、頭の中に入れてからでも問題なかったから。
 どうやら、南雲が持ってきた資料は、神秘対策係で集めた幽霊目撃事件に関するもの、それとは別に、バイク事故に関する資料もかなり大量にあった。これは、昨日八束が入手できなかったものだ。
「こちらの資料は?」
「借りた。うちって、立ち位置が特殊だからさ。『オカルト事件の調査に必要』っていう条件下でなら、手続きを踏めば他の係とか課から情報提供してもらえる」
 本当は係長である綿貫が間に入らなければならないそうだが、本日は不在のため、綿貫の代理として南雲がその権限を与えられているらしい。
 何にせよ、南雲の協力は必要不可欠だったのだ、と先ほどまでの自分を思い出して顔を赤くする。南雲はそんな八束に気づいているのかいないのか、資料の一枚を手にとってひらひらと揺らす。
「まずは、一つずつ考えていこう。一つ目、幽霊が観測される事件。これに関しては、そもそも八束が見た幽霊って何だろう、って話から始めるべきだろう」
 目を伏せれば思い浮かぶ、白い人影。雨の中に佇み、こちらをじっと見つめていた、人ならざるもの――。
「……あれは、幽霊などではなかった、と考えるべきですよね」
「もちろん。でも、八束は幽霊のような何かを見ている。現場辺りの住民もだ。なら、条件さえ整えば誰にでも見られるものなんだろうな」
「条件、ですか」
 綿貫がまとめておいてくれた目撃情報は、既に目を通している。記憶していた資料を即座に脳内に展開し、この場で確認すべき事項を羅列していく。
「わたしの記憶と目撃情報との共通点は、雨の日にしか観測されていないこと。時刻は朝七時から八時の間であること、でしょうか」
「で、観測位置は今北夫人が死んだ場所に近い樹の下。今北夫人の事故死自体はあの近所では有名だから、目撃者も今北夫人の幽霊だと思っていたらしいな。……あれ、あの近辺の地図とかなかったっけ」
 資料の束を漁り始めた南雲だが、地図はすぐには見つからないようだった。探している時間が勿体ない、と判断した八束は、ペン立てからボールペンを抜き取って言う。
「わたし、書きます。白い紙ありますか?」
「あるけど……。あの路地の細かい状況、覚えてる?」
「一度見たので大丈夫です。任せてください」
「……え?」
 聞き返してくる南雲をよそに、八束は貰ったA4の紙にペンを走らせる。幽霊の目撃箇所である樹を中心に、道路の形、ガードレールの位置、電信柱の位置。その全てを、一度目にした風景を頭の内側に呼び出しながら「書き写す」。
 やがて、紙の上には写真と見まごうほどの地図が完成する。八束にとっては、頭の中に焼きついている風景を紙の上に写すだけの行為なので、さしたる時間も必要ではなかった。
 できました、とペンを置く八束に、南雲が驚きを含んだ声で問いかけてくる。
「もしかして、これ、全部覚えてた?」
「はい。わたし、一度でも見たり聞いたりしたものなら、絶対に忘れないので」
 ――完全記憶能力。
 あくまで覚えているだけの能力であるが、一度焼き付けた記憶が劣化しないというのは特別人間離れした能力らしい。当の八束は「忘れる」ということを知らないので、この能力がどう人と違うのかは、未だによくわかっていないのだが。
 南雲は、ぽかんとした様子で八束を眺めていたが、やがて「すごいな」と感嘆の声を漏らす。
「羨ましいよ、俺なんてすぐ忘れちゃうからさ」
「い、いえ、そんなことないです! 確かに珍しいかもしれませんが、どう使うかはまた別の話ですしっ」
 そう、全く別の話なのだ。
 この能力がどんなに珍しく優れたものであろうとも、八束は絶えず失敗を繰り返してきたし、その結果として、元の居場所を追われることになってしまったのだ。
 しかも、その時に背負った重石のような記憶だって、何一つ忘れることはできないのだ。
 ずるずると思い出されてしまうあの日の記憶に、自然と苦い顔を浮かべてしまう。思い出すべきではなかった、と思うけれど、どうしても引きずられてしまうものだ。
 過去のことを考えてはいけない。今は今、過去に目を向ける時ではないのだと、必死に自分自身に言い聞かせていると。
「つまり、使い方を一緒に考えるのが、俺の仕事なんだろうね」
 おっとりとした、南雲の言葉が耳に入る。はっとそちらを見れば、南雲は難しい顔ではあったが、指先で飴の棒をくるくる回しながら言った。
「ま、役に立てるかはわかんないけど、遠慮なく頼ってよ。俺も多分、散々頼ることになるだろうしね。お互い様ってことで」
「……はいっ!」
 不思議な気分だ。南雲の言葉は、あくまで八束のような熱意に満ちたものではないが、聞いていると安心できる。そっと寄り添うような感覚とでも言うのだろうか。この男自身がそれに気づいているのかは、わからないけれど。
 気を取り直して、更に今まで確認した資料を頭の中に展開しながら、南雲に問いかける。
「あの、今北夫人の事故死に関する資料も見たいのですが、借りられますか?」
「言われると思って借りといた。どうぞ」
「ありがとうございます。……って、南雲さん、わたしの心でも読んでるんですか!?」
 素直にファイルを受け取ってしまってから、その不可解さに叫ばずにはいられなかった。だが、南雲はどこまでも平然とした様子で言う。
「いや、普通に考えたら絶対必要でしょ。幽霊が今北さんの奥さんだっていうなら、化けて出る理由は知らないとな」
 こくりと頷いて、八束は素早く資料に目を通す。とはいえ、内容は前に綿貫から伝えられた概要と、さほど変わらない。今北麻紀子が轢き逃げに遭って死んだということ。それが一年前の雨の日であり、八束が幽霊を目撃したまさしくその時間であったということが、わかったくらいで。
 南雲もぱらぱらと資料に目を通しながら、「ふうん」と呟く。
「これ以上のことは、うちにも、今北さんにもわかってないってことか」
「しかし、今北さんは、犯人がわかっている、という風におっしゃっていましたが」
「それを鵜呑みにしていいかどうかは、また別の話だろ。今んところ、今北さんの発言は主観でしかないしね。まずは、複数の客観として『存在した』幽霊の分析から始めた方がいい」
「……確かに、そうですね」
 とはいえ、今はこれ以上のことはわからない。幽霊の正体も、何故そこに現れたのかも。
 話が一旦尽きたのを察したのか、南雲は次の資料に手を伸ばす。
「次に、バイク事故について。運転手は沖穣治って名前みたいだな。彼が事故に遭った時間は、雨が降り出す前だった、と」
 そう。八束が目撃したのは雨の最中だったが、八束が彼を発見したとき、既に事故から三十分は経過していたはずなのだ。果たして、その時、そこに既に幽霊が佇んでいたかどうかは、沖穣治本人にしかわからない。
「それに、単純に、幽霊を見かけてハンドル操作を誤った事故ではないと思います」
「そうなんだ?」
「道路の上のバイクの位置と、バイクから落ちた沖さんの位置から、わたしには、道の真ん中で、見えない障害物に当たったことで転倒したように見えました」
「見えない障害物?」
 はい、と頷いて、八束は路地の様子を描いた紙の上に沖穣治とバイクの位置を書き込む。可能な限り、向きなどもきちんと再現して。そして、バイクが何かと衝突したと思しき位置を、矢印で書き加える。
「もちろん、それが何なのかはわかりません。わたしが現場を見た限り、それに値するものは存在しませんでした。それに、障害物の存在に気づけば避けるか、そうでなくともバイクを減速させることはできたはずです。少なくとも、大怪我を負うような事故にはならなかったと思います」
 だから、「見えない」障害物であると八束は感じたのだ。そして、ここまでは、他の部署の捜査でもわかっている。昨日会ったとき、蓮見は事故の原因となったものを探している、と言っていたから。
「バイクに、障害物と接触した傷とかはないんだ」
「はい。転倒による破損以外に、特殊な傷は見当たらなかったといいます。それでも、やはり操作ミスではない、と、わたしは考えます」
 正直なところ、自信があるかどうかと言われると怪しい。八束は駆けつけた時に見た状況から判断しているだけで、決定的な証拠があるわけでもないのだ。
 南雲は「ふむ」と青白い顎をさすり、口から飴の棒を突き出したまま呟く。
「これは俺の単なる想像だけど、仮に障害物があったとしたら、確かに沖さんから見えづらいものではあったと思う。でも、完全に不可視である必要はないんじゃないかな」
 南雲の言わんとしていることがすぐにはわからず、八束は首を傾げる。
「視界に、つい目を向けずにはいられない、インパクトのあるものを配置するとか」
「……え?」
「例えば、幽霊」
 なるほど、そう考えれば今北の『妻の幽霊を見た』という言葉にも繋がってくる。その言葉がどこまで真実を示しているのかは、わからないにせよ。
「南雲さんは、その時にも幽霊が見えていたとお考えですか? その時はまだ、雨は降っていませんでした。幽霊が目撃されていたのは、いつも雨の時だったはずです」
「雨と幽霊が関連があるみたいに感じられるのも、幽霊を見せた側の誘導の可能性がある。そこまで目撃情報も多くはないし、関連に囚われすぎるのもどうかな」
「確かに、そうですね……」
「ただ、そうだと仮定しても、障害物の話が解決するわけじゃないな。仕掛けるにせよ、片付けるにせよ、誰にも気づかれない必要がある」
 それは、幽霊だって同じだ。八束の見た幽霊が人なのか物なのかはわからないが、八束が事故に遭った沖を見つけたあの日、救急や蓮見たちが駆けつけた時にはそれらしい人影など影も形もなかったという。
「この道は、細い上に見通しが悪く、また、近くに新しく整備された道が通ったことで、ほとんど車も人も通らない場所であったといいます。目撃されない可能性は高かったのではないかと」
 八束があの道を通ったのは、地図で見た時に、警察署への近道だと思ったから。つまり、地図が古かったというわけだ。地元の人間ならば、間違いなく新しい道を使う、という蓮見の言葉を思い出す。
「まあ、障害物を仕掛けるだけなら明け方の闇に乗じるのも可能かもね。ほとんど車通りの無い道なら、沖さんがあの道を使うタイミングがわかれば行けそうだ」
「わたしもそう思います。ただ、事故が発生した時刻から私が沖さんを発見し、救急が到着する時刻まで、今北さんにはアリバイがあるそうです」
 隣家の住人が、庭の窓越しに今北の在宅を確認していたという。常に確認できていたわけではないとはいえ、今北が家の外に出た様子は無かったらしい。
 これが、今北が意図的に起こした事故であると仮定した場合、沖を転倒させた障害物を片付けるような時間は、全く無かったということになる。
「結局は、障害物が何で、どうやって消えたのか、ってことに尽きるのか」
 飴を奥歯で噛み砕いて、八束はじっと自分の手で書いた地図を見つめて呟く。
「わたしたちがわかっていないのは、幽霊の正体と、障害物の正体」
「仮説としては、沖さんが事故を起こした瞬間はどちらも現場に存在したと考えられる、ってとこかな。八束が見た時には、幽霊しか確認できなかったみたいだけど」
 これだけでは、全く、足らない。形の無い物に向かって、闇雲に手を伸ばしているようなものだ。
 ただ、何かが。ほんの少しだけ、指の先に引っかかっているのを感じる。
 ――見えない障害物。
 ――白い人影。
 ――それらの、突然の消失。
 ざあ、と。目を閉じてみれば、遠くから聞こえるのは、雨音。
 激しい雨の気配は、八束の頭の奥底に響き渡り、大切な何かの輪郭を浮かび上がらせようとしている。
 これは、一体何だろう?
 それが「何」であるのか、掴めそうで掴めないもどかしさを感じながら、うっすらと目を開く。
 目の前には机の上にばらばらと広がる資料、八束が描いた一枚の地図、それに、今北が渡してきた名刺があって。
 その瞬間、八束は「あっ」と声を上げていた。
 脳味噌の奥底で閃いたのは、荒唐無稽な仮定。それこそ、幽霊を見たのと同じくらいには突拍子も無い話だと、八束自身でも思う。
 けれど、どんな話でも、きっと、目の前の男は笑わずに聞いてくれる。初めて八束が幽霊の話をした、その時のように。そう信じて、真っ直ぐに南雲の目を見据える。
「もしかすると、幽霊と事故の原因である障害物は、雨の日にだけ成立する、時限装置なのではないでしょうか」
 何故か、一瞬たじろぐような表情を見せた南雲が、眼鏡の奥で目を見開く。
「時限、装置?」
「はい。わたしの想像が正しければ、ですが」
 頭の中に繋がった一本の糸。それを力いっぱい手繰り寄せるイメージと共に、南雲に示すのは、今北の名刺。
 
「南雲さんに、いくつか、お願いしたいことがあります」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(9)

 翌日。
 灰色の空からは、雨が降り注いでいた。
 八束は、アスファルトの上に横になって、ただ一人、雨を浴びていた。地面の上に溜まった水が身を浸しているが、気にも留めない。誰もその場を通らないことをいいことに、その体勢のまま思考を巡らせていた。
 ――何かがおかしいのは間違いない。
 ――絶対に、これは単なる事故ではない。検証してみればみるほど確信に近づく。
 ――けれど、まだ、何かが足りない。決定的な、何かが――。
 その時、ふっと視界が陰り、降り注ぐ雨が止んだ。いや、もしかしすると、今頭上に掲げられているのは傘だろうか。内側に向けられていた意識を、外界に戻すと。
「あーあ、びしょ濡れ。クリーニング代もったいないよ」
 傘を掲げた南雲が、そこに立っていた。
 ぽかんと見上げていると、南雲は黒縁眼鏡を中指で押し上げて、不機嫌そうな表情に似合わぬ軽薄な口調で問うてくる。
「何してんの?」
「事件状況を再現していました」
「そう。何かわかった?」
「……いくつかは。けれど、やはり、事故の状況に至った理由がわかりません」
 そう言って、八束は上体を起こす。髪はすっかり水を吸ってしまい、重たくなっている。それは服も同様だったが、八束にとってはどうでもよいことだった。
 しかし、南雲はそんな八束の頭に手を載せて、壊れやすいものを扱うような手つきで撫でてくる。
「髪の毛もぐずぐずじゃん。綺麗な黒髪なんだから、大切にしてあげなよ。なくなってからじゃ遅いからね」
 スキンヘッドの南雲に言われると妙な説得力を感じずにはいられなかったが、意識を向けるべくはそこではない。
「どうして、来たんですか?」
 昨日は、結局対策室に帰った後、件のバイク事故と、今北の妻が死亡した事故について調べることに終始した。本来オカルト専門である神秘対策係で調べられることはたかが知れていたが、偶然、署内で交通課の蓮見を捕まえられたことで当時の状況はかなり把握することができた。その間、南雲はソファの上で裁縫道具を広げてテディベアを縫っていたけれど、それは見なかったことにしている。
 そして今日、対策室で南雲に挨拶をした後は、そのまま対策室を飛び出した。奇しくも今日は、事件と同じ雨の日。検証を行うにはうってつけである。対策室で過ごしている時間が勿体なかったのだ。
 もちろん、南雲は八束の意図をわかっていたはずだ。そして、昨日がそうであったように、八束に積極的に協力することはないだろう、と思っていた。その南雲が、どうしてここにいるのだろう、という思いからの質問だったが、南雲の返答はあっさりとしたものだった。
「俺の仕事は、幽霊がいないことを証明することだから」
 つまり、八束がここにいるかどうかは南雲にとっては関係のないこと、ということだ。それは南雲からすれば当然の回答である、それはわかっている。わかっている、けれど。
 それでも、八束は、昨日から抱いていたもやもやを言葉として南雲にぶつけずにはいられなかった。
「いないものを証明するよりも、まず、すべきことがあるとは思いませんか」
「今北さんが事件を起こした証拠を見つけること?」
「はい!」
 南雲は、じっと八束を見下ろしたまま、その場に立ち尽くしていた。八束の言葉を笑うこともなく、さりとてふざけたことを言うなと怒るわけでもなく。感情の読み取れない仏頂面で八束の言葉を聞き届けた後に、
「本当に、そうかな」
 ぽつりと、そう言った。
 それは、八束が想像もしなかった反応で。つい、「え」と口を開いたまま、ぽかんと南雲を見上げてしまう。南雲は傘を持っていない片手でつるりとした頭を掻きながら、ゆっくりと、噛んで含めるように言う。
「今回の事件は確かに恐ろしい犯罪かもしれない。でも、個人の視点に立って考えるなら、例えば『自分を殺さない』とわかってる殺人者よりも、『いつ現れて自分を呪い殺すかわからない』幽霊の方が恐ろしい場合もあるんじゃない?」
「そ、それは……」
 南雲の言葉に導かれるように、今まですっかり意識から抜け落ちていたものが、一つ一つ蘇ってくる。神秘対策係のこと、綿貫から聞いた係の「役割」。
 幽霊事件に際して不安を感じている住民を想像し、八束本人が綿貫に言ったのではないか。「責任重大」だと。
「別にね、事件に優劣をつけようっていうんじゃない。ただ、俺やお前が勝手に優劣をつけていい問題じゃないって話さ。優劣がないから、俺たちの仕事は細かく課と係が分けられてて、各々が各々の役割を果たす仕組みになってる。その縦割り構造が上手く働かないことも多々あるけど、それでも、確かに意味はあるんだよ、八束」
 どきり、とした。
 やつづか、と。そう呼ぶ南雲の喋り方が、内容に反してあまりにも優しかったから。
「そして、俺らは待盾署刑事課神秘対策係だ。八束は、解決を命じられた事件を、他の事件より『劣っている』って言いたいのか?」
 南雲の声は決して荒々しくはなく、むしろ、どこまでも穏やかだった。だからこそ、八束は言葉にならない声を漏らして、硬直してしまった。激しく浴びせかけられるのではない、あくまで静かに身を包むような言葉を受けて、反射的な震えが走る。
 ――暴走、していた。
 染みこんできた言葉が、八束の焼け付いていた思考を鎮めていく。
 そうしてクールダウンした頭で、今までの自分の思考を改めて辿ってみる。
 そうだ、最初はきちんとわかっていたはずなのだ。自分の役割。どうして神秘対策係が存在しているのか。
 けれど、事故が仕組まれたものであったと確信した瞬間から、幽霊の存在など頭からはじけ飛んでしまっていた。犯罪者を野放しにはしておけない、知ってしまったからには動かなければならない。自分が解決しなければならない。そう、思い込んでしまった。
 それは、今の自分の役割ではないと、わかっていたはずなのに。
 八束は、アスファルトの上に座り込んだまま、ぺこりと南雲に向かって頭を下げた。
「……ごめんなさい、南雲さん」
「ううん、わかればよろし。俺も、らしくないこと言ったと思ってるんだ」
 言いながら、南雲は八束から視線を逸らして己のスキンヘッドを撫ぜる。
 ――不思議な人だ。
 八束は、胸元で手を握り締めて、思う。
 まともに人の話を聞かずに遊んでばかりいると思えば、こうして、真剣にこちらを気遣って言葉を投げかけてくる。……そう、「気遣って」くれているのだと、今の言葉で確信できた。
 もし、八束のことなどどうでもよいと思っているのならば、それこそ綿貫に報告すればいいのだ、最初に南雲が言っていた通り「八束は使い物にならない」と。だが、南雲はあくまで八束を正面から諭してくれた。わざわざ、諭すために、雨の中ここまでやってきてくれたのだ。
 そう、きっと、優しい人なのだ。八束は胸の前で手を握り締める。
 感情の読み取れない仏頂面や、不真面目な態度に覆い隠されてなかなか上手く受け取ることはできないけれど。先ほどの言葉は、間違いなく南雲なりの優しさだと信じられた。
 一つのことに気を取られて、間違うことがないように。本当に大切なものを見失わないように――。
 そこまで考えて、ふと、頭の中に蘇ったのは、前部署の上司の言葉。黒く重そうなコートを羽織った上司は、八束に背を向けたまま「ハチ」とかつてのあだ名を呼ぶ。
「ハチ、お前は頭の回転は速いが、大馬鹿だ。目の前にぶら下げられたものしか見えてない。今はまだ、目の前のものを順に素早く処理していればいいが、全体が見えていなければ、遠くない未来に致命的なミスをやらかすだろう。その前に」
「その前に?」
「自分自身を改めるか、外部装置をつけるかのどちらかが必要だろうな」
「外部装置? それは、どこに取り付けるものでしょうか」
「もののたとえだ。自分で優先順位が判断できないなら、目的から決して目を逸らさない仲間を持てってことだ。弱点を克服できなくとも、そいつがお前の目となれば、お前は己の長所を生かすことだけを考えられる」
 その時は、ただ、言葉をそのまま飲み込んだだけで、上司の言うことを理解はしていなかった。理解していなかったからこそ、上司の危惧していた『致命的なミス』を犯してしまい、元の部署を追われることになった。
 けれど、今になって、やっとわかった気がする。
 かつての上司のように、明確な指示を下すわけではない。だが、目の前の男は、八束にとっての「目」だった。盲目のままあらぬ方向へ駆け抜けようとする八束の肩を叩き、方向を正す。目指すべきものを見失うことのない「目」。
 八束は、ゆっくりと立ち上がりながら、こちらに視線を戻した南雲の、濃い隈に縁取られた目を見据える。
「南雲さん、教えてください」
 南雲は、目を逸らさない。けれども、仏頂面のまま「ええ?」と困惑の声を漏らす。
「教える、って、何を教えればいいのさ。そもそも俺は、人にものを教えられるような人間じゃないよ」
「そんなことありません! 今の言葉で目が覚めました。わたしは、まだ、一人では間違ってしまいます。今のわたしには、南雲さんの助けが必要なのです」
 南雲のことを、八束は何も知らない。人格も、能力も。綿貫は「優秀」だと言っていたが、果たしてそれが事実なのかもわからない。わからないけれど、それでもこの男を信じたいと思えたのだ。今、この瞬間は。
 しばし、八束を睨むように見据えていた南雲は、やがて小さく息をついて、首を横に振る。
「そう言われても、なあ」
 やはり、身勝手すぎる願いだっただろうか。もはや、協力を仰ぐこともできないほどに、見放されてしまっただろうか。南雲の重々しい仕草に、こちらまで重たいものを飲み下すような感覚を覚えた、その時。
「八束の方針がわからなきゃ、俺だって何をどう教えればいいかわかんないよ」
 南雲は、あくまで軽い口調で言い放った。
「……え?」
「俺の話を聞いても、なお件の事故の真相を確かめたいのか。それとも、幽霊事件を解決して終わりにするのか。どうしたいの、八束は」
 南雲はどこまでもゆったりとした声音を崩さない。ただ、少しだけ、眼鏡の下の目が細められたことで、緊張感が増したような気はした。
 問われた瞬間に、真っ先に思いついた回答はあった。だが、わざわざ八束に対して言葉を投げかけ、冷静さを取り戻させてくれた南雲に対して、これを言ってしまっていいかどうか。
 けれど、その言葉を喉の奥に収めたまま妥協することなど、八束にできるはずもなかった。
「わたしは――、どちらも、解決すべき事件であると思います」
 ぴくりと、南雲の眉が動く。それでも、八束は言葉を続ける。
「神秘対策係の一員として、幽霊事件をおろそかにするつもりはありません。しかし、我々の直接的な管轄ではないにせよ、人を傷つけた事件をそれと知りながら放置することは、わたしにはできそうにありません」
 一気に言い切ったけれど、内心は不安でたまらなかった。両手をぎゅっと握り締めて、南雲から目を逸らすまいとする。
 そして。
「わがままな奴」
 頭上から落とされたその言葉に、八束は身を震わせる。わがまま。南雲の言葉を聞いて、なお「どちらも」と言い張るのだから当然だ。今度こそ、本気で呆れられてしまっただろうか、と思っていると、不意に「でも」と言葉が降ってくる。
「俺は、そういう考え方嫌いじゃないよ。言うからには、解決できるって自信があるわけでしょ?」
 見上げた南雲は、相変わらずの仏頂面だった。けれど、その薄い唇が紡ぐ声は八束を馬鹿にするような響きではなく、あくまで明るく、背中を押すような響きをしていた。
 ――この人なら、応えてくれる。
 その確信に胸を高鳴らせ、八束は迷いなく頷いた。
「はいっ! やってみせます!」
「オーケイ。なら、俺もちょっとは頭を使おうか。いくつか気になってたこともあるしな」
「気になってた、こと……?」
 それは署に帰ってからね、と南雲は言って、踵を返す。慌ててその後をついていこうとした八束だったが、南雲が突然くるりと振り返ったことで、足を止める。南雲は傘を持っていない片手で、八束の頭をぽんぽんと叩く。
「でも、その前に着替えてきなよ。家、ここの近くなんでしょ? びしょ濡れのままじゃ、風邪引いちゃうよ。お前の分の傘も持って来たから、行ってきな」
 途端に、自分の格好が、それはもう酷いことになっていると思い出し。
「は、はい……っ!」
 顔を赤くして、慌てて傘を受け取って駆け出した。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(8)

 結局、今北が去った後、現場をどれだけ調べても八束が目撃した幽霊に関する手がかりは得られず、八束と南雲は一旦署に帰ることになった。
 しかし、八束にはどうにも引っかかって仕方ないことがある。しばし、眉を寄せて脳内で検討してみたが、結局、考えているだけではどうしようもないので、前を歩いていた南雲の横に駆け寄って、声をかける。
「南雲さん」
「なーに?」
「先ほどお会いした、今北さんという方、おかしくありませんでしたか?」
 八束としては、本当は、人を頭から疑ってかかるということはしたくないのだ。
 妻を失い、悲しみにくれる男に対してこんなことを言うべきではないとも思う。死んだ妻が復讐を望んだという言葉だって、消えることの無い悲しみと怒り、そして「妻はこう望むだろう」という思い込みによって生み出された妄想と言ってしまえばそれまでだ。
 だが、曲がりなりにも刑事である以上、疑うことも仕事のうちである。
 八束は、思い切って南雲を見上げて言う。
「まるで、あの事故を起こしたのは自分だと言っているようでした」
「まあ、まず黒だろ」
 南雲は、あっさりと八束の言葉を認めた。一瞬何を言われたのかわからずに、八束は目を白黒とさせたが、その言葉が脳内で意味を成した途端、反射的に今北が去っていった方向を振り向いた。もちろん、今北の姿はもう見えない。見えない、けれど。
「八束が最後に事故のこと聞いたでしょ。その時の反応で確信したよ。殺人を意図したかどうかは横に置いても、事故を仕掛けたのはあの人だろうな」
 改めて南雲に向き直り、その虚ろな目をきっと見据える。
「そう思っていて、引き止めなかったんですか!?」
 凶悪犯をみすみす見逃すなど、あってはならないことではないか。だが、南雲は微かに目を細めて視線を逸らしただけで、飴を舐め舐め変わらぬ調子で続ける。
「奴さんだって、疑われるのをわかってて俺たちを挑発してたろ。警察は証拠を見つけられない、って思ってる。事実、今北さんが件の事故を仕組んだって証明するものは、現状見つかってないはずだしねえ」
 南雲の言葉はどこまでも正論だ。証拠が見つかっていれば、朝の時点で綿貫もそれを二人に伝えているだろう。それは、八束にだってわかっていた。ならば、すべきことは一つだった。
「……証拠を、見つけなければなりません。今すぐに」
 今北が、バイク運転手を罠にかけた証拠。あれだけの余裕を見せていたのだから、きっと、一筋縄で見つかるようなものではないのだろう。脳内に、もう一度事件現場の光景を呼び出そうとした、その時。
「勘違いしないでよ、八束。綿貫さんからの指示は、あくまで幽霊騒ぎの真偽を確かめること。『事故』が『事件』かどうかを確かめることじゃない」
 南雲のあくまで淡々とした声音が、八束の思考に割り込んできた。
 つまり、南雲は「真相に関わるな」と言っているのだ。犯人と思しき人物がわかっていながら。突発的な事故ではなく意図的な事件であると、示唆されながら。
 その瞬間、かっと頭に血が上るのを感じて、ほとんど反射的に声を上げていた。
「っ、南雲さんは! 事件を前にして、見て見ぬふりをしろと言うんですか!?」
 ただでさえやる気に欠ける男だとは思っていたが、ここまでとは。このような時こそ、成すべき正義を貫くべきではないかと八束は思う。目を閉じ、耳を塞ぐのが正義だというのか。そんなこと、許せるはずもない。
 煮えたぎる感情を顕にする八束に対し、南雲はじっとりとした暗い視線を送ってくる。
「見て見ぬふりをしろなんて言ってないよ。今のやり取りをしかるべき係に伝えて、俺たちは俺たちの仕事をしよう、って言ってんの。うちは『神秘対策係』でそれ以上でもそれ以下でもないからね」
 言いながら、ポケットから携帯電話を取り出す。「あれ、綿貫さんから着信あったや」などと言いながら、折り返し綿貫に連絡をつけようとする。それを見上げながら、八束はどうしても納得ができず、胸の中に湧き上がるむかむかとした思いを抑えることができない。
 南雲が受話器を耳に当てている横で、八束はきっぱりと宣言する。
「わたしは、この事件を調べます!」
「おい、八束ぁー?」
 南雲は、八束の決意に満ち満ちた言葉に対し、妙に間の抜けた声をかけてきたが、その時、ちょうど綿貫と電話が繋がったらしい。視線が一瞬、こちらから逸れる。
「あ、もしもし、綿貫さん? おれおれー。いや、そういう詐欺じゃなくて、っつか綿貫さん息子いないでしょ?」
 受話器に向かって、極めてマイペースに話を始める南雲に背を向け、駆け出す。
 とにかく、情報が足らない。
 今北という人物のこと。死んだ今北の妻のこと。妻が囁いたという轢き逃げ犯の話。バイク運転手は何者だったのか。
 わからないということがもどかしい。もし幽霊を目撃してしまったあの時に、気絶などせず辺りを確かめられれば、あるいは何かが掴めていたのかもしれないのに。
 いや、過ぎたことを考えても仕方がない。まずは署に戻って、今北の妻が死んだ事故について詳しく調べてみるべきだ。そこから、何か手がかりが得られるかもしれない。
「八束」
 後ろから南雲の声が追ってきたけれど、振り返らない。南雲の言葉に従っているだけでは、何も解決しないとわかってしまったから。このまま、ぬるい泥のような空気につかっていてはいけない。あらゆる情報を取り込んで、感覚を研ぎ澄ませなければ。
 前へ。ただ、前へ。
 前だけを見据えて、八束は警察署への道を駆ける。
 
 
 
「あー、しまった、行っちゃいました」
『八束くんですか?』
「多分、あの調子だと一旦署に戻るんだとは思いますが。どうも暴走気味でしてあの子」
 綿貫に向かって、南雲はざっとここまでの経緯を説明した。幽霊に関してはめぼしい情報を得ることができなかったこと、その代わり、昨日のバイク事故が単なる事故ではない可能性が浮上したこと。その犯人と思しき男が現れ、八束の意識は幽霊から完全に離れて、仕組まれた事故へと向かってしまっていること。
 そこまで話したところで、綿貫はほうとため息をついて、呟いた。
『まあ、八束くんの暴走は予測の範囲内ですね』
「わかってて俺に押し付けたのかこのアホ上司」
『元上司の犀川警部曰く「正義感が暴走を始めると手に負えない」そうなので』
 その、綿貫の言葉を咀嚼するまでに一拍を要した。それから、常にじりじりと痛みを訴える眉間の辺りを揉み解しつつ、自然と声が低くなる。
「あのー、犀川警部って、つまりベイダー卿っすよね」
『そう呼んでるの、南雲くんだけですけどね』
「ってことは花形も花形、捜査一課から来たのあの子……? で、何か問題起こして流されたとか、そういうオチでしょ? やーめーてーよー」
『南雲くんはよくわかってますねえ』
「くっそむかつく……。俺の経歴知ってるくせに……」
 絶対に受話器の向こうで、綿貫はにやにやと笑っているだろう。
 しかし、あの娘が捜査一課の出身とは、嫌な偶然もあるものだ。もちろん偶然でなく全て綿貫の策略の内なのだろうが、と憂鬱な想像を巡らせながら、その複雑な感情を綿貫には悟られないよう、いたって軽い口調で告げる。
「とにかく、一人じゃ調査にならんので、俺も一旦署に帰ります。できれば、綿貫さんから、八束に話をしてもらいたいんですが――」
『申し訳ありません、今日から明日にかけては、別の案件にかかりきりになってまして、対策室にも帰れないです。それを連絡するために、先ほど電話をかけたんですけどね?』
「あー……。まあ、大して期待はしてなかったんでいいっす」
 綿貫が忙しいのは、南雲が一番良く知っている。神秘対策係の仕事が暇なのは、ひとえに綿貫が人の数倍働いているからだ。それは、何も南雲がサボっているのが理由ではなく――いや、少なからず理由には含まれるかもしれないが――そのほとんどが「綿貫にしかできない仕事」であるが故であり、南雲もその点は口を出すべきではなかったから、特に何も言わない。
『というわけで、八束くんへのフォローは南雲くんに一任します』
「えー? 無理です無理無理ー。俺、既に馬鹿にされてますしぃー」
 どこからどう見ても生真面目を絵に描いたような八束だ。一応「先輩」である南雲を直接馬鹿にする意図はなかったと思うが、それでも、先ほど南雲に対して見せた態度には、隠し切れない軽蔑が篭っていたと、南雲は分析している。
 表情には出さないし出せないから八束には伝わっていないだろうが、いきなり軽蔑されるのは、結構、堪えるものはある。
『……それは、自業自得じゃないですか?』
「知ってた」
 流石の南雲にも、軽蔑されてもおかしくない態度を取った自覚はある。怠惰な五年間を過ごしてきたこともあり、「真面目な態度」というのがどのようなものなのかを忘れていたのも事実だ。ただ、それが南雲にとっての通常運転なのだから、軽蔑されたところですぐにどうこうできるものでもない。
『まあ、八束くんは南雲くんもお察しの通り、極めて真面目な子ですから。きちんとお話しをすれば、わかってもらえますよ。我々の理念も、これからすべきことも』
 受話器越しに聞こえてくる綿貫の声は、あくまでおおらかだった。南雲になら何とかできるという信頼か、それとも自分が招いたことではないから知ったことではないという放任か。何となく、後者なような気もする。
 南雲は眉間の皺を深めて、投げやりに言う。
「はいはい。まあ、期待はなさらず」
『いえ、僕は期待しているんですよ。八束くんと南雲くんが、いい意味で影響し合ってくれることを』
「話はそれだけですか。じゃ、切りますね」
『あっ、ちょっと南雲く』
 容赦なく通話を終了させ、携帯を閉じた。ピンクの熊のストラップが、その動きに合わせて跳ねる。
 ――全く、勝手なことを言ってくれるものだ。
 内心、納得がいかなかった。勝手に人を連れて来て、勝手に「影響し合ってくれる」ことを期待されても、困る。南雲が期待に応えられなかったら、それこそ、誰よりも自分と組まされた八束に迷惑がかかるというのに。
 と、考えたところで、まず自分より他人のことを考えてしまっていた自分に頭が痛くなる。らしくない、と自分に言い聞かせながら、今度は電話帳から蓮見の電話番号を探す。八束にも言ったとおり、先ほど知りえたことは、しかるべき場所に伝えておく必要がある。
 それにしても、と。脳裏に浮かぶのは、熱っぽい目をこちらに向けていた八束の姿。
 事件と聞いた瞬間に目の色を変えるのは、さすが凶悪犯専門の捜査一課にいただけはある。
 しかし。
「……どうにも、危なっかしいお嬢さんだな」
 正直な感想をため息と共に吐き出しながら、南雲は携帯の呼び出しボタンを押した。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(7)

「ゆっ、ゆうれ――むぐっ」
 悲鳴を上げかけた八束の口を、即座に南雲が塞いだ。南雲の手は大きく、八束の顔半分はゆうに覆えてしまうので、口と一緒に鼻まで潰されて呼吸困難に陥りかける。そんな八束に顔を近づけ、南雲は低い声で耳打ちする。
「落ち着け、どう見ても人間だろ」
「むぐぐーっ!」
 言葉にならない抗議を上げると、南雲はすぐに手を離してくれた。「ぷはっ」と大きく呼吸をして、何とか息を整えた頃には、佇んでいた人影がこちらに近づいてきていた。
 南雲の言うとおり、それは幽霊などではなく人間だった。ぱっと見たところ、特徴らしい特徴も見られない、中肉中背の男。年のころは三十代後半辺りだろうか。片手に花束を持ち、スーツ姿で灰色の空の下に佇んでいた男は、あからさまに彼を凝視している八束と南雲の存在に気づいたのか、こちらに視線を向けて軽く会釈する。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます! 雨、あがりましたね」
「ええ、あいにく曇りではありますが。そろそろ晴れてほしいところですが」
「そうですね。ところで、今、少しお話を聞かせてもらってもよろしいですか?」
「はい? かまいませんが、……ええと、どちら様でしょうか」
「わたし、待盾警察署から来ました、八束と申します」
「同じく、南雲です」
 即座に警察手帳を示した八束に対し、南雲は亀のようなのろのろとした動きで警察手帳を取り出す。その間、約十秒。
 そして、ぽかんとした表情でそんな二人の名乗りを聞いた男。南雲がやっとのことで警察手帳を見せたくらいのタイミングで、こくん、と首を傾げてみせる。
「刑事さん……、ですか?」
「あー、俺も言われた側なら絶対疑いますね。不安なら、署に確認してもらっても結構っすよ」
 警察手帳を上着の内ポケットに戻しながら、南雲は相変わらずぼんやりとした声音で言う。どうもこの男には、緊張感だとか覇気だとか、そういう概念が根本的に存在しないと見える。
 とはいえ、男は慌てて「いえいえ」と首を横に振る。
「警察手帳まで見せていただいたのですし、疑うも何も。確かに、刑事さんらしくないな、とは思いましたが。特にそちらの、八束刑事は」
「ですよねー。俺も最初見た時、中学生かと思いましたもん」
「そんなっ!?」
 初耳だし、そんな話は聞きたくなかった。そりゃあ、本部にいた頃も、上司や先輩から散々子供扱いはされていたが、具体的に「中学生」と言われてしまうと、どうしようもなく情けない気分になってしまう。それに、顔や体型が中学生と変わらないのは、何も、八束自身のせいではないはずだ。――多分。
 にわかにしょんぼりする八束を見て、相対する男は気まずい思いに囚われたのかもしれない。「ははは」とわざとらしいくらいの笑い声を上げて、小さく頭を下げる。
「私は今北基彦と申します。刑事さんたちも、例の事故について調べに来たのですか?」
「いえ。事故とは別に、この近くに妙な影を見たという相談がありまして、本日はその調査のために参りました」
 言いながら、今北を真正面から見上げる。近くで見れば、右の目元に泣きぼくろが一つあるのがわかる。また、特徴がないと思ったのは、この今北という男が頭の先から爪先まで、意識して身なりを整えているからだと判断する。悪く言えば神経質にも見える。
 そんな分析を脳裏に展開していると、今北は顔の中では小さく見える目を細めて言う。
「影、ですか……。変質者か何かでしょうか?」
「それがわからないので、お話を伺えたらと思ったのです。何か心当たりはありませんか?」
「いえ、特にそういう話は聞きませんが。そもそも、その話は、どなたから伺ったのですかね」
「個人情報を開示することはできませんが、この地域の方です」
 八束は一言一言をはっきりと、今北に伝える。子供じみた容姿のせいで、警察官としての能力を疑問視されがちであることは、八束自身、今までの経験上よく理解している。だからこそ、せめて、言葉で相手を不安にさせないようにと、明朗な発声を心がける。
 それが功を奏したのか、今北も真っ直ぐに八束を見つめ、真剣にこちらの話を聞いているようだった。その態度に内心安堵しながら、八束は、質問を投げかける。
「もういくつか、質問させてください。今北さんは、こんな朝早くから、何故ここにいらしたんですか? その花束は何ですか?」
 いささか不躾な質問ではあるが、今北は今北で、刑事というのはそういうものだと思っているのかもしれない。八束の問いに対して、嫌な顔一つせず答えた。
「ああ、私は仕事に行く前に、花を供えに来たんですよ」
 そう言って、今北はまさしく、八束が幽霊を目撃した樹の根元辺りを指す。そこには薄汚れた花瓶が置かれていて、萎れ始めている菊の花が供えられていた。
「刑事さんたちは知らないかな。実は妻が、ここで亡くなっていまして」
「事故ですか」
 頷いた今北は、花瓶の前にしゃがみ込み、手を合わせる。八束もつられるように手を合わせて目を閉じた。
 事故。そういえば、今回綿貫から見せられた資料には、一年前に幽霊の目撃箇所で死亡事故があったという記述があった。その被害者の名前は、資料に誤りがなければ今北麻紀子といったはずだ。今まで頭の中で結びついていなかったが、ここまで来れば今北の妻と考えて間違いないだろう。
 とすると、ここで見かけられた幽霊というのは、今北夫人なのだろうか――?
 いやいや幽霊などいるはずがない、と手を合わせたままぶんぶん首を横に振る。結局のところ、化けて出てくるのだけはやめてください、とつい内心で祈ってしまうわけだが。
 目を開けて今北を見れば、今北は真剣な目つきでじっと花瓶の中の花を見つめていた。
 今北には、そこに妻の姿が見えているのだろうか。実際に幽霊でないにせよ、失ってしまった人の気配を感じることはあるのかもしれない。
 やがて、今北は八束に見られていることに気づいたのか、顔を上げて「いやはや」と頭を掻いた。
「生きてる間、大したこともしてやれませんでしたからね。せめて、花くらいは欠かさずに供えてやりたいと思いまして」
 その言葉に、八束は何も気の利いた言葉を返すことができなかった。どこかぎこちなく笑う今北の顔を、見つめていることしかできない。
 こういう時はいつもそうだ。今までも同じような顔をする被害者を何度も見てきて、最初の頃は言葉をかけることもあった。けれど、自分の言葉は、どうも人を傷つけてしまうことの方が多かったのだ、と思い出す。
 だから、今はただ、重苦しいものを言葉と一緒に飲みこんで、今北を見守ることしかできない。
 そんな悼みの空気をあっさりと打ち破ったのは、飄々とした南雲の声だった。
「今北さんは、今からお仕事っすか?」
 今北は、それではっとしたように南雲に顔を向け――ただし、南雲の恐ろしげな顔を直視はしていなかった――「ええ」と小さく頷く。そこで、八束ももう一つ聞きたかったことを思い出し、問いを投げかける。
「今北さんは、何のお仕事をされているのですか?」
「そういえば、名刺をお渡ししていませんでしたね」
 今北は、名刺入れから取り出した名刺を八束と南雲に手渡す。しっかりと両手でそれを受け取った八束は、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
 そして、名刺をざっと眺めて、そこに印字されている情報を把握する。
 今北基彦。東京にあるQ株式会社の研究員であるらしい。Q社という名前をキーにすると、いくつか思い当たる言葉があった。
「Q社というと、主に合成繊維の研究開発を行っている会社ですよね」
「よくご存知ですね」
 今北の言葉には、隠し切れない驚きが混ざっていた。とはいえ、八束にとってはこの程度は常識の範疇のため、今北の驚きに対してはきょとんと首を傾げるだけである。その代わりと言うべきだろうか、南雲がぼそりと横で呟いた。
「……まだ中学生なのに物知りだね、ってことじゃん?」
「中学生じゃないです! とっくに成人してます!」
 一回は意識から外れかけていた「中学生」という言葉をまた思い出す羽目になってしまい、きっと南雲を睨む。南雲も負けてはいないとばかりに、隈の浮いた鋭い目で八束を見下ろす。
 もしかすると、南雲は特に、睨んでいるつもりもないのかもしれないが。
 全く、失礼極まりない人だと思っていると、八束に構わず咥えた飴の棒を指先でくるくる回していた南雲が、ふと今北に話しかける。
「しかし、この場での事故を防げなかったってのは、うちとしては情けない話っすね。今北さんにも申し訳ない限りです」
 うち、というのはつまり待盾署のことだ。事実、ここに来る前に調べた内容によれば、今北の妻が亡くなった事故の他にも、大小の事故が存在していたはずだ。
 今北は、軽く頭を下げる南雲を、じっと見つめていた。先ほど、八束を見つめていたのと同じ、真剣極まりない視線で。
「……いえ。警察の方は、よくやってくれていると思いますよ。無数に起こる事件や事故を、何とか食い止めようとしているのですから」
「それでも。本当に、不甲斐ないとは思ってるんですよ。今北さんの奥さんを轢いた犯人だって、捕まえられずにいる」
 ――南雲さん?
 確かに、南雲の言葉は綿貫が説明した内容だ。南雲がそれをきちんと聞いていた、というのはそれはそれで驚きだが、それはそれとして。ただ、わざわざ、今北に言う必要はあるのだろうか。
 八束の危惧の通り、今まで落ち着いた様子でいた今北が、にわかに眉を寄せて、南雲を鋭く睨めつける。
「……なるほど、ここで起こった出来事を、ご存知でしたか」
「俺はね。八束が把握してたかは知らないけど」
 知ってはいたけれど、結びつくまでに時間がかかったのだ、と、主張できる空気でもなかった。今北の内側から発散される怒りを受け止めて、南雲はなお、仏頂面を崩さずに、唇だけを動かし続ける。
「うちを恨まれているのでしょう。わかりますよ。俺だって」
 言いかけて、一拍置いて、言葉を飲み込む。今北も、南雲の言葉の意味が掴めなかったのか、虚を突かれたように目を見開く。しかし、南雲はがりがりと後ろ頭を掻きながら、目を逸らす。
「あー、すみません。とにかく、警察は信用できないとは思いますが、今も手を尽くしてはいますんで。何か新たなことがわかり次第、すぐにお伝え」
「いえ、その必要はありませんよ」
 突然、今北が南雲の言葉を遮った。じっと、今北の表情だけに注視していた八束は、思わず息を呑んでいた。
 今まであれだけ苛立ちを顕にしていた今北が――何故か、刹那のうちに満面の笑みを浮かべていたから。
 今北は、八束と南雲に背を向け、己が手向けた花に向き合う。そこには、花瓶に備えられた花束しかないというのに。今北の目は、そこではない、どこか、近くて遠い場所を見つめているように、見えた。
「妻が、私だけに教えてくれたんですよ。己を轢いた犯人のことを。名前も、姿も、必ずこの場所に戻ってくるということも、全てね」
 今北の言葉は明朗で、八束の耳にも確かに届いていた。届いていたにもかかわらず、その意味を咀嚼して飲み込むまでには、数秒を要した。
「妻とは、亡くなられた、今北麻紀子さんのことでしょうか」
「ええ。麻紀子以外に私の妻はいませんよ」
 振り向きもせず、今北は言い放つ。
 だが、そんなことはありえない。死人に口は無いのだから。
 ――幽霊でも、ない限りは。
 ぞわり、と足元から這い上がる冷たい感触。九月の初め、残暑の空気はこれだけじめついた熱を帯びているというのに、八束の体は急速に冷えていく。
 この感触の正体は、間違いなく恐怖。それは、今までどんな凶悪な事件と相対している時にも経験したことのなかった、「不可解なもの」に対する根源的な恐怖だ。
「そして、妻は言ったのです。『犯人に、私と同じ思いをさせてやるのだ』と」
 恐怖に凍りつきそうな意識の中、今北の声だけが、はっきりと、響く。頭の内側で、落ち窪んだ目をした白い影が、首をもたげて裂けた口で笑う。
 ――そんなこと、許してはならない。
 罪を犯した人間は、法の下に裁かれなければならない。誰もが己の基準で人を裁いてしまっては、「私刑」の不毛な連鎖を生むだけだ。そう、八束の内側の理性的な部分が囁いているけれど、とにかく、恐怖が身体を縛って身動きが取れない。
 それに、幽霊が人を殺すことを、誰が防げるというのだろう――?
 そんな停滞した思考に割って入ってきたのは、南雲だった。今北の、常軌を逸した言葉にも全く動じた様子はなく、淡々と問いを投げかける。
「で、その犯人ってのは何者なんです?」
「言ったところで、あなたは私の言葉を信じて犯人を捕まえてくれますか?」
「まず信じませんね。それが警察ってものですから」
「でしょう? なら、わざわざ言う意味もない。むしろ、邪魔をされるのが関の山です」
 よくわかってらっしゃる、と南雲は肩を竦める。
 そこで、今北がやっと、八束と南雲に再び向き直った。
 目は理不尽なまでの怒りに血走り、それでいて、狂気じみた笑みをその薄い印象の顔に貼り付けて。
「まあ、既に、終わった話ですしね」
「……どういうことです?」
 答える代わりに、にっこりと微笑みかけてくる今北。歪なそれを本当に「笑顔」と言っていいのかはわからなかったけれど。何も言えずにいる八束と、何も言わずにいる南雲をよそに、今北は己の腕に巻いた時計に目を走らせる。
「おっと、流石にこれ以上話していては仕事に遅れてしまいますね。それとも、これから詳しく聴取でもしますか」
「いえ、お引止めしてすみません。貴重なお話ありがとうございます」
 全く感謝しているようには見えない様子で、南雲が言い放つ。今北はこちらが食いついてくるとでも思ったのか、逆に意外そうな顔をしたが、すぐに誤魔化すような笑みを浮かべて頭を下げる。
「では、私はこれで」
 その姿を、八束はただただ、目に焼き付けることしかできずにいる。
 違う、何かが。何かがおかしいと感じているのだ。
 身体にしがみついてくる恐怖を何とか振りほどいて、喉に力を入れて。
「あっ、あのっ!」
 歩き始めようとしていた今北が、ゆっくりと振り向く。その、どこか挑戦的な視線を受け止め、八束はまとまりきっていない言葉を、それでも出来る限り短い問いとして投げかける。
「昨日、ここで起きた事故については、何かご存知ありませんか?」
 南雲が「おいおい」と八束のわき腹をつつく。事故の原因を調べるのは神秘対策係の役目ではない、そう言いたいのだということは、八束にもわかった。
「さあ。私は現場を見ていないので、何とも。昔から、見通しの悪い場所であるのは間違いないですし、事故に遭われてもおかしくないとは思いますが」
「しかし、対向車や通行人に気を取られたり、単なるハンドル操作ミス、ということでもなさそうなのです。その他の、何らかの原因があると」
「八束ー、今北さんに聞いても仕方ないでしょそれー。今北さんは『見てない』って言ってんだしさー」
 張り詰めた八束の言葉を遮る、どこまでも間延びした南雲の声。ただ、どうしても。どうしても、言わずにはいられなくて。制しようとする南雲を真っ直ぐな視線一つで黙らせて、そのまま今北を見据える。
「今北さんなら、他に、どのような可能性を考えられるかと、思ったんです」
 今北は、八束の質問の意味を、一瞬、図りかねたようだった。それでも、八束の力を篭めた視線を小さな目で受け止めて、苦笑交じりに答える。
「事故のことは何一つわかりませんが、もし、私が事故を起こすような要因を考えるとすれば」
 一言言葉を切って、視線を、かの人が亡くなったというその場所に向けて。
 
「それこそ、妻の幽霊が突然目の前に現れた、くらいしか思いつきませんね」

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(6)

 翌日。
 八束は、バイク事故を目撃した現場を訪れようとしていた。
 ――後ろ手に、南雲の手をがっしりと握りながら。
 南雲は抵抗らしい抵抗もせず、されるがままになっていたが、現場が見えてきたところで、ぽつりと言った。
「……手、もう、離していいよ」
「逃げませんか?」
「逃げない逃げない。今から対策室帰る方がめんどい」
 そこで「めんどい」と言う辺りが南雲らしい、と思う。昨日会ったばかりで南雲の何がわかるのかという話だが、これで「現場に来て俄然やる気が出た」とか言われるよりはよっぽど信頼できると考えるのは、あながち間違っていないだろう、と思う。
 そんなわけで、渋々「わかりました」と手を離してやる。南雲はほっと息をついて、仏頂面を現場に向けた。
 そういえば、片手だけに手袋をしているのだな、と八束は南雲の手に視線を向ける。先ほどまで八束が握っていた左手は黒い指出し手袋に覆われているが、右手にはそれがない。何か意味があるのだろうか、と思ったが、それを問う前に南雲が口を開いていた。
「で、俺、何するんだっけ」
「ちょっ、えっ、綿貫さんの話、聞いてなかったんですか?」
「話長いんだもん」
 大して長い話ではなかったはずだが、と八束は渋面を作る。南雲は、そんな八束に構わず、右手首にぶら下げていたコンビニ袋からチュッパチャプスを取り出している。この男、観察してみると朝からずっとチョコや飴を口に入れているようで、見ているこちらまで口の中が甘くなってしまう。
 とにかく、南雲を無理やり連れて来たところで、仕事の内容がわかっていなければ話にならない。八束は胸の中に湧き上がってくる苛立ちを何とか理性で抑えつつ、今朝のことを思い出す。
 
 
「……八束くんが見たという幽霊、あながち見間違いでもないかもしれません」
 綿貫は、神秘対策室に現れるなり、そう宣言した。
 神秘対策係で受け付けてきた、過去の相談記録ファイルを眺めていた八束は、「ふぇっ」と変な声を上げて綿貫をじっと見つめる。
「どういうこと、ですか?」
「実は、昨日『鍋蓋三丁目で幽霊を見た』という相談が寄せられましてね」
 鍋蓋三丁目。まさしく八束が幽霊を目撃した現場だ。
 綿貫によれば、その相談者はここ数ヶ月のうちに数度、幽霊の姿を目撃していたそうだ。それでも、木の影を見間違えたのだろう、という程度にしか考えていなかったのだという。しかし、昨日、幽霊を目にした現場で事故があったと聞いて、もしかすると、あれは単なる見間違いではなかったのではないか――そんな思いに駆られて、神秘対策係の扉を叩くに至ったのだという。
「同じものであったかを確認したいので、八束くんが見た幽霊についても、詳しく教えてもらってもいいですか?」
「は、はいっ」
 幽霊、という言葉に引きずられるように、思い浮かんだのは木の下に佇む白い影。雨に濡れたその白い衣を思い出すと、どうしても、全身が震える。それでも、何とか自分自身を奮い立たせながら、一つ一つ言葉に変換していく。
「幽霊が立っていたのは、事故現場から三十メートルほど離れた場所です。白いフードをすっぽりと被った人影のように見えました。足は、無かったと思います。その時はわたし以外に人や車は通っていませんでした」
 すぐに気絶してしまったので、そこまで詳細に観察はできなかったのだけれど。そう付け加えて、八束は身を縮ませる。ここで意識を手放しさえしなければ、もう少し役に立てたのかもしれないのに。そう思わずにはいられない。
 それでも、綿貫は八束の言葉を笑うでもなく、さりとて情報の不足を指摘するでもなく、ほんの少しだけ目を細めて、穏やかに微笑む。
「なるほど。報告にあった幽霊の特徴と一致しますね」
「そうなのですか?」
「ええ。交通課によれば、あの現場近くは比較的事故が起こりやすい場所ではあるそうです。過去にも数度事故があり、そのうち一件は死亡事故だったといいます。相談者も、その事故の被害者が化けて出たのではないか、と不安がっていました」
「事故、ですか……。それは、いつの話ですか?」
 綿貫によれば、一年ほど前、あの木々に囲まれた細道で、一人の女性が轢死しているところが発見されたという。女性を轢いた車は逃走しており、未だ行方が知れないのだという。綿貫から渡された当時の資料にざっと視線を走らせながら、事故の概要を脳内に刻み込む。
「そりゃあ確かに化けて出そうな案件だねぇ」
 そこに、割って入ってきたとぼけた声。見れば、一瞬前までテディベアに埋もれるようにして机に突っ伏していた南雲が、少しだけ頭を持ち上げてこちらを見ていた。眼鏡越しではあるが、昨日よりも更に目の周りの隈は深まっており、恐ろしさ数割増しである。
 ぎろり、と見据えられ内心おののく八束だったが、綿貫は全く意にも介さずに続ける。
「そんなわけで、八束くんには、秘策での初仕事を与えたいと思います」
「はいっ!」
 八束はぴんと背筋を伸ばし、よく響く返事をする。綿貫は嬉しそうに笑みを深めると、菓子の入った器からチョコを一握り掴み取った南雲の、つるりとした頭を指差す。
「南雲くんと一緒に幽霊が出現した場所を調査してもらいたいのです。幽霊の出現条件、再び幽霊が現れることはあるのか、仮に誰かが仕組んだものであれば、一体誰がどのように仕組んだものであるのか。
 幽霊が観測され、しかもその現場で悲惨な事故が起こってしまった以上、他の住民から相談が来るのも時間の問題でしょう。その前に幽霊の正体を掴み、地域の皆さんを安心させる必要がありますからね」
「はいっ。責任重大ですね」
 八束がもし、現場のすぐ近所に住んでいたとしたら、恐怖で夜もろくに眠れなくなっていただろう。八束ほど極端な例はないとしても、住民たちが不安を感じているのは間違いない、と八束は心から思う。
 綿貫はそんな八束を慈しむように見つめて、そっと溜息をついた。
「……南雲くんも、八束くんのやる気の百分の一くらい、見せてくれればいいんですが」
 もちろん、南雲は華麗に無視を決め込んでいる。チョコを貪るのに夢中で、聞こえていなかっただけかもしれないが。綿貫も、南雲の反応は十分に予測の範囲だったのか、一瞬南雲を睨んだ後、すぐ八束に意識を切り替えて言う。
「現場での調査については、南雲くんを教育係として、ノウハウを教わってください。南雲くんは、これで捜査員としては優秀ですから、色々と学べることもあると思いますよ」
「は、はあ……」
 優秀、と言われても。
 無数のぬいぐるみに囲まれ、今も上司の話をろくに聞かず甘味を味わっているところを見ると、優秀という言葉とは到底結びつかない。綿貫も綿貫で、自分の言葉が信じられなかったのかもしれない。遠い目で南雲を見据えたまま、声をかける。
「南雲くん、南雲くーん? 今日は八束くんに同行して、幽霊の調査に行ってもらいますからね?」
 南雲は、そこでやっとのろのろと視線を上げ、常に眉間に寄っている皺を一段階深めて。
「やだ」
「ばっさり切り捨てましたね南雲さん!?」
 上司に対してそんな口を利く部下など、八束は未だかつて見たことがなかった。八束が以前所属していた部署では、上司の言葉は絶対だった。そもそも、上司に逆らおうとする気も起きなかった。
 だが、南雲は堂々と「やだ」と言い張った挙句、綺麗に剃り上げられた頭をつるりと撫ぜて、続ける。
「だって、いもしないものを調査するなんてナンセンスでしょ」
「……それは建前ですよね、南雲くん?」
「うん。本音はただ単にめんどいだけ」
 八束をはらはらさせる南雲の暴言も、綿貫はあくまでにっこりとした笑顔で受け止める。これはもう、いつものことで、慣れきってしまっているのだろう――そう、八束が断じるに値する、菩薩の笑みであった。
 そんな、何もかもを包み込む微笑みのまま、綿貫はきっぱりと宣言する。
「では、仕事しないのですから、仕事の後のおやつもいりませんよね?」
「え」
 再びチョコに手を伸ばしかけていた南雲の頭が、ぴたりと固まる。
「南雲くんが持ってきたおんぼろ冷蔵庫、そろそろ邪魔だなあと思っていたのですよ。中身ごと捨ててしまってもよろしいですね」
「やめてくださいプリンが死んでしまいます」
 プリン、って。
 予想外の食いつきを見せる南雲に八束が呆然としていると、綿貫は菩薩の笑みをいっそう深めて、南雲に言葉を投げかける。
「仕事をしましょう、南雲くん」
「わかりました」
「それでいいんですか!?」
 即答した南雲に、八束は間髪入れずにツッコミを入れる。すると、南雲が眼鏡の下から鋭く八束を睨めつけた。
「あのプリンは、通販でやっと手に入れた限定品なんだ。濃厚な卵と良質な牛乳で作られた一級品。こんなところで失うわけにはいかない……」
 南雲の声は、聞いている八束がぞくりとするほどの凄みを帯びていた。だが、あくまで話の中心はプリンである。
 一体どう反応していいものやら、ただ目を白黒させることしかできない八束に、綿貫は何度目かもわからぬ溜息と共に、そっと呟いた。
「覚えておいてください、八束くん。南雲くんは、こうやって使うのです」
「気難しいんですね、南雲さん……」
 気難しい、という言葉が正しいのか否かは、正直判断に困るところではあったが。
 当の南雲は、プリンの命がかかっているからか、今までの緩慢な動きも嘘のように、チョコの箱を机の中に押し込んで黒い上着を羽織る。
「さあ行こうすぐ行こうプリンが俺を待っているんだ」
「は、はい! では、行って参ります!」
 敬礼する八束に、綿貫も軽く敬礼を返しつつ、ぽつりと言葉を落とす。
「まあ、南雲くん、やる気出させてもすぐ飽きるんですけどね……」
 ――その言葉通り、南雲がやる気を見せたのは、警察署を出るまでのほんの三分ほど。
 その後はまた我に返って「やっぱめんどい」「帰りたい」を連呼する南雲を引きずって、ようやくここまでたどり着いたのであった。
 
 
「――というわけで、幽霊事件の真相を暴かなければなりません!」
 握り拳を作り、力強く南雲に呼びかけるも、南雲は難しい顔をしたまま、あっけらかんと言い放つ。
「そっかー。頑張って」
「南雲さんも頑張るんですっ! わたしは秘策がどのように事件を調査するのかもわかりませんから、『教育係』である南雲さんに色々教えていただかなければなりません!」
「えー、めんど」
「さもなければ、冷蔵庫の中のプリンの命はないでしょう」
「わかった、真面目にやろう」
 本当にプリン一つで動くのか。呆れる八束をよそに、南雲はふらりと一歩を踏み出しながら、存外よく通る声で言う。
「とはいえ、臨機応変、その場の状況で判断するしかないわけでさ……。幽霊がいたのはあの辺?」
 南雲が指したのは、ちょうど木の陰になっている部分だ。八束は小さく頷き、恐る恐るそちらへと足を進めていく。また幽霊が出たら、と思うと歩幅が自然と小さくなる。いくら側に南雲がいるとはいえ、恐ろしいものは恐ろしい。
 もちろん、八束の腰が引けているのは南雲も気づいたのだろう。突然、大きな手で八束の頭をくしゃりとやってきた。八束は「わっ」と驚きの声を上げて、南雲を振り返る。南雲は先ほどから少しも変わった様子を見せない仏頂面で言った。
「大丈夫、幽霊なんていないから」
「どうして言い切れるんですかっ!」
 反射的に食って掛かってしまって、「しまった」と思う。いくら恐怖で判断が鈍っているとはいえ、一応は先輩であり上司ともいえる南雲に対する態度ではなかった。しかし、南雲はそんなこと全く気にも留めていないようで、「んー」と小さく唸ってから言った。
「八束は、幽霊が『いる』って信じてるタチ?」
「……い、いえ、信じてません。死者の霊が彷徨ってるなんて、迷信ですっ!」
「なら、どうしてそんなに怖がる必要があるの? だって、いないんでしょ?」
 え、と八束はつい間の抜けた声を上げてしまう。南雲は、八束から視線を逸らし、剃り上げた後ろ頭を掻きながら言う。
「いやね、八束の言い分も理解はできなくはないんだ。見たことない、いるはずもない、何だかわかんない、そういうものを怖がる心理はわかる。
 ただ、『幽霊だから怖い』ってのは本末転倒な気もするんだよな。
 人は曖昧でよくわからないもの、不可解なものに名前をつけることで、それを分類し、認識できる形にした。つまり、幽霊ってのは人が考えた『よくわかんないもの』の類型の一つでしかないわけで、お前は自分が目にしたものをその類型に当てはめて、『幽霊』って類型が主に『怖いもの』を表すから、何となく怖くなってるんじゃないかなって。違う?」
 南雲の言葉は、八束にとっては目から鱗が落ちるようなものだった。幽霊を怖いと思う理由なんて、自分自身できちんと分析したことなどなかった。よくわからないものを、怖がる心理。確かに、そうなのかもしれない。そして『幽霊』という言葉だけで怖くなってしまっていた自分が、にわかに恥ずかしくなってくる。
 ――とはいえ、それ以上に八束が感心したことは。
「南雲さん、きちんとした内容も喋れるんですね……」
「八束って、案外失礼だな?」
 南雲は表情こそ変えなかったが、その言葉に呆れの響きを混ぜて言った。顔は怖いが、声を聞く限りは怒ってはいなさそうで安心する。安心したところで、一つ、気になったことを問うてみる。
「あの、南雲さんは、怖くないんですか? 幽霊とか、妖怪とか」
「怖くはないな。八束とはちょっと違う意味で、信じてないからだと思う」
「幽霊の存在を、ですか?」
 いや、と。南雲は小さく首を横に振って、答えた。
「幽霊がこういう形で干渉してくることを、かな」
 その言葉の意味を、八束はどうにも理解できなかった。それに、吟味をするだけの心の余裕も、一瞬で消え失せてしまった。
 
 八束が幽霊を目撃したその場所に――人影が、佇んでいたから。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(5)

 一通り聴取を受け、解放された頃にはすっかり雨は止み、西の空に日が沈みかけていた。
「今日は気絶するほどのショックを受けたわけですし、無理はよくありませんよ。八束くんが見たという幽霊の話は、明日詳しく聞かせていただきます。今日はゆっくり心と体を休めてください」
 ……という綿貫の一言で、本来の終業時間にはまだ早いものの、八束は帰途についていた。
 結局、今日は事故の目撃者として扱われただけで、何一つ、仕事に取りかかることはできなかった。その事実に落ちこむ八束に対し、綿貫は「明日から頑張ってくれればいいですよ」と優しく声をかけてくれたのだった。心優しい上司に巡り合えた、と思えば、少しだけ気分が上向きになる。
 ――そうだ、明日から、また頑張ろう。
 今日は今日、明日は明日。明日は仕事の話に入ると綿貫も確約していたのだから、気を取り直していくしかない。ぐっと、ちいさな手を握りこんだその時。
「ついたよ。ここが、待盾警察署前バス停」
 降ってきた声に、はっと我に返る。いつの間にか、警察署の門を出て、バス停の丸い看板の前に立っていた。慌てて、ここまで案内してくれた南雲に一礼する。
「ありがとうございます、わざわざ、ここまで送っていただいて」
 ん、と横に立つ南雲が短く返事をする。頭一つ分違う視点を補うため、思いきり見上げる形で南雲の横顔を見ると、不機嫌な表情を隠しもしていなかった。
 いくら「そういう顔」だと言われても、どうしても聞かずにはいられない。
「……迷惑でしたか?」
「ううん、何も迷惑じゃないよ」
「そう、ですか」
 言葉が、途切れた。
 いくら空気が読めなくとも、この場に流れた気まずさくらいは、八束にもわかる。南雲はぼんやりと虚空を眺めるだけで、何か気の利いたことを言ってくれるわけでもなかった。
 相手が話を振ってくれることに期待しているばかりでは、どうしようもない。言いたいことがあるならば黙っていてはいけないと己に言い聞かせ、改めて南雲に向き直り、口を開く。
「今日は、本当にありがとうございました。色々教えていただけて、助かりました」
「俺は何も教えてないと思うけど。ほとんど、綿貫さんが説明してたじゃない」
「それでも。南雲さんとお話ししているうちに、気が楽になったのは本当ですから」
 最初は驚いたし、果てにお化けと勘違いして気絶までしてしまったけれど。それでも、おそらく気を悪くした様子もなく――それはあくまで「おそらく」ではあったが――取り乱す八束に対して、丁寧に言葉を尽くして接してくれたのは事実だ。
 八束の言葉を受けて、南雲はほんの少しだけ目を細めた。眉間の皺が深まり、更に睨みつけられているような気分が増すが、ふ、という息とともに吐き出された声は、八束の想像に反して穏やかだった。
「そっか。なら、よかった。正直に言えば、俺も不安だったんだ。新入りを迎えるのって、ここに来てから初めてだったからさ」
 神秘対策係は五年間二人だけで構成されていた、というのは綿貫も南雲も言っていたことだ。それ以前の南雲の経歴はわからないが、ここしばらく「後輩」というものとは縁遠かっただろうことは想像がつく。
 それを理解すると同時に、一点、どうしても気になることがあったことを、思い出す。それは、考える前に言葉として唇から飛び出していた。
「あの、南雲さんは、わたしが新しく加わることに、反対だったのでしょうか」
 ぶしつけな質問だっただろうか、と一拍遅れて気づいたが、南雲は表情一つ変えずに問い返してくる。
「そういう風に見えた?」
「はい。その、『使い物になるのか』と言われてましたよね。ですから、わたしは南雲さんや、この係にとって迷惑な存在なのかと」
 南雲は眉間の皺を深めて「あー」と声を上げ、剃り跡も見えない頭を掻いた。
「あれ、聞こえてたんだ。そういうつもりじゃなかったけど、そう聞こえて当然だよな……。失言だった。俺は何も結果が出ていない状態で否定的な評価をする気はないし、八束が加わること自体に反対をする気もないんだ。ただ」
「ただ?」
「今まで、二人でだらだら続けてた係だからさ。それこそ、八束みたいなオカルト苦手な子を呼んでまでする仕事があるのかなって。綿貫さんの企みなのは、何となくわかるけど」
「企む、というのは相当語弊がある気もしますが」
「いやいや、ああ見えて狸だからね、あのおっさん。狐って言わないと嫌がるけど」
 どちらにしろ、綿貫が腹に一物のある人物という評価であることだけは確からしい。南雲の言葉がどこまで正しい評価なのかは、わからないが。
「とにかく、八束のことが迷惑だとは思ってないから、そこは心配しないで。不愉快な思いをさせてごめん」
 南雲は片手で眼鏡を押さえて軽く頭を下げる。表情は依然険しいままで、顔だけ見ればさっぱり謝っているようには見えなかったが、不思議と、その言葉を疑う気にはなれなかった。
「いえ、わたしは大丈夫です。南雲さんの言葉を聞かせてもらえて、よかったです」
 安堵を覚えると同時に、自然と唇が笑みを描く。まだどこか恐ろしさを感じてはいるが、南雲の率直な物言いは、八束を安心させるに値した。
 その時、バス停にバスが滑り込んできた。「あ、これですね」と身を乗り出す八束の頭を、南雲が軽くぽんと叩く。
「じゃあね、八束。また明日」
 見上げた南雲は、決して笑顔を見せない。眉間に皺を寄せ、隈の浮いた目で八束を睨むように見下ろしている。それでも、八束は精一杯の笑顔をもって、南雲の言葉に応えた。
「はいっ、お先に失礼いたします!」
 八束はぺこりと頭を下げて、バスに乗り込む。扉が閉まってから振り返ると、南雲は仏頂面のまま、ひらひらと細長い手を振っていた。
 不思議な人だ、と窓越しに手を振り返しながら思う。
 元々、他人の考えを察するのを苦手としていることは自覚しているつもりだが、それにしても、南雲の態度は八束が今まで出会ってきた誰とも違い、何を考えているのか、どのように感じているのかが全く伝わってこない。刺し貫くような視線と、それに反した穏やかな言葉。色々と噛み合っていないが、決して不愉快でもないのが更に不思議だった。
 ――これから、南雲さんについても、わかるようになるだろうか。
 わかってくればいい、と思うが、わからない現状では、ぽつりぽつりと胸の中に生まれる不安の芽を感じずにはいられない。いくら窓越しに観察してみたところで、南雲は、少しも変わらぬ表情で手を振り返すだけなのだけれども。
 やがて、バスが発車し、南雲の姿が遠ざかっていく。道を折れたところで完全に見えなくなったので、八束はぱたりと手を下ろす。
 一人になってはじめて、今日起こったこと、出会った人物、これから所属する部署について、冷静に思い返すことができた。一つひとつ、記憶の引き出しから拾い上げながら、どうしても湧き上がってくる冷たい感覚にぶるりと震える。
 ――わたしは、ここで、上手くやっていけるだろうか。
 以前所属していた部署では、それなりに上手くやっていけていたと思う。完全に、八束の過失によって引き起こされた「あの事件」を除けば、八束自身が抱えている致命的な欠点は、何とか補ってこられたのだ。
 だから、大丈夫。かつての事件のような失態は、二度と繰り返さない。
「大丈夫」
 窓に映る自分の顔に向かって、ちいさな声で、語りかける。
 それは、暗示にも近く。大きな黒目がちの目が、八束自身を覗き込んでいる。太く短い眉、きっちりと切りそろえられた前髪、引き結んだ唇。やる気に満ちた己の顔を見据えて、そっと言葉を落とす。
「わたしは、大丈夫。今度こそ、間違えない――」
 八束以外、誰も知らない決意を乗せて、バスは水溜りを蹴散らしながら、「特異点都市」待盾を行く。
 
 
 
「おかえりなさい、南雲くん」
「ただいまー」
 綿貫の言葉にほとんど条件反射で返した南雲は、対策室に足を踏み入れるなりソファにどっかと座り込む。そして、先ほどまで八束が使っていたタオルケットを頭から被ってそのまま横になった。
「……南雲くん、一応言っておきますが、まだ、勤務時間中ですからね」
 奥から聞こえてくる綿貫の声は、呆れと、聞き違えようのない諦めを孕んでいた。南雲は、タオルケットを被ったまま、もごもご言う。
「昨日ほとんど寝てないし、今のでどっと疲れたんで俺は寝ますぅ」
「いつもそうじゃないですか。これから八束くんも加わるんですから、少しは先輩らしいところを見せてくださいよ?」
「って言ったって、うちの仕事なんて高が知れてるじゃねっすか。あの八束って子、見るからに真面目そうですし、俺の仕事丸々渡したってお釣りが来ます」
 その分、俺がだらだらできる時間が増えるなら、それに越したことはないけれど――と続けようとしたところで、
「今まで通りでしたらね」
 綿貫の声が、降ってくる。
「そろそろ、南雲くんにも本気で働いてもらおうと思いましてね。テディベアを量産するのにも飽きた頃でしょう?」
 南雲は、思わず体を起こして、奥の綿貫を分厚い眼鏡の下から睨んだ。
「……やっぱり、何か企んでるんすね、綿貫さん」
 綿貫は、そんな南雲の鋭い視線を軽く受け流し、「ええ」と微笑むばかり。
「突然何もかもを変えるわけにはいきませんが、これが第一歩ですね。とりあえず、南雲くんは単独行動厳禁ですからね、最初にパートナーが必要かと思いまして」
 それに関しては南雲も反論できないので、代わりに、どうしても気になっていたことを問うてみる。
「あの八束って子は、どうして選ばれたんです?」
「僕の直感ですかね。ああ、安心してください。秘策にはもったいないほど優秀な子ですから、まるきり役立たずってことはありませんよ」
「そんな優秀な奴が、こんなギャグみたいな係に配属されるんだ。当然、何かしらの問題があってしかるべきだと思いますけど、その点はどうなんです?」
「今、僕の口から言わなくとも、追々わかるでしょう。彼女が、君が抱える問題を知るのと同じくらいの時期には」
 つまり、答える気がないということだ。こう答えた綿貫の口を割らせるのは難しいし、何よりも面倒くさいことは、経験上誰よりも南雲がよく理解している。それに、そういう問題は八束本人から聞いた方がいい、とも思うのだ。ぱっと見た限り、頭の先から爪先まで真面目で凝り固まったような娘だ、きっと聞けばすぐ答えてくれるだろう。
 だから、今は八束について追及することは避け、もう一つ、抱えていた質問を投げかける。
「何故、今なんです?」
「そうですね、このまま続けていても、この係のためにも、僕のためにも、もちろん南雲くんのためにもならないと感じたからです。まあ、一種の賭けですよ」
 ――だろうな。
 南雲も、その言葉には内心で頷く。決して、綿貫には気づかれないように。
 何もかもが変わってしまったあの日から、指折り数えれば五年と少し、のはずだ。今となっては、時間の流れすら曖昧なもので、こうして改めて数えなければ把握することもできない。
 そんな、ただ息をしているだけの日々を、とりわけ厭うわけではないのだ。変化がないということは、二度と、あの日のようなことも起こりえないということだから。いつも呆れた視線を向けてくる綿貫には悪いが、本気でそう思っているからこそ、この待盾署の片隅でテディベアと戯れる日々を送ってきた。
 ただ――。
「南雲くん、君だって、ずっとこのままでいたいわけではないでしょう?」
 綿貫の声と笑顔は、いつもと何一つ変わらない。どこか人を食った雰囲気を伴う、狸にも狐にも見える笑顔がこちらに向けられている。
 今更、見飽きた顔を眺めているのも馬鹿馬鹿しくなって、再びタオルケットを被ってソファに倒れこむ。粗大ゴミ置き場出身の中古ソファは、南雲の体重を受け止めてぎしぎしと悲鳴を上げるが、構わずうつぶせになる。
「……そりゃあ、そうだけどさあ」
 途端に、頭の後ろ辺りから圧し掛かってくる睡魔に身を委ね、ほとんど無意識に、呟く。
「どうにかできるなら、とっくに、どうにかしてるよ……」
 体を覆うタオルケットは、微かに、雨の香りがした。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(4)

「綿貫さん、うちにオカルト嫌いをよこすとか、何考えてるんすか」
「いえ、まさか、ここまでとは思ってなかったんですよ……」
「ちょっとー、知らなかった俺が悪者みたいじゃなーい。っていうか、使い物になるんですか、この子」
「なると判断しなければ、呼んだりはしませんよ。南雲くんがそうであるようにね」
「……ほんっと、綿貫さんってば狸ですよねえ」
「失礼な。せめて狐と呼んでください」
 そんなやり取りが、ぼんやりとした意識の片隅に引っかかって。
 刹那、がばっ、と起き上がる。そして、まず目に入ったのが、山と詰まれたぬいぐるみの群れだったことに、内心安堵しながら声を上げる。
「わたし、どのくらい寝てましたか!」
「三分くらい。順調に気絶時間は短くなってるよ、よかったね」
 ぬいぐるみの向こう側から、南雲が本当に「よかった」と思っているのか否かさっぱりわからない仏頂面で答えてくれた。
「いやあ、すみませんでした。怖い思いをさせてしまいましたかね」
 その三分の間に部屋に戻ってきていたらしい綿貫が、八束の横に立って苦笑している。慌てて背筋を伸ばし、「いえっ」と上ずった声をあげる。
「そ、そそそそんなことはありません! だだだ大丈夫です、わたしは大丈夫ですっ!」
「声めっちゃ震えてるけど」
 チュッパチャプスのカラフルなビニールを剥きながら南雲が放ったツッコミは、非情ながら正確であった。
 けれど、ここで「駄目」や「無理」と言うわけにはいかないのだ。これから待ち受けるものを考えると不安と恐怖で押しつぶされそうになるけれど、それでも、それでも。
 悲鳴を上げる本能を、何とか理性で抑えこもうと必死になっていると、綿貫が柔らかな声をかけてくる。
「まあまあ、落ち着いてください。八束くんがこの手の話を苦手としていることは、あらかじめ君の元上司から聞いてはいたんですよ」
「えっ?」
「でも、少々無理を言ってでも、八束くんの力を貸してもらいたかったのです。もちろん、ここで働くのが難しそうなら、僕の方から上に掛け合いますが――、その前に、この係の役割について、詳細を聞いてもらえますか?」
 オカルト全般を扱う係、と南雲は言っていた。もし、それが事実なのであれば、八束にはきっと耐えられない。ただ、それを判断するのは、綿貫の話を聞いてからでも、きっと、遅くない。
「はい。よろしく、お願いします」
「ありがとうございます。南雲くん、僕の分も珈琲淹れてもらえますか?」
 やっとのことでチュッパチャプスの包みを剥き終えた南雲は、ちらりと綿貫を睨んだかと思うと、「めんどい」とだけ言って口の中に飴を含む。綿貫は、何ともいえない表情で不遜な態度を取る部下を見つめていたが、すぐに諦めて自分で珈琲を淹れに行こうとする。
 呆気に取られてそんな二人のやり取りを見つめていた八束は、そこで、何とか我に返る。
「あのっ、わたしが淹れましょうか?」
「ああ、いえ、構いませんよ。いつもこんな感じなんです」
「は、はあ……」
 こんな感じ、と言われても。
 反応に困っているうちに、綿貫が自分の分の珈琲を注いだカップを持って、八束の斜め横――一番奥の席につく。そこは、別にぬいぐるみに囲まれているわけでも何でもなく、必要最低限のものだけを置いた、ごく普通のデスクであった。
「さて、まずはこの『秘策』、いえ『神秘対策係』というのが、どんな係なのかを説明したいと思います。八束くんは、どこまで話を聞いていますかね?」
「前の上司からは、特に何も。先ほど、南雲さんは『所謂「オカルト」が関わる事件全般を扱う』とおっしゃっていましたが」
「ええ、それは間違いではありません。ただ、その言葉を聞いての八束くんの想像は、少しだけ誤っているかもしれませんね」
「どういう、ことですか?」
「この係は、何も本物の幽霊や妖怪と対峙するわけじゃありません」
「……へっ?」
 思わぬ言葉に、八束は目を丸くして、間抜けな声を上げてしまう。そんな八束の反応を見て、綿貫はおかしそうにくつくつと笑う。
「そもそも、変な話でしょう。幽霊や妖怪なんて、いるはずがないんですから」
「えっ、あっ、そうですね!」
 当然といえば、当然の話である。
 それなのに、ありもしないものに怯え、果てには恐怖から気絶までしてしまうなんて。湧き上がってくる羞恥に、熱くなる頬を両手で押さえて首を竦める。
 けれど、それならば、雨の中で見たあの影は、何だったのだろう?
 八束の頭に浮かんだ疑問符に気づいているのかいないのか、珈琲の入ったカップを傾けた綿貫は、狐を思わせる目を細めて言う。
「それでも、幽霊や妖怪、超能力や宇宙人の存在を『ありえない』と思いながら、時にその存在を感じてしまうことは、もちろんあります」
「特に、この町ではね」
 大人しく飴を舐めていた南雲が、唐突に合いの手を入れる。
「この、町では?」
「そ。昔からこの待盾という土地では、数多の超常現象が確認されてきたの。空飛ぶ鯨の目撃情報に始まり、全身から血を吸われた死体、地面を駆ける火の玉、人を誑かす狐狸、夜な夜な街を徘徊する狼男――。オカルトと分類される現象が確認される割合は、他の都市と比べても圧倒的に高い」
 南雲の声は、酷く淡々としていて、それでいて心の中にするりと滑りこむ。一つ一つの言葉を理解していくにつれ、八束は背筋に何かが這い上がってくるのを感じる。
 そんな八束の様子に気づいたのか、綿貫が微かに眉間に皺を寄せて南雲を見やる。
「南雲くん、そんなこと言って、八束くんを脅かさないでくださいよ」
「事実を言ってるだけじゃないっすか。どうせ、嫌でもわかることですしね」
「えっ、わ、綿貫係長、本当のお話、なのですか?」
 八束はほとんど涙目で綿貫を見る。せめて、南雲の言葉を否定してほしいという願いを篭めて。しかし、その願いもむなしく、綿貫は溜息混じりに首を縦に振ったのであった。
「……ええ、まあ、南雲くんの言っている話それ自体は事実ですよ。確かにこの町は、他の町に比べるとその手の話題に事欠きません」
「オカルト絡みと考えられる事件は、他の町と比べてゆうに五から七倍、数え方によっては十倍近くって聞いたことあるね。だから、ついたあだ名が『特異点都市』」
 南雲が、口から突き出した飴の棒を指先で回しながら、こともなげに言い放つ。
「特異点、都市……」
 八束は、ただ、その言葉を鸚鵡返しにすることしかできなかった。
 自分は、とんでもないところに放りこまれてしまったのではないか。そんな思いが、首をもたげてくる。けれど、まだ、声を上げて逃げ出すわけにはいかない、と思える程度の理性はあった。話は終わっていない、むしろ始まってすらいないのだ。膝の上で拳を握り締めて綿貫の言葉を待つ。
 綿貫はどこか恨みがましげな目で南雲を睨んだが、すぐにおっとりとした笑顔を取り戻して、八束に向き直る。
「その中には、現代の科学では解明できないような出来事も、ゼロとは言い切れません。しかしながら、ほとんどは見間違いや思い込み、そして、悪意を持ってオカルトを真似たものなのですよ」
「悪意を持って……、ですか?」
「八束くんもご存知の通り、現在の日本国の法律では、人の手によるものであると証明できない事件は、罪に問えません。幽霊が人を殺したとしても、誰が幽霊を告発し、正しくその罪の在り処を証明することができましょう」
「……つまり、罰を逃れるために、己の罪を超常現象であると騙る者がいるということですね」
「ええ。そして、ここからが重要な問題なのですが、ひとたびオカルトと結びついてしまった事件は、正しく解決されないことがあまりにも多いのです。
 まず、ほとんどの場合、被害者当人が、それを『事件』と思うことができない。
 そして、仮に被害者がそれらの事象を一つの事件と捉えて警察に届けても、被害者の報告に対して警察側がまともに取り合わなかったのです。それは、被害者側の認識の誤りであるとして」
 人の手による犯罪でない限り、それは「犯罪」ではない。
 そして、大概の超常現象は「見間違い」や「思い込み」である――。
「確かに。もし、わたしがその状況に置かれれば、まず被害者の認識の方を疑いますね」
「そして、被害者もそうなることが想像できるため、警察には届けない。結果、更なる事件を引き起こしてしまう例も、決して少なくないのです。特にここ待盾では、超常現象の観測事例が昔から多いからでしょうか、それらの噂に便乗する犯罪も多数確認されています」
 オカルトと、人の手による犯罪。
 それらを、一つの繋がりとして捉えたことなど、あるはずもなかった。もし、この係に招かれなければ、これからもずっと、そんなことは考えもしない人生だっただろう。
 だが、綿貫は――そして、横で二つ目の飴の袋を外している南雲も、だろうが――八束とはまるで違う世界を見つめている。これだけは、はっきりと理解できた。
 そんな八束の前で、綿貫は組んでいた指を解き、両手を肩の辺りで広げてみせる。
「そのような背景があり、僕はこの待盾署に『神秘対策係』を立ち上げました。『オカルト専門』を謳うことで、今まで泣き寝入りするしかなかった事件被害者を積極的に受け入れ、今までオカルトとして認識されていた事件を、人の手による犯罪であると証明する。それによって、オカルトの名を借りて罪を犯す者を法に従い取り締まる。これが、我々、神秘対策係の存在目的です」
 ――これが、自分の新しい仕事。
 八束は、瞬きもせずに綿貫を見据えていた。
 オカルトの話に及んだ瞬間は恐ろしさが勝ったが、話を聞いてゆけば恐怖はいつの間にか消えていた。オカルトの名を借りた卑劣な犯罪の真相を暴き出す。その光景をイメージすれば、俄然やる気が湧き上がる。
 ……が。
「とはいえ、俺たちが直接、犯人を捕まえる機会はほとんどないけどね」
 飴を舐め舐め、南雲が呟いた言葉に、意識が引かれる。
「え?」
「秘策の役目はあくまでオカルト事件の『証明』であって、それ以上じゃないのよ。証明した結果、それが人の手による窃盗なら盗犯係、傷害なら強行犯係の管轄。俺らにも逮捕権はあるけど、他の係の領域を侵犯すると、後で色々面倒くさいことになる」
「え、ええっ?」
「何より、秘策は立場が全部署の中でも最も低い。未だに、署内でも『何やってるかよくわかんない係』、時には『非実在係』って認識だからね。そんな底辺の係が、花形の刑事さんたちのお仕事奪ったらいけませんて」
 南雲の言葉に、八束はふうっと全身から力が抜けるのを感じていた。
 神秘対策係の活動が、確固たる目的を持つ、やりがいのある仕事であることは間違いないだろう。だが、南雲の言っていることが事実ならば……。
「つまり、俺たちがどんなに頑張っても他の係の手柄ってこと」
「そ、そんな……」
 誰にも期待されておらず、どれだけ頑張ったところで誰にも認められない。これでなら、綿貫や南雲のふんわりとした、率直に言えば緊張感に欠けた態度にも納得がいく。
「だってねえ。実際、係の発足から五年間にしたことといえば、オカルトに悩まされる人のお悩み相談と事件に発展しそうな現象の分析。だけど、そんなのはごくごく稀な話で、ほとんどは他の部署から頼まれた事務仕事の手伝いだもん」
「そのうち『お悩み相談』と『他の部署のお手伝い』は僕一人でやってますけどね」
「お手伝いはともかく、相談事はさっぱり向いてませんからね。相談に来てくれた人を怖がらせてちゃ世話ないです」
 八束に対する態度もそうだったが、何だかんだで、南雲は自分の見た目が相手からどう見えるか、という点には自覚的なのだろう。とても大切なことである。
 が、それはそれとして『お手伝い』は何故綿貫一人でやっていたのだろう、と考えずにはいられない。ただし、机の上に溢れる手作り感溢れるテディベアを見れば、あえて聞くまでもなく、その間南雲が何をしていたのかがわかるような気はした。
 綿貫はしばしマイペースに飴を舐め続ける南雲をじっと見つめていたが、やがて小さく溜息をついて八束に向き直る。
「とにかく、我々の仕事内容と……、まあ、現状についてもわかっていただけたとは思います」
「は、はいっ」
「今、南雲くんが言ってくれた通り、我々は組織内では大した力も持たない係です。とはいえ、超常の恐怖に悩まされる市民に手を差し伸べるという仕事は大切なものです。我々警察は、市民が安心して日々を送れるよう組織されているわけですからね」
「はい! これから、全力を尽くしていきたいと思います!」
 八束はぴっと背筋を伸ばして宣言する。それを聞いた綿貫は満足げににっこりと微笑み、それからちらりと南雲に視線を向け、打って変わってねちねちと言う。
「聞きましたか、南雲くん。いやあ、やる気に満ち溢れていてなんとも素晴らしいじゃないですか。南雲くんも見習ってください。今すぐに。さあどうぞ、遠慮なく」
「やだ」
 それだけを言って、南雲はべったりと机に突っ伏してしまう。そんな南雲のつるりとした頭をしばし遠慮なく凝視してしまった八束は、綿貫に問わずにはいられなかった。
「……南雲さんって、いつもこんな感じなのですか?」
「これでも、いつもより五倍はよく動いてます」
 普段はもっと酷いのか。
 どこか遠い目をする綿貫を見てしまうと、これからのこと――特に南雲と上手くやっていけるか不安を感じずにはいられないが、いくら不安になろうと何だろうと、これから自分がここで働いていくことには変わりがない。
 ――今の自分を受け入れてくれる場所など、他にないのだから。
 つい、頭の奥にしまいこんでいた痛みの記憶を思い出しかけ、微かに眉を寄せてしまう。しかし、すぐに過去からは目を逸らし、目の前で微笑む綿貫を見据えて全身に力を込める。
「それで、わたしは、本日から何をすればよいでしょうか?」
「そうですね、八束くんには明日から、正式な仕事を与えたいと思います。本日は、八束くんも色々あって疲れているでしょう」
「いえ、そこまででも、ないのですが……」
 何しろ、気絶していただけだ。疲れるようなことは何一つしていない、と、思ったのだが。
「それに、仕事を始める前に済ませなければならないこともありますからね」
 と、綿貫が立ち上がった途端に、まるでタイミングを計ったかのように、入り口の扉がノックされた。はっとしてそちらを見ると、聞いたことのない女の声が聞こえてきた。
「すみません、綿貫係長はいらっしゃいますか?」
 綿貫が「はいはい」と言いながら扉の方に向かうのと同時に、机にうつぶせていた南雲が少しだけ顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「あ、蓮見ちゃんだ」
「はすみちゃん?」
「交通課の子。その服貸してくれた子だから、お礼言っておきなよ」
 言われて、反射的にがばがばの胸元を見下ろしてしまう。続けて、綿貫と共に入ってきたのは、制服に身を包んだショートカットの女性警官だった。身長は八束より少し高い程度だが、胸の大きさに関しては比べるまでもなかった。
 言い知れない敗北感に落ち込んでいると、蓮見、と南雲が呼んだ警官は、真っ直ぐに八束の方へ歩いてきて、軽く一礼した。
「初めまして、八束さん。交通課の蓮見と申します」
「初めまして。本日より刑事課神秘対策係に配属になりました八束結です、これからよろしくお願いいたします、蓮見さん!」
「こちらこそ。とにかく、元気そうでよかった。私が現場に駆けつけた時には、真っ青な顔で気絶してたから」
 愛嬌のある笑みと共に投げかけられた言葉で、八束はこの蓮見という警官が、あの現場に駆けつけた警官の一人であることを理解し、深々と頭を下げる。
「この度はご迷惑をおかけしました、着替えも、ありがとうございます」
「ううん、いいのいいの。これも私たちのお仕事だからね。でも、事故の目撃者の一人として、お話を聞かせてもらわなきゃならなくて。今、大丈夫かな?」
「はい。……済ませなければならないことって、これ、ですね」
 そっと綿貫を窺うと、綿貫は苦笑を浮かべて言った。
「ええ。何はともあれこれを済ませてからです。色々聞かれると思いますが、頑張ってくださいね、八束くん」
「は、はいっ」
 一日目から、とんでもないことになってしまった。
 そう思いながら奥の南雲を振り返ると、南雲はテディベアの只中に突っ伏したまま、ぴくりとも動く様子はなかった。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(3)

 手早く着替えを終え、「終わりました」と声をかけると、本当に扉のすぐ側で待っていたらしい南雲が、ひょいと顔を出す。
「だいじょぶそう?」
「はいっ」
「服は……、やっぱりちょっと大きいか」
 南雲の言う通り、借りた服は決してぴったりとは言えなかった。ブラウスの袖は長く、襟もぶかぶかで、見事なまでに「服に着られている」形だった。
 確かに、八束は警察官としては一際小柄な方なので、当然といえば当然なのだが、その割に、スカートの腰周りがきついのは、気のせいだと思いたい。
 反面、いやにすうすうする胸周りを気にしながらも、南雲を見上げてみる。先ほどまでは座っていたため実感に乏しかったが、この男は、八束とは正反対にひょろりと背が高く、酷い猫背であるにも拘らず頭一つ分以上視点が上にある。目を合わせるのも、なかなか大変だ。
「着替えを用意していただけただけでありがたいです。後で、貸してくださった方にもお礼を言わせてください」
「多分、嫌でもすぐ会えると思うよ」
「ふえっ?」
「後でわかる。まあ、綿貫さんが戻ってくるまでは、のんびりしてればいいよ」
「あれ、綿貫係長は?」
「何か他の部署の人に呼ばれて行っちゃった。すぐに戻るとは思うけど」
 ふんわりとした答えを返しながら、南雲は八束の横を通って、つかつかと机の方に向かう。ぬいぐるみが山となっている方の机に。
 やはり、そうなのか。八束は戦慄し、南雲とその机を交互に見つめる。
 やはり――そこは、南雲の席なのか。
「あの、南雲さん」
「何? そうだ、珈琲飲むけど、一緒にどう? ミルクと砂糖は入れるタイプ?」
「あっ、ありがとうございます。ミルクと砂糖多めでお願いします」
「はいはい」
 南雲はどこか頼りない足取りで、机の後ろに置かれた、やけに本格的なコーヒーメーカーの前に立つ。珈琲のよい香りは、どうやらここから漂っていたものらしい。
「……って、そうじゃなくて!」
 南雲の流れるような誘導につい乗せられてしまったけれど、聞きたかったのはそういうことではない。不思議そうにつるりとした頭を傾げる南雲に向き直り、机の上のぬいぐるみを指す。
「これ、何ですか?」
「ぬいぐるみ」
「それはわかりますけど、何のために置かれているものですか?」
「かわいい」
 即答だった。
 それで、冗談めかした表情でも浮かべているならともかく、言い放った南雲の横顔は仏頂面のままであったから、本気なのかふざけているのか、八束にはさっぱりわからない。
「……南雲さんは、かわいいものがお好きなのですか?」
「かわいいは正義だろ」
 どうにも表情と言葉が噛み合わないまま、南雲は八束に背を向け、慣れた手つきで珈琲を淹れ始める。そして、呆然と佇む八束を振り向くこともなく、ただ、のんびりとした声だけで言う。
「その前が、八束の席だから。突っ立ってないで、座りなよ」
「は、はいっ」
 慌てる理由もないのだが、意味もなくわたわたとしながら、席につく。そして、南雲の土気色をした後頭部を何とはなしに眺めてしまう。
 一体、この人は何を考えているのだろう。最初は恐ろしそうな人だと思ったが、話してみるとそうでもなさそうで、なのに何を喋っていても不機嫌そうで、それでいてかわいいものが好みらしくて。八束には何が何だかわからない。
 そんな八束の混乱に構う様子もなく、南雲は手にしたマグカップの一つを八束の前に置く。ブラウンのマグカップには、かわいらしい猫の顔が描かれていた。
「どうぞ」
「ありがとうございますっ」
 八束は背筋をぴんと伸ばし、南雲に向かって勢いよく頭を下げる。南雲はこめかみの辺りを掻きながら、ただでさえ細い目を更に細める。
「お堅いねえ。もうちょっと肩の力抜いていいんだよ」
 そう言われても。八束は少しだけ口をへの字にする。
 多少緊張しているのは事実だが、肩の力を抜いていいと言われても、どうしていいかわからない。何しろ、これが八束にとっての通常運転だったから。
 自分のカップを手に、ぬいぐるみの群れの向こう側に座った南雲は、どうにもぼんやりとした声で言う。
「えーと、改めて自己紹介しとくと、俺は南雲彰っていいます。巡査部長で、刑事課神秘対策係、名ばかりの主任。何しろ今までずっと俺と綿貫さんしかいなかったから。まあ、一応先輩で、教育係ってことになるのかなあ」
 そんなガラじゃないんだけどねえ、と言いながら、南雲は手元のピンク色のテディベアを弄っている。そんな南雲に向かって、八束はぺこりと頭を下げる。
「八束結です。県警本部の刑事部に所属していました」
「へえ、本部の刑事だったんだ。珍しいな、そんな若いのに」
 確かに、本部にいた頃は色々と好奇の目で見られることも多かったと思いだす。
 その頃の前上司には色々と世話になったが、結局、何故八束が刑事として上司に引き抜かれたのかは、わからずじまいだった。
 それに、本部を追い出されるきっかけとなった事件を思い出すと、自然と眉間に力が入ってしまう。忘れたくても忘れられないし、忘れたいと思っているわけでもない。そう、決して忘れてはいけないことだ。それでも、思い出すのは少しだけ、辛い。
 そんなことを思っていると、南雲が仏頂面のままテディベアの腕を指でつまみながら言う。
「ま、うちは本部に比べたらめちゃくちゃ暇だから、その辺は安心していいよ」
「は、はあ」
 それは、果たして安心していい要素なのだろうか。
 どうにも判断しかねている八束をよそに、ピンクのテディベアがこくんと首を傾げる。
「で、えーと……、八束って呼んでいいかな」
「はいっ」
「八束は、どうしてあんな雨ん中で倒れてたの?」
 八束は、はっとしてテディベアから南雲の顔に視線を戻す。南雲の顔は依然として険しく、黒縁眼鏡の下からこちらを鋭く睨めつけていて、思わず身構えてしまう。すると、南雲はすぐにテディベアで顔を隠すようにして、ぬいぐるみの手足をぴこぴこと動かしてみせる。
「やだなー、そんな怖い顔しないでよ」
 大の大人が――しかも、どう見たって恐ろしげな顔をしたスキンヘッドの男が――眼前で熊のぬいぐるみをかわいらしく操ってみせる、というやけにシュールでコミカルな光景に、最初は呆気に取られ、次の瞬間にはつい、堪え切れなくて小さく吹き出していた。
 しまった、笑ってはいけなかっただろうか。慌てて南雲の顔を見ると、テディベアの後ろで相変わらず不機嫌そうな面をしてはいたが、それでも口元は微かに緩んだように、見えた。
「そうそう、笑った方がいいよ。別に今は仕事で話聞いてるわけでもないし、気楽に行こうよ」
「は、はいっ、気楽にやります!」
「うーん、気楽とはほど遠い回答だなー」
 南雲はテディベアの首をくにくに動かしながら、小さく唸る。
 ……もしかして、わたしが緊張していると思って、気を遣ってくれたのだろうか。
 八束は改めて南雲を見るが、南雲の表情はさっぱり変わっておらず、結局そこから何らかの感情を読み取ることはできなかった。
 ともあれ、まずは南雲の質問に答えるのが先だろう。
 自分は何故、あの場に倒れていたのか――。一つずつ、記憶をひ手繰ってゆく必要がある。
「あの場で事故に遭った、ってわけじゃないよな」
「はい。わたしがあの場所を通りがかった時、既にバイクから投げ出されるように倒れていた方がいました。かろうじて息があることを確認して、救急を呼んだことまでは覚えています。それが、わたしの時計で午前八時ちょうどでした」
「随分冷静だな」
「わたしが冷静さを欠いて、救えるはずの命を救えないということだけは、避けなければなりませんでしたから」
 八束はぴんと背筋を伸ばして言う。何故か、南雲はテディベアの後ろで眩しそうに目を細めて、何とも形容しがたい表情を浮かべていたけれど。
 そこで、目が覚めてからずっと気になっていたことを、問うてみる。
「あの方は、無事だったのでしょうか。南雲さんは何か聞いていますか?」
「救急が駆けつけた時点では、相当の重傷で、頭を打ったのか意識もない状態だった、とは聞いてる」
 その後のことは管轄外だから知らないな、と南雲は軽く肩を竦める。とはいえ、死んだとは聞いていないし、詳細を知りたければ後で聞くことはできるだろう、と付け加えて。
 八束は内心でほっと胸を撫で下ろす。自分が気絶している間に容態を悪化させてしまった、なんてことになれば完全に八束の責任だ。二度と誤ってはならない、と思った矢先の出来事だっただけに、正直気が気ではなかったのだ。
 南雲は、テディベアを顔の前から降ろして、大きく万歳させながら言う。
「しかし想像が外れたな。倒れて大怪我を負ってる奴を、まじまじ見ちゃったショックで気絶したとか、そういう話かと思ってたんだけど」
「前部署から、そういう方と接することは多かったですから。痛ましいとは思いますが、それでわたしが判断を誤ることはあってはならないと思っています」
「……わー、めっちゃ真面目ぇー……」
 南雲の薄い唇から、率直な感想がもれる。「真面目」に「馬鹿」とか「クソ」とかつかなかっただけ、前部署の上司よりは控えめな評価だな、と八束は真正面から、それこそ言葉通りに「真面目な」顔でその言葉を受け止める。
 そんな八束の反応を、南雲がどう受け止めたのかはわからないが、ピンクのテディベアを一旦机の上に置いて、眉間の皺を深めて問いかけてくる。
「でも、それなら『どうして』気絶してたん?」
 どうして。そう、それは八束にとっても重要な問題だ。
 けれど、思い出そうとすると――。
 ぶわっ、と。全身に鳥肌が立ち、体の底が冷えるような感覚。それどころか、体の内側を冷たい指が這うような気色悪さすらも覚えて、両腕で己の体を抱く。雨で冷えただけとは思えない、嫌な感触に震えずにはいられない。
 八束の異変に気づいたのか、南雲が少しだけ目を見開いて――今までずっと細めていたから八束も気づかなかったが、意外と大きく、いやに淡い色の瞳をしている――不安げな声を出す。
「……だいじょぶ?」
「だ、大丈夫、ですっ。ただ、その……」
「うん」
 前に座っている南雲は、八束を急かすこともなく、己のマグカップを引き寄せて、珈琲をすする。それを見て、八束もつられるようにマグカップを手にとって、ちまりと舐める。牛乳と砂糖がたっぷり入った温かな珈琲は、甘さとほろ苦さがバランスよく絡み合っていた。口の中に広がる香りからするに、相当いい珈琲なのだろう。
 後味を感じながら、一息。その一息で、ほんの少しだけ緊張がほぐれた。その間隙を縫って、一気に言葉を吐き出す。
 
「ゆ、幽霊を、見たんですっ!」
 
 南雲は、ぽかん、という擬音がよく似合う顔をして。
「……は?」
 そんな声が、唇から零れ落ちる。
 八束は慌てて、カップを置いて両手を振る。
「し、信じられませんよね! ありえませんもんね、幽霊なんて! ごめんなさいっ、わたし、気が弱ってたのか、疲れてたのか……! ああああ、でもっ、そんな、ありもしないものにびっくりして気絶するなんて、ほんと情けないですよね……!」
 もはや、自分でも何を言っているのかわからないけれど、とにかく、幽霊なんて非現実的なものに怯えたあげく、気絶までしていたというのは、情けないにもほどがある。南雲もきっと、失望しただろう――と、思ったのだが。
 前に翳した手越しに南雲を見てみると、南雲は相変わらずの仏頂面ながら、どこか思案げにこめかみを指で叩き、ぼんやりとした口調で言った。
「いやいや、んな頭っから否定しないで、まずは、見たもんをそのまま教えてくれないかな。もしかすると、早速、俺らが動くべき案件かもしれないから」
「え?」
 今度は八束が疑問符を飛ばす番だった。
 俺らが動くべき案件。
 その言葉の意味が、すぐには、理解できなかったのだ。南雲もそれに気づいたのか、テディベアの頭に顎を乗せて言う。
「わかんない? ここの名前は『神秘対策係』」
 ――神秘。人間の持つ、通常の認識や理論を超越していること。
 ――対策。事件の状況に対応するための方法、もしくは手段。
 八束の背筋に、冷たい汗が伝う。
 最初にこの部署の名を聞かされた瞬間から、何とはなしに嫌な予感はしていたのだ。ただ、詳細については、結局知ることができないまま、ここまで来てしまった。
 来てしまった、けれど。
「つまり、幽霊や妖怪、超能力、神に仏にえとせとらえとせとら――所謂『オカルト』が関わる事件全般を扱う係なんだ」
 その、決定的な言葉を聞いてしまった瞬間。
 ぎりぎりのところで張り詰めていた八束の意識が、ふつりと、切れた。

01:ワンダーランド・オーヴァチュア(2)

 ざあ、と鼓膜を震わせる雨の音。
 彩度を失ったモノクロームの世界に、八束はたった一人で立ち尽くしていた。雨以外に聞こえてくる音はなく、人の気配もない。全身に降り注ぐ水滴と生ぬるい空気の温度だけが、肌から身の内に染み渡っていく。
 ――ここは、どこだろう。
 見渡してみても、見知らぬ町並み。「知らない」ことそのものが、八束にとっては何よりも恐ろしい。八束が立っているのは灰色の世界の真ん中、いくつもの道が交わる場所だった。
 どこに行けばいいのか。そもそも、どこに行こうとしていたのか。わからない。何もかも、わからない。
 けれど、立ち止まってはいられない、ということだけははっきりしている。
 胸の奥で、誰かが、絶えず急き立てているのだ。前に進め、立ち止まるな、追いつかれるわけにはいかない、と。
 追いつかれる。何に?
 ふと、振り返る。
 振り返って、しまった。
 ぽっかりと穴の空いた双眸を持つ頭蓋骨が。足のない、真っ白な衣を纏う幽霊が。息がかかるほど近くで、八束を虚ろに見据えていて――。
 
「~~~~っ!!」
 
 詰まっていた息を一気に吐き出して、飛び起きる。
 そこで、初めて、自分が眠っていたのだということに気づいた。朦朧とする頭を振り、目をこすって、何とか視界を確保する。
 目に入る景色は、灰色ではない。人気のない町並みでもない。ただ、背の高い棚が立ち並ぶ倉庫然としたこの部屋が「知らない場所」という点は変わりなかった。
 知らない部屋の、知らないソファの上。自分が置かれた状況が、寝起きのぼんやりとした頭のせいもあって、さっぱりわからない。
「ここ、は……?」
 唇から漏れた、ほとんど無意識の呟きに対し、
「待盾警察署」
 予想外にも明確な返答があって、「ふえっ」と間抜けな声を上げてしまう。すると、ソファの背の向こう側から何かがぬっと現れて、八束を見下ろした。
 何か。そう、それが「何」であるのか、すぐには判別できなかったのだ。
 だから、それが髪一つ生えていない頭を持ち、そのてっぺんから顎の先まで土気色をした、死人じみた顔の男であって。そんな男の、血走った双眸に見据えられているのだ、と気づいた瞬間。
 声もなく、気絶していた。
 
「いやー、流石に少し傷つくな」
「南雲くんも傷つくことがあるんですねえ」
「ありありですよ。グラスハートですよ」
「それ、防弾硝子製ですよね絶対」
 ぽつり、ぽつりと。耳に入る言葉は柔らかい響きを帯びていた。鼻をくすぐるのは、慣れ親しんだ珈琲の香りだ。
 八束は、恐る恐る、堅く閉じていた目を開く。今度こそ、夢ではない場所、八束にとっての「現実」で目覚めることができると信じて。
 が。
「あ、やっと起きた。おはよ、元気?」
 ソファの背に腕をかけ、ひらひらと目の前で手を振っているのは、先ほど視認してしまった、土気色の顔をしたスキンヘッドの男であった。黒縁眼鏡の下の細く凶悪な目つきといい、その目を縁取るやたら濃い隈といい、見れば見るほど妖怪然とした顔つきをしている。
 流石に二回目なので恐怖に意識を飛ばすことはなかったとはいえ、息を呑んで硬直し、ただただ男を凝視することしかできない。すると、その後ろから、もう一人、知らない男が顔を出した。
 こらこら、と男のつるりとした頭を小突いたその男は、細められた目が特徴的な、どこか狐を思わせる顔立ちに穏やかな笑みを湛えていて、緊張に満ち満ちていた八束は拍子抜けしてしまう。
「また脅かしてどうするんですか……。怯えてるじゃないですか」
「何度かやれば慣れるかなと」
「きちんと話をする方が先でしょう? すみません、驚かせてしまって」
 男の言葉の後半は、八束に向けられたものだった。八束ははっと我に返り、ぴんと背筋を伸ばして声を張り上げる。
「い、いいえ! わたしは、大丈夫です」
「だいじょぶには見えなかったけどなあ」
 いやに気の抜けた声で言う妖怪男を横目に、後から現れた男は、恐怖に凝り固まっていた八束をほっとさせる、柔らかく人好きのする笑みを向ける。
「いやはや、転属初日から事故に巻き込まれるとは、何とも災難でしたね、八束くん」
 八束もつられるようにへにゃっと口元を緩め、「いえ」と言い掛けたところで、違和感に気づく。
「あれっ、どうして、わたしの名前」
「ああ、申し遅れました」
 男は目を糸のように細め、優雅に一礼する。
「僕は待盾警察署刑事課神秘対策係係長の、綿貫栄太郎と申します。ようこそ、神秘対策係へ」
「え」
 ――神秘対策係。
 警察の一部署らしからぬ奇妙な名の係は、しかし、八束結が本日付で配属となる係であって。
 ソファの上で足を投げ出したまま、これからの上司と相対していたのか。慌てて立ち上がろうとして、体にかかっていた大判のタオルケットが胸元から落ちかけて。
 そこで、初めて、上半身に何も纏っていないことに気づいた。
 いや、上半身だけではない。下に穿いていたはずのスカートも失われていて、凹凸のないぺったりとした裸体に下着一枚という、とんでもない格好であった。
「あ、ええっ!? ど、どうして」
 慌ててタオルケットで体を隠しながら、何とか記憶を手繰り直す。最低でも、八束の記憶が正しければ――八束に限って、記憶が「正しくない」はずはないのだが――気を失う直前までは、きちんと前部署からの仕事着であるスーツに身を包んでいたはずではないか。
 すると、一応目を逸らしてくれていたらしい禿頭の男が、ぼそっと言った。
「服はびしょ濡れだったから、交通課の子に脱がせてもらって、こっちで預かってるよ。風邪引いちゃうといけないから」
「早く言いましょうよ」
「ごめんね?」
 男は、ちょいと首を傾げてみせる。ただ、のんびりとした言葉に対して表情は依然として険しく、虚空を睨む視線は厳しい。もしかして、迷惑がられているのだろうか、と不安になりながらも、タオルケットを胸元に抱いたまま、頭だけを下げる。
「こんな格好ですみません。本日付で待盾署刑事課神秘対策係に配属になりました、八束結巡査です。これから、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします、綿貫係長。と……」
「こっちは、主任の南雲彰くんです。うちの、今のところ唯一の係員ですね」
「よろしく」
 そう言って手を挙げる南雲は、それでも眉間の皺を崩さず、じっとりとした目つきで八束を見下ろす。
 ――これは、もしかしなくとも、怒らせてしまったのではないだろうか。
 さあっ、と頭の上から血の気が引く。
 ここまで来れば、流石に八束も目の前の男が生きた人間であり、自分の直属の「先輩」であるという程度までは理解が及んでいる。
 いくら寝ぼけていたからといって、その先輩を夢から飛び出してきた妖怪と誤認して勝手に怯え、それどころか気絶までしたのだ。それが、とびきりの失礼に値することくらい、八束にだってわかる。
 気づいてしまったからには、黙っていることなんて出来なくて。八束は勢いよく、南雲に向かって頭を下げた。
「南雲さん、先ほどはすみませんでした!」
「え、何が?」
 きょとん、という効果音が聞こえてくるかのごとき動きで、南雲が再び首を傾げる。仏頂面だけはそのままに。
 怒られるとばかり思っていただけに、八束も言葉を失ってしまう。
 しばし、奇妙な沈黙が流れ、やがて、南雲がぽんと手を打った。
「もしかして、怒ってるように見えた?」
「はいっ」
 正直に頷くと、南雲は無造作に手を伸ばし、八束の頭を軽く叩いた。その手は大きく、ひんやりとしてこそいたが、それでも生きた人間の感触をしていた。当然ではあるが。
「悪いね、俺、いつもこういう顔なんだ。色々言われ慣れてるし、別に気にしてないよ」
「そう、なんですか?」
「そうなの。だから、まあ、慣れて」
 慣れて、と言われても。
 何ともいえずに南雲を見上げるものの、南雲は暗い顔で八束の頭をぐりぐり撫でるばかりで、やはり、何を考えているかはさっぱりわからない。声のトーンや仕草から判断するに、怒っていない、というのは嘘ではなさそうだが。
 そんな二人を苦笑混じりに眺めていた綿貫は、南雲が手を離したところで、声をかけてきた。
「さて、八束くんも、落ち着きましたか?」
「は、はい、何とか」
 多少の混乱は残っているものの、撫で回されているうちに当初の恐慌は収まった、と思う。小さく頷くと、綿貫はほっと息をついてみせた。
「しかし、無事でよかったです。事故現場に倒れていたと聞いた時には肝を冷やしましたよ」
「事故現場に、倒れていた……?」
「ええ。覚えていませんか?」
「いえ」
 ――そう、覚えていない、わけではない。
 確かに、気を失う前の最後の記憶は、雨の中、横倒しになっていたバイクと、倒れ伏す運転手と見られる男の姿だった。それに、もう一つ、記憶にちらつく白い影。
 ぞくり、と。全身に走る怖気に、タオルケットを強く抱きしめる。
 違う、思い出してはいけない。あれはただの見間違いであって、何も恐ろしいものではない。
 そう思いたいのに、たぐり寄せた記憶に焼き付いた何者かが、じっと、こちらをのぞき込んでいる。眼球のない、吸い込まれそうな闇色の二つの穴が、八束を捕らえて離そうとしない――。
「積もる話は、着替えてもらった後の方がいいんじゃないすか? そのまんまじゃ、お互い話しづらいでしょう」
 突然、投げ込まれる、いやに明るい南雲の声。その声に導かれ、記憶の奥深くに落ちかかっていた意識が浮上し、白い影の幻影も目の前から掻き消える。
 顔を上げると、何かが顔に覆い被さってきた。慌てて顔にかかったものを剥がすと、目の前に立っていた南雲が、八束の手元を差す。
「それ、交通課の子から借りた服。サイズ大きいかもだけど、濡れてるのよりは幾分マシかと思って」
 手にしたものをよくよく見れば、それは柔らかな素材のブラウスに、紺のスカートだった。きっちりとアイロンがかけられた服は、ほのかな温もりを八束の指先に伝えてくれる。その温もりが、今は、何よりもありがたかった。
「あ、ありがとうございますっ」
 南雲はただでさえ細い目をさらに細め、「ん」とだけ言って、のっそりと八束に背を向ける。綿貫も八束が服を受け取ったのを見届けると、軽く手を振る。
「それでは、我々は外で待っていますね。着替え終わったら声をかけてください」
「はい、わかりました!」
 背筋を伸ばして返事をすると、綿貫は満足げに微笑み、南雲を連れて部屋の外に出て行った。
 きいぃ、と蝶番の軋む音、次いで扉の閉まる音が響き、後には静寂が残る。
 ただ一人、残された八束は、改めて部屋を見渡す。圧迫感のある背の高い棚に収められているのは、ほとんどが書籍と書類のようだった。硝子張りの戸越しに確認できる本のタイトルが、『UFOの謎』だとか『妖怪大全』だとか、およそ警察署とは思えないラインナップであるのが、気にかかるところではあったが。
 そして、八束が寝かされていたソファのすぐ後ろには、作業用と思しきデスクが三つ置かれている。そのうち、手前の一つ、パソコンのディスプレイが置かれただけの机が、今日から八束の席となるのだろう。それは言われるまでもなくわかる。
 しかし、正面に置かれたもう一つの机の上は、一瞬、ディスプレイの姿すら確認することができなかった。そこに積み上がっているものが何なのか、八束が理解するまでには数秒を要した。
「……くま、さん?」
 そう、八束の見間違いでなければ、それらは、間違いなく、無数のテディベアであった。
 机の上を占拠している熊――それに混ざって兎や犬、猫にペンギンの姿もあるが――は、色とりどり、模様も様々で、一つとして同じものはないように見えた。
 ――もしかして、手作りなのだろうか。
 仮にそうだとしても、誰がこんなに大量のテディベアをはじめとしたぬいぐるみを作り、机の上に積み重ねているのだろうか。そもそも、これほどまでのぬいぐるみを、一体何に使うというのだろう。
 しばし、そのまま硬直していた八束だったが、ふと、自分が上半身裸のままであったことを思いだし、顔を赤くする。実際に誰に見られているというわけでもないが、無数のテディベアの視線に晒されていると思うと、何となく気恥ずかしくなってしまう。
 とりあえず、さっさと着替えてしまうべきだ。外で待っている二人のためにも。
 そう思いながらも、ついつい、そちらに気を取られないわけにはいかない。ただ、その分、他のこと――例えば、先ほど目にした白い影のことを考えずに済んだのは、ありがたかった。

番外編:かぼちゃのタルト

「ああ、アキ? 私、今日用事が入っちゃって、タルト、取りに行けなくなっちゃった。なっちゃんは暇みたいだから、直接渡してくれるかな。なっちゃんに待ち合わせ場所、伝えとくから」
 受話器から一方的に流れてくる言葉に対し、アキはうんうんと相槌を打つので精一杯だった。高校時代からの友人であるチエは、いつだって、アキのスローテンポとは相容れない。
 それでも、何とかチエの言葉を頭の中で噛み砕いて、飲み込んで。
「……へっ?」
「じゃあよろしく。くれぐれも、なっちゃんに変なことするんじゃないよ」
「え、いやいやちょっと待っ」
 がちゃ。つーつーつー。
 そこでチエが待ってくれないことくらい、アキが一番よく知っていたわけだけれども。

   ■   □   ■

 そもそもの、ことの起こりは二週間ほど前。
 菓子作りを趣味とするアキが、多忙の合間を縫って作ったアップルパイ。焼き加減も味も歯ごたえも絶品であったが、一つだけ問題が浮上した。
 調子に乗って、作り過ぎたのだ。
 いくら甘味狂いで底なしの胃袋を持つアキでも、全く同じ菓子を延々と食べ続けるのは流石に飽きる。一人暮らしということで他に食べさせる相手もおらず、甘味好きの仲間であるチエに、味見も兼ねていくらか譲ったのである。
 すると、数日後、チエから連絡が来たのだ。
「同僚の子が、あのパイ気に入ったみたいだから、また作って」
 ――と。
 もちろん、アキは快諾した。作った甘味を美味しく食してもらえた、というのは何にも勝る幸せである。というわけで、仕事休みにパイをこしらえて、チエに渡しに行った。
 そこで。
「おーい、アキ、こっちこっち」
 待っていたのは、手を振るチエと、もう一人。アキが初めて見る女だった。
「え、ええっ?」
 女は何故か驚きの声をあげ、目を白黒させてアキを見上げている。アキは、どうしてそんなに驚かれたのかさっぱりながら、そちらを凝視する。
 アキよりも頭一つ以上背の低いその女は、肩にかかる長さの柔らかそうな髪をチョコレート色に染めていた。くりくりとした目や小さな唇には小動物的な愛嬌があるものの、目を見張るような美女ではない。
 なのに、ただただ、彼女を見つめることしかできずにいた。自分でも、理由がわからないまま。
 そこで、二人の間に「何ぼうっとしてんの」とチエが割って入った。やっと意識が逸れたことに、何故か無性にほっとした。
「この子が、私の同僚のなっちゃん」
「は、はじめまして、モリナガ・ナツキです。あなたがアキさん、ですか?」
「うん、ナグモ・アキラ。好きに呼んでくれればいいよ。君のことはナツキちゃんって呼んでいいかな」
「はいっ。よろしくお願いします、アキさん」
 ナツキはぴんと背筋を伸ばし、やけに緊張した声で言う。何かまずいことをしてしまっただろうか、と不安になりながらも、意識して笑みを浮かべる。自分が愛想を欠いて、相手を怖がらせていては世話はない。
「パイ、食べてくれてありがと。喜んでもらえてたみたいで嬉しいよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。お店屋さんのより美味しいお菓子、初めて食べました」
「そう言ってもらえると俺も本望だな。お菓子、好きなの?」
「はい。食べるの専門ですけど」
「はは、俺もほんとは食べる方が好きなんだ」
 言葉を交わしているうちに、やっと、本来の調子が戻ってきた。
 初対面の女の子を前にして緊張したのだろうか、と苦笑しつつ、紙袋に入ったパイを手渡す。その瞬間、ナツキの表情がぱっと笑顔になる。その、花が咲くような笑顔が目に入った瞬間、胸が、激しく高鳴った。
 おかしい。何かがおかしい。無邪気に喜ぶナツキの笑顔から目が離せない。
「ありがとうございます、アキさん! 嬉しいです」
 弾む声が、明るく澄んだ目が、自分に向けられているのだと。考えた途端、更に心拍数が上がってしまう。一体、どうしてしまったのだろう。かろうじて残された冷静な思考をよそに、脳の大半を占めるのぼせた意識が、勝手に言葉を紡いでいた。
「他に食べたいものがあったら、遠慮なく言ってよ」
「えっ、悪いですよ。お忙しいって聞いてますし」
「俺、菓子作りが息抜きみたいなもんだから。テーマがあった方が楽しいし」
 決して、嘘ではない。仕事が忙しいのは事実だが、忙しければ忙しいだけ、甘味にかける情熱は燃え上がるというものだ。その本気加減が伝わったのか、ナツキは「でも」と言いかけた言葉を飲み込んで、微笑む。
「それじゃあ、一つ、アキさんにお願いしてもいいですか?」

   ■   □   ■

 そうして、交わした約束を果たすのが、今日だったわけだ。
 アキは受話器を置いて、つい、意味もなく部屋の中を歩き回ってしまう。
 本来の予定では、チエがナツキを連れてきて、三人で他愛の無い話をしながら菓子をつつく会、になる予定だった。けれど、チエが不在で、二人で会うとなると話が変わってくる。
 いや、何も変わらないだろ、と冷静な自分がツッコミを入れる。チエがいようといまいと、ナツキとはこの前と同じように他愛の無い話をして、作った菓子を渡せばいい。それだけではないか、と。
 しかし、それだけでいいのか、と頭のどこかが囁くのだ。ナツキと再会して、ただ話すだけで満足できるのか、否、そんなはずはない。
 だが、それなら、何だというのだろう。アキにとって、ナツキはこの前初めて会った、友達の友達。それ以上ではない、はずだというのに。
 ナツキの顔を思い出すだけで、動悸がして頭がくらくらしてくる。自分の感情が自分で制御しきれないなんてどうかしている。一体どうしたというのか。
 そんな自問自答を何十回と繰り返してみて、ふと、ある仮定が生まれる。

 ――これが、恋ではなかろうか。

 アキは、恋を知らない。
 二十五年を生きてきて、恋人を持ったことは一度や二度ではない。それこそ大学時代はチエが「今付き合ってるのはどんな子?」と聞いてくる程度には、恋人に困っていなかった。
 が、アキがそれを望んだことは一度も無い。
 望まれたから恋人として付き合って、向こうが冷めたら別れるという繰り返しで、アキ自身が「恋」を自覚したことは一度たりともなかった。自分には、そういう機能が人並みに備わっていない、とすら思っていた。
 だから、この異常な感情に、今の今まで名前をつけられずにいた。
 果たして、これは、本当に恋なのだろうか?
 もう一度、ナツキと向き合って確かめたい、という気持ちと、確かめるのが怖い、という気持ちとがせめぎあう。この落ち着きを失った心が、ナツキを前にして暴走しないとも限らないのだから。
「だいじょぶ。自制心はある方。多分」
 既に「多分」という辺り、自信のなさが浮き彫りになっているが。
 それでも、今日は来てしまって、きっとナツキは時間通りにやってくる。待たせるわけにはいかない。約束の菓子を詰めた袋を抱えて、部屋を飛び出す。
 胸のざわめきは、止まなかったけれど。

   ■   □   ■

 結局、待ち合わせの場所についたのは、アキの方が先だった。というより、三十分早く到着した。気が急いているにもほどがある。
 早く着いたはいいが、待つ側というのはそれはそれで、悪い想像ばかり浮かんでは消えていく。例えば、ナツキがすっかり約束を忘れてしまっている、だとか。例えば、自分が待ち合わせの場所や時間を勘違いしている、だとか。例えば、実はナツキがアキに会うのを嫌がっている、だとか――。
 そうだ、嫌われている可能性だってある。菓子作りの腕を買われてはいても、人格的に好かれていないことだって、十二分にありうる。
「どうしよう……」
 そうだったとしたら、二度と立ち直れそうにない。駅前のベンチで頭を抱え、この世の終わりを見たかのような顔で俯いていると、ふと、視界に影が差した。
「アキさん、お待たせしました」
 降ってきた声に、はっと顔を上げる。
 そこに立っていたのは、柔らかな笑顔を浮かべたナツキだった。その笑顔を見た瞬間に、胸に渦巻いていた悪い想像はすっかり霧散して、代わりに、温かなものが胸いっぱいに広がる。

 ――ああ、これが、恋なんだ。

 自然と、確信していた。今までの激しい動悸や眩暈が嘘のようだ。今まで経験したどんな感情よりも優しく、温かなもの。それがナツキの顔を見ただけで、湧き上がってくる。
「アキさん?」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫ですか? お仕事続きで疲れてませんか?」
 こくん、と首を傾げたナツキの、大きな目がアキを映しこんでいる。とんでもなく間抜けな顔を晒していたと気づいて、つい、頬が緩んでしまう。
「ん、ありがと。俺はだいじょぶだよ。はいこれ、頼まれてたタルト」
 手渡した袋の中には、ナツキのリクエストによるかぼちゃのタルト。
 鮮やかな黄色のかぼちゃペーストにいい具合の焦げ目がついていて、目で見るだけでも楽しめる。袋を覗き込んだナツキは、ラップに包まれたそれを見て、顔をほころばせる。
「わあ、美味しそう」
「俺の好みで作っちゃったから、ナツキちゃんのお口に合えばいいんだけど」
「えへへ、どんな味なのか今から楽しみです!」
 その笑顔が何よりも眩しくて、アキは眼鏡の下で目を細める。
「ね、この近くに、美味しいケーキが食べられるカフェがあるんだ。そこで、お茶でもしない?」
「本当ですか? 是非ご一緒させてください」
「よかった。じゃあ、行こうか」
 本当は、すぐにでも手を取って駆け出したかったけれど。
 まずは、もう一度出会えたという喜びを噛み締めて、二人並んでの一歩を踏み出す。

「いってきます」の魔法

 きらきらと、世界が崩れて、二人の上に降り注ぐ。
 雪のように。粉砂糖のように。
 アキは、ナツの手を握り締めて、ナツを見つめた。ナツは、笑っていた。最初に「おかえり」と言ってくれたあの日と同じ笑顔で。
 胸の痛みは消えない。けれど、アキも、今度こそ笑うことができた。
「アキさんが辛い時には、わたしが笑顔で『おかえりなさい』って言って」
「その後は、必ず『いってらっしゃい』って送り出してくれる。そうだよな、ナツ」
 ナツはこくりと頷いた。大きな目が、アキの、かつての姿を映しこんでいる。笑顔を絶やすことなく、幸せが永遠に続いていくことを信じていた頃の、自分を。
 今の自分が、かつてに戻ることはできない。ナツと過ごした日々を、本当に取り戻すことなんか、できやしない。
 ただ、あの頃知った「幸せ」を、再び追い求めることは、できるはずだ。幸せだった日々の全てを思い出せた、今なら。
 だから、優しい思い出も、胸の痛みも、何もかもを抱えて、アキはナツに告げる。
「長い間、待っていてくれてありがとう」
「もう、待たなくて大丈夫かな」
「ああ、大丈夫だ」
「嘘つき。本当は、寂しいくせに」
 ナツの指が、アキの鼻をつつく。アキは、笑おうとしたけれど……、その顔は、くしゃりと歪んでしまった。鼻の奥がつんとして、飲み込んでいた涙が溢れそうになる。
「寂しい。寂しいよ」
 正直に言いながらも、何とか、笑顔を作る。
「でも、最後くらいは、強がらせてほしいな」
「えへへ、そんなアキさんが、大好きだよ」
 ナツは嬉しそうに笑って、飛びつくようにキスをした。アキは、そんなナツの体を抱きしめて、その唇の味を確かめる。甘くて少しだけほろ苦い、キスだった。
 そして、手を、放す。
 放したナツの体が、世界と同じように、欠片となって闇の中に溶けてゆく。再び目に滲みかけた涙を袖で拭いて、アキは、唇の端を上げる。きっと、とんでもなく不細工な笑顔になってしまっているだろうけれど。
 それでも、その言葉だけは、笑って言いたかったのだ。
「いってらっしゃい、アキさん」
 もうどこにも見えないナツの声が、優しく響いて。
 アキは、甘く幸せな過去に、笑顔で告げた。

「いってきます」



 ――HAPPYSWEETS HYPERSOMNIA / AWAKENING.

バースデイ・ケーキ

 スポンジにクリームを塗るのは、アキの仕事だ。焼きあがったスポンジが、真っ白なクリームで覆われていく。そうして、搾り出したクリームで飾りつけをして、最後の仕上げをナツに任せる。
 ナツは、ひとつ、またひとつと、苺をケーキの上に載せていく。純白のケーキが、赤い実に彩られていくのを見つめながら、アキは、思い切って口を開いた。

「ごめん」

 ナツが、びくりと肩を震わせる。その言葉を、恐れていたようにも見えた。けれど、どうしても言わなければならないことだ。
 そして、掠れる声で、何とかこれだけは言った。

「独りで死ぬのは、怖かっただろ」

 ナツは、最後に残った苺を一つ、ケーキの真ん中に置いた。それから、アキを振り向いて、寂しげに笑った。
「怖かった。怖かったけど、それよりも、アキさんに何も言えなかったのが、辛かった。アキさんが独りになっちゃうのが、辛かった」
 その言葉に、胸の痛みが蘇る。けれど、その痛みも受け入れて、真っ直ぐに、ナツを見据える。
 あの夜、はっきりと思い出した、胸の痛みの正体。
 それは「今日、ナツが殺された」という事実だった。
 この日、ナツのために一人でケーキを作っている間のこと。壁一つ隔てた向こうで、音もなく、悲鳴を上げることもできずに、ナツは無残に殺されていた。
 それからのことを、今のアキははっきりと思い出すことはできない。ただ、ナツと同じ場所に行くまでの時間を、意味もなく浪費しているだけだったのは、間違いない。
「だから、アキさんに後輩ができて、少しずつ今までの仕事に戻れるようになって、本当に安心したの。ちょっと妬けちゃうけど、でも、今のアキさんが少しでも前を向けるなら、その方がずっといい、って」
 そう、少しずつ。本当に少しずつではあるけれど、変わらなければならないと、思ったのだ。自分は、独りで生きているわけじゃないと教えてくれる人が周りにいてくれたから、アキはかろうじて「生きて」いられた。
 けれど、ふっと、ある日突然糸が切れてしまった。色々と、張り詰めていたものが切れた瞬間に、アキの意識は、現実から完全に乖離してしまった。
「アキさんは、素敵なお菓子を作れるし、お仕事だって一生懸命頑張ってるし、いつでもわたしを助けてくれる。でも、何でも一人で抱え込みすぎちゃって、いっぱいいっぱいになっちゃうのも、知ってたから」
「それで、俺を、ここで待っててくれたのか」
「そう。それが、わたしがアキさんにできる、唯一のことだから」
 ナツが殺されてから、記憶が正しければ六年。
 既にナツと暮らした部屋は引き払っているし、ナツと一緒にいた頃の痕跡は、何もかも捨て去った、そのはずだった。だから、きっと、この部屋は、ここにいるナツは、アキが見ている幻か何かなのだと思う。
 それでもいい、それでもよかったのだ。
 幻であろうと、何であろうと。今、折れそうになっていたアキは、かつて約束してくれたナツの「おかえり」に、確かに救われていたのだ。
「ありがとう、ナツ。それから」
 そっと、手と手を重ね合わせる。初めて二人で作った、苺のショートケーキを前に。
「誕生日おめでとう」
 あの日、言えなかった言葉を、贈る。
 その瞬間、二人の世界に、亀裂が走った。