2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

少年と少女と影、そして

 それから、セイルとスノウは部室のソファに並んで座り、色々なことを話した。
 と言っても、スノウにせがまれて、セイルが学校や寮の話をスノウに聞かせるばかりではあったけれど……話しているうちに、セイルはどんどん妙な気分になっていく。
 その思いは、部室を後にした今になってもぐるぐると渦巻き続けている。
 ――スノウは、一体何者なのだろう。
 セイルの話を、全てが新しいものであるかのように楽しそうに聞いているが、突然セイルの知らない難しい言葉を使ってみたり、スノウなら知らないだろうとセイルが話してみたことに対して、セイル以上の知識を披露してみせたりした。
 学校に行っていないという言葉も気になっている。それならば、普段は何をしているのだろう。日焼けのあともない真っ白な肌に、柔らかい指を見ていると、もしかするととても育ちのよいお嬢様なのかもしれない。
 スノウを見上げると、スノウは真っ直ぐに前を向いて歩いている。そのすっと整った輪郭が、西からの光に微かに赤く染まっていた。
 ぐるぐる考え続けていても答えの出ないことだから、セイルは思い切って口を開く。
「あのさ、スノウ」
「なあに?」
 スノウはきょとんと目を見開いてセイルを見る。
「スノウは、学校に行ってないって言ってたけど、それなら普段何してるの?」
 セイルの問いに、スノウは少しだけ微笑んで言った。
「わたし? わたしはね、神殿で暮らしてるの」
「神殿って、センツリーズのユーリス神殿?」
「そう。わたし、お父さんとお母さんがいないの。それで神殿の人に拾われて、色んなことを教わってたの」
「あ、ご、ごめん。悪いこと、聞いたかな」
 セイルは慌てて言ったけれど、スノウは「気にしないで」と変わらずに微笑む。
「神殿の皆がいてくれるし、あの人が色んな話をしてくれたから、寂しくないの」
「あの人って、さっきの黒い服着てた男の人だよな。あの人も、神殿の人なの?」
 そうは見えなかったけど、と思いながらの問いかけに、スノウも「ううん」と首を横に振った。
「あの人は違うよ。わたしも、会ったのはついこの前だから」
 セイルは、スノウの言っていることがさっぱりわからなかった。難しいことを言われたとは思わない、ただ純粋に意味がわからなかった。今まで色々な話を教えてくれたというその相手に、「ついこの前会った」というのはおかしいではないか。
「どういう、こと?」
 セイルが改めて問う。スノウは、少しだけ困った顔をしながら唇を開いたが、その唇から声が放たれる前に、スノウの瞳がついとセイルからその背後に向けられる。セイルも視線につられてそちらを見れば、セイルの足元に伸びる長い影の延長線上に、黒い男が立っていた。
 スノウを連れてきたという、あの男だ。
 スノウは真っ直ぐに男を見据えたまま、何も言わない。その青い瞳に宿った戸惑うような色の意味は、セイルにはわからなかったけれど……その意味を深く考える前に、セイルはスノウを庇うように男の前に立ちはだかった。
 どうしても、この男は気に食わない。スノウは悪い人ではないというし、実際に「悪い」わけではないのかもしれないが、セイルの心を否応無くざわめかせる。それは、この男を見る瞬間のスノウの表情に、一抹の影が走るからかもしれない。
 男は微笑を浮かべたまま、それこそ辺りを包む空気のような冷たい色をした目でセイルを見下ろしている。セイルは両足に力を入れて、男を睨み返す。すると、男はふと唇を開いた。
「……なあに、さっきからそんなに俺様のことが嫌い?」
 その声色は低くざらついていたが、思ったよりもずっと穏やかで、セイルは拍子抜けしてしまう。男は苦笑して一歩歩み寄ってきたかと思うと、セイルの頭を帽子の上からぽんぽんと軽く叩いてみせる。
「別に取って食いはしないわよ、お前さんのことも、スノウのこともね。だからそんなに睨みなさんな」
「や、やめろよっ」
 セイルは慌ててその手を振り払いながらも、先ほど抱いたイメージと違う男の反応に戸惑っていた。さっき見たときには、もっと冷たく、無機質な感じに見えたというのに。男はこちらを見上げるスノウに対しても、セイルにしたのと同じようにぽんぽんと優しく叩いた。
 スノウが、小さな声で何かを囁く。その言葉はスノウの横にいたセイルには聞こえなかったけれど、男には確かに聞こえていたのだろう。大げさに肩を竦めて溜息をつく。
「それはそこのガキにお願いすりゃいいだろうに。そこまでは俺様も請け負いかねるかなあ」
 スノウはひゅっと息を飲み、唇を噛んで俯いた。男は不可思議そうに首を傾げ、目を見開いてスノウの顔を覗き込む。
 すると、スノウはぱっと顔を上げたかと思うと、勢いよく男の頬を張った。
 ぱあん、という高い音が、冷たい空気の中に響いた。
「馬鹿っ! もう知らないっ!」
 セイルが目を丸くしていると、スノウは男に背を向けて駆け出した。セイルは「待って!」と叫んだが、立ち止まることもなくスノウは路地を曲がっていってしまった。慌てて後を追おうとしたセイルを、男の声が引き止める。
「心配すんな、スノウは迂闊に離れたりしないから。どうせすぐそこでふて腐れてるさ」
 すると、セイルからは見えない路地の向こうから、小さく「ふて腐れてないもん、馬鹿」という声が聞こえてきた。ただ、その声が微かに湿っているように思えて、セイルはどうしていいかわからなくなる。
 叩かれた頬をさすりながら、セイルの横に立ってスノウが消えた方向を見ていた男は、淡々と言った。
「泣き顔は見られたくないってさ。しばらくは放っておいてやってくれ」
「え?」
「スノウが」
 まるで、スノウの心を読んだかのような言葉に、セイルは驚いて男を見上げた。男はスノウに叩かれる前と変わらぬ薄い笑みを浮かべている。
 一瞬不気味に思ったが、そういえば今までのスノウも言葉を放たない男の意図を正確に受け止めていたようだった。それはセイルの目から見る限り魔法なんかではない、もっと違う「繋がり」のように見えた。
 戸惑いながらも、セイルは一つ一つ、疑問に思ったことを男に聞いてみることにした。先ほどまではただ一方的に嫌な奴だと思っていたけれど、今は不思議と素直に聞けた。
「スノウ、さっき何て言ってたの?」
「ん、大したことじゃねえよ。『一緒にいて』ってさ。寂しいってのはわからないでもないけど、何も俺様じゃなくてもいいと思わない?」
 何を言っているのだろう。
 セイルは思う。
 この二人の関係をよく知らないセイルにだって、言葉の意味も、何を求めているのかもすぐにわかる明快なお願いだ。セイルが理解できなかったのはただ一つ。
 スノウがそう言った理由と真意を、何故「この男が」わかっていなかったのか、という一点だ。
「それは、殴られても仕方ないって」
「何故?」
 男はきょとんとした表情で首を傾げる。その問いに、更にセイルは混乱した。
 セイルの目の前にいるのは頭一つ以上背の高い大人の男だというのに、そんな当たり前のことに対して「何故」と投げかけてくるその姿を見ていると、実家にいる幼い自分の弟を見ているような錯覚に陥る。
 一体、どう言えば伝わるのだろう。少ない語彙の中から何とか言葉を拾い集めて、セイルは口を開く。
「スノウはさ、『あなた』と一緒にいたかったんだ。そういうのって、誰でもいいってわけじゃない。なのにそうやって言われたら、傷つくに決まってる」
 見上げてみれば、口元には薄く笑みを浮かべながらも、男のセイルを見下ろす視線はどこまでも真っ直ぐだった。男は顎に手を当てて、少し考えるような仕草を見せてから、ぽつりと呟いた。
「そうか、そういうものか」
「そういうものだよ。あなたは思わないんだ?」
 セイルは逆に男に問うてみる。すると、男は「はは」と小さく笑って言った。
「俺様、致命的に人の気持ちがわからんのよ。それでいつもあいつを困らせちまう」
 実際に叩かれたのは初めてだけど、と男はへらへら笑いながら頬をさする。
「言われれば頭で理解は出来るけど、どうしても何かが足りない。難しいわね」
 そう嘯く男の姿を、セイルは不思議なものを見るように見上げることしか出来なかった。
 それは、セイルが今まで見てきたどんな大人とも違う。いや、大人と限ることは無い、どんな「人」とも違った。セイルにもわかる、この男は人として大切な何かを決定的に欠いていた。
 そんな男に、どうしても聞いてみたくなって口を開く。
「あのさ」
「なあに?」
「スノウは、あなたのこと大切だって、『お兄さん』だって言ってたけど。あなたにとって、スノウって何なの?」
 男は「そう来たか」と笑って、今度は一抹の躊躇いすらなく、きっぱりと言った。
「スノウは妹のようなもん。下手すると妹よりもずっと近しい存在だ」
「だけど、会ったのはついこの前だってスノウは言ってた。それって何か変だよ」
 スノウも、この男も。何をもってそう言っているのか、セイルには判断できない。まるで理不尽な謎かけをされているようで、セイルは思わず唇を尖らせる。すると男はセイルの頭をもう一度帽子の上からぐしゃぐしゃやった。
「わからなくていいさ、そういう関係もあるってことだ」
「うー、やめろってば!」
 ていっ、ともう一度男の手を跳ね除けると、男は楽しそうに声を出して笑ってみせた。
「ガキんちょにはこのぐらいの扱いがちょうどいいでしょ」
「俺はガキじゃないっ、セイルって名前があんだからな!」
 むきになって反論すると、男は「そうか」とぽんと軽くセイルの頭を叩き、穏やかな声で言った。
「失礼だったな。悪かった、セイル」
 その言葉が胸の中にすとんと落ちてきて、セイルは目を丸くして男を見上げてしまった。
 やはりこの男とスノウは似ている。そう、セイルは思った。同じ場所に立っていながら違う世界を見ているような目つきとか、難しいことを言っているようで、時々セイルにとって当たり前のようなことをわかっていなかったりとか。
 それに、セイルの名前を呼ぶ時の響きとか。スノウと男の声は、不思議と暖かくて、少しだけくすぐったい。
「あ、そうだ。あなたの名前も教えてよ。俺だけ名乗るのも、何か不公平だろ」
「ああ、俺か」
 男は少しだけ、その笑みを苦いものに変えた。
「俺様には、名乗れる名前が無いのよ」
「名前が無い、の?」
「だから好きに呼んでくれ。呼び名が無いのは確かに不便だ」
 そんなことを言われても。セイルはすっかり困ってしまった。スノウは普段あなたを何と呼んでいるのか、と問うても男は「呼ばれてる名前はあるが好きじゃない」と微かに眉を寄せるだけ。
 好きに呼んでいいというのがまた悩む。大体あだ名といえば名前の響き、もしくは見た目からつけるものだと思うのだが、と改めて男の頭からつま先までを眺める。暗い色の髪に、体のほとんどを黒い服で覆っている姿は、初めて出会った時の印象と変わらず、影のような存在感を持っている。
 影か――とセイルは考えて、それから顔を上げて言った。
「ブラン」
「ブラン?」
「影みたいで、スノウと一緒だから、ブラン」
 それは、おとぎ話に語られる名前。遠い昔、ユーリスの聖王スノウに常に付き従っていたとされる騎士の名前だ。あまりに単純に過ぎるかと思ってセイルは不安になったが、男は顎に手を当てる。
「『スノウの影』か……そりゃ光栄だ」
 セイルに言うというよりは自分自身に言い聞かせるように呟いた男は、にっと笑って言った。
「それじゃ、これからブランって呼んでくれ。改めてよろしく、セイル」
「う、うん」
「さーて、と。うちのお姫様はそろそろ機嫌を直してくれたかな、っと」
 提案した「名前」をこうも簡単に受け入れられるとは思わず戸惑うセイルをよそに、男改めブランは軽い口調で言いながらスノウが隠れてしまった路地を覗き込もうとした、が。
「……っ」
 突然、ブランが表情を消し、胸を押さえて小さく呻いた。
「ど、どうしたの?」
「くそっ、スノウ……!」
 セイルの言葉を聞くことなく、ブランはそちらに駆け出した。セイルも慌ててブランの背中を追って路地に飛び込む。
 そして、セイルの目に入ったのは。
 地面に膝をつき、肩で息をしているスノウの姿。
 口元に手を当てて激しく咳き込むと、その小さく細い指の間から赤いものが滴り落ちる。それが血であるとセイルが理解するまでには、数秒を要した。
「スノウ!」
 セイルはすぐさま駆け寄ってスノウの肩をそっと抱くが、スノウは涙を湛えた青い目でセイルを見上げるばかり。言葉を放とうにも、咳と喉からこみ上げてくる血がそれを許さないようだった。
 何が、何が起こったというのか。
 混乱するばかりのセイルの頭の上から、声がかけられる。
「だから無理すんなって言ったじゃねえか」
 スノウを見下ろすブランの声は低く、先ほどまでの笑みも、既にそこにはなかった。
 スノウはゆっくりとブランを見上げる。そして、ひゅうひゅうという苦しげな息遣いながら、小さく何かを囁いた。ほとんど声にならない声ではあったが、この時ばかりはセイルにもスノウが何を言わんとしていたのかわかった。
『ごめんなさい』
 ――だ。
「お前は何も悪くねえ。謝るな」
 ブランは言いながら、スノウの頭に手を置く。スノウは、少しだけ呼吸が落ち着いたのか、口元の血を手の甲で拭って、「だけど」と言いかけたが、それ以上の言葉を聞こうともせず、ブランはスノウの体を軽々と抱き上げてセイルに言った。
「寮まで送っていく。後のことは頼んだわ」
「ブランは」
「……悪いが、俺様は人目につくわけにはいかねえのよ。スノウに迷惑がかかる」
 そんなことない、と呟いたスノウは、ブランの腕を握る手に微かに力を込めたように見えた。けれど、ブランはそれには応えずに冷たい色の瞳でセイルを見据える。
「頼む」
 色々と、ブランに対して言いたいことはある。
 だが、今はただ、苦しそうなスノウを少しでも楽にさせてあげなければならない。そのくらいは、セイルにだってわかった。だから、小さく頷いてブランの横に立って駆け出す。何が何だかわからなかったけれど、ただ、今はスノウのために、走る。
「ごめん。ごめんね、セイル……」
 掠れて消えてしまいそうなスノウの声が聞こえた気がして、セイルの胸が、ぎゅっと一際強く締め付けられた――

少女と少年と夢

 セイルは、スノウの小さな「願い」を快諾してくれた。
 そして、スノウは今、一つの建物の前に立っている。
 煉瓦造りのその建物は、銀のリボンと青い薔薇で賑やかに飾り立てられていても、どっしりとした存在感がある。今は冬休みの期間中とあって、制服を着た生徒の姿は見えないけれど……遠くからは、楽団が練習する、賑やかな音色が聞こえてくる。きっと、寮にいたクラエスという獣人の少年も演奏をしているはずだ、とスノウは思う。
 そう、スノウは今、セイルの通う学校の前にいた。セイルは何故スノウがそんなことを言い出したのか不思議に思っていたのだろう、きらきらと目を輝かせるスノウに対して、首を傾げてみせる。
「そんなに、うちの学校が珍しい?」
「うん。わたし、学校って行ったことないから」
 学校というものがどのような場所かは知っている。蓄積された知識の中にはもちろん「学校」に関する知識もある。けれど、やはり知識を閲覧するのと自らその場所に赴くのは、違う。知識と経験が「違う」ということも、ここに来て初めて実感したことだ。
 セイルはスノウの言葉が意外だったようで、「そうなの?」と目を丸くした。
「クラエスと同じくらいに見えたから、おんなじ学生だと思ってた」
 セイルの言うとおり、スノウくらいの年の少女は普通ならば学校に行くものなのだろう。スノウはいつも、そんな自分と同い年くらいの少女たちの背を、視線で追いかけるだけだったことを思い出す。
 そんな少女たちに、どこか複雑な思いを抱いていたことも、思い出す。
 立ち尽くして、頭の奥に閉じ込めておいた記憶がどんどん溢れてくるのに任せていたスノウは、セイルに軽く手を引かれて我に返る。
「中、入る?」
「え、いいの?」
 スノウの記憶が正しければ、本来学校という施設は関係者以外立ち入ることを許されない場所のはずだ。言葉も無く「彼」に問うてみれば、スノウの考えを肯定する答えも返ってくる。
 だが、セイルは「大丈夫大丈夫」と言ってにっと白い歯を見せて笑った。
「見つかっても、ここの生徒だって言っちゃえばきっとバレない、はず!」
 「はず」というところを強調するのがおかしくて、スノウはくすくす笑ってしまった。セイルの言葉には決して根拠があるわけではないけれど、不思議と安心する。繋いだ手の温かさが、セイルの屈託の無い笑顔が、空っぽだった心にすっと入り込んでいくような、そんな感覚。
 だから、スノウも笑う。
 ひと時だけは、胸の奥に秘めた小さな痛みすらも忘れて。
「連れてってくれる?」
「うん! あ、でも教室は閉まってるかな……なら、部室にいこっか」
「部室?」
 スノウの問いに答える代わりに、セイルはスノウの手を引いて早足に歩き出した。スノウは手を引かれるままにセイルの背中を追って校門から中へと足を踏み入れた。その瞬間、祭の熱気とはまた違う、不思議な空気に包まれる。
 この空気を、よく知っていながら、感じたことは無かった。
 この風景も、毎日のように見たことがありながら、この目で見たことはなかった。
 何もかもがあまりに身近に感じられて、けれど自分にとっては全て初めてであることが、スノウには不思議だった。今までも記憶と経験の齟齬はあったが、ここまでではなかった。その理由を考える前に、セイルはスノウも知っている道を曲がる。
 そこには、校舎とは違う、けれど同じように煉瓦で造られた建物があった。部室棟だ、とスノウは思う。冬休みでも部室棟は賑やかで、祭に今から行く、もしくは行ってきた生徒たちの姿が見て取れる。誰もが自分たちの話に夢中で、セイルとスノウに気づいた様子はなかったけれど。
「スノウ、こっちこっち!」
 セイルはスノウを誘って、一つの扉の前に立つ。
 その扉にかかった看板には、『航空部』と綺麗な文字で書かれていた。
 ――ああ、この文字も知っている。
 スノウは軽い驚きをもって、それを受け止めた。理由は少し考えればわかることだったが、理由がわかった今でも、それが「不思議な気分」であることに変わりはない。
「ここが、セイルの部室?」
「そう。今は部員が俺と部長しかいないんだけどさ」
 セイルはそれが不満らしく、頬を膨らませながらも扉を開ける。初めは薄闇に包まれた部屋の中に何があるのかはわからなかったが、セイルが軽い足取りで奥のカーテンを開けたことで、部屋の中に光が満たされる。
 そして、スノウは息を呑んだ。
 部屋一面に張られた、空や飛空艇の絵と写真。それに、所狭しと並べられた飛空艇の模型。それらを見た瞬間、胸にこみ上げた思いに耐え切れず、スノウは「ああ」と声を上げていた。
 「懐かしい」。この学校に足を踏み入れたときから付きまとっていた、胸を締め付けられるような不可思議な感情に名前をつけるとすれば、それが一番近い。そして、胸を支配していた「懐かしさ」がこの部屋を見た瞬間に溢れ出たのだ。
「スノウ? どうしたの?」
 セイルがスノウの声を聞いて驚いたのだろう、目を丸くして問いかけてくる。スノウは慌てて首を振って、何とか湧き上がる感情を抑えこんで言う。
「ううん、何でもないよ。ね、これ、セイルが作ったの?」
 スノウは部屋の入り口近くに置いてあった、白い船の模型を指して言った。まるで蜻蛉のような、長い翼に細い胴体を持つ飛空艇だ。セイルは「違うよ」と首を横に振って、小さな手で模型を摘み上げた。壊れやすいものを持つように、そっと。
「十年くらい前の部長が作ったんだってさ。俺も、その人を見たことは無いんだけど……これはね、今空を飛んでる船じゃなくて、架空の船なんだ」
 確かにこのような形の船はスノウも知らない。ともすれば風に煽られて折れてしまいそうなほどに華奢な船だが、「飛ぶ」という言葉をそのまま形にしたようにも見える、不思議な船だ。
 いつかきっとこの船が空を飛ぶ日がやってくる。かつての部長はそう言って、この模型の船を残したのだ、と。セイルはまるで自分のことのように、誇らしげに胸を張った。
 だから、スノウは問うてみた。
「それは……セイルの夢でもあるの?」
「うん。だからさ、俺、飛空艇技師になりたい。船乗りもいいけど、空飛ぶ翼を自分で造るのが夢なんだ。この船を自分の手で造れたら、絶対にすごいだろ?」
 セイルの目は、きらきらと輝いている。
 十年前に作られたはずの模型が埃一つ付いていない状態で保管されているのも、代々航空部の部員たちがその「夢」を語り継ぎ、自らの夢として共有しているからだろう。そう思うと、スノウの胸にもぽつりと暖かいものが生まれる。
「いいな、そういうの」
「え?」
「わたし、そんなこと、考えたことなかった。夢とか、なりたいものとか、自分には関係ない遠い話だと思ってた」
 けれど、違うのね。
 口の中で呟いて、スノウは微笑む。
 今までは痛みのような感情を伴って聞こえた「夢」と言う言葉が、今だけはとてもくすぐったくて、暖かい。それを暖かいと思える自分が、とても幸福だと思う。セイルは不思議そうな顔でスノウの瞳を覗き込んでいたが、やがてにっと笑った。
「それじゃ、今のスノウの夢って何なの?」
「わたしの夢? それはね」
 スノウは笑顔で目を閉じる。
 青い空に消え行くぴんと伸びた白い翼。セイルと同じ空を見ていた「彼」の夢がスノウの脳裏に閃いて、消える。その代わりに、瞼の奥に浮かぶのは青い薔薇。銀色の蝶が導く、彼女の目指す場所。
「青い薔薇が咲く場所に行くこと。それが、今のわたしの夢」

騎士と影の不可解

 ライラは、その姿を見つけた時、己の目を疑った。『知恵の姫巫女』と彼女を攫った誘拐犯を探していたのは確かだが、その誘拐犯があっさりと見つかり、しかも呆けた表情で道端に座り込んでいるのだから。
 問答無用で死なない程度に斬り飛ばしてやろうかと思ったが、その前に男がライラに気づいたらしく、顔を上げた。
「や、ライラちゃん。スノウは見つかった? その様子じゃ見つかってないと思うけど」
 昨日と同じ、いたって軽い口調で男は言う。自分を追いかける騎士を目の前にして、本当にどのような神経をしているのだろうか、とライラは怒りを通り越して呆れるしかなかった。
 そう、昨日男に対して感じていた敵愾心は、この時にはすっかり薄れてしまっていた。そんな腑抜けた自分に対する呆れもその中に少なからず含まれていたのは、間違いない。
 とはいえ、看過は出来ない相手。ライラは篭手から槍を取り出し、男に刃を突きつける。
「そんなところで何をしている」
「んー、考え事ー」
 へらへらと笑って男は応じる。ただ、その手が銃の握りにかかっていることにライラは気づいていた。神殿の精鋭たる騎士たちをたった一人で倒したのも頷ける。隙だらけのように見えて、実際にはどこまでも冷静に状況を見極めている。呆けた態度を取っている、この瞬間でさえ。
「ねえ、ライラちゃん」
「気安く呼ぶな」
「減るもんじゃなし、いいでしょうに」
 男は刃を突きつけられた姿勢のまま、当たり前のように言う。
「俺様さあ、そんなにスノウに似てるかな?」
 ライラは、一瞬何を問われたのかわからなかった。
 目の前の得体の知れない男と、ライラのよく知る少女がどうしても結びつかなくて。ライラはわかりやすく形のよい眉を寄せた。
「全く似てない。それはスノウ様に失礼だ」
「そうよねえ。正直、俺様もそう思う」
 女のような口調で言って、男も肩を竦める。一体、この男は何を言わんとしているのだろうか。ライラは胸に湧いてくる苛立ちを何とか押さえ込みながら、男を睨み付ける。
「スノウ様は一緒じゃないのか」
「今は完全に別行動。そうじゃないとスノウに迷惑がかかっちまうからね」
「……?」
「こうやって言っちゃえばよかったのにねえ。どうして俺様まで言葉飲み込んじゃったんだろ。わっかんねえなあ……」
 男の言葉の後半は、ライラに向けたものではなかったのだろう。口元こそ笑みのままだったが、まるで、己に言い聞かせるような呟きだった。ライラを前にしても変わらぬ態度の男に、ライラはもはや苛立つことすら馬鹿馬鹿しく感じ始めてきた。
 ただ、どうしても。これだけは男の口から聞いておかなければならなかった。
「何の話をしているんだ。それに、そのままでスノウ様は無事なのか」
「無事だってわかってるから、別行動なの。それに、俺様が単独で動かないとスノウが危険なのよ」
「……どういうことだ」
 危険、という言葉には、ライラも緩みかけた意識を引き締める。男はゆらりと顔を上げてライラを見据える。その瞳の色は、どこまでも、冷たい。
「もうライラちゃんも知ってんだろ。『エメス』が動いてる。多分、神殿の情報が漏れてたんだろう」
 何故、それを。
 言いかけて、ライラはその言葉を飲み込んだ。愚問だと、理解したからだ。
 今朝、一人の男が捕まった。神殿が敵対する異端結社『エメス』の紋章を身につけた男は、しかしライラが見た時には既に半死半生の状態だった。致命傷を負っていたわけではない、ただ的確に、「死なないように」肩と足を穿たれていたのだ。それは、ライラの仲間たちを戦闘不能に追いやったそれと、全く同じ傷だった。
 そう――『エメス』の刺客は、この男に撃たれたのだ。
「異端が、『エメス』を撃ったのか」
 ライラの問いに、男は座り込んだまま「ははっ」と呆れたように笑った。
「異端の全てが『エメス』じゃない。いくら頭の固い騎士様でも、そのくらいはわかるでしょうに」
「それは否定しない。だが、何故撃った」
「無論」
 今までのふざけた口調が嘘のように。笑顔ながらも決然と、男は言い放つ。
「全てはスノウのためだ」
 刹那の躊躇いすらなく放たれた言葉に、ライラは言葉を失ってしまった。
 そこに少しでも虚構が見えたなら、ライラは迷いなく槍を振るっていただろう。だが、男の言葉に嘘はないと……そう、信じさせられてしまった。
 不可解だ。
 不可解に、過ぎる。
 目の前の男は『知恵の姫巫女』を攫った罪人だ。だが、「彼女のため」という言葉が理解できない。それが嘘ではないとなれば、余計に。
 槍を持つ手が、微かに震えたのが自分でわかった。それはライラ自身の戸惑いだ。目の前に存在する男が「何」であるのか、判断できないが故の戸惑いだ。
「……貴様は、何を企んでいる」
「何も企んでなんかいねえよ。それなら『知恵の姫巫女』を攫おうなんて危険ばかりで実入りの少ないことより、もっと建設的な企てをする」
 淡々と紡がれる低くしゃがれた声に先刻までの浮つきはない。それが、男の本来の喋り方なのかもしれない、とライラは思う。昨日出会ったばかりの男の「本来」など、ライラに判断できるはずも無かったけれど。
「ならば、何故スノウ様を攫った」
「それはスノウに聞くことだな。ただ、一つだけ」
 男は、突きつけられた槍の先端から目を外すことなく、ゆっくりと立ち上がる。ライラは動けないままに、男の挙動を見つめていることしか出来ない。
「俺はスノウを傷つけるつもりは無い。出来ることならば、これ以上スノウを追うのをやめてやってくれねえか」
「そんな言葉、信じられるか」
 信じてもいいのではないか、という思いが頭をよぎったことは否定できない。けれど、実際に『知恵の姫巫女』の無事を確認出来ていない状態で信じるのは、それこそ浅はかにして愚か極まりない行為だ。そして、男も浮かべていた笑みを苦笑に変えて言った。
「だろうな、それでいい。お前さんは正しいよ。神殿の人間として、騎士として」
 前髪の間から覗く、男の零下の瞳が不意にライラを射る。ライラははっとして槍を握る手に力を入れたが、男は銃に手をかけた姿勢のまま、ライラの持つ槍の刃と柄との接合部分を鋭く蹴り上げた。その勢いで跳躍して距離を取った男は、銃口をライラに向けた。
 男との会話に気を取られすぎた……その事実に、ライラは軽く唇を噛んで、もう一度槍を構えなおす。この距離は、まずい。相手の隙を見て踏み込めば何とか刃が届く距離ではあったが、相手にその「隙」など存在しない。
 男はじりじりと、銃を手にしたまま下がる。口元の笑みはそのままに、しかし決して笑むことの無い瞳でライラを見据え。
「そいつ、連れ帰っておいて」
「そいつ?」
 ライラは男の視線を追いかける。建物と建物の隙間に、今までは気づかなかったが人の足のようなものが覗いている。そして、ライラの視線を誘導した男は、身を翻して駆け出した。
「待て!」
 ライラは男を追って駆け出そうとするが、建物の隙間に倒れている人の足も気になった。それに……男を追ったところで、求める人物は見つからない。昨日の対峙でそれを理解しているライラは、目の前の事象から片付けることにした。そこに倒れていたのは、獣人の青年だった。だが、ライラの目はまずその青年のベルトのバックルに向けられていた。
 普通ならば服に隠れて見えないそこには、剣と杖とが交差した、歯車の紋章――『エメス』の紋章があった。そして、青年の手には男が持っていたものよりも一回り大きな銃が握られていた。
 青年の体には、銃による傷はない。おそらくは素手で相手を昏倒させたのだろう。注意深く確かめながら、ライラは誰に届くこともない呟きを放つ。
「あの男……本気でスノウ様を守る気なのか……?」

少年と少女と影

 翌朝、朝食を早めに済ませ、リムリカに見送られながらセイルはスノウを連れて外に出た。クラエスは、今日も楽隊の練習があるからと朝早くに出かけていってしまったから、一緒ではない。
 外は、昨日とは少しだけ違う、静謐な空気に満ちていた。
 聖ライラ祭はライラの日までの一週間にかけて行われる祭だが、何も一週間を通して大騒ぎをしているわけではない。三日目から五日目までは「祈りの三日間」と呼ばれ、人々のために戦った聖ライラを思い、彼女がもたらした平和を感謝し、これからも平和が続くことを祈る日だ。そのため、この三日間は一旦浮かれたような騒ぎも収まり、人々は神殿や聖ライラゆかりの場所で祈りを捧げるのだ。
 と言っても、観光客はひっきりなしに行き来するから、大通りの人並みや賑やかさはあまり変わらないと思うけれど、と昨日の夜クラエスが笑って教えてくれた。
 スノウは、淡い色の冬空を見上げて白い息をつき、毛糸のマフラーを巻き直す。それから、ふと気づいてセイルに問うた。
「ごめんね、これ、借りたままだね」
「別に俺は大丈夫だから、使ってなよ」
 帰るときに、返してくれればいいから。
 そうセイルが言うと、スノウはマフラーの端を握って微かに笑った。けれど、その笑みはとても寂しそうだった。時折、スノウはそういう顔をする。けれど、どうして、そんな顔をするのだろうか……セイルが問おうとした、その時。
 スノウが、はっと顔を上げた。
「ど、どうしたの?」
「ごめん、セイル。ちょっと待ってて」
 戸惑うセイルに対しスノウは言い置いて駆け出した。セイルは慌てて「待って!」とその背中を追いかける。スノウは、この町は初めてのはずだ。それに、寮の周りは結構入り組んだ道をしている。下手をすると、すぐに道に迷ってしまう。
 けれど、スノウは迷いの無い足取りで駆ける。道を一つ曲がって、二つ曲がって。そして、スノウの後を追って路地に飛び込んだセイルは見た。細い道の先に立つ、一つの影を。
 ――そう、それはまさしく「影」。
 セイルの目にはそこに立っていたものが、足元に落ちる影と同じ、冷たく質量の無いもののように見えたのだった。ただ、そう思ったのは一瞬で、実際には、それは黒い外套を纏った背の高い男だった。
 男は、こちらに向かってくる足音に気づいたのか、ふとこちらに顔を向けた……次の瞬間、駆け寄ったスノウが男の体にしがみついていた。
 何が起こったのかわからず、セイルは思わずその場で足を止めてしまう。そして、抱きつかれた側の男も少なからず吃驚したようで、抱きつかれたその瞬間のまま固まっている。
 スノウはしばらく男の体に顔を埋めていたが、やがてゆっくりと顔を上げて男を見た。男も我に返ったのか、苦笑とも取れる表情を唇に浮かべ……顔の上半分が長い前髪で隠れて見えなかったから、本当に笑っていたのかどうかはセイルにはわからなかったけれど……スノウの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
 それ以上、言葉を交わすでもなく、スノウと男はただただ見詰め合うばかり。
 スノウは目の前にいるというのに、道の片隅に一人だけ取り残されたような気分になって、気づけばセイルはスノウに向かって駆け出しながら、声を上げていた。
「スノウ! その人、誰?」
 セイルの言葉に驚いたように、スノウは少しだけびくりと体を震わせて男の体から手を離し、ゆっくりとセイルを振り向いた。その表情は、晴れやかな笑顔だった。
「この人が、わたしをここに連れて来てくれた人なの」
「ここに、連れて来てくれた人、って」
 スノウは言っていたはずだ。用事があって今は一緒にいないけれど、ユーリスからここまで連れて来てくれた人がいる、と。
 そして、どこにいたとしてもその人とはいつも「繋がっている」のだ、と。
 この影のような男が、そうなのか。
 思いながら、改めてセイルは男を見上げる。長く伸ばした前髪が微かに揺れ、セイルを見下ろす瞳が顕になる。極端に彩度を欠いた姿の中で、存在を主張するかのように鮮やかに煌く緑色の瞳を、セイルは素直に「綺麗だ」と思う。
 男はスノウにそうしていたのと同じように、無言でセイルを見つめる。口元には笑みを浮かべていたけれど、何を思って黙り込んでいるのかセイルにはわからなくて、助けを求めるようにスノウに言った。
「この人、スノウのお兄さん?」
 スノウは、目を丸くして声を高くする。
「お兄さん? どうしてそう思うの?」
「スノウに似てるなって思ったんだけど、違うんだ?」
 よく見れば顔が似ているわけでもないし、持っている色彩だってまるで違う。けれども、何故だろう。男の瞳を「綺麗だ」と思ったのは、スノウの瞳を「綺麗だ」と思う感覚と何もかもが一緒だったのだ。
 スノウは、歌うように「お兄さん」とセイルの言葉をもう一度繰り返して、小さく首を横に振った。
「違うよ。でも、わたしが物心付いた時から、ずっと傍にいてくれたから……お兄さんと言っても、いいかもしれない」
 とても大切な宝物を見るように、スノウは男を見上げる。けれど、男はスノウの言葉に対して何を言うでもなく、ただ少しだけ浮かべていた笑みを歪めた。
 そして、それを見ていたスノウが、突然痛みを堪えるような顔をしたから。
 セイルは、聞かずにはいられなかった。
「どうしたの、スノウ」
 スノウは男から目を逸らして俯き、小さな手を握り締め、ぽつりと呟いた。
「どうして、どうして、伝わらないのかな……っ」
「スノウ?」
 セイルはスノウの顔を覗き込んで、言葉を失った。スノウは、今にも泣きそうな顔をしていた。何故、いきなりスノウがそんな顔をするのだろう。男が何をしたわけでもなさそうだったけれど……
 顔を上げれば、男は泣きそうなスノウに背を向けて、その場から歩き去ろうとしていた。セイルはむっとして、男の背中に向かって叫ぶ。
「何してんだよ! スノウのこと、置いてく気かよ!」
 ゆらりとセイルを振り向いた男は前髪の間から覗く目を細め、初めて、セイルの前で口を開いた。
「スノウは、わかってるから」
 その声は、セイルが想像していたものよりずっと低く、ざらついたものだった。それに驚かなかったわけではないが、それ以上に納得が出来なくて、セイルはスノウの肩に手を置いて声を荒げる。
「わかってる、わかってないとか……そういうの、俺には何も知らないけど!」
 スノウと男の関係とか。スノウが「わかっている」こととか。何もセイルにはわからない。わかるはずなどないけれど、一つだけはっきりしていることがある。
「スノウはさ、一緒にいると楽しそうな顔してるけど、気づくと必ず少しだけ辛そうな、悲しそうな顔になるんだ。だけど、アンタの顔を見たスノウはすごく嬉しそうだったから……多分、ずっと心細かったんだ!」
 スノウは、セイルと一緒にいる間でも時折ここではない遠くを見ていた。ここにいない誰かの背中を追っているようでもあった。きっと、繋がっているとは言ったけれど、傍に男がいないことをずっと気にしていた。
「なのに、アンタは、今もスノウを置いていくのかよ」
「それは――」
 酷薄な笑顔を浮かべたまま、男が口を開く。それでも、セイルは言葉を放つことを止めない。なおも泣きそうな顔をしているスノウを前に、止めることなどできなかった。
「『お兄さん』なら、スノウが寂しがってることくらい、気づいてやれよ!」
 男は、一瞬目を丸くした。まるで、セイルの言葉が理解できなかったかのように。それから、薄い唇を開いて「寂しい」と呟いた。
 セイルは、スノウの肩を強く叩いて、言う。
「スノウも、寂しいなら寂しいって、はっきり言った方がいいって! 言わないとわからないんだよ、きっと!」
「でも……言ったら、迷惑になるって、思ったから」
 スノウは、俯いたまま小さく呟いた。
「迷惑だったら迷惑って言ってくれるだろ。そこで遠慮してたら、何にもならないよ」
「違うの、セイル。そうじゃないの」
 違う?
 そう思って、スノウを見る。スノウは決して泣いてはいなかった。いなかったけれど、何かを耐えるような、苦しそうな表情でセイルを見つめていた。
「彼は何も悪くないの。だから、あんまり責めないで」
「悪くないって……」
 言いかけて、セイルは気づいた。セイルがスノウに意識を向けていた間に、男の姿がその場から消えていたのだ。その現象が意味するところを把握するまでに数秒を要し、把握した瞬間にセイルは叫んでいた。
「逃げた!」
「ううん、逃げたんじゃないよ」
 思わず握りこぶしを作りかけたセイルに対し、スノウは必死に訴える。セイルには、スノウが何故そこまで男を庇うのかがわからなくて、眉を寄せることしか出来ない。
 すると、スノウはセイルの手をぎゅっと握り締めた。
「ごめんね、セイル。嫌な気持ちになった?」
「嫌、ってわけじゃないよ。ただ」
 スノウの手に包まれた手を、もう一度、握りなおす。自分の中に生まれた思いを、確かめるように。
「スノウが寂しそうにしてるのに、知らないような顔してへらへら笑ってるのが許せなかったんだ。そりゃあ、俺が怒ることじゃないんだろうけど」
 これは、きっとスノウと男の間の問題だ。セイルが何とか言えるような話ではない、のかもしれない。それでも言わずにはいられなかったのだ。セイルは唇を尖らせて、ふいと男が去っていった方向から視線を逸らす。
 スノウは、きょとんとした表情でセイルを見て……それから、小さく息をついて空を見上げた。今日の空もよく晴れていて、冬特有の青色を一面に満たしている。
「あの人はセイルが思うような酷い人じゃないよ。本当は、とても優しい人なの。ただ、一番伝えたいことだけが、上手く伝わらないの」
 どこまでも広がる空を見上げながら、スノウは冬の風に似た、澄み切った声で呟いた。
「スノウ……?」
 スノウの目は空を見つめたままだったけれど、セイルの手を握る小さな手に、微かに力が入った。決して強い力ではなかったけれど、まるで、この手を借りて、自分自身をその場に繋ぎ止めているよう。そう、セイルは思った。
 だから、セイルもその手を強く、握り締める。
「あのさ、スノウ」
「なあに?」
 胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んで。セイルは視線を落としたスノウを見据えて、はっきりと、言った。
「それなら尚更、はっきり言うべきなんだと思う。もしかしたら言っても伝わらないかもしれないけど、それを怖がってたらきっと、何も言えなくなっちゃう。言わないで後悔するよりは、言って後悔した方がいいんだ」
 ってのは、親父の受け売りなんだけど。
 セイルは後ろにそう付け加えて、苦笑する。スノウは目を丸くしてセイルを見下ろしていたけれど、やがてふと、微笑んだ。
「いいお父さんだね。うん、セイルの言うとおり」
 自分の言葉を噛み締めるように、一言、一言。
「きちんと伝えなきゃ、伝わらない。後で言わなかったことを悔やんでも、遅すぎるよね。そんな当たり前のことも、わたし、わかってなかった」
 本当に、わたしには、わからないことばかりなのね。
 そう言うスノウの表情は、不思議と晴れやかだった。そして、セイルの手を取ったまま、弾んだ一歩を踏み出す。
「ね、セイル。一つ、お願いがあるの」

影と狂信者

「ああ、今日は何て素晴らしい日だろう」
 ブランは燃え上がる塔の上で、空を仰ぎました。
 城が、町が、全てが赤い炎に包まれる中、空だけは抜けるような青空でした。
 黒い軍勢の足音が迫る中、スノウの代わりに王の服を纏ったブランは笑います。
 本物のスノウは無事逃げ延びたはずでしたから、ブランにはもう何も思い残すことはなかったのです。
「さあ、この幸福のうちに、私の幕を下ろそう!」

   (『聖王スノウの伝説』第三章三節「白竜城陥落」)

 
 よかった、と彼は白い息をついて思う。
 夜は寒い。いくら屋台の裏が借りられたところで、夜風を十分にしのげるわけでもない。外で寝ることに慣れている彼ならともかく、スノウが連日の野宿に耐えられるとも思っていなかったから、偶然といえスノウが出会ったセイルというらしい少年には感謝すべきだろう。
 そして、自分はいつも空回りするばかりで、果たしてスノウのためになっているのだろうか。そう苦笑しながら、がっと靴底で黒尽くめの男を踏みつける。
「さて、と」
 思考を目の前の事象に戻そう。並列的な思考は彼の得意とするところだが、横道に逸れたまま対峙するのは相手にも失礼だろう。そんな、暢気ともいえる思考を巡らせながら、男を零下の瞳で見下ろす。
「秘密結社の荒事屋さんが、俺様に何の御用?」
 彼の口元は笑みに歪んでいたけれど、目は完全に笑っていなかった。もちろん、例えばスノウがそんな彼の表情を見たら「いつものこと」と笑ったに違いない。ただ、そのいびつな表情は足元の男に恐怖を与えたのかもしれない。男は小さく呻いて、硬く閉ざしていた唇を開いた。
「貴様……何者、だ」
「悪いが、名乗る名前がねえ」
 普段と変わらぬ答えを返し、もう一度男の体を強く踏み抜く。痛みからか、黒尽くめの男は大げさに体を折るも、そんなことは彼の知ったことではない。そもそも、襲われたのはこちらなのだ。殺さないように手加減したのだから、正当防衛と言ってもよかろう。
「で、こっちの質問に答えてもらおうか。『エメス』が俺様に何の用だ」
 男の肩に嵌められた紋章……剣と杖を交錯させ、その周囲に歯車を模ったそれは、異端研究者の秘密結社『エメス』を示すものだ。
 異端研究者。女神の教えに反する、禁忌の知恵と知識を信奉する者たちの総称だ。女神の厭う鋼の武器、銃を操る彼もまた異端研究者の一人ではあったが、異端と言ってもピンからキリまでいる。単に研究するだけで満足な研究者もいれば、自分の知識を否定する女神の存在そのものを敵視する、過激な連中も多い。
 その、「過激な連中」ばかりを集めた秘密結社が『エメス』だ……否、「今は」そうだ、といった方が正しいか。過去がどうであったのかも知る彼は、複雑な心持ちながらそれを表情には出さずに黒尽くめの男の体に踵をめり込ませる。
「別に、答えなくても答えはわかってる。けれども、俺様手前の口から話を聞きたいの。わかる? それとも禁忌に染まりすぎて楽園の言葉も忘れちゃった?」
 笑みを浮かべ、ふざけた口調で言いながらも彼の心は酷く冷え込んでいる。それもまた、「いつものこと」だ。
 男は彼の問いには答えようとしない。まあ、答えないだろうな、と彼も思う。あっさり答えるような奴ならば、とっくに話は終わっているし、そもそもこうやって相対することもなかっただろう。
 面倒になってきた。そもそも彼は気が長い方ではない。黒い外套の下から銃を抜き、予備動作もなしに男の肩を無造作に撃ち抜く。決して、大口径の銃で肩の全てを吹き飛ばしたわけではない。ほんの少し、肩に穴が開いただけだ。だが、当然のごとく死にたくなるような痛みが男を襲ったのだろう、男は彼の足の下でのた打ち回る。
「大げさだな。骨も切っちゃいけない部分も綺麗に避けたから、安心しろよ。魔法でもかけりゃ、一日で治る」
 その言葉に、嘘は無い。彼の目的は相手に口を割らせることだ。再起不能になるまで傷つけることではない。ましてや、殺すことでもない。男はがくがくと震えながら、掠れた声で呟く。
「貴様、狂ってる……」
「うん、知ってる。だからとっとと吐け」
 彼は笑顔で言い切った。男がどう思っているのかなんて、彼にはわからない。男の顔一面に広がっている感情がおそらく「恐怖」であることはわかるけれど、それ以上は、何も。
 男は、ぽつり、ぽつりと言葉を落としていく。誰とも知らない男――彼のことだ――の手で神殿から『知恵の姫巫女』が奪われたこと。奪った男を殺し、姫巫女を『エメス』の手中に収めようとしたこと。その結果がこれだ。
 そのシナリオの全てがあまりに思い通りで、彼はただただ呆れるしかなかった。事実上のトップに楽園最大の『賢者』を擁するはずの『エメス』だが、実際の行動はここまで稚拙なのかと思わされる。
 もう、これ以上聞く必要も無いかと判断して、彼は男の体を蹴り飛ばす。男は一瞬「助かった」という表情を浮かべたが、そこに銃声が二発。続けて、男の叫び声が木霊する。
 だが、彼は男を振り向くこともせずに、銃を収めてその場から歩き出した。
 殺したわけではない。単に、足を壊しただけだ。運がよければ明日の朝には助け出されるだろう……『エメス』の紋章をつけていたのだ、おそらくは神殿に引き渡されて終わりだとは思うが。傷のことも、銃によるものだとわかれば、『エメス』の異端同士の抗争とか、適当に理由をつけて闇に葬ってもらえるに違いない。
 何しろ、女神様にとっては禁忌や異端は「存在しないもの」、見なかったことにするのが一番なのだから。
 それにしても、と彼は思考を用済みの男から今の状況に切り替える。『エメス』にはいつかバレると思っていたが、予想以上に情報の伝達が早い。神殿側ではまだ、『知恵の姫巫女』の誘拐を明かしていないにも関わらず、だ。
 ――神殿に内通者でもいるのだろうな。
 彼は思って、唇を苦笑の形にした。まあ、考えなかったことではない。ユーリス神殿にとって『知恵の姫巫女』であるスノウは存在するだけで価値がある。そして、そのスノウを手にすることができれば、神殿に対する影響力は計り知れない。
 だからこそ神殿も『知恵の姫巫女』が今神殿の外にいることを明かさずにいるのだろう。可能であれば、何も起こらないうちにスノウを連れ帰りたいと思っている。それ故にあそこまでの少人数の騎士が、直接リベルの町に現れたのだ。
 騎士を先にあしらったのは失敗だったな、と彼は珍しく後悔した。『エメス』がここまで早く動くと想定できていれば、騎士を泳がせて『エメス』にぶつける方法を取るということもできたはずだ。
 だが、過ぎたことを悔いても仕方ない。今の彼の役目は期日までスノウを守り、目的の場所に連れて行くこと、それ以上でも以下でもない。この程度の誤差など、彼の役目には何ら影響を及ぼさない、はずだ。
 スノウが不安げに彼の名を呼ぶ。
 彼はそれには応えない。聞こえていてあえて応えないことは、スノウにも伝わっているから問題は無い。
 ただ、スノウの声があまりにもか細かったから。そこに流れる感情こそ理解できなかったけれど、彼は闇の中に小さく白い息をつく。
「……その名前で呼ばれるのは辛えよ、スノウ」
 老人のような声で呟き、手を握って……開く。
 そこには、何があるわけでもない。それこそ、短い指をした無骨な手だけが、そこにあった。

少年と少女

 セイルは、スノウと共に寮への道を歩いていた。日は既に西の空に沈もうとしていて、空を赤く染めていた。
「今日はありがとう。一日、付き合ってもらっちゃった」
「ううん。俺も楽しかった。こちらこそありがとう」
 本当ならば、一人で祭を回るつもりだったから。そう言ったセイルに、スノウは「そっか」と笑って不意に立ち止まり、南の空を見た。今日は晴れているから、南の世界樹がよく見える。スノウはあの樹の根元にある町から来たのだったなとセイルも思い出した。
 スノウは、世界樹を見つめたまま立ち尽くす。その横顔は、祭の間中小さな子供のような笑顔を浮かべていた少女とはまるで別人のようで……セイルには、その表情を何と表現してよいものかわからなかった。
 ただ、傷ついたような、悲しんでいるような、そんな表情を見ているのが、セイルには辛かった。
「あ、あのさ!」
 セイルは身を乗り出すようにして、スノウに言う。何とか、スノウの意識を逸らしたかったのだ。
「スノウは、これからどうするの? 青い薔薇を探すって言ってたけど……」
 祭を回っている間は、スノウは一言も青い薔薇の話をしなかった。始めはセイルがスノウを案内していたけれど、次第に、スノウが気になったものの方に、積極的にセイルを引っ張っていくような状態になっていたこともあり、薔薇については聞くに聞けなかったのだ。
 スノウは、少しだけ考えるような仕草をしてから、小さく頷いて言った。
「うん。ある場所は、大体わかってるの」
「……そう、なの?」
 セイルは拍子抜けする気分だった。スノウは「探す」と言っていたから、きっとこの町を駆け回って宝探しをするものだとばかり思っていた。けれど、セイルの想像に反し、スノウは視線をセイルも知る一点に向けた。
「多分、今も青い薔薇は、イリヤの元で咲いてるわ」
「イリヤの……って、魔王城のこと?」
 セイルも、スノウの視線を追う。そちらには、夕日に照らされて静かにたたずむ城址の屋根が見えた。
 あの場所で魔王は討ち取られ、そこに聖女ライラが青い薔薇を手向けた……その伝説のまま、セイルの夢に出てきたような青い薔薇が咲いているというのだろうか。そんな話は聞いたことが無いけれど。それに。
「でも、城址って普段は入れないだろ」
「そう。だからわたし、扉が開くこの時期に来たの」
 そうだ。クラエスが教えてくれたではないか。祭の最終日、聖ライラの日には城址の扉が開き、一般にも公開されるのだという。その時に、どこかに咲いているはずの青い薔薇を探すのだとスノウは言う。
「それまでは、自由に遊んでいいって、あの人も言ってくれたから。あと五日間は精一杯楽しもうかなって」
「その後は、ユーリスに帰っちゃうの?」
 セイルが問うと、スノウは少しだけ躊躇ってから、言った。
「そうなるかもしれないし、ならないかもしれない」
 時々、スノウはセイルの考えを超えた言葉を使う。ただ、今の言葉はセイルに理解させるつもりもなかったのかもしれない。スノウ自身、「わたしにも、わからないや」と呟いて、また南の空、はるか遠くの世界樹を見やる。
 たまらず、セイルは問うていた。
「何で、さっきからそんなに寂しそうな顔してるの?」
「寂しそう? わたしが?」
 スノウが意外そうに目を見開く。言ってみたセイルも、それを「寂しい」という言葉でくくっていいかどうかはわからなかった。ただ、その横顔はどこか、寂しそうに見えたのだ。
 スノウは自分の胸に手を置いて、目を閉じた。そのまま、一つ、二つ、深く呼吸をしてから目を開いて微笑む。
「そっか。やっぱり、寂しいのかな……」
「スノウ?」
「ごめんね、セイル。わたしは、大丈夫だから」
 何が大丈夫なのかは、わからなかったけれど……スノウは、肩の上で結った二つのリボンを揺らし、にっこりと笑う。スノウが何故笑うのかもセイルにはわからなくて、ただ黙って寮への道を歩いていくことしかできなかった。
 歩いて、歩いて。そうして、寮の前まで辿りつく。
 ここで、お別れかなとスノウは手を離す。セイルも小さく頷いたけれど……気になって、質問を投げかける。
「スノウは、これからどうするの? 宿とか泊まる場所は決まってるの?」
「ううん。これから、考える」
「これから……って」
 こんなに人が集まっているのだ、宿なんて取れるはずもないことは、流石のセイルにもわかった。けれど、スノウはけろっとしたもので「大丈夫、大丈夫」と笑う。
「案外、何とかなるよ。昨日も、外で寝ても何も言われなかったし。野宿も楽しいよ」
「だ、ダメだろそれはっ!」
 何しろこの寒さだし、まず女の子を野宿させるなんて、考えられない。これが山の中だったらともかく、ここは町だ。他に方法だってあるはずだろうに。
 そう考えて、では自分ならどうするとセイルは自問する。自分はここに暮らしているから、他に泊まれるような場所など考えてみたことも無い。この町に住んでいるからといって、行動範囲など学校の周囲くらいなのだから。
 ただ、今の時期なら、もしかするともしかするかもしれない。セイルの頭の中に、ぱっと何かが閃いた。
「スノウ、ちょっと来て」
「セイル?」
 スノウの疑問符を背中に受けながら、セイルは寮の扉を開けた。相変わらず、冬休みを迎えた小さな寮はがらんとしたもので、いつも応接間で楽しく語らっている上級生たちの姿は見えない。その代わり、セイルが帰ってきたのに気づいたのだろう、キッチンからリムリカが顔を出す。
「おや、お帰り、セイル。その子はどうしたんだい」
「ただいま。ねえ、リムリカさん、お願いがあるんだけど、祭の間だけ、この人泊めてあげられないかな!」
 リムリカは唐突なセイルの「お願い」に驚いたようだった。そして、セイルの横に立っていたスノウもまた、目を丸くした。申し訳ないとばかりにセイルの袖を引っ張り、困った顔をする。
「いいよ、セイル。そんなお願い、困っちゃうよ」
「でも、スノウだって外で寝るのは寒いだろ?」
「それは、確かにそうだけど……」
 すると、階上から声がかかった。
「どうしたの?」
 見れば、練習から帰ってきていたのだろう、クラエスが上からこちらを見つめていた。セイルの横に立っていたスノウの姿を見て、不思議そうに首を傾げながら降りてきた。
「セイル、その子は誰?」
 その問いにセイルが答える前に、スノウがぺこりとリムリカとクラエスに対して頭を下げた。
「スノウ、といいます」
「今日の昼間に偶然会った人なんだけど、ユーリスから来て、祭の間は滞在しなきゃならないらしいんだって。でも、泊まる場所が無くて困ってるんだ。だから、本当に祭の間だけでいいから、泊めてもらえないかなって……」
 慌てて付け加えたセイルの言葉は、自然と尻すぼみになってしまった。不意にリムリカが、厳しい視線をセイルとスノウに向けたからだ。
 いつもは優しくても、長年悪ガキどもに睨みを利かせてきた寮の管理人だ。もしリムリカがダメといえば、絶対にそれは覆らないだろう。それに、こんなこと、ムシのいい頼みであることはセイルにも十分すぎるほどわかっている。
 やっぱり、ダメだろうか。
 そんな風に思っていると、リムリカはつかつかとスノウの前に歩いていく。ドワーフであるリムリカがスノウと並ぶと頭一つ違うから、リムリカは小さな目でスノウを見上げる。
「お前さん、一人でライラ祭に来たのかい?」
「いいえ。連れてきてくれた人がいるんですけど、今は一緒じゃないです」
「それは困った保護者だね」
 リムリカは大げさにため息をつく。スノウは少しだけ緊張しているのだろうか、笑いもせずに真っ直ぐにリムリカを見下ろしている。リムリカも、真面目な表情でスノウを見据えたまま、言葉を放つ。
「女の子を一人で歩かせるなんて、無用心もいいところだよ。アンタも、祭っていうけどどんな奴がいるかわからないんだから、連れとはぐれるなんてもってのほかだよ」
「ごめんなさい。これから気をつけます」
 スノウは素直にぺこりと頭を下げた。リムリカは「よろしい」と満足そうに言うと、セイルとクラエスに向かって言った。
「ほら、アンタたちも突っ立ってないで。一階の隅っこの部屋が空いていたでしょう。さっさと片付けてあげな」
「え、それじゃあ……」
 ぱっと顔を輝かせるセイルに、本当はいけないんだけどね、とリムリカはいたずらっぽく笑った。
「だからね、これは私とアンタたちの間の秘密だよ」
「あ、ありがとう、リムリカさん!」
「ありがとうございます」
 セイルとスノウが一緒に頭を下げる。クラエスが、ちょっとだけ困った顔をして「いいんですか?」と問うたが、リムリカはからからと笑うだけで取り合わない。
「何、今はアンタたち以外に誰もいないんだ。どうってことはないよ。それにね」
 頭を下げたままだったセイルの頭を、リムリカはぽんぽんと大きな手で叩く。
「セイルが連れてきた子だ、何も心配はないと思ってるよ」
「確かに」
 クラエスもくすくすと笑う。セイルからすれば何か釈然としなかったが、スノウも一緒になって笑っていたから、セイルもつられて笑ってしまった。
 そうやって、笑っているセイルの手を、そっと、スノウが握る。そして、弾んだ声で囁いた。
「本当にありがとう、セイル」
 その言葉だけで、とても嬉しくて。セイルは歯を見せてにっと笑った。
 そんなセイルの目に、ふと、銀色のものが煌いて見えた。見れば、窓の外を銀色の蝶が飛んでいくところだった。スノウと自分を出会わせてくれた蝶に、セイルは小さく頭を下げた。

 ――祭は、まだ、始まったばかり。

騎士と影

 ひゅっ、という息を吐いたのは、自分か、男か。
 ライラは額に冷たい汗が伝うのに気づいていた。
 黒衣の男の沈黙を肯定と取り、一気に仕掛けた。右の篭手に封じていた聖別の槍を引き抜き、低い姿勢から男の喉下に穂先を突きつける、そこまでの動きに一つの迷いも無かった。
 だが、ライラは男の命を握ったその姿勢のまま、少しも動けずにいた。
 眉間に向けられた銃口が、ライラの動きを完全に封じていたのだ。
「……鋼の武器……」
 鋼の武器、銃。それは創世の時代、女神に創られながら神の座を得ようと企んだ裏切りの使徒アルベルトが、女神の厭う鋼を用いて作り出した魔力を用いぬ破壊の力だとされている。故に、女神の加護を享受し生きる者の手には決して握られるはずもないものだ。
 銃を握るのは楽園への反逆者……異端研究者のみ。
 長身に似合わぬ男の小さな手に握られた銃は、ライラに狙いを定めたまま少しもぶれることはない。もし、ライラが男の命を奪おうとすれば、男も迷わずその引き金を引くだろう。
 ライラの頭に閃く、お互いの命が散る光景のみ。それ以外の選択肢など、存在するとは思えなかった。
 強く歯を噛み縛るライラに対し、男はあくまで余裕の笑顔。だが、その笑顔はどこまでも空虚なものに、見えた。
 風が吹く。冷たい、北からの風が男の長く伸びきった前髪を揺らし、ライラは初めて男の双眸を見ることができた。
 男の瞳の色は、喩えるならば凍れる海が湛える緑。ユーリスに生まれ育ったライラが実際に凍りついた海を見たことがあるわけではないが、男の瞳に宿った温度はまさしく零下。唇が浮かべる酷薄な笑みとは対照的に、刃のような容赦の無い鋭さを湛えている。
 男はライラを見下ろす姿勢のまま微かに目を細め、薄い唇を開いた。
「な、武器を下ろしてくれねえかい、騎士のお嬢さん」
 放たれたのは、ざらついた響き。どこか少年らしいあどけなさを残す顔立ちに反する、老人のような声だった。ライラはその差異に微かに驚きつつも、男を睨み付ける。
「馬鹿なことを言うな」
「ま、虫のいい頼みよね。けど、俺様を殺しちゃ、スノウの居場所はわからずじまいだぜ?」
 男は口元の笑みを深める。ただし、前髪の間から覗く瞳の温度は少しも変わらない。そして、ライラの額に向けた銃口も狙いを外すことは無い。
 ライラは手が汗ばむのを感じながらも、男を強く睨み返す。
「貴様のような異端が、スノウ様を気安く呼ぶな」
「はは、そりゃそうね。相手は神殿の大事な大事な『知恵の姫巫女』様だもんねえ」
 ――この男、何を考えている?
 気の抜けた笑みと零下の瞳、とぼけた口調と揺るがぬ銃口。相反する態度を取る男の思考を読みとれずに、ライラは少なからず戸惑う。その戸惑いを察しているのかいないのか、男はくつくつと笑う。
 そして、次の瞬間。
 男はふっと笑みを消して言い放つ。
「けどさ。スノウは気安く呼んで欲しがってるみたいだぜ、ライラちゃん」
「……っ!」
 それは、ライラが見せた決定的な隙だった。隙を作ってしまった、とライラが自覚するまでには一秒もかからなかったが、その間に男は自らの命を握っていた槍の柄を払い、素早く距離を取る。ライラはちっと舌打ちをして自分もまた距離を取るが、その地点で違和感に気づいた。
 ――何故、撃たない。
 男はだらりと銃を持った右手を下ろした姿勢のまま、動こうとしないのだ。
 あの瞬間、距離を取らずに撃っていれば間違いなくライラは反応できなかった。それどころか、この距離から撃ったとしてもライラに当てることは可能だ。銃の利点は、魔法には必ず必要となる呪文を用いずとも、距離を取った相手を狙えることなのだから。
 舐められているのだろうか?
 胸の中に湧き上がる苛立ちを堪えきれずに、ライラは低い声で男に言葉を投げかける。
「何を考えている?」
「何を、って……あのね、俺様は別に誰彼構わず撃ったりしないぜ? 殺人狂の『機巧の賢者』様じゃあるまいし。それに、アンタを殺したらスノウが悲しむしねえ」
 男はおどけた口調で言って、一瞬前に笑みを消していたのが嘘だったかのように、再びニヤニヤと笑ってみせる。
 不可解だ。どこまでも、不可解だ。
 ただ、ライラの胸の中でも、男に対する敵対心が微かに揺らいでいるのは確かだった。男の態度もそうだが、何よりも男の放った言葉が耳に残ってしまって。
「スノウ様の何を知っていて、そんなことを言う」
「そりゃ、『何も知らない』と言っていい。『知りたい』とは思うが、俺様はあの子じゃねえからな。けど」
 男は無防備にも見える姿勢のまま、力なく笑った。
「アンタは知ろうとしなかった。その違いは大きいぜ」
 何故、知ったような口を利く。
 ライラは槍を構えたまま、ぎりと歯を鳴らす。けれど、この爆発しそうな感情に流されて男の間合いに飛び込んでも、他の隊員と同じ目に遭うだけだろう。理性で感情を押し殺し、男を見据える。
「貴様、何者だ」
「んん、一方的にそっちを知ってるのもフェアじゃねえから、質問に答えてやりたいのも山々なんだが」
 男はそこで言葉を一度切って、目を伏せる。
「俺に、名乗れる名前なんてねえから。悪いな」
「名乗れる名前が、無い……?」
「ま、とにかく。俺様はスノウを神殿に返してやる気はねえし、居場所を吐く気もねえ。ただ、一つだけ教えておいてやる」
 ゆっくり、ゆっくりと。男はライラを見据えたまま一歩ずつ下がる。
「俺様も、スノウも。聖ライラ祭が終わるまでは、この街からは出るつもりはねえ。ただし、聖ライラ祭が終わればスノウはお前の手の届かない所に行く」
「なっ」
 男の言葉に最悪の可能性を見出し、ライラは絶句する。だが、男はしゃがれた声で淡々と続ける。
「もし、本当に会いたいなら、スノウを探し出してみせろ、ライラ・エルミサイア。手遅れになる前に、な」
 言う男の手からは、いつの間にか銃が消えていた。その代わりに、ちょうどライラからは見えない位置に回していた左手に、何かを握っている――そう気づいた瞬間、視界一面が煙に包まれた。
 煙幕だ。
 待て、と叫ぼうとしてが、もうもうと立ち上る煙が喉に絡まって咳き込んでしまう。その間に、男の足音は遠ざかっていく。すぐにでも追いすがり一撃を叩き込みたかったが、何も見えない状態で槍を振り回すのも無意味と判断し、ライラは咳が落ち着いたところで口の中で小さく呪文を唱える。
「汝の名は『女神の吐息』」
 彼女の声に応え、辺りに風が巻き起こり煙を吹き飛ばす。その時には既に、男の姿はその場に無かった。ライラは槍を光の粒子へと変えて篭手に収め、男が向かったであろう路地を見据える。
 ただ、それを追う気には、なれなかった。
 男は言った。「スノウを探し出してみせろ」、と。
 男の言葉が全て根拠の無い出まかせでないという保証はどこにもない。けれど、ライラはその言葉を疑うつもりもなかった。それは……男の指摘が、確かに自分の胸に刺さってしまったからかもしれない。
『アンタは知ろうとしなかった。その違いは大きいぜ』
 知ろうとしなかった?
 自分が、スノウのことを?
 そんなはずはない、と思いながらもそれを否定し切れない自分に気づく。戦うための力、スノウを「守る」ための力である右腕の篭手を見る。もちろん、篭手が何かを語るわけではなくて、ライラは小さく息をついて顔を上げる。
 スノウは、この街にいる。確かに、いるはずなのだ。
「行こう」
 自分自身に言い聞かせ、ライラは街へと歩き出す。己の胸に生まれた小さな痛みを確かめるためにも、ただ、前へ。

 ――わたしの声、聞こえてるかな。

 全ての始まりは、誰にも聞こえないはずの声だった。
 男は祭の喧騒に背を向け、早足に歩みながらその時のことを克明に思い出していた。
 どこからともなく聞こえてくる声の正体は、男も初めから了解している。ただ、それを語ったとしても誰にも信じてもらえないどころか、頭が狂っている、気が触れていると言われてもおかしくないだろう。
 だから、男は「彼女」との関係を決して語らないし、「彼女」も語らないはずだ。
 だから、男はこの事件の真実を語ろうとはしないし、同じように真実を知る「彼女」の口から語らせる気もない。
 自分は「彼女」を拐かした犯人で、追われるべくして神殿に追われている。
 これでいいのだ。「彼女」のためには、これでいい。
 ――ごめんね。わたし、あなたを悪役にしてるね。
 そんな彼の思考に気づいたのか、「彼女」が少しだけ落ち込んだ声を投げかけてくる。男はくく、と喉だけを鳴らす笑い方で笑うと、目を閉じる。
 ――悪役には慣れてる。ただ、悪役をやるならば、フェーダ・シュリュッセルの描く怪盗のような、スマートな悪役でありたいけれど。
 男が声なき声で返すと、「彼女」は無邪気に笑ったようだった。そんな「彼女」の反応を不思議に思ったのか、横から男の知らない少年の声が聞こえてきて、男も少しだけ愉快な気分になる。
 こんなに楽しそうな声で笑う「彼女」を見るのは男も初めてだった。ずっと「彼女」のことを知っているつもりでいた男だったが、実際に会ったのはこれが初めてなのだ、やはり実際に行動し、自らの目と耳で確かめてみないことには、何一つとして本当のところは見えてこないのかもしれない。
 自嘲と自戒も込めて、強く思う。
 ここにはいない「彼女」が少しだけ不安を込めて男の名を呼ぶ。男は何でもない、と返して知らず俯きがちになっていた顔を上げ、閉じていた目を開く。もう、祭に沸く人々の声も、聖ライラを湛える歌も聞こえてはこない。青い薔薇の飾りすら無い街のはずれで、男は立ち止まる。
 すると、背後から聞こえてきた規則正しい足音も止まった。
 そして、背中に投げかけられる、声。頭の中に響く声とはまた違う、弦を弓で弾いたような、張り詰めた、しかし美しい響きの声が男の鼓膜を震わせる。
「逃げる気は無いようだな、誘拐犯」
 小さく頷き、黒い外套の裾を捌いて振り向く。
 そこに立っていたのは、一人の女騎士だった。
 長く伸ばした金色の髪を頭の上で縛り、淡い紅の薔薇飾りで飾っている。同じ色の服の上には、女神ユーリスを表す十字を刻んだ白い鎧。それこそが、女神ユーリスに命を捧げた神聖騎士のみ身に着けることを許された、聖別の鎧だ。
 男にとっては、この数日ですっかり見慣れてしまった鎧でもあるが。
 騎士はゆっくりと男に向かって歩み寄りながら、真っ直ぐな瞳で男をじっと観察している。男は唇に浮かべたままだった笑みを余計に深くして、少しだけ俯く。
「誘拐犯であることを、否定はしないのか」
 騎士の言葉に、男は笑顔のまま軽く肩を竦めてみせた。その仕草に少しだけ騎士は眉を寄せたが……どうしてそんな表情をするのかは、男にもわからなかった……すぐに表情を戻すと硬い声で言う。
「『知恵の姫巫女』を拐かした罪は、重い。それに、貴様の存在自体も神殿は看過できない」
 もう一度、「彼女」が頭の中で男の名を呼ぶ。
 男はそれには応えぬまま、目の前の騎士に意識の全てを集中させる。
 男が笑んだまま何も言わないと見るや、騎士は大きく踏み込んで右腕を跳ね上げた。男は全てを見据えた上で、己の右腕を外套の中に差込み、引き抜く。
 白銀と、黒鉄が、交錯する。

少年と蝶

 そしてまた、青い夢を見る。
 銀色のアゲハ蝶が舞う、青い薔薇の花畑に立ち尽くす、そんな夢。
 胸がぎゅっと締め付けられる。これは、嬉しいのだろうか、それとも悲しいのだろうか。理由もわからないというのに、涙がこぼれそうになる。
 けれど、何故だろう。
 この場所に立っているのが、自分ではないような気がして……気づけば、セイルはいつもと何も変わらぬ、自分のベッドの上にいた。時計を見れば、今日は何とか朝食の時間に間に合いそうだったから、あわてて着替えて階下の食堂に向かう。
「おや、おはよう、セイル」
「おはようございます、リムリカさん」
 寮の管理人であるリムリカは、大きな鍋を抱えて丸っこい顔を笑みにする。
「今日はお前さんが一番乗りだよ。と言っても、ほとんどの子は実家に帰っちゃってるからねえ」
「あ、そっかあ」
 見れば、いつもは我先にとリムリカの料理を求めて殺到しているはずの寮生たちの姿はなかった。まあ、それはそれでリムリカの料理が食べ放題という意味でもあるからセイルにとっては大歓迎だ。長らくこの小さな寮で食べ盛りの少年たちに料理を振舞ってきたリムリカの腕は、確かなのだから。
 温かなポタージュとふわふわの手作りパンを貰いながら、セイルはリムリカに問う。
「そうだ、起きたらクラエスがいなかったんだけど、リムリカさん、知ってる?」
「クラエスなら朝ごはんの前に出て行ったよ。何でも、楽団の練習があるんだって」
 クラエスは学校の生徒によって結成されている楽団の一員だ。そして、聖ライラ祭七日目、最終日の発表に向けて練習をしなくてはならないのだ、ということをセイルも今更ながらに思い出していた。昨日も聞いたはずだったのに、すっかりそれを失念していた。
 それじゃあ、今日は一緒に回れないのか、とセイルは少し残念に思う。とはいえ、楽団の練習では仕方ない。最終日には絶対にクラエスの演奏を聞くんだ、と思いながらセイルはパンを口いっぱいに頬張る。焼きたてのパンは香ばしく、微かな甘みが口の中に広がる。
 毎日食べている味ではあるけれど、セイルはリムリカが焼いてくれるパンだけで暮らしていける自信がある。皿の上のパンはすぐにセイルの腹の中に収まってしまった。「相変わらずいい食べっぷりだねえ」とリムリカが嬉しそうに顔をほころばせて、まだ食べられるだろうとパンを一つ皿の上に追加してくれた。今度はまだ少しだけ残っていたポタージュと一緒にパンをじっくり噛み締めることにした。
「そういえば、セイルは昨日お祭には行ったのかい? ライラ祭は初めてだろう」
「うん。すっごいんだな、リベルのライラ祭って! こんな賑やかな祭、初めてだよ」
 そうかいそうかい、とリムリカは自分のことのように嬉しそうに笑う。リベルの住人は、聖ライラと彼女を祝う祭に誇りを持っているのだ。セイルも昨日一日を過ごして、少しだけそれがわかった気がした。
「今日も行くのかい?」
「そのつもり。誰か捕まればいいんだけど……」
「この人じゃあ難しいかもね。まあ、気をつけるんだよ」
 うん、と笑顔で頷いて、残りのパンをきちんと胃に収めて。ポタージュの皿も実際に舐めたわけではないけれど、舐めたように綺麗にして席を立つ。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 リムリカの声を背中に聞きながら、セイルは寮を飛び出す。ポーチの中に入っているお金はそんなに多くないけれど、街を見ているだけでも一日が過ぎてしまう。昨日だって、結局街の半分も見て回っていないのだ。
 今日は忘れずに持ってきたマフラーをしっかり首に巻きなおし、貰った祭の地図を見る。今日は東地区で仮装パレードがあるのだという。昨日はそちらまで足を運べなかったし、とセイルはそちらに向けて駆け出した。
 今日もよく晴れていて、風は冷たい。天気予報ではライラ祭の終わりくらいに少しだけ雲行きが怪しくなると言っていたけれど、それまでは晴れが続くと言っていた。きっと女神様がこの日のために、リベルを晴れにしてくれたに違いない。実際に、毎年ライラ祭の間は毎年ほとんどが晴れなのだと、昨日クラエスが教えてくれた。
 セイルは人の邪魔にならない程度に小走りに駆けながら、青い空を見上げる。雲一つない空には、色とりどりの船が飛ぶ。決して普段船の行き来が多くないはずの空に舞うのは、この時期だけに出る、臨時船だ。ライラ祭のためにやってくる人を乗せて、楽園のあちこちからやってきているに違いない。それを思うだけで、セイルの心は浮き立つようだった。
 いつもの、学校に通う日々と同じ道を走っているのに何もかもが違う。その事実を改めて感じずにはいられないのだ。
 あちらこちらから、人を呼ぶ声が聞こえる。ここにはどんな店が出ているのだろう、とセイルが空から町並みに目を落とそうとしたその時。
 視界の端に、何かが煌いた。
 はっとしてそちらを見ると、銀色の何かがセイルの横を行き過ぎていくところだった。よく見れば……それは、銀色に輝くアゲハ蝶。今度こそ見間違いなどではない、確かに冬の冷たい風の中、薄い羽を羽ばたかせ、ふわふわと人ごみの中を飛んでいたのだ。
『銀色のアゲハ蝶? それこそありえないよ。青い薔薇と同じで、今こんなところで見られるはずもないじゃないか』
 クラエスの声が頭の中に蘇る。そうだ、銀色のアゲハ蝶など「ありえない」。それは伝説の中の存在でしかない。聖ライラがこの地で魔王を倒したその日に、この世から消えたもののはずではないか。
 何しろ、銀色の蝶は魔王イリヤの象徴。魔王が連れていた僕であるとされているのだから。
 そんな、不吉な蝶がこんな場所を飛んでいるはずもない、そう思って目をこすってみるもアゲハ蝶の姿は消えない。だが、他の誰も蝶の存在には気づいていないようで、銀色の蝶は人ごみの中にまぎれて見えなくなりそうになる。
 セイルは、思わずそちらに向かって足を出していた。自分の見ているものが、見間違いでないことを最後まで確かめようとも思ったし……それに、不意に思い出したのだ。今日見ていた青い薔薇の夢にも、同じ蝶の姿を見た、と。
 幾重にも積み重なった不思議が、セイルの背中を押した。
 不吉さとか、恐怖とか、そんな感情は不思議と無かった。ただ、セイルの中にふつふつと湧き上がるのは、純然たる好奇心。
 蝶はひらひらと、セイルの足と同じくらいの速さで飛んでいく。見失わないようにと人ごみの中に目を凝らしながら走っていると、時々人の足を踏んでしまうこともあって、その度に頭を下げて謝る羽目になった。
 そんな風にして、どのくらい走っただろう。蝶はちょうどセイルが向かおうとしていた東地区へと向かっているようだった。ただ、目当てのパレードの場所からは少しだけ離れた、人気の少ない路地に入っていってしまい、セイルもそれを追って細い路地に飛び込んだ。
 家と家の隙間、といった風情の道だったが、建物が光をさえぎっている代わりにそこかしこに飾られた青い薔薇飾りが淡い魔法の光を放っていて、とても不思議な光景だった。大通りの人ごみを避けているのだろう、談笑しながらゆっくりと行過ぎる人の姿が、祭のもう一つの顔のようでセイルには新鮮に映る。
 そんな中を、銀色の蝶は誰にも見咎められることなく先ほどよりもはるかにゆったりとした速度で飛んでいく。セイルもその速度にあわせて、歩を緩める。
「どこに、行くの?」
 セイルは口の中で問うてみるが、アゲハ蝶は返事をしない。
 その代わり、というわけでもなかったのだろうが、蝶は、すうと伸ばされた白い指にとまり、銀色の羽を休ませた。セイルは足を止めて、呆然とそれを見つめていた。
 蝶を指にとまらせたのは、道の端に積んだ荷物の上に座っていた、一人の少女だった。
 ベージュ色をしたコートに身を包んだ少女は、銀色の蝶をしばし不思議そうに見つめた後、不意にこちらに視線を向けてきた。
 その瞳の色は、辺りを満たしている薔薇の色と同じ、透き通った青色をしていた。
「こんにちは。いいお祭日和ね」
 少女は小さく微笑んだ。セイルも「こんちわ」と慌てて頭を下げて、それから改めて顔を上げて少女を見た。年は自分より上……見立てが正しければ、クラエスと同じくらいだろうが、セイルと同じ学校の生徒という感じでもない。きっと、外から来た観光客なのだろう。
 けれど……
「こんなところで、何してるの?」
 セイルは、思ったことをすぐに問いにした。少女は長いコートから突き出た細い足をぶらつかせて笑顔で答える。
「少し疲れちゃったから、休んでたの。あなたは?」
「俺は、珍しい蝶々がいるな、って思って追いかけてきたんだけど……」
「珍しいよね。イリヤの蝶なんて、わたしもとっくに滅びたと思ってた」
 少女が自分の指にとまった蝶に視線を戻すと、蝶はふわりと飛び立ち、青い空へと飛び立っていき、やがて建物の影へと消えて見えなくなった。セイルは一瞬追いかけるべきかとも考えたけれど、何故かその場から一歩も動けないままに、消えていく蝶を見送るだけ。
 少女はしばし黙り込んで蝶が消えた空を見上げていたが、ぽつり、と。唐突に言葉を落とす。
「そっか。あの子に聞けば、青い薔薇の場所もわかったのかな」
「え?」
 いきなり少女の口から「青い薔薇」なんて言葉が放たれたものだから、セイルは驚いてしまった。少女は何故セイルが驚くのかわからなかったのか、小さく首を傾げる。
「どうしたの?」
「青い薔薇って、ここに咲いているのじゃなくて?」
 セイルは、辺りに咲く作り物の薔薇を指すけれど、少女は首を横に振った。
「ううん。わたしが探しているのは、本物の青い薔薇。遠い昔、聖女ライラの手の中にあった、青い色した薔薇の花」
 セイルの頭の中に、反射的に今朝も見た夢が鮮やかに蘇る。「そんなの、」
「ありえないって思うかな。けどね、本当はまだ咲いてるはずなの。この街のどこか、誰も知らない場所に。だからわたし、ここに来たんだ」
 少女の言葉は、まるで歌のようだった。誰も知らない歌を口ずさむように喋る少女から、セイルは目を離すことが出来なかった。ここにいるのに、少女の瞳は全く別の場所を見ているようにも、見えたのだ。
 そう思っていると、その瞳が、まじまじとセイルの顔を覗き込んでくる。
「その、ごめんね。いきなりこんなこと言われても、困っちゃうよね」
 一瞬吃驚したセイルだったが、すぐに首をぶんぶんと大きく横に振った。別に、少女が言っていることが、変なことだとも思わなかったし困ったわけでもない。吃驚した、それ以上でもそれ以下でもない。
「ううん、もし、咲いてるなら俺も見てみたいな」
 少女の歌うような声を聞いていると、それだけで、夢で見た青い薔薇の風景がはっきりとした輪郭を帯びてくるようであった。あの夢は、ただの夢なんかじゃない。本当に存在する場所を幻視してしたのではないかと、少女の言葉を聞いているうちに思ってしまったのだ。
 それこそ、夢のような話だと、頭ではわかっているのに。
 少女の言葉にはそれを信じさせてしまうだけの不思議な力が篭っているようだった。
「わたし、変じゃないかな?」
 少女は不思議そうに首を傾げた。セイルは「変じゃないよ」とはっきり言った。セイルの言葉をどう取ったのか、少女は今まで以上に不思議そうな顔をしてみせたけれど、次の瞬間、にっこりと微笑んだ。
「えへへ、何か嬉しいな」
 それは、余りに無邪気な……年上のはずなのに、セイルよりもずっと幼い子供のような笑い方だった。
 何だか奇妙な女の子だと、セイルは思う。セイルのクラスメイトや学校の先輩とは何もかもが違っていて、確かに少しだけ戸惑うけれど、決して一緒に喋っていて悪い気分じゃない。この独特なテンポが心地よくすらあった。
「君って、この街の人じゃないよね。どこから来たの?」
「ユーリスから来たの。ユーリスの、センツリーズ」
 ユーリス神聖国の首都だ。セイルの故郷である旧レクスもユーリス領ではあるが、実際にセイルがユーリス首都の地を踏んだことは無い。世界樹を擁するユーリス神殿の総本山があるため、成人する時には必ず訪れることになるとは思うが。
 どうにせよ、このリベルの町からははるかに遠いのは確かだ。
「そんな遠くから、薔薇を探して一人で?」
 セイルの問いに、少女は首を横に振った。連れが一人いるのだというが、その姿は見えない。
「今は、ここにいないだけ。用事があるんだって」
「ふうん……それで、一人だったんだ。でも」
 祭で賑やかではあるけれど、知らない土地だ。セイルにとってはいつも違う色に染まっているといえ見慣れた町並みであっても、初めて来た少女にとっては広すぎる町だと思う。祭の喧騒を遠くに聞きながら、セイルはぽつりと、問う。
「寂しく、ないの?」
 少女は一瞬何を言われたのかわからないといった表情できょとんと首を傾げた。それから、少しだけ笑って言った。
「寂しくないよ。いつも、繋がってるから」
 セイルには、少女の言葉の意味がわからなかった。「繋がってる」というのはどういうことだろうか。頭を悩ませるセイルに対し、「寂しくない」と答えた少女は少女で、唇に手を当てて何かを考える風であった。
 その表情だけ見れば、その言葉を自ら否定したにもかかわらず「寂しそう」で、セイルは自分が何を考えていたのかも忘れて、少女の表情に見入ってしまっていた。すると、少女が急に顔を上げた。その表情は、何故か先ほどよりもずっと晴れやかな笑顔だった。
「ね、いいこと思いついた! あなた、用事とかない?」
「え、別に今日一日は無いけど……」
「それじゃあ、この町を案内してくれないかな。わたし、どこに何があるのかは知ってるけど、どこが面白いのかはわからないの」
 急な提案に、セイルは戸惑う。少女は「案内してくれたお礼はできないけどね」とちょっぴり苦笑いする。何もセイルだって少女からお礼が欲しいわけじゃない。けれど……
「連れの人、困らないの?」
「大丈夫。あの人なら、わたしがどこにいても見つけてくれるから」
 自信満々の少女の言葉に、セイルはもはや「そういうものなのか」と思うことしか出来なかった。確か、持ち主がどこにいるのか教えてくれる魔法の道具なんかもあるらしいから、きっとそんなものを持たされているのかもしれないと思っておくことにする。
「ダメかな?」
 少女は荷物の上からぴょんと飛び降りて、セイルの顔を覗き込む。立って並んでみると、少女の方がセイルより少しだけ目線が高かった。
 断る理由なんて無かったから、セイルもにっと笑ってみせる。
「いいよ。俺なんかでよければ」
「本当? ありがとう!」
 少女はぱっと笑顔になった。まるで南に咲く明るい色をした花のようだとセイルは思う。セイルもそれを見ているだけでちょっと嬉しくなってしまって、笑顔を深める。それから、ふと気づいて問うた。
「そういえば、君の名前も聞いてなかった。俺はセイルっていうんだ」
「……セイル?」
 ぱちくりと目を見開いた少女が、名前をオウム返しにする。それが妙に気恥ずかしくて、誤魔化すようにセイルは慌てて言葉を重ねた。
「そ、セイル。よくある名前だろ?」
 よくある名前であることは事実だ。クラスメイトにも同じ名前の生徒がいるくらい、本当にどこにでもいる名前なのだ。だが、セイルの想像に反して少女はにっこりと笑って言うのだ。
「いい名前。使徒ライザンを慕う聖者の名前ね」
 自分の名前の由来くらいはセイルも知っていたけれど、そうやって改めて言われると、いつもならばありきたりの名前としか思えない自分の名前がきちんと意味を持ったものに感じられるのが、不思議だった。
「わたしはスノウ。今日一日よろしくね、セイル」
 少女……スノウは、そっとセイルに手を差し出した。
「よろしく、スノウ」
 セイルは、その手をそっと握り返す。そうしないと壊れてしまいそうなほどに、スノウの手は小さくて、華奢だった。そして……小さく、その手が震えていることにも、気づく。
 それはそうだろう、いくら分厚いコートを着ているからと言って、こんな吹きさらしの場所に座っていたのだ、冷えるに決まっている。
 セイルは一旦握った手を離し、「ちょっと頭下げて」とスノウに言う。何を言われているのかわからなかったのか、不思議そうな顔をしながらもスノウは素直に頭を下げた。セイルは自分の首に巻いたマフラーを外して、スノウの首にかけてやる。
「これで、少しはあったかいんじゃないかな」
 スノウは毛糸のマフラーを見たこともないものを見るかのように広げたり巻きなおしたりしていたが、やがてかくりと首を傾げて問う。
「でも、セイルは寒くない?」
「俺は大丈夫。寒いのは慣れてるしな!」
 本当は、ちょっぴりやせ我慢だけど。それでも、震えているスノウの方が寒いはずだ。それならば、自分がちょっとくらい寒くても、問題は無い。声には出さなかったけれど、そう強く思う。
 すると、スノウはまたしばらくふかふかとマフラーを弄ったあとに、しっかりと首に巻きつけて、嬉しそうに笑った。
「ありがと、セイル。あったかいよ」
「よかった。それじゃ、行こうか」
 改めて差し出した手を、スノウが思ったよりもずっとしっかりと握り返す。その指先は冷たかったけれど、もう震えてはいなかった。それを確かめて、セイルは少女と並んで歩き出す。パレードが始まっているのだろう、賑やかな音楽と人々の歓声が、行く道の向こうから聞こえてきていた。

騎士と部下

 ライラは、神妙な表情で目の前に横たわり、呻き声を立てる隊員たちを見つめる。
 ギーゼルヘーアから『知恵の姫巫女』スノウ奪還の指令を受け、リベルに渡ったその日から、ライラの名の由来でもある聖女ライラを祭る聖ライラ祭に沸く街を、選ばれし騎士たちは昼夜問わず駆けた。
 そして、隊員の一人が、スノウを連れて逃げた男と思しき黒衣の男を発見したと言い出した……そこまでは、よかったのだ。ライラの指揮に従い、隊員たちは男を街のはずれにまで追い詰めて捕らえようとした。
 その結果が、これだ。
 実際に捕縛に参加しなかったライラ以外の全ての隊員が深い傷を負って、リベルの神殿に運び込まれたのだ。唯一の救いは、その傷が命を奪うようなものではなかったことだ。
 否、それは相手に「命を奪う意図がなかった」からだ。
 神殿の医師と共に彼らの傷を診たライラはそう断じた。
 隊員たちの体にはいくつもの傷が残されていたが、その全てが急所を綺麗に外していた。ただ、彼らの戦う力を奪うためだけにつけられた傷だ。しかも、ユーリスの騎士を相手取りながら、たった一人でこの状況を生み出したのだ。
 ――相当の手達だ。
 ライラは軽く唇を噛む。相手を確実に殺すために武器を振るうのは当然難しいことだが、相手を確実に「生かす」ために傷つけるのは、それ以上に難しい。どのような武器も、本来は相手の命をやすやすと奪い去ることができるはずなのだから。
 そう、この男が扱う武器など、最も「人殺し」に適した武器ではないか。
 今は包帯を巻かれ、治癒の魔法を施されている隊員たちを見渡して、ライラは表情を引き締める。いくら治癒の術が効こうとも、すぐに動けるようにはならないはずだ。その間は、自分一人でも男を追い、スノウの居場所を掴む必要がある。
 一刻も早く、スノウを助けなければならないのだ。例え無事でいようとも、時間は無慈悲に過ぎていくものだから。
 かろうじて、腕を壊されただけで済んだ若い隊員が、ライラを見上げて不安げな声を立てる。
「一人で行く気ですか?」
「当然です。あの男がまだこの街にいるとわかっただけでも幸いでした。あの男には、どうしてもスノウ様の居場所を吐かせる必要があります。それに」
 ライラは飴色の目で、隊員の痛々しく吊られた腕を見やる。
「例え奴がスノウ様誘拐の犯人でなかろうと、我々が排除すべき『敵』であるのは確かですから」
「……そう、ですね」
 隊員も眉を寄せてライラの言葉に低い声で応えた。右腕の篭手を確かめ、ライラは少しだけ唇を笑みの形に歪ませる。
「無茶はしませんよ。ただ、増員が来るまでは私が足止めしなくてはなりません。隊長から任された以上、失敗は許されませんから」
 隊長、ギーゼルヘーアには既に事情を話して増員を要請している。ただ、現在はセンツリーズの本殿も聖ライラ祭の真っ最中で、炎刃部隊の隊員のほとんどはそちらの守備についている。そのため、即座に人員を回すことは難しいとギーゼルヘーアは苦々しく言い放った。
 ギーゼルヘーアとしても、まさかスノウ誘拐の容疑者がそこまでの実力者とは思いもしなかったのだろう。どのような時にも気だるそうな態度を崩そうとしない彼には珍しく、通信石越しの声には何かを噛み締めるような響きが滲んでいたとライラは思い出す。
 もはや、今、頼れるのは自分の力のみ。
 ライラはぎゅっと篭手を嵌めた右手を握り締め……その感覚を確かめる。
 恐怖が無いと言えば嘘になる。ここに集めたのは炎刃部隊でも精鋭と呼ばれている者たちだ。それを一人で軽くあしらってみせるような相手に、師から未熟だと笑われてばかりの自分が太刀打ちできるだろうか。
 だが、考えていても何にもならない。
 立ち止まるくらいならば、歩き出せ。
 記憶の中に焼きついた「友達」の笑顔のために、ライラは神殿を後にした。
 金の髪を北からの風に靡かせ……青い紙ふぶきが散る街へと歩みを進める。その背中を見つめるのは銀色の蝶だったが、ライラがそれに気づくことは無かった。

少女と影

 一日というのはこんな駆け抜けるような速度で過ぎるものだったのか、とスノウは思う。
 スノウは祭の喧騒から少しだけ離れた場所に座っていた。既に日は沈んでいるが、ライラ祭の間、リベルの街は眠らない。青い薔薇飾りには明かりの魔法がかけられ、淡い光が世界を包んでいる。それはとても幻想的な光景だった。
 聖都センツリーズのライラ祭は何度も経験しているスノウだが、それもあくまで祭壇の上から町を見下ろすだけ……このような形で祭を「楽しむ」のは、初めてだった。
 何もかも、初めて尽くめだ。
 スノウは、その事実がおかしくてくすくすと笑う。すると、スノウの頬に不意に温かなものが触れた。顔を上げると、夜の闇に溶け込んでしまいそうな黒い男が、スノウにスープの入った器を差し出していた。
「ありがと」
 湯気の立つ器は少し熱かったが、冷え切ったスノウの手を暖めるにはちょうどよかった。スノウはスープに息を吹きかけながら、笑顔の男を見上げる。
 これからどうするのか、と声もなく問えば、男は小さく苦笑するのみ。
 どうやら、宿を取るのは少し難しいようだ。スノウも、何とか頭の中の「常識」をかき集めて考える。まず、このような祭の時期では外から来る客が多く、宿はすぐにいっぱいになってしまう。予約もなしに宿を取るのは無茶というものだ。
 それに。
 スノウは、いつも優しい言葉を投げかけてくれていた騎士のことを思い出す。今は随分よそよそしくなってしまったけれど、それでも自分のことを気にかけていてくれた彼女の姿が脳裏をよぎる。
 彼女は、間違いなく追ってきているだろう。男の声なき答えもスノウの考えを裏付けるものだった。彼女を含む炎刃騎士団の精鋭数名が、自分を追ってきているのは確からしい。
 神殿もライラ祭で忙しいというのに、よく国外まで騎士を派遣してきたものだと素直に感心するが、それが無責任に過ぎる考えであることもスノウ自身よく理解していた。自分が神殿を出るということは、「こういうこと」なのだ。
 神殿に、そして大切な騎士に迷惑をかけているのだと思うと、スノウの心は少しだけ翳る。それに気づいたのか、男がスノウの顔を覗き込んでくる。淡い青色の明かりに照らされた男の瞳は、冷たい色ではあったけれど穏やかだった。
「ごめんね。わたしがこんな顔してちゃ、ダメだね」
 あえて声に出して笑ってみせると、男は微かに笑みを曇らせて「言った」。
 ――無理はするなよ。「その日」までは待つんだろ?
「……ん、そうだね」
 言って、スープに唇をつける。海の香り漂うスープは、今まで味わったことのないものだ。決して高価な食材を使っているわけでも、特別な技術で作られたものでもないだろう、しかしスノウにとっては今までの人生で一番美味しいものだった。
 ゆっくり、大切なものを噛み締めるようにスープを味わうスノウを、男は何も言わずに見下ろしている。何を言う必要もないのだ、全てはスノウにも伝わっているから。
 そして、こちらを見る瞳に秘めた思いが不器用ながらもとても「優しい」ものであることもスノウにはわかっていたから、安心してここに座っていることができる。
 これを飲んだら休める場所を探そう、と男が声なき声で言う。目的を果たす日を前にして、体を壊していては何にもならない。そう言う男に、スノウは小さく頷いた。
 見上げれば、空には無数の星。
 初めての場所でも星は同じように見えるのだな、とスノウは当たり前のことを思った。そして、スープの器をぎゅっと握り締めて、思う。
 ――けれど、これから行く場所は、どうだろう。
 男もその問いには答えられなかったのだろう、押し黙ったまま、スノウと同じように星を見上げていたが、不意に音もなくその場を去った。その理由を知っていたスノウは、男の背を追うこともなく、空を見上げたままで……
 ただ、これから自分が向かう場所に思いをはせていた。

少年と友達

 あなたに、幸せの色が咲きますように。

  (聖女ライラの祝福)

 
 目を覚ませば、既に窓の外は別世界だった。
 昨日の夕方まではまだまだ準備途中といった様子だった道は、見事なまでに青い薔薇と色とりどりのリボンに飾られていた。寮の周りまで店が出ているわけではなかったが、一つ向こうの通りの賑わいが窓硝子越しにも伝わってくるようだ。
「おはよう、セイル。今日はいいお祭日和だよ」
 クラエスの声が柔らかくセイルの耳に響く。セイルはすっかりぼさぼさになってしまった赤茶の髪を何とか手櫛で整えつつ、既に着替え終わっているクラエスを見やる。
「おはよ。飯は?」
「何を言ってるんだい、セイル。こんな時間じゃとっくに片付けられちゃってるよ」
「あー……そっか」
「まあ、今日からライラ祭だから、食べるものには困らないはずだよ」
 クラエスが笑い、セイルも笑みを返す。待ちに待った祭、楽しまない方が嘘だ。窓の外に広がるのは青い空。同じくらいに透き通った青の花に彩られた世界が、セイルを待っている。
「さあ、着替えたら出かけるよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 セイルは慌てて顔を洗い、クローゼットからお気に入りのジャケットを引っ張り出す。今日から冬休みなのだ、制服を着る必要もない。手櫛を通しても依然ボサボサの髪は、帽子でごまかすことにする。
 この季節にはほんの少しだけ薄いジャケットを着てみて、これでは寒いだろうか、と思ったけれど、集う人々の熱気を考えれば問題ないだろうと思い直す。
 底のしっかりしたブーツを履いて、床を踏む感覚を確かめて。
「お待たせ、行こう!」
 セイルとクラエスは競い合うようにして寄宿舎を飛び出した。
 窓から見ただけでも祭の熱気が伝わってくるようだったけれど、外に出てみれば明らかに、普段と空気が違った。いい香りがあちこちから漂ってきて、道行く人々が聖ライラを表す銀のリボンを巻いた杖を振って笑いながら行き過ぎる。
 道を二回曲がって大通りに出れば、そこは既に人で埋め尽くされていた。セイルの故郷にも祭はあったけれど、こんなに多くの人が集まることなどなかったから、思わず目を白黒させてしまう。
「す、すっげー……」
「ライラの日なんて、この比じゃないよ。僕が前に友達と町に出た時には、すぐにみんなバラバラになっちゃってさ。お互いを探すのに苦労したよ」
「ま、まあ帰れなくなる訳じゃないから、大丈夫、だよな」
 セイルは小さく頬をひきつらせた。セイルやクラエスはこの町で暮らしているから、お互いはぐれてもどこをどう行けば寮に帰れるか、ということはわかる。
 だが、これでもしセイルが外から来た観光客だったりすれば、連れとはぐれた瞬間に絶望するかもしれない。そのくらいの人通りだったし、「この比じゃない」とクラエスが言うライラの日の人出に不安になるのも無理はない。
「まあ、はぐれたらすぐに寮に戻れば大丈夫さ。さてと、何から見る? まずは食べるものかな」
 クラエスはきょろきょろと辺りの屋台を見渡す。見慣れた肉と野菜を挟んだパンの屋台もあれば、わざわざ海を越えた首都からやってきたのだろう「首都ワイズ名物ワイズまん」ののぼりも立っている。それどころか、よく見れば各国の名物料理の屋台があちらこちらに立ち並んでいる。
「わあ、ユーリスうどんとか初めて見たよ!」
「だねえ。僕も食べたことはないな。食べるかい?」
「食べる食べる!」
 ユーリスうどん二つ、とクラエスが言うと、屋台の主は少年二人に器を渡してくれた。器いっぱいに入った海鮮の香り漂うスープに、ライブラでは珍しい太くつるつるした麺と、ユーリスの名産である野菜がたっぷり詰め込まれている。
 セイルは腹が減っていることもあり、湯気を上げるそれを立ったまま一心不乱に食べる。初めて食べる麺の不思議な噛みごたえと、スープにとけ込んだ海鮮と野菜の香りがとてもセイルの好みだった。
 そして、クラエスはといえば、見た目通りの猫舌なのでふーふーと麺を一本ずつさましながら口の中に入れていた。そんな食べ方で美味しいのかなあとセイルは思ったが、クラエスはクラエスで満足そうではあった。
「ごちそうさま、おじさん! 美味しかった!」
 セイルが器を返すと、屋台の主はにっと微笑んで言った。
「ありがとさん。お前さんたちに、幸せの色が咲くことを」
「うん。おじさんにも、幸せの色が咲きますように」
 セイルも歯を出して笑い、聖女ライラの祈りの文句を言葉にする。これは、聖ライラ祭の間だけの挨拶である。セイルの倍近い時間をかけてうどんを平らげたクラエスも同じように店主とお互いの幸福を祈り、その場を後にした。
「ごめんね、時間を取らせちゃったな」
「ううん。それじゃ、どこに行こうか」
「そうだなあ、今はまだ城址に行っても何もないだろうし、広場にでも行こうか」
「城址って、魔王城のこと? あそこで何かやんの?」
 セイルの言葉に、クラエスは楽しげな声音で答える。
「最終日、ライラの日には城門が開放されるんだよ」
「えっ、本当? 俺、前に忍び込もうとしてめっちゃ怒られたんだけど」
 城址、というのはかつて魔王が居城としていた建物のことだ。数百年の時を経てもなおほぼ当時と変わらぬ姿で佇む石造りの城の周りには、忍び込もうとする悪ガキどもを阻止すべく、常にリベルの役所から派遣される警備員が立っているのだ。
「僕もやったことあるけどね、正式に入ることができるのはこの日だけなんだ」
 と言っても、奥は崩れかかっていて危険だから、入り口周辺を見学できるだけだけどね、とクラエスは苦笑してみせる。
「それでも、魔王と聖女ライラが決戦したホールや、魔王が保管していた宝が見られるんだ、面白そうでしょう?」
「すげえ、それ、絶対見に行かなきゃだな!」
 セイルにとっては御伽噺の世界でしかなかった「聖女と魔王」の戦いの軌跡をこの目で見ることが出来るのだ、気にならないはずがない。
 クラエスによれば、その日は城址前で当時の聖女と魔王の戦いを再現した劇も行われるらしい。僕が所属する楽団の演奏つきだから、是非見に来て欲しい、とクラエスは言った。
「けど、普通に見ようと思うなら、早めに場所取りにいかないとすぐに人に埋め尽くされちゃうけどね」
「それじゃ、当日は早起きだな」
「セイルに、それができるかなあ」
「な、だ、大丈夫だよ!」
 きっと。
 ぽつり、小さな声で付け加えるセイルに、クラエスはくすくす笑いを投げかける。むうと頬を膨らませるセイルだったが、その時視界の端にふと何か見慣れぬものを見た気がして、思わず視線をそちらに向ける。
 ひらり、ひらりと冷たい風の中を舞う、銀色の何か。
 それはまるで。
「蝶々……?」
 まさか、と思う。こんな寒風の中を飛ぶ蝶など見たことがない。けれど、その姿はまさしく銀色に輝くアゲハ蝶だった。クラエスが、セイルの声を聞きつけて不思議そうに問いかける。
「蝶々だって?」
「うん、あそこを飛んで……あれ?」
 セイルが一瞬クラエスの声に気を取られた間に、蝶のようなものは忽然と消えていた。首を傾げるセイルに対し、クラエスは呆れた声で言う。
「こんな季節に蝶々なんて飛ばないと思うけどなあ」
「けど、確かに蝶々に見えたんだ。銀色の、見たことないアゲハ蝶だった」
「銀色のアゲハ蝶? それこそありえないよ。青い薔薇と同じで、今こんなところで見られるはずもないじゃないか」
 クラエスの言葉に、それもそうかと思い直す。もしかすると、銀色のリボンが風に煽られて飛ばされているところを、蝶と勘違いしたのかもしれない。銀色のアゲハ蝶など、それこそ伝説の中の存在でしかないのだから。
 とにかく、こんなところで立ち止まっていてもどうしようもない。セイルはクラエスと共に、再び人ごみの中を歩き出した。
 あちこちの屋台で足を止め、見慣れぬ玩具に目を輝かせ、広場に集まっていた大道芸人の芸に見とれる。
 そんなことをしているうちに、一日が駆け抜けるような速度で過ぎていった――

騎士

 知恵の姫巫女、スノウ・ユミルが拐かされた。
 騎士ライラ・エルミサイアが師であり上官でもあるユーリス神聖騎士団炎刃部隊長、ギーゼルヘーア・アウルゲルミルからその話を聞かされたのは、スノウが消えた翌朝のことだった。
「まさか。あのお方の部屋は神殿の中でも最も警備の厚い場所でしょう。それに、あのお方が夜中に外を出歩いていたとも思えません」
「だが、そのまさかが起こったんだ」
 ギーゼルヘーアは小さく溜息をついて、机の上に肘をついて頭を預ける。その態度だけ見れば気だるそうで、どうにも危機感が感じられない。だが、事態は決して楽観視できるようなものではなかった。
 どのような場にあったとしても部隊長の怠惰な態度はいつものことだが、今回ばかりは事態が事態だ。ライラはつかつかと大きな机の前に歩み寄ると、片手で強く机を叩く。
「師匠! 今こうしている間にも、スノウ様のお命が危険にさらされているのでしょう!」
「確かにそうとも言えるけどなあ」
 鬼気迫る表情のライラに対し、ギーゼルヘーアは四十半ばとは思えない、青年のような顔でへらりと笑う。先天性魔力中毒症……俗に言う『忌まれし者』として生まれた彼は、人間とは少しだけ時の流れ方が違う。
 その見た目と怠惰な態度と相まって、名誉ある炎刃部隊の部隊長でありながら、部下からも昼行灯呼ばわりされている彼に、生真面目なライラが苛立つのは当然といえば当然だった。
 ただ、ギーゼルヘーアの青い瞳の中にある常ならぬ光に気づき、ライラは出かけていた言葉を飲み込んだ。師は口元にだらしない笑みを浮かべながらも、静かな声で言う。
「迅速は何よりだが、闇雲に動くだけってのはむしろ『拙速』ってもんだろ? まあ、神殿も今まで手をこまねいていたわけじゃない」
 ほら、とギーゼルヘーアは無造作に何かをライラに投げてよこす。反射的にそれを受け取ったライラは、それが魔力によって過去の画像を焼き付ける「記憶の石」であることに気づいた。
 促されるままに覗きこんでみると、そこにはライラの見慣れた姿があった。
 ぼろぼろのフードを目深に被ってこそいるが、その下から垣間見える、知性溢れる青い瞳は見間違いようもない。彼女こそが、『知恵の姫巫女』スノウ・ユミルだ。
 そして、スノウの横に、見慣れぬ男の姿がある。細い身体に漆黒の外套を羽織るその姿は、さながら質量を持たない一つの影のようだった。
「……この男が、スノウ様をさらった賊……?」
「じゃねえかって、上は言ってる。とはいえ、これじゃ顔もろくに見えないけどな」
 確かに、男の顔は長く伸ばした焦げ茶の髪のせいでほとんど見て取ることができない。唯一わかったことと言えば、スノウの横で男が「笑っている」ということだけ。顔さえわかれば、神殿の情報網を使って何者かを掴むこともできたのだろうが、情報が少なすぎる。
 それに、これでは賊がこの男一人であるという証拠にもならない。神妙な表情で映る画像を見据えるライラに、ギーゼルヘーアは普段と何一つ変わらぬ口調で言う。
「これは、今朝サンプロトで映されたもんでな。この男は姫巫女を連れて、ライブラ共和国リベル行きの船に乗り込んだ」
 なるほど、とライラは頭の中に地図を広げ、その経路をイメージしながら、なおも「記憶の石」に映し出された画像を見つめる。
 何かが意識の片隅に引っかかるのだが……その正体は、わからないままだった。
 気を取り直し、顔を上げて意識を目の前の師に戻す。
「それで、私に捜索を?」
「正確には、お前さんに指揮を頼みたい。数人、うちの部隊の連中を貸す。お前らにはすぐにリベルに向かい、巫女を取り返してもらう」
「了解しました。必ずや姫巫女を保護し、賊の身柄を拘束いたします」
「ああ……」
 きっぱりとしたライラの言葉に対し、ギーゼルヘーアの言葉はあからさまに鈍い響きを帯びていた。ライラはそれに気づき形のよい眉を少し上げたけれど、「後は自分で勝手にやれ」とばかりにしっしっと手を振ってみせる師にそれ以上何を言うことも出来ず、ライラは部屋を後にした。
 部屋の扉を背に、ライラはもう一度だけ与えられた「記憶の石」を覗く。
 男に手を引かれ、船へ向かう少女の姿。傍目から見る限りはどこにでもいる少女にしか見えないけれど、今のユーリス神殿には無くてはならない存在である。
 それに。
『ねえ、ライラ』
 巫女にのみ纏うことの許された、純白の法衣の裾をつまんで笑った、黒髪の少女の姿が脳裏に蘇る。その髪を束ねていたリボンの緑色が、ライラの瞼の裏に今も鮮やかに妬きついている。
『わたしが巫女になっても、ずっと、友達でいてね。約束』
 伸ばされた、折れそうなほどに細い小指。神殿の外を知らない少女は、どこまでも無邪気で眩しかった。その柔らかな指に小指を絡め、自分も笑っていたのだと思い出す。
 「友達」を、こんな不条理な形で、失うわけにはいかない。いつかは必ず失う運命だったとしても……こんな結末は、望んでいない。
 少女の姿を映す冷たい石をぐっと握り締め、ライラは飴色の瞳で前を見据える。
「今、行くよ……スノウ」

少女

 鐘楼が零時の鐘を鳴らす。
 スノウはゆっくりと目を開けた。堅く扉を閉ざされた部屋は、完全にも近い闇に包まれていた。机の上に置かれたランプだけが、今にも消えてしまいそうな炎を揺らしている。魔法の青白い光とは違う、柔らかな暖色の炎だ。
 頬に触れる空気は冷たく、今が冬でも一番寒い時期であることを否応無く理解する。この地域は限りなく温暖な方だが、冬が厳しいのは変わらない。けれど、スノウは小さく息をついてから、暖かな布団をはねのけて立ち上がった。
 豪奢な椅子の上にかけられた外套を羽織り、ベッドの下の靴をはいて迷いのない足取りで窓へと歩み寄る。
 カーテンを開けば、窓の向こうにはスノウの世界が広がっていた。月のない空には女神の涙が無数に輝き、その下には広大な神殿――楽園の中心、女神と世界樹を守る唯一の場所、ユーリス正統神殿があった。
 神殿の所々から漏れる魔法の灯りで、巨大な白亜の建物がぼんやりと闇の中に浮かび上がって見える。スノウにとっては見慣れた光景だけれど、果たして「彼」にとってはどうだろうか……思いながら、窓も勢いよく開け放つ。
 ごう、と音を立てて冷たい風が吹き込む。思わずスノウは目を手で庇い、数歩下がる。白い息を風に流しながら、スノウは何とか目を見開いて風の吹く方向を見据える。
 刹那、音もなく、風と共に一つの影が窓からスノウの部屋に降り立った。
 闇に溶け込みそうな、それこそ影のごとき漆黒の外套に身を包んだそれは、長身痩躯の男だった。限りなく黒に近い髪を肩の上で揺らす男は、顔を上げてスノウを見た。
 長く伸ばした前髪の間から覗く瞳は、窓から吹き込む風と同じ、凍り付くような色をしていた。
 そんな男をスノウは息を殺して見つめ返す。否、それは「見つめる」というよりは「観察する」と表現した方が正しかったのかもしれない。酷白な笑みを象る薄い色をした唇や、革の手袋をはめた小さな手、柔らかな絨毯を踏むブーツの爪先まで、目に映る何もかもを脳裏に焼き付けるように眺め続ける。
 すると、男は唇の笑みを微かな苦笑に変えてみせた。それでも、視線の刺すような零下の光は少しも揺るがなかったけれど。
 そんなに不思議かい、と。
 男は声に出さずに「言った」。スノウは小さく首を横に振る。本当は、仕草で表さなくとも彼女がその言葉に否定したことは男に伝わっていたはずだが、反射的に首を振っていた。
 何も不思議だったわけではない。ただ、自分の目でこの男の姿を見るのは初めてだったのだ。これほどまでに「よく知っている」相手だというのに、今の今まで自分はこの男がどんな顔で笑うのかも知らずにいたのだ。
 知ろうとも、思わずにいた。
 けれど、それも終わり。
 これからスノウの世界は変わるのだ。何もかも、何もかも。
 スノウは微笑んで、男に向かって小さな手を差し出す。生まれてからほとんどの時間を神殿の中で過ごしてきたスノウの指先は、白く柔らかな曲線を闇の中に浮かび上がらせる。
 男もスノウに応えるようにひざまずき、手袋を噛んで引き抜いて、ごつごつとした手で彼女の手を取る。それは、騎士が己の主君の手を取るかのようで、くすぐったく思う。男が芝居がかっているのは今に始まったことではなかったけれど。
 冷たい色の瞳を細め、いたずらっぽく笑った男が「言う」。
 ――さて、君は俺に何を願う?
 当然、スノウが男をよく知っているように、男もスノウのことは何もかも理解している。当然、スノウの願いを知らないはずもない。
 だが、これはきっと儀式なのだ。
 最初で最後の旅の一歩を踏み出すために、必要な契約。
 だから、精一杯の笑顔を浮かべて、唇を開く。
「連れてって。青い薔薇の咲く、最果ての庭に」
 喉を使って放った言葉は、闇の中に凛と響きわたった。男は満足そうに頷いてスノウの手を引いた。スノウと男は並んで窓の前に立つ。
 暖かな光を投げかけるランプに背を向けて挑むのは、誰も結末を知ることのない旅路。誰もが手を伸ばしながら届かない、女神の涙を湛える星空にも似た、遥かな闇だ。
 けれど、スノウは眼前の闇を恐れなどしない。見上げれば、窓枠に足をかけた男が穏やかに微笑んでいる。スノウも男に微笑みを投げ返す。
 もはや恐れるものなど何一つない。今この瞬間に繋ぐ手の温もりを信じ――

 窓枠を蹴って、飛んだ。

03:ナインライヴズ・ツインテール(14)

 ――休みの日だからといって、怠けるわけにはいかない。
 八束結にとって、休日とは自己鍛錬の時間に他ならない。朝のカロリーメイトとサプリメント、そしてこの前隣人に差し入れてもらった里芋の煮付け――隣人は見かけによらず和食派だ――を腹に詰め込んだ後は、準備体操からのランニング。それが終われば捜査に関わりそうな書籍の通読と咀嚼。その他にも、休日にすべきことはたくさんあって、そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
 それらを全て片付けたところで、窓の外を眺めれば、太陽は随分西に傾いていた。日に日に短くなる昼の時間は、冬の到来、そして一年の終わりが近づいていることを意識させる。
 それでも、まだ日が沈むまではもう少し時間がある。
 凝り固まっていた体を軽く動かしてから、靴を履いて、部屋を出る。
 途端、吹き付ける北風に自然と身が震える。そろそろ、学校指定ジャージでは寒い季節だが、走っているうちに体は温まるだろう。そう自らに言い聞かせながらアパートの階段を下りていくと、大家がちょうど猫に餌をやっているところだった。
 今日は、きちんと、いつも目にする猫が全員揃っていることが確認できて、ほっとする。それどころか、今までいなかった三毛猫さんが増えている。
 すると、八束がこちらを見ているのに気づいた大家が顔を上げて、ふっくらとした頬を笑みにする。
「あら、ジョギング? いってらっしゃい」
「はいっ! 行ってきます!」
 快活に返事をして、駆け出す。少しペースを上げ気味で街並みを行きすぎていると、タンポポ色の自転車に乗った金髪の青年とすれ違った。隣人の小林青年だ。前と後ろの籠にぱんぱんになったレジ袋を詰めていたところを見るに、どうやら、また、食材を買いすぎている。赤貧のくせに食には妥協がない小林なので、きっと、明日あたりには「作りすぎた」と新しい惣菜を持ってやってくるに違いない。最近の、八束の楽しみの一つである。
 通りの角を曲がれば、この前、南雲と真が額を付き合わせた喫茶店がある。南雲は仕事中でも時々ふらりと姿を消すときがあるが、そんな時には大体ここにいるのだと、あの後もう一度顔を出したとき、店主が耳打ちしてくれたことを思い出す。
 そして、もう少し走っていけば――、真と出会うことになった交差点に辿りつく。
 最初は、何も知っているものがなく、自分を知るものもない場所だったこの町に、少しずつではあるけれど、思い出が増えていく。それは同時に、この待盾という都市に八束の居場所が増えているような、そんな感覚でもあった。
 そして、ちょうどその交差点に通りがかったところで、八束の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あ……、南雲さん、真さん」
 ちょうど交差点を渡ったところだったらしい南雲彰と南雲真が、二人で連れ立ってやってきた。それに、二人の足元をちょろちょろと落ち着きなく歩く二匹のダックスフントも一緒だ。二匹とも、八束の姿を目にした瞬間から、俄然尻尾を振って嬉しそうにしている。どうやら、嫌われてはいなさそうでほっとする。
「ちょこさんと、まろんさんのお散歩ですか」
 八束の問いに、仕事の外だからだろう、剃りあげた頭を隠すように、目深に帽子を被った南雲が軽い調子で応える。
「そうだよ。八束は体力づくり? いつも頑張るよな」
「お言葉ですが、南雲さんも、もう少し頑張ったらいかがですか? その調子では、もしもの時に絶対に困ると思います」
「それは私も思うな……、お兄ちゃんは、もうちょっと体を動かした方がいいと思う。家にいても夜通しゲームしてたり、かわいいドールハウス作ってたり、かと思ったらそこにガンプラ置いてたりするし」
 流石に八束でも「ガンプラ」が「ガンダムのプラモデル」の略称であり、それがどのような形状であるか、くらいは知っている。精緻な調度品を揃えたドールハウスにどどんと鎮座ましますガンプラを想像すると、シュールにもほどがある。
「いや真、あれは違うんだって。あの時はデスティニーガンダムが」
「話が完全に斜め方向です、南雲さん」
 このままだと、完全に南雲のペースに巻き込まれてしまうし、実際、南雲はそれを狙っていたのかもしれない。ちぇ、とわざとらしく舌打ちをして話を戻す。
「でもさー、体動かすのは俺の役目じゃないじゃん。それは八束の役目だよ」
「……南雲さん、念のため伺いたいのですが、頭脳労働は?」
「八束の役目」
 即答だった。それはもう、コンマ一秒の躊躇もない、即答だった。
「南雲さんの役目って一体何なんですか!?」
「お菓子食べる役目」
「それ仕事じゃないですよね!?」
 それは、八束にとってはいつも通りの不毛なやり取りであったが、真にとっては新鮮に映ったのかもしれない。最初は呆気に取られたように八束と南雲を見ていたが、ついに、くすくすと心底おかしそうに笑い出したのだった。
「八束さん、お兄ちゃんには本当に遠慮がないんですね」
「そ、そうですかね」
「でも、お兄ちゃん、こう見えて剣道はものすごく強かったって聞いてるし、今からでもやる気にさえなればできるんじゃないかな」
「えっ!? そうなんですか!?」
 南雲の、日ごろの動作の緩慢さを見る限り、全く「強い」というイメージが湧いてこない。ただ、南雲とてまがりなりにも警察官として認められている以上、何らかの武道には精通していてしかるべきなのだ。
 とはいえ、南雲はあくまでぼんやりとした様子で、真の頭をぽすぽすと叩く。
「真、余計なこと言わないの。お兄ちゃんはできる限り省エネエコロジーで生きてゆきたいのです。やらなくていいことはやらないで、エネルギーを温存したいのです」
「南雲さんは、少し動くだけで甘いものを必要とする辺り、単純に燃費が悪いだけなので、省エネでもエコでも何でもない気がします」
「うーんド正論」
 八束のツッコミもなかなか鋭くなってきたよね、と南雲は仏頂面のまま大げさに肩を竦める。この完全に人を食った、暖簾に腕押しはなはだしい態度こそが、南雲の南雲らしいところであり、ちょっぴり腹立たしいところでもある。
 ただ、今日に限っては、ぼそぼそと――それこそ、八束が気をつけていたからこそ、かろうじて聞き取れるくらいの囁き声が、続いていた。
「まあ、でも、そうだね。少しずつでも、色々と、取り戻してかないとだ」
「……南雲さん?」
 思わず南雲を見上げると、目が、合った。
 帽子の鍔が落とす影の下、分厚い眼鏡の奥で、それでも人より明るい色で煌いている、朽葉色の瞳。普段は虚ろにどこか遠くを見つめているようなその目が、今だけは確かに八束一人を見つめていた。
「いやね、ここしばらくの俺、ものすごくかっこ悪かったでしょ。お前にそれを気づかせてもらえて、ちょっとは考えを改めたわけよ。だから、もう一度お礼を言っとこうと思って」
 ――ありがとう、八束。
 いつになく真剣な声と、真っ直ぐな視線に、八束の方が戸惑ってしまう。返事をするにしても、一体何を言えばいいのかわからずに口をぱくぱくさせていると、南雲は不意に視線を逸らして、手に抱えた紙袋を示してみせる。
「そうだ、さっきたい焼き買ったんだけど、八束も食べる?」
「またですか」
「この季節のたい焼きはおいしいからいくらでも入っちゃうじゃない。ねー、真?」
 ちょことまろんの相手をしていた真は、話を振られて南雲を見上げ……、明らかな苦笑を浮かべた。
「おいしいのはわかるけど、食べすぎはよくないと思うな」
「えっ、真も俺の味方じゃなかったというのか……」
 先ほどは「考えを改めた」と言っていたが、一体、どこをどう改めたというのか。先ほどの妙に真剣な顔は一体何だったのか。色々とツッコミどころしかないが、真と向き合っている南雲の目は優しくて、それだけでも、確かに何かが「変わった」のだろう、という感触はあった。
 南雲は今日も笑顔一つ浮かべることなく、それでも、不思議と飄々とした態度でそこにいる。八束はそんな南雲しか知らないから、いつしかそれが当たり前だと思い込んでしまっていたが、そうではないということが、ここ数日でよくよくわかった。
 きっと、南雲にもあったのだ。ごく普通に、妹や家族と笑い合えていた頃が。ただ、それが何らかの原因で崩れて、南雲曰くの「何もかもが嫌になった時期」を経た結果として今の南雲がある。
 つい、と。八束は、南雲の手を引く。手袋の下に傷痕を隠しているという、左の手を。
「南雲さん、たい焼き、一ついただいていいですか?」
「はい、どうぞ」
 南雲は紙袋の中から一つ、ちいさな白い紙袋に入ったたい焼きを取り出して、八束に手渡す。今買ってきたばかりということもあって、まだ温かい。
 紙袋から取り出して、頭からかぶりつけば、表面はさくっと香ばしく、けれど内側はもちもちとした皮。そして、中にはぎっしりと餡子が詰まっている。甘ったるくはなく、それでいてしっかりと口の中に存在感のある、つぶ餡だった。
 一口、二口、と食べ進んでいると、突然、くしゃん、と南雲がかわいらしいくしゃみをした。八束は、つい、半分くらいまで減ったたい焼きから口を離して、南雲を見上げる。
「大丈夫ですか、風邪ですか?」
 最近めっきり寒くなってきたから、何処かで拾ってしまったのではないか、と心配してみるものの、八束の想像に反して南雲は「ううん」と首を横に振り、鼻をすすって言う。
 
「猫が見てんじゃないかな、きっと」

03:ナインライヴズ・ツインテール(13)

「ごめんなさいね、あなたの言う『ひとでなし』の事情につき合わせちゃって」
 南雲は、最初に会ったその日と同じ時間、同じ公園で、件の老婦人と二人並んで座っていた。南雲の膝の上には、かわいらしい動物の顔写真が特徴の、鼻セレブのボックスティッシュ。今度は対面する相手がわかっている以上、完全防備というわけだ。
 しかし、無限に垂れてくる鼻水を啜っていると、どれだけ億劫でも、病院に行ってアレルギー性鼻炎に効く薬でも貰っておくべきだったか、と思わずにはいられない。
 もちろん、老婦人はそんな南雲を眺めておかしそうにころころと笑っているわけだが。全く他人事だと思って、と睨んでみるも、分厚い眼鏡のレンズ越しだとその眼光もろくに通じないのか、ひとでなしの老婦人はさらにおかしそうに目尻の皺を増やしてみせるだけだった。
「そういや、彼は結局大丈夫だったんすか?」
「ええ。あと少し休めば元気になると思うわ。ほら、猫には九つの命があるっていうでしょう?」
 いたずらっぽく笑う老婦人に、南雲も「化け猫なら尚更ですかね」と返す。あの相馬とかいう青年が本当に化け猫――「猫又」だったことは、今更疑いようもなかった。八束や真は何とか煙に巻けたようだが、南雲の目というか鼻は誤魔化せない。滂沱の鼻水でひとでなしを嗅ぎ分ける嗅覚は鈍れど、この厄介なアレルギーそのものが、何よりもあの青年が「猫」であったことを物語っていた。
「あの子には、私の方からきつく言いつけておいたし、もうあなたの妹さんに手を出すこともないと思うわ。そうでなくとも、もうその気は無いって言っていたけど」
「まあ、こっぴどく振られてましたしね……」
 くしゅ、とくしゃみをしながら、南雲は軽く肩を竦める。あそこまできっぱりはっきり「いいお友達としか思えない」と言われてしまった以上、さしもの猫又といえど引き下がるしかなかったのだろう。ひとでなしならではの手段で真の心を奪ってやろう、なんて思うタイプでなかった辺りは、素直に評価してやってもいいと思っている。
 自然とずるずる垂れてくるほとんど水分そのものである鼻水をやわらかな肌触りのティッシュで受け止めながら、あの時彼に伝え忘れた言葉を思い出す。結局、あれから彼の姿を目にする機会は無く、今の今まで言いそびれていた、大切な言葉。
「妹を守ってくれたことは感謝してる、って、彼に伝えてもらってもいいですか」
「ええ」
 猫毒殺未遂――結局あの猫又の青年も死ななかった以上、全て『未遂』となった――事件の犯人である四十万という青年の人となりは、結局最後まで南雲にはよくわからなかった。ただ、いくら恋敵を排除するためとはいえ、不特定多数の猫を狙う「毒殺」という手段を採った以上、ろくな奴ではなかったのだろう。そもそもストーカーであったわけだし。そんなろくでもない野郎から、不甲斐ない自分に代わって真を守り続けてくれていたことには、純粋に、感謝をしているのだ。
 ただ、その一方で、こうも思うのだ。
「あと、ご愁傷様、とも」
「ふふ、きっと『あんたには言われたくない』って言うと思うわよ」
「わかってますよ」
 もちろんわざとだ。南雲とて人の兄、しかも相当歳の離れた妹を持つ兄としては、妹を狙う男はことごとく敵だ。いくら自分がダメな兄でも、それはそれとして妹が可愛くて手放したくないという気持ちは偽れない。
「あなた、本当に妹さんのことが大好きなのね」
「もちろん、好きに決まってんじゃないですか」
「それなら、もっと早く、素直な気持ちを伝えておけばよかったのに」
 老婦人の言うことはあまりにももっともだ。南雲も、顔には出せないまでも内心で苦笑する。本当に、簡単なことだったのだと、今ならばわかる。ただ、今じゃなければわからないことでもあったのだ。
「だって、好きだからこそ嫌われたくない、って思うのは当然の感情だと思いません?」
「わからなくはないけれど、あなたのそれは迂遠にすぎると思うわ」
「やっぱ、そうっすかね……」
「臆病になるのも、わからなくはないけれど。特に、あなたはきっと、そうでしょうね」
 ぐしょぐしょになったティッシュをあらかじめ用意しておいたコンビニ袋に捨て、次のティッシュを引き出しながら、南雲は使い物にならない鼻の代わりに口で一つ、深呼吸をする。
 そして、最初に老婦人と出会った時、老婦人は既に南雲が抱えている背景を理解していたのだったと思い出す。
「……やっぱり、ひとでなしの間でも有名な話なんすね、例の事件も、俺のことも」
 ええ、と老婦人は痛ましげに瞼を伏せる。
「嫌な事件だったわ。あなたを前に、言っていいことではないと思うけれど」
「いえ。ひとでなしの口から、あの事件が『嫌な事件』であったと聞けるのは、正直ありがたいです。そちらさんにとっても、やっぱり不本意な事件だったんですね、あれ」
「もちろんよ、だって私たちは……、いえ、総意であるかのように語るのはダメね。私と同じ気持ちの子もいれば、そうじゃない子もいる。人がそうであるように」
「そうですね。人が、そうであるように」
 南雲も、老婦人の言葉を繰り返す。確認、というよりは、自分自身に言い聞かせるために。
「ええ。だから、これはあくまで私の気持ちだけど、私は、あの事件をあってはならないものだと思っている。私は、できるなら、人と仲良く生きていけたらいいなと思っているの。もちろん、あなたとも」
「あー、それは、なかなか難しいっすね」
「あら、どうして?」
「だって、今回で、猫又相手でも猫アレルギーが出るって嫌ってほどわかっちゃったんですもん。顔合わせるたびにティッシュ箱持ち歩くのは面倒くさいっすし、鼻水と目のかゆみはなかなか体力も消耗します」
 本当は、どこかで期待していたのだ。猫又は長き年月を経た結果、二本に分かれた尻尾と超常の力を得た猫の妖怪だが、その時点でもはや「猫ではない何か」であり、アレルギーの原因物質も消え去っているのではないか、と。もしそうなっていれば、酷い猫アレルギーの自分でも、ティッシュ箱のお世話になることなく、しかも尻尾が二倍になった猫をもふもふできるのではないかと。
 もちろん、そんな夢は、今こうして何枚目かもわからないティッシュを消費している時点で、とっくのとうに潰えているわけだが。
「あなたって、面白い人ね」
「変な奴だとはよく言われます」
「それに、優しい人ね」
 南雲は、つい、視線を落として沈黙してしまう。
 優しい。八束も、よくそんな言葉を投げかけてくれるけれど、どうしても、納得できずにいる言葉の一つだ。
「仲良くなれない。なりたくもない。きっと、あなたはそう思ってる。人からも、ひとでなしからも、それだけの仕打ちを受けてきたから。でも、納得のできない感情を横に置いて、私の言葉を考えてみてくれたのよね、今だけは」
 そう、いくらひとでなしの方が共存を望んだとしても、南雲の根底には根深い拒絶がある。老婦人の言うとおりだ、南雲はひとでなしと「仲良くなりたくもない」のだ。
 ただ、その一方で、ひとでなしがそこにいる、ということは、南雲にとっての事実ではあるし、彼らの存在を否定したいわけではない。否定をしては、いけないのだ。
 そんなあやふやな態度を「優しい」と称されるのは、やはり、納得できないものがある、けれど。
「……今回の事件を通して、色々、考えさせられたんです」
 ティッシュを片手にとり、鼻と口を覆ってくしゃみを受け止める。そうしてから、鼻を押さえたまま、思いついたままの言葉をぽつり、ぽつりと落としていく。
「俺、何だかんだ、上手くやれてた方だとは思ってたんですよ。最悪の状況からは随分持ち直したし、このまま何も変わらない日々を過ごしていくだけなら、何とか生きてけるだろうなって思ってたんです。
 でも、今回の事件があって、ずっと目を背けてきたことと、無理やり向き合う羽目になって。ああ、俺って今もまだ目を閉じてるままだったんだな、って気づいちゃって。えーと、何て言えばいいのかな、こういうの」
 上手く言葉が浮かばない。元より頭の回転は鈍いのだ、特に甘いものを食べていないときは。いくつかの言葉を頭の中に浮かべては捨て、浮かべては捨て、結局いい言葉が思い浮かばないまま、口を開く。
「とにかく、『このままでいいのか』って、思ったんです。要するに、ちょっと悩んでます。これからの方向性に」
 長らく隔絶していた妹や家族との関係性が、ちょっとしたきっかけで改善できたように。あの日からずっと「このままでいい」と思っていたあれこれに、少しずつでもいいから、向き合おうとしてもいいかもしれないと、思うのだ。
 向き合おうと思えるようになるまで、随分かかってしまったけれど。
「……って、何か、すみません。自分語りなんて、全然楽しくないっすよね」
 否、我に返ってみれば、そんなつまらない語りを、名前も知らないひとでなしにしていること自体が奇妙なのだ。
 もしかすると、自分も知らないうちに、化け猫の術にはまっていたのかもしれない――そんな疑念をこめて老婦人を睨むと、老婦人は、その疑いに解を与える代わりに、口元の皺を深めて笑んでみせる。
「いいえ、興味深いお話を聞かせてもらったわ。だから、私からは、一つだけ」
 一つ、という言葉と一緒に、ちいさくもふっくらとした人差し指を立て。
「あなたが歩んできた足跡は、必ず、巡り巡ってあなた自身を助けるわ。だから安心してめいっぱい悩みなさいな」
「……それは、気休めですか? それともひとでなしの予知能力とかですか?」
「ふふ、どうかしらね?」
 そこははぐらかすのか。南雲は大げさに溜息をついて、ベンチの背に背中を預ける。そして、膝の上のティッシュ箱を抱えなおして、ぽつりと、呟く。
「巡り巡って、俺を助ける……、ねえ」
 何せ、今までのことを思い返してみれば相当ろくでもない人生だった。そんな自分の行動が、果たしていつか自分に返ってくるなんてことがあるのだろうか。あったとして、それは「助け」なんかではなく、自身への「罰」なのではないかと思わなくもない――が、それが真実か否かを確かめる手段が南雲にない以上、言えることは、ただ一つ。
 ひとでなしの言うことを、真に受けても仕方ない、ということだ。
 既にぱんぱんになりかけているコンビニ袋にティッシュを詰めながら、そういえば、一つ、確認しておきたかったことを思い出した。
「そういえば、結局、俺への見返りはなしってことになりますか? 真を悩ませてたストーカーについても、結局俺らが事件と一緒に解決することになっちゃったわけですし、ノーカンですよね」
 すると、老婦人は人のものではない目をぱちくりさせて、南雲を上目遣いに見上げてみせる。
「あら、もう、あなたへのお返しは終わっていたはずよ? あなたに事件の解決をお願いした時に」
「……は?」
「だって、あなたの私へのお願いは『妹さんの悩み事を解決する』だったでしょう。妹さんの一番の悩み事なんて、わかりきっているじゃない」
「え、そりゃあ、ストーカー……」
 ――本当か?
 頭の中をよぎる疑問符。この瞬間まで疑いもしなかった、ひとでなしとの契約。だが、その詳細までは一度も確認していなかったのだと思い至った瞬間、南雲の口から深々とした溜息が漏れた。
「ああ……、そっか。してやられたなあ」
 そう、そうだ。確かに「お返し」はとっくのとうに終わっている。
「……真の『一番の』悩みの種は、俺ですもんね」
 真が四十万というストーカーに悩まされていたのは本当だ。だが、それ以前からずっと、真を悩ませ続けていたのは、他でもない南雲自身だった。そして、それは同時に南雲を長らく悩ませているものでもあった、わけで。
「さっき、あなたは言いましたもんね。例の事件のことも、俺のことも、ひとでなしの間じゃ有名だって。だから、あなたは、俺が調査の見返りに何を願うのかなんて、最初からわかってたんだ。だから、先回りして、真が八束と『偶然』出会うように仕向けた」
 ひとでなしの情報網がどれだけのものかは知らないが、最低限、八束が南雲のパートナーという事実は十分知られていたと思っていいだろう。故に、南雲の知らない場所で、八束と真との間に関係性を作ったのだ。「ちょことまろんを脅かした上で、八束に意識を向けさせる」という偶然を装って。
「その上で、猫毒殺未遂事件の犯人探しを他でもない俺に依頼した。事件の犯人も、犯人が犯行に至ったきっかけが、真に惚れた相馬青年にあるってのも知った上で、だ。そうでなきゃ、事件と真との関係性は見出せない」
 ならば、とっとと犯人を捕まえてしまえばいい、とも思うが、そういうわけにもいかないのがひとでなし、というやつで。
「けれど、あなたは犯人に手は出せない。犯人が人である限り、人の手で。それが、あなたのルールだ。だから、俺が猫毒殺未遂事件の犯人を突き止めて、人の手による裁きを受けさせるのと引き換えに、あなたは、俺と真を仲直りさせたってことですね」
 すると、老婦人は、ぱちぱち、とちいさな手を叩く。
「大正解。あなた、探偵の才能があるわ」
「それ、喜んでいいんですかね」
 結局、今回の自分はひとでなしの手の上で踊らされただけということだ。それを思うと、何だか全身から力が抜けてしまう。いや、真との仲が改善したことに関しては、老婦人に感謝をすべきなのだとは思うのだが。
「でも、実は一つだけ想定外だったのは、あなたが、わたしからの依頼を最初から受けてくれたこと」
「……そうなんですか?」
「あなたは、断ると思ってた。いいえ、きっと、少しだけ前のあなたなら、絶対に断っていた。事件の内容に関係なく、『ひとでなしには関わりたくない』って言って」
 それは、と。言いかけて、口ごもる。老婦人の言葉が、あまりにも正しかったからだ。
 そのあたりの考え方は、正直、一朝一夕では変わらないと思っていた。先ほども言及していた通り、南雲はひとでなしを否定はしないまでも、拒絶しているのだから。
 だが、自分でも気づいていないうちに、何かが変わっていたのかもしれない。変わっていたのだとすれば、そのきっかけは――。
 頭の中に真っ先に浮かんだのは、こちらを見上げる、黒目がちの瞳。いつからか、側にいるのが当たり前になっていた、子犬のような娘の姿。ふわふわとしたそのイメージは、次の瞬間、連続して飛び出してきたくしゃみによって、あっけなくかき消されてしまうわけだが。
 うー、と唸りながら、ティッシュで鼻をかんでいると、老婦人が「ふふ」と杖の上で指を組み、うきうきとした調子で言う。
「これから、あなたがどう変わっていくか、どんな道を選ぶのか、とても楽しみね」
「完全に他人のこと、みたいな言い方しますね」
「ええ、だって、私はひとでなしだもの」
 そう言った老婦人は、猫の目を、三日月のようにつうと細めてみせた。

03:ナインライヴズ・ツインテール(12)

 それからは、本当に、他愛のない話になった。
 南雲の普段の怠惰具合、真の大学でのこと、八束がどんな暮らしぶりをしているのか。真は楽しそうに笑っているし、横の南雲を時々見れば、仏頂面こそそのままではあったが、その顔色や話しぶりを見る限り、相当気分がよいということは、伝わってくる。
 南雲と真の間に、かつてどのような確執があったのか、具体的なことは何一つわからないし、多分、それでよいのだと思う。今、南雲と真は楽しげに話していて、八束もその輪の中に加わっている。そんな時間を、温かな、かけがえのないものとして感じられていることを、素直に嬉しいと思っている。
 ただ――つい、八束の視線は、南雲の左手の手袋に向けられてしまう。今までも時折、南雲は右手の親指で左の手首を押さえることがあった。真が、その行動を南雲の「癖」だと指摘したことを思い出す。明らかに、辛そうな表情で。
「……この下が気になる?」
 声が、振ってくる。慌てて視線を上げれば、南雲が眼鏡の下から、人より薄い色の瞳でこちらを見下ろしていた。そして、一つ、ゆっくりと瞬きをして。
「見て気持ちのいいものじゃないよ」
 そう、言ったのだ。
 その一言で、八束ははっとした。思い至ってしまった。この、柔らく温かな空気を破りたくはなかったが、それでも、胸に詰まったものをそのままにしておくことができるほど、八束は我慢強くもなかった。
「傷痕、ですか?」
 南雲は、手袋そのものではなく手首を気にしていたのだ、と八束は確信していたし、南雲も顎を引いて「そういうこと」と言った。八束の想像に反して、普段通りの飄々とした調子で。
 手首の傷、といえば、ほとんどの場合それは自傷行為によるものだ。しかも、「見て気持ちのいいものじゃない」という南雲の言葉を信じるならば、今もなお痕が残るほどの深い傷だったのだろう。
 想像はできていた。それでも、言葉が出なくなる。口をぱくぱくさせることしかできない八束を一瞥した南雲は、ついと視線を逸らして、もうほとんど珈琲の入っていないカップを手に取った。
「自分を含めた何もかもが嫌になった時期があったんだ。真と喧嘩をしたのもそのせい。今なら、出血大サービスで詳しい話をしてやってもいいよ。まあ、他人のみっともない過去話なんて、聞いてもなんにも楽しくないだろうけど」
 お兄ちゃん、と。真がたしなめるような響きで南雲を呼ぶ。実際、八束でもわかる。愛想のない表情と、いたって軽い口調こそ変わらないままだったが、カップを握った南雲の手は、微かに震えていた。
 だから、八束はきっぱりと首を横に振る。
「いいえ。気になるのは本当ですが、今聞きたいとは思いません」
 八束は、今までも何度か、南雲の様子がおかしかった瞬間を目にしてきている。詮索してほしくない、という希望も何度か聞いた。それらが全て同じものかはわからなかったが、南雲が南雲なりの事情を抱えているのは、今回の件ではっきりとわかった。
 おそらく、八束がそれを知るのは今ではないのだ。
 今ではない、けれど――。
「しかし、南雲さんが話していいと思った時に、聞かせていただければ、嬉しいです。わたしに何ができるとも思えませんが、側にいる者として、南雲さんのことをわかっていたいと、思うのです」
 まだ辛い、と南雲は言った。逃げているのだとも、言っていた。その正体はわからないまでも、きっとまだ、南雲の中でも消化しきれないでいる何かなのだということくらいは、八束にもわかる。
 それが南雲の中で本当に消化しきれるものなのかはわからない。わからないけど、待っていたいと思うのだ。
「……うん、そう言ってもらえると、気が楽になるな。優しいよね、八束」
「いえ、わたしは」
 わかっている。そう言ったのは、どちらかといえば、自分自身のためだ。南雲のことを知りたいと思う自分のため。知らないまま南雲と共にいるのは、どこか、怖いとすら感じている自分のため。
 もしかすると、南雲は、そんな八束の思いすらも見透かしていたのかもしれない。口をへの字にした八束の頭を、無造作にぐしゃぐしゃと撫で回した。その、手袋に覆われた左手で。
「どうせ、必ず八束には話さなきゃいけない日が来るだろうしね。何しろこれが、俺が秘策にいる理由なんだ」
「え……?」
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
 八束の疑問符を軽く受け流し、南雲はテーブルの上の伝票を手に席を立つ。八束もつられて立ち上がりながら、つかつかと店の入り口の方へ歩いていく南雲の背に声をかける。
「南雲さん、御代は」
「いいよ、俺の奢り。せめてこの程度はいいとこ見せたいじゃん?」
 ひらり、と伝票を肩越しに示して、南雲は厨房の方にいるらしい店主に声をかけた。
 これでよかったのだろうか、と呆然と立ち尽くすしかなかった八束だったが、「あの」とかけられる声で、我に返る。見れば、鞄を手にした真が、小さく頭を下げたところだった。
「八束さん、今日は本当にありがとうございました」
「いえ、わたしは大したことはしていませんよ」
「でも、お兄ちゃんと仲直りできたのは、八束さんがいたからですよ」
 真は、ふわりと、花がほころぶように微笑む。今度こそ、何の憂いの影も見えない、きっとこれこそが彼女本来のものなのだろう、朗らかな笑みだった。
 そして、そんな笑顔を浮かべたまま、真は、今度は深々と頭を下げる。
「兄のこと、これからも、よろしくお願いします」
「え?」
「お兄ちゃんが、あの頃のことを少しでも話せるようになったの、八束さんのお陰だと思うんです」
「わたしの、ですか?」
 一体、何をどうしてそうなるのか、さっぱりわからない。しかし、どうも、真の中ではそういうことになっているらしく、にこりと微笑んで、八束の手を両手で包む。
「はい。だから、お願いします」
 しばし、呆気に取られて真を見つめてしまった八束だったが、一つ、深呼吸をして気分を切り替え、柔らかな真の手に、そっと手を重ねてみる。
「わたしは南雲さんにお世話になってる身なので、ちょっと不思議な気分ですが」
 何しろ、南雲は確かに怠惰でゆるゆるで普段は頼りないところもあるが、今回のように、いざ何かが起きれば八束よりよっぽど機転が利く。どちらかといえば、八束が足を引っ張ってしまうことの方が多いくらいだ。
 だから、そんな南雲を「お願い」されるのは、ちょっと違うような気もするが。
「これからも、南雲さんのお役に立てるよう、精進していきたいと思います」
 真の手を握り返して、そう誓うことくらいは、許されると思う。
 すると、ふと、視界にぬっと影が差した。見れば、八束のすぐ側に南雲が立ち、八束の視界に長い影を落としていた。そんなことをする必要もないはずなのだが、ほとんど反射的に、真の手を離して背中へと持っていく。
「なーに? お前ら、何の話してるの?」
「女の子同士の内緒のお話。ね、八束さん」
「ふえっ」
 突然話を振られて、八束はつい変な声を上げてしまう。ただ、内緒、と言われてしまっては、それ以上のことを言うわけにはいかない。おろおろと真と南雲を交互に見ていると、南雲が片手で真の、片手で八束の頭に手をやって、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。どうやら、南雲の人の頭を撫でたがる癖は、元々真に対してのものだったらしい。
「お前ら、『内緒』もほどほどにな」
 ――特に八束は、秘密にするのがでっかいストレスらしいから。
 いたずらっぽくそう付け加えてみせる辺り、完全に八束の性質を見透かしている。つい頬を膨らませてしまうものの、南雲はそんな八束の頬をぺんぺんと軽く叩いて、そのまま店の外に出て行ってしまう。
 真と八束は、お互いの顔を見合わせて……、どちらからともなく噴き出して、南雲の背中を追って店を出た、の、だが。
「待ってくれ!」
 一歩、店の外に足を踏み出した瞬間に、一人の青年が八束たちの前に飛び出してきた。
 それは、ついさっき、忽然と姿を消したきりであった相馬青年であった。相変わらず顔色は悪いが、それでも、先ほどよりは幾分かマシになったのか、しっかりとした足取りで真の前に歩み寄る。
 真も相馬のことは不安に思っていたのだろう、心配の感情を面に浮かべて、一歩ずつ、相馬の方に近づいていく。
「相馬くん? さっきは、一体どこに……」
「さっきは、急にいなくなって本当にごめん。ただ、その、どうしても、南雲に言いたいことがあって、戻ってきたんだ」
「うん。話がある、って言ってたよね。だから、大学前のコンビニで待ち合わせだって」
 そういえば、先ほど、真はコンビニの前で誰かを探すような素振りをしていた。どうやら、その相手が相馬であったらしい。相馬はこくこくと頷いて、目の前にまで歩み寄ってきた真の目を真っ直ぐに見据えて、口を開く。
「南雲、その……、俺、南雲のことが好きなんだ!」
「え……っ!?」
「それで、今日こそ、思いを伝えようとしていたんだ。どうか、俺と付き合ってくれないか?」
 真は、目を白黒させて相馬を見つめるが、相馬はいたって真剣な表情で、真を見つめ返すばかり。どうやら、相馬は真剣に、真との交際を迫っている、らしい。
 何故あの時突然消えたのか、化け猫なんて呼ばれていたのか。色々と相馬に聞きたいことはあったのだが、真と相馬の間に割って入るにはあまりにも空気が張り詰めすぎている。
「南雲さん……、ひっ!?」
 意見を求めようと横に立つ南雲を振り仰いだ瞬間、八束は凍りつくしかなかった。
 南雲は、普段通りの仏頂面だった。そのはずだ。八束の目から見る限り、表情そのものには特別な変化は見出せない。だが、今日ばかりは少々剃りの甘いこめかみ辺りに、明らかな青筋が浮いている、わけで。
「え? 何? お前は真の何なの? 誰の許可を取ってそんなこと言ってくれてんの?」
 ――うわあ。
 八束は思わず変な声を上げそうになった。こんな南雲は初めて見たし、率直に言って、あんまり見たくなかった。確か、こういうのをシスター・コンプレックスというのだったか。完全な和製英語だが。
 ただ、それを相馬に直接言わず、まずは真の反応を待っている辺りは、まだ理性のあるシスコンといえるかもしれない。手遅れのシスコンであることには変わりないのだが。
 かくして、緊張の一瞬が訪れた。
 真の後ろから投げかけられる殺気には気づいていないのか、目を見開いて唇を引き結び、真の答えを待つ相馬。頬を赤らめつつ黙り込んでしまう真。そして、じっとりとした目つきで相馬を睨み続ける南雲。
 これは、もしかすると、真の返事によってはものすごく厄介なことになるのではないか。八束も、ごくりと唾を飲み下す。
 やがて、唇を噛み締めながら俯いていた真が、ぱっと顔を上げて、相馬を見据えて。
「……ごめんなさいっ!」
 深々と、頭を下げたのであった。
 相馬は、ぽかんとした。多分、真が何を言ったのか、一瞬、飲み込めなかったのだと思う。ただ、次の瞬間、自分が振られたのだと理解して、ただでさえ青い顔をさらに青くしながらも、口を開く。
「え、あ、ど、どうして?」
「その……、色々とよくしてくれたことはとっても嬉しかったんだけど、でも……」
「で、でも?」
「相馬くんのこと、いいお友達としか思えないの! だから、ごめんなさい!」
 もう一度、先ほどよりもさらに深い角度で頭を下げる真。それを目にした相馬は、真の頭から視線を逸らして、ふらり、と、一歩下がる。
「そ、そっか。その、ご、ごめんな、俺だけ、変な勘違いして」
 一歩、二歩、後ずさったかと思うと、真に――つまり、八束と南雲にも背中を向けて、脱兎のごとく駆け出した。
「ちょっ、あっ、相馬さん、ちょっとお話を聞かせてっ」
 八束の呼び止める声に振り向きもせず、相馬はそのままその場から駆け去ってしまった。
 かくしてその場には、申し訳なさそうな顔をしたまま相馬の消えていった方向を見つめる真と、手を伸ばした姿勢のまま固まるしかなかった八束、そして。
「せいせいした」
 と、いつになくすっきりとした顔をした南雲だけが残されたのだった。
「南雲さん、流石にそれは相馬さんがかわいそうだと思います」
「兄としてはごくごく正直な感想だから仕方ないね」
「お兄ちゃん、昔からそうだもんね」
 真も真で、何故か嬉しそうに南雲を見上げている辺り、実はこの妹の方も相当なブラザー・コンプレックスなのかもしれない。幸せそうで何よりである。
 南雲は、無造作に手を伸ばして八束の頭を乱暴に擦るように撫で、ひらひらと手を振る。
「さ、帰ろう帰ろう。今日は何かもう色々あって疲れたしさー」
「……いいんですか?」
 相馬の行方はやはり気になるところだったが、南雲は「えー」と露骨に眉間の皺を深めて言う。
「だって、どこ行ったかもわかんないじゃん。あとは、猫の事件を担当してる安倍ちゃんあたりに任せときゃいいって」
「そうでしょうか?」
「そうそう。俺たちのお仕事はこれでおしまーい。じゃ、また明日ね八束」
 真に「帰ろう」と声をかけ、南雲はふらふらと歩き出す。真も笑顔でそれに続く。二人で当たり前のように一緒に帰る――そんなことも、南雲にとっては、数年ぶりのことなのだと思うと、二人の後ろ姿を眺める八束にとっても感慨深いものがある。
「そうだ、お兄ちゃん、お父さんとお母さんにも、きちんとお話ししてよね」
「げっ」
 ……この様子だと、南雲家ではあと、もう一波乱ありそうだが。
 家の方向が違うため、八束はその場で南雲たちを見送りながら、つい、相馬のことを考えずにはいられない。突然消えた謎も解けなければ、化け猫と呼ばれた理由も明らかになっていない。そもそも、彼は本当は何者だったのだろうか。
 相馬が消えていった方向を見れば、一匹のトラ猫が、ぴゅっと駆け去るところだった。

03:ナインライヴズ・ツインテール(11)

 結局のところ。
 南雲真に恋心を抱き、陰から見守っていた――と自称する、客観的に言えばストーカーであった四十万太一が、ある時期から真に近づくようになった相馬平治に嫉妬。その上、何らかの理由で相馬青年を『化け猫』と誤認し、真の行動範囲に存在する猫の毒殺、つまり相馬の毒殺を企てた。それが、今回の事件の真相であった、らしい。
 猫違いで殺されかけた猫たちにとっては、災難としか言いようがない事件だが、南雲彰にできることといえば、彼らの無事の快復とこれからの幸福を祈ることだけだった。
 四十万については、後は安倍川がどうにかしてくれるだろう。消えた相馬については、考えるのは後でいい、と思う。
 
 
 今は、ただ。
 難しい顔で沈黙し続ける真と向き合っているという、ここしばらくで最大級の気まずい空間をどう切り抜けるかに、全思考回路を投入すべきであった。
 
 
『事件が完全に解決するまでは、何度か話を聞かせてもらうかもしれんが、今日は帰っていいぞ』
 安倍川が気を利かせて、簡単に真を解放してくれた、そこまではよかった。だが、それを聞いた八束結が、俄然鼻息荒く言ったのだ。
『南雲さんは、今こそ真さんときちんとお話しするべきです! このようなことがあってなお、真さんに何も言わないつもりですか!?』
 何故かは知らないが、八束は、どうしても南雲と真を仲直りさせたくて仕方ないらしい。正直、でっかいお世話だと思わずにはいられなかったが、必死さを滲ませる八束を前にそんなことを言う気にもなれなかったし、そもそも真の手前、八束の言葉を否定すると更なる溝が深まるだけだということがわからないほど、南雲も馬鹿ではない。
 だが、まだ終業時間ではない、猫殺しの手がかりを見つける、という目的も果たしたのだから、勝手に外をふらつくわけにもいかないだろう――と、南雲にしてはまともな理由をでっち上げたと思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
『いい機会じゃないですか。ご兄妹水入らずでお茶でも飲んでくればいかがですか? 今日くらいは大目に見ますよ』
 そう言って狐じみた笑みを浮かべてみせた係長の綿貫栄太郎には、しばらく、お菓子を分けてやらないと決意する。あの男は、南雲と真の間にある確執の原因をわかっていてそういうことを言うのだから、性質が悪いにもほどがある。
 と、いうわけで。南雲と真が何も言えずにいる間にお膳立ては整い、南雲は今、行きつけの喫茶店で、数年ぶりに至近距離で真正面から真の顔を直視していたのであった。「兄妹水入らず」のくせに、何故か八束まで南雲の横で難しい顔をしているのも無性に居心地が悪い。
 この気まずい空気を察してか、普段は常連である南雲に気さくに話しかけてきてくれる店主も、注文した分の飲み物とケーキをテーブルに運んできたきり、遠巻きにこちらを見ている。他に客がいないのはいつものことだが、それが余計に嫌な沈黙を加速させていた。
 それでも。
「あの……、さ」
 何とか、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出しながら、南雲は、つい視線を落としてしまう。本当は、きちんと向き合わなければならないとわかっているけれど、意識してそれができるならば、きっと、今の今まで真から逃げ続けることだってなかった。
 そのくらい、今までの南雲にとって、真との隔絶は決定的なものだった。
 それでも、話をしたいと思う気持ちは本当だ。八束に背を押されたということもあるが、何よりも、今の自分ならばもう一度、真と向き合えるかもしれないと思えるようになったのだから。
 だから、顔には出せなくとも、できる限り穏やかに聞こえるように心がけて、口を開く。
「今日は、その、災難だったな」
「そうだね。でも、大丈夫だよ。お兄ちゃんも、八束さんもいてくれたから」
 そして、再び沈黙が流れた。
 ろくに言葉を続けられない自分に何よりも腹が立つ。言いたいことはただ一つなのだから、とっとと切り出してしまえばいいというのに。
「……お兄ちゃん」
「ん」
「その癖、抜けてないんだね」
 言われて、視線を手元に移せば、ほとんど無意識に、手袋で覆った左手の手首を、右手の親指で擦っていたことに気づいた。今更誤魔化しても無駄なのはわかっていたが、慌ててコーヒーカップに手をかける。
 一口、ブラックの珈琲を喉の奥に流し込んでいると、真が、小さな声で問いかけてくる。
「まだ、辛い?」
 横で、八束が不思議そうに首を傾げているのが目に入る。
 八束は、南雲がどうして待盾署の片隅で燻っているのかも、どうして真と仲違いしてしまったのかも、知らない。
 別に、隠しているつもりはないし、有名な話なのだから調べればすぐにわかることだが、不思議と、八束に伝えるには気が引け続けたあの日の出来事。
 その日のことを、思い出さない日はない――、と、思っていたのだが。
「どうだろう。でも、近頃は、少しだけ楽になった気がするんだ」
「うん、わかるよ。お兄ちゃん、最後に話した時よりずっと優しい顔してるもん。あのね、八束さんにもお兄ちゃんの話を聞いてね、ほっとしたんだ。お兄ちゃんは、私が思ってたよりずっと前向きで、ずっと強い人だったんだなって」
「そんなこと、ない」
 つい、反論が口をついて出た。本当に前向きであるならば。本当に強いというならば。自分はこんなところで足踏みなどしていない。
「そんなこと、ないよ。俺は、ただ逃げてるだけだ。今も、ずっと」
 真を前にして、言いたいこと一つ言えないままでいることだって、なかったはずだ。
 しかし。
「逃げてたって、いいと思う」
「え?」
 はっと顔を上げれば、真と目が合ってしまった。生まれつき、人より少しだけ色素の薄い、そんなところばかり自分と似てしまった朽葉色の目が、真っ直ぐに南雲を見つめていた。
「逃げててもいいよ。向き合うのが難しいってことくらい、私にもわかるもの。でも、一つだけ、ずっとお兄ちゃんに言いたかったことがあるの」
 一つ、呼吸を置いて。
 
「いなくならないで」
 
 ――あの時は、ちゃんと、言えなかったから。
 そう付け加えた真の目が、潤む。
 左手の手首に触れて、思い出す。久しぶりに家に帰ってきたその日、真と大喧嘩した記憶を。あの時の南雲はあまりにも壊れていて、あの時の真は、多分、あまりにも言葉が足りなかった。
『そうだよ。俺が、いなくなればよかったのに』
『違う! お兄ちゃんは何も悪くないんだって!』
『うるさい。そんな嘘なんて聞きたくない。構わないでくれ、触れないでくれ、頼むから……、一人に、してくれ』
『――っ、そんなこと言うお兄ちゃんなんて、大嫌い! もう知らない!』
 今ならわかる。あの日交わした言葉は、お互いに、何一つ噛み合っていなかったのだ。噛み合っていないことをお互い自覚できないまま、数年間を過ごしてしまったことに、愕然とする。
 だが、やっと、気づくことができた。気づけたなら、あとは、一歩を踏み出すだけだ。左手の手首から、手を離す。せめて、真にだけはこの思いが嘘ではないと伝えるために。
「俺は、ここにいるよ。ここに、いるから」
「勝手にいなくならない?」
「うん。お前に、何も言わずにいなくなるなんてことは、ないよ。絶対に」
 今なら。そう、今ならば、きちんとその目を見返すことができる。想像していたよりも遥かに穏やかな気持ちで、長い間、言いたくても言えなかったことを、言葉にする。
「ごめんな、真」
 本当は、最初に言うべきだったんだけど、と。付け加えて、一つ呼吸を挟む。言葉というのはあまりにも不自由な道具で、南雲が伝えたいことを余すことなく伝えるには、あまりにも足らない。それでも、南雲は口を開く。これ以上、間違え続けないために。
「あの時の俺は完全にどうかしていたし、今も多少どうかしてる。まだ、昔みたいには笑えないし、時々すごく落ち込むし、多分、お前に迷惑かけることも、たくさんあって」
 うん、と真が頷く。その真っ直ぐな視線に背を押されたかのように、今までずっと言えなかった言葉が、堰を切ってあふれ出す。
「俺はお前に迷惑かけるのが嫌だったし、何より、真の考えてることがわからなくて、それが怖かったんだ。もう一度はっきりと拒絶されたら、それこそ、家にも居場所がなくなるんだって怯えてた」
 本当にそうなっていたら、南雲は既に「ここにいない」。今現在はともかく、そのくらい追い詰められていた時期だったら、迷いなく最悪の選択肢を選んだことくらいは、確信している。
「でも、それは単純に、お前の話を聞こうとしなかっただけなんだよな。今まで何度も俺に話をしようとしてくれていたのに、俺はただただ怯えて逃げ回ってた。だから、ごめん」
 南雲は、深く頭を下げる。そんな仕草一つで思いが伝わるとは思っていなかったが、それでも、これが、今の南雲にできる精一杯だった。
「お兄ちゃん……」
「今までのことを許せとは言わない。でも、これからは、真の話を聞きたい。俺も、話をしたい。もちろん……、お前が、嫌じゃなければ、だけど」
「嫌じゃない!」
 顔を上げれば、真が、ほとんど身を乗り出すようにして、南雲を真っ直ぐに見据えていた。そして、今にも泣き出しそうな顔で……、けれど、確かに、微笑んだ。
「私こそ、ごめんね。ずっと、お兄ちゃんの気持ちを勘違いしてた。勝手に怖がってたのは、私も一緒だよ」
「……お互い様?」
「うん、お互い様」
 真はくすくすと笑う。南雲は、それに応えて笑うことはできない。できないけれど、ほんの少しだけ、意識して口元を緩める。とてつもなく、酷い顔になってしまうとは思うけれど、真にならそれが、今の南雲にできる精一杯の笑顔なのだと伝わると信じて。
 その時、ずず、という雑音が耳に入ったことで、我に返る。音の出所は、南雲のすぐ横でオレンジジュースを飲んでいた八束だ。グラスの中のオレンジジュースは既に氷の下に残るのみとなっていて、南雲もそこで自分の手元の珈琲がすっかり冷めていることに気づいた。
 南雲の視線がこちらに向いたことに気づいたのか、話は終わったのか、とばかりに目をぱちぱちさせる八束。その仕草があまりにも普段通りで、不思議と、全身に入っていた力が抜ける気分だった。
「あー……、何か悪いな、うちの事情に付き合わせて」
 この場に成り行きでついてきた八束に「付き合わせた」というのも変な話ではあるが、兄妹の不毛なすれ違いに終止符を打ったきっかけは、紛れもなく八束であった。その感謝と、拗れに拗れきった兄妹仲を見せ付けてしまった申し訳なさをこめて、軽く頭を下げる。
 すると、八束は「いえ」と言ってオレンジジュースのストローから口を離し、黒々とした瞳で南雲を見上げてみせた。
「南雲さんが日和ったことを言おうものなら、頬でもつねって差し上げるべきか、とは思っていました」
「八束って、案外俺に容赦ないよね」
「しかし、真さんと南雲さんが仲直りできて本当によかったです。お友達の嬉しそうな顔を見るのは、こちらまで心が洗われる気分ですね」
 満面の笑顔を見せる八束。その笑顔はやたらと眩しいが、一つ、引っかかる言葉があった。
 ――お友達。
 今までの経験からするに、南雲のことを「先輩」、もしくは「相棒」と称するはずの八束が「お友達」という呼称を使うということは、それは南雲のことではなく。
「真、こいつといつ友達になったの?」
 そう、何だかんだ聞きそびれていたのだが、八束と真がいつの間にか知り合っていたことには内心めちゃくちゃ驚いたのだ。何しろ、八束は、職場の付き合いや近所付き合いこそそつなくこなすが、自ら積極的に同年代の「友達」を作れるような娘ではないからだ。
 真はほんわかとした笑顔を浮かべて、南雲の問いに答える。
「この前、ちょことまろんのお散歩の時に、偶然お話しする機会があって」
 細かく話を聞くと、その日は、目の前を行きすぎた野良猫に驚いたのか、ちょことまろんが突然真の手を振り切って駆け出してしまったそうだ。そして、二匹が突進した先が八束だった、らしい。
 そう、何故かは知らないが八束はやたら犬にもてる。もしかすると、八束本人も自覚していないのだろうが、実は人の姿をした豆柴なのかもしれない。そんなわけがないことは、ひとでなし探知機の南雲が一番よく知っているのだが。
「気をつけなよぉー、真。こいつ、結構取り扱い面倒くさいからね?」
「南雲さん!?」
 八束の抗議の声は聞こえなかったことにする。八束はいつもの通りにぷっくりと頬を膨らませ、真は南雲から見ていつぶりかもわからない、朗らかな笑顔を浮かべている。
 こんな日が来るとは、きっと、五年前の俺は夢にも思わなかっただろうな。
 思いながら、南雲はもう一口、すっかり冷めた珈琲を啜った。

03:ナインライヴズ・ツインテール(10)

 八束は確かに目にした。
 コンビニの前で立ち尽くしていた真に、どこかふらついた足取りで歩み寄っていく、この前真と共にいた青年――相馬の姿と、突然コンビニの建物の陰から現れて相馬に飛びかかる、見知らぬ男の姿を。
 相馬青年ははっとして飛び掛ってきた男に視線を向けたようだったが、その動作もあまりに緩慢で、あっけなく男に殴り倒されてしまう。
 そして、目の前でもみ合いになる二人を見た真が悲鳴を上げるのとほとんど同時に、八束の手を振り払って駆け出した南雲の横顔も。
 その時の南雲は、今まで八束が一度も見たことのない、真剣かつ必死な顔つきで、どこまでも真っ直ぐに、真を見つめていた。
「南雲さんっ!」
 それを追うように、八束と安倍川も駆け出していた。
 南雲は、今まであれだけ真と接触するのを躊躇っていたのが嘘のように、おろおろとする真の手を取った。その瞬間、真が、弾かれるように南雲を見る。
「お兄、ちゃん?」
 一瞬だけたじろぐような様子を見せたが南雲だったが、それでもこの緊迫した状況下ということで、かろうじて理性が勝ったのだろう。真の目をしっかりと見ながら、その手を引く。
「真、下がってろ」
「でも、相馬くんが……、それに」
 それ以上の声は、八束には聞こえなかった。相馬に馬乗りになった男の上げる、言葉にならない罵声の方が、ずっとよく響いていたからだ。
 通行人やコンビニから出てきた客が、関わり合いになりたくない、とばかりにもみ合いになる男二人を避けて早足に行きすぎていく中、八束は安倍川と共にその只中に飛び込む。
「おい、お前ら、何やってんだ!」
 安倍川は、アスファルトの上に倒れこんだ相馬青年に掴みかかっていた男を引き剥がしにかかる。八束も、男と相馬の間に立ちはだかって、それ以上の暴行が加えられないようにする。
 男は、見たところ真や相馬と変わらないくらいの年齢に見える。服装は私服、という点も真や相馬と共通している。小柄で細身、少しばかり前歯が出ているところを見るに、何となく鼠のような印象を受ける。
 だが、その、ともすれば貧相とも取れる印象の男は、安倍川に拘束されながらもなお抵抗を続けており、じたばたしながら、八束――というより、その後ろの相馬を睨み続けている。
 それでも、流石に鍛え上げた警察官である安倍川の腕から逃れることはできなさそうだ、と判断し、八束は倒れたままの相馬の方に向き直る。
「大丈夫でしたか?」
「あ……、この、前の」
 頬を殴られた衝撃からか、それとも他の理由からか、相馬の顔は酷く青い。それでも、うっすらと開かれた目は、一応八束の姿を捉えてはいたらしい。
「はい、八束です。何があったのです?」
「それ、は」
 言いかけたところで、顔を歪めて身を丸める。必死に痛みを堪えるようなその動きは、どう考えても、殴られただけが理由とは思えなかった。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
 慌てて声をかけるも、相馬は八束の声が聞こえていないのか、苦しげに呻くばかり。これは、一刻も早く救急車を呼ぶべきではないのか。八束は、安倍川がしっかりと男を押さえているのを確かめ、肩から提げていた鞄から携帯電話を取り出す。
 その一方で、混乱の渦中から一歩離れ、真の肩を支えて立つ南雲が、険しい顔つきで喚き散らす男を睨んでいるのを横目に捉える。次の瞬間、いやによく通る南雲の声が鼓膜を震わせた。
「真、あいつら知り合い?」
「お、同じ講義を受けてる、四十万、くん。倒れてるのが、相馬くん」
 真の震え声を受けた南雲は「そう」とだけ答えて、四十万と呼ばれた男の方に視線を戻す。四十万は、安倍川に羽交い絞めにされながらも、ぎゃあぎゃあと声を上げ続ける。最初は甲高い声もあって言葉として聞き取れなかったそれが、不意に、八束の耳にはっきりとした言葉として飛び込んできた。
「騙されるな南雲さん! そいつは、化物だ!」
 化物、という言葉に、救急車を呼ぼうと携帯のボタンにかけていた手が、止まる。相馬は顔を歪ませながらも、その虚ろな視線は八束ではなく、八束の肩越しの四十万に向けられていた。何かを言い返そうと口を開きかけたようだったが、それは声にはならず、代わりに四十万のきんきんとした声だけが響き渡る。
「僕は知ってるんだ、こいつが、人の姿を借りた怪物だって! 正体を隠して、南雲さんを誑かそうとしているんだ!」
 それは、傍から聞けば妄言としか取れない言葉。だが、八束はそういうことを言う人間を、今まで何人も見てきている。この町――特異点都市ともあだ名される待盾市には、遠い昔に神秘の時代が終わり、無知の闇が晴れたはずの今現在もなお、「不思議の国の住人」の存在が、まことしやかに語られているのだから。
 果たして、四十万はぎらついた目で相馬を見下ろし、己が拘束されているにも拘わらず勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「だけど、はは、ついにかかったな! これが人の力だ! 人はいつだって、知恵を使って怪物を駆逐してきたんだよ!」
 一体、四十万が何を言っているのか、八束にはわからない。安倍川も、真も、ただただ喚き続ける四十万に対して奇異の視線を向けるだけだ。
 しかし、その場で唯一、全く違う反応を取った人物がいた。
「あー……、なるほど、そういうことか」
 ――そりゃあ、鼻が利かないわけだ。
 そんなぼんやりとした声に続けて、くしゃ、と小さくくしゃみをする南雲。そして、八束が制止する間もなく、つかつかと四十万に歩み寄ったかと思うとその頬を思いっきり張り飛ばした。ぱあん、という小気味よい音が響くとともに、四十万の顔に真っ赤な痕がつく。
 一体、南雲が何をしたのかわからず、え、と全員の目が点になるが、南雲はその一挙動で満足したようだった。それきり、平手打ちされたという現実を認識しきれていないのか、目を白黒させる四十万に目を合わせることもせず、四十万の腕を拘束する安倍川に向かってあっけらかんと言う。
「安倍ちゃん、こいつ、十中八九猫毒殺事件の犯人だから、話聞いてみて」
「は!? ちょ、南雲お前」
 状況がわからずにうろたえる安倍川だが、それは八束だって同じだ。何一つ手がかりのなかった犯人の正体が、南雲にだけはわかったというのか。
 そして、一瞬完全に意識から抜け落ちてしまった、相馬の容態を確かめようとして、気づいた。
 相馬の姿が、ない。
 先ほどまで確かにそこに倒れていた青年の姿が、八束が目を離した一瞬の隙に、忽然と消えうせていたのだ。
「おい……、八束、そこで倒れてた奴は?」
 安倍川も、相馬が消えていたことには気づかなかったらしく、呆気に取られているようだった。真も同様だったらしく、口元に手を当てて驚きの表情をしている。
 ただし、南雲だけはいつも通りの仏頂面だったので、正直何を考えているのか八束にはわからなかったのだが。
 そんな奇妙な沈黙を破ったのは、四十万の甲高い笑い声だった。
「だから、だから言っただろう! あいつは、やっぱり人を騙す化け猫で……!」
「うるさいよ」
 ぴしゃり、と。南雲が、四十万の言葉を切って落とす。
 八束は南雲の普段のゆるふわマイペースぶりを知っているが、四十万はそうではない。スキンヘッドに土気色の肌、その上、今まさに人を殺してきたような顔つきをした幽鬼のごとき男に見下ろされるというのは、相当恐ろしいはずだ。事実、四十万も平手で打たれたこともあってか、南雲を見る目に明らかな怯えの色を見せた。
 だが、それでも――四十万は、一つ息を飲んでから、南雲に食ってかかる。
「そもそも、さっきから気に食わないんだよあんた! 南雲さんにべたべた触ってくれちゃって、何様だよ!」
「お兄様だけど。人の妹散々怯えさせて、きっちり落とし前つけてくれんだろうな?」
 その瞬間、四十万の顔が凍りついた。「兄って本当?」とばかりに真に向かう視線に、真はただ一つの頷きだけで応えた。
 四十万にとっては、突然殴られたことよりも、南雲の言葉と真の肯定の方が、よっぽど堪えるものだったらしい。顔色を失い、今まであれだけ抵抗していたのが嘘のように、がくりと膝を折って、安倍川の腕に体重を預けたのだった。
 安倍川が、四十万に声をかける。これから、乱闘騒ぎの件で待盾署に連行すること。また、猫毒殺の件に関しても詳しい話を聞くということ。四十万は、猫毒殺の話が出ても、特に否定をする様子はなく、かくかくと頷くだけであった。
 そして、安倍川の視線は、状況が飲み込めていないのか、きょとんとした顔でその場に立ち尽くしていた真にも向けられる。
「悪いが、えーと、君、南雲の妹さんだよな? 君にもついてきてもらうぞ。何、ちょっと話を聞かせてもらうだけだ」
「は、はい」
「あと南雲、『えぇー』って顔するんじゃない。すぐ終わらせっから俺を睨むな。わかっててもそのツラは怖えよ」
 安倍川の言うとおり、素直に頷いた真とは対照的に南雲はものすごく嫌そうな顔をしていた。いくら人の心の機微を読み取るのが苦手な八束でも、南雲がそれはもう全身で「真は関係ないから帰してあげて」と言いたがっているのはわかってしまう。
 とはいえ、流石に、四十万の反応を見る限り真も「無関係」とは言いきれない以上、安倍川の判断は正しいものだ。それに、長々とここで立ち話をしていては、完全にコンビニの営業妨害である。
 あとは、待盾署に帰ってから――とは、思うのだが。
 どうしても、どうしても。八束は、じっと真を見つめたままの南雲に問いかけずにはいられない。
「しかし、南雲さん……。相馬さんは一体どこへ消えてしまったんでしょうか」
「さあねえ」
「もしかして、本当に、化け猫だったなんてこと、ありませんよね!?」
 二本の長い尾をしならせ、恐ろしげな影を浮かび上がらせる巨大な猫の姿を思い描いて怯える八束に対し、普段以上にげっそりとした面構えに見える南雲が、ずずっ、と鼻を啜り。
「さあ、どうだろうね」
 と、それだけは、いつもの調子で答えたのだった。

03:ナインライヴズ・ツインテール(9)

 今日の真の講義スケジュールを考えるに、午後三時半くらいにはゼミが終了し、その後特に何もなければ大学を出て家に帰り、その後、ちょことまろんの散歩に出かけるはずだった。
 それを伝えてみたところ、八束に「何で、真さんと話してもいないのにそんなところまでわかってるんですか」と睨まれた。もちろん、真と外で鉢合わせて慌てないための下調べだったのだが、それを正直に語るだけの図太さは南雲にはなかった。絶対に更なる「いくじなし」という罵倒が投げかけられるに違いなかったから。今ですら、八束の責めるような視線が痛いというのに、これ以上精神にダメージを負いたくはない。
「……で、南雲さん」
「はい」
「何故、真さんに話しかけないのですか」
 そう、今、既に南雲と八束は真を視界の中に捉えていた。と言っても、十メートルくらい先に。壁や電信柱の後ろを渡るように真を追跡しているあたり、周囲から見たら完全に不審人物だが、南雲は未だ真の背中に声をかけられずにいる。
 そして、南雲を睨みながら小声で放たれる八束の声は、いつもよりもやたらと厳しさを帯びていた。正直、こんなに厳しい八束は初めてかもしれない。そのくらい、南雲の消極的な行動と根本的な勘違いが八束の逆鱗に触れたということなのだろう。反省はしている。
 反省は、しているの、だが。
「この俺が、そんな簡単に、真との、距離を、縮められると、思うか」
 五年間かけて積み上げられてしまった壁だとか葛藤だとかは、そう簡単に消えてくれるわけではないのだ。
 八束はぽってりとした眉尻を下げ、心底呆れた顔をする。
「南雲さんの新たな一面を知ってしまった気分です」
「できれば知らないままでいてほしかったね」
 しかし、知られてしまった以上は諦めるしかない。
 南雲は、もはや何度目になるかもわからない溜息をついて、真の背中を見る。ほとんど勢いでここまで来てしまったが、一体、真にどう声をかければいいのか。何を話せばいいのか。否、話すべきことはわかっているのだ、何者かに常に見られているような感覚について、真から話を聞き出すこと、それが今の南雲の目的のはずだ。
 頭ではわかっている。わかっているのだが。
「なあ、八束」
「はい」
「お前から、真に話を聞くってできない?」
「南雲さん、この期に及んでめちゃくちゃ逃げ腰なのどうにかなりませんか」
 らしくありませんよ、と八束が頬を膨らませる。
 わかっている、こんなの自分らしくないということも、色々ぐちゃぐちゃ考えはするけれど、結局のところ、真との接触を怖がっているだけだということも。
「わたしは、南雲さんの事情は詳しくは知りませんけど、真さんと、南雲さんの気持ちはおんなじはずです。そんなに怖がる理由もありませんよ。どーんと行きましょう、どーんと」
「そのはずなんだけどね」
 難しいな、と後ろ頭を掻く。妙にざらざらしていた。
 昨日、思わぬタイミングで真と鉢合わせし、我を失ってその場から逃げ出すという醜態を晒した後悔や動揺が尾を引いたのだろう、今朝はまるで普段通りに過ごせなかったのだ。料理はことごとく失敗するし、シャツは裏表に着てしまうし、ネクタイは何度試しても上手く締められないし、頭を剃るのは忘れるしで、散々にもほどがある。
 まあ、あの調子で頭を剃ろうものなら、手元が狂ってそれこそ大惨事になりかねなかったので、忘れててよかったとも思わなくもない。
 それにしても、だ。
「……あいつ、何きょろきょろしてんだろ」
「そういえば、そうですね」
 真は、大学の側にあるコンビニの前に立ち尽くし、きょろきょろとあたりを見渡したり、少しだけあたりをうろうろしてから結局またコンビニの前に戻ったりと、どうも落ち着きがない。
「誰か待ってるんですかね」
 八束の言葉に、南雲は少しばかり考える。
 何かを待っているように見えるのは確かだが、待っているものが「人」であるならば、例えば携帯電話か何かで連絡を取ればいいはずだ。このご時勢、携帯を持っていない者の方が少ないはずなのだから。
 それとも、待ち人は、そういった連絡手段が取れないような相手なのだろうか。
 例えば――。
「あれ、秘策のお二人じゃないか。何してんだ、こんなとこで」
 不意に声をかけられて、ゆるりとそちらを見ると、四角い顔を持つ恰幅のよい男が、コートのポケットに手を入れたまま、小さな目でこちらをもの珍しそうに見ていた。八束はぱっと顔をそちらに向けて手を挙げかけて、慌てて下ろして一礼する。
「こんにちは、安倍川さん!」
 敬礼を途中で止めたことと、階級で呼ばなかったことは評価してやろう、と南雲はそっと息をつく。八束は、油断すると自分が私服警察官であり、基本的には警察官であることを公言すべきでない、ということを忘れるところがあるから。
 待盾署生活安全課に所属している巡査部長の安倍川は、危なっかしい八束をほほえましいものを見るような目で眺めてから、南雲に視線を移して不思議そうに首を傾げる。
「珍しいな南雲、トレードマークの光り輝く頭はどうした、微妙にまだらだぞ」
「そういう日もあるよ、俺だって人間だもの」
 やはり、日々の手入れは大事だと痛感する。いっそ全毛根が死滅してしまえば楽になれると何度も思っているのだが、自ら全ての毛根に引導を渡す気にはなれずにいる。今は沈黙を守る毛根が、かつての息吹を取り戻す可能性を諦めきれない程度の三十二歳である。
 安倍川は露骨に「悪いことを聞いたかな」という顔をして、それ以上の追及はしてこなかった。安倍川も南雲とそう変わらない年齢なので、もしかすると、他人事ではないと思ったのかもしれない。
「それより、安倍ちゃんはどうしたの? もしかして、にゃんこ関連?」
「あー、そういや、お前らも調べてくれてんだっけか」
「暇だしねえ」
 暇なわけじゃないですよ! という八束の抗議を右から左に聞き流す。確かに南雲たちがここにいるのは「暇」という理由ではないのだが、それを詳しく話すと南雲自身の恥にしかならないので、ここはスルーしておくに限る。
 安倍川は、素早く周囲に視線を走らせ、周りに他に話を聞いているような人間がいないことを確かめてから、幾分か声を落として言う。
「さっき、このすぐ近くで野良猫らしい猫が死んでるって連絡があってな」
「またかよ」
 ついに「死んだ」猫が現れてしまったのか。しかも、このすぐ近く、というのが何ともきな臭い。昨日、ひとでなしの老婦人に言われたことが頭の中にこびりついてしまっているだけに、尚更。事件に真が関わっている可能性と、それはそれとして「大丈夫」と言い切られた記憶を呼び起こす。
 そもそも、あの老婦人の言っていることを、鵜呑みにしてもいいのか。何せ、相手はひとでなしだ。ひとでなしが全て人と相容れないもの、というわけでないのは確かだが、あの婦人がどうなのかは、未だにわからないままなのだ。
 それを確かめるためにも、南雲は今、ここにいるのだが。
 情けないなあ、と内心で苦虫を噛み潰していると、安倍川も妙な顔をしていた。何故そんな顔をするのだろう、と思っていると、安倍川が軽く肩を竦めて口を開く。
「実はな、連絡を受けて駆けつけたはいいんだが、その猫の死体とやらが見つからないんだ」
「誰かに持ち去られたということですか?」
 南雲のスルーにもめげることを知らない八束が、安倍川に食いつく。安倍川は、猫の死体が見つかったと思しき方向に視線を投げかけながら、太い眉を寄せる。
「どうだろうな、猫が消えた瞬間を誰かが見てたわけでもない。今、うちの連中が探してるが、見つかるかどうかはわからんってとこだな」
「だけど、今まで、そんなことはなかったよな」
 南雲も、猫の毒殺未遂事件に関する資料にはざっと目を通してある。毒を食べて重症になったことが確認された猫の中で、その後、姿を消すなんていう奇妙な例は一度も無かったはずだ。
「そうなんだ。だから、変なことになったなあ、と思ってな」
 なるほど、と言いながらも八束は不思議そうな顔をしているし、南雲も全くの同感であった。被害に遭った猫が消えた。何故か、今回だけ。
「死体を詳しく調べられないように、とかですかね」
「だが、毒の正体は、過去に殺されかけた猫を分析して既に割れてんだ。今更隠す理由もねえだろ」
「それとも、今回に限って、何か追加の証拠を残しちゃった、とか? ちょっとしたいたずらのつもりが、ついに猫が死んじゃったのを見て、取り返しがつかないと気づいて焦って隠した、って考え方も、まあできなくはないけど……」
 言いながら、どれもこれもしっくり来ないものを感じる。そうだ、今回の事件、そもそも南雲の感覚からして何かがずっと噛み合っていないような感覚がある。ついでに、ひとでなしから調査を頼まれた、という極めて例外的な状況が、余計に混乱の種になってしまっている気がする。本当に、ひとでなしに関わると、ろくなことにならない。
 そんな南雲の悩みなど知るはずもない安倍川が、軽い調子で言う。
「南雲、お前、何かわからないか?」
「何で俺なのさ」
「その嗅覚を見込んでってやつだよ。昔は難事件に引っ張りだこだったじゃないか」
「昔の話だ」
 言いながら、つい眉間に力が篭もる。まともに前線で捜査をしていたのは相当前の話で、今は待盾署きってのごく潰しに過ぎないのだから、過大評価されても困る。
 それに、当時を知らない八束もいる以上、なるべく昔の話はしたくなかった。八束に知られて都合の悪いことがあるわけでもないが、無性にむずむずして仕方ない。
 案の定、八束は「そうなのですか?」と黒目がちの大きな目で南雲を見つめてくる。その、豆柴ライクな顔でこちらを見上げるのはやめていただきたい。ただでさえ冷静さを欠いてる状況なのに、さらに落ち着かない。
「まあ、冗談はともかくとしても、何かぴんと来たりしねえか?」
「ご期待に添えなくて悪いけど、今回は、なんか鼻が利かないんだよなあ」
 鼻が利く、というのはあくまで比喩のつもりなのだが、南雲の直感だったり第六感だったり、もしくはひとでなしを見抜いたりといった、大まかに「勘」と言うべきものは、不思議と嗅覚と連動するところがある。案外、前世は犬か何かだったのかもしれない。神も仏も信じていない以上、輪廻転生も本気にはしていないが。
 ともあれ、今回の事件に限っては、何も感じ取ることができずにいた。もちろん、全ての事件において南雲の嗅覚が通用するわけでもなく、今回もそれだけ、と言ってしまえばそれまでなのだが――。
 その時、急に鼻がむずむずして、手で鼻を覆う。次の瞬間、くしゃ、と小さなくしゃみが飛び出した。安倍川が、溜息交じりに言う。
「おい、みみっちいくしゃみすんじゃねえよ」
「うるさいよりは全然ましだろ」
 コートのポケットからティッシュを取り出し、鼻に当てる。昨日、あの老婦人と会っていたせいで、ティッシュの量は残り少ない。いっそコンビニで箱入りティッシュでも買っておくべきだったか、と思っていると。
「あっ、な、南雲さん!」
 八束が、慌てた様子で南雲のコートの袖を引いた、次の瞬間。
 悲鳴が、響いた。

03:ナインライヴズ・ツインテール(8)

「南雲さんのいくじなし! 流石にあの対応は看過できません!」
 八束結は椅子を蹴って立ち上がり、きっぱりはっきりと宣言する。それに対し、背中を丸めた南雲彰は、自席の机に突っ伏したまま呻く。
「それ、もう五回目くらいだろ……」
「正確には六回目です!」
 数えてたのかよ、という南雲の情けない声が漏れる。記憶を遡って数え直すことも「数えてた」ということに含まれるのかは気になるところではあったが、今の八束はそんなことを南雲と論じたいわけではない。
「なら、答えてください! どうして、あの時真さんから逃げたのです!」
「それは、その」
 顔を少しだけ上げた南雲は、しかし、もごもご口ごもるばかりで、八束の問いに答えるわけでもない。八束にとっては、その煮え切らない態度こそが何よりも腹立たしい。
 そんな、不毛なやり取りの最中、対策室の扉が開く気配がした。一旦、口から出かけていた言葉を引っ込めてそちらを見れば、綿貫栄太郎が困ったような顔をして、恐る恐る八束と南雲の様子を窺っていた。
「どうしたんですか、八束くん。外まで声が聞こえてましたよ」
「あっ、聞いてください綿貫さん!」
 もはや、隠しておくだけの理由も無くなった以上、八束の口を塞ぐものは何一つない。腕で耳を覆うようにして突っ伏す南雲を見下ろし、その、いつもより少しだけつるつる加減の落ちた――普段の手入れをサボったことが推測される後頭部をびしっと指差す。
「南雲さんが! とんでもない! いくじなしなのです!」
 八束は、改めて、ここに至るまでの経緯を綿貫に説明した。
 ある日偶然、南雲の妹である真と知り合ったこと。
 真の話から、真と南雲が一つ屋根の下に暮らしながら長らく没交渉であること。
 真と会ったことを、南雲には秘密にしてほしいと言われたこと。
 しかし、昨日の夜、南雲と一緒に帰ろうとしていたところで、ばったり真と遭遇したこと。
 南雲は真と言葉を交わすどころか、引き止めようとする八束も振り切って、その場から逃げ出したこと。
「……というわけで! 今! 何故南雲さんが妹さんから逃げたのか、追及しているところなのです!」
 きっぱりはっきり言い切ると、綿貫は「なるほど」と狐を思わせる笑顔で言って、それから、相変わらず細長い体を丸めたままの南雲に視線を落とす。
「南雲くん、八束くんに知られちゃったんですねえ、妹さんのこと」
「でっかい不覚っす……。八束と真が面識あるとか聞いてないっす……」
 珍しく、南雲がへろへろと力なく言う。南雲は、常に気の抜けた感じのしゃべり方をするが、ここまで完璧に「打ちひしがれた」声を上げるのは、八束が知る限りこれが初めてだった。
 とはいえ、それで追及の手を緩める気はなかった。何しろ、八束はまだ、南雲から何一つとして八束の問いに対する答えを聞いてはいないのだから。
 ただ、追及を続ける前に、綿貫の言葉に引っかかるものを感じて、首を傾げる。
「綿貫係長は、南雲さんが妹さんを避けているのをご存知だったのですね」
「まあ、南雲くんにも事情がありますからね。と言っても、僕は、ことさら南雲くんを支持するつもりもありませんよ。南雲くんが単なるいくじなしなのは事実ですし」
「言うと思いましたよ……。まあ、否定はできませんしね……」
 そういえば、先ほどから八束の言葉に対して沈黙を守ってはいるが、ことさら反論をしない辺り、南雲自身、己の非を認めていないわけではないのかもしれなかった。だが、それはそれで、何とももやもやとして仕方が無いのだ。
 南雲は、決して頭の悪い人間ではないし、八束と違って人の心の機微にも敏感な、極めて優しい男だと思っている。その南雲が、明らかに真を傷つけるような行動を取ったことが、何一つ、納得できずにいるのだ。
「南雲さんは」
 だから、八束は問うのだ。
「真さんのことが、嫌いなのですか?」
「違う」
 今度は、即座に、はっきりとした返事があった。だが、その声はいつになく重く、八束の背筋に冷たいものが走る。ゆらり、と顔を上げた南雲は、明らかな苛立ちをあらわに、眼鏡の下から八束を睨めつける。
「違う。何一つ正しくない。俺は真のことが好きだし、真を傷つけたいなんて思うわけがない。だけど……、俺は、そうするしか、ない。それだけだ」
 普段の飄々とした態度とはまるで違う、圧力すら感じさせる表情と物言いに、八束は一瞬己が身を竦ませていたことに気づいた。これこそが、南雲の踏んではいけない尾だったのだと、今更ながらに気づかされる。
 それでも。
「つまり、お前の言ってることは、でっかいお世話だってことだ。俺と真の間に何があったのかも、俺が真を避けている理由も、お前はわかってないじゃないか」
「もちろん、何一つわかりません!」
 八束は南雲の目を睨み返し、胸を張り、きっぱりはっきりと言い切った。
 まさかそんな切り返しを食らうとは思っていなかったのか、南雲が分厚いレンズの下で目を点にするが、すぐに眉間の皺を深めて何かを続けて言おうとする。だが、それよりも八束の言葉の方が、ほんの刹那、早かった。
「わからないから、聞いているんです! 教えてほしいんです! 南雲さんは、どうして真さんを避けるのですか! どうして、声一つかけてあげられないんですか! どうして……っ」
 どうして。
 そう、八束が南雲に聞きたい「どうして」は、本当は、たった一つなのだ。
「どうして! ずっと、南雲さんと仲直りしたいと願っている真さんに、向き合ってあげられないんですか!」
 ほとんど、叫びのように放たれたその声を受けて、南雲は、
「……は?」
 ぽつりと、間の抜けた声を、上げた。
 思わぬ反応に、八束も一瞬呆気に取られてしまうが、そのあまりにも他人事のような反応に、矛を収めるどころか余計に苛立ちが増すばかりで、机に手を置き、身を乗り出して南雲を睨む。
「『は?』じゃありませんよ『は?』じゃ! 真さんがどれだけ胸を痛めているのか、わかってないのは南雲さんの方なんじゃありませんか!」
「待て、ちょっと待て。八束、ステイ」
「わたしは犬じゃありません!」
 言いながらも、南雲の顔を見れば、仏頂面こそそのままだったが、先ほどまで見せていた、煮え切らない態度や、八束に対する苛立ちとはまた別の……、混乱、といえばいいのか。そんなものが、落ち着きの無い視線の動きや、小さく唸る声音から感じ取れた。
 南雲はこめかみの辺りをぐりぐりと揉みほぐし、「すまん」と一つ言い置いてから、ほとんど囁くような声で言う。
「その辺り、詳しく聞かせてくれないかな」
「どの辺りですか?」
「真が、仲直りしたがってる、って辺り」
「詳しい内容を知っているわけではありませんが、真さんはおっしゃっていました。『兄と仲直りをしたいのは、間違いない』って。でも、南雲さんは真さんのことをずっと怒っていて、また喧嘩になってしまうのが怖い、とも」
 その時の会話は、もちろん、一言一句違わず思い出すことができる。八束は、目にしたもの、耳にしたものを何一つ忘れることがないから。
 そして、それは、南雲だってわかっているはずなのだが、眼鏡を額に持ち上げ、大きな手で目を覆った南雲は「えーと、えーと」と繰り返すばかり。何か、八束にはわからない葛藤をしているようにも見えた。
「南雲くん、外野から一言よろしいでしょうか」
「聞きたくありませんが、ダメって言っても言いますよね、綿貫さん」
 もちろん、とにっこり微笑んだ綿貫は。
「『妹さんから嫌われてる』って、単なる南雲くんの思い込みなんじゃないですかね」
 ずばり、その言葉を口にした。
 嫌われているという、思い込み。
 あまりに単純なその答えに、八束は唖然としてしまう。だが。
「……にわかに、そんな気がしてきました」
 目を手で覆ったまま、南雲が、ぼそりと呟いたことで、そのどうしようもない仮定が決して的外れでないことだけは、明らかになってしまった。
「あの、確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
「南雲さん、ずっと、真さんに嫌われてると思っていたのですか?」
「いやまあ、当時は、確かに嫌われるようなことしたから、ねえ……」
「その『当時』って、それこそ数年前ですよね?」
「はい、そうです」
 何故か棒読みの敬語で返してくる南雲。きっと、彼もわかっているのだろう。この次に、八束が何を言わんとしているのか。
 だが、そこで八束が容赦してやる理由はないわけで。
「それからずっと、嫌われてると勝手に思い込んだまま、真さんの気持ちを、確認もしなかったってことですね?」
「そういうことだよ! うおおおおお何も否定できねえええ!」
 珍しく声を荒げたかと思うと、がん、と机の天板に額を打ち付け、それきり沈黙する南雲。それだけ強く額をぶつけても、同時に眼鏡がぶつかった音が混ざっていなかった辺りに妙な慣れを感じる。
 しばし呆然とそんな南雲を見つめていた八束だったが、そのまま黙っていても話が進まないので、恐る恐る口を開く。
「つまり、南雲さんも、真さんと仲直りがしたいと思っているわけですね」
 すると、南雲が赤くなった額を上げて、唇を尖らせる。
「それはそうだよ、俺にとっては大事な妹だもん。そうは見えないかもしれないけどさ」
 確かに、南雲の今までの態度は、どう贔屓目に見ても真を大切にしていたとは言いがたい。
 ただ――。
「わたしは、信じますよ。南雲さんが、真さんを大切に思っているということ」
 真のことが嫌いなのか、と問うたその時だけは、南雲は即座に否定した。南雲は、何も真を嫌ってそうしていたわけではなくて、多分、臆病だっただけではないだろうか。一度離れてしまった距離を近づけようと試みた時に、否定されるのが怖かったのではないだろうか。
 真が、そうであったように。
 何とももどかしい話ではあったが、南雲が真を嫌っていたわけではないとわかって、八束は心からほっとしていた。昨日の夜も、南雲が逃げ去ってから、取り残された真は酷く傷ついたような顔をしていたから。
 そして、南雲の本心がわかった以上、八束には言うべきことがあった。
「それなら、南雲さんには、お話ししておいた方がいいかもしれません」
 本当は、真から口止めはされてはいるのだが、この前の様子を見る限り、黙っていてよいことではなかった。それに、南雲が本当に真を大切に思っているのなら、必ず知っておくべきだという確信もあった。
「真さんの、悩み事のこと」
「真の……、悩み?」
「はい。実は、真さん、近頃常に誰かの視線を感じているそうなのです」
 ぴくり、と南雲の眉が跳ねた。仏頂面、というカテゴリを出ないまでも、南雲は案外表情豊かな男であり、近頃の八束はその違いを少しずつ見分けられるようになりつつあった。
「何、真が誰かにつけられてるってこと?」
「明確に『つけられている』と断言することはできませんが、この前真さんとお会いした時には、何者かが真さんを追跡しているように見えました。顔を確認できなかったのは不覚でしたが」
 それは悔しいな、と南雲も声を低くして唸る。八束の目で一度でも対象の顔を確認しておけば、後の捜索は格段に楽になる。
「もちろん、それはわたしの勘違いかもしれません。ただ、真さんの『見られている』という感覚と、無関係かと言われるとそうとは思えないのです」
 南雲は難しい顔をして黙り込む。片手の指でとんとんと机を叩いているところを見るに、真が何者かに悩まされているという八束の話を聞いて、いても立ってもいられない、という様子がありありと伝わってくる。
 流石に八束でも気づくのだから、綿貫が南雲の動揺に気づかないはずも無い。柔らかな笑顔を少しばかり苦笑に変えて言う。
「南雲くん、流石に仕事中に妹さんに会いに行くのは無しですよ。野良猫の毒殺未遂事件の調査はどうしたんですか」
 そう、いくら真の件が気になるからといって、今から真の元に押しかけていいわけではない。与えられた、もしくは自ら望んで始めた仕事と全く関係ないとすれば、尚更だ。
 しかし、八束の想像に反して、南雲はとん、と一つ机を叩いて口を開く。
「いえ、もしかすると、例の事件とも無関係じゃないかもしれないんです」
「例の事件って、野良猫のですか?」
 首を傾げる八束に対し、南雲は小さく頷いて「そういう噂を教えてくれた人がいてね」と言って、大げさに肩を竦める。
「もちろん、確証はないんだけどね。念のため確認しといたっていいじゃない」
 真と事件とのつながりがさっぱりわからなかったが、これが妹の心配をする南雲の口実というだけではなさそうだということも、何となくわかった。もし、これが本当に口実だとすれば、南雲はきっと、ずっと「もっともらしい」理由をつけるだろうから。
 それに、野良猫の毒殺未遂事件に真が少しでも関わっているとするなら、もしかしたら真が何かを知っているかもしれない。それならば、今から真と接触しに行く理由もつく。
 綿貫は「ふむ」と細い目をさらに細めて、探るような意味深な視線を南雲に向ける。
「言いたいことはわかりましたが、それはそれとして今の南雲くんは、妹さんが心配で心配で仕方ないということですよね」
「それは事実です。妹がかわいくなくて何が兄ですか」
 しれっと言い切った南雲は、係長の綿貫相手に全く悪びれる様子もない。ある意味、いつもの南雲そのもので、八束も何故かほっとしてしまう。そして、それはきっと、綿貫も同じだったのかもしれない。狐じみた笑みを深めて、ひらりと手を振る。
「まあ、いいでしょう。でも、忘れないでくださいね。今の君たちのお仕事は、野良猫の毒殺未遂事件を調査することですからね」
「はいはい」
「了解いたしました!」
 びしっと敬礼を一つ、八束は鞄を手にする。南雲も彼には珍しく、きびきびとした動きで立ち上がり、スーツの上と上着を羽織る。それから、早足に対策室を出て行こうとした八束の横に並んで、そっと、囁いた。
「ありがと、八束」
 ――大事なことを、教えてくれて。
 そっぽを向いたまま、それだけを言った南雲に、八束は満面の笑みを浮かべて頷く。
 そして、今度こそ二人で足並みを揃えて、対策室を後にする。

03:ナインライヴズ・ツインテール(7)

 結局、昨日は八束と共に猫が被害に遭ったという場所をいくつか見て回ったが、何一つ成果はないまま終わった。正直なところ、あまり期待はしていなかった。他の課が徹底的に調べてわからなかったことが、自分たちにわかるとも思えなかったから。
 それでも、自分の足で現場を回っておいたこと、それ自体は決して無駄ではなかったとも思っている。
 八束と共に、たい焼きを抱えて歩き回った結果、事件が起こっている範囲はそこまで広くはないということを改めて確認できた。それこそ、八束と南雲が全てのポイントを歩き回ったところで、一時間もかからない範囲だ。
 そのため、南雲は、犯人が複数という線は少ないのではないかと見ている。そして、おそらくはこの地域の人間であるということ。猫が集まるような場所を狙うというのは、特定の人間を狙うよりよっぽど、その場所をあらかじめ知っていないと無理だろうから。
 ――というようなことを、南雲は、ちらちらと電灯の瞬く夜の公園で語っていた。
 もちろん、南雲を呼び出したのは、南雲に猫の毒殺未遂事件の調査を依頼したかの老婦人である。と言っても、実際に老婦人が声をかけてきたわけではない。待盾署からの帰り道、見慣れぬ三毛猫がまるでこちらを誘うかのように見つめていたので、誘われるがままにそちらについていったところ、警察署に程近いこの公園に入っていって、そこに老婦人が待ち構えていた、というわけだ。
 駅前で大量に取得した、この近所で建設中のタワーマンションの広告が入ったポケットティッシュで鼻をかむ。ついでに、もう一枚でしきりにかゆみを訴える目をごしごしと擦っておいた。あくまで気休めに過ぎないわけだが。
 目も鼻もぐちゃぐちゃで、かなりみっともない顔をしているはずだが、横に座る老婦人はもうそれが南雲にとっての通常運行であることをわかってくれているらしい。ほんわかとした微笑みで、ぐずぐず鼻をかみ続ける南雲を見守ってくれていた。
 油断をすれば水っ洟が垂れてくる鼻をティッシュで押さえたまま、南雲は老婦人に眼鏡越しの視線を向ける。
「今のところわかってるのはその程度なんすけど、何かそちらさんでわかったことってあります?」
 質問に対し、老婦人は形のよい眉を少しばかりハの字にしてみせる。
「私の方でも調べてみたのだけど、犯人の特定には至ってないの、ごめんなさい。遠目に見かけた、って言い張る子もいたのだけど、何しろ、ほとんどの子は人間の顔の区別がつかないから、特徴を聞いても要領を得なくて」
「ああー……、そっすね、そんなもんっすよね」
 なるほど、例えば同じような模様の猫を目の前に並べられて、翌日、どれがどの子だったかを当てろ、などと言われたら、どれだけ猫が好きな南雲であっても困惑する。しかも、人間は猫と違って毛皮の代わりに服を着る生物であり、翌日はどんな色や模様をしているのかもわからないのだ。区別のつけ方がわからない以上は要領を得ないのも当然だ。目にしたもの全てを記憶する八束のような存在が、例外中の例外なのだから。
 とはいえ、もう少しそちらに進展があると思っていただけに、内心で溜息をつきつつ、鼻をかむ。水っ洟は未だ収まる様子を見せないし、目のかゆみも増すばかりな辺り、猫アレルギー恐るべしである。
「あ、でもね。一つ、気にかかることがあって」
「あー、何すか?」
「並行して、あなたから頼まれたことを調べていたんだけれど」
 それはありがとうございます、と南雲は素直に剃り上げた頭を下げる。南雲はひとでなしを好いてはいないが、その一方で人間の最低限の常識を理解しようとしているひとでなしに対しては、こちらも礼儀で応じるべきであると思っている。
 南雲のひとでなし嫌いの根は深いものの、ひとでなしの全てが憎むべきものというわけではない、という至極当然の事実がわからないほど、南雲も子供ではなかったから。
 老婦人がそんな南雲をどう思っているのかは知らないが、目を糸のように細めた顔で、そっと囁く。
「あなたの妹さん、もしかしたら、今回の事件に関わっているかもしれない」
「何、ですって?」
 思わず、上げた声が上ずってしまったことに気づいて、慌てて口を――押さえるまでもなかった。最初から、手にしたティッシュで鼻から口にかけてを覆っていたのだから。
「詳しいことはまだよくわからないんだけど、今日一日、あなたの妹さんを見ていたら、妹さんの行動範囲が、事件が起こった場所と一致しているの」
「……それは、」
 確かに、そうかもしれない。例の事件が起こった場所は、待盾署の周辺から、多少距離はあるものの、十分歩いて行くことが可能な八束の住むアパートの辺りまでだ。つまり、待盾署の近くに住む南雲の行動半径と同じということで、それは同じ家に住む真の足取りにも重なりうるということを意味する。
 その上、八束が住むアパートの近くには真が通う大学が位置している。あのアパートは、その入居者のほとんどが大学生という、ほとんど学生寮のようなものなのだ。
 事件現場が南雲の家から大学まで、と考えれば、確かにその可能性が否定できないことは、わかる。わかる、のだが。
「とはいえ、それだけで、真が――妹が、犯人だって決め付けることは」
「ええ、犯人とは言ってないわ。私も、そうとは思ってない」
 老婦人があっさり言い切ったことで、南雲は「は?」と顎を落とす。一瞬、めちゃくちゃ緊張したのが馬鹿みたいだと思ったが、しかし犯人でないと言われても「関係者」であることを否定されたわけではないのだ、と一瞬緩みかけた意識を引き締める。
「では、一体、何故俺の妹が事件に関係があると?」
「今はまだ、何一つ確信はないの。だから、あなたに、言っていいものかしら。それに」
 そこで、老婦人は意味ありげに口を閉ざす。それだけで、南雲にも老婦人の言わんとしていることはわかった。
 南雲が老婦人に、猫の毒殺未遂事件の調査の見返りとして望んだのは「真が何か悩みを抱えているようなら、その悩みを解き明かして、解決してやってほしい」ということだった。これはあくまで南雲の働きに対する「見返り」であり、事件にピリオドを打たなければ、叶えられることのない話なのだ。
 だから、何一つ事件の真相を掴めていない自分が、老婦人から真についての情報を聞き出すというのが釣り合わない、ということはわかっている。
 だが。
「確かに、それは、今の俺が聞くべきことじゃないのかもしれません。しかし、もし、今すぐに解決しなければ手遅れにになるようなことであるなら、後でわかったところで遅すぎるのです。だから、どうか、わかっていることだけでも、教えていただけませんか」
 早口で言いつのりながらも、頭の冷静な部分では「何を言っているのだ」と冷めた視線を投げかけてくる自分がいる。こんな言葉、今更にすぎる。今の今まで、自分は、妹のために何をしてきたというのか、と。
 それでも、それでも――。
 じりじりと、頭の奥が痛むような感覚に囚われていると、老婦人はふと、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ。あなたの妹さんは、事件には関わっているかもしれないけれど、危険な状態にあるわけではないということだけは、わかるから」
「しかし……!」
「あれ、南雲さん?」
 突然、聞きなれた声が南雲の意識に滑り込んできて、はっとしてそちらに顔を向ける。 すると、公園の入り口で、この近くのスーパーの買い物袋を提げた八束が、相変わらずやたら姿勢のよい立ち姿でこちらを見ていた。
 ――タイミングが悪いにもほどがあるぞ、八束。
 今度こそ、リアルに舌打ちをしてしまったが、せめて、ティッシュがその音を吸収してくれることを願うしかない。
 ぽてぽてと、豆柴を髣髴とさせる歩き方でこちらにやってきた八束は、ベンチに並んで腰掛けていた老婦人の存在に、その時初めて気づいたようだった。ちらちらと瞬く明かりの下、ぺこりと頭を下げる。
「あ、お話中でしたか、すみません」
 流石に、何も知らない八束を前にしてひとでなしとの話を続ける気にはなれなくて、南雲は腹の底から息を吐き出して、八束の方に向き直る。
「どうしたの、八束? こんな時間にこんな場所ふらふらしてるなんて珍しいんじゃない?」
 だらだらと対策室で時間を潰して過ごすのが日課の南雲に対し、生真面目な八束は終業時間ぴったりで仕事を終わらせて家へ帰っているはずで、その証拠に八束はスーツではなく、トレードマークの芋ジャー姿で、普段は下の方で軽く結ってあるだけの長い髪を、頭の上で縛ってポニーテールにしていた。
 ……というか、どう見ても学校指定とわかるジャージ姿でふらふらしているのは、それこそスーツ姿より色々と危ないのではないか、と思わなくもないのだが。主に未成年略取とか。八束は未成年ではないけれど。
 八束は南雲の問いに対し、「こちらです」とぱんぱんに膨らんだレジ袋を持ち上げる。
「今朝のチラシで、この近くのスーパーでカロリーメイトが安売りだと知りまして」
「だから、カロリーメイトはやめろって言ってるじゃない」
「しかしですね、炊飯器や電子レンジを導入するまでは、加熱を必要とせずにカロリーを簡単に摂取できる手段は貴重なのです」
「早く買おうな、金が無いわけじゃないだろお前」
 つい最近、浅めの鍋を購入し、隣人から差し入れられた惣菜をコンロで温めるという手段を覚えたらしいことは評価するが、やはり、最低限の食環境は整えなければ八束自身のためにもならないと思っている。
 そんな二人のやり取りを、老婦人はくつくつとおかしそうに笑いながら聞いていた。それから、二人の会話が止んだところでするりと問いを差し込んでくる。
「お友達?」
 そのくらい、ひとでなしの情報網でとっくのとうにわかっているだろうに、と胸の内で毒づきながらも、できる限り平静を装って応える。
「同僚ですよ。所謂相棒というやつです」
「あら、そうなの。仲がよさそうで何よりね」
 ふわり、とほとんど音もなく立ち上がった老婦人は、南雲の耳元に、八束には聞こえないくらいの声で囁きかける。
「それじゃあ、また、何かがわかったら報告するわね」
 まだ、聞きたかったことは聞き終えていないのだが、仕方なく「わかりました」と応じる。未だにもやもやとはしているが、今はただ「大丈夫」という言葉を信じるしかない。
 老婦人は杖に体重をかけて立ち上がり、「それじゃあね」とおっとりとした微笑みを南雲と八束それぞれにむけて、そのまま公園から立ち去っていった。一礼した後、ぽかんとした表情で老婦人の背中を見送った八束は、その背中が闇にまぎれて見えなくなったところで、こくんと首を傾げた。
「ご親戚ですか?」
「んーにゃ、親戚じゃないよ。この辺のおばーちゃん」
 何も間違ったことは言っていないはずだ。明らかに言葉が足りていない自覚はあるが。八束は「そうですか」と少しばかり不思議そうな顔をしながらも、南雲の言葉を素直に飲み込んだようだった。
「それでは、わたしもこれで失礼します」
「なら、送ってくよ」
「いえ、南雲さんのお手を煩わせるまでもありませんよ」
「お前がよくても、俺が心配なんだよ」
 確認さえしなければ気にしなくても済むのだが、ジャージ姿のお嬢さんが夜道をふらふらしているところを目にしてしまった以上は、放っておけない。
 その一方で、八束は南雲がそこまで真面目に心配しているとは思っていなかったようで、一瞬目をぱちくりさせたが、次の瞬間にはぱっと笑みを浮かべて言った。
「では、待盾署前のバス停までお願いしてもいいですか」
「もちろん」
 確か、八束が住むアパートから、最寄のバス停まではそれほど遠くなかったはずだ。老婦人が去って、少しはマシな状態になった鼻をかみ、すっかり冷えてしまった腰を上げて八束を見ると、八束は黒目がちの目を真ん丸くして南雲を見上げていた。
「南雲さん、風邪ですか?」
「ううん、多分アレルギー」
「花粉症ですか? 今までは何とも無かったように見えましたが」
「うーん、何か色々引っかかるんだよねえ、俺」
 猫アレルギー、と言ってしまうと特に猫の姿も見えないのに不審に思われるだろうなあ、と遠い目になりつつ、言葉を濁す。ただ、それが逆に八束の不安を誘ったらしい。必死に背伸びをして、南雲の顔を覗き込んでくる。
「一度、病院で検査してもらった方がいいのでは?」
「あー……、確かに、それはそうだな」
 事実、アレルギーではないにせよ具合が悪い、ということは多々あるので、そろそろきちんと診てもらうべきなのかもしれない。それでも近頃は比較的調子がいいということで、通院をサボりがちではあったのだが。
 そんなことをぽつぽつ喋りながら、ぽてぽてと、街頭の下、二人分の影を揺らして歩く。
 八束はカロリーメイトがいっぱい入った袋を抱えて、南雲のことを心底心配している様子で体調の確認を取っていたが、不意に、はっとした様子で口を閉ざした。
 一体どうしたのだろう、と思って、ゆったりと八束の視線の先を確認して、凍りつく。
 そこには、
「……真」
 二匹のダックスフントを連れた妹――真が、身を竦ませてこちらを見つめていた。

03:ナインライヴズ・ツインテール(6)

 本当は、言ってしまいたかった。
 問いただしてみたかったのだ。
 南雲とその妹――真の間に、一体何があったのか。どうして、南雲は今に至るまで真を避けているのか。そして、今、真が一体何に悩んでいるのか。
 しかし、真に「秘密にしてほしい」と言われた以上、八束はいくつも浮かび上がってくる言葉を飲み込み続けることしかできないのが、もどかしくて仕方なかった。
 南雲の態度が、真の語る「兄」の姿とは全く重ならないだけに、なおさら。
 
 
「そういえばさ、八束ぁー」
「はいっ!?」
 どこか間延びした南雲の言葉に、八束ははっと我に返る。横を見上げると、南雲はつるりとした後ろ頭を掻き掻き、ぼんやりとした様子で前を見ていた。
 もしかすると、黙りこくってしまった八束に気を使ってくれたのかもしれない――と思わなくも無かったが、相手は南雲なので、どこまでが彼の意図したものなのかは、さっぱりわからない。
「確か、八束ん家の近くだったんだよね、にゃんこが倒れてた現場」
「はい。一刻も早い解決を願ってやみません。いつも来てくれる猫さんがいなくなったら、大家さんが悲しみますし、わたしも、悲しいです。……事件の発生場所や被害に遭った対象で一喜一憂するのは、被害に遭った猫さんに失礼かもしれませんが」
「『知ってる奴に何かがあったら、知らない奴に何かがあるより気になる』ってのは、人として当然の感情だろうから、んな気にすることでもないと思うけどね」
「しかし、事実として猫さんは既に事件に巻き込まれているのです。一つのかけがえのない命が狙われた事件として胸に刻むべきですし、その命に主観的な重さをつけ、捜査の意欲を左右することは、あってはならないこととも考えます」
「真面目だねえ、八束は」
 幸い――と言っていいのかはわからなかったが、資料に添付されていた被害猫の写真を見る限り、八束の知る猫ではなかった。とはいえ、やはり、人の手で猫が害されているという事実は不愉快極まりなかった。それだけは、間違いない。
 それに、これ以上被害が広まれば、野良猫だけではなく、時々外を歩いているのを見かける飼い猫、もしくは毎日外を散歩している犬などにも被害が及ぶかもしれない。それこそ「家族」というべき存在を、心無い何者かによって奪われるというのは、どう考えても許してはならないことだ。
 それは、多分、南雲も言葉にはしないものの同じ思いなのだろう。「真面目」と八束を評しながらも、それをことさらに笑うことはなく――そもそも南雲に「笑う」という機能は備わっていないらしいのだが――いつになく真剣な面持ちで、飴をころころ舐めている。
「八束ん家の周りのにゃんこは、元気なの?」
「そうですね。わたしが三日前に確認できた子たちは、元気そうでした。近頃は、大家さんが時々ご飯をあげていることもあります」
 野良猫に餌付けするというのはよくないことであるとは思うが、アパートの軒先に顔を出す猫に、嬉しげに笑いかけてみせる大家を知っているだけに、八束もそう口うるさく言う気になれずにいる。
「ただ、それからはよく顔を見る白靴下さん以外の猫さんを目にしていませんね。後で、大家さんにも聞いてみようと思います」
 南雲は「ふむ」と細い顎をさする。がりり、という音が一緒に聞こえたということは、多分、飴を噛み砕いたのだろう。八束が二ヶ月とちょっと南雲を観察した結果として、南雲は飴を最後まで舐めるのは苦手らしい、ということがわかってきている。
「にゃんこのことはわかったけど、お前はきちんと飯食ってる? 三食全部カロリーメイトとサプリメントはやめとけ、って言ったはずだけど」
「カロリーメイトとサプリメントは摂取を続けていますが、近頃は、お隣の小林さんがよく白米に合うお惣菜を差し入れてくださるので、そろそろ炊飯器の導入を考えております」
「そりゃいい傾向だけど、小林もつくづくお人よしだよなあ」
 小林、というのは八束の隣の部屋に住まう大学生だ。この近くの大学に通うために、随分遠くの町から、八束の住む安アパートに越してきたのだという。
 南雲の友人でもあるらしいこの小林青年、学業にバイトにと駆け回る日々を送る一方で、大のつく料理好きという特徴がある。「作りすぎて余ったから」とアパートの住人に惣菜をおすそ分けするのが趣味のようで、八束も、日々その恩恵にあずかっている、というわけだ。
「小林さんを見ていると、大学生というのは、極めて多忙なのだなと思わずにはいられませんね……」
「いやー、あれは特殊中の最も特殊な例だと思うぞ」
「そうなのですか?」
「ガチ理系研究畑の小林と違って、俺は文系の、しかも不真面目な学生だったからねえ。講義とかゼミは楽しかったけど、八割は友達と遊んでた記憶しかないな」
 そういえば、南雲の学生時代の話はあまり聞いたことが無かったのだと思い出す。経歴的に大卒なのだろうな、と判断してはいたが、ただそれだけだった。
「では、南雲さんは、大学では何を専攻されていたのです? 現在の職務とは無関係ですか?」
「そうだな、あんまり関係ない。俺の専攻、心理学だし」
「心理学……、ですか?」
 全く、想像だにしない答えだった。
「と言っても、脳の働きをはじめとした医学方面のアプローチじゃなくて、人間の行動からみる統計学的なアプローチが中心。あれ、いくつもの分野が絡む比較的新しい学問だから、切り分けが難しいんだよな」
「意外です。南雲さんは、もう少し、趣味に関わるような学問を専攻されているのかと思ってました」
 例えば、家政だとか。そうでなくとも、栄養学だとか。
 南雲も、その手の答えは十分想像できていたのか、それとも似たようなことを言われたことがあるのか、仏頂面こそそのままだったが、特に気分を害した様子もなく端的に「趣味はあくまで趣味だからね」と言うだけだった。
「なーに、八束、大学生活に興味ある?」
「わたしの知らない世界なので、もちろん興味はあります。その、文献から得られる知識だけではわからないことが多すぎるのだと、いくつかの出来事を通して痛感した次第でして」
 特に、ここしばらく八束が感じているのは、自らが理解したと思い込んでいた範囲があまりにも狭すぎるということだ。八束が蓄積している膨大な文献情報から読み取れるのは、それが「何」であるのかという客観的な理解であり、それに対して「誰がどう感じた」といった主観的な情報は、ことごとく欠けているのだと痛感している。
「だから、自分で経験することはできなくとも、経験を持つ誰かの言葉を蓄積していくことで、凝り固まりがちな思考と、頭の中の世界を少しずつでも広げていくことが大切なのだと、感じているのです」
「そっか。八束も、色々考えてるんだね」
「いえ。そう思わせてくれたのは、南雲さんがいるからですよ」
 そう言って見上げると、南雲が「俺?」と黒縁眼鏡の下で、色の薄い目を丸くする。八束は、そんな南雲に笑いかける。
「南雲さんは、いつだって、わたしには見えないものを見ていてくれますよね。おかげで、わたしにも、そういうものが『ある』んだってことが、わかってきたのです」
 今までは、自分とは違う視点、視野を持つ南雲の目を借りることで、自らの欠点をなんとか補ってこられたが、しかし、常に南雲に頼れるわけでもないということは、八束にだってわかっている。
「そんな、南雲さんの見ているものに、少しでも近づきたい。そう、思えたんです」
 南雲は、そんな八束を数秒ほど凝視し――不意に視線を逸らして、あらぬ方向を指差す。
「あ、八束、たい焼きだよたい焼き」
「はえ?」
 南雲の指差す方を見れば、確かに通りの角に「たい焼き」と書かれたのぼりを立てたちいさな店があり、特徴的な鉄板でたい焼きを焼くおじさんの姿が目に映った。
「今の俺は、何だか無性にたい焼きを欲している。というわけで、ちょっと、そこで待ってて」
「南雲さん!?」
 八束の呼びかけは当然南雲には届かず、南雲はやたら早足でたい焼きの屋台へと歩いていってしまう。その頬というか、頭の先から顎の辺りまでがいつもより少しばかり赤みを帯びて見えたのは、空から降る陽光のせいだったのか、否か。
 南雲がたい焼きを買いに行ってしまったので、八束は「そこで待ってて」と言われた通りにその場に背筋を伸ばしたまま待機に入る。
 その時だった。
「……あれ?」
 聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした気がして、ふと、そちらに視線をやる。
 南雲が向かった通りとは逆の方向、そちらから歩いてくるのは、こともあろうに南雲の妹である真と、もう一人、八束の知らない青年だった。明るい色に染めた髪をあちこちに跳ねさせ、本屋に置かれた男性向けファッション雑誌の表紙を飾るような格好、つまりは「流行の格好」をした青年は、その軽薄そうな見た目に反していたって真面目な顔で、真の話を聞いているようだった。
 真も、どこか不安げな表情で、その青年に話をしており、話している内容はわからないまでも、楽しい話というわけではなさそうだった。
 ――もしかすると、真が近頃抱えているという「悩み」に関する話だろうか。
 ともあれ、知っている顔を無視する理由もない。八束は、小走りに真と青年の方に駆け寄り、快活に――ただし、南雲には聞こえないよう、できる限り音量は下げて――声をかける。
「こんにちは、真さん」
「あっ……! こんにちは、八束さん。お仕事ですか?」
 真は、ぱっと笑顔になった。明らかに、八束に声をかけられてほっとした様子に見えた。青年の方は、大きな目をぱちぱちさせて、真と八束を見比べている。
「あ? この子、知り合い?」
「うん、お友達」
 真の口から、何の躊躇いもなく放たれた「お友達」という言葉に、自然と心が温かくなる。そんな言葉をかけてもらえたことなど、八束の人生のうちそれこそ片手の指で数えられる程度しかなかったから。
 八束は、どこか居心地悪そうに身を竦ませる青年に向かって、深く頭を下げる。
「初めまして、八束結と申します」
「お、おう、ご丁寧にどうも。えーっと、相馬平治、南雲の大学の友達っす」
 よろしく、と握手を求めると、相馬と名乗った青年はどこか遠慮がちに手を握り返してきた。どうやら、少々シャイな性格であるらしい。
「学校からの帰りですか?」
 八束の問いに答えたのも、相馬ではなく真の方だった。
「はい、そうなんです、けど」
 その後の言葉は続かず、ただ、自らの背に向けて投げた視線でその続きを語る真。それだけで、八束にも真が何を不安がっているのかは、すぐにわかった。
 ――最近、誰かにずっと見られているような気がする。
 八束は、そんな真の「悩み」を聞かされていたから。
 そして、真が視線を八束に戻したその時、八束は確かに目にしていた。
 真の視線が正面に戻ったタイミングを見計らったかのように、十メートルほど離れた場所で動く人影があったことを。人影は、すぐそこにある細い道へと入って、そのまま八束の視界からは見えなくなった。
 どうも、その人影には、相馬も気づいていたらしい。ちっ、と一つ舌打ちをして、ほとんど口の中で呟く。
「逃げたか」
「……誰か、いたの?」
 一度は笑顔を取り戻していた真が、再び不安げな顔になる。それに対して、相馬はきっと、意識してなのだろう、ちょっと不器用な笑みを浮かべて、声を高くする。
「ああ、でも大丈夫だ、もういなくなった」
「はい、わたしも確認しました」
 そう、と言って真は深く息をつく。なるほど、こんな日々を送っていては、精神的にも消耗するばかりだ。相馬というこの青年も、きっと、そんな真を見かねて、側にいるのかもしれない。
 もう少し、自分が真の悩みに対してできることがあればいいのだが、八束の目でも先ほど目にした人物がどのような顔なのかを判断することはできなかったし、それが本当に「真を見ていた」人物なのかは定かではなかった。
 常に真と一緒にいれば、何かがわかるのかもしれないが、何しろ八束にも仕事がある。
 と、考えたところで重要なことに思い至り、慌てて真に向かって小声で言う。
「その、南雲さんが、すぐそこにいるんです」
「えっ」
 八束がたい焼き屋を指せば、南雲は妹の存在に気づいていない様子で、目の前で焼かれるたい焼きを前に、もたもたと財布を取り出している。あの様子を見るに、もう少しかかりそうだ。
 真は南雲のつるりとした後ろ頭を見て、少しばかり硬直していたが、すぐに南雲から視線を外し、おそらくは家のある方角なのだろう、南雲の立っている場所からは見えない道の方へと歩みを進める。
「ありがとう、八束さん。それじゃあ、また」
「お、おい、待てよ!」
 真と、慌ててその背中を追う相馬青年を見送って、八束は再び一人になる。
 真を見つめる謎の人影は、一体何者なのだろうか。何故、真を見つめているのだろうか。実際に何かが起こったことはない、と語ってはいたが、果たして、このまま何も起こらないままでいられるのだろうか。
「八束? どうした?」
 その時、南雲が帰ってきた。袋いっぱいのたい焼きを抱えているところを見るに、どうもこれから猫の毒殺未遂事件を調べに行く、という本来の目的は完全に頭からすっぽ抜けてしまっていると見える。
 それに、南雲は何も知らないのだろう。妹の真が置かれている状況も、彼女が悩んでいるということも。
 今、それを言えば、何かが変わるだろうか。
 南雲なら、彼女が置かれている状況を、何か変えることができるだろうか。
 ぐるぐる、頭の中をいくつもの「もしも」が駆け巡る。それでも。
「……いえ、何でもありません」
 どうしても、「秘密」と言われてしまったそれを、言葉にすることは許されなくて。
 せめて、今目の前にある事件を解決することに専念しようと、意識を、切り替えることしかできなかった。

03:ナインライヴズ・ツインテール(5)

 ――今日は、八束の機嫌がすこぶる悪い。
 
 南雲彰は、腕に抱えたアザラシのぬいぐるみ越しに、正面に座る八束結を恐る恐る見やる。キーボードを叩くテンポ自体はこれまでとほとんど変わらないが、その打鍵の音は普段の五割増、短い眉は釣りあがり、頬はぷっくりと膨らんでいる。ぷんすこ、という効果音が今にも聞こえてきそうなほどに、八束の不機嫌は歴然としていた。
 触らぬ豆柴に祟りなし、と言いたいところだが、かの老婦人との約束もある。相手がひとでなしであろうと、約束は約束だ。俺もまあ、変なところで義理堅いよね、と内心で苦笑しながら、覚悟を決めてこつこつと指先で机を叩く。
「ねえねえ、八束」
「何ですか」
 ぎろり、という幻聴が聞こえる睨みっぷり。これはどうも、確実に自分が何か八束の気に障ることをしでかしたらしい、と口の中で溜息を一つ。八束の機嫌を悪化させることなどしょっちゅうだが、いつもと大きく違うのは、南雲の側にその心当たりが全くないということだった。
 とはいえ、心当たりが無い以上、変に構えても仕方がない。地雷を踏んだらその時考えることにして、さくっと本題を切り出す。
「この前の、綿貫さんの話覚えてるよな? にゃんこが大変だって話」
 依然頬を膨らませたままではあったが、南雲の話が普段より幾分真面目なものであることを察したのか、八束はきっぱりと頷くことで南雲の言葉に応える。
「はい、記憶しています。あれから、まだ解決したという話は聞いてませんね」
「だよな。あの事件、ちょっと、気になっててさ」
「……南雲さんが、ですか?」
 八束の眉間に、不機嫌さとはまた別の皺が刻まれる。言うなれば「怪訝」といったところか。秘策の仕事を真面目にやろうとした例のない南雲が、秘策の領分ですらない「野良猫の毒殺未遂事件」に興味を持つ、というのは日ごろの南雲をよくよく知る八束に違和感しか与えないのだろう。
 南雲自身、らしくないと思ってはいるのだが、何とか八束には納得してもらわなければならない。今回ばかりは、どうしても南雲一人では解決できそうになかったから。
「相手が人間なら正直どうでもよかったんだけどさあ」
「それ、警察官として極めてどうかと思う発言ですよ南雲さん」
「でも、にゃんこが酷い目に遭ってるってのは、何かやだなあって思うわけよ」
 これは、かの老婦人からの頼み云々とは関係の無い、南雲の本心であった。人の手によって動物が害されるというのは、どんな理由があったところで胸糞悪い、という感想にしかならない。
 そんな南雲の率直な気持ちを八束も理解してくれたのだろう、「確かに」と深く頷く。いつの間にか、八束のほっぺたもしぼんでおり、一旦南雲に対する不機嫌さは横に置いたものとみられる。
「わたしも、その問題に関しては遺憾に思っていました。もし、南雲さんが積極的に調査をされるというのであれば、わたしも協力させてください」
「ありがと、ほんと助かる。俺、にゃんこ相手だと弱くてさあ」
「弱い?」
「アレルギー。めっちゃ目がかゆくなってくしゃみが止まらなくなる。だから猫には近づけないし猫がいた場所も毛が舞ってるだけでダメみたいでさ。猫好きなのになー」
 南雲の言葉に、なるほどそうでした、と八束が唸る。猫好きなのに猫アレルギー、というのはなかなか切ないが、そうそう治るようなものでもないので仕方ない。猫とは画面越しに、もしくはできる限り遠くから観賞するものである、と割り切るしかないのであった。
 ついさっき、生活安全課から「秘策の仕事に必要」と言い張って借り受けてきた、件の事件の資料を机越しに八束に投げ渡す。危うげなくキャッチしてみせた八束は、ほとんど見てないんじゃないか、と疑いたくなるような速度で資料を流し読み、顔を上げて一つ頷いた。これで完全に頭に入っているというのだから末恐ろしい。
「まずは件の現場から見てみようと思うんだけど、どうかな」
「はい、異論はありません!」
 ぴしっ、と背筋を伸ばした姿勢で返事をする八束のクソ真面目っぷりには、南雲も感心するばかりである。正直、もうちょっと肩の力を抜いてくれた方が南雲も気が楽なのだが、言ったところで八束が「肩の力を抜く」という言葉を理解してくれるとも思えなかったので早々に諦める。
 そして、奥の机で書類と向き合っていた係長の綿貫栄太郎に視線を投げる。
「じゃ、早速今から八束借りていいっすか、綿貫さん」
「ええ。急ぎの仕事もないので、構いませんよ」
「本来の秘策の業務ではありませんが、今から調査に向かってよいのですか?」
 八束が当然の問いを投げかけると、綿貫はいつも笑っているような顔をほんの少しだけ苦笑に変えて言う。
「本来はあまりよいことではありませんが、例の事件に関してはどうも情報が少なくて、担当している側も身動きが取れないようなんですよね」
「ついでに、猫より人に関わる事件の方が優先度は上ってところっすかね」
 南雲の言葉に「そういう言い方はしたくありませんが、その通りです」と綿貫は頷く。仕方がない、秘策は常に暇だが、他の部署はいつだって大忙しだ。人と人との問題は、いつどこにでも転がっているのだから。
「ですから、例の件に関しては『猫の手も借りたい』そうなので、例外的に南雲くんと八束くんには調査を許可しようと思います。よろしくお願いいたしますね」
「はいっ」
「へいへい」
 許可が出たなら、だらだらと時間を潰す理由は無い。てきぱきと準備を始める八束を横目にジャケットを羽織り、その上からコートを着込んでいると、綿貫がこちらを意味ありげな笑みで見つめていることに気づいた。
「しかし、珍しいですね。南雲くんが自分から動こうとするとは」
「まあ、ちょっと、頼まれたってのもあります」
 あえて「誰に」というのは言う理由がないから伏せておく。言ったところで、綿貫はともかく、この会話を聞いている八束を混乱させてしまうだけだったから。
「それに、うちらの仕事じゃないとはいえ、無関心を装うにはあまりにも身近すぎますしね。被害に遭ってるのが人でなくにゃんこならなおさらです」
「南雲くん、意外と真面目ですからねえ。そういうところ、僕も好ましいと思いますよ」
 綿貫さんに好かれても全然嬉しくないですよ、と南雲は眉間の皺を一段階深めるが、綿貫はただにこにこと――もしくはにやにやと、狐じみた笑みを向けてくるだけだ。南雲は、綿貫のそういうところをとりわけ嫌っているわけではないが、時々無性に気に入らない。
「ああ、もし、例のご婦人にお会いしたら、よろしくお伝えください」
 そうやって、当たり前のように南雲の腹の内を見透かしてくるところも。
「なんだ、全部お見通しですか、やっぱり」
「そういう情報を収集するのも、僕の仕事ですからね」
 綿貫は、ただでさえ細い目を更に細めてみせる。そこまでわかっているなら、もう少し便宜を図ってくれればいいと思うのだが、そのあたりは、綿貫の立場上色々と難しいということがわからない南雲でもないので、喉の奥に押し込んでおく。
 そんな南雲の葛藤を知らない八束は、黒目がちの目をぱちぱちさせて、びしっと敬礼する。
「それでは、行ってまいります」
「ええ、行ってらっしゃい。八束くん、南雲くんのお守りお願いしますね」
「お任せください!」
 ――ああ、やっぱりお守りされるのはこっちなのか。
 とはいえ、ほとんどの場合それで間違っていないので、異論を差し挟むのはやめた。そういうところでカロリーを使うことも面倒くさい。
 見送る綿貫の笑顔を見ないようにして、対策室を後にして。少々薄暗い廊下を歩きながら、お手本のように手を振って歩く八束を見下ろす。南雲に対する機嫌の悪さなど、すっかり忘れてしまったようだ。実際に「忘れた」ということは八束に限ってありえないわけだが、最低限、意識には上っていないものと見える。
 ――今なら、聞いてみてもいいだろうか。
「そういえば、八束」
「はい」
「さっき、どうしてあんなに不機嫌だったの? 俺、何か悪いことしたかな」
 びくうっ、と八束の肩が跳ねた。その大げさな反応を見る限り、南雲の見立て通り、先ほどまでの不機嫌は、八束の中で遥か遠くの方に追いやられていたものと見える。
 しかも。
「……その、それは」
 口ごもり、ついと視線を逸らすその姿は、今まで南雲が見てきた「八束らしさ」からはあまりにもかけ離れていて、逆に南雲の方が面食らう。南雲の知っている八束とは、どこまでも真っ正直で、思ったことは即座に言葉にしてしまうような、猪突猛進という言葉を体現したようなお嬢さんであったから。
 しかし、次の瞬間、八束はきりっと眉を吊り上げて、きっぱりはっきりと言った。
「秘密なのです!」
「ひみつ?」
 八束の口からそんな言葉が出るとは思わなかったので、つい、間抜けな声が漏れてしまった。
「はい、秘密にすると約束したので、南雲さんにも言えません」
 しかも、約束、と来たか。
 南雲は顎に手を当てて、その言葉を吟味する。
「『約束』ってことは、誰かに何か吹き込まれて、その上で『黙ってろ』って言われたってことか」
「うっ」
 八束も、そこでやっと自らの失言を悟ったようで、顔を青くする。これは、もう少しつついてやれば、すぐに「秘密」とやらも瓦解するだろうなあ、とは思うのだが。
 南雲は、その代わりにぽんぽんと八束の頭を叩いた。
「誰に何言われたのかは知らないけど、秘密じゃあ仕方ないな」
 八束が自分に何かを隠している、というのは少々気に入らないが、しかし、交わした約束を愚直に守ろうとするのは、それはそれで八束のあるべき姿であり、あえて暴き立てるような気持ちにもなれなかったのだ。
「南雲さん……」
「それに、お前が黙ってるってことは、正義に悖るようなことじゃあないんだろうしね。なら、約束を守る方が大事だろ」
 八束は、それはもう不器用で危なっかしい娘ではあるが、彼女が持ち合わせている倫理観は、いささか杓子定規ながらも決してぶれることはないし、その点においては南雲も信頼を置いている。その八束が「黙っていてよい」と判断したということは、八束が隠していることは、それ自体が誰かの脅威になる内容じゃないということなのだろう。
 ぐりぐりと頭を撫でてやると、八束は、唇を噛んで、何かを必死に堪えているようだった。だが、それ以上の言葉が八束の口から出ることは、なかった。

03:ナインライヴズ・ツインテール(4)

「聞いてください、この前なんてですね!」
 待盾駅前の広場に八束のよく通る声が響き渡る。ベンチに腰掛けた八束は、ぺちぺちとジャージの膝を叩きながら、唾を飛ばす勢いで言う。
「南雲さん、仕事をサボってワンホールのケーキを買ってきたと思ったら、わたしと係長の分として十六分の一しか分けてくれないんです! 十六分の一の半分、つまり三十二分の一ですよ、直立もしてくれません! 無駄に切り口が綺麗なのもまた腹立たしいのです! そして残りの十六分の十五は全部南雲さんのおなかの中なんです! 確かに南雲さんが買ってきたものなので南雲さんの好きにすればよいとは思うのですが、この処遇には理不尽なものを感じます!」
 八束の横に座り、他愛のない愚痴でしかない話をにこにこしながら聞いているのは、どこかで見たような顔……、というか明白に南雲の面影がある女性である。
 ――南雲真。
 八束の想像通り、目の前の女性は南雲彰の妹であった。年齢は八束と同じ二十二歳で、今はこの近くの大学に通っているらしい。南雲が現在三十二歳、あと一ヶ月くらいで三十三になると言っていたから、随分歳の離れた妹である。
 そもそも、八束は、南雲に妹がいることすら、今日初めて知ったわけだが。
 八束が兄の名前を言い当てたことに驚いた南雲妹・真は、八束が南雲の後輩であり、職務上のパートナーであるという話を聞いて、更なる驚きの表情を浮かべてみせた。そして、
 
『あの、もし、ご迷惑でなかったら、兄の話を聞かせてくれませんか』
 
 と、遠慮がちに言ったのだ。
 というわけで、今、八束は身振り手振りも交えながら、日ごろの南雲の行いを赤裸々に語っているところだった。
「その前は、テーブルの上にプッチンプリンタワーを建設するとか何とかで、気づいたら天井に届くくらいのプリンカップが積まれてたんですよ!? っていうかいつ積んだのかさっぱりわからないんですよ、朝来たら既にそうなってたんですから! しかもその無数ともいえるプリンを、いつの間にか南雲さんが全部食べていたって点が更にミステリアスなのです!」
 話せば話すほど、一体南雲が何のために対策室にいるのかよくわからなくなってくる。ついでに、そんな南雲の奇行を苦い顔をしながらも何だかんだ許容している係長の綿貫にも多少の問題があるような気はしている。
 ただ、日々の南雲はそれはもう擁護できないほどの怠惰ぶりだが、それが南雲の全てでないことも、今の八束は知っている。
「あっ、でもですね! 確かに相当変わった方だとは思っていますが、それでも、わたしは南雲さんを尊敬しているのです!」
「尊敬……、ですか?」
「はいっ」
 今までの面白エピソードからどうしてそう繋がるのかわからなかったのだろう、俄然不思議そうな顔をする真に対し、八束はぴんと背筋を伸ばして頷く。
「南雲さんは、普段の態度こそ不真面目なところはありますが、とても優しくて、またよく気のつく方です。おそらく、人のことをよく見ている方なのだろう、と推測しています」
 普段はろくなことをしていないように見える――実際、言動の九割方に意味はない南雲だが、残りの一割から垣間見える視野の広さや、危なっかしい八束を後ろからさりげなく支える言動は、いくつかの事件において遺憾なく発揮されてきた。
「ですから、わたしは、そんな素敵なことを自然にできてしまう南雲さんに憧れていますし、心の底から尊敬しているのです」
 目を丸くして八束を見つめていた真は、ぽつりと「そっか」と呟き、足元にじゃれつくちょことまろんを見下ろす。
「お兄ちゃん、きちんと、お仕事できてたんだ……」
 八束の説明のどこに「きちんと」という要素があったのかはさっぱりわからなかったが、気にかかるのは真の表情だった。人の気持ちが理解できないことはそれなりに自覚しているつもりの八束だが、それでも、真の浮かべるそれが「憂い」という表情であることくらいは、判別がつく。
「どうかしましたか、真さん?」
「ううん、どうもしません。ほっとしたんです、八束さんが、兄と親しくしてくれていると聞いて」
 当たり障りのない回答だが、やはり、何かが引っかかる。
 果たして、そこに踏み込んでもいいものか否か、八束は即座には判断できなかった。もし自分が南雲であれば、きっと気の利いたことを言ったり、もしくは適切に距離を取ったりできるのかもしれない。しかし、八束は逆立ちしたところで八束結であり、真の冴えない表情の理由が「わからない」以上は、踏み込まずにはいられないのだ。
「あの、真さん」
「はい?」
 八束は真正面から真の顔を見る。真の言動にはいくつか気になる点はあったが、そのうち、最も八束の頭の中に引っかかった点を、疑問として投げかける。
「南雲さん……、お兄さんからは、お仕事の話とか、聞いたりしないのですか?」
 長らく家元を離れて一人暮らしをしている八束に対し、南雲が待盾署から程近い実家で家族と共に暮らしていることは、度々耳にしていた。その際、必ず南雲はどこか苦い表情を――たたでさえ消えない眉間の皺を、更に数本増やす程度ではあるが――していたことを思い出す。
 それに、真の話を聞いている限り、真は南雲が普段どういう仕事をしていて、どのような人間と付き合っているのかも全く知らないようだった。同じ家に暮らしているはずなのに、だ。
 そんな八束のもっともな疑問に、もちろん真も気づいていないわけではなかったのだろう。八束から視線を逸らし、そっと、まろんの鼻を撫でて。
「兄は……、私とは、口を利いてくれないので」
 寂しげに、呟いた。
「え……?」
「数年前に、私、兄と大喧嘩しちゃって。それきり、兄は家の中では全く口を利かないんです。それに、いつも朝早く出て行って、私たちが寝静まったくらいに帰ってくるから、最近は顔もほとんど見てなくって」
 ――そういえば。
 八束も、南雲の勤務態度については、常々疑問に思っていたのだ。
 南雲が仕事をしないのはもはや「そういうもの」だとしても、南雲は、仕事熱心な八束よりずっと早くから対策室にいて、特に何をしているわけでもないというのに、八束が帰るときには「また明日」と八束を見送っているのだ。
 つまり、南雲は朝早くから夜が更けるまで、日々対策室で時間を潰しているということになる。真の言葉が正しいのだとすれば、家族と顔を合わせたくないがために。
 その事実を思うと、何とはなしに、胸の辺りがちりちりする。上手く言えないが、どうにも釈然としないものが胸と喉の間に詰まってしまったような、感覚。
 多分、それは。
「何だか、南雲さんらしくないですね」
 普段触れている南雲彰という男のイメージと、何一つ重ならないからだ。
 あの、顔は怖いがどこまでも飄然としていて、誰に対してもふんわりと接する南雲が、一つ屋根の下に暮らす家族に対してのみ、そこまで頑なな態度を取っている姿が全く想像できなかった。
 そんな八束の感想に対して、真は何も言わなかった。肯定するでも否定するでもなく、ただ、足元でちょろちょろするちょことまろんを見つめているだけだ。
「喧嘩とは、どのような内容なんですか?」
「それは、ごめんなさい。ちょっと、人には言いづらくて」
「そうですか。こちらこそ、言いづらいことを聞いてしまってすみません」
 言いづらい、と言われた以上はそれ以上の追及はやめる。これは捜査ではないし、変に深入りすることでもないだろう、と己を戒める。ただ、その一方で、明らかに寂しそうにしている真を放置することも、八束にはできないのだ。
「真さんは、お兄さんと、仲直りをしたいのですか?」
 八束の問いに対し、真は「それは」と言いかけて口を噤む。その間に、ちょこが八束の膝の上に飛び乗ってきた。そのつややかなこげ茶色の毛並みを撫でてやりながら、真の言葉を待つ。
 しばし、爪先に視線を落とし、言葉を選んでいるようだった真は、やがて小さく息をついて言う。
「兄と仲直りをしたいのは、間違いないです。でも……、怖いんです」
「怖い、というのは?」
「ずっと口を利いてくれないのもそうですし、顔を合わせようとしてくれないのもそうです。きっと、兄は今の今までずっと怒ってるんだと思います。そんな兄に私が触れようとしたら、また喧嘩になって二度と兄との関係が取り戻せなくなるんじゃないかと思って、怖いんです」
 むむ、と八束は唸らずにはいられない。どうも南雲が「怒っている」というのは八束にはしっくり来ないが、それは、真と南雲との関係を一度も目にしたことがないからに違いないのだろう、と考え直す。
 しかし、しかし、だ。
「しかし、それは、実際に南雲さんに聞いてみないとわからないと思います! もし、真さんが直接お兄さんに確認できないならば、わたしが代わりに真さんのお気持ちをお伝えすることもできますが!」
「えっ」
 まろんを抱え上げた真の動きが、ぴたりと止まる。
「い、いえっ! 流石にそこまで、八束さんにお願いするわけには! それに」
 ――これは、私と兄の問題なので。
 そう言う真は、微笑んでみせたけれど、その微笑みは酷く鈍いものだった。南雲とよく似た顔立ちをしているだけに、その表情の鈍さがはっきりと八束にも読み取れる。
 ただ、「真と南雲の問題」であると明言されてしまった以上、これはもう八束が関わっていい話ではないということだけは、はっきりした。どれだけ釈然としなくとも、真本人がそう言うのだから、仕方のないことだった。
 それにしても、ここまで胸がもやもやするのは珍しいことだ。八束はちょこのしっとり濡れた鼻を押し付けられながら、微かに眉を寄せる。
 その正体を一つずつ分析してみれば、確かに真の煮え切らない態度ももやつくものがあるが、これは何より、今はここにいない南雲に対してのもやもやだ。妹にこんな顔をさせて、南雲は何とも思っていないのだろうか。八束よりよっぽど人の心の機微に敏感なあの男が、真の気持ちに気づかないで過ごすなんてことがあるだろうか。
 そう、それは、どう考えても「南雲らしくない」のだ。
 しかし、現実として南雲と真との交流は断絶しているし、八束もその証拠の一端を握ってしまっている以上、真の言葉が嘘とも思えずにいた。
 だからこそ、日々を共に過ごし、少しずつわかってきたと思っていた南雲の輪郭が、急にぼやけてしまったような錯覚を抱かずにはいられないのだ。
 言葉にしようとしても、その全てを上手く表現することのできないもやもやを何とか振り払おうと、八束は改めて背筋に力を入れて、意識して明るい声を出す。
「その、お兄さんのことはともかくとしても、もし、何かわたしにできることがありましたら、お悩み事でも何でも、遠慮なくおっしゃってください!」
「え……?」
「いつも真さんのお兄さんにはお世話になっていますし、何より、わたし、真さんとお知り合いになれたことが嬉しいんです」
 それは何も、真が南雲の妹だからというだけではなく。八束にとって、仕事でもない場所で誰かと知り合って、こうして並んで話すという経験は実のところほとんど初めてのことだった。相手が同年代の女子というなら、尚更だ。
「ですから、よかったら、また、こうやってお話しさせてください」
 八束の言葉に、目を白黒させていた真は、やがてふわりと微笑んだ。今度は、南雲の話をしていた時とは違う、どこまでも穏やかで優しい――あの南雲もごく普通の感情表現ができるなら、ひょっとするとこんな顔になるのではないかと思わせる――甘く柔らかな笑顔だった。
「それなら、喜んで。私も、八束さんのお話、もっと聞きたいです」
「そう言っていただけるなら、ありがたいです」
「それに、別に悩みや相談事でなくとも、八束さんとおしゃべりできればよいなと思うんですけど」
「しかし、その、それだけではわたしが落ち着かないのです。失礼ながら、あまり、普通の話というのに慣れていなくて。日々、問題を解決することに重点を置いてしまっている弊害というのでしょうか」
 これは南雲にも以前呆れ顔で指摘されたことがあった。八束は、あまりにも、日常生活の話題というものに興味がなさすぎる、と。実際、意識したことがなかったのだ。八束にとって仕事以外の日常生活は「仕事を行うために必要な諸々の手続き」でしかなかったから。
 そんな八束の言葉を不思議そうな顔で聞いていた真だったが、八束の言葉が冗談でも何でもないのはわかってくれたのだろう。「なるほどです」と一つ頷いて、ちょこんとかわいらしく首をかしげた。
「それでは、お言葉に甘えて、一つ、悩み事を聞いてもらってもよいですか?」

03:ナインライヴズ・ツインテール(3)

 一方、その頃。
 自分が話題にされているとはつゆ知らず、南雲彰は待盾署に程近い公園のベンチに腰掛けて長い足をぶらつかせていた。
 具体的に何をしているわけでもなく、紙袋に入った一尾のたい焼きをむしゃむしゃしながら、西からの光を浴びているだけである。行きつけの菓子屋に寄ることだけは最初から決まっていたが、買い物をしてすぐ帰る気分になれなかっただけ、ともいう。
 やがて、たい焼きもすっかり食べ終わってしまい、ふあ、と欠伸をしかけたところで、突然鼻がむずむずして、小さくくしゃみをする。こういうものは、一度でも飛び出すと連続するもので、くしゅ、くしゅ、と顔に似合わぬかわいいくしゃみを数回繰り返したところで、やっと波が止まった。ポケットからティッシュを取り出して、鼻をかんで。
「……風邪かしら?」
 不意に、横から聞こえてきたおっとりとした声に、依然ずるずると鳴る鼻を啜りながら答える。
「いーえ、これは十中八九猫アレルギーです」
「あらあら、それは困ったこと」
 ころころ、と愉快そうに笑う声の方に視線を向ける。いつの間にか、横には杖を手にした老婦人が腰掛けていた。きっちり整えられた和の装いに、綺麗に結い上げた白髪。こんな寂れた公園には似合わない、見るからに品のいい婦人である。
 だが、南雲には、それが目に見える通りの存在でないことが、わかってしまうわけで。
 くしゃん、ともう一つくしゃみをして、ティッシュで鼻を押さえながら南雲は老婦人を睨む。
「で、ひとでなしのご婦人が俺に何の用ですか」
「あらまあ、ひとでなしだなんて酷いわ」
「別に、事実を言ったまでですよ、『人間じゃない』って」
 その言葉に、老婦人は再びころころと笑う。「酷い」とは言っていても、本気で気分を害したわけではないようで、南雲も顔には出さないまでもほっとする。
 南雲としては、ひとでなしに舐められるわけにはいかないが、逆上されても困るのだ。何しろ南雲自身は「ひとでなし」と「それ以外」を見分けることができるだけの、ただの人間でしかないのだから。その点、このご婦人が良識的なひとでなしであるらしいことに心の内でそっと感謝する。
 老婦人は人懐こそうな笑みを浮かべたまま、おっとりと喋り始める。
「実はね、近頃とても困っていることがあって、あなたを頼りたいと思ったの」
「俺を、ですか?」
 日ごろから眉間に刻まれて消えない皺が、更に一つか二つ増えたのを自覚する。きっと、今の自分はとんでもなく不機嫌そうな面をしているのだろうな、と他人事のように思いつつ老婦人を横目に窺えば、老婦人は変わらず笑みを浮かべ続けていた。いたって温和で人の好さそうな、その反面、考えていることが全く読めない笑い方である。
「ええ。あなたなら、私たちの事情もわかった上で、話を聞いてくれると思って」
「一体どこの噂ですかそれ。俺、できればひとでなしとは関わりたくないんですけど」
「それは、例の事件のせい?」
 例の事件。
 その言葉に、南雲はただ、沈黙と眼鏡の下から投げかける視線だけで応えた。それだけでも十分、南雲の「不愉快だ」という感想が伝わったらしい。老婦人は申し訳なさそうに白髪頭を下げる。
「……ごめんなさい。部外者が、勝手に詮索していいことではなかったわね」
 それでも、と。頭一つ分上にある南雲の顔を見上げる、ひとでなしのご婦人。
「私たちのそばにいながら『人』である、あなたの手を借していただきたいの」
 よくよく見直すまでもなく、老婦人の目は、明らかに人のそれではなかった。いやに細い、針のような瞳孔が、じっと南雲の顔を覗き込んでいる。とはいえ、その手のひとでなしには慣れている。南雲は意図的に視線を外して、呟くように――それでも、老婦人だけには聞こえるように、言った。
「まあ、話を聞くだけなら。お役に立てるかどうかは、わかりませんよ」
 ええ、と答えた老婦人は心底ほっとした様子で目尻を下げてみせた。それにしても、こうして人と変わらぬ姿を取れるほどのひとでなしが、ただの人である南雲の力を必要とするようなことがあるのだろうか、と不思議に思いながらティッシュで鼻を押さえていると、老婦人はぽつぽつと喋り始めた。
「あなたはご存知かしら? 近頃、待盾市内の、特にこの辺りの野良猫が悪いものを食べて体を壊してしまう事件が起こっているの」
 そういえば、昨日、係長の綿貫もそんなことを言っていた気がする。と言っても、その時は半分くらい寝ていたから、ほとんど八束との会話しか覚えていないけれど。
「そちらさんには、犯人がわかってないんですか?」
「ごめんなさい、はっきりとしたことは、何も。けれど、このままでは皆怖がってしまうばかりでしょう。だから、犯人を捕まえていただきたいの」
「……それ、俺に頼むことなんすか? 俺より、そちらさんの方がよっぽど捜査には向いてると思いますけど」
 人には向き不向きがあり、ひとでなしにもそれがある。南雲の見立てが正しければ、目の前にいるひとでなしは、人の側に寄り添い物事を見つめること、に関しては極めて優れていると思われた。
 しかし、老婦人は南雲の言葉に対し、ゆっくりと首を横に振る。
「人による問題は人が、ひとでなしによる問題はひとでなしが。それが、あるべき姿だと思うのだけど、どうかしら」
 そうですね、と言って、南雲はもう一枚ティッシュを取り出して、依然ずびずびと鳴り続ける鼻をかんでから、口呼吸の合間に言葉を吐き出す。
「わかんないでもないです。俺が、まさにそういう立ち位置ですしね」
 南雲が属する秘策こと神秘対策係は、本来なら存在し得ない『ひとでなし』――妖怪や幽霊、超常能力者といった神秘の担い手――が関わっているといわれる犯罪が、実際には人の手によるものであることを証明し、罪を犯した人間を特定するための部署だ。
 だが、その一方で、南雲はこうも考えている。
 神秘対策係とは、表向き「存在し得ない」とされていながら、実際には我々のすぐ側に存在するひとでなしとの相互不可侵を守るために存在しているのではないか、と。秘策が神秘を人の手によるものであると証明するのは、単に犯人を逃さないため、という理由だけではなく、ひとでなしにあらぬ疑いをかけることを避けることにも繋がっているのではないか、と。
 もちろん、それはあくまで南雲の想像に過ぎないし、あえて部署の創立者である綿貫栄太郎に聞いてみる気もなかった。できることなら、ひとでなしには指一本触れずに平穏な日々を送りたい南雲にとって、一番の方策は「話題にも出さない」ことだったから。
 とはいえ、今こうしてひとでなしを目の前にしてしまった以上は、無関心でもいられない。南雲にとって、ひとでなしとはいつだってそういうものだった。
 老婦人は、そんな南雲を不思議なつくりの目でじっと観察していたようだったが、やがてふと口元を緩める。
「私からのお願いはそれだけ。もちろん無理にとは言わないし、もしあなたが犯人を捕まえられなくても、それを責めたりはしないと約束するわ。いかがかしら?」
「もし、俺が犯人を捕まえられたら、見返りって何かありますかね? 俺はその件について仕事としては積極的に介入できない立場なんで、ただ働きは勘弁してもらいたいとこです」
 あ、でも金銭とか物品は受け取れないです、と南雲はあらかじめ釘を刺す。一応、これでも地方公務員としての矜持はあるし、もし収賄が誰かに見つかったら面倒くさい。というか、主に後者が大きな理由である。
 それもそうね、と老婦人は口元に指を当てて、しばし考えているような素振りを見せたが、すぐに、南雲の前に人差し指を立てて言う。
「それなら、一つ、あなたのお願いごとを叶えてあげましょうか。と言っても、私程度の力じゃあ、そんなに大したお願いは叶えられないけど」
「お願いごと……、ねえ」
 目の前の老婦人がひとでなしである以上、多少は現実離れした「お願い」でも聞いてもらえそうな気はする。と言っても、「願いを叶える」という触れ込みのひとでなしが南雲の本当の願いを叶えてくれたためしはないので、大きな期待をかけるべきではないことも、わかる。
 と、不意に、南雲の脳裏に、一つの光景が蘇る。きっと、他人から見れば大したことでもない、けれど南雲にとっては限りなく根深い問題である、それが。
 あまり、他人に――この場合はひとでなしも含めて――言うようなことではないし、正直なところ誰にも言いたくないことではあったが、今の南雲にはどうにもならないことでもあって。つい、背中を丸めて老婦人の耳に唇を寄せる。
「じゃあ、こんなお願いでも聞いてもらえますかね」
 そっと、耳打ちした内容に、老婦人は目をぱちくりさせて、それから意味ありげに目を細めて見せる。
「あら、それはそれは、なかなか難しい問題ね」
「もちろん、できれば、で構わないんですけど」
「ふふ、いいわ。私が、責任をもって請け負いました。それじゃあ、契約成立ね」
 老婦人の軽やかな笑い声を聞きながら、南雲は「失礼」と顔を背けて、再び立て続けにくしゃみする。そして、何度目かもわからない鼻をかんだところで、ついに手持ちのポケットティッシュが尽きた。次はもうハンカチで拭くしかないか、と思っていると、そっと横からポケットティッシュが差し出された。近所のモデルルームの広告が入ったティッシュを差し出す老婦人は、困ったように首を傾げて言った。
「本当にごめんなさいね。ティッシュ、使ってちょうだいな」
「すみません、いただきます」

03:ナインライヴズ・ツインテール(2)

 ――休みの日だからといって、怠けるわけにはいかない。
 八束結にとって、休日とは自己鍛錬の時間に他ならない。朝のカロリーメイトとサプリメント、そしてこの前隣人に差し入れてもらった肉じゃがを腹に詰め込んだ後は、準備体操からのランニング。それから普段は何だかんだと読む時間を取れない、捜査に関わりそうな書籍――最近はその中に、八束が最も苦手としていたオカルト関連の雑誌も増えてしまったわけだが――の通読と咀嚼。その他にも、休日にすべきことはたくさんあって、そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
 それらを全て片付けたところで、窓の外を眺めれば、太陽は随分西に傾いていた。もうすぐ十一月も過ぎ去ろうとしているからだろう、昼が日に日に短くなってきているということを、しみじみ実感する。
 完全に暗くなる前に、もう一走りしてこよう。
 ずっと座って本を読んでいたせいか、体のあちこちが固まってしまっている。今日読み終わった本を畳の上に積んだまま、部屋を飛び出す。
 肌寒さを感じさせる風を受けて、軽い足取りで走り出す。自分の足で走るのは好きだった。地面を踏みしめて、前へ前へと体を押し出していく感覚を初めて体験したその日、八束にとっての人生の第一歩を思い出すから。
 自然と口元を緩めながら、まるで機械仕掛けのような均一のペースで走り続ける。八束のランニングは地図だけではわからないことも多い、待盾市内巡りも兼ねている。今日は、普段バスで通過してしまっている警察署近辺にまで足を伸ばすことに決めていた。
 とてもいい香りがするために、日ごろから気になっているパン屋。隣人の大学生がアルバイトしているちいさな本屋、建物と建物の間に挟まるように扉がある、一体何を売っているのかも定かではない雑貨屋……。
 立ち並ぶ建物の雰囲気もちぐはぐで、統一感が感じられないが、それもまた日々発展を続ける待盾という都市をよく表していた。
 そんな街並みを抜けて、少し開けた交差点に差し掛かったところで、行く手の歩行者用信号がちかちかと点滅しているにが目に入る。無理に横断歩道を渡ろうとはせずに、一旦足を止めて、上がっていた呼吸を整えておく。その間に視界の先の信号は赤に変わり、目の前を車が行き交い始めた。
 速度を上げて流れていく車の一つ一つが、意識せずとも記憶に刻み込まれていくのを感じながら、その一方で、八束の思考は目の前の光景とは関連性の無いものを拾い上げていく。
 例えば、昨日のこと、だとか。
 今日一日、一通りの鍛錬や学習をこなしながら、頭の片隅にずっと引っかかり続けていたのは、昨日の、南雲彰が見せた、いつになく物憂げな表情だった。普段、どこまでもマイペースを貫く南雲が珍しく「落ち込んでいる」と明言していただけに、気になってしまって仕方ない。
 と言っても、それが八束には関係ない南雲個人の事情である以上、どれだけ考えても答えが出ないわけで。次に南雲と顔を合わせた時、まだ様子がおかしいようだったら、もう一度何があったのか聞いてみよう、という結論に達したその時。
 視界の端を、何かが行き過ぎた。
 あくまで視界の片隅に刹那映りこんだだけだったので、それが何であるのかの判断はできなかったが、次の瞬間。
 きゃんきゃんきゃんきゃん!
「ふええ!?」
 突然飛び込んできた耳を劈く甲高い声に驚き、その場に尻餅をついてしまう。次の瞬間、小さな獣が二匹、八束の懐に突撃してきた。「ひっ」と思わず息を飲んでいる間に、八束の視界いっぱいに、縦長の獣の顔が飛び込んでくる。
 それは――、こげ茶色と薄茶色をした、ダックスフントだった。
 ぱっちりとした黒目をきらきら輝かせて、全身を使ってじゃれついてくる二匹をどうしていいものかわからず目を白黒させていると、慌てた様子で一人の女性が駆け寄ってきた。息を切らせた女性は、二匹のダックスの首輪から伸びたリードを手にとる。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」
「は、はいっ」
 大丈夫、ではあるのだが。
 二匹のダックスフントは、尻餅をついた八束によじ登って、ぺろぺろ頬を舐めたり顎の匂いをかいだりとそれはもう好き勝手やっている。どちらも千切れんばかりに尻尾を振りまくっている辺り、歓迎はされている、ようだが。
「噛まれたりしていませんか?」
「それは大丈夫ですけど……、こちらのお二方は、どうしましょう?」
「ああ、もう! ちょこ! まろん! お姉さんを困らせちゃだめ!」
 女性はリードを引き、何とか二匹を八束から引き剥がす。それで、二匹も我に返ったのか、今までの興奮が嘘のように、女性の方へと駆け戻っていく。それでも、ちらちらと八束を振り返り振り返りしている辺り、どうも気に入られてしまったかもしれない、とは思う。
 二匹が八束から離れたところで、改めて、女性が深々と頭を下げる。
「その、本当に失礼しました」
「いえ、わたしも、ちょっとびっくりしただけですので」
 驚き方が大げさに過ぎたことが恥ずかしくて、八束は頬を赤らめずにはいられない。羞恥を隠すためにも足に力を篭めて立ち上がり、きょときょとと首を振る二匹のダックスに顔を近づける。
「かわいいですね。ちょこさんとまろんさんというのですか?」
「はい。こっちのこげ茶の子がちょこ、少しクリーム色っぽい方がまろんです」
「何だかおいしそうな名前ですね」
 八束の率直な感想に「ですよね」と女性も二匹の犬から八束の方に視線を戻して、にこりと微笑む。そこで、八束は初めて真正面から女性の姿を見て……、息を、呑んだ。
 年の頃は八束と同じくらいに見えるが、八束とは対照的にすらりと背が高く、かつ女性らしい柔らかみを帯びたシルエット。肩より少し上で切りそろえられた髪はうっすらと波打ち、午後の光の中に深い栗色を浮かび上がらせている。
 何よりも、八束の目を奪ったのは、そのぱっちりと見開かれた目の色。
 八束のそれよりも明らかに淡い朽葉色の目には、妙な既視感があった。いや、既視感は目の色だけではない。少しつり上がり気味の、しかしきつさは感じさせない目尻とか、色の白い肌とか、ほっそりとした顎とか、目に見えるものだけでは上手く言い表せない雰囲気とか。女性の持つ特徴のあれこれが、八束の記憶のあちこちに引っかかって仕方ない。
 言葉を失って立ち尽くす八束を不審に思ったのか、女性はこくんと首を傾げる。肩の上で、ふわふわと栗色の毛先が揺れる。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ」
 まじまじと見つめてしまっていたことに気づき、慌てて首を横に振る。人の顔を観察してしまうのは、その技能が必要とされている時を除けば悪い癖でしかない。しかし、これだけ観察した上で「見間違い」で片付けられそうにない既視感にむずむずしていると、女性は申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。
「服も汚してしまいましたね」
 言われてみれば、尻餅をついた時に袖の辺りが汚れてしまっていた。自分では確認できないが、尻の辺りも多少擦れてしまったかもしれない――とはいえ。
「大丈夫です! これは汚しても問題ない服ですので、お気になさらず!」
 何しろ、八束が着ているのはジャージである。しかも小豆色の布地に白いラインと校章、そして「八束」という刺繍が入っている、どこからどう見ても「学校指定ジャージ」というやつである。
「この辺では見ないジャージですね」
「はい、これはわたしが高校時代に、地元で着ていたジャージなので。今は既に卒業して、待盾で働いております」
 女性はきょとんとした様子で不思議そうに首を傾げ、それから、何かに気づいたような顔をして、頭を下げる。
「ごめんなさい。すっかり学生さんだと思っていました」
 それでも「学生さん」という表現は、どこぞの南雲とかいう男に比べると格段に優しさを感じる。南雲は、それはもうきっぱりはっきりと「中学生にしか見えない」と言い切ってくれるから。
 日々、自らの言動に関しては反省と改善を繰り返しているつもりだが、見た目に関してはいかんともしがたい。南雲曰く「顔立ちや体型はともかく、その野暮ったい服装がよくない」とのことだが、その辺りのセンスはどうにも、八束には理解不能であった。
 そんな、日ごろからの課題を突きつけられはしたが、学生に間違えられるのは八束にとっては日常茶飯事の一つである。申し訳なさそうな顔をする女性に向かって「気にしないでください」と笑いかける。
「よく間違われるのです。一応、これでも警察官なのですが」
「……警察の方、ですか?」
「はいっ」
 快活に返事をする八束に対し、女性は薄い色の目を瞬かせ、少しばかり奇妙な表情を浮かべた。それは、八束の目から見る限り「戸惑い」にも似ていた。
「どうかなさいましたか?」
 ほとんど反射的に質問をすると、女性は「あ、いえ」と言葉を濁した後、しばし視線を虚空に彷徨わせていたが、やがて意を決したように八束に視線を合わせて口を開く。
「実は、私の兄も待盾署で働いているので、お知り合いだったりするのかな、と思いまして」
 ――兄。
 その言葉に、今の今まで意識の外に追いやっていた既視感が蘇る。偶然の一致というにはあまりにも似すぎているけれど、どうにも確信が持てなかったそれを、八束は思い切って言葉にする。
「そのお兄さんって、もしかして、南雲彰さんっていいませんか?」

03:ナインライヴズ・ツインテール(1)

 テーブルの上に朝食は並べたし、人数分の弁当も揃えた。自分の分の弁当もしっかりと鞄の中に入れたことを指差し確認。何しろ、弁当がなければ死んでしまう。一日の楽しみの半分は、弁当を食べることにあると言っても過言ではないのだから。ちなみにもう半分はお菓子を食べることである。
 窓の外はやっと日が昇ってきたのか、うっすらと明るくなり始めていた。こうして実際に日の出るくらいの時間に起きていると、徐々に日が短くなって、冬が近づいているという事実をひしひしと感じるものだ。
 尻尾を千切れんばかりに振って、足元にじゃれ付く二匹の愛犬をそれぞれ丁寧に撫で、弁当とお菓子でずっしりと重い鞄を手に取る。重たいのはいつものことであるし、この重さが幸せの重さだと思えばどうということはない。
 そうして、名残惜しくも愛犬に別れを告げ、なるべく物音を立てないように気を遣いながら玄関で靴を履いていると、不意に、首筋の辺りにぴりぴりとしたものを感じた。普段眠気と頭痛に苛まれる一方で、妙に鋭敏になってしまっている感覚を、この時ばかりは恨まずにはいられない。
 気づいてしまったら、そちらを、確認せずにはいられないから。
 ちらり、と背後を振り返れば、廊下の奥からこちらを見つめる双眸と、目が合った。
 責めたてるような、何かを訴えるような、その視線を真っ向から受け止めることなんて、できるはずもなくて。横に置いていた鞄を手に、乱暴に扉を開けて外へと飛び出す。依然消えない首筋あたりの違和感を振り払うために、大股で、早足に歩いていく。
 そして、角を一つ曲がったところで足を止め、恐る恐る振り向けば、視線の主は、こちらを追ってきていたわけではなかったのだと気づく。うっすらと暗い空の下、閑静な――まだ目覚めてもいない住宅街が、広がっているだけだった。
 僅かに乱れた呼吸を整え、消えない眉間の皺を指でごりごりと揉み解しながら。
「あー……、かっこ悪ぃ……」
 深い溜息と共に、心底の感想を、吐き出す。
 
 
 待盾署の名物部署『秘策』――C県警待盾署刑事課神秘対策には、今日も特に仕事らしい仕事はなく、八束結は忙しい他部署の応援として、事務書類を作成するためにキーボードを叩いていた。かたかたという規則正しい音が、元倉庫であるらしい狭い対策室に響き渡る。
 八束にとっては、普段と何一つ変わりのない、極めて日常的な業務内容である。本来の秘策の仕事が「非日常」である辺り、どうかと思わなくもないが。
 そんな時、不意に、奥に座って珈琲を啜っていた神秘対策係係長、綿貫栄太郎が口を開いた。
「そういえば、八束くんは、猫はお好きですか?」
 八束はリズミカルにキーボードを叩く手を止め、綿貫の方に視線を向けて首を傾げる。
「猫、ですか? そうですね、かわいらしいと思います」
 猫を飼ったことはないが、八束の住むアパートの周囲には、何匹かの野良猫が住んでいるらしく、八束も度々そのふわふわとした愛らしい姿を目にしている。茶トラにぶち、真っ黒な子に白靴下の子。個性豊かな猫たちは、近隣の住民に愛されながらゆったりとした日々を暮らしているようだった。
 八束の快活な答えを聞いて、綿貫はほっこりとした微笑みを浮かべて見せたが、すぐにその眉間に薄く皺を刻んで言う。
「では、少し嫌な話になってしまうと思いますが、一つお話ししておきたいことがあります」
「何でしょう?」
「近頃、待盾市内で野良猫が瀕死の状態で発見される、という事件が、数件ほど発生しているそうなのです」
「瀕死の状態、ということは、もしかして、毒か何かですか?」
「そうみたいですね。猫にとって有害な食物を摂取したことによる中毒症状のようです。幸い、今のところ発見に至るのが早かったらしく、全ての猫が一命を取り留めていますが、実際には発見されていないだけで死亡している猫もいるかもしれません」
 中毒症状、という言葉に、八束も短くぽってりとした眉を寄せずにはいられなかった。今までそうでなかった場所に、突然毒の入った食物が現れたとは考えづらい。おそらく、心無い人の手によって毒が仕掛けられているのだろう、ということだけは八束にだってわかったから。
「とはいえ、未だ詳細はよくわかっていないようでして、今は、生活安全課が広く情報提供を呼びかけているそうです。八束くんも、もし何か気づいたことがあれば、僕の方に報告してくださいね」
「はい、わかりました」
 ぴしっ、と背筋を伸ばし、きっぱりはっきりと返事をする。相手が動物とはいえ、この都市の住人である以上、彼らとて八束にとっては守るべき対象に他ならない。綿貫もそんな八束の返事に満足そうに頷いてみせると、その視線をそのまま八束の対面に座る――正確には、机の上の無数のぬいぐるみに埋もれて突っ伏している男に向ける。
「南雲くん」
「んうー」
「南雲くん、聞こえていましたか?」
 綿貫の声を受け、髪の毛一つ生えていないつるりとした頭を重そうに持ち上げた男、南雲彰は、盛大に位置がずれた黒縁眼鏡を直しもせずに、べったりと周囲に隈を浮かべた目で綿貫を睨みつけ、
「ううん、なんにも」
 恐ろしげな面に似合わぬ間延びした声で言って、再び机に突っ伏した。
 八束の『教育係』であり『相棒』でもある南雲の態度がろくでもないことはいつものことであり、綿貫も大げさに肩を竦めて、八束に向き直る。その顔は人の感情の機微に疎い八束ですらはっきりと感じ取れる、深い深い諦めに彩られていた。
「まあ、南雲くんが僕の話を聞かないということはわかりきっていましたから……」
「係長……」
 背中の辺りに哀愁すらも漂わせながら、綿貫は机の上の資料をまとめて、席を立つ。
「係長、どちらへ?」
「今日はこれから、例の怪盗事件に関する会議なんですよ。まあ、僕や秘策がお役に立てるとは思えませんけど、念のため参加しろとのことで。お留守番頼みましたよ」
「了解しました」
 びしっ、と背筋を伸ばして返事をすると、綿貫も満足そうに頷いて――それからちらりと南雲に視線をやったが、南雲は依然突っ伏したままでぴくりとも動かなかった。綿貫も南雲に何を期待してもいなかったのだろう、「では、行ってきます」と言って対策室を出て行った。
 その足音が遠ざかって、聞こえなくなったところで。
「いやー、綿貫さんも大変だよねえ」
 唐突に、くぐもった声がした。八束がはっとそちらを見れば、南雲が土気色の後ろ頭を晒した姿勢のまま、ゆるゆると言う。
「関係なさげなとこにもちょこちょこ顔出さなきゃならないとかさあ。まあ、何とか署内の好感度稼いで秘策を存続させようとしてんだろうけど」
「大変だと思うのなら、きちんと綿貫係長の話を聞くなど、少しは協力の姿勢を見せるべきであると思いますが」
「だって、さっきのは別に俺らの仕事の話じゃなかったでしょ」
 確かに、今回の話は八束と南雲――秘策の仕事ではなかった。だからといって、係長の話を聞かなくてもいい、ということではないと思うのだが、と頬を膨らませていると、南雲が少しだけ頭を上げて言う。
「にゃんこが大変な目に遭ってる、ってのは確かに気に食わないけど」
「ちゃんと聞いてたんじゃないですか!?」
「えへっ」
 声だけはかわいらしさを装っているが、その顔は相変わらずの不機嫌そうな仏頂面であって、「かわいらしさ」というより「恐ろしさ」ばかりが勝っていた。これもまたいつも通りのことではあるのだが、このちぐはぐさは、そう簡単に慣れるものではない。
 それと同時にもう一つ、南雲の態度とは別に、気にかかることがあった。
「あの、南雲さん、いつもより、顔色が悪くありませんか?」
「え? そう?」
 南雲は怪訝な顔で首を傾げてみせるし、八束も今の今までは、南雲があんまり顔を上げないこともあってほとんど意識していなかった。しかし、こうして顔を突き合わせてみると、はっきりとわかる。
「はい。血の気二割減です」
 元々、南雲は血の気に満ちている方ではない、どころか常に死人のような顔色をしていて、日頃からの人相の悪さに拍車をかけている。何故そんな顔色をしているのかもいつか問いただしたくはあるのだが、今日の顔色はそれに輪をかけて悪かった。生気というものが全く感じられない。
「どこか、お体の具合が悪いのですか?」
「そういうわけじゃない……、と思う、けど」
「『と思う』って言いましたよね今」
「いや、いつもと変わらないんだ、よくも悪くもない」
 そういえば、南雲は常に頭が重かったり眠かったりするのであった。そういう意味では、常日頃から万全の体調ではない、というべきなのだろう。ただ、もちろん、八束が言いたいことがそうでないことくらいは南雲にも伝わっているのだろう、溜息交じりに肩を竦める。
「あー、でも、ほんとお前の目は誤魔化せないんだよなあ……」
「何かを誤魔化しているのですか?」
 八束の目から見る限り、南雲彰という男は、見た目ほど恐ろしい人間ではなく、いくつかの欠点を除けば極めて親しみの持てる人柄をしている。ただし、その一方で八束には見えない点があるのも確かだった。言ってしまえば、南雲の言葉通り、何かしらを「誤魔化している」。
 机に顎をつけた南雲は、黒縁眼鏡の分厚いレンズの下から人より少しだけ色の薄い目で八束を見上げ、溜息混じりに言う。
「んー、いやね、今朝ちょっと落ち込むことがあって、それを引きずってるだけ」
「南雲さんでも落ち込むことがあるんですね」
「いやいや、俺ってこう見えてグラスハートなのよ」
「それ、防弾硝子製ですよね絶対」
 そうでもないよー、とおどけて言いながらも、やはり、南雲の表情はほんの少しだけ冴えない。それはほとんど「見間違い」のような違いだったけれど、今まで八束が南雲と接してきた記憶は、今日の南雲が「いつもと違う」ことを物語っている。
 一度気づいてしまった以上は、どうしても、放ってはおけない。八束は、何とか血色を戻そうとしているのか、大きな手で己の頬を擦る南雲に向かって言う。
「南雲さん」
「んー?」
「もし、人に話して楽になるようなことであれば、聞きますよ。秘密も守るとお約束します」
「や、別に、八束には関係ない話だし、本当につまんない話だし……」
 と言いさして、南雲は一度口を噤む。それから、ゆっくりと首を横に振って、言った。
「いや、違うな。気持ちは素直に嬉しいし、ありがたいと思う。まだ、ちょっと言うのが辛いから、話せるようになったら聞いてくれるか」
 八束への感謝を伝えた上で、話せないことははっきり「話せない」と言う。それが、南雲なりの、八束に対する誠意なのだ。沈黙や誤魔化しの多い男ではあるが、このような形で八束に応えようとしてくれる点において、八束は南雲をとても好ましいと思っている。
 だから。
「わかりました。……少しでも、気分が楽になるといいですね」
「うん、ありがと」
 そんな他愛の無いやり取りを交わして、八束は仕事に戻り、南雲は寝に戻る。
 そして、神秘対策室には、八束がキーボードを叩く軽快な音だけが響き渡るのであった。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(16)

 ――俺の「嫌な予感」はよく当たる。
 そう、南雲彰は自負している。
 いい予感でなく、「嫌な予感」限定である辺り、神様の嫌がらせか何かかと思うことも多い。ちなみに南雲は神も仏も信じない主義なのでこの場合の「神様」とは「責任を転嫁するのに都合のよい存在」という程度の意味合いでしかない。
 そして、この日も何となく、嫌な予感がしていたのだ。
「随分たくさんの方がいらしていますね」
 境内に設置されたベンチに腰掛けた八束結が、コーラの缶を片手に言う。南雲と八束は同じコーラの缶を持っているわけだが、手の大きさが違うからだろう、八束の缶の方が大きく見えて仕方がない。
 自分の分を飲み終わってしまったこともあり、八束の缶の中に入っているであろう、甘くて黒くてしゅわしゅわする液体のことを考えていると――。
「……物欲しそうに見ないでください。飲み足りないなら自分で買ってください」
「ちぇー」
 つれない反応しか返ってこなかったので、南雲は諦めて石段の方に目を向けた。
 あれから、神主の菊平亮介はしばらく河童のミイラの公開を中止していたが、今日になって久しぶりに再開したのであった。何だかんだで話題になっていたのか、以前よりも多くの人が鳥居を潜っては、石段を上っていくのが見て取れる。
 南雲も、八束から再開の報を聞いて訪れたはいいのだが、なかなか菊平は忙しそうだったため、手伝いに借り出されていた翔に差し入れのおやつを預けて、そのまま二人でのんびりしていたというわけだ。
「翔くん、元気そうでしたね」
「先輩にきちんと話ができたって言ってたしね。もう、だいじょぶだろ」
 正直なところ、翔のことはそこまで心配していなかった。あの利発な少年は南雲の話をよく理解しているようだったから、きっと自分の悩みとも、父親とも上手く折り合いがつけられるだろうと思っていた。
 ただ、八束が嬉しそうにしているのを見るのは、まあ、悪い気分ではない。
 ――そんなことを思っていると。
「お二人はデートですか、うらやましい」
 横合いから知った声がかけられて、ついとそちらに視線を向ける。相変わらずステレオタイプなオタクを体現したような小太りの男――笠居大和がカメラを首から提げて立っていた。
 八束は「こんにちは笠居さん」と頭を下げて、それから少しばかり首を曲げて言う。
「デート、という言葉が『逢引』という意味であるなら違います。ただ、日時と場所を定めて会うという意味では間違っていませんので、一概に否定はできません」
 相変わらず、八束の返答はどこかずれていた。しかも、特に恥ずかしがるような素振りも見せず、辞書的な意味と照らし合わせての反応である。笠居は「言う相手間違えたな」と言わんばかりに丸い顔を歪めた。
「そういや、仕事でもプライベートでも八束と一緒にいること多いけど、デートって言われたの初めてだな」
「見た目が悪いんじゃないですかねぇ」
「だよねえ」
 呆れ顔で言う笠居に対し、南雲も肩を竦めた。正しく会話のキャッチボールができる相手は嫌いではない。
 八束はきょとんとした表情で、コーラの缶を両手で持ったまま笠居に問う。
「何かご用でしょうか、笠居さん」
「いえ、ミイラの公開を再開したと聞いたのでちょっと取材でも、と思ったんですけど」
「思った以上に人は多いし菊平先輩は忙しそうだし、どうしようって思ってたところに俺らが二人並んでコーラ飲んでたから、何となく声かけたってとこでしょ」
 そうです、と笠居は唇を尖らせる。南雲が話を先取りしたのが気に食わなかったのだろう。最近八束と喋ってばかりいたので、ちょっと普通の人間との喋り方を忘れている気がする。気をつけなければな、と胸の内で己を適当に戒める。あくまで適当に。
 一方で、八束は南雲と笠居を交互に見て、「なるほど」とこくこく頷いている。相変わらずぜんまい仕掛けの人形を思わせるメカニカルな動きだ。鳩が首を動かすのにも似ている。
 そして、何かを思い出したのか、ぽんと手を叩いた。
「そういえば」
 八束は、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべて、笠居に向き直る。
「城崎与四郎氏の件伺いました。笠居さんのお手柄だったようですね」
「あ、あー、あれですね……」
 ちらり、と笠居がこちらに目配せしてくる。目配せしてきても知らん、と言いたいところだったが、ちょっと遅かった。
「実はあれ、ほぼ全部南雲さんから貰った情報なんですよ」
「え」
「めっちゃ怖いですよこの人。口先では私刑はダメだとか言いながら、城崎さん潰す気満々でしたよあれ」
 南雲は慌てて口を尖らせ、ひゅぅーひゅぅーとさっぱり音にならない下手くそな口笛を吹く。もちろん、そんなもので八束が誤魔化されるはずもなく、ぎろりと南雲を睨んでくる。さっぱり怖くないが、気迫だけは確かに伝わってきて、背筋に冷たい汗が流れる。
 ――城崎与四郎は、笠居の所属する『幻想探求倶楽部』の編集部から告発を受けた。
 幻想探求倶楽部編集部――を焚きつけた笠居は、城崎が今まで怪物ハンターとして発見した怪物の存在を示す証拠のうち、いくつかは明らかな脅迫や捏造によるものだ、ということを、当事者たちの証言などを含めた証拠を揃えて突きつけたのだ。
 現在、城崎は近年まれに見る大法螺吹きとしてあちこちのメディアで引っ張り凧になっている。彼の「注目されたい」という願いの通り。最低でも、菊平親子について思い出す暇なんて無いくらいには、忙しない日々を送っているはずだ。
 まあ、正直なところ、笠居に情報を渡して、八束と共に城崎の企みを暴いた時点で、南雲は完全に城崎のことを忘れていたのだが。何ら取り得のない南雲ではあるが、都合よく物事を忘れることだけは得意なのだ。
 しかし、八束は「忘れる」という能力を欠いている上に、曲がったことを放っておけない性格なのは、この一ヶ月くらい付き合ってきて嫌というほどわかっているわけで。
 八束はきっと短い眉を吊り上げ、黒目がちの両眼で南雲をじっと見据えている。
「南雲さん、もしかして法に触れるような手段使いませんでしたか?」
「いや、俺は最低限の法律は守ってるよ、多分。メイビー」
「多分、って言っている時点で違法の可能性を示唆してませんか!?」
「黙秘権を行使します」
「南雲さん!」
 笠居へ情報を渡すとき、口止めも加えておけばよかったなあ、と今更後悔しても遅かった。南雲が直接動くには色々と面倒な肩書きが多いこともあるし、何よりも八束にバレた時に、上手い言い訳を考えるのが面倒だったため、笠居に告発を代行してもらったのだが、こうも簡単にバレていちゃ世話はない。
 ぎゃあぎゃあと喚きたてる八束の声を、指で耳栓をしてやり過ごそうと試みるも、その態度が八束の神経を逆撫でしてしまったらしい。正義と法にまつわるありがたいお説教は、おろおろする笠居をよそに、あと三十分くらいは続きそうな勢いであった。
 ――が、その時。
 この場の緊迫感にそぐわぬ、涼やかな声が割って入った。
「またお会いしましたね」
 おや、と八束も意識を南雲からそちらに向ける。内心、助かったと思いながらそちらを見れば、ニットの帽子を被った青年が立っていた。確か、一度見た顔だと思う。八束ほどではないが、南雲も「人の顔」を覚えるのは得意な方だ。
 確か、大学で民俗学を専攻している梅川恭一とかいう青年だ。ここしばらくずっと間が悪く、なかなか落ち着いて河童のミイラを見る機会に恵まれなかったようだが、流石に三度目の正直、きっちり河童のミイラとご対面できたらしいのは、その明るい表情から明らかだった。
「こんにちは。この前、河童を見に来ていた方ですよね。無事見られましたか?」
「ええ。あなた方も?」
 はい、と頷いて立ち上がり、青年と話し始める八束を横目に、南雲は笠居を見やる。いつもは単に「見る」だけで十分なのだが、今回ばかりは意識して睨みつけてみる。笠居は「ひぃ」と情けない声を上げて、身を竦ませる。
「怒らないでくださいよ、八束さんの反応なんて自分が想定できると思いますか?」
「笠居くんの言い分はわかる。わかるけど、誰かを恨まないとやってらんない」
「横暴だ!? あんたほんとめんどくさい人って言われません!?」
「よく言われるし特に否定はしない」
 やだこの人めんどくさい、と今更なことを叫ぶ笠居の反応が心地よいので、胸の内では笠居を許した。ただし、なかなか面白いのであと三十分くらいはおちょくりたいところではあるのだが。
 南雲がそんな物騒なことを考えているとは露も知らない八束は、梅川とのんびり話を続けている。
「河童のミイラ、いかがでしたか?」
「ええ、なかなか興味深い品でした。偽物であるとは聞いていましたが、動物のミイラを組み合わせるという発想は面白いですね」
「しかし、梅川さんは何故河童のミイラを? 大学の研究ですか」
「それもありますが……。実はうち、河童の血を引く家系らしいんですよ」
 ――河童の、家系?
 何だかとんでもない言葉が飛び出した気がして、思わずそちらに意識が向く。笠居は笠居で流石はオカルト専門誌の記者、目を真ん丸くして梅川を見ている。
 ぽかん、と間抜け面を探す八束に対し、梅川は苦笑を浮かべながら後ろ頭を掻く。
「まあ、あくまで言い伝えではあるんですけどね。でも、ご先祖様がこの神社に友好の証として河童の姿に似せたミイラを贈ったって話が、代々伝えられてて。それで、是非一度見てみたいと思っていたんですよ」
「な、なるほど……?」
 ――あっ、完全に理解することを拒否している。
 南雲は八束の微妙な反応から全てを察してしまった。何しろ八束にとって、河童は「存在しない生物」だ。いや、正確に言うなら「存在していてはならない生物」というべきか。当然、その血を引く人間、という奇天烈なものも存在していてはならないわけだ。
 そういうものを、立場上認められないまでも「いるんだろうなあ」という程度に認識している南雲と違い、八束はそういうものが「いる」と考えただけでパニックに陥ってしまう性質なのだから、思考停止してしかるべきと言うべきか。
「それでは、失礼します」
 梅川青年は、そんな八束の混乱には気づいていなかったのか、人好きのする笑みを浮かべて一礼し、南雲たちにも目礼をした上で、その場を後にした。
 もしかして、ニット帽の下に皿の痕跡とかあったりするんだろうか。実はあの帽子、ハゲ隠しだったりするのだろうか。ありうるかもしれない。そんな微妙すぎる親近感、というより完全に一方的な妄想を抱いていると、「南雲さん」と声をかけられた。
 見れば、八束が真っ青な顔をして南雲を見下ろしていた。
「河童とは、実在する生物なのでしょうか?」
 前に、そっくりそのまま同じ質問をされたような気がする。その時は確かばっさりと否定したような気がする。真面目に相手をするのが面倒くさかったから。
 けれど――。
「どうだろうな。いないと思ってたけど、案外すぐ側にいたりしてな」
 ひっ、と八束が身を竦ませ、辺りをきょろきょろ見回し始める。そんな目に映るところにごろごろ転がっているなら、とっくのとうに妖怪と人間の共存は成立していたと思われる。
 そして、それとはまるっきり対照的な反応だったのが笠居だ。
 俄然目をきらきらと輝かせて、遠ざかりつつある梅川を見つめている。その熱視線たるや、もし視線に本当の熱量があれば梅川の心臓をぶち抜く勢いだ。
「取材相手、菊平先輩よりあっちの方が面白そうだよね」
「ええ、思わぬ収穫ですよ! すみませーん、ちょっと詳しくお話聞かせてくれませんかね!?」
 流石は名高いオカルト専門雑誌『幻想探求倶楽部』の記者。横に広い体ながら、やたら素早く梅川に駆け寄っていく。そんな笠居の背中を見送って、肺にたまっていた息を吐き出す。何をしたわけでもないのに、妙に疲れた。
 これは、そろそろ帰って甘いものを食えという啓示であろう。そう思って、腰を浮かせたその時。
「南雲さん」
 再び、声をかけられた。
「ん?」
 見れば、無理やりに河童ショックから立ち直ったらしい八束が、肩幅に足を開いた姿勢で南雲を見つめていた。睨んでいた、と言うべきかもしれない。
「少しばかり間が空いてしまいましたが、先ほどの話は、まだ終わってませんよ」
「えっ、まだ続いてたの?」
 もちろんです、と。八束は鼻息荒く宣言する。
「話が途中だということも理解していないということは、どうやら、南雲さんは、全くわたしの話を聞いていなかったようですね」
 しまった、と気づいても後の祭り。八束はいい笑顔で南雲を見つめ、きっぱりと言った。
「さあ、座ってください」
 立ち上がりかけたところを仁王立ちの八束に制された南雲は、もはや観念するしかなかった。こう言い出した八束を止める手段は、今の南雲には存在しなかったから。
 かくして、八束の説教、第二ラウンドが始まったわけだが。
 
 ほら――、俺の嫌な予感は、よく当たるのだ。
 
 そんなことを思いながらも、不思議と愉快な気分になって。
 腰に手を当て、栗鼠のように頬を膨らませながらつらつらと喋り続ける八束を見上げ、ほんの少しだけ、意識的に口の端を緩めた。
 
 ――もちろん「聞いてるんですか」と怒られて、説教が十五分追加されたのは言うまでもない。

02:ワンダリング・ウォーターインプ(15)

 菊平の背後に隠れていた翔は、そっと、手を離す。その目には、今までずっと堪えていたのだろう、涙が溜まっていた。
「お父さん」
 掠れた声は、彼の押し殺した感情そのものだったのかもしれない。菊平は、身を低くして真っ直ぐに翔と向き合い、口を開く。
「なあ、翔」
「……ご、ごめんなさいっ!」
 菊平の呼びかけに、翔は一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたが、すぐに背を向けて石段を駆け下りていってしまった。慌ててそれを追おうとした菊平を、南雲が「まあまあ」と押しとどめる。
「少し、一人にしてあげたらどうすか。翔くんは頭のいい子みたいっすし、お互い落ち着いてから話をした方がいいと思うんすよね」
 むぅ、と不満げな声を漏らしながらも、菊平は足を止めて南雲と向き合った。
「それにしても、南雲、お前どこまでわかってたんだ」
「や、当初は翔くんのことまでは知らなかったっすよ」
 えっ、と八束は思わず間抜けな声を上げてしまう。南雲は相変わらず深々と刻まれた眉間の皺を揉み解しつつ、あっけらかんと言い放つ。
「ただ、警察にバレたくない理由があるんだろうな、ってのはわかってましたからね。後は経過からでっち上げました。合っててよかったー」
「お前、昔から、そういう勘だけは鋭いよな」
「勘のよさでぎりぎりこの仕事やってられたようなもんですしね。ほら、俺、八束と違って頭の作りはよくないんで。形はいいと自負してますが」
 我ながら絶妙な曲線美だと思うんすよね、と言いながら、丁寧に剃りあげた頭を撫ぜる。
 ここは果たして笑っていいところなのだろうか。冗談だとは思うのだが、南雲の言うことは時々どう反応すべきか悩むことがある。
 菊平も、八束とほとんど同じ感想を抱いたのだろう、少しばかり口の端を引きつらせて困った顔をした。
「その微妙な自虐ネタ、笑っていいのかわからん」
「よく言われます。聞き流してください」
 さらりと言い放ち、南雲は改まった調子で菊平に視線を投げかける。
「ま、後は二人で上手く話し合ってくださいな。さっきも言ったとおり、俺らの仕事はここまでです」
 あー疲れたぁー、と言いながら南雲はふらふらと歩いていく。八束は、慌ててそれを追おうとして……、菊平に呼び止められた。
「八束ちゃん」
「はい」
「ありがとな。八束ちゃんが謎を解いてくれたおかげで助かった」
「い、いえ、ほとんど南雲さんのお手柄ですし、色々とお恥ずかしいところをお見せしました」
 慌てて頭を下げるも、頬がぼっと燃え上がるような心地がする。
 自分では冷静なつもりでいるのに、いつの間にか熱くなりすぎてしまうのは、八束の悪い癖だ。あの時南雲が止めてくれなければ、菊平よりも先に、城崎に手を出してしまっていたかもしれない。それは、警察官として、否、人としてあるまじき態度だ。
 未熟者、と己を叱咤していると、菊平の笑いを含んだ声が降ってきた。
「南雲も、八束ちゃんみたいな子には弱いんだろうなあ」
「どういうこと、ですか?」
 ちょい、と顔を上げて菊平の表情を伺うと、菊平は愉快そうに笑っていた。
「あいつ、昔から面倒くさい性格だけど、根はすげー真面目で思いつめがちだからさ。八束ちゃんを見てると、ほっとするんだと思うよ。八束ちゃんを通して自分を見直してる、そんな感じに見えた」
「南雲さんが、ですか?」
 八束の目から見る限り、南雲という人物は極めてマイペースで、空気が読めないわけではないはずなのに周囲の空気を完璧に無視する、そんな性格である。南雲自身、常々「空気はあえて読まないもの」と言っているから、わざとやっている気もしている。
 妙に人のことはよく見ていて、こちらに的確な助言を与えてくれることもあるが、逆に八束の行動が南雲に影響を及ぼしているとは考えづらかった。
 ――それとも、八束が気づいていないだけ、だろうか。
 仮にそうであったとしても、八束のやることは変わらない。怠惰な南雲の尻を、比喩として、もしくは実際に蹴飛ばしながら、秘策の仕事をこなす。それが南雲の相棒として任ぜられた八束の、存在意義であったから。
「あいつ、ほんと面倒くさい変人だけど、これからも仲良くしてやってくれよな」
「はいっ!」
「いい返事だ。南雲に爪の垢煎じて飲ませてやった方がいいんじゃねえかな……」
 いつも、係長の綿貫もそんな感じの反応をするので、南雲という人物の認識は、誰が見ても大枠は変わらないことだけははっきりした。全く嬉しくない気づきである。
「それでは、わたしはこれで失礼します。また、落ち着いた頃にご挨拶に参りますね」
「ああ、楽しみにしてるよ。南雲も誘っといてくれ」
「わかりました。それでは!」
 八束はぴしっと敬礼をして、菊平に背を向ける。
 菊平のこと、翔のこと、そして城崎のこと。八束には、何もかもが納得できたわけではない。八束の身の内にある定規では測れない何かが、この事件の根底に横たわっていた、そんな感覚に囚われている。
 それでも、少しだけ心が軽くなっているのはどうしてだろう。そんなことを思いながら、石段に足をかける。
 
 
 南雲が石段を降りれば、公園のベンチに翔がぽつりと座っていた。細い足をぶらぶらさせながら、空を見上げて何かを見つめている風でもあった。
 そんな翔に、ひらりと手を上げて「よ」と声をかける。
「あ、えと」
 顔をこちらに向けた翔が、戸惑いをあらわにした。今までのやり取りで随分南雲の面構えには慣れたのだろう、当初見せていたような恐怖の色はなく、ただ、酷く苦いものを飲み込んでしまったような、辛そうな顔つきをしていた。
「……ごめんなさい。おじさんたちにも、迷惑かけて」
「そのくらい、子供の頃には誰でもやるよ。いいことじゃあないけど、んな気に病むほどでもない。迷惑かけたな、って思ったら次はそうしなきゃいいって程度」
 今回は、厄介な爺さんがそこに絡んでたってのが問題だっただけさ、と言って翔の横に座る。少しだけ間を空けて。近すぎない方が、翔も気負わなくて済むだろうし、何より南雲の気が楽だった。
 そして、空を、仰ぐ。
 徐々に日が落ちつつある空に、大きな鯨の姿が見えた。その黒々とした巨体全体で日光を浴び、雲と雲の間を、海を泳ぐようにゆったりと身をくねらせて進むその姿は、雄大の一言に尽きる。
 この三十と数年、毎日のことなので、見飽きた光景でもあるのだけれど。
「あー、飛んでる飛んでる。気持ちよさそうだよな、あれ」
 ほとんど無意識に口をついて出た言葉に、翔がぱっと弾かれたように顔を上げたのが、視界の隅に映った。
「おじさんも、見えてるの?」
「まあね。皆には内緒だよ、バレたらめんどくさいのは知ってるだろ」
 視線を翔に合わせ、口元に指を寄せる南雲に、翔も神妙な顔でこくりと頷き、口の前に人差し指を立てた。その大きな目はやけに真っ直ぐ南雲を覗き込んでいて、何となく八束の目つきを髣髴とさせる。
 そのような目で見つめられるのは、いつになっても慣れないけれど――。
「いい子だ」
 わしわしと頭をなでてやると、翔は今にも泣き出しそうな顔をして、南雲を見上げた。
「お父さんとお母さんには、見えてなかったから。誰にも見えないのかと思ってた」
「まあ、珍しいよね。俺も、ガキの頃はそう思ってたよ。色んな奴に笑われたし、誰も信じてくれなかった」
 南雲がそう言った途端、翔の目から涙があふれた。一度堰を切ってしまった感情は容易には止まらないもので、次から次へと頬を伝って流れてゆく涙を拭くこともせず、翔が嗚咽交じりの声を上げる。
「おれ、怖かったんだ。お父さんに、嘘つきだって思われるの」
「うん」
「だから、どうしても確かめたかったんだ。クジラさまは、そこにいるんだって。確かにいるんだって」
「そっか。ずっと、不安だったんだな」
 わかるよ、と。口の中で南雲は呟いた。
 翔の苦しみと南雲の苦しみは、根は同じ場所にあるだろうが、決して完全に同じものではない。だから「わかる」とは言い切れない。言い切ってはいけない。
 ただ、これだけは伝えておかないといけない――。そんな思いをこめて、もう一度だけ翔の頭をなでてやる。壊れやすいものに、触れるかのように。
「だいじょぶだよ。昔、君のお父さんは、俺を笑わないでいてくれた」
 当の菊平は覚えていないかもしれないけれど、南雲は一度、菊平に救われたことがある。
 それはちょうど、南雲が翔と同じくらいの年の頃の話だ。
 南雲には、いつも人よりも多くのものが見えていた。そして、幼い頃は目に映っているものが「人であるかどうか」を判断することも、難しかった。だから、周囲からは相当奇妙に見えていたのだろう、いつも、頭のおかしい奴だと笑われていた。
 だから、というべきか。いつしか南雲は「笑って誤魔化す」ことを覚えていた。今こそ笑顔一つ思い出せない身ではあるが、昔は作り笑いだけは上手だった。そうすれば誰も自分を笑わないし、自分のせいで変な空気を作らなくて済む。自分一人が本当の気持ちを飲み込んで笑ってみせればいいのだと言い聞かせているうちに、それが当たり前になっていた。
 けれど、菊平だけは、そんな南雲を見て「へらへらするな」と怒ったのだ。
 八束のような超人的な記憶力を持つわけではないが、その時のことだけは、今でも覚えている。菊平が投げかけてくれた言葉の一言一句すらも、はっきりと。
『笑うなよ。辛いなら辛いって言わないと、誰もわかんないだろ』
 そう言った菊平は、南雲の頭を小突いてみせた。その瞬間、ずっと無理やりに飲み込んで、消化できていたと思っていたはずの感情が、声と涙になってあふれ出してきたのだった。菊平も最初は驚いたようだったが、全く要領を得なかったであろう南雲の言葉を、口も挟まずに聞いてくれたのだった。
 まあ、格好悪い話だ。あまり思い出したくない類の記憶と言ってもいい。
 ――けれど。
「今、君のお父さんがどう思うのかは知らない。でも、君がきちんと話せば、お父さんだって君の話に耳を傾けてくれるさ。だって、お父さんは、君のことをとても大切に思っているんだ。それは、今回よくわかっただろ?」
 うん、と。涙と鼻水を拭き拭き、翔が頷く。
「なら、君ももう少しお父さんを信じてあげればいい。君ならできるだろ」
「うん……!」
「ん、いい返事だ」
 言って、南雲は立ち上がる。石段の方に八束の姿が見えたからだ。八束はぴょこぴょこと、そういう玩具のような動きで石段を降りてくる。無駄がないはずなのに妙に目立つ動きはどうにかならないのか、と内心笑いたくなる。当然、それが笑顔になることはなかっただろうが。
「じゃ、またな、翔くん」
「うん。またね、おじさん」
 翔は袖で涙を拭いて、手を振った。南雲は軽く手を振り返して、こちらに駆けてくる八束に向き直る。
「遅かったね、八束」
「少し、菊平さんとお話をしていたので。……翔さん、泣いているのですか?」
 こちらを見上げる八束の少しばかり険しい視線には、言葉には出していないが「南雲が泣かせたのではあるまいか」という疑念が見て取れた。確かに子供を泣かせるのは得意な方だが――顔を出しただけで泣かれるとか、いくら南雲だって傷つかないわけではないのだが――今回はそうではないはずなので、首を横に振る。
「色々あって、まだ感情が追いついてないんだろ。すぐ落ち着くさ」
「それなら、いいんですが……」
「さ、帰ろ帰ろ。おなかすいたなー、今日はチロル忘れちゃったしさぁ」
 南雲の手袋を嵌めた左の手首に、いつものコンビニ袋はない。長話になることはわかっていたのだから、忘れるべきではなかったと後悔していたのだ。これは、途中でコンビニに寄っていった方がいいかもしれない――。
 そんな、普段通りの思考を廻らせかけたその時、南雲を追って駆け寄ってきた八束が、上目遣いになりながら言った。
「あの、南雲さん」
「なーに?」
「辛ければ辛いって、おっしゃってくださいね」
 それは、まさしく今さっき思い出したばかりの言葉で。
 思わず、立ち止まって八束の方を凝視してしまった。
 八束は、豆柴を思わせる黒目がちの大きな目をぱちぱちさせて、短い眉の間に薄く皺を刻む。
「ここしばらく、南雲さん、何度か苦しそうに見えることがありました」
 苦しそう。八束ははっきりとそう言った。
 ここしばらく、苦しいと思ったことはそこまで多くない、はずだ。ただし、今回は特に、思い出したくないことをいくつか思い出す羽目になったことは否めない。南雲の過去を知らない八束にその機微がわかるとは思えなかったのだが、念のため疑問符を投げかける。
「……苦しそう、って、具体的には?」
「笠居さんが南雲さんの名前を呼んだ時。わたしがミイラを見ようとした時。南雲さんと笠居さんが知り合いであるかどうかを聞いた時。確かな違和感があったのは、その三回です」
 よく見ている。南雲は内心で舌を巻いた。八束はとことん他人の感情には鈍いが、しかし「変化」そのものを読み取るのは得意中の得意なのだということを完全に失念していた。
 彼女の人間離れした観察力と記憶力は、ささいな変化をも違和感として処理するのだ、ということを改めて思い知らされた。
 八束は、南雲の目の前にちょこんと爪先立ちになって、南雲の顔を覗き込もうとする。
「わたし、まだまだ頼りないところも多いですが、それでも、南雲さんの助けになれることなら何でもしたいと思っています。わたしの力が及ぶことであるなら、頼っていただけたら嬉しいです」
 しかし、と。言った八束の表情がにわかに曇る。
「まだ、言葉にしてもらわないと、わからないので。お願いします」
 八束自身、自分が他人を理解できていないことは、痛いほどに理解しているに違いない。それはもはや彼女の特質であって、一朝一夕で治せるようなものでもないことも、わかっていないわけではなかろう。
 それでも、彼女は「理解したい」と望んでいるのだ。
 こんな、どうしようもない男のことを。
「わかった。これからは、気をつける」
 この胸の内に飲み込んだまま、消化できずに凝り固まった記憶。それが、八束にどうにかできるとも思えない。思えないけれど、八束の言葉を聞いて少しだけ救われたような心持ちになったのも、事実。
 ――結局、あの頃と何も変わっていないのか、俺は。
 笑いたいような、泣きたいような。奇妙な感情に、唇が歪むのを感じる。今の自分にはそのどちらも満足にできないくせに。
「……南雲さん? どうかしましたか」
「いや、だいじょぶ。おなかすいただけ」
「南雲さん……」
 八束が呆れ顔を浮かべる。だが、腹が減っているのは事実なのだから仕方ない。いやに感傷的になりかけた感情を一旦遠くへ追いやって。南雲はポケットの中の財布の重さを確かめる。
「ねえ八束、ケーキ食べたくない?」
「またですか!?」
「今度はチーズケーキがいいなと思って。今から買いに行かない? この近くにすごく美味い洋菓子屋があってさ、この前のケーキもそこで買ったんだけど」
「う、あれは確かに美味しかったです……」
 八束に気に入ってもらえたのは、なかなか嬉しい。普段、カロリーメイトとサプリメントしか食べようとしないこの娘に「美味しさ」というものを教え込むことこそ己が使命、と思い極めた南雲の作戦は、少しずつではあるが実を結んでいるらしい。
「よしよし、じゃあ行こう今すぐ行こう早くしないと売り切れちゃう」
「ちょっと、待ってくださいよ南雲さん!?」
 八束の声を聞きながら、南雲は足早に神社を後にする。
 ――空の上に浮かんだ鯨がじっとこちらを見つめているのに、気づかぬふりをして。