2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

01:終点で君と出会う(6)

「どうしてって」
 アレクシアの青い目が、つい、と私の方に向けられる。
「叔父さまにはわかるのかい?」
「そうだな。これはあくまで、君から聞いた話と、私の勝手な推測による『仮定』に過ぎないのだけれども」
 けれど、一方でほとんど確信を持って。
「姉さんは、どうして、どのようにしてオーブリー卿が死んだのか、知らないのではないかな。だから、現実に反することを言わないためにも黙秘を続けている」
 そう、『仮定』する。
 アレクシアは、一瞬ぽかんとした顔をしたけれど、すぐに表情を引き締めて――ほとんど睨むようにして私を見上げてくる。どうやら、私が言わんとしていることをすぐに理解してくれたようだ。本当に賢い娘だと思う。私なんかよりも、ずっと。
「つまり。叔父さまは、母さまが伯父上を殺したわけではないと言っている」
「そして、もう一つ」
「叔父さまは、母さまでなく――ニアを、疑っている」
 そうだね、と。私はアレクシアの言葉を首肯で受け止める。
「……そんなに睨まないでほしいね、私も好きでこんな仮説を立てているわけではないんだから。それにね、アレクシア」
 これは、今になってやっとわかったことではあったけれど。
「君も気づいていたんじゃないのかな。アントニアが犯人である可能性に」
 アレクシアの目が見開かれる。微かに唇が開くけれど、言葉は出てこない。それを確認して、私は言葉を続けていく。
「これは単なる勘繰りだと前置きするけれど。君はアントニアについての重要なことを『言い忘れていた』と言ったけれど、できれば言わずに済ませたかったのではないかな。私が、それまでの情報だけで、君が望むような……、言ってしまえば『都合のいい』答えを出すことを望んでいた。ないし、無意識に求めていたのではないかな」
 ――例えば、『姉さんもアントニアも犯人ではない』というような答えを。
 私の言葉に、アレクシアは沈黙で返した。その表情に、何らかの感情を見出すことはできなかったけれど、これはただ、私が感じ取れないだけなのかもしれなかった。
 先ほどよりもはるかに長い沈黙は、アレクシアのちいさな唇から吐き出される長い、長い息によって遮られた。
「叔父さまには敵わないな。そう、わたしは確かにアントニアを疑っている。けれど、『疑いたくない』と思っているのも本当だ」
「ただ、君が話してくれた内容が正しければ、姉さんが犯人である可能性と同じくらい、アントニアが犯人である可能性は十分にある」
 アレクシアは組んだ指に力を篭めながら、「そう」と言葉を落とす。
「母さまがもし、ニアを庇ったのだとしたら。わざと、自分が犯人に見えるように振舞ったのだとしたら。そう考えてみた方が辻褄が合うのではないかと思ったのだよ。ニアがあの場にいた理由も説明がつく。ついてしまう」
 アントニアの服には血が付着していたという。そして、そのソファには短剣によると思われる傷こそあったけれど、オーブリー卿の血が飛んだ様子はなかったという。アレクシアの話が全て正しいとすれば、アントニアがオーブリー卿の死に何らかの関連を持っていることはほとんど間違いないことだ。
 だが――。
「しかし、叔父さま」
「何かな」
「わたしは、アントニアが嘘をついていないことを知っている。本当に、ニアには当時の記憶がないのだ」
「どうしてそう言い切れるのか……、という疑念は、この場では無粋だね」
 言いながら少しおかしくなってしまう。全くもって不謹慎だと思うのだが、何しろ私はアレクシアから聞いた話以上の判断基準を持たない。疑うくらいなら最初から話を聞かなければいいのだ。
 だから、私が確認すべきことは、アレクシアの言葉の真偽ではなく。
「私は君の話を信じるよ。その上で、君はどうしたい?」
 アレクシアは虚を突かれたようにぽかんとした表情を浮かべた。疑われることはあっても、問いかけられるとは思ってもみなかったとみえる。
「どうしたい……、とは?」
「君は姉さんの無実を信じ、そして更に事件に関係している可能性が高いアントニアのことも疑いたくないといった。私は、そんな君に無責任な説を並べ立てて安心させることも……、まあ、できなくはないと思うのだけどね」
 事件の成り行きをこじつけることならいくらでもできるだろう。何せ聞きかじったことだけで判断しろというのだ、そこに荒唐無稽な想像を付け加えて話を膨らませるのはそう難しいことではない。
 しかし、アレクシアは私の言葉に対して、首を横に振ってみせた。
「もし、ニアが犯人だとするならば。アントニアがどうして伯父上を殺すことになったのか。わたしは――そこに至るまでの真相を、知りたい」
「なるほど。それが君の意志なんだね」
 唇を引き結んだアレクシアが、今度はきっぱりと頷いてみせる。それから、少しだけ唇を歪めて言うのだ。
「もちろん、叔父さまのそれがどこまでも『仮定』でしかないのはわかっている。ただ、……わたしが今まで出会った誰とも違って、叔父さまはわたしの話を最後まできちんと聞届けてくれたからな。その叔父さまがどのような仮定を導いたか聞いてみるまでは、帰るに帰れないよ」
「そうそう信じるものじゃないよ、私のようなひとでなしのことなど」
「そのひとでなし様にも頼りたい気持ちなのだ。わかってくれたまえ」
 アレクシアの言葉ははっきりとしたものだったが、声に微かに滲むものを感じて、私は目の前の少女に対する評価を改める。私という相手を前にしても、身内の殺人事件を前にしても、毅然と振舞える娘だと思っていたけれど、――少なからず、無理をしているのだと。
 ここに来たのも、最初は身内から私の話を聞いた、というきっかけだったのだろうが、……本当に、アレクシアには頼れる者がいなかったのだ。それこそ、顔を合わせたこともない、獄中のひとでなしを訪ねる程度には。
 アレクシアは、一瞬だけ弱気を滲ませたことに自分でも気づいているのだろう。顔をあげて「ただ」と明るい声を出す。
「叔父さまがこれほど気さくな人だとは思わなかったがな」
「そうかな? 親しみやすさを第一に生きてきたつもりだったのだけどね」
 なお、その『親しみやすさ』が紛い物なのだ、と友は酷評したものだったが、今となってはそれも遠い昔の話だ。果たして今も全てが紛い物なのかどうか、教えてくれる友はここにはいない。
 唯一、今の私がわかることといえば。
「どうして、叔父さまがあんな事件を起こしたのか不思議に思うよ」
 という、アレクシアの率直な評価くらいだ。
 その言葉には、私は何も答えることができない。曖昧に笑うことだけが、今の私にできる全てだ。……語ったところで誰にも理解されないだろうし、私自身、それが説明になるとも思っていなかったから。
 アレクシアは敏い少女であったから、私の曖昧な笑みで十分察してくれたらしい。
「いや、叔父さまの話はよしておこうか」
 軽く首を振って話を打ち切り、改めて本題を切り出す。
「とにかく。叔父さまの仮定を全て聞かせてほしい。それが本当の答えでなくとも、……わたしは、叔父さまがどんな答えを出すのかが、知りたい」
 アレクシアの言葉はどこまでも真っ直ぐで、背中がくすぐったくなる。言ってしまえば、かつて、友を前にしていた時の感覚とよく似ていて、笑い出したくなる。このむず痒いような、喉の奥がいがらっぽくなるような感覚につける名前を私は知らないのだけれど、きっと笑いたかったのだと思う。
 ただ、アレクシアの前で笑い出すのは何かが違うと思ったので、何とか表情を取り繕って、丸まりかけていた背筋を伸ばす。
「ではね、私の仮定を話すけれど」
 アレクシアの表情が目に見えて強張るのを見つめながら、私は言う。
 
「これは果たして『殺人事件』なのかな」

01:終点で君と出会う(5)

 まずは、事件の概要を整理する。
「これは、オーブリー・エピデンドラム卿が義妹であるヒルダ・エピデンドラムに殺害されたとされる事件である。エピデンドラム邸で行われていた宴の最中、オーブリー卿はある一室に赴き、そこでヒルダに殺害された。その後、ヒルダつきの使用人が主を探していたところ、オーブリー卿の死体と短剣を手にしたヒルダを発見し、事件が公になったということでいいかな」
「うむ、それで合っている」
「その現場には何故かアントニア・エピデンドラム嬢も存在していたが、彼女はずっと眠っていて惨劇を見てもいない、ということだった」
 アレクシアが頷くのを確認してから、私はまず前提となるであろう問いを投げかけてみる。
「事件前後に部屋に足を踏み入れたのは、これで全員なのかな?」
「ああ。他の面々は皆、誰がどこにいたのかを把握していて、その部屋に向かったという者は一人もいなかった」
 他の宴の参加者は事件発生時にその場にいなかったことを相互に証明できている、ということか。これならば、事件の登場人物から取り除いておいてよさそうだ。
 つまり、登場人物は全部で四人。
 被害者たるオーブリー・エピデンドラム卿。
 容疑者たるヒルダ・エピデンドラム。
 第一発見者のヒルダつきの使用人。
 そして、その場に居合わせたらしいアントニア・エピデンドラム嬢。
 |記術《スクリプト》、もしくは|奇術《マジック》のような愉快な仕掛けがなければ四人の他にその部屋にいたものはなく――。
「オーブリー卿は、確かにその部屋で殺されたんだね?」
「ああ、死体の状態や絨毯の上に残された血痕などから、それは間違いないと警察も請け負っている」
 警察の捜査がどれだけ正確か、という点については普段の私ならば疑問を投げかけるところだが、一旦はそれを信じるとする。あくまでこれは、アレクシアが語る言葉だけで判断すべきことなのだ、いちいち疑っていては話が進まない。
 ただし、今まで聞いた話の中身と、私自身の知識とを照らし合わせてみたときに、ぽつぽつと疑問が浮かび上がってくるのも事実。
「しかし、正面から殺されたといったね。普通に考えれば、難しいとは思わないかな。オーブリー卿も、目の前で短剣を構えられたら流石に抵抗を試みると思うのだけれども」
 アレクシアは「ふむ」と細くちいさな顎に指を当ててみせる。
「それは一理ある。が、伯父上が正常な判断力をもって抵抗できたか、というと相当怪しいとは言わざるを得ない」
「どうしてだい?」
「言い忘れていたが、事件当時、オーブリー伯父上は随分と泥酔していてね。事件の起こった部屋に向かったのも、酔いを醒ますためであったと考えられている」
「……ふむ。そういえばオーブリー卿は随分酒癖が悪かったのだったね」
 私の知る限りのオーブリー卿は、平時はいたって沈着な一方で、酒が入ると極めて厄介な性質なのであった。私も迷惑を被ったことが一度や二度ではない。しかも酔いが醒めるとその時のことをすっかり忘れているのだから、本人は気楽なものである。
 確かに、あの酔い方では正常な判断は難しいかもしれない。仮に目の前で短剣を構えてみせたとしても、果たして目に入っていたかどうか。
 が、それを加味したところでヒルダにオーブリー卿の殺害が難しかったことには変わりないのだ。そう考えてみると、もう一つ、どうしても知っておかなければならないことがあったのだとわかる。
「姉さんは、オーブリー卿の殺害について何か言っているのかな。普通に考えれば、明確な殺意がなければわざわざ短剣を手に取ることもなかっただろう。その点に関して、何か説明はあったのかい?」
 アレクシアは、その問いに対しては首を横に振った。
「それが、母さまは黙秘を続けているのだ。自らが犯人であることは否定しないが、犯行に及んだ理由については何も語っていない」
「ふむ。オーブリー卿が死んで誰が得するかと考えれば、まずはオーブリー卿の弟、ヒルダ・エピデンドラムの夫、つまり我が義兄なのだろうけれど……、姉さんが犯人になってしまっては、得も何もあったものじゃない。義兄に座を譲ることを、あのアンブローズ卿が許しはしないだろうしね」
 アンブローズ卿が健在な以上、当主の座も財産の行方もアンブローズ卿の一存に委ねられているのだ。犯人が見つかっていないならともかく、犯人がヒルダだとわかってしまっている以上、義兄が得をするようなことはあり得ないし、姉の目的も義兄に利をもたらすこと、ではなさそうだ。
 なら、少し考え方を変えてみることにしようか。
「何故、を問うてもすぐには答えが出そうにないね。なら、もう一度現場に立ち戻ってみようか」
 アレクシアは僅かに戸惑いの表情を浮かべる。
「しかし、状況については大体説明した通りだが」
「……そうだな。もう少し細かく知りたいのさ。例えば、現場には絨毯が敷かれていたという話だけど、これは、随分厚手のものだったのかな」
「毛足の長い、厚手の絨毯だな。色は深い赤。……血痕が黒くこびりついたのは、あまり見ていて気持ちよいものではなかったが」
 内心羨ましいな、と思う。何せ私に与えられている部屋には、石造りの床をかろうじて覆う薄っぺらい絨毯しかないものだから、雪季ともなると酷く冷えるのだ。それこそ、血痕の一つや二つ気にしないから分けてもらえないかと思うが、流石にアレクシアの前でそんな冗談を言う気にはなれなくて、そっと喉の奥に押し込み、逸れかけた意識を本筋に戻す。
「現場には凶器となった短剣が飾られていたということだったけど、それは元々どこに飾られていたものだったのだろう」
 アレクシアは「ええと」と顎に細い指を当てた姿勢のまま、しばし考え込んでから口を開く。
「確か、入り口近く。他にもいくつか飾られていた武具のうちの一つだ」
「他に、その部屋で、事件前と後で異なったところはあったのかな」
 現場について何一つ知らない私が事件について考えるには、どんな些細な違和感でも掬い上げなければならない。何とはなしに浮かびつつある、とある可能性を否定するにも、補強するにも、だ。
「そういえば、アントニアが寝かされていたソファの肘掛に、短剣によるものと思しき傷があった」
 ソファに傷。それは確かに今まで出てこなかった情報だ。私の想像では入り口近くの短剣を手に取った犯人が一直線にオーブリー卿を刺し殺した形だったのだけれども、少し認識を改めなければならないのかもしれない。
 それから、しばしの沈黙が流れた。アレクシアは言葉を選ぶかのように半ばまで伏せた目を手元に向けて、指をせわしなく組み続ける。私は、何とはなしにその指先を眺めながら、言葉の続きを待つ。
 やがて、ぽつり、と、声が落ちた。
「それから。その場にいた、アントニアについて」
 アントニア。どうしても事件を考えるに際しての、最大の違和感として存在している、少女。
「一つ、大事なことを、言い忘れていたんだ」
「聞かせてもらえるかな?」
「アントニアの服には、オーブリー伯父上のものと思われる血が付着していたのだ。ただ、ニアが眠っていたのはソファの上で、ソファはオーブリー伯父上が刺殺された位置からは離れていて、飛散した血がソファまで届いたとは考えづらいのだ」
 もう一度、頭の中に部屋をイメージしてみる。長い毛足の絨毯と、傷のついたソファ。そこに寝かされたアントニアと、服についていたという血痕――。
「オーブリー卿が刺殺された場所は、部屋の奥の方と考えていいのかな」
 私の問いに、アレクシアは目を伏せたまま一つ頷いてみせる。
 想像の中の部屋に、オーブリー卿の死体と短剣を持つヒルダを描き加える。もちろん、これは実際の情景からはとんとかけ離れているだろう。私の想像力が頼りないことは過去の出来事でとっくに証明されている。
 それでも、ひとつ、思い浮かんだことを言葉にしてみる。
「……姉さんは、どうして、オーブリー卿の殺害を否認しない一方で、沈黙し続けているのだと思う?」

01:終点で君と出会う(4)

 試されているように感じるし、事実、私を試すために彼女はここにいる。もちろん、仮に私が役立たずだったとしても、彼女は「その程度のもの」と私を認識するだろうし、それで十分ともいえた。私が彼女の役に立つ必要などないのだ。
 ただ、その一方で、アレクシアの口から語られた事件に興味が湧いたのは確かだった。ここから遥か遠く離れた――それは現実としても、私自身の感慨としても――エピデンドラム公爵家で起きた凄惨な殺人事件。
 ここに来てからまるで思い出すこともなかった、エピデンドラム邸の美しさを脳裏に思い描いてみる。そこで行われていたという祝いの席の華やかさと、その奥に秘められていたであろう、泥臭いやり取りも。
 まずは、改めてアレクシアの言葉を咀嚼しなおしてみる。まだ、事件を完全に思い描くには何かが足りていないのだと思う。
「……そうだね。まず、オーブリー卿の死因だけど、短剣による刺殺ということだったね。後ろからかい、正面からかい?」
「正面からずぶりだ。ちょうど、心臓を貫く形になっていたそうだ」
 心臓を貫く一撃。それでは、確かにオーブリー卿であろうとひとたまりもなかったであろう。ことさら憐れむ気になれないのは個人的な感情によるものだが、随分とあっけない死に方をしたものだ、とは思う。
「凶器は短剣で間違いないんだね?」
「どういうことかな」
「例えば、そうだね……、|記術《スクリプト》による傷である可能性は考えられないかな」
 |記術《スクリプト》を用いた犯罪は世界的にも|記術《スクリプト》適正の低い女王国民の間ではそこまで一般的ではない。しかし精霊女王の血を濃く引く我々|貴族《クイーンズブラッド》にとっては、殺害の手段として十二分にありうる話であると思う。
 とはいえ、アレクシアは私の言葉を一笑に付してみせた。
「そんな、叔父さまじゃあるまいし。ああ、しかし叔父さまのおかげで警察も|記術痕《スクリプト・サイン》は確認するようになったらしいな。もちろん|記術《スクリプト》が使われた痕跡はなかったし、傷口は短剣の刀身と一致している、というのが警察の見解だ」
 警察も一時に比べれば随分きちんと捜査をするようになったということか。とはいえ、相手はこの国の頂点に最も近い公爵家だ。捜査しづらさを感じているのは間違いないだろうし、目に見える犯人がいるならば、それで終わりにしてしまいたいところだろう。
 ただ、その一方で、終わりにできないだけの理由があって、だからアレクシアはここにいる。どれだけ私が鈍くても、そのくらいはわかる。
 アレクシアは、落ち着いてこそいるが、ヒルダが犯人であることを疑ってかかっている。実の母が犯人であることを信じたくない、だけなのかもしれないし、何か自分でも言葉にできない違和感を抱えているのかもしれない。
 そして、アレクシアの言葉には私もどこか違和感のようなものを感じている。その正体が掴めるまでは、姉が犯人と決め付けるのは尚早に過ぎる。
「なら、最初に死体とヒルダを見つけたのは誰かな」
「母つきの使用人だ。立食の時間に母が姿を消したことに気づいて探していたところ、休憩のために解放していた一室で、オーブリー伯父上の死体と短剣を持っている血まみれの母を見つけた、ということらしい。……が」
「何か引っかかるところがあるのかい?」
 アレクシアは腕を組み、思案するように沈黙した。けれどそれもごく一瞬のことで、閉ざされた唇はすぐに開かれることになった。
「使用人が第一発見者かというと、疑問が残るのだ」
 その声は、先ほどよりも一段低く聞こえた。
「それ以前に現場を見た人物が他にいたと?」
「見ていたかどうかは定かではない。けれど、もう一人、使用人より前にその場にいたことだけは間違いないのだ」
「もう一人の登場人物、というわけだね。それは誰なのかな」
 アレクシアの目が僅かに伏せられ、長い睫毛が目の上に影を落とす。
「私の、双子の妹だ」
 双子。それは初耳だが、ひとまずアレクシアが話すのに任せることにする。重要なのは、その双子の妹とやらが何を見ていたのか、もしくは何を見ていなかったのか、だ。
「私の妹はニア……、アントニア、というのだが、その日は基本的に母と行動を共にしていた。私もそれは記憶している。ただ、事件直前についてははっきりとしたことはわかっていないのだ。一つだけ確かなことは、使用人が伯父上の死体と母を発見した時、アントニアは部屋のソファの上に寝かされていた、ということ」
「最低でも、その瞬間に意識はなかった、ということだね」
 そういうことだ、とアレクシアは一つ頷く。
「母が伯父上を殺した瞬間も意識を失っていた、と供述している。自分がどうしてそこに寝かされているのかもわかっていなかったようで、とにかく記憶にあやふやな点が多すぎる」
「好意的に見るなら、母が伯父を殺すという事件の凄惨さに衝撃を受けて、その時の記憶を無意識に闇に葬り去った、といったところだろうね」
 そして、穿った見方をするなら、それらが全て嘘で、何か自身に不都合なことを秘匿しているという可能性が考えられるし、そちらの方がよっぽど現実味がある。アレクシアも私の言わんとしていることはわかってくれたのだろう、軽く肩を竦めて言った。
「当然、ニアの供述は真っ先に疑われた。ただ、捜査が進むにつれ、結局ニアが起きていようが寝ていようが、その場で母さまが伯父上を殺した、という理屈以上の説明をつけられそうにない、ということになったのさ」
「凶器を手にした姉さんがそこに立っていた、という状況以上に明白に犯人を指し示すものがない……、か」
 手枷の鎖を指で弄びながら、鉄格子越しのアレクシアを見やる。アレクシアはひとつ頷いて私の言葉を肯定したが、すぐに「しかし」と言葉を続ける。
「ニアは、今もなお、母さまが犯人ではないと信じている。自分がきちんと覚えてさえいれば、とその時のことを悔やんですらいる。わたしは、母さまと、母さまを信じているニアのためにも、ことの真相を知りたいと願っている」
「君が知りたいのではなく?」
「どうだろう。いても立ってもいられなかったのは確かだが、それが本当に『わたしの気持ち』なのかは、わからないままでいるのさ」
 アレクシアは鈍く笑ってみせるけれど、その気持ちを私が共有することはできない。私はどこまでも他人であって、アレクシアやその妹、それにヒルダの感じていることを知ることなどできやしないのだ。
 ただ、気持ちや感情といった目に見えないものではなく、現実に起きた出来事を詳らかにすることなら、試みることができる。
「そうだね。……なら、一つずつ、順番に考えていくことにしようか」

01:終点で君と出会う(3)

 アレクシアは私の答えに軽く息を吐き出して、改まった様子で指を組みなおす。
「では、聞いてもらおう。これは、我が家で起こった殺人事件の話なのだが」
「殺人事件?」
 いきなり物騒な単語が飛び出してきて、思わず鸚鵡返しにしてしまう。アレクシアは左右が非対称の笑みを浮かべて言う。
「そう、殺人事件さ。叔父さまの得意分野でもある」
「私は別に殺人が専門なわけではないよ。できない、とは言わないけれど」
 誰も彼も、殺す必要がなければ進んで人を殺すことはないだろう。私がそうであったように。そもそも人を殺すものでない、という当たり前の前提は、こと事件が起こってしまえば無意味に過ぎる。アレクシアの言葉を信じるならば、事実として既に殺人は行われているのだ。
「我が家、ということは、エピデンドラム家で起こった事件ということだろう? そんな大事件の最中に、私なんかと話をしていてもいいのかい?」
「何、もう事件はほとんど終わってはいるんだ。人が一人死に、犯人ははっきりしているのだからね」
 アレクシアはそう言ってみせたが、その表情は依然として歪んだ笑みのままだ。
 人が一人死に、犯人ははっきりしている。
 けれど、ただそれだけならば、わざわざ人に……、しかも今まで縁もゆかりもなかった、強いて言えば「血が繋がっているだけ」の私に知恵を求める理由にはなるまい。私は片目の視線でアレクシアに言葉の続きを促す。
「事件は終わっている。普通に考えればそうとしか思えない状況なのだ。わたしもそれで納得しようとした、が、どうにも引っかかる点がある。それを、叔父さまにも一緒に考えてみてもらいたいのだ」
「なるほど」
 私は推理小説に出てくる探偵ではないのだけれども。現実に起きたという殺人事件を前に、一体どれだけの知恵が出せるのかもわかったものではない。とはいえ、話を聞くと言った手前、仔細を聞く前からお手上げだと言うわけにもいくまい。
「なら、そうだね。まずはどういう事件なのかを聞かせてくれるかな。誰が、いつ、誰に、どのように殺されたのか。それを聞かずには何も判断できないからね」
 アレクシアはひとつ頷くと、よく通る声で話し始める。
「事件が起こったのは、つい先日のことだ。エピデンドラム家当主であるお爺さまの誕生日を祝う場として、エピデンドラムの者が一堂に会することとなった」
 エピデンドラム家当主。その言葉に、ふと脳裏に蘇るのは白髪に豊かな髭をたくわえた、見た目だけで言えば好々爺然とした老人の姿だった。見た目だけで言えば、というのは私の経験からくるごく個人的な感想である。
「そういえば、アンブローズ卿は相変わらず殺しても死ななさそうな雰囲気なのかな?」
「ああ、そうか、叔父さまは度々お爺さまとやりあっていたのだっけな。叔父さまの言うとおり殺しても死にそうにないし、実際、今回の事件に関わったのはお爺さまではない」
 ただ、流石に今回の事件に際しては随分と気落ちした風らしい、というのがアレクシアの談。正直、人が一人死んだ程度で気落ちする類の人種ではなかったと記憶しているのだが、果たしてそれは私の思い違いであっただろうか。
「その日、その場に集った人々について長々説明する気はない。あくまで事件に関わっているであろう人の話だけしよう。一番明白なのは『被害者』だが、これはわたしの伯父だ。叔父さまは、オーブリー伯父上のことはご存知だろうか」
「エピデンドラムの次期当主だろう。彼が殺されたのかい?」
 アレクシアの父方の伯父、オーブリー卿について、本質的なことは何も知らないと言っていいだろう。主に公の場で何度か言葉を交わしたことがあるくらいで、深く関わるようなことは決してなかったから。
「君は誰に対しても親しげに見えて、どこか突き放したようなところがある」というのは友の言葉だが、なるほど今になって考えると、その評はあながち間違いではなかったのかもしれない、と思う。
 ただ、そう、オーブリー卿と言われてまず思い出すのはあの姿かたちだ。目の前のちいさな少女と血が繋がっているとは思えない――何せアレクシアはどう見ても母親似である――、縦にも横にも大きな姿をしていて、並ぶと自分の貧相さを思い知らされたことをよく覚えている。
 そのオーブリー卿が「殺された」というのがすぐには想像できなくて、つい首を傾げてしまう。おそらく、アレクシアも私が何を考えているのかは察してくれたのだろう、「そう、『あの』伯父上が、だ」とわざわざ強調してくれる。
「伯父上の死因は短剣による刺殺。短剣は現場の部屋に飾られていたものが使用されたようだ。……そして、伯父上を殺した犯人は」
 ひとつ、呼吸をおいて。アレクシアはそっと、言葉を落とす。
「わたしの母だ」
 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。魂魄の内側で言葉を反芻してみて、やっと合点がいく。
「姉さんが?」
 アレクシアの母ということは、当然ながら私の姉だ。あまりにも当たり前のことを聞き返していると気づいたが、アレクシアはそんな私を笑うでもなく、こくりと頷いて返す。いつからだろう、その表情からは笑みが消えていて、ごくごく真剣に私を見据えている。
 思い出してみようとしても、どうしても姉の記憶はあやふやだ。
 ヒルダ、今はエピデンドラム。私が学生だった頃にはエピデンドラム家に嫁いでいったはずの姉。彼女についてはそれこそアンブローズ卿やオーブリー卿以上に未知の存在で、私自身の無関心さを今になって思い知らされる。
「しかし、何故姉さんが犯人だと? 彼女がそう言ったのかい?」
 私の言葉に、アレクシアはかぶりを振る。「言うまでもなかったのさ」、と。
「何せ、うつ伏せに倒れて死んでいる伯父上が発見された時、母は血まみれの短剣を手に、その場に立っていたのだからね」
 確かにそれは疑う疑わない以前の問題だ。頭の中に、倒れたオーブリー卿と、血まみれの短剣を手に幽鬼のように立ちつくすヒルダの姿を思い浮かべる。正直、姉の姿形ははっきりとは思い出せなかったから、私自身に近しい姿を勝手に想像してみるわけだが。
「母さまはそのまま捕まって、今は警察に拘留されている」
 アレクシアはそこまで言って、「ここまでで疑問はあるだろうか」と鉄格子越しに私を見上げる。よくよく考えればいくらでも問いは浮かぶのかもしれないが、何せ私は名探偵ではない。だから、真っ先に浮かんだ――それでいて、本筋には全く関係のない問いかけを投げかけることしかできなかった。
「母親が捕まったにしては、随分落ち着いているね」
「うむ、皆にもそう言われた」
 アレクシアは口元に微かな苦笑を浮かべてみせる。
「だが、わたしが慌てふためいて何が変わるというのだ? そんなことに時間を使うくらいなら、わたし自身がしたいことをするまで。それだけさ」
「なるほど、とても理性的な判断だね。それで、どうして私を頼ることにしたのかはさっぱりわからないけれど」
 本当に理性的ならば、まずそんなことを考えはしないだろうし、そもそも思いつきもしないだろうと思っている。私が誰からも「いないもの」とされて久しいことは、私を訪ねる人物が久しく友一人であったことからもはっきりしている。
 けれど、アレクシアはこう言うのだ。
「叔父さまの名前が出てきたからさ」
 ――と。
「私の?」
「ああ。母さまの殺人が家の中に知れ渡ったとき、真っ先に挙がったのは叔父さまの名前だったのさ。『狂人と同じ胎から産まれただけはある』『流れる血がそうさせたのさ』ってね」
 その言葉には、流石に笑いを堪えることができなかった。不謹慎だとは思うが、何よりも馬鹿馬鹿しい。
「おかしなことを言うね。そもそも、私にはエピデンドラム家の血も色濃く混ざっているというのに」
 私たちの血はとっくの昔に煮詰めに煮詰められている。「|女王の血《クイーンズブラッド》」を濃く維持するために身内での婚姻を繰り返し、閉ざされた輪の中でひとつの世界を確立してきた我々なのだ。
「それなら、姉さんだけでなく、エピデンドラムもが狂人の血を引いていると言っておかしくはないと思うのだけどね、私は」
 そう、今更他人のような顔をしたところで無駄というものだ。
 アレクシアは笑う私を咎めはしなかった。それどころか「ふむ」と満足げに頷いてすらみせるのだ。
「叔父さまもそう思うか。全く馬鹿馬鹿しい話だとわたしも思っている。ただ、かの『狂人』たる叔父さまが事件をどう考えるのか、には興味が湧いてね」
 私は自分が狂っているとは思っていない――どこかで足を踏み外してしまった自覚はあるけれど、それが「狂っている」かといえば「違う」といえる――が、外からそう呼ばれることには慣れているし、そう評されて当然だとも思っている。
「先刻も言ったとおり、わたしの話を聞き届けてくれる人もいないということもあってね。ここまで叔父さまの知恵を拝借しにきた、というわけさ」
 アレクシアの青い目が、「どうだろう」と私の片方だけの目を見据える。

01:終点で君と出会う(2)

 私がこの塔で暮らすようになってから、面会者など|ほとんど《、、、、》いなかったと記憶している。唯一の例外も最近面会に来たばかりで、次の面会予定までは間があるはずだった。
 果たして、わざわざ私に会いに来るような物好きが彼の他にいるのだろうか?
 内心首を傾げながらも、先導する刑務官の背中を眺める。独房を出る時には必ずつけられる手枷と足枷が窮屈ながら、その文句は胸の内に留めて、わずか、口の端を歪めるだけで済ませた。うるさい、と口枷まで嵌められてはかなわない。
 面会室までの道行きに、他の囚人の姿はない。『雨の塔』にはもちろん他にも囚人がいるはずなのだが、私はその姿を目にしたことがないし、きっとこれからもないのだろうと思っている。私の扱いがしち面倒くさいということは、私自身が一番よく心得ている。
 手すりのない長い螺旋階段を降りてゆき、やがて独房よりも通路よりもずっと明るい面会室へと通される。眩しさに、刹那目が眩んだけれどそれもすぐに収まり、部屋を二分する鉄格子の向こうに座っている、どうにも場違いとしか思えない人物の姿を認める。
 雨避けだろうか、重たそうな外套を纏った少女は、わずかに湿った柔らかそうな金髪を揺らし、青い目でこちらをひたと見据えて。
「ごきげんよう、叔父さま」
 かつての私によく似た顔で、晴れやかに笑ったのだった。
「……ええと」
 そう、よく似ている。それに私を「叔父さま」などと呼ぶ人間など限られている、はずなのだけれど。私の戸惑いをどうやら正しく受け取ってくれたらしい少女は、笑顔もそのままに言った。
「アレクシア。アレクシア・エピデンドラム」
「アレクシア……」
 アレクシア。もう一度、その名前を口の中で唱える。せめて、今この瞬間だけは忘れないように。
「申し訳ない、最近どうも物忘れが多くていけないね」
「忘れたというよりも、覚える気がなかったんだろう、叔父さまは?」
 笑みに似合わぬ辛辣な物言いだが、どうやらこの様子だと私の姪であるらしい彼女は、私の無関心さを知ってくれているらしい。光栄なことだ。
「それで、君はどうしてまたこんな辛気臭い場所に?」
 成人にも満たないような少女が訪れる場所でないことは確かだ。遠くから聞こえてくる雨音は、この場所を外界から明確に閉ざしている。わざわざこんな場所に足を運ぶのは、それこそこの場に相応しいという烙印を押された者か、そんな「ひとでなし」に用のある変わり者くらいで、
「少しばかり叔父さまと話をしてみたくなってね」
 彼女は、どうやら後者であるようだった。
「それはまた……、物好きなことで。姉さんは止めなかったのかい?」
 私の姉は「私と似ていた」という以外に記憶すべきことが何一つない人物だった。いや、本当はあったのかもしれないけれど、外にいた頃の私はそう思い極めていたから、彼女についての記憶はどこまでも曖昧だ。今、アレクシアの名乗りを聞いて、エピデンドラム公爵家に嫁いでいたことを思い出した体たらくだ。
 いっそ、「思い出した」というよりも「知った」という方が実情に適っているかもしれない。
 アレクシアは完璧な笑みを少しばかり崩して、大げさに肩を竦めてみせる。
「もちろん、言っていないよ。叔父さまに会いに行くなんて言ったら、お母さまどころか家中の人間が止めるだろうさ」
 たった一人、止めなかった人物がいたとすれば、アレクシアの後ろにぴんと背筋を伸ばして立つ老従者くらいだろう。彼は私とアレクシアの会話に一言も口を挟むことはなく、ただ、じっと我々を見つめている。
 なるほど、霧がかかっていた意識も少しずつはっきりとしてきた。ここしばらく忘れていた感覚だ。もう戻ることはない霧に霞んだ過去ではなく、「今」「ここ」に意識が戻ってきたような手ごたえ。
「……それでもここに来たということは、それだけの理由があるということかな。流石に、ただ『話をしたくなった』だけではないだろう」
「ああ。よかった、監獄生活で耄碌していたらどうしようかと思っていた」
 けれど、話をしたいと思ったのは本当なんだ、とアレクシアは言って、微かに首を傾げる。
「それにしても、随分痩せたんじゃないのか、叔父さま」
「そうかな?」
 ここに来てからそこまでじっと鏡を見ることもなく、見たところで代わり映えのしない顔が映るだということもあり、意識したことはなかった、が――。
「そうだな、身軽にはなったかな」
「これでも?」
 これ、と言った彼女の視線が指すのは私の手元、つまりは手枷であった。確かにこれで「身軽」と言うにはあまりにも滑稽にすぎる。
 それでも。
「これでもさ。君にはわからないかもしれないけれど」
 私は決して許されることはなく、故に二度とこの塔から出ることも無いだろう。そうして自由を奪われた今の方が身軽に感じられるなんておかしな話なのだが、私の実感としてはそうと言わざるを得ない。
 アレクシアは外套に覆われた膝の上でしらじらとした細い指を組んでみせる。
「そうだな。わたしにはわからない話だよ。きっと、わかるべきでない話でもある」
「その通り。健全に生きたいならば、知らないほうがいい。私ほど、真似すべきでない人間もそうはいないよ」
 本当に。これだけは、ここに来る前の私でも同意してくれるはずだ。私のような人間は、私ひとりで十分に過ぎる。
 そんな自虐めいた気持ちを持て余している間も、アレクシアの双眸はじっと私を見つめている。顔が自分に似ているだけにどうにもやりづらくて、曖昧な表情を浮かべざるを得ない。
 一拍、二拍。意識して呼吸を数えたところで、アレクシアのちいさな唇が開く。
「別に、真似をしたいわけではないけれど、その叔父さまの意見を求めたくはあるな」
「それが、君が来た理由かな?」
「そう。どうにもわたしの手に負えない出来事があってね。それについて、叔父さまの知恵を拝借したいというわけだ」
 その言葉には、思わず笑いが漏れてしまう。私の後ろに立つ刑務官が僅かに緊張するような気配を醸し出したけれど、知ったことか。
「私が本当に知恵者なら、こんな場所にはいないよ」
 強いておどけた調子で、手と手の間を繋ぐ鎖を示してみせる。過去がどうであったかはともかく、今の私はただの囚人に過ぎない。愚かしさによって取り返しのつかない罪を犯した結果、二度とこの雨の塔の外に解き放たれることはない、囚人。
「それに、君の立場なら、ほとんど見ず知らずの私なんかよりもずっと頼れる者がいるだろうに」
「案外いないものだよ。叔父さまもご存知だろう、わたしたちの周りは、互いの足を引っ張り合うことしか考えないものでね」
 それは当然覚えがある。誰もが、というのは言いすぎかもしれないが、その「立ち位置」もしくは「存在そのもの」を狙う者は常にどこかにいる。どこかにいる、という前提で考えるなら、隙を見せるような真似はそうそうできない。それが|貴族《クイーンズブラッド》の頂点に限りなく近い者たちの下らない日常なのである。
「その点、叔父さまには今更何を話したところで、何が変わるでもない。そうだろう?」
「それはそうだね」
 私にはアレクシアの足を引っ張る理由もないし、仮にあったとしてもこの場から何ができるわけでもない。アレクシアからすれば、格好の「話し相手」ではあるのかもしれなかった。……あまり、おすすめしてよいものではないとは思うけれど。何せ私はこの通り、ろくな人間ではない。
 とはいえ、わざわざ訪ねてきた少女を追い返すのは忍びなく、それ以上に、あえて「私」を訪ねてきたアレクシアに興味が湧いたのも事実であった。果たして彼女がどのような話を持ってきたのか。それを私に話すことにどのような意味があるのか。
 私が話を聞く姿勢になったのを察したのだろう。アレクシアは「ふふ」と微かに笑って、それから背筋を伸ばして私を真っ直ぐに見据える。
「わたしの話を聞いてくれるかな、叔父さま」
「構わないよ。お役に立てるかどうかはわからないけどね」
 話を聞いても、聞かなくても、何が変わるわけでもないのなら。普段といささか異なるこの時間を享受しても許されると思いたい。

01:終点で君と出会う(1)

 馬車はがたごとと揺れながら行く。
 窓には金属の覆いがかけられていて、外の様子を窺うことはできない。今どこにいるのか、どのような道を通っているのか、何一つわからないまま、揺られるがままになっている。
 車輪が小石を蹴ったのか、少しばかり大きく揺れた時、金属の触れ合う音が一際強く耳に響いた。そういえば、手枷と足枷から伸びる鎖の音にも随分慣れてしまった。姿勢を変えることもままならない窮屈さも、こうなる以前から似たようなものだったと思えばどうということもなかった。
 そうだ、さしたる違いはない。私の立っている位置が、少しだけ変わったくらいで。
 いつもの癖でこれから先のことを考えようとするけれど、もはや帰る場所も行くべき場所もないのだ。私に「先」など無いのだと、思い至る。
 やがて、馬車の揺れる音に、屋根を叩く音と濡れた地面を走る音が混ざり始める。徐々に目的地に近づき始めているのだと気づいたけれど、そこに何の感慨も浮かぶことはなかった。
「もうすぐ到着だ」
 重々しい声が響く。私は焦点の合わない目を上げて、けれどそれ以上何ができるわけでもないから、ただ瞼を伏せる。
 この道の先にあるものは、私にとっての「終点」。
 それは、雨に閉ざされた塔の形をしている。
 
 
 今となっては遠い記憶を思い出していた。
 馬車に揺られていた記憶。ここに辿り着くまでの、最後の記憶だ。
 それがいつのことであったかは定かではない。遥かな昔であったようにも思えるし、遠いと感じていながら、実はつい先日のことであったかもしれない。何しろ日付を数えるのをやめてしまって久しい。確かめようと思えば確かめられるのだろうが、何となくその気にもならなくて、ただ、ただ、横になったまま、ぼんやりと雨の音を聞いている。
 ――『|雨の塔《レイニータワー》』。
 その呼び名の通り、今日も遥かな高みに穿たれたちいさな窓は、鈍色の雨模様を映している。
 少しばかり視線を動かせば、すっかり見慣れてしまった石壁と、それから本来壁であるべき一面に嵌め込まれた鉄格子。その向こうからは、直立不動の刑務官が鋭い視線をこちらに向けている。
「……飽きないのかい?」
 問いかけてみるけれど、未だ名も知らない刑務官は答えないどころか微動だにしない。この独房に来た当時から何度も試してみているのだけれど、私が語りかけても刑務官たちが答えを返してくれたことはない。おそらく、話すことを禁じられているのだろう。全く、よく調教されているものだと思う。
 このどうしようもない静寂にも、いつしか慣れきってしまっていた。絶えることのない雨の音、じっとりとした重苦しい空気、めったに開くことのない鉄の扉。その全てが当たり前になった今、私はぐるぐると終わりのない思索を続けている。
 このまま、まどろみのままに雨に溶けることができたら幾分気が楽なのだが、その一方で私はまだ溶けて消えるわけにはいかない。それだけの理由がある。
 せめて、少しくらいは体を動かしておいた方がいいだろう、と身を起こしたその時、不意に監視役の刑務官が私から意識を外したのがわかった。そちらに視線をやれば、別の刑務官が扉の前にやってきて、珍しく口を開いたのだった。
「面会だ」
「……面会?」
 聞き返しても答えは帰ってこなかった。そこだけはいつもの通りだった。

レイニータワーの過去視

 天井近くに開いたちいさな窓から覗くのは、昨日と同じ鈍色の天蓋だ。その前も、そして明日も同じであろうそこから、しとしと雨が降り続いている。
『|雨の塔《レイニータワー》』。
 ここは女王から見放された地。草木どころか苔すらも生えることなく、雨ばかりが降り注ぐ不毛の丘の上に建てられた監獄塔。
 そうして自分の居場所を思い出して、自分が誰かを思い出そうとするけれど、どうしても散り散りの……、それこそ目に映る窓くらいに切り取られた断片的な風景しか思い出せないでいる。
 そうして手のひらから雨のように零れ落ちゆく記憶を求めて、何度も、何度でも、ちいさな窓から過去を見据える。私が監獄にいる理由。私が何者であったかだけは、忘れないために。

少年と青い夢

 夢を見た。
 青い、青い夢。
 視界一面に広がるのは、雲一つ無い、晴れ渡った夏の青空。
 胸を締め付けるような、不意に悲しくなってしまうような、透き通ったアオが目蓋の裏に焼き付く。
 これは、もしかすると、とても悲しい風景なのかもしれない。だって、目からとめどなく零れるものが、頬を濡らして止まないのだから。
 何故、涙が溢れて止まらないのか。
 それは――

 はっと、セイルは目を開けた。
 気づけば、何かを掴もうとするかのように、天井に向けて手を伸ばしていた。右の手首に結んだ褪せた緑色のリボンが、ゆらゆらと頼りなく揺れている。
 何故、自分が天井に向けて手を伸ばしていたのか、一瞬考えて……結局わからなくて、腕を戻す。そして、自分の頬にそっと触れた。何故か、頬はしっとりと濡れていた。
 ――泣いていたのか?
 セイルは思うけれど、何故泣いていたのか思い出せない。目蓋に焼き付いているのは、ただ「青い」という記憶だけを伴った、夏の空色。
 そういえば、こんな夢をかつても見たことがあった。それは、もう三年と半年以上前になるだろうか。自分はまだ一年生で、小さくて何もわかってはいない子供だった。今もまだ子供であることは変わらないけれど、あの頃よりは少しだけ背が伸びて、あの頃よりも少しだけ物知りにはなったと思う。
 そんな時に、一人の少女と出会ったのだ。
 夢に見た、青い薔薇を探す少女。自分の未来を切り開くために、前を見つめ続けた少女。彼女の笑顔は、今でもはっきりと思い出すことが出来る。彼女は彼女自身の望みどおり、青い薔薇の咲く庭を見つけ、そして誰の手も届かない場所に旅立った。
 彼に、一つのリボンと一つの約束を残して。
 今はここにはいないけれど、まだ帰ってはこないけれど、いつか絶対に戻ってくる……それを信じて、そっと右手のリボンに触れる。
 彼女が旅立ったその日から、青い夢は見なくなった。見なくなった、はずなのに。
 セイルはもう一度、リボンを結んだ手で頬に触れる。
 青い夢、空の夢。それは、あの日見ていた夢と似ていて、けれども少しだけ違う夢。あの時に見た青い薔薇の夢は、心をぎゅっと掴んできたけれど、これほどまでに強く気持ちを揺さぶられはしなかったはずだ。
 涙の理由は、悲しみだろうか。そうかもしれないし、違うかもしれない。それは、夢から覚めたセイルにはわかるはずもないことだ。

 だけど、何故か。何故か、彼は確信していた。

 これもまた、とびきり、幸せな夢なのだと――

 セイルは笑う。誰がその笑顔を見ることも無かったけれど、何となくくすぐったく、それでいて沸き立つような気持ちになる。今日は一日、いい気分で過ごせそうだ。そんな能天気なことを考えながら、涙を拭いて窓の外を見る。
 窓の外は、夢と同じ、悲しいほどに青い夏の空色をしていた。
「行こう」
 毎日のように青い夢を見ていたあの日、緑のリボンをくれた少女に向けた言葉を、今度は自分自身に向かって投げかけて。

 夏の青空の下、セイルの新しい一日が、始まろうとしていた。

騎士と物語の終わり

「……申し訳ありません、師匠」
 ライラはただ、頭を下げることしか出来なかった。
 神聖騎士団炎刃部隊長ギーゼルヘーア・アウルゲルミルは小さな溜息と共にライラの報告書を机の上に投げ出した。
 結局、『知恵の姫巫女』スノウ・ユミルは行方知れずとなった。
 ライラがあの時『エメス』の残党を倒したこともあり、『エメス』の手に渡っていないという確証は得られた。だが逆に言えば彼女の足取りについての情報が完全に途絶えてしまったことになる。これはひとえにスノウの捜索を任されたライラ、そして捜索を任せたギーゼルヘーアの責任となる。
 だが、申し訳ないと思いながらもライラはこの選択に後悔はしていなかった。
 スノウは、笑顔で旅立った。それがわかっただけで、ライラには十分だった。
 もちろん、それを言葉に出すことは、騎士としてあってはならないことだ。だからこそライラはただただ、頭を下げる。それ以上のことは何一つ言葉にすることなく。
「……なあ、ライラ」
 ギーゼルヘーアが重たい声を立てた。ライラはびくりと体を震わせて、ギーゼルヘーアを見る。浅黒い肌と年齢に似合わぬ若々しい顔立ちをした部隊長は、口の端に僅かな微笑みすら浮かべて言った。
「スノウは、幸せになったと思うか?」
「え……」
 ライラははっとした。
 まさか、と思った。あってはならない、と思った。だが、考えてみれば、全ての辻褄が合ってしまう。
「ま、心配無いかな。アイツもついてたし、何よりスノウには自分が行くべき道が見えてたからな」
 ギーゼルヘーアは独り言のように呟く。ライラは呆然とギーゼルヘーアを見つめていたが、やがてぽつりと言葉を落とした。
「師匠、あなたが、スノウ様を逃がしたのですか?」
 ずっと、引っかかるものを感じていた。
 スノウが「攫われた」日、神殿の警備は万全だったはずだ。何しろ、リベルほどではないが本殿でも一大行事である聖ライラ祭の直前だ。『エメス』をはじめとした異端の動きが活発化していることもあり、警備は厳重を極めていた。
 そこに、あの男が侵入してスノウを攫った――普通では、ありえない話だ。あの男がいくらスノウを通して神殿の事情を知っていたところで、そう簡単にことが運ぶとは思えない。何しろ神殿の奥深くに住まう『姫巫女』スノウは、神殿の騎士たちの動き全てを知っているわけではないのだ。
 だが、神殿の警備を統括し、騎士の配置を全て把握しているはずのこの男が、意図してスノウの周りの警備を緩めたとしたら、どうだろうか。もし、それをスノウと示し合わせていたのだと、すれば。
 ギーゼルヘーアは応えない。
 ただ、にやにやとした笑みを浮かべ、机に肘をついてライラを見上げるだけだ。それが無言の肯定であることくらいは、ライラにもわかった。
 こうなっては、師は決して正しいことを言おうとしないだろう。なんだかんだで長年の付き合いだ、師がどのようにものを考え、行動に移すのかは理解し始めている。
 昼行灯と呼ばれるギーゼルヘーアだが、決してこの男は無能なわけではない。その力を使う場所が、神殿の上層が望む方向ではないというだけ。
 彼は女神ユーリスを守る騎士にしては、優しい。きっと、優しすぎるのだ。
 そして、その「優しさ」を嫌うことの出来ない自分もまた、ギーゼルヘーアと同類なのかもしれなかった。実際にそう言ったところでギーゼルヘーアは「お前みたいな真面目ちゃんと一緒にされたくねえよ」と苦笑するだけだろうけれど。
「全く、因果なもんだな。スノウも、アイツも」
 放たれたギーゼルヘーアの言葉は、独り言にしては声が大きかった。あえてライラに聞かせるつもりでそう言ったのかもしれない。ライラはもう一つ、答えは期待せずとも気になったことを問うてみることにした。
「師匠、師匠は……あの異端研究者が何者なのかも、ご存知だったのですか」
「お前じゃ荷が重い相手だろうなあとは、思った。捕まえられないことは想定済み。捕まえちまったら、それはそれで色々面倒くさいしなあ」
 それはライラの問いに対する直接的な答えではなかったものの、「知っている」という答えと同意だった。
「奴は、スノウと同じ本物の天才だよ。それに比例して、ここもいかれてるけどな」
 ギーゼルヘーアはとんとんと自らのこめかみを指してみせた。
 確かに、おかしな言動をする男ではあった。誰よりも全てを見通しているようでいて、簡単なこともわからないような態度を取ることもあって。それも、ある意味では『知恵の姫巫女』たるスノウによく似た反応だった。
「でも、まあ、何でもいいか。スノウは謎の男と一緒に消えた。事実はそれだけ。そういう風に報告すりゃあいいだろ。お前の処分についても、上手く折り合いつけとくさ」
 ギーゼルヘーアはゆっくりと立ち上がる。ライラの報告書を持ってひらひらとさせながら、ライラの横をすり抜けて部屋を出て行こうとする。
「待ってください、師匠!」
 ライラは思わず、師を呼び止めていた。ギーゼルヘーアは「何だよ」と不機嫌そうに目を細めた。色々なことが聞きたかったはずなのに、思いが上手く言葉にならない。ただ、ただ。どうしても、これだけは問わなければならない。ライラは飴色の瞳でギーゼルヘーアを見据え、言葉を搾り出す。
「師匠は、何故スノウ様の望みを聞き届けたのです?」
 ギーゼルヘーアは「はっ」と息を吐き出して、自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「必死な顔してる女の子を放っておけなかった。それだけだよ」
 言って、そのまま彼は部屋から出て行った。
 部屋の中に一人残されたライラは、自然と窓の外に視線を向けていた。窓の外は綺麗に晴れていた。いつもスノウが見つめていた、青い空がそこにある。
「そうか」
 空を見つめたまま、ライラは呟いた。
「理由なんて、それだけでよかったのか」
 ライラの呟きは、誰にも届かない。けれど、妙に清々しい気持ちでライラは窓の外の空を見上げる。
『ねえ、ライラ』
 空から響くのは、遠い日の記憶。無邪気に笑う記憶の中の少女が、ライラに向かって小指を差し出す。それは、彼女だけが知っていた、約束のおまじない。
『わたしが巫女になっても、ずっと、友達でいてね。約束』
「ああ、いつだって、どこにいたって友達だよ……スノウ」
 ライラは口の中で呟いて、空に向かって小指を伸ばした。頬に伝う熱いものを感じながら、いつまでも、いつまでも。大切な友達が愛していた青い空を見つめていた。

影と物語のはじまり

 聖ライラ祭から一夜が明け――
 町は、昨日までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 聖ライラ祭が過ぎれば、後はユーリスの創世日を待つばかり。人々は、年の始まりを穏やかな気持ちで迎えるべく、準備をしているところだろう。
 ブランは、そんなリベルの町を見渡せる丘の上に、独りきりで立っていた。
 冷たい北からの風に、黒い外套を揺らす影法師のような彼は、薄い唇を笑みの形にしてリベルの町を見下ろしていた。
 懐かしい町並みは、ここから見る限りブランの記憶の中のリベルの町と何一つ変わらない。実際に降り立ってみれば、確かに十年近くの月日が経っていると自覚させられたけれど……「懐かしかった」のは事実だ。
 少年時代をこの町で過ごした彼にとって、この町は特別な感慨を呼び起こすものだった。
 だが、スノウは、もうここにはいない。
 だから、自分がここにいる理由も、もう無い。
 ブランはポケットの中から、預かった緑色のリボンを掴んで取り出す。リボンは、世界樹の緑というよりは、彼の瞳に似た、微かに青みを混ぜた冷たい緑色をしていた。
 今までずっとスノウの身を守っていた、お守りのリボンだ。世界樹や女神の力を信じぬ異端のブランだが、スノウを守ってくれた力は信じてもよいかもしれない、と思う。
 それに、このリボンはスノウが遺してくれた心、そのものだ。
 ブランは少しだけ躊躇ってから、己の少しだけ長く伸びた髪をリボンで縛る。
 自分はスノウにはなれなくて、スノウが進む道に背を向けた。けれど、せめてスノウの前向きな思いと闇の中に踏み出す勇気を、少しでも分けてもらえたらいい。切なる思いを込めて、ブランは緑のリボンを風に揺らす。
 ――さよならだよ、
 スノウの声が、脳裏に蘇る。
 それは、最初で最後の別れの言葉。スノウが自分の手を離れた瞬間。
 その時、自分は上手く笑えていただろうか。何となく、そんなことを考えた。笑っていることは得意だけれど、スノウは彼の微笑みの意味を知っていたはずだ。故に、スノウから自分はどのように見えていたのか……それは、スノウの記憶が読めるブランでも、最後までわからなかった。
 決してわからなかったけれど、自分の力で、少しでも彼女が救われたならいい。
 祈るように、そう思う。
 いつも彼女を泣かせてしまっていたから。あの「セイル」という名の少年のようにはなれなかったから。せめて、少しでも彼女の力になりたかった。ただ、それだけだったのだと気づく。
「セイル……か」
 スノウの手を引き、駆けた無邪気な少年。夢を語り、約束を交わし、スノウの手を決して離さなかった赤毛の少年の姿が脳裏をよぎる。彼の前向きさが、ブランにはとても眩しかった。眩しすぎるほどに。
 また会えるかな、というセイルの言葉が、不意に脳裏に蘇る。
 そうだ、また会いに行けばいい。これから自分がどのような道を進むかはわからないけれど、もし道に迷えば、ここに戻ってくればいいのだ。その時にはきっと彼が、スノウとよく似た何処までも真っ直ぐな瞳で自分を迎えてくれるはずだ。
 自分も、もはや独りではない。スノウが独りではなくなったように。それに気づいて、ブランは「はは」と乾いた声で笑った。風が彼の体の横をすり抜けて、南へ向けて走り去っていく。
 そんな風の行く先を見送って、ブランは空を仰ぐ。昨日雪を降らせた空は、それを忘れたかのように青く、青く、透き通った色を湛えている。魔王や聖女が愛した、そしてスノウが愛した幸せの色を。
 ――次は、あなたの番。あなたが、幸せになる番だよ。
 そんなスノウの声が遠くから聞こえた気がして、ブランは声を上げて笑った。笑って、笑って、笑い続けて。そして空に向かって吼えた。
「スノウ、俺も上手くやっていけそうだ!」
 その向こうに旅立った、二度と声を聞くことのない少女に向かって。
「じゃあな、スノウ!」
 ――永遠に。
 改めて言葉にして、ブランはリベルの町に背を向ける。
 振り返ることなく、真っ直ぐに。
 彼は誰でもない自分自身の物語に向けて、旅立つ。

少年と雪

 最後に一言贈るなら どうか君よ、幸せに。

   (一〇六一年 アリア・レイヴァンス『幸福追求者』)

 
 セイルは、雪の降る中、寮の前で一人立ち尽くしていた。
 ブランと別れ、ここまで来て。
 扉に手をかけることを、躊躇っていた。
 躊躇うことなんてないではないか。いつも通りに駆け込んで、クラエスと一緒に食卓について、リムリカの作ってくれた熱くて美味しいスープを啜りながら、今日起こった色んなことを語り合えばいい。
 話したいことは山ほどある。もちろん言ってはいけないこともあったけれど、それでも、スノウのこと、ブランのこと、一週間の聖ライラ祭の中で起こった色んなことを話したかった。
 なのに、何故だろう。足が、手が、動いてくれない。
 セイルは握った緑色のリボンに視線を落とす。スノウから預かった、お守りのリボン。このリボンと交わした小指の約束が、遠い世界に旅立ったスノウと自分を今も繋いでくれている、そう感じる。
 逆に言えば、今やそれだけしか、彼女と自分を繋ぐものは無いとも言えた。
「ああ……そっか」
 何となく、わかった気がした。
 この扉を開ければ、いつもの世界がそこにある。祭は終わり、彼女がいない、いつものセイルの生活に戻っていく。
 決してそれが嫌なわけではない。嫌ではないけれど。
 ひらり、と。
 セイルの頭からひとひらの花びらが落ちる。それは、城の奥で今も咲き続けている青い薔薇の花びらだった。あの夢のような薔薇の海の記憶すら、きっと時間が経てば薄れてしまう。
 スノウの記憶だって、同じだ。
 いつも通りの毎日の中で、彼女の記憶はいつしか擦り切れていくだろう。セイルが望まずとも、必ず忘れていくはずだ。果たして、彼女が帰ってきたその日に、自分は彼女と出会ったその時のセイルでいられるだろうか。
 リボンは、何も語ってはくれない。ただ、セイルの手の中で、己の存在を主張するかのように揺れているだけ。
 何度自分自身に問いかけても、答えは出ない。それは、スノウが戻ってくるその日になって初めて出る答えだ。だから、考えているだけ仕方ないことだって、わかっている。わかっているけれど……
 思考が堂々巡りになり始めた、その時。
 セイルの手が触れてもいないのに、扉が音を立てて開いた。
 はっとしてそちらを見ると、大きな金色の瞳が二つ、扉の向こうからセイルを覗きこんでいた。
「く、クラエス」
 セイルが呆然としていると、クラエスは、セイルの頭からつま先までを見渡してくすくすと笑った。
「そんなとこに立ってたら、風邪引くよ」
「う、うん」
 セイルは頷きながらも、口をぱくぱくさせていた。クラエスには言わなくてはいけないことがある。昼間の舞台のことだって、きちんと説明したかった。けれど、頭がぐちゃぐちゃにこんがらがって、上手く言葉にならない。
 俯き、手の中でリボンをもてあそぶ。何を言えばいいのだろう、どのような顔で寮に入ればいいのだろう、どうやって……これからの日々を、始めればいいのだろう。
 思っていると、クラエスは「ああ、そうそう」と何かに気づいたように言って、ぽんぽん、と微かに雪の積もったセイルの頭を丸い手で優しく叩いた。
 そして、
「おかえり、セイル」
 クラエスの口から放たれた言葉は、するりとセイルの胸に入り込んだ。
 ――ああ、そうか。
 その瞬間、セイルは胸の奥に優しい明かりが灯ったのを感じた。今まであれだけ考えていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、単純明快な答えがセイルの目の前にあった。
 そうだ、それだけでよかったのだ。確かに、いつしか自分は色々なことを忘れていくだろう。何もかもを覚えていられるスノウと違って、自分は元気なだけが取り得のただの小さな子供でしかないのだから。
 けれど、スノウが帰ってきたらこうすればいい。扉を開けて、笑って、今のクラエスと同じ言葉をかけてあげればいい。そうすれば、スノウはきっと笑ってくれる。笑って、こう言ってくれるはずだ。
 セイルはリボンを強く握り締め、にっと笑いかけて、
「ただいま、クラエス!」
 帰還の声を、高らかに響かせた。

 
 その日は、もう、夢は見なかった。
 海のような青い薔薇も、笑う黒髪の少女も、二度と夢に出てくることは無い……けれど、きっとそれでいいのだ。夜中に一度目を覚ましたセイルは、微かな笑みすら浮かべて手の中のリボンの感覚を確かめ、今度こそ深い、深い眠りに落ちていった。

少年と影と守り布

 ――スノウ。
 ブランは、頭の中でスノウに呼びかけてみる。だが、スノウからの返事は無い。
「スノウ」
 今度は、声に出してみるけれど……当然、答えが返ってくるはずもない。
 スノウは行ってしまった。常に頭の中にあったスノウの気配も、完全に消え去ってしまっていた。もしかすると『遠い世界』に旅立っても通じるだろうかと思っていたが、流石にそれは叶わなかったようだ。
 仮面を捨て、いつも通りに気配も無く人波の中を歩いていく彼を、誰も見咎めることは無かった。まさか、堂々と町を行く彼が舞台に上っていたあの悪魔だとは思いもしないだろう。
 ただ、一人だけ。彼の背を追う者がいた。
「ブラン!」
 高い声に、ブランは立ち止まってそちらを見る。人の波に流されそうになりながら、小さな少年が手を振ってこちらに歩み寄ろうとしていた。
 一瞬、逃げてやろうかという思いが頭の中を掠めたが、止めた。そんな意地の悪いことをしてもセイルは困るだろうし、何よりもスノウの意志に反する。今日この日までは、正しくスノウの影であろうとブランは思っていた。
 何とか人の波を抜けてブランの前まで辿り着いたセイルは、肩で息をしながら笑う。
「よかった、まだ、どこかに行ってなかったんだね」
「まあな……スノウは、手の届かないとこに行ったけどな」
 スノウが旅立った瞬間は、ブランも把握している。だが、それ以上のことは、何もわからない。何も。
「アイツの声も、聞こえなくなっちまった」
 ブランは笑うが、それはほんの少しだけ鈍いものになってしまった。もしかすると、これが「寂しい」なのではないか、と自分の胸に問うてみる。だが自分の胸は上手く答えを返してはくれなかった。
 セイルはその言葉に何か思うところがあったのだろう、複雑な面持ちでブランを見上げていたが、やがて自分の役目を思い出したのだろう、ブランに向かって片手を突き出した。
 正確に言うならば、小さな手に握った、緑のリボンを。
「これ、スノウからブランに。お守りだってさ」
「……ああ、わざわざありがとな。けど」
 本当は、お守りなんて、必要ない。
 自分の行く先は決まっている、世界樹や女神に導かれるまでも無い、そう思ってしまうのは自分が女神の意志を嫌う異端故か、それとも全く別の理由か。
 曖昧な笑みを浮かべて指を伸ばすことを躊躇うブランだったが、セイルは片手でブランの手を押さえ、無理やりリボンを握らせる。そして、大きな瞳を見開いて言った。
「嫌がっても渡すからな! スノウは、他でもないアンタの幸せを願ってこれを預けてくれたんだ、大人しく受け取れよ!」
 ――次は、あなたの番。
 ブランの頭の中に、もう聞こえないはずのスノウの声が響く。
 そうだ、いつもスノウはブランを案じていた。自分の方がよっぽど辛いはずなのに、苦しいはずなのに。いつも彼女は他人のことしか考えていなかった。
 そんな彼女が、ここに来て初めて自分自身のわがままを通した。そんな彼女の、もう一つの「わがまま」がこのリボンなのかもしれない。
 ブランは、そっと、壊れやすいものを握るかのように、短い指でリボンを握った。
「わかった。貰っておく」
 言うと、セイルは少しだけむっとした表情でブランを睨んだ。
「これは『預かった』んだ。スノウが帰ってきたら、きちんと返せよ」
 ブランは、それには答えずにリボンをポケットにしまった。随分重たいものを預かってしまったとは思うが、それでも悪い気分ではないのは、確かだった。
 セイルはしばしむくれたままブランを見上げていたが、不意に表情を翳らせて言った。
「ブランも……もう、行くんだ?」
「そうだな。スノウが行ったからには、俺様も行かなきゃだ」
 ただ、その先どうするかは、決めていない。いなかったけれど、セイルにそれを伝えることはしなかった。セイルは不満げに眉を寄せたまま「うー」と小さく唸っていたが、やがてぽつりと、言った。
「また、会えるかな?」
 それは、ブランの想定した問いではなかった。何故、セイルがそんな問いを投げかけてくるのかわからず、ブランは戸惑いながら問いに問いを被せる。
「俺様に?」
「うん。俺、スノウのことは色々聞いたけど、ブランのこと、何も聞けなかったから。本当は、もっとブランとも仲良くなりたかったんだ」
 ――ブランが迷惑だったら、仕方ないけど。
 道端の石を蹴るような仕草をして、セイルは呟いた。そして、当のブランは呆然とセイルを見下ろすことしかできなかった。この胸に突如生まれた不可解な感情を、どう扱っていいかわからなかったのだ。
 けれど、きっと、この感情に名前をつけるとするならば。
「……じゃない」
「え?」
「迷惑じゃねえよ。きっと……これが『嬉しい』かな」
 独り言のように呟いて、ブランはほんの少しだけ笑う。それは、いつもの彼が浮かべている笑みとは全く違う、はにかむような微笑み。驚きの表情を浮かべるセイルに対し、ブランはいつになく穏やかな声で言う。
「ま、気が向いたらまた来るさ。その時には、もっと色んな話してやるよ」
「うん。俺、待ってるから」
 待ってる、か。
 その響きに対してブランがどのような思いを抱くのか、セイルは知らない。いつか知る時が来るかもしれないけれど、それは今ではないと思い定めてセイルに背を向ける。セイルは明るい声を彼の細い背中に投げかける。
「またな、ブラン!」
「ああ……また、な」
 ポケットの中のリボンを指先でもてあそびながら、ブランは笑う。胸の中に生まれた『嬉しい』という感情と、まだ名前の無い痛みを抱えたまま、スノウの影は祭の余韻を厭うかのように、ゆっくりと、町の外に向かって歩いていく。
 その時、雪に混じった青い花びらが一片、彼の目の前を横切り、空の果てに向かって飛び去っていった。

騎士と少年

 小さな足音が響いてきて、ライラは顔を上げた。
 そこには一人の少年がいた。スノウを連れて奥に走っていったあの少年だった。そして、少年が手を握っていたはずのスノウの姿は無く、ライラはそれだけで全てを理解できた気がした。
「――スノウ様は、行かれたのですね」
 その声が酷く落ち着いていたことに、言った自分で驚いた。スノウが「旅立った」となればもう少し動揺するかと思っていたけれど、そうではなかったようだ。
 スノウが己の願いを叶えると、信じていたからかもしれない。
 少年は、ライラの言葉に小さく頷いた。泣いていたのだろうか、その瞳は赤く腫れている。それでいて、少年の表情は妙にさっぱりしたものであった。
「その、スノウを助けてくれて、ありがとうございました」
 少年はぺこりと頭を下げる。ライラは「いいのですよ、それが騎士の務めですからね」と返して、微笑みを見せる。ただ、それが本当に「騎士の務め」であったかどうかは、自分自身にもわからない。
 スノウを襲った男は、まだ側に転がしたままだった。殺してはいないが、すぐに目覚めることもないだろう。この男を神殿に連れ帰るのは、スノウとこの少年がどのような道を選んだのか、それを確かめてからでいい。
 そうして、ライラはこの場に留まり続けていた。
 ライラは、不意に少年が手に握っているものに気づく。それは、ライラがスノウに贈ったお守りのリボンだった。
「それは、どうしたのですか?」
 ライラが聞くと、少年は「預かったんです」と笑った。
「スノウが向こうに行ってる間、俺を守ってくれるように。それで、スノウが帰ってきたら返せるようにって」
「ああ……」
 ライラは思わず笑ってしまった。それはとてもスノウらしい。それに、違う世界に行ったのだとすれば、世界樹の加護は届かない可能性が高い。そう考えれば、スノウの友達になってくれたこの少年の手にあるのも、悪くはないかもしれないと思う。
 今まで、スノウをきちんと守ってくれたのだ。これからもきっと、この少年を守ってくれると信じて。
 そういえば、と。
 ライラは今更ながら少年に問うた。
「今まであなたの名前を聞いていませんでしたね。私はライラ・エルミサイアと申します」
「あ、俺は、セイルっていいます。セイル・ブリーガル」
「セイル、ですか。覚えておきます。スノウ様の大切なお友達ですからね」
 少年、セイルはライラの言葉を聞いてちょっと顔を赤くした。何故セイルがそんな顔をするのかライラにはわからなかったが、神殿の外で初めてスノウが出会った友達のことは、きっとライラも忘れることは無いだろう。
 これから先も、ずっと。例え、スノウが二度と戻ってこなかったとしても。
 戻ってこなかったと、しても。
 そう思うと、自然とライラは少年の名を呼んでいた。
「セイル」
 この少年に聞いても、仕方ないとわかっていても。
 どうしても、聞かずにはいられなかった。
「私は、スノウ様を守れたと思いますか?」
 セイルはきょとんとした表情でライラを見て……それから、ライラの想像に反して力強く頷いた。
「うん、ライラさんのおかげでスノウは夢を叶えられた」
 ――それにさ。
 セイルはにっと笑った。少年らしい、無邪気な笑顔で。
「ライラさんが来てくれて、スノウ、すごく嬉しそうだったもん。きっと、ライラさんに守られてホントに安心したんだよ」
 ライラは、セイルの言葉にはっとして……「ああ」と声を出していた。
 自分は、きちんと守れていた。守れていたのだ。あの時だけは、スノウの身だけでなく、心も守り通せたのだ。一番守るべきものを、見失わずにいられたのだ。
 ライラは笑う。心の奥に響く微かな痛みにも似た思いを抱きしめて、一番大切なことを教えてくれた少年に笑いかける。
「……ありがとう、セイル」
「え?」
「スノウ様は、あなたのような人に出会えて、幸せですね。きっと、これからも」
 スノウは、この優しい少年がくれた思い出を支えに、前に進んでいくだろう。背筋を伸ばし、黒髪を揺らして歩いていく背中を思い描き、ライラはぎゅっと手にした槍を握り締めた。
 この胸に生まれたのは、小さな寂しさと温もり。
 そして……「本当によかったのか」という、小さな疑問。
 自分の為したことは、スノウの心を守れていたのかもしれない。けれど、「自分」はこれでよかったのだろうか。全ては騎士として、ライラ自身として、正しい選択だったのだろうか。
 いくつか言葉を交わし、外に向かって駆け出していくスノウの友人の背中を見据えながら、ライラは闇の中で一人、胸をそっと押さえた。

少年と少女と海

 ――海。
 セイルは、スノウの手を握ったまま、呟いた。
 ――海だ。
 それは、まさしく海だった。
 石の壁と柱に囲まれた広い円形の空間に咲き乱れる、青い薔薇。それが、何処からともなく吹く清々しい風に揺れて波立っていた。天井を見上げれば半球を描く硝子の天井から、雲の間から見えるつかの間の光が降り注いでいる。
 胸の鼓動が高まる。夢に見た風景をそのまま再現したような青い薔薇の海が、二人の眼前に広がっていた。
 銀色のアゲハ蝶は、ひらひらと薔薇の花畑の真ん中に向かって飛んで行き……一瞬前までは気づかなかったぼんやりとした人影が、その蝶を指先にとまらせた。それはまるで、セイルがスノウに出会ったその瞬間を繰り返すかのように。
「ようこそ、青色薔薇の庭へ」
 声が、風に乗って響き渡る。男のような、女のような。老人のような、子供のような。どのようにも聞こえて、どのようにも聞こえない、不思議な声。スノウはふらりと足を前に踏み出し、セイルもつられるように人影に近づく。
 青い花は薔薇によく似た姿だが、棘は無いようだった。ただ優しく、瑞々しい質感をもって歩く二人の足を包み込んでいる。
 ゆっくりと近づくにつれて、人影がはっきりと輪郭を帯びてセイルの目に見えてきた。
 それは、セイルの知らない若い男だった。ブランより若いくらいだろうか。足元にまで届きそうな純白の髪を垂らし、子供のようにきらきらと輝く黒い双眸でこちらを見据えている。纏っている服は粗末なものだったが、人形のように整った顔をしているからだろうか、みすぼらしくは見えなかった。
 スノウは、ぎゅっとセイルの手を握った。セイルがスノウの横顔を見ると、先ほどまでの恐怖や不安に押しつぶされそうだった表情とは違う、毅然とした表情に戻っていた。
「あなたが、魔王イリヤ?」
 スノウの問いかけに、男は優しげな微笑みを浮かべて頷いた。
 だが、魔王イリヤは数百年前に聖女ライラに滅ぼされたはずだ。生きているなんておかしい。そんなセイルの思いを汲み取ったのか、イリヤはそっと蝶を宙に飛ばして言った。
「もちろん、僕の肉体はとっくに滅んでいるよ。かつてイリヤと呼ばれた意識だけが、幻を伴ってここにいる。何の力も無い、幽霊のようなものさ」
 今の僕に出来ることは、この蝶の瞳で町の人たちの笑顔を見ることと、君のような願いを持つ人を、見つけることだけ。
 イリヤの言葉に応えるように、ふわりと空に向かって舞い上がった蝶は、スノウの肩にそっととまった。
「そう、僕は君を待っていたんだ、雪の少女」
「雪の、少女?」
 スノウはきょとんとした。何故「雪」と呼ばれたのかわからなかったのだろう。当然、スノウにわからないことをセイルがわかるはずもない。すると、イリヤはくすくす笑って空を仰ぐ。
 見れば、硝子張りのはずの空から、ちらちらと白いものが舞い降りてくるところだった。初雪だ、とセイルは思う。この冬になって初めての雪を、スノウも目を丸くして見つめている。
「スノウ、君の名は遠い世界の言葉で『雪』を意味するんだ。雪のような白い肌、黒檀の髪に血色の唇、まさに白雪姫だね」
 しらゆきひめ、という言葉も聞きなれない。それは『知恵の姫巫女』たるスノウも同様なのだろう、不思議そうに首を傾げながら問いかける。
「あなたは、遠い世界を知っているの? ここではない、他の世界を」
「知っているさ。そして、君は僕が知っていると信じてここまで来た。そうだね?」
 イリヤの問いに、スノウは「そう」と答えた。
 そして、背筋を伸ばし、イリヤの瞳を見据えて言葉を紡ぐ。
「わたし、この世界の外に行きたい。この世界じゃ叶わない夢を、叶えに行くの」
 もう、スノウの言葉に迷いなどなかった。両足で薔薇の花畑の上に立ち、薔薇の海よりもなお深い青の瞳で、イリヤを見据えている。そして、それに応えるように、イリヤは深く頷いて……ぱん、と手を叩いた。
 刹那、イリヤの背後で花が姿を変える。青い光と変わった花は、やがて透き通った一枚の扉を形作る。夢の中で見た青い水晶の扉に、イリヤはそっと触れてみせる。
「扉は、そもそも誰のものでもないんだ。僕に頼むまでもなく、君が望みさえすれば扉は君を迎えてくれる」
 けれど、と。
 イリヤは目を細めて、スノウを見た。何処までも優しそうだった表情が一転、零下に変わった気がした。スノウはびくりとしながらも、イリヤを見据える瞳の強さを緩めたりはしない。
「この扉は、一方通行なんだ」
 イリヤの言葉は静かだったが、確かな力があった。
 一方通行――それは、行ったら戻れない、ということ。
 指切りをした、小指が疼く。戻ってこられないのだとすれば、交わした約束だって無意味になってしまう。ざわり、と胸が騒ぎ、そんなセイルの心を映し出したかのように青い薔薇も不穏に揺らぐ。
 セイルは、耐え切れなくなってスノウを見上げた。スノウは、セイルに視線を落として……笑った。どうして笑っているのだろう、とセイルが思った瞬間、スノウはきっぱりと言い切った。
「そんなこと、ないよ」
 イリヤは虚を突かれたように目を見開く。スノウは微笑みを浮かべたまま、声を張り上げる。
「だって、イリヤは今もここにいる。この世界のものじゃない、青い薔薇だって咲いてる。だからきっとあるはずだよ、『この世界に戻る扉』も!」
 セイルもまた、イリヤと同じように目を丸くしてスノウを見つめることしか出来なかった。ただ一人、スノウだけが澄み切った瞳で微笑んでいる。
 少しの沈黙が流れて、
「……ははっ」
 イリヤが、笑った。心底、楽しそうに。
「いや、悪かった。その通りだよ、スノウ。確かに戻る扉も存在する。けれど、その扉の位置は時によって変わる……本当に戻れるかどうかは定かじゃないんだ。それでも、行くのかい?」
 イリヤは試すようにスノウに意地悪く笑いかける。けれど、セイルは今度こそスノウの答えをありありと想像することが出来た。セイルがぎゅっとスノウの手を握ると、スノウもその手を握り返して、はっきりと言った。
「あるってわかってるものを、見つけられない道理は無いよ。わたしは、そう信じてる」
 ――いい答えだ。
 イリヤは言った。
 もう、イリヤの瞳からは冷たい色はすっかり抜け落ちていて、元の優しい笑顔に戻っていた。そして、そっと……扉を押した。それだけで音も無く扉が開く。
 扉の向こうには、青い波だけがあった。足元に揺れる薔薇と同じ色が、扉いっぱいにたゆたっている。海をそのまま四角い箱に閉じ込めたような、不思議な空間だ。
「その言葉を忘れないことだよ、白雪姫。心に満ちた希望は、先の見えない闇の中でも君をきっと導いてくれる」
 イリヤは穏やかな表情でスノウに向かって手を差し伸べた。
「さあ、おいで。はじめの一歩は、僕が導いてあげよう」
 スノウの震えが指先から伝わってくる。その青色の瞳に、微かな迷いが生まれたのがセイルにもわかった。けれど、それを振り切るように首を振って、セイルに向き直った。
「セイル……わたし、行くね」
 本当は。
 本当は、引き止めたいのだ。
 スノウの話を聞いた時だってそうだ。本当はそんな辛い思いをしなくても、一緒にいればいいじゃないかと叫びたかったが、それでは駄目だ。スノウを引き止めることは誰にだって出来る、だが、スノウの背を今この瞬間に押せるのは、自分だけなのだ。
 だから――
「うん」
 セイルは、胸を締め付ける寂しさを隠して、笑顔を浮かべる。スノウの笑顔も、ちょっとだけ歪んでいるように見えた。
「あ、そうだ」
 スノウはそっとセイルの手を離し、己の首に巻いたマフラーを解きかけた。
「これ、返さなきゃ……」
「いいよ、持っていって。向こうが寒かったら、困るじゃん」
 セイルはそのマフラーの端を掴んで、言った。お気に入りのマフラーだったけれど、スノウと一緒に連れて行ってもらえるならば、悪くない。
「戻ってきたら、返してよ。それでいいからさ、な?」
「ありがと、セイル」
 スノウはぎゅっとマフラーを握り締めて、微笑みを浮かべて目を伏せた。今にも、その表情は泣き出しそうに見えた。けれど、スノウは涙を溜めた目でセイルを真っ直ぐに見つめる。
「それじゃあ、代わりに、ってわけじゃないけど」
 スノウは手を首の後ろに持っていくと、髪を纏めていたリボンを一つ解いた。リボンを解くと、雪と青い花びらを混じらせた風に、長い黒髪が鮮やかなコントラストを描いて靡く。
 呆けたようにその様子を見ていたセイルの手に、スノウはリボンを握らせる。
「これは、わたしを今まで守ってくれたお守りなの。わたしが向こうに行っている間、セイルを守ってくれるように」
「そんな、大切なもの……受け取れないよ」
 セイルはスノウにリボンを返そうとしたが、スノウは小さく首を横に振る。
「わたしが帰ってくるまでは、持ってて。その時まで無事でいてほしいから」
 そうだ。セイルもまた、一つの約束をしている。スノウが帰ってくるまで、絶対に待ち続けるという約束だ。そして、その時が来たら、笑顔でスノウを迎えなくてはならない。だから、セイルは深く頷いた。
「わかった。これ、預かっておくから」
「ありがと。あと、もう一つだけ」
 今度は、もう一つのリボンを解いて、セイルの手に握らせた。
「これを、ブランに」
「ブランに?」
「あの人にも、きっとお守りが必要だから」
 ――あの人は、嫌がるかもしれないけれど。
 スノウはちょっとだけいたずらっぽく笑った。つられて、セイルも笑う。二つのリボンを強く、強く握ったセイルは「必ず、渡すよ」と言った。再びあの男に会えるかどうかはわからなかったけれど、きっと会えるという確信を抱いて。
 風に黒髪を揺らし、スノウは一歩、下がる。セイルもまた、一歩下がった。
 青い薔薇の花びらが舞う中で、二人は見つめ合う。微笑みを浮かべたまま。
 小指の約束がある限り、首に巻いたマフラーと握り締めた緑のリボンがある限り、いつかまた巡り会える。
 だから、今は、笑顔で。
 スノウはセイルに背を向けて、イリヤの手を取った。幻であるはずのイリヤの手は、スノウの指先をしっかりと掴んでいるようにセイルには見えた。イリヤは眩しいものを見るかのように目を細め、スノウに語りかける。
「君の選んだ道は険しいよ。決して、楽な旅じゃない」
「覚悟の上だよ」
 スノウはしっかりと頷いた。「よろしい」とイリヤは頷きを返して……ゆっくりと、歌い始める。
「漕ぎ出そう、逆風に抗い、嵐を越えて」
 イリヤの言葉は、風を呼ぶ。雪が、花が、スノウを祝福するかのように舞い踊る。その中で、高らかに歌いながらイリヤはスノウの手を引いた。
「さあ、船出だ、スノウ」
 扉が、光を放つ。青い、青い、海のような光。
 その光に飲み込まれていきながら、スノウはセイルを振り返った。その瞳からは涙を零し、しかし確かに彼女は、明るく笑っていた。
「行ってきます、セイル!」
 光の中で手を振る彼女に、セイルも手を振り返す。何処までも晴れやかな笑顔で。
 だって、これは悲しい別れなんかじゃない。もう一度二人が出会うための「始まり」なのだから!
「行ってらっしゃい――スノウ!」
 セイルの視界を青く染め上げた光が消えた時、セイルは青い薔薇の庭に一人、立ち尽くしていた。
 扉も、イリヤも、スノウの姿も無く、ただセイル一人だけが波立つ薔薇の海の上にぽつりと取り残されていた。何もかもが幻のよう、それこそセイルがずっと夢見続けていた、青い薔薇の夢のように。
 だが、それが夢でなかった証拠に、セイルの手の中には二つのリボンがあった。スノウから預かった、お守りのリボン。いつかスノウに返すためのもの。
「スノウ……」
 セイルは、リボンを握り締めたまま、空を見上げる。滲む世界の中を舞い降りてくるのは、遠い世界で彼女と同じ名前なのだという、純白の雪。
 セイルの声は、スノウに届いていただろうか。
 きっと、届いていたと、信じている。
 セイルは、リボンを持たない手で、そっと頬に触れる。指先に触れる冷たい感覚に、初めて自分が泣いていたことに気づいた。気づいた途端、ぼろぼろと涙が零れて、セイルは青い花びらを散らして膝をつく。
 悲しいのか、寂しいのか、それとも嬉しいのか。
 それすらもわからずに、セイルは声を上げて泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。体中の水分が出尽くすほどに泣いた。
 どのくらい、そうしていただろう。
 一陣の風がセイルの背を押した。「泣いている場合か」と叱咤するように駆け抜けた風は、セイルの周りに咲く青い薔薇の花弁を散らし、雪を降らせる空に向かって舞い上げる。
 その様子を見届けたセイルは、涙を拭いて、前を見据える。
 緑のリボンを手に、両足でしっかりと地面を踏みしめて、セイルはスノウが旅立った海に背を向けて歩き出した。

少女と少年と闇の向こう

 城の中は、ブランから聞いていたとおり荒れ放題だった。
 窓から差し込む光以外に光源などなく、奥に進めば闇が世界を満たしている。セイルとスノウは各々の魔法で明かりを灯して、手探りで前に進む。初めは舞台から聞こえてくる楽団の演奏や人の声が聞こえていたけれど、それももう、聞こえない。
「ブラン、大丈夫なのかな」
 セイルが、背後を振り返ってぽつりと呟く。スノウは、小さく頷いてみせた。ブランが無事に役目を果たしたことは、スノウに伝わっている。後は自分が青い薔薇を見つけるだけ。
 けれど、それが何処にあるのかはわからない。人が立ち入ることの出来ない城の奥であることだけはわかっているけれど。
 城の中に入ってしまえば、見つけられると思っていた。何故か、そう思い込んでしまっていた。けれど、流石に魔王イリヤを守っていた城だけはある。その構造は複雑で、それでなくとも広い。自分が何処を歩いているのかも、よくわからないのだ。
 自然と、セイルの手を握る力が、強くなる。そして、セイルの手の温かさと握り返してくる指先を感じて、少しだけ心の中に満ちていた不安が和らぐ。
 もし、もしも、だ。
 一人きりでこの場に足を踏み入れたとしたら、自分は既に足を止めてしまっていたかもしれない。闇の中、不安に負けて、青い薔薇を探すことを諦めていたかもしれない。
 けれど、今はこの手を握っていてくれる人がいる。それだけで心に勇気が沸く。大丈夫、と思うことが出来るのだ。
 この手の温もりが、反面、スノウの心を引き止めてしまいかねないものであることも、否定は出来なかったけれど。
 その時。
「……うわっ!」
 セイルが突然、スノウの手を引いたまま盛大に転んだ。スノウもつられて膝をついてしまう。
「だ、大丈夫、セイル」
「いたた、何か踏んだみたい」
 セイルが、指先に灯していた光を足元に向ける。そこには、何かうっすらと白いものがばらばらと散らばっていた。
 ――骨。
 自分とは違う誰かの記憶が頭の中に閃き、頭が鈍く痛む。これは何かの骨だ。誰かの、骨だ。セイルがひゅっと、息を飲んだのがスノウにも伝わった。そうと気づいてしまうと、にわかに恐ろしくなってくる。魔王イリヤは人殺しを好まなかったという。だが、イリヤが行使する『悪魔』たちが楽園に破壊と混沌をもたらした、その事実は事実としてそこにあって……
「す、スノウ、怖くない?」
 セイルの声が、少しだけ震えている。「怖くないよ」と答えてみせる自分もまた、少しだけ震えていた。
 怖くないなんて、嘘だ。本当は、とても怖い。この闇が、静寂が、自分を押しつぶしてここに転がる骨のようにしてしまうのではないかという嫌な想像が、頭の中を駆け巡る。
 それでも、退くわけにはいかない。やっとここまで辿り着いたのだ、せめて、自分が目指すものが存在するのか、しないのか。それだけでも、確かめなければならない。
「立てる?」
「うん、平気。ちょっと擦り剥いたくらい」
 セイルは勢いよく立ち上がる。その膝は少しだけ擦り剥け血が滲んでいたが、セイルは「このくらい、何ともないよ」と笑った。早く先に進もうというセイルの言葉に従って、二人はゆっくりと、先ほどよりも慎重になって歩いていく。
 かつ、かつ、かつ。
 二人分の足音が、響き渡る。
 今、何時だろう。こんな闇の中では時間の感覚も狂ってしまう。すると、遠く離れたブランが正確な時間を教えてくれて、思ったよりも時間が経っていないのだ、ということに驚く。
 じりじりとする気持ち、恐怖に潰されそうな心。自然と呼吸が速くなり、胸の苦しみを思い出す。
「スノウ?」
 セイルが、スノウの異変に気づいたのか、不安げな声を立てる。スノウは深呼吸を一つして、正しい呼吸を取り戻す。焦ることは無い、それはわかっているけれど――
 その時、視界に銀色が閃いた。
 スノウは息を飲んで視線をやる。銀の蝶……イリヤが、呼んでいる。心が求めるまま、スノウは蝶のいる方向に駆け出した。セイルの手を離してしまったことにも気づかぬままに。
 ――待って。わたしを、連れて行って。
 声にならない声で喘ぎながら蝶に手を伸ばそうとして、刹那、その腕が何者かに強く掴まれた。走る痛み、引き寄せられる体。
「見つけたぞ、『知恵の姫巫女』」
 耳元で囁かれる熱い吐息交じりの声は、スノウの知らないものだった。首に腕が回され、呼吸もままならない。ただ、焦るブランの意識が伝わってきて、これが自分を追っていた『エメス』の残党だということだけは、わかった。
 何のために、自分を探していたのか? 簡単だ。『知恵の姫巫女』は楽園の秘密を記憶する存在だ。その彼女を手中に収めれば、神殿に対して圧力をかけることなどわけも無いこと。
 そのくらいは、スノウにだってわかっていた。だからこそ、自分は神殿から外に出ることを許されていなかった。今まではそれでもいいと、思い極めてすらいた。
 けれど、けれど――!
 スノウは、足を大きく後ろに振って、自分を拘束する男の脛を強く蹴り飛ばした。スノウが抵抗するとは思わなかったのか、男は「ぎゃっ」と叫んでスノウを抱く手を緩めた。スノウはそのまま男の手をすり抜けて、駆け出そうとする。
 だが、男はすぐにまたスノウを捕らえようと動き出す。もう一度捕まってしまえば、今度こそ逃げられない……唇を噛んだ瞬間、横からセイルが男に体当たりを仕掛けた。
「スノウ、逃げて!」
「邪魔だ、ガキがっ!」
 男は軽々とセイルの体を受け止めて、そのまま投げ飛ばした。セイルの小さな体が、壁にぶつかってずるずると崩れ落ちる。
「セイル!」
 スノウは悲鳴を上げた。セイルは致命傷こそ負っていないようだが、激しく咳き込んでその場からすぐには立ち上がれずにいる。そして、男はセイルには構わず真っ直ぐにスノウに向かって手を伸ばしてくる……
 スノウは、男の血走った瞳を見据えながら、「ああ」と喘ぐ。
 こんな結末を迎えるくらいならば、神殿を出なければよかった。そうすれば、ブランに罪を着せることなく、ライラを悩ませることもなく、セイルをこんな目に合わせることだって、無かったはずだ。
 自分一人のわがままが、最悪の事態を招こうとしている。それなのに、自分は恐怖で立ち尽くすことしか、出来ない。出来ないのだ……!
 その時。
 銀光が閃いた。イリヤの蝶が放つ頼りない光とはまた違う、鋭い銀の閃光が、スノウの瞳に焼きつく。
 男が大げさな悲鳴を上げる。見れば、スノウに迫っていた男の肩口から、血が噴き出していた。そして、闇の中でありながら眩く輝くそれが何であるのか、スノウにもやっと理解できた。
 それは――槍、だった。
 女神の祝福を受けた、聖別の槍。女神ユーリスに仕える者のみが持つことを許される、闇を払う武器だ。
 そして、それを持つ者の姿が闇の中に浮かび上がる。太陽の光を束ねたような金色の髪を薔薇飾りで結い上げた騎士は、飴色の瞳を鋭く吊り上げ背筋を伸ばして立っている。
 それこそ絵本で見た聖女のように、凛として、気高く。
「ライラ!」
「行け!」
 ライラの声は、闇の中に響く鐘の音。
「私はあなたの笑う未来が見たい! だから、行け、スノウ!」
 ライラ……!
 スノウは、目の中に涙が溜まるのを感じていた。寂しい、けれど、嬉しい。そんな不思議な気分が胸いっぱいに広がって、胸を締め付ける。
 そんなスノウの手を、いつの間にか立ち上がっていたセイルが強く引いた。
「スノウ!」
 スノウは涙を拭いた。ライラが身を張って、自分を守ってくれている。ならば、自分はライラの言うとおり、未来に向かって走り続けよう。それが、今の自分がライラに対して出来る、唯一のことだ。
 一瞬だけライラを振り返り、お互いに頷き合って。
 今度こそ、スノウは駆け出した。背後に響くのは、男の咆哮と槍が風を切る音色。けれど、もう振り返らない。
 そんなスノウの目の前に、ふわりと銀色の光が生まれる。銀色のアゲハ蝶は、闇の奥に向かって飛んでいく。ふわふわと頼りなさげに、しかし確かに。二人はその蝶を追うように走る。
 息が切れる、足が震える。不安や恐怖に押しつぶされそうな心が、体にも影響を及ぼしているように思える、それほどに苦しい。それでもスノウは足を前に進める。前へ、前へ。その先に、自分の未来があると信じて。
「導いて、イリヤ……あなたの元に!」
 その瞬間、視界が光に満たされた。
 目を焼くほどの強い光に、思わず目を手で庇う。手を握ったままのセイルも「うわっ」と声を上げた。やがて目が光に慣れてきたのを感じて、ゆっくりと目を開けて……
 スノウは、見た。
 光に満ちた世界の、一面の、青を。

影と騎士の舞台

 無造作に槍を突き出してみるが、流石に槍に関しては達人のライラはそれをあっさりとかわし距離をとる。
 観客たちのライラを応援する声が、ブランには心地よく響く。学生の頃、同じように舞台に立っていた時のことを思い出す。あの頃は自分自身が楽しむというよりは、周りを楽しませるために駆け回ってばかりいたような気もするが。それは、今もあまり変わっていないのかもしれない。
 ――しかし、あの少年には助けられたな。
 ブランは仮面の下で小さく安堵の息を付く。ちらりと楽団に視線を走らせれば、静寂の中で一人ファンファーレを吹き鳴らしてみせた猫人の少年が、舞台の奥に消えていくセイルたちに笑顔で手を振っていた。
 それを見届けて、ブランは改めて槍を構える。
 舞台の作り物でしかない槍だが、組成の通りに魔力を通せば十分ライラの聖槍と打ち合える。もちろん本気でやり合うならば負けるだろうが、今は別に「戦う」ことが目的ではない。
「どうよ、俺様、演技派でしょ?」
 ブランは悪魔の演技を捨て、いつもの調子でライラに笑いかけてやる。ライラは「馬鹿か」と吐き捨てるように言いながら踏み込む。だが、それが彼女の本気でないことはブランにもわかった。その切っ先に、初めて戦った時のような殺気は無い。
 ライラもわかっているに違いない。
 これは、全てを終わらせる前の、ちょっとした余興だ、と。
 きん、と槍と槍が打ち合わされ、二人の体がぐっと近づく。本気の勝負ではないが、片や槍の腕ならば神殿でも一、二を争う騎士ライラ、片や独学ではあるが長物の扱いを最も得意とするブラン。遊びであろうとも二人のやり取りが見応えのあるものだということは、観客の盛り上がりからも明らかだ。
 ライラはぐっと眉を寄せて、ブランに向かって囁く。
「……貴様、何処から湧いて出た」
「あそこの窓からよ?」
 と、ブランは槍を打ち合いながら、顔の向きだけでライラに示してみせた。城の二階に当たる部分に開いた窓、そこから舞台の様子を見つめ、劇が佳境に差し掛かろうというタイミングを計って飛び降りたのだ。舞台はちょうど城の真下にあり、二階からでも簡単な魔法の力を借りれば飛び降りることは難しくない。要は、スノウを連れて逃げたやり方だ。
 だが、ライラは「不可解だ」と小声で言う。
「一階ホール以外は封鎖されていたはずだ」
 それはそうだ。一般開放されるホール以外は生真面目な衛兵が守っていて、無理に通れば騒ぎになる。そうすればこんな罪の無い「演技」よりもよっぽど面倒くさいことになる。
 だが。
「こう見えて昔は悪ガキでね。忍び込む場所は心得てんだ」
 ブランからすれば、衛兵が守っている場所など数多くの進入口の一つでしかない。潜り込める場所などいくらでもある。そこを通り抜け、崩れかけた二階の部屋で息を殺していたのだ。
 そして、スノウに示したのも、その一つ。ブランが知っている進入口の中で、唯一、城の奥まで繋がっていると言われている場所だ。ただ、そこはちょうど設営された舞台の裏に隠れてしまっていたために、こんな荒っぽい方法を取ることでセイルとスノウをその奥に導くしかなかった。
 その上、この城は外観こそ昔のままではあるが、中は酷く荒れていて道が瓦礫で塞がっていることも多い。ブラン自身も奥まで繋がっているだろう、という想定をしているだけで、実際に入ってみたことは無い。だから、後はスノウと同じように、自らが導く奇跡を信じるだけだ。
 ――大丈夫。
 スノウの弾んだ声が響いた気がした。ブランもまた、少しだけ微笑みを返して、ライラの繰り出してきた一撃を払いのける。
 その勢いのままに踏み込みながら、言った。
「スノウのこと。後はお願い」
「貴様に頼まれずとも」
 槍を打ち合わせながら、頼もしいな、と笑ってみせたブランだったが、次の瞬間笑みを消した。表情は仮面に隠され、ライラには見えなかっただろう。見えなくてよかったと、思う。
「頼む」
 低く、しかし確かに。
 その呟きは、きっとライラに届いたはずだ。ライラは小さく頷き、大げさに槍を払った。彼は動きに合わせて大きくたたらを踏み、槍をわざと取り落とし、舞台の奥へと飛び降りた。同時にライラはスノウたちが消えていった方向に、飛び降りる。
 響き渡るライラの勝利を讃える音色、そして観客たちの歓声。
 それらを背に、ブランは誰かに見咎められる前に、城の隠された入り口の一つに体を潜り込ませ、そのまま姿を消した。

騎士と悪魔

 少しだけ調子の外れたファンファーレが鳴り響き、舞台上に学生を中心としたきらびやかな服を纏った役者たちが踊り出る。
 ライラは仲間たちと連絡を取るための「意思の石」を握り締め、舞台を見上げる観衆に混ざり、辺りの動きに集中する。
 城の門を潜ったそこには巨大な舞台がしつらえられ、聖女ライラの戦いの軌跡を町の人々が演じる。これがリベルの聖ライラ祭一番の出し物であり、これを見るために大勢の人が詰め掛ける。また、普段は閉ざされている城の扉も大きく開かれ、そこにも人が吸い込まれるように入っていくのが見て取れた。
 そして……きっと、スノウもここにやってくるだろう。
 ライラは思いながら、油断無く視線を走らせる。スノウの言葉を信じるなら、彼女の目的はこの城の、更に奥深く。
 今や、ライラは積極的にスノウを連れて帰るつもりはない。ただ、スノウの身を案じるならば、この場所で彼女を待つ必要がある。この人ごみに紛れて『エメス』の残党が彼女の身を狙う可能性も、否定できないのだ。
『異常ありません』
 「意思の石」が、隊員の言葉を伝える。ライラも「こちらも異常ありません、引き続き監視をお願いします」と返して、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
 ギーゼルヘーアにはスノウの無事を報告したけれど、隊員たちにはスノウと会ったことは伝えていない。隊員たちにそれを伝えれば、スノウを連れて帰るべき、という意見で一致するだろう。自分たちはそのためにこの町に来ているのだから。
 本来ならば、そうするべきなのだ。
 自分は、一体何のためにここにいるのだろうか……スノウを神殿に帰すことも出来ず、だからといってスノウに協力することも出来ず。中途半端な心のまま、この場に立ち尽くしている。
 舞台の上では、聖女ライラを演じる女性が朗々と口上を述べている。楽園を恐怖に陥れた悪魔たち、それを率いる魔王イリヤを許すことは出来ない。この手の聖槍にかけ、楽園を守り通す――ライラは思わず右手の手甲を見つめてしまった。
 自分が槍を手にしたのは、どのような理由だったか。
 初めは「望まれたから」。エルミサイアは由緒正しき貴族であり、騎士の家系だ。親が、兄弟がそうであったように、自分も神殿に仕える騎士として育てられた。それが当然だったのだ。
 女神ユーリスを守り、楽園を混沌に導く者を排除する。その役割を命続く限り全うする、それがライラの全てだった。
 だが、スノウと出会って、少しだけそれが変わった。
 スノウは、神殿から一歩も出たことが無い。拾われた時から『知恵の姫巫女』になることを定められ、そうなるべく育てられた。だが、彼女の心は自由だった。自分はいつしかそんなスノウに憧れ、せめて彼女を守りたいと思うようになった。
 スノウが正式に『知恵の姫巫女』となってから、そしてスノウの命が残り僅かだと知らされてからは、尚更。
 ただ……自分が本当に守りたかったのは、何だっただろうか。
 スノウの身を守りたかったのだろうか?
 違う、自分が守りたかったのは。
 その時、わっと観衆が沸いて、ライラは現実に引き戻される。だが、その声はただの歓声ではなかった。何となくただならぬ雰囲気を感じて舞台を見れば、ちょうど何かが舞台の上に落ちてこようとするところだった。
 それは――黒尽くめの、人、だった。
 異形の仮面を被り、漆黒の服の上に黒い布を纏っている。それを翼のように広げて舞台に舞い降りる姿は、まさしく小さな頃絵本で見た、魔王が従えていた異形の獣、『悪魔』のよう。
 ばん、と足元の板を鳴らし、悪魔は舞台の上に降り立った。魔法で守られていたのだろう、怪我をした様子もなくゆらりと長い体を揺らして立ち上がる。
 観客たちは突然の「演出」に沸いたが、舞台に上っている役者たちは、驚愕の面持ちで漆黒の影を見つめていた。演奏をしていた楽団の指揮者は指揮棒を下ろして呆然とし、楽団はどうしていいかわからないとお互いの顔を見合わせている。
 演出などではない。
 ライラは即座に理解した。これは、劇の台本とは違う……ライラが想像だにできなかった、大胆すぎる「奴」の台本だ。
 悪魔は仮面の下から、老人のようにしゃがれた、しかしその場にいる全員にはっきりと届く声を立てる。
「ああ、今日はなんていい日だろう?」
 ぐるうり、と聖女ライラを演じる少女に顔を向ける悪魔。少女は「ひっ」と息を飲み、手にしていた小道具の槍を取り落とした。それはそうだ、台本には無い奇妙な、それこそ悪魔のような男が突然現れたのだ、恐れないはずはない。
 そして、観客たちも異常に気づいてざわつき始める。衛兵が舞台に向かって駆け出し、また騎士たちも動き出してしまう。
『間違いありません、スノウ様を攫った賊です!』
 「意思の石」から聞こえるのは、動揺する騎士たちの言葉。そして、そのうち一人が舞台の上に駆け上がってしまえば、もはやライラに止められるはずもない。舞台の上に集う衛兵と騎士が、男を取り囲む。これでは、もはや劇どころではない……
 ――これが、あの男の計画なのか?
 観客たちの不安そうなざわめきが増していく。ライラも舞台に向けて駆け出しかけたが、そこで気づいた。楽団の座る席の足元に、スノウと少年の姿が見えたのだ。二人は不安げな面持ちで舞台を見つめていたが、やがて少年がぱっと顔を上げて楽団を見据えた。
 その瞬間、凍っていた時間が、唐突に鳴り響いたファンファーレによって動き出す。
 ライラがはっとしてそちらを見れば、楽団のちょうど端の席に座っていた喇叭を持った猫人の少年……スノウを匿っていた寮にいた少年だ……が、一人だけ立ち上がってファンファーレを奏でている。それにつられるようにして、迷っていた楽団の生徒たちも各々の楽器を鳴らし始める。
 音色が、少しずつ、少しずつ広がっていき、やがて指揮者が指揮棒を勢いよく振り上げた。
 高らかに響く、『聖女ライラの騎行』。
 その音色に背を押されるように、悪魔の扮装をした男に向かって、騎士と衛兵が鬨の声をあげ、各々の武器を振り上げて果敢に飛び掛った。すると、悪魔はまるで風に乗るかのように高く飛び上がり、傷一つ受けることなく前に飛び出す。
 銀色の槍を拾い上げた黒い男は笑う。笑いながら、大きく手を広げて言った。
「その程度か、楽園の勇者ども。さあ、我こそはという猛者はいないのか? この舞台の真の主役は誰だ!」
 観客の歓声、舞台に詰め掛ける「猛者」たち。広い舞台は人でいっぱいになり、騎士や衛兵の姿は人の中に紛れてしまう。それでも確かな存在感で舞台に立ち続ける悪魔は、不意に楽団の足元……スノウたちに顔を向けて、強く槍で床を突いた。
 それが、合図だったのだろう。
 スノウたちが舞台の上に駆け上ったのが、見えた。
 それを見たライラも、同時に動いていた。
 何が出来るかもわからない、わからないけれど、ここで立ち止まっていたら二度とスノウには会えなくなる。自分が何故ここにいるのかも、わからないまま終わってしまう!
 ライラは手甲から聖別の槍を引き抜き、舞台に躍り上がる。槍を手にした女騎士の姿は誰の目にも鮮やかに映ったのだろう、聖女ライラだ、という声が上がるのをライラの耳は捉えていた。
 何という皮肉だろう。ライラは微かに眉を寄せる。
 こんな中途半端な自分は、聖女とは程遠い。きっとそれは、スノウのように前を見据え続ける存在に与えられる称号だ。
 ――そうだろう、悪魔?
 ライラが舞台に上った瞬間、悪魔に襲い掛かっていた人々がライラのために道を開けた。その向こうに立つ仮面のブランは、ライラに顔を向けて笑っている。仮面の下の顔は見えないけれど、「笑っている」ことはわかった。
 そして、ライラは槍を構える。舞台の奥に消えていくスノウが、一瞬こちらを見たような気がした。それを追おうとする彼女の前に、ブランが立ちはだかる。
「少しくらい付き合ってくれよ、聖女様」
 ブランは作り物の槍を構える。普段は銃を操る彼だが、槍を構えるその姿は正統のものだ。緊張を指先まで行き渡らせるライラに対し、ブランはいつもどおりにへらへらと笑いながら、
「ま、楽しく踊りましょ、お祭なんだから、さ!」
 言葉通り、踊るような動きで一歩を踏み込んできた。

少年と少女と聖ライラの日

 セイルは目覚めてすぐにカーテンを開け放った。
 空は久々に曇に覆われていて、外を吹く風は冷たそうだ。しかし、眼下の熱気には目を見張るものがあった。寮の前の道も既に何処から湧いたのかもわからない人に埋め尽くされていて、奇妙な仮面が道いっぱいに咲いている。
 その仮面を被った一団は、魔王イリヤが操ったと言う巨人の張りぼてを担いで、町中を練り歩くと聞いている。
 今日は聖ライラの日。
 聖ライラ祭の最終日である、聖女ライラが魔王イリヤを倒したとされる日。
 そして――スノウが旅立つ、日。
 今日も、セイルは青い薔薇の夢を見た。その中に立つ少女、スノウの姿を見た。スノウは何かを伝えようとしていたみたいだったが……何を伝えようとしていたのかは、思い出せない。少しだけ悔しかったが、夢よりも今は現実だ。自分は、スノウを青い薔薇の咲く場所まで連れて行かなくてはならない。
「よっし!」
 頬を叩き、気合を入れて。セイルは部屋を飛び出した。
 既にスノウは起きていて、リムリカと一緒に朝食の準備をしていた。セイルはリムリカに「今日でスノウは神殿に帰る」と嘘をつき、リムリカはその嘘を信じている様子で「今日でお別れかい、寂しいねえ」とスノウに語りかけていた。
 スノウは小さく頷いて、階段を下りてくるセイルに気づいたのか、顔を上げた。
 青い瞳が、柔らかく笑みの形になった。
「おはよ、セイル」
「おはよう、スノウ、リムリカさん」
 今日も三人の朝食だ。クラエスは、楽団の仲間と共に既に城址へ向かっているらしい。それを聞いて、セイルもクラエスの所属する楽団が、城址で上演される劇の舞台演奏を担当することを思い出した。ここ数日スノウのことばかり考えていて、今の今までそのことをすっかり忘れていたのだった。
 スノウと一緒に城址に行けばクラエスの演奏も聞けるだろうか。それとも、そんな余裕も無いだろうか……そんなことを考えながら、朝食を済ませて外に出る準備をする。スノウはほとんど荷物を持たず、その代わりにセイルから借りているマフラーをそっと首に巻き直した。返そうとするスノウに、「今日は寒いから」とセイルが無理やり巻かせたのだ。
 そして二人は寮を出た。
 窓の外から見たとおり、風は昨日よりもずっと冷たい。スノウが空を見上げて、小さく呟いた。
「晴れてないのが、残念だね」
「スノウは、晴れてる方が好き?」
「うん。空の青は、幸せの色だもの。きっと、魔王イリヤも、聖女ライラも空の色に憧れたのね」
 何処か夢見るように微笑んで「あなたに、幸せの色が咲きますように」と呟くスノウ。幸せの色が咲く、というのは青い薔薇が咲くことなのだ、とセイルはやっとのことで思い至った。
 それは、スノウが何よりも求めるもの。魔王イリヤが咲かせた薔薇は、スノウにとっては本当の、幸せの色をしているのだ。
 セイルは小さく頷いて、そっとスノウの手を握った。
「行こう」
「うん」
 スノウも頷いて、手を握り返した。セイルとスノウはお互いの顔を見合わせて、微笑んで頷きあう。
 呼吸を合わせ、いち、にの、さんで二人は駆け出した。
 通りに咲き乱れる青い薔薇の飾りに見守られ、二人が目指すのは聳え立つ黒き城、魔王イリヤの夢の址。
 ――青色薔薇の咲く庭へ。

少女と少年と影と騎士

 光が咲き、音が鳴る。
 スノウは、セイルの手を繋いで祭の喧騒の中にいた。町中に飾られた青い薔薇の飾りは、花火の光に照らされ燃え立つよう。
 もう、胸の苦しみは消えていた。セイルと約束をしてから、ライラと話をしてから、体も心も驚くように軽い。今まで胸の奥に燻っていた思いをきちんと吐き出せたからかもしれない。
 未練はたくさんある。ありすぎるほどに。
 だからこそ、スノウは前に進むことを選ぶ。小指の約束を、闇の中を行くための灯火にして。
 ただ、一つだけ。
 一つだけ、旅立つ前にしなくてはならないことがある。
 スノウは人ごみの中に目を凝らす。仮面をつけた人々が、笑いあいながら道を行く。その奥に、スノウの知る姿があった。
「あ……あれ、ブラン?」
 セイルもスノウが見つめる相手に気づいたのだろう、声を上げた。確かにそこにはブランがいた。ブランは、スノウとセイルがいることを確認すると、被った妙な顔の仮面を頭の上に押し上げて手を振った。ブランがそこにいることは、はじめからわかっていた。そして、ブランの横にライラの姿があることも。
「スノウ様?」
 驚きと共に、ライラがスノウの名を呼ぶ。やはり、ライラは騎士としての態度を崩してはくれないのか、とスノウは少しだけ切なくなる。だがそれはそれでライラらしいとも思う。ライラのその真面目さや不器用さが好ましいのも確かだったから。
 ライラはブランとスノウを見比べるように飴色の瞳を走らせ、それから背筋を伸ばして一礼した。
「スノウ様、お体の具合は問題ありませんか」
「うん。ありがと、ライラ。もう大丈夫」
 大丈夫だよ。
 口の中で繰り返して、その言葉の響きを確かめる。大丈夫、それは折れそうになる自分を奮い立たせるために呟き続けた嘘。それが、今は真実の響きへと変わっていた。ライラもそれに気づいたのか、少しだけ驚いたような顔をしてスノウを見つめた。
 そして、次の瞬間、ふわりと微笑んだ。
 スノウが久しぶりに見たライラの笑顔だった。神殿にいても、ライラはほとんど難しい顔をしていて笑顔を見せない。小さい頃からそうだった。そんなライラの笑顔がとても綺麗なことを知っているのは、それこそスノウくらいかもしれない。
「なーんだ、ライラちゃんってば、笑えば可愛いんじゃない」
 ブランが横から口を挟むと、ライラはすぐにさっと笑みを消してブランをぎっと睨みつける。ブランは「何よう、睨まなくたっていいじゃない?」とふざけた口調で言って両手を挙げた。
 そんなやり取りを見ていたセイルが、不思議そうに首を傾げてスノウの手を引く。
「ブランと騎士さんって、知り合いなんだ?」
「……うん。一応、ね」
 セイルは、ブランが異端研究者であることを知らない。異端研究者は女神の敵であり、知られることすら許されない。そのため、スノウも詳しいことをセイルに伝えることは避けた。
 セイルなら、異端であろうと何であろうと、ブランの本質が変わらないことくらい、簡単にわかってくれるとは思ったけれど。伝えるのは、ブラン本人からでいい。それでいいのだ。
 ライラはむっとした表情のまま、それでも最低限の礼儀を込めてスノウに頭を下げる。
「それでは、私は失礼します。スノウ様も、最初で最後の祭です、精一杯楽しんでください」
 ライラの言葉は、スノウにとっては意外なものだった。
「わたし、ここにいていいの?」
「ええ。隊長にも、スノウ様を連れて帰るのはもう少し待って欲しいと伝えておきましたから」
「ギーに……そっか。ごめんね、ライラ。ありがと」
 ライラの師であり、隊長でもある騎士ギーゼルヘーアの姿を脳裏に思い描く。あの優しい人にも、迷惑をかけてしまった。それでも、きっと、彼ならわかってくれるとも思っている。
 ライラは小さく礼をして、そのまま人ごみの中に消えていった。セイルはそれをじっと見つめていた。セイルは、ライラと自分の関係も知らないのだから、当然かもしれないと思う。
「さて、と。俺様も明日の準備すっかな」
 ブランは大きく伸びをして、言う。セイルが首をかしげ「準備?」と問いかける。
「そ、明日、スノウをあの奥に連れてかなきゃならんからな」
 言って、ブランは顎でセイルとスノウに一つの場所を示す。花火に照らされる城址は、祭の喧騒をよそに静かに佇んでいる。
「見張りがいるんでしょ、どうやって入るの?」
「そりゃあもう、明日のお楽しみ。な、スノウ?」
 ブランの計画を知るスノウは、曖昧に笑って頷くだけだ。
 計画も何も、行き当たりばったりもいいところ。ただ、それしか方法が無いのも事実だ。またブランに迷惑をかけてしまうけれど、それを考えた彼自身がとても楽しそうなことが救いだ。
「もちろん、セイル。お前さんにも協力してもらうからな」
 ブランはぽんぽんとセイルの頭を乱暴に叩く。セイルは「なんだよー」と不満げな顔を浮かべたが、すぐにブランの言葉の意味を問う。
「協力、って何すればいいんだ?」
「何、お前さんは、俺の代わりにスノウを連れて行ってくれればいい。あの城の奥、青色薔薇の咲く庭に」
「……ブラン、は?」
 セイルは目を丸くして問いかける。当然のように、ブランはついて来るものだと思っていたのだろう。スノウも、それを望んではいる。いるけれど……
「俺様には、俺様のやることがあんだよ。だから、頼む」
 でも、と言い掛けたセイルだったが、ブランが笑みを消して真っ直ぐにセイルを見つめたことで、セイルも気圧されるような形で頷いた。
 ブランはあくまで、スノウに降りかかる火の粉を払う役目を貫くつもりだ。それこそ、聖王スノウのいない玉座に独り留まった騎士ブランのように――それがわかっているからこそ、スノウは今ここでブランと会っておかなくてはならなかった。
 ブランに、伝えなくてはならないことがあったから。
 そんなスノウの思いを知ってか知らずか、それじゃ、と軽い口調で手を上げてブランもその場を去ろうとする。だから、スノウは身を乗り出すようにして高く声を上げた。
「待って!」
 ブランが、はっとした表情をしてスノウを振り返った。スノウは唇を噛み、胸の中に浮かぶいくつもの言葉を投げかけようと思ったが、全てを言葉に出して伝えるのは止めた。そのくらいなら、言葉にしなくてもブランには伝わるから。
 その代わりに、一番伝えたい言葉を、声として放つ。
「今まで、本当にありがとう」
 そして、心の中で、彼が失くした名前を呼んだ。
 ブランは、少しだけ寂しそうに笑った。彼が正しく「寂しい」という感情を理解できているとは思わなかったけれど、そういう顔をしてくれた、それだけでスノウには十分だった。
 ――次は、あなたの番。
 スノウは心でブランに呼びかけた。ブランは、本来あらゆる意味で自分とは真逆の道を行く存在。その彼が自分の願いを聞き届け、手を取ってくれただけで、嬉しかった。
 本当に、嬉しかったのだ。
 スノウの望みが叶えば、彼は元の名前の無い誰かに戻るのだろうか。それとも、与えられた名前を背負ったまま、新たな物語に向かって歩み出すのだろうか。それは誰にもわからない。
 スノウは笑ってブランを見上げる。別れは笑顔で、それは元々スノウではなくブランの口癖だったから。
 ――さよならだよ、
 もう一度、言葉にならない名前を呼ぶ。
 ブランも笑ってみせた。氷色の瞳を細めて、晴れやかに。
「ああ。じゃあな、スノウ」
 そして、それ以上は何も言わずに、ブランもまた人の波の中に消えていった。花火の光が、一瞬だけ彼の長い影を映し出して……それきり、見えなくなった。
 胸を満たす寂しさに、スノウはセイルの手を少しだけ強く握った。セイルがそこにいることを、確かめるように。セイルもそれに応えるように、手を握り返す。
「いいの?」
 セイルは大きな黒い瞳でスノウを見上げ、問う。多分、それは「引き止めなくてよいのか」という意味だったのだろうが、スノウは自分自身に言い聞かせるように呟く。
「うん。これでいいの」
 言って、足を踏み出す。別れが悲しくないと言ったら嘘になる。それは、セイルとの別れとはまた違う「別れ」だから。
 けれど、それが自分と彼の選んだ道だ。
 スノウは、目指した場所……魔王イリヤのかつての居城にもう一度視線を向けた。闇の中に、銀色に輝く蝶の姿が浮かぶ。
「スノウ、あれって」
 セイルも、銀色の蝶を指差した。だが他の人には、闇の中に輝きを放つ銀色の蝶など見えてもいないようだった。今この場では、自分とセイルにしか見えていない銀の蝶、イリヤの使い。
 それは、魔王の城に向かってふわりふわりと飛んでゆき、花火の光が世界を満たした瞬間に光に溶け込んで見えなくなった。
「イリヤが、わたしを呼んでる……」
 スノウは呟いて、胸の前で手を握り締める。
 銀色の蝶が舞い踊る青色薔薇に囲まれた異界への扉と、その向こうの誰も知らない世界を想像して。
 忘れていたはずの震えが、ほんの少しだけ蘇った。

影と騎士と前夜祭

 私が出会った彼は、何処にでもいるような青年でした。
 心優しく、優しすぎるが故に誰かのために涙を流す。そのような心を持つ彼は、度重なる戦に心を痛めていました。
 私は彼が引き起こした混乱を許すことは出来ません、しかし彼自身は助けたかった。助けたかったのです。
 そう訴える私に対し、彼は笑って言いました。
 ならば、自分を殺して欲しい。そうすれば僕はこれ以上悲しまずに済む。楽園には皆が望んだ平和が戻る。これほどまでの幸せはないだろう、と。
 確かにそうでした、彼にとっては、楽園にとっては。
 しかし、私は、果たして幸せだと言えるでしょうか?

   (『知恵の姫巫女』に伝わる、聖女ライラ・レイゼルの独白)

 
 夜空に花が咲く。
 遅れて腹にずんと来る音が響き、人々の歓声が溢れる。
 聖ライラの日を明日に控え、リベルの町は前夜祭に沸いていた。その中を、足音も気配もなくブランは行く。その姿はさながら幽霊か何かのようだったが、祭に酔う人々は彼の存在に気を留めることもない。
 ブランはある屋台に近寄り、そこに並べられたものを見る。それは、かつて楽園を襲った悪魔の顔を戯画化した仮面だった。
 前夜祭、そして聖ライラの日には、仮面を被った人々が町を行く。かつて楽園の敵であった悪魔の仮面を被るのは、聖ライラの守護によって、悪魔がどれだけ襲ってこようともこの平和が二度と揺らぐことは無い、ということを示す行為だとされる。
 店先に並べられた仮面は皆、おどろおどろしさの中に妙な愛嬌がある。ブランはその中でも目に緑色の硝子が嵌められた、銀色の鬣を持つ悪魔の仮面を手にした。白い木で作られた顔には、怒っているような、笑っているような不思議な表情が赤い線で描かれている。
「これ、おいくら?」
 ブランが問いかけて、初めてドワーフの店主は彼の存在に気づいたのだろう。驚きの表情を浮かべながらも、面の値段を言った。ブランはポケットの中から数枚の銀貨を出して店主の手の上に乗せながら、笑みを浮かべてみせる。
「よく出来てんね。これ、おっちゃんが作ったの?」
「ああ、毎年の楽しみさな。こいつが珍しいのか?」
「や、懐かしいなと思ってさ。俺様もガキの頃はライラ祭の度に被って大騒ぎしたもんだ」
 ブランは言って、仮面を頭に引っ掛けた。自分でも仮面を額にかけている店主は、「ははは」と豪快に笑って言った。
「お前さん、旅の人みたいだが、もしかして元ここの学生か」
「そうそう、そんなとこ……っと」
 ブランも笑って応じていたが、不意に何かが視界の隅を掠め、自然とそちらに視線を向ける。背筋を伸ばして人波の中を行くのは、白い鎧の騎士、ライラ・エルミサイアだ。
「それじゃあおっちゃん、幸せの色が咲きますように」
「おう、お前さんこそ、幸せの色が咲くように」
 挨拶を交わして屋台を離れ、ブランはライラに向かって手を振った。ライラはすぐにブランの存在に気づき、あからさまに嫌そうな顔をした。
「よ、騎士様。楽しんでる?」
「楽しめるものか」
 ライラは溜息混じりに言ってブランを睨みつける。ブランは「おお怖い」とおどけてみせながら、長い体を少しだけ折り曲げてライラの顔を覗き込む。
「聞いたぜ。昼に『エメス』の隠れ家襲撃したんだろ」
 小声で囁くと、さっとライラの表情が変わった。そんなにわかりやすくちゃ隠し事も出来ないわよ、とブランが茶化すとライラは微かに頬を赤く染め、ブランを睨む瞳に更に力を入れた。
 ブランは「それも一種の美点と俺様は思うけどね」と言ってそれ以上は取り合わなかったが。
「一体貴様は、何処から情報を仕入れてくるんだ」
「その辺はかっこいい男が必ず一つは持っている秘密さ」
「ふざけるな」
 ライラはばっさりとブランの言葉を切り捨て、それから表情を暗くして、彼に聞こえるか聞こえないかという声で囁いた。
「だが、それならば、首尾も理解しているのだろうな」
 ブランもそれを聞いて口元に浮かべた微かな笑みこそそのままだったが、低い声で言った。
「ああ。数人逃したらしいな」
「こちらの不手際だ。貴様の情報は正しかった。それ故に、油断したことは否定できない」
 ブランも既に神殿側の情報は手に入れている。この一週間スノウの側を離れてずっとリベルの町を駆けているのも、ひとえに神殿と『エメス』の動向を掴むためだ。それがブランたった一人でスノウを守る、唯一の方策だった。
 情報は一種の武器だ。時に一振りの剣よりもずっと強力な武器になりうることを、ブランは痛いほどに理解している。
 己の力不足に落ち込むライラの肩を軽く叩いてみせる。ライラはむっと顔を上げるが、ブランは笑みでそれに応える。
「いいじゃねえか、ひとまず危険の根っこは断てたんだ。後はスノウが無事に旅立てるように立ち回ればいい。それだけだ」
「貴様はそうかもしれないが……っ」
 騎士としては、『エメス』は許すことの出来ない存在だろう。それはブランとて理解している。理解はしている、けれど。
「奴らを追いかけたって、第二、第三の連中が出てくるだけだ。それなら、俺様は目の前の問題を先に片付けることを選ぶね」
 その方がまだ建設的じゃない、とブランは嘯く。
 ライラはブランを睨むだけだった。ライラの立場では応えることが出来ないのかもしれない。ざわめく感情と、立場に求められる行動との兼ね合いは、案外難しいのかもしれなかった。
 自分を縛る立場も感情も無いブランには、それを上手く想像することすら出来なかったけれど。
「ま、後は俺様も好きにやるからさ。止めたければ止めりゃいいし、好きにさせてくれるならそれはそれで嬉しい」
「……貴様は、どうやってスノウ様を守るつもりだ」
「それも当然、かっこいい男の秘密、さ」
 ブランはくつくつと笑って仮面を顔の上に下ろす。ライラは、何とも不可解そうな表情を浮かべて呆れた声で呟いた。
「それ、似合わないな」
「うるせえよ」

騎士と少女と扉

「……スノウ様」
  扉の奥には、ライラの求めていた姿があった。
  つややかな黒髪を緑のリボンで纏めた少女は、ベッドの上に腰掛けたまま透き通った青の瞳を微かに笑みの形にした。
「ライラ、久しぶり」
  柔らかな声は聞き慣れたものであり、この目に映るのも確かにいつも神殿で見ていた『知恵の姫巫女』スノウ・ユミルだったけれど、何故だろう。今目の前にいる少女が、ライラの知らない別の誰かのように見える。
  ライラは、一歩、また一歩とスノウが座るベッドに近づく。
  倒れたスノウを見舞うためにスノウの部屋を訪れた日のことを思い出す。苦しくないはずはないのに、その時も彼女は笑っていた。今と同じように。その笑顔を見るたびに、この胸が痛んだことも思い出す。
  彼女は自らを待つ残酷な未来を知っている。誰よりも確かに。
  だが、スノウは不安や恐怖を見せることは無い。最後のその瞬間まで微笑んでみせるに違いない。ライラの知るスノウはそれほどまでに気丈であり、同時に触れがたい部分のある少女だ。
  その、誰よりも強い少女が、今ライラの目の前にいるのだ。
  ライラが口を開こうとしたその時、スノウが微かに笑みを曇らせて……しかし何処までも瞳だけは澄んでいた……言った。
「心配かけてごめん。でも、ライラと一緒には行かないよ」
「スノウ様! しかし」
「別にね、姫巫女の役割が嫌なわけじゃないの。だけど」
  スノウは笑みを消して、ライラから視線を外して天井を仰いだ。彼女の色の薄い横顔は、とても壊れやすい硝子細工のよう。
「このまま大人しく、死ぬのを待っているのは嫌なの」
  はっきりと、スノウは「死」を言葉にした。ライラは、その言葉の奥に秘められた決意の色を感じながらも、何とか喉の奥から言葉を搾り出す。
「ですが、神殿の外に出てはお体に障ります。スノウ様の命を縮めてしまいかねません」
「そうかもしれない。でも神殿の中にいても、命は延びないよ。誰も、この病を治せないんだもん。女神様なら、『それがあなたの運命だから』って言うんだと思う」
  創世の女神ユーリスは、世界樹から生み出された全てを平等に愛する。故に、誰かに特別の慈悲を与えることも無い。それは女神に選ばれた『知恵の姫巫女』とて同様だ。もし女神が奇跡でスノウを救えたとしても、決してそうはしないだろう。
  それが、楽園に生まれし者に与えられた運命なのだと。
  世界樹に還り、新たな生の礎となることを認めるのだと。
  全てを包み込む優しい笑顔で告げるに違いない。
  もし自分がスノウならば、きっと女神ユーリスの言葉を受け入れ、静かに死を待つだろう。世界樹に還り、新たな命を生み出す糧となる、その循環の一つとなることを受け入れるだろう。
  だが、スノウの瞳には、それとは違う意志が息づいている。
「だからね、ライラ。わたし、楽園の外に行こうと思う」
「楽園の……外に?」
  ライラは目を見開いた。スノウが不思議なことを言い出すのはよくあることだが、今回ばかりは驚くしかない。楽園に「外」などあるはずが無いのだ、女神ユーリスの教えが正しければ。
  しかしスノウは淡々とした口調で、一つの物語を語る。それは聖女ライラと魔王イリヤの真実。『知恵の姫巫女』だけが知るという、隠された物語だった。別の世界への扉、異界の青い薔薇。それはライラが幼い頃から聞かされてきた御伽噺とは全く違うもので、にわかに信じることは出来ない。
  ただ、スノウの言葉に嘘は無い。それだけは確かだとライラは確信している。
  呆然とスノウを見下ろすライラに対し、スノウは凛として言葉を放つ。
「青い薔薇が咲く場所に、異界の扉がある。わたしは、そこに行きたい。その先に、行きたい。そこなら、わたしの病も治せるかもしれない。わたし、もっと生きられるかもしれないの」
「しかし」
  ライラは、ぐっと腹に力を込めて言う。ともすればスノウの強い心に気圧されそうになるけれど、折れてはいけない。スノウには、きちんと伝えないとならない。
「雲を掴むような話ではないですか。あまりにも、可能性が低すぎる。そんな危険な真似、させるわけにはいきません」
「うん。ブランもそう言ってた」
  ブラン。それが人名だと気づくのに、刹那の時を要した。「影の存在」を表すその名は、現代では忌まれる名前だからだ。そして、ライラの脳裏にはその名に似合う黒い男の影がよぎった。
「あの男の、ことですか」
  ああ、あの男らしい呼び名だ。そう思う。
  かつてスノウという名を持っていた聖王の影として、凶刃に果てた騎士の名。伝説と異なり、あの男は全くスノウには似ていなかったけれど……瞳に宿る光だけは何となく似ていると、今になって気づいた。
  スノウはきゅっと胸元を押さえ、彼女には珍しい切なる表情でライラを見上げた。
「あの人を怒らないでね、ライラ。神殿として、騎士として、異端を許せないのはわかる。多分あの人は許されない。でも、あの人は何も悪くないから、せめて怒らないであげて」
  ――わたしには、それを願うことしか出来ないから。
  スノウは、喘ぐように言葉を吐き出した。スノウがここまで思いをかけるほどの人物なのか、という小さな驚きがライラにはあった。だが、スノウが神殿を抜け出す時にもあの男一人を頼っていたということを考えると、スノウとあの男の結びつきはライラが思っているよりもずっと強いのかもしれない。
「スノウ様。あの男は、何者なのですか?」
  ライラは静かに問うた。スノウは、小さく首を横に振った。言えない、という意思表示、それ自体がライラにとっては一つの「答え」だった。きっと、知らなくていいのだ。たとえ気づいていても、言葉にしてはいけないことはある。
  だからライラはあの男の姿を脳裏から追い払い、飴色の瞳にスノウの姿を映しこむ。
「スノウ様。どうしても、神殿には帰らないおつもりですか」
  スノウの決意は理解した。
  その思いを曲げることが出来ないことも、理解している。
  けれど、『知恵の姫巫女』は神殿には無くてはならない存在だ。楽園の全てを知る少女は、誰のものでもない。ライラは騎士として、彼女の命ある限りそれを守り、そして彼女が神殿の外に女神の知恵を持ち出すことを、防がなければならないのだ。
  彼女が「帰らない」と言い張るならば、力ずくでも『知恵の姫巫女』を連れ帰らなくてはならない。そして彼女はその命が尽きるまで、神殿の奥深くで知識を伝え続けるだろう。
  それでいいのか、とライラの頭の中でもう一人の自分が囁くけれど、小さく首を振ってその声を忘れる。
  スノウとて、ライラがどのような役目を負っているのかは承知しているはずだ。そう思ってスノウを見ると、スノウは明るく笑ってきっぱりと言い切った。
「帰るよ。いつかは、必ず」
  必ず、という言葉がライラの耳を強く打つ。スノウはいつになく、楽しそうに笑っていた。それは、己の命がわずかであると知ってから、ライラに見せることの無かった無邪気な笑顔。
「あと二日。二日だけ待って。もし向こうに行けなかったら、ライラと一緒に帰るよ。もし行けたとしたら……病気を治してすぐ帰ってくる。絶対に」
「絶対、なんてあるわけがありません。帰ってこられないかもしれないのですよ!」
  そもそもの前提が、雲を掴むような話だというのに。だが、スノウは何処までも真っ直ぐにライラを見据えて笑うのだ。いや、スノウが見つめているのは、ずっと遠くの、彼女には夢見ることすら許されなかった「未来」だ。それだけは、ライラにもはっきりとわかった。
「そうだね。でも、帰れるって信じてる。だって、わたしの居場所はここなの。神殿を出て初めて、わたしの幸せはここにたくさんあるってわかったの。絶対に帰りたいって思えたの」
  スノウの笑顔は、まるで闇に咲く空の色をした薔薇のよう。空の色は祝福の色、幸福の色。スノウが目指す、未来の色だ。
「だから、ライラもわたしを信じて!」
  ああ。
  ライラは思わず声を出していた。
  自分では、この少女の決意を揺らがせることは出来ない。決意を揺るがすことを、許されていない。スノウの笑顔を見ていて、確信した。
  信じられるのか。ライラは自問する。スノウの言葉には何の根拠も無いが、その心に満ち溢れた希望だけは確かなもので、その希望を信じたい。
  ――信じれば、いいではないか。
  ライラは、ほんの少しだけ笑った。
  何を迷っているのだろう、信じるかどうかは己の心が決めることだ。そして、心は「信じたい」と言っている。
  ライラは、ぽつり、ぽつりとスノウに問いかける。
「怖くないのですか」
「怖いよ。とっても怖い」
「不安ではないのですか」
「不安だよ。だって何も確かなことは無いもの」
  言いながらも、スノウの視線の強さは揺るがない。
  それでこそスノウだ。ライラは思いながら、最後の問いを投げかけた。「問い」というよりも「確認」というべき、言葉を。
「それでも、行くのですね」
「それでも、行くの」
  スノウは笑顔で言い切った。
  ライラは小さく頷いて背を向けた。それ以上は、何も言うことは無かった。スノウが行くことを許すとも、スノウを止めないとも言わない。言うわけにはいかないのだ。
  ライラは騎士だ。『知恵の姫巫女』を神殿に連れ帰るという任務を持つ、神殿の代行者。その立場を持っている以上、ライラはスノウの「逃亡」を認めるわけにはいかない。
  だが、ライラ個人としては、スノウの決意を折る理由が無い。友として、スノウが初めて抱いた強い願いを邪魔するわけにはいかなかった。
  だから、ライラは「何も答えない」。それが一番の答えであることは、スノウにも伝わっているはずだから。
  ライラは扉に向かって歩く。その背中に向けて、スノウがほんの少しだけ寂しさを感じさせる声で言った。
「……ね、ライラ」
  ライラは応えず、足だけを止めた。
「最後に、『スノウ』って呼んでくれないかな。あの頃みたいに」
  ライラは振り向かないで、そのまま扉を開けた。
  スノウも、それ以上は何も言わなかった。ライラが何を思っていたのか、スノウがわかっていなかったはずはない。それでも、スノウは言わずにはいられなかったのだろう。
  ぎゅっと、ライラは己の手を握り締める。
  呼んでやればいい。それだけで、いいではないか。
  思いながらも、その言葉を放てば騎士としての決意が揺らいでしまいそうで。己の心の弱さを、自覚してしまいそうで。
  扉を後ろ手に閉めてから、ライラは振り返ったけれど……そこにはもはや、何も言わぬ扉が立ちはだかっているだけだった。

少年と影

 影の男は、スノウの言うとおりそこにいて、寮の壁に背をつけてぼうっと空を見上げていた。
 セイルがそちらに駆け寄ると、前に出会った時と同じ笑みを浮かべたブランは「よっ」と軽く挨拶して片手を挙げた。セイルも「よっ」と真似して返してみせた。
 ただ、スノウに言われて来てみたはいいけれど……何を話せばよいかわからなくて、セイルはブランを見上げたまま、黙った。すると、ブランは口元の笑みを深めて言い放った。
「ありがとな、セイル」
「……え?」
 何故、ブランがセイルに礼を言うのかわからなくて、セイルは首を傾げた。ブランは綺麗な色の瞳を細めて、言う。
「スノウのこと、止めなかっただろ。だから、ありがとうを」
「何で止めるのさ。スノウがそうしたいって言ってるんだ、止める理由なんてない」
 ただ、セイルはブランが何故わざわざ「ありがとう」を言うのか、わからないわけでもなかった。
 もしもスノウが迷っているようだったら、自分もスノウのことを引き止めてしまっていたかもしれない。スノウが、あれほどまでに真っ直ぐ前を見据えていなかったら……残りの時間を共に過ごそうと、言っていたかもしれない。
 けれど、スノウは「怖い」と言いながらも決して生きることを諦めなかった。どれだけ少ない可能性であろうとも、奇跡を信じ続けていた。だから、スノウの背を押そうと決めたのだ。
 ブランは目を細めたまま、セイルの頭をそっと撫でた。それは、まるで壊れやすいものに触れるかのような仕草だった。くすぐったさを感じながら、セイルはブランを見上げる。
「ブランは、スノウの病気のことも、青い薔薇のことも知ってたんだ?」
「当然。知らなきゃ、わざわざ神殿に忍び込んだりもしねえよ」
 ブランはへらへらと笑いながら言ったが、セイルは少しだけ引っかかるものを感じてブランに問う。
「ブランは、スノウのこと止めたの?」
「あ?」
「俺にそう聞いたんだから、ブランはどう思ってるのかなって」
 ブランは一瞬きょとんとした表情でこちらを見つめ……「はは」と笑って片手で顔を覆った。
「最低でも、俺様がスノウならあの選択はしないわね」
「どういうこと?」
「俺様は都合のいい奇跡を信じない主義でな。勝てる可能性がゼロに限りなく近い賭けをするくらいなら、俺様はこの体が朽ちるまでここに留まるな」
 ブランの口ぶりは、まるでスノウの選択を完全に否定しているかのようで、セイルはむっとして反射的に言い返していた。
「でも、可能性はゼロじゃない。ここに留まってたら、ゼロはゼロのまんまなんだろ。だからスノウは」
「そう、スノウは俺様には出来ない道を選んだ。スノウは、俺じゃねえから」
 そして俺様も、スノウじゃない。
 ブランは笑みを浮かべながらも、何処までも淡々とした声音で言った。
「俺様はアイツの痛みを感じることは出来ても、それを肩代わりしてやることは出来ねえ。アイツを生かすために何をしてやることも出来ねえんだよ」
 その言葉は、静かでほとんど抑揚も無かったけれど、ブランの正直な気持ちなのだとセイルは思った。そこまで理解して、やっとスノウがブランを「優しい」と評していた理由がわかった気がした。
 ブランは、本当にスノウのことを考えているのだ。ただ、その方向が常に少しだけずれていて、時にその優しさがスノウを傷つけている。それはきっと、ブラン自身が言っていた「人の心が致命的に理解できない」ことに由来しているのだろう。
 それでも、ブランは何処までも、スノウを助けようとしていたのだ。そして、スノウのことと、彼女を取り巻く現実を誰よりもよく知っているからこそ、スノウを本当の意味で救うことが出来ないこともわかっている。
 だから。
「だから、せめて俺様と違う道を選んだアイツの力になれればな、って思ったのよ。その道が何処に続いているのか、見届けたいってのもあるのかもしれん」
「見届けて……そしたら、ブランはどうするの?」
 難しい質問だな、とブランは笑った。それから、目を覆っていた手を外し、真っ直ぐにセイルを見下ろした。その瞳の色は、何処までも透き通った緑色をしている。
「それじゃ、お前はどうするつもりだ?」
「どうもしないと思う。少しだけ、ここが変わるかもしれないけど、その時にならないとわかんないだろ」
 言って、セイルは自分の胸を押さえた。
 これは、全てスノウの問題だ。それがセイルのあり方を変えるわけではないだろうけれど、胸の中に渦巻く心はきっと、今までとは違う色を見せるとは思っている。
 スノウと出会ってから今までの時間を過ごしただけでも、これだけ胸が高鳴り、今まで感じたことの無い気持ちに染め上げられているのだから――
 ブランは頷き「いい答えだ」と満足そうに微笑んだ。
「じゃ、俺様もそういうことにしとこう」
「む、真似すんなよ」
 セイルが頬を膨らませると、ブランは声を上げて笑って、ふと空を見上げた。セイルもつられて顔を上げると、抜けるような青い空には色とりどりの飛空艇が鳥のように舞っている。
「明日が、前夜だな」
 ブランが独り言のように呟いた。
 明日は聖ライラ祭六日目、聖ライラの日を翌日に控えた日だ。六日目の前夜祭では今までの夜とは比べ物にならないほどに盛大な宴が繰り広げられる、という話はクラエスから聞いている。
 けれど、きっとブランの言葉の意味は違う。
 明日が、スノウの「旅立ち」の前夜なのだ。楽園を遠く離れる、希望に満ちた、しかし何処までも孤独な旅が始まるのだ。
「スノウ……」
 胸がきゅっと締め付けられるような感覚を抱いて、セイルは小さな声で、スノウの名を呼んだ。

少女と決意

 青い、薔薇の夢を見る。
 それは、彼女が魔王イリヤの真実を知ってから、ずっと見続けていた夢。
 銀色の蝶が舞う青い花畑の只中に、彼女は立ち尽くしていた。何処からか吹いてくる温度の無い風が、彼女の長く伸びた……普段は緑のリボンで纏めている……黒髪をざあと揺らす。
 ふわり、ふわりと。
 まるで重力を忘れたかのように蝶が舞う。『重力』という言葉を教えてくれたのもそういえば「彼」だったか。世界を女神の法則、魔力以外の『力』で分類しようとするのは異端研究者の考え方、神殿から一歩も出ることの無かったスノウが知るはずもない知識だ。
 だが、後ろを振り返ってみても広がるのはただただ青い花畑ばかり。風に吹かれて揺れる花は波のように渦を巻き、花びらが彼女の周りに舞う。
 ――さあ、おいで。
 銀色の蝶が彼女を招く。
 頭の中に響く声に導かれてそちらを向けば、一瞬前まで何も無かった場所に、一枚の扉が生まれていた。磨き上げられた青い水晶を思わせる扉だが、その向こうを見通すことは不思議と出来ない。
 蝶は扉の前で銀の光を散らしながら、彼女を待っている。
 彼女は一歩を踏み出そうとするが、足に力が入らない。気づけば、彼女の足は震えていた。
 本当に、あの扉を潜っていいのか。
 本当の、自分の望みは何だったのか。
 本当は、自分が求めていたものは。
 喉が渇く。足の震えは全身へと伝わり、そのまま青い薔薇の中に崩れ落ちそうになる。
 だが、その時不意に彼女の肩を誰かが支えた。はっとして彼女がそちらを見れば、大きな黒い瞳が二つ、こちらを笑顔で見下ろしていた。
 赤毛の少年は、彼女の肩を支えたまま視線を扉に向ける。彼女より小さな体をした少年ではあるが、その手にこもった力は強く、またとても温かなものだった。
 大丈夫だよ。
 耳元で、少年が囁く。彼女を力づける、不思議な言葉。
 彼女の体の震えはいつの間にか収まっていた。彼女も少年に微笑みかけて、足に力を込める。そう、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
 だって、約束したから。
 少年と、自分との間の、たった一つの約束。
 少年は頷いてそっと彼女の背を押し、そして彼女は――

 目を、開ける。
 スノウはゆっくりと白い手を伸ばし、窓から差し込む明るい光を避けるよう目の上にかざす。
 ――ライラがそっちに行ってる。
 起き抜けではっきりしない頭の中に響くのは、「彼」の声だ。スノウは口の中で小さく「ブラン」と呟いて、体を起こした。彼もまた寮のすぐ近くまで来ているらしいことを、記憶を借りて判断する。ライラの後をつけていたようだ。もし、ライラがスノウを強制的に連れ戻そうとするならば、ブランもライラと刃を交えることを覚悟しているらしい。
 少しだけ、胸が痛い。けれど、このわがままは貫き通すと決めたのだ。軽く唇を噛んで、虚空を強い瞳で見据える。
 どうする、と声無き声で問いかけてくるブランに、スノウはあえて声に出して答えた。
「会いたい。最後に、きちんとお話しなきゃ」
 ――了解。邪魔はしない。
 ブランは短く言って、それきり黙った。そのタイミングを見計らったわけでも無いだろうが、寮の入り口に取り付けられた鈴が鳴らされた気配があった。鋭いリムリカの声、こちらに向かってくる小さな足音、そして部屋の扉がノックされる。
「スノウ、起きてる?」
 セイルの声だ。スノウが「起きてるよ」と答えると、セイルがほんの少しだけ顔を覗かせる。彼の表情は、少しだけ暗い。昨日あんな話をしたせいもあるだろうし、ライラがスノウを連れて行かないか不安がっているというのもあるだろう。
 だから、スノウはそんな彼の不安も全て吹き飛ばすように、にっこりと笑ってみせる。
「ライラが来たの?」
「うん。スノウに会いたいって言ってるけど、どうする?」
「こちらに通してもらえるかな。二人きりで話がしたいの」
「……わかった」
 本当はスノウとライラの話を直接聞いていたかったのだろう、二人きりで、と言われてセイルはしゅんとした表情で頷いた。スノウは「あ、そうだ」と言って、セイルを手招きする。顔を近づけてきたセイルに、小さく耳打ちする。
「ブランが外に来てるの」
「ブランが?」
 セイルの表情が驚いたものに変わった。スノウは頷き、セイルの肩を叩く。セイルは心得たとばかりに小さく頷き、部屋の外に出て行った。
 スノウはベッドの外に足を投げ出し、扉を見据える。
 一歩一歩、近づいてくる硬い足音。神殿にいたときには毎日のように聞いていた、しっかりとした音色。それを確かめたスノウは、澄み切った青い瞳を見開き、開くドアの動きを瞬きもせずに見据えていた。

少年と少女と約束

 セイルは、スノウが座る寝台の横に置かれた椅子に腰掛けた。
 スノウが「長い話になる」と言ったからだ。
 具合が落ち着いたばかりのスノウに無理をさせてはいけないという思いもあったけれど、一度「話す」と言い出したスノウを止める気には、なれなかった。自分が聞きたいという思いもあったが、それ以上にスノウの青い瞳に宿った光がそのまま、スノウの強い意志を表しているように見えたから。
 その意志を折ることなんて、セイルには出来ない。
「……ライラから、聞いたかな。わたし、神殿の人からは『知恵の姫巫女』って呼ばれてるの」
 セイルが頷くと、スノウは『知恵の姫巫女』がどのようなものか知っているか、と問うた。セイルは必死に頭の中の記憶を探りながら、言う。
「女神様に選ばれた人だってことは知ってるけど、どういう人なのかは知らないや」
「『知恵の姫巫女』っていうのはね、女神様の教えを正しく記録する人のこと。女神様の御言葉を一言一句違えずに記憶したり、女神様を讃える歌を歌ったり、楽園の正しい歴史を覚えたりするの」
 勉強がさほど好きではないセイルは、考えただけで眩暈がしそうだった。きっとそれは、学校の勉強よりもずっと厳しいに違いない。何しろ、女神様から直々にその役目を与えられるのだ、責任も重いはずだ。
「何か、すごいお仕事なんだね」
 セイルがそう言うと、スノウもほんの少しだけ笑って「きっと、誰にでも出来ることじゃないと思う」と言った。
「歴代の『知恵の姫巫女』は、とても頭が良い人たちだったって聞いてる。わたしは別に頭が良いってわけじゃないけど、一つだけ取り得があったの」
 スノウは、細い指を膝にかけた布団の上でそっと組む。俯いた彼女の瞼は少しだけ腫れていたけれど、それでもまるで人形のような横顔だとセイルは思う。
「わたしは、生まれつき目で見たこと、耳で聞いたことを忘れないの。忘れることが出来ない、と言ってもいいかな」
 セイルは「えっ」と声を出して、それきり二の句が告げなくなった。スノウは淡々と言葉を続ける。
「女神様も、わたしのこの能力に気づいておられたの。それでわたしが神殿に拾われて間もない頃に、大きくなったら『知恵の姫巫女』になるように、って仰られたわ」
 セイルは女神ユーリスを見たことが無い。成人の儀の時には女神ユーリスの元に行き洗礼を受けると聞くが、それ以外の場で女神にお目にかかることはまず出来ないと考えていい。神殿に仕えている者ですら、普段から女神に近寄ることは出来ないのだから当然ともいえよう。
 それ故に、どれだけスノウが特別な存在なのか、何となくではあるがセイルにも理解できてきた。
「『知恵の姫巫女』っていうのは、色々なことを覚えなきゃいけなくて……その中には、普通の人は知っちゃいけないことなんかも、含まれてる。でも、それは後の世に引き継がれなくてはいけないことでもあって」
 スノウはぱっとセイルを見た。その瞳に宿った強い光が、セイルを射る。
「だからね、わたし、今まで神殿の外に出たことが無かったの。知ってるのは、神殿の人たちが教えてくれたこと、大図書館の本に書いてあること、それに」
 あの人が見て、聞いたこと。
 スノウはぽつりと付け加えた。
「セイルが『ブラン』って呼んだあの人には不思議な力があって……あの人は、わたしの記憶を見ることが出来て、同時にわたしに自分の記憶を見せることも出来るの」
 どんなに離れていても、繋がっている。
 そう呟いたスノウの言葉を、セイルはすぐには飲み込むことが出来なかった。記憶を見せ合うことが出来るなんて普通に考えればありえないとも思ったが、同時にこれならばスノウとブランの言動のつじつまが合うとも思った。
 セイルの沈黙をスノウがどう捉えたのか、「セイルは、変なこと言ってると思うかな」と首を傾げた。だから、セイルは首を横に振る。
「そんなことない。スノウがそう言うなら、それが本当なんだと思う」
 実際に可能か、不可能か。そんなことは、セイルにわかるはずもない。ただ、スノウの言葉を疑うという選択肢はセイルの脳裏に浮かばなかった。真っ直ぐにスノウを見つめ返すと、しばらくスノウは目をぱちぱちさせていたが、やがて柔らかく微笑んで「ありがと」と言った。
 セイルも笑みを返したけれど、すぐに眉を寄せて問いかける。
「でも、神殿から出られないなんて、辛くなかったの?」
「ううん。これが自分に与えられた役目で名誉あることだったし、神殿の人たちはみんなわたしに優しかったから。すごく辛いって思ったことは無かった……けど。だけどね」
 スノウは青い瞳を伏せる。何か、言いづらいことを言おうとしているのか、淡い色をした唇を開きかけ、閉じる。それを、何度か繰り返してから、スノウは意を決したように言った。
「もうすぐ何もかもが終わっちゃうんだ、って思うと、楽しいはずのことも、楽しくなくなっちゃう。幸せなことも、幸せだって思えなくなっちゃったの」
「……どういう、こと?」
 セイルは、スノウの言っている意味がわからなかった。一体、何を指して「何もかもが終わる」と言っているのか。全く、想像も出来なかったのだ。スノウはもう一度、言葉を紡ぐことを躊躇うような素振りを見せたが、唇に寂しげな笑みを見せて、ぽつりと、言った。
「わたし、もうすぐ死んじゃうの」
「え……?」
 ――死んじゃうの。
 その言葉が、セイルの頭の中に重く、重く、響き渡った。
 セイルは、死という言葉を知っていたし、死がどういうものかも理解しているつもりだ。ただ、今まで人の死を実際に感じたことはほとんどなかった。それが、身近な人物の死であるというなら尚更だ。
「死ぬって、スノウが?」
 反射的に言葉を放っておいて、何故自分はこんな馬鹿なことを聞いてしまったのだろうと後悔する。今、スノウが言ったばかりではないか。
 だが、セイルはどうしても信じられなかったのだ。
 今、目の前にいるこの少女が、死んでしまうということが。死ぬということは、世界樹に還るということ。それは楽園の摂理ではあるが……避けがたい絶対の別れであるということくらいは、セイルにだって理解できた。
 それが、セイルにとって酷く「悲しい」ことだということも。
 スノウは、セイルの言葉を笑うことなく、一言一言をはっきりと言葉にしていく。
「うん。すごく難しい病気が、ゆっくり、ゆっくり、わたしの体を蝕んでるの。多分ね、もう一年も生きてられないと思う」
 一年。それはスノウにとってはあまりにも短い時間だとセイルも思う。自分があと一年しか生きられないと知ったら、自分はどうするだろうか――考えようにも考えられない。
「薬とか、魔法とか……何か、治す方法は無いの?」
 セイルは必死に問う。だが、スノウはゆっくりと、諦めの表情で首を横に振った。
「お医者様はどうしてわたしの体が悪いのかもわからないみたいだった。ブランに言わせると、『楽園には、その病を治す手段は無い』って」
「だけど、どうして、どうしてスノウが!」
 違う、こんなことを聞いても仕方ない。セイルは思う。「どうして」なんて知っても自分にはどうすることも出来ない。ただ、聞かずにはいられなかったのだ。それはあまりにも悲しくて、あまりにも不条理だったから。
 スノウは小さく「わからないよ」と呟いた。そこには怒りも悲しみも無かった。表情を失ったスノウの唇が、まるで別の生き物のように小さく動いた、それだけだった。
「スノウ……」
 セイルは俯いた。膝の上でぎゅっと拳を作る。何を言ってもスノウを傷つけてしまいそうだったが、セイルは手に力を込めて、スノウの視線を受け止める。
「それでも! 諦めちゃダメだ、絶対にスノウが助かる方法があるはずなんだ! そんな奇跡があるはずなんだ!」
 奇跡は、起きるものじゃない。
 そう言ったのは、誰だっただろう。セイルの記憶の片隅に、小さく囁く声がある。自分と同じ少年のようでいて、やけに大人びた響きの声。それが誰の声なのか思い出せないまま、セイルはその声を自分の言葉でスノウに伝える。
「奇跡は起きるものじゃない。奇跡を起こしたいって願って、そのために頑張って、その結果が初めて奇跡になるんだ。だから、諦めちゃダメだよ、スノウ!」
「セイル」
 スノウは、セイルの瞳を見つめて、きゅっと自らの胸を押さえた。苦しさを耐えているのだろうか……セイルがそう思った時、スノウの表情が変わった。
 今までの、何処か空虚な表情から、全てを話すと宣言したあの瞬間の表情に。誰よりも純粋で強い意志を秘めた瞳が、人形のような白い肌の中で青く輝く。
「わたしも、どうしても諦めたくなかったの。神殿の中で大人しくしてれば、少しは長く生きていられるかもしれない。けれど、それじゃダメなの。わたしはもっともっと生きたい。セイルが夢を語ってくれたように、わたしだって夢が、幸せが欲しかった。だから」
 スノウは笑顔すら浮かべてきっぱりと言い切った。
「とびきり素敵な奇跡を起こすために、ここに来たの」
 とびきり素敵な奇跡。
 その言葉が、セイルの胸にぽっと温かな炎となって灯ったような、気がした。セイルは身を乗り出すようにして、スノウに言葉を投げかける。
「でも、どうしてここに?」
「セイルは青色薔薇のお話を知ってる? 聖女ライラと、魔王イリヤのお話」
「うん。聖女ライラが、この町で死んでいった魔王のために手向けた奇跡の花が、青色の薔薇だって……」
 楽園には青い薔薇など存在しない。それは聖女が魔王のために流した涙が奇跡の薔薇として咲いたものだと聞いたことがある。だから町にはライラ祭のたびに作り物の青い薔薇が無数に飾られる、そのはずだ。
 だが、スノウは「それは、神殿の作り話」と首を横に振ってみせた。
「聖女は、青い薔薇を咲かせてなんていない。青い薔薇を咲かせたのは、他でもない魔王イリヤ。花を愛し、人を愛し、全てを愛した魔王が咲かせた、『この世ならざる』薔薇だったのよ」
 そう言って、スノウが語りだした物語は、セイルを驚かせた。
 主人公は聖槍を持つ聖女ライラと、銀の蝶を操る魔王イリヤ。誰もが知っている、楽園の伝説だ。しかしスノウが語った物語は、セイルが知っている物語とは全く違った。
 楽園と異なる世界から呼び出した存在、『悪魔』を操る魔王イリヤは、楽園に破壊と混乱をもたらした。それは事実だが、何もイリヤは悪意から楽園を混乱させたのではない。単に、イリヤは異界の存在であり、自分とは違うものである『悪魔』と友達になりたいと思っただけだった。
 イリヤには、異界と楽園を繋ぐ力があった。それは、どんなに優秀な魔道士でも不可能なことだったが、彼はいとも簡単に世界を渡り、また世界を繋いで異界の存在を呼び出すことが出来た。生まれつきそういう「力」の持ち主だったのだ、とスノウは言った。
 だが、イリヤは異界から現れた『悪魔』を御することが出来ず、やがて楽園は『悪魔』によって蹂躙され始めた。
 それを悲しんだイリヤは、『悪魔』たちの暴走を止めに来た聖女ライラに、自分を殺して欲しいと頼んだ。自分が死ねば、異界の扉は閉じる。そして『悪魔』はこれ以上楽園にはやってこないだろうから、と。
 聖女ライラはイリヤの頼みを受け入れ、手にした槍で貫いた。
 イリヤは微笑みを浮かべながら、扉の周りに咲き乱れる異界に咲くという花、『青い薔薇』の花畑に倒れ……息を引き取った。
 そうしてイリヤによって開かれた扉は閉ざされ、『悪魔』たちは倒されて楽園から消えた。
 だが、今でも、時折イリヤの使いである銀色の蝶がこの町を飛ぶ。それは、聖ライラ祭の時にのみ見られることがあるのだという。
「これが、魔王イリヤのお話」
「別に、魔王は本当に悪い奴じゃなかったんだ……これじゃあ、聖女様の方が悪役みたいだよ」
「そう。だから、これは秘密のお話。『知恵の姫巫女』だけに伝えられる、楽園の真実」
 ――それで、この物語を聞いた時、頭の中に一つの考えが浮かんだの。
 そう言って、スノウはそっと瞼を閉じる。
「もしかすると、『ここではないどこか』なら、わたしは死ななくても済むんじゃないか、って」
「え……」
「ブランは、『楽園には、その病を治す手段は無い』って言った。なら、楽園の外に出ればいいんじゃないかな。銀色の蝶は確かに飛んでる、城の中には未だに青い薔薇が咲いてるって伝説もある。もしかすると、あの城の奥には」
 言って、スノウは視線を窓の外に向ける。青い薔薇咲く町の向こうに見えるのは、かつての魔王イリヤの居城。この町の住人ですらその奥に足を踏み入れることを許されない、遠き日の忘れ物に――
「まだ、異界の扉が開いてるかもしれない」
 スノウは熱っぽい口調で、そう言った。
「もちろんそんなもの無いかもしれない。もし他の世界に行けても、何も変わらないかもしれない。色々考えたよ、でも……何もしないよりはいいって思って神殿を抜け出しちゃったの」
 そこに言葉が辿り着いた瞬間に、熱っぽかったスノウの表情があからさまに沈んだ。
「そんなわたしのわがままに、皆を巻き込んじゃった。ブランを誘拐犯にしちゃったし、ライラや神殿の人も心配させてる。それに、見ず知らずのセイルにも迷惑かけちゃった」
「それは違うよ。迷惑なんかじゃない」
「セイル?」
 スノウが不意に顔を上げた。セイルはその青い瞳を見つめる。吸い込まれそうな、まるで海の色を溶かし込んだ硝子球のような瞳。その瞳が涙で潤んでいることは、セイルにもわかった。
 だから、セイルはにっと笑う。何もスノウを元気付けるために無理やり笑ったのではない。心からの思いを伝えようとしたら、自然と笑みになっていたのだ。
「俺、スノウに会えて嬉しい。色々びっくりはしたけど、その……すごく楽しいんだ。スノウは不思議で、俺の知らないことをいっぱい知ってて、それで俺にはわからないことをいっぱい考えて、寂しそうな顔をすることもあるけど、笑った顔がすごく綺麗でさ」
 ああ、そうか。
 言いながら、何かがすとんと胸の中に落ちた。この不思議な思いに、名前をつけるならばどんな名前か、セイルにはずっとわからなかったけれど。今この瞬間に、一番しっくり来る名前を見つけた気がした。
「俺……スノウのこと、好きなんだ」
 それは、胸の中に灯った明かりの名前。
「だから、俺はスノウのこと応援したい。確かに、難しいことかもしれないけど、俺はスノウならとびきりの奇跡が起こせるって信じてる。信じたいんだ」
 だって、スノウはあんなに素敵に笑えるんだ。
 その笑顔が消えてしまうなんて、考えられない。
 スノウは、呆然とセイルを見つめ、突然くしゃりと顔を歪めた。その瞬間に、今まで瞳の中に留まっていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。セイルがぎょっとしていると、やがてスノウはぎゅっと掛け布団を握り締めて、わあっと声を上げて泣き始めた。
「スノウ? 大丈夫?」
 慌ててスノウの肩を叩くセイルだったが、スノウは泣き止まない。しばらく声を殺すことも忘れたかのように大声で泣いていたスノウだったが、そこに聞き取りづらい言葉が混ざった。
「ほんとは、ほんとはね」
 まるで知らない場所で迷子になってしまった小さな子供のように、スノウはセイルにすがりつく。
「怖いの。すごく怖い。ブランと一緒に神殿を出た時には何も怖くなかった。なのに、今になってどうして」
 セイルは、呆然としてスノウを見下ろしていたけれど、何となく、今ならばスノウの気持ちがわかるような気がした。セイルの腕を掴むスノウの指先から、スノウの鼓動が、思いが波のように伝わってきたから。
「死にたくない。死にたくないから、楽園から遠く離れた場所に行こうって決めたの。行くことを迷ったことなんてなかった。
 でも、神殿を出て、セイルに会って、わかったの。わたし、この世界のことも何も知らない。自分で見て、聞いて、感じることで初めてわかることばかりだって、気づいたの。セイルと一緒にいるのが幸せだって、気づいちゃったの」
「スノウ……」
「行きたくないよ、もっとここで生きたいよ。セイルとせっかく出会えたのに、別れるなんて嫌だよ……!」
 きっと。きっと、だけれども。
 スノウは、初めて「寂しさ」に気づいたのだ。別れは寂しい。独りきりは寂しい。それは、別れを目の前にしなければわからない感情だ。セイルだって、スノウの不安や恐怖をそのまま感じることは出来ない。少しでも、それを分け与えてもらえるならば、スノウの心にわだかまる思いを晴らすことが出来るのに。
 今の自分に出来ることは、このくらいだ。
 セイルは唇を引き締めて……スノウの手を、握り締める。
「じゃあ、約束しようよ」
「え……」
「スノウは元気になって戻ってくる。それで、俺は待ってる。絶対に待ってるから」
 ここで。この、楽園で。
 セイルは胸を張って、そう言った。
 ――そんな約束、できないよ。
 スノウが涙を拭きながら小さく呟く。それはそうだ、セイルの言葉は何一つとして確かじゃない。セイルだってそのくらいはわかっている。
「でも、約束すれば、ここで繋がってられるじゃん」
 セイルは、己の胸とスノウの胸を指してみせた。スノウは、きょとんとした表情でセイルを見る。涙で濡れた瞳をぱちぱちとさせるスノウに、セイルは「それにさ」と笑いかける。
「スノウも、俺も、こんなに強く信じてるんだ、叶わないはずない。人が考えることで、叶わないものは何一つ無いって言ってたもん」
「それも、お父さんの受け売り?」
「ううん、これはシェル・B・ウェイヴだったと思う」
 シェル・B・ウェイヴ。楽園で初めて空を飛んだ男で、セイルをはじめとした空を愛する少年が夢見ずにはいられない人物だ。そういえば、「奇跡は、起きるものじゃない」という言葉もシェルの言葉だったはずだ。
 スノウはそれを聞いて、泣き顔はそのままだったけれど、くすくすと楽しそうに笑った。
「本当に夢を叶えた人だね。心強いかも」
「だろ? だから、二人で信じれば、叶わないことなんてない」
 根拠なんて無い。けれど、「信じる」というのはそういうことだ。己の心が求めるままに、セイルはスノウの無事を信じる。スノウが己の意志を貫き通すことを、信じるのだ。
 スノウは、セイルの手を強く握り返して、微笑む。
 もう、スノウも泣いてはいなかった。
「――うん。それじゃ、約束」
 スノウはそっと、手を握ってない方の手の小指を出した。セイルはその意味がわからなくて、首を傾げる。
「ブランが教えてくれたの。『指切り』っていう、約束をするときのおまじない」
「どうやるの?」
「こうやって、同じように小指を出して」
 言われるがまま、細いスノウの指に、自分の指を絡める。変わったおまじないだね、とセイルが言うと、スノウは小さく頷いた。スノウもブランから聞くまで見たことも聞いたことも無かったのだという。ブランによれば、北の国の、ほんの一部の人の間で伝えられているらしい。
 結んだ指を振って、スノウは言う。
「わたしは、絶対に戻ってくるから」
「俺は、絶対に待ってるから」
「約束だよ」
「……うん、約束!」
 指が、離れる。
 こんなおまじないだけで、約束が果たせるかどうかはセイルにも、そして多分スノウにもわからない。わかるはずもない。
 それでもセイルとスノウは笑うのだ。
 確かに、二人で同じ未来を夢見て――

影と騎士

 ――スノウが、泣いている。
 ブランはそっと己の胸に手を当てる。スノウの痛みは、自分の痛みでもある。ただ、スノウのようにその痛みに名前をつけることが出来ない彼に涙を流すことなど出来るはずもなかった。
 仕方ないことだと彼は思い、目の前に座る騎士ライラを見やる。騎士としての正装でなく、略式の聖職服に身を包んだライラは不機嫌そうな表情を隠しもせずに、睨むような視線を彼に向けていた。
「それで、話とは?」
 ライラの口調にも、露骨に不快の色が現れている。それは当然、女神に仕える騎士にとってブランは女神に逆らう異端、楽園に存在することさえ許されぬものだ。そのような考え方は正直「馬鹿馬鹿しい」ものだが、信ずるものは人それぞれだとブランは思っている。
 だから、ブランは普段と何も変わらぬ笑みを投げかけて、声を落として言う。
「さっきも言ったでしょうに。この町に潜む『エメス』の動きを俺様が教えてやろうっていうのさ」
「どういう風の吹き回しだ?」
 ライラは言ったが、微かにその声には揺らぎを乗せているようだった。おや、と彼は不思議に思う。何か心境の変化でもあったのかとも思ったが、あくまでライラの態度は硬い。
「だから言ったでしょ、俺様はスノウの無事を願ってるだけ。で、スノウの無事を願って『エメス』を厄介に思うのはアンタらも同じ。だからちょっと手を組まない、って言ってんの」
 ――まあ、スノウを攫った俺が言うのもなんだけどな。
 彼は微かな自嘲も込めて付け加えた。真実を知るならば、「攫う」という言葉は当てはまらないかもしれない。ただ、状況から判断する限りは「攫う」というのが一番正しいはずだ。
 そして、彼は一貫して「スノウを攫った」という態度を崩さないことに決めている。
 これはスノウの望みではない。心優しきスノウは当然彼一人に罪を着せようとは思わなかった。
 だが、彼はこれでよいと思い極めている。どうにせよ異端たる彼が捕まれば命は無いのだ、それならばスノウに責めを負わせずとも自分が全ての罪を背負って世界樹に還ればいい。
 それだけの話だ。それだけの。
 気を取り直して、ブランは言葉を続ける。
「一緒に戦え、なんて馬鹿は言わんさ。俺様は持ってきた情報をお前さんに渡す。お前さんはそれを信じるも信じないも勝手。ほら、一方的にお前さんに優しいでしょ?」
 ライラは沈黙でブランの言葉に応えた。やりづらいな、と思いながらもブランは微笑みを絶やさずに手元の珈琲をすする。
 彼はそもそも交渉事が苦手だ。彼に出来ることは自分が考えていることを言葉にする、そして相手の言葉に自分なりの言葉で応えることだけ。沈黙は彼が一番苦手とする場面だ。
 しばし、気まずい沈黙が流れ……やがてライラが口を開いた。
「いくつか、質問したい」
「どうぞ。答えられるかどうかはわからんけど」
 それでいい、と言ってライラは低くも鋭い声を放つ。
「何故、貴様はスノウ様を攫った」
 ブランは、答えずに首を横に振った。それを自分の口から言う理由が無かった。真実を言ってしまえば、スノウに罪が及ぶ。どう答えれば無難だろうか、と頭を捻る彼に対して、ライラは更に言葉を重ねる。
「なら、質問を変えよう。スノウ様が、貴様に頼んだのか?」
 今度こそ、答えに窮した。
 気づいていたのか、と思わずにはいられない。ライラの態度からは、スノウが自ら望んで神殿を出たことに気づいた様子は見受けられなかった……いや、そう彼が思い込んでしまっただけかもしれない。
 ライラは、スノウの第一の友人だ。彼もそれを知っているから、一瞬驚きこそしたがいつかは気づかれることだと思ってはいた。それがブランの想像より少し早かったというだけ。
「……もし、そうだとしたら?」
 だから、ブランは問いに対して問いで返す。ライラは微かに目を細め、静かに言った。
「どうもしない。貴様をしかるべき罪に問い、スノウ様を神殿にお連れするだけだ」
 貴様の罪の重さは多少変わるかもしれないが、最終的な結果は変わらない。ライラの瞳はそう告げていた。
「そだな。俺様としたことが、当然のこと聞いちまった」
 ライラは騎士だ。何処までも、その点は揺らがない。いや、彼女自身が強いてそうしているのかもしれない。ただ、彼はそれについて深く考えることは無い。ライラについて考えるのは、スノウの役目だ。
「ただ」
 ライラの瞳の中に、ほんの少しだけ。スノウの記憶の中でしか見たことの無い、柔らかく、かつ脆さすら感じさせる光が宿ったように見えた。
「スノウ様は……それほどまでに、思いつめられていたのか。あれほどまで神殿の意に従おうとしていたスノウ様が神殿の外に出ようと望んだのならば、もう……」
 ライラの表情が暗く沈む。それを見たブランは、突如胸の中で何かがざわめいたのに耐えられずに、強い口調で言い放った。
「っ、馬っ鹿じゃねえの!」
 まさか彼が突然声を荒げるとは思っていなかったのだろう、ライラは吃驚して彼を見た。彼も慌てて取り繕うように笑みを唇に浮かべてみせたけれど……自分でも、何故これほどまでに強い感情に囚われてしまったのかは、わからなかった。
 その感情の名前すら、今の彼にはわからないというのに。
 だが、あまりにも、ライラの言葉は見当違いだ。唇では笑みを模りつつも、いつもの間延びした声ではなく、早口ながらもはっきりとした言葉遣いでライラに語りかける。
「アンタはスノウのことを何だと思ってんだ。スノウは、んな甘ったれた奴じゃねえ」
 確かに、スノウはこれが最初で最後の旅だと言った。
 彼も、これが最初で最後の旅であると知っている。
 だが、その意味合いはライラが思うものとはかけ離れている。
「スノウは、何も諦めちゃいない。だからこそ、俺様はスノウに協力した。何もかも諦めた奴に手を貸すほど俺は暇じゃねえ」
「ならば、スノウ様は、何故」
 ――今になって、神殿の外に出たのか。
 ライラの言葉は声にはならなかったけれど、今この瞬間に彼女が言おうとしていることくらいは、ブランにだってわかった。
 だから、ブランは笑う。くつくつと、喉を鳴らして。
「スノウはな、奇跡を起こしに来たんだよ」
「奇跡……?」
「奇跡ってのは待つもんじゃねえ。何もかも、何もかも。この世の全ては行動によって招かれる結果でしかねえ。それは、俺様なんかよりもスノウの方がよくわかってんだろうな」
 そして、スノウはこの地にやってきた。
 胸の内に譲れない思いを秘めて、真っ直ぐに前を見据えて。その彼女を見つめ続けてきたブランは、彼女が諦めていないということを知っている。その姿は、見る者が見れば「悪あがき」と捉えられても仕方ないかもしれない。
 だが、ブランはそんなスノウが好きだった。自分には無い、熱い心をその可憐な体に閉じ込めてきた小さな少女に何よりも「憧れた」のだ。
「だからさ、あと三日。三日だけでいいんだ。待ってやっちゃくれねえかな」
「……それは、神殿が決めることだ。貴様には関係ない」
 ライラはぴしゃりと言い切ったが、その表情はブランが初めて目にした「騎士」としての彼女とは違う、年相応の女の顔つきに見えた。
 ライラはしばし、手元の紅茶の水面を見つめていたが、やがて顔を上げて言った。
「最後に一つ」
「どうぞ」
「貴様は、スノウ様とはどういう関係だ。スノウ様は神殿から出たことがない。異端研究者たる貴様と邂逅するはずがない」
 その通りだ。ブランは首肯する。
 スノウがセイルに語ったとおり、ブランはスノウにはつい数日前まで会ったことがなかった。しかし、ブランはスノウの全てを知っていると言っても過言ではない。スノウがブランの全てを知っているのと、同じように。
 ただ、それを正しく説明する術をブランは持たない。理論は理解しているが、それを語ったところで相手も同じように理解できるとは思っていない。故に、ブランは目を細めて己の頭を指した。
「俺様とスノウはここで繋がってて、お互いの考えてることがわかっちゃうのさ」
 そういうことにしておいて、と付け加えて。
 ライラは怪訝そうな顔をして、ブランを見据える。ブランとて、信じてもらえるとは思っていなかったし、嘘は言っていないが必ずしも正しい答えというわけでもない。
 ブランの言うことを真に受けたのか……生真面目なライラのことだから、それも十分にありえるとは思ったが……唇に指を当て、深く考えるような素振りを見せるライラに対し、ブランはにやついた笑みと共に告げる。
「さて、と。俺様もこれでなかなか忙しいからね。そろそろ、どうするか決めてもらえっかな」
 ライラはしばし黙考したが、ブランが思うほどの間を置くことなくきっぱりと告げた。
「わかった、今だけは貴様の提案を呑もう。今優先すべきはスノウ様の無事だ」
「ありがたい。俺様も天才だが身は一つだからね。正直一人でスノウを守りきれるかどうか、不安だったんだ」
 もちろん、ライラや騎士たちの手によってスノウが連れ戻される可能性はまだ消えていない。けれど、『エメス』を自分一人で牽制せずに済むのはありがたかった。
 ブランは己の目と足で確かめた『エメス』の情報を、小声でライラに語る。ライラはブランを睨む瞳の強さこそ変えていなかったが、熱心にブランの言葉を聞いている。ブランの言葉を時折疑うかのように問い返してくることもあったが、頭から疑っているわけでもないのはその態度から明らかだった。
 あらかた自分の知っていることを話し終えると、ライラは小さく頷いてみせた。その表情が毅然としたものに見えたから、ブランは満足して席を立つ。すると、ライラがブランを見上げて鋭い声を上げた。
「待て」
「何よ、まだ質問? 答えるって言った手前、一応聞くけど」
「貴様は」
 ライラは言葉を放ちかけて、唇をきゅっと引き結んだ。「どしたん?」と問いかけるブランに対し、ライラはゆるゆると首を横に振った。
「いや、何でもない、引き止めて悪かった。後のことは……スノウ様に伺えばいいことだ」
 その言い方が気にならないわけではなかったが、ブランは首を傾げただけでそれ以上は問いただそうとは思わなかった。どうせ、スノウに聞くならば自分の耳にも届く。それでいいではないかと言い聞かせて、ブランはライラに背を向ける。
 その時、ライラがどんな顔をしていたかも、わからぬままに。

少女と記憶

 大丈夫か、と問う声がした。
 スノウははっとして顔を上げる。そこには、金色の髪を薔薇の髪飾りで結った少女……神殿の神聖騎士であり、スノウの友であるライラが立っていた。スノウは「平気だよ、慣れちゃったもん」と笑う。
 ただ、スノウの体は寝台の上にあった。平気だと言ってみせたけれど、胸を締め付ける痛みは決して慣れるようなものではない。そして、日に日にその痛みが増していることにも、自分自身で気づいている。
「……医者は、何と言っている?」
 ライラはともすればきつく聞こえる口調でスノウに問うたものだった。だが、別にスノウを責めているわけではなく、単にライラは普段からそういう喋り方なのだ。
 今は何処までも慇懃な態度を崩さないライラだが、「あの頃」はこうやって、ごく普通に言葉を交わしていた。今となっては、それはずっとずっと、遠い記憶のようだったけれど。
「お医者さんでもよくわからないみたい。でも、人にうつるような病気じゃないって言ってた。だから、ライラは心配しなくていいよ」
「そういう問題じゃない。スノウが無事かどうか、それが聞きたいんだ」
 ライラは切なる思いを瞳に込めてスノウを見つめる。スノウは、その飴色の瞳を真っ向から見つめ返しながら、それでも力なく微笑むことしかできない。
 本当は、この時にはもうわかっていたのだ。何もかもが。
 けれど、ライラには何も言えなかった。言葉を紡ごうとしても、頭の中に渦巻く感情が上手く言葉に出来なくて。そのまま、不安げにこちらを見つめるライラの瞳を受け止めることしか、出来なかったのだ。
「大丈夫。大丈夫、だよ」
 結局、スノウに言えたのは、この言葉だけ。
 もちろん、ライラがその言葉を鵜呑みにしたわけではなかったと思う。けれど、「大丈夫」と言ったスノウがその言葉を翻さないことも、誰よりもよくわかっていたはずだ。だからだろう、ライラはほんの少しだけ鈍く微笑みを見せた。それから、そっとスノウの小さな手に、何かを握らせたのだった。
 それは、柔らかな糸で織られた、長い緑色のリボンだった。
 不思議に思ってライラを見上げれば、ライラは「今日が誕生日だっただろう」と言った。孤児であるスノウは、自らが生まれた日を知らない。だから、神殿に拾われたその日を「誕生日」としていたのだ。そしてスノウは言われたその瞬間まで、今日が誕生日であることを全く意識していなかった。
「スノウが元気でいられますように、何があってもその身を守ってくれますように。気に入ってくれればいいけれど」
 緑は世界樹の色。楽園を、そこに生きる者全てを守る色だ。女神に仕える騎士たるライラらしい選択だと思う。そう思うと、嬉しいという感情と同時に、何故か胸を締め付けられるような感情に囚われた。
 スノウはリボンを握り締め、ライラを見上げて。
「ありがとう、嬉しい」
 その瞬間に――涙が零れたことを、覚えている。

 スノウの意識は、瞼の上に降り注ぐ光を感じてゆっくりと浮かび上がっていく。
 うっすらと目を開ければ、黒く大きな双眸がこちらを覗きこんでいた。
「……セイル」
「おはよ、スノウ」
 セイルは顔一面に安堵の表情を浮かべて、声をかけてきた。スノウは「おはよう」と答えながら、昨日よりはずっと胸の痛みが軽くなっていることを確認する。微かに息が詰まるような感覚はあるけれど、それはもはやいつものことだ。
 体を起こそうとするスノウだったが、セイルが「あ、寝てていいよ!」と慌てて押しとどめようとする。
「まだ具合よくないんでしょ? 無理しちゃダメだよ」
「ううん、大丈夫。いつもこうなの。心配かけてごめんね」
 言って、スノウは体を起こした。問題ない、体は微かな重さこそ感じるけれど、正常に動く。
 ――まだ。
 頭の中で「彼」から自分が寝ている間のことを確認しながら、スノウは寝台の上に腰掛けたままセイルを見上げる。セイルは、不安をあらわにしながらも真っ直ぐにスノウを見下ろしている。その表情は、あの頃のライラに、よく似ていた。
 ライラも既にスノウの居場所を知っている。そう、「彼」が言った。スノウがどのような決断を下そうとも、残された時間は少ない……スノウが微かな息苦しさを感じて胸に手を当てた、その時だった。
「……あのさ、スノウ」
 セイルが、ぽつりと言葉を落とした。
「それは、大丈夫って言わないよ。そんな辛そうなのに『大丈夫』だなんて、やっぱり変だよ」
 スノウは、思わず目を見開いてしまった。セイルは、ぽつりぽつりと、しかしあくまではっきりスノウの耳に届く声で言う。
「スノウは、無理してるとは思ってないのかもしれないけど、さ。俺から見ると、すごく無理してるように見えるんだ。きっと……無理することが当たり前になっちゃってるのかな、って」
 言ってから、セイルはくしゃりと表情を歪めて、「ごめん」と頭を下げた。
「俺、変なこと言ってる。スノウが思ってることも知らないのに、こんなこと言っちゃいけないよな」
 だから、と言ってセイルはスノウの手を取った。セイルの手は、小さいけれど確かな温もりに満ちていた。
「だからさ、今度は俺からのお願い。スノウのことを教えて欲しいんだ。どんなことでもいいから、少しでもたくさんスノウのこと、知りたいんだ」
 何も知らないままは、嫌だから。
 セイルの声には、何処までも真っ直ぐな気持ちが乗せられていた。
 ああ。
 スノウは思わず小さく声を上げていた。
 胸が苦しい。けれど、それはいつもの病によるものではない。とても温かくて、だからこそ切ない感情が胸を締め付ける。それに気づいた瞬間、あの時と同じように、意識せずともスノウの瞳から涙が零れ落ちていた。
 スノウの涙を見たセイルが慌てた。何処か悪いのか、痛いのかと矢継ぎ早に聞いてくるセイルに、スノウは首を横に振ってみせる。
「ううん、違うよ」
 セイルの真っ直ぐさが優しくて、眩しくて。
「自分でもよくわからないけど、あったかいの。ここがね、ぎゅっとするの」
 スノウはセイルの手を自分の胸に導いた。心臓の鼓動、息遣い、その全てがまだこの場所にある。セイルは目を白黒させて、スノウを見上げている。
「スノウ……」
「本当は、わたしからお願いすることだね」
 きっと、最初で最後だから。
 言って、スノウは目を伏せた。頬を伝う雫を拭うこともせず。
 そう、この旅は何もかもが最初で最後。
 だからこそ、どうしても伝えたいことがある。最初で最後の、神殿の外で出来た友達に。立場やしがらみに縛られることを知らず、迷いもなく自分の手を引いてくれたセイルに。
 話したとしても、セイルなら最後まで変わらないでいてくれるから――そんな確信の元に、スノウは唇を開く。
「聞いて欲しいの。わたしのこと……それから、青い薔薇の話」

騎士と誘い

 こつこつ、と窓を叩く音。
 それはライラの遠い記憶を呼び覚ます。
 ユーリスの名門エルミサイアに生まれたライラは、当然のように女神ユーリスと神殿への忠誠を誓った。そして、エルミサイア家のしきたりとして幼いながらも騎士としての道を歩みはじめた、その頃の記憶。
 一日の修行を終えて、己に与えられた部屋に帰ったライラは、いつも窓の外に目を配ることを忘れなかった。
 何故なら、ライラが帰ると必ず一人の少女がそこから顔を覗かせるからだ。
 少女はいつも泥だらけの修道服を着ていて、本来なら綺麗な白い肌もすっかり煤けてしまっている。それは、少女が日がな神殿のあちこちを駆け回り、男の子顔負けの大立ち回りを演じていたからだと、ライラもよく知っていた。
「ライラ、おかえり!」
 無邪気な笑みを浮かべるその少女は、神殿に暮らす孤児だった。神殿の前に捨てられていたのを運よく拾われ、育てられたのだと聞く。ただ、この少女はそんな己の境遇など何処吹く風といった様子で気ままに神殿を駆け回っていた。
 ライラは、自分とは境遇も性格も全く違うこの少女に興味を抱き、また少女もことあるごとにライラの後をついて回った。
 それが、ライラとスノウの付き合いの始まりであったことを、今更ながらに思い出す。まさかスノウが女神ユーリスにその能力を認められ『知恵の姫巫女』として女神に仕える運命にあったなど、当時のライラは知る由もなかったのだが。
 こつこつ、と再び窓が叩かれる。
 ライラは現実へと引き戻され、そちらを見て目を丸くした。
 そこには、全身を黒い服に包んだ男……スノウを攫った異端研究者が立っていて、へらへらとした笑顔でライラに手を振っているのだ。ライラは即座に声を上げようとした。ここは神殿だ、仲間たちに報せれば男を捕縛することも出来るはずだ。
 だが、ライラはすぐに出しかけた声を喉の奥に飲み込んだ。
 この男は何処までもふざけた態度ではあるが、決して馬鹿でないのは対峙したライラが一番よく知っている。そんな男が、何も考えずに自らの敵である神殿に赴くはずもない。ライラが仲間を呼んだところで逃げ切れるという自信あっての大胆不敵な白昼の訪問だ。
 ライラはそれでも警戒を緩めぬまま男を睨むと、男は唇と指の動きでこう告げた。
『ちょっと付き合ってくれない?』
 ――ふざけるな。
 そう、ライラはきっぱりと唇で表してみせた。すると、男は笑みを尚更に深めて、ライラにのみ伝わるように、もう一度指で言葉を表す。男が使ってみせる指による表現は、神聖騎士の間で使われる暗号のようなものであり、何故異端研究者の男がそれを操れるのかも気になったが、それ以上に男が伝えてきた内容がライラの気を引いた。
『「エメス」の動き、知りたくない?』
 それには、流石のライラも即座に返答出来なかった。
 スノウの居場所と無事がわかった以上、現在の懸念は何よりも『知恵の姫巫女』を奪おうと企む『エメス』だ。だが、現在のところ捕縛した『エメス』の研究者たちは、情報を吐こうとはしていない。また、こちらも『エメス』の動きを掴みかねていたから、男の申し出は神殿にとってもありがたいものだ。
 しかし、男の言葉を簡単に信じていいのか、とライラは当然自問する。相手は異端研究者であり、神殿の敵。その男の誘いに乗ることは、騎士としてあってはならないことだ。
 ただ、ライラには男の言葉が罠だとは思えなかった。もし罠であればライラはとっくにこの男に陥れられている。認めるのも悔しいが、この男はライラよりずっと上手だ。その評価を下せる位には、ライラも冷静ではある。
 少しだけ考えて、ライラは指で返事をした。
『時間と場所は』
 本当に、自分はどうにかしてしまったとライラは思う。数日前の自分なら、問答無用で男に打ちかかっていたはずだ。今でも自分の頭の片隅ではそうすべきだという声が絶えず鳴り響いている。
 けれど、ライラは男の誘いに乗った。
 それは……スノウの無事を確保するためであると同時に、スノウのことをライラ以上に知る男に、興味を抱いてしまったためであることを、否定することは出来なかった。
 男は満足げに笑むと、指先でこう告げた。
『正午に、西地区の喫茶店で会おう』

少年と寮での出来事

 卵ってさ、生まれるまで何の卵かわからねぇだろ?
 そんな不思議で、小さい、暖かな白。
 それがガキの俺には、凄ぇ大きいものが包まれてるように見えたんだ。
 俺の組織からもこの卵のように、たくさんの夢や、喜びや、未来が生まれるように。
 楽園の全てに自分の幸福が訪れるように。
 そんな願いを込めて、つけたんだ。

 ――「幸せの白卵」、ってな。

   (一〇七〇年 相互扶助組織『幸せの白卵』首領ルネ・ベークマン)


 セイルは朝食が終わった後も、椅子に腰掛けたまま天井の辺りに視線を彷徨わせていた。
「それにしても、昨日はびっくりしたね」
 すぐ横で椅子に腰掛けているはずのクラエスの声すら、遠くから聞こえるような気がする。
「ユーリス本殿の騎士様が、あの子を迎えに来るなんて……」
 そう、そうなのだ。
 昨日、スノウを連れて寮に帰った後のことを思い出す。
 あれからリムリカに事情を話し、すぐにスノウは部屋に運ばれた。医者を呼んだ方がいいとセイルとリムリカは言ったが、スノウは「いつものことだから」と頑として聞き入れなかった。しばらくすれば落ち着くから、と。
 だが、その間もスノウは激しく咳き込んでは苦しそうに胸を押さえていた。やはり医者を連れてこようとセイルが決めたその時に、来客があった。
 扉の向こうに立っていたのは、一人の女だった。女と言っても、スノウより少し年上といった程度だろうか、明るい金髪を束ね、野生の薔薇を思わせる薄紅の聖職服の上に白い鎧を身に着けた、まごう事なきユーリス本殿の神聖騎士だった。
 騎士を今まで間近で見たことの無かったセイルは物珍しさもあって女を見つめていたが、何よりも驚かされたのは、ライラと名乗ったその騎士が「スノウ様はこちらにおられますか」と丁重な言葉遣いで、しかし有無を言わさぬ圧力をもって問いかけてきたことだ。
 セイルは何故騎士がスノウを探しているのか、スノウを様付けで呼ぶのか、色々聞きたくもあったが、騎士の纏う雰囲気は硬く、口を挟む余地もない。呆然とするセイルに対してリムリカは、いつになく毅然とした態度で騎士に相対した。
「あの子なら具合を悪くして、奥で寝てるよ。それより一体、神殿の偉いさんがあの子に何の用だい?」
 そう問うリムリカの言葉には棘があるようにすら聞こえた。だが、騎士はそれに動じた様子も無く、この場にいる全ての者の耳に届く声で言った。
 スノウは楽園にただ一人しか存在しない、女神に選ばれし存在『知恵の姫巫女』であり、とある男に攫われてこの地まで連れてこられてしまったのだ、と。
 『知恵の姫巫女』がどのようなものなのか、セイルはよく知らない。『巫女』が女神に一番近い存在という話は聞かされているが、その実態について今まで考えたことが無かったのだ。
 自分はそのスノウを助け、神殿に連れて帰るためにここまで来たと騎士は言う。
 だが、それはセイルにとっては奇妙な話だった。
 スノウは、望んでこの町に来たのだと言っていた。「攫われた」なんて一言も言っていないし、騎士が言う「ある男」……ブランは頼まれてスノウをここまで連れてきたはずだ。
 思わず首を傾げるセイルだったが、騎士は強い語調でスノウの身柄を引き渡して欲しいと言った。だが、リムリカは頑として騎士の言葉には従わなかった。スノウは今、動かせる状態ではないし、彼女の意見も聞かなければ自分からは何とも言えないと言い切ったのだ。
 騎士は今まで眉一つ動かさなかった顔に、一抹の苦さを見せた。ただ、これ以上は交渉にならないと思ったのだろうか……「明日、スノウ様を迎えに来ます」とだけ言って去っていった。
 結局医者を呼ぶことは出来なかったが、一晩明けてスノウの容態は落ち着いたようで、スノウの様子を見ていたリムリカが溜息混じりにセイルたちの座るテーブルのところに戻ってくる。
「全く、神殿の騎士ってのはどうも苦手だよ。二年前もそうだったけど、どうしてああも高圧的なんだろうねえ」
 クラエスは髭を揺らして微かに苦笑する。
「あの時は仕方なかったと思いますけどね。それに、今回だって……『姫巫女』といえば神殿の重要人物なんだから、騎士様が慌てるのも無理は無いですよ」
「二年前?」
 セイルはこの学校に入ったばかりの一年生だ、それ以前にあったことなど知るはずも無い。リムリカは「ああ、セイルは知らないんだったね」と微かに眉を下げて言った。
「十年くらい前にこの寮にいた子が、神殿に追われる身になっちまってね。ここにも、その子の手がかりが無いかって騎士が大勢押し入ってきたのさ」
 学校の方にも、その時には多くの騎士が詰め掛けたらしい。ただ、騎士たちの捜査では大した情報は手に入らなかったようだけれど、とクラエスが付け加えた。
「とにかく、あたしゃ騎士って奴が苦手なんだよ。あの子も攫われたようには見えないし、案外堅苦しいのが嫌で抜け出してきたんじゃないかねえ」
 そう簡単なものでもないと思うけど、とクラエスは苦笑する。リムリカももちろん本気で言っているわけではないのだろう、そりゃあそうさと言ってスノウが眠っている扉を見つめた。
 セイルの視線も、自然とスノウの部屋に向けられる。
 あの時のスノウの症状は、セイルの目から見てもまともではなかった。スノウ自身が言うとおり、すぐに収まりはしたようだったけれど……いつ、また同じようなことになるかは、わからない。
 ――スノウに、話を聞きたい。
 セイルは、思った。もちろん、やっとのことで眠りにつけたスノウを起こしてまで聞きたいというわけではなかったが、なるべく早く、スノウと話をしたい。そう思った。
 何故かはわからないけれど、これを逃したら二度と本当のことはわからない。そんな確信にも似た思いがセイルの脳裏に浮かんだのだ。それは、今日も見た青い薔薇の夢が、不意に脳裏に蘇る感覚に似ている。
 そういえば、あの青い花畑に立っていたのは、スノウだった気がする。
 日に日に色鮮やかになっていく夢の中、こちらを振り向いた黒髪の少女の姿がセイルの目蓋に焼きついて、離れずにいる。
 けれど、その少女がどんな顔をしていたかだけは……どうしても、思い出せなかった。

影と蝶

 寮の壁に背をつけて、彼――ブランは白い息をつく。
 スノウを何とか送り届けたものの、騎士はスノウの居場所を掴んでしまった。もう少し時間を稼げると思ったが、やはり計算通りにはいかないものだ。
 だが、このまま神殿に連れ帰られるわけにはいかない。祭の最終日、聖ライラの日まではどうしても時間を稼がなくてはならないのだ。それは、どうしようもない自分が、彼女のために出来る唯一のこと。
 スノウの苦しみを共有したかのごとく痛む胸を押さえて。
「……セイル」
 枯れた声で呟くのは赤毛の少年の名前。
 自分では、スノウの願いを本当の意味で叶えることは出来ない。そう、ブランは思った。彼女は確かに笑顔を見せてくれるけれど、そこに一抹の、彼にはわからない感情が混ざりこんでいることくらいはわかる。
 そして、言葉を交わすたびにその理解できない感情が深まっていくのを、感じる。先ほど叩かれた頬はもう痛みを感じなかったけれど、あの瞬間、自分は完全にスノウの心とは乖離していたのだと思い知らされた。
 そして、彼に理解できないその感情を「寂しい」とはっきり言い表してみせたのは、あの見ず知らずの少年だった。
「セイル、か」
 もう一度、少年の名前を呟いて、その響きを確かめる。
 小さな背中をぴんと伸ばし、黒い瞳でこちらを真っ直ぐ見上げて。彼に「名前」を与えてくれたセイル。
 あの心優しい少年ならば、きっと最後までスノウの手を引くことができる。セイルと一緒にいる時のスノウは、ブランに見せるものとは違う、そしてブランが知っているどれとも違う、晴れやかな笑顔を浮かべてくれる。
 だから、これでいい。これで、いいのだ。
 自然と、銃の握りを強く握り締めていたブランは、ふと目を上げた。
 目の前に、銀色の蝶が飛んでいた。薄闇の中にも微かな光を放つ、不思議なアゲハ蝶。それは、まるで彼を誘っているかのように、冷たい風の中にゆったりと翼を羽ばたかせている。
「イリヤの蝶か」
 青い薔薇とともに葬られた魔王の蝶。それが何を意味しているのかは、スノウの記憶を通して知っている。今、何故ブランの目の前に現れたのかも、何となくはわかった。
 けれど。
「悪いが、俺様はお前に用はねえのよ」
 何故、と。問われた気がした。それは気のせいかもしれなかったけれど、彼は更に深く唇を笑みの形にして……それでいて笑みの色を見せない瞳を、頼りなく空に泳ぐ銀色の蝶に向ける。
「俺は、スノウじゃないから」
 胸元を握り締め、ままならない呼吸を整えて。
 『影』と名づけられた男は誘いの蝶に背を向けて、きっぱりと宣言する。
「――『行く』のは、あいつ一人だ」

騎士と扉

 スノウとみられる少女の目撃情報があった。
 ライラは騎士からその話を聞いて、すぐに町に飛び出した。
 祈りの日を迎えた町には昨日までのような浮ついた空気は少しだけ収まっていて、その代わりに町のところどころにある小さな神殿に足を向ける人々の姿があった。
 その中を、駆ける。
 話によれば、黒髪を二つにまとめ、緑のリボンで結った少女が、町の少年とともに上級学校の方に向かっていったという。その少年についても、話を聞いているうちに上級学校の生徒であることが明らかになった。
 ライラの足は、その少年が暮らしているという寮に向けられている。情報を総合すると、スノウはそこに滞在している可能性が高い。
 その一方で黒服の男の姿は誰も目撃していないというから、本当に男とスノウは別行動だったのだろう。一体、あの男が何を企んでスノウを攫い、この町に連れてきたのか。それはライラにはわからない。
 だが、まずはスノウを保護しなくては。あの男を追い詰めるのは、その後で構わない。あの男がたとえ言葉通りにスノウを傷つけなかったとしても、彼女の体は外の空気に長くは耐えられないのだから――
『ね、ライラ』
 曇り一つない硝子のような響きの声が、ライラの脳裏に蘇る。
 背伸びをして、大きな窓から身を乗り出すようにして。ライラが贈ったお守りのリボンを風に靡かせた姫巫女は、外を眺めながらおどけた口調で言ったのだ。
『いつか、皆に内緒で、わたしを外に連れてってよ。神殿の外、ずっと遠い、遠い場所が見たいな』
 そんなこと、出来るはずない。ライラはそうきっぱりと答えたのだと思い出す。
 確かに、スノウは『知恵の姫巫女』ではあるがそれ以前に一人の少女だ。神殿の外に夢を見ることくらいは当然するだろうし、それを頭ごなしに否定できるわけではない。
 しかし、『知恵の姫巫女』はユーリスの要を担う巫女の一人であり、その役割は他の巫女とも違う特別なものだ。姫巫女を守る騎士として、そのような勝手な願いを聞き届けるわけにはいかなかったし……それに、スノウのことを思えばこそ、首を縦に振ることは出来なかった。
 時間は刻一刻と過ぎていく。
 残された時間は、決して長くない。
 目を上げれば、そこには白い壁を持つ小さな建物があった。飴色の瞳に移しこまれた寮は、何を語ることも無く佇んでいる。そして、記憶の中の少女は、くすくすと楽しそうに笑った。
『そっか。そうだよね。ごめんね、ライラを困らせるつもりはなかったの』
 本当に、そんなつもりはなかったの。
 呟いた少女の目には、どこか遠く、それこそライラも知らない場所を見ているような、そんな色があった。
『スノウ様?』
『うん、それでいいの。ライラは正しいよ。神殿の人間として、騎士として』
 だから、この話はおしまい。そう笑ってスノウは大きな窓を閉じたのだったけれど……そういえば、全く同じような言い方を、あの男がしていたのだと思い出す。
『だろうな、それでいい。お前さんは正しいよ。神殿の人間として、騎士として』
 何故あの時思い出せなかったのだろう。単なる偶然だと思いたかったが、それにしては奇妙な一致だった。
 その時、ライラの脳裏に一つの可能性がよぎった。だが、ライラは一つ首を振るだけでその可能性を己の中で否定する。それは、あってはならないことだ。そして、ライラが「信じたくない」ことでもあった。
 否、信じるも信じないも無いはずだ。仮定など無意味。自分が考えるべきは、目の前にある事実のみだ。そう自らに言い聞かせて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、
 目の前に立ちはだかる扉を、叩く。