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現代悪役概論

 重たい扉を開けて薄暗い店内に足を踏み入れると、そこが一種異様な空気に包まれていることに気づく。もちろん、俺はその原因がカウンター席に陣取っている一人の男であることをよく理解していた。
 カウンターにはその男以外誰も座っていない。
 いや、誰も座りたいなどとは思わないだろう。俺だって座りたくない。
 だが、残念ながら俺は、この男に呼び出されて今この場所にいるのである。遠目に男を見ていた他の客の視線を背中に感じながらも、俺は男の横に座る。
「よう」
「おう」
 男は目を上げて、小さく返事をした。
 ……相変わらずだな、と思う。
 地味なスーツに身を包み、縁のない眼鏡をかけたその姿だけを見ればどこにでもいるような普通の会社員のようだが、この男は常に血の匂いを染み付かせ、殺気にも近い雰囲気を身に纏い、常人にあるまじき鋭い眼光を持つ。
 それこそ、表の世界の住人でないことは俺でなくとも一目でわかる。
 だが。
 そいつが酒のつまみを前にべろんべろんに酔っ払っているところを見れば、脱力の一つもするもんだ。
「呼び出して悪かったな」
 ちなみに、便宜上鉤カッコ内では普通に喋っているように表現しているが、実際にはほとんど呂律が回っていない。きちんと聞き取れるのは……俺が、ことあるごとにこいつの飲みに付き合わされているからだ。
「いや、構わないさ。明日は店も休みだからな。それより、どうしたんだ?」
 わかっている。どうしたもこうしたもない。俺が呼び出される理由は常にただ一つなのだから。
 奴は酒の入ったグラスを強くカウンターに叩きつけ……まあ割れなかったところを見ると、無意識に手加減はしていたのだろうが……大声で言った。
「聞いてくれ……何故、何故奴らは我ら優良種の崇高なる任務をことごとく妨げるのだっ! この世は優良種に支配されるべくして存在するのだ!」
「うるせえ、少しは声を下げろ! 恥ずかしい!」
 そんなアホな話を大声でのたまうな。頼むから。そういう切なる願いを込めて、俺は思いっきり奴の後ろ頭をぶん殴った。


 奴は、要するに「悪の秘密結社の一員」だった。
 いや、「悪の」というのは俺の勝手な解釈だが、奴に言わせてみると「今までの劣悪な人類に代わって我々のような優良種が世界を支配する、そのための組織」ということなので、俺が普通に考える限り奴は「悪の秘密結社の一員」だと思われる。
 で、奴が言うには奴のような「優良種」の人間というのが何だか不思議な力を持っているらしく、その力で世界を変えようとしているとか何とか。俺も奴の変な力は知っているし見たこともある。だから何だ、という感じだが。
 だが、「悪の秘密結社」があるということは、「正義の味方」というやつもいるらしい。俺たちのような一般人には知られていないが、奴の言う「優良種」でありながら現状維持を望む連中がいて、そいつらは一般人に気づかれる前に、秘密結社の破壊工作や支配計画をことごとく潰して回っているらしい。ご苦労さん。
 しかしそうされては困るのが、奴なわけで。
 その度に、俺は奴の愚痴と飲みに延々と付き合わされる羽目になる、わけで。


「いいか、劣悪種の貴様には到底理解できないだろうがな!」
 俺が来る前にとっくに出来上がっていた奴は、大きく腕を広げて迷惑極まりない演説を始めた。その言葉のほとんどが聞き取れないくらいに呂律が回らないのは、むしろ聞かされている側の俺にとっては救いだったのかもしれないが。
 ついでに、俺は自分の腕が痛くなるほどの強さでぶん殴ったつもりなのに、少しも堪えた様子がないのが憎らしい。この無駄な打たれ強さもまた、奴が「優良種」たる所以、らしいのだが。
「この世界は腐っている! 力の無い人間どもがのさばり、我ら力持つ者の存在すらも闇に葬ろうとしている。だが、本来は我々のような力ある存在、優良種こそが世界を支配するべきなのだー!」
「……最低でもお前にゃ支配されたくないな」
 本気でそう思う。それ以前に、こいつが支配する世界というのが想像できないのは、純粋に俺の想像力が欠乏しているからだろうか。いや、ありえない。原因はただ奴自身にある。
 俺は、喚きちらす奴の言葉を遮って、常々思っていた疑問を口にした。
「何で、支配しなきゃならないんだ?」
「愚問だな。より優れた種が劣った種を淘汰するのは自然の摂理であり、あるべき姿だ。劣悪種と馴れ合おうという『奴ら』が理解できん」
 「奴ら」、というのは俺が認識するところの「正義の味方」のことだろう。まあここまではいつも奴が語っていることだ。俺も賛同はしないが理解はできる。だが。
「……じゃあ、何でお前はいつもお前の言う『劣悪種』の俺と馴れ合ってんだよ」
「はっ!」
 奴の酔いが、一瞬醒めたような気がした。
 というか、お前、今初めて気づいたのか、その事実に。
 奴はグラスを片手にしばらく混乱を収めようとせわしなく目玉を動かしていたが、やがてぼそぼそと、言った。
「えっと、お、俺は寛大だからな。感謝しろ、貴様のような劣悪種も対等に扱ってやる俺の」
「言ってること思いっきり矛盾してるぞ」
 俺はずばりと言ってやった。すると、奴は完全に硬直し……次の瞬間、俺の身体にひしとしがみついた。
「ばかぁぁぁ、お前なんて嫌いだぁぁぁ」
 鬱陶しい。しがみついたままさめざめと泣くな。勘弁してくれ、周囲の目まで冷たいぞ。
 どんなに殴っても堪えないというのに、いい大人が何故こうまで精神的に弱っちいのか、と一度問いただしてみたいところだが、下手にそんなことを言うと余計に泣いてうざったいのでやめた。
 このまま放っておくのも何である。ひとまず話を変えることにした。
「で、今日は何があったんだ? わざわざ俺を呼んだんだ、何か話したいことでもあるんだろう?」
「あ、ああ、そうだったな……実は」
「今日も、『奴ら』にやられた、と」
「何故先に言う!」
「だってお前の言うことなんて決まってるだろうが!」
 奴は、話を聞く限りではどうも「悪の秘密結社」の戦闘員らしい。と言っても最底辺というわけではなく、下っ端を率いて「正義の味方」を倒しに行く……言うなれば、戦隊ものの一話に一体出てくるその日のボス、のような立場だという。この解説は俺が奴の話を聞いているうちに考え出したものだが、おそらく当たらずとも遠からず、と言ったところだろう。
 そして、毎度その「正義の味方」にやられて帰ってきては俺が迷惑する。
 何て悪循環。
「ああそうだよ、負けてきたさ! それどころか俺が出て行った瞬間に、『なーんだ、お前か』って言われて安心されたさ! もちろんその直後にぼこぼこにされたさ! 最近少しは容赦しろよとか思わないでもない!」
「いい加減バカにされすぎだろお前。しかもそろそろ弱気だな」
 何度も何度も同じ失態を繰り返せば、そりゃあ敵からもバカにされるとは思うが。
 奴はかなり強いはずの酒を一気にあおると、「もう一杯くれ!」と叫ぶ。奴が酔っ払ってよくわからない話をしていることにはもう慣れてしまったらしい、馴染みのマスターは普段と変わらぬ笑顔で奴に新たなグラスを出してやった。俺は苦笑を浮かべてマスターに会釈した。
 本当、ごめんなさい、こいつが変な奴で。
 そういう切なる思いを視線に込めながら。
「俺、よく考えてみるとお前が『勝った』って話は一度も聞いたこと無い気がするんだが」
 というか、奴が勝ってしまったらそれはそれで問題だ。奴自身についてはともかくとしても、俺のような普通の人間には理解の出来ない思想を持つ「悪の秘密結社」が一歩支配を広めてしまうのだから。俺はどちらかというと「正義の味方」の言う現状維持の方が嬉しいは嬉しい。
 が、それにしても、こいつは本当に「悪の秘密結社」の役に立っているのだろうか?
 他人事ながら、どうにも気になってしまう今日この頃。奴もおそらく俺の思いを察したのだろう、ほとんど泣きそうになりながら叫んだ。
「うるさい! 毎回対策は立てている! 今度こそ勝てるよう、前回戦った時の情報を総合し、準備をして挑むのだ! だがそれ以上に奴らは力をつけているのだ!」
「もう少し先を読め、頼むから」
 俺はがくりと肩を落とすしかなかった。そりゃあ向こうだって対策立ててくるに決まっているだろうが。そのくらい普通に考えつくだろう。
 もしかすると、奴の上司も奴と同じくらいにバカなのかもしれない。そうじゃなければこんなバカを使い続けている意味がわからない。いや、それとも俺のような愚民の考えが及ばないくらいの天才なのかもしれない。そうだったらいいなあ。
 なんて現実逃避をしているうちにも、奴の話は続く。
「これでもう十七戦十七敗だ! 危うくこの前本部から島根支部に異動になるところだった!」
「……異動しとけよ、素直に」
 異動してくれれば俺もいちいちこうやって愚痴を聞かずに済むし。というか島根にまで「悪の秘密結社」支部があるのか。ついでに一応こいつは結社の本部に所属しているのか。初耳だ。他の面子がどんな奴なのか知りたいような知りたくないような。
「バカを言うな! 俺のエリートコースをこんなところでダメにすることはできん!」
「……十七敗した地点で出世は諦めるべきなんじゃないか」
「諦めたらそこでゲームセットだ」
「意味がわからん」
 もう最悪だとぶつぶつ言いながら出された焼き鳥にかぶりつく奴。俺もやっと自分の前に置かれたグラスを手に取り、酒の味を確かめることが出来た。いつも俺が利用している店とあって、味には保証がある。
 しかし、本当に難儀な奴だ。
 今までの会話からもわかるとおり、確かにバカだが嫌な奴というわけでもないのだ。単に「悪の秘密結社の一員」で、俺とは生きている世界それ自体が違うだけ。話を聞いている限りでは随分血生臭いこともやってきているようだが、それは俺に影響しない限りでは何も言わないことにしている。現代社会を本気で憎む奴に現代社会の倫理などを説いても無駄だからだ。
 それに。
「……なあ」
 焼き鳥の串を置いて、奴がぽつりと呟いた。
「俺、どうしたら勝てるかなあ」
 バカだが、くそ真面目なこいつを見ていると、どうにも笑っているだけではいけないような気分になる。そうでなけりゃいちいちこんな辛気臭い上に恥ずかしい飲みには付き合わない。
「うーん、今のままじゃ無理だろうな。そうだな、例えば奴らの大切な人を人質に取るとか」
「この前奴らのリーダー格の恋人を人質にしたところ、恋人の方が強かった。本部の研究所壊滅」
「何だそれ!」
 どんなイレギュラーな女だ。
「じゃあ、敵情視察……スパイを送るとか」
「気づいたら二重スパイされていた。本部の戦闘員養成所壊滅」
「……いい加減信用ないな、お前の組織」
 わからないでもないが。しかし二重スパイとは「正義の味方」もなかなかやるものだ。
「なら、そういう手段を使わなくとも、お前がもう少し頭を使って立ち回ればいいんじゃないか?」
「どういうことだ?」
「今日はどうして負けたんだ? 俺に教えられる範囲でいいから教えてみろ」
「今日は、逃げられないように廃工場におびき出し、逃げられないよう戦闘員で囲んだところまではよかったのだが、どうも全体の火力と耐久力が足りなくてだな、簡単に蹴散らされてしまった」
 それは逃げられる逃げられない以前の問題だ。そろそろ自分の実力そのものでは「正義の味方」の皆様には勝てないと判断すべきだろう。搦め手がいくつか失敗したからと言って、今さら正攻法でやろうということ自体が間違っている。
「……そりゃあ『なーんだ、お前か』って『奴ら』にも安心されるわな」
「う、うるさい! 何かいい方法があるのか、言ってみろ!」
「そうだなあ……なら、お前がバカにされてるのを逆手に取る、とかどうよ」
「バカにされてなどいない! 単に安心されるだけだ! だが、どのような方法だ?」
 敵であるはずのお前が登場して安心されること自体が、バカにされていることだと気づいた方がいいと思う。だが、「どのような方法だ」と問われてしまったので、俺はちょっとだけ考える。
「安心している、ということは逆に油断している、ということでもあるだろう。何しろお前は奴らに十七回も負けているんだから、向こうさんだってお前が相手なら勝てると思っている。そこを利用するとなると……」


 あれから数日が過ぎて。
 店の片付けをしている時、奴から、電話があった。また飲みの呼び出しか、懲りないなと思って眉を寄せて携帯電話の通話ボタンを押した瞬間に、聞いたこともない明るい声が飛び込んできた。
「……聞いてくれ、勝ったんだ!」
「はあ?」
 訝しげな声を上げる俺に構わず、奴は勝手に言葉を続けた。
「貴様が立案した作戦を実行したところだな、まんまと『奴ら』が引っかかったのだ! 全員を殺すまではいかなかったが、しばらくは復帰できないほどの打撃を与えることに成功した!」
 ああ、そういえば、そんなことも言った気がする。口からでまかせだったし、酒の場の勢いというのもあって、何を話したのかはさっぱり覚えていないのだが。
 まさかあんなでまかせを本当に実行したのか。
 その上、成功までしたのか。やばい、奴をバカだと笑う前に、この「正義の味方」の連中も笑わなきゃならないのか。この世界はどうなっているんだ。本当に大丈夫かこの世界。
「貴様のような劣悪種の提言で勝利を収めたというのは納得がいかない部分もあるが、我々優良種の支配を広げる一端となったことに大いに喜び咽び泣くがよい!」
「嫌だ。ついでに手前は何もしてないんだから威張るんじゃねえ」
「はいすみませんでした」
 だからそこで反射的に謝るなよ「悪の秘密組織の一員」。本当に俺には頭が上がらないんだな。いや、根がそういう性格なのかもしれない。何にせよ「支配」とかいうものにはとことん向かない性格だ。
「と、とにかく」
 気を取り直して、受話器の向こうで奴が言った。
「我らが司令官に貴様のことを話したところ、劣悪種ながらその頭脳には感嘆すべき部分が多いと認めた」
「はあ、ありがとうございます。で?」
「司令官は貴様が我ら優良種に忠誠を誓い、その知識を我らのために生かそうというのであれば来るべき我ら優良種の世界に貴様の座を作ってやろうと提案した! もちろん貴様はこの提案を飲まないわけが」
「誰が飲むかー!」
 俺は全力で叫んで、電話を切った。切る直前に奴が何か言ってた気もするが、気にしちゃいけないのだと思う。
 ああもう、何で皆が皆バカなんだ。
 奴といい、「悪の秘密結社」の司令官といい、「正義の味方」といい。世紀末は終わったはずなのに何故こんなに世紀末。世界の行く末を語る奴らが皆バカだなんて、救いがなさすぎる。
 ああ、だからそれ以外の連中は何も知らされていないのかもしれない。
 そっちの方が、ずっと、幸せだ。
 下手に中身を知っている俺が、こんなに損な気分になっているのだから、間違いない。
 そんなことを本気で思いながら、俺はベージュのコートを羽織る。
 今日は祝杯だと言ってまたあの店に迷惑をかけているだろう奴を、止めてやるために。


 ……まあ、一杯くらいは付き合ってやっても、いいかな。

楽園は遥かに遠く

「この海の下に楽園があるんだって、皆は言うけど」
 車椅子をぎぃと鳴らして、クリスタルは笑う。屈託なく、子供のように。いや、実際クリスの思考は子供のそれと何ら変わりがなかったのだが。
「海の下には楽園なんてないんじゃないかなあ」
 窓の外に広がる雲の海を見つめて、いつものように呟く。私はそれを聞きながらいつものように気のない相槌を返す。ただ、クリスは私が話を聞き飽きていることなどには気づかず、長い腕を振って海を走る蛍光色の雲上バスに手を振っていた。バスの運転手である、私もよく知る少女……この少女はよく怪我をしてはこの病院に連れてこられる……がクリスに向かって手を振り返すのが、見えた。
 このクリスタルという男が傷だらけでこの離島の病院に流れ着いてきてから数年。初めは記憶も言葉も失い、赤子同然だった彼も随分と回復し、今では毎日を楽しんでいるようだ。ただ、足の機能は失われたままであり、どこかに置き忘れてきた記憶も、未だ戻ってはいない。
 無理に思いださせるつもりも、私にはない。忘れるべき記憶だったのならば、思い出す必要もないだろう。
 もちろん、今はクリスタルと呼ばれているこの男が本来どのような名前で、どこから来て、家族はいるのか、それらを知りたいと思わないでもない。だが数年前クリスが病院に来てから今まで、クリスの過去にまつわる情報は一つも入ってきていない。彼を探している、という人間にもお目にかかったことはない。
 唯一、過去の手がかりとなりそうなものは、彼が流れ着いた時に握り締めていた、六角の透明な石。これは古代の文献によれば「水晶」……「クリスタル」と呼ばれる石で、とても珍しい石だ。
 鉱物が絶対的に不足しているこの世界で完全な形の鉱石が見つかること自体、奇蹟に近いのだから。
 彼自身、どうしてこのようなものを手にしていたのかは理解していないようだが。
 故に「クリスタル」と呼ばれるようになった彼は、今もこの病院で暮らしている。彼が握り締めていた石は、ペンダントになって彼の胸元に輝いている。
「ねえ、先生」
「何だい」
 クリスは無邪気な笑顔を浮かべて、私の白衣を引っ張る。
「昨日の話の続き、してくれるって約束したよね」
「ああ、そうだったな」
 まだ診察開始までには時間がある。それに、診察時間になったとしても、こんな辺鄙な離島の病院に訪れる患者などそう多くない。それこそ先ほどのバスの運転手の少女のように島と島の間を駆け巡っているような人間でなければ訪れることはない。
 私はクリスの車椅子の横に腰かける。
「昨日はどこまで話したかな?」
「世界の真ん中の国で、長老って人たちが雲の下の楽園を探しに行こうって決めたところまでだよ」
「そうだったな」
 この世界が雲の海の上浮かぶ島だということは、皆が理解していることだ。だが、どこまでも広がっているように見える雲の海の下に何があるのかを確認した人間はいない。
 故に、この世界には海底にまつわる数々の伝説がある。
 曰く、雲の海を越えると鏡写しになったようなもう一つの世界が広がっている。曰く、暗闇に包まれた死後の世界が雲の下に存在する。
 そして、昔からずっと語り継がれている伝説の一つが、「楽園伝説」。
 この海の下には、この世界と違いどこまでも地面が広がっていて、緑に満ち溢れ、物に困ることもなく、人々は幸福に暮らしている、という。
 それを確かめようと思ったのが、この浮島を含んだ海上世界全体を統べている、中央国家。そのトップである五人の長老が、雲の海を越えた海底調査を実施することになったのだ。
「その伝説を確かめるために、長老たちはまず、雲の海を越える船を作った。除幕式を見た弟によれば、とても硬く丈夫なバスのような形だと言っていたな」
「バスって、キリィが乗ってるような船のことだよね?」
 キリィというのは先ほどバスの運転手をしていた少女の名だ。私は嬉しそうに笑うクリスに向かって笑い返してやった。
「そうだ。それで、長老の手によって、海底探索隊が選ばれた。誰もが、この世界の中で指折りの勇者だった。特にクラウド隊長は、私も実際に顔は見たことが無いが、かつて起こった戦争で大活躍をした、若いが腕利きの船乗りだった」
「戦争? 戦いがあったの?」
「そうか、クリスはそれも知らなかったっけな。まあその話は後にしよう。クラウド隊長率いる海底探索隊……エデンシーカーと呼ばれたのだが、彼らは船に乗り込んで、雲の下を目指した」
 その時は、電波放送のニュースもひっきりなしにエデンシーカーの話ばかりをしていた気がする。当時首都の学校に通う学生だった私にとっては夢のような話で、友人と憧れを交えて雲の下に夢を馳せていた。
 楽園なんてない、と主張するクリスもまた、この手の「冒険譚」には興味があるのだろう、目を輝かせて話の続きを促す。
「それで、その……エデン、シーカーって人たちは何を見てきたの?」
「それが、わからないんだ」
「何で?」
 クリスの疑問はもっともだった。しかし、私だけではない。それは、この世界に生きる全ての人間が、この疑問に答えられずにいる。何故なら。
「エデンシーカーは一人も帰ってきていないのだ。あれからもう十年近く経つのに、だ」
 逐一電波通信で連絡を取っていたはずの探索本部は、ある地点からエデンシーカーの乗る船を見失った。また連絡も、途絶えた。
「海の仲を行くのも大変なことだった。底に行くに連れて雷が船を狙い、また冷たい大気がエンジンを凍らせようとした。それは、報告にもあることだ。そして、隊長からの最後の連絡は、『海を突破する』という言葉だったそうだ」
「じゃあ、エデンシーカーは、雲の海の先を見たんだね」
「ああ……多分な」
 当然、それが真実かどうか確かめる術は、誰にもない。あれから、首都では第二、第三のエデンシーカーを送り出そうとする動きはあるが、実行には移されていない。第一隊が帰ってこなかった、ということが大きいだろう。
「でも、どうしてエデンシーカーは帰ってこなかったんだろう。先生は、どう思う?」
「どうだろうな。私は、やはり楽園があったと考えたいところだが」
 クリスは私が言いたいことが理解できないのだろう、不思議そうに首をかしげた。だから、私は言葉を付け加えることにした。
「海の底には楽園があって、エデンシーカーは帰りたくない、と思うくらいの幸せを手に入れて生きている。そう考えた方がこちらも幸せだろう」
 エデンシーカーの生存は絶望的。
 そのような発表をされたのは、エデンシーカーが失踪してから一年後の話だった。海の底を突破する時にかかる負荷か、その先にあった何かが原因で、エデンシーカーは遭難した。そう、長老が結論付けたのだった。
 エデンシーカーとして船に乗り込んでいた私の弟も、帰ってこないだろう。唯一の肉親である私にそう言ったのは、長老の一人だった。
 だが、私は弟が死んだとは信じたくなかったし、今でも信じていない。それだけの話だ。
 クリスはやはり不思議そうに私を見ていたが、やがて、こくりと頷いた。いつものように、「楽園なんてない」と言わなかったのは、きっと私の言葉に含まれた何かを感じ取っていたからだろう。
「先生、診察の時間です」
 この小さな病院で働いている唯一の看護婦ファナが、私を呼ぶ。私は立ち上がると、クリスの頭を軽く撫でてやった。
「では、話はここまでにしよう。クリス、今日は誰と遊ぶんだ?」
「今日はキリィと遊ぶ約束をしてるんだ。朝のお仕事が終わったら迎えにくるって」
「そうか。怪我をしないように気をつけろよ」
「わかってるよ」
 クリスは笑顔で私を見送る。私は部屋を出ると、寂れた診察室に移動した。どうせ今日も来たとしてもはしゃぎすぎて怪我をしたキリィか、ここの浮島群に住んでいる誰かが風邪を引いたとか、そのくらいだろう。私は机に肘をつき、電波放送の電源を入れる。首都から遠く離れたこの場所では電波の調子が悪く、なかなか上手く受信してくれないのが悩みだ。
 しばらくつまみを適当に動かすと、やっとざあざあというノイズが消えて、はっきりと声が聞こえるようになった。
『……速報です』
「うん?」
 その時、唐突に飛び込んできたのは、ニュースキャスターの慌てたような声。私とファナは顔を見合わせて、放送に耳を傾ける。

『第一次エデンシーカーの船が、首都南の海岸に流れ着きました』

 私は息を飲んだ。
 まさか。
 今になって?
『船は大破し機能を停止していて、乗組員は船の中で、白骨死体で発見されました』
「……っ」
 思わず、全身から力が抜ける。
 今更、私から最後の希望まで、奪おうというのか。横にいたファナが崩れそうになった私の身体を支えてくれた。
『また船内には銃撃戦の跡が見られ、死体に銃で撃たれたような痕跡が残っていることからも、乗組員同士の抗争があったと見られています。詳しい情報が入り次第……』
「抗争……? 乗組員同士で?」
 何が何だか、わからない。
 一体、エデンシーカーは何を見たというのだ?
「……大丈夫ですか、先生」
「ああ、大丈夫、だ」
 本当は全然大丈夫でもなんでもないが、ファナを心配させるのも悪い。軽く頭を振ると、放送機をもう一度見やる。今はまだ詳しい調べはついていないようだが、すぐにでも続報が入るだろう。ファナも驚きの表情を浮かべながら、じっと放送機を見つめていた。
 どの位待っただろう。
 放送機の向こうのニュースキャスターが、今度は厳かな口調で言った。
『政府の発表によると、乗組員二十人のうち、発見されたのは十九人』
 一瞬、その言葉に微かな希望を抱き。
『身につけていたものなどから判断したところ、エデンシーカー隊長、クラウド大尉の行方が不明となっているようです』
 直後それもまた潰えたことを、知る。
 ああ……もう、絶対に戻らないのだ。笑って海に旅立っていった、弟は。
『また、船内に残されていたクラウド隊長の航海日誌が一部公開されました。これから読み上げるのは、今から六年前の創世暦五六七年八月三十日に書かれた記述です』
 もはやほとんどまともな思考の残っていない頭で、私は流れてくる声を聞き流すことしかできなかった。


 この日誌を開くのも、何年ぶりだろう。
 私は、もう動かなくなった仲間に囲まれてこの日誌を書いている。
 もしこれが誰かの目に付くことがあったとしても、その頃にはこれを書いている私もやはりこの仲間たちと同じ場所にいるだろう。
 この日誌が奇跡的に誰かの目に晒される可能性も考え、以下にこのような状況になった顛末を記しておこうと思う。
 結論から言うと、我々は雲の海を越えた。
 そして、その先にあるものをはっきりと目にした。
 だが、私はここで見たものを報告することはできないと判断した。報告すれば、それはこの世界を揺るがすことになるだろう。
 もちろんこの判断を誰もが不服とした。大発見を伝えることこそが我々の任務であることは確かであり、彼らの言い分は正しい。
 しかし、私は現在の世界を愛していた。この世界を混乱に陥れることは、私の望んでいたことではない。
 知る必要のないこともあるはずだ。この世界には、誰も知らなくていい、そういうこともあるのだ。
 私の言葉に賛同するものと、反対するもの。エデンシーカーは二つに分かれた。やがてそれは船内の抗争となり、私以外の全員が銃撃戦の中死んだ。
 銃の弾は尽き、これを書いている今でも、血は止まらない。私も今から彼らの後を追って雲の海に旅立とうと思う。
 我々の行き着く先が、夢見た楽園でありますように。

 ――K・クラウド


『長老会議は、以上の航海日誌の内容を受けて第二次エデンシーカーの派遣を検討しているようですが、反対意見も多く……』
 何て馬鹿らしい結末だろう。私は今まで以上に重たい気分でその淡々と読み上げられた言葉を聞いていた。そんな馬鹿な争いで弟は死んだ。エデンシーカーは破滅した。英雄と称された隊長もまた、雲の海へと消えた。
『……また、行方不明のクラウド隊長を捜索する船団も雲の海に派遣されています。この記述によれば隊長は六年前のこの日誌を記した当時、瀕死の重傷を負っていたと見られ、生存の可能性は低いとされていますが……』
 ……?
 何かが、引っかかる。
 六年前。
 その時、私は――
「まさか」
 思い当たった記憶に、思わず、乾いた笑いが漏れる。それこそ、馬鹿な話だ。もし自分の想像が当たっていたとして、何故今まで誰もそれに気づかなかった?
「……先生?」
 唐突に笑い出した私に驚いたのだろう、ファナが目を丸くする。私は軽く手を振って、言った。
「何でもない。まあ、一つだけはっきりわかったことは……海の下に、楽園なんて存在しないということだ」
 弟たちエデンシーカーが見たのは、この世界を揺るがす巨大な何か。楽園などでは、無かったのだ。
 言いながら、私の頭の中に響くのは『楽園なんてない』と繰り返す無邪気なクリスの声。
 もしかすると、初めからクリスは窓から見える雲の海に、私とは違うものを見ていたのではないだろうか。雲の海からやってきた、あの男は……
「先生!」
 私の思考を遮るように、盛大な音を立ててドアが開く。入ってきたのは、髪の毛をピンク色に染めた少女……この病院の常連にしてクリスの友人であるキリィだった。
「ここは病院だ。ドアの開け閉めは静かに。それと大きな声も立てるな」
「悪ぃ悪ぃ。クリスは?」
「ああ、奥にいるよ。呼びに行ってやってくれ」
 私はちょいちょいと奥の扉を指した。キリィも慣れたもので、「はいよ」と奥の部屋へと向かう。キリィがクリスの車椅子を押して部屋から出てくる前に、私は放送機の電源を切った。
 私が放送機の電源を切るのと同時に、キリィとクリスは楽しそうに言葉をかわしながらこちらにやってきた。
「なあ、クリス、聞いたか、大ニュース!」
 キリィは可愛らしい顔に似合わぬ乱暴な男言葉でクリスに言う。クリスは「何のこと?」と何が何だかわからない様子で首を傾げる。
「エデンシーカーの船が見つかったって話だよ! もうどこの放送局もその話題だ」
「僕、ニュース聞いてないしなあ」
「何だ、それじゃあこのキリィ姉さんがいろいろとレクチュアして差し上げようじゃねえか」
「やったあ。ねえ、今日もバスに乗せてくれる?」
「もちろん」
 何も知らない二人は、私の横をすり抜けて外への扉に向かう。
 だから、私は彼らが外に出て行く前に、言った。
「クリス」
「何、先生」
 クリスは笑顔でこちらを振り向く。首にかかる、水晶のペンダントが、揺れる。
 どこで手に入れたのかはわからない、絡繰仕掛けのこの世界で掘り出されるはずのない、透明な石のペンダントが。
 私もクリスに合わせてほんの少しだけ笑い、言った。
「雲の下に楽園がないのだとしたら、お前はどこに楽園があると思っているんだい?」
 私らしくもない、脈絡のない唐突な質問だったな、と言ってから思う。クリスも突然の問いに驚いたのだろう、色の薄い眼を見開いていたが、やがて笑顔を取り戻して言った。
「僕は、ここが楽園なんじゃないかなって思うんだ」
「何?」
「だって、先生と、ファナさんと、キリィがいて、毎日が楽しいもん。楽園って、とっても楽しくて幸せな場所のことでしょ?」
 それは、問いに対する正確な答えになっているのか否か、私にはわからなかった。ただ、何となくではあるが、それがクリスと……絶望のうちに最後の言葉を記した一人の船乗りが導き出した、一つの答えであるように思えた。
『私は、現在のこの世界を愛していた』
 愛していたからこそ、何も語らないことを選んだ。そして、口を閉ざしたまま雲の海へと消えた、一度も見たことのないはずの船乗りの姿が脳裏に閃いて消える。
「……そうか。悪いな、引き止めて。楽しんでこいよ」
「うん。行こう、キリィ」
「合点でぃ」
 二人は病院の外に停めてある蛍光色のバスに向かって駆け出す。背の低いピンクの少女と、車椅子に乗った大きな男というちぐはぐな二人。
 開きっぱなしになってしまった扉の前に立って、私は思う。
 きっと、私はあの日誌を記した船乗り……クラウド隊長を馬鹿だと笑うことはできない。
 知りたいと思うこと、伝えたいと思うことは罪ではない。だが。
 クラウド隊長の言うように、何も知らなくていい。知るべきではない……確かに、そういうこともあるのだと、確信する。
 これ以上私の側から何かが奪われることがないように。
 クリスとキリィと自分たちが、笑い合っていられるように。
 「楽園」がいつまでも続くように。
 風の渦巻く青い空の下、声を上げつつ遠ざかるクリスとキリィの背中を見ながら、ただ、そんなことを願った。

夕焼けの殉教者

 水に生まれ、風に生きる。
 それが、『我々』に定められた生き方。


「行くのか」
 碧の目を空に向ければ、そこに広がるのは見事な夕焼け。それと同じ橙を身に纏った長は、ふと笑う。
「ああ」
「わかんねえな、そういうの。死にに行くようなもんじゃねえか。しかも、何代にも渡って旅して行き着く先が死に場所なんて」
 皮肉じゃねえか。
 その言葉は、何とか飲み込むことが出来た。長の表情が、笑顔ながらも確かな決意に満ちているように見えたから。長は同じ色を身に纏った大きな一団を背に、こちらに向かって穏やかな声で言った。
「貴方にはわからないかもしれないな。だが、これは私たちの祖もまた経てきた道だ」
 言って、長はふと、北を見る。夏から秋に移り変わったこの時期に、北の方角からは冷たい風が吹いている。風はだめだ。冷気もまただめだ。旅する力も、生きる力も、また精神をも削っていき、最後には惨めな死に至るだろう。
 この長と長に従う者たちは、今その北の方角に向かおうとしているのだ。生きて戻れるはずもない冬の世界へと旅立とうとしているのだ。
「何故、北に」
 放った質問は、あまりに間抜けなものだっただろう、と言ってから後悔する。それでも長は穏やかな笑顔を崩さず、またそんなばかな質問を、と笑い飛ばすこともしなかった。あくまで真摯な表情で、同じ目的を持った同志たちを仰ぎ、言う。
「知りたいからだ。貴方がそうであるように、私たちは冬を知らない。北から暖を求め舞い降りる鳥は冬を知るが、我が一族は鳥の声を聞き伝えるのみで見た者はない。だからこそ、我々はこの眼で、冬を見るのだ」
 何もかもを見通すような、長の大きな瞳が動く。普段は褐色をしているその瞳も、今だけは橙色に染まって見えた。
 冬を、見る。
 戯言だ、と思う。種族は違えど遠い親戚なのだから、それが叶わないことだってわかる。いや、長や長の後ろに控える者たちとてそれは誰よりもよくわかっているはずだ。
 それでも進むことをやめないのは……
「……下らない質問だったな」
 問うことすらも、無意味。漏れるのはただ苦笑のみ。
 それが、彼らの生き方であり、自分とは根本的に価値観が違うのだ。あくまで祖のあり方に忠実な、定住を知らない長の一族、逆に自らの居場所を頑なに守り続け、その中で自由に生きる自分。その間に何かしらの理解を持つ方が、実際に難しいのだろうと思う。大切なものが、元々違うのだから仕方がない。
 ならば、出来ることは。
「それじゃあ、幸運を祈るよ」
 夕焼け色の殉教者たちを送り出すことだけ。
 長は、彼らが元々生まれ出た場所である、南の地特有の礼を返した。
「ありがとう。貴方は、どうするつもりだ?」
「何、また明日になったら普段どおりいい女でも捜して回る毎日さ」
「そうか。それでは」
「じゃあな」
 そんな別れの言葉を最後まで聞かないうちに、長は脆くも見える薄い羽を力強く震わせ、夕焼けの空へと昇る。それに続き、長と同じ羽を広げて橙色の集団が次々に空へと飛び立っていく。
 夕焼け空に、溶け込むように。
 冷たい風に逆らい、時にはその風をつかまえて、真っ直ぐと北へ羽ばたいていく。
 彼らが夢見るのは噂に聞く白い雪だろうか。それともそんな凍えるような寒さの中に灯る光の暖かさだろうか。凍るような空気の夜に浮かび上がる星の数だろうか。
 決して理解はできない。共感もできない。
 ただ、何故か奇妙な美しさと前向きさだけは、認めざるを得なかった。
「何だかなあ」
 呟き、飛び立っていった長よりずっと大きく武骨な羽を下ろす。羽の付け根が軋む。誰もが羨む銀色がかった青い身体はぎしぎしという嫌な音を立て、茶色の長い尾が力なく落ちる。
 目蓋のない碧の目は空ろに空を見上げたままで、もうとっくに見えなくなった、帰ることなきウスバキトンボたちの姿を夕焼けに思い描いていた。
「……ああ、本当に、寒いな」
 北の風にさらされる孤独なギンヤンマの呟きを聞くものは、いない。


 水に生まれ、風に生きる。
 それが、『我々』に定められた生き方。
 だが、たどり着く場所は必ずしも同じではない。
 人がそうであるように。

02:金魚

 金魚のデモ行進により道の通行が制限されている、という。
「ええと、それは、どういう意味ですか?」
 Xの戸惑いも当然といえよう。少なくとも『こちら側』において、金魚とデモ行進という言葉が共に語られることはありえない。
 しかし、通行人を整理していた制服姿の男性は、逆に「何を言っているのだ」とばかりの視線でXをじろじろと見やる。
「金魚の問題を知らないなんて、一体どこから来たんだ、あんたは」
 それでも、男性はXが本気で首を傾げていることは理解したのだろう、面倒くさそうな表情ながらに言葉を加える。
「このあたりじゃ、ここ最近になって、金魚が自分たちの権利を認めるよう主張し始めたんだ」
「権利……、ですか?」
「そう。飼い主を自分から選ぶ権利、って言えばいいかな。それに、好きな相手とつがう権利もか。金魚ってのは、我々に管理されてるからこそ、この時代まで生き延びてきたのにな。そこを履き違えてるんだ、奴らは」
 男性の言葉には、金魚という名で呼ばれるものたちへの、否定的な感情が少なからず含まれていたが、この『異界』における金魚がどのようなものなのかわからない以上、私もXと共に首を傾げるしかない。
 男性がXに話をしている間に、少しずつ、ざわざわとした音が近づいてくるのがスピーカーから伝わってくる。やがて、それが拡声器を通した声であることがはっきりしてきたあたりで、男性がXに向けていた視線を切って、通行人を制限して空いた道を見やる。
「ほら、来たぞ」
 男性の視線を追えば、プラカードを持った一団が口々に何かを主張しながらこちらに向かってきていた。
 ――金魚にも権利を。
 ――管理者選択の自由を。
 ――悪しき血統主義を終わりにしよう。
 それぞれの単語の意味はわかるが、果たして彼らの主張の意味するところを正しく理解するのは不可能だった。ただ、練り歩いてくるそれらを見つめるXの視界を通して、この『異界』において金魚と呼ばれるものの姿を知ることは、できる。
 Xの目を通してディスプレイに映るのは、日の光に煌めくオレンジがかった色の鱗に、大きく広がった半透明の鰭。本来、魚の特徴であるはずのそれを、人間の肉体に生やしたものたち。
 魚の特徴を持つ人間――人魚といえば、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『人魚姫』が最も有名だろう。この国における人魚の物語を引くならば、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』か。人のそばにあり、人に形を似せながら、人ではありえないもの。童話に語られる人魚とはそういうものだ。
 そして、きっと、この「金魚」と呼ばれている人魚もそうに違いない。人の姿に似せた、人ならざるもの。
 彼らは、童話絵本に描かれるような、腰から下がまるまる魚の尾になっている人魚とは異なり、脚は人間のものとほとんど変わらなかった。ただ、裸体のところどころを赤みを帯びた金の鱗が覆っており、腰や肩口からは半透明の鰭が広がり、さながら薄赤のドレスを纏っているかのようだった。
 男性の姿をしたもの、女性の姿をしたもの。巨大な体をしたものがいれば、ひときわ小さな形のものもいる。ほとんどは美しい姿をしていたが、中には病にでもかかっているのか、破れた鰭を引きずる金魚もいた。
 ――自由を。
 ――金魚に自由を。
 ――我々は、もはや観賞されるだけの生命ではない。
 プラカードが掲げられる。生きたいように生きる権利を訴えるもの。好きな相手を愛する自由を訴えるもの。見た目による差別を訴えるもの。いくつもの主張を抱えて、金魚たちはまっすぐに歩いていく。しらじらとした素足で地面を踏みしめ、ゆっくりと、しかし確かに。
「変わらないよ、こんなことをしたって」
 男性の声が、金魚たちを見つめるXの耳に届く。
「血統の管理をやめれば、観賞の価値のない金魚が生まれる。よほどの物好きじゃなきゃ、形の悪い金魚なんて飼いたがらないだろ。捨てられた金魚に、生きる術なんてない。つまり、金魚に自由なんて与えれば、たちどころに滅びていくだけさ」
「……なるほど?」
 Xは言う。それは、男性の言葉に理解を示した「なるほど」ではなく、単なる相槌の意味合いでしかないことは、わずかに上がった語尾で明らかだった。いっそ、男性の言葉に納得していないと言い切ってしまってもよかったかもしれない。
 Xはこの『異界』のことを知らず、ましてや金魚ではありえない。だから、彼らの訴えも、そしてその訴えに対する男性の反応も、解釈のしようがないのだ。私がそうであるように。
 ただ、『異界』でなく『こちら側』に生きるものの、ごく素直な感想として。
「何一つ変わらなくても、滅びに向かおうとも、誰にも聞き届けてもらえなくとも」
 目にも鮮やかな金魚の行進が、行き過ぎていくのを視界に映しながら。
「今を生きる以上、幸福を望むことは、やめられませんからね」
 そう、Xは呟いたのだった。

01:黄昏

 黄昏時、という言葉がある。
 日が沈んだのちの、空が夕焼けから夜へのグラデーションを描く時間帯。元々は「誰そ彼」と書き、夕暮れで人の顔の区別がつかない――「あなたは誰」と問いかけることから来ている言葉だという。
 もしくは。『異界』に関わる者であれば、こちらの呼び名の方が親しみがあると言えるのかもしれなかった。
 ――逢魔時。
 大禍時とも書くそれは、妖怪や幽霊、魔物など、この世に存在しえないものと出会う時刻。一日のうち、最も『異界』と『こちら側』との境界線が薄れる瞬間だ。
 そして、『異界』には夕暮れの景色が多い。これは何も私の感覚によるものではなく、今までXが取得してきた『異界』のデータから得られた統計情報だ。私たちの観測がXの主観を通している以上、彼の目に見えているものが必ずしも「正しい」と言い切ることはできないが、傾向としてそうである、という話。
 我々から見れば『異界』である場所も、その世界から見れば『こちら側』が『異界』になる。『こちら側』の住人であるXが『異界』に赴くということは、『異界』の側にしてみれば、本来あり得ざる「魔」が混ざりこむことに等しいのかもしれなかった。
 かくして、今回の『異界』もまた、夜に閉ざされる前の、薄明かりの中にあった。赤から淡い青、そして濃い紺色へと移り変わっていこうとしている空は、『こちら側』の夕暮れと何も変わらない。
 いや、私の前にあるディスプレイに映る景色は、空の色に限らず『こちら側』によく似ていた。
 ディスプレイに映るXの視界で判断する限り、Xが立っているのは、住宅地の只中だった。立ち並ぶ家々の窓からは明かりが漏れていて、これからやってくる夜を待ち構えているようでもある。
 Xは、サンダル履きの足でアスファルトを踏んで歩みだす。私が与えている「可能な限り『異界』を観測する」というタスクを、Xはいつでも文句ひとつ言わずに実行に移す。行く場所のあてがあるわけでもないから、ただ、ゆったりとした足取りで歩きながら、その目と耳をもって、私たちに『異界』の様子を伝えるのだ。
 ――それにしても、静かな夕暮れ時だ。
 対向車同士がぎりぎりすれ違える程度の幅の道には、通学路を示す白線が引かれている。つまり、学校に通うような子供がいる地域なのだろう。けれど、子供たちの声は聞こえない。私の感覚からすれば、例えば部活や塾帰りの子供たちはこのくらいの時刻に帰途につくと思うのだが。『異界』である以上、我々の常識は通用しないということはわかっていても、『こちら側』とよく似た景色を見せられると、そんなことを思わずにはいられない。
 子供だけじゃない、例えば犬の散歩をしたり、仕事帰りであったり、もしくは買い物に出かけたり、といった人の姿も一人も見えない。しん、と静まり返った家々だけがXの視界に映る。Xの聴覚と接続しているはずのスピーカーが異常をきたしているのか、と疑いたくなるほどの、重苦しい静寂。
 その時、不意に視界の端で何かが動いた。Xは立ち止まり、そちらに視線を向ける。見れば、家と家の隙間に細い道が伸びていて、そこから、何かが音もなく這い出してくるところだった。
 果たして、それを「何」と形容すべきだろうか。
 何とか言葉を絞り出すとすれば、毛むくじゃらの、巨大な、蛇のような。けれど、その側面からは無数の手――それも五本の指を持つ、人間の手だ――が突き出して蠢いている。首をもたげるそれに目らしき器官は無いように見えるが、しかし、不思議とXを「見ている」ことは、ディスプレイ越しにも伝わってくる。
 突如として湧き出した異様な存在を、しかし、Xは驚きの声ひとつ出さずに見つめ、それから視線を横に移す。
 先ほどまで何もなかった空間を、羽を持つ魚のようなものが群れを成して泳いでいる。薄明の下、その姿はぼんやりとした影に覆われ、はっきりと見て取ることはできない。だが、空中を泳ぐ魚たちは、Xを取り囲むようにぐるぐると回る。
 起こった変化はそれだけではなかった。犬のような、けれど明らかにねじ曲がったシルエットの何かが曲がり道から飛び出し、家々の影から湧き出すのは無数の蜘蛛。そのいずれもが、こちらを見ている。――Xを、見ている。
 その時。
「……こんな時間に外を歩いているなんて、なんて命知らずだろう?」
 声が、スピーカーから聞こえてきた。それは、囁くような響きであったけれど、いやにはっきりと届く。もしかすると、Xの耳元で喋っているのかもしれなかった。Xの視界の中に、声の主は見えなかったから。
 しかし、Xはそちらを振り向こうともせずに、その場に立ち尽くしている。じわりじわりと、奇怪なものたちが、Xを取り巻く輪を狭めるのがわかる。獲物を追い詰めるように。
 このまま、Xに襲いかかる気だろうか。いつでも『こちら側』にXを引き上げられるように、潜航装置の操作を担当するスタッフに目配せをしたその時だった。
「と、思いきや。なんだ、ご同輩か」
 スピーカーから流れる、妙に間の抜けた声。その途端、Xを取り囲んでいたものたちが急にXへの興味を失ったかのように、めいめいに散らばっていく。Xの視線はぼんやりとその行方を追っていたが、どれもこれもてんでばらばらの方角を向いており、その全てを目で追うことなど不可能だった。
 かくして、アスファルトの道の上にはXひとりが残された。否、正確にはもう一人いるのだろう。そっと、Xの耳元で、誰のものともわからぬ呼吸とともに、声が囁く。
「いやはや、この『狩り場』も潮時かねえ。この通り、誰も彼も、あたしらを怖がって、家から出てきやしない。ご同輩もつまらないだろう?」
「そうですね。ひとと接触できないのは、困りものです。……しかし、流石に、招かれてもいない家に押し掛けるのも、気が引けます」
 囁きに応えるのは、低く穏やかな響き。Xの声。少々とんちんかんな物言いも、彼らしいといえば、そう。『異界』における行動は特に制限していないのだが、Xは変なところで常識的で、『異界』の住人に気を遣う。
 ただ、Xの応答は声の主にとってはそう見当違いのものでもなかったのだろう、愉快そうな笑いとともに言葉が続けられる。
「そういうことさね。招かれていない家の扉は開けない。もとより招かれざる客って言っちゃあそれまでだがね」
「……あなたも、私と同じで、外からやってきたのですね」
「そうさ。腹が減った時にちょいとつまむのにちょうどよかったんだが、どうやらやりすぎたようだ」
 そろそろ河岸を変えるとするかね、という声とともに、呼吸の気配が離れる。Xはそこで初めて振り向いた。声の主を確かめようとしたのだろう。
 だが、そこには、何もいない。ただ、見たことのない――けれどどこかで見たような懐かしさを伴う、住宅街が広がっているだけ。
 いや、一つだけ。もっと正確には「二つ」。
 アスファルトの道の先、夕日がすでに沈んだはずの、夕から夜へのグラデーションを描く空に、二つの丸い何かが輝いていた。星にしては大きく、月にしてはいやに赤いそれは、ぱちぱちと「瞬き」をして。
「それじゃあね、ご同輩。またどこか、別の黄昏時に会おうじゃないか」
 声を最後に、ゆっくりと瞼を閉じるかのように、二つの赤い円が細められて線になり、やがて見えなくなる。
 その瞬間、時間が止まったかのようだった黄昏の空が、一面の夜へと塗り替えられる。一瞬にして闇に包まれた道に、ぽつ、ぽつ、と街灯が光を投げかけ、家々の明かりがそこに人の営みがあることを示す。
 黄昏時、もしくは逢魔時の終わり。夜の始まり。
 Xは、ふ、と息をついて、夜の道を歩み出す。招かれざる「魔」の同輩は去って、それでも、なお、課せられた役割を果たすために、誰も己を知るものがいない世界を行く。

00:名も無ききみの、夜の道行き

 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸と彼岸、この世とあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる平行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 
 つまり、これは、Xがその身をもって確かめた『異界』の記録。
 もしくは、Xと呼ばれる彼についての、私の記憶だ。

降り、来たるもの

 Xの瞼が開かれる。
 目の前に広がっていたのは、人でごった返す交差点だった。辺りを見回してみれば、交差点の只中に立ち尽くしていたのだと気付く。立ち尽くすXの肩に誰かがぶつかって、舌打ちと共に早足に歩き去っていく。
 そうしているうちに、横断歩道の向こう側にある歩行者用信号がちかちかと点滅し、Xは慌てて交差点を渡りきる。次の瞬間には信号が赤に変わり、一瞬前まで人が歩いていたそこを車がものすごいスピードで通過し始める。スピーカーから響く、トラックが目の前を走り抜ける轟音。
 Xの視界を映し出すディスプレイは、広い道の向こうにビルが立ち並ぶ風景を切り取っている。どこかに似ているようで、それでいて私の知る土地ではない。スタッフには『こちら側』の風景との同定を進めるように指示し、視線をディスプレイに戻す。
 Xは、しばしぼんやりと走り去る車を見つめていたが、やがて動き出した。とはいえあてがあるわけでもないらしく、どこか頼りない足取りで、人波の只中を行く。その「人」も我々の知る人と何一つ変わらず、周りから聞こえる声も我々の知っている言葉で。
 ここが本当に『異界』なのかと、疑うほどの『異界』であった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 ただ、今回の『異界』はその言葉から想像される風景とはまた異なる光景を我々に見せていた。極めて『こちら側』によく似た景色。けれど、それはXの肉体から離れた意識体が見ている光景だということは間違いないことだった。
 Xは人の流れに揉まれるようにしながら歩いていく。歩いても歩いても風景はさほど変わりなく、ビル群とごった返す大勢の人。車道には無数の車が行き交っており、その誰もが自分の目的のために動いているのだろう、異質なはずのXには見向きもしない。もしくはXが異質に見えていないのか。この世界のありさまからすると、後者の可能性が高いとは思う。
 あらかじめXに我々が課している指示は、「できるかぎり自分の目と耳で『異界』の状況を確かめる」ことであり、Xはいつも従順に私たちの指示を果たそうとする。今もそうで、歩きながらも絶えず辺りを見回すことで『異界』の風景を私たちに伝えている。
 もちろん、『こちら側』によく似た『異界』は極端に珍しいものではない。むしろ、我々からアクセスできる『異界』にはそのような『異界』の方が多いかもしれない。並行世界、それは『こちら側』に最も近い『異界』である、というのが我々の間における通説だ。
 ただ、『こちら側』と「よく似ている」だけで、何かが異なる可能性は否定できない。注視する必要はあるだろう。
 ――と、思った、その時であった。
 突然、スピーカーからサイレンが鳴り響いた。消防車のそれに似ていたが、遥かに圧のある音の合間に、女性の声が繰り返し告げる内容は、このようなものであった。
『第三種危険生物が接近中。市民の皆様、慌てずに避難行動を行ってください』
 ……その意味を理解するよりも先に、ディスプレイに映る世界が一変した。
 人々が急にうねるように一方向に向けて流れ出したのだ。その流れに乗り遅れる形になったXは、辺りの罵声や悲鳴を聞きながら、その場に取り残される。車の流れもいつの間にか止まっていて、車から降りた人々が「避難」と呼ぶべき行動を始めていた。
 そして、波が引くように人の姿が街から消える。否、それでも完全に消えているわけではなかった。Xと同じように取り残された人間がぽつぽつと辺りに見えていて、Xはそのうちの一人――歩道の端に腰を抜かして倒れていた、年配の女性の腕を取る。
「大丈夫ですか?」
 Xは女性の体を支えて立たせてやる。女性は震えながらも、何とか自分の足で立ち上がってXに礼を言う。
「ありがとう、助かったよ。さあ、早く逃げようじゃないか」
「逃げるって、何からですか?」
 Xの言葉に、腰の曲がった女性はちいさな目を丸くしてXを見上げた。
「……お兄さん、何処から来たんだい? 怪獣を知らないなんて」
「怪獣?」
 あまりに現実味のない言葉――確かにここは自分の生きている「現実」とは別の世界なのだが――にXが間の抜けた声を上げたとき、上空を何かがよぎったのが、道路に落ちる影でわかった。鳥ではない。鳥にしては巨大すぎる、何か。
「ああ、早く逃げるんだよ!」
 女性が慌ててXの手を引く。Xは女性の身体を支えて、足並みを揃えて進んでいく。少し進んだところに「避難所」と書かれた分厚い扉の建造物が存在しており、その扉を開いたところで女性は立ち止まった。
「本当にありがとうよ。さあ、入ろう」
「いえ」
 Xは首を横に振った。
 私がXの顔を見ることはできない。私が観測することができるのは、Xの「視界」だけだからだ。けれど、何となくわかった。Xは、うっすらと、唇を歪めたのだろう、と。
「まだ、外に数人、残っていました」
「ちょっと、お兄さん!」
 呼び止める声にも構わず、そっと、女性の肩を押して避難所の中に導いてから、Xは扉を閉める。
 そして、駆け出す。次に倒れていたのは若い男性だった。あの怒涛の人波の中で怪我をしたのか、片足を押さえて道路の上に倒れ込んでいる。
「立てますか。手をこちらに」
「お、おう……、ありがとう」
 膝をつき、男性の手を引いて、肩にかけさせる。そして、男性の体重を体全体に乗せるようにして立ち上がる。
「避難所はすぐそこですから。頑張ってください」
 Xは彼には珍しく、ことさら明るい声で言った。男性を不安にさせないように、だろう。だが、男性は怯えた顔を隠しもせずに辺りをきょろきょろと見渡している。
 先ほどから、スピーカーにはサイレンの音の中に奇妙な音が混ざるようになっていた。それが何なのかわからぬままに男性を引きずりながら歩いていると、一際大きな影が地面に落ちたのが、見て、とれた。
「き、来た!」
 男性が悲鳴を放つ。Xが見上げれば、ビル群に切り取られた青い空を背景に、翼を持った、蜥蜴めいた生物――怪獣と呼ばれていたそれ――がまっすぐこちらに向かって落ちてくるのがわかった。
 それは人ひとりなど簡単に飲み込めるほどに大きな口を開く。サイレンに混ざっていた異音と共に、ぼたぼたと口から涎が地面に落ちる。それは酸を含んでいるのか、落ちた場所から白い煙が立つ。
「ひえ……っ」
「せめて、建物の中まで逃げれば……!」
 Xは男性を抱えなおして走り出す。だが、足を怪我した男性を連れてでは、どうしたって速度は出ない。建物の入り口まであと数歩というところで、Xが振り返る。既に怪獣は目の前にまで迫り、二人に向けて爪のついた腕を振り上げていて――。
「引き上げて!」
 私の命令と、その腕が振り下ろされるのはほとんど同時だった。
 ディスプレイとスピーカーにノイズが走り、それから。
 
 
 結論から言えば、引き上げは問題なく成功した。
 Xの意識は『異界』から肉体と意識体を繋ぐ命綱によって無事に引き上げられた。意識体にダメージがなかったことも、エンジニアとドクターによって確認されている。ぎりぎり私の指示が間に合ったということだ。
「X」
 Xは寝台の上に腰かけ、俯いたまま沈思している。もしくは何かを言おうとして、ただ「許可されていない」から発言しないだけなのかもしれなかった。Xは、私が許可するまで発言をしない。別にこれは私が指示したわけではなく、長い囚人生活で身についた「処世術」であるらしかった。
 その上で私は、正直これを口に出していいものか迷ったが、しかし率直に伝えた方がいいと判断し、口を開く。
「あなたが助けても助けなくても、おそらくあの人は助からなかったわ」
 Xがぱっと顔を上げる。言葉にしなくても、その目に非難の色が混ざっているのは私にもわかった。とはいえ、Xにしても、自分がやろうとしていたことの意味がわからないわけでもなかったのだろう、すぐにまた俯いた。
「発言を許可するわ。言いたいことがあれば言っていいのよ」
 私の言葉に、Xは俯いたまま低い声で呟いた。
「わかっては、います。あれでは、私も、彼も、助かりませんでした」
「わかっていても、手を離さなかったわね」
 Xもわかっていたはずだ。もし、怪獣を目視した時点で手を離していれば。あの男性を見捨てて逃げていれば。Xだけ逃げ延びることは、不可能ではなかったはずだ。
 それでも。
「見捨てられません」
 Xはきっぱりと言い切ってみせるのだ。
「それが、無駄なことになろうとも。そうせずには、いられませんでした」
「そう」
 こういうやり取りをするたびに、私は、Xという人物がわからなくなる。
 その手で多くの人を殺してきながら、同じ手で人を救おうとする。そうすることに何一つ疑いも迷いも無いということ自体がXの異常性なのかもしれなかった。
 ただ、私はそういうXのことを、おそらく不愉快には思っていないのだと思う。
 だからだろうか。ほとんど無意識に、
「……あなたは、正しいことをしたわ」
 そんな言葉が口をついて出て。
 Xはきょとんと目を見開いて、それからほんの少しだけ、強張った表情を緩めて言った。
「そうだと、いいですね」

灯火の行列

 闇に包まれた森の中、柔らかな明かりがあちこちに灯っている。
 Xの嗅覚を我々が共有することはできないが、おそらく植物特有の香りを捉えているに違いない。いつかは嗅覚も再現できるようになればいい、とは思うが、エンジニアの意向により後回しになり続けていることを思う。
 そんな暗い空間で、鳥のような頭の、しらじらとした二足歩行の生物が腕に当たる部分に不思議な光の入ったランプを提げ、ゆっくりと一方向に向けて歩いていく。その只中に『潜航』したXは、鳥頭の生物たちが歩いていく方向を見つめていた。
 すると、ディスプレイに映し出されているXの視界が少し下がる。見れば、一般的にさして高いとはいえないXの背丈よりも頭ひとつふたつほど低い背丈の鳥頭が、ひとつのランプをXに差し出していた。
「……私に?」
 Xの唇から、低い声が漏れたのがスピーカー越しに聞こえた。鳥頭は、意味の取れない音のようなものを立てて、ランプをぐいとXに押し付けてくる。熱は感じないらしく、Xは腹でランプを受け止めて、恐る恐るといった様子でそれを手にする。
 一体どのような仕組みで光っているのだろう、ディスプレイに映し出された情報だけで察することはできない。そして間近で見ているXにも判断できなかったに違いない、目の前にかざしてみたり、軽く振ってみたりするが、光は消えることなく柔らかく辺りを照らし続けている。
 Xは少し逡巡してから、ランプを片手に一歩を踏み出す。枝と下草を踏む音がスピーカーからわずかに響く。
 ざわざわと、人ではないものの声にならないざわめきに満ちた『異界』において、Xは一点に向けて歩き出す。鳥頭の生物たちが、向かう先へ。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 今日の『異界』は闇に包まれた深い森。完全な暗闇ではなく、辺りに灯る不思議な明かりが道を示している。Xも踏み固められたそこを歩き続ける。周囲の鳥頭の生物たちは歩くXを物珍しそうに見上げたり、もしくはXなど存在しないかのように他の鳥頭とぺちゃくちゃ知らない言葉で喋り続けていたりと、反応は様々だ。
 Xは周囲の歩幅に合わせるように、ゆっくりとしたペースで足を進める。森の景色はいたって単調で、辺りを取り巻く闇は深い。それでも、Xと鳥頭たちが手にしたランプの明かりが決して道を見失わせない。幾重にも重なり合う影が、足下で揺れているのをディスプレイ越しに見るともなしに眺める。
 ざわり、ざわり。Xを取り巻く鳥頭の行進は続いていく。どこまでも、どこまでも。Xの他に「ひと」らしきものは見えず、ただただ皆一様に見えるしらじらとした鳥頭だけが暗闇に揺れている。
 一体、この行進はいつまで続くのだろう。『異界』にいるXに我々の声は届かない。できることは、目には見えない命綱を手繰ってXを『こちら側』に引き上げることだけだ。故に、『異界』において全ての行動はXの判断に委ねられている。『潜航』の制限時間内は、Xが引き上げを合図しない限り――もしくはこちらで緊急事態だと判断しない限り、引き上げは行われない。そして、Xはまだこの行進を続ける気であるらしい。
 ゆっくりと、行列は動いていく。もしくは、動いているようで静止しているのか。そう錯覚するくらい、変わり映えのない風景。辺りを取り巻く鳥頭たちが皆同じ顔をしているのも、そう思わせる要因かもしれない。
 その時、不意にこちらを見上げていた鳥頭が、嘴を開いた。そこから零れ落ちるのは声と表現していいのかもわからない音の羅列。それに対して、Xはランプを翳したままぽつりと声を落とす。
「     」
 それは。
 私には、言葉とは到底思えない、音の羅列。
 次の瞬間、Xも自らが何を言ったのか気付いたのだろう。口を自らの手で押さえようとした……が、ディスプレイに映りこんだその手が妙にしらじらとした、そう、目の前でこちらを見上げる鳥頭と同じ指をしていたことに、気付く。
 Xの声が、スピーカー越しに響く。
「    、    」
 だが、それはどうにも意味をなさなくて、私の背筋にも冷たいものが伝う。
 ああ、そうだ、私もおかしいと思ったのだ。
 目の前の――そして周囲の鳥頭は、こんなに大きかっただろうか?
 それとも、『Xが縮んでいる』のか?
 Xは足を止めた。すると、同時に鳥頭たちの行列も足を止める。そして、今までこちらに無関心であったはずの無機質な目が、一斉にXに向けられるのを、見た。見てしまった。
 ざわり。Xを取り巻く輪が、一歩、狭まる。その間にも、Xの目の前に翳した手が形を変えていく。もしくは、Xの全身が、姿を――。
「……っ、『引き上げて』、『ください』!」
 それは、今度こそ私たちにもはっきりとわかる言葉で放たれた、Xの合図だった。
 私は場のスタッフたちを見渡して、準備が完了していることを確かめて命じる。
「すぐに引き上げて!」
 目には見えない命綱が巻き上げられる。ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。
「引き上げシーケンス、クリア」
「意識体、肉体への帰還を確認」
 スタッフの声が聞こえるのとほとんど同時に、寝台に横たわっているXの体がびくりと跳ね、ぱくぱくと口を開いて二、三回深く呼吸をしたところでやっと我に返ったのだろう、ゆっくりと瞼を開く。
 繋がれていたコードが外され、スタッフたちの視線を受けながら、Xはもう一度深呼吸をして上体を起こす。手錠に繋がれた両手を握って、開いて。その手の感触を確かめているように、見えた。
「大丈夫?」
 イエスとノーで答えられる質問に対しては、Xは首の一振りで答えられるが、私の問いかけに対してXはどちらとも答えはしなかった。ただ、寝台の上に腰かけてぼんやりと自分の手を見つめ続けている。
「X」
 彼のサンプルとしての記号を呼びかけたところで、Xはやっと顔を上げた。
「発言を許可するわ。何があったの?」
「……はい。と言っても、私にも、何が起こったのかは、わかりません。『見ての通り』だとしか、言いようがなく」
 見ての通り。
 確かに私もディスプレイの上で、Xの形が変わろうとしていたのを目にした。意識体とはいえ、Xにとっては自らの肉体が変容するのと同じ感覚を伴っていたに違いない。故に、『こちら側』の肉体と意識が合一した今、その感覚の差異に戸惑っているようにも見えた。
「そう。私たちは得られたデータの解析を行うわ。その間、あなたはゆっくり休んで」
 他のサンプルを選出してもよいが、Xほどの従順なサンプルはそういない、というのが我々プロジェクトメンバーの共通見解だ。故に、Xが我を失うようなことは、可能な限り避けたいところだった。
 Xはひとつ頷くと寝台から下りようとして、足を床についたところで激しい音を立てて倒れ込んだ。X自身、自分が何故倒れたのかわからなかったのか、目を見開いてぱちぱちと激しく瞬きしている。
 まだ、意識と肉体との感覚が一致していないのかもしれない。私はXの前に膝をつき、手錠に繋がれた手に触れる。
「……大丈夫じゃなさそうね。立てる?」
 Xの手が、探るように、確かめるように、私の手を握る。その手が思ったよりもずっと温かくて、思わずXを見つめてしまう。Xは私の手を頼りに立ち上がろうとするが、思ったように動けないのかもぞもぞと床の上を這うばかり。
「リーダー、ここは俺たちが」
 スタッフが二人がかりでXの体を支えたことで、Xの手が私から離れた。Xは不思議そうに目を瞬かせていたが、やっと足の感覚を取り戻したのか、自分の足で立ち上がることができたようで、頼りない足取りながらも一歩ずつ歩みを進める。
 そして、研究室の入口で待っていた刑務官が、Xの腕をほとんど捻るように取り上げる。Xは慣れ切ってしまっているのか、顔色一つ変えなかったけれど。
「行くぞ」
 Xは刑務官に引きずられるようにして、研究室を後にする。その際に、何か言葉を残すことはしなかった。元より、許可されなければ口の一つも利こうとしないのだから、当然とも言えたが。
 私は、つい、先ほどXに触れた手を握って、開く。Xがそうしていたように。
 そうすることで、何が変わるわけでもない。そういえば、自分からXの体に触れたのはこれが初めてだったのだと、気付いただけで。

それは闇のように

 寝台の上に横たわるXの体がびくりと跳ねる。
「Xの生体反応は?」
 問いかけに対し、医療スタッフたるドクターの「問題ない」という答えに安堵する。元より「使い捨て」のサンプルなのだから死なれても問題にならないとはいえ、上への言い訳には苦労するし、Xと同等以上の良質なサンプルを選出するのも億劫だ。
 Xの肉体のあちこちから延びるコードは、研究室の中央に鎮座まします潜航装置に繋がっている。そして、潜航装置に接続されたディスプレイには、Xが「見ている」はずの光景が映し出されている――はずなのだが、映し出されている風景は暗闇に包まれていて、光ひとつ見えない。スピーカーから音声も届いてこない。
 接続異常だろうか、とスタッフ一同で首を傾げるが、全く同じ条件下で前回は『異界』の光景が確かに映し出されていたのだ、単なる異常とも考えづらい。
 故に私はスタッフたちに命じる。
「続けて」


 ――『異界』。
 ここではないいずこか、|此岸《しがん》に対する|彼岸《ひがん》、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 しかし――。
 びくり、びくりと、打ちあげられた魚のように、不随意にXの体が跳ね続ける。
 ……これは、まずいかもしれない。
 横たわったままのXの唇から漏れ出すのは、低い呻き。それはすぐに咆哮に変わった。画面は依然暗く、音声も聞こえないまま。だが、それを「『異界』に潜っているXが感じ続けている」のだとしたら。
 スタッフたちが顔を見合わせ、そして私を見る。Xを『こちら側』に引き戻すかどうかは私の判断一つだ。今日の『潜航』は極めて短時間になってしまったが、この状態を続けても何も情報は得られないと判断し、命令を下す。
「終了よ。引き上げて」
 私の言葉はすぐに行動へと移される。Xの意識は目には見えない『異界』から『こちら側』へ、これもまた目には見えない命綱によって引き上げられる。この命綱は肉体と意識とを結びつけているもので、まだXが「生きている」証左でもある。
「引き上げを完了」
「意識体、肉体への帰還を確認」
 潜航装置を操作するスタッフの声と同時にXはもう一度びくりと震え、それからゆっくりと閉じていた瞼を開き、眩しそうに目を細めてみせた。
「気分はどう?」
 私の問いに、Xは応える代わりに目を瞬いてみせた。先ほどまで鬼気迫る表情で叫んでいたとは思えない、穏やかで凪いだ顔をしていた。
 そして、天井辺りを彷徨っていたXの目の焦点が私に合わせられる。どうも、何か言いたげにこちらを見上げるXだったが、その唇は開かない。そこまで来て、やっと「私の許可」を待っているのだと気づいた。Xはこのプロジェクトにおいて極めて従順なサンプルだ。従順すぎるほどに。
「発言を許可するわ。状況を報告してくれる?」
 はい、と。掠れた声が漏れた。
「……何も、見えません、でした」
「そうみたいね。こちらからも何も見えなかった」
「何も見えず、聞こえず、自分の手足が、どこにあるのかも、わからなくて」
 取り付けられたコードを外されながら、Xはぼんやりと虚空に視線をやって、言う。
「そうしているうちに、声を上げても、自分の声が聞こえなくなりました。……いえ、声だけではなくて。あったはずの、手足の感覚もなくなってきて、自分が散り散りになるような感覚に、襲われて」
 微かに、Xの肩が震えたのがわかった。それでも、Xはそれ以上の動揺を面に出すことなく、上体を起こして私を見上げるのだ。
「申し訳ありません。……それ以上のことは、わからなくて」
「いいのよ。今回の『異界』はあなたに耐えられるものではなかったということがわかっただけでも十分」
 そして、それはほとんどの人間に耐えられるものではない、ということでもある。心もとない命綱ひとつで『異界』を潜り抜いてきたXの感覚は確かだと私は思っている。そのXがここまで怯えた様子を見せるのは、今までになかったことだ。
 ただ、Xがわずかに震えたのは何も『異界』の恐怖に呑まれたから、というだけでもなさそうだった。
「どうかしたの?」
 Xは「いえ」と首を横に振り、それから、思い直したのか目を伏せて言う。
「死、という感覚は、ああいう感じなのかな、と、思いまして」
「さあ。それとも、聞いてみる? いつか会えるかもしれないわよ、あなたが殺してきた人たちにも」
 此岸と彼岸、長らく空想のものと考えられてきた土地、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが『異界』なのだとするならば、「『こちら側』で失われたもの」と出会う可能性だって零ではない、というのが我々の仮説だ。
 しかし、Xは私をじっと見上げて、それからゆるゆると首を振った。
「考えたくは、ないですね」
「それは、どういう意味で?」
「死の向こう側は、無でないと。殺した意味が、なくなってしまいます」
 ぽつり、と。落とした言葉は冷え冷えとしていて、私の背筋までぞくりとする。
 Xは殺人に対する罪悪感を完全に欠いている、というのが周囲の評価であり、私もその評価は間違ってはいないのだろうと思う。だから、どれだけ私に従順であろうともその手首には今もなお手錠が嵌められているし、いつか必ず死という名の刑が下される。
 この『異界』への旅とて、死と隣り合わせの非人道な実験だ。最初から私はXにそう言い聞かせている。
 それを理解していながら、今日もXは穏やかに、淡々と言葉を続ける。
「そう、死とは、あの暗闇のように、何もかもが散り散りになって、闇に溶けて、二度と浮かび上がれないようで、あってほしいなと。思いまして」
 その言葉は、どこか憧れのような感情を抱いているようにも聞こえて。
 私は目を細めてXを見やる。
「あなたに、そんな安らかな終わりが来ると思う?」
 私の問いかけに、Xはこくん、と首を傾げて。
「まさか」
 と、うっすら口元を歪めた。