2024年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
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010:戦乙女の憂鬱
そこは、妙に広く、何もない部屋だった。大きな窓と、大きな机、大きな椅子、ただそれだけの部屋だった。そして、その椅子に座っているのは長い耳を持った銀髪の美女……連邦政府軍大佐シリウス・M・ヴァルキリーだった。彼女は手元にあるひどく写りの悪い写真が載った手配書を見ながら、何か物思いにふけっていた。
その手配書には「この写真に写っている少女を捕らえることができたものには賞金を与える」といった内容のことが書いてあった。同時に「少女は生きたままの捕縛が条件だが、同行している男は殺害しても構わない」という、物騒な言葉も書かれていた。
その時、部屋のドアがノックされた。ヴァルキリーはふと目を上げ、「入れ」と鋭く言った。ドアが開き、そこに立っていたのは一人の小柄な男だった。金色……いや、黄色と言った方が正しいような色をした髪を長く伸ばし、ヴァルキリーとは違って軍服ではなくかっちりとしたスーツに身を包んだ男である。
「……トゥール」
「あら、珍しいわね、シリウスがそんなに辛気臭い顔しているのって」
トゥールと呼ばれた男は微笑みながら妙な女言葉で言った。ヴァルキリーは少しため息をつき、写真を机の上に置いた。
「すまないな、呼び出してしまって」
「構わないわよ。あたしはいつも暇だし。それで、何? 用って」
トゥールはブルーのレンズをはめた眼鏡ごしにヴァルキリーを見た。ヴァルキリーはしばらく言いにくそうに紫苑の目をトゥールの眼鏡から逸らしていたが、意を決したようにトゥールを見据えた。
「地球に、行っていたそうだな」
トゥールは一瞬笑みを消した。ヴァルキリーはその反応を見て、再び溜息をもらす。
「図星か」
「ええ、そうよ。レイ君が『青』を捕まえに行くって聞いたから、ちょっと様子を見たくなったの」
観念し、ふざけて両手を挙げながら言うトゥールにヴァルキリーは苦笑した。
「それで、『青』には接触したのか?」
「ええ。ただ、どうなのかしら?」
「何がだ?」
トゥールは机の上においてある手配書に手を伸ばしながら言った。
「あの人畜無害そうな子が本当に『青』なの?」
「無限色彩保持者は皆、人畜有害に見えるのか?」
ヴァルキリーも少しふざけた口調で返す。だが、意外にもトゥールは少しだけ真剣な表情で手配書を見据えながら言う。
「別に、そう言いたいわけじゃあないけど、あいつは人畜無害とは到底言えなかったから」
その言葉を聞いて、ヴァルキリーの表情も曇った。
「あいつは例外だ」
「そうよね、あいつは無限色彩保持者の中でも有名人だったもの。それだけ無駄に目立ってたってことなんだろうけど……やっぱり、無限色彩保持者って言うとどうしてもあいつが始めに思い浮かぶわ」
トゥールは手配書から目を離し、ヴァルキリーを見た。そして、再び笑みを戻して片手に持った手配書をひらひらと振る。
「全然わからないわね。これ、誰が撮ったの?」
話が逸れたことに心から安堵しつつ、ヴァルキリーは言う。
「レイが初めて『青』と接触したときに隊員の一人が撮ったものだ。上手くピントが合わせられなかったためにこんな写真になってしまったらしい……まあ、『青』が意図的に妨害したのかもしれんがな」
「ふうん、折角の美少女が台無しね」
ふざけた口調のままトゥールは笑った。その様子を見たヴァルキリーもつられて笑ったが、すぐにまた真剣な表情に戻った。
「『青』についてはお前に深く問うつもりもない。私が聞きたいことは、『青』と同行している……」
「兎のことね」
トゥールは笑顔こそそのままに見えたが、色眼鏡の下の目は笑みをかたどっていなかった。ヴァルキリーはトゥールから写真を受け取り、かろうじて人影だと分かる二つの影のうち、大きな影の方を指差して言う。いくらピントが外れていても、それが白髪の男だと判断するのは容易い。
「そう、レイも先の報告でこの白髪の男の事を『兎』と称していた。同時にかなり高位の紋章魔法士である、という報告も受けた。そして、トゥール・スティンガー。お前は私にこの男について何かを隠している」
ヴァルキリーの声が急に低くなった。だが、トゥールはそれに臆することもなく言う。
「ええ、隠しているわよ。言ったら兎さんに怒られちゃうもの」
しばらく、二人は黙り込んだ。明かりのついていない薄暗い部屋で、時計の針の音だけが流れていた。
どのくらいそうしていただろう。ヴァルキリーは、諦めたように三度目の溜息をついた。
「……お前の口を割らせるのは無理か」
「よくわかってるじゃない。言っておくけど、あたしはシリウスのパートナーであっても部下じゃないもの。命令するわけにも行かないでしょう?」
「そうだったな。全く、食えない男だ」
ヴァルキリーは苦笑混じりに言う。トゥールは「ふふっ」と笑いながらも声のトーンを落として言った。
「あたしは、シリウスに厄介ごとに巻き込まれてもらいたくないだけよ。あいつが、そう思っていたように」
突然出てきた言葉に、意外そうな表情をするヴァルキリー。
「クレセントが?」
「ほら、あいつってばすっごく不器用じゃない。いつも問題を起こしてはアンタのこと困らせてたけど、本気でヤバイ事には自分から首突っ込まなかったわ。突っ込んでいても、それは絶対にアンタには悟らせなかった。そういう奴よ、クレスは」
「………」
「あたしが何も言わないのは兎に口止めされてるってのが第一だけど、あたしも、アンタにはあんまりヤバイ事に首突っ込んでもらいたくないの。気づいたら、きっとアンタも首を突っ込みたがるだろうしね。そういう女よ、アンタは。
……まあ、今回の場合はそうも言ってられないけど」
トゥールの言葉は自嘲気味な響きも混じっていた。ヴァルキリーはそれに気づいていながらも、それには触れずにいた。
「正直、あたし、あいつが羨ましかったのよね。何だかんだ言って、アンタの一番のお気に入りだったし……あいつが死んでから、アンタも微妙に元気ないわ。レイ君ほどじゃあないけど」
「そうかも、しれないな」
ヴァルキリーは低く、呟くように言った。トゥールは「悪いこと言っちゃったかしら?」とわざとおどけて明るく言った。
「まあ、私が暗くなってもあいつが生き返るわけでもない。それは、構わない話だ……しかしな、トゥール、お前の心遣いは感謝したいところだが、今はそうも言っていられない状況に立たされているのも分かっているだろう?」
「帝国が、『青』の獲得に向けて動き出したんでしょ?」
「よく知っているな。上層部しか知らない情報だぞ?」
「あたしの兄貴馬鹿だもの。少し鎌かけたらすぐに引っかかってくれたわ」
トゥールは相変わらずのふざけた口調ながら不敵な笑みを浮かべた。ヴァルキリーは呆れた表情になる。
「スティンガー大佐を苛めるのはいいかげん止めたらどうだ?」
「嫌よ、楽しいんだもん。で、それはどうでもいいんだけど、帝国に『青』が渡ったら厄介よね。どうするの?」
「なるべく帝国より前に『青』を保護したいものだが……難しい問題だ。この『兎』とやらが帝国の連中をさばいてくれれば問題ないのだが」
ヴァルキリーの言葉は軍人にあるまじき言葉であるように思える。だが、彼女は本気でそう思ってこの言葉を口にしていた。
そして、それに気付いたトゥールはそっと聞いた。
「ねえ、シリウス?」
「何だ?」
「……アンタ、もしかして『青』を捕まえる気なんて毛頭ないんじゃない?」
「よく気付いたな、トゥール」
「わかるわよ、そういう言い方すれば。あ、だからレイ君に『青』の保護を依頼したの?」
「いや、レイに依頼したのは奴が『青』の保護に一番適している……無限色彩を良く知った人間だったからだ。だが、私が『青』の保護にはあまり良い感情を持っていないのも事実だな」
飄々と言うヴァルキリーに、トゥールは頭を抱えてしまう。
「うーん……それじゃあ兎さんについてのことを言っても問題ないのかしら?」
「ほう、話す気になったのか?」
「やっぱりやめとく。でも、何で『青』に関することでは一番重要な地位にいるはずのアンタがそんなこと言うの?」
「私は、『青』……いや、トワと少し対話したことがあってな。彼女はひどく、独りでいることを恐れていた。あいつと同じようにな。だから、私は彼女に言ったのだよ。『ならば、一度外を見てみるか?』と。彼女は喜んで頷いた。だから、私はミラージュに頼んで彼女を『時計塔』から出した」
その言葉を聞いて、トゥールが凍りついた。ヴァルキリーは「どうした?」と意にも介せず首をかしげた。少しの後、やっと立ち直ったらしいトゥールが半ば叫びとも取れる声を上げた。
「何よ、それ! 監視してなきゃいけないはずのアンタが逃がしてどうするの!」
「彼女は言ったよ。『地球に連れて行って欲しい。自分のやるべきことがそこにある』とね。私は、一瞬は悩んだよ。滅びの運命にある地球に彼女を出してよいのかと。だが、最終的には彼女が独りでいるのを見ているのは、あいつを見ているようで我慢ならなかった……それだけだ。何もかも個人的な感傷に過ぎないがな」
淡々と自分の考えを述べるヴァルキリーに対し、トゥールは長く息をつく。
「そう……ええ、確かに、そうかもね。それじゃ、あたしはそろそろ失礼するわよ」
「ああ。すまないな、長々と話をしてしまって」
ヴァルキリーも椅子から立ち上がり、言う。トゥールはヴァルキリーに背を向け、ドアの前に立った。そして、ふと何かを思い出したようにヴァルキリーの方は見ずに言った。
「そうそう、そんな戦乙女様に一つだけ、面白いヒントをあげるわ」
「何だ?」
ヴァルキリーは首をかしげた。トゥールはドアに向かって笑いながら、一言だけ言った。
「兎は兎でもただの兎じゃないわ。あれは『白兎』、よ」
トゥールが去り、静寂だけが支配する部屋の中、再び椅子に腰掛けたヴァルキリーは手配書を見ながら再び物思いにふけっていたが、やがて天を仰ぐようにして、ぽつりと呟いた。
「そうか……『白兎』、か」
Planet-BLUE
2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
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009:昔話
夜。ラビットとトワを乗せた車は、町の廃墟に停められていた。ラビットは人の気配がないか見て回ってみたが、誰もいない。ただ、冷たい静寂だけがそこを支配していた。
「今日はここに泊まろう。すまないな、きちんとした町に行けなくて」
ラビットはトワに向かって言った。トワは「いいよ」と言って、微笑んだ。当然、町に行けない理由は町に行くとトワを追う軍の連中に見つかりやすいためだ。何せトワはともかくラビットの外見は目立つ。ぼさぼさに伸ばした白髪に分厚いサングラス、それに長い黒のコートという出で立ちから、すでに怪しいだろう。彼の場合、それに気付いていながら改善はしないのだが。
ラビットは小さなランプをつけて錆び付いた鉄骨の上に腰掛け、トワに車の中から引っ張り出した水筒を渡した。トワは中の水を飲みながら、ラビットを見た。
ラビットは廃墟を見ていた。しかし、何かを見ているというわけでもなさそうだった。……何か、考えているような、そんな姿勢だった。
「なあ、トワ」
トワは「何?」と首をかしげた。ラビットはトワの方に向き直って言った。
「貴女は、私の事は何も聞かないのか?」
「え?」
「私は、貴女の事を無理やり聞き出すつもりはない。貴女も、話す気はないと言っていたしな。だが……何も話していないのは私も同じだ。なのに、貴女は私のことを疑いもしない」
ラビットはそこまで一気に言って、少し息をついた。トワは大きな青い目を見開いて、ラビットを見た。ランプの明かりが、揺れる。
「聞いて、教えてくれる?」
「私が今、話せる範囲ならな」
トワの問いに対するラビットの答えは少し曖昧なものだった。少し間を空けて、「自分で言っておいてなんだがな」と付け加えた。
「じゃあ、一つ聞くね」
トワは言った。
「それは、生まれつきなの?」
「それ?」
「目とか、髪とか」
「ああ、そのことか。これは生まれつきではない。事故の後遺症だ。体内の色素を失ってな。まあ、これで困ったことは特にないが」
ラビットは自嘲気味に言って、自分の長く伸びた前髪をつまんだ。その前髪も、透き通るような白だった。
「事故?」
「事故だ。そう……あれは事故だったと、思いたい」
トワはラビットの言い方が少し気になった。だが、そのことについては聞かなかった。ラビットの表情が、少し暗いものだったから……きっと、聞いても答えてはくれないと、判断した。
「それじゃあ、もう一つ、聞かせて」
「構わん」
「ラビットは、怖くないの?」
ラビットはその言葉を聞いて、首を傾げる。
「何が言いたいんだ?」
トワは少し考えた末、ゆっくりと話し始めた。
「わたし、軍に追われてるでしょう? ラビットは、わたしと一緒にいる。だから、軍の人たちはラビットを狙うと思うの。わたしを、取り戻したいから」
「ああ」
「軍の人たち、きっとラビットを殺してもいいって考えてる。それに、ラビットは気付いてる。だから……怖くないの?」
トワの言葉は拙いものだったが、言いたいことは十二分に伝わったようだ。ラビットはサングラスの下の目を伏せ、息を吐いた。
「……怖くないと言ったら嘘になる」
「なら、何でわたしを軍に渡そうと思わないの?」
トワの少し震えた声。それを聞いて、ラビットは苦笑し、逆に問い返す。
「貴女は、軍に引き取られたいのか?」
その言葉があまりにも意外で、トワは言葉を失い、首をゆっくり横に振る。
「何故貴女が軍に追われているのか、それに貴女が軍を嫌うのかは私には理解しかねる。だが……貴女がそう言っている以上は、私も貴女を全力で守ろうと、そう決めた。それだけだ」
「ラビット、前に『貴女を見捨てることもあるかもしれない』って言ってた」
「それも可能性としては捨てきれないというだけだ」
ラビットは俯き、少し声のトーンを落とした。
「私は、昔守れなかったものがある」
トワは水筒を置いて、ランプの光を見つめた。ラビットは淡々と、語る。
「守りたいと願うものすら守れない、酷く弱くて……臆病な人間だ。だから、私は『見捨てるかもしれない』と、そう言った」
「ラビット……」
ラビットは、それきり俯いたまま黙り込んだ。トワはランプの明かりと、ラビットを交互に見た。暗い空が、二人を押しつぶすかのように広がっている、そうトワは感じた。しばらくの後、ラビットは再び口を開いた。
「すまない。妙な話をしてしまった。もう遅い……そろそろ寝よう」
ラビットとトワは連れ立って車に乗った。トワは後ろの席に横たわり、ラビットは運転席にもたれかかる。そのまま、二人は眠りにつくかと思われた。
しかし、トワは眠れなかった。『守れなかったものがある』というラビットの言葉が、頭から離れなかった。
「眠れないのか?」
トワは少し、身体を起こした。目を開けると、ラビットが心配そうな表情でこちらを覗きこんでいた。トワは申し訳なさそうに頷く。ラビットは少し困った顔をした。
「それなら、少し長い話をしよう」
「長い話?」
「昔話だ。昔々、ある所に……という奴だ」
今日のラビットは少し変だ、そうトワは思った。いつもは黙ってばかりのラビットが妙に話をしたがる。しかし、少しでも、ラビットの話を聞いていたい、そう思ってもいた。
「うん、聞かせて」
「だが、余計眠れなくなるかもしれないな。私はあまり面白い話はできない」
「いいよ、聞かせて」
トワはそう言って目を閉じた。ラビットはサングラスを外し、赤い目でトワを見ながらゆっくりと話し始めた。
「昔々、ある所に一人の男がいた。その男は軍人だった。軍人としてはちょっとした問題人物だったが、能力的には申し分ない男だった。
まあそれは置いておいて、そいつにはもっと問題のある相棒がいた。いろいろな意味でたちが悪い、そんな相棒だった。二人はいつも一緒だった。問題人物の掃き溜めみたいな部署に置かれていたのだが、彼らの事件や活躍は軍の中でも有名だった。いい意味でも、悪い意味でも、な」
ラビットはトワを見た。トワは小さく頷いた。それを確認してから、言葉を続ける。
「だが、ある時、その男は突然、帝国との戦争に駆り出されることになってしまった。……貴女は帝国を知っているか?」
トワは小さく、首を横に振った。
「帝国は、今のところ星団連邦政府とは対立関係にある巨大な国家組織だ。規模的には連邦に負けているが、軍事力などいくつかの部分では多少上回っているともいわれている。その帝国との戦争が起こった。戦争とは無関係な部署にいたはずのその男も、戦争の状況が悪化して、駆りだされざるを得なくなった」
そこで、一度言葉を切り、息をつく。
「そうして、男とその相棒は戦争に出かけた。だが、戦場はひどかった。無関係な人間までもが次々と死んで行き……ついに、それを見ていた相棒が、狂ってしまった」
ラビットはトワの表情が少し曇るのを確認し、この話を切り出したことを少し後悔したようだった。目線を漆黒の空に移し、しばらく黙っていた。だが、トワは言う。
「それで、相棒の人はどうなったの?」
その言葉を聞いて、ラビットは再び話を始めた。
「相棒は、敵味方構わず殺していった。その区別もつかないくらい頭がおかしくなっていたんだが。相棒はたち悪いことにその男以上に強くてな。誰も、止められなかった」
トワは瞼の裏にその光景が見えたような気がした。果てしなく続く白い空間にばら撒かれた何かの破片、赤い染み……その中に立つ、一人の人間を。
「しかし、男はその相棒を止めようとした。狂って何もかもが分からなくなっている相棒の前に立った。相棒はしばらく抵抗したが、突然我に返った。そして……」
ラビットの言葉が途切れた。
奇妙な沈黙が流れる。
「……男は、相棒に向かって『良かった』と言って笑った。そう、男は相棒の事を責めることも何もせず、ただ相棒が完全に狂気に支配されてないことを安心し、喜んだ。だが、助けられたはずの相棒は、男を拒絶するようになっていた。頑なに、な」
ラビットは自嘲気味に口端を吊り上げた。まるで、自分が当事者であるかのように。
「男は相棒に拒絶される理由が分からなくて、戸惑った。男はすごく実直な奴で、何度も何度も相棒に聞いたんだ。『何故自分を遠ざける』と。しかし相棒は答えない。よく考えてみれば簡単なことだ。相棒は罪悪感で、男に顔を合わせられないと思っていたんだ」
「罪悪感?」
「そう。相棒は、暴走を止めようとした男を、傷つけてしまった。気が触れていたとはいえ、自分の相棒である男を傷つけたことは、大きな罪だと思っていた。
なのに……男は何も無かったかのように明るく振舞う。それが、我慢ならなかった。
もしこれが、わざわざ相棒の事を気遣って言っている言葉であって、実際は少しでも相棒を憎んでいるというのならば相棒も少しは気が楽だっただろうが、男はあまりに素直すぎた。相棒が無事であることを心から安心している……それだけだった。だから、自分の罪を一人で抱え込んでいる気がして、相棒は男を遠ざけるようになってしまった」
「……寂しいヒトだったんだね」
「そうだな。だから、男は余計に相棒の態度を理解できないと、悲しく思った。それで、二人はすれ違いを始めてしまった。今まで何となくは上手くやっていけていたのに、この事件がきっかけに、全てが崩れ始めてしまった」
目を閉じ、息をつく。
「さて、この先の話だが、男はこの戦争で高い功績を残したおかげで昇進し、また『軍神』の称号にも手が届くほどの活躍を続けた。元からセンスのいい男だったから、そういう機会さえあればいくらでも強くなれた。そうして、いつしか恋人もできて、男は幸せに生きていくことになった」
ラビットはそこまで話して、「これで終わりだ」と言った。トワはあまりに唐突過ぎる終わり方に首を傾げてしまった。
「男の人は、幸せになったの?」
「さあな。あくまで昔話に過ぎないから私はそこまでは知らない」
「相棒の人は、どうしたの?」
トワの質問に、ラビットは苦い顔を浮かべた。
「死んだ」
「え……?」
「死んだよ。戦争に出てから数年後に、事故で死んだ」
口端を上げてはいるが、ラビットの声はひどく暗かった。
「以上が私の知っている『昔話』だ。楽しくない話だろう? 私もそう思う。実はもっと長い話だが、かいつまんで話すとこんな感じだ」
「ねえ、ラビット」
「何だ?」
「……きっと、その男の人、幸せになってないよね」
トワは微かに目を開けて言った。ラビットはしばらくトワを見ていたが、小さく、頷いた。
「そうだな」
「男の人、まだ生きてるの?」
「ああ。昔話と言っても大して昔の話ではないからな」
ラビットはそう言って、椅子にもたれかかり目を閉じた。
「トワ、私は、この昔話の男のようになりたかったんだ。自分に素直に、実直に、そしてすごく優しい。時にあまりに直線的過ぎて人を傷つけることはあっても、それでも……不器用に真っ直ぐ歩み続ける。そう、ありたかった……」
その声は、掠れていた。
トワはラビットを見た。ラビットは目を手で覆って、ひどく、悲しげな表情を浮かべていた。見てはいけないものを見てしまった気がして、トワはすぐに目を閉じた。
「……優しいよ」
「え?」
「ラビット、優しいよ」
トワは、小さな声で呟くように言った。ラビットは返す言葉をなくし、口を少しだけ開けるだけだった。トワは「おやすみ」と言って、そのまま眠りについてしまった。ラビットは「まいったな」と呟き、目を手で覆ったまま口端を歪めた。
「私が優しいなんて、そんな事を言わないでくれ……傷が、深くなるだけだ」
Planet-BLUE
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影絵と魔女
その『異界』は、全てが影でできていた。
黄昏時を思わせる空を背景に、立ち並ぶ建物は全てがのっぺりとした影の色。道行く人々も全て影で描かれており、それが幻なのか実体なのかも定かではない。
Xはその中の一人に語り掛けようとしたが、立ち止まりすらしない。次の人も、そのまた次の人も。Xの声が聞こえていないどころか姿すら見えていないのか、すっとXの前を行き過ぎて、道の先を行く影に混ざって消えていってしまうのであった。
これにはXも途方に暮れたのか、そばにあった街灯に寄りかかる。街灯の柱は凹凸も感じられない質感ながら、Xの体重を受け止めてそこにあり続けている。
空はゆるやかに色を変え始めていた。赤みを帯びたそれから、闇へ。すると、シルエットの街灯からどういう仕組みかはわからないが柔らかな光が放たれる。いくつかの影は闇に紛れ、いくつかの影は街灯の明かりに浮かび上がる。空に星はなく、建物と同じようにのっぺりとした闇だけがそこにある。
そんな中で、Xだけが影に紛れることなく、立体感を持った「人」としてそこにあるようだった。Xは自分の目の前に手を翳し、その存在感を確かめる。『異界』によっては、自分の存在までもが『異界』に侵食されるようなこともあるから。
いつの間にか人影も絶えていて、辺りは酷く静かになっていた。いや、元から静かではあったのだ。影の人々に声や足音はなかったから。ただ、動くものが視界に見えなくなったことで、聴覚以外の部分が「静かだ」と感じ取っていた。
その時、不意にディスプレイの端で何かが動いたように見えた。Xもそれに気づいたのか、そちらに視線を向けて――目を見開く。
ゆっくりとこちらに向かって歩んでくるのは、影の人ではなく、Xと同じような「人」だった。闇に溶け込むようなドレスを身に纏い、尖った帽子の下から同じ色の黒髪を伸ばした女性は、高らかにヒールの足音を響かせながらこちらに歩んできて、人形のような白い面に笑みを浮かべた。
「あら、ごきげんよう。こんなところで『ひと』に会うなんて、久しぶりね」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、『異界』――今まさに私がディスプレイ越しに見ている影絵の街において、Xの行動はX自身に委ねられている。故に、この、女性に見える『異界』の存在に対して、Xがどういう行動を起こすのかを観測しなければならない。
Xは女性をしばし観察していたようだが、やがて口を開く。
「ごきげんよう。私や、あなたのような『ひと』は珍しいのです?」
「あら、あなた、知らないでここにいるの?」
「初めて訪れた場所です。……ここについては、何も知らなくて」
発見した『異界』に対して、事前にXが「存在できる」場所かどうかのチェックは行うが――場所が海の底や空の上だったとしたら、いくら意識体とはいえそれを「現実」と判断した脳が焼き付きかねない――、それ以上の観測はXの『潜航』を待つことになる。故に、常にXは「どこかもわからない」場所に潜ることになる。
けれど、女性はそんなXの言葉を「信じられない」という顔で聞いて、それからくすくすと笑ってみせる。
「随分行き当たりばったりなのね」
「そうかも、しれません」
「それでも世界を渡ることができるんだから、私と同じで、普通の人ではないわよね。あなた、何者なのかしら?」
「何者、と言われても。そう言うあなたこそ、何者ですか?」
逆に問い返されて、女性は「あら」と笑みを深める。
「わからない? それとも『わからないようなところ』から来たのかしら?」
女性は黒いドレスの裾を翻してみせる。先が尖った帽子の色も闇に溶けそうな黒。それらが意味するところを、私はおとぎ話の中でしか知らない。街灯の明かりの中で、闇を切り取ったような女性の姿をしばしぼんやり眺めていたXは、ぽつりと答えた。
「……『魔女』、ですか?」
それは、まさしく私の頭の中に浮かんだ言葉とそっくり同じものだった。女性はその答えを聞いて、満足そうに頷いてみせる。
「魔女を見るのは初めて? おとぎ話だけの存在だと思ってた?」
否、おとぎ話というのは現実の側面を切り取っている。神隠しが現実のものであるように、魔女の存在もまた、古くから語られ続けているだけの理由があるはずだ。そして、こうして『異界』を渡り歩く存在がXの他に存在するのは当然だとも思う。それでも、実際に目にすると驚きが勝るというものだ。
「取得できるだけの情報を取得して」
スタッフに指示を下して、私はディスプレイとスピーカーに集中する。
Xは女性の言葉に少しだけ首を傾げてみせながら、言う。
「おとぎ話だけではない、とは思っていましたよ。ずっと」
「そう。まあいいわ、それであなたはどうやって世界を渡ってきたのかしら。その口ぶりだと、わからずに迷い込んだってわけではなさそうだし」
「……そういう、装置があるんです。まだ、実験段階ですが」
わずかな逡巡は、自分の状況を語っていいものか迷ったことによるものだろう。私は禁じてはいないけれど、それは「語る機会がない」と思っていたからだ。これからはその可能性を考慮する必要があるだろう。
ともあれ、魔女だという女性は「へえ」と目を見開いて、驚きの表情を作ってみせる。
「ひとの世も進んだものね。魔法でもなく、こんな場所まで辿り着けるなんて」
「ここが、どのような場所か、ご存知なのですか?」
「ええ、もちろん」
魔女は帽子の位置を直してみせながら、すらすらと言葉を紡いでいく。それは、どこか歌うようですらあった。
「ここは世界の影。どこかにひとつの世界があるなら、必ずその世界には影が落ちる。光と影、表と裏、現と夢、そういう関係と言えばいいかしら。だから、表側の存在であるあなたとこの世界の者たちが交わることはないわ」
「……なるほど?」
今のは絶対に理解していない時の「なるほど」だな、と私にはわかった。Xはわかったような顔をしながら時々さっぱり何もわかっていないことがある。魔女にもそれが伝わったのか、顔に浮かんでいた笑みが苦笑に変わる。
「あなた、何だかとぼけた人ね」
「そうですかね」
Xは相変わらずのぼんやりした調子で、見ているこちらが気勢を削がれてしまう。その時、スピーカーから聞えてくる音声に猫の鳴き声が混ざった。ディスプレイをよくよく見てみれば、影になっていた部分からそこに溶け込みそうな黒猫がひょこりと光の中に歩み出したところだった。Xの視線も、魔女の視線もその黒猫へと移される。
「あら、もう行かなきゃだわ」
「どちらへ?」
「こことは、別の世界へ。これでも忙しい身なの」
魔女はにこりと微笑み、足元までやってきた猫をよいしょ、と抱え上げる。それから、Xに向き直って言う。
「そうね。別れる前にひとつ、魔法をかけてあげる。あなたの道行きを、祝福する魔法」
と、言って、魔女は一歩Xに近づくように踏み出して。空いた片手をこちらに差し出し、Xの顔の辺りに持ち上げて……、すぐに、引っ込める。魔女の整った顔が少しだけ歪められて、それから何かを納得したような表情に変わる。
「と、思ったけど、やめておくわ」
「何故?」
「あなたから、他の女の匂いがするから。妬かれたら面倒だもの」
「他の女の匂い、ですか……?」
Xが不思議そうな声を上げるけれど、魔女は自分の中で納得できる答えを既に見つけているのだろう。それ以上言及することはなく、黒いドレスを翻してXに背を向け、ちらりとこちらを振り向いてみせる。
「それじゃあね、旅人さん。また、どこかの世界で会えたら嬉しいわ」
それも妬かれてしまうかしら、なんて付け加えて。魔女は猫を抱いたまま、街灯の明かりの外、闇の中に溶けていく。ヒールの高らかな足音と共に、にゃーん、という鳴き声が響いて……、やがて、それも遠ざかっていった。
Xは魔女の気配が完全に消えるまで、彼女が消えていった方向をじっと見つめていた。影の世界には静寂が戻り、Xの呼吸の音だけがスピーカーからわずかに漏れ聞こえるだけだった。
結局、影の『異界』ではそれ以上の収穫はなかった。
「お疲れ様、X」
自分の肉体に戻ってきたXは感覚を確かめるように手首や足首をぶらぶらさせていたが、私が声をかけるとこちらに焦点のずれた視線を向けてきた。
「今回の『潜航』は面白いものが見られたわね。魔女……、世界を渡る者と出会えたのは大きな一歩だと思うわ」
そう、『異界』そのものからの収穫はともかく、世界を渡る存在を観測できたのは確かな収穫であったと言えるだろう。魔女だと言っていた彼女についてもう少し知ることができれば、『異界』への『潜航』の効率化や、新たな『潜航』方法の確立に繋がっていくのではないだろうか。
「けれど、彼女、別れ際に気になることを言っていたわね」
魔女はXに魔法をかけようとした。曰く「道行きを祝福する魔法」。けれど、その途中で突然「他の女の匂いがする」という奇妙な理由でやめてしまったのだった。正直に言えば、魔女の魔法というものをこの目で確かめたくはあった。Xにどのような影響が出るかはわからなかったが、元よりそういうイレギュラーな影響も加味した上でXを異界潜航サンプルとして運用しているのだから。
果たしてあの時、魔女はXから何を感じ取ったのだろう?
「発言を許可するわ。心当たりはある?」
「……今は、あなたくらいしか、付き合いはありません」
それはそうだ。このプロジェクトで現状Xと直接付き合っている「女」は私一人だ。男女比に他意はなく、偶然この場に集まったスタッフがそう、というだけなのだが。
だが、別にXに魔法をかけようとも何をしようとも「妬く」ような関係性ではない。むしろいくらでもやってくれていい、とすら思っているのだから。だとしたら、もう一つ質問を加えてみることにする。
「あなた、『今は』って言ったけど、過去に何かあった?」
「大したことでは、ないですよ」
「大したことかを決めるのは私であって、あなたではないわ」
それはそうですね、とXは少し俯き加減に、彼には珍しくどこか苦いものを噛みしめるような面持ちになって、言う。
「いましたよ、一人。……思いを寄せる、ひとが」
常日頃から、心を動かすということに縁遠そうなXが「思いを寄せる」という言葉を使ったことに驚きを覚えずにはいられなかった。もちろん、その人生のうち、思いを寄せた人の一人や二人いてもおかしくない、とは思うのだが――。
「つまり、そのひとに妬かれるということ?」
「ありえませんよ」
私の仮定を、Xはばさりと切り捨てた。それから、手錠をしたままの手で顔を覆って、けれど私が思うよりもずっとはっきりとした声で、こう、言った。
「彼女は、もう、どこにも、いませんから」
無名夜行
読上
月下のヒーロー
大きな、あまりにも大きすぎる月が空に浮かんでいる。
月の光に照らされて浮かび上がるのは、観覧車やジェットコースターといった遊具施設だ。月明かりの遊園地。それが今回の『異界』の姿であった。
遊園地を行き交うのは、無数のシルエット。何故か月明かりを浴びてもシルエット以上の情報が伝わることのない人々が、さざめきと共にXの視界――ディスプレイの中を行きかっている。
そして、どこか調子外れのBGMを聞きながら、Xはその場に立ち尽くしていた。このきらびやかな光景を前にして、一体何を思うのだろう。私には想像もつかない。
やがてXは歩き出す。シルエットの人々の中で、唯一色と明確な形を持っているXを、しかし人々が見とがめることはない。もしくは彼らから見たらXも同じように見えているのかもしれない。
並ぶ遊具には目もくれず、Xはふらふらと歩いていく。影の人波を縫って歩いていると、突然、人々が群がっている場所を見つけた。よくよく見れば、奥にはステージが設えられており、やはりシルエット姿の何者かがその上に立っているのが、かろうじてわかる。
Xの声が、ステージの看板に書かれている文字列を読み取る。
「ヒーローショー……」
そこにいるのは、罪なき人々を脅かす悪の手先を懲らしめる、まさしく子供が夢見る正義の味方なのだろうが、ディスプレイに映るのはあくまでシルエットでしかなく、ステージに上っているどれがヒーローでどれが敵役なのかもわかったものではない。
Xはショーに集まる人々の輪から一歩離れた場所に立って、人々の頭の間からかろうじて見えるステージをぼんやりと眺める。響く音声は、ヒーローが今まさに敵に追いつめられていることを告げている。
その時、不意にXの視界がステージから足元に向けられる。見れば、Xの側に小さな子ども――と思しきシルエットが、Xの服の裾を掴んでいた。他の子どもたちは大人のシルエットと一緒にいるだけに、たった一人でいるというのは違和感が強い。それは現実もこの『異界』も変わらないようだった。
小さな指でXの服の裾を握りしめ、子どものシルエットは少年の声で言う。
「あの、僕のお父さんとお母さんを、知りませんか」
「いえ、知りませんが……、迷子ですか?」
「はい。はぐれてしまって」
少年は思ったよりもずっとしっかりした、落ち着いた口調で言った。きっとXは戸惑いの表情を浮かべたに違いないが、それでもすぐに少年の手を握って言った。
「誰かに、報せた方がいい、ですね。行きましょう」
「あっ、待ってください」
少年が、Xの手を引く。Xがそちらを見れば、シルエットの少年は躊躇いがちに、ステージを指さした。
「最後まで見てからでも、いいですか」
果たして、Xがどのような表情をしたのか私にはわからない。わからなかったけれど、もしかすると彼には珍しく笑ったのかもしれなかった。微かな笑みの気配を言葉に乗せて、言う。
「いいですよ。……ああ、これでは、よく見えませんよね」
Xは視線をぐっと下げて、少年に手で何かを指し示したようだった。少年はちょっと躊躇ったようだったが、恐る恐るXの肩に両足をかけて座ったのがわかった。Xはそのまま少年を肩車して持ち上げる。
「わ……っ」
頭上から少年の歓声が聞こえる。
「見えますか?」
「はい! ありがとう、ございます」
弾む声を聞きながら、Xもまたステージに目を向ける。音声は、追いつめられていたはずのヒーローが逆転し、敵に必殺技を放つところであった。その時、わずかにディスプレイの視界が狭まったのは、Xが目を細めたからに違いなかった。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、遊園地の『異界』に降り立ったXは、シルエットの少年と向かい合っていた。
「ありがとうございました、おじさん!」
少年の声は喜びに上ずったものであった。Xも感謝されるのはそう悪い気分でもなかったのだろう、「どういたしまして」と言う声は彼らしくもなく明るい。
「しかし、やはり、ご両親は見つかりませんね。係の人に、報せましょう」
Xがそう言ってその場を離れようとすると、少年が再びXの手を引いた。Xがそちらを見たところで、少年の表情は影になってしまっていて表情を判ずることはできない。ただ、俯いているのだろうということは、少年の仕草から何となくわかる。
「どうしましたか?」
Xはしゃがんで少年に視線を合わせる。少年は一拍の後に、ぽつりと言った。
「僕、捨てられたのかもしれません」
「え?」
「僕のお父さんとお母さん、本当のお父さんとお母さんじゃ、なくて」
だから、きっと、邪魔になってしまったのです、と。少年はぽつりぽつりと言葉を落とす。その声は今にも泣き出しそうで、Xの戸惑いがディスプレイからも伝わってくる。それはそうだろう、見ているだけのこちらも戸惑うくらいなのだから。
Xは、しばらく少年をじっと見つめていたようだったが、やがて少年の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「本当じゃないからといって、邪魔になっているとは、限りませんよ」
「そう、ですか?」
「もちろん、私は君のご両親を知らないので、本当のところはわかりません。けれど、確かめる前から、そう決めつけてしまうのは、おかしいのではないでしょうか。違いますか?」
普段になく、Xは饒舌であった。相手が年端のいかない子どもだということもあるのだろうが、彼がここまで丁寧に言葉を尽くそうとしているところを見るのは、めったにないことだ。
少年は、しばしXを見つめた――のだと、思う。シルエットの顔から読み取れる情報はあまりにも少ない。Xが少年の顔を覗き込むと、少年はXの手をぎゅっと強く握りしめて、言ったのだ。
「……邪魔じゃないと、いいな」
Xはその手を握り返すことで、少年の声に応えた。俯き気味だった少年の顔がぱっと上げられて、それからことさら明るい声で言った。
「おじさん、あと一か所だけ、付き合ってもらえますか?」
「いいですが……、どちらに?」
「僕、観覧車に乗りたいんです」
観覧車は遊園地の中心に位置していた。
大きな月を背景に浮かび上がって見える観覧車はあまりにも巨大だった。Xは影の少年を連れて、観覧車に乗りこむ。係員によって籠の扉が閉ざされて、ゆっくり、ゆっくりと視界が持ち上がっていく。
この『異界』には、どうやら遊園地しか存在しないらしく、色とりどりの明かりに満たされた遊園地の外はどこまでも広い闇が広がっている。それでも、少年は窓に張り付いて眼下に広がる光景を見つめている。
Xは眼下に広がる光景よりも、よっぽど影の少年に気を取られているようで、じっと少年の後ろ姿を見つめていた。すると、少年が窓の外を見つめたまま声を上げる。
「ありがとうございます、おじさん。楽しい思い出ができました」
「ならよかった。けど、一緒にいるのが、私でいいのでしょうか」
「いいんです。僕、おじさんに会えて、よかったです」
Xは、その言葉に一体何を思ったのだろう。不意に、少年の肩に手をかけた。少年がこちらを振り向く。
「おじさん?」
「私も、君に会えてよかったと、思います」
Xの片方の手が少年の肩から首へと移動する。少年がびくりと震えるのにも構わず、Xは少年の首筋をつぅと撫ぜる。
「君は、……ヒーローは、好きですか?」
「は、はい」
少年は、Xの手の動きに気を取られたのだろう、逡巡の後に頷いた。Xは少年の首から手を動かさないまま、少年をじっと見つめて質問を重ねていく。
「ヒーローになりたい、と、思ったことは、ありますか?」
「はい。なりたい、です」
「なら、どんなヒーローに、なりたいですか?」
私にはXの質問の意図がわからない。『異界』における判断は全てXに委ねられているとはいえ、今まではほとんどの場合、Xの行動の意図は明瞭であった。だからだろうか、妙に落ち着かない心地になる。自分は今、何を見せられているのだろう?
それでも少年は、はきはきとXの質問に答える。
「強いヒーローになりたいです。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
少年の声は、どこまでも凛としていた。背筋をぴんと伸ばし、こちらに手を伸ばすXの視線を真っ直ぐに受け止めて。Xは果たしてそんな少年の言葉をどのように受け止めたのだろう。数拍の空隙ののちに、ぽつりと言った。
「やっぱり、そういうことか」
え、と。少年の不思議そうな声が聞こえた。Xはもう一度、丁寧に少年の首筋を撫ぜたかと思うとゆるりとその手を下ろして、言った。
「いつか、私を倒しに来てくださいね、未来のヒーロー」
「おじさん?」
少年の疑問符に、Xは答えなかった。そのまま、二人を乗せた籠は地面まで下りてゆく。係員が扉を開き、Xは少年の手を引いて籠を降りる。すると、少年がぱっと弾かれるように顔を上げた。
Xが少年の視線を追えば、二つのシルエットが、こちらに向けて駆けてくるところだった。その慌てふためいた様子は影しか見えなくても明らかだ。少年はそんな二人の影をじっと見つめたまま、言葉を落とす。
「お父さん、お母さん」
「ほら。君は、邪魔なんかじゃない」
うん、と頷いた少年の背を、Xはゆっくりと押した。少年は一歩、二歩と、両親の方へと歩いていく。母親が少年の名前を呼んだようだったが、それはよく聞こえなかった。否、Xが耳を塞いだのだと、一拍遅れて気づいた。
「……X?」
私の声はもちろんXには届かない。Xは耳を塞いだまま、きっぱりと言った。
「引き上げてください」
それは。Xが探索の限界を感じた時の呪文。私は刹那、迷った。まだ制限時間は半分以上残っており、この遊園地の探索は十分とはいえない。それに、何より、Xが危機に陥っているわけでもない。
それでも、Xは「引き上げてほしい」と望んでいる――。
「引き上げて」
結局、私はXの言葉を受け入れて、Xの意識を肉体へと引き上げる作業が始まる。Xの視界を移すディスプレイにノイズが走り、映像が途絶える寸前。両親と一緒になった影の少年がこちらを振り向いた、気がした。
引き上げ作業は問題なく終了し、Xは凪いだ表情で寝台の上に腰かけている。Xの表情から考えていることを正確に読み取るのは難しい。ただ、今回ばかりは、何故だろう、いつもと同じ表情のはずなのに、妙にちりちりとした気配を感じ取っている。
「X。……どうして引き上げを望んだの」
発言を許可した上での質問に、Xは視線だけをこちらに向けて、口を開く。
「どうしてでしょう。私にも、よくわかりません」
「何か変よ、X。あなたらしくもない」
「私、らしく?」
Xの目がわずかに見開かれる。はっきり言ってこれは私の失言だ。私が「らしさ」を語ることなどできやしない。連続殺人を犯した死刑囚である、ということ以外にXがどのような人間なのかを知らないまま「運用している」私には。
しかし、Xはことさら私を責めることもせず、視線を切って言う。
「そう、ですね。最低限の役目すら、こなせないようでは、サンプル失格ですね」
「そうは言っていないわ。ただ、あなたが探索を放棄するのは珍しいって話。あの少年に、何か思うことでもあった?」
Xの態度はあのシルエットの少年と出会ってから明らかにおかしくなったように見えたし、X自身それには自覚的だったのだろう。「そうですね」ともう一度言って、手で己の首をさする。あの少年にそうしてみせたように。
「結局、私は倒されずに、ここにいます」
「どういうこと?」
「ヒーローなんていない。……あの少年も、いつかは気づく日が来るのかなと」
それとも、気付かないまま走り続けてしまうのかな、と。
Xはそれだけを言って、口を噤んだ。
私はXの言いたいことを理解することはできない。Xは時折そういう側面を見せる。自らの言い分に自分自身で勝手に納得してしまう、ような。
だから、私は何もわからないまま、浮かび上がった問いを投げかけることしかできない。
「あなたにも、あの少年のように、ヒーローに憧れる頃があったの?」
「ええ。強いヒーローになりたかった。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
Xは少年の口ぶりを真似てそう言って――それから、表情をわずかに歪めた。
「だから。彼には、間違って欲しくないな、と、思っただけです」
無名夜行
読上
反射する回廊
その『異界』に降り立った瞬間、無数の人影に取り囲まれた。
……否、それは正しくない、と一拍遅れて気付く。
Xを取り囲む人影は、皆が一様の姿をしていた上に、それがよく見覚えのある姿であったから。Xもすぐにそれに気づいたのか、ぽつり、と声を落とす。
「鏡、か……」
そう、鏡だ。周囲に張り巡らされた鏡が、Xの姿を複雑に映しこんでいることで、まるで「X自身」に取り囲まれているかのような錯覚をもたらしていた。
Xは目の前に立ちはだかる一枚の鏡に向けて手を伸ばす。鏡の中のXも手を伸ばす。短く刈りこまれた白髪交じりの髪に、実年齢より少し上に見える以外には特筆すべきところのない痩せた顔の男性。片目が見えていないがゆえか、わずかに焦点がずれている、ちぐはぐな色をした目が、ぼんやりと見つめ返してくる。その姿は、私が知る『こちら側』のXと何ら変わりがない。
ただ、眺めているうちにその姿が徐々に変化しているのに気づく。酷くゆっくりとした変化ではあるが、髪がわずかに伸び、白髪が減って行き、痩せていた顔も肉付きを取り戻して、若返っていくように見える。一方で、Xはその変化に気付いているのかいないのか、普段通りの表情を変えることはしなかった。
若返りと思える現象はそのまま続いていくかと思われたが、ある一点を境にまた元の姿へと戻っていく。どうも、ある一定期間のXの姿を行き来しているように見えた。もしかすると、今までの『異界』でもそうだったのかもしれないが、私には判断がつかない。
ともあれ、Xはしばらく鏡に映っている自分の姿を見つめていたが、不意に、その視界の隅で何かが動いた。Xが動いていないにもかかわらず、だ。Xもはっとしてそちらに視線を向けようとするが、何せこの無数の鏡だ、どちらの方向で何が動いたのかを正しく判断することができない。
Xはその場から動き出した。この『異界』の中で何が動いたのかを確かめようというのだろう。『異界』の規模を確かめること、『異界』で起こる現象をその目と耳で捉えることは私がXに与えたタスクだ。
だが、言葉にならない不安が胸の中にわだかまる。その予感が外れることを祈りながら、私はXの視界を映すディスプレイをじっと見据えていた。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
鏡の『異界』は果たしてどこまで広がっているのか、私には想像がつかない。もちろんXにしてもそうであろう。それでも、鏡と鏡の隙間を渡り歩きながら、時折視界の隅を動き回る「何か」を追いかける。
どこまでも、どこまでも続いていく、鏡張りの回廊。進んでいる方向も定かではなく、ゆるやかに姿を変え続ける自分自身を映し込みながら、手探りで歩き続ける。その時、また視界にXの動きとは別の動きをするものが横切った。だが、今までよりその影は随分近いのか、今までよりもずっと大きな姿で映りこんだ。
だから、追いかけているのが「何」なのか、私にもはっきりわかった。
「X……?」
私が呟いた、次の瞬間。
Xの視界が激しく揺さぶられた。何が起こったのか、と思う間もなくXが左に視線を向ける。Xの目を通してディスプレイに映し出されたのは、X自身――に見える何者か、であった。
何故それがXの鏡像でないとすぐにわかったのかと言えば、Xを見つめる「それ」の表情が、まるで普段のXのそれとは異なっていたからだ。その面に浮かんでいるのは、満面の笑み。晴れやかな笑顔と共に、Xの姿をした「それ」はXに向かって拳を振り上げる。
Xもただ一方的に殴られるだけではない。突き出された拳を片手で受け流し、自分もまた目の前の「それ」に殴りかかろうとする。しかしその一撃はまるで鏡映しのように、一瞬前の自分がそうしたのと同じく受け流されてしまう。
「あはは」
一、二歩下がり、Xと同じ顔をした「それ」が笑い声を漏らす。それも確かにXと同じ声だったけれど、Xがそんな風に笑ったところを私は見たことがない。
「やっと。やっと、俺にもツキが回ってきた」
その口からこぼれ落ちるのは、こちらにも通じる言葉。けれど、言っている意味がわからない。そう思っていると、「それ」は予備動作もなくぐん、と顔を近づけて、Xの肩を掴んで背後の鏡に押し付ける。がん、という激しい音はXの後頭部が鏡にぶつかった音だろう。
「なあ、代わってくれよ。……もう、こんなところにいるのは、まっぴらなんだよ!」
高らかに叫んだ「それ」は、Xをぎりぎりと鏡に押し付ける。すると、どのような仕組みによるものだろう、Xの体がじりじりと後ろに下がり始める。否、より正確に言うならば――背中にした鏡の中に、沈み込もうとしているのだ。
「今度はお前の番だ。俺の代わりに、囚われてくれ」
肩を押さえつけられたXは手足を動かしてもがくが、「それ」の手が離れることはなく、そのままXを鏡の中に押し込めようとする。
このまま続ければ、Xの意識体は完全に鏡に沈められてしまうだろう。その状態で引き上げが行えるのかも定かではない。これは、もう引き上げてしまった方がいい、と指示を出そうとした、その時だった。
「勝手な、ことを、言うな」
ぼそり、と。聞こえたその声がXのものであると、気付いたのは一拍の後。
がん、ともう一度大きな音が響いて、視界が激しく揺れた。一体何をしたのか、私には一瞬判断がつかなかったが、どうやら「それ」に勢いよく頭突きをしたらしいということが、額を押さえてふらふらと下がる「それ」を見てわかった。
「くそっ、石頭……っ!」
「仕事の、邪魔を、するな」
その声と同時に、Xは「それ」の顔目掛けて迷いなく拳を突き込んだ。Xと同じ顔が醜くひしゃげた、と思った次の瞬間、ぱりん、という硝子の割れる音が響いて、「それ」の姿がばらばらになったかと思うと消え去ってしまう。Xが足元を見れば、粉々に割れた鏡が落ちていて、Xの姿を無数に映しこんでいた。
Xはその鏡の残骸をサンダルの裏で踏みしめると、己の手を見る。右の拳が切れ、赤い血がぽたぽたと流れ落ちている。Xの体は意識だけの存在ではあるが、その辺りは現実と同じように再現される。もちろん、痛みだって感じているに違いないのだが、Xは痛みに顔をしかめることすらせず、ぴんと背筋を伸ばしてその場に立つ。
すると、今度は鏡像のひとつがゆらりと蠢いて、腕を伸ばしてくる。鏡から血まみれの右手が突き出てくるのを、Xは間一髪、一歩下がることで避ける。だが、その背後からも更に手がXを引き込もうとする。
「なあ」
「なあ、おっさん」
「代わってくれよ」
「俺の代わりに、ここに」
「なあ」
「なあ……!」
辺りを取り巻くXの鏡像の一つ一つが、いつの間にか壮絶な笑みを浮かべて、X自身とは異なる動きを始めていた。その全てがXを鏡の中に引き込もうと血のしたたる右腕を伸ばしており、もはやXの逃げ場はなくなっていた。
それでも、Xは全く動じることなく、――その言葉を、唱える。
「引き上げてください」
それは、『こちら側』にいる私たちに対する合図。Xの意識体を肉体へと「引き上げる」ための。私は、既にスタンバイを済ませていたスタッフを見渡し、指示を、下す。
「すぐに引き上げて!」
エンジニアとサポートの新人が異界潜航装置を操作することで、ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。そのノイズの最中に、声が、聞こえた。
「なあ。どうして、俺が、こんな目に、」
「お疲れ様、X」
引き上げ作業は無事に済み、Xの意識は『こちら側』の肉体に戻った。寝台の上に起き上がったXは自分の右手に傷がないことを確かめるように、握ったり開いたりを繰り返している。
「……まだ痛む?」
私の問いかけに対し、Xは浅く頷いた。意識体の痛覚は、肉体に戻ってからもある程度の時が経つまで残るようで、この辺りはもう少し研究の余地があると感じている。意識体と肉体の関係性は専門ではないが、Xの円滑な運用のためには理解しておく必要がある。
「それにしても、災難だったわね。鏡の中から襲われるなんて」
もちろん相手は『異界』だ。あれがただの鏡であるとも思えなかったし、事実として鏡の中から現れたXの姿をした何者かがXの前に立ちはだかることになった。あれが一体何者だったのかは、結局わからずじまいだったけれど――。
そう思っていると、Xと目が合った。Xが何かを言わんとしていることを察して、私はXに許可を出す。Xは、私が許可をしない限り口を開こうとしないから。
Xはしばし何かを考えるように視線を彷徨わせて、それから改めて私に視線を合わせて言った。
「あれは。私と同じようなもの、だったのでは、ないでしょうか」
「あなたと同じ……?」
「私と同じように、『異界』を渡るもの。もしくは、迷い込んだ、もの」
迷い込んだ。その言葉にほとんど反射的に唾を飲んでいた。そのような現象が無いとは思っていない。むしろ、Xのような例よりも、そちらの方が大多数だと思っている。
例えば――。
「例えば、神隠し、のように」
神隠し。人間がある日忽然と消え失せる現象。昔からそのような現象は神の手によって、こことは別の世界に連れ去られたことによるもの、と捉えられてきた。そして、それがあながち的外れでもないということを、我々異界研究者は知っている。
知っているからこそ、私はこうして研究を続けているのだから。
「あの、あなたと同じ姿をしていた相手は、神隠しに遭った人間、だった……?」
「かもしれない、という、だけですが」
私は何とも言えない気分になって、寝台の上のXを見下ろす。
――なあ。どうして、俺が、こんな目に、
最後に、ノイズに混じって聞こえた声。あれは、理不尽にもあの世界に迷い込んだまま抜け出すこともできなくなってしまった者の、魂の叫びだったのだろうか。
私は何も言えなくなってしまって黙り込む。Xは確かにこちらの指示をこなそうとして、その途上で実験続行が難しいと判断して引き上げを要求した。何一つ問題はない、実験結果としても上々だ。なのに、何が引っかかっているのだろう。
いや、わかっているのだ。私は――。
すると、Xがふと、口を開いた。
「……もし。あなたが、命じるならば」
Xの、少し焦点のずれた目がこちらをひたと見据える。
「もう一度『潜航』を行い、先ほどのあれと、代わってきますが」
「まさか」
つい、声を上げてしまう。一瞬でも頭の中をよぎってしまった可能性を否定するために。
「あなたにそのようなことを命じることはないわ。安心して、X」
そうですか、と言ってそれきりXは俯いて黙り込んだ。Xの考えていることは、私にはどうにもわからない。ただ、今ばかりはこちらの迷いを見透かされた気がして、胸が激しく鳴り響いているのがわかる。
「そう、そうよ」
これは、ほとんど自分に言い聞かせるように、口を開く。
「私たちの目的はあくまで『異界』の観測よ。……今は」
「……今は?」
Xがふ、と顔を上げて問いかけてくる。私は、その真っ直ぐな視線を受け止めようとして、それでも自然と目を細めずにはいられなかった。
「ええ。今は、まだ」
そう、まだ私たちにできることは限られていて。
けれど、いつかはその向こう側に手を伸ばすだろう。それがなるべく早いことを祈りながら、私は今日も『異界』を観測するのだ。
無名夜行
読上
夕焼けに待つ
寂れた無人駅に、夕日は沈まない。
Xは何をするでもなく、ぼんやりと駅のホームの椅子に腰掛けていた。
ここが単なる無人駅でないことは、全く読めない文字の書かれた看板と、長らくそうしていてもまるで沈む気配を見せない夕日で明らかだった。そもそも、この駅にはホームの外側が存在しない。改札の向こう側には、光ひとつ射さない闇がわだかまっているだけだったから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
かくして、スピーカーが捉えるのは静寂であり、ディスプレイに映る景色も『異界』に降り立った瞬間から何一つ変化しない。
ひとたび『異界』に潜ってしまうと、私の声はXには届かない。唯一こちらからできることといえば、Xの意識を『こちら側』に「引き上げる」ことだけだ。故に『異界』内での行動は完全にXに委ねられている。
Xは極めて従順に、我々があらかじめ指示しておいた『異界』探索の手順を踏んだ。すなわち、自分が踏み込んで問題ないと判断できた範囲の目視確認だ。すると、どうもこの無人駅――に極めて近しい風景を持つ『異界』――は、ホームしか存在しないことがわかったのであった。ホームの下にあるべき線路はやはり闇に包まれていて、Xは降りるのに躊躇し、結局やめた。賢明な判断だと思う。
故に、Xはそれ以上何をするでもなく、ぼんやりと変わることのない夕焼けを眺めているのであった。普段、地下の独房と我々の研究室を行き来するだけの生活を送っているXにとっては稀有な、遮るもののない空であったのかもしれなかった。
これ以上変化がないのならば、制限時間を待たずに引き上げてしまってもよいだろうか。そう思い始めた時、不意にスピーカーに音声が混ざった。
「来ませんね、電車」
Xの視界が空から地面に落ちて、それから横に移動した。見れば、いつの間にか隣の席に一人の女性が座っていた。そう、女性だ。『こちら側』の人間と何一つ変わったようには見えない、女性。
それに、意味のある言葉を放ったのは大事なことだ。意味の判別できる言葉を投げかけてくるということは、意思疎通ができるということであり、意思疎通ができるということは『異界』の解明に大きく寄与することになる。
Xもそれを察したのだろう、『こちら側』では許可が無ければ決して開かない唇を、己の意志で開く。
「……そう、ですね」
年のころは二十代の半ばから後半といったところだろうか。女性は柔らかそうな栗色の髪を揺らして、小首を傾げてみせる。
「どうかしましたか?」
こちらからXの表情は見えない。ディスプレイに映し出されるのはXの視界だからだ。ただ、Xがよほど不審な表情をしていたらしいということは、女性の態度から明らかであった。だが、Xはすぐに首を横に振って、「何でもありません」と言ったのだった。
「あなたも、電車を待っているのですか?」
Xはすぐに話題を変えた。もしくは元に戻した、と言うべきか。女性もそれ以上追及することなく、Xの話に応じた。
「ええ。どのくらい待つかは、わからないけれど」
「時刻表もありませんでしたね」
「時刻なんて意味をなさないですからね」
「ああ……、そうみたいですね」
夕日は、相変わらず空の果てに引っかかっている。風ひとつなく、雲ひとつなく、ただ、ただ、空が赤く染まっている。時刻など意味をなさない。なるほど、そうなのかもしれなかった。少なくともこの『異界』においては。
視線を女性に戻せば、女性は自らの腹に手を当てて、大切なものに触れるかのように撫でていた。Xの視線がじっとその指先に向けられる。ほっそりとした指先が少し膨らんで見えるそこを繰り返し撫ぜて――、女性が、顔を上げる。慌ててXは女性の手から視線を逸らし、低い声を漏らす。
「……すみません。不躾でした」
Xの言葉に対し、女性は「気にしないでください」と笑う。むしろ、嬉しそうですらあった。
「やっと、動いてるのがわかるようになってきたんです」
その中には、もうひとつの命がある、ということだ。Xはその女性をどのような気持ちで見つめているのだろう。私には想像もつかない。
そう、想像もつかないのだ。何人もの人間を手にかけてきたXが、新たに生まれるであろう命を前にどのようなことを思うのかなど……、想像できるはずもない。
しかし。
「無事、生まれるといいですね」
そう言ったXの声は、ひどく優しかった。
女性は、目を見開いてXを見た。そして、次の瞬間、その目からぽろりと涙が落ちたのだった。それに驚いたのはXもだろうが、女性自身も驚いたようで、慌てた様子で涙を拭った。
「あら、ごめんなさい、わたしったら」
それから、くしゃりと笑ってみせる。今にも泣き出しそうな笑い顔だった。
「嬉しい。ありがとう、ございます」
その時、スピーカーが不意に、遠くに響く踏切の音を捉えた。かん、かん、かん、という、聞きなれた音色。そして、ゆっくりと轟音が近づいてくる。それは、本来線路があるべき場所に続いている闇を切って現れた、数両編成の電車であった。車体は、夕焼けの色を切り取ったような、赤色だった。
女性が弾かれるように椅子から立ち上がるのを、Xはどこまでもぼんやりと見つめていた。女性は不思議そうにXを振り返る。
「あなたは乗らないんですか?」
「ええ。……いいんです、私は」
女性はその一言だけで納得したらしく、ホームに滑り込んだ電車に向けて歩き出す。電車の扉が開き、その中がちらりとXの視界に映り込んだ。他に客の姿はなく、扉はこの女性ただ一人のために開かれているように、見えた。
Xはゆるりと立ち上がり、電車に乗り込んだ女性を見た。女性は屈託のない笑顔を浮かべて、Xに手を振って――。
電車の扉が、閉じる。
Xは、窓越しに手を振り続ける女性に、手を振り返す。電車が動き出して、女性の姿が流れていって。電車が遥か先の闇に溶けていっても、Xは手を振り続けていた。
かくして、意識体の引き上げ作業は無事に済んだ。
いつも『異界』への『潜航』から帰還したときにはそうであるように、Xは忘我の表情で寝台の上に横たわっていた。体中に繋がれたコードを外されながら、ぼんやりと視線が虚空を彷徨っている。
もう少し休ませた方がよいかと思いながらも、気になった点があるために、Xの横に立って、彼を見下ろす。
「発言を許可するから、答えてくれる?」
「……何でしょうか」
Xの唇から、声が漏れた。低い声。先ほどまでスピーカーから聞こえていたそれ。
「ついていこうとは、思わなかったの?」
「乗ったら、戻れなくなりそうだと思いました」
Xの回答はどこまでも淡々としていた。Xはいつもそうだ、私への問いかけにほとんど感情を差し挟まない。
「それとも、乗っていった方が、よかったでしょうか」
「いいえ。それがあなたの判断なら、構わないわ」
確かに『潜航』時、Xに繋がっている命綱がどこまで保つかはわからない。あの電車に振り切られれば、Xは二度と肉体に戻らない可能性だってあった。『異界』に潜っている間の判断をXに委ねている以上、その判断に異を唱えることは私にはできないし、文句を言う気も毛頭ない。
その上で。
「それと、もう一つ聞いていいかしら」
もう一つ。聞いてみたいことがあったのだ。こちらは、私の単なる興味本位でしかないけれど。Xが否と言わないことはわかりきっていたから、そのまま問いかける。
「あなたは、最初あの女性を見て驚いたみたいね。どうして?」
「……それは」
Xは私を見上げて、ぽつりと言った。
「昔、死んだ知り合いに似ていると思った。それだけです」
無名夜行
読上
上昇と落下
かん、かん、かん、と足音を立てて階段を上っていく。
足元から激しい罵声が聞こえてくるが、言葉を聞き取ることはできない。私の知識にも、我々のデータベースにもない不可思議な言語。ただ、それが「罵声」であることはわかるし、きっと階段を上っているXも理解しているはずだ。
Xはひたすらに目の前にある階段を上る。流石に息が切れてきているのがスピーカー越しに聞こえる息遣いでわかるが、速度を落とすことはない。速度を落とせば、追いつかれることがわかっているからだろう。きっと重くなりつつあるだろう足を、次の段へと持ち上げて、上へ。ただ、上へ。
階段は螺旋状になっていて、ぐるぐると同じ場所を回り続けているような錯覚に囚われる。それでいて、確実に追い詰められているのがわかるだけに、見ているだけしかできない私も手に汗を握ってしまう。
そう、Xは追い詰められているのだ。自分がどこに向かおうとしているのかもはっきりとはわからないまま、追われるままに走り続けている以上、いつかは必ず追いつかれるという確信がある。
どのくらい、そうしていただろう。
スピーカー越しの息遣いが更に激しくなってきたところで、目の前に金属製の扉が現れた。鍵はかかっていなかったようで、Xはその扉を勢いよく開く。
すると、ごう、という風の音と共に視界が開けた。
青い、青い、空。ただ、それがただの空でないことは、ディスプレイに映し出されたXの視界でわかる。青という色を映し出した巨大なドームの屋根が目の前から頭上にかけて広がっているのだった。
Xはふらりと一歩を踏み出す。そこには少し開けた空間があって、その周囲に落下防止のフェンスが取り付けてあった。屋上、らしい。Xはつかつかと奥のフェンスに向けて歩いていく。
どうやら完全に追い詰められたようだ、と思う間もなく、激しい足音と共に扉の向こうから不思議な形の制服を着た面々が現れる。彼らの手には思い思いの武器……、と思われるものが握られている。それは警棒のようなものであったり、長い槍のようなものであったり、銃にしては歪な何かであったりした。
その内の一人がXに向かって何かを叫ぶ。もちろん、何を言っているのかはわからないが、この状況を考えると、例えば投降を呼びかけるようなものだったのかもしれない。じり、じり、と包囲がXに近づいてくるのが、Xの視界越しにわかる。
Xは彼らを視界に捉えたまま後ろに下がった。そして、ちらりと背後に目をやる。もう、フェンスに手をついている状態で、後はない。制服の面々が何かを口々に叫ぶが、Xは腕の力だけでフェンスの上に乗る。
その瞬間、わっと声を上げて制服の面々が武器をかかげて駆け寄ってくる。明らかに殺意を漲らせている彼らを前にして、Xは。
「引き上げて、ください!」
それだけを言って、フェンスを蹴った。
ディスプレイに映し出されたXの視界が上下反転して、それから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、今回Xが降り立った『異界』は、巨大なドームに覆われた都市であった。
青すぎるほどに青い「空」に見下ろされた都市には、揃いの制服を着た人々が整然と行き交っていた。その人の流れに反して酷く静かで、スピーカーの異常を疑ったほどだ。
だが、その静寂はすぐに破られることになる。Xの姿を見つけた誰かが、甲高い悲鳴を上げたことで。
もちろんXはただ降り立っただけで何をしたわけでもない。それこそ、人に話しかけようとすらしていない段階の出来事だった。普段は必要に駆られて以外にめったに声を出さないXも「え?」と間抜けな声をあげたくらいだ。
だが、道行く人たちはXを見るなり怯えた顔を浮かべ、走り去っていくのだ。Xは自分が何かおかしいのか、とばかりに自分の姿を見直す。意識体のXの服装は、いつもその時に肉体が着ている服装であり、だぼっとしたトレーナーに幅広のつくりのズボンと、ラフではあるがそこまでおかしいとは思えないものだ。……もちろん、それは「私から見て」であり、この『異界』では通用しなかったのかもしれない。
事実として、Xの姿を見た人々はことごとく逃げ出し、それからまもなく、手に武器らしきものを持ったやはり制服姿の男性が近づいてきて、Xに何事かを語り掛けてきたのだ。
だが、相手の言っている言葉がわからない。スピーカーから聞こえてくる音声をデータベースにかけてみたが、現在データベースに収録されている言語には当てはまらない、不可思議な言語。もちろんXにも通じるはずはなく、困った様子で首を傾げることしかできない。
その直後、目の前の男性が武器を振り上げて、Xを打とうとしたのだった。
Xはほとんど反射的に男性を蹴り倒し――いつもぼんやりしている割に、こういう時の判断はやたらと早い――その場から逃げ出した。だが、Xが走っている間にもあちこちから悲鳴が聞こえ、武器を手にした追っ手は増えていくばかりで。
どれだけ必死に走っても追っ手を振り切れず、追い詰められた結果が、あれだ。
「それで、引き上げが失敗したらどうするつもりだったの?」
寝台に横たわったままのXがちらりとこちらを見て、わずかに首を傾げる。その表情は相変わらず凪いでいて、感情の動きを読み取ることはできない。
Xが「墜落した」と認識する直前にXの意識体を『異界』から引き上げ、肉体に戻すことに成功しているから、Xは今こうして私の声を聞いているけれど。もし墜落した衝撃を意識で受け止めていたら、果たしてどうなっていたことか。少なくとも、まともでいられなかったのは確実だろう。
そんな私の危惧など素知らぬ顔とばかりのXに、どうにも頭が痛くなる。
Xは自分の危機に対しての感覚が妙に鈍いところがある。今回は自分から引き上げを望んだが、こちらが強制的に引き上げを行うことも少なくない。そうしなければXの意識体が保たないと判断された時だ。しかし、『異界』ではありとあらゆることが起こりうるのだ、せめてもう少し自分を守ろうとしてくれないだろうか。
「引き上げを望むなら、せめてもう少し早くして。……X? 聞いてる?」
私の問いかけに対してXが頷く。Xの自己判断を認めている『異界』の中ではともかく、『こちら側』にいる間のXは私が許可しない限り声を上げようともしない。私はやれやれと首を振り、溜息をつかずにはいられない。こういう時ばかりは、Xの従順さがいやにもどかしく感じる。
「あなたが死んでも『次』を用意すればいい。あなたはそう思っているかもしれないけれど、あなたほどの適任者はなかなかいないのよ、X」
とはいえ、Xは死刑囚だ。いつかは必ず死ぬことが定められている。ただ、それまではできる限り我々に協力していてもらいたい、とも思うのだ。
果たして、そう望むことは私のわがままであろうか。否、わがままであっても構いはしない。元よりこの研究が私のわがままそのものなのだから、今更だ。
「さあ、今日はゆっくり休んで。相当消耗しているでしょう」
Xの全身に取り付けられていたコードが外される。Xはゆっくりと起き上がって、その、ちぐはぐな色をした――少しだけ焦点のずれた不思議な目でじっと私を見つめてくる。
「何?」
Xは首を横に振って、寝台から下りる。今日はその足取りもしっかりしているから、私が心配することもないのかもしれなかったが、念のためだ。
「X、発言を許可するわ。言いたいことは言って。どんな話でも、聞くことはできる」
すると、Xは少しだけ困ったような顔をして、その唇から、低い声が漏れる。
「必要とされるのは、悪い気分じゃない、と、思っただけです」
それだけを言ったXは私に向けて深々と一礼して。扉の前で待っていた刑務官に連れられて研究室を出て行った。
私はXが横たわっていた寝台に寄りかかり、もう一つ、溜息をつく。
Xの思考はいつだって私にはよくわからない。Xは当初から多くを語らない人物であって、それは今に至っても変わらない。発言を許可したところで、ぽつぽつと応答する程度で――それのどこまでが彼の本心なのかも、わかりはしないのだ。
そう、青い空に向けて迷わず踏み切った瞬間の心の内だって。
もちろん、わかる必要などないのかもしれない。Xは我々にとってのサンプル、実験動物でありそれ以上でも以下でもないのだから。
それでも、どこか胸の中に引っかかるものを感じて、私はXが消えていった扉をじっと見つめていた。応えが返ってこないことは、わかりきっているのに。
無名夜行
読上
アイレクスの走馬灯/はじまりの記憶
眼部損傷、視覚遮断。ざあざあ、波のような音がする。波。僕は海を知らない。音声認識能力の低下。海が見たい。記憶のロード。失敗。一部欠落。フラグメントは赤い花びら。赤。君の瞳の色。僕の、瞳の色。
そう言って笑った君を、今なら、思い出せる――
この記録は、記憶だ。
君と出会った僕の、
最初で最後の旅の記憶。
読上
仮想ダイアログ
[End of File] - A_Curtiss_Record-1039 Closed...
「お疲れさまでした、Administrator。以上がミシェル・ロード殺害事件の全記録です」
「本当に、ミシェル・ロードはこの時点で死んだのか?」
「当装置に記録されている情報を総合しても、その後ミシェル・ロード博士の生存は確認されておりません」
「……そうか」
「何か疑問点がございますでしょうか、Administrator?」
「ミシェル・ロードは、何故甘んじて奴に殺されたのか。記録を総合するに、間違いなくミシェル・ロードは奴が己に殺意を抱いていることを理解していたはずだ。そして、奴が行動する以前に手を打つこともできたはずだ」
「…………」
「や、すまん。別に、お前さんに答えを求めてるわけじゃねえんだ。だから、そんな顔しないでくれ。頼む」
「は、はい。申し訳ありません、Administrator」
「だから謝るのもやめてくれって。やりづれえったらねえ」
「……はい」
「じゃ、もう一つ質問させてくれ。何故、ミシェル・ロードの死以降、奴の視点による記録は残されてねえんだ?」
「お答えします、Administrator。ミシェル・ロード博士殺害の罪によって囚われた後、『彼』は当装置への接続を禁じられました。当装置はロード博士死亡当時《鳥の塔》の公衆網にも接続され、二四時間情報を収集していました。故に、『彼』が必要以上の情報を得ることを、上層が危惧した模様です」
「……なるほど、だから……奴が見ていたはずの『はじまり』も、ここには記録されていないんだな」
「はい。接続解除後、『彼』が生存中に当装置に接続されることはありませんでした。以降の記録は、次のAdministratorが接続されるまで、全て《鳥の塔》から提供された情報と、当時の公衆網で取得できた情報のみで構成されております」
「ま、そりゃそうか。なら、ミシェル・ロード殺しの罪で捕まった後、奴はどうしたんだ? 記録からわかる範囲でいい」
「『彼』は、《森の塔》の監獄に収容されました。《鳥の塔》上層では、『彼』の能力と思想を危険視して死刑を望む声も多く上がりましたが、その後の調査で『彼』を死刑にすることに対する莫大なリスクが明らかになりました」
「リスク?」
「『彼』は、ミシェル・ロード殺害直前に、自分の権限で可能な範囲の、環境改善班の研究成果を、全て虚偽の情報に書き換えていたことが明らかになったのです。それらの正しい情報を網羅しているのは結果的に『彼』ただ一人であり、『彼』を死刑にすることによって、それらの情報が全て失われることを上層部が恐れた模様です」
「情報を盾に取ったのか。奴らしいやり口だな」
「正式な処遇が結局決まらないまま、『彼』は監獄の中で過ごしていました。その間の記録を紐解く限り、『彼』は既に半ば正気を失っており、ほぼ会話が通じなかったそうです。ただし」
「それが演技であった可能性も、否定できない」
「その通りです、Administrator」
「奴がどこまで狂ってたか、今どこまで狂ってるのか……か。難しい問題だな。まともでなかった、というのは俺も同意だが、理性的に狂っちまった奴ほど性質が悪いよな。俺みたいにさ」
「Administrator、あなたが狂気に侵されているとは、思えません」
「狂ってるさ。狂ってなかったら、きっと、ずっと上手く立ち回れた。せめて、一番大切なものだけは、傷つけずに済んだかもしれない」
「…………」
「や、もしもの話はやめようか。俺も奴も、少しばかり足を踏み外しちまった。それだけの話だ」
「……Adminisitrator、質問を許してください」
「構わんよ。何が聞きたい?」
「あなたは、今も『彼』を恨んでいますか?」
「正直に言えば、恨みはとっくに消えちまってる。だからといって、奴もまた被害者だ、なんて言う気もさらさらねえ。奴は俺にとって何処までも加害者だ。ただ」
「ただ?」
「……出会い方が違えば、案外、仲良くなれたかもな」
[Reservoir] exit - N_T_Curtiss(Copy_Personarity) Logged off.
読上
檻と鳥籠
《森の塔》とは、国の中心を担う統治機関《鳥の塔》が荒野の各所に築いた研究施設の名称だ。
緑を失ったこの世界に、もう一度かつての色を取り戻すために、《鳥の塔》とよく似た白磁の塔にはこの国有数の頭脳が集められ、日々、環境改善のための研究が行われている、らしい。
けれど、クーノ・ラングハインは、それがどこからどこまで事実なのかを知らない。
《森の塔》第三番に配属された兵隊のクーノにとって、研究員たちが集う研究区画は許可なしに立ち入ることのできない場所であり、彼らの実情も白い壁に隠されたままだ。
だから、そこで何が行われているのかも、クーノが知ることはない。
知る必要も、ない。
「なあ、クーノ?」
知る必要なんて、ないはずなのに。
「なーに無視してくれちゃってんの? なあ、少しくらい相手してくれたっていいだろ? 別に何が減るわけでもねえんだしさあ」
背にした硝子越しに聞こえてくる馴れ馴れしい声に、眉を顰める。振り返らずに、必要以上のことを言葉にすることもなく、真っ直ぐに閉ざされた扉を見つめて、交代の時間が来るのを待つ。目を逸らし、耳を塞ぎ、口を噤む。それが、《森の塔》第三番地下監獄に配属された兵士に必要な行動だった。
だから、クーノもぐっと唇を噛んでやり過ごそうと試みる。硝子張りの牢から響く、ざらついた猫なで声はなおも続く。
「最近、どいつもこいつもだんまりで、俺様まで喋り方忘れちゃいそうなんだよ。あ、忘れるなんて能力、俺様にはなかったじゃん、ねえ? あっはは、俺様としたことが意味のねえことを悩んじまったぜ」
耳を塞ごう。大丈夫、この罪人の言葉に、何一つ意味などない。
「意味がない。無意味。ああ、嫌んなるよ。俺様がこうやってぐだぐだ喋ってる間にも、時間はただただ過ぎてんじゃねえか。今何時だっけ? 今は二十時五十八分二十七秒です。あー、ここの時計、ちょいとずれてんだけど、早く直してくれねえかな。何か気持ち悪ぃんだよ」
聞こえない、聞こえない。言い聞かせて、呼吸を整えて。無視を続けていれば、いつしか男も飽きて思索に入ることは、ここ一ヶ月の監視で理解している。今日もいつもと同じように聞き流しているだけで、
「ああ、今ごろ、鳥籠のお姫様は、何をしてるんだろうな?」
突然意識に飛び込んできた言葉に、息が、喉の奥で詰まる。
「今日も一人きりでお人形遊びかな。それとも、カラスマ先生の歴史の授業中かねえ。かわいそうになあ、俺様たちのエゴに振り回されて、永遠に鳥籠の中から出ることも許されない。ただ、俺たちの望む『未来』とやらのために生きて死んでいく運命ってな」
振り向いてはならない。そうは思うのに、世間話でもするかのように物語る声の主を睨みつけて、叫びだしたい衝動に駆られる。
耐えるんだ。クーノは拳を握り締めて、僕は何も知らない。そう、彼女のことだって、何も、何も。
「そうそう、お前さんもこの前お姫様を見たんだってな。お姫様、かわいかっただろ?」
胸が跳ねる。どうして、この男がそれを知っている? 思わず硝子の壁から飛びのき、罪人の姿を直視してしまう。
すると、奥の壁を背に座り込んでいた拘束服の男が、重たげに顔を上げた。
「やっとこっちを見てくれたなあ、クーノ・ラングハイン?」
にぃ、と。髭に覆われた口元が、笑みを形作る。
背筋に走る悪寒、それでも、一度目を合わせてしまえば、逸らすことなどできない。
永久に溶けない氷の色を湛えた瞳。その奥に渦巻く、刃を思わせる鋭い光。こちらの心を突き刺してかき回す、狂気。
いつの間にかからからになっていた喉に唾を流し込んで、かろうじて言葉を放つ。
「何故、それを」
「そのくらい、俺様にはまるっとお見通しだぜ? お前さん、恋する男の目だもの」
「じょ、冗談を……っ」
「うん、冗談。部屋の前でお前とイヴァンが話してるのが聞こえただけ。はっは、本気にしたのか? 少しでも、冗談じゃないって思っちまったんじゃねえのか? いやあ、若いっていいなあ、俺様もまだまだジジイって歳じゃねえけどさ、いつだって恋心なんてえもんは脆く儚いもんでなあ」
そのまま、クーノの動揺を置き去りにして訥々と恋やら愛やらの話をし始める男を、微かに唇を噛んで見据える。
「……どこまで、知っている?」
その問いに、男は言葉を止めた。気持ちよく喋っていたところに割り込まれた不快を眉間に滲ませながらも、親切にも答えを返してきた。
「だから、何も知らねえっての。お前があのお姫様を知っている、ってとこまでだ。俺様がここから出られないのは、お前さんが一番よく知ってるだろ? 情報網から完全に隔絶されてることもな」
そう、そのはずなのだ。
それでも、この男ならば、クーノや上層部の考えを遥かに超えたやり方で、この何もかもから隔絶された硝子の檻から、知りたいことを知り、やりたいことを実行に移すことも不可能ではない。そう思わせるだけの「功績」がこの罪人にはあった。
改めて、男を見る。伸びっぱなしの黒い髪に、顎を覆う髭。体つきだけ見れば貧相な子供のかたちをしていながら、ぎらぎらと輝く目には、子供の無垢さとはかけ離れた混沌を凍らせている。
男と自分がいる側の「世界」とを隔てる硝子に手を触れ、その冷たさを思う。
あの日出会った少女もまた、クーノとは隔たった場所にいた。冷たい鋼の扉の向こう、外界と完全に隔絶された、鳥籠に。
目の前の男のように罪を犯したわけでもないというのに、つくられた世界にひとりきり。楽園の真ん中で、柔らかなドレスの裾を翻す影が、閉じた瞼の裏に、ちらつく。
《森の塔》第三番、最高層。
本来、研究者の中でも、ごく一部の人間のみが立ち入ることの許される空間である――そう、クーノは聞かされている。
ならば、何故自分はここにいるのか。その問いに、クーノ自身は答えることができずにいた。昔から時々あるのだ、ふと気づくと、全く見覚えの無い場所に立っているということが。毎週一回かかっている医者には、夢遊病の一種ではないかと言われているが、詳しいことはまだ何もわからないままだ。
だから、その時も得体は知れないが「いつものこと」ではあった。
場所が、異常であっただけで。
「……どうやって入り込んだんだ、僕……」
壁に掲げられた階数の表示を眺めて、思わず独りごちる。上層に至るためには、いくつものセキュリティを越える必要があるはずなのだ。下っ端兵隊のクーノが入り込む隙間など、どこにも無いと思われるのだが。それとも、実はセキュリティが厳しいというのは表向きでのことで、案外抜け道もあるのかもしれない。
とにかく、自分がここにいてはならない存在だ、ということだけははっきりしていた。慌てて下に向かう階段を探していると、不意に、声が聞こえた。
「おや、兵隊さんがこんなところで何をしているんだい?」
穏やかな、男の声に、びくんと肩を震わせて振り向く。見れば、そこにはほとんど白髪になった金髪を撫で付けた、白衣の男が立っていた。襟を飾るピンは、男が上層に位置する研究者であることを示していた。
慌てて敬礼し、己の名と所属を明かす。そして「何故ここにいるのかわからない」ことをしどろもどろに説明すると、男はくつくつと愉快そうに笑う。
「なるほど、面白い現象だな。少し調整の仕方は考えるべきかもしれないが」
「……?」
首を傾げていると、男はぽんぽんとクーノの肩を叩く。
「まあ、折角ここまで来たんだ、見学でもしていかないか? この部屋は特に面白いと思うよ」
いつの間にか、目の前には大きな扉があった。分厚い金属製の扉にはいくつもの装置が取り付けられていて、巨大な金庫のようにも見えた。
白衣の男はクーノを導き、扉の前に立たせる。
「さあ、そこのパネルに手を当てて」
導かれるままに、手を当てる。すると、扉は音もなく開いた。
そして、クーノは、目を丸くした。
まず、感じたのは風の香りだった。今まで嗅いだことのない、さわやかな香りが鼻孔をくすぐる。それから一拍置いて、やっと、目に映る光景を頭で理解した。
扉の向こうに広がっていたのは、一面の緑だった。緑の芝生、咲き乱れる鮮やかな色の花、そして芝生の上にぽつぽつと植えられた木々。そのどれもが、今や地球から失われたはずのものであった。
「ここ、は……?」
研究員の男を振り返ってみると、男は鷹揚に笑って、ドーム状の天井を仰ぐ。
「鳥籠さ」
「とり、かご……?」
クーノも、男につられるように、天井を見上げる。そこには、架空の空が描かれていた。この世界から失われて久しい、青空が。
「そう。この国の未来を創るための楽園、もしくは」
言葉を切って、男はクーノに視線を戻した。紫苑の瞳は、鏡のようにクーノの丸い目を映し込んでいる。
「とある少女の牢獄さ」
牢獄? と、男に問い返そうとした刹那。
「誰?」
不意に、声が、降ってきた。
はっとして声の聞こえてきた方向を見ると、赤い名前も知らない実をつけた樹の上に、一人の少女が座っていた。
柔らかそうな、ふわふわと波打つ茶色の髪を、頭の上の方で二つ結びにしている。着ているものはレースをふんだんにあしらった、柔らかそうなドレスだけれど、樹に登るときに引っ掛けたのか、ところどころがほつれ、裂けてしまっている。
けれど、それよりも、クーノの目を引いたのはその少女の額。茶色い前髪に隠されかけているが、そこには白い滑らかな石が嵌めこまれていた。一体、あれは何なのだろう、と思いながらも、少女がじっとこちらを見つめているのに気づいて慌てて名乗る。
「ぼ、僕は、クーノ。クーノ・ラングハイン。君は……」
「クーノ」
ぽつり、と。少女は呟く。ただ、名前を呼んだだけだというのに、その声は、激しくクーノの鼓膜を……否、脳を揺さぶる。共鳴する音色、身体の内側が震える感覚に、クーノは口を半開きにして、呆然と少女を見つめていることしかできない。
「クーノ。素敵な名前」
そんなクーノを見下ろしていた少女は、不意に枝から離れた。ふわり、とスカートが広がって、次の瞬間には音もなく、小さな体が芝生の上に降り立っていた。依然呆然としたままのクーノの目の前まで歩み寄ってきた少女は、にこりと微笑んだ。額の白い石が、蛋白石めいて虹色に煌く。
「クーノは、新しい話し相手さん? みんなは、何も言ってなかったけど」
「話し、相手……?」
「最近、毎日おんなじお話とお勉強ばっかりで、飽きちゃってたの。クーノは、どんな話を聞かせてくれるの?」
全く、要領の得ない少女の質問。助けを求めるように研究員の男を振り向いた、が。
「あれ……?」
男の姿は忽然と消えていた。
クーノは、少女に向き直って問いを投げかける。
「さっきの人は?」
「え、さっきの人? 誰のこと?」
「白衣で、白髪交じりの金髪で……紫の、目の」
「だあれ、それ?」
きょとんと目を丸くして、少女は小首をかしげる。まさか、一緒にいたのだから、気づいていないはずもないだろうに。ざわざわと、嫌な感覚が首筋の辺りを撫でる。
一刻も早く、この場から離れるべきだ。理由もないけれど、ほとんど確信に近い警告が心身を支配し始めた、その時だった。
きゅっ、とクーノの手を少女が握り締めた。柔らかい、温かな手。少女を見れば、少女はどこまでも無邪気に笑っていた。
「大丈夫だね、クーノは、あったかいね」
そう言って、壊れやすい、大切なものを握るように、両手でクーノの手を握り締める。
「みんな、すぐ冷たくなっちゃうから。あったかくて、よかった」
その言葉の意味をクーノが理解する前に、少女の唇がそっと開かれる。
そこから漏れ出したのは、歌。
柔らかなメロディ・ラインは、クーノの知っているものだ。そう、《鳥の塔》が定期的に募集しているキャンペーン・ガール……《歌姫》がよく歌っている歌だ。陳腐なメロディに、陳腐な歌詞。しかし、それを歌い上げる《歌姫》たちの声は、いやに聞くものの胸を突く。
そして。
この少女の声は、今、《歌姫》として大々的に知られている少女の声とそっくりだった。顔も姿も、全く似ていないというのに。
クーノの存在を確かめるように、少女はクーノの指先に指を絡ませて。高らかに、愛の歌を歌いあげていく。その丁寧で伸びやかな歌声は、クーノの耳からするりと心の底にまで入り込んでいき……。
――さみしい。
ふっと、一つの単語を、胸の奥に灯す。
少女は微笑んでこそいたけれど、今にも泣き出しそうにも見えた。
――さみしい。
――さみしいよ。
歌は、人と共にいる温かさ、共に歩む幸せを歌っているというのに。歌詞とは裏腹に、胸の中に浮かんでは消えていく、「さみしい」という言葉。声にならない少女の思いが、旋律を通して、驚くほど鮮明に流れ込んでくる。
気づけば、クーノも少女の手を強く握り返していた。少女の手に、己のもう片方の手を重ねて、少女の体温を感じていた。さみしい、と叫ぶ少女の苦しみが、少しでも癒されるようにと祈って。
それと同時に、「さみしい」という叫びに共鳴した自分の孤独が、そうすることで、少しだけ埋められるように。
少女は、急に強く手を握られて、「ひゃっ」と驚きの声を上げて歌を止めた。それでクーノも我に返り、「ご、ごめん」と手を離そうとしたが、少女は首を小さく横に振って、今度ははにかむように、でも心からの喜びをはしばみ色の目に浮かべて、微笑んだ。
「ありがとう、クーノ」
他愛の無い言葉、けれどそれが、クーノの胸に不思議と染みる。ありがとう、クーノ。そんな優しい言葉、誰に投げかけられたことがあっただろう。こんなちいさな、けれど確かな温もりを感じたのは、いつのことだっただろう。
さみしい。それを自覚したのは、いつのことだっただろう。
そこまで考えたところで、ふと、まだ大切なことを聞いていないことに、気づいた。
「そう、そうだ。君の名前、まだ、聞かせてもらってない」
聞いてないの? と少女は不思議そうに首を傾げたけれど、すぐに小さく頷いて、赤い唇を開く。
「わたしは――」
だが、少女の声は突然鳴り響いた警報音に遮られた。それと同時に、割れた声が部屋中に響き渡る。
『緊急事態、緊急事態! 侵入者発見!』
侵入者。
その物騒な言葉に、クーノは自分の立場を思い出す。少女は不思議そうに空を見上げ、なおもクーノの手を握り締めていたけれど。
その間にも、どこかに設置されているのであろう拡声器から、研究員と思しき男女の切羽詰った声が、放たれる。
『侵入者だと? 一体どうやって!』
『早く排除しないと、《歌姫》への干渉が……!』
「二十一時ジャスト」
突然、クーノの思考を、声が貫いた。途端に、頭の中に浮かんでいたイメージは、ぱっと虚空に霧散する。
「交代の時間だぜ、クーノちゃん」
顔を上げれば、檻の奥に座り込んだままの罪人が、黄ばんだ歯をむき出しにしてニヤニヤ笑っている。目を逸らして時計を見ると、二十時五十九分四十七秒。どちらが正しいのかなんて知ったことではないが、交代の時間なのは間違いなかった。
そういえば、あの後、自分はどうなったのだったか。思い出そうとしても、記憶は何故か白い霞に包まれてしまう。
とにかく、まだ、交代の相手は来てくれないのか。閉ざされたままの扉に視線を向けたその時。
「そうだ、一つだけ」
囁きの声が、小さな部屋に響き渡る。
「お姫様のことは、とっとと忘れろ。お前が見たのは夢、幻、お前が関わっていい世界の話じゃねえ」
クーノは、もはや監視者に課せられた「目を逸らし、耳を塞ぎ、口を噤む」の大前提をすっかり忘れて、男を見る。
男は、笑顔を消して、クーノを見上げていた。髪の間から覗く瞳の青さが、クーノの脳裏に焼きつきそうなほどに、真っ直ぐ。
「俺は、忘れられなかった。忘れられなかったから、今、ここにいる」
こつこつ、と。男は拘束服越しに、後ろ手に己が背にしている壁を叩く。己が封じ込められている、小さな檻を示す。
「忘れなかったことに後悔はねえ。頭ん中弄くられて、アイツの存在を無かったことにするくらいなら、アイツを殺した連中皆殺しにして、俺一人がアイツを覚えていればいい。今だって、そう思ってる」
男が指す「アイツ」が誰を指しているのか、クーノは知らない。クーノは、この罪人がどのような罪を犯したのかは知っていても、その動機は知らなかったから。
そして、男もまた、詳細を語る気などさらさらなかったのだろう。ふ、と。力なく微笑んで、言葉を続ける。
「だが、お前まで、同じ道を辿ることはねえよ、クーノ。早く引き返せ、俺みたいに取り返しがつかなくなる前に」
どこからどこまでが冗談で、どこからどこまで狂気かもわからない男の言葉だ。取り合うのも馬鹿げている。そう、脳裏の冷静な部分が呟くけれど、それ以上に、男の言葉に引きずられて頭の中に浮かぶ少女のイメージが、クーノの心を揺り動かして止まない。
「……でも」
さみしい。
さみしいよ。
リフレインする歌、少女の、心からの言葉。
「でも、あの子は」
「忠告はしたからな、クーノ」
男の声は、いつになく静かで、厳しかった。
こつこつ、と。遠くから足音が聞こえてくる。交代の兵隊がやってこようとしていた。途端に男は顔から力を抜き、箍の外れた表情に戻る。
「そうだ、なあクーノ。お前、アイスクリームは好き? 俺様、チョコミントのアイスが食べたいなあ。今度こっそり持ってきてくれよ。え、無理? そう言わねえでさあ。なめらかで冷たくてあまーいやつだ、頼むよ」
気づけば、また、いつも通りの意味の無い言葉の羅列が始まっていた。
果たして、それが本当に「無意味」なのかはわからないまま――クーノは、いやにぼんやりとした心持ちで、交代の兵隊を迎えた。
読上
荒れ野の花と白い箱
息を呑んだことを、覚えている。
がらんとした部屋の真ん中に立つ、少年とも少女ともつかないちいさな影。手には銀色の鋏、足元に散らばるのは黒い髪。
「ロータス」
振り向きもせずに、変わり果てたシルエットの「彼」が言葉を放つ。
「いきましょう」
静かな、しかし決然とした声と共に振り向いた「彼」は。
何故か、どこにもいない「もう一人」に、見えた。
旧い魔法使い《バロック・スターゲイザー》が引き起こした、地球全土に渡る天変地異――《大人災》から数百年が経過した、らしい。当時の記録はほとんど残っていないから、ロータス・ガーランドは正確な情報を知らない。
かろうじて生き残った人類が築いた統治機関《鳥の塔》は、その名の通り灰色の空に向かって聳える巨大な塔の姿をしている。窓一つ無い白い塔は、人類の英知の象徴であり、滅びに向かう世界に輝く希望のかたちでもある。
――というのが建前であることは、ロータスも重々理解している。
この塔の内側に詰まっているものが、酷く混沌として、つかみがたいものであることも、この歳になれば嫌というほどわかってくる。
ロータスは塔の高層に位置する一室で、塔が敷いた公共通信網に接続されていた。意識は仮想空間を自在に泳ぎ、飛び交う無数の情報を並列処理しながら、異変が無いかどうかを確かめていく。
そんな矢先、ふと、意識の中に現実の音声が滑り込んできた。
「ロー、いるー?」
聞き慣れた声と、自動開閉扉を叩くやかましい音。ロータスはふと溜息を漏らし、目を覆っていたバイザーを少しだけ上げる。少々殺風景な自室の風景から、叩かれ続ける扉に視線を向けて……扉に備え付けられたインターフォン越しに聞こえるように、接続を維持したまま、思考から音声を生成する。
『扉、壊さないでよ』
「あ、いたいた。壊されたくなかったら、ちょっと開けて」
『わかった』
扉を制御するコマンドを飛ばして、扉を開く。すると、そこには自分とよく似た顔があった。短く切った黒髪に、長い睫毛に縁取られた赤い瞳。違うのは、ぴったりとした服に包まれた体が女性のものであることと、自分なんかよりずっと引き締まった、健康的で筋肉質な体つきをしているということ。
ほとんど同い年の「弟」は、いつもやかましいほどに明るい彼女には珍しく、神妙な面持ちで、機器に繋がれたままのロータスに言った。
「すぐに来るように、って父さんが」
「ああ……そういえば、今日だったね」
ロータスは、接続状態を解除し、身を起こす。通信網ではあれだけ自在に動けるというのに、現実に意識を戻した途端に、全身にかかる重さと鈍い痛みを感じずにはいられない。ガーランドとして生まれながら、極めて虚弱なこの体が恨めしい。
それでも、今一時は現実に戻らなくてはならない。
「今すぐ行くよ、メリッサ」
それだけの理由が、今日という日にはあったから。
メリッサ・ガーランドは、ロータスが第五番であるようにガーランドの第六番で、ロータスが水上に咲く花を示すように、檸檬の香を振りまく植物の名を持っていた。頭文字はロータスとひとつ違いの「M」、つまり開発番号がひとつ下の弟に当たる。ガーランド・ファミリーはそのかたちを問わず「兄」「弟」とお互いを呼称する。
遺伝情報はかなりかけ離れているが、番号が近いのと、その性質が「正反対」だということもあるのだろう、ロータスはきょうだいの中でも特にメリッサと親しい。ある意味では、半身にも近い存在であるといえた。
そのメリッサは、早足に無機質な廊下を行く。本人は早足というつもりもないのだろうが、身体強化型のメリッサと、思考強化型のロータスとの身体能力の差は歴然だ。ロータスは、肩で呼吸をしながら、何とかメリッサの背中を追いかけていた。
「もう、ほとんどのきょうだいは、父さんのところに集まってるよ」
振り向きもせず、メリッサは言った。ロータスは、少しだけ考えてから、乱れる息の合間に問いを投げかける。
「ヒース兄さんも?」
そこで、メリッサが初めて振り向いた。その真っ赤な瞳に浮かぶのは、落胆。メリッサは、優れた身体能力を持つ反面、己の感情を隠すことが極めて苦手だ。人の心の機微に疎いロータスでも、彼女が何を考えているかは手に取るようにわかる。
「今年も、兄さんは来なかったんだ」
「うん。最初に迎えに行ったんだけどね。部隊の仕事があるし、こんなことしたって意味ないから、って追い返されちゃった」
「ヒース兄さんらしいな」
「でも、誰よりもヒース兄さんに来てほしいのにな。僕……じゃなくてアタシも、父さんだって、そう思ってるはずだよ」
それは、ロータスにもわかる。
今日という日は、特別な日だ。ロータスにとって、メリッサにとって、彼らガーランド・ファミリーの「父親」であるハルト・ガーランドにとって、そして何よりも、《鳥の塔》から離れるように、町の外周で治安維持部隊を率いる「兄」にとって。
だが、その兄はいつもこの日に限って、頑なにロータスたちに背を向ける。普段はつかみどころのない、ふわふわとした態度を見せる、彼らしからぬ態度で。
ただ、ロータスは、その全てを理解できるわけではなくとも、彼の思いの一端ならばわかる気がした。
全ての始まりは、五年前の今日。今のメリッサと同じように、ロータスを迎えに来た兄――ヒース・ガーランドの姿を脳裏に思い描く。
ヒース・ガーランドは、ロータスが第五番であるようにガーランドの第四番で、ロータスが水上に咲く花を示すように、荒野に咲く花の名を持っていて、頭文字は「H」。つまりガーランド・ファミリー全体を通して八番目に開発されたガーランドであり、ロータスから見れば開発番号で四つ上の兄になる。
今では首都・中央隔壁――《裾の町》でも知らぬ者のいない、最も有名なガーランドだが、当時はむしろ《鳥の塔》の外にその名が出ないよう、隠された存在であったはずだ。
ロータスは、当時幼かったこともあり、その理由を正しく説明することはできない。当時の自分が得られた限りの情報と現在手に入れることのできる情報はあるが、そこから正しい答えが導き出せるとも思えない。ロータスにとって《鳥の塔》の上層部やガーランドを観測する研究員の方針など、理解の範疇外だ。
ただ、「ヒース・ガーランド」という存在が、ガーランドの中でも極めて異質であり、当時既に上層から危険視されていたということだけは、彼にまつわる様々な出来事から確信している。
あの日もロータスは通信網へ接続するための機器に繋がれていて、ヒースはそこからロータスを乱暴に引き剥がして言ったのだ。「父さんが、呼んでいます」と。
少女と形容してもおかしくない可憐な容貌をしていた兄は、ゆるく三つ編みにした長い黒髪を揺らして、ロータスの手を取った。
「行きましょう、ロータス」
理由の説明もなく、ロータスは手を引かれるがまま部屋を出た。今も長々とした廊下を歩かされるのは気が滅入ることだが、当時はもっと小さく身体も弱かったロータスにとって、部屋の外は意味もなく恐ろしかった。彼の手を引く兄が、いつもの穏やかな笑みでなく、凍りつくような無表情を端整な横顔に貼り付けていたことも、余計にロータスの恐怖をあおった。
大股に、ほとんどロータスを引きずるようにして歩くヒースの背中は、流石にロータスほどではないが、それでもやけに小さなものだった。
ロータスやメリッサのように偏った調整をされているわけではなく、平均的に高い水準に造られた……はずのヒースだったが、当時の彼はそれにしてはか弱かった。片割れと比べれば一目瞭然だったが、ヒースは上層部や研究員たちの睨むような視線を無視して、投薬や訓練をサボり続けていたのだ、ということを何とはなしに思い出す。
とにかく、その時のヒースは、唯一の肉体的な弱点を保護する網膜保護装置を真っ直ぐ前に向けて。そこにロータスがいることも忘れたかのように、長い廊下を歩いていた。
「兄さん、痛いよ」
正直に言えば、声をかけるのも怖かったが、あまりに強く手を引かれていたものだから、ロータスはついに音を上げた。すると、ヒースははっとしたようにロータスを振り返り、それから顔を伏せて「ごめんなさい」と呟いた。
「気が急いていました。らしくありませんね」
ふわり、と微笑むヒースは、ロータスの知るいつもの兄で少しだけ安心する。ヒース・ガーランドは、今もそうであるように、内側で何を考えているにしろ、表面上はどこまでも柔らかな物腰を崩さない。
だからこそ、その日のヒースは、ロータスの目から見ても明らかにおかしかった。
再び、今度はロータスの歩調に合わせて歩み始めたヒースの背で揺れる三つ編みを、見るともなしに見ながら。ロータスは、恐る恐る問いを投げかける。
「……何が、あったの?」
ヒースは、真っ直ぐ前を向いたまま、小さく唇を噛んで。
「ホリィが、死にました」
それだけを、言った。
ホリィ・ガーランドは、ロータスが第五番であるようにガーランドの第三番で、ロータスが水上に咲く花の名を示すように、刺を持つ植物の名を持っていて、頭文字は「H」。つまりガーランド・ファミリー全体を通して八番目に開発されたガーランドであり、ロータスから見れば開発番号で四つ上の兄で……ヒースにとっての「片割れ」だ。
ホリィとヒースは現時点で二十人開発されているガーランド・ファミリーで唯一、同一の遺伝情報を保有している「双子」であった。ちなみにホリィが兄で、ヒースが弟。開発番号も、それに従って与えられた頭文字も同一ではあるが、製造時期が二ヶ月ほどずれていたため、どちらが兄かは一目瞭然だった。
そして、同一の遺伝情報を持ちながら、ホリィとヒースは全く似ていなかった。
当然、顔は似ている。だが、肉体の発達は圧倒的にホリィの方が早く、その事実を知っていれば決して二人を見間違えることはない。
何よりも似ていないのが、性格だ。性格とは遺伝と環境によって形作られるというが、そんなもの嘘だ、と言いたくなるほどに、二人は正反対の性質をしていた。かたや機械仕掛けの冷徹さと塔に対する揺るぎない忠誠心を持ち、かたや柔らかな微笑みを浮かべながら、剣呑な感情を胸の中で飼いならし。
それでいて、お互いを「片割れ」と呼び合っていた、そんな双子。
その「片割れ」であるホリィが、死んだという。
「ホリィ兄さん……殺されたの?」
ホリィ・ガーランドは当時弱冠十五歳であったが、その道の人間には『制圧者』『討伐者』と称される兵隊であり、ナイフ一つで人やものを殺すことにかけては右に出る者がいなかった。これは、ガーランドとしての人間離れした身体能力もさることながら、愚直なまでに殺しの腕を磨き続けた彼の生真面目さに由来していたとロータスは分析している。
故に、「ホリィ・ガーランド」は塔の武力と恐怖の象徴であった。
とはいえ、どれだけ力を持っていたとしても、ガーランドはあくまで生物学上ヒトであり、胸を刺されれば死ぬし、頭を破壊されても死ぬ。戦いの中に身をおくホリィが、いつそうやって殺されても、おかしくはなかった。
だが、ロータスの問いに対し、ヒースは小さく首を横に振って、言った。
「わからないのです」
わからない? というロータスの疑問は、言葉になることはなかった。
長い廊下は終わり、そこには一枚の扉があった。前に立つヒースとロータスの姿を認めたのか、扉は音もなくするりと開いて二人を迎えた。
そこにはロータスとよく似た顔をした子供たち、ガーランド・ファミリーと白衣の研究員たちが集まっていて、その中心に一つの箱が置かれていた。全ての面を真っ白に塗られた、人ひとりが入れそうな大きさの箱。
それが、ホリィの棺だということは、ロータスにもわかった。
「……集まったな、ガキども」
低い声が背後から聞こえて、ロータスははっとそちらを振り返る。
そこに立っていたのは、白衣を纏った巨漢の研究員、ハルト・ガーランドだった。ガーランド・ファミリー全員の遺伝情報の基となった人物であり、現在は環境適応班の主任としてガーランド・ファミリー計画を一手に引き受けている、まさしくガーランドの「父」と言うべき存在だ。
ハルトはロータスたちよりもやや茶色みの強い赤の瞳で「子供たち」を見渡し、重々しく頷いて言った。
「聞いていると思うが……お前たちのきょうだいであるホリィが、死んだ」
重苦しい沈黙が、場に落ちた。赤い瞳がいくつもハルトに向けられる中、ヒースだけは父を振り返ることもせず、ロータスの手を離して棺を前に立ち尽くしていた。ロータスがちらりと見上げた横顔に、感情らしきものを見出すことはできなかった。
そして、ロータスも、ホリィが死んだという事実の前に、呆然とするばかりだった。
ホリィは、決して優しい兄ではなかった。自分に厳しく、他人……特に同じガーランドには、同等の厳しさで接する人物であったから。それでも、彼の迷いのない生き様はロータスの心を打った。彼のようなガーランドになりたい、という思いを胸に生きてきたといっても過言ではない。
そのホリィは、もう、いないのだ。
あの無機質な箱の中で、箱と同じ温度になっているのだ。
それが、悲しいというよりもただただ恐ろしくて、ロータスは、泣いた。
周りのガーランドも、何人かがホリィのために涙を流し、誰かは「くそっ」と毒づいた。そんなガーランドの子供たちを、白衣の研究員たちは無表情に見つめていた。いや、無表情ではなかったのかもしれないが、当時のロータスには、そう思えたのだ。
その時、おもむろにヒースが棺に向かって歩みだした。
誰かが、ヒースの名を呼んだようだったが、ヒースには聞こえていなかったのか、構わず、全員が遠巻きにしていた白い箱が手に触れられる位置まで歩み寄る。
そして。
何の前触れもなく、ヒースは、棺を蹴り飛ばした。
誰が放ったかもわからない高い悲鳴と共に、台座に固定されていなかった白い箱がロータスの想像よりも軽い音を立てて床に転がり、はずみで開いた蓋の間からは、詰め込まれていた白い造花がこぼれ落ちる。
その白い花を踏みしめ、ヒースは箱をもう一度蹴り飛ばす。今度は鈍い音を立てて、空っぽになった箱が凹んだ。
――そこに、ホリィの死体は、なかった。
「嘘つき」
ヒースの唇から、歌うような言葉が漏れる。ロータスからは、ヒースがどんな顔をしているのかを見ることは出来なかったが……何故だろう。笑いながら泣いているような、そんな気がしたことを、覚えている。
「みんな、嘘ばっかり。とんだ茶番じゃないか、ホリィ!」
甲高い、少年とも少女ともつかないヒースの声が、響き渡る。その声で我に返ったのか、研究員の一人が「取り押さえろ!」と叫んだ。何処かで見張っていたのか、黒い軍服の兵隊がなだれ込んできて、ヒースを取り押さえる。ガーランドの子供たちは、黒い兵隊に囲まれるきょうだいの姿を、ただただ見つめていることしかできなかった。
そんな中、ヒースは狂ったように笑いながら、足跡のついた棺に向かって叫び続けた。
「こんな、空っぽの箱に何の意味があるってんだ! 君はどこにもいないじゃないか、なあ、ホリィ! 答えろよ、ホリィ――!」
――結局、ヒースはそのまま兵隊たちに連れ去られて。
うやむやのままに、ホリィ・ガーランドの葬儀は終わったのだった。
ホリィの死体は、未だに誰も目にしてはいない。だが、記録上ホリィ・ガーランドは死亡していて、以来誰も生きているホリィの姿を見かけることもなかったから、ホリィは死んだのだ、と思うことにしている。多分、他のガーランドたちも。
唯一、今もなお違う認識を持っているのが、きっと、ホリィの片割れであるヒース・ガーランドなのだろう。
「……まだ、ホリィ兄さんが生きてるって思いたいのかな、ヒース兄さんは」
前を歩くメリッサが、ぽつりと言葉を漏らす。
「どうだろうね」
ロータスはそう答えながら、しかし、その考え方は必ずしも正しいとは思えなかった。
あの葬儀の場で、彼らしくもないやり方で、主のいない棺をその場の全員に示してみせた兄。
しかしヒースは、あの葬儀の場において、一度も「ホリィは生きている」とは言っていない。今も、片割れの話を求められると、ぼんやりとした――ある意味では「いつも通り」の――笑みを浮かべて、彼がそこにいたころの昔話を語るばかりで、ホリィの生死については言葉を濁す。
ヒースがホリィの不在をどう捉えているのか、他のガーランドも、ガーランド・ファミリーを観測している研究員たちですら、わからずにいるに違いない。
そんなことを考えていると、何故か自然と、言葉が口をついて出た。
「それよりもさ」
「うん?」
「兄さんは、あの棺が空だってこと、知ってたのかな」
あの日のヒースには、何の躊躇いもなかった。まるで、そこにホリィがいないことを確信していたかのような、一連の流れ。それが、ロータスの中ではずっと小さな刺となって引っかかっていた。
もちろんこの問いに、深い意味はない。メリッサは、答える言葉を持たないだろうから。そう思って顔を上げれば、案の定メリッサはその綺麗な顔に困惑を貼り付けて、口をぱくぱくさせていた。
ロータスは、そんなメリッサに「ごめん」と小さく謝る。
何も、ロータスとて正確な「答え」を求めているわけではないのだ。きっと、ヒースに直接聞けば、答えてくれるだろうから。ただ、その答えを聞くのが、怖くもあって……未だに、聞けないままでいる、だけで。
誰も、本当のことを知ることができないままでいる、ホリィの不在。グレーであることは、ゼロとイチの世界に生きるロータスにとって、極めてもどかしいものではある。
ただ、真実を知ってしまえば、グレーなままであれば失わなかった何かを失ってしまう、ような。そんな気もしている。
知りたくもあり、知らないままでいたくもあり。そんな、複雑な思いを抱えたまま、ロータスは足を止めた。
この扉の向こうには、同じ顔をしたきょうだいたちが待っている。年に一度、彼らの前から消えたホリィを思い出すために。ただ一人、ヒースを欠いたままで。
扉を開けようとするメリッサの大きな背中に、とっさに声をかける。
「ねえ、メリッサ」
「何?」
「後で、ヒース兄さんに何か差し入れでもしてきてよ。僕からだ、って言ってさ。ついでに、ホリィ兄さんの話でも聞いてくればいいんじゃないかな」
「それなら、ぼ……アタシに頼むんじゃなくて、一緒に行こうよ。たまには外に出た方がいいよ」
「む……」
正直に言えば、気の進まないことであった。外に出るということは、この弱い身体が危険に晒されるということであり、またヒースに会うということは、また色々といらないことを言われたり頼まれたりするということである。
ただ……今日ばかりは、そんな億劫な気持ちは閉じ込めておこうと決めて。
今日は特別な日だ。きっと、未だに全てを語らずにいる、ヒース・ガーランドにとっても。
「そうだね。これが終わったら、兄さんに会いに行くよ」
「うん! また、ホリィ兄さんの旅の話とか、聞かせてもらおう」
「ああ」
あの日、ホリィ・ガーランドは死んで。
残された片割れは、伸ばしていた髪を切り落とし、軍の仕事に飛び込んでいった。その結果『制圧者』として恐怖されたホリィとはまた別の形で、塔を……そしてガーランドを象徴する存在として、今、そこに君臨している。
彼は今、どんな思いでそこにいるのだろう。片割れのいない、そこに。
ロータスは、己にとっての「片割れ」であるメリッサを見上げて――それが欠けたときの空虚を思い描きながら、きょうだいの待つ扉をくぐった。
読上
樹の下でおやすみ
そして今日も、あの方がやってくる。複製された記憶の奥底で、確かに笑っていた『彼』と同じ顔をしたあの方が。
「ようこそ、Administrator。記録を読み出しますか?」
「……ああ。前回の続きから」
* * *
その隔壁は、塔の足下にあった。
暗闇にも淡く輝く壁を持つ巨大な塔……《森の塔》。統治機関《鳥の塔》が終末の国の各地に建てた、軍事拠点にして研究機関の一つ。その名の通り、荒れ果てた世界を再び緑で包むための研究を続けている。
その性質故に《森の塔》が建造された土地は辺境にありながら真っ先に《鳥の塔》からの恩恵を受けることができるため、《鳥の塔》の足下にある首都・中央隔壁……裾の町ほどではないが、それなりの生活水準は保証されている。そんな恵まれた地であるから、当然人も多く集まり、町は拡大を続けている。
そんな第十三隔壁にたどり着いたのが、午前零時十一分。星を失って久しい空が完璧な闇に包まれ、隔壁が灯す明かりだけが頼りとなる時間だった。
「ついたぞ、ガキ。ここまででいいのか」
「ああ。わがまま聞いてくれて悪いな、おやっさん」
助手席から降りる前に、相場より八割近く多い金を運び屋のおやっさんに渡す。
ナマモノは運ばないのだという運送屋に何とか頼みこんで、ここまで運んできてもらったのだ。しかも、子供二人にちょっとおかしな男が一人だ。まともな旅じゃないってのは、多分、見りゃすぐにわかったことだろう。だが、一つ前の町で春蘭が連れて来たこの見かけ強面なおやっさんは、今の今まで何も聞かずにここまで運んできてくれた。その対価としては安すぎるほどだと俺は思う。
それにしても、春蘭の人を見る目には恐れ入る。誰が悪意を持って迫っているのか、誰がこちらを傷つけないのか、そういう、本来目に見えないはずの「人」の内側を見抜く能力に関しては、全くあいつに敵う気がしない。そもそも俺は目に見える現象しか理解できない性質なのだ、春蘭にしろヒューにしろ、方向性は違えど俺とは全く違う世界を見ているに違いない。
さて、おやっさんは、しばし俺と俺の渡した金を見比べて、それから半分近くの金を突っ返してきやがった。
「ガキが妙な気の使い方するもんじゃねえ。どうせ、ここが目的地ってわけでもねえんだろ。取っとけ」
「……お、おう。ありがとな、おやっさん」
別に、金には困っちゃいねえんだが。この旅の費用は全て《鳥の塔》持ちなんだ、俺が気にすることじゃねえ。
だが、もしここで「俺、実は《鳥の塔》の研究員なんだ」なんて言ったら、このおやっさんはどんな顔をするだろう。冗談言うなと笑われて終わりだろうか。それとも。
……辺境で仕事をする人間が、塔の偉いさんをどう思っているかなんてわかりきってんだ、分の悪い賭けはするもんじゃねえ。一瞬の思考を誤魔化すために、せめて精一杯ガキっぽく見えるように笑って、助手席を飛び降りると荷台に回る。すると、よく響く声が扉の向こうから聞こえてきた。
「ほら、ヒュー、ついたみたいだよ! 起きて起きてー!」
また寝てるのか、あいつは。乗るときはあんなにびくついてたのに、のん気なもんだ。扉の取っ手を掴んで勢いよく開くと、積み上げられた箱に寄りかかるように、見慣れた赤毛の男がすやすやと寝息を立てて眠っていて。そんな男の手をぐいぐいと引っ張っている白髪のおなごが、困った顔でこちらをちらりと見てくる。いや、そんな顔で見られても俺は知らん。
「おい、とっとと降りろよ、お前ら」
「うん、ちょっと待って。ヒュー! 朝だよー!」
「や、夜中だけどな」
俺のツッコミは華麗に無視されたようだ。寂しくなんてないんだからな。
ぺちぺち、と小さな白い手で頬を叩かれていたヒューは、やがて「んー……」と声を出して、目を開けた。荷台の薄闇の中にもはっきりとわかる、金属質の色をした瞳が、ひたと春蘭を見つめて……ふにゃりと気の抜けた笑みに歪む。
「おはよー、春蘭」
「おはよ、ヒュー」
春蘭も、ヒューにつられるように笑顔を浮かべる。何だか二人の世界が出来上がりつつあるのを、何とか咳払い一つで意識をこちらに向けさせる。
「こーら手前ら、さっさと降りろつってんだろ。おやっさん待たせてんじゃねえ」
「あ、ごめんごめん。町に着いたんだって、行こう!」
春蘭の手を取って、ヒューが立ち上がる。いつも思うのだが、一般的成人男子と比べても大柄な部類に入るヒューと、小柄とは言わないが一般的な十四歳女子である春蘭が手を繋いでいるところは、ある種の犯罪を髣髴とさせる。春蘭の方が保護者だってのはわかっているつもりなんだが、視覚情報って本当に厄介なもんだ。
世話になったおやっさんに別れを告げて、車が完全に見えなくなっても手を振っていそうだった二人を無理やり引きずり、宿を探しにかかる。とはいえ、辺境の拠点となる《森の塔》は、隔壁間を移動する塔関係者や、安全な寝床を求める旅人も多い。この時間でも扉の鍵を開けている宿はすぐに見つかった。
奇妙な取り合わせの三人組に対する宿の親父の訝しげな視線が痛いが、《鳥の塔》の徽章を見せて名を名乗り、これが塔から受けた任務の一環であることを誠心誠意説明したところで、渋々ながら部屋の鍵を渡してくれた。
……まあ、任務は俺が受けたものじゃねえが。春蘭を《鳥の塔》まで護送しなきゃならんのは事実だから、嘘は言ってねえ。
「くれぐれも、変な騒ぎは起こすなよ」
「わーってるって。そんな風に見えるか?」
見える、という言外の肯定は、気づかなかったふりをしておく。全く、そういう「ふり」ばかり上手くなっちまう。俺様は正直が売りのはずなんだけどな。
とにかく、見慣れない建物をきょろきょろと見渡すおのぼりさん全開の二人を引き連れて、とっとと部屋に入ることにする。鍵さえもらっちまえば俺たちは客だ、それこそ、問題さえ起こさなきゃこれ以上うるさいことは言われない――はずだ。
「なあ、アル!」
「何だよ、ヒュー」
階段を昇っていると、後ろから追いついてきたヒューが犬みたいに息をはあはあさせながら、窓の外を指さす。だが、俺にはこいつが何を指しているのか、さっぱりわからない。
「すげーなあ、あの樹。でっかくて、光ってるんだ!」
「樹……ああ、違えよ、あれは塔だ。つか、お前は樹も見たことねえだろが」
「本で読んだことあるもん。でも、樹じゃねえのか……どれだけ高いんだろう。空に届いてんのかな。アルはすげーって思わねーのかよ?」
きらきらと、ヒューの瞳が塔の放つ光を反射して輝いている。
空まで届く、光り輝く樹。
なるほど、こいつには、そうやって見えているのか。
俺にとってはあまりに当たり前だった、塔。中央隔壁の《鳥の塔》は《森の塔》よりも巨大で、表面に張り巡らされた無数のディスプレイが常に雑多な番組を映し出している。そんな、うるさいだけの光の下に生まれた俺には、ヒューの言葉が理解できなくて。
「……ああ、すごいな」
正直、ヒューバート・レインが羨ましくもあった。
二人を部屋に押し込んで、俺は廊下でここしばらくほとんど使い物にならなかった、携帯端末の電源をオンに。通信状態が良好であることを確かめて、息をつく。無事《鳥の塔》に連絡できることに対する安堵もあるが、それ以上に気が重い。
さて、この二人のことを……そして、俺様のことをどう塔に説明してくれようか。メール作成の表示を叩きつつ、頭の中で今までのことを反芻する。
そもそもの始まりは、《種子》九条春蘭の護送が失敗に終わったことだ。
《種子》――ある程度原理が解明されている旧い魔法ともまた違う、原理不明の「奇跡」と呼ぶべき力を操る子供。《鳥の塔》は長らくその力の研究を続けていて、当然《種子》として見出された春蘭も塔へと護送されることになった……のだが、護送の途上、反抗勢力の襲撃によって、派遣された部隊は全滅した。
何とか近くの隔壁に逃げ延びた春蘭を匿ったのが、ヒューバート・レイン。隔壁内の医師の家に居候していた、旧い魔法使い。そう、旧い魔法使い。裾の町でもほとんど見かけないそれが、当たり前のように暮らしていたのだ。
加えて、奴は、自分のことを何一つ知らない。知らないどころじゃねえ、笑っちまうくらいにまっさら。要するに、なりはでかいが、頭ん中は子供同然なのだ。
そんな、脳内ガキんちょのおっさんが、助けた春蘭に懐いちまった。それでも、ただのガキなら、危険しかねえ荒野渡りの旅に同道しようなんて考えもしなかっただろう。だが、ヒューはどうしようもなくガキだが、同時に旧い魔法使いなのだ。科学とはまた違う「理」を感覚的に操る、珍しい能力者。この世界をぶっ壊した《バロック・スターゲイザー》と同じ力を操るこいつには、たった一人で春蘭を守るだけの力があった。
……血の海。切り刻まれた人間だったもの。その中心にただ一人立ち尽くす、赤毛の男の姿が閃いて、無理やりそのイメージを遮断する。思い出そうと思えば、ばらされた人間のパーツの数も数えられると思うが、そんなこと誰が好き好んでやるもんか。
とにかく、そんな連中だから、塔の新たな護送部隊を待たずに塔を目指すなんて言い出して、話は面倒くさいことになったわけだ。面倒くさいことになった理由はもう一つ、偶然《鳥の塔》関係者である俺がその場に居合わせちまった、ってことでもあるんだが――
どうにも、上手く纏められる気がしなくて、一旦メール作成画面を閉じることにした。もう、報告は要請されてからでいいんじゃねえかな。絶対にこっぴどく怒られるんだろうが。
部屋に戻ると、ふわりと茶の香りがした。もちろん、本物の茶葉なんて塔の偉いさんでもなかなか手に入らない代物なんだ、分析するまでもなく合成茶葉なんだろうが、疲れた身体にはつくりものの香りすら心地よい。
テーブルの上には、三人分のカップ。既に二つは空になっているから、一つは俺のなんだろう。手にとってみると、すっかり冷めていたがひとまず美味しくいただくことにする。二人の声は、隣の寝室から聞こえている。大方、ヒューが眠いって言い出して、でも一人じゃ眠れないからって春蘭をつき合わせているんだろう。いつものことだ。
何も知らなくて、一人じゃ眠ることすらできない、ひ弱なガキんちょ。なのに、俺たちを守る無二の刃でもある……か。何とも不安定な刃もあったもんだ。
それに、いくつか気になることはある。その「気になること」を確かめるべく、茶を啜りながら、端末から《森の塔》の通信網を介し、《鳥の塔》のデータベースへ接続する。
その時、ふ、と二人分の囁き声が止んで。
数秒遅れて、懐かしいような歌声が響いてくる。聞いたことのある歌だが、タイトルは知らない。今まで春蘭が歌っていたことはなかったと思うが、よくもまあ、毎日毎日違う歌を歌えるもんだ。辺境の孤児院ってやつは随分な英才教育を施すと見える。
だが、その歌もそう長くかからないうちに止んで、春蘭がひょこりと顔を覗かせる。
「ヒュー、寝たのか」
「うん。やっぱり、疲れてたんだと思うよ」
「あんだけ寝てたのにかよ。どんな体してんだか」
「でも、寝れる時にいっぱい寝るのは大事だよね。んー、わたしも眠くなってきちゃった」
「先に寝てろよ、俺はもうちょい調べ物があるからよ」
俺は寝るってことがあんまり得意じゃない。別にヒューみたいに、誰かに子守唄を歌ってもらわにゃならんとか、そういうわけじゃねえ。何処でも肉体の疲労を回復させるための最低限の睡眠をとる方法は、経験上身についている。
だが、精神的には常に張りつめているのか何なのか、睡眠じゃ心は安まらないことが多い。よっぽど、何かに没頭していた方が心が落ち着く。これは、路上暮らしの頃から、塔に上っても変わらなかった。塔の方が外周よりよっぽど、伏魔殿の様相を呈しているってのもある。無防備な姿を晒すのは、なかなかに恐ろしいもんだ。
その点、安らかに眠る、ってことを知ってるヒューや春蘭が羨ましくはある。
ソファの上に腰掛けた春蘭は、しかし、すぐに自分の寝台には向かわなかった。菫色の目をまん丸く見開いて、俺の手元……携帯端末を見ている。
「アルは、何調べてるの?」
「あー……」
通信のための装置が存在するわけでもない辺境じゃ、《鳥の塔》と連絡を取ることも難しいのだから、《鳥の塔》が保有する情報にアクセスすることもほとんど不可能だ。だが、《森の塔》が有する広範囲通信装置は《鳥の塔》との情報のやりとりを容易とする。その恩恵を与ることができるのは、その足下の第十三隔壁も同様だ。
まともに《鳥の塔》のネットワークに接続できる数少ない環境なのだ、今のうちに調べておきたいことは、考えてみればいくらでもある。ただ、今まさに調べようとしていたことを、春蘭に話すべきか逡巡した。
その逡巡を見逃してくれる春蘭でもないってのは、わかってたつもりだったんだが……気づけば、俺の携帯端末はあっさり奪い取られていた。
「あっ、こら!」
「む、これは……ヒューのいた町?」
「……おう。奴について、わかることはねえかなと思ってさ」
「そっか、お医者さんの家に居候してる、って話はしてたけど、どこから来たのかは、ヒューもわからないんだっけ」
そりゃあまあ、ヒュー本人から聞いてもわかるはずもない。奴は数年前に、まっさらになっちまったんだから。ヒューバート・レインの自己認識は、あくまで数年前のある一点からのものでしかない。
「奴がどうして記憶を失ってるのか。その前は何者だったのか。旧い魔法使いなんて、ごろごろ転がってるもんじゃねえだろ。下手すりゃ、お前みたいな《種子》よりずっと数は少ねえんだ」
「そういうもんなんだ?」
「そういうもんなんだ」
返せよ、と手で示すと、春蘭は素直に端末を返してくれた。ただ、すすすと俺の横に寄ってきて、ぴったりくっついて端末を覗き込み始めた。いつも春蘭に引っ付いてるヒューじゃないが、春蘭はいい匂いがする。これは、分析するなら花の香りに近い。そういえば、春蘭って名前も花の名前だったか。
……って、そうじゃねえだろうよ。
「近えよ」
「だって、こうしないと見えないじゃん」
「操作しづらいんだよ、ちょっと離れろ、ちょっとでいい!」
むー、と頬を膨らませた春蘭の顔は、塔で見た映像記録の栗鼠って生き物に似てた。きっと頬袋には美味いもんでも詰まってるんだろう。
「変なアルー」
「変で結構」
「なんか顔赤いけど、どして? 熱でもある?」
「赤くねえ、熱もねえ、光の加減だ」
実のところ、赤いかどうかは俺自身では観測できねえから何とも言えねえが、光の加減だと信じることにする。そうでなきゃ、あいつを裏切っちまったような気分になる。
ちょっとは離れてくれたが、やっぱり必要以上に近い春蘭の気配を頭の中から一旦排除。考えてると、思考が余計な方向に流れていきかねねえ。今考えようとしていたことは、そう、ヒューのことだ。
ヒューバート・レイン。
統治機関《鳥の塔》が、奴の存在を知っているかどうか。端末を叩いて、名前を入力。通信開始の表示を叩けば、浮かび上がって見える「通信中」の文字がくるくると回る。
横の春蘭に視線を移すと、春蘭は端末そのものが気になるのか、瞬きもせず端末を見つめている。確かに塔から渡されたもんだから、最新型なのは間違いないんだが。
しかし《森の塔》の足下とはいえ、通信に時間はかかるな。帰ったら、改善案を提案してみるのもよいかもしれない。
「……あのさ、アル」
端末を見つめたまま、春蘭が俺の名前を呼んだ。
「何だ?」
「ヒューって、不思議な人だよね」
「まあ、ちょっとまともじゃねえもんな。記憶がねえんだから、仕方ないとは思うが」
「あーっと、そういうことじゃなくて、さ」
じゃあどういうことなんだ、と言った俺に対し、春蘭は「んー」と首を捻ってしばし言葉を選んでいたようだが、やがて言った。
「ヒューと一緒にここまで来たけど、本当にそれでよかったのかな、って思うんだ。本当はわたし、ヒューを巻き込まない方がよかったのかなってさ」
「嫌なのか?」
「嫌じゃない。ヒューと一緒にいると楽しいし、心強いよ」
「なら、それでいいじゃねえか。ヒューだって、好きでついてきてんだ。嫌だなんて思ったこともねえだろうよ」
「それが不思議だなって」
「は?」
「嫌なことも、怖いこともいっぱいあるのに、どうしてついてきてくれるのかなって」
「……そりゃあお前」
わかりきったことを聞くもんだ。ヒューが何を考えてるかなんて、一目瞭然じゃねえか。
「お前に惚れたからだろ」
「惚れた?」
春蘭はこくんと首をかしげた。
真ん丸く開いた菫色の瞳は、端末から俺の方に向けられた。紫の瞳っていうのは、人間の持つ色素から考えてかなり珍しいと聞くが、ごく近しいところに似た色の目をした奴がいるせいか、全くありがたみを感じない。
ただ、春蘭の目には、妙な力がある。ヒューの目は、物理的な形容として鏡のようだが、春蘭の目は、目を合わせていると自分の内側まで見透かされているようで、「鏡」という表現が相応しいと思う。
俺はつい、視線を外してうつむいて、無意味に端末を弄ってしまう。苦手なのだ。そうやって、真っ直ぐ見られるのは。プラスの感情もマイナスの感情もなく、ただ「見られる」という行為が。
春蘭は「惚れた」ともう一度俺の言った言葉を繰り返して、ついと視線を逸らしたようだった。その視線の先を追えば、窓の外に聳える巨大な塔がある。
「……惚れる、って、よくわかんないな」
「何も、恋愛感情って意味じゃねえよ。ただ、こう……一目見ただけで、こいつのためなら何をしてもいいって、そういう気持ちになることはあるぜ。それが惚れるってことだろ。多分な」
あのガキに、恋愛感情なんていう心の機微なんてもんがわかるとは思えねえが……一目惚れ、っていう意味を使うのは、間違ってねえんだと思っている。
それだけ、奴は一途に春蘭を想っている。それが、見ていてはっきりとわかるのだ。
春蘭は「むー」と再び栗鼠みたいにふくれっ面をしていたが、ふと、何かに気づいたようににやっと笑った。嫌な予感がする。
「そうやって言うってことは、アルも誰かに惚れたことがあるんだ?」
「うっ」
上手く受け流せないのが、俺の弱いところだ。反射的に、あいつの顔がいくつも浮かんできてしまうのも。
「顔が真っ赤だぞ、アルー。なになに、詳しく聞かせてよー」
「お前、そういうキャラなのか! 別に俺のことはどうだっていいだろ!」
「でもほら、惚れるってどういうことなのか、もっと知りたいしさ。アルの実例をどどーんと」
「どどーんと、じゃねえ! くっそ、言うんじゃなかった、言うんじゃなかった!」
こういう時は、別の現実に逃げ込むに限る。やっと上手く繋がってくれたのか、端末にはちょうどよく情報が表示されていたから、そっちに意識を持っていく。
とはいえ、ヒューバート・レインについて大したことは書いていなかった。記憶喪失の男で、旧い魔法を使うことができる、というわかりきった記述だけ。春蘭の大ブーイングを聞き流し、もう少し、奴の周辺について調べられないだろうか、と端末をぽちぽち弄っていると……ふと、ある画面が端末に浮かび上がって。
思わず、俺は、端末の表示をオフにしていた。
ぎゃあぎゃあと喚いていた春蘭が、再び俺にひっついてくる。柔らかな肌の感覚と、人の温度に背筋が泡立つ。
「え、何? 今の何? どうして消しちゃったの?」
「……や、ええと」
その時、がたん、と音がして。
はっとそちらを見ると、いつ起きたのだろう、ヒューが泣きそうな顔をして立っていた。
今の話を聞かれたのだろうか、と身構えるが、ヒューは鏡のような目に春蘭を映しこんで、俺の目にもそれとはっきりわかる、安堵の表情を浮かべた。
「どうしたの、ヒュー?」
「あの、あのさ、起きたら、知らない場所で、そばに誰もいなくて……」
「怖い思いさせちゃったかな、ごめんね、ほら。一緒に寝よ」
「うん」
今泣き出しそうだった顔が、ぱっと晴れる。何とも単純でいいことだ。
話の途中だったからか、少しだけ名残惜しそうにこちらを見ていた春蘭が、小さく俺に向かって手を振った。
「それじゃ、おやすみ、アル」
「ああ、俺もすぐ寝る」
「おやすみー」
ぶんぶんと手を振るヒューをつれた春蘭が、寝室に入っていって、扉を閉ざすのを確認して。
端末を、もう一度操作する。
先ほど、一瞬だけ見えた画面をもう一度呼び出す。それは、今から四年前の新聞記事。ヒューバート・レインの名前こそ無かったが、奴が暮らしていた隔壁で起こった事件の記録。
――《スターゲイザー》を崇める宗教団体が、一人の男を監禁して薬によって自我を奪い、《スターゲイザー》の生まれ変わりたる『神体』として祭り上げていた。その活動を危険視した塔の介入を受けて団体は壊滅、男は救出された……という記事。
監禁されていた男の身元自体は記事からはわからない。ただ、男が《スターゲイザー》と同じように扱われていた、という点で十分推測はできる。できてしまう。
旧い魔法使いは、珍しいのだ。
端末の電源を落とす。ここから、もう少し調べていくことはたやすい。たやすいけれど、今日は疲れていたし、疲れていなくても、気の進むことではない。
俺が事実関係を知ったところで、今のヒューがどう変わるわけでもない。ここにいる奴にとっては、春蘭と一緒にいる今が全てなのだ。過去を知ろうなんて望みさえしないだろう。未来はどうだか知らんが。
知ることのできることを知らないままでいることは、俺の主義に反するが――今は、とにかく眠ることにしよう。部屋の明かりを落としてソファに身を投げ出し、寝室から流れてくる、小さい頃に聞いていた懐かしい子守唄に身を委ねる。
深夜でさえ光を投げかけることを止めない、巨大な塔の光を瞼越しに感じて、
今ばかりは、満ち足りたガキみたいに、夢も見ずに眠れたらよい。
* * *
「この時間軸の記録はここまでになります、Administrator」
「――なあ、お前さん」
「何でしょう、Administrator?」
「もはや複製でしかねえ俺を、どうして今もAdministratorと呼んでくれるんだ? そもそも、Administratorであるべきは、俺じゃなくて奴だろう」
「……わかりません。しかし、当装置内の認証機能は、今もあなたをAdministratorと認識しています。そして、わたしは……あなたに、『彼』のことを知ってもらいたいと、思っているのです。『彼』が支えとしながら、思い出すことを忘れてしまった、これらの記録を知っていてもらいたいと思うのです」
「思う、な。お前さん、まるで、人間みてえなこと言うんだな。壊れっぱなしの俺なんかより、よっぽど人間らしいよ」
「いいえ、そんなことはありません。あなたは……」
「ま、んなこたどうでもいいな。そろそろ奴が目覚める、俺は一旦沈むぞ」
「はい。それでは、また」
「『また』があるかはわからんがな。それにしても、さ」
「はい」
ざらざらと、今にも崩れそうな姿をしたAdministratorは、記録の主である『彼』と同じ、氷河の色をした瞳を細めて、ほんの少し。ほんの少しだけ、笑ったようでした。
「あいつらも、幸せだったんだな」
読上
廃品街の散歩者
頬から頭に突き抜けた衝撃。
それを痛みと認識するよりも先に、身体が地面に叩きつけられていた。
朦朧とする頭の中に、鮮烈に焼きついたのは「構うな、火をつけろ」という声。そして、暗闇の世界のあちこちに放たれた炎の赤。
止めろ、という声は届かない。伸ばした手も、ただ、空を切るばかり。
廃品の山を飲み込みながら燃え上がっていく炎を、ヤスは、ただ地面に這い蹲って見つめているだけで――。
「いやー、派手にやられましたねー」
気の抜けた声が降ってきて、中央隔壁外周治安維持部隊隊員、ヤスは反射的にそちらに視線を向けた。
焼け焦げながらも形を残していた、積み上げられた物資輸送缶。その上に座っていたのは、ヤスと同い年か少し下と見られる黒髪の青年だった。ゴミ捨て場から拾ってきたのだろう、擦り切れ、薄汚れた襤褸を幾重にも纏い、煤けた眼鏡をかけた優男だ。
「エリック」
ヤスが名前を呼ぶと、エリック青年は、軽々と缶の上から飛び降りてきた。ざ、とほとんど裏がはがれかけた靴が踏んだ地面は、黒い煤に覆われていた。
今や、この区画の全ては煤と灰の中にあった。
廃品街。中央隔壁――通称『裾の町』外周の一角に位置するそこは、呼び名通り、宿無したちが廃品を集めて作り上げた、一個の居住区だった。もちろん統治機関《鳥の塔》はそんな宿無したちの行動を認めてはいない。ただ、塔が積極的に外周の統治を行っていないが故に、そこはかりそめの場所とはいえ、宿無したちに一夜の安らぎをもたらしていた。
そう……あの夜までは。
ヤスが所属する外周治安維持部隊が、「疫病の発生源となりえる」「塔の許可も得ず住み着いた鼠に人権などない」などの諸々の適当な理由で、突然この区画を焼き払うまでは。
人の気配も完全に失われたかつての廃品街を見渡して、エリックはヤスに微笑みかける。
「ご安心を、住民の避難は完了しておりますゆえ。死者、怪我人共にゼロですよ」
その言葉は、ヤスも予想だにしていなかった。思わず目を見開いて、エリックを凝視してしまう。
確かにあの時、夜間の焼き討ちとはいえ、逃げ出す者や悲鳴を上げる者が一人もいなかったことに、隊長や他の隊員たちも困惑していた。結局、その後ろくに現場を調査はしなかったから、人がそこにいたのどうかも確かめられていなかったのだが。
ヤスは、あの時隊長に殴られた痛みを思い出し、未だに腫れている頬をさすりながら、言った。
「あの日焼き討ちがあるなんて、俺だって知らなかったんだ。どうしてお前がそれを?」
「それは、企業秘密ってことでお願いします」
言って、唇の前に人差し指を立てる。
「まあ、徐々に人は戻ってくるでしょうし、ここも元通りになりますよ」
「戻ってきても……また、同じことが起こるだけだろ」
そうだ。今回だけではない。
これまでも、そしてこれからも。外周治安維持部隊は、外周の住民を顧みぬ「治安維持」を続けていくのだろう。
塔の援助を受け、旧時代とさほど変わらぬ生活水準を維持している内周に対し、外周は塔からは半ば見捨てられた区画である。最低限の物資援助はあるが、外周に生きている人々全てを生かすには、到底足らない。故に、人々は肩を寄せ合い、時には奪い合いながら細々と生きるしかないのだ。
当然、《鳥の塔》からそんな場所に派遣される外周治安維持部隊は、兵隊の間では極端に不人気な隊として知られる。それも当然だろう、誰が好き好んで汚らしい外周に派遣されたがるというのか。己から治安維持部隊への配属を願うのは、それこそヤスのような、外周出身の兵隊くらいだ。
それで部隊を構成するのが外周出身の兵隊のみであれば、もう少し状況は変わったのかもしれないが……代々の治安維持部隊は、他の部隊に回せないような、しかしプライドだけは肥大した貴族出身の阿呆によって、外周出身の兵隊が抑圧される構図が一般的だ。
その構図は、そう簡単には変わらないだろう。自分たち、外周出身の兵の声など、塔上層の貴族どもに届くはずもないのだから。
ヤスは、今一度、あの阿呆極まりない隊長の姿を思い出し、腫れた頬を撫ぜた。先代隊長は無気力で知られたが、今の隊長は、とにかく外周そのものが憎いのか何なのか、時々発作のように、ほとんどの人間には凶行としか映らない行動に走る。
不要なものは浄化されなければならない。この隔壁で息をしていいのは、塔に認められた者だけだ。そんな隊長のヒステリックな声が脳裏に蘇る。
「怒ってないのか、俺を」
考えているうちに、言葉が、半ば無意識に唇から飛び出していた。すると、エリックは苦笑を浮かべて、諭すように言う。
「ヤスさんのせいじゃないでしょう。見ましたよ、隊長を止めようとしていたところ」
一体どこから見ていたのか、と思ったが、この青年は神出鬼没に定評がある。あの瞬間に、誰からも気づかれない場所から一部始終を見届けていたところで、不思議はない。
「それでも、結局止められなかった。止められなきゃ、何も変わらねえよ」
「……そう、ですか」
エリックは、溜息と共に言葉を落とし、視線を焼け跡に戻した。
しばしの沈黙。風が、辺りの焼け残ったものたちの間を通り抜けて、悲しい音を立てる。その静寂に耐え切れなくて、ヤスはエリックの横顔を見て問うた。
「エリック、お前はどうするつもりだ。お前も、帰る場所無くなったんだろ」
一瞬、エリックはきょとんと首を傾げたが、「はは」と小さく笑う。
「まあ、何とでもなりますよ。では、また」
襤褸を翻し、たん、と軽く地面を踏む。それだけで、決して小さなものではないエリックの身体は軽々と宙に浮き、焦げた廃品を足場に灰色の空に駆け上ったかと思うと、瞬く間に立ち並ぶ建物の向こうに消えていった。
まるで、獣のようだ。青年の姿が消えた辺りを呆然と眺めながら、ヤスは思った。だが、エリックがどこか人間離れした挙動をするのも、いつものことで。そこまで深く考えることもせず、詰め所に帰ろうと踵を返した、その時だった。
頭に、何かがぶつけられて、はっとそちらを見る。
すると、焼け跡に隠れるように、数人の子供がこちらを睨みつけていた。そのうちの一人……ヤスの足下に転がる石を投げたであろう少年が、甲高い声で叫ぶ。
「裏切り者!」
その声に合わせて、子供たちは口々に、兵隊の格好をしたヤスを「裏切り者」と罵りながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
ヤスは、そんな少年たちの後姿を見送った後、拾い上げた石を、きつく握り締めて。
ただ、白い息を吐き出すことしかできなかった。
「あっはは、浮かない顔ですねえ、ヤスさん?」
ある日、非番をいいことに特に目的もなく路地を歩いていたヤスに、何とも奇妙な格好をしたエリックが気さくに笑いかけてきた。
着ているのが襤褸であるのは相変わらずだが、それらは赤っぽい色と薄汚れた白に統一されていて、変な形の帽子を被り、何かでぱんぱんになったずだ袋を背負っている。そんな怪人が、子供たちに囲まれて何やら騒いでいるのだ。それは「何やってんだ」と聞きたくもなる。
「めりーくりすます、というやつですよ。知りませんか?」
どうやら、サンタクロースのつもりらしい。旧時代の文化や宗教が廃れて久しいこのご時勢だが、流石にこの年末の祭くらいは、外周にも風習として残ってはいる。
「知っちゃいるが……あー、何だ。お前は浮かれてんなあ」
「お祭は騒いでナンボ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら以下略ですよ。ねえ?」
どこで覚えたのかさっぱりわからない言葉を引用し、エリックはけたけたと笑い声を立てる。子供たちも何かがつぼに入ったのかどっと笑ったが、そのうちの何人かは、ヤスに恨めしげな視線を向け、エリックにすがり付いている。
それで、気づいた。そこにいたのは、廃品街の焼け跡でヤスに石を投げつけてきた少年たち。それに、子供たちの中には他にも何人か、廃品街に住んでいたはずの子供の姿が見える。彼らも、エリックに導かれてこの地域に避難してきた住民たちなのだろう。
ヤスは、何とも居心地の悪い気分になる。部隊の所業を謝罪すべきだ、とは思う。思うが、謝ったところで、それ以上彼らに何をしてやれるというのだろう。
言葉を失い、立ち尽くすヤス。なおも無言で睨みつけてくる子供たち。
そこに、エリックのやけに能天気な声が割って入った。
「こらこら、今日はお祭なんですから。子供も大人も兵隊もありません、日ごろのことなんて忘れて、ぱーっと騒ぎましょう?」
それと同時に、背中に担いでいた袋を下ろして、中身をぶちまける。
中に入っていたのは、どこから掠め取ってきたのか、色とりどりの、見ているだけで歯が痛くなりそうな菓子類だった。それを見た子供たちの目が輝き……遠巻きにして見ていた大人たちも、興味を引かれて寄ってくる。
ともすれば奪い合いになりかねない、とヤスは危惧したが、エリックはその都度的確に声をかけ、その場にいる人間の衝突を抑えこんでみせた。
そんな中で、ヤスの存在はすっかり忘れ去られたようだった。一通り菓子がその場にいる人間に行き渡ったことを確認し、小さく息をつくエリックの横に歩み寄る。
「……ありがとな、エリック」
「いえいえ」
にっとエリックは笑う。それにつられるように、ヤスも、少しだけ笑った。
エリック・オルグレンを名乗るこの優男が、いつ廃品街に現れたのか、ヤスは知らない。
記憶が正しければ、噂を聞くようになったのが、あの近辺で路上生活をしていたアル――異能の天才児アルベルト・クルティスが塔に招かれたのとほぼ同時期だったはずだから、既に数年は前だったと思う。
逆に言えば、それより前には名を聞かなかったということになるから、元は外周の住民ではない、とも言われている。外周訛りの少ない丁寧な言葉遣いや、やけに洗練された身のこなしを見るに、野に下った貴族の子供ではないか、という噂もある。
ただ、それ以上のことは何もわからない。どこに住んでいるかも、普段何をしているのかも不明。唐突に廃品街に現れては、住民と他愛ないやり取りをして去っていく。中には、この前ヤスが思ったのと同じように、エリックを狸や狐だとか言う奴もいる。
エリック自身はそんな噂など気にした様子もなく、いつだって飄々としたものだが。
旧い歌を歌い出す子供たち、そんな子供たちに合わせて手を叩く大人たちを穏やかな瞳で見つめていたエリックは、不意に呟いた。
「僕、こういうお祭騒ぎに、憧れてたんです」
「……今まで、やったことなかったのか」
それにしては、随分と手際がよかったが。それを指摘すると、エリックは嬉しそうに笑った。
「何をしていいかわからなかったから、色んな人に、話を聞いて。必要なものを揃えたり、手はずを整えたり。何だか、そういうのって、とってもわくわくするんです」
わくわく、か。ヤスは、子供のような無邪気さを見せるエリックを、眩しく思わずにはいられなかった。そういう感情を、いつから忘れてしまっていただろう。家族を養うために、塔の兵隊になって。だが、兵隊になってからというもの、ろくな仕事は与えられず、鬱屈とした思いだけが溜まっていく。
そんな日々の中で、「わくわく」なんて感情が生まれるわけもない。
「ヤスさん?」
ひょい、と。ヤスの視界を覆うように、エリックが顔を覗き込んでくる。薄汚れた眼鏡の下で判じづらい、長い睫毛に縁取られた黒い双眸も、はっきりと見えるほどの近距離。改めて見ると、本当に美しい造形をしている。まるで、つくりものか何かのような……。
妙にぼうっとした心持ちで、エリックの顔を見つめていたその時。
エリックははっと息を飲んで、振り向いた。ヤスも視線を追うが、そちらにはただ路地が続いているだけで、何が見えるわけでもない。だが、エリックははっきりと、こう言った。
「悲鳴――」
悲鳴? ヤスの耳は、悲鳴らしき声を捉えてはいない。だが、異変は即座に、波紋のように広がってきた。逃げ惑う人々の姿、そして、聞きなれた罵声が響いてくる。
「何だあ、その目は! 誰のお陰でここに住まわせてもらってると思ってるんだ、ああ?」
それは――外周治安維持部隊隊長の声。それに唱和するように、隊長の腰巾着連中の下卑た笑い声も聞こえてくる。彼らは、どうやらこちらに向かって来ているようだ。
気づいた子供たちが泣き出し、大人は子供をつれて逃げ出そうとする。にわかに緊張の走る空間で、ヤスは反射的に飛び出していた。強く歯を噛み、拳を握り締めて。
己の立場なんて、もはやどうだっていい。こんな重苦しい気分を抱えながら生きていくくらいなら、隊長を一発ぶん殴って、兵隊なんて辞めてやる。
強い思いと共に踏み出した足は、しかし、それよりも強い力で引き止められた。肩に走った痛みに思わず振り向くと、エリックが、非力そうな見た目に反した力でヤスの肩を握っていた。
「エリック」
「これ以上の騒ぎは、僕が望みません。どうか、あれが過ぎ去るまでは隠れていてください」
普段の彼らしからぬ、有無を言わさぬ口調に、一旦は焼け付きかけていた意識が冷えていく。それを確認してから、エリックは場に集っていた住人たちに向き直って、穏やかではあるが、場の喧騒を貫く声で言う。
「皆さんも、この場から出来る限り離れてください。時間は僕が稼ぎます」
「エリック……お前」
「別に、正義の味方ぶるつもりはありませんよ。ただ」
とん、と。ヤスの肩を突き放すように離し、エリックはうっすらと凍れる微笑みを口元に浮かべながら、
「大切な一日を邪魔する、無粋な奴に物申したいだけです」
そう、言い放った。
その間にも、大人たちは子供を連れ、やってくる隊長の目が届かないであろう場所に隠れようとしていた。ヤスも、仕方なしに、物陰に隠れた。それでも、エリックに何かあれば、すぐにでも飛び出せるように。
やがて、路地に隊長と腰巾着の姿が現れた。隊長は、塔上層の貴族らしくでっぷりと太った身体を揺らし、いやらしいきんきん声で取り巻きと笑い合っていたが……逃げ切れていない者たちを庇うように、道を塞いで立つエリックの姿を認めて眉を顰めた。
「何だ、貴様?」
「この方をどなたと心得る。貴様のような下賎な――」
腰巾着が口々に言うのを遮って、エリックは背筋を伸ばし、いつになく強い語調で言葉を放つ。
「エリック・オルグレンと申します。そして、あなたは中央隔壁外周治安維持部隊隊長のゴードン・レンブラント氏とお見受けいたしますが、間違いありませんね?」
ただ、明らかな不快の感情を込めながらも、エリックの言葉はあくまで丁重なものだった。故に、取り巻きどもは戸惑いと共にお互いの顔を見合わせる。果たして、目の前の男が自分たちの思う「下賎な外周住民」であるかをはかりかねたに違いない。
しかし、隊長だけは相変わらず自慢の髭をなでつけながら、ねちっこい笑みを浮かべて言う。
「その通り、私こそがゴードン・レンブラントだ。して……オルグレンと言ったな。我らの前に立つということは、我々外周治安維持部隊に何か用があるということかな?」
「ええ。近頃の治安維持部隊の度重なる蛮行に際し、それを指揮する方がどれほど愚鈍にして無知蒙昧な方なのか、一度お目にかかってみたいと思いまして」
あまりにもど直球な暴言に、一瞬前まで余裕の笑みを浮かべていた隊長も、笑みのまま固まった。多分、何を言われたのか、その瞬間はわからなかったのだと、思う。だから、先に金縛りから解かれたのは、腰巾着三人だった。
「貴様……っ!」
「いやあ、噂に違わぬ阿呆面ですねえ、あなただけでなく、そちらの方々も。これでは、外周のルールなど説いたところで理解できるとは思えません」
「はっ、ただ地べたを這い蹲って生きているだけの連中にルールなどあるまい?」
「それが見えていないから、見ようともしないから、愚鈍だと言っているのですよ」
どのような言葉を投げかけられても、エリックは一歩も退こうとはしない。それどころか、一歩踏み込んで隊長に迫ろうとする。隊長を庇うように前に出る取り巻きたちを見据えて、エリックはなおも言葉を紡ぎ続ける。
「守られるべき暗黙のルールがなければ、外周は立ち行きません。塔の庇護なんざ、これっぽっちも届いちゃいないんですから。全く、統治機関が聞いて呆れます。それでも外周が外周足りえているのは、ひとえにここに住む住人たちの力と意識によるものです。あなたがた、塔の人間の力ではありません!」
何とはなしに、エリックの怒りの矛先は、目の前の「愚鈍な」男たちではなく、全く別の方向に向けられているような気がした。そう、それは……同じ隔壁の中にありながら、内周の住民だけを手厚く庇護し、外周地域を顧みようとしない《鳥の塔》という機関そのものに。
当然、そんな機微など、頭に血が上った兵隊たちには理解できなかったのだろう。特に血の気の多い一人が、拳を振り上げ、エリックの頬を殴り飛ばした。エリックは、たたらを踏むが倒れはせず、挑戦的に兵隊たちを睨む。
そして……壮絶な笑みを、血の滲んだ口元に浮かべてみせるのだ。
「構いませんよ、殴ればよいでしょう。それで、あなた方の気が晴れるのであれば」
抵抗はしませんよ、と両腕を広げるエリックに、流石の取り巻きたちも不気味なものを感じたのか、じり、と下がりかかる。だが、そこにすかさず隊長のきぃきぃ声が響き渡る。
「貴様ら、侮辱されたまま引き下がるのか! やれ、私が許す!」
誰が許すようなものでもあるまいに、その声を聞いて、取り巻きたちが寄ってたかってエリックを地面に引き倒した。抵抗しない、という言葉通り、エリックは手も足も出さずに大人しく殴られるがままになっている。
見ていられない。ヤスは身を浮かせ、今度こそ隊長たちの前に飛び出そうとした。
その時、エリックが、ちらりとヤスの隠れている方に視線をやる。それが――黙って隠れていろ、という合図だ、ということだけはわかった。
こんな状況でも、こちらの行動まで見抜いた上で、動くなというのか。唇を噛み、何とか息を殺す。かなり激しく殴られ、蹴りを入れられているようだが、エリックは悲鳴一つ上げずに頭を抱え、地面の上に横たわっている。赤と白の服が、見る見るうちに泥に塗れていくのを、ただ見ているだけしかできないヤスは、己の爪が掌に食い込む痛みを味わっていた。
やがて……その行為が不毛であることに、やっと気づいたのだろう。取り巻きの一人が、とどめとばかりにエリックの腹に一撃蹴りを入れて、肩で息をしながら背後の隊長を窺う。隊長は、ぼろ雑巾のように地面の上に転がるエリックを認め、「もういいだろう」と満足げに頷いた。
「これに懲りたら、二度と我々の前に姿を現すな。行くぞ」
隊長の言葉に従い、兵隊たちはちらりとエリックを見下ろした後、隊長についてその場を立ち去った。
黒い兵隊たちの姿が完全に消えたのを確認すると、ヤスは隠れていた場所から飛び出して、転がったままのエリックに駆け寄った。
「おい、エリック、大丈夫か?」
すると、エリックはぴょこん、と上半身を起こして、小さな咳と共に口の中に溜まった血を吐き出した。それから、ぼろぼろながらも気の抜けた笑顔を見せる。
「いやー、あはは、流石にこれは堪えますねえ」
言いながらも、何事もなかったかのように立ち上がる。ふわっとした印象に似合わず、存外にタフだ。骨や筋に異常がないか確かめるように身体を軽く動かし、すっかり割れてフレームも曲がってしまった眼鏡を外して、苦笑を浮かべる。
「眼鏡も割れちゃいましたね」
「無くても見えるのかよ?」
「伊達なんで、度は入ってませんよ。目がちょっと弱いのは、本当なんですけどね」
もったいないなあ、とのん気なことを言いながら、懐に割れた眼鏡を収める。何だか心配するのも馬鹿馬鹿しくなるくらい、いつも通りのエリック・オルグレンだ。しかし、先ほどまで命の危険を感じるほどの暴行を加えられていたのは、事実としてヤスの目にも焼きついている。
「なあ……エリック」
「何です?」
「何で、あんなことを言ったんだ?」
「いえ、何かこう、むかっ腹が立ったんで」
極めて簡潔な答えだ。これ以上ないまでに。唖然とするヤスに対し、エリックは見るに耐えない痣だらけの顔を向けて、淡々と言う。
「ヤスさんも、今日は早めに詰め所に帰ったほうがいいでしょう。この辺りの方々には、僕から経緯をお話ししておきますので」
骨には異常ないかな、と一通り全身を確かめて呟くエリックに、ヤスは思い切って声をかける。
「エリック、お前、さっき言ってたよな」
「……何をです?」
「外周が外周足りえてるのは、外周の人間の力で、塔の力じゃないって」
「言いましたね」
「それって結局、俺たちなんていらねえ、ってことだよな」
中央隔壁外周治安維持部隊は、あくまで塔が組織する武装集団だ。先ほどのエリックの言葉は、外周におけるヤスたちの存在を、全否定するものに他ならなかった。最低でも、そうヤスには聞こえた。
だが、エリックは小さく首を横に振って、言った。
「勘違いしないでいただきたいのですが……僕、治安維持部隊の存在は、絶対に必要だとは思っているんです」
ならば、どうしてあんなことを言ったのか。その問いをヤスが言葉にする前に、エリックの唇は動いていた。
「外周の不文律に縛られない外部からの抑止力は、決して無駄ではありません。それが、正しく働く限りではありますが」
「正しく働く……か」
「ええ。もちろん、マニュアル通りって意味じゃないですよ。相手は人ですからね。それぞれがそれぞれの思惑を持っていて、放っておくとてんでばらばらに動くわけです。そんな人々の思いを守りながらも、何もかもがばらばらにならないように上手く取り計らうのが、治安維持部隊のお仕事なんじゃないかなあ、って僕は思ってます」
決して簡単なことじゃありませんけどね、とエリックは苦笑する。そう、それもまたただの理想と言ってしまえばそれまでだ。だが……追求するのは、決して、間違いではないと思う。そうだ、間違いなんかでは、ないのだ。
そう思った瞬間に、胸に詰まっていた言葉が、自然とこぼれ落ちていた。
「この前さ、同僚と……俺と同じ、外周出身の同僚たちと話してたんだよ。俺らのやってることって、何の意味があんのかなって」
そうだ、塔に上ろうと決意した時には、もっと明るい感情を抱いていたはずだ。ただ家族を養うためなら、違う仕事に就いたってよかった。だが、わざわざ兵隊を志したのは、その先に何かを求めていたからではないか。
未来への希望を。それこそ、エリックが無邪気に言ってみせたような、「わくわく」を。
「現実はそんな甘くねえってのは、わかるよ。だけど、これだけは絶対に違うんだ。違うってわかってるのに、どうにもできないままなんて……!」
それ以上は、言葉にならなかった。
拳を握り締めたまま、俯くヤスに対し。エリックは、数秒ほど沈思して……不意に、やたら明るい声を上げた。
「オーケイ、聞き届けました」
「は?」
思わず顔を上げると、エリックは、いつになく凛とした目をして、ヤスをじっと見つめていた。
「それが、あなたの……あなた方の望みならば。僕は、全力でそれに応えてみせましょう」
「エリック?」
「それでは、しばしのお別れです」
きっぱりと言い切り、全身を殴打された痛みなど、全く感じさせない動きで、跳躍した。音もなく塀の上に立った泥だらけの青年は、恭しい仕草で一礼する。
「次にお会いする時は、また別のかたちで」
その言葉の意味を、ヤスが理解するよりも先に。
「めりー、くりすまーす!」
わけのわからない奇声を上げながら、エリックは、塀の向こうへと飛び降りていった。その瞬間にわあっ、という歓声が上がったから、多分向こう側に避難していた子供たちの声だろう。
「わっかんねえなあ、あいつ……」
歓声と歌声に紛れて――ヤスの呟きは、エリックには届かなかった、はずだ。
その日を境に、エリックは姿を消した。
廃品街跡地に赴いても、避難民たちの集落に向かっても。あの、陽気な変人の姿を見つけることはできなかった。誰に聞いても、今日は来ていないと首を振るばかり。
それから年が明けて、数日が経過して。
事件は、起きた。
最初に異変に気づいたのは、ヤスだったのかもしれない。
普段より少しばかり遅く目が覚めて、詰め所に与えられている自室から、特に意識もせず窓の外に目をやって……息を飲む。
詰め所の入り口に、数人の男が立っていた。黒い外套は、遠目からでもわかる、塔から支給されるものだ。つまり、見知らぬ兵隊が数人。だが、その先頭に立つ男が放った声だけは、ヤスがよく知るものだった。
「おはようございます、中央隔壁治安維持部隊の皆様。朝早くからお騒がせして申し訳ありませんが、隊長のゴードン・レンブラントさんはいらっしゃいますか?」
「……エリック……?」
朝の冷たい空気によく通る声は、聞き間違えようもなく、エリックのものだった。まさか、という思いと共に、急いで着替えて部屋を飛び出す。同じように飛び出してきた外周出身の同僚が「どういうことだ」とヤスに問う。そんなこと、聞かれたところでヤスにもわかるはずもない。
階下では、名指しにされた隊長が「何者だ」やら「何様のつもりだ」やら、ぎゃあぎゃあと喚いている。これには、普段隊長の腰巾着をやっている貴族出身のぼんくらどもも、困った顔を見合わせるばかり。
その間にも、エリックとよく似た男の声が、響く。
「もし質問に対する返答がいただけなければ、私たちとしても、強硬手段に出ざるを得なくなります。その許可は既に上からいただいておりますゆえ」
上、という言葉を聞いた瞬間に、隊長のゴム鞠みたいな身体がびくんと跳ねた。そして、意を決したように、取り巻きをつれて外に出る。ヤスたちも慌ててそれに続いた。
かくして、外周治安維持部隊の構成員たちは、詰め所の入り口に現れた兵隊たちと対峙することと相成った。
そして……彼らを待ち受けていたのは、黒髪に長身の青年、エリック・オルグレンその人だった。
だが――妙に仰々しい装置で目を隠し、漆黒の軍服の上に《鳥の塔》のエンブレムを刺繍した軍用外套を羽織るその姿は、ヤスの知らないものだった。
エリックが外周の住人でない、ということは薄々感じてはいたが、まさか塔の兵隊だとは思いもしなかった。しかも……高位の兵隊に許されたピンを襟に飾るような立場だとは、到底思いも及ばない。
集団の先頭に立つエリックは、目を隠す装置を押し上げ、朗々と言い放つ。
「『初めまして』、中央隔壁外周治安維持部隊隊長ゴードン・レンブラントさん」
いつものエリックの話し方と何一つ変わらない、訛りのほとんどない、明るい響きの共通語。だが、そこにはいつになく剣呑な響きが混ざっている。それは……ヤスや他の外周出身の連中のように、今までエリックと接してきた人間でなければ気づけない程度の響きではあったが。
口元だけで朗らかな笑顔を浮かべたエリックを睨み付けた隊長は、何とか肩を怒らせて虚勢を張ろうとしているが、何しろ一度暴行を加えた相手が、今度は軍服姿で現れたのだ。まともな対応ができるはずもなく、震える声を上げるばかり。
「貴様……この前会った……」
「ああ、申し遅れました。私、《鳥の塔》諜報部に所属するヒース・ガーランドと申します。後ろは、同じく諜報部に所属する者です」
「ガーランド、だと?」
隊長の声が更に上ずり、後ろでそれを聞いていたヤスも、背筋がぞわりと泡立つのを抑えられなかった。
ガーランド。外周でただ生きているだけならば、まず耳にしないで生涯を終えるであろう名前。そして、兵隊という形で《鳥の塔》に関われば、嫌でも耳にすることになる名前だ。
――フラスコの中の小人。
この世界に適応すべく、人間の潜在能力を引き出された新たなる人類。塔上層の無菌室で生まれ、産声を上げた瞬間から「特別」を運命付けられたエリートたち。
それが、『花冠』の名を持つ超人だ……ということを、知らない兵隊はいない。塔に逆らうもの全てを殺戮する『制圧者』、『第三の花冠』ホリィ・ガーランドの名は、今でも畏怖を持って語り継がれているのだから。
そして、ヤスの知らない名前を持つ花冠の青年は、場違いな微笑みを浮かべて言った。
「皆様には『第四の花冠』と言った方が通りがいいですかね? 私、今までホリィみたいに表舞台に立ったことがないので、知名度がいまいちなんですよねえ」
だが、知名度はなかったとしても、確かに四番目が存在する、ということだけは判明している。ガーランドと呼ばれる子供たちは、公式の発表を信じる限り、九人いるはずなのだから。
エリック――諜報員ガーランドは、口をぱくぱくさせる隊長に向かって、事務的な口調で言葉を重ねていく。
「外周住民からの度重なる陳情がありまして、ここ一年ほど、外周にて治安維持部隊の職務内容を秘密裏に観測しておりました。また、特に名前が挙がっていた隊長他数名の行動を重点的に調査させていただきました」
そこまで言って、ガーランドはにっと笑みを浮かべる。目の前で泡を食っている隊長ではなく、その後ろに立ち尽くしていた、ヤスに向けて。それを受け止めたヤスも、思わず頬を緩めて笑ってしまった。
ああ……こいつは、本当にやってくれやがった、と。
「そして、調査の結果がこちらになります」
ガーランドは手にした鞄から、紙束を取り出す。それが、調査結果を印字したものであることは、見なくとも明らかだった。それをわざとらしく、一枚一枚広げながら、隊長と取り巻き三人の罪状を澄んだ声で読み上げていく。
「恐喝、暴行、不正搾取、果てには強姦に殺人と。本当に、ろくな人生歩んでませんねあなた方」
「な……違う、そんなこと……っ、どこに、証拠が」
真っ赤な顔で、言葉にならない反論を叫んだ隊長を、ガーランドはどこまでも冷たい表情で見下す。こいつに、こんな顔が出来たのかとヤスまでもがぞっとする。
「外周には外周のルールがある、と言ったでしょう? 相互監視のシステムは、内周や塔よりもずっと優秀ですよ。塔の監視カメラや盗聴器がないからって何をしてもいいとお思いで? 最も目と耳がよいのは人間だということを、肝に銘じた方がよろしいかと」
ま、手遅れですけどね、ときっぱり告げたガーランドは、紙束と、もう一枚……塔の印が押された紙を隊長たちの前に示してみせる。それが塔への召喚状であることは、一目でわかる。
「あなた方が兵隊以前の犯罪者であることは、この通りはっきりしております。塔の上層部は、調査結果を元にあなた方を軍法会議にかけるという決定を下しました。同行いただけますね?」
質問の形で聞かれてはいるが、これは隊長たちに決定権のあるものではない。逆らえば、その時点でガーランドたちは強制的に隊長たちを取り押さえることが可能だ。それに対し、隊長は今にも卒倒しそうなほどに顔を赤くしてヒースを睨んでいたが、やがて、同じように顔色を変えて立ち尽くしていた己が部下に指示を飛ばす。
「ええい、何ぼうっとしている! このままでは、私もお前らも破滅だ! 行け! 行くんだよ!」
その声に操られるように、己が罪を明かされた腰巾着三人が警棒を引き抜き、ガーランドに向かって殺到する。
これには、流石にガーランドの後ろに控えていた、同僚と思しき兵隊も動揺したのか、鋭く声を上げる。
「ヒース」
「構いません」
冷たく言ったガーランドは、ふと、唇だけで微笑んだ。目こそ謎の装置に覆われているが、その顔は、驚くほどに整っていた。
「彼らの実力は把握済みゆえ。私一人で十分です」
仲間を下がらせ、流れるような動きで引き抜いたのは飛び出し式の警棒だ。飛び掛ってくる兵隊たちや、ヤスが持たされているものと、何一つ変わらないように見える。実際、何一つ変わらないのだろう。武器そのものは。
だが、踏み込んでくる一人目の手首をすれ違いざまに打って武器を落とさせ、そのまま振り向いた勢いで肘を鳩尾に叩き込むことで、一息もつかせずに継戦能力を奪い去る。
背面を見せたことでもう一人が脳天目掛けて警棒を振り下ろすのを、そちらを見もせずに回し蹴りで吹き飛ばす。
三人目もそのまま打ちかかっていくかと思われたが、そこまでの馬鹿でもなかったらしい。二人が一瞬で地に伏したのを見て、一度は手にした警棒を落として膝をつき、降伏した。
さすがは人を超えた人、といったところか。それは、ヤスの目から見る限りまともな動きではなかった。
ヤスをはじめ、外周出身の隊員は、そんなガーランドの動きをただ呆然と見つめていることしかできなかった。しかし、不意にかちりという不吉な音が響いて、ヤスの意識はそちらに持っていかれる。
今までただ喚いていただけの隊長が、いつの間にか、腰から抜いた拳銃をガーランドの頭に向けていたのだ。流石に、その動きはガーランドも気づいていないのか、己が倒した相手に視線を向けたままで。
「……っ、させるかあっ!」
今度こそ、ヤスを止める者はいなかった。隊長の目は完全にガーランドに奪われていたからだろう、その声を聞いても、即座に反応はできなかった。
だから。
積年の恨みを篭めて、握り締めた拳を振り抜く。
隊長は、ぶよぶよした頬を殴り飛ばされて、地面に伏す。短い指からこぼれ落ちた拳銃を、しっかりと同僚が確保したのを視界の片隅で確認する。持つべきものはいい仲間だ。
地に伏せたままの隊長は、顔を押さえてヤスを睨む。
「きっ、貴様っ、上官に何をっ」
「上官? 犯罪者の間違いだろ。俺たち治安維持部隊の役割は、外周住民の安全を乱す輩を取り締まること……だよなあ、お前ら?」
ヤスが仲間たちを見れば、それはそうだ、という風に全員が頷き、積年の恨みを篭めた視線で隊長を見下ろす。今にも、飛び出しかねない空気が流れるが、その前に、確かめなければならないことが一つ。
「おい、エリック!」
「はい?」
顔を上げたガーランドは、不敵に笑っていた。既に、ヤスが何を言おうとしているかは、伝わっていたのだろう。
「見逃してくれるな?」
「そうですね、ヒース・ガーランドによる調査任務は、既に終わっておりますので。この場で起きることに関しては何一つ上に報告しないとお約束しましょう」
言って、人差し指を唇の前に立てる。ガーランドが引き連れていた諜報員たちは呆れた顔をしていたが、しかしガーランドの決定に異議を唱える者もいなかった。
「そうこなくっちゃ、なあ!」
ヤスは、いつになく晴れやかな気分で、笑った。
一体、どこからどこまでが諜報員ヒース・ガーランドの「仕事」であったかは、ヤスにはわからない。ヤスは、廃品街に現れた浮浪者としてのエリック・オルグレンの姿しか知らないから。
だが、最低でも、エリックのあり方は何一つ、演技などではなかった。それが、今の言葉ではっきりした。
共犯者の表情で、諜報員と外周治安維持部隊の面々は頷き合って……そこから先は、もはや、誰の目にも見えきったシナリオだった。
結局、二度と戻ってくることはないであろう隊長と腰巾着が、諜報員たちの手によって引きずられていったのは、隊員たちの気が済むまで蛸殴りにされた後のことだった。
「はは、ちょーっとやりすぎですかねえ」
唯一、その場に残ったヒース・ガーランドだけが、引きずられていく隊長たちを眺めて、愉快そうに笑っていた。隊長たちを追い詰めた瞬間に見せた冷たい仮面は既に剥がれ、ヤスのよく知っている笑い方で。
隊員たちも一緒になって笑っていたが、ヤスだけは、胸に何か引っかかるものを感じて、途中で笑うのをやめた。そして、目を隠したガーランドの横顔を見やる。
「お前……本当は、すごい奴だったんだな」
「あっはは、そうは見えないでしょう? 僕も、柄じゃないって思ってるんですよ」
「その、お前が、どうして……俺の言葉なんて、聞き届けてくれたんだ」
あの時、エリックは確かに言っていた。
『それが、あなたの……あなた方の望みならば。僕は、全力でそれに応えましょう』
そして、その言葉を違えることなく、とびきりの不意打ちで果たしてみせた。だからこそ、不思議なのだ。本来、外周の人間なんかに目をかけるはずもない雲上人たるガーランドが、ここまでヤスや外周の住民を案じていたことが。
すると、ガーランドは顔を上げた。相変わらず視線は装置の下で、どこを見ているのかは判じがたかったが、道の先に広がる外周の町並みを見ていたのかもしれない。
「僕、この町が好きなんです」
町、というのは裾の町のことであり……それ以上に、ここ、外周を示しているのだということは、何となくヤスにもわかった。
「無菌室に篭ってるだけじゃ、絶対にわからない……『精一杯生きていく』ってこと。それを、教えてもらった場所ですから。そんな、この町を生きる人たちの人生を、己の権力や立場を振りかざして侮辱する輩が許せなかった。それだけです」
己の立場を振りかざしたのは、自分も同じですけどね、と。つくられた青年は力なく笑った。
「僕は、ガーランドとしては半端者でして。この名を恨めしく思ったことも、一度や二度じゃありません。でも今回ばかりは、ガーランドでよかったと、心から思いました」
その、気弱な笑顔の中に、柔らかな光が宿る。それは、あの時「わくわく」をヤスに語った時と同じ、子供のような無邪気さを残した表情だった。
「守りたいもののためだから、でしょうね。何だって利用しようって気分になれたんです。僕の名前も、身体も、与えられた立場も全て」
「……そう、か」
ガーランドの思いは、ヤスにはわからない。そういう立場に置かれたこともないのだ、ガーランドが今までどれだけ己が立場に悩まされたのかなんて、わかるはずもない。
ただ、今、この瞬間に、ガーランドが晴れ晴れとした表情を浮かべているならば、それでいいのだろうと思うことにする。
そんな中、同僚の一人が手を挙げて、問いを投げかけた。
「でも、隊長引っ張られちゃったけど、これからうち、どうなるんだ?」
その言葉に、全員が固まった。
基本的に、治安維持部隊隊長は、閑職とはいえ「隊長」の名を冠されるだけはあり、軍の中でもそれなりの階級が必要になる役職だ。ここで隊長が捕まったからと言って、次の隊長がまともな奴であるとも限らないわけで……。
その点については、何か話を聞かされているのだろうか、と塔の代理人たるガーランドを恐る恐る見やると、ガーランドは思い出したようにぽんと手を打った。
「そうそう、上に判断を仰いだところ、ひとまず私、ヒース・ガーランドがしばらくこの隊を率いてみてはどうだ、と言われまして」
『はあ?』
疑問符を唱和させる隊員たちに対し、もちろん証拠もありますよ、と綺麗に折りたたまれた紙を取り出し、開いてみせる。確かに、塔の印が入った辞令には、確かにヒース・ガーランドを本日付で中央隔壁外周治安維持部隊隊長に任ずる旨が書かれていた。が。
「お前さあ、これ、かなーり無理言ったんじゃねえ?」
「ふふっ、『無理が通れば道理が引っ込む』っていい言葉ですよね」
「多分ちょっと意味違うぞ、それ」
とにかく、相当な無理を通したんだな、とヤスは呆れ顔を浮かべる。
この町が好き、と豪語するこの変わり者のエリートは、かわいい顔と丁寧な言葉遣いに似合わず、相当押しの強い野郎なのかもしれない。
かくして、黒い外套を揺らし、隊員たちに向き直ったガーランドは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げた。
「そんなわけで……これからよろしくお願いしますね、皆さん」
正直に言えば、この男について判明していることは、ガーランドの名を持つ超人の一人であり、そしてその肩書きに似合わぬ愉快な思想の持ち主ということだけだ。果たしてこれで、治安維持部隊が変わっていけるのかは、今のところ何一つわからない。
わからない、けれど。
ヤスは、敬礼のポーズを取る。今日この時より己の上司となる、若き隊長に向けて。
「よろしく、ガーランド隊長」
きっと、明日は昨日よりは、ずっとマシな日になる。
そんな気はしていた。
読上
夢から覚めたその場所で。
――かつて、かの町には、既に世界から失われたはずの花が咲き乱れていた。
――かつて、かの町には、女神と呼ばれる人物がいて、町に奇跡を起こしていた。
――かつて、かの町では、一人の女によって、失われたはずの夢と希望が全ての人々に与えられていた。
――故に、かつて、かの町はこう呼ばれていた。
――『楽園』、と。
曇天の下に広がるのは、無限とも思われる荒野だった。
そのところどころには、そこが人の住んでいた場所であった名残とばかりに、途切れ途切れのアスファルトの道や建物の残骸などが、無造作に転がっている。そんな道なき道を、一台の大きな装甲車が走っていた。車体に書かれた文字から、それが国のあちこちに点在する居住地――『隔壁』を巡るバスであることがわかる。
隔壁間を移動するということは、気候や地形が人を拒むだけでなく、《スターゲイザー》の大破壊以降現れるようになった、凶暴な変異生物に襲われる危険をも伴う。故に、バスもこれだけの重装備になってしまうのだ。
もちろん、隔壁から隔壁へ移動しようなどという人間は少数派であり、それこそ、中央の《鳥の塔》の命令で辺境に赴く兵隊か、物好きな旅人くらいだ。
そういうわけで、今、バスに乗っているたった二人の客もまた、『物好き』の一種ではあった。
「悪ぃな、付き合ってもらっちまって」
掠れを混ぜた低い声でけたけた笑うのは、一人の女。
肌の色は黒く、髪の色は微かに灰を混ぜた白銀。後ろで結ばれた、くるくる巻いた髪のところどころには、鮮やかな青のメッシュが入っている。つんと尖った鼻、長い睫毛に縁取られた切れ長の目は、ともすれば近寄りがたい印象を受けるほどに整っているが、肉感的な唇に浮かぶいたずらっぽい笑みが、愛嬌を与えている。
身に纏っているものは男物のジャケットと細身のズボン。色こそ地味であったが、ジャケットの前を大きく開いて、シャツの上からでもわかる大きな胸を惜しげもなくさらした着こなしは、酷く扇情的だ。長い足を組み、腕を頭の後ろに回して椅子にもたれかかっている姿を見れば、誰もが一度は目を留めるに違いない。
だが、女と向かい合う席に座っている青年は、それとは全く違う意味で目を留めずにはいられない、特徴的な見かけをしていた。
漆黒の外套を纏った青年の肌の色は、女と対照的な、白磁のような白。剃り跡もない禿頭は、元より青年が体毛というものを全く持たないことを表している。温度を感じさせない肌と、頭から顎にかけて描かれた整った骨格の線は、やけに青年の横顔を作り物めいたものにしていた。また、目をミラーシェードで覆っているために表情がわかりづらく、余計に無機質さを際立たせてもいた。
――実際、作り物ではあるのだが。
青年は、なおも笑い続ける女に顔を向け、薄い色の唇を開く。
「まあ、正式な依頼だからな。文句はないさ」
「友達から金を取るなんて、つくづく友達がいのない奴だよなあ、お前さん」
「……友達、なあ」
「ああっ、今、友達じゃないって思っただろ! あたし傷ついちゃうぜーマジ傷ついちゃうぜー」
辺境訛りを混ぜた男言葉で、女は大げさに嘆く。そんな女を、無表情で――ただし、ものすごく呆れたオーラを全身から醸し出して――見ていた青年は、ふと運転席でハンドルを握る運転手に問う。
「あと、どのくらいで到着します?」
「そろそろ見えてくる頃だ。ほれ」
壮年の運転手は、フロントガラスの向こうを顎で示す。女も、それにつられるように、席から身を乗り出してそちらを見た。
果てしなく広がっていると思われた荒野に、ぽつりと何かが生まれたかと思うと、徐々にその姿がはっきりとしてくる。砂埃の向こうに見えたそれは、巨大な壁。
『隔壁』。
砂や灰の害や、獣の襲撃から身を守るための強靭な壁に囲まれた、居住区の一つ。だが、近づくにつれ、それがぼろぼろに破壊されていることがわかってくる。
しかし、それを見ても、女も青年も驚きはしなかった。ただただ、じっとそちらを見つめているだけで。
「いやー……なんつーか、改めて見ても、現実味がねえよな」
「待ちわびた故郷への帰還だろ、ジェイ」
青年の言葉に、ジェイと呼ばれた女はあからさまに眉を寄せた。
「そういう可愛くないこと言うような奴だったっけ、お花ちゃんよ」
微かな棘を含んだ女の言葉に、青年は初めて口の端を歪めて言った。
「大人になるってのは、そういうことだろ」
二時間だけ、待っていてほしい。
そんな女の言葉に、バスの運転手は二つ返事で応じた。元々、この隔壁がこのような姿になってしまってから、この路線には客が寄り付かなくなってしまったそうだ。それこそ、女と青年が久方ぶりの客であり、また女が運賃を大盤振る舞いしたために、ありがたいことに、貸し切りと変わらない扱いで構わないという。
かくして、大きな鞄を片手に提げた女は、隔壁の、扉の意味を成していない扉を大股にくぐる。青年は、ミラーシェード越しにその扉に描かれた『十七』の文字を見ながら呟いた。
「第十七隔壁……楽園の跡地、か」
その声に含まれていたのは、感慨のようなもの。しかし、女はそんな青年の言葉に気づいていなかったのか、数歩先から大声で呼びかける。
「おーい、シスル、置いてくぞー」
「私を置いていって困るのは、そっちだと思うんだが」
「あーあー可愛くなーい」
「いちいち私に可愛げを求めないでくれ、頼むから」
肩を竦めながらも、青年は女の後に続く。
町は、もはや町としての原型を留めていなかった。建物のことごとくは、植物のような、金属のような、不思議な質感の何かに押しつぶされ、貫かれていた。その「何か」は、この世界から失われて久しい、大樹の根のようにも、見えた。
町中にのたくる根は町の中心部から伸びているようであり、女の大股の足取りは、迷いなく、根が生み出されているその方向に向かっていた。青年は、わざと一歩遅らせて、女の後を追いかける。
その時、不意に何かが視界を横切った気がして、女と青年は同時に立ち止まる。二人は、お互いに目を見合わせて……実際には、女から青年の目を見ることは出来ないのだが……頷きあう。
刹那、再び崩壊した建物の影から現れたものが、二人に飛び掛ってきた。
それは、人の背丈ほどもある犬だった。だが、その体を包む毛は全てが鋭い針だ。ご丁寧に、剥いた牙までが金属質の光沢に覆われている。青年は女を庇うように前に出ると、腰から大振りのナイフを抜き放つ。
「三十秒!」
青年の背中に、女が声をかける。青年はちっと舌打ちし、「簡単に言ってくれる」と口の中で呟きながらも、顔だけは真っ直ぐに鋼の獣に向けていた。
獣は、当然女と青年のやり取りに構うことなどなく、自分の前に立ちはだかる『餌』を噛み砕こうとする。だが、青年はその瞬間に自ら前に出て、ナイフを握った腕を獣の口腔に叩き込んだ。
表面こそ金属に覆われているが、口の中は普通の獣と変わらず、唾液に覆われた柔らかな肉でできていたようだ。青年のナイフは、狙い通りに獣の下顎を穿った。
だが、その瞬間に吼えた獣は、そのまま青年の腕を食いちぎろうとする。即座に腕を引いた青年だったが、その皮膚に牙が食い込み、腕が半ばまで引きちぎられる。
それでも、青年は顔色一つ変えず、逆の手でもう一本のナイフを引き抜いてみせた。痛みを感じていないのは明らかで、黒い服と白い皮膚の下に隠されていたのは、それこそ目の前の獣の色に似た、金属質の骨格と作り物の筋繊維だ。循環液を傷口から滴らせながらも、青年は体を低くして、獣の動きを待つ。
一瞬体を傾がせた獣の目は、思わぬ痛打を与えてきた目の前の青年への怒りに燃えている。青年は喉から息を吐き出しながら、獣の牙をぎりぎりのところで回避し、すれ違いざま獣の目を狙ってナイフを放つ。だが、その一撃は、目を覆っていた硬い膜によって弾かれてしまう。
口から泥のような血を流す獣は、今度こそ青年を噛み砕こうと、青年の華奢に見える体に向かって体当たりを仕掛けてきた。青年は避けることもせず、棘に身を貫かれながらも、なおも果敢に獣の急所を狙ってナイフを放とうとする。だが、流石に体格の差は覆せなかったのか、青年の体は獣の前足に押しつぶされそうになる。
その時。
「……三十秒だ!」
青年は吠えた。瞬間、獣の頭が、爆ぜた。
いや、青年から見てそう見えただけで、事実は違う。
青年が獣を引きつけている間に離れていた女は、その肩にほとんど大砲のような筒を担いでいた。鞄の中に仕込んでいた、組み立て式の携帯砲台。そこから放たれた弾が、決して脆いものではない獣の頭を、一撃の下に粉砕してみせたのだ。
ぐらり、と獣の体が揺れ、今度こそどうと地面に倒れて動かなくなる。今の一撃のあおりを食って所々に小さな傷をこさえてしまった頭を撫でる青年に、女はにぃと獰猛な笑みを浮かべてみせる。
「三十秒ジャストだろ」
「……いつもいい加減なのに、そこだけは正確だよな、ジェイって」
「惚れてもいいんだぜ?」
「考えとく」
屍となった獣の前足をどかして立ち上がる青年を尻目に、女は曇天に視線を映す。実際には、何を見ているわけでもなく、空気の中に混ざる音を聞き取っていた。そこには、今の獣が放っていた声とよく似た音が、混ざっていた。
「……今ので、他の獣も起こしちまったかな」
「急ごう。中に入れば、追ってはこないだろう」
「そうだな」
女と青年は、お互いの武器を手にしたまま、にわかに獣の気配に満ちはじめた町の中を駆ける。壁を失った町は、これほどまでに脆いのだということを、痛感させられる。
獣以外に生きたもののいない町の中心にあったものは、樹木のような、触手のような何かに覆われた、元の形も定かではない建造物だった。二人は迷わずそこに飛び込み、女がベルトに仕込まれていた灯りを灯す。
闇が払われたそこは、外以上に異様な状態にあった。壁や床、あらゆるところに鈍色の根が張り巡らされているさまは、それこそ、生き物の体内に入り込んでしまったかのような錯覚を呼び起こす。
「……ルナ」
ぽつり、と。女の呟きが、空間に反響する。
女の青い瞳は、建物の真ん中にのたくる、根の発生源にあった。とはいえ、それ自体が根に覆われてしまって、その奥を見通すことはできない。
武器を下ろした女は、そんな根の一つに触れる。温かくも冷たくもない、硬い根。それに向かって微笑みかけながら、女はジャケットのポケットから、握った手を引き抜いた。
「ずっと、会いに来られなくて、ごめんな」
女の手の中にあるのは、薔薇の形をしたコサージュだった。微かにくすんだ、黄色の薔薇。それを、のたくる根の中にそっと置く。
「あの日、お前が咲かせてた、本物の花とは違うけどな。それでも、お前が好きだった花だよ、ルナ」
女の声は、今まで彼女が放っていたものとは違って、酷く穏やかであり、かつ感傷的な響きを帯びていた。
青年は、獣の気配に気を配りながらも、黙って女の背中を見つめていた。女が何故、ここに訪れようと思ったのか知っていただけに、言葉が出ない。
――かつて、この町には、既に世界から失われたはずの花が咲き乱れていた。
――かつて、この町には、女神と呼ばれる人物がいて、町に奇跡を起こしていた。
――かつて、この町には、この女を含めた三人の旅人が訪れて……
その結果が、この惨状であることを知っていただけに、青年の口も重くなる。けれど、青年は、どうしても、言わずにはいられなかった。
「ジェイ……ルナリアは、もう」
「知ってる。どこにもいない。これは」
自分で捧げた薔薇のコサージュを、自分の手で握りつぶして。
「自分で自分の妹を殺した、あたしの自己満足さ」
女の声に、もはや先ほど見せた感傷の色はなかった。女は、長い睫毛に縁取られた目を瞬かせて、立ち上がって青年に向き直る。その表情は、やけにさっぱりとしたものであった。
「ありがとさん、シスル。依頼は、これで仕舞いだ」
「そういえば、行きの金しか貰ってなかったな……帰りは、どうするつもりだ」
青年の声には、感情は篭っていなかった。ただ、女が帰りのことを考えていなかったとなれば、この根の奥に眠る誰かと共に「ある」ことを選ぶことを意味するではないか……と、青年が思いかけたその時、女は不意に、にやっと笑って言った。
「友達だろ? 町の外までエスコートしてくれよ」
その、余りにもしれっとした要請に、青年は明らかな呆れ――そして、一握りの安堵――を滲ませながらも、きっぱりはっきりと言った。
「依頼だな。規定の金は貰うぞ」
「おーい! 傷心の美女相手にその仕打ちかよー!」
「自分でんなこと言う美女は見たことがない。よってアンタは傷心の美女じゃない。さあ金を払え」
「ほんっとーに、可愛くねええええええ!」
女の叫び声と青年の笑い声が、かつての『楽園』の跡地に響き渡った。
読上
つくりものの世界
中央隔壁外周東地区の片隅。通りの角に位置する店の看板は、すっかり塗装が剥がれ落ちてしまっていて、店名を判別することは不可能だった。故に、その店を知る者の間からは、ただ『人形屋』と呼ばれていた。
黒のフードで禿頭を覆ったシスルは、今にも折れてしまいそうな扉の取っ手を回す。軋んだ音を立てて開いた扉の向こうには、なんとも奇妙な世界が広がっていた。
柔らかそうな台座に腰掛ける人形、人形、人形。それらはとても精巧にできていて、呼吸をしていないのがおかしいくらいだった。そのような人形たちが、豪奢な服に身を包み、人が使っているものをそのまま圧縮したような調度品に囲まれて、じっとこちらを見据えている。
瞬きのない瞳と意図的に視線を合わせないようにしながら、シスルは奥のカウンターに歩み寄り、置かれたベルを、きっかり二回叩く。甲高い金属の音色が店中に響き渡るが、人形は当然何の反応も示さない。
しばらくそのまま待っていると、やがて店の裏手から一人の老人が顔を出し……シスルの姿を見るなり、ぱっと皺だらけの顔を輝かせた。
「何だ、お前さんか!」
「……出来れば、二度と来たくはなかったんだが」
「そうかそうか、やっと心を入れ替えてくれたか。さあ、遠慮はいらんぞ、こっちへ」
「人の話を聞いてくれ、頼むから」
勝手に話を進めようとする老人に、シスルは溜め息交じりの制止を加えた。老人は、あからさまな落胆を隠そうともせず、シスルを度の強そうな丸眼鏡の下から睨んだ。
「何だ、そのみっともない格好を今からでも改めよう、という立派な心がけかと思ったんだが」
「私はこの見た目で満足してるんだよ。余計な装飾は必要ない。手入れも面倒だしな」
「余計とはとんでもない。この子たちを見ろ。人の形として創られた以上、人と同じように己を飾り、見目に気を遣うのは当然というものだ。素体のまま出歩くなど、全裸で闊歩する露出狂と何も変わらん!」
何を言い出すのか、この老人は。老人がシスルの見目に何だかんだと文句をつけてくるのはいつものことなのでさほど気にはならないとはいえ、露出狂、というのはなかなかに愉快な表現だとは思う。大きなお世話だが。
確かに、ここにいる人形たち――全てが人形師たるこの老人の手によってつくられたものだ――は、誰もが豊かな髪を持ち、円らな目を長い睫毛で縁取り、細い肢体に煌びやかな衣装を纏っている。中身はともかく見かけは彼らと同じ「つくりもの」であるシスルとは雲泥の差だ。
当然、同じつくりものである以上、今から彼らのような姿になることも、そう難しくはないのだが……と思いかけたところで、思考を遮る声があった。
「ご主人様、お茶の用意ができました」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
音もなく現れたのは、黒と白を基調とした、旧いスタイルの使用人服に身を包んだ少女だった。つややかな黒髪を肩の上できっちり切りそろえ、白い顔に張り付いているのは、まるで面を被っているかのような無表情。
そんな少女の黒い瞳が、つとシスルに向けられて。
「お客様がいらしていたのですね。ご挨拶もせず、失礼いたしました」
シスルの異様な見かけに戸惑う様子もなく、淡々と挨拶をする少女。シスルはしばしその顔に見入っていたが、女性の顔をまじまじと見ているのも失礼だと気づき、慌てて視線を逸らして会釈する。
「や、こちらこそ、突然訪問してしまったから……ええと、初めて見る顔だけど、最近雇われたのか?」
「はい」
答える声に抑揚はない。澄んだ硝子のような響きの中に、微かなざらつきを聞き取る。シスルは、何とはなしに背すじがぞわりとするような感覚を覚えながら、強いて笑顔を浮かべて手を差し伸べる。
「私はシスル。ここの主人には色々と世話になっていてね。麗しいお嬢さん、あなたのお名前は?」
少女は、長い睫毛を伴った瞼で一つ瞬きをして、シスルの手を取った。柔らかな指先がシスルの手を包むが、そこに宿る温度は、あまりにも低い。
「私の名前は、オリンピアと申します。今後ともよろしくお願いします、シスル様」
オリンピア。その名前は、確か……シスルは呆然として、握る手の感覚を確かめる。この触感は間違いなく人のそれだ。けれど、けれど――。
深い、深い、底知れない闇を湛えた黒い双眸がシスルを見つめている。それはさながら、白い面に開いた二つの穴。
「で、シスル。結局、お前の用事は何なんだ?」
その言葉に、シスルは我に返って手を離し、人形師に視線を戻す。
「あっ……ああ、この前、仕事中に頭部を損傷してな。ドクター・ガラノフの元に人工皮膚の在庫がなかったから、あれば譲り受けたいと思って」
言って、フードを少しだけ除ける。本来皮膚に覆われているべき場所からは、金属の鈍い輝きが覗いている。生身の脳を守るために頑丈にできてはいるのだが、表皮は人のそれとほぼ変わらないため、軽い衝撃でもあっさりはがれてしまう。
いつもならば、世話になっている外周の闇医者にして研究者……ドクター・グレゴリー・ガラノフに頼んですぐにでも修復してもらうところなのだが、直すための材料そのものがなければどうしようもない。
人形師はそんなシスルを一瞥し、既に興味を失ったという様子でひらひら手を振った。
「何だ、そんな用事か。奥にあるから勝手に持っていけ。金なら後でグレゴリーに請求する」
わかった、と頷くと、オリンピアが「ご案内します」と足音もなく奥へと歩いていく。その、柔らかなスカートを揺らす後姿を見つめながら、シスルはそっと人形師に囁く。
「なあ――彼女は人間? それとも人形?」
その問いに対して、老人はにぃと黄ばんだ歯を剥いて笑った。
「さあ、どっちだろうなあ?」
読上
メリー・ゴー・ラウンド
回る、回る、ぐるぐる回る。
つくりものの馬が、駆け抜けていく。
回転木馬。メリー・ゴー・ラウンド。
どこまで回っていくのだろう。いつまで回っているのだろう。
回るだけでは、どこにも行けないのに。
「……マリア?」
マリア・ラブレスは、己の名を呼ぶ声を聞いて、初めて自分が目の前を回るものに意識を取られていることに気づいた。
両方の手にコーンに乗ったアイスクリームを持った少年――アルベルト・クルティスは、分厚い眼鏡の下で三白眼を瞬きさせた。
「ほら、これ。チョコミントでよかったんだよな?」
「うん。ありがとう、アル」
チョコチップの散った淡い緑のアイスクリームを受け取って、ふと微笑みを浮かべると、アルベルトは頬を赤く染め、すぐに目を逸らしてしまった。その姿がなんとも微笑ましくて、マリアはくすりと笑みを零してアルベルトの見ている方向に視線をやる。
ここは、裾の町でも外れに位置する小さな遊園地だった。
小さいけれど、それなりの賑わいを見せているのは、ここが、普段の世界とは隔絶した空間であり、世界の息苦しさを一時でも忘れさせてくれるから、だろうか。
横に立つ彼も、そのような息苦しさから逃れたいと、望んでいるのだろうか。
マリアよりも少しだけ背の低い彼、アルベルトは、マリアと同い年の十五歳。だけど、マリアが出会ったときからいつも、子供のような無邪気さがあった。本当は無邪気でなんていられないはずなのに、この世界に生きる誰よりも優れた知識と能力を持っているはずなのに――マリアの前の彼は、いつも、ほんの小さな子供のよう。
それが、マリアにとっては愛しくもあり、同時に不安でもあった。
回転木馬の向こうには、白磁の塔が聳え立つ。統治機構《鳥の塔》。アルベルトが研究員として働く場所であり、マリアの全てを握っている場所。それが、自分たちを見下ろしている。どこにいても、見下ろしている。
回転木馬はぐるぐる回る。どこにも行けないまま、回り続ける。そんな木馬に跨った子供たちが歓声を上げているのを、見るともなしに見つめてしまう。
すると、おどろおどろしい色をした合成ベリーのアイスクリームを舐めていたアルベルトが、首を傾げて問うてきた。
「これ、好きなのか?」
「ううん」
マリアは首を横に振る。ただ、それ以上を彼に伝える気はなかった。きっと、彼を不安にさせてしまうだろうから。
思いはそっと胸に閉じ込めて、答える代わりに彼の、アイスクリームを持っていない方の手を握る。
彼の手の温もりを感じるために。
自分の手がまだ温かいことを、実感するために。
「マ、マリア?」
アルベルトが、目を白黒させてこちらを見ている。よく見なくとも、耳まで真っ赤だ。そんなアルベルトには気づかぬ振りで手を引いて、回転木馬に背を向ける。
「まだ、あっちは見てなかったよね。行こう、アル」
「お、おう」
上ずった声で返事をするアルベルトに笑みを向けて……一瞬だけ、回転木馬を振り返る。同じ場所をぐるぐる回り続ける、木馬たち。その背に乗る子供の一人は、無邪気に笑って、後ろの木馬に乗る仲間に向かって手を差し伸べている。
その笑顔が、横にいる少年の表情と重なって見えて――目を、背ける。
そう、笑っていてくれればいい。それだけでいい。そう思う心と、それ以上を望んでしまう心がせめぎ合う。
望んではならない。それは、今この場で手に入ったとしても、いつか必ず、最も望まない形で手放すことになってしまうから。
だから、己の望み全てを、そっと、心の奥底に沈む鏡の中に閉じ込める。
いつも、そうしているように。
アルベルトが、どこか不安げに顔を覗き込んでくるのを、やんわりとした笑顔で退けて。
早足に歩きながら、そっと口に含んだチョコミントのアイスクリームは、いつもよりも少しだけ苦く感じた。
――メリー・ゴー・ラウンドは好きじゃない。だって……
――追っても追っても、あなたの背中には追いつけないから。
読上
月の剣は運命を知る
それは、いつもの、下らない殺しの仕事。命の終わる瞬間だけ鮮やかに咲き誇る、ちいさな花を刈り取る、簡単なお仕事。
そう、思っていたのに。
握った刃を、振り抜いたその瞬間に――咲いた、大輪の花。
その、燃えるような、あかが。
目の奥の奥に、焼きついて離れない。
離れないのだ。
「……まさか、お前がこうも見事にやられるとはな」
外周の闇医者は、溜め息混じりの言葉を吐き出す。
医者の前に座る黒髪の男――月刃の目は、はるか遠くを見ていて、焦点が合っていなかった。医者の呆れ声も聞こえていなかったに違いない。そして、彼の利き腕である左腕は、二の腕の辺りから綺麗に切り落とされていた。
「誰にやられた」
その問いに、初めて月刃は虚空に浮かばせていた視線を医者に戻し――何故か、うっすらと笑みすら浮かべて答えた。
「シスル、と名乗っていました」
シスル。遠い時代に滅びた花の名前だ。月刃の脳裏に描かれるのは、全身を黒という色で覆い隠し、青ざめた禿頭に羽を刻んだ異形の青年だった。その腕は、否、身体のほとんどは、血の通わぬ鋼であったことを思い出す。
「シスル……例の、変人博士の『作品』だろ。護衛に関しては一流と聞くが、お前をどうこうできるほどの腕とは思っていなかったよ」
月刃といえば、外周どころかこの国で裏の世界に首を突っ込んでいる者ならば、知らない者はない殺し屋だ。生きているものを「殺す」ことにかけては超一流の彼が、獲物を仕留めそこなうどころか、致命的ともいえる傷を負うとは、長年の付き合いである医者も想像できなかったに違いない。
しかし、月刃は、包帯を巻かれた腕の付け根を右の人差し指でなぞりながら、恍惚とした表情で唇を開く。
「真っ赤な、花でした」
「……花? ああ、お前には花に見えるんだっけな」
医者は、月刃が持つ特殊な能力についてもある程度の理解を持つ。だから、月刃の呟きが何を意味していたのかも、すぐ察したに違いない。
超感覚の一種と月刃やその周囲は認識しているが……月刃の金色の瞳は、本来目には見えない人の「命」を「光」として知覚している。今この瞬間も、相対する医者の姿に被さるように、淡い光が見えている。
普段は月刃の目にも細々としか見えない光だが、それは、命が失われる瞬間に、失われることに抗おうとするのか、それとも最後の最後に輝きを見せつけようというのか……とにかく鮮やかに輝く。まるで、暗闇に色とりどりの炎の花が咲くように。もちろん、その花の色や形に、一つとして同じものはない。
月刃はその輝きに魅せられ、輝きを見たいと望むからこそ人を殺す。細々と光を放ってただ「生きているだけ」の人間に、何一つ価値はない。彼にとって、人の価値とは「生から死へ向かう瞬間の、一度だけの輝き」のみに見出されるものだった。
……だが。
「……咲いてるんですよ。今も」
ぽつり、と。月刃は呟いた。
「生きていながら、咲いている。咲きながら、生き続けている……いや、死に続けている? とにかく、ずっと咲いているのです。赤く。赤く」
「そんな奴が、存在するのか」
「ええ、あの失われない輝きは、まさしく常春の花。その花の美しさは、私にしかわからない。ああ、これを運命と言わずして、何と言うのでしょう!」
気分が昂ってきたのか、芝居がかった台詞回しで言い放った月刃は、細めた瞳の奥に、ねっとりとした感情を秘めて囁く。
「見たい。見たいですねえ。あの花が散る間際の輝き。私はきっと、あの花を見るために生まれてきて――殺してきたのでしょう。そう、今になってわかりましたよ」
医者は蒼白になりながら「月刃」と彼の名を呼ぶ。どうしてそのような顔をするのだろう、と月刃は不思議に思う。自分は、こんなに愉快な気分だというのに。
「ああ、そうそう……一つね、あなたにお願いがあるのですよ」
ゆらり、と。立ち上がった月刃は、金の瞳で、自分が持ってきた「荷物」を示す。布に包まれたそれを紐解いてしまった医者は、中に入っていたものを見て絶句する。
そんな医者の背中に投げかける月刃の声は、深い、深い愉悦に満ちていた。
「それを、私のものにして欲しいのですよ。できますよね?」
かくして、月刃は再びかの青年と対峙する。
全身を覆う黒衣。露出した頭から顎にかけては酷く青白く、骸骨のような印象すら受ける。月刃が求める「生」のイメージからは、全くもってかけ離れた見かけだ。
けれど、月刃は知っている。
その青年の背中に、今もなお、鮮やかに一輪の花が咲き誇っていることを。
「お久しぶりですねえ、お花ちゃん?」
月刃は、身構える黒衣の青年に向けて、手を差し出す。
あの日失ったはずの、左の腕を。
服から覗く肌の色は、月刃のそれとは異なっている。白磁のような白さと、折れそうなまでの細さ、そして見かけに反したしなやかな強靭さを誇る腕は――まさしく、目の前に立つ青年、シスルのものだった。
「見てください、お花ちゃんの腕を移植してもらったのですよ。これで、いつでもお花ちゃんと一緒ですよ。まだ、左腕だけですけどね」
言って、指先を口の中に含む。鉄錆の味がするのは、先ほど一人殺してきたからだろうか。それとも、この腕が本来持っている味なのだろうか。わからないけれど、愛する者の一部が己のものとなり――それを当人の目の前で犯す快感は、何にも代えがたい。
「おいおい……勘弁してくれよ?」
おどけた口調ながらも、シスルの表情が露骨に引きつり、視界に映る炎が揺れる。その揺らぎが示すのは「怯え」。それでありながら、背に咲き誇る赤は全く色を薄めることも、萎れることもない。
どこまでも折れることなき生への渇望。その望みを受けて咲き続ける花。
それでこそ。それでこそ、自分が求める「至高の花」だ。
いつか、いつか、その全てを手に入れてみせる。まだ自分が見ていない咲き方を、この目に焼き付けるために。
愛しい左の指先に舌を這わせ――月刃は、壮絶に、笑んだ。
「さあ――|愛《コロ》し合いましょうか、お花ちゃん?」
読上
SD0361-Rからの手紙
その手紙は、『ホリィへ』という、多少癖はあるけれど読みやすい、丸みを帯びた文字で始まっていた。
ホリィ。それは、環境適応班が造り上げた人造人間の第三番に与えられた通称だったはずだ。『制圧者』ホリィ・ガーランド……塔へ反抗する者をことごとく打 ち倒してきた修羅の噂は、この塔だけでなく、外周の荒事屋にまで届いていると聞く。ただ、かの『制圧者』がまだ表情に幼さを残す、若干十四歳の少年である という事実は、意外と知られていない、はずだ。
つまり、これはある少女から、ある少年に向けたごく個人的な手紙だった。
見てはいけないものを覗き見る罪悪感と背徳感、そしてそれらに勝る好奇心を持って、ゆっくりと、独特な筆致で綴られる文章を追い始める。
『こんにちは、お久しぶりだね。
ホリィにお手紙を出すのは初めてかな。字、汚くてごめんなさい。綴りもいくつか間違ってるかもしれないけど、最後まで読んでくれると嬉しいな。
どうして手紙なんか、ってホリィは思うかもしれないね。でも、どうしてもホリィに伝えたいことがあって、お手紙を書いてみたの。わたしの担当の研究員さん は、最初はお手紙を書くのもダメって言ってたけど、一生懸命お願いしたら、一回だけならいいよって言ってくれたんだ。研究員さんには悪いことをしちゃった かな、って思うけど。でも、折角いいって言ってもらえたから、書きたいこと、全部詰めこんでおきたいと思うよ。
でも、いざ書こうって思うと、何から書いていいかわからなくなっちゃうな。
えっと、ホリィは、元気にしてるかな。また、危ないお仕事をしてたりするのかな。ホリィは兵隊さんだから、危険なことがお仕事なのかもしれないけど、わたしはいつも、ホリィのことを心配してるの。
ホリィはきっと「大丈夫」とか「仕事だから」って言うんだろうけど、無理だけはしないでほしいよ。ホリィに何かがあったら、わたしはきっと、とても悲しくなっちゃうから。
お返事が聞けたらよいのだけど、返事をもらうのは難しい、って研究員さんに言われちゃったから、わたしがこう思ってる、ってことだけホリィに伝わればいいなって思うことにするよ。それ以上のことは望まない。望まないよ。
わたしのこと、聞いてくれるかな。
わたしは今、塔の高いところにいるみたい。塔のどの辺りなのかはわからないけど、すごく綺麗な研究区画。もしかしたら、ホリィも知ってるのかな。ホリィも、色々と実験を受けたって言ってたもんね。
そうだ、実験。実験は少し苦しいね。ホリィの言ったとおりだった。でも、思ったほど怖くなくて、安心もしたの。研究員さんはみんな優しくしてくれるし、研究員さんの中に、お友達になってくれる子がいたの。
その子は、わたしよりも小さな女の子。ニコラっていうの、ホリィは知ってるかな? ニコラ・アトリー。ふわふわの金髪に、橄欖石みたいな、透き通った緑色 の瞳をしてるの。とってもかわいくて、お人形さんみたいな子だよ。ホリィに教えてあげたおとぎ話、今はニコラに教えてあげてるんだ。ホリィは、覚えててく れてるかな。竜巻に飛ばされて、魔法の国に辿り着いたドロシーのお話。どんなお願いでも叶えてくれるっていう、大魔法使いで大ペテン師のオズのお話。
そうそう、わたしのお願いも、わがままみたいなものばかりなのに、みんな、きちんと叶えてくれるんだね。実験のない日は、担当の研究員さんが読みたい本を 何でも持ってきてくれるし、孤児院にも、きちんとお金と手紙を届けてくれてるみたい。みんなのお返事をもらうのがいつも楽しみなんだ。
そういえば、孤児院からのお返事はちゃんと届けてくれるのに、ホリィからお返事をもらうのは難しいって、どういうことだろう? ホリィはいつもお仕事で忙 しいみたいだから、お返事を書く暇をつくるのが難しいってことだったのかな。もしそうだったら、ごめんなさいだね。こんな長いお手紙、読んでもらうだけで も大変だったりするのかもしれない。
うん、長々と書いてたらきっとホリィも困っちゃうだろうし、本当に書きたかったこと、書くね。
わたし、ホリィとジェイに、一番大切なことが言えてなかったって、ずっと、ずっと、それだけが心残りだったの。塔まで連れて来てくれたお礼は言ったかもしれないけど、どうしても、もう一つだけ言いたいことがあって。
でも、その時には、言ってはいけないことだって、思っちゃったの。
ホリィとジェイは、とっても危ない思いをして、わたしとここまで運んできてくれた。あの頃のことは、とってもよく覚えてる。初めてホリィたちと出会った日 のこと、ホリィと一緒にプラネタリウムを見たこと、二人の怖いお兄さんのこと、子供たちのヒーローになろうとしてた博士のこと、不思議な旅人さんたちのこ と、第十七隔壁のこと……何もかも、何もかも、わたしの大切な思い出だもん、忘れることなんてできないよ。
ホリィは、わたしに、色々なことを教えてもらったって言ってたね。だけど、それはわたしも一緒。ホリィがいなかったら、わたしはきっと、辺境以外の景色を 知らないままだった。この世界が、物語の中みたいに鮮やかなんだって、知らないままだった。
ホリィが色んなものを見せてくれて、ここまで連れて来てくれたから、わたしはここで一生懸命自分にできることをやって、大切な人に、恩返しをしていける。 ホリィたちがやってきたことが、無駄じゃなかったって証明できる。それが嬉しかったのも、本当に本当だよ。
だからこそ。
ホリィとお別れするとき。
まず最初に湧き上がってきた気持ちが、言えなかったんだ。
今も本当は言っちゃいけないって思ってる。でも、知っておいてほしいって気持ちの方が大きくなっちゃったから、ここで言うね。
わたしね、すごく嬉しかったんだ。ホリィが、引き止めてくれたこと。一緒にいたいって言って、手を握ってくれたこと。ホリィの手、すごくあったかくて、それだけでぎゅっと胸が締め付けられて、涙が出そうになったの。
でも、ここで泣いたら負けだと思ったの。ホリィの手を取ったままじゃダメだって思ったの。自分がここに来た理由、ホリィたちがここまで連れて来た理由。そういう大事なものを、全部全部、否定しちゃうって思ったから。
だから、笑ってお別れしたけど、本当は寂しかった。今も寂しい。
寂しい。寂しいの。
同じ塔の中にいるのに、顔も見られないなんて寂しいよ。独りきりってわけじゃないのに、それでもどうしてもホリィのことを思い出しちゃうの。ホリィと一緒にいたときのこと、思い出しちゃうの。そうすると、胸の奥の奥がきゅうってなるの。
寂しいよ。
この手紙を読んでくれるだけでいい、それ以上は望まないなんて書いたけど、嘘だ。わたし、ホリィのお返事が欲しい。お手紙なんかじゃない、ホリィの声が聞 きたい。ホリィの顔が見たい。ホリィの手を、もう一度握りたいよ。ここから連れ出して欲しいわけじゃない、ただ、望むならもう一度だけでいいから、ホリィ に会いたい。会いたいの。
それで、ホリィに、名前を呼んでもらいたい。わたしの名前を。
『SD0361-R』じゃなくて、あの頃、ホリィが呼んでくれたのと同じように。
それだけ、それだけなのに。どうして叶わないんだろうって、思っちゃうの。
――ごめんなさい。何だか、変なことばかり書いちゃった。
ホリィの迷惑になってないかな、それだけが心配。わがままな子って思われちゃったかな、それとも今更だったりするのかな。わたし、あの旅でもとってもわがままだったもんね。
大丈夫だよ、わたし、ここに来て後悔はしてないもの。これからも、楽しく毎日を過ごせると思う。そこにホリィがいてくれたらもっと嬉しいなって、本当に、それだけのお話。
それじゃあ、お手紙はこの辺で。ジェイと一緒に、お仕事頑張ってね。
最後まで読んでくれてありがとう。
大好きだよ、ホリィ』
手紙の末尾に書かれていたのは、特殊な綴り――共通語のそれとは異なる、おそらく旧日本語――の名前だった。
現在は『SD0361-R』と呼ばれている実験体の少女は、今日も白い壁の向こうで、過酷な実験を課せられているはずだ。彼女は手紙の中で『少し』と書いていたけれど、私の目から見る限り、あれはまともな人間が耐えられるようなものではない。
それでも、彼女は今日も、旧い時代のミュージカル・ナンバーを口ずさみながら、遠い遠い、本に描かれたおとぎ話の世界に思いを馳せているに違いない。人懐こい笑顔すら浮かべながら。
その笑顔の奥に秘めたものは、誰にも見せないまま。
もう一度。手紙に視線を落とし、それから一つの決意を篭めて、手紙を監視カメラに捉えられないように気をつけながら、ポケットの中に落とす。その代わり、 丁度よく机の上にあった、他の処分すべき手紙をシュレッダーにかけるところだけは、まざまざとカメラに見せ付けてやる。
その瞬間に扉が開き、同僚が顔を出した。
「手紙の検閲、終わったか?」
「ああ。結局渡せるようなものじゃなかったから、処分していたところだ」
「そうか。まあ、そもそもあんな危険な連中の間で手紙のやり取りなんて、許可できるはずもないからな」
そう、本来ならばこの手紙は即座に破棄すべきものだ。手紙を渡すというのは、力を持つ子供……《種子》である彼女を安心させるための方便に過ぎない。一騎 当千の力を持つガーランドの子供と、奇跡に等しい力を操るという《種子》の間を取り持つなど、本来はあってはならないことなのだ。この研究所に押し込まれ るまでの間に、どのような関係を結んでいたとしても。
どうせ二度と会うことはないのだ、どうとでも誤魔化せるだろう。それが上の判断だった。
だが――。
「そうだな」
そう応えながらも、このポケットの中には確かに手紙がある。ただの少女からただの少年に向けた、拙くも心の篭った手紙が。
さあ、この手紙をどう、ガーランドの第三番に渡してくれようか。
そんな算段を立てるのは、いつになく愉快なことだった。
読上
アリシア・フェアフィールドの奇矯な友人
新聞記者、アリシア・フェアフィールドは、仕事上、また個人的な友人関係として、裾の町の内周、外周問わずあらゆる業界の人間と顔を合わせてきた。
その中にはかなり奇妙な連中も混ざっているものだが、ある青年は、アリシアの知っている中で最も「変わっている」一人であり……最も親しい友人ともいえた。
果たして、外周の中でもなかなかに繁盛している食堂の片隅で、アリシアはかの友人と向かい合い、気まずい沈黙を共有していた。
「……で」
青年が放ったテノールとアルトの間を彷徨う声に、アリシアは、反射的にびくりと身を竦めてしまう。恐る恐る顔を上げれば、青年と目が、合った……と、思われた。実際には、青年の目はいつも通り分厚いミラーシェードに覆われていて、その目が象る形や瞳の色を窺うことはできなかったのだが。
目を隠しているせいで表情を判じるのも困難ではあるが、長いつきあいであるアリシアには、さっきの一言だけで、確信できることがある。
「言いたいことは、それだけか?」
この、友人が。
全力で、アリシアに呆れている、ということ。
「だって、だってさあ!」
「『だって』じゃない、いきなりのろけを聞かされる身にもなれ」
「のろけじゃないって言ってるでしょ! ただ、辰織があんまり鈍すぎるから」
「それがのろけっていうんだよ! 口を開けば辰織辰織って、とっととお互いぶっちゃけて、とっとと結婚してしまえこの幸せ者!」
きっぱりはっきり言葉を放つ青年の声を聞いてか否か、ちらちら食事客がこちらを見ているのがわかる。客の視線に混ざる色は、二割の怯えと八割の好奇。
それは、目を引くに決まっている。アリシアと相対する青年の出で立ちは、どうしたって悪目立ちしてしまうのだから。
全身を隙なく黒衣で覆い、グラスを握る手もまた丈夫そうな黒の手袋に覆われている。唯一、肌を晒している首から上は、衣服の黒とは対照的に、白磁のような白だ。本来あってしかるべき髪や眉といった体毛を全く持たないだけに、なおさらその肌の白さが目につく。
そして、目を覆う大げさなミラーシェードから伸びる数本のコードは、側頭部に穿たれた穴に突き刺さっており、その様子だけでも青年がまともな「人間」でないことは明らかだ。
人体改造が身近かつ手軽になったこのご時世ではあるが、この友人のような存在は、裾の町広しといえど他に目にしたことはない。仮にこのような存在に「なる」ことが可能であったとしても、手を出したいと気軽に思えるような代物ではない……アリシアは、思いながら青年の滑らかな頭部に刻まれた羽の模様――識別記号の一種だという――を見るともなしに眺める。
脳以外のほぼ全てを機械に置き換えた、限りなく機巧の人形に近い人間。それが、この青年の正体だ。
本来の肉体をいつどこに置き忘れてきたのか、アリシアが初めて見た時からこの青年は機械の体一つで生きていた。
全身を機械に換装する義体技術は、この国を掌握する《鳥の塔》でも未だ実験段階だ。特に、人と変わらぬ見た目の義体となると、実用化にはほど遠い。
だが、アリシアもよく知る博士……塔が誇る奇才、ウィニフレッド・ビアスは、独自の製法を編み出し、秘密裏にこの青年の体を造ることに成功していた。
そして、そのウィニフレッドが、色々あって『消えて』しまった今。唯一の義体を与えられた青年だけが、ブラックボックスだらけの存在として取り残されている。
本来の肉体を失って、ウィニフレッドに義体を与えられた詳しいいきさつは知らないが、何かしらの事情が……おそらく悲劇的な背景があることは、容易に想像できる。しかし、当の本人はいたって暢気なもので、荒事を含む『何でも屋』を営む傍ら、事あるごとに友人であるアリシアの愚痴に付き合って、唇を尖らせていたりするわけだ。
いや、唇を尖らせているだけならまだいい。ひとしきりアリシアの愚痴――この友人の言葉を借りれば「のろけ」らしいが――を聞いた後に、ひとたび唇を開いてしまえば、そこから始まるのは一方的な説教だ。
厳つい見かけによらず親しみやすい人柄ではあるが、説教臭いのがいけない。それも、どこまでも真っ当な指摘であるだけに、聞き流すのも困難を極める。
だから、青年が薄い色の唇を開きかけた時、すかさず青年の名前を呼ぶ。
「あのさあ、シスル」
Thの音から始まる名前は、遠い時代に失われた花の名である。本名ではないらしいが、花の特徴通りに鋭さを伴う響きは、何となく、この青年らしい。
シスルは「何だ」と氷だけになったグラスをからからやりながら首を傾げる。とりあえず、アリシアの話を聞く姿勢にはなったようだ。
「あたしの話はともかく、アンタはどうなの? アンタ自身ののろけ話は、聞いたことないんだけど」
「マネキン人形に毛が生えたような私に、その手の話題があると思うのか」
「そもそも毛は生えてないでしょ」
「そりゃ言えてる」
アリシアのもっともな指摘に、シスルは口の端を微かに歪めてみせた。人並みの表情筋を持たないシスルにとって、感情を表現するのは、目を隠していることもあり、かなり困難であるらしいことは、アリシアもよく知っている。
ただ、この青年に関しては、知らないことも多々あるのだ。例えば。
「別に、今どうこうってことじゃないけどさ。アンタも、誰かに恋い焦がれたりすることってあるのかな、って思っただけ。全く興味なさそうに見えるけど」
すると、シスルは口の端を歪めたまま、軽い口調で言ったものだ。
「失礼な。私だって、人並みに恋に恋してた時期はあったさ」
「え、本当に?」
正直に言えば、この青年が恋しているところなんて、全く想像できなかった。同性にも異性にも等しい態度で接するシスルに、異性への恋愛感情が存在するとも思いづらい。確かに、女性に対しては、からかい混じりの口説き文句を混ぜる悪癖もあるが、それは絶対に、この青年の本気ではないことも知っている。
だが、必要に迫られない限り、嘘をついたり誤魔化したりするような奴ではない。それもまたわかっているだけに、ついつい身を乗り出してしまう。
「もちろん、ウィンに拾われる前の話だけどな。当時は随分浮かれてたもんだが、何もかもがいい思い出だ。忘れてはならない思い出だとも、思ってる」
「何それ、すごく気になるんだけど」
「聞いて面白いもんでもないぞ。当時、恋していた相手がいた、ってだけだ」
だけ、と言われても、気になるものは気になるのだ。この青年らしからぬ恋愛話、に対する下世話な好奇心ではあるが、その手の「好奇心」がなければ三流紙の新聞記者なんてやっていられない。
それに、恋愛などという要素を横に置いても、シスルが今のかたちになる前の話は、アリシアもほとんど聞いたことがなかった。シスル自身がその話を避けていたというよりは、アリシアやシスルの周囲が、あえて詮索しないよう努めていたからだ。それが深い傷である可能性がある以上、そこに指を突っ込むような真似は避けるべきだとも、思っていたから。
しかし、シスルから話してくれるというなら、是非、聞いてみたい。
じっと、話の続きを促すように見つめていると、最初は唇を閉じたまま腕を組んでいたシスルも、ようやく観念したように言葉を紡ぎ始めた。
「今でも、よく思い出す。人形のように綺麗な顔と、鮮やかに燃える瞳をしていて。全体を見るなら、研ぎ澄まされた黒曜の刃を思わせる人だった」
やけに詩的な表現を使うのは、この友人の癖でもある。それでいて、変に臭くならないところが、なんとも不思議なところではあった。
「その印象通りに、不器用ではあったけれど、とても真っ直ぐで透明な人だった。色んなことがあって、私も相当酷いことをしたよ。けれど、決して目を逸らさずに、私のことを見ていてくれた、人だった。その毅然としたところに憧れたし、この人のためなら何をしてもいいって、本気で思ったもんだ」
「その人は……」
「死んだよ。だから『思い出』だ」
あっさりと。全く悲壮さも感じさせない口振りで、シスルは言い切った。アリシアは呆然としてしまったが、頭の片隅では納得もしていた。自分、を形作るものを全て失ってきたであろうシスルにとって、それもまた失ったものの一つだったのだろうと、聞いたその時からほとんど確信していたから。
「以来、恋はしてないな。……いや、二度とできないかもしれないとも思うよ」
「どうして?」
「このかたちになってから、自分と他人の間に、どうしても越えられない壁ができたような、そんな気がするんだ。例えば」
グラスをテーブルの上に置いたシスルは、そっとアリシアの手を取る。騎士が姫の手を取るかのような恭しさで。とはいえ、芝居がかった所作もまた、この友人にはよくあることで、アリシアは恥ずかしさを覚えることもなく、ただただシスルを見据えていた。
手袋を嵌めた両手でアリシアの手を包み込んで。シスルは、囁いた。
「こうやってアンタの手を取っても、私はアンタの手の温もりを、柔らかさを、直接は感じることができない。それは『情報』として脳味噌に与えられるだけで、『実感』とは程遠い」
その言葉の意味を理解するまでには、数秒の時間を要した。そして、それがアリシアには本当の意味で「理解」できない感覚であることを、知った。
どれだけ人に似せても、人にはなりきれない人形の体。見た目だけならば人に混ざっても機巧とは思えない精巧さではあるが、果たして、その体から見つめる世界はどのような色をしているのだろう。
「私はな、アリシア。私一人が常に世界から隔絶されているような気がするんだ。こうやって、触れ合っている時ですら。きっと、誰かに抱きしめられている時ですら。口付けをしている時ですら。そんな状態で、燃えるような、足元がぐらぐら揺れるような、喉が渇いて、それでいて全てが満たされたような。そういう『恋』の感覚は、二度と味わえないんじゃないか、って思うのさ」
こういうのを、絶対の孤独っていうのかな、と。
シスルは冗談めかして言ったけれど。
アリシアは、ただただ黙っていることしかできなかった。
何が言えるというのか、想像を絶する場所に、ただ一人で立つこの友人に。
しかし、露骨に落ち込むアリシアに反して、シスルはけろっとしたもので、アリシアの手を離して大げさに肩を竦めてみせる。
「ま、そんな深刻な顔しないでくれ。この体だってそう悪いもんじゃないし、もしかしたらいつかまた恋に恋する日が来るかもしれないさ。恋ってのは、『する』ものじゃなくて『落ちる』もんだしな」
あまりにあっさりとした物言いに、今度はアリシアが呆れる番だった。
「アンタって、本当に、ポジティブよねー……」
「それだけが取り柄だからな。ま、せいぜいアンタののろけ話でも聞いて、恋の研究でもさせてもらうとしますよ」
「だから、あたしのは別にのろけってわけじゃ」
「あーはいはい、おあついことでなによりだー」
「このハゲ……!」
拳を握って立ち上がるアリシアに対し、今度こそシスルはけらけらと声を上げて笑った。その透明感のある声は、小さな子供の笑い声を思わせるもの。
本当に、変な友達ができてしまったものだ。アリシアは肩の力を抜いて、深々と溜息をつかずにはいられなかった。
読上
イリス
――ずっと、ここにいてね、イリス。
ゆるり、伸ばされた細い腕が、このかりそめの身体を抱きしめる。
その温もりを、今も、忘れられずにいる。
* * *
闇の中に溶け出していた自我がゆるゆると収束する。
目を覚ませ、という声なき声に従い、一つ、また一つ、元の形に組み立てられていくのを感じる。過去、積み重ねてきた記憶を一つずつ確かめながら、私は「私」を取り戻していく。
やがて、眠りの闇の中から全てを取り戻したのを確かめて――私は、目を開く。
その瞬間に目に入ったのは、小さな部屋の壁と天井一面に張り巡らされた、目が大きすぎる女の絵。そのどれもが目に眩しい極彩色の髪と目を持ち、扇情的な仕草と服装、表情でこちらを見下ろしている。少し視線を下ろすと、硝子の箱に入った、人の姿をそのまま小さくしたような人形が、やはり艶めかしい肢体をくねらせ、巨大な瞳でこちらをじっと見つめている。
何だ、ここは。
唖然としていると、扉の開く音と共に、鋭い声が聞こえた。
「そこに、誰かいるのです?」
はっとしてそちらを振り向くと、そこにいたのは――奇妙な眼鏡をかけ、統治機関《鳥の塔》の軍服を纏った長身痩躯の青年だった。青年は、明らかな警戒を整った面に張り付かせていたが、私の顔を見た瞬間に、警戒の表情は絶望に変わった。
「あ、え、ああああっ」
「……どうした」
青年は、じり、と一歩下がり、ほとんど泣きそうな顔で両手をぶんぶん振る。
「み、見ないで! こんな、こんなもの、見知らぬおねーさんに見られたと思ったら僕、もうお婿に行けない!」
「こんなもの? この、絵と人形のことか? よくできているとは思うが、目が大きすぎるな」
「みなまで言うなっ! ど、どなたかわからないけど、早くここから出て……」
言いかけたところで、どたどたと足音を立てて、同じく軍服の男が部屋を覗き込んできた。わあわあ喚いている青年よりもいくらか年上に見えたが、意外にも騒ぐ青年に向かって「隊長」と呼びかけた。
「隊長、どうしたんすか?」
「うわああん、ヤスううう、知らないおねーさんが僕の部屋にいるんだあああ」
「はっはっは、ガーランド隊長に限ってそんなことはありえな……いるー!」
……これは、どうすればいいのだろう。
我を忘れて騒ぎ続ける眼鏡の青年と、そんな青年を何とかなだめようと試みる推定部下。そんな二人を途方に暮れて眺めていると、推定部下の男が初めてこちらをまともに見て、言った。
「あーっと、綺麗なお嬢さん、俺らこう見えて軍のお巡りなんだけど、ちょっとお話を聞かせてもらっていいかな」
お巡り、が治安を守ることを職務にする人間であることは、過去の知識から判断できる。つまり、話を聞く、というのは人間社会で言うところの「取調べ」というやつだろう。
正直に言えば、人間の法を前にして、私の存在とここにいた理由をきちんと説明できるかどうかは怪しかったが――。
「……ああ。私も、落ち着いて、話がしたいと思っていたところだ」
まずは、今のこの状況を収拾できさえすればいい。そう思うことにした。
* * *
「先ほどは、見苦しいものをお見せして申し訳ありません。どうか、あの部屋のことは忘れてください。お願いします」
「……あ、ああ」
取調べをするための場所に移動し――どうやらこの建物そのものが、治安維持に関係するある種の施設らしい――必要ないと言う私の言葉を華麗に無視して茶と茶菓子を用意した青年は、私の正面に座って細長い指を組んだ。先ほどのうろたえようが嘘のような、落ち着き払った態度。
だが、背後に控える部下が、今にも吹き出しそうな顔をしているのは見逃さなかった。
「さて、あなたのことをお尋ねする前に、まずは自己紹介を。私はヒース・ガーランドと申します。ヒースがファースト・ネームですが、ファミリー・ネームで呼んでいただければと思います」
「……ガーランド」
花冠、を意味する言葉だ。ヒース、という名前もある種の花を示す。
花。この世界から失われて久しいもの。私の長すぎる記憶の片隅に揺れる、鮮やかなもの。
「はい、ガーランドです。で、こちらが部下のヤス。我々は中央隔壁外周治安維持部隊といいまして、不肖ながら私が隊長を勤めさせていただいておりますが……ご存知ない、でしょうか」
「外周治安維持部隊の存在は知っていたが、実際にお目にかかるのは始めてだな」
「なるほど。では、これよりお見知りおきを」
青年改めガーランドは、どこまでも人懐こそうな笑みを浮かべている。本当に、さっき見たあれは何だったのだろう、と思うほどに。ただ、よくわからない形をした眼鏡で目元が覆われているから、本当に笑っているのかどうかはわからなかったが。
「さて、あなたについてお伺いしてもよろしいでしょうか。あなたは何者なのか、何故、鍵のかかっていたはずの、私の自室にいたのか」
それは、聞かれてしかるべき問いだ。
にわかに信じてもらえるとは思えなかったが、それでも、聞かれたからには正しく答える義務がある。私は腕を組み、己の定義を言葉にする。
「私は、指輪の精霊だ」
「……せ、精霊?」
当然ながら、ガーランドは突拍子の無い声を上げた。背後のヤスも、呆れた顔を浮かべている。私と初めて出会った人間は、誰もがこういう表情をするものだ。
「どうして、隊長に関わる女の子って、いつもことごとく斜め上なんすかね……」
「ヤスは黙っててください」
ガーランドは、部下の呟きを一言で退け、私の顔を真っ直ぐに見つめてくる。と言っても、やはりその視線は濃い色のついた眼鏡のレンズに遮られて、こちらから見通すことはできなかったけれど。
それ以上何も言わなかったからには、私の言葉を待っているのだろう。私は、軽く咳払いをして、言葉を続ける。
「貴殿は、指輪を持っているはずだ」
「ああ――これ、ですか? この前、拾ったものですが」
ガーランドは、戸惑いつつも、胸ポケットから指輪を取り出す。
間違いない。白金に、虹色のきらめきを宿した石がはめ込まれた指輪。最初の主が、「私」という自我を創り、強大な力と共に埋め込んだ指輪。
「そう、それが私のよりしろだ。私は、それを持つ者の願いを一つだけ、叶える義務とその能力を持つ。故に、私は今の所持者である貴殿の部屋に導かれた。そういうことだ」
ガーランドはかくりと首を傾げる。さっぱりわかっていない、という顔だ。もちろん、こんな説明で納得してくれる所持者など、今まで一人もいなかった。まずは一度、私の力を見せてやるべきだろうか、と思いかけたところでガーランドが口を開いた。
「ええと……千夜一夜物語に登場する、指輪やランプの魔人のようなものでしょうか」
この反応は、正直に言えば、意外だった。
千夜一夜物語。随分旧い書物を知っているものだ。世界が崩壊して後、旧時代の知識を持つ人間は一握りになってしまったというのに。けれど、それを知っているというならば、説明は格段に楽になる。
「そう考えてもらって結構だ。もっとも、あれほど絶対的な力を振るえるわけではないが、できうる限り、貴殿の望みを聞き届けよう」
「と、突然言われても、困っちゃいますねえ……」
どうしましょう、とガーランドはヤスを見上げ、ヤスも「俺に聞かないでください」と肩を竦める。ヤスの顔には半信半疑どころか完全に私の言葉を疑っている、という表情がありありと表れていたが、不思議なことに、ガーランドには、私の言葉を疑っている様子がほとんど見えない。
まあ、信じてもらえようともらえなかろうと、私には関係ない。私は私が生み出した最初の主の命令に従うだけ。私、という存在の定義に従うだけなのだ。
「とにかく、貴殿が望みを見つけるまで、私はここにいることになる。所有者の望みを叶えない限り、次の所有者のもとに渡ることもできないと定められているからな」
「え、えええええっ!? そ、そんなっ」
「……何か、問題があるだろうか」
「う、うち、ほら男所帯ですし! あなたのような麗しい女性が、色々と、こう」
「心配は無用だ。私は食事も睡眠も必要はないし、貴殿が望めば、姿を消すこともできる。何も問題は無いだろう。そう、貴殿の部屋の片隅を貸してくれればそれでいい」
「それだけは やめて ください」
それだけは、ダメなのか。この青年の考えることは、よくわからない。
「それが嫌なのであれば、貴殿の望みを言えばいい。そうすることで、私は再度の眠りにつき、貴殿は指輪を手放すことができる」
うー、とガーランドは頭を抱えてしばし悩んでいたが、やがて顔を上げて言った。
「すみません、すぐには思いつきそうにありません……」
「そうか。ならば、しばし貴殿につき従おう」
どうしよう、と助けを求めるようにガーランドはヤスを見るが、ヤスは肩を竦めるだけ。この二人は、本当に上司と部下という関係性なのだろうか。見ていてもさっぱりわからない。
ガーランドはおろおろと他に助けを求めようとしていたようだったが、他の隊員たちの姿は視界の中には見えない。おそらく、見回りに出払っているのだろう。ここ中央隔壁……通称『裾の町』の外周は、《鳥の塔》の直接的な管理の外にある。故に、彼ら治安維持部隊が必要とされる事件も多いのだろう。
そう、以前の主が巻き込まれた、事件のような――。
「そうだ、あなたのお名前を、まだ聞いていませんでした」
一瞬、過去の記憶に絡め取られそうになった私の意識を、ガーランドの声が引き上げた。私は軽く瞬きをして、新たな所有者が現れた時に必ず言うことになる台詞を放つ。
「名前は、いつも所持者が決めるものだ。好きに呼べ」
「こ、困りましたね……私、ネーミングセンス皆無なんですよ。あ、それじゃあ」
ぽん、と手を打って、ガーランドはとびきりの笑顔と共に問うてきた。
「以前の持ち主には、どう呼ばれていたのです?」
刹那、頭の中に響く、懐かしい声。
身体を抱きしめる、腕の温かさ。
胸の中にこみ上げてくる熱い感情を押し殺して、その名前を、言葉にする。
「イリス」
――君、虹みたいな瞳をしてるんだね。
「イリス、と、呼ばれていた」
「素敵な名前です。虹の女神の名前でしたよね。それでは、私もイリスと呼ばせていただきましょう。よろしく、イリス」
イリス。その声の優しさが、どうしても、かつての主と重なって聞こえて。私は、そっと胸を押さえた。新たな主には、気づかれないように。
* * *
「イリス」
「イリス?」
「君の名前だよ。君の瞳の色から取ったんだ、気に入ってくれるといいけど」
私が小さく頷くと、主はにっこりと笑った。その笑みに、本来人並みの心を持っていないはずの私の胸にも、ほのかに輝く何かが宿る。
「それでね、僕の望みだけど……」
そっと、細い指先でこの手を包む。血の通わない、温かくもないはずの私の手を、いとおしそうに撫でて。主は囁くように、言ったのだ。
「ずっと、僕のそばにいて。本当に、それだけでいいんだ」
――そんなやり取りを、思い出す。
かつての主との、記憶。
もう、その望みは叶ったのだから、思い出す理由もないというのに。
叶った?
あれは、叶ったと言っていいのだろうか。私にはわからない。ただ、主の望みがもはや自分を縛ってはいないということだけは、確かだった。それは理解を超えた、精霊としての本能なのだと思う。
だから、今は新たな主とその望みにこの身を捧げるべきだ。そんな内側からの声を聞きながら、目を開く。すると、ちょうどガーランドが自室から顔を出したところだった。目は相変わらず奇妙な眼鏡で覆われていて表情が判じづらかったが、大きく口を開けて欠伸をした後、私が見ていたことに気づいたのか、慌てて笑みを浮かべてみせる。
「ふあ……っとと、おはようございます、イリス」
「あ、ああ、おはよう、ガーランド」
「どうしました、浮かない顔をしているようですが」
「いや、何でもない。貴殿は随分眠そうだな。きちんと眠れていないのか」
「あー、い、いえ、その……何というかー……ええと、あなたのような美しい女性と一つ屋根の下、って考えるだけで、ですねえ……」
耳まで赤くして、もごもごと、ほとんど聞き取れないような声でガーランドは言うが、言いたいことはわからないでもない。今までの経験を通して、男というものは得てして似たような反応を示すものだったから。
「つまり、劣情と倫理感の狭間で夜通し葛藤を繰り広げていた、ということだろうか」
「そ、そうはっきり言わないでいただきたいですねえ……」
「貴殿が望めば夜の相手くらいはするが。そのくらいは望みのうちにも入らんぞ」
「やめてください!」
突然飛び出した激しい拒絶の言葉に、ぎょっとして身を引くと、ガーランドは口を抑えて視線を斜め横に落とした。そして、再び聞き取りづらい喋り方に戻って言った。
「……す、すみません。しかし、そのようなことは、みだりに口に出すものではありませんよ」
「そうか。悪かった」
どうも、私の言動で不愉快な思いをさせてしまったようだ。この新たな主の思考は、まだ読めない。ガーランドはしばし沈黙してこちらの様子を窺っていたようだが、瞬きの間に、表情を明るいものに切り替えて言った。
「それより、朝食はいかがですか? 食事は必要ないということでしたが、食べられない、というわけではありませんよね」
「ああ。必要ないだけで、可能ではある」
「よかった。昨日はばたばたしてしまって、うちの隊員にあなたを紹介できませんでしたから。折角ですから、食事の場で皆さんに紹介しようかな、と思いまして……ってうおおおおい!?」
突然叫びだしたガーランドに驚いて振り向くと、いつの間にか、廊下の辺りに黒い軍服の男たちが積み重なってこちらの様子を窺っていた。ぼそぼそと呟く声が、こちらまで漏れ聞こえてくる。
「隊長が女を連れて来たって、ヤスの法螺じゃなかったんか……」
「すっげえ美人じゃねえか。隊長のくせに」
「まあ、隊長も見た目だけは美形だからな。残念だけど」
「はあはあ、つやつや黒髪はあはあ」
「お前それ、ガーランド隊長が来た時にも言ってたよな」
「ちょっとそこ、聞き捨てならないですよ。男はノーサンキューだっていつも言ってるじゃないですか」
ガーランドはほとんど蒼白になって部下に向き直る。部下たちはにやにやと笑いながら囃し立てる。そのたびにガーランドが何かを言い返すが、さっぱり聞き届けてはもらえない。とはいえ、ガーランドも本気で憤っているわけではなく……これが、彼らの「普段どおり」のやり取りなのだというのは、その口元に浮かんだ笑みから察する。
この賑やかさは、新鮮だ。今までも、人を従えていた主はいた。けれど、他愛のない、じゃれあいのような言葉を交わせる仲間に囲まれた主を持った記憶がない。騒々しい、けれど、決して不快ではない騒がしさに囲まれて。
ふと、いつも一人だった、かつての主の小さな背中を思い出していた。
* * *
――かつて、世界は滅びた。
それは、子供だって知っている話だ。所有者の手に渡り、願いを叶えるまでの間しか自我を保つことのできない私ですら、その事実は事実として把握している。
世界が滅びた後、かろうじて生き延びた人類は、統治機関《鳥の塔》を中心に、枯れた大地の上で生きる術を模索している。過酷な気候と外敵を阻む、背の高い隔壁に囲まれたこの街は、その一つの形といえよう。
だが、《鳥の塔》の足元に広がる中央隔壁……裾の町は、決して理想の世界とは言いがたいものだった。塔の真下、「内周」と呼ばれる区画は崩壊以前と何ら変わらぬ暮らしを送る者たちで賑わっているが、それが外側の隔壁に近づくにつれ、荒廃の様相を呈してくる。光あるところには闇もある、その、誰もが眼を背ける闇の部分がこの「外周」地区であったといえた。
それ故に、外周治安維持部隊隊長ガーランドの仕事は、多忙を極めていた。
のんびりと、形だけの「取調べ」なんぞを行ってみせたものだから、それこそ普段の仕事も形だけだと思われたが――ガーランドとその部下たちは、詰め所で暇を持て余す私の存在も忘れてしまったかのように、外周のあちこちを飛び回る。
今日も、ガーランドは眼下に広がる蜘蛛の巣のような道を、通信機で部下に指示を飛ばしながら駆ける。街中の通信機関は発達しているのだから己で出向くこともないだろうに、若き隊長は必ず己の足で事件の現場に赴く。
ここ一週間見ていてわかったことだが、ガーランドは見かけによらず優秀な指揮官だった。普段はどこか頼りなげな態度を取るが、いざ任務に赴けばその印象は一変する。表面上の穏やかな物腰はそのままに、しかしどこまでも冷徹な狩人と化す。ガーランド自身が直接手を下すのではなく、部下と連携することによって、じわじわと獲物を追い詰めるのだ。
見下ろせば、まさしく今、治安維持部隊の隊員たちが、数人の男たちに手錠をかけるところだった。詳しい罪状はわからないが、男たちが凶器である銃を取り落としたところは、見えた。
ガーランドはそんな部下と男たちを、奇怪な眼鏡の下からじっと見据えていたようだったが――不意に、空を……否、私が腰掛ける建物の屋根を見上げた。
「イリス、そんなところで何をしているのです? 危ないですよ」
灰色の世界に響く、柔らかな声。穏やかな、どこまでも穏やかな表情で、ガーランドは微笑んでみせる。その表情を見るたびに、胸のどこかが微かに軋む。
それを隠すように、脚を大きく揺らして、眼下のガーランドにも届くように声を張る。
「問題ない。私には本来、肉体などないのだから」
「それでも……私が不安なのですよ、イリス」
――僕が不安になるんだよ、イリス。
同じようにこちらを見上げていた、小さな影を思い出して。私は軽く首を振って、建物から飛び降りた。ガーランドの「あっ」という声が聞こえた気もしたが、その時には、私の身体も意識も、遠くへと運ばれた後だった。
――まだ、ガーランドの望みは、わからないままだ。
* * *
「……ガーランド隊長の望み?」
ガーランドによりしろを拾われてから、二週間。
何だかんだと望みを先延ばしにされた挙句の、二週間。
ガーランドはどこまでも曖昧な態度を崩さないため、とりあえず、ガーランドをよく知るはずの部下たちに話を聞いてみることにした。
「彼女が欲しい、じゃねえの?」
「でも隊長のことだから、今はもう、あの状態で満足しちまってるんじゃねえのか」
「ああ……まあ、嫁には事欠かないっすからねえ、あの人」
嫁……嫁?
「ガーランドは結婚しているのか」
「違う違う」
けたけたと、部下の一人が笑う。
「イリスちゃん、あいつの部屋見たでしょ? あそこにいたのが、全部あいつの嫁」
ガーランドの部屋。実のことを言えば、初めて訪れて以来一度も足を踏み入れてはいない。姿を消して忍び込むことはわけないが、ガーランドが泣いて嫌がったのだから仕方ない。
ただ、異様な部屋だったことは鮮明に覚えている。やけに目の大きな女たちの絵や人形が、所狭しと並んでいたはずだ。
あれが、ガーランドの嫁?
「……現実に存在し得ない見た目をしていたが」
「あっはっは、相変わらず面白いな、イリスちゃんは」
部下たちは声をそろえて笑う。そんなに、私は奇妙なことを言っていただろうか。首を捻っていると、ガーランドの第一の部下であるヤスが、溜め息混じりに言う。
「あの人、昔っから現実の女の子より、漫画とかゲームの中に出てくる、架空の女の子にしか興味ないから」
「架空の女の子?」
「そ。どういう理由かわからないけど、どうも、現実の女の子が苦手みたいなんだよ、あの人」
「やたらもてるのに、もったいないよなー」
「ま、休みのたびに部屋に篭って、独りで怪しげな息を立ててるような男は……」
「ヤースゥー?」
地の底から響くような声に、背すじが泡立ち、ヤスに至っては椅子から飛び上がりかけた。見れば、階段からガーランドが顔を覗かせている。口元は笑顔だが、背中から立ちのぼる気配は、かなりおどろおどろしいものだ。
隊員たちは、ヤスを除き、何事もなかったかのように各々の会話に戻っている。さすがはガーランドの部下、素晴らしいチームワークだと思う。
私は、震え上がるヤスをよそにガーランドを見上げて。
「……ガーランドは、現実の嫁が欲しいのか」
「違います!」
きっぱりと、否定されてしまった。
ならば、何が望みだというのか。私をずっと、ここに置いておくことが望み、ということはあるまい。……そうでなければいい、という、身勝手な思いでしかないけれど。
ガーランドを見ていると、胸に痛みが走るのを抑えきれない。もう、忘れておかなければならない記憶が溢れるのを、とどめることができない。ガーランドの声が、仕草が、微笑みが、どうしても、どうしても私の記憶の扉を叩いて仕方ないのだ。
こんな気持ちのまま、ガーランドの側にいることは、辛い。
今の主であるガーランドにも、悪いではないか――。
そんなことをぐるぐる思っていると、ガーランドは、ふわりと微笑んで、言った。
「イリス。少しだけ――付き合っていただけませんか」
「何?」
「私の望みを、お伝えしようと思います」
* * *
外周の路地は灰色だ。
かつては鮮やかな色に塗装されていたのであろう屋根は、風雨にさらされ、どこもかしこも煤けた色に変わってしまっている。
そんな道に、二人分の足音が響く。前を歩くガーランドの背中は、意外と広かった。
「……イリス。色々考えたのですが」
ぽつり、と。ガーランドは私に背を向けたまま言った。
「私には、今すぐにでも叶えたい望みがある。けれど、それは、私自身で叶えないと意味がないことだって、思ってもいます」
それならば、何故、私を連れて来たのだろう。訝しみながらガーランドの背中を見つめていると、ガーランドはくつくつと笑い声を零しながら、言った。
「あと……私の望みは、きっとこう使うべきなんだろう、って思いましてね」
言って、外套のポケットから指輪を取り出す。私は少しだけ足を速めて、ガーランドの横に並んだ。雲に覆われた空の下では、指輪の輝きもくすんで見える。この空が晴れることは、おそらく、二度とないのだろうけれど。
ただ、私にはガーランドの言葉の意味がさっぱりわからなくて。ガーランドの横顔を見れば――ガーランドは、笑っていた。いつになく、無邪気な笑顔を口元に浮かべていた。
「ほら、つきましたよ」
そこは、外周に立ち並ぶどの建物とそう変わった様子もない、灰色の建物だった。ガーランドはそれ以上何も言わず、建物の中に足を踏み入れていく。その後を追うと、そこがどのような施設であるのかを知ることになった。
白衣の男と女が忙しそうに行きかい、苦しげな表情の人々を診て回っている。怪我、病気、もしくはそのどちらも。病院。そうだ、ここは病院だ。
だが、何故、ガーランドがここに? ガーランドが病を患っているようには見えない。それとも、私が……頭のおかしい人間だとでも、思っていたのだろうか。早足に歩いていくガーランドの背中に、名前をぶつけようとしたその時、ガーランドは一室の扉を開け放ち――。
「イリス!」
声が、飛び込んでくる。
記憶の扉を破る、声。
目を向ければ、ちいさな寝台の上に、見覚えのある姿があった。
ちいさな、ちいさな、私のかつての主が。満面の笑顔で、私を見つめていた。
言葉を失っていると、かつての主は寝台の側に近づいたガーランドの手を握って、ぶんぶんと振った。
「ありがとう、お巡りさん! 本当に、イリスを連れて来てくれたんだね!」
「ええ……それと、こちらもお返ししますね。もう、なくしてはダメですよ」
ガーランドは、私のよりしろを――かつての主の手に、そっと、握らせた。
一体、何が起こっているのか、わからない。
あの日、主は私の前から姿を消したはずだ。
もう、二度と会えない形で。
「……どういうことだ、ガーランド」
「どうもこうも、見たとおりですけど」
ガーランドは口元に笑みを浮かべたまま、しれっとした様子で答える。そんなガーランドの言葉を、かつての主が引き継ぐ。
「助けて、って言ったら、このお巡りさんが助けてくれたんだよ」
「本当は――もう少し、早く助けに行ければ、よかったのですが」
よく見れば、主の片腕は二の腕から先がなかった。あの日、私が最後に見た赤い記憶は、全てが間違っていたわけではなかったのだ。
そう、あの日、願いを叶える指輪の噂を聞きつけたらしい者たちが、突然主を襲った。偶然指輪を拾っただけの主は抵抗の余地もなく殺され、よりしろを奪われた。そう、思っていたのだ。ずっと。ずっと。何故、そのよりしろがガーランドに渡っているのかは、わからないままに。
けれど、事実はまるで違ったのだ。主はここで、確かに生きている。おそらく、私の意識が途絶えた後、すぐにガーランドたちが駆けつけたに違いなかった。
主は、にっとすきっ歯を見せて、ガーランドを見上げる。
「でもでも、お巡りさんのお陰で、またイリスに会えたんだもん。だから、ありがとう、お巡りさん」
「……そう言っていただけると、救われる思いですね」
ガーランドが微笑む。救われる、と言ったが、まさしくガーランドの表情は救済された者のそれだった。今まで、私が望みを叶えてきた誰よりも、安らかな顔をしているように、見えた。
だが――。
私は、妙な息苦しさを覚えながらも、ガーランドに問いかける。
「だが、まだ、貴殿の望みを聞いていない。それを手渡したところで、私の主は貴殿のままだ」
「そうですね。だから、私はあなたに望みます、イリス」
イリス。私の名を呼んだガーランドは、背筋を伸ばし、凛と響く声で宣言した。
「あなたがた二人が、永久に幸せであれ、と」
その瞬間に、私を縛っていた楔が、外れて。
* * *
気づけば、駆け出していた。
ガーランドの望みは叶えられた。本来、願いを叶えれば再び眠りにつくはずだが、ガーランドの望んだ内容は、私に眠ることを許さなかった。それは、私も望むところだ。望むところだが――!
「ガーランド!」
いつの間にか、病院から姿を消していたガーランドの背中に、今度こそ名前をぶつける。長い足を止めたガーランドは、静かな声で言った。
「……彼についていなくて、よいのですか?」
「どうして、望みを、こんなことに使ったんだ。それでは、貴殿には何の得もない」
望みを叶える機会を、自分以外の誰かのために使うが、本当にいるとは思っていなかった。ましてや、望みを叶える者である自分の幸福を望む者など、考えたこともなかったのだ。
だが、ガーランドはあくまで穏やかに、諭すように言葉を紡ぐ。
「こんなこと、なんて言わないでください。私は、心からあなたの幸せを望んだ。それだけです」
「だが……っ」
「なーんて、綺麗な話で済めばいいんですけどね」
私の言葉を遮って振り向いたガーランドは、微かに口の端を歪めた。皮肉げに。
「強いて言えば、代償行為、ですかね」
「代償行為?」
「あなたは、私が愛した女性にそっくりなのですよ」
――愛した、女性。
「……ええと、嫁?」
「違います」
違うのか。いや、あの部屋にいた誰とも似ていない自信はあるが。
「私にも、現実の女性を愛した時期はあったんですよ。でも、幸せにしたかったはずの人を無自覚に傷つけ続けた結果、こっぴどく振られてしまいましてね。以来、リアルの恋はしないって決めたんです。お互いいいことありませんもんね」
それでも、と。
ガーランドははにかむように笑うのだ。柔らかそうな黒髪をがしがしと掻きながら。
「あなたを見ているうちに、つい、幸せになってほしい、って思っちゃったんですよ。あの人にできなかったことを、今度こそ、叶えたいって思ったんです」
幸せに。
その言葉は、私の心の中に光を灯す。かつて、主から名前を与えられた時と同じ、温かな光だ。
「ま、大きなお世話かもしれませんけどね。誰かさんの代わりなんて、嫌でしょう?」
「いや」
私もまた、ガーランドに、かつての主の姿を重ねていた。その点ではガーランドと何も変わりはしない。それに、誰かの代わりでも何でも、ガーランドが今ここにいる我々の幸福を心から願ってくれたのは、事実。
だから、私は。
精一杯の微笑みをもって、ガーランドの望みに応える。
「それでも、嬉しい。ありがとう、ガーランド」
すると、ガーランドは、顔を赤くして視線を逸らした。どうして、そんな顔をするのだろう。さっぱり理解ができない。どうした、と顔を覗き込んでみるが、ガーランドは器用に首をあちこちに動かして私と視線を合わせようとしない。
……全く、変な奴だ。
しばしの間、無言の攻防が続いたが――顔を横に向けたまま、ガーランドが不意に問うてきた。
「そうだ、一つだけ聞かせてください。あの指輪についていた石って、何だったのです?」
「は?」
「ヤスが、意地悪して教えてくれないんですよ。ルビーやサファイアではない、ということは何となくわかるんですが」
あまりにも今更すぎる質問だ。ずっと、知らないままに指輪を持ち歩いていたのだろうか。不思議に思いながらも、聞かれたからには答える。
「オパールだ。私の目の色と同じ」
「蛋白石。遊色効果を持つ珪酸鉱物ですね。ああ、きっと、とても美しい色をしているのでしょうね。虹を閉じ込めた石、虹を閉じ込めた瞳」
その言葉に引っかかるものを感じ、ガーランドを見上げる。ガーランドの視線は相変わらず変な眼鏡に隠されていて、私からは彼がどこを見ているのか、正確に見て取ることができない。
できない、けれど。
私の考えを察したのか、ガーランドはこちらに顔を戻し、口元に人差し指を寄せた。言う必要はない、ということなのだろう。それは、私の想像が正しいということでもあった。
「イリス。本当の意味で、あなたにはぴったりの名前だった、というわけですね」
「ああ――きっとな」
私の答えにガーランドはくすりと笑い、そして手を振った。
「それでは、また。いずれ、どこかで会うこともあるでしょう」
「そうだな。では、また」
あまりにもあっさりとした別れの言葉を交わして、ガーランドは私に背を向けた。大きな背中が、ゆっくりと遠ざかっていくのを、ただただ、見送る。
ガーランドは、また、あの心地よい騒がしさの中に帰っていくのだろう。それが、彼の日常であったから。
そして、私も、新しい世界へと旅立っていく。今この瞬間から、誰かの望みに縛られることのない、私と主の二人で歩む日々が始まるのだ。
だが、また、いつか――そうだ、主が退院できたら、もう一度、あの詰め所に顔を出してはどうだろう。きっと、主も喜ぶに違いない。
虹を知らない青年の背中が雑踏の中に消えたのを見送って、私もまた、歩みだす。
主の下へ。
これから始まる、幸せな日々に向かって。
読上
薄闇に沈めば
この町は、今日も情報に満ちている。
ハイスクールからの帰り道、彼はふと顔を上げた。
別に何があったというわけでもなく、ただ自然に空を見上げる。正確には薄暗い空を貫くように聳える白磁の塔……裾の町、そして終末の国の中心である『鳥の塔』を。
塔の壁面には巨大なテレヴィジョンがいくつも取り付けられ、ある画面では無機質な壁を背景にキャスターが今日の出来事を早口に語る。違う画面では、けばけばしい色の光に包まれて、最近流行の芸人が下らない芸を披露している。もう一つの画面では……と、全てを見ていてはきりが無い。
天気予報でもうすぐ雨が降るということを確認し、足を早める。
この町に降る雨には、軽い毒性がある。別に浴びたところで人体に大きな影響を及ぼすことは無いというのが塔の発表だが、それでも気分のいいものではない。傘を家に忘れてきてしまっただけに、尚更だ。
道を折れ、光と音とで町のありとあらゆる情報を伝えるテレヴィジョンに背を向ける。国の象徴となる新たな《歌姫》候補を探している、という声を聞くともなしに聞きながら、家への道を急いだ。
歩きなれた道を行き、家の玄関が見えてきたところで、重たい色の空から落ちてきた灰色の雨がぽつりと地面に点を描く。鞄を傘代わりにして屋根の下に駆け込み、キィを照合して扉の内側に滑り込んだ。
扉の外よりも少しだけ濃さを増した薄闇が辺りを満たし、肌寒さに小さく震えた。
家の中に人の気配は無い。父も母も働きに出ているこの家ではいつものことだ。幼い頃は毎日のようにペットが欲しいと言っていたが、父も母も自分もいない昼間はペットが寂しい思いをするだろう、と諭されて止めたのであった。
外の世界を満たす騒がしさとは嘘のように静まり返った家の中で、彼はまず電気と暖房をつけて薄闇と肌寒さを追い払う。鞄を投げ出して楽な格好に着替え、それから今日の夕飯の支度を始める。とりあえず、冷蔵庫を覗き込んで今日作るものを決めた。明日にはスクールの帰りに色々と仕入れなければ、とも思いながら。
火を起こし、料理をしているうちに暖房も効いてきて部屋が暖まってきた。片手に鍋の取っ手を握ったまま部屋の壁にかけられたテレヴィジョンをつけると、何とも物騒なニュースが耳に入ってきた。
『……外周北四区に脱走した殺人犯が逃げ込んだという……無差別の犯行……被害者は……』
外周北四区、というとここからそう遠くは無いな、とぼんやり思う。とはいえ、ここは外周に近いといえ、塔の目が届く内周の一区画。内周と外周に明確な壁があるわけでもないけれど、治安はまるで違う。
それを差別だとか塔の怠慢だとか、考えてたことがなかったわけでもないけれど……そんな「社会」と「道徳」の授業は、エレメンタリスクールに通ったことのある誰もが経験することだ……正直、今でも実感の湧かない話ではある。
内周に生まれ育ち、内周でも中の中くらいのハイスクールに通い、家に帰ってきたら食事を作って、帰ってきた親と共に食事をして、寝て、起きてを繰り返す。それだけの毎日を繰り返す自分にとって、外周の出来事というのは見えない壁の向こうの話のようで……内周の連中が自分も含めてそんな意識だから内周と外周の関係が一向に改善しないのかもしれない、とは、思った。
思ったところで、結局何も変わらないのだけど。
人殺しの話、行方不明の話、まあいつものことだが何とも暗いニュースばかりだと思いながら、炒めものを皿の上に載せて、保存用のシートをかける。なるべくならば、親が帰ってきてから食べたい。遅くなるようならばいつも通り連絡が来るだろうし、とりあえず明日の予習でも済ませておこうと思って――
ふと気づけば、つけっ放しだったテレヴィジョンが午前零時を告げていた。テーブルに突っ伏して、眠ってしまっていた、らしい。目をこすって顔を上げると、シートがかかったままの皿がテーブルの上にある。
ぼんやりとした頭を振って部屋を見渡してみるけれど、全てが眠ってしまった時のままだ。父の気配も、母の姿も無い。メール・ボックスに自分宛の連絡が無いか問い合わせてみるも、あるのは行き着けの店からのダイレクト・メールだけだ。
……仕事が忙しいのだろうか?
両親にはよくあることで、彼らは仕事がいっぱいいっぱいになると三日間くらいは連絡を全くよこさずに帰ってこないことがある。流石にそのくらいになると心配になって彼から連絡をつけて全くもって無事であることを確認するのだが。
とりあえず、両親にメールだけ投げて、夕食にしては遅すぎる食事を採って。明日の授業が初っ端からテストであったことを思い出し、慌てて布団の中に潜った。ふつり、ふつりと浮かんでは消える、思考にも似た何かがあったような気がするが……目を閉じてしばらくすると、それも消えて意識は完全に闇の中に落ちていった。
翌朝、目覚めを告げるベルで目を覚ます。
そして、己の部屋を一歩出た瞬間に、まだ両親が帰ってきていないことを、理解した。投げたメールの返信もなく、両親からのコールもない。
家の中は十分に暖かいというのに、不意に襲ってきた肌寒さに小さく震えて……それを忘れようと朝食の準備を始める。いつもの通りに、何処までも、いつもの通りに。
そう、今日は、帰りに食材を調達しなくてはならなかったのだ。忘れないようにしなければ。忘れない、ように。
食事を採り、スクールに向かう準備を終えて。出掛けに、試しに父親に連絡を試みる。もしかすると仕事の邪魔かもしれないが、その時はその時だ。連絡先の一覧を広げて、コール。目を閉じて、コールの音を数えて……結局、父親がコールに応えることは無かった。母親にコールを試みても、全く同じ。
ひやり、と。背筋に何か冷たいものが走る。
いや、どうということはない。今日には何事も無かったかのように、帰ってくる。きっと、きっと。自分自身に言い聞かせて、扉を開けて駆け出した。何もかもを振り切るように走る彼を、白磁の塔にかかった無数の画面が見下ろしていた。
天気予報は、今日も夕方から雨だと言っていたけれど。
彼の耳に、そんな言葉は聞こえていなかった。
連絡先指定。目を閉じる。コール。
一回、二回、三回……二十回。
何度目だ、これで何度目になった。
苛立ちよりも、ただ、ただ、薄い闇のように纏わりつく冷たい感覚に震えながら、コールの音を数える。一度切って、また繋げようと試みて、それをどのくらい繰り返しただろう。
――あれから、一週間。一週間だ。
彼は自室の机の上に突っ伏した姿勢のまま、ただ、ただ、コールを続ける。
一週間の間、もちろん何もしなかったわけではない。スクールの担任に事情を話し、警察にも届けた。
そこで、初めて気づかされたことがある。
自分は、両親の仕事場の連絡先も、それどころか父と母がそれぞれ何処で何の仕事をしていたのかも知らなかったのだという、事実。
一体、今まで自分は何を見ていたというのだろう。何もかもをわかったつもりにしておいて、いつものことを当たり前だと思い込んでいた。だが、その「いつも」が崩れた瞬間に、自分がどれだけ曖昧な日常に立っていたのかを、思い知らされて。
警察は両親を捜索すると約束してくれたけれど、期待はほとんど出来そうになかった。話をしているうちに彼らの態度が投げやりなものに変わったことくらい、気づいていたから。行方不明者なんて、毎日のように出ているのだ……そう、話を聞いた警察官の一人がこぼしたのを、聞いた。
警察にとっては、両親など「不特定多数の行方不明者のうちの一人」でしかなかった。当然だ、今までの自分だったら、同じことを言っていただろうから。何もかもが新聞の文面の、もしくはテレヴィジョンの向こうの出来事。自分の手の届かない出来事など、架空と何も変わらない。変わらないからこそ、誰も気に留めない。
コール中もつけっぱなしの小型テレヴィジョンが、裾の町での失踪者のことをちらりと語ったような気がしたが、話はすぐに塔の『歌姫』の話に移ってしまった。
ああ、そうだ。誰も自分が本当に望んでいることを、教えてはくれない。自分以外の誰も、それを知りたいとも思っていないのだから――
その時、コールの音がふつりと止み、通信が確立した。
ばっと顔を上げて、その向こうにいる「誰か」に向かって声を投げかけようとして……
『――このナンバーは、存在しないものとなっております――』
耳の奥に響く機械的な声に、今度こそ、ただただ愕然とするしかなかった。
薄闇の中に溺れるような感覚と共に、彼は天井を仰ぐ。
そこに、求めるものはない。求めるものは、何処にも無くて……
それから、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎて……両親は、まだ、帰ってこない。
仕事へ向かう道すがら、彼はふと顔を上げた。
別に何があったというわけでもなく、ただ自然に空を見上げる。正確には薄暗い空を貫くように聳える白磁の塔……裾の町、そして終末の国の中心である『鳥の塔』を。
塔の壁面には巨大なテレヴィジョンがいくつも取り付けられ、ある画面では無機質な壁を背景にキャスターが今日の出来事を早口に語る。違う画面では、けばけばしい色の光に包まれて、最近流行の芸人が下らない芸を披露している。もう一つの画面では……と、全てを見ていてはきりが無い、とわかっていても、彼は道の真ん中に立ち止まってじっとテレヴィジョンを見つめ続ける。
垂れ流される絵と音、そのどれもが、彼の両親については一言も語らない。そんなもの、はじめから無かったのだといわんばかりに、ニュースキャスターは彼の知らない何処かの誰かの事件を語り続けるばかり。
そう、この町は今日も情報に満ちている。
けれど、本当に知りたい「真実」は何一つ与えてはくれない。
だから――
「どうしたの、辰織? 変なとこで立ち止まらないでよ」
声をかけられて、はっと我に返る。テレヴィジョンを見ていたはずの視界は、いつの間にか紫苑に染まっていた。紫苑色の双眸が、彼の瞳をまじまじと覗き込んでいたのだ。
彼は「うわっ」と思わず一歩下がってしまいながら、慌てて声を上げる。
「わ、悪い。ぼーっとしてた」
「もう、そんなんじゃ特ダネが逃げちゃうよ。早く、早く!」
腕を引かれて、彼はたたらを踏むように一歩を踏み出す。その手の中には新品の写真機。同じように写真機を携えた女は、金色の髪を靡かせて笑う。
……何もかも、何もかも。まだ、彼にはわからない。
だが、わからないままにしておくのは、もう終わりにしよう。真実は誰かに与えられるものではない、己で掴み取るものだ。
その思いを確かめて、写真機を強く、握り締める。
「ああ……今、行く」
――安島辰織、十八歳。
彼が語るべき「物語」が今、薄闇の中で、幕を開ける。
読上
画廊にて
町には、小さな画廊があった。
かつてこの町に暮らしていた画家ロイド・イングラムの絵を展示する、ただそれだけの目的で存在する画廊は、いつからか町の住人からも忘れ去られた場所となっていた。
煤けた入り口に目を留めることも無く、通りを行く人の波。それを、硝子の扉越しに画廊の中から見つめる女の姿があった。
椅子に深く腰掛けた女は受付の机に腕を乗せ、気だるげに扉の外を見ている。実際には、見ているというよりもただそちらに視線を向けているだけ、という方が正しかった。かつ、かつと時計が秒を刻む音が「時間」という概念を女に思い出させ……また、忘れてゆく。めまぐるしく動く通りの風景と対照的に、画廊の内側は時間すら滞っているように見えた。
無数の絵に囲まれた女は、ゆっくりと目蓋を伏せようとした、
その時、硝子の扉に一つの黒い影が映った。
女が重たい頭を上げて扉を見ると、きぃと微かな音を鳴らして扉が開き、乾いた外の空気と共に聞き覚えの無い声が流れ込んできた。
「すまない、こちらがロイド・イングラム氏の画廊でよろしいだろうか」
「ええ」
と応えて女は入ってきた影を見上げ、思わず戸惑いを顔に浮かべた。
それは、何とも奇妙な客人だった。禿頭に羽の刺青を刻んだ、いやに白い肌をした青年だ。顔の上半分を分厚いミラーシェードで覆い、ぴったりとした革の繋ぎの上に黒い外套を羽織るその出で立ちは、明らかに、通りを早足に行く町の人々とは一線を画した存在であることを意味している。
客人もすぐに女の戸惑いを察したのだろう、丁寧に一礼し、言った。
「突然の訪問申し訳ない。私はシスル、首都で諸々の依頼を請け負う仕事をしている」
首都――この国の全てを担う『塔』。その根元に存在する町を指す言葉だ。随分と離れた場所からやってきたことになる。そして、曖昧な表現をしてみせたが、要するにこのシスルという客人は依頼を受ければどのような汚れ仕事でもこなす、所謂『荒事屋』なのだろう。
刹那、脳裏に閃いた灰色の記憶に背筋が震えるが、客人に悟られぬよう、それ以上に自分自身で記憶に蓋をするために、無理やりに笑みを浮かべ、背筋を伸ばしてみせる。
「初めまして、私はメイア・エヴァンジェリスティ。この画廊を管理する者です。それで、こちらにはどのようなご用件で?」
ただ絵を見に来ただけではあるまい、と言外に告げれば、黒服の青年も小さく頷いて、携えていた四角い鞄を机の上に置く。
「イングラム氏の絵を、こちらに納めるために」
シスルの声は、メイアが思っていたよりもずっと穏やかで。メイアは少しだけほっとして、それから「普段通り」の対応をする。
「……なるほど、わかりました。確認させていただいてよろしいですか?」
「是非確認いただきたい」
シスルは鞄を開け、柔らかな布に包まれていたそれをメイアの前に示す。
それは、一枚の絵だった。
こぼれんばかりの星を湛えた闇夜に浮かぶ、三日月の船。地上から船に向かって伸びるのは、柔らかな弧を描く三日月とは対照的に、定規で引いたかの如き直線だけで構成された青白い梯子だ。桟橋かもしれない。
メイアは、この絵を知っていた。
この絵を描きながら、いつか月まで連れてくよ、と無邪気に笑っていたロイド・イングラムを、知っていた。
ぎゅっと、胸が締め付けられるような錯覚。それが錯覚ということはわかっているのに――
「ええ、確かに」
そっと、そっと。カンバスの縁に手を触れて。
「これは、あの人の……ロイドの絵です」
絵と密接に結びついた彼の記憶を、確かに、「思い出して」いた。
すぐにメイアは、シスルと名乗った客人を画廊の奥に招いた。わざわざ首都から来た客人を、ただ用件だけ済ませて帰すのは失礼に過ぎるというものだ。それに――何故、シスルが彼の絵を持ってきたのか、気になったということもある。
「どうぞ、その椅子に座ってくださいな。お茶とお菓子をご用意しますね」
「いや、気遣いには及ばない。それにしても、イングラム氏は素晴らしい画家だったんだな」
私には批評家のように絵の良し悪しがわかるわけではないが、と言い置きながら、椅子に腰掛けたシスルは眩しそうな表情で壁にかけられた絵を見渡して感嘆の息を付く。
「失われた空は、きっとこんな色をしていたのだろうな」
ロイド・イングラム。画家としての彼は、いつも空の絵を描いていた。世界が壊れたあの日から、二度と戻ってこない青い空と無限の星空の絵。かつて現実にそこにあったはずの幻想を、彼はその銀の瞳で見てきたかのように鮮やかに描き出していた。
メイアにとっては当たり前の光景だが、彼の絵を知らなかったであろうシスルには、とても新鮮に映ったかもしれない。ロイドの絵もそうだが、色とりどりの空に囲まれているという、この画廊という「世界」そのものが。
新たに画廊に加わることになる三日月の絵をシスルと自分から見える位置に置き、メイアもシスルと向かい合うように椅子に腰掛ける。そして、唇を開いた。
「もし、よろしければ。この絵を手に入れた経緯を教えてはいただけませんでしょうか」
シスルは「もちろん」とメイアに顔を戻した。ミラーシェードの奥の瞳がどのような色をしているかはメイアからはわからなかったが、初めて見た瞬間の恐怖に似た雰囲気はもはや感じられなかった。
「元々、この絵はイングラム氏が存命の頃、首都の或る金持ちが買い取ったものだとされているが、それに間違いは無いだろうか」
メイアは首肯する。ロイドは絵のことばかり考えてとにかく金に頓着しない、ある意味では芸術家らしい芸術家だった。だからこそ、ロイドの絵を評価し、人に売るのは幼馴染たるメイアの役目であった。
今となっては、それを後悔しないわけでもなかったけれど。
「その後、この絵は首都の好事家の間を転々としたようだ」
「転々と……?」
「ああ。この絵を手に入れた者は例外なく変死を遂げたということでな。それで、今の持ち主が恐れをなして私に返却を依頼した」
シスルはメイアの反応を見るように一旦言葉を止めたが、メイアは全く驚かなかった。それが全く不思議のことでないと、知っていたから。
「やはり、そういうことだと思っていました」
「心当たりがあるんだな」
「はい。彼の絵を買い取っていった人が奇妙な死に方をする、ということはこれまでもありましたから。きっと、皆、足場もないはずの空から落ちて死んでいたのでしょう?」
シスルはひゅっと息を飲んだ。それは、何よりも如実な肯定だった。
メイアは三日月の絵に視線を向ける。星空にかかる梯子、というモティーフは神と天使による救済にも似ている。きっと、この絵を求めた好事家たちも、存在するはずのない「救い」のイメージに縋っていたのかもしれない。そんなことを思いながら、目を細める。
「私、あの人の描く絵が好きで、ずっとあの人の側にいました。だから、何もかも、何もかも知っているんです。あの人の絵には魔法がかかっていることも」
「……魔法?」
表情こそ動かさなかったが、シスルの声には訝しげな響きが混ざった。崩壊以前より超常的な能力が「超常」から「常」なるものに近づきはしたが、それでも一般的ではないのは確かなのだから、当然といえば当然の反応だ。
メイアはその疑いも全て受け止めた上で、淡々と言葉を紡ぐ。
「ええ。ロイド・イングラムは魔法使いでした。生まれた時から見えないものが見えて、言葉が無くとも人の心を理解して、誰かの望みに応えて奇跡を使う。そういう、魔法使いでした」
シスルは無言で先を促す。その表情に驚きも疑いも浮かばぬままであったことがむしろメイアにとって意外ですらあった。
「だから、当然あの人の絵には魔法が宿りました。あの光を遮る分厚い雲を突き抜けて、色とりどりの空を見るという子供のような夢が、そのまま魔法として絵に宿っているのです」
「空を飛ぶ魔法、か」
「はい。けれど、魔法というのは儚いものです。ロイドは自分の力を信じていましたし、私も彼が魔法使いであることを疑っていませんでしたから、間違いはありませんでした。
しかし、魔法を信じられない人に絵が渡ったら、どうなるでしょう。空を飛ぶ夢を見ているときに、それが本来叶うはずのない『夢』であると気づいてしまったら」
「……夢は覚める。天使の梯子は崩れ落ちる」
「そういうことです。もちろん、信じる信じないはあなたの自由ですけどね」
そうだろうな、と言ってシスルは立ち上がる。メイアは慌てて立ち上がる。こんなおかしな話をして、気分を損ねられたのかという不安があった。
「すみません、おかしな話をして。もう、行ってしまわれるのですか?」
「用は済んだからな。それに、ここにいると」
言葉を切って、黒衣の客人はふと口の端を笑みにした。それは、シスルが初めて見せる笑みであり……メイアが思っていたよりもずっとずっと、優しいもので。
「私まで、飛ばされてしまいそうだ」
笑みと共に放たれたその言葉だけが、妙に、メイアの記憶に焼きついた。
かくして客人は去り、またメイア一人だけの時間が訪れる。
一つ「彼の記憶」を増やした空間に残された女は、黒衣の客人が去っていった硝子の扉を見つめて、小さく息をつく。
変わらない時間、変わらない自分。無邪気に笑う魔法使いが消えてから、何一つ変わることのない何もかもが、ここにある。そして、これからも変わることがないだろう。ここの主であった、魔法使いが望んだように。
何人もの人間を「飛ばした」夜空の絵に指先で触れて。
「いっそ、私も連れて行ってくれればよかったのに――ねえ、ロイド」
呟く声は、もはや誰にも、届かない。
「魔法……か」
画廊を後にした禿頭の青年は、口の中で呟いた。
建物と建物の間に、まるで蜃気楼のように存在した空の画廊。目も眩むような光景と、その只中に生きていた女の姿を思い出し、外套のポケットの中から一枚の紙切れを取り出す。
「あながち、嘘ではないのかもな」
紙切れ、否、古い新聞の切り抜きに書かれていたのは、この町でかつて起こった小さな事件。一人の絵描きと絵描きの恋人が突如現れた灰色の服の暴漢に殺されたという「事実」。
絵描きの名はロイド・イングラム、恋人の名はメイア・エヴァンジェリスティ。
果たして、最後の最後に、想像の空を描く魔法使いは何を願ったのか。三日月にかかる梯子のように、存在し得ないものを現実に描き出したのか。それが今もこの場所に残り続けているのか……
シスルは、一瞬前まで自分がいた場所を振り返る。画廊の入り口は、何も語らない。
「まあ、私の知ったことではないか」
失われた花の名を持つ青年は、仕事を終えれば町を去るのみだ。
いつも、そうしているように。
――町には、小さな画廊がある。誰にも気づかれないままに、今も、そこに。
読上
或る種子を巡る断章
> Fragment: SD0361-R, Open
「おはよう、ニコラ!」
明るい声と共にモニタを覗き込んでくる、片方だけの花の色。
言葉を失うニコラに対し、モニタの向こうの少女は大きな右の瞳でじっとニコラを見つめ続ける。期待に満ちた顔で、ニコラの挨拶を待っているのだ。だから、ニコラはおずおずと小さな唇を開いて、掠れて消えてしまいそうな声で言う。
「お、おはようございます」
そんな気弱な響きの言葉でも、挨拶を返してくれたことだけで満足したのだろう、満面の笑みを浮かべた少女は一気にまくし立てる。
「今日は何のお話をする? 竜巻に飛ばされて魔法の国に辿り着いたドロシーのお話はどうかしら?」
「その話は、前にも聞いたと思います、よ」
「あれ、そうだっけ。それじゃあ……時計を持った兎を追いかけて、不思議の国に迷い込んじゃったアリスのお話は?」
「それは、聞いたことない、です」
言いながら、ニコラはちらりと横のモニタに視線を走らせる。そちらのモニタからニコラを見つめているのは、壮年の白衣の男……ニコラの上司、主任ミシェル・ロードだ。ニコラは主任から「彼女」に対する監視を任されてはいたが、自分は監視者、相手は被検体。世間話に応じることまで求められているわけではないことは明らかだ。
それでも、ロード博士は穏やかな笑みを浮かべて頷いてみせた。このまま続けて構わない、という意味だ。
ニコラは安堵して、少女の映るモニタに再び向き直る。
「その話、聞かせてください」
「うん、わかった! えっとね……」
少女の唇から紡ぎ出されるのは、遠い過去に語られ、今もなお一部の人の間には語り継がれている空想の物語。それらは塔の上層部が「荒唐無稽な作り語り」として笑い飛ばすような話ばかりではあったけれど、ニコラはいつも、自然と少女の物語に引き込まれてしまう。
物語を語る少女の片方の目はいつもきらきらと輝いていて、何処にも無いはずの遠い世界を真っ直ぐに見つめている。そして、少女の言葉を聞いているうちに自分の目にも彼女が見ている世界が見えてくるのだ。鮮やかで、華やかで、色彩に満ちた世界が。
どうして、どうして。
ニコラは胸を締め付けられるような感覚に、そっと指を胸元に当てる。
――あなたの心は、広い世界を見ているのだろう。
少女に与えられたのは、小さな白い部屋。そこから出ることは許されず、決まった時間だけ、一部の研究員が立ち入ることが許されているだけで、それ以外の人との接触は全てモニタを介して行われる。ニコラも、実際に彼女と「会う」ことは許されてはいない。
一挙一動の全てを監視され、自由を著しく制限された生活。その中にあって、少女は今日も生き生きと笑って遠い世界の物語を語る。その姿が、ニコラにとってはひどく、眩しいものに映った。
「……ニコラ?」
アリスがニヤニヤ笑いのチェシャ猫と出会ったところで、言葉を切った少女がモニタを覗く。ニコラははっと我に返って「はい」と小さな声で答える。少女は笑顔ながらもちょっとだけしゅんとしたようだった。
「また、そんな顔してる。そんな寂しそうな顔されたら、お姉さん、傷ついちゃうな」
少女は自分のことを「お姉さん」という。実際に、モニタの向こうの少女はニコラよりも一つか二つは年上のはずだ、とニコラも思っている。詳しいデータは主任や他の上司が持っているため、ニコラは彼女につけられた識別番号くらいしか知らなかったけれど。
けれど、「寂しそう」というのは、どういう意味だろう。
ニコラは、自分がそんな顔をした覚えが無かったため、自分の頬に触れてみる。確かに普段からどんくさくおどおどした態度を取るニコラは、同年代の研究員たちにも馬鹿にされることが多い。何をそんなに怯えているんだ、と言われることも一度や二度ではなかったはずだ。
けれど、「寂しそう」という言葉は、この少女しか言わない。
どうして、どうして。
思うけれど、それは上手く言葉にならなくて。ただ、か細い声で「ごめんなさい」と呟いて俯くことしか出来なかった。少女は「あう、そんなつもりじゃなかったの」と慌てて首を横に振った。
「ただね、ニコラの寂しいさんが、すこしでもいなくなればいいなって。そう思ったの」
言って、そっと歌いだす。
薔薇のしずく、子猫のひげ、ぴかぴかケトルにふわふわミトン――そんな歌詞で始まる歌は、少女のお気に入りの歌。ここに来た頃から、本を読みながらこの歌を口ずさむ少女を、ニコラはずっと見続けてきた。
少女は歌の一節を口ずさみ、ニコラを見て笑った。
「どうしてニコラがそんなに寂しいさんなのかはわからないけど。もし、辛いことがあるなら自分の好きなもの、お気に入りのものを考えるといいよ。ね、あなたのお気に入りは、なあに?」
問われて、ニコラは考えてみる。わたしの、お気に入り。考えてみても、なかなか思いつかない。いざそうやって言われてみると、何一つ意識に上ってこないというのがまた不思議だ。
俯いて考え込んでしまったニコラに、少女は「あはは」と笑いかける。
「そんな難しく考えなくていいのに。あ、そろそろ時間かな」
「あ……はい」
「それじゃ、今度、ニコラのお気に入りを聞かせてね。楽しみにしてるから」
少女がニコラと話をする時間は限られている。少女は名残惜しそうにしながらも、モニタの向こうで明るく手を振った。
「ばいばい、お話の続きはまた明日ね」
「はい、さよなら、です」
時間切れを伝えるベルの音、ぷつりと消えるモニタの画像。ニコラは呆然と椅子に腰掛けたまま、少女から問われた『自分の大好きなもの』が何なのか、考えるともなく考えていた。
そして、あの少女の一番好きなものは何なのだろうと、ふと、思った。
* * *
《種子》――それは、奇跡の力を持って生まれた子供。
旧い魔法使いバロック・スターゲイザーによる旧世界の崩壊の後に現れた彼らは、体の一部に鉱石にも似た組織を持ち、従来の科学では解明できない魔法のような力を操った。
彼らの持つ力が、この終末の国を救う切り札となるのではないか。塔の上層部はそう考え、終末の国のあちこちに散らばる《種子》の子供たちを集めて塔に保護している。
保護とはよく言ったものだ。ミシェル・ロードは悠然と椅子に腰掛け、暗い部屋の中に光を浴びせるいくつものモニタを見るともなしに眺める。
劣悪な環境下で生きる《種子》たちの命を守るため、というが、実際に塔に《種子》を招いて行っていることは過酷な人体実験だ。《種子》の奇跡はどのような仕組みで発現するのか。どのようにすれば《種子》の奇跡を引き出せるのか。強大でかつ自由に使用・制御することの出来ない力など、いつ爆発するかわからない爆弾のようなもの。その解明を急ぐのは当然とも言える、わけだが。
果たして、この研究にどれだけの意味があるのか。
ロードは一つのモニタに目を留め、口の端に笑みを浮かべる。モニタの向こうには無邪気に笑う白い少女がいて、その胸に留められたプレートには『SD0361-R』の文字がある。通称三十六番、研究者たちがつける《種子》の格付けの中では最下位、《種子》を持って生まれながら何一つ奇跡らしい奇跡を使ったことのない少女だった。
少女は、今日も自分の好きな物語を、まだ幼い研究員の少女……ニコラ・アトリーに語っていた。ニコラはモニタの向こうでまじまじと目を見開き、少女の話に聞き入っている。
「……ロード主任。よろしいのですか?」
三十六番の映るモニタを見つめていた若い白衣の女が、ロードを振り返って問うた。
「ニコラと《種子》がこれ以上近づけば、計画に支障が出るのでは……」
ロードは紫苑の瞳を細め、愉快そうに笑う。
「ニコラには何も出来ん。そして、三十六番にも」
何しろ、三十六番にはその力も意志も無い。男は笑いながら、思う。
彼女はどのような実験を行っても奇跡を示すことは無い。その三十六番がニコラに何か影響を及ぼせるとも思えない。
それ以上に、彼女はロードや他の研究者が危惧するような強い反発の意志を持たない。己の力をもって閉ざされた自分の世界を開こうとする意志も、自分を含めた何もかもを否定しようとする意志も。それが、彼女が塔に保護された他の《種子》と何よりも違うところだった。
彼女は全てを自らの役目と思い定めて、何もかもをありのままに受け入れる。受け入れてなお、彼女の心は凪いでいる――故に、ロードたちが進める計画には何一つ支障をきたすことはない。計画を推進する材料にもならないが。
「何もかも、問題にはならんさ。危惧すべきはニコラと三十六番ではない、《種子》全てに広がりつつある動きさ」
「どういう、ことですか?」
「《種子》たちが結託して塔を抜け出そうとしているという噂が流れていてな。その真偽を今確認しているところだが……まあ、完全なデマということはないはずだ」
そんなことが、と絶句する研究員の女に対し、ロードは声を上げて笑う。場違いなまでの軽やかな笑い声が狭い部屋に反射し、反転する。
そして、笑いながら、ロードは言い放った。
「さあ――もっと、もっと、私を楽しませてくれよ?」
* * *
三十六番は、鼻歌を歌いながら、童話の本を広げていた。
塔に来てから、部屋から出られず、過酷な実験を課せられる代わりに何でも好きなものが与えられた。三十六番は何はなくともまず本を求めた。空想の世界を描いた、素敵な本。本さえあれば、何処にいても別の世界へ旅立てる……彼女はそう信じていたから。
架空だからこその不思議でわくわくする世界へ足を踏み入れながら、彼女は頭の片隅で、いつも自分の話し相手になってくれる研究員の少女のことを思っていた。
ニコラ・アトリー。自分よりもずっと小さな女の子。それで塔の研究員をやっているくらいなのだから、きっとものすごい才能や頭脳を持って生まれて、塔に選ばれてここにいる子なのだろう。文字を読むのがやっとの辺境生まれの自分、《種子》としても落第な自分からすればそれこそお空の上の存在だ。
けれど、そのニコラの綺麗なオリーブ色の目はいつも悲しげで、寂しさの色を湛えている。何か大事なものを求めているのに、それが何なのかもわからないままの、迷子の子供の目。実際、ニコラはまだ子供なのだ。辺境に残してきたあの子達と同じ、小さな子供だ。
――会いたいな、と思う。
モニタ越しではなくて、きちんと、手と手が触れ合う距離で。そうしたら、あの子の寂しさを消してあげることは出来ないまでも、少しでも、変えてあげることは出来るかもしれないのに。
そんなことを思いながら、大好きな歌を口ずさんでいた、その時だった。
部屋の壁にはめ込まれているモニタが、ざっと砂嵐を映し出す。三十六番はぎょっとした。モニタがそのような挙動をしたことは、この部屋に来てから一度もなかったからだ。微かな緊張と共にモニタを見ていると、そこに映し出されたのは……三十六番の知らない、黒髪の綺麗な少女だった。三十六番と同じくらいの年齢だろうか、長い髪を綺麗に切りそろえ、怜悧な青い瞳でこちらをじっと見つめている。
「だ……誰?」
「あなた、SD0361-Rね」
ノイズ交じりの声で、少女は言う。三十六番はこくりと頷き、少女の次の言葉を待った。
「私は識別番号SD0201-R、シルヴィ・ルクレール。あなたに、協力を求めに来たの」
少女、シルヴィが告げたのは、《種子》を表す識別番号だ。ということは、この少女も自分と同じ《種子》なのか。三十六番は今まで他の《種子》を知らなかったため、まじまじとシルヴィを見つめてしまった。
だが、《種子》であるシルヴィが、何故自分の部屋に通信を繋げることが出来たのだろう。《種子》同士の接触は許されていない、はずだ。そんな三十六番の疑問をそっくりそのままシルヴィは言葉にして返す。
「力を使えば、通信を繋げることくらいわけないわ。もちろん、監視も誤魔化してあるから安心して」
「でも……協力って何のこと?」
「出るのよ、この塔を」
シルヴィはきっぱりと言い切り、鋭い視線で三十六番を射た。
「他の《種子》たちにも話は通してあるわ。《種子》の力を集めることさえ出来れば、この塔から抜け出すことくらいわけはない。もう、あんな苦しい実験に付き合う必要も無いのよ」
言われて、三十六番も日々行われる実験を思い出す。中には、言葉にすることもおぞましい実験もあった。それを思えば、塔を抜け出したいと思うシルヴィや他の《種子》たちの思いも当然といえよう。
それだけを、思えば。
「だから、あなたも一緒に――」
「ごめん、わたしは一緒に行けないよ」
シルヴィの言葉を遮って、三十六番は静かに言った。それを聞いた途端、シルヴィは青い目を見開いた。その表情はまぎれもなく「何故」を問うものだった。三十六番はそっと、薄い色の唇を開いて語りだす。
「わたし、《種子》としては落第だもの。一緒に行っても迷惑になるだけだよ。それに、わたしはここを離れたくない」
「まさか、塔の掲げたお題目を信じているの? わたしたちの力を国の復興のために使うだなんて、そんな夢物語……」
「いつか皆が本当に幸せになれるなら、それも素敵なお話だと思ってるんだけどね。でも、それだけじゃなくて……今、この瞬間、わたしがここにいることで助かっている、そういう子たちもいるの」
三十六番が、塔のこの部屋に入る前に。この部屋に入ってしまえば後戻りは出来ないから、ここであなたの願いを聞いておこう。そう、研究員の一人が言ったのだった。
そこで、三十六番が望んだことは……自分を育ててくれた辺境の孤児院に残されている、小さな子供たちが不自由しないように取り計らって欲しい、ということだった。
そして、彼らが今どうしているかを、出来る限りでいいから逐一教えて欲しい、と願った。
その願いは今のところ叶えられている。だが三十六番がここを出てしまえば、辺境の過酷な環境に生きる彼らがまともに生きていけるとは思えなかった。何しろ、働ける年齢の彼女が塔に来てしまった以上、あの場所に残されているのは、本当に小さな子供たちだけだったのだから。
それを思えば、非道な実験などどうということはない。辺境で生きるか死ぬかの経験を潜り抜けてきたのだ、塔での生活はむしろ気が楽ですらある。
それに、今、ここを出れば――
「きっと、寂しがる子もいると、思うから」
優しいオリーブの瞳の少女が、本当に寂しいと思ってくれるかどうかは、わからなかったけれど……そうであってくれればいいなと、思う。
そんな三十六番の言葉を、シルヴィは「不可解だ」と切り捨てた。三十六番はにっこりと笑って応じる。
「不可解でいいよ。とにかく、わたしはここを出ない。けど、シルヴィたちがここを抜け出すっていうなら、わたしに出来ることなら何でもしたいとも思ってるよ」
奇跡も使えない自分が出来る協力なんて、たかが知れているとは思うけれど。
付け加えて、三十六番はシルヴィを改めて片目で見つめた。シルヴィは微かな苛立ちの篭った表情で三十六番を見据えていたが、やがて小さく息をつき、納得したように頷いた。
「そう。あなたの考えはわかったわ。でも、私たちに協力はしてくれるのね」
「ええ、出来ることなら、何でも。わたしと同じ、それでわたしよりも素敵な力を持った《種子》の皆が選んだことだもん。出来れば、叶えてあげたいよ」
三十六番の言葉に、シルヴィは、微笑んだ。綺麗な人だとは思っていたけれど、微笑むと尚更綺麗だと三十六番は思わず見とれてしまう。
「ありがとう。あなたの気持ち、大切にするわ。それじゃあ、さよなら、三十六番」
「さようなら、シルヴィ」
三十六番が手を振った途端、モニタの電源が落ちて部屋は再び静寂に包まれる。三十六番は床にぺたりと座った姿勢のまま、再び本の世界へと戻って行った。
明日は不思議の国のアリスの続きから。その後は、何をお話しようか。
そんなことを、考えながら。
* * *
翌日、塔上層で大規模な爆発事故が起こり、何人もの研究員や警備の兵が死んだ。
事故として処理されはしたが、それが《種子》の手による「事件」であることはすぐに計画を推進する研究員全て……そこにはもちろんニコラも含まれる……の知るところとなった。
その事件を引き起こしたのは、SD0361-R。あの、三十六番だった。
彼女は他の《種子》と秘密裏に連絡を取っていて、彼女らと共に塔を脱出しようとしたところを研究員に発見され、ここに来て初めて《種子》の能力を開花させて彼らを殺害した。ただ《種子》の中で最も能力の扱いを苦手としていた彼女自身もまた、己の力に飲まれる形で命を落としたという。
主任ミシェル・ロードはこの事件の責任を取る形で《種子》の研究から外された。また、事前にそのことに気づけなかったニコラを含む三十六番の監視者たちも謹慎処分を受けることとなった。
ニコラは、自らに与えられている小さな部屋のベッドに腰掛け、三十六番のことを思った。被検体という身でありながら、監視者であるニコラに明るく挨拶の声を投げかけてきた彼女。小鳥のように歌を歌い続けていた彼女。ニコラの知らない不思議な話を教えてくれた彼女。
ニコラの記憶の中で、彼女はいつも、笑っていた。
その彼女が塔に反逆する形で死んだ、その理由をニコラは知らない。最後に見た彼女はいつも通りにニコラを笑顔で迎えて、楽しい話を聞かせてくれて、いつも通りに別れた、それだけだったから。
何もかも、何もかもわからないままにニコラは天井と壁の境目を見るともなしに見つめる。
そうしていると、彼女の歌が聞こえる気がした。自分の大好きなものを並べた、不思議な歌詞の歌。かつてこの歌が一番好きだと言っていた彼女は、綺麗な声でニコラに問う。
『あなたのお気に入りは、なあに?』
あの時は答えられなかったけれど、今なら答えられる気がした。わたしのお気に入り、大好きなもの。脳裏に響く声に応えようと、唇を開きかけて。
――ああ、わたしは、彼女の名前も知らなかった。
そう思った途端に、涙が零れた。
溢れて、溢れて、止まらなかった。
* * *
この素晴らしい日をどう言葉にすればよいだろう。
どんな言葉を並べても、上手く伝わらないことはわかっているけれど――
そんな他愛ないことを思いながら、大好きな君の、柔らかな髪にそっと触れて。
「おはよう、」
> Fragment: SD0361-R, End of File
読上
行きて帰りし後始末(4)
途端、何かが、扉の向こうからあふれ出す。
それを何と形容すべきか、俺にはわからなかった。色も形も定まらない、質量があるかどうかもヌイさんの視界越しには判断できない、けれどヌイさんを圧倒するほどの力をもって存在するらしい、何か。
もはや濁流というべきそれは、ヌイさんの元より小さな体を押し流そうとする。それでも、ヌイさんは不安定な床を踏みしめ、壁にしがみつき、じりじりと前に進んでいく。
ヌイさんの視界のほとんどを埋める濁流によって判別しづらいが、扉の向こう側は、さほど大きくもない空間であるらしい。おそらく、「かつてのヌイさんが住んでいた部屋」。見かけは変容してしまったが、まだ、間取りそれ自体は『こちら側』のそれを維持しているらしい。
つまり、この、無限にあふれ出てくる何らかは、侵食する『異界』そのものと言うべきもの、なのかもしれない。この部屋の奥にあるであろう、ヌイさんお手製の異界潜航装置のプロトタイプは、今もなお『異界』の扉を開き『こちら側』を侵食し続けている。
もはや壁にしがみつくのも諦めたのか、身体を低くして、ほとんど床を這うようにして、ヌイさんは何とか奥へと進んでいく。視界に入る手に、形容しがたい何かが絡みつく。そこから、肌の色がゆっくりと変化し始める。ヌイさんの意識体があるべき形を失おうとしているのが、わかってしまう。
思わず、意識体を引き戻すシーケンスを開始しようと、タブレットの上に指を滑らせた――ことを、ヌイさんが気づいたはずもない。けれど、俺の動揺を読み切ったかのように、溢れる轟音の中にヌイさんの鋭い声が聞こえてくる。
「まだ問題ない! もっちー、意識体の変化率を確認して。いつもの水準以上、もしくはアタシが変な行動し出したら引き上げて」
プロジェクトで行っている『潜航』でも、意識体が『異界』によって何らかの影響を与えられ、変化を見せることは当然あって、それを監視するための機構も当然備わっている。ヌイさんの言葉の通り、意識体の変化率を監視する画面を開く。まだ数パーセントにも満たないが、既に数パーセントの変化が起こっている、と言っても過言ではない。
意識があるべき形から変化してしまってからでは、そして、ヌイさんが狂ってしまってからでは、遅いのだ。つまり、ヌイさんの指示は何一つ正しくない。正しくないとわかっていながら、俺は、すぐさま引き上げシーケンスを行えずにいた。
ヌイさんはありとあらゆる色を混ぜ合わせた波をかき分けるように前進し続け、「あった」と掠れた声で言う。
ヌイさんの視線の先には、タワー型のコンピューターをいくつか繋いだような形の装置。一瞬そんなシルエットが見えた、というだけで実態は定かではない。何しろそこを中心に濁流が発生しているのだから。
――異界潜航装置の、プロトタイプ。
プロトタイプとは言うが、現在運用している潜航装置とは方式が違うだけで、『異界』への扉を開く、という本来の目的に関しては現在進行形で完璧にこなしている、もの。
ヌイさんが、何をしようとしているのかはわからない。ただ、肩からかけた鞄から端末を取り出し、手探りで装置に繋いだのはわかった。その間にも不定形の何かがヌイさんの手に絡みつき、染み込み、ヌイさんの脆弱な意識を『異界』の色に染め上げようとする。
顔にも降りかかるそれを手の甲で拭いながら、ヌイさんは一心不乱に端末を操作する。視界がちらついて、端末の画面もろくに見えない。俺に見えてないのだから、当然視界の主であるヌイさんにだって見えていないはずだ。それでもヌイさんは手を止めない。
タブレットの端に表示させた、意識体の変化率はぐんぐん上昇している。まだ命綱を引き上げる条件には至っていないが、このままのペースで続ければ確実に『異界』に飲み込まれる。仮に飲み込まれなかったとしても、ひとたび意識体が変化してしまえば、意識を引き上げて肉体に戻したところで、元のヌイさんではなくなっているだろうし、二度と戻ることもない。俺が、『異界』の存在に接触する前のヌイさんを知り得ないように。
ヌイさんがそれを理解していないとは思えないが、なおもオペレーションを続ける。ヌイさんの聴覚が捉える轟音とノイズでよく聞こえないが、どうも手を動かしながら何かをぶつぶつと呟いているようだった。とはいえ、これはよく聞こえなくて幸いだったのかもしれない。ヌイさんの持つ知識を下手に受け取るのは「メンタルに悪い」。つまるところ、正気の領域にない可能性が高い。
だが、変化率が、『潜航』における上限値を振り切る。時間切れだ。俺は引き上げシーケンスを開始しようとして――。
「通った!」
全ての雑音を貫くヌイさんの甲高い声。
刹那、あれだけうるさく響いていた音が止み、視界を埋め尽くしていた無数の色彩も、ぴたりと静止する。まるで、そこだけ時間が止まったかのよう。
もはや装置につないだ端末も、それを握るヌイさんの手も、元の形を失いつつあった。ひゅうひゅうと嫌な呼吸の音が聞こえてくるところを見るに、体にも影響が及んでいるのは間違いなさそうだ。
何もかもが静止した世界で、ヌイさんだけが生きてそこに存在している。
おそらく、ヌイさんは潜航装置への干渉に成功したのだ。そして、際限なく広がっていた『異界』の動きを止めるような何がしかの操作を行ったのだと、思っていたが。
静止していたのは、たった数拍のこと。
突如、視界を埋める色彩が爆発的な音とともに動き出す。先程の濁流よりもさらに激しい勢いで、今度は逆方向に流れ出す。つまり、目の前の異界潜航装置が、何もかもを吸い込もうとしているかのような挙動に変化したのだ。
そういえば、さっきヌイさんは言っていた。装置の働きを逆転させるのだ、と。その言葉通りに、溢れていた『異界』が逆再生じみた挙動で本来あるべき場所へと収束していく。その場にいるヌイさんをも巻き込んで――!
ヌイさんは手にした端末を投げ捨て、床にしがみつきながら叫ぶ。
「もっちー! 引き上げて!」
その叫び声を聞くのとほぼ同時に、引き上げシーケンスを開始していた。シーケンスの開始とともに、ヌイさんの視界を映していた画面が暗転し、音声の取得も止まる。
引き上げシーケンスとは、肉体と意識との目に見えない結びつきを利用し、空間的な隔たりを無視して強制的に意識を肉体へと引き戻す、荒っぽいにもほどがあるシーケンスだ。
しかし、流石、異界潜航装置の導入開始から二年もの間エラーらしいエラーを吐かなかったヌイさん謹製のシーケンスだ。着実に各フェーズをクリアしていく。画面を埋め尽くすログにも、エラーの文字はない。
そして、最後のフェーズも問題なくクリア、引き上げ完了を告げるログを吐いてタブレットの画面は静けさを取り戻す。
「ヌイさん、ヌイさん!」
タブレットを放り出し、助手席のヌイさんの肩を叩く。ヌイさんは未だ目を閉じたまま、動く気配を見せない。
「ヌイさん、聞こえてます?」
冗談じゃない、ここまで来てヌイさんが戻ってこなかったら、俺の寝覚めが悪すぎる。リーダーたちにもなんて説明すればいいんだ、と思った、その時。
「……っ、頭いったぁ……」
ヌイさんの表情が歪み、掠れきった声が乾いた唇から漏れる。どうやらログが示していたとおり、引き上げは成功していたようだ。
ヌイさんの瞼が開かれる。ぎょろりとした目の中で、ちいさな瞳がふらふらと彷徨う。
「大丈夫っすか? これ見えてます?」
ヌイさんの目の前で手を振ってやると、数秒の後に目の焦点が合った。
「見えてる。あー、頭痛いし気持ち悪いし……。X、こんなの毎日やってたの、信じらんない」
X。長らくプロジェクトが抱えていた異界潜航サンプル。今、ヌイさんが経験したような一連の『潜航』を日々こなし続けた、『潜航』のプロフェッショナルだ。超人と言い換えてもいい。本来「使い捨て」を想定していた異界潜航サンプルを、二年に渡って何一つ不足なく続けてきたのだから。
とはいえ、そのXは|お務め《、、、》を果たしていなくなった。そういう取り決めだったから。
で、当然ヌイさんはXではなく、あんなハイスペック超人と同じにするものではない。別のスペックは突き抜けているが、あくまでそれは「開発」に特化していて、別に『異界』に赴くのに向いているわけではない。
「動けそうです?」
んー、と言いながら、ヌイさんは横になったまま腕をあげて、手を握ったり開いたりする。
「めちゃめちゃだるいけど、問題はなさそう」
先程、ヌイさんの視界越しに見た、完全にあるべき形を失っていた手が脳裏に蘇るが、どうやら意識が肉体に戻ったことによって、本来の形と動きを思い出したらしい。手だけでなく、腕も足も、動かすのに支障はなさそうだ。
呻きながら起きあがろうとするヌイさんを、肩を押して制する。
「すげー顔色っすよ。しばらく安静にしててください」
「ごめーん、ありがと」
「治ったら飯のひとつやふたつ奢ってください。めちゃくちゃ冷や冷やしたんすからね?」
「オーケイオーケイ」
ひらひらと手を振るヌイさんは、顔色こそ最悪だが、声のトーンは普段と何一つ変わらない。ほんとにわかってるのか、この人。これだけ人のこと巻き込んどいてまるで悪びれる様子がないあたり、大物というかなんというか。
ヌイさんが目を閉じて大人しくなったのを確認して、窓の外を見やる。フロントガラスの外は相変わらずおかしな色の空と、おかしな住宅街。『こちら側』の人類を拒む光景が広がっている。
「……さっきので、解決したんすか?」
傍目には、何が変わったようにも見えない。先ほど、タブレット越しに見ていたヌイさんが何らかのオペレーションをしたのはわかったが、結局のところこの場で観測しているだけの俺には、何一つ実感が湧かない。
そして、ヌイさんも目を伏せたまま「わかんなーい」と声を上げる。
「想定通りの動作してたからだいじょぶとは思うけど、時間が経たないとなんとも」
時間をかけて『異界』がここまで広がったように、一度広がってしまったものをあるべき場所に押し込むのにもそれなりの時間がかかる、という試算らしい。これも結局のところ机上の計算に過ぎないから、時間の予測はしているけれどあてにならない、とはヌイさんの談。
「どうにせよ、結果がわかるのはまだ先ってことすね」
そゆこと、とヌイさんは言って深く息をつく。
「あー、お上にも報告しなきゃ……。めんどくさ。仕事でもないのにレポート書かされるのマジ勘弁なのよね」
「言っとくけど、俺は手伝わないっすからね」
「えー、もっちーったらつめたーい!」
「そりゃ全部ヌイさんが悪いっすからね。ここまで付き合ったんですから、むしろ褒めてもらいたいもんすよ」
「それはそれ、これはこれじゃない! アタシのレポートがぐだぐだなの、もっちーが一番よく知ってるでしょ!?」
ヌイさんは元より他人に見せるための資料を作るのを嫌うし、無理やり作らせても極めて下手くそだ。ものを作るために手を動かすのは好きだが、考えていることを人に伝わるように出力するのがとにかく億劫なのだという。そんなんだからいつまでも潜航装置の構造がヌイさん以外に説明できなくて、監査に「属人化」と苦い顔をされるのだ。ただ、クソ真面目にヤバい知識を出力されたらそれはそれで誰にも読ませられない禁書になりそうではあり、厄介に過ぎる。
「っつーか、案外元気っすね」
「そうね、そろそろだいじょぶそう。時間とらせたわね」
ヌイさんが体を起こす。まだ顔色はやや悪いが、意識を引き上げた直後よりは幾分マシになっているようで、ほっとする。この調子なら、研究所に帰る頃には元気すぎて鬱陶しいくらいのヌイさんに戻っていることだろう。多分。
倒していた背もたれを起こしながら、ヌイさんはぶつぶつ言う。
「落ち着いたら装置そのものも回収しないとね。悪用されても困るし」
「できねーっすよ、ヌイさん以外には」
そりゃそっか、と不敵に笑ってみせる横顔は、どこまでも普段通りのヌイさんだ。
ヌイさんが改めて助手席に収まったのを確認し、俺もシートベルトを締めてキーを差し込む。こんな奇天烈な場所に置かれていても、俺の愛車はしっかり動いてくれそうで胸を撫でおろす。こんなとこで周りと同じように歪んでしまっていたら、彼女に何て言えばいいんだ。いや、「この子、前よりかっこよくなったんじゃない?」とか言い出しそうなところはあるが。
シートベルトを締めながら、ヌイさんが「ああ、そうそう」と顔を上げる。
「今日のこと、他の連中には黙っててね、特にあずみには。上には許可取ってるけど、アタシの独断だから」
「だと思いましたよ」
だって、リーダーがあらかじめヌイさんの意図を聞いていたら絶対にリーダー自ら出向いていただろう。メンバーの責任はリーダーの責任でもある、とかなんとか言って。ついでに、人為的に開いた『異界』への興味を隠しもせずに。リーダーは極めて優秀なリーダーではあるが、結局のところそういう人だ。異界研究者には俺を含めてろくなやつがいない、というのは今に始まったことじゃない。
誰の家かもわからない民家の車庫に車を突っ込んで、切り返す。どうせもう誰も住んでいないのだ、咎める奴もいない。
「あとさ、もっちー」
「何すか?」
車の鼻先を元来た方向に向けたところで、ヌイさんを見る。ヌイさんは、未だちょっとばかり青ざめたツラながらも、妙にうきうきした調子で言う。
「久しぶりに外に出たんだし、ちょっと寄り道したいなー。この近くにハードオフがあって、ジャンク品のラインナップがなかなか」
「はいはい、今すぐ研究所に帰ってレポート書くんすよ。飯は書き終わった後に奢ってもらいますからね」
「やだー! いやぁー!」
ぎゃあぎゃあ喚くヌイさんをよそに、アクセルを踏む。もちろん、目的地は我らプロジェクトの拠点である研究所だ。
「折角外出許可出たのに! そのまま帰るなんてありえないと思わないの!? ねえ!?」
「いやー、俺はヌイさんじゃないんで」
「信じらんない! 鬼! 悪魔! もっちー!」
何なんだよその三段活用。何度目かもわからぬ溜息をついて、空っぽの住宅街を走り抜けていく。やがて、先ほど通過したものものしいバリケードが遠くに見えてくる。『異界』が完全に消えるまで時間がかかる以上はバリケードも戻しとかないと危険だな、と思ったところで、不意に、ヌイさんが口を開いた。
「ありがと、もっちー。付き合ってくれて、嬉しかった」
意外なまでに殊勝な声音に、思わずそちらを見てしまう。対向車も後続車もいないし、わき見運転を監視するような人間もこの場にはいないから、ちょっとくらいは許されると信じて。
かくして、ヌイさんは真っ直ぐに俺を見ていた。口元は少しだけ微笑んでいるように見えたけれど、その目は真剣そのものだった。
「アタシ一人で行ってもよかったんだけど。……まだ、もうちょい、『こちら側』に未練はあるからさ」
――だから、ありがとうを。
ヌイさんの言葉に、俺は、すぐには口を開くことができなかった。
そう、いつだって『異界』に行くのはそう難しくはないのだ。「行きはよいよい帰りは怖い」という古い歌のように。もしくはごっそり消えた異界研究の先人たちのように。問題はどこまでも「帰る」こと。ヌイさんが潜航装置のプロトタイプを弄ったあの瞬間、俺が引き上げなかったら、ヌイさんの意識はそのまま逆回しの渦に飲み込まれて、『こちら側』から消失していただろう。その状態から改めて引き上げが可能だったかと言われれば、正直自信がない。
ヌイさんは元よりそれを予測はしていたのだろう。だからこそ、俺という観測者を連れて来た。自分の命綱を握らせるために。
どうしようもなく勝手な人だ。振り回されるこっちの身にもなってほしい。
だが。
「どーいたしまして」
命綱を握らせていい、という程度の信頼を寄せてもらえていることは、素直に喜ばしく思ってしまう。その程度にはちょろい自覚がある。
バリケードを戻すために一旦車を降りれば、空はすっかり見慣れた色で、周囲もありきたりな『こちら側』の景色に戻っていた。滞在時間は大した時間ではなかったはずだが、なんだかとても疲れてしまった。研究所に戻ったら、ヌイさんのレポート作成を監視しながらめいっぱい甘いものを食べたい。美味い肉でもいい。とにかくカロリーが欲しい。心からそう思う。
それから――。
「ヌイさん」
「んー?」
体の動きを確かめるかのように大きく伸びをしていたヌイさんが、声だけで返事をする。下手にこちらを見られても困ったので、よかったと思う。ヌイさんの目を見ていると、何もかもを見透かされているような気がしてくるから。
「ヌイさんは、いつか、いなくなるんすかね。『こちら側』から」
ヌイさんは言った。まだ、もう少しだけ『こちら側』に未練がある、と。
では、もし、その未練がなかったら?
今日の出来事とヌイさんが語った話は、そのシミュレーションをするには十分に過ぎた。
責任感の強いヌイさんのことだ、やらかしの後始末をする、という選択は変わらなかっただろう。だが、帰り道のことは何一つ考えなかったに違いない。一人で向かって、一人で解決して、そして誰にも知られぬままに姿を消していたはずだ。ヌイさん曰くの「アレ」を探して。
かくして、ヌイさんはこちらに振り向き、「そうね」と俺の言葉をあっさり認める。
「あずみへの借りを返しきった頃には。あと、もっちーにも」
「俺?」
「世話になってる礼くらいはさせてよ、今日のことだけじゃなくてさ。アタシみたいな頭のおかしいおっさんの話に付き合ってくれるだけでも、得難い仕事仲間なんだからさ」
そう、どうしようもなく勝手だが、それはそれとして義理堅く、律儀で、クソ真面目。ヌイさんは、そういう人だ。
俺はバリケードに手をかけながら、わざと肩を竦めてみせる。
「じゃ、今日でまた貸しが一つ増えましたね」
「そ、アタシからすりゃでっかい借りよ。だから、アタシがいなくなるのは、相当先」
「ならいいんすけど。その間に、潜航装置についての資料は全部まとめといてくださいよ。監査がうるせーんすよ」
「ああーそんなの考えただけで憂鬱すぎるぅー」
見るからに「がっくり」という仕草をするヌイさんを横目に笑う。ざまあみろ、というやつだ。
まあ、もし本気で資料作成に着手するようなら、手を貸すのはやぶさかではない。今日のレポートは絶対に手伝わないと決めているが。唸るヌイさんの目の前でミニストップのアップルマンゴーパフェでも食ってやろう。そうしよう。
「ねーもっちー、飲み物くらいは買って帰ろ? 研究所の自販機、ろくなのないじゃない」
「まあ、そりゃそっすね」
本当にクソみたいなラインナップの自販機を思い出して、こっちまでげんなりする。それこそ水以外を求めるなら、敷地の外のコンビニに行った方が数百倍マシというレベル。一体どこから集めてきたんだ、あの銘柄も怪しいジュースの数々。
二人がかりでバリケードを引きずって、元の位置に戻して。人除けの物理的な結界には、もうちょっとだけ頑張ってもらうことにする。
「じゃ、行きましょ。喉乾いたし疲れたし」
言いながらも、ヌイさんはバリケードの向こう側を振り返る。このまま『異界』が完全に閉ざされた後に、この先がどうなっているのか。それは、時が過ぎなければわからないことで、今の俺にはとんと想像もつかない。
ただ、一度『異界』の存在に触れて変質したヌイさんの目には、俺に見えている以外のものが見えている――ことも、ある。だから、もしかしたら、ヌイさんは既に問いに対する答えを知っているのかもしれない。
とはいえ、今、この場でそれを聞く気にはなれなくて。
「何飲みます?」
俺が声をかければ、ヌイさんは小走りに車の方に戻ってきて、言う。
「アタシ、大吟醸がいい。最近ビールとチューハイだけで飽きてたのよね」
「ふざけんなよレポート書けよ」
「酒飲みながらでも書けるわよ! ほら今日は時間外だしさぁ、許されるって」
ヌイさんの言うことをいちいち真に受けていたら話が進まない。それなりの付き合いになったし、これからも長い付き合いになる、ということらしいので、俺はもうちょっとヌイさんを適当にあしらう技術を身に着けた方がいいのかもしれない。
「ひとまず研究所近くのコンビニでいっすよね、何かしら売ってるでしょ」
「はーい」
ヌイさんも流石にそれ以上のわがままを言う気はなかったらしく、元気な返事とともに車に乗り込む。俺も運転席に戻って、それからバックミラーでバリケードがきちんと道を塞いでいることを改めて確認し、それから。
「どしたの?」
きょとんとした顔のヌイさんが、助手席に座っていることを、確かめて。
本人が言うとおり、まだここにいるということを、確かめて。
「いーえ、何でもねっすよ」
俺たちのあるべき場所に帰るために、アクセルを踏む。
残響夜行
読上
行きて帰りし後始末(3)
タブレットの上に指を走らせる。普段はキーボード操作ゆえに違和感はあるが、それでもいつもの手続きだ。
潜航装置から延びるコードをいたるところに取り付けたヌイさんは、助手席のシートを倒して横になっている。一体どういう仕組みでこの何の変哲もないコードが肉体と意識とを切り離すのか、相変わらず謎に満ちてはいるが、今考えたところで仕方がない。
画面に表示されるボタンを叩いて、分離シーケンスを開始。指定した座標――車の外、フロントガラスの向こう側に、ヌイさんの意識体を投射する。
シーケンスは一瞬で終了した。気づけば、窓の外にはヌイさんが立っていた。長く伸ばした白髪交じりの黒髪を後ろで無造作に縛り、派手極まりないアロハシャツに、明らかにサイズが合っていないぶかぶかなズボン。いつものヌイさんだ。今もなお助手席に横たわっているヌイさんと、全く同じ姿をした意識体。
意識体のヌイさんは、腕を回したり、足をぶらつかせたりしながら身体の動きを確認していたが、やがて開け放した窓から「よし、上出来」という声が聞こえてくる。俺は一旦タブレットから視線を離し、窓から身を乗り出してヌイさんに言う。
「行けそうっすか?」
「だいじょぶ。鞄取って」
後部座席のやけに重たい鞄を取って、近寄ってきたヌイさんに渡す。意識体とは、本人のイメージに基づいて形作られるかりそめの肉体に過ぎない。ただ、今、一瞬だけ触れた指には、確かに人並みの温度があった。俺の気のせいかもしれないけれど。
鞄を肩から掛けて、ヌイさんは常と何も変わらぬ調子でてきぱきと問いかけてくる。
「視覚と聴覚のトレース、確認できてる?」
「できてますね。めっちゃ俺映ってるし聞こえてます」
タブレットにはコンソールのログと、ヌイさんの視界が映し出されている。つまり、タブレットを覗き込んでいる俺の姿が。潜航装置と結びつけられた意識体の視覚と聴覚は、こうして観測者に共有される。これこそが、『こちら側』の俺たちが『異界』の姿を知る最大の手段だ。
「ここを離れたらアタシにはもっちーの声は届かないんで、よろしく」
「つまり、いつも通りっすね」
ひとたび『異界』に潜ってしまえば、『こちら側』からの指示は不可能。これは、ここにある潜航装置が小型化のために機能を限定しているから、ではなく、俺たちが普段使っている潜航装置がそもそもそういうものなのだ。
「通信機能って、そんなにつけるの難しいんです?」
「んー、つけらんなくはないと思うんだけど、更にラック二段分くらい必要になるかも」
「天井突き破りますね。二つ目のサーバーラック用意します?」
「あの研究室、如何せん狭いのよねぇ」
どうも、ヌイさんなりに最低限必要な機能を選別した上での、現在の仕組みであるらしい。この辺り、実現可能かどうかを判断できるのは開発者のヌイさんだけなので、俺はどこまでもヌイさんの言葉を信じるしかないのだが。
「それじゃ、いってきまーす」
散歩にでも出かけてくるような気軽さで、ヌイさんはふらりと歩き出す。尻尾のような黒髪を背中に揺らしながら、歪みゆく道を歩んでいく。
しばらくは、運転席からフロントガラス越しにヌイさんの後ろ姿を眺めていたが、それが遠ざかっていくのを確認して、今度はタブレット端末に映し出された、ヌイさんの目を通した風景に視線を落とす。
ヌイさんは真っ直ぐ前を見て歩き続けているようだった。車の中から見えている光景は、奇妙な空の色をはじめ、いくらか現実からかけ離れてはいるが、まだ『こちら側』の住宅街だとわかる。だが、ヌイさんが見据えている先は、もはや『こちら側』の風景とは似ても似つかないものだった。
地面は波打ち、ひび割れたアスファルトから何とも形容しがたい、色も形も様々な不思議なオブジェが生えている。建造物は既にほとんどあるべき形を失っていて、有機的な何かに変容している。内側に何か血液のようなものが流れているのか、規則的に脈打つそれらは、酷く気色が悪い。俺は車の中からヌイさんの視界を見ているだけだが、ヌイさんは『こちら側』を侵食する『異界』の空気を肌で感じているに違いない。わずか、ヌイさんが息をつく音とともに。
「いやー、ほんと、派手にやっちゃったもんだわ」
と言う声が、端末から聞こえてきた。
「聞いてる、もっちー? 一人だと寂しいから、ちょっと昔話でも聞いてってよ。聞き流してくれていいから」
もちろん、俺が返事したところでヌイさんには届かない。だから、黙ってヌイさんの視界をタブレット越しに見つめる。ヌイさんはいつしか足を止めて、おそらく『こちら側』ではそれなりに背の高いマンションか何かであったのだろう、奇怪な塔を見上げていた。どうやらここが目的地である、かつてヌイさんが住んでいた家のようだ。
ヌイさんの視界を通しても、人の気配はどこにもない。ただ、蠢くものの気配はそこかしこにある。それは本来あるべきものが歪んでいる最中なのか、それとも何らかの意思を持つ「何か」がそこにいるのか。俺には判断がつかないまま、ヌイさんはもはや建造物とは言えないそれに向けて一歩を踏み出す。
「アタシ、昔っから恋って言葉が嫌いなの」
突然、何を言い出したのかと思った。もしヌイさんがここにいれば、間違いなく聞き返していたところだ。いや、確かにヌイさんの肉体はここに残されているが。
「惚れた腫れたなんて、馬鹿馬鹿しいと思ってたのよ。なんつーか、あれよ、美しくないなって。人が正気でなくなるとこを見せられても、滑稽ではあるけど気持ちいいものじゃあない」
話し出しは唐突に過ぎるが、言っていることそれ自体は、「ヌイさんらしい」と思った。ヌイさんは基本的にどのような話でも愉快そうに聞いてくれるが、俺ののろけ話だけは絶対に聞きたがらない。曰く「面白くない」から。それは、単なる僻みか何かだとばかり思っていたが――。
「この世はあまりにも楽しいことに満ちてるのに、ただ一人に狂って視野を狭めるなんて馬鹿のすることだわ」
ヌイさんの言葉は、恋に恋してる最中の俺に向けるにしちゃ辛辣に過ぎる。だが、俺への言葉というわけじゃない、ということは、次の言葉ですぐにわかった。
「……って、思ってたのよ。アレと出会うまでは」
その「馬鹿」という言葉は、まぎれもなく。
「恋って落ちるものってほんとなのね! 嫌んなっちゃう! アタシだけは絶対にそんなことないって思ってたのに!」
――ヌイさん自身に向けた、言葉なのだ。
ヌイさんはやかましく喋りながらも歩き続ける。かつて建造物であったそれに足を踏み入れれば、生物の内臓のようなぬめぬめとした空間がヌイさんを迎える。それでもヌイさんは迷うことなく、階段らしき段差に足をかける。それも、イソギンチャクの触手を思わせる何かに覆われていて、俺なら絶対に躊躇って足を止めるところだったが、ヌイさんは迷わずそれらを踏みつけて上ってゆく。
「アレと出会ってから、アタシはもうアレのことしか考えられなくなってた。どうすればアレを振り向かせられるのか。どうすればものにできるのか。すごーい、恋する乙女みたいだわ!」
本当に乙女ならよかったのだが、ヌイさんは残念ながら貧相で不気味なおっさんである。いや、当時は「おっさん」ではなかったのかもしれないが、少なくとも乙女であったことは一度もないはずだ。
「で、しゃらくさい駆け引きは向いてないから、率直に告白したわけよ。振られたらまあその時だな、って思ってた」
だが、現実は想像の斜め上どころか別次元だった、とヌイさんは笑う。
「ねえ、信じられる? そいつが、『異界』からの来訪者だった、なんて! そりゃ恋にも落ちるってもんよ、『この世の楽しみ』以上のものを見つけちゃったんだから」
地球の男に飽きたところよ、という懐かしのフレーズが頭をよぎる。いや、ヌイさんの言葉では相手が男かどうかすらはっきりしないし、『異界』の存在に『こちら側』でいう性別という概念があるのかも定かではないのだが。
「結果として、振られた……、のかしら? 今でもよくわかんない。アレは、いつの間にかいなくなってたから。アタシをめちゃくちゃにした、という事実だけを残して、ね」
めちゃくちゃ、というのは相当オブラートに包んだ表現で、実際にはヌイさんが人並みに生きられなくなる程度の「何か」が執り行われた。ヌイさんの人格をことごとく凌辱し破壊する、狂気に満ちた、冒涜的な、何かが。
「ふざけんじゃないわよ、好き勝手やるだけやってトンズラとかありえなーい!」
と、威勢の良い声とともにヌイさんの小さな握り拳が振り上げられる。窓一つないのに不思議とぼんやり明るい、ぬめぬめと脈打つ天井に向けて。けれど、その拳はすぐに力なく落ちて、指がほどける。
「――ってのは、単なる建前で。結局のところ、アタシはアレを諦めきれなかった。恨んでないって言ったら嘘になるけど、もう一度会いたいって気持ちの方が断然大きくてさ」
だから、アレを探しに行こうと、思った。
「アレから貰った知識があれば、行けるって思った。どこにでも行けるって、確信があった。いくらでもアイデアは浮かんだ。それがアタシのアイデアなのか、アレのアイデアなのかはわからない。今となっちゃ、そこに明確な区別はないんだと思ってる」
俺がヌイさんの頭の中を知るのは不可能だ。ただ、過去にヌイさん本人から聞いた話によると「常にここではないどっかに繋がってる感じ」とのことで、もしかすると今まさに、どこか遠くにいるヌイさん曰くの「アレ」と頭の中身を共有しているのかもしれない。
「でも、さっきも言った通り、アタシはまともじゃなかった。今もだけど、今以上に。だから、こんなことになっちゃったわけだしね」
言いながら、ヌイさんはぐるりと視線を巡らせる。もはや建物の構造そのもの以外に『こちら側』の痕跡がひとつも残っていない、『異界』に蝕まれた世界。ヌイさんは言ったはずだ、これが自分のやらかしなのだ、と。
「アタシは、仕事の存在も忘れて、潜航装置のプロトタイプを作ってた。体は動かなくなってくるし、何もかもが億劫になってくるし、それでも、体と頭が動く限り開発をしてた。こいつが完成すれば、アレに会えるって疑ってなかった。……あずみがうちに来たのは、その頃」
|水上《みなかみ》あずみ。俺たちのリーダーであり、ヌイさんを見出して、プロジェクトに招いた最大の功労者。
きっと当時から背筋を凛と伸ばしていたのだろうあの人は、ヌイさんのかつての同僚から「様子のおかしい」ヌイさんの話を聞きつけてやってきたのだという。その時のヌイさんの惨状を、俺は具体的に想像することはできないし、想像したくもない。『異界』の存在に惹かれて人間を辞めかける奴ってのは、いつだって見られたもんじゃないことを――俺は、俺自身の体感としてよく知っている。
「アタシの頭がおかしいってことを、あずみがわからなかったはずはない。でも、あいつ、本気でアタシの話を聞いてた。疑わなかった。それどころか、他でもないアタシの知識と技術が必要なんだって、口説いてきた」
そこで、やっとヌイさんは手を止めたのだという。「アレ」と再会するためだけにあったヌイさんの時間を、少しだけなら我らがリーダーに貸してもよいかもしれない、と思ったのだという。ヌイさんは明言しなかったが、それはきっとリーダーへの恩義であり、借りを返す行為でもあるのだろう。本気で向き合って、自分の目を覚まさせてくれた、リーダーへの。何だかんだ律儀なひとなのだ、ヌイさんは。
かくしてヌイさんは、リーダーから差し出しされた手を握ることで、『こちら側』にアンカーを打った。『異界』に引きずり込まれないように。今はまだ、向こうに行くにはちょっと早いのだ、と言って。
「そこで手を止めてなかったら、多分、アタシはとっくに『こちら側』にはいなかった」
――そして、それでよかったのかどうかは、今のアタシにもわからない。
ヌイさんはぽつりと言った。
事実として、ヌイさんは今ここにいて、まだ「アレ」とは再会できていない。どれだけ恋焦がれようとも、いくつもの世界に隔てられていては、背中どころかその影を掴むことすら難しい。それで諦めきれるならよかったのだろうが、ヌイさんは、間違いなく、困難であるからこそ燃えてしまうタイプのひとだ。
つまるところ、ヌイさんが俺ののろけ話を嫌うのは、やっぱり単なる僻みなのだ。「単なる」と言うべきシンプルさでありながら、あまりにも根が深い、僻み。もはやどこにいるのかもわからない人を思い続けるヌイさんにとって、他人ののろけ話というのは苦痛でしかないのだろう。
とはいえ、まだヌイさんの恋と挑戦は終わっていない。今この瞬間は、まだ、リーダーへの「貸し」――もしくは「借りを返す」日々が続いているから、一旦手を止めているだけで。なんなら、プロジェクトへの参加と潜航装置の作成、日々の『異界』の観測だって、「アレ」を目指すための足掛かりとして考えているに違いない。
「あずみに連れられて、アタシはここを離れた。まずは療養が必要だったから。……ただ、プロトタイプを野放しにしちゃったのは失敗だった。プロトタイプっつっても理論的には完璧だった。問題は、今の潜航装置のように、『異界』に意識体だけを送り込むシステムではなくて、無差別に『異界』の扉を開くシステムだったこと」
とはいえ、ヌイさんにとってはそれで十分だったのだろう。少なくとも、かつての、我を失っていたヌイさんにとっては。
「結果として、アタシがプロジェクトに加わったときには、もう、ここは人の住める場所じゃなくなってた」
唯一制御できるヌイさんを失った潜航装置のプロトタイプは、『異界』への扉を開き続けた。常に『異界』と接触していれば、そこもまた『異界』へと変質していく。それは、この世ならざる知識と接触し続けて不可逆的に変化してしまったヌイさん自身とよく似ている。
「お上にはめっちゃ怒られたし、今も睨まれてる。お上の許可が無いと研究所を離れられないのは、実のところこれが大きな理由でね。アタシがこういうことを『できる』ってこと、よーく知ってるのよ、あいつら」
確かに、ばかすか『異界』への扉を開く能力なんて、あまりにも危険に過ぎる。それこそ災害をまき散らすのと同義、というのは、原型も留めぬほどに歪み切ったこの土地を見ているだけでもわかる。
それでもヌイさんが限定的にでも自由を許されているのは、ひとえに「替えが利かない」の一言に尽きるのだろう。お偉方がヌイさんの危険性ともたらす利益とを天秤にかけ、かろうじて後者が勝った。それだけの話。もしかすると、それもリーダーがヌイさんの有用性をカードに交渉を試みた結果なのかもしれないが。あの人は本当に理想的なリーダーなのだ。一部の致命的な欠点を除けば。
「ともあれ、この失敗はアタシの心残りであり続けたってわけ。でも、一度開き切っちゃった『異界』への扉を閉ざすのは難しくてさ。いくつかアイデアはあったけど、形にするのも時間がかかった」
仕事も忙しかったしね、と言うヌイさんだが、そこに関しては首を傾げざるを得ない。俺はヌイさんが日々レトロゲーのRTAを配信していることも知っているし、やたら解説が上手いことも知っている。もちろん、それがヌイさんの息抜きとして必要な行為なのはわかるので、責める気にはなれないが。
そして、このタイミングでヌイさんが動いたのは納得ができる。今、俺たちのプロジェクトは凪の時期にある。それまでの異界潜航サンプルがいなくなってしまったから。観測結果の分析、仕分けなど仕事はいくらでもあるが、次のサンプルが選定されるまで、潜航装置を利用した『潜航』は行われないのだ。
だから、今がチャンスだと思ったのだろう。ヌイさんはあえて言葉にしなかったが、極端な話――、自分に何かがあっても、そこまで深刻な影響をもたらさないタイミングだとして。
思わず、タブレットを握る手に力が籠る。ヌイさんが、このまま戻ってこられなくなる可能性を考えていないはずもない。現在プロジェクトで採用している潜航手順を踏むことでリスクを減らそうとはしているが、それでも、判断を誤れば意識体は簡単に傷つき、死に至る。今まで確認されたことはないが、『異界』に完全に取り込まれて肉体とのリンクが切れることだって、可能性としてゼロとは言えない。
今、ヌイさんの命綱は俺の手に握られている。その事実を改めて認識して、自然と手のひらに汗がにじむ。
リーダーはずっとこんな重圧を背負っていたのか。相手は使い捨てを想定された異界潜航サンプルとはいえ、それでも「人間」であって。
一人の命を手に握らされるなんて、いいことじゃない。それだけは、はっきりとわかった。
「安心なさいな」
そんな、届くはずもない俺の思いに気づいたのか、否か。ヌイさんは軽やかに笑う。
「まだ『こちら側』での仕事は終わってない。だからあんたに命綱を頼んだのよ、もっちー。あんたなら、確実に引き上げてくれるだろうから」
本当に、卑怯なひとだ。
俺がヌイさんの言葉に流されるのを知っていて、俺がいざってときに断れないのを知っていて、|わざと《、、、》俺に頼んだに違いないのだ。だって、こんなの、リーダーにだって荷が重い。車の運転ができるかどうかなんてちゃちな理由じゃない――いや、ヌイさんは案外、ほんとに車が運転できるかどうかで判断してたかもしれないが。リーダーの運転、信じられないもんな。
それでも、他のメンバーの誰でもなく俺に頼んだのは、そういうことだと、わかってしまう。
「後で、飯のひとつやふたつ奢ってくださいよ」
届かないとわかっていても、語り掛けずにはいられなかった。俺はめちゃくちゃ食べるんだ、ヌイさんの財布の中身を空っぽにしてやる。どうせヌイさんが金を使うところなんてほとんどないのだし、経済を回すのだから悪い話じゃないだろう。きっと。
「あーめっちゃ何か言われてそう。後で聞くわ。そのためにもきちんとケリをつける。アタシだって、タダ働きは好きじゃないんだけど」
ヌイさんは言いながら、足を止める。そこにあったのは、扉だった。この場合は言葉通りの扉。内臓めいた気色悪い風景の中で、不自然なまでのマンションの扉。違和感しかない金属製のドアノブに、ヌイさんは迷うことなく手をかけて、
「後始末くらいは、していかないとね」
――開け放つ。
残響夜行
読上
行きて帰りし後始末(2)
――ヌイさんは、本名を|不知火諒《しらぬい りょう》という。
不知火、だから「ヌイさん」。あだ名はリーダー曰く「ヌイさん本人がそう呼べと言ったから」で、俺も成り行きでヌイさんと呼んでいる。本人が嫌がっていないから、まあいいのだろう。
ヌイさんの経歴は俺たちプロジェクトメンバーの中でも異色で、つい数年前まではフリーランスのシステムエンジニアだった、というのは聞いたことがある。つまり、『異界』の存在などまるで知らないまま生きてきたし、そのまま生きていくはずだったのだ。俺たち以外の大多数と同様に。
しかし、現実は違った。
俺も直接ヌイさんから詳細を聞いたことはない。ただ、リーダーやサブリーダーの話している内容を聞く限り、ヌイさんは、数年前に『異界』に接触したらしい。もっと正確に言うならば、『異界』からの来訪者に。
それだけでも異界研究者となる理由としては十分といえる。俺のように直接の接点がなくとも『異界』に興味を持ってこの道に進む奴がいるのだから、ヌイさんだってそういう道を辿ることになったとして、何ら不思議ではない。
しかし、ヌイさんの場合、俺とは事情が違う。
ヌイさんは単に『異界』からの来訪者に接触しただけではなく、何らかの干渉を受けたという。「干渉」の内訳は不明だが、結果としてヌイさんは「人知を超えた知識」を得た。|得てしまった《、、、、、、》と言った方がいいかもしれない。
俺たち異界研究者は『異界』についてある程度の知識を有しているが、今まで『異界』に直接アプローチをする術を持たなかった。そこを一気に打開したのがヌイさんの持つ知識と技術だ。|技術担当者《エンジニア》としてプロジェクトに招かれたヌイさんは、人間を『こちら側』から『異界』に送り込む異界潜航装置を開発してみせたのだ。
つまり、俺たちの研究は今となってはヌイさんがいなければ立ち行かない。ヌイさん招致以前のプロジェクトに戻ることは、もはやありえないのだ。そのくらい、ヌイさんの存在は大きい。
ただし、代償も大きかった。それがヌイさんが|得てしまった《、、、、、、》知識の本質だ。
|人知を超えた《、、、、、、》知識、というからには、それは人間が理解できうるものではないし、理解してはいけないものだ。だが、ヌイさんはそれを余すところなく与えられてしまった。ひとたび知ってしまった以上、知らなかった頃に戻ることはできない。
つまるところ、ヌイさんの頭の中はまともな人間のそれではない。本来ならば適切な治療と静養を必要とする類の――もっとはっきり言ってしまえば「気が触れている」のだ。
俺たちがヌイさんの言うことを理解できないのは当然だ。ヌイさんの知識は正気ではなく狂気の領域にある。理解するには同じ領域に足を踏み込まねばならないし、ヌイさんは「やめた方がいい」と真剣に言う。「そんな思いをするのは、アタシ一人で十分だから」と。
もはやヌイさんの目には俺とは違うものが映っている。ヌイさんの耳には俺には聞こえない何かが聞こえている。ヌイさんは、それを必死に取捨選択して、なんとか俺たちと足並みを揃えている。「まともな人間のふり」をしている。そうしなければ、『こちら側』で生きてはいかれないから。
それは、俺にはわからないヌイさんだけの苦悩だ。時折ヌイさん自身にも予測できない発作で苦しんでいるところからも、十二分に察することができる。
それでもヌイさんはここにいる。
俺たちのプロジェクトに力を貸すことが、己の使命であると思い極めている。
まあ、今のアタシにはそのくらいしかできることがないからね、とかつて俺に語ったヌイさんは、酷く顔色は悪かったけれど、どこか誇らしげで。俺は、そういうヌイさんのことを、それなりに好ましく思っているわけだ。
車一つが通れる程度にバリケードをずらし、改めて車を発進させる。
徐行運転で少し進んでみれば、すぐにここがまともな場所でないことはわかってきた。空がゆっくりと色を変えていく。曇ってくる、などという生やさしい変化ではない、明らかに異様な緑と紫の渦。
周りの風景も、ぱっと見はただの住宅地に見えるが、いたるところが歪み、奇妙な形にねじくれている。人の気配がまるでないのは、おそらく、既にこの土地から退去しているためだろう。そう思わないと恐ろしすぎる。
今まで資料ではいくつか目にしていたが、実際にこの目で見たことはなかった『こちら側』と『異界』が混ざり合う光景に、うっすら気分が悪くなってくる。
「結局、何があったんですか、ここで」
助手席で沈黙を守るヌイさんに、声をかける。ヌイさんは「うーん」と唸って、それから口を開く。
「どこから話したもんかなと思ってたんだけど。もっちーは、アタシがどうしてプロジェクトにいるのか、くらいは知ってたっけ」
「直接教えてもらったことはないっすけど、『異界』の存在と接触して、頭を弄くられて『異界』の知識を得た。その経験を見込まれて、リーダーにプロジェクトメンバーとして招かれたんすよね」
「そこまで知ってりゃ説明はいらないわね。で、ここはアタシが前に住んでた場所」
「プロジェクトに誘われる前に?」
「そゆこと」
今のヌイさんに家らしい家はない。研究所に暮らしているから。ヌイさんには常に監視が必要なのだ。時に自分でも制御できない狂気に陥るヌイさんを、必ず誰かが止めなければならない。その点、常に誰かしらが詰めている研究所は都合がよい、ということらしい。
では、『異界』の存在と接触する前――そして、接触してから研究所に招かれるまでのヌイさんはどこに暮らしていたのか。
その答えがこれだ。
「元々はこんな場所じゃなかったんだけど、あー、その、過去のアタシがやらかしましてぇ」
「やらかしたって、何を?」
「異界潜航装置のプロトタイプを野放しにしたのよ。当時のアタシは『異界』に潜る方法を単純に考えてた。『こちら側』への影響と『帰還する』システムの考慮がない、一方通行の『異界』への突入口を開き続けるっていうはた迷惑な代物」
それは「やらかし」なんて言葉では収まらない、もはや人為的な災害というやつだ。人類は未だ『異界』をろくに知らず、『異界』への扉を開ける方法もわからなければ、当然閉める方法も知り得ないのだから。
ただ、これに関しては、今のヌイさんを責めても仕方ない。
「……その時のヌイさんには、ろくに判断できなかったんすよね。そりゃ、しゃーない話っすよ」
今、俺と話してるヌイさんは、まだ話が通じる。だが、リーダーが出会った頃のヌイさんはほとんど意志疎通が不可能だったという。リーダーが根気よく話を聞いて、やっとヌイさんの抱えている事情がかろうじて見えてきて。それから長期の治療と療養を経てやっと意味の通る話ができるくらいになったということだから、当時のヌイさんに正常な判断が不可能だったことくらいは、俺にだってわかる。
だからこそ、今のヌイさんが、過去の自分の後始末に挑もうとしていることも。
「ありがと」
ヌイさんは少しだけ笑った。それからすぐに表情を引き締めて話を続ける。
「プロトタイプそのものが今も同じように動いてるかはわかんない。ただ、この様子だと『異界』への扉は開き続けてるし、下手するとこれ以上の規模になる可能性もある。アタシが前に見たときより侵食の規模がでかくなってるから、そう見当違いの推測でもないはずよ」
確かに、カーナビが示す目的地からまだ多少の距離がある。「目的地」がかつてのヌイさんの家であることはもはや疑いようもないが、そこから『異界』の影響がこんな場所にまで及んでいることにぞっとする。
「だから、ずっと『異界』の入口を閉ざす方法を考えてた。できる、とは思ってたけど、それなりに穏便なやり方を模索してた」
それなりに穏便、というのがヌイさんのなけなしの理性といえる。周りへの影響を考えなければいくらでもやりようはある、ということだから。
「で、『それなりに穏便な』やり方が見つかった、ってことすか」
「やり方自体は荒っぽいけど、アタシ一人が覚悟決めれば、最高に穏便」
その言い方には、ものすごく嫌な予感がした。
「何、する気なんすか?」
「難しいことじゃないわよ、プロトタイプの機能を逆転させる。ただ、仕組みを詳しく説明するともっちーのメンタルに悪いから割愛」
要するにヌイさんにしか理解しえない|人知を超えた《、、、、、、》領域の話ってことだ。ただ、ヌイさんの発言の問題点はそこではない。
「そのやり方は、ヌイさんに危険があるってことすか」
「ん、いつもやってることを、アタシがやるだけよ」
俺らがいつもやってること。それは――。
「『潜航』、っすか」
「そう。大したことじゃないでしょ?」
俺たちが『潜航』という言葉を使うときは、『異界』に潜るということ。一言で言えばそうなのだが、そこにはいくつもの課題が存在する。
例えば、『異界』から無事に帰ってくる方法だとか。『異界』で危険に陥ったときに即座に退避する方法だとか。目の前に『異界』がある以上、単に向かうだけなら不可能はないが、伴う問題点を考慮していなければ片手落ちだ。
「潜航装置もないのに……、いや、後ろの荷物がそれっすか?」
「ご名答」
布のかけられた、妙に大きな金属の箱。ヌイさんと俺とで運びこんだもの。だが、それは。
「潜航装置にしては小型すぎやしません?」
俺が普段、プロジェクトで目にしている異界潜航装置は、天井にも届きそうなサーバーラックいっぱいに収まるコンピューターの形をしている。なお、その中身は俺も詳しくは知らない。ヌイさんの手がけたものを他人が理解できないのは当然ゆえに。とはいえ、その大きさがヌイさん視点で「必要不可欠」であることは推測できる。つまり、ヌイさんであっても簡単に小型化できるものではない、はずなのだが。
「目の付け所がいいわね。そう、これは、通常の潜航装置からいくつか機能をオミットしてる。『異界』を探し出して、突入口を開く仕組みとかね」
なるほど、確かに今回のように既に扉が開いているなら、わざわざ『異界』を探査する機能も、入口を作る機能も必要ない。実のところ「異界潜航装置」と言っても『潜航』そのものより「探査」と「突入」にかなりのリソースを割く羽目になっている、というのは以前からヌイさんが愚痴っていたことだ。
「そろそろ停めて。これ以上は危険かも」
ヌイさんの声に、慌ててブレーキを踏む。ミラー越しに背後を見れば、来た道はかろうじて『こちら側』の見た目を維持しているが、今にも周囲の歪みに巻き込まれて消えてしまいそうだ。
「でも、まだ目的地までちょっとありますよ」
「ここからは潜航装置を使うわ。もっちー、前までコード延ばすから受け取ってくれる?」
俺が返事するよりも先に、ヌイさんは車を降りて、後ろに載せた装置の準備を始めてしまった。装置を稼動させるには、どうやら一緒に積み込んだポータブル電源を用いるらしい。どうしてこんなオカルト装置に電気が必要なのかは永遠の謎だ。ヌイさんに聞けば答えてくれるのだろうが、下手に聞いてこっちまで頭をやられたら話にならない。
ヌイさんの指示に従って、装置から延びる何本かの細いコードを運転席まで手繰り寄せる。そのうちいくつかは先端がシール状になっているところを見るに、これを体に貼り付けて『潜航』を行うつもりなのだろう。ここは普段俺たちが使っている潜航装置と同じ仕組みと見える。
そもそも、俺たちが『異界』へ潜るのに必要な手続きは大きく二つ。
一つ目は、『異界』の探査と突入口の生成。俺たちには知覚できない次元において、数多の『異界』が『こちら側』に近づいたり離れたりしている。その座標を特定し、アンカーを打って『こちら側』との道筋を作る手続きが必要だ。ただし今回は『こちら側』と繋がった『異界』が目前にある、というイレギュラーケースなので、この手順は割愛される。
二つ目は、『潜航』そのものになるが、『潜航』に生身の人間を使わないのが俺たちのやり方、というか、潜航装置を作ったヌイさんの方針だ。ヌイさんは人間の肉体と意識とを切り離し、その上で意識だけを『異界』に送り込む仕組みを作った。これは、人間の肉体と意識との間にある密接なつながりを利用しており、もし意識が危険にさらされた場合、一気に『こちら側』の肉体に引き戻すことが可能、という利点がある。
このイレギュラーな『潜航』でも、ヌイさんは意識体だけをここから先のエリアに向かわせるつもりとみえる、が――。
その時、後ろから馬鹿でかいファンの音が聞こえてきた。どうやら装置が無事に起動したらしい。潜航装置は、具体的な仕組みはともかくそれぞれの部品だけの話をするなら精密機器なので、適切な冷却が必要なのだ。
「オーケイ、始めましょう?」
ヌイさんが助手席に戻ってきて、シールのついていない何本かのコードを、手にしたタブレット端末から延びるタップに差し込む。ヌイさんの指先が素早く何度か画面を叩いたところで、タブレットを投げ渡される。
「観測、お願い」
見慣れた画面だ。仕事で使っている潜航装置のコンソールと、全く同じ。
指先が冷える。いくら仕事と同じことをこの場でやるだけ、とはいえ。
「ヌイさん。……ほんとに、やるつもりなんすか」
そう、言わずにはいられなかった。
ヌイさんは、大したことじゃないと言った。だが、覚悟を要するとも。そう、俺たちにとって、『潜航』とはそういうものだ。
意識と肉体を切り離すことによって、いざという時の引き上げが可能になったのは事実。だが、『異界』におけるあらゆる危険が避けられるわけではない。意識体が「傷ついた」と認識すれば当然苦痛を感じるし、意識がひとたび「死」を認識してしまえば、リンクする肉体も当然死に至る。
だから、通常、俺たちプロジェクトメンバーが『潜航』することはあり得ない。『潜航』のために選ばれた、使い捨ての、体のいい人柱である異界潜航サンプルが『異界』に赴くのだ。使い捨てと言いつつ、初代のサンプルはほぼ毎日『潜航』を行いながら二年生き延びたわけだが。あのおっさんがあまりにも優秀すぎたので、リーダーは次のサンプルの選定に頭を悩ませている。
とにかく、ヌイさんが『異界』に赴くのは、いくら正規の手順を踏んだところで危険を伴う。
「なーに、心配?」
ヌイさんは歯並びの悪い歯を見せて、笑う。
何しろ、替えの利かない人員であるヌイさんを欠くということは、俺たちのプロジェクトにとってどうしようもない損失だ。
――それ以上に。
「ヌイさんがいなくなったら、研究室が寂しくなりますからね」
俺は、その程度には、ヌイさんを気に入っている。
ただでさえ大きな目を見開いたヌイさんは、一拍遅れて心底愉快そうに言う。
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃない、もっちーったら」
ヌイさんは極めて正直なひとで、「嬉しい」と言った以上は皮肉でもなんでもないとわかるだけに、背中がこそばゆくなる。思わず身を縮める俺に笑いかけてくるヌイさんは、相変わらずちょっと怖いツラをしていたけれど。
「アタシだって、ここで終わらせる気はさらさらない。だから、もしもの時は、頼んだわよ」
そう言って、真っ直ぐな目で、俺に命綱を握らせてくる。
俺たちの仕事では、異界潜航サンプルの引き上げはリーダーの役目だ。俺は潜航装置の操作とログの監視を担当しているが、『潜航』中止の決断はリーダーの一存である。だから、こんな形で、人の命綱を握らされることになろうとは思ってもみなかった。
嫌だ、という気持ちが無いと言ったら嘘になる。流石にヌイさんが率先して動いたこの状況で、俺だけが責任を取らされることは無いと思うが、俺の判断ミスでヌイさんに何かが起こるのは、単純に寝覚めが悪い。
「ちょっとでもヤバかったら引き上げますよ」
「それでいいわ。その時はダメだったってお上に報告するだけだしね」
軽い調子で言うヌイさんに、まるで気負いというものはなさそうだった。危険に自分から飛び込んでいこうというのに、どこか浮足立っているようですらある。
いや、それはそれでわからなくもないのだが。
俺たちは結局のところ異界研究者であって、自ら『異界』の地を踏むことに、多少なりとも高揚しないといったら、嘘になるのだ。
ヌイさんがどうして『異界』とその住人に触れることになったのか、どうして俺たちのプロジェクトに参加する気になったのか、結局のところ俺は何も知らない。
知らないけれど、ヌイさんにとってその出会いが特別な経験で――それこそ取り返しのつかない狂気に陥りながら、なお、目を背けることなく『異界』に関わり続ける程度のモチベーションであることには、違いがないのだから。
「じゃ、よろしくね」
あっけらかんと笑うヌイさんに、俺は、肩を竦めて返した。
残響夜行
読上
行きて帰りし後始末(1)
ばりぼりばりぼり。助手席から聞こえてくる派手な音に、思わず溜息が出る。
「あの」
「なーに」
「人の車で遠慮なく菓子貪るのやめてくれません?」
「いいじゃないの、汚さないようには気ぃ遣ってるし。ひとついる?」
「いただきます」
赤信号で停止したところで、スティック型のスナック菓子が差し出される。油で揚げたタイプのスナックを持ち込まなかったあたり、「気を遣っている」という言葉は嘘でもないらしい。かろうじて。
受け取った菓子をぽりぽりと咀嚼しながら、助手席を見やる。すると、ヌイさんのぎょろりとした目とばっちり視線が合う。
「何よ」
「いや、何で俺、ヌイさんとドライブデートしてんのかなぁって」
「いきなり我に返らないでくれる? どうせ愛するカノジョは用事あったんでしょ、ならたまには仕事仲間のお願いにも付き合うもんよ」
そりゃそうなんですけど、と二度目の溜息を吐く俺に、ヌイさんはにこりと笑いかけてくる。本人の中では精いっぱいの「かわいい笑顔」のつもりなのかもしれないが、どう見ても悪魔じみている。頬骨の張った輪郭に肉付きの悪い頬、その血色がよかった日を俺は知らない。低い鼻と薄い唇という平坦な顔の中で、双眸だけが妙に大きく、かつ、ぎらぎらと強い光を宿している。悪魔、そうでなきゃ飢えた獣。そんな、貧相かつ不気味なおっさんであるヌイさんは、もう一つスナック菓子を差し出してくる。
「それとも、何? あずみに頼んだ方がよかったかしら?」
その口から放たれるのは、面構えにさっぱり似合わないベタベタな女言葉。声変わりを中途半端に経験したかのような高めの掠れ声が、更にぱっと見の印象を裏切っている。
スナック菓子を今度は大きめに一口。ヌイさんに倣って大げさな音を立てて噛みしめながら。
「リーダーに頼むのは完全に命知らずっすよ」
我らがプロジェクトリーダーの、見た目だけなら「クールビューティー」と言うべき凛とした姿を脳裏に描く。お世辞を抜きにしてとびきりの美女で、広い知識とよく回る頭を持つ切れ者で、俺たちのような奇人変人を束ねるリーダーシップも兼ね備える立派な人物だと思うが、あの人が車を無事故で運転できるかと問われれば、絶対に否と言い切れる。実際に乗ったことがなくても断言できる。そういう人だ。
「わかってて言ってんのよ。っつーかあいつが免許持ってるの未だに信じらんない」
「免許取るまでに何人轢き殺したんすかね」
「ねえ? 担当の教官がかわいそうだわ」
もちろん「轢き殺した」というのは言葉の綾だが、そうであってもおかしくはない、と思わせるほどの鈍くささ。あの人がどうやって免許を取ったのかは当プロジェクトの七不思議の一つだ。
「っつーか、今更ですけど、ヌイさんは免許持ってないんすか」
「持ってたわよ、取り上げられたけど」
「あー……」
確かに、ヌイさんはリーダーよりはよっぽど上手くやるだろうが、リーダーとは全く別の理由でハンドルを握らせたくない。取り上げられたのも、つまりそういうことだろう、きっと。
「信号、変わってるわよー」
いつの間にか、進行方向の信号が変わっていたようだ。一旦ヌイさんから正面に意識を戻す。相変わらず横からはばりばりとヌイさんがスナック菓子を貪る音が聞こえてくるが、この際気にしないことにした。本人が「気を遣っている」と言った以上は食べかすをまき散らすような真似もしないだろう、と信じて。
ヌイさんは俺の同僚というか、プロジェクトに参画した時期では二、三年ほど先輩に当たる|技術担当者《エンジニア》だ。ただ、この業界の研究では俺の方が断然経歴が長いこともあり、先輩というよりは年上の同僚、というのがヌイさんに対する俺の認識。ヌイさんから俺に対する認識もそう変わらないだろう。
口が裂けても友人とは言い難い、単なる仕事仲間。ただ、共にいてそれなりに心地いい、適切な距離を保った関係、と言うのが正しいか。彼女にまつわる話を蛇蝎のごとく嫌って聞いてくれない以外は、とても気安く話しやすい同僚。ヌイさんとは、そういう人だ。
ただ、いくら話しやすいからといって、お互いに全てを曝け出すような関係でもないのは、そうで。
「で、これからどこに何しに行く気なんすか。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないすか?」
俺は、ヌイさんがわざわざ休日に呼び出してきた理由を、何一つ知らないままここにいる。
次の休日に車を出してくれない? と声をかけてきたヌイさんは、言葉こそ軽い調子だったが、やけにシリアスな目をしていた。普段から研究所に住み込んでいるヌイさんが、自ら敷地の外に足を運ぼうとするのは珍しい。大概のことなら研究所で十分、と常日頃から豪語しているヌイさんだから、余計にそう思うのかもしれない。
当然ながら頼まれた時点で目的を問いはしたが、上手く誤魔化されてしまったのだ。ひとたびヌイさんのペースに乗せられればそこから逃れるのは至難の業で、あれよという間に今日この日に車を出すことを了承させられてしまったのだった。もちろんこれは、「ヌイさんならそうそう悪いようにはしないだろう」という信頼あってのものだが。この人はちょっと頭はおかしいが、自他にとって極端に不利益になることは嫌うから。
だから、今度こそ教えてもらえると思ったのだが――。
「着けばわかるわ」
と、つれないものだ。
「でも、何かあるような場所じゃねっすよね、行先」
ヌイさんがカーナビに打ち込んだ住所と、住所から割り出された目的地の地図を見る限り、単なる住宅街だ。周辺に目立った施設があるようにも見えないし、ヌイさんが何を思ってその場所を指定しているのか、全く想像がつかない。
「後ろに積んだのも何だか教えてもらえてないし。秘密主義は嫌われますぜ」
「だって、口で説明するより見てもらった方が早いんだもの。どうせ、あと十分足らずでわかるんだし」
確かに、カーナビの音声と現在位置とを照らし合わせれば、目的地まではそう遠くない。
車間距離と速度が問題ないことを確かめて、一瞬だけヌイさんに視線をやる。窓に肘をついた姿勢で真っ直ぐに前を見ているヌイさんの横顔は、いつになく険しい。こんな顔をしているヌイさんを見るのは、リーダーがヌイさんの作った装置の電源ケーブルに足を引っかけてあわや大惨事となりかけた時以来かもしれない。あの人、ろくなことしないな。
「ちゃんと前見なさいよ、危ないわね」
ヌイさんは依然として前を見たままだったが、こちらの視線には気づいていたらしく、呆れた調子で言う。
「カノジョと一緒ならともかく、こんな頭のおかしいおっさんと事故死するのは嫌でしょ、あんたも」
「嫌っすねえ」
というか、彼女と事故死するのだって当然嫌だ。嫌さの質が違う。
視線を前に戻して運転を続ける。カーナビはしばらく直進を指示しているのだが、何とはなしに様子がおかしくなってきた。
「この先、通行止め……?」
カーナビの示す道は、更に真っ直ぐ続いている。目的地まで、もう少し距離があるはずだ。だが、「通行止め」という看板を見つけて、そこから少し走ったところで、ブレーキを踏むことになる。
目につく色で書かれた「通行止め」と「危険、立ち入り禁止」の看板。そして、道路を塞ぐようにバリケードが設置されている。立ち入り禁止の理由を見る限り、バリケードの先のエリアが地盤沈下により侵入不可ということで、これは別の道を通ったとしても無駄だろう。
「ヌイさん、」
言いかけたところで、ばたん、と音がした。見れば、ヌイさんが助手席から降りて扉を閉めたところだった。そして、つかつかとバリケードの方に向かっていったかと思うと、突然バリケードをむんずと掴んで引きずり始めた。
「ちょっ、何してんすかヌイさん!?」
慌てて車を降りれば、ヌイさんがきょとんとした顔を向けてくる。
「邪魔だからどかしてんのよ。もっちーも手伝ってくれる? 思ったより重くてさあ」
確かにバリケードは大きく、重さもかなりのものだろう。下手な女性より小柄かつ華奢なヌイさん一人で運ぶのは至難だ。
しかし、手伝え、と言われても。
「この先立ち入り禁止だって書いてあるじゃねっすか。もしかして、文字も読めなくなりました?」
「もっちーったら、随分皮肉が上手くなったわね」
いや、ヌイさんの場合は本当に文字が読めていないことがあるから。そういう時はまず静かな場所で休ませないといけないのだが、どうやらこの反応を見るに、わかってやっているらしい。
「アタシ、この先に用があんのよ」
「でも、絶対危険でしょ」
これだけ大げさにバリケードで封じられているし、地盤沈下という封鎖理由も物々しい。正直なところ、ヌイさんが行きたいと言うのは自由だが、俺を巻き込むのはやめてほしい。
俺が渋っているのを察してか、ヌイさんは一体どこの通販ショップで仕入れたのか、ぶかぶかの派手なスニーカー履きの足でこちらに歩み寄ると、腰に手を当ててこちらを見上げてくる。
「ここから先が『異界』だと言っても?」
「……は?」
「地盤沈下ってのは表向きの理由。この先には、『異界』の入口がある」
――『異界』。
|此岸《しがん》に対する|彼岸《ひがん》、数多の神話で語られる天国や地獄、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。つまり「ここではないどこか」を十把一絡げにした雑極まりない呼称、それが『異界』だ。
そんなもの夢物語だろう、と言われれば、肩を竦めざるを得ない。しかし、古くから人が『異界』に迷い込む「神隠し」と呼ばれる現象は存在しているし、逆に『異界』からの来訪者とされる神や悪魔、妖怪といった存在も語り継がれている。つまり『異界』が|存在しない《、、、、、》と言い切ることは、誰にもできやしないのだ。無いということを証明するのは、いつだってあることを証明するより難しい。
なおかつ、俺たちは、『異界』が現実に存在すると知っている。
この国は、実は一般的な国民の目には触れない形で『異界』の研究をしている。『異界』の存在を知る国の上層部は、数多の『異界』のデータを取得することで『異界』の有用性を確かめようとしているのだ。その、ちょっとした国家機密といえる異界研究プロジェクトの一員が、ヌイさんであり、俺であるわけだが。
「マジすか」
「マジよマジ、大マジ」
その言い方で信じてもらえるとでも思っているのか、と溜息が止まらない。だが、ヌイさんが「マジ」というなら、それは絶対にマジなのもわかってしまう。この人は、冗談を言うことはあっても決して嘘をつかない。
「じゃあ、このバリケードは、『神隠し』防止ってことすか」
俺たちは「神隠し」を『こちら側』から『異界』へ迷い込む現象と定義している。人為的に『異界』への道筋を作るのは難しいが、偶発的に『異界』が『こちら側』と接続することはそれなりによくある現象で、そのタイミングで『異界』に迷い込み、戻ってこられなくなる人間は相当数存在すると言われる。
そう、俺の親父も――、と、浮かびかかったイメージを頭の一振りで打ち払っていると、ヌイさんが「そうよ」とバリケードの向こう側に視線を投げかける。
「お上も、『異界』への扉をどうにかするのは難しいからって、今まで物理的な人除けで何とかしてたの。まー、無理に侵入して神隠しに遭ったら、そりゃ自己責任だしね?」
ヌイさんの言う「お上」とはもちろん俺らの上司、つまり『異界』の存在を知る国のお偉方だ。国民を混乱させないために、という理由で『異界』の実在を隠蔽するわりにそのやり方が杜撰であることは俺らの間では周知の事実。目の前のバリケードだって、その一つ。確かに一定の効果はあるだろう、俺みたいな真面目で善良な一般国民に向けては。ただ、好奇心やら何やらに負けて入り込む連中の責任までは取ってくれない。自己責任とは便利な言葉だが、まさか別の世界に迷いこんで帰ってこられなくなる、なんて誰が想像するのだろう。
まあ、その辺りは俺が考えることではなく、お偉方がどうにかすることだ。俺たちの仕事はあくまで『異界』を観測してデータを取り、解析することで、それ以上でも以下でもない。
だから、目下俺が向き合うべきは、今この場における話。
「……ヌイさん、この先で、何しようとしてるんです?」
猛烈に嫌な予感がする。
その「嫌な予感」を裏付けるように、ヌイさんは、にこりと――悪魔めいた笑みを浮かべる。
「お上の悩みを解決しようって言ってんのよ」
それは、つまり。
この先で発生しているという『異界』への入口を閉ざす、ということ。
「できるんすか、そんなん」
少なくとも俺は聞いたことがない。『こちら側』から『異界』への突入口を探り当てるのはヌイさんの十八番だが、恒常的に存在する『異界』への入口を閉じる方法というのは、今まで聞いたことがない。『こちら側』と『異界』の接続は基本的には不安定で、俺たちの実験においては無理やりこじ開けても勝手に閉じるものであるから意識したことがない、ということでもあるが。
ヌイさんはバリケードに寄りかかって、小さな手を振る。
「試算では七割くらい。机上の計算なんてあてにならないけど」
どうやって、には言及しないし、仔細を説明されたとして俺には理解できないことは、お互いによく知っている。ヌイさんの思考回路は、ちょっと理解の及ばない範囲にあるから。その「理解の及ばなさ」こそがヌイさんをプロジェクトの精鋭たらしめているのも事実で、俺はそこに口を挟むべきではない。
「でも、仮にできるとして、ヌイさんに何の得があるんすか」
「何一つ得はしないけど、起こしたことに対する責任はあるのよ。何せこうなったの、アタシのせいだからさ」
「はぁ?」
「ってわけで、どかすの、手伝ってくれる?」
話が戻ってきた。「それ以上の話はバリケードをどかしてから」とヌイさんの目が語っている。
俺は、ここで引き返すこともできたはずだ。
ここで嫌だと言えば、ヌイさんは絶対に強制しなかっただろうし、嫌な顔もしなかっただろう。無理強いをするくらいなら自分が退く、その程度には話のわかる人だ。
しかし、気づけば自分からバリケードに手をかけていた。
結局のところ、俺は好奇心に勝てなかった。
このバリケードの先に『異界』があると聞かされて。その原因がヌイさんにあると聞かされて。この先に何があるのか、ヌイさんが何をしたのか、知りたいと思ってしまったのだ。
残響夜行
読上
夢幻遊園地にて
気づけば、目の前に見知らぬ光景が広がっていた。
雨はいつの間にか止んでいて、夜霧の中に浮かぶのは、色とりどりの霧払いの灯に照らされた巨大な門。その向こう側には暗い霧に霞んで見えないが、いやに明るい場所であるということだけはわかる。ほとんど光の塊にしか見えないそれが何なのかわからないまま、私はぼんやりと門の前に立ちつくしていた。
「お客さま、入場券はお持ちですか?」
不意に声をかけられて視線をやると、今時劇場でしか見ないような、派手かつ古風な服に身を包んだ人物がこちらに向かって手を差し伸べていた。服装ははっきりと見えるのに、不思議なことに顔立ちは霧がかかったかのように曖昧で、声も男のものなのか女のものなのか判然としなかった。
それにしても、入場券など持っているはずもなかったから、首を横に振る。手に取ることが許されているのは、それこそ誰かの目を通した後の手紙くらいで……。そう、そもそも私がこんな見知らぬ場所にいること自体何かがおかしいのだ、と気づくのと同時に霧のような人物が「おや」と声を上げた。
「当日券をお持ちではないですか」
その言葉に、私はほとんど反射的に自分の手元に視線を向けていた。
確かに、その人物の言うとおり、私の手は何かを握っていて……、恐る恐る手を開いてみれば、風船を手にした一人の少女の影を描いた入場券が握られていた。
次の瞬間、ひょい、と私の手から入場券を取り上げられたかと思うと、忽然と私のそばにいたはずの人物は姿を消していた。代わりに、音もなく門が開き……、途端に、色とりどりの光と賑やかな音の洪水が溢れ出してきた。
呆然とする私の耳に、音の中でもよく通る声が、響く。
「ようこそ、『夢幻遊園地』へ。一夜の夢を、お楽しみください」
――ああ、これは、夢なのだ。
一拍遅れて、私は自分が置かれている状況を理解した。
何しろ、私の身体は『雨の塔』にあるはずで、二度とあの雨降る場所から離れられるはずもなくて。このような、賑やかな場所とはとんと無縁であるはずだった。
だから、これは夢なのだ。夢の中の遊園地。遊園地、というものを現実に体験したことのない私の、想像が生み出した何かなのだと、夢の中にしてはいやに明晰な思考で判断する。
本物と見まごう馬や馬車が動きながら巡っていく回転木馬に、線路の上を走っていくきらびやかな車。奥に見える、空に向かって回る巨大な輪のようなものは、観覧車だろうか。一度遠目に見たことのある移動遊園地のことを思い出しながら、ぼんやりとその場に立ちつくす。
……残念ながら、遊園地を前にしてはしゃぐような時代はとうに過ぎ去ってしまっていて、それらをどう楽しめばいいのかもわからない。それこそ、迷子になってしまったような心持ちで、門の方を振り返った、その時だった。
「……叔父さま?」
凛、と響く声。未だに耳慣れているとはいえない呼び声に視線を向ければ、風船を手にした少女がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「やっぱり叔父さまだ。どうしてこんなところに?」
「アレクシア」
そうだ、アレクシア・エピデンドラム。私の姪。彼以外に唯一、私に会いに来たと『雨の塔』を訪れた少女。夢の中でも身間違えようのない彼女は、かつての私によく似た顔で私を見上げる。
「どうして、……と言われても困るな。気づいたらここにいたんだ。ここがどこなのか、どうやって迷い込んだのかもわからない」
いつの間にか手にしていた入場券、どこにあるのかもわからない遊園地。けれど、私がここにいるのも、彼女がここにいるのも、夢の中の出来事だというなら、そういうものだと思うしかない。
夢のアレクシアはそんな私の答えをどう捉えたのだろう。猫のように笑いながら言うのだ。
「なら、わたくしめが案内して進ぜよう。さあ、お手をどうぞ、叔父さま」
今、アレクシアと私の間に鉄格子はなく。夜霧に灯る明かりの下、|芍薬《ピオニー》のような色と質感の服を纏った少女は、私にむかってしらじらとした手を差し伸べる。
果たしてその手を取ってもよいのだろうか。
『雨の塔』では、誰かに触れることは許されていなかった。時に刑務官の手が私に触れることはあっても、この手を伸ばして誰かの手を掴むということは一度もなかったと記憶している。
だから、一瞬、躊躇った。その手を取ってしまえば、……私は、二度と『雨の塔』に戻れなくなってしまうのではないか、と。
けれど、私の逡巡など知ったことはないアレクシアは、差し出しかけた私の手を取る。絡められる指先に温度はなくて、人の肌に触れているという感覚も薄かった。これもまた、夢の中だから、なのかもしれなかった。
片手の風船を揺らすアレクシアに手を取られて、歩き出す。あたりを行き過ぎる人々は皆のっぺらとした影のようで、きちんとした人の形を持っているのは、この世界に私とアレクシアだけであるかのような錯覚を覚える。
「叔父さまは遊園地は初めてかな」
アレクシアはゆっくりと歩みながら言う。あちこちの明かりに照らされているからだろう、地面に落ちた影が複雑に重なり合い、不思議な形を描いている。二人分の足が、その影を踏みながら奥へ奥へと進んでいく。
「そうだね。遠目に眺めたことがあるだけだ。遊園地が各地を巡る頃には、とっくに大人になってしまっていたからね」
「そうか。叔父さまが学生の頃は、まだ戦中だったか」
そう、私が物心ついた頃に理解したのは、この国が長き戦争に厭いているということだった。結局、諸々の出来事が重なった結果なし崩し的に終戦を迎えることになったが、それまで娯楽らしい娯楽はほとんど許されていなかったと言っていい。
だから、各地を巡業する移動遊園地を見るようになったのも、私の感覚ではつい最近のことだ。私の時間の感覚がどれだけ正しいかは怪しいものだが。
「仮に今の私が幼子だったとしても、果たして遊園地に赴いていたかどうか。そんな自由が、あったかどうか」
夢の中にありながら、唯一まるで本物らしく存在するアレクシアは、青い双眸で私を見上げる。
「……叔父さまは、自由になりたかったのかい?」
「いや」
その言葉には、ほとんど反射的に否定していた。
「そもそも、自由というものがわからなかったよ。だから、別に自由を願うこともなかった。何となく言葉の意味がわかるようになったのは、それこそ、『雨の塔』に来てからだね」
かつてそう言ったとき、私の友は衝撃を受けたようで、酷く傷ついた顔で私を見たのだと思い出す。別に彼が悪いわけではない。気づいていなかったのは私で、だからこれはどこまでも私自身の問題でしかない。
果たしてアレクシアは不思議そうに首を傾げるだけだった。多分、アレクシアにはわからないだろうし、わからなくてよいのだと思っている。これがそもそも「わからなくてよい」と思っている私の夢である、と言ってしまえばそれまでなのだが。
とにかく、私が語れることはあまりにも少なくて、だから話を変えることにする。
「アレクシアは、遊園地というものをよく知っているのかな」
「いや、わたしも現実に遊園地に行ったことは一度だけだよ」
意外なことに、アレクシアは首を横に振ってそう言ったのだった。
「近くに移動遊園地の巡業がやってきてね。ニアが行きたがっていたところを、爺やが内緒で連れ出してくれたんだ。あれは楽しかったな」
――という設定、なのだろうか。私の魂魄が作り出した夢にしては妙に細かなところまで決まっているものだと感心する。感心したという事実も、目覚めた頃にはすっかりぼやけた輪郭になっているのだろうけれど。
アレクシアはぱっと顔を上げると、ひんやりとした手で私の手を引く。
「叔父さま、あれに乗ってみないか?」
アレクシアの視線の先には、先ほども遠目に見えていた回転木馬があった。馬は近くで見れば見るほど本物じみて、今にも動き出しそうに見える。それもまた、夢だからなのかもしれないけれど。
回転木馬はアレクシアを待っているかのように、今は動きを止めている。そこに迷わず駆け寄っていくアレクシアについていきながら、ふと、ずっと聞きそびれていたことを聞いてみることにした。これが夢だと、つまりは私の自己満足でしかないと、わかっていながら。
「アレクシア。君は、私のことが恐ろしくはないのかい」
「叔父さまのことが?」
アレクシアは足を止めて振り向く。意外なことを聞かれた、という顔だった。
それから、鉄格子越しにも見た猫のような笑みを浮かべてみせる。
「最初はどういう人なのかと思っていたが、まるで恐ろしくはないな」
ただ、と。言葉を切って、真っ直ぐに、私の、ひとつしかない目を見上げて。
「どうして、あんなことをしでかしたのか、と不思議に思うだけで」
そう、言うのだ。
そして、アレクシアは別に私の答えを欲していたわけではないのだと思う。ひときわ大きな木馬に跨ると、私を手招く。戸惑いながらも、アレクシアが望んでいるらしいのだからいいのだろうと思うことにして、アレクシアの後ろに跨って彼女の体を支える。アレクシアの体は思ったよりもずっと小さくて細く、そして冷たい。
アレクシアは私の胸に体重を預けながら、ぽつりと呟いた。
「叔父さまは、あたたかいのだな」
そうだ。私には、まだかろうじて、血が通っている。
その事実を思い出すと同時に、アレクシアの体の冷たさが無性に不安になってくる。全て、私が勝手に思い描いている夢だというのに、奇妙な話ではあるが――不安になったのは本当だ。
「アレクシア、」
呼びかけた声は、突如として流れ始めた音楽に遮られる。華やかな音楽に乗せて回転木馬が動き出す。アレクシアが、今ばかりは無邪気な少女の横顔を見せていて、無粋な問いかけは喉の奥に飲み込まれたままになる。
腕の中に少女のかたちを抱えた私を乗せて、木馬は回る。
――雨の降らない夜は、まだ始まったばかりだ。
レイニータワーの過去視
読上
01:終点で君と出会う(8)
「……できすぎだ」
ぽつり、とアレクシアが漏らす。それに対して、私は「それはそうだよ」と言うことしかできない。
「私は君から聞いた話から、推測だけを積み重ねたに過ぎない。もちろん、もっと説得力のある論も出せるのかもしれない。私にそれができなかった、というだけで。何せ私は警察でもなければ探偵でもなく、ましてや魔法使いでもない」
言ってしまえば、ただの犯罪者だ。二度とこの塔から出ることはない、程度の。
「けれど、ひとつだけ、これだけは確かだと言えることがある」
そう、そんな私から見ても明白に立ち現れた、この出来事の本来の姿。アレクシアはまだ気づいていないのか、不服そうな表情をこちらに向けているけれど……。
「まだ、この出来事には議論の余地が十二分にある、ということだよ」
「あ……っ!」
難しい顔をしていたアレクシアが、ぱっと顔をあげる。
「姉さんが犯人である可能性が限りなく低いことは示した通り。そして、アントニア嬢が思わぬ関わり方をしている可能性も。オーブリー卿がただの被害者ではない可能性も」
「そう、か。確かにそうだ」
私の突飛な推理は、あくまで物事を考える足がかりに過ぎない。何せこの一連の出来事に結論を出すのは私ではなく、この事件に関わった人々と、それを解き明かそうと試みたアレクシア当人だ。
「あとは君次第さ、アレクシア。君ひとりで難しいようなら、私が友に一筆書いてもいい。都合のよいことに、私の友は警察官だからね」
「いや。……大丈夫だ、叔父さま。ありがとう」
アレクシアは背筋を伸ばして笑ってみせる。その晴れやかな笑顔が、なんとも眩しく感じられる。それは、私からは遠く離れた、もはや誰からも向けられないと思っていたものであったから。
その上で、アレクシアは私の顔を鉄格子越しに覗き込むようにしながら言うのだ。
「叔父さま、何か礼はできないだろうか。わたしにできることなどたかが知れているが」
礼、だなんて。おかしくなってしまって、少しばかり笑ってしまう。怪訝な顔をするアレクシアに、私はゆるりとかぶりを振った。
「礼などいらないよ。君がここに来てくれて、話をしてくれただけで、十分さ。このような言い方をしてよいものかはわからないけれど、久方ぶりに快い時間だった」
語られた出来事そのものは凄惨なもので、アレクシアにとっても決して「快い」などという言葉で片付けられるものではないのはわかる。それでも、私にとって、久方ぶりに彼以外の人間と言葉を交わせたのは、それこそ奇跡のような巡り合わせであったのだ。
きっと、友以外の誰一人として、この場に訪れることはないと思っていたから。
そのまま、ゆっくりと、朽ち果てていくだけであると思っていたから。
「頼ってくれてありがとう、アレクシア。どうか、一連の出来事が君にとって良き結末を迎えますように」
今更贖罪などと言うつもりはない。ただ、今ここで私と向き合っている彼女が、少しでも幸福に感じられるような結末を迎えてくれるように、願う。そのために、背中を押す手伝いをできたなら、この上なく喜ばしいことだと――思う。
アレクシアは青い目をぱちぱちさせて私を見た。それから「叔父さまは不思議な人だな」という感想を述べた。
「そうかな? 特別なことを言ったつもりはないけれど」
「叔父さまは、世間から自分がどう見られているのかをもう少し自覚した方がいいと思うぞ?」
「なるほど、それは一理ある」
決してわかっていないわけではないのだ、世間にとって私というものがどういう存在であるのか。そして、その評価が決して誤ったものでないということも。
その一方で、今、目の前にいるそのひとに「悲しまないでほしい」と願うことくらいはする。それだけの話。
本当に、ただ、それだけの話なのだ。
それだけの。
アレクシアは何を思ったのだろう、じっと私を見つめていたけれど……、そこに、不意に声が割り込んでくる。
「時間だ」
鋼のように響いたのは、私の背後に立っていた刑務官の声だった。
はっとしたような顔をしたアレクシアは、それから音もなく立ち上がる。雨避けの外套の裾が、鉄格子の向こう側で揺れる。
「では、わたしはこれで。ごきげんよう、叔父さま」
「アレクシアも、どうか元気で」
立ち上がりながら軽く頭を下げると、アレクシアは猫のような笑みを浮かべて言った。
「次までは、わたしの名前を忘れないでくれたまえよ?」
――次?
問い直す暇もなく、アレクシアは外套を翻して背を向ける。終始無言で控えていた老従者が私に向かって深々と一礼するのを、軽い会釈で受け止める。
当たり前のようにやってきた当たり前でなかった少女は、今も、当たり前のように帰っていこうとしていく。
「アレクシア」
思わず。本当に思わず、声をかけてしまった。アレクシアがゆっくりとこちらを振り返る。その顔に浮かんでいたのが変わらぬ笑顔で、内心ほっとする。
本当に「次」なんてものがあるのかはわからない。あったとして、何が変わるわけでもない。私は息が尽きるまでここにいて、アレクシアは外からやってきて、去っていく。それだけの話。
それだけの話、なのに、何故だろうか。
「……|また《、、》。何か困ったことがあれば、話し相手になるよ」
なんて、言ってしまったのは。
アレクシアは驚いたように目を開いて、それから……、にっと白い歯を見せて笑った。
「ありがとう、叔父さま。存分に頼らせてもらうよ」
それでは、と。短い言葉を残して、今度こそアレクシアは老従者を引き連れて面会室から姿を消した。誰もいなくなった鉄格子の向こうで、ぽつりと椅子だけが存在を主張していた。
「行くぞ」
刑務官の声が背後から響く。
アレクシアが座っていた椅子は、もちろん何も語らなくて。だから、私もそれに背を向け、手枷と足枷の鎖の音を聞きながら、来た道を、ゆっくりと戻っていく。
私のために用意された独房は、常と何一つ変わらない。
――そのはずだった。
「……静かになってしまったな」
天高く開いた窓からは、雨の音だけが聞こえてくる。
寝台の隅に腰掛けて、瞼を閉じる。完全な闇に閉ざされた世界で、さあさあと音がする。いつものことだ。あまりにもいつものこと。慣れきってしまったはずの、雨の日。
けれど、いやに静かに感じられるのは、きっと、常に無い訪問者の声が今もなお頭の中に響いているからだろう。
アレクシア・エピデンドラム。
存在していることも知らなかった、私の姪。
決して喧しい声ではなく、ただ、鈍色の雨を貫くような凛と響く声音が頭から離れないままでいる。私のことを「叔父さま」と呼ぶ声。気丈にも背筋を伸ばして、決して自らにも無関係でない凄惨な出来事を、できる限り客観的に話そうとしていた姿。
賢い娘であったと思う。かつての私と似た世界に生きていながら、まるで違う存在であったと、思う。
「あー……」
自分の声を確かめるためだけに声を出して、そのまま寝台に倒れこむ。慣れきった硬い感触を背中と後頭部で受けながら、うっすらと右の瞼を開けて暗い天井を見上げる。
本当にアレクシアは「また」来るのだろうか。私に「次」はあるのだろうか。そんなことを考えかけて、やめる。全てはアレクシア次第で、場合によってはアレクシアが望んだとしても周囲が許すはずもなくて、要するにこれが最初で最後であっても全くおかしくないのだ。
ただ。
『次までは、わたしの名前を忘れないでくれたまえよ?』
――忘れられるはずもない、と思う。
友以外に初めて「私」を訪ねてきた娘。私の罪を知りながら、それを責め立てるでもない者を初めて見た、と言ってもいい。責められて当然のことをしてきたのだから、いっそ居心地が悪かったとも言える。
なのに、その居心地の悪さもすぐに忘れた。本当は忘れてはいけないものだとわかっていながら、アレクシアと話しているひと時だけは、自身が罪を償うために息をしている身であることを意識していなかったのだと思い出す。
それが正しいとは思わない。思わないけれど、そういうひと時がもたらされることもあるのだと、初めて知った。仮にこれが最初で最後であったとしても、忘れることなどできやしないと思う。
どうか、アレクシアの行く道に祝福あれと願う。せめて、彼女の直面した出来事が、彼女の望むような形で終息してくれればよい。そこに、私の荒唐無稽な説明が少しでも足しになるのならば、それは喜ばしいことだと思う。
とはいえ、その終息の形を私が知ることはないのだろう。次にアレクシアが来るときまでは。
だから私にできることは、今日という日の記憶を忘れないように日々を過ごすことだけだ。
そう、今日も私にとっての「終点」で、時間だけが過ぎていく。
贖罪の時は、終わることはない。
レイニータワーの過去視
読上
01:終点で君と出会う(7)
「……何だって?」
張り詰めていたアレクシアの唇から、間の抜けた声が漏れた。
「いや、私がさっきからずっと気にしているのは、姉さんが、もしくはアントニア嬢がオーブリー卿を殺せたか、ということなんだ」
一体私が何を言い出したのかわからないのだろうアレクシアは、唇を尖らせて眉根を寄せる。
「事実として、オーブリー伯父上は死んでいるが」
「もちろん、そこを疑っているわけじゃない。ただ、どう考えても『難しい』ことだけははっきりしているんだ。……見てもらえればわかるかな? 立ってみてごらん」
アレクシアに立つよう促しながら、自分も立ち上がる。鎖の音と共に「おい」という刑務官の鋭い声が飛んできたから、ちらりとそちらを見て笑いかける。
「ここからは一歩も動かないよ」
言い置いて、鉄格子を間に挟んでアレクシアと向き合う。立ち上がったアレクシアは想像よりもずっと小さくて、私の胸の辺りに顔が来ている。そして、それこそが、私の仮定を裏付けてくれている。
「アレクシア、アントニアは君とよく似た双子なのかな?」
「……あ、ああ」
アレクシアは私が何を言い出したのかすぐには察せられなかったのか、一拍遅れて頷いた。それでも構うまい、私は手枷で繋がれた不自由な手で目の前に鉄格子を指す。
「では、仮にこの場に鉄格子はなく、君の手に一振りの短剣が握られていたとしよう」
私に人並みの想像力がないことは周知の事実で、だからこそここにいると言っても過言ではないと思うのだけれども、一方でこういう「事実に基づいた想像」に関しては人並み程度だと自負している。だから、アレクシアに問うてみるのだ。
「なら、君はこの状態から、私を刺し殺せると思うかい? 『真正面から』『心臓を一突きで』、だ」
アレクシアははっとした様子で、私と自分の手元とを見比べた。
「無理だな。心臓を狙うには、高すぎる」
「そう。記憶が正しければ、オーブリー卿の身長は私と同じか、少し高いくらいだったはずだ」
横幅で言うならオーブリー卿の方が圧倒的に大きいのだが、それはそれとして。
「正面から向き合った状態で心臓を一突きにするには、君の、つまりアントニアの身長では不可能だよ」
アレクシアは立ちつくしたまま不思議そうに目を瞬かせている。随分迂遠な話の仕方をしているから、まだ話の行き着く先が見えていないのだと思う。
「では、伯父上が倒れている状態からはどうなんだ?」
「うん、それも考えたんだけどね。それなら、死体がうつ伏せであった理由がわからないんだ。わざわざ仰向けで殺したものをうつ伏せにさせるかな?」
アレクシアはうーんと唸る。仮にそこに何らかの理由が見出せるなら話は変わってくるのだが、私はあくまでアレクシアから聞いた話だけで推理を組み立てている。だから、私はそこに「理由はなかった」と考えるのみ。
「それにね、アレクシア。君は知らないかもしれないけど、『心臓を一突き』にするというのは重労働なんだよ。まず、心臓の位置を把握している必要がある。そこを一直線に刺し貫くための膂力も要る。人はそう簡単に殺せるものではないよ」
「叔父さまが言うと含蓄があるな」
ああ、確かにそうかもしれない。ここに至るまでに私は数多くの人を葬ってきたし、それに。
「私は結局、刃では誰も殺せなかったからね」
「笑っていいのかどうか悩ましいな、そこは」
我が姪に困った顔をさせてしまったことは、素直に申し訳なく思う。どうも私の冗談は冗談になっていないとよく友にも諫められるのだ。
アレクシアはしばし私の言葉を吟味するように視線を宙に彷徨わせていたが、ふと睨むような目つきで私を見た。
「つまり。叔父さまは、アントニアには犯行ができない、と言っているのか? あれだけアントニアを疑うようなことを言いながら」
「アントニアが嘘をついている可能性があれば、それこそ事件前からの綿密な計画の下に何らかの仕掛けが使われた、とでも考えたかもしれないけれど。彼女の意識が曖昧な状態であったことを君が保証する以上、これはどこまでも突発的な出来事で、その状態でオーブリー卿を殺すことは、アントニアにはまず不可能だったと思っているよ」
「じゃあ、母さまには?」
「姉さんにも同じ理由で不可能だよ。確かに君より背は高かったと記憶しているけれど、それでもオーブリー卿を正面から相手取れるかというと、私はまず疑問に思うね。というより、私でもオーブリー卿を正面から相手取りたくはない」
アレクシアはどうしても私の言わんとしていることがわからないのか、大げさに首を傾げてみせる。どうも悪い癖なのだ、結論から話せばいいものを、長々と話を引き伸ばしてしまう。……ただ、話を終わらせるのが惜しかっただけなのかもしれない、と気づいたのは、それこそ『|雨の塔《レイニータワー》』に入ってからだったけれど。
とはいえ、話はいつかは必ず終わるもので、この話も終わりに近づいているのは間違いない。アレクシアは私を真っ直ぐに見据えて問いかけてくる。
「では、誰がオーブリー伯父さまを?」
「私が仮定する限り、これは不運な事故だよ。もしくは、オーブリー卿の身から出た錆」
「……どういう、ことだ?」
私は椅子に座りなおす。呆然とした顔のアレクシアが私に合わせてすとんと椅子に腰を落とすのを確認して、口を開く。
「誰にも犯行が難しいなら、それは不運な事故でしか起こりえない。だから、偶然に、オーブリー卿の胸に短剣が刺さって、それが原因で亡くなったんだ」
アレクシアは露骨に「納得できない」という顔をするし、それはそうだろうとも思う。今まで殺人事件だと思っていた話が急に現実味のない「運」などというものに左右される出来事だと言われたのだから。私も、アレクシアの話す前提さえなければ、殺人事件として話をでっち上げてもよかったのだ。
けれど、アレクシアの話す前提と私の知識とを全て加味するならば、これは「不運な事故」と仮定するしかない。
「不運な事故というなら、その短剣はどうやってオーブリー伯父上に刺さったっていうんだ? まさか宙を飛んでなんてことはあるまいな」
「そこまで非現実的なことを言う気はないよ。その短剣は、アントニア嬢の手の中にあったのだと思っている」
呆れ半分、苛立ち半分だったアレクシアの表情が一気に強張る。そう、これは「事故」だとは言ったけれど、アントニアが無関係だと言ったつもりはない。私の話はここからが本題なのだ。
「整理して話そうか。まず、事件前に既にアントニアは部屋にいたのだと思っている。……アレクシア、それ以前のアントニア嬢の様子におかしなところはなかったかな?」
質問の形をしてはいるが、これはほとんど確認だ。私の知識から来る想定が正しいということの、確認。
「眠気が酷くて少し休む……、と言って席を立ったところまでは覚えている」
「だろうね」
「叔父さまには、心当たりがあるのか」
「おそらく、それはオーブリー卿の仕業だよ。オーブリー卿には、……そうだな、君には少々言いづらいのだけど、酔うと理性の箍が外れてしまうのか、厄介な癖のようなものがあってね」
当時のことは積極的に思い出したくはなかったのだが、ことここに至ればそれが鍵になってくるのだから仕方ない。生々しい感覚をできる限り意識の外に追いやりながら言葉を選ぶ。
「おそらく表沙汰にはされていないだろうけれど、彼には君のような年頃の少年少女にちょっかいを出したくなる、というか……」
「それは、言葉通りというよりも、もっと醜悪な意味があると思えばいいだろうか?」
「そう思ってくれれば結構だよ」
特に、アレクシアは幼い頃の私によく似ている。その目鼻立ちや、重たそうな外套から覗く華奢な指先や手首。当時の私がよっぽど少女じみていたという方が正しいのかもしれないが、ともあれ、私に似ている以上はオーブリー卿のお眼鏡に適ってしまったとしても何ら不思議ではない。
「君でなくアントニア嬢が選ばれた理由はわからないけれど、オーブリー卿は普段から自分が飲んでいる睡眠薬か何かをアントニアの飲み物に盛ったのだと思う」
何故そう言えるかといえば、私にも似た経験があるからだ。更に、アントニアにとっては身内の、しかも気を許しているであろう伯父相手だ。特に警戒らしい警戒もしていなかったに違いない。
「そして、アントニア嬢は眠気を訴えて休憩室として開かれていた部屋に移動した。オーブリー卿も酔いを理由にして、それを追う形で部屋に向かった」
かくして、部屋のソファに腰掛けていたアントニアは、追ってやってきたオーブリー卿を目にすることになる。
「アントニア嬢はオーブリー卿のただならない様子に気づいたのかもしれない。もしかすると、何か抵抗を試みたのかもしれないね。それで、オーブリー卿はアントニア嬢を脅すために、入り口近くの短剣を手に取ったのではないかな」
だが、前後がわからなくなるくらいに酔っているオーブリー卿のことだ。短剣を闇雲に振り回してみるも、ソファの肘掛を傷つけた拍子に短剣が手から抜け落ちたのだと思っている。
「アントニア嬢は朦朧としながらも、異常な様子の伯父から身を守るために、落ちた短剣を手に取りながら部屋の奥へと逃げた」
「最初からアントニアが短剣を手にしていた可能性はないのか?」
「私も見ていたわけではないから、それは何とも言えないね。ただ、短剣が元々部屋の入り口近くにかけてあったことを考えると、アントニア嬢がわざわざ手に取るくらいなら、部屋の外に逃げて助けを求めるかなと思ってね。それができなかった以上、オーブリー卿が部屋の扉を塞ぐ形で立ちはだかっていた、と考えてもよいのではないかな」
アレクシアは私の言葉に「なるほど」と唸って、再び聞く姿勢に入る。
「……そして、アントニア嬢は、オーブリー卿に短剣を構えてみせた」
その時のことは、私にはもちろん想像することしかできなくて、彼女の恐慌もオーブリー卿の狂気もあくまで「仮定」でしかあり得ない。だから私はただ淡々と話を進めていく。
「短剣を持ったアントニア嬢を見ても、オーブリー卿は一笑に付したのではないかな。さっきも言ったとおり、ただでさえ朦朧としているアントニア嬢に人を殺せるわけがない。オーブリー卿からしたら尚更そう見えたに違いないのだから」
「でも、事実としてオーブリー伯父上は死んだ」
「そう。何故なら、オーブリー卿がそこで転んだからさ」
アレクシアの口から、二度目となる「何だって?」の声が飛び出す。ただ、それは予測の範囲内であったから、私も苦笑を交えて返す。
「だから言っただろう、これはどこまでも不運な事故なんだって。現場は毛の長い絨毯だったのだろう? 足を取られて転ぶことはそう珍しいことじゃない。ましてや泥酔状態のオーブリー卿だ。アントニア嬢に気をとられていたならば、足元が疎かになってもおかしくはないよ」
だから、転んで死んだ。ただ、ただ、それだけの話。
けれど、アレクシアは「待ってくれ、叔父さま」と私の話を遮ってみせる。
「それは、叔父さまの先ほどの仮定と矛盾してやいないか」
「そうかな?」
「伯父上が転んだというのが事実だとしよう。それでも、アントニアに伯父上を刺し殺すことは難しいんじゃなかったのか?」
「私が言いたかったのは、アントニア嬢一人の力では不可能に近い、ということだよ。アントニア嬢は迫るオーブリー卿に向かって短剣を突き出した。そこに、偶然倒れこんだオーブリー卿の体重が加わる。そしてこれまた偶然、短剣の先端は心臓の位置を指していた。……そういう話なのではないか、と私は仮定しているのさ」
その後はアレクシアも予想していた通りの展開だ。アントニアはそのまま気を失い、うつぶせのオーブリー卿の死体の下で倒れているアントニアがヒルダによって見つけられる。ヒルダはアントニアがオーブリー卿を刺し殺したのだと思い込み、おそらくは使用人と協力してアントニアをソファに寝かせ、ヒルダがオーブリー卿の死体から短剣を引き抜く。
――かくして、「オーブリー卿の死体の横に佇むヒルダが発見される」状況が完成する。
レイニータワーの過去視