行きて帰りし後始末(2)

 ――ヌイさんは、本名を|不知火諒《しらぬい りょう》という。
 不知火、だから「ヌイさん」。あだ名はリーダー曰く「ヌイさん本人がそう呼べと言ったから」で、俺も成り行きでヌイさんと呼んでいる。本人が嫌がっていないから、まあいいのだろう。
 ヌイさんの経歴は俺たちプロジェクトメンバーの中でも異色で、つい数年前まではフリーランスのシステムエンジニアだった、というのは聞いたことがある。つまり、『異界』の存在などまるで知らないまま生きてきたし、そのまま生きていくはずだったのだ。俺たち以外の大多数と同様に。
 しかし、現実は違った。
 俺も直接ヌイさんから詳細を聞いたことはない。ただ、リーダーやサブリーダーの話している内容を聞く限り、ヌイさんは、数年前に『異界』に接触したらしい。もっと正確に言うならば、『異界』からの来訪者に。
 それだけでも異界研究者となる理由としては十分といえる。俺のように直接の接点がなくとも『異界』に興味を持ってこの道に進む奴がいるのだから、ヌイさんだってそういう道を辿ることになったとして、何ら不思議ではない。
 しかし、ヌイさんの場合、俺とは事情が違う。
 ヌイさんは単に『異界』からの来訪者に接触しただけではなく、何らかの干渉を受けたという。「干渉」の内訳は不明だが、結果としてヌイさんは「人知を超えた知識」を得た。|得てしまった《、、、、、、》と言った方がいいかもしれない。
 俺たち異界研究者は『異界』についてある程度の知識を有しているが、今まで『異界』に直接アプローチをする術を持たなかった。そこを一気に打開したのがヌイさんの持つ知識と技術だ。|技術担当者《エンジニア》としてプロジェクトに招かれたヌイさんは、人間を『こちら側』から『異界』に送り込む異界潜航装置を開発してみせたのだ。
 つまり、俺たちの研究は今となってはヌイさんがいなければ立ち行かない。ヌイさん招致以前のプロジェクトに戻ることは、もはやありえないのだ。そのくらい、ヌイさんの存在は大きい。
 ただし、代償も大きかった。それがヌイさんが|得てしまった《、、、、、、》知識の本質だ。
 |人知を超えた《、、、、、、》知識、というからには、それは人間が理解できうるものではないし、理解してはいけないものだ。だが、ヌイさんはそれを余すところなく与えられてしまった。ひとたび知ってしまった以上、知らなかった頃に戻ることはできない。
 つまるところ、ヌイさんの頭の中はまともな人間のそれではない。本来ならば適切な治療と静養を必要とする類の――もっとはっきり言ってしまえば「気が触れている」のだ。
 俺たちがヌイさんの言うことを理解できないのは当然だ。ヌイさんの知識は正気ではなく狂気の領域にある。理解するには同じ領域に足を踏み込まねばならないし、ヌイさんは「やめた方がいい」と真剣に言う。「そんな思いをするのは、アタシ一人で十分だから」と。
 もはやヌイさんの目には俺とは違うものが映っている。ヌイさんの耳には俺には聞こえない何かが聞こえている。ヌイさんは、それを必死に取捨選択して、なんとか俺たちと足並みを揃えている。「まともな人間のふり」をしている。そうしなければ、『こちら側』で生きてはいかれないから。
 それは、俺にはわからないヌイさんだけの苦悩だ。時折ヌイさん自身にも予測できない発作で苦しんでいるところからも、十二分に察することができる。
 それでもヌイさんはここにいる。
 俺たちのプロジェクトに力を貸すことが、己の使命であると思い極めている。
 まあ、今のアタシにはそのくらいしかできることがないからね、とかつて俺に語ったヌイさんは、酷く顔色は悪かったけれど、どこか誇らしげで。俺は、そういうヌイさんのことを、それなりに好ましく思っているわけだ。
 車一つが通れる程度にバリケードをずらし、改めて車を発進させる。
 徐行運転で少し進んでみれば、すぐにここがまともな場所でないことはわかってきた。空がゆっくりと色を変えていく。曇ってくる、などという生やさしい変化ではない、明らかに異様な緑と紫の渦。
 周りの風景も、ぱっと見はただの住宅地に見えるが、いたるところが歪み、奇妙な形にねじくれている。人の気配がまるでないのは、おそらく、既にこの土地から退去しているためだろう。そう思わないと恐ろしすぎる。
 今まで資料ではいくつか目にしていたが、実際にこの目で見たことはなかった『こちら側』と『異界』が混ざり合う光景に、うっすら気分が悪くなってくる。
「結局、何があったんですか、ここで」
 助手席で沈黙を守るヌイさんに、声をかける。ヌイさんは「うーん」と唸って、それから口を開く。
「どこから話したもんかなと思ってたんだけど。もっちーは、アタシがどうしてプロジェクトにいるのか、くらいは知ってたっけ」
「直接教えてもらったことはないっすけど、『異界』の存在と接触して、頭を弄くられて『異界』の知識を得た。その経験を見込まれて、リーダーにプロジェクトメンバーとして招かれたんすよね」
「そこまで知ってりゃ説明はいらないわね。で、ここはアタシが前に住んでた場所」
「プロジェクトに誘われる前に?」
「そゆこと」
 今のヌイさんに家らしい家はない。研究所に暮らしているから。ヌイさんには常に監視が必要なのだ。時に自分でも制御できない狂気に陥るヌイさんを、必ず誰かが止めなければならない。その点、常に誰かしらが詰めている研究所は都合がよい、ということらしい。
 では、『異界』の存在と接触する前――そして、接触してから研究所に招かれるまでのヌイさんはどこに暮らしていたのか。
 その答えがこれだ。
「元々はこんな場所じゃなかったんだけど、あー、その、過去のアタシがやらかしましてぇ」
「やらかしたって、何を?」
「異界潜航装置のプロトタイプを野放しにしたのよ。当時のアタシは『異界』に潜る方法を単純に考えてた。『こちら側』への影響と『帰還する』システムの考慮がない、一方通行の『異界』への突入口を開き続けるっていうはた迷惑な代物」
 それは「やらかし」なんて言葉では収まらない、もはや人為的な災害というやつだ。人類は未だ『異界』をろくに知らず、『異界』への扉を開ける方法もわからなければ、当然閉める方法も知り得ないのだから。
 ただ、これに関しては、今のヌイさんを責めても仕方ない。
「……その時のヌイさんには、ろくに判断できなかったんすよね。そりゃ、しゃーない話っすよ」
 今、俺と話してるヌイさんは、まだ話が通じる。だが、リーダーが出会った頃のヌイさんはほとんど意志疎通が不可能だったという。リーダーが根気よく話を聞いて、やっとヌイさんの抱えている事情がかろうじて見えてきて。それから長期の治療と療養を経てやっと意味の通る話ができるくらいになったということだから、当時のヌイさんに正常な判断が不可能だったことくらいは、俺にだってわかる。
 だからこそ、今のヌイさんが、過去の自分の後始末に挑もうとしていることも。
「ありがと」
 ヌイさんは少しだけ笑った。それからすぐに表情を引き締めて話を続ける。
「プロトタイプそのものが今も同じように動いてるかはわかんない。ただ、この様子だと『異界』への扉は開き続けてるし、下手するとこれ以上の規模になる可能性もある。アタシが前に見たときより侵食の規模がでかくなってるから、そう見当違いの推測でもないはずよ」
 確かに、カーナビが示す目的地からまだ多少の距離がある。「目的地」がかつてのヌイさんの家であることはもはや疑いようもないが、そこから『異界』の影響がこんな場所にまで及んでいることにぞっとする。
「だから、ずっと『異界』の入口を閉ざす方法を考えてた。できる、とは思ってたけど、それなりに穏便なやり方を模索してた」
 それなりに穏便、というのがヌイさんのなけなしの理性といえる。周りへの影響を考えなければいくらでもやりようはある、ということだから。
「で、『それなりに穏便な』やり方が見つかった、ってことすか」
「やり方自体は荒っぽいけど、アタシ一人が覚悟決めれば、最高に穏便」
 その言い方には、ものすごく嫌な予感がした。
「何、する気なんすか?」
「難しいことじゃないわよ、プロトタイプの機能を逆転させる。ただ、仕組みを詳しく説明するともっちーのメンタルに悪いから割愛」
 要するにヌイさんにしか理解しえない|人知を超えた《、、、、、、》領域の話ってことだ。ただ、ヌイさんの発言の問題点はそこではない。
「そのやり方は、ヌイさんに危険があるってことすか」
「ん、いつもやってることを、アタシがやるだけよ」
 俺らがいつもやってること。それは――。
「『潜航』、っすか」
「そう。大したことじゃないでしょ?」
 俺たちが『潜航』という言葉を使うときは、『異界』に潜るということ。一言で言えばそうなのだが、そこにはいくつもの課題が存在する。
 例えば、『異界』から無事に帰ってくる方法だとか。『異界』で危険に陥ったときに即座に退避する方法だとか。目の前に『異界』がある以上、単に向かうだけなら不可能はないが、伴う問題点を考慮していなければ片手落ちだ。
「潜航装置もないのに……、いや、後ろの荷物がそれっすか?」
「ご名答」
 布のかけられた、妙に大きな金属の箱。ヌイさんと俺とで運びこんだもの。だが、それは。
「潜航装置にしては小型すぎやしません?」
 俺が普段、プロジェクトで目にしている異界潜航装置は、天井にも届きそうなサーバーラックいっぱいに収まるコンピューターの形をしている。なお、その中身は俺も詳しくは知らない。ヌイさんの手がけたものを他人が理解できないのは当然ゆえに。とはいえ、その大きさがヌイさん視点で「必要不可欠」であることは推測できる。つまり、ヌイさんであっても簡単に小型化できるものではない、はずなのだが。
「目の付け所がいいわね。そう、これは、通常の潜航装置からいくつか機能をオミットしてる。『異界』を探し出して、突入口を開く仕組みとかね」
 なるほど、確かに今回のように既に扉が開いているなら、わざわざ『異界』を探査する機能も、入口を作る機能も必要ない。実のところ「異界潜航装置」と言っても『潜航』そのものより「探査」と「突入」にかなりのリソースを割く羽目になっている、というのは以前からヌイさんが愚痴っていたことだ。
「そろそろ停めて。これ以上は危険かも」
 ヌイさんの声に、慌ててブレーキを踏む。ミラー越しに背後を見れば、来た道はかろうじて『こちら側』の見た目を維持しているが、今にも周囲の歪みに巻き込まれて消えてしまいそうだ。
「でも、まだ目的地までちょっとありますよ」
「ここからは潜航装置を使うわ。もっちー、前までコード延ばすから受け取ってくれる?」
 俺が返事するよりも先に、ヌイさんは車を降りて、後ろに載せた装置の準備を始めてしまった。装置を稼動させるには、どうやら一緒に積み込んだポータブル電源を用いるらしい。どうしてこんなオカルト装置に電気が必要なのかは永遠の謎だ。ヌイさんに聞けば答えてくれるのだろうが、下手に聞いてこっちまで頭をやられたら話にならない。
 ヌイさんの指示に従って、装置から延びる何本かの細いコードを運転席まで手繰り寄せる。そのうちいくつかは先端がシール状になっているところを見るに、これを体に貼り付けて『潜航』を行うつもりなのだろう。ここは普段俺たちが使っている潜航装置と同じ仕組みと見える。
 そもそも、俺たちが『異界』へ潜るのに必要な手続きは大きく二つ。
 一つ目は、『異界』の探査と突入口の生成。俺たちには知覚できない次元において、数多の『異界』が『こちら側』に近づいたり離れたりしている。その座標を特定し、アンカーを打って『こちら側』との道筋を作る手続きが必要だ。ただし今回は『こちら側』と繋がった『異界』が目前にある、というイレギュラーケースなので、この手順は割愛される。
 二つ目は、『潜航』そのものになるが、『潜航』に生身の人間を使わないのが俺たちのやり方、というか、潜航装置を作ったヌイさんの方針だ。ヌイさんは人間の肉体と意識とを切り離し、その上で意識だけを『異界』に送り込む仕組みを作った。これは、人間の肉体と意識との間にある密接なつながりを利用しており、もし意識が危険にさらされた場合、一気に『こちら側』の肉体に引き戻すことが可能、という利点がある。
 このイレギュラーな『潜航』でも、ヌイさんは意識体だけをここから先のエリアに向かわせるつもりとみえる、が――。
 その時、後ろから馬鹿でかいファンの音が聞こえてきた。どうやら装置が無事に起動したらしい。潜航装置は、具体的な仕組みはともかくそれぞれの部品だけの話をするなら精密機器なので、適切な冷却が必要なのだ。
「オーケイ、始めましょう?」
 ヌイさんが助手席に戻ってきて、シールのついていない何本かのコードを、手にしたタブレット端末から延びるタップに差し込む。ヌイさんの指先が素早く何度か画面を叩いたところで、タブレットを投げ渡される。
「観測、お願い」
 見慣れた画面だ。仕事で使っている潜航装置のコンソールと、全く同じ。
 指先が冷える。いくら仕事と同じことをこの場でやるだけ、とはいえ。
「ヌイさん。……ほんとに、やるつもりなんすか」
 そう、言わずにはいられなかった。
 ヌイさんは、大したことじゃないと言った。だが、覚悟を要するとも。そう、俺たちにとって、『潜航』とはそういうものだ。
 意識と肉体を切り離すことによって、いざという時の引き上げが可能になったのは事実。だが、『異界』におけるあらゆる危険が避けられるわけではない。意識体が「傷ついた」と認識すれば当然苦痛を感じるし、意識がひとたび「死」を認識してしまえば、リンクする肉体も当然死に至る。
 だから、通常、俺たちプロジェクトメンバーが『潜航』することはあり得ない。『潜航』のために選ばれた、使い捨ての、体のいい人柱である異界潜航サンプルが『異界』に赴くのだ。使い捨てと言いつつ、初代のサンプルはほぼ毎日『潜航』を行いながら二年生き延びたわけだが。あのおっさんがあまりにも優秀すぎたので、リーダーは次のサンプルの選定に頭を悩ませている。
 とにかく、ヌイさんが『異界』に赴くのは、いくら正規の手順を踏んだところで危険を伴う。
「なーに、心配?」
 ヌイさんは歯並びの悪い歯を見せて、笑う。
 何しろ、替えの利かない人員であるヌイさんを欠くということは、俺たちのプロジェクトにとってどうしようもない損失だ。
 ――それ以上に。
「ヌイさんがいなくなったら、研究室が寂しくなりますからね」
 俺は、その程度には、ヌイさんを気に入っている。
 ただでさえ大きな目を見開いたヌイさんは、一拍遅れて心底愉快そうに言う。
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃない、もっちーったら」
 ヌイさんは極めて正直なひとで、「嬉しい」と言った以上は皮肉でもなんでもないとわかるだけに、背中がこそばゆくなる。思わず身を縮める俺に笑いかけてくるヌイさんは、相変わらずちょっと怖いツラをしていたけれど。
「アタシだって、ここで終わらせる気はさらさらない。だから、もしもの時は、頼んだわよ」
 そう言って、真っ直ぐな目で、俺に命綱を握らせてくる。
 俺たちの仕事では、異界潜航サンプルの引き上げはリーダーの役目だ。俺は潜航装置の操作とログの監視を担当しているが、『潜航』中止の決断はリーダーの一存である。だから、こんな形で、人の命綱を握らされることになろうとは思ってもみなかった。
 嫌だ、という気持ちが無いと言ったら嘘になる。流石にヌイさんが率先して動いたこの状況で、俺だけが責任を取らされることは無いと思うが、俺の判断ミスでヌイさんに何かが起こるのは、単純に寝覚めが悪い。
「ちょっとでもヤバかったら引き上げますよ」
「それでいいわ。その時はダメだったってお上に報告するだけだしね」
 軽い調子で言うヌイさんに、まるで気負いというものはなさそうだった。危険に自分から飛び込んでいこうというのに、どこか浮足立っているようですらある。
 いや、それはそれでわからなくもないのだが。
 俺たちは結局のところ異界研究者であって、自ら『異界』の地を踏むことに、多少なりとも高揚しないといったら、嘘になるのだ。
 ヌイさんがどうして『異界』とその住人に触れることになったのか、どうして俺たちのプロジェクトに参加する気になったのか、結局のところ俺は何も知らない。
 知らないけれど、ヌイさんにとってその出会いが特別な経験で――それこそ取り返しのつかない狂気に陥りながら、なお、目を背けることなく『異界』に関わり続ける程度のモチベーションであることには、違いがないのだから。
「じゃ、よろしくね」
 あっけらかんと笑うヌイさんに、俺は、肩を竦めて返した。