03:ナインライヴズ・ツインテール(13)

「ごめんなさいね、あなたの言う『ひとでなし』の事情につき合わせちゃって」
 南雲は、最初に会ったその日と同じ時間、同じ公園で、件の老婦人と二人並んで座っていた。南雲の膝の上には、かわいらしい動物の顔写真が特徴の、鼻セレブのボックスティッシュ。今度は対面する相手がわかっている以上、完全防備というわけだ。
 しかし、無限に垂れてくる鼻水を啜っていると、どれだけ億劫でも、病院に行ってアレルギー性鼻炎に効く薬でも貰っておくべきだったか、と思わずにはいられない。
 もちろん、老婦人はそんな南雲を眺めておかしそうにころころと笑っているわけだが。全く他人事だと思って、と睨んでみるも、分厚い眼鏡のレンズ越しだとその眼光もろくに通じないのか、ひとでなしの老婦人はさらにおかしそうに目尻の皺を増やしてみせるだけだった。
「そういや、彼は結局大丈夫だったんすか?」
「ええ。あと少し休めば元気になると思うわ。ほら、猫には九つの命があるっていうでしょう?」
 いたずらっぽく笑う老婦人に、南雲も「化け猫なら尚更ですかね」と返す。あの相馬とかいう青年が本当に化け猫――「猫又」だったことは、今更疑いようもなかった。八束や真は何とか煙に巻けたようだが、南雲の目というか鼻は誤魔化せない。滂沱の鼻水でひとでなしを嗅ぎ分ける嗅覚は鈍れど、この厄介なアレルギーそのものが、何よりもあの青年が「猫」であったことを物語っていた。
「あの子には、私の方からきつく言いつけておいたし、もうあなたの妹さんに手を出すこともないと思うわ。そうでなくとも、もうその気は無いって言っていたけど」
「まあ、こっぴどく振られてましたしね……」
 くしゅ、とくしゃみをしながら、南雲は軽く肩を竦める。あそこまできっぱりはっきり「いいお友達としか思えない」と言われてしまった以上、さしもの猫又といえど引き下がるしかなかったのだろう。ひとでなしならではの手段で真の心を奪ってやろう、なんて思うタイプでなかった辺りは、素直に評価してやってもいいと思っている。
 自然とずるずる垂れてくるほとんど水分そのものである鼻水をやわらかな肌触りのティッシュで受け止めながら、あの時彼に伝え忘れた言葉を思い出す。結局、あれから彼の姿を目にする機会は無く、今の今まで言いそびれていた、大切な言葉。
「妹を守ってくれたことは感謝してる、って、彼に伝えてもらってもいいですか」
「ええ」
 猫毒殺未遂――結局あの猫又の青年も死ななかった以上、全て『未遂』となった――事件の犯人である四十万という青年の人となりは、結局最後まで南雲にはよくわからなかった。ただ、いくら恋敵を排除するためとはいえ、不特定多数の猫を狙う「毒殺」という手段を採った以上、ろくな奴ではなかったのだろう。そもそもストーカーであったわけだし。そんなろくでもない野郎から、不甲斐ない自分に代わって真を守り続けてくれていたことには、純粋に、感謝をしているのだ。
 ただ、その一方で、こうも思うのだ。
「あと、ご愁傷様、とも」
「ふふ、きっと『あんたには言われたくない』って言うと思うわよ」
「わかってますよ」
 もちろんわざとだ。南雲とて人の兄、しかも相当歳の離れた妹を持つ兄としては、妹を狙う男はことごとく敵だ。いくら自分がダメな兄でも、それはそれとして妹が可愛くて手放したくないという気持ちは偽れない。
「あなた、本当に妹さんのことが大好きなのね」
「もちろん、好きに決まってんじゃないですか」
「それなら、もっと早く、素直な気持ちを伝えておけばよかったのに」
 老婦人の言うことはあまりにももっともだ。南雲も、顔には出せないまでも内心で苦笑する。本当に、簡単なことだったのだと、今ならばわかる。ただ、今じゃなければわからないことでもあったのだ。
「だって、好きだからこそ嫌われたくない、って思うのは当然の感情だと思いません?」
「わからなくはないけれど、あなたのそれは迂遠にすぎると思うわ」
「やっぱ、そうっすかね……」
「臆病になるのも、わからなくはないけれど。特に、あなたはきっと、そうでしょうね」
 ぐしょぐしょになったティッシュをあらかじめ用意しておいたコンビニ袋に捨て、次のティッシュを引き出しながら、南雲は使い物にならない鼻の代わりに口で一つ、深呼吸をする。
 そして、最初に老婦人と出会った時、老婦人は既に南雲が抱えている背景を理解していたのだったと思い出す。
「……やっぱり、ひとでなしの間でも有名な話なんすね、例の事件も、俺のことも」
 ええ、と老婦人は痛ましげに瞼を伏せる。
「嫌な事件だったわ。あなたを前に、言っていいことではないと思うけれど」
「いえ。ひとでなしの口から、あの事件が『嫌な事件』であったと聞けるのは、正直ありがたいです。そちらさんにとっても、やっぱり不本意な事件だったんですね、あれ」
「もちろんよ、だって私たちは……、いえ、総意であるかのように語るのはダメね。私と同じ気持ちの子もいれば、そうじゃない子もいる。人がそうであるように」
「そうですね。人が、そうであるように」
 南雲も、老婦人の言葉を繰り返す。確認、というよりは、自分自身に言い聞かせるために。
「ええ。だから、これはあくまで私の気持ちだけど、私は、あの事件をあってはならないものだと思っている。私は、できるなら、人と仲良く生きていけたらいいなと思っているの。もちろん、あなたとも」
「あー、それは、なかなか難しいっすね」
「あら、どうして?」
「だって、今回で、猫又相手でも猫アレルギーが出るって嫌ってほどわかっちゃったんですもん。顔合わせるたびにティッシュ箱持ち歩くのは面倒くさいっすし、鼻水と目のかゆみはなかなか体力も消耗します」
 本当は、どこかで期待していたのだ。猫又は長き年月を経た結果、二本に分かれた尻尾と超常の力を得た猫の妖怪だが、その時点でもはや「猫ではない何か」であり、アレルギーの原因物質も消え去っているのではないか、と。もしそうなっていれば、酷い猫アレルギーの自分でも、ティッシュ箱のお世話になることなく、しかも尻尾が二倍になった猫をもふもふできるのではないかと。
 もちろん、そんな夢は、今こうして何枚目かもわからないティッシュを消費している時点で、とっくのとうに潰えているわけだが。
「あなたって、面白い人ね」
「変な奴だとはよく言われます」
「それに、優しい人ね」
 南雲は、つい、視線を落として沈黙してしまう。
 優しい。八束も、よくそんな言葉を投げかけてくれるけれど、どうしても、納得できずにいる言葉の一つだ。
「仲良くなれない。なりたくもない。きっと、あなたはそう思ってる。人からも、ひとでなしからも、それだけの仕打ちを受けてきたから。でも、納得のできない感情を横に置いて、私の言葉を考えてみてくれたのよね、今だけは」
 そう、いくらひとでなしの方が共存を望んだとしても、南雲の根底には根深い拒絶がある。老婦人の言うとおりだ、南雲はひとでなしと「仲良くなりたくもない」のだ。
 ただ、その一方で、ひとでなしがそこにいる、ということは、南雲にとっての事実ではあるし、彼らの存在を否定したいわけではない。否定をしては、いけないのだ。
 そんなあやふやな態度を「優しい」と称されるのは、やはり、納得できないものがある、けれど。
「……今回の事件を通して、色々、考えさせられたんです」
 ティッシュを片手にとり、鼻と口を覆ってくしゃみを受け止める。そうしてから、鼻を押さえたまま、思いついたままの言葉をぽつり、ぽつりと落としていく。
「俺、何だかんだ、上手くやれてた方だとは思ってたんですよ。最悪の状況からは随分持ち直したし、このまま何も変わらない日々を過ごしていくだけなら、何とか生きてけるだろうなって思ってたんです。
 でも、今回の事件があって、ずっと目を背けてきたことと、無理やり向き合う羽目になって。ああ、俺って今もまだ目を閉じてるままだったんだな、って気づいちゃって。えーと、何て言えばいいのかな、こういうの」
 上手く言葉が浮かばない。元より頭の回転は鈍いのだ、特に甘いものを食べていないときは。いくつかの言葉を頭の中に浮かべては捨て、浮かべては捨て、結局いい言葉が思い浮かばないまま、口を開く。
「とにかく、『このままでいいのか』って、思ったんです。要するに、ちょっと悩んでます。これからの方向性に」
 長らく隔絶していた妹や家族との関係性が、ちょっとしたきっかけで改善できたように。あの日からずっと「このままでいい」と思っていたあれこれに、少しずつでもいいから、向き合おうとしてもいいかもしれないと、思うのだ。
 向き合おうと思えるようになるまで、随分かかってしまったけれど。
「……って、何か、すみません。自分語りなんて、全然楽しくないっすよね」
 否、我に返ってみれば、そんなつまらない語りを、名前も知らないひとでなしにしていること自体が奇妙なのだ。
 もしかすると、自分も知らないうちに、化け猫の術にはまっていたのかもしれない――そんな疑念をこめて老婦人を睨むと、老婦人は、その疑いに解を与える代わりに、口元の皺を深めて笑んでみせる。
「いいえ、興味深いお話を聞かせてもらったわ。だから、私からは、一つだけ」
 一つ、という言葉と一緒に、ちいさくもふっくらとした人差し指を立て。
「あなたが歩んできた足跡は、必ず、巡り巡ってあなた自身を助けるわ。だから安心してめいっぱい悩みなさいな」
「……それは、気休めですか? それともひとでなしの予知能力とかですか?」
「ふふ、どうかしらね?」
 そこははぐらかすのか。南雲は大げさに溜息をついて、ベンチの背に背中を預ける。そして、膝の上のティッシュ箱を抱えなおして、ぽつりと、呟く。
「巡り巡って、俺を助ける……、ねえ」
 何せ、今までのことを思い返してみれば相当ろくでもない人生だった。そんな自分の行動が、果たしていつか自分に返ってくるなんてことがあるのだろうか。あったとして、それは「助け」なんかではなく、自身への「罰」なのではないかと思わなくもない――が、それが真実か否かを確かめる手段が南雲にない以上、言えることは、ただ一つ。
 ひとでなしの言うことを、真に受けても仕方ない、ということだ。
 既にぱんぱんになりかけているコンビニ袋にティッシュを詰めながら、そういえば、一つ、確認しておきたかったことを思い出した。
「そういえば、結局、俺への見返りはなしってことになりますか? 真を悩ませてたストーカーについても、結局俺らが事件と一緒に解決することになっちゃったわけですし、ノーカンですよね」
 すると、老婦人は人のものではない目をぱちくりさせて、南雲を上目遣いに見上げてみせる。
「あら、もう、あなたへのお返しは終わっていたはずよ? あなたに事件の解決をお願いした時に」
「……は?」
「だって、あなたの私へのお願いは『妹さんの悩み事を解決する』だったでしょう。妹さんの一番の悩み事なんて、わかりきっているじゃない」
「え、そりゃあ、ストーカー……」
 ――本当か?
 頭の中をよぎる疑問符。この瞬間まで疑いもしなかった、ひとでなしとの契約。だが、その詳細までは一度も確認していなかったのだと思い至った瞬間、南雲の口から深々とした溜息が漏れた。
「ああ……、そっか。してやられたなあ」
 そう、そうだ。確かに「お返し」はとっくのとうに終わっている。
「……真の『一番の』悩みの種は、俺ですもんね」
 真が四十万というストーカーに悩まされていたのは本当だ。だが、それ以前からずっと、真を悩ませ続けていたのは、他でもない南雲自身だった。そして、それは同時に南雲を長らく悩ませているものでもあった、わけで。
「さっき、あなたは言いましたもんね。例の事件のことも、俺のことも、ひとでなしの間じゃ有名だって。だから、あなたは、俺が調査の見返りに何を願うのかなんて、最初からわかってたんだ。だから、先回りして、真が八束と『偶然』出会うように仕向けた」
 ひとでなしの情報網がどれだけのものかは知らないが、最低限、八束が南雲のパートナーという事実は十分知られていたと思っていいだろう。故に、南雲の知らない場所で、八束と真との間に関係性を作ったのだ。「ちょことまろんを脅かした上で、八束に意識を向けさせる」という偶然を装って。
「その上で、猫毒殺未遂事件の犯人探しを他でもない俺に依頼した。事件の犯人も、犯人が犯行に至ったきっかけが、真に惚れた相馬青年にあるってのも知った上で、だ。そうでなきゃ、事件と真との関係性は見出せない」
 ならば、とっとと犯人を捕まえてしまえばいい、とも思うが、そういうわけにもいかないのがひとでなし、というやつで。
「けれど、あなたは犯人に手は出せない。犯人が人である限り、人の手で。それが、あなたのルールだ。だから、俺が猫毒殺未遂事件の犯人を突き止めて、人の手による裁きを受けさせるのと引き換えに、あなたは、俺と真を仲直りさせたってことですね」
 すると、老婦人は、ぱちぱち、とちいさな手を叩く。
「大正解。あなた、探偵の才能があるわ」
「それ、喜んでいいんですかね」
 結局、今回の自分はひとでなしの手の上で踊らされただけということだ。それを思うと、何だか全身から力が抜けてしまう。いや、真との仲が改善したことに関しては、老婦人に感謝をすべきなのだとは思うのだが。
「でも、実は一つだけ想定外だったのは、あなたが、わたしからの依頼を最初から受けてくれたこと」
「……そうなんですか?」
「あなたは、断ると思ってた。いいえ、きっと、少しだけ前のあなたなら、絶対に断っていた。事件の内容に関係なく、『ひとでなしには関わりたくない』って言って」
 それは、と。言いかけて、口ごもる。老婦人の言葉が、あまりにも正しかったからだ。
 そのあたりの考え方は、正直、一朝一夕では変わらないと思っていた。先ほども言及していた通り、南雲はひとでなしを否定はしないまでも、拒絶しているのだから。
 だが、自分でも気づいていないうちに、何かが変わっていたのかもしれない。変わっていたのだとすれば、そのきっかけは――。
 頭の中に真っ先に浮かんだのは、こちらを見上げる、黒目がちの瞳。いつからか、側にいるのが当たり前になっていた、子犬のような娘の姿。ふわふわとしたそのイメージは、次の瞬間、連続して飛び出してきたくしゃみによって、あっけなくかき消されてしまうわけだが。
 うー、と唸りながら、ティッシュで鼻をかんでいると、老婦人が「ふふ」と杖の上で指を組み、うきうきとした調子で言う。
「これから、あなたがどう変わっていくか、どんな道を選ぶのか、とても楽しみね」
「完全に他人のこと、みたいな言い方しますね」
「ええ、だって、私はひとでなしだもの」
 そう言った老婦人は、猫の目を、三日月のようにつうと細めてみせた。