03:ナインライヴズ・ツインテール(8)

「南雲さんのいくじなし! 流石にあの対応は看過できません!」
 八束結は椅子を蹴って立ち上がり、きっぱりはっきりと宣言する。それに対し、背中を丸めた南雲彰は、自席の机に突っ伏したまま呻く。
「それ、もう五回目くらいだろ……」
「正確には六回目です!」
 数えてたのかよ、という南雲の情けない声が漏れる。記憶を遡って数え直すことも「数えてた」ということに含まれるのかは気になるところではあったが、今の八束はそんなことを南雲と論じたいわけではない。
「なら、答えてください! どうして、あの時真さんから逃げたのです!」
「それは、その」
 顔を少しだけ上げた南雲は、しかし、もごもご口ごもるばかりで、八束の問いに答えるわけでもない。八束にとっては、その煮え切らない態度こそが何よりも腹立たしい。
 そんな、不毛なやり取りの最中、対策室の扉が開く気配がした。一旦、口から出かけていた言葉を引っ込めてそちらを見れば、綿貫栄太郎が困ったような顔をして、恐る恐る八束と南雲の様子を窺っていた。
「どうしたんですか、八束くん。外まで声が聞こえてましたよ」
「あっ、聞いてください綿貫さん!」
 もはや、隠しておくだけの理由も無くなった以上、八束の口を塞ぐものは何一つない。腕で耳を覆うようにして突っ伏す南雲を見下ろし、その、いつもより少しだけつるつる加減の落ちた――普段の手入れをサボったことが推測される後頭部をびしっと指差す。
「南雲さんが! とんでもない! いくじなしなのです!」
 八束は、改めて、ここに至るまでの経緯を綿貫に説明した。
 ある日偶然、南雲の妹である真と知り合ったこと。
 真の話から、真と南雲が一つ屋根の下に暮らしながら長らく没交渉であること。
 真と会ったことを、南雲には秘密にしてほしいと言われたこと。
 しかし、昨日の夜、南雲と一緒に帰ろうとしていたところで、ばったり真と遭遇したこと。
 南雲は真と言葉を交わすどころか、引き止めようとする八束も振り切って、その場から逃げ出したこと。
「……というわけで! 今! 何故南雲さんが妹さんから逃げたのか、追及しているところなのです!」
 きっぱりはっきり言い切ると、綿貫は「なるほど」と狐を思わせる笑顔で言って、それから、相変わらず細長い体を丸めたままの南雲に視線を落とす。
「南雲くん、八束くんに知られちゃったんですねえ、妹さんのこと」
「でっかい不覚っす……。八束と真が面識あるとか聞いてないっす……」
 珍しく、南雲がへろへろと力なく言う。南雲は、常に気の抜けた感じのしゃべり方をするが、ここまで完璧に「打ちひしがれた」声を上げるのは、八束が知る限りこれが初めてだった。
 とはいえ、それで追及の手を緩める気はなかった。何しろ、八束はまだ、南雲から何一つとして八束の問いに対する答えを聞いてはいないのだから。
 ただ、追及を続ける前に、綿貫の言葉に引っかかるものを感じて、首を傾げる。
「綿貫係長は、南雲さんが妹さんを避けているのをご存知だったのですね」
「まあ、南雲くんにも事情がありますからね。と言っても、僕は、ことさら南雲くんを支持するつもりもありませんよ。南雲くんが単なるいくじなしなのは事実ですし」
「言うと思いましたよ……。まあ、否定はできませんしね……」
 そういえば、先ほどから八束の言葉に対して沈黙を守ってはいるが、ことさら反論をしない辺り、南雲自身、己の非を認めていないわけではないのかもしれなかった。だが、それはそれで、何とももやもやとして仕方が無いのだ。
 南雲は、決して頭の悪い人間ではないし、八束と違って人の心の機微にも敏感な、極めて優しい男だと思っている。その南雲が、明らかに真を傷つけるような行動を取ったことが、何一つ、納得できずにいるのだ。
「南雲さんは」
 だから、八束は問うのだ。
「真さんのことが、嫌いなのですか?」
「違う」
 今度は、即座に、はっきりとした返事があった。だが、その声はいつになく重く、八束の背筋に冷たいものが走る。ゆらり、と顔を上げた南雲は、明らかな苛立ちをあらわに、眼鏡の下から八束を睨めつける。
「違う。何一つ正しくない。俺は真のことが好きだし、真を傷つけたいなんて思うわけがない。だけど……、俺は、そうするしか、ない。それだけだ」
 普段の飄々とした態度とはまるで違う、圧力すら感じさせる表情と物言いに、八束は一瞬己が身を竦ませていたことに気づいた。これこそが、南雲の踏んではいけない尾だったのだと、今更ながらに気づかされる。
 それでも。
「つまり、お前の言ってることは、でっかいお世話だってことだ。俺と真の間に何があったのかも、俺が真を避けている理由も、お前はわかってないじゃないか」
「もちろん、何一つわかりません!」
 八束は南雲の目を睨み返し、胸を張り、きっぱりはっきりと言い切った。
 まさかそんな切り返しを食らうとは思っていなかったのか、南雲が分厚いレンズの下で目を点にするが、すぐに眉間の皺を深めて何かを続けて言おうとする。だが、それよりも八束の言葉の方が、ほんの刹那、早かった。
「わからないから、聞いているんです! 教えてほしいんです! 南雲さんは、どうして真さんを避けるのですか! どうして、声一つかけてあげられないんですか! どうして……っ」
 どうして。
 そう、八束が南雲に聞きたい「どうして」は、本当は、たった一つなのだ。
「どうして! ずっと、南雲さんと仲直りしたいと願っている真さんに、向き合ってあげられないんですか!」
 ほとんど、叫びのように放たれたその声を受けて、南雲は、
「……は?」
 ぽつりと、間の抜けた声を、上げた。
 思わぬ反応に、八束も一瞬呆気に取られてしまうが、そのあまりにも他人事のような反応に、矛を収めるどころか余計に苛立ちが増すばかりで、机に手を置き、身を乗り出して南雲を睨む。
「『は?』じゃありませんよ『は?』じゃ! 真さんがどれだけ胸を痛めているのか、わかってないのは南雲さんの方なんじゃありませんか!」
「待て、ちょっと待て。八束、ステイ」
「わたしは犬じゃありません!」
 言いながらも、南雲の顔を見れば、仏頂面こそそのままだったが、先ほどまで見せていた、煮え切らない態度や、八束に対する苛立ちとはまた別の……、混乱、といえばいいのか。そんなものが、落ち着きの無い視線の動きや、小さく唸る声音から感じ取れた。
 南雲はこめかみの辺りをぐりぐりと揉みほぐし、「すまん」と一つ言い置いてから、ほとんど囁くような声で言う。
「その辺り、詳しく聞かせてくれないかな」
「どの辺りですか?」
「真が、仲直りしたがってる、って辺り」
「詳しい内容を知っているわけではありませんが、真さんはおっしゃっていました。『兄と仲直りをしたいのは、間違いない』って。でも、南雲さんは真さんのことをずっと怒っていて、また喧嘩になってしまうのが怖い、とも」
 その時の会話は、もちろん、一言一句違わず思い出すことができる。八束は、目にしたもの、耳にしたものを何一つ忘れることがないから。
 そして、それは、南雲だってわかっているはずなのだが、眼鏡を額に持ち上げ、大きな手で目を覆った南雲は「えーと、えーと」と繰り返すばかり。何か、八束にはわからない葛藤をしているようにも見えた。
「南雲くん、外野から一言よろしいでしょうか」
「聞きたくありませんが、ダメって言っても言いますよね、綿貫さん」
 もちろん、とにっこり微笑んだ綿貫は。
「『妹さんから嫌われてる』って、単なる南雲くんの思い込みなんじゃないですかね」
 ずばり、その言葉を口にした。
 嫌われているという、思い込み。
 あまりに単純なその答えに、八束は唖然としてしまう。だが。
「……にわかに、そんな気がしてきました」
 目を手で覆ったまま、南雲が、ぼそりと呟いたことで、そのどうしようもない仮定が決して的外れでないことだけは、明らかになってしまった。
「あの、確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
「南雲さん、ずっと、真さんに嫌われてると思っていたのですか?」
「いやまあ、当時は、確かに嫌われるようなことしたから、ねえ……」
「その『当時』って、それこそ数年前ですよね?」
「はい、そうです」
 何故か棒読みの敬語で返してくる南雲。きっと、彼もわかっているのだろう。この次に、八束が何を言わんとしているのか。
 だが、そこで八束が容赦してやる理由はないわけで。
「それからずっと、嫌われてると勝手に思い込んだまま、真さんの気持ちを、確認もしなかったってことですね?」
「そういうことだよ! うおおおおお何も否定できねえええ!」
 珍しく声を荒げたかと思うと、がん、と机の天板に額を打ち付け、それきり沈黙する南雲。それだけ強く額をぶつけても、同時に眼鏡がぶつかった音が混ざっていなかった辺りに妙な慣れを感じる。
 しばし呆然とそんな南雲を見つめていた八束だったが、そのまま黙っていても話が進まないので、恐る恐る口を開く。
「つまり、南雲さんも、真さんと仲直りがしたいと思っているわけですね」
 すると、南雲が赤くなった額を上げて、唇を尖らせる。
「それはそうだよ、俺にとっては大事な妹だもん。そうは見えないかもしれないけどさ」
 確かに、南雲の今までの態度は、どう贔屓目に見ても真を大切にしていたとは言いがたい。
 ただ――。
「わたしは、信じますよ。南雲さんが、真さんを大切に思っているということ」
 真のことが嫌いなのか、と問うたその時だけは、南雲は即座に否定した。南雲は、何も真を嫌ってそうしていたわけではなくて、多分、臆病だっただけではないだろうか。一度離れてしまった距離を近づけようと試みた時に、否定されるのが怖かったのではないだろうか。
 真が、そうであったように。
 何とももどかしい話ではあったが、南雲が真を嫌っていたわけではないとわかって、八束は心からほっとしていた。昨日の夜も、南雲が逃げ去ってから、取り残された真は酷く傷ついたような顔をしていたから。
 そして、南雲の本心がわかった以上、八束には言うべきことがあった。
「それなら、南雲さんには、お話ししておいた方がいいかもしれません」
 本当は、真から口止めはされてはいるのだが、この前の様子を見る限り、黙っていてよいことではなかった。それに、南雲が本当に真を大切に思っているのなら、必ず知っておくべきだという確信もあった。
「真さんの、悩み事のこと」
「真の……、悩み?」
「はい。実は、真さん、近頃常に誰かの視線を感じているそうなのです」
 ぴくり、と南雲の眉が跳ねた。仏頂面、というカテゴリを出ないまでも、南雲は案外表情豊かな男であり、近頃の八束はその違いを少しずつ見分けられるようになりつつあった。
「何、真が誰かにつけられてるってこと?」
「明確に『つけられている』と断言することはできませんが、この前真さんとお会いした時には、何者かが真さんを追跡しているように見えました。顔を確認できなかったのは不覚でしたが」
 それは悔しいな、と南雲も声を低くして唸る。八束の目で一度でも対象の顔を確認しておけば、後の捜索は格段に楽になる。
「もちろん、それはわたしの勘違いかもしれません。ただ、真さんの『見られている』という感覚と、無関係かと言われるとそうとは思えないのです」
 南雲は難しい顔をして黙り込む。片手の指でとんとんと机を叩いているところを見るに、真が何者かに悩まされているという八束の話を聞いて、いても立ってもいられない、という様子がありありと伝わってくる。
 流石に八束でも気づくのだから、綿貫が南雲の動揺に気づかないはずも無い。柔らかな笑顔を少しばかり苦笑に変えて言う。
「南雲くん、流石に仕事中に妹さんに会いに行くのは無しですよ。野良猫の毒殺未遂事件の調査はどうしたんですか」
 そう、いくら真の件が気になるからといって、今から真の元に押しかけていいわけではない。与えられた、もしくは自ら望んで始めた仕事と全く関係ないとすれば、尚更だ。
 しかし、八束の想像に反して、南雲はとん、と一つ机を叩いて口を開く。
「いえ、もしかすると、例の事件とも無関係じゃないかもしれないんです」
「例の事件って、野良猫のですか?」
 首を傾げる八束に対し、南雲は小さく頷いて「そういう噂を教えてくれた人がいてね」と言って、大げさに肩を竦める。
「もちろん、確証はないんだけどね。念のため確認しといたっていいじゃない」
 真と事件とのつながりがさっぱりわからなかったが、これが妹の心配をする南雲の口実というだけではなさそうだということも、何となくわかった。もし、これが本当に口実だとすれば、南雲はきっと、ずっと「もっともらしい」理由をつけるだろうから。
 それに、野良猫の毒殺未遂事件に真が少しでも関わっているとするなら、もしかしたら真が何かを知っているかもしれない。それならば、今から真と接触しに行く理由もつく。
 綿貫は「ふむ」と細い目をさらに細めて、探るような意味深な視線を南雲に向ける。
「言いたいことはわかりましたが、それはそれとして今の南雲くんは、妹さんが心配で心配で仕方ないということですよね」
「それは事実です。妹がかわいくなくて何が兄ですか」
 しれっと言い切った南雲は、係長の綿貫相手に全く悪びれる様子もない。ある意味、いつもの南雲そのもので、八束も何故かほっとしてしまう。そして、それはきっと、綿貫も同じだったのかもしれない。狐じみた笑みを深めて、ひらりと手を振る。
「まあ、いいでしょう。でも、忘れないでくださいね。今の君たちのお仕事は、野良猫の毒殺未遂事件を調査することですからね」
「はいはい」
「了解いたしました!」
 びしっと敬礼を一つ、八束は鞄を手にする。南雲も彼には珍しく、きびきびとした動きで立ち上がり、スーツの上と上着を羽織る。それから、早足に対策室を出て行こうとした八束の横に並んで、そっと、囁いた。
「ありがと、八束」
 ――大事なことを、教えてくれて。
 そっぽを向いたまま、それだけを言った南雲に、八束は満面の笑みを浮かべて頷く。
 そして、今度こそ二人で足並みを揃えて、対策室を後にする。