03:ナインライヴズ・ツインテール(6)

 本当は、言ってしまいたかった。
 問いただしてみたかったのだ。
 南雲とその妹――真の間に、一体何があったのか。どうして、南雲は今に至るまで真を避けているのか。そして、今、真が一体何に悩んでいるのか。
 しかし、真に「秘密にしてほしい」と言われた以上、八束はいくつも浮かび上がってくる言葉を飲み込み続けることしかできないのが、もどかしくて仕方なかった。
 南雲の態度が、真の語る「兄」の姿とは全く重ならないだけに、なおさら。
 
 
「そういえばさ、八束ぁー」
「はいっ!?」
 どこか間延びした南雲の言葉に、八束ははっと我に返る。横を見上げると、南雲はつるりとした後ろ頭を掻き掻き、ぼんやりとした様子で前を見ていた。
 もしかすると、黙りこくってしまった八束に気を使ってくれたのかもしれない――と思わなくも無かったが、相手は南雲なので、どこまでが彼の意図したものなのかは、さっぱりわからない。
「確か、八束ん家の近くだったんだよね、にゃんこが倒れてた現場」
「はい。一刻も早い解決を願ってやみません。いつも来てくれる猫さんがいなくなったら、大家さんが悲しみますし、わたしも、悲しいです。……事件の発生場所や被害に遭った対象で一喜一憂するのは、被害に遭った猫さんに失礼かもしれませんが」
「『知ってる奴に何かがあったら、知らない奴に何かがあるより気になる』ってのは、人として当然の感情だろうから、んな気にすることでもないと思うけどね」
「しかし、事実として猫さんは既に事件に巻き込まれているのです。一つのかけがえのない命が狙われた事件として胸に刻むべきですし、その命に主観的な重さをつけ、捜査の意欲を左右することは、あってはならないこととも考えます」
「真面目だねえ、八束は」
 幸い――と言っていいのかはわからなかったが、資料に添付されていた被害猫の写真を見る限り、八束の知る猫ではなかった。とはいえ、やはり、人の手で猫が害されているという事実は不愉快極まりなかった。それだけは、間違いない。
 それに、これ以上被害が広まれば、野良猫だけではなく、時々外を歩いているのを見かける飼い猫、もしくは毎日外を散歩している犬などにも被害が及ぶかもしれない。それこそ「家族」というべき存在を、心無い何者かによって奪われるというのは、どう考えても許してはならないことだ。
 それは、多分、南雲も言葉にはしないものの同じ思いなのだろう。「真面目」と八束を評しながらも、それをことさらに笑うことはなく――そもそも南雲に「笑う」という機能は備わっていないらしいのだが――いつになく真剣な面持ちで、飴をころころ舐めている。
「八束ん家の周りのにゃんこは、元気なの?」
「そうですね。わたしが三日前に確認できた子たちは、元気そうでした。近頃は、大家さんが時々ご飯をあげていることもあります」
 野良猫に餌付けするというのはよくないことであるとは思うが、アパートの軒先に顔を出す猫に、嬉しげに笑いかけてみせる大家を知っているだけに、八束もそう口うるさく言う気になれずにいる。
「ただ、それからはよく顔を見る白靴下さん以外の猫さんを目にしていませんね。後で、大家さんにも聞いてみようと思います」
 南雲は「ふむ」と細い顎をさする。がりり、という音が一緒に聞こえたということは、多分、飴を噛み砕いたのだろう。八束が二ヶ月とちょっと南雲を観察した結果として、南雲は飴を最後まで舐めるのは苦手らしい、ということがわかってきている。
「にゃんこのことはわかったけど、お前はきちんと飯食ってる? 三食全部カロリーメイトとサプリメントはやめとけ、って言ったはずだけど」
「カロリーメイトとサプリメントは摂取を続けていますが、近頃は、お隣の小林さんがよく白米に合うお惣菜を差し入れてくださるので、そろそろ炊飯器の導入を考えております」
「そりゃいい傾向だけど、小林もつくづくお人よしだよなあ」
 小林、というのは八束の隣の部屋に住まう大学生だ。この近くの大学に通うために、随分遠くの町から、八束の住む安アパートに越してきたのだという。
 南雲の友人でもあるらしいこの小林青年、学業にバイトにと駆け回る日々を送る一方で、大のつく料理好きという特徴がある。「作りすぎて余ったから」とアパートの住人に惣菜をおすそ分けするのが趣味のようで、八束も、日々その恩恵にあずかっている、というわけだ。
「小林さんを見ていると、大学生というのは、極めて多忙なのだなと思わずにはいられませんね……」
「いやー、あれは特殊中の最も特殊な例だと思うぞ」
「そうなのですか?」
「ガチ理系研究畑の小林と違って、俺は文系の、しかも不真面目な学生だったからねえ。講義とかゼミは楽しかったけど、八割は友達と遊んでた記憶しかないな」
 そういえば、南雲の学生時代の話はあまり聞いたことが無かったのだと思い出す。経歴的に大卒なのだろうな、と判断してはいたが、ただそれだけだった。
「では、南雲さんは、大学では何を専攻されていたのです? 現在の職務とは無関係ですか?」
「そうだな、あんまり関係ない。俺の専攻、心理学だし」
「心理学……、ですか?」
 全く、想像だにしない答えだった。
「と言っても、脳の働きをはじめとした医学方面のアプローチじゃなくて、人間の行動からみる統計学的なアプローチが中心。あれ、いくつもの分野が絡む比較的新しい学問だから、切り分けが難しいんだよな」
「意外です。南雲さんは、もう少し、趣味に関わるような学問を専攻されているのかと思ってました」
 例えば、家政だとか。そうでなくとも、栄養学だとか。
 南雲も、その手の答えは十分想像できていたのか、それとも似たようなことを言われたことがあるのか、仏頂面こそそのままだったが、特に気分を害した様子もなく端的に「趣味はあくまで趣味だからね」と言うだけだった。
「なーに、八束、大学生活に興味ある?」
「わたしの知らない世界なので、もちろん興味はあります。その、文献から得られる知識だけではわからないことが多すぎるのだと、いくつかの出来事を通して痛感した次第でして」
 特に、ここしばらく八束が感じているのは、自らが理解したと思い込んでいた範囲があまりにも狭すぎるということだ。八束が蓄積している膨大な文献情報から読み取れるのは、それが「何」であるのかという客観的な理解であり、それに対して「誰がどう感じた」といった主観的な情報は、ことごとく欠けているのだと痛感している。
「だから、自分で経験することはできなくとも、経験を持つ誰かの言葉を蓄積していくことで、凝り固まりがちな思考と、頭の中の世界を少しずつでも広げていくことが大切なのだと、感じているのです」
「そっか。八束も、色々考えてるんだね」
「いえ。そう思わせてくれたのは、南雲さんがいるからですよ」
 そう言って見上げると、南雲が「俺?」と黒縁眼鏡の下で、色の薄い目を丸くする。八束は、そんな南雲に笑いかける。
「南雲さんは、いつだって、わたしには見えないものを見ていてくれますよね。おかげで、わたしにも、そういうものが『ある』んだってことが、わかってきたのです」
 今までは、自分とは違う視点、視野を持つ南雲の目を借りることで、自らの欠点をなんとか補ってこられたが、しかし、常に南雲に頼れるわけでもないということは、八束にだってわかっている。
「そんな、南雲さんの見ているものに、少しでも近づきたい。そう、思えたんです」
 南雲は、そんな八束を数秒ほど凝視し――不意に視線を逸らして、あらぬ方向を指差す。
「あ、八束、たい焼きだよたい焼き」
「はえ?」
 南雲の指差す方を見れば、確かに通りの角に「たい焼き」と書かれたのぼりを立てたちいさな店があり、特徴的な鉄板でたい焼きを焼くおじさんの姿が目に映った。
「今の俺は、何だか無性にたい焼きを欲している。というわけで、ちょっと、そこで待ってて」
「南雲さん!?」
 八束の呼びかけは当然南雲には届かず、南雲はやたら早足でたい焼きの屋台へと歩いていってしまう。その頬というか、頭の先から顎の辺りまでがいつもより少しばかり赤みを帯びて見えたのは、空から降る陽光のせいだったのか、否か。
 南雲がたい焼きを買いに行ってしまったので、八束は「そこで待ってて」と言われた通りにその場に背筋を伸ばしたまま待機に入る。
 その時だった。
「……あれ?」
 聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした気がして、ふと、そちらに視線をやる。
 南雲が向かった通りとは逆の方向、そちらから歩いてくるのは、こともあろうに南雲の妹である真と、もう一人、八束の知らない青年だった。明るい色に染めた髪をあちこちに跳ねさせ、本屋に置かれた男性向けファッション雑誌の表紙を飾るような格好、つまりは「流行の格好」をした青年は、その軽薄そうな見た目に反していたって真面目な顔で、真の話を聞いているようだった。
 真も、どこか不安げな表情で、その青年に話をしており、話している内容はわからないまでも、楽しい話というわけではなさそうだった。
 ――もしかすると、真が近頃抱えているという「悩み」に関する話だろうか。
 ともあれ、知っている顔を無視する理由もない。八束は、小走りに真と青年の方に駆け寄り、快活に――ただし、南雲には聞こえないよう、できる限り音量は下げて――声をかける。
「こんにちは、真さん」
「あっ……! こんにちは、八束さん。お仕事ですか?」
 真は、ぱっと笑顔になった。明らかに、八束に声をかけられてほっとした様子に見えた。青年の方は、大きな目をぱちぱちさせて、真と八束を見比べている。
「あ? この子、知り合い?」
「うん、お友達」
 真の口から、何の躊躇いもなく放たれた「お友達」という言葉に、自然と心が温かくなる。そんな言葉をかけてもらえたことなど、八束の人生のうちそれこそ片手の指で数えられる程度しかなかったから。
 八束は、どこか居心地悪そうに身を竦ませる青年に向かって、深く頭を下げる。
「初めまして、八束結と申します」
「お、おう、ご丁寧にどうも。えーっと、相馬平治、南雲の大学の友達っす」
 よろしく、と握手を求めると、相馬と名乗った青年はどこか遠慮がちに手を握り返してきた。どうやら、少々シャイな性格であるらしい。
「学校からの帰りですか?」
 八束の問いに答えたのも、相馬ではなく真の方だった。
「はい、そうなんです、けど」
 その後の言葉は続かず、ただ、自らの背に向けて投げた視線でその続きを語る真。それだけで、八束にも真が何を不安がっているのかは、すぐにわかった。
 ――最近、誰かにずっと見られているような気がする。
 八束は、そんな真の「悩み」を聞かされていたから。
 そして、真が視線を八束に戻したその時、八束は確かに目にしていた。
 真の視線が正面に戻ったタイミングを見計らったかのように、十メートルほど離れた場所で動く人影があったことを。人影は、すぐそこにある細い道へと入って、そのまま八束の視界からは見えなくなった。
 どうも、その人影には、相馬も気づいていたらしい。ちっ、と一つ舌打ちをして、ほとんど口の中で呟く。
「逃げたか」
「……誰か、いたの?」
 一度は笑顔を取り戻していた真が、再び不安げな顔になる。それに対して、相馬はきっと、意識してなのだろう、ちょっと不器用な笑みを浮かべて、声を高くする。
「ああ、でも大丈夫だ、もういなくなった」
「はい、わたしも確認しました」
 そう、と言って真は深く息をつく。なるほど、こんな日々を送っていては、精神的にも消耗するばかりだ。相馬というこの青年も、きっと、そんな真を見かねて、側にいるのかもしれない。
 もう少し、自分が真の悩みに対してできることがあればいいのだが、八束の目でも先ほど目にした人物がどのような顔なのかを判断することはできなかったし、それが本当に「真を見ていた」人物なのかは定かではなかった。
 常に真と一緒にいれば、何かがわかるのかもしれないが、何しろ八束にも仕事がある。
 と、考えたところで重要なことに思い至り、慌てて真に向かって小声で言う。
「その、南雲さんが、すぐそこにいるんです」
「えっ」
 八束がたい焼き屋を指せば、南雲は妹の存在に気づいていない様子で、目の前で焼かれるたい焼きを前に、もたもたと財布を取り出している。あの様子を見るに、もう少しかかりそうだ。
 真は南雲のつるりとした後ろ頭を見て、少しばかり硬直していたが、すぐに南雲から視線を外し、おそらくは家のある方角なのだろう、南雲の立っている場所からは見えない道の方へと歩みを進める。
「ありがとう、八束さん。それじゃあ、また」
「お、おい、待てよ!」
 真と、慌ててその背中を追う相馬青年を見送って、八束は再び一人になる。
 真を見つめる謎の人影は、一体何者なのだろうか。何故、真を見つめているのだろうか。実際に何かが起こったことはない、と語ってはいたが、果たして、このまま何も起こらないままでいられるのだろうか。
「八束? どうした?」
 その時、南雲が帰ってきた。袋いっぱいのたい焼きを抱えているところを見るに、どうもこれから猫の毒殺未遂事件を調べに行く、という本来の目的は完全に頭からすっぽ抜けてしまっていると見える。
 それに、南雲は何も知らないのだろう。妹の真が置かれている状況も、彼女が悩んでいるということも。
 今、それを言えば、何かが変わるだろうか。
 南雲なら、彼女が置かれている状況を、何か変えることができるだろうか。
 ぐるぐる、頭の中をいくつもの「もしも」が駆け巡る。それでも。
「……いえ、何でもありません」
 どうしても、「秘密」と言われてしまったそれを、言葉にすることは許されなくて。
 せめて、今目の前にある事件を解決することに専念しようと、意識を、切り替えることしかできなかった。