03:ナインライヴズ・ツインテール(4)

「聞いてください、この前なんてですね!」
 待盾駅前の広場に八束のよく通る声が響き渡る。ベンチに腰掛けた八束は、ぺちぺちとジャージの膝を叩きながら、唾を飛ばす勢いで言う。
「南雲さん、仕事をサボってワンホールのケーキを買ってきたと思ったら、わたしと係長の分として十六分の一しか分けてくれないんです! 十六分の一の半分、つまり三十二分の一ですよ、直立もしてくれません! 無駄に切り口が綺麗なのもまた腹立たしいのです! そして残りの十六分の十五は全部南雲さんのおなかの中なんです! 確かに南雲さんが買ってきたものなので南雲さんの好きにすればよいとは思うのですが、この処遇には理不尽なものを感じます!」
 八束の横に座り、他愛のない愚痴でしかない話をにこにこしながら聞いているのは、どこかで見たような顔……、というか明白に南雲の面影がある女性である。
 ――南雲真。
 八束の想像通り、目の前の女性は南雲彰の妹であった。年齢は八束と同じ二十二歳で、今はこの近くの大学に通っているらしい。南雲が現在三十二歳、あと一ヶ月くらいで三十三になると言っていたから、随分歳の離れた妹である。
 そもそも、八束は、南雲に妹がいることすら、今日初めて知ったわけだが。
 八束が兄の名前を言い当てたことに驚いた南雲妹・真は、八束が南雲の後輩であり、職務上のパートナーであるという話を聞いて、更なる驚きの表情を浮かべてみせた。そして、
 
『あの、もし、ご迷惑でなかったら、兄の話を聞かせてくれませんか』
 
 と、遠慮がちに言ったのだ。
 というわけで、今、八束は身振り手振りも交えながら、日ごろの南雲の行いを赤裸々に語っているところだった。
「その前は、テーブルの上にプッチンプリンタワーを建設するとか何とかで、気づいたら天井に届くくらいのプリンカップが積まれてたんですよ!? っていうかいつ積んだのかさっぱりわからないんですよ、朝来たら既にそうなってたんですから! しかもその無数ともいえるプリンを、いつの間にか南雲さんが全部食べていたって点が更にミステリアスなのです!」
 話せば話すほど、一体南雲が何のために対策室にいるのかよくわからなくなってくる。ついでに、そんな南雲の奇行を苦い顔をしながらも何だかんだ許容している係長の綿貫にも多少の問題があるような気はしている。
 ただ、日々の南雲はそれはもう擁護できないほどの怠惰ぶりだが、それが南雲の全てでないことも、今の八束は知っている。
「あっ、でもですね! 確かに相当変わった方だとは思っていますが、それでも、わたしは南雲さんを尊敬しているのです!」
「尊敬……、ですか?」
「はいっ」
 今までの面白エピソードからどうしてそう繋がるのかわからなかったのだろう、俄然不思議そうな顔をする真に対し、八束はぴんと背筋を伸ばして頷く。
「南雲さんは、普段の態度こそ不真面目なところはありますが、とても優しくて、またよく気のつく方です。おそらく、人のことをよく見ている方なのだろう、と推測しています」
 普段はろくなことをしていないように見える――実際、言動の九割方に意味はない南雲だが、残りの一割から垣間見える視野の広さや、危なっかしい八束を後ろからさりげなく支える言動は、いくつかの事件において遺憾なく発揮されてきた。
「ですから、わたしは、そんな素敵なことを自然にできてしまう南雲さんに憧れていますし、心の底から尊敬しているのです」
 目を丸くして八束を見つめていた真は、ぽつりと「そっか」と呟き、足元にじゃれつくちょことまろんを見下ろす。
「お兄ちゃん、きちんと、お仕事できてたんだ……」
 八束の説明のどこに「きちんと」という要素があったのかはさっぱりわからなかったが、気にかかるのは真の表情だった。人の気持ちが理解できないことはそれなりに自覚しているつもりの八束だが、それでも、真の浮かべるそれが「憂い」という表情であることくらいは、判別がつく。
「どうかしましたか、真さん?」
「ううん、どうもしません。ほっとしたんです、八束さんが、兄と親しくしてくれていると聞いて」
 当たり障りのない回答だが、やはり、何かが引っかかる。
 果たして、そこに踏み込んでもいいものか否か、八束は即座には判断できなかった。もし自分が南雲であれば、きっと気の利いたことを言ったり、もしくは適切に距離を取ったりできるのかもしれない。しかし、八束は逆立ちしたところで八束結であり、真の冴えない表情の理由が「わからない」以上は、踏み込まずにはいられないのだ。
「あの、真さん」
「はい?」
 八束は真正面から真の顔を見る。真の言動にはいくつか気になる点はあったが、そのうち、最も八束の頭の中に引っかかった点を、疑問として投げかける。
「南雲さん……、お兄さんからは、お仕事の話とか、聞いたりしないのですか?」
 長らく家元を離れて一人暮らしをしている八束に対し、南雲が待盾署から程近い実家で家族と共に暮らしていることは、度々耳にしていた。その際、必ず南雲はどこか苦い表情を――たたでさえ消えない眉間の皺を、更に数本増やす程度ではあるが――していたことを思い出す。
 それに、真の話を聞いている限り、真は南雲が普段どういう仕事をしていて、どのような人間と付き合っているのかも全く知らないようだった。同じ家に暮らしているはずなのに、だ。
 そんな八束のもっともな疑問に、もちろん真も気づいていないわけではなかったのだろう。八束から視線を逸らし、そっと、まろんの鼻を撫でて。
「兄は……、私とは、口を利いてくれないので」
 寂しげに、呟いた。
「え……?」
「数年前に、私、兄と大喧嘩しちゃって。それきり、兄は家の中では全く口を利かないんです。それに、いつも朝早く出て行って、私たちが寝静まったくらいに帰ってくるから、最近は顔もほとんど見てなくって」
 ――そういえば。
 八束も、南雲の勤務態度については、常々疑問に思っていたのだ。
 南雲が仕事をしないのはもはや「そういうもの」だとしても、南雲は、仕事熱心な八束よりずっと早くから対策室にいて、特に何をしているわけでもないというのに、八束が帰るときには「また明日」と八束を見送っているのだ。
 つまり、南雲は朝早くから夜が更けるまで、日々対策室で時間を潰しているということになる。真の言葉が正しいのだとすれば、家族と顔を合わせたくないがために。
 その事実を思うと、何とはなしに、胸の辺りがちりちりする。上手く言えないが、どうにも釈然としないものが胸と喉の間に詰まってしまったような、感覚。
 多分、それは。
「何だか、南雲さんらしくないですね」
 普段触れている南雲彰という男のイメージと、何一つ重ならないからだ。
 あの、顔は怖いがどこまでも飄然としていて、誰に対してもふんわりと接する南雲が、一つ屋根の下に暮らす家族に対してのみ、そこまで頑なな態度を取っている姿が全く想像できなかった。
 そんな八束の感想に対して、真は何も言わなかった。肯定するでも否定するでもなく、ただ、足元でちょろちょろするちょことまろんを見つめているだけだ。
「喧嘩とは、どのような内容なんですか?」
「それは、ごめんなさい。ちょっと、人には言いづらくて」
「そうですか。こちらこそ、言いづらいことを聞いてしまってすみません」
 言いづらい、と言われた以上はそれ以上の追及はやめる。これは捜査ではないし、変に深入りすることでもないだろう、と己を戒める。ただ、その一方で、明らかに寂しそうにしている真を放置することも、八束にはできないのだ。
「真さんは、お兄さんと、仲直りをしたいのですか?」
 八束の問いに対し、真は「それは」と言いかけて口を噤む。その間に、ちょこが八束の膝の上に飛び乗ってきた。そのつややかなこげ茶色の毛並みを撫でてやりながら、真の言葉を待つ。
 しばし、爪先に視線を落とし、言葉を選んでいるようだった真は、やがて小さく息をついて言う。
「兄と仲直りをしたいのは、間違いないです。でも……、怖いんです」
「怖い、というのは?」
「ずっと口を利いてくれないのもそうですし、顔を合わせようとしてくれないのもそうです。きっと、兄は今の今までずっと怒ってるんだと思います。そんな兄に私が触れようとしたら、また喧嘩になって二度と兄との関係が取り戻せなくなるんじゃないかと思って、怖いんです」
 むむ、と八束は唸らずにはいられない。どうも南雲が「怒っている」というのは八束にはしっくり来ないが、それは、真と南雲との関係を一度も目にしたことがないからに違いないのだろう、と考え直す。
 しかし、しかし、だ。
「しかし、それは、実際に南雲さんに聞いてみないとわからないと思います! もし、真さんが直接お兄さんに確認できないならば、わたしが代わりに真さんのお気持ちをお伝えすることもできますが!」
「えっ」
 まろんを抱え上げた真の動きが、ぴたりと止まる。
「い、いえっ! 流石にそこまで、八束さんにお願いするわけには! それに」
 ――これは、私と兄の問題なので。
 そう言う真は、微笑んでみせたけれど、その微笑みは酷く鈍いものだった。南雲とよく似た顔立ちをしているだけに、その表情の鈍さがはっきりと八束にも読み取れる。
 ただ、「真と南雲の問題」であると明言されてしまった以上、これはもう八束が関わっていい話ではないということだけは、はっきりした。どれだけ釈然としなくとも、真本人がそう言うのだから、仕方のないことだった。
 それにしても、ここまで胸がもやもやするのは珍しいことだ。八束はちょこのしっとり濡れた鼻を押し付けられながら、微かに眉を寄せる。
 その正体を一つずつ分析してみれば、確かに真の煮え切らない態度ももやつくものがあるが、これは何より、今はここにいない南雲に対してのもやもやだ。妹にこんな顔をさせて、南雲は何とも思っていないのだろうか。八束よりよっぽど人の心の機微に敏感なあの男が、真の気持ちに気づかないで過ごすなんてことがあるだろうか。
 そう、それは、どう考えても「南雲らしくない」のだ。
 しかし、現実として南雲と真との交流は断絶しているし、八束もその証拠の一端を握ってしまっている以上、真の言葉が嘘とも思えずにいた。
 だからこそ、日々を共に過ごし、少しずつわかってきたと思っていた南雲の輪郭が、急にぼやけてしまったような錯覚を抱かずにはいられないのだ。
 言葉にしようとしても、その全てを上手く表現することのできないもやもやを何とか振り払おうと、八束は改めて背筋に力を入れて、意識して明るい声を出す。
「その、お兄さんのことはともかくとしても、もし、何かわたしにできることがありましたら、お悩み事でも何でも、遠慮なくおっしゃってください!」
「え……?」
「いつも真さんのお兄さんにはお世話になっていますし、何より、わたし、真さんとお知り合いになれたことが嬉しいんです」
 それは何も、真が南雲の妹だからというだけではなく。八束にとって、仕事でもない場所で誰かと知り合って、こうして並んで話すという経験は実のところほとんど初めてのことだった。相手が同年代の女子というなら、尚更だ。
「ですから、よかったら、また、こうやってお話しさせてください」
 八束の言葉に、目を白黒させていた真は、やがてふわりと微笑んだ。今度は、南雲の話をしていた時とは違う、どこまでも穏やかで優しい――あの南雲もごく普通の感情表現ができるなら、ひょっとするとこんな顔になるのではないかと思わせる――甘く柔らかな笑顔だった。
「それなら、喜んで。私も、八束さんのお話、もっと聞きたいです」
「そう言っていただけるなら、ありがたいです」
「それに、別に悩みや相談事でなくとも、八束さんとおしゃべりできればよいなと思うんですけど」
「しかし、その、それだけではわたしが落ち着かないのです。失礼ながら、あまり、普通の話というのに慣れていなくて。日々、問題を解決することに重点を置いてしまっている弊害というのでしょうか」
 これは南雲にも以前呆れ顔で指摘されたことがあった。八束は、あまりにも、日常生活の話題というものに興味がなさすぎる、と。実際、意識したことがなかったのだ。八束にとって仕事以外の日常生活は「仕事を行うために必要な諸々の手続き」でしかなかったから。
 そんな八束の言葉を不思議そうな顔で聞いていた真だったが、八束の言葉が冗談でも何でもないのはわかってくれたのだろう。「なるほどです」と一つ頷いて、ちょこんとかわいらしく首をかしげた。
「それでは、お言葉に甘えて、一つ、悩み事を聞いてもらってもよいですか?」