03:ナインライヴズ・ツインテール(3)

 一方、その頃。
 自分が話題にされているとはつゆ知らず、南雲彰は待盾署に程近い公園のベンチに腰掛けて長い足をぶらつかせていた。
 具体的に何をしているわけでもなく、紙袋に入った一尾のたい焼きをむしゃむしゃしながら、西からの光を浴びているだけである。行きつけの菓子屋に寄ることだけは最初から決まっていたが、買い物をしてすぐ帰る気分になれなかっただけ、ともいう。
 やがて、たい焼きもすっかり食べ終わってしまい、ふあ、と欠伸をしかけたところで、突然鼻がむずむずして、小さくくしゃみをする。こういうものは、一度でも飛び出すと連続するもので、くしゅ、くしゅ、と顔に似合わぬかわいいくしゃみを数回繰り返したところで、やっと波が止まった。ポケットからティッシュを取り出して、鼻をかんで。
「……風邪かしら?」
 不意に、横から聞こえてきたおっとりとした声に、依然ずるずると鳴る鼻を啜りながら答える。
「いーえ、これは十中八九猫アレルギーです」
「あらあら、それは困ったこと」
 ころころ、と愉快そうに笑う声の方に視線を向ける。いつの間にか、横には杖を手にした老婦人が腰掛けていた。きっちり整えられた和の装いに、綺麗に結い上げた白髪。こんな寂れた公園には似合わない、見るからに品のいい婦人である。
 だが、南雲には、それが目に見える通りの存在でないことが、わかってしまうわけで。
 くしゃん、ともう一つくしゃみをして、ティッシュで鼻を押さえながら南雲は老婦人を睨む。
「で、ひとでなしのご婦人が俺に何の用ですか」
「あらまあ、ひとでなしだなんて酷いわ」
「別に、事実を言ったまでですよ、『人間じゃない』って」
 その言葉に、老婦人は再びころころと笑う。「酷い」とは言っていても、本気で気分を害したわけではないようで、南雲も顔には出さないまでもほっとする。
 南雲としては、ひとでなしに舐められるわけにはいかないが、逆上されても困るのだ。何しろ南雲自身は「ひとでなし」と「それ以外」を見分けることができるだけの、ただの人間でしかないのだから。その点、このご婦人が良識的なひとでなしであるらしいことに心の内でそっと感謝する。
 老婦人は人懐こそうな笑みを浮かべたまま、おっとりと喋り始める。
「実はね、近頃とても困っていることがあって、あなたを頼りたいと思ったの」
「俺を、ですか?」
 日ごろから眉間に刻まれて消えない皺が、更に一つか二つ増えたのを自覚する。きっと、今の自分はとんでもなく不機嫌そうな面をしているのだろうな、と他人事のように思いつつ老婦人を横目に窺えば、老婦人は変わらず笑みを浮かべ続けていた。いたって温和で人の好さそうな、その反面、考えていることが全く読めない笑い方である。
「ええ。あなたなら、私たちの事情もわかった上で、話を聞いてくれると思って」
「一体どこの噂ですかそれ。俺、できればひとでなしとは関わりたくないんですけど」
「それは、例の事件のせい?」
 例の事件。
 その言葉に、南雲はただ、沈黙と眼鏡の下から投げかける視線だけで応えた。それだけでも十分、南雲の「不愉快だ」という感想が伝わったらしい。老婦人は申し訳なさそうに白髪頭を下げる。
「……ごめんなさい。部外者が、勝手に詮索していいことではなかったわね」
 それでも、と。頭一つ分上にある南雲の顔を見上げる、ひとでなしのご婦人。
「私たちのそばにいながら『人』である、あなたの手を借していただきたいの」
 よくよく見直すまでもなく、老婦人の目は、明らかに人のそれではなかった。いやに細い、針のような瞳孔が、じっと南雲の顔を覗き込んでいる。とはいえ、その手のひとでなしには慣れている。南雲は意図的に視線を外して、呟くように――それでも、老婦人だけには聞こえるように、言った。
「まあ、話を聞くだけなら。お役に立てるかどうかは、わかりませんよ」
 ええ、と答えた老婦人は心底ほっとした様子で目尻を下げてみせた。それにしても、こうして人と変わらぬ姿を取れるほどのひとでなしが、ただの人である南雲の力を必要とするようなことがあるのだろうか、と不思議に思いながらティッシュで鼻を押さえていると、老婦人はぽつぽつと喋り始めた。
「あなたはご存知かしら? 近頃、待盾市内の、特にこの辺りの野良猫が悪いものを食べて体を壊してしまう事件が起こっているの」
 そういえば、昨日、係長の綿貫もそんなことを言っていた気がする。と言っても、その時は半分くらい寝ていたから、ほとんど八束との会話しか覚えていないけれど。
「そちらさんには、犯人がわかってないんですか?」
「ごめんなさい、はっきりとしたことは、何も。けれど、このままでは皆怖がってしまうばかりでしょう。だから、犯人を捕まえていただきたいの」
「……それ、俺に頼むことなんすか? 俺より、そちらさんの方がよっぽど捜査には向いてると思いますけど」
 人には向き不向きがあり、ひとでなしにもそれがある。南雲の見立てが正しければ、目の前にいるひとでなしは、人の側に寄り添い物事を見つめること、に関しては極めて優れていると思われた。
 しかし、老婦人は南雲の言葉に対し、ゆっくりと首を横に振る。
「人による問題は人が、ひとでなしによる問題はひとでなしが。それが、あるべき姿だと思うのだけど、どうかしら」
 そうですね、と言って、南雲はもう一枚ティッシュを取り出して、依然ずびずびと鳴り続ける鼻をかんでから、口呼吸の合間に言葉を吐き出す。
「わかんないでもないです。俺が、まさにそういう立ち位置ですしね」
 南雲が属する秘策こと神秘対策係は、本来なら存在し得ない『ひとでなし』――妖怪や幽霊、超常能力者といった神秘の担い手――が関わっているといわれる犯罪が、実際には人の手によるものであることを証明し、罪を犯した人間を特定するための部署だ。
 だが、その一方で、南雲はこうも考えている。
 神秘対策係とは、表向き「存在し得ない」とされていながら、実際には我々のすぐ側に存在するひとでなしとの相互不可侵を守るために存在しているのではないか、と。秘策が神秘を人の手によるものであると証明するのは、単に犯人を逃さないため、という理由だけではなく、ひとでなしにあらぬ疑いをかけることを避けることにも繋がっているのではないか、と。
 もちろん、それはあくまで南雲の想像に過ぎないし、あえて部署の創立者である綿貫栄太郎に聞いてみる気もなかった。できることなら、ひとでなしには指一本触れずに平穏な日々を送りたい南雲にとって、一番の方策は「話題にも出さない」ことだったから。
 とはいえ、今こうしてひとでなしを目の前にしてしまった以上は、無関心でもいられない。南雲にとって、ひとでなしとはいつだってそういうものだった。
 老婦人は、そんな南雲を不思議なつくりの目でじっと観察していたようだったが、やがてふと口元を緩める。
「私からのお願いはそれだけ。もちろん無理にとは言わないし、もしあなたが犯人を捕まえられなくても、それを責めたりはしないと約束するわ。いかがかしら?」
「もし、俺が犯人を捕まえられたら、見返りって何かありますかね? 俺はその件について仕事としては積極的に介入できない立場なんで、ただ働きは勘弁してもらいたいとこです」
 あ、でも金銭とか物品は受け取れないです、と南雲はあらかじめ釘を刺す。一応、これでも地方公務員としての矜持はあるし、もし収賄が誰かに見つかったら面倒くさい。というか、主に後者が大きな理由である。
 それもそうね、と老婦人は口元に指を当てて、しばし考えているような素振りを見せたが、すぐに、南雲の前に人差し指を立てて言う。
「それなら、一つ、あなたのお願いごとを叶えてあげましょうか。と言っても、私程度の力じゃあ、そんなに大したお願いは叶えられないけど」
「お願いごと……、ねえ」
 目の前の老婦人がひとでなしである以上、多少は現実離れした「お願い」でも聞いてもらえそうな気はする。と言っても、「願いを叶える」という触れ込みのひとでなしが南雲の本当の願いを叶えてくれたためしはないので、大きな期待をかけるべきではないことも、わかる。
 と、不意に、南雲の脳裏に、一つの光景が蘇る。きっと、他人から見れば大したことでもない、けれど南雲にとっては限りなく根深い問題である、それが。
 あまり、他人に――この場合はひとでなしも含めて――言うようなことではないし、正直なところ誰にも言いたくないことではあったが、今の南雲にはどうにもならないことでもあって。つい、背中を丸めて老婦人の耳に唇を寄せる。
「じゃあ、こんなお願いでも聞いてもらえますかね」
 そっと、耳打ちした内容に、老婦人は目をぱちくりさせて、それから意味ありげに目を細めて見せる。
「あら、それはそれは、なかなか難しい問題ね」
「もちろん、できれば、で構わないんですけど」
「ふふ、いいわ。私が、責任をもって請け負いました。それじゃあ、契約成立ね」
 老婦人の軽やかな笑い声を聞きながら、南雲は「失礼」と顔を背けて、再び立て続けにくしゃみする。そして、何度目かもわからない鼻をかんだところで、ついに手持ちのポケットティッシュが尽きた。次はもうハンカチで拭くしかないか、と思っていると、そっと横からポケットティッシュが差し出された。近所のモデルルームの広告が入ったティッシュを差し出す老婦人は、困ったように首を傾げて言った。
「本当にごめんなさいね。ティッシュ、使ってちょうだいな」
「すみません、いただきます」