03:ナインライヴズ・ツインテール(1)

 テーブルの上に朝食は並べたし、人数分の弁当も揃えた。自分の分の弁当もしっかりと鞄の中に入れたことを指差し確認。何しろ、弁当がなければ死んでしまう。一日の楽しみの半分は、弁当を食べることにあると言っても過言ではないのだから。ちなみにもう半分はお菓子を食べることである。
 窓の外はやっと日が昇ってきたのか、うっすらと明るくなり始めていた。こうして実際に日の出るくらいの時間に起きていると、徐々に日が短くなって、冬が近づいているという事実をひしひしと感じるものだ。
 尻尾を千切れんばかりに振って、足元にじゃれ付く二匹の愛犬をそれぞれ丁寧に撫で、弁当とお菓子でずっしりと重い鞄を手に取る。重たいのはいつものことであるし、この重さが幸せの重さだと思えばどうということはない。
 そうして、名残惜しくも愛犬に別れを告げ、なるべく物音を立てないように気を遣いながら玄関で靴を履いていると、不意に、首筋の辺りにぴりぴりとしたものを感じた。普段眠気と頭痛に苛まれる一方で、妙に鋭敏になってしまっている感覚を、この時ばかりは恨まずにはいられない。
 気づいてしまったら、そちらを、確認せずにはいられないから。
 ちらり、と背後を振り返れば、廊下の奥からこちらを見つめる双眸と、目が合った。
 責めたてるような、何かを訴えるような、その視線を真っ向から受け止めることなんて、できるはずもなくて。横に置いていた鞄を手に、乱暴に扉を開けて外へと飛び出す。依然消えない首筋あたりの違和感を振り払うために、大股で、早足に歩いていく。
 そして、角を一つ曲がったところで足を止め、恐る恐る振り向けば、視線の主は、こちらを追ってきていたわけではなかったのだと気づく。うっすらと暗い空の下、閑静な――まだ目覚めてもいない住宅街が、広がっているだけだった。
 僅かに乱れた呼吸を整え、消えない眉間の皺を指でごりごりと揉み解しながら。
「あー……、かっこ悪ぃ……」
 深い溜息と共に、心底の感想を、吐き出す。
 
 
 待盾署の名物部署『秘策』――C県警待盾署刑事課神秘対策には、今日も特に仕事らしい仕事はなく、八束結は忙しい他部署の応援として、事務書類を作成するためにキーボードを叩いていた。かたかたという規則正しい音が、元倉庫であるらしい狭い対策室に響き渡る。
 八束にとっては、普段と何一つ変わりのない、極めて日常的な業務内容である。本来の秘策の仕事が「非日常」である辺り、どうかと思わなくもないが。
 そんな時、不意に、奥に座って珈琲を啜っていた神秘対策係係長、綿貫栄太郎が口を開いた。
「そういえば、八束くんは、猫はお好きですか?」
 八束はリズミカルにキーボードを叩く手を止め、綿貫の方に視線を向けて首を傾げる。
「猫、ですか? そうですね、かわいらしいと思います」
 猫を飼ったことはないが、八束の住むアパートの周囲には、何匹かの野良猫が住んでいるらしく、八束も度々そのふわふわとした愛らしい姿を目にしている。茶トラにぶち、真っ黒な子に白靴下の子。個性豊かな猫たちは、近隣の住民に愛されながらゆったりとした日々を暮らしているようだった。
 八束の快活な答えを聞いて、綿貫はほっこりとした微笑みを浮かべて見せたが、すぐにその眉間に薄く皺を刻んで言う。
「では、少し嫌な話になってしまうと思いますが、一つお話ししておきたいことがあります」
「何でしょう?」
「近頃、待盾市内で野良猫が瀕死の状態で発見される、という事件が、数件ほど発生しているそうなのです」
「瀕死の状態、ということは、もしかして、毒か何かですか?」
「そうみたいですね。猫にとって有害な食物を摂取したことによる中毒症状のようです。幸い、今のところ発見に至るのが早かったらしく、全ての猫が一命を取り留めていますが、実際には発見されていないだけで死亡している猫もいるかもしれません」
 中毒症状、という言葉に、八束も短くぽってりとした眉を寄せずにはいられなかった。今までそうでなかった場所に、突然毒の入った食物が現れたとは考えづらい。おそらく、心無い人の手によって毒が仕掛けられているのだろう、ということだけは八束にだってわかったから。
「とはいえ、未だ詳細はよくわかっていないようでして、今は、生活安全課が広く情報提供を呼びかけているそうです。八束くんも、もし何か気づいたことがあれば、僕の方に報告してくださいね」
「はい、わかりました」
 ぴしっ、と背筋を伸ばし、きっぱりはっきりと返事をする。相手が動物とはいえ、この都市の住人である以上、彼らとて八束にとっては守るべき対象に他ならない。綿貫もそんな八束の返事に満足そうに頷いてみせると、その視線をそのまま八束の対面に座る――正確には、机の上の無数のぬいぐるみに埋もれて突っ伏している男に向ける。
「南雲くん」
「んうー」
「南雲くん、聞こえていましたか?」
 綿貫の声を受け、髪の毛一つ生えていないつるりとした頭を重そうに持ち上げた男、南雲彰は、盛大に位置がずれた黒縁眼鏡を直しもせずに、べったりと周囲に隈を浮かべた目で綿貫を睨みつけ、
「ううん、なんにも」
 恐ろしげな面に似合わぬ間延びした声で言って、再び机に突っ伏した。
 八束の『教育係』であり『相棒』でもある南雲の態度がろくでもないことはいつものことであり、綿貫も大げさに肩を竦めて、八束に向き直る。その顔は人の感情の機微に疎い八束ですらはっきりと感じ取れる、深い深い諦めに彩られていた。
「まあ、南雲くんが僕の話を聞かないということはわかりきっていましたから……」
「係長……」
 背中の辺りに哀愁すらも漂わせながら、綿貫は机の上の資料をまとめて、席を立つ。
「係長、どちらへ?」
「今日はこれから、例の怪盗事件に関する会議なんですよ。まあ、僕や秘策がお役に立てるとは思えませんけど、念のため参加しろとのことで。お留守番頼みましたよ」
「了解しました」
 びしっ、と背筋を伸ばして返事をすると、綿貫も満足そうに頷いて――それからちらりと南雲に視線をやったが、南雲は依然突っ伏したままでぴくりとも動かなかった。綿貫も南雲に何を期待してもいなかったのだろう、「では、行ってきます」と言って対策室を出て行った。
 その足音が遠ざかって、聞こえなくなったところで。
「いやー、綿貫さんも大変だよねえ」
 唐突に、くぐもった声がした。八束がはっとそちらを見れば、南雲が土気色の後ろ頭を晒した姿勢のまま、ゆるゆると言う。
「関係なさげなとこにもちょこちょこ顔出さなきゃならないとかさあ。まあ、何とか署内の好感度稼いで秘策を存続させようとしてんだろうけど」
「大変だと思うのなら、きちんと綿貫係長の話を聞くなど、少しは協力の姿勢を見せるべきであると思いますが」
「だって、さっきのは別に俺らの仕事の話じゃなかったでしょ」
 確かに、今回の話は八束と南雲――秘策の仕事ではなかった。だからといって、係長の話を聞かなくてもいい、ということではないと思うのだが、と頬を膨らませていると、南雲が少しだけ頭を上げて言う。
「にゃんこが大変な目に遭ってる、ってのは確かに気に食わないけど」
「ちゃんと聞いてたんじゃないですか!?」
「えへっ」
 声だけはかわいらしさを装っているが、その顔は相変わらずの不機嫌そうな仏頂面であって、「かわいらしさ」というより「恐ろしさ」ばかりが勝っていた。これもまたいつも通りのことではあるのだが、このちぐはぐさは、そう簡単に慣れるものではない。
 それと同時にもう一つ、南雲の態度とは別に、気にかかることがあった。
「あの、南雲さん、いつもより、顔色が悪くありませんか?」
「え? そう?」
 南雲は怪訝な顔で首を傾げてみせるし、八束も今の今までは、南雲があんまり顔を上げないこともあってほとんど意識していなかった。しかし、こうして顔を突き合わせてみると、はっきりとわかる。
「はい。血の気二割減です」
 元々、南雲は血の気に満ちている方ではない、どころか常に死人のような顔色をしていて、日頃からの人相の悪さに拍車をかけている。何故そんな顔色をしているのかもいつか問いただしたくはあるのだが、今日の顔色はそれに輪をかけて悪かった。生気というものが全く感じられない。
「どこか、お体の具合が悪いのですか?」
「そういうわけじゃない……、と思う、けど」
「『と思う』って言いましたよね今」
「いや、いつもと変わらないんだ、よくも悪くもない」
 そういえば、南雲は常に頭が重かったり眠かったりするのであった。そういう意味では、常日頃から万全の体調ではない、というべきなのだろう。ただ、もちろん、八束が言いたいことがそうでないことくらいは南雲にも伝わっているのだろう、溜息交じりに肩を竦める。
「あー、でも、ほんとお前の目は誤魔化せないんだよなあ……」
「何かを誤魔化しているのですか?」
 八束の目から見る限り、南雲彰という男は、見た目ほど恐ろしい人間ではなく、いくつかの欠点を除けば極めて親しみの持てる人柄をしている。ただし、その一方で八束には見えない点があるのも確かだった。言ってしまえば、南雲の言葉通り、何かしらを「誤魔化している」。
 机に顎をつけた南雲は、黒縁眼鏡の分厚いレンズの下から人より少しだけ色の薄い目で八束を見上げ、溜息混じりに言う。
「んー、いやね、今朝ちょっと落ち込むことがあって、それを引きずってるだけ」
「南雲さんでも落ち込むことがあるんですね」
「いやいや、俺ってこう見えてグラスハートなのよ」
「それ、防弾硝子製ですよね絶対」
 そうでもないよー、とおどけて言いながらも、やはり、南雲の表情はほんの少しだけ冴えない。それはほとんど「見間違い」のような違いだったけれど、今まで八束が南雲と接してきた記憶は、今日の南雲が「いつもと違う」ことを物語っている。
 一度気づいてしまった以上は、どうしても、放ってはおけない。八束は、何とか血色を戻そうとしているのか、大きな手で己の頬を擦る南雲に向かって言う。
「南雲さん」
「んー?」
「もし、人に話して楽になるようなことであれば、聞きますよ。秘密も守るとお約束します」
「や、別に、八束には関係ない話だし、本当につまんない話だし……」
 と言いさして、南雲は一度口を噤む。それから、ゆっくりと首を横に振って、言った。
「いや、違うな。気持ちは素直に嬉しいし、ありがたいと思う。まだ、ちょっと言うのが辛いから、話せるようになったら聞いてくれるか」
 八束への感謝を伝えた上で、話せないことははっきり「話せない」と言う。それが、南雲なりの、八束に対する誠意なのだ。沈黙や誤魔化しの多い男ではあるが、このような形で八束に応えようとしてくれる点において、八束は南雲をとても好ましいと思っている。
 だから。
「わかりました。……少しでも、気分が楽になるといいですね」
「うん、ありがと」
 そんな他愛の無いやり取りを交わして、八束は仕事に戻り、南雲は寝に戻る。
 そして、神秘対策室には、八束がキーボードを叩く軽快な音だけが響き渡るのであった。