02:ワンダリング・ウォーターインプ(16)

 ――俺の「嫌な予感」はよく当たる。
 そう、南雲彰は自負している。
 いい予感でなく、「嫌な予感」限定である辺り、神様の嫌がらせか何かかと思うことも多い。ちなみに南雲は神も仏も信じない主義なのでこの場合の「神様」とは「責任を転嫁するのに都合のよい存在」という程度の意味合いでしかない。
 そして、この日も何となく、嫌な予感がしていたのだ。
「随分たくさんの方がいらしていますね」
 境内に設置されたベンチに腰掛けた八束結が、コーラの缶を片手に言う。南雲と八束は同じコーラの缶を持っているわけだが、手の大きさが違うからだろう、八束の缶の方が大きく見えて仕方がない。
 自分の分を飲み終わってしまったこともあり、八束の缶の中に入っているであろう、甘くて黒くてしゅわしゅわする液体のことを考えていると――。
「……物欲しそうに見ないでください。飲み足りないなら自分で買ってください」
「ちぇー」
 つれない反応しか返ってこなかったので、南雲は諦めて石段の方に目を向けた。
 あれから、神主の菊平亮介はしばらく河童のミイラの公開を中止していたが、今日になって久しぶりに再開したのであった。何だかんだで話題になっていたのか、以前よりも多くの人が鳥居を潜っては、石段を上っていくのが見て取れる。
 南雲も、八束から再開の報を聞いて訪れたはいいのだが、なかなか菊平は忙しそうだったため、手伝いに借り出されていた翔に差し入れのおやつを預けて、そのまま二人でのんびりしていたというわけだ。
「翔くん、元気そうでしたね」
「先輩にきちんと話ができたって言ってたしね。もう、だいじょぶだろ」
 正直なところ、翔のことはそこまで心配していなかった。あの利発な少年は南雲の話をよく理解しているようだったから、きっと自分の悩みとも、父親とも上手く折り合いがつけられるだろうと思っていた。
 ただ、八束が嬉しそうにしているのを見るのは、まあ、悪い気分ではない。
 ――そんなことを思っていると。
「お二人はデートですか、うらやましい」
 横合いから知った声がかけられて、ついとそちらに視線を向ける。相変わらずステレオタイプなオタクを体現したような小太りの男――笠居大和がカメラを首から提げて立っていた。
 八束は「こんにちは笠居さん」と頭を下げて、それから少しばかり首を曲げて言う。
「デート、という言葉が『逢引』という意味であるなら違います。ただ、日時と場所を定めて会うという意味では間違っていませんので、一概に否定はできません」
 相変わらず、八束の返答はどこかずれていた。しかも、特に恥ずかしがるような素振りも見せず、辞書的な意味と照らし合わせての反応である。笠居は「言う相手間違えたな」と言わんばかりに丸い顔を歪めた。
「そういや、仕事でもプライベートでも八束と一緒にいること多いけど、デートって言われたの初めてだな」
「見た目が悪いんじゃないですかねぇ」
「だよねえ」
 呆れ顔で言う笠居に対し、南雲も肩を竦めた。正しく会話のキャッチボールができる相手は嫌いではない。
 八束はきょとんとした表情で、コーラの缶を両手で持ったまま笠居に問う。
「何かご用でしょうか、笠居さん」
「いえ、ミイラの公開を再開したと聞いたのでちょっと取材でも、と思ったんですけど」
「思った以上に人は多いし菊平先輩は忙しそうだし、どうしようって思ってたところに俺らが二人並んでコーラ飲んでたから、何となく声かけたってとこでしょ」
 そうです、と笠居は唇を尖らせる。南雲が話を先取りしたのが気に食わなかったのだろう。最近八束と喋ってばかりいたので、ちょっと普通の人間との喋り方を忘れている気がする。気をつけなければな、と胸の内で己を適当に戒める。あくまで適当に。
 一方で、八束は南雲と笠居を交互に見て、「なるほど」とこくこく頷いている。相変わらずぜんまい仕掛けの人形を思わせるメカニカルな動きだ。鳩が首を動かすのにも似ている。
 そして、何かを思い出したのか、ぽんと手を叩いた。
「そういえば」
 八束は、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべて、笠居に向き直る。
「城崎与四郎氏の件伺いました。笠居さんのお手柄だったようですね」
「あ、あー、あれですね……」
 ちらり、と笠居がこちらに目配せしてくる。目配せしてきても知らん、と言いたいところだったが、ちょっと遅かった。
「実はあれ、ほぼ全部南雲さんから貰った情報なんですよ」
「え」
「めっちゃ怖いですよこの人。口先では私刑はダメだとか言いながら、城崎さん潰す気満々でしたよあれ」
 南雲は慌てて口を尖らせ、ひゅぅーひゅぅーとさっぱり音にならない下手くそな口笛を吹く。もちろん、そんなもので八束が誤魔化されるはずもなく、ぎろりと南雲を睨んでくる。さっぱり怖くないが、気迫だけは確かに伝わってきて、背筋に冷たい汗が流れる。
 ――城崎与四郎は、笠居の所属する『幻想探求倶楽部』の編集部から告発を受けた。
 幻想探求倶楽部編集部――を焚きつけた笠居は、城崎が今まで怪物ハンターとして発見した怪物の存在を示す証拠のうち、いくつかは明らかな脅迫や捏造によるものだ、ということを、当事者たちの証言などを含めた証拠を揃えて突きつけたのだ。
 現在、城崎は近年まれに見る大法螺吹きとしてあちこちのメディアで引っ張り凧になっている。彼の「注目されたい」という願いの通り。最低でも、菊平親子について思い出す暇なんて無いくらいには、忙しない日々を送っているはずだ。
 まあ、正直なところ、笠居に情報を渡して、八束と共に城崎の企みを暴いた時点で、南雲は完全に城崎のことを忘れていたのだが。何ら取り得のない南雲ではあるが、都合よく物事を忘れることだけは得意なのだ。
 しかし、八束は「忘れる」という能力を欠いている上に、曲がったことを放っておけない性格なのは、この一ヶ月くらい付き合ってきて嫌というほどわかっているわけで。
 八束はきっと短い眉を吊り上げ、黒目がちの両眼で南雲をじっと見据えている。
「南雲さん、もしかして法に触れるような手段使いませんでしたか?」
「いや、俺は最低限の法律は守ってるよ、多分。メイビー」
「多分、って言っている時点で違法の可能性を示唆してませんか!?」
「黙秘権を行使します」
「南雲さん!」
 笠居へ情報を渡すとき、口止めも加えておけばよかったなあ、と今更後悔しても遅かった。南雲が直接動くには色々と面倒な肩書きが多いこともあるし、何よりも八束にバレた時に、上手い言い訳を考えるのが面倒だったため、笠居に告発を代行してもらったのだが、こうも簡単にバレていちゃ世話はない。
 ぎゃあぎゃあと喚きたてる八束の声を、指で耳栓をしてやり過ごそうと試みるも、その態度が八束の神経を逆撫でしてしまったらしい。正義と法にまつわるありがたいお説教は、おろおろする笠居をよそに、あと三十分くらいは続きそうな勢いであった。
 ――が、その時。
 この場の緊迫感にそぐわぬ、涼やかな声が割って入った。
「またお会いしましたね」
 おや、と八束も意識を南雲からそちらに向ける。内心、助かったと思いながらそちらを見れば、ニットの帽子を被った青年が立っていた。確か、一度見た顔だと思う。八束ほどではないが、南雲も「人の顔」を覚えるのは得意な方だ。
 確か、大学で民俗学を専攻している梅川恭一とかいう青年だ。ここしばらくずっと間が悪く、なかなか落ち着いて河童のミイラを見る機会に恵まれなかったようだが、流石に三度目の正直、きっちり河童のミイラとご対面できたらしいのは、その明るい表情から明らかだった。
「こんにちは。この前、河童を見に来ていた方ですよね。無事見られましたか?」
「ええ。あなた方も?」
 はい、と頷いて立ち上がり、青年と話し始める八束を横目に、南雲は笠居を見やる。いつもは単に「見る」だけで十分なのだが、今回ばかりは意識して睨みつけてみる。笠居は「ひぃ」と情けない声を上げて、身を竦ませる。
「怒らないでくださいよ、八束さんの反応なんて自分が想定できると思いますか?」
「笠居くんの言い分はわかる。わかるけど、誰かを恨まないとやってらんない」
「横暴だ!? あんたほんとめんどくさい人って言われません!?」
「よく言われるし特に否定はしない」
 やだこの人めんどくさい、と今更なことを叫ぶ笠居の反応が心地よいので、胸の内では笠居を許した。ただし、なかなか面白いのであと三十分くらいはおちょくりたいところではあるのだが。
 南雲がそんな物騒なことを考えているとは露も知らない八束は、梅川とのんびり話を続けている。
「河童のミイラ、いかがでしたか?」
「ええ、なかなか興味深い品でした。偽物であるとは聞いていましたが、動物のミイラを組み合わせるという発想は面白いですね」
「しかし、梅川さんは何故河童のミイラを? 大学の研究ですか」
「それもありますが……。実はうち、河童の血を引く家系らしいんですよ」
 ――河童の、家系?
 何だかとんでもない言葉が飛び出した気がして、思わずそちらに意識が向く。笠居は笠居で流石はオカルト専門誌の記者、目を真ん丸くして梅川を見ている。
 ぽかん、と間抜け面を探す八束に対し、梅川は苦笑を浮かべながら後ろ頭を掻く。
「まあ、あくまで言い伝えではあるんですけどね。でも、ご先祖様がこの神社に友好の証として河童の姿に似せたミイラを贈ったって話が、代々伝えられてて。それで、是非一度見てみたいと思っていたんですよ」
「な、なるほど……?」
 ――あっ、完全に理解することを拒否している。
 南雲は八束の微妙な反応から全てを察してしまった。何しろ八束にとって、河童は「存在しない生物」だ。いや、正確に言うなら「存在していてはならない生物」というべきか。当然、その血を引く人間、という奇天烈なものも存在していてはならないわけだ。
 そういうものを、立場上認められないまでも「いるんだろうなあ」という程度に認識している南雲と違い、八束はそういうものが「いる」と考えただけでパニックに陥ってしまう性質なのだから、思考停止してしかるべきと言うべきか。
「それでは、失礼します」
 梅川青年は、そんな八束の混乱には気づいていなかったのか、人好きのする笑みを浮かべて一礼し、南雲たちにも目礼をした上で、その場を後にした。
 もしかして、ニット帽の下に皿の痕跡とかあったりするんだろうか。実はあの帽子、ハゲ隠しだったりするのだろうか。ありうるかもしれない。そんな微妙すぎる親近感、というより完全に一方的な妄想を抱いていると、「南雲さん」と声をかけられた。
 見れば、八束が真っ青な顔をして南雲を見下ろしていた。
「河童とは、実在する生物なのでしょうか?」
 前に、そっくりそのまま同じ質問をされたような気がする。その時は確かばっさりと否定したような気がする。真面目に相手をするのが面倒くさかったから。
 けれど――。
「どうだろうな。いないと思ってたけど、案外すぐ側にいたりしてな」
 ひっ、と八束が身を竦ませ、辺りをきょろきょろ見回し始める。そんな目に映るところにごろごろ転がっているなら、とっくのとうに妖怪と人間の共存は成立していたと思われる。
 そして、それとはまるっきり対照的な反応だったのが笠居だ。
 俄然目をきらきらと輝かせて、遠ざかりつつある梅川を見つめている。その熱視線たるや、もし視線に本当の熱量があれば梅川の心臓をぶち抜く勢いだ。
「取材相手、菊平先輩よりあっちの方が面白そうだよね」
「ええ、思わぬ収穫ですよ! すみませーん、ちょっと詳しくお話聞かせてくれませんかね!?」
 流石は名高いオカルト専門雑誌『幻想探求倶楽部』の記者。横に広い体ながら、やたら素早く梅川に駆け寄っていく。そんな笠居の背中を見送って、肺にたまっていた息を吐き出す。何をしたわけでもないのに、妙に疲れた。
 これは、そろそろ帰って甘いものを食えという啓示であろう。そう思って、腰を浮かせたその時。
「南雲さん」
 再び、声をかけられた。
「ん?」
 見れば、無理やりに河童ショックから立ち直ったらしい八束が、肩幅に足を開いた姿勢で南雲を見つめていた。睨んでいた、と言うべきかもしれない。
「少しばかり間が空いてしまいましたが、先ほどの話は、まだ終わってませんよ」
「えっ、まだ続いてたの?」
 もちろんです、と。八束は鼻息荒く宣言する。
「話が途中だということも理解していないということは、どうやら、南雲さんは、全くわたしの話を聞いていなかったようですね」
 しまった、と気づいても後の祭り。八束はいい笑顔で南雲を見つめ、きっぱりと言った。
「さあ、座ってください」
 立ち上がりかけたところを仁王立ちの八束に制された南雲は、もはや観念するしかなかった。こう言い出した八束を止める手段は、今の南雲には存在しなかったから。
 かくして、八束の説教、第二ラウンドが始まったわけだが。
 
 ほら――、俺の嫌な予感は、よく当たるのだ。
 
 そんなことを思いながらも、不思議と愉快な気分になって。
 腰に手を当て、栗鼠のように頬を膨らませながらつらつらと喋り続ける八束を見上げ、ほんの少しだけ、意識的に口の端を緩めた。
 
 ――もちろん「聞いてるんですか」と怒られて、説教が十五分追加されたのは言うまでもない。