02:ワンダリング・ウォーターインプ(13)

 しん、と。静寂が耳の奥に響く。
「どういうことだ、翔……?」
 菊平が呆然とした声で、翔に呼びかける。だが、翔はそれ以上は言葉にはできないようで、一人、唇を噛んで俯いている。
 だから、というわけではないが。八束はどこまでも淡々と言葉を続けていく。頭の中に組み立てておいた文字列を読み上げるように。
「翔さんが河童を盗んだと考えた理由はいくつかありますが、最も決定的だったのは、箱についた爪の跡です。単なる爪跡にしては小さいところから、子供があの箱を持ったと考えて間違いありません」
 翔の手は、元々あまり大きくない八束の手よりも一回りくらいは小さく見えた。指紋を取れない以上それ以上のことはわからないが、翔の顔を見る限り八束の想定が外れていないだろうということもわかる。
「そして、翔さんが河童を盗んだと考えれば、『どのようにして』河童のミイラが消えたのかは説明できます。だって、翔さんは自由に鍵を持ち出せる立場にあったのですから」
 菊平は最初に説明してくれていた。社の鍵は全て家に持ち帰って管理している、と。それならば、菊平の家の人間であれば手に取れる可能性があった、と考えられる。もちろん管理の方法によっては難しいかもしれないが、菊平の行動をよく見てさえいれば、翔でも鍵を手にする方法はあったと思われる。
 そして、菊平の家から神社まではほとんど距離はない。翔が夜、家を抜け出して神社に向かうことも十分可能であったはずだ。
 また、河童の足跡が銀の絵の具で描かれていたのも、翔の手によるものだろう。これに関しては、翔の持つ絵の具箱を確かめればわかる。小学校の図画工作で銀の絵の具を使う機会はそこまで多くない――ということは、南雲から教わった。それでありながら急に絵の具が減っているとなれば、本来使わないような用途で使われたと考えてしかるべきだろう。
 八束の説明を難しい顔で聞いていた菊平は、腕を組んで問う。
「だが、ミイラはどうしたんだ? うちに持ち帰ったってのか?」
「いいえ。家に持ち帰れば何かしらの手がかりが残ってしまう、と考えていたのでしょう。それに、ミイラが入った箱は、縦四十センチに横二十センチと、それなりに大きなものです。そのため、ミイラを一旦社の中に隠したんです」
「……社の中、だって?」
「翌日、河童が所定の位置から消えたと知った神主さんは、その日学校が休みだった翔さんと手分けして、社の中と外に、河童の手がかりを探していたと考えています」
 八束はそれを実際に見ていたわけではない。だが、境内に残っていた足跡の記憶から、二人が手分けして探していたのは間違いないと思っている。ある一部には小さな足跡が、別の箇所には大きな足跡が多く残されていることが明らかであったから。
「翔さんはその時に、河童を隠した場所を探すふりをして『見つからなかった』と報告したのです。翔さんが見つからないと言った場所を、神主さんが更に詳しく見るとは思えませんからね」
 菊平は、小さく唸った。翔は唇を噛んでうつむいていたが、八束の「推測」を否定はしなかった。
「そして、翔さんは河童のミイラを隠し通しました。ここまで来てしまえば、あとは誰も見ていないタイミングで河童を移動させるだけで、河童は完全に失踪するわけです」
 しん、と。静寂が訪れた。菊平も、翔も、口を利けずに黙り込んでいた。そして、この瞬間までは黙って八束の推測を聞いていた城崎だけが、重々しく口を開く。
「つまり、この少年が河童を盗み出し――、私に渡した、と」
「はい」
「馬鹿馬鹿しい。私とこの少年の間に、何の関係があるというのだ?」
 そうですね、と八束は少しばかり目を細めて、城崎と翔を交互に見やる。
「わたしは、この仮説を立てた時、どうしてもわからなかったのです。翔さんが、どうして河童のミイラをわざわざ盗まなければならなかったのか。そして――それが、城崎さんの手に渡ったのか」
「でも、それだけの理由はあるよ。絶対に」
 八束の言葉を次いだのはもちろん南雲だ。南雲はちらりと城崎に視線を投げかけた後に、翔の方に向き直る。
 翔は蛇に睨まれた蛙のように怯えて立ちすくんでいたが、南雲はゆったりとした動きで翔の前に膝をついて、視線を合わせて言う。
「翔くん、君の目的は、河童を盗むことじゃない。河童の身柄と引き換えに、お父さんから『黒鯨の髭』を引き出すことだったんじゃないかと思ってるんだけど、どうかな」
「……っ!」
 翔が、はっとして南雲を見やった。そして、震える声でこう言ったのだ。
「ど、どうして、わかったの?」
 その言葉は菊平にとって意外なものだったのだろう、ほとんど身を乗り出すように南雲に食って掛かる。
「どういうことだ? 何でそこで『黒鯨の髭』が出てくるんだ」
「翔くんが関わってる可能性を考えた時に、ぴんと来たんすよ。先輩、翔くんって、よくクジラさまの話してませんでした?」
 その言葉を聞いた菊平が、露骨に苦い顔をして身を引く。どうやら、心当たりがあるらしい。
「もっとも、ここからは俺の想像なんで、違ったら言ってほしいんすけどね。
 翔くんは、黒鯨――クジラさまの存在を信じていた。もしかしたら、クジラさまらしいものを何度か目にしたことがあったのかもしれない。でも、先輩は翔くんの言葉を信じなかった。神社には『黒鯨の髭』っていう、クジラさまが存在した確たる証拠もあるはずなのに、だ。
 それで、翔くんはどうしても確かめたいと思ったんだろう。クジラさまは本当に存在するということ。神社に奉納されている『黒鯨の髭』が、本当に空を飛ぶ鯨の髭であること」
 そんなもの、存在するはずがない――。
 八束は、内心でそう思いはしたが、言葉にはできなかった。唇を噛んで痛みを堪えるような顔をしながらも、語り続ける南雲を真っ直ぐに見据える翔の姿から、目を離せなくて。
「ただ、そう考えた時、いくつか問題があったわけだ。大きなものは二つ。
 一つ目、『黒鯨の髭』が本当に鯨の髭であることを翔くんには証明できない。まあ、そりゃそうっすよね。多分、普通に海を泳いでる鯨の髭だって見たことないんだから、そう簡単にわかるはずないわけで。
 二つ目、『黒鯨の髭』を手にすることがそもそもできない。何しろ河童のミイラ以上に大切に保管されてるわけで、社の鍵を開けられる翔くんでも、そう簡単に手に取れるような場所にはなかった、もしくは保管されてる場所を知らなかったと考えられる。
 その二つを、どうにか解決しようと思って、翔くんはある人物に相談を持ちかけた。それが」
 ――怪物ハンターである、城崎与四郎氏だった。
 見れば、城崎は暗い目つきで、南雲を睨みつけている。
「君たちは、どうあっても私を疑いたいようだな」
「だって、河童が歩いたように見せかけて持ち去るなんて、翔くん一人で考えられると思います? そもそも、河童が水銀の足跡を残すなんてエピソード、普通は知らないでしょ。一般的な河童の性質ではないわけですし」
「だが、少年の家は河童との関わりを持つ神職の一族だ。そのくらいは知っていたとしてもおかしくはあるまい」
「ま、その可能性はゼロじゃないっすよ。でも、城崎さん、さっき『足跡』って聞いただけで即座に『水銀』って答えましたよね。相手は河童なんだから、それこそ普通に『水かきのついた小さな足跡』でもよさそうなものを」
「うぬ……っ」
 歯ぎしりし、言葉を失う城崎。それ以上反論がない、と判断したのだろう。南雲はあくまで飄然とした態度を崩さずに言葉を続けていく。
「城崎氏もかねてからクジラさまに興味を持っていた、というのは確か先輩も言ってましたよね。翔くんもそれを知っていて、ある時に城崎氏に話を持ちかけたんでしょう。
 その後は簡単です、やはり『黒鯨の髭』を研究したがっていた城崎さんは、河童の公開に合わせて盗み出し、河童と引き換えに『黒鯨の髭』を引き出させるという賭けに出た」
 八束は、南雲の言葉を一つずつ吟味していたが、少しばかり引っかかりを覚えて、南雲の言葉が途切れたところを狙って、疑問を言葉にする。
「しかし南雲さん、それは、かなりリスクの高い賭けではないかと思います」
「どうして?」
「例えば、菊平さんが警察に届けるなどすれば、すぐにでも犯人はわかってしまいます。詳細な捜査の手段を持たないわたしたちでもここまでは突き止められたんですから、きちんと捜査すれば――」
「城崎さんには、それはないっていう確信があったんだろ。『ない』というより『できない』と言うべきか」
 ふ、と。南雲は一旦息をつく。それから、仏頂面ではあるが、おどけた様子で肩を竦めて言った。
「河童が消えた時点で、それができる人間は限られていた。そして、当の菊平先輩が、それに気づかないはずはないんだ」
 南雲の眼鏡越しの視線を受け止めた菊平は、一瞬身を強張らせたが、すぐに肩の力を抜いて、力なく言った。
「……南雲、お前」
「先輩、最初から気づいてたんすよね。翔くんが河童の盗難に関わってるって」
 えっ、と翔が声を上げて、うつむいていた頭を上げる。父と子の視線が、虚空で交錯する。言葉にはならないやり取りが、そこにあった。
 南雲はそんな二人を、色の薄い瞳で見据えたまま、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「だから、警察には届けたくなかった。警察が踏み込めば、少なくとも真犯人はわかるだろうけど、翔くんも強く追及を受けることになってしまう」
 なるほど、当初、菊平がああも八束の提案に対して鈍い反応しか返さなかった理由は、やっと理解できた。
 しかし。
 八束には、どうしてもわからなかった。