02:ワンダリング・ウォーターインプ(11)

「……城崎のクソジジイが?」
 八束の説明を聞いた菊平の第一声はこれだった。
 既に窓の外は暗く、社務所の部屋は煌々と蛍光灯の明かりに照らされている。そんな中で、座布団の上に正座した八束は小さく頷きを返して、続ける。
「笠居さんの家の近くで見かけられたそうです。正確には城崎氏本人ではなく、城崎氏の車ですが。ただ、特徴は一致していますし、この辺りで他に似たような車を見た記憶は、少なくともわたしは一度もありません」
「八束の記憶はあてにしていいっすよ。こいつ、一度見たり聞いたりしたものは絶対忘れないんで」
 そう、見聞きしたものを完全に記憶し、劣化なく保持し続ける能力は、八束の持つ最大の武器だ。正確に言えば「忘れる」という能力を欠いているということなのだが、こと事件の解決においてはこの記憶力が最大限に生かされる。
 菊平と笠居は一瞬の驚きの後、どこか疑うような視線を投げかけてくる。確かに、珍しい能力であることは八束も自覚している――ただし、八束の隣の部屋に住む学生さんも似たような能力を持つので、そこまでレアなわけでもないのではないか、と錯覚することはあるが。
 とにかく、疑われるのには慣れている。それに、重要なのは八束の記憶力そのものではなく、記憶された内容だ。
「わたしの記憶能力を今この場で証明するのはナンセンスと判断します。まずは、話を続けますね」
「あ、ああ」
 八束のきっぱりとした物言いに、菊平は少々気圧されるように頷いた。それを確認して、八束はこの場にいる全員にしっかりと届くように、一言一言の発声に気をつけながら話を続けていく。
「城崎氏の車が目撃された情報はそれのみのため、関係を断定することはできません。そのため、先に現時点ではっきりしていることを確認します」
 頭の中には、先ほど聞いてきた全ての情報がある。そのうち、今回の事件に関係している部分だけを抽出し、要約していく。
「笠居さんの家に河童の入った紙袋が置いてあったのは間違いないようです。置かれたその瞬間を目撃した人はいませんでしたが、情報を総合すると昨日の朝、笠居さんが仕事のために外出し、夜帰ってくるまでに紙袋が置かれたと考えてよさそうです」
「八束、念のための確認だけど。誰も見てないときに自分で置いたって可能性は排除しちゃって大丈夫?」
 座布団から長い足を投げ出した南雲が、菊平の用意した煎餅を食べながら言う。珍しく甘いものに手をつけていないのだな、と思ったが、既に手元に無数のチロルチョコの包みが落ちていることから、どうも口直しであるらしい。それにしてもこの男、何個チョコレートを持ち歩いているのだろう。謎は尽きない。
「今のところ否定はできませんが、勤務場所に確認を取れば、菊平さんが通勤以外のタイミングで家に戻るだけの時間があったのかは確認できるのではないでしょうか」
「昨日は一日編集部で原稿書いてましたしねぇ。自分が家に帰ってないことは証明できると思います」
「オーケイ。笠居くんもありがと。ってなわけで、笠居くんが河童盗難の犯人って線はほぼ消えたと思っていいと思いますよ、先輩」
 みたいだな、と。菊平は深々と溜息をつき、笠居に向き直る。
 そして、畳の上に指をついて、深く頭を下げた。
「疑って悪かったな、笠居さん」
「い、いえ、わかっていただければいいです。それに、河童も無事だったわけですしね」
 むしろ笠居の方が恐縮している様子で、わたわたと両手を振る。
 そう、確かに河童は戻ってきたわけで、これで菊平の依頼は終わったと判断することもできるのだ。
 南雲にちらりと視線を向けてみると、南雲は空になった煎餅の袋を折りたたんで丁寧に結んでいた。そして、綺麗なリボン型になった透明な袋を満足げに畳の上に置いたところで、口を開いた。
「先輩はどうします?」
「……何がだ?」
「河童は見つかったんで、解決は解決なんすよ。笠居くんが犯人かどうかってのは念のための確認ですし。何でもないのに俺が神社の周りうろちょろしてると、神社の心象も悪いでしょ。主に見た目的に」
 南雲は何だかんだで己の見た目が恐ろしいことはきちんと自覚しているらしい。自覚は大切なことである。それで改善を考えない辺りが南雲の南雲たる所以であるわけだが。
「で、先輩は犯人を知りたいですか?」
 いたって飄然とした口ぶりで言う南雲の表情は、相変わらずの険しさである。ただ、何故だろう。眼鏡の下の、黒々とした隈に囲われた目は、普段の虚空を眺める茫洋とした色ではなく、菊平を観察するような、もしくは値踏みするような、妙に鋭い色を湛えているように見えた。
 そして、菊平はそんな南雲の視線に射抜かれて、一瞬言葉を失ったようだった。だが、それはあくまで一瞬のことで、唾を飲み下して低い声で答える。
「……知りたいに決まってんだろ。次に同じようなことが起こらないとも限らねえんだ」
「本当に? 案外、知らない方がいいこともあるかもしれませんよ」
「お前、昔っからそういうこと言う奴だったよな。けど、今回ばかりは最初から最後まで俺の責任だ、どんなことでも、知らなきゃならんと思ってる」
 何故だろう。菊平の声は、精一杯の力を振り絞っているようにも思えた。南雲といい、菊平といい。二人の間には、言葉ではない別の張り詰めた何かが働いているような錯覚にすら陥る。それが「何」なのかはわからないが、八束の肌にもはっきりと伝わる緊張感。
 しばし、重たい沈黙が流れ――。
「ま、そうですよね」
 あっけらかんと言い放った南雲は、後ろ頭を掻く。その瞬間、ふっと何かから解放されたような感覚に陥り、八束自身は何もしていないのに呼吸を止めていたことに気づかされた。
「なら、乗りかかった船ですし、最後まで付き合いますよ。八束は?」
「元よりそのつもりです」
 ぴしりと背筋を伸ばして返事をする。まあ八束はそうだよねえ、と南雲は肩を竦める。
「ただ、一つだけ。先輩に念押ししておかなきゃならないことがあったんだ」
「な、何だよ」
「俺たちは、今回に限っては警察としてじゃなくて、先輩の友達としてお節介を働いている身っすよね。だから、犯人を探す手伝いはするけど、それ以上のことは何もできないし、してはいけない立場なんです」
「ああ、それは承知してるつもりだが、何か問題あんのか?」
 一体何を言われるのだろう、と思っていたのだろう、多少肩に力の入った菊平が怪訝な顔をする。だが、南雲は「いいえ、単なる念押しです」とだけ言って、菊平から視線を逸らし、それきり黙った。言いたいことはこれで全て、ということに違いない。
 とにかく、これで方針は決まった。ここからは、残された謎を一つずつ解き明かす必要がある。
「では、真犯人を知るためにも、今、わかっていないことを整理しましょう」
「そうだな。まず、犯人は誰であるのか」
「最も怪しいのは城崎のジジイだよな?」
 城崎に対してあまりいい感情を抱いていないらしい菊平が、眉間に皺を寄せて言う。しかし、八束は軽く首を横に振る。
「確かに、怪しくはありますが犯人と言い切るのは尚早と考えます」
「どうしてだ? 笠居さんの家の側で見かけられたんだろ? どう考えても河童のミイラを置きにきたとしか思えないだろ」
「城崎氏があの近くにいた可能性は高いでしょう。しかし、笠居さんの家に河童を置いた証拠は今のところありません。何より、『河童のミイラを持っていた』ことを証明できていないんです」
 む、と菊平の眉間の皺が深まる。八束の記憶では、城崎が神社に現れたのは昨日夕刻のこと。何とも悪趣味な黒塗りの車を鳥居の前に停めていたことを覚えている。
 その時手にしていたのはステッキのみであり、河童のミイラを持ち歩いていたようにも見えなかった。ミイラはそのまま持ち運ぶには脆すぎるし、箱ごと持ち運ぶとなればそれこそ適切な大きさの袋が必要になる。
 また、城崎はその前に一度、神社を訪れているという。その時には、河童のミイラにケチをつけるだけつけて帰っていったというが……。
「城崎氏は、河童が消える前に神社で河童のミイラを見ていた。それには間違いありませんよね」
「そうだよ。そう簡単に忘れられるか」
「では、それ以外のタイミング城崎氏を見かけたことはありますか? 河童のミイラが消えた後だったり、もしくは城崎氏が河童を見に来るよりも前などです」
 その問いに、菊平は少しばかり記憶を探るように顎に手を当てて黙り込んだが、十秒も経たないうちに口を開いた。
「河童が消えた後で城崎を見たのは八束ちゃんも一緒にいた、あの時だけだ。だけど、河童のミイラの展示を始める前なら、城崎は何度かうちに来てんだよ。こいつは八束ちゃんにも話したことあったと思うけど」
「はい。『黒鯨の髭』に関するお話ですね。その時、河童のミイラのお話は?」
「うちの神社には、『黒鯨の髭』以外にも、妖怪との講和の象徴として河童のミイラなんかが伝わってる、って話はしたが、興味を持ったようには見えなかったな」
 もちろん、俺が城崎の思惑に気づかなかっただけの可能性もあるが、と菊平は補足する。八束とて、話している相手の思惑を全て把握できるわけがなく、むしろ言葉を鵜呑みにして相手に騙される、なんてことが日常茶飯事のレベルだ。だから、相手が嘘をついている可能性、を無視してはならない。
 とはいえ、今ここにいない相手の思惑を考えても埒が明かないので、まずは菊平の話を前提に考察を続けていくことにする。
「しかし、今回『黒鯨の髭』には変化はなかったのですよね?」
「河童が消えた後に不安になって確認してみたが、変わらず安置されている。まあ、置いてある場所も違うしな」
「そうなのですか?」
 それは初耳だ。その声に反応したのか否か、視界の端で、ほとんど眠りかけていた南雲がぴくりと動いたのが目に入る。ちらりとそちらに視線を向けた菊平は、顎を撫ぜつつ続ける。
「代々、神社に伝わる物品はそれぞればらばらに保管してあるんだ。あ、場所は内緒な。捜査に必要、ってんなら考えるけど」
「いえ、大丈夫だと思います。河童の消失とそちらは別の問題であると考えます」
 とは言いながらも、八束の頭の中には、一つの可能性が見え始めていた。それはまだ単なる可能性に過ぎないが、「どうして」河童を盗み出したのか、という点に関わる気がしているのだ。
 ただ、それだけではやはり足らない。城崎を犯人だと仮定して考察を進めても、必ず一つの壁にぶち当たることになる。
 ――「どうやって」、河童を盗み出したのか。
 この一点が判明しない限り、この事件は本当の意味で解決することはないのだ。
 密室に見えた社から、忽然と消えた河童。銀色の足跡を残すという、趣味の悪い遊びすらも織り交ぜた消失に、八束はまだ納得のいく解が見出せずにいた。
 だが、南雲はどうだろう?
 南雲の観察眼は、八束とは全く別種のものだ。常にぼんやりしていて、人の話もろくに聞いていないところはあるが、彼はいつも八束には見えていなかったものを見つめている。
 それが、彼の言う「嗅覚」なのかもしれないけれど。
「……南雲さん、いかがですか?」
 問うてみると、南雲は剃り上げた後ろ頭を掻きつつ、逆に八束に問いを投げかけてきた。
「そうだな。八束は、どう考えてる? やっぱり城崎さんが犯人だと思う?」
「今のところ、それ以外に有力な人物がいないため、城崎氏を犯人と仮定した場合の状況を想定していました。ただ……、どうしても、城崎氏に河童が盗めたとは思えないんです」
「だよね。俺もその点は同感だ。仮に城崎さんにアリバイがなかったとしても、忍び込むのは無理があるんだよな」
 鍵は外側からかけられており、鍵は菊平が自宅にて保管。無理に開けたなら何かしらの形跡は残るはずだが、八束の見立てではその可能性はなし。窓を覆う雨戸は完全に施錠されており、壁に人が忍び込めるような穴は見当たらない。床に関しても同様の確認をしている。
 何かを見落としているのだろうか。重要な、何かを。
 それとも、そもそも城崎が盗んだという前提が根本的に間違っているのだろうか。
 思索の海に潜りかけていたその時、南雲がぽつりと言った。
「件の密室は本当に密室だったと思う?」
「……いえ、実際には違った、と思います。密室であってはならない。そうでなければ河童は消えない。それこそ、河童のミイラが自分で蓋を開けて、自発的に歩いていかない限りは」
「河童が歩いて逃げた説、まだ引きずってる?」
「まさか。河童は架空の生物です」
 だよね、と南雲はおどけて肩を竦める。南雲も別段本気で言ったわけではなさそうだった。
「とすると、社の密室が密室でない根拠。もしくは、その瞬間だけ密室を破る方法が必要なんだろうな」
 南雲は、おそらく彼自身が考えをまとめるためでもあろうが、一つずつ、要素を言葉にしてくれる。それによって、八束の中でも雑多に撒き散らされていたピースが、まとまりを持った塊として捉えられていく。
「うーん、密室を破る一番簡単な方法は、当然だけど鍵を開けて普通に入ることだけど」
「それはそうですが、鍵は神主さんが保管しているもののみです。しかも、それは当日神主さんの自宅の方にあったと聞きます。神主さんが自分で鍵を開けたと?」
「あー、念のため言っとくがそれはねえぞ。何で自分で鍵開けて河童盗まなきゃならないんだ。それができるなら、もっと上手くやるしお前らにも頼まねえよ」
 菊平は呆れたように口を挟んでくる。八束も「そうですよね」と頷いたその刹那、閃きがあった。足らないと思っていたピースの一つが、記憶の闇の中で瞬いた、そんな感覚。
 だが、それは――、それは。
「南雲さん」
「なーに? 何か気づいた?」
 南雲は、本当に八束の変化を見逃さない。いつもあれだけぼんやりしていても、どんなに仕事に不真面目であろうとも、八束が南雲をただのダメな人間と思えないのは、こういう気配りの細やかさにある。
 だから、八束は見下ろしてくる視線の鋭さに臆することなく、一つの疑問を言葉にする。
「本当に、城崎氏は犯人なのでしょうか?」
 それを聞いた菊平や笠居が、驚きの声を上げる。
「待て、どういう意味だそれ?」
「この期に及んで真犯人が別にいるってことですか!?」
 ただ、南雲だけは特に表情を変えるわけでもなく、視線だけで八束に話の先を促す。
「城崎氏には、あの密室を破ることができなかった。もちろん、神主さんが密室を破る理由もありません。しかし、たった一人だけ――」
「……八束」
 ぽつり、と。南雲の声が、八束が続けようとする言葉を遮った。八束は、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んで、南雲の言葉を待つ。
「言いたいことは、わかった。それなら納得できる」
「しかし。その場合、動機に関しては振り出しに戻りますが」
「その辺りは俺がフォローする」
「できるんですか?」
 八束の仮定であれば「どうやって」河童を盗んだのかは説明できる。だが「どうして」の部分が説明できなかったのだ。明らかに、理由が欠け落ちていたから。
 しかし、南雲はこめかみの辺りを指でとんとん叩きながら、眼鏡の下の目を細めた。
「言われて、引っかかってたことを思い出したから。多分、繋がった」
 南雲がそう言うなら、信頼してよいだろう。南雲がこうして八束の手の届かない部分に思考を回してくれるからこそ、八束は一つのことについて迷うことなく思考を働かせ続けることができるのだ。
 その時、菊平が「おいおい」と言いながら割って入ってきた。
「どういう話になってるんだ? 俺らにもわかるように説明しろよ」
「はい、もちろんお話しいたします。ただ、そのために、城崎氏を呼んでいただきたいのです」
「……何?」
「犯人であるかどうか、という点とは別として、城崎氏に話を聞かなければ、この事件は終わらないと思います。『黒鯨の髭』について話がある、と言えば城崎氏も都合をつけていただけるのではないか、と考えます」
 それに――、呼び出す口実ではあるが、あながち嘘でもないのだ。
 この事件には、『黒鯨の髭』も少なからず関わっていると考えられるから。
 菊平は、目の奥の奥に八束の真意を見出そうとするかのように、じっとこちらを睨みつけてくる。だから、八束も真っ直ぐに菊平を見つめ返す。
 しばしの沈黙の後、菊平は溜息交じりに言った。
「わかった、城崎の爺さんに連絡をつけよう。会える日取りがわかったら連絡する」
「お願いします」
 八束は、ぺこりと頭を下げる。
 すると、頭の上から、か細い声が聞こえてきた。
「あのぅ、自分はどうすればいいですかねぇ」
 ――そういえば、とそちらを見れば、笠居が困った顔で八束を伺っていた。
 笠居が今回の事件に関わっていないということは、この場の全員が確信している。ただ、笠居が犯人に罪を着せられかけたことは間違いない。事件の経過は気になるようで、すぐ立ち去る気にはなれずにいるようだった。
 すると、南雲は先ほどまでとは打って変わって、いつもの茫洋とした口調で言う。
「そうだな。笠居くんには、ちょっとやってほしいことがあんだけど。俺の個人的なお願いで」
「は?」
 笠居の口から、間抜けな声が漏れた。そんな申し出を受けるとは、想像していなかったに違いない。正直に言うならば、八束も想定していなかった。目を白黒させていると、南雲は笠居の肩をぽんぽんと叩いて言う。
「いやー、笠居くんだって気になるでしょ? 真犯人」
「そりゃ気になりますけど、自分にできることなんてないですよ?」
 そうかな、と。南雲は目を細める。きっと、彼なりに笑っているつもりなのかもしれなかったが、単に眼光が鋭くなるだけの効果しかないことに、気づいているのだろうか。笠居が怯えている気がするのは、全くもって気のせいではないと思う。
「だから、真犯人を教えるのと、あと俺の持ってる笠居くんが面白がりそうな情報いくつかと引き換えに、協力してくんないかな。大したことじゃあないんだけど、本当に個人的なお願いだから、詳しくは後で一対一の交渉になるけど」
「……引き換えにもらえる情報、って何ですか?」
「そうだな。『例の事件』の真相について、とかどう?」
 南雲の提案の意味は、八束には理解できなかった。だが、それを聞いた笠居の表情が一変したところを見るに、笠居にとって重要な意味を持つ条件であった、ということだけは判断できた。
 ふう、と息をついた笠居は、その肉付きのいい顔に苦笑を浮かべて言う。
「それをちらつかされて、やらないなんて言ったら『幻想探求倶楽部』の恥ですわ」
「オーケイ。じゃ、詳細は後でメールで送るわ。名刺ちょうだい」
 渡してませんでしたっけ、と首を傾げながらも、笠居は南雲と、ついでに八束にも名刺を手渡してくれた。
 南雲は目を細めて名刺の中身を確認すると、ゆっくりと腰を上げる。
「じゃ、今日はこの辺で」
 菊平が、座ったままひらりと手を振る。
「ああ……。よくわかんねえけど、解決するならいいや。頼むぜ、お二人さん」
「はい。お任せください」
 八束もぴょんと立ち上がって、菊平と笠居に挨拶をした後、南雲とともに社務所を後にした。
 夜の闇はすっかり周囲を包み込んでおり、頼りない明かりに照らされた境内は、しんと静まり返っていた。微かに八束の頬をなでて過ぎ去っていった風は、いやに冷たかった。
「しかし、なーんとなく嫌な予感はしてたんだけど、ここまでよく当たるとはな」
 ぽつり、と。南雲の呟きが、夜風に流されてゆく。
「嫌な予感――、ですか?」
「そ。だって、河童を見に来た時点では、こんな厄介ごとに巻き込まれるなんて八束だって思ってなかったでしょ」
「それはそうですが、厄介ごととは思っていませんよ。神主さんのお悩みを解消できるなら、わたしは本望です」
「八束は考え方がシンプルで羨ましいよ」
 ……今のは、褒められたのだろうか、それとも遠まわしにけなされたのだろうか。判断に苦しんでいると、南雲の手が八束の頭を乱暴に撫でた。
「ま、俺たちの役目はあくまで事件の解決だからね。精々気張って行きますか」
 八束は、南雲を見上げてきっぱりと頷く。
「はいっ。時計うさぎの不在証明と参りましょう」