02:ワンダリング・ウォーターインプ(9)

「違うんです、自分は無実なんですぅー!」
 戸を開けて、八束結が社務所に一歩足を踏み入れた途端、聞こえてきたのは甲高い悲鳴であった。
「何これ」
 黒縁眼鏡の下で目を細めた南雲彰の言葉は酷く端的であったが、それ以外に何も言いようがなかったのだろう、と思う。八束だって全く同じことを考えていたから。
 八束たちの訪問に気づいたのか、奥から顔を出した菊平亮介が、げっそりとした顔で「おう」と手を上げた。八束はぺこりと一礼し、それから改めて菊平を見上げる。
「ご連絡ありがとうございます。河童消失事件に進展があったと聞いて来ました」
 八束の携帯電話に菊平から連絡があったのは、午後二時三十五分。南雲の机の上に、新たな住人である黄緑色の河童さんが加わったすぐ直後のこと。電話に出た八束の挨拶が終わらないうちに、菊平が言ったのだ。
『消えた河童が見つかった』
 ……と。
 しかし、そこまではよかったのだが、どうも菊平の言葉は歯切れが悪かった。しかも、後ろから何か喚くような声が聞こえてくる。電話越しで通信状況もあまりよくなかったため、その声をきちんと聞き取ることはできなかったが。
 ただ、単純に河童が見つかって解決、というわけではない、ということだけはわかった。
 とりあえず、仕事が終わり次第すぐに行く、と約束して電話を切ったのが、今から一時間前のことである。
「悪いな。けど、お前ら仕事はどうした。まだ終業には早いだろ」
「暇だったんで来ましたー」
「暇じゃないですよ! わたしが全部片付けたんじゃないですか!」
 八束の抗議は、案の定南雲の耳を右から左に抜けていったようで、眼鏡越しの視線が完全に虚空を眺めている。
 実際には、菊平の連絡を受けた後、綿貫の許可を得て駆けつけたわけだが、どうしても本日分の任された仕事だけは終わらせたかった八束が、南雲の分も含めて一気に片付けたというわけだ。南雲は「完璧主義者ぁ」と囃したが、与えられた仕事をきっちりこなすのは、最低限の常識であると八束は考えている。
 ――そういうところが、完璧主義者と呼ばれる所以であることも、わかってはいるのだが。
 ともあれ、まずは状況の確認からだ。
「お話によれば、河童が見つかったというお話ですが」
「ああ。河童を盗んだ犯人もな」
 そう、菊平が言いかけたとき。
「違うって言ってるじゃないですかあああ!」
 すぱーん、という音と共に、畳の広間の戸が開き、一人の男が顔を出した。丸々とした体つきをしたオタク風の男。つい昨日見たばかりの顔だ。ただ、人のよさそうな丸顔は真っ赤になっており、よく熟れた林檎を連想させる。
 八束は、呆気に取られながらも、何とか確認の言葉をひねり出した。
「……ええと、笠居さん、でしたね」
 ぶんぶんと上下に首を振る笠居大和。そして、八束と南雲を改めて見やり、赤かった顔が蒼白になる。
「ま、まさか、逮捕ですか!? 警察の人がここにいるってことは、それしか」
「まさかー」
 腰に手を当てた南雲が、険しい表情とは裏腹のいたって暢気な声で言う。
「現行犯ならともかく、今来たばかりの俺たちが、ここで騒いでるだけのあんたを逮捕するのは不可能だよ」
 いたって正論である。警察官は、そこまで自由に手錠を操れるわけではない。その言葉と、南雲のいたってゆるい姿勢が限界まで張り詰めていた笠居の緊張を解いたようで、その場にへたり込んでしまった。苛立ちをあらわにしていた菊平も、いつもと何一つ変わらない態度の南雲に毒気を抜かれたようで、ふうと溜息をついて笠居から視線を切った。
 南雲は、コンビニ袋から本日の甘味であるきなこもちチロルを取り出しながら、菊平に向き直る。
「で、状況聞かせてもらってもいいっすか? あ、俺じゃなくて八束に」
「南雲さん……」
 それが最も合理的であることはわかっているが、南雲に言われるとサボりとしか思えないのが彼の人徳というやつだろう。実際に、南雲はそれきり何も言わずきなこ色のチョコレートを口に放り込むばかりであったから、サボりの可能性は否定できずにいる。
 菊平は、あくまでマイペースな南雲を珍獣を見るような目で見やったが、気を取り直すように首を振って、八束の方に視線を向けた。
「そうだな。まずは、状況を説明するよ。入ってくれ」
 八束と南雲は招かれるままに畳の間に入り、菊平が用意した座布団の上に座る。廊下に座り込んでいた笠居も、不安げな顔をしながらもついてきて、八束の斜め横に座った。
 きっちり足を曲げて正座した八束は、背筋をぴんと伸ばし、菊平に向き合う。
「では、今日何があったのか聞かせてください」
「ああ。今日も朝から今まで、境内で消えたミイラを探していた。ミイラそのものがいなくても、せめて、何か手がかりのようなものが落ちてないかと思ってな。だが、昨日一昨日とあれだけ探して何も出てこなかったんだ、今日に限って出てくるってこともなかった」
 あれだけ探しても見つからなかったのだから、もう二度と出てくることはないのではないか。そんな思考もよぎったらしい。最低でも、自分と協力者である八束と南雲だけの力では限界なのかもしれない、と。
 しかし、そんなことを考え始めた時、声をかけられた。
「そこの記者にな」
 昨日と同じような格好をした笠居は、紙袋を片手に、困った顔で菊平に話しかけてきたのだという。
「一体、何と?」
「『河童のミイラを拾ったのだが何か心当たりはないか』ってな」
「ひ、拾った?」
 八束は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。見れば、笠居は亀のように首を縮めていた。
「家の扉の前に置いてあったんですよぅ。紙袋に入って」
「置いてあった!?」
「自分、中身見てびっくりしちゃいまして。だけど、誰がそんなことをしたのかもわからない。それで、河童のミイラといえばこの神社だと思って、ここに来たんですよ」
 にわかには信じがたい話だ。ちらりと横の南雲を見ても、南雲はチロルチョコを黙々と口に放り込んでいるだけで、何を考えているのかさっぱりわからないため、全く役に立たない。
 こちらが疑いの目を向けていることは承知なのだろう、笠居は、俄然おろおろしながら言葉を続ける。
「そしたら、神主さんがここの河童だっていうし、自分が河童を盗んだ犯人だって言われるしで、もう何が何だかわからなくて困ってたんですよ!」
「そんな怪しいこと言われれば、疑うに決まってんだろ」
「だからあ」
 また不毛な言い争いが発生しそうだったので、慌てて八束が菊平を制止する。
「神主さんも落ち着いてください。まずは状況をはっきりさせないと話になりません。笠居さんが嘘をついているとはっきりしたわけじゃないんですから」
「む……」
 菊平は八束の言葉に、小さく唸りながらも浮かしかけていた腰を下ろした。八束は内心で胸を撫で下ろし、できうる限り落ち着いた声で菊平と笠居に言う。
「その、河童のミイラはどちらに? できれば紙袋も一緒に見せていただきたく思います」
「ここにある」
 菊平が、背中側に置いてあった箱と紙袋を前に出す。目測で縦四十センチ、横二十センチ程度の古びた木の箱。元々風呂敷に包まれていたのだろう、無地のクラフト紙の紙袋と一緒に、紫色の風呂敷も置いてある。
 八束が見る限り、箱自体は、何の変哲もない箱であるように見える。
 ――が。
「……っ、八束、確認終わったら呼んで。外にいるから」
 南雲が、弾かれるように立ち上がって、早口に言い残すと飛び出すように部屋を出て行った。八束は、ぽかんと口を開け、南雲が出て行った戸を呆然と見つめてしまった。菊平と笠居もそれは同様だったようだが、数秒の後、ぽんと手を叩いた菊平が言った。
「あー、ミイラだけはダメなんだ、あいつ」
「ミイラ……、あ、なるほど」
「えっ、えっ、なんで笠居さんまで訳知り顔なんですか!?」
 八束が思わず声を上げると、今まで諍い合っていたのが嘘のように、菊平と笠居は顔を見合わせて微妙な顔をした。一体、何だというのだろう。
 しばし微妙な沈黙が流れたが、菊平が溜息混じりに言った。
「まあ、後で南雲に直接聞いてみろよ。俺の口から言うもんでもない」
「は、はあ……」
 どうも納得はできないが、南雲から聞け、と言われてしまった以上ここでごねても仕方がない。本題は南雲ではなく、あくまで目の前の河童のミイラなのだ。
 菊平の許可を得て、手袋をした上で箱の蓋をそっと開ける。
 中には、柔らかそうな布の上に、黒ずんだ色をした、干からびた物体が横たわっていた。獣のような骨格を持つ、奇妙なミイラ。
 ――これが、河童のミイラ。
 もちろん偽物は偽物であり、八束の目からもそれが実在の動物を繋ぎ合わせたものであることは判断できた。それでも、箱の中に眠るそれは不思議な存在感を湛えていた。菊平から、この神社に代々伝わる物語を聞いたからかもしれないが。
 そして、八束はこれを見るために玄波神社を訪れたのだ、ということを今更ながらに思い出す。それが、何故かミイラ探しに発展してしまって、今やっと八束の手の届く場所にまで戻ってきたわけだ。
 ……それでも、まだ、謎は解けない。
 笠居がここに河童のミイラを持ってきたことはわかった。だが、それまでの行方は依然としてわからないままだ。どのようにして、河童が消えたのかも。
 白い手袋の指先で、箱の周囲を確かめる。古い箱のため、随分と木の繊維が付着する。下手に力でも入れようものなら壊れてしまうかもしれない――、と考えてみたところで、箱の側面に違和感があることに気づく。
 よくよく見てみれば、小さな傷がいくつか見て取れた。爪の跡、だろうか。それにしては妙に細かな傷だと思う。また、他の傷に比べると傷の周囲の削れ具合などから比較的新しい傷のようにも見えた。
「神主さん、こちらの箱の傷は、紛失前からついていたものでしょうか」
「あ?」
 菊平が、八束が持ち上げた箱の側面を覗き込む。目を細め、眉間に皺を寄せてじっと傷痕を眺めてから、首を横に振った。
「いや、正直わからねえな。箱の傷は意識してなかった」
「そうですね、特に目を留めない部分ではあると思います」
 八束も素直に菊平の言葉を認めた。特に、ミイラそのものでなくそれが入っていた「箱」なのだから、菊平の意識が向いていないのも当然だろう。
 ただ、違和感であることは間違いない。単なる思い過ごしの可能性もあるが、全てが明らかになっていない以上、少しでも気になった点は頭の中に刻み込んでおく必要がある。箱の形状、傷、その状態。また、ミイラの姿を細部まで確認しながら菊平に問う。
「ミイラに関しては、消える前と後とで何か変化はありますか?」
「俺が見る限りは特にない。何かを入れたり出したりしたわけでもなさそうだ」
「なるほど」
 八束は蓋を閉じ、笠居に向き直る。笠居は小さな目でおどおど八束を見返してくる。その様子を見る限り、彼が河童を盗み出した犯人とは考えづらい。ただ、今まで当たってきた事件でも、一見して犯人とは思えない人物が犯人であることは多々あったのだ。単純に決め付けるわけにはいかない。
 では、これから確認すべきことは何か。消えていたはずの河童が発見された場所がどこであるか、だ。
「あの、笠居さん」
「は、はいっ」
 返事の声も裏返っている。そこまで緊張しなくてもよいのに、と思いながらも構わず話を続ける。
「この河童を見つけた場所に連れて行っていただけませんか」
「それって、つまり自分の家ですか」
「はい。どのような状況だったのかを確認したいのです。よろしいでしょうか」
 笠居は八束の申し出に対して一瞬は逡巡したようだったが、すぐに小さく頷いた。
「それで、自分の疑いが晴れるなら。ここからそんなに遠くないんで、今すぐにでも案内できますよ」
「ありがとうございます。それでは、お願いします」
 八束は箱を丁重に菊平に返し、腰を上げる。思い立ったらすぐ行動、が八束のモットーだ。拙速は巧遅に勝る、かどうかは状況次第なわけだが、黙って状況の変化を待つよりは、動きながら考えた方が性に合っている、と言った方が正しい。
 八束に続けて腰を浮かせかけた菊平が、八束に問う。
「俺は一緒に行った方がいいか?」
「菊平さんは、河童のミイラを見張っていていただけますか。また、何かあったら大変ですから」
「確かに。じゃ、頼む」
 菊平に一つ頷きを返し、八束は部屋を出る。すると、南雲は玄関の上がりの辺りに腰掛けていた。毎日毎日きちんと剃っているらしい形のいいスキンヘッドをゆらりと揺らして、こちらを振り向く。
「あ、話終わった?」
 玄関と部屋とを隔てていたのは薄い扉一枚と狭い廊下だ、話は大体のところ聞こえていたのだろう、とは思う。ただ、南雲は時々目を開けて寝てるようなことがあるため、後できちんと情報を統合すべきであろう。そんなことを思いながら「はい」と返事をする。
「今から、河童が発見された笠居さん宅に向かいます」
「了解ー」
 南雲は立ち上がると、八束の後ろで身を縮ませていた笠居を見やる。八束は「いつものこと」と思ってそこまで意識はしていなかったが、南雲の身長は日本人にしては妙に高いため、ほとんどの場合は完全に「見下ろす」形になってしまう。
 もちろん、笠居に対してもそうだ。
 べったりと隈の浮いた鋭い目に睨まれた――ただし、南雲自身は全く睨んでるつもりはないらしい――笠居は、変な息を吐いて硬直している。あまり長く人と目を合わせようとはしない南雲には珍しく、じっくりと笠居を観察した南雲は、やがて軽く肩を竦めて視線を逸らす。
「あんた、よく貧乏くじ引くタイプじゃない?」
「……人聞き悪いですねぇ」
 そうは言いながらも、笠居は南雲の言葉を否定はしなかった。ただ、唇を尖らせただけで。それで南雲は満足したのか、猫背を更に丸めて社務所の戸を開け、いつもと何一つ変わらない仏頂面のまま顎をしゃくった。
「じゃ、案内してよ、笠居くん。件の河童を見つけた場所にさ」