02:ワンダリング・ウォーターインプ(8)

「……あなた、南雲彰さんですよね?」
 待盾署からここに至るまで八束も口に出していなかった、南雲の「名前」。
 それを呼んだ人物は、いつの間にかベンチに腰掛けた南雲の目の前に立っていた。
 眠気で重たい顔を上げた南雲は、無言をもって肯定とした。返答が億劫だったと言った方が正しいか。
 もちろん、そこにいるのは笠居と呼ばれていた小太りの男だ。鳥居の前の車が消えているところを見るに、城崎は既に去った後だろう。そこまで確かめたところで、意識を目の前の男に戻す。
 笠居は、にこにこと人懐こそうな笑みを浮かべてこそいるが、その細めた目は妙にぎらついた光を帯びている。目の前に座っている己の内側までを暴きたてようとする目。
 ――記者という人種特有の、嫌な目だ。
 唾を吐きたくなるような衝動は、しかし目の前の記者には伝わらなかっただろうし、伝わらなくてよかったとも思う。感情的になったところで、何もいいことはない。
「噂には聞いてましたが、本当にまだ待盾にいたんですね」
「いちゃ悪い?」
 しかし、内心の不機嫌さを覆い隠しきれるほど、南雲も大人ではない。声にだけはどうしても感情がにじみ出てしまう。目の前の記者はそれを感じ取れる程度には敏感だったのか、ぎくりと表情を強張らせた。
「あ、いや、別に、悪かないですけど」
「用件は手短にね。俺は暇じゃない……、って言ったら嘘になるけど、あんまり機嫌がよろしくない」
「暇なのは事実なんですね」
「そうなんだよね。いやまあ、好きで暇してるからいいんだけど。ぬいぐるみ作りもはかどるし」
 笠居の目が、露骨な困惑に揺れた。
「……ぬいぐるみ?」
「そう、ぬいぐるみ。哺乳類は結構作ったし、たまには不思議生物シリーズでも作ってみようかなと思ってたところで、河童の話題はいいタイミングだったよね。河童の次はやっぱり猫又かなと思ってるんだけど。いやあ、猫又は憧れるよね、ただでさえ魅力的な尻尾が二本とか、ご褒美でしかな」
「ちょ、ちょっと待ってくれません?」
 慌てた様子で差し込まれた言葉に、南雲は眉間の皺を一段深めて返す。
「何、まだ俺喋ってんだけど」
「用件は手短にって言ったのそっちですよね!?」
「俺が手短にするとは言ってないもん」
「めんどくさい人だ! この人めんどくさい人だ!」
 思わぬいい反応に、警戒心が少しだけ緩む。こちらのボケに的確なツッコミを入れてくれる人材は貴重なのだ。八束はその点、こっちが意識してボケているのに重ねてボケてきたりするので頼りにならない。反応の面白さ、という点では八束ほど面白い娘もいないのだが。
 とはいえ、今はそういう話ではなかったことを思い出す。かわいそうな記者をいじめるのはこの辺にして、意識を切り替える。
「で、何の用? 俺が『あの』南雲だってわかった上で声かけたってことは『例の事件』関連?」
 どうしても低くなってしまう声に、笠居は明らかに怯えた表情を見せながら、両手をぶんぶん振る。
「別に、そんなつもりじゃないですよぅ。あの事件は既に終わった話じゃないですか」
「……兎穴入りでな」
 口の中で呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
 兎穴入り。秘策特有の隠語だ。
 兎とは『不思議の国のアリス』に登場する、時計を手にした白兎のこと。少女アリスを、兎穴の向こう側――、不思議の国へと導く存在を指す。
 要するに「兎穴」とは「ここではないどこか」の象徴であり、「兎穴入り」というのは妖怪や幽霊といった「この世ならざるもの」の手によるものとして片付けられた事件を指す。
 それらは全て表向きには犯人不明の迷宮入り事件として扱われている。だが、南雲は知っている。いくつかの事件は、今もなお兎穴の向こう側にあるのだということを。
 ――『例の事件』もまた、時計うさぎの手によって、兎穴の向こうに隠された事件だということを。
 そんな南雲の内心を知る由もない笠居は、落ち着きなく南雲の顔色を伺いながらも、果敢に言葉と続けていく。
「単純に、近年最大級のオカルト事件に関わったあなたが、今どうしているのか気になった。それだけです。『幻想探求倶楽部』の記者たるもの、オカルトと名のつくものに興味を持つのは当然ですからね」
 その言葉に、嘘の匂いはしなかった。あくまで単なる興味で声をかけてきたということか。苦々しさとほんの少しの安堵がない交ぜになった、奇妙な感情を胸の中で転がしながら、南雲は意識して軽い口調で言う。
「下卑た好奇心は身を滅ぼすよ?」
「こんな仕事を選んだ時点で覚悟の上ですよ」
 笠居は胸を張り、きっぱりと言った。その答えに何ら迷いは見えなかったけれど、南雲はふと小さく息をついて、半眼で笠居を見上げる。
「痛い目に遭った経験がないから言えるんだぜ、それは」
 別に、今更被害者ぶるつもりはない。
 いくつかの感情が混ざってはいるが、経験から来る率直な感想のつもりだ。
 笠居も、南雲の言葉の意味を正確に、もしくは南雲の想定以上には察してくれたのだろう、顔色を青くして、軽く顎を引いた。
「……すみません。あなたの前で言っていい言葉じゃなかったですね」
「いや、別に気にしてないし、もっと堂々としててくれないかな。そこで謝られると、こっちもやりづらい」
「は?」
「俺は記者って人種が嫌いではあるけど、あんたっていう個人に恨みないしね。お互いフランクに行こうよ。その方が俺も気が楽だ」
 南雲が言い放つと、笠居は意外そうな顔をした。そんなに変なことを言っただろうか、と小首を傾げていると、笠居は先ほどよりは幾分緊張が抜けた顔で言った。
「もっと怖い人かと思ってましたけど、いい人なんですね、南雲さん」
「うーん、よく『イイ性格』の人とは言われるよ」
「あー、わかる気がします」
 このやり取り、つい最近もした気がするのは気のせいだったか。ついでに、これだけの会話で『イイ性格』と認定されるのは流石に解せない。とはいえ最初に言い出したのは自分なので、下唇を少しだけ突き出すだけに留めた。
「まあ、あんたが俺に話しかけた目的はわかったよ。で、満足した?」
「特に答えらしい答えはもらえてない気はしますけど、まあ、今も待盾にいて警察官をやってるってことがわかりましたんで。この町を拠点にしていれば、またお会いできそうですしね」
「まあなあ」
 南雲は八束とは違って、生まれも育ちも待盾であり、これからも待盾を離れることはないだろうと思っている。それを考えれば、決して広くはない都市だ。いつかは再び相見えることもあるだろう。
 それに。
「オカルト専門の記者なら、案外すぐに関わることがあるかもな」
「……何か?」
「いーや、何でもない。さ、話が終わったなら帰った帰った」
 ちょいちょいと追い払うような手の動きをすると、笠居は渋々といった表情ではあるが一歩退いた。それから、ふと何かに気づいたように問うてくる。
「南雲さんは?」
「相方待ち。女の子だしね、家までは送ってあげないと」
 本当はすぐ家に帰りたくない口実でもあるのだが、そんなこと笠居に伝える理由もない。笠居は怪訝そうに南雲を見つめていたが、やがて簡単な挨拶を残して鳥居の向こう側に去っていった。
 そして、南雲だけがその場に残された。
 深く溜息をついて、いつの間にやら入っていた肩の力を抜く。
 どうしても、記者という人種は好きになれそうにない。人の情報を詮索する、という点において南雲の仕事もさほど変わりはないかもしれないが、彼らの仕事はそれを「人の目に留まるように加工する」ことにある。
 その結果を、責任を、彼らが十分に負うことはない。
 最低でも、南雲が負ってきたものを、彼らが背負ったことがあるとは思えない。
 とはいえ、あの笠居という記者からは、さほど嫌な感覚はしなかった。南雲自身が回りくどいことを嫌うからだろうか、彼の態度は愉快とまではいかないがそう不愉快でもなかった。記者としてはあまりに率直にすぎると思うが。
 今は眠くてまともに頭が働いていなかったが、次に会うことがあれば、こちらの持つ情報をいくらか開示する代わりに、市内のオカルト情報の一つや二つくらいはねだってもよいかもしれない。秘策はとにかく、情報収集があまりにも脆弱だから。
 そんなことを思いながら、手首から下げたコンビニ袋に残された、最後の一つのチロルチョコを拾い上げて、包みを剥がして口に放り込む。そして、背もたれに体重を預けて足を大きく投げ出した姿勢で、すっかり闇に包まれている空を見上げる。
「八束、遅いな」
 
 ――そう、その時既に、笠居との再会を予感はしていた。
 けれど、その時期についてまでは想像が及ばなかったのだ。南雲らしくもなく。