02:ワンダリング・ウォーターインプ(7)

「っつあー、本当に面倒くさい爺さんだ!」
 菊平は、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて大げさに溜息をつく。その様子を一通り見届けたところで声をかける。
「あの、神主さん。わたしたちが警察であることを、明かしてよかったのですか?」
 昨日、河童を見に来た学生、梅川恭一には、河童を公開しない理由を、八束たちの協力含め詳細には説明していなかったはずだ。それに、最初は警察官である八束や南雲を関わらせることにも躊躇いを見せていた。理由はわからないが、おそらくは河童が消えた事実を広めないために。
 だが、今ばかりは河童が消えたという事実は隠しながらも、八束たちの立場は隠そうとしなかった。そこに何となく引っかかりを覚えたのだが、菊平はゆるりと首を振って苦笑する。
「あの人、ほんと面倒くさくてさ。ああでも言わなきゃ帰ってくれなさそうだったからな。正式な捜査でもないのに、ダシにして悪かった」
「いえ、それは構いません。神主さんが困っていたのは、よくわかりましたから」
 菊平がどうして城崎氏に対してああも棘のある態度を見せたのかは不明瞭ではあったが、城崎氏の来訪を迷惑がっていたということだけははっきりとわかった。そこで、一つ思い出された事柄があった。
「昨日神主さんがおっしゃっていた『面倒くさい客』というのは、もしかして城崎氏のことでしたか」
 昨日、梅川青年を帰らせた後に菊平は言っていた。「昨日はちょうど面倒くさい客が来てるところで、そっちの対応に追われちまったんだ」と。
 八束の言葉に「そうだよ」と頷いた菊平が、そのまま言葉を続ける。
「あの爺さん、怪物ハンターだっけ? テレビにも出てるような有名人が、どこから聞きつけてきたのかこんな寂れた神社のミイラを見に来てさ。それだけならいいが、ミイラの保存状態にケチつけてきて、河童のミイラの歴史だとか、各地の河童の目撃情報だとかを講義し始めるんだよ。知らねえっつの、俺はミイラ職人じゃねえし河童博士でもねえんだから」
 ――それは面倒くさい。
 八束も他人事ながら思わず口をへの字にしてしまう。
 自分自身、時々、頭の中の知識を最初から最後まで言葉にすることで相手を辟易させてきた経験があるものの、城崎のそれは度を越しているようだ。
 相手が必要としない知識までひけらかすのは、自己顕示欲、というやつであろうか。あの妙に芝居がかった仕草も、自分という存在を相手に強く示す手段だったのかもしれない。
 このまま喋らせておくと、いくらでも城崎への恨み節が続きそうだったので、八束は菊平の言葉が切れたところで口を挟む。
「一緒にいた方は? 先ほど『幻想探求倶楽部』の記者であるというお話は聞こえてきたのですが」
「あの人も、一昨日の昼頃に来たのは覚えてる。とはいえ、ミイラについてあれこれ聞いてきたけど、特に変わった話はしなかったな。市内に住んでるって話をしたくらい。ああ、この人だ」
 菊平は、財布の中から一枚の名刺を取り出した。白い紙に文字だけが書かれたごくごくシンプルな名刺には、確かに「幻想探求倶楽部記者 笠居大和」の文字があった。その名前と、先ほど目にした丸い顔とを頭の中でしっかりと結びつける。
「あの人、城崎さんとつるんでるのかね」
「いえ、ここで会ったのは偶然みたいでしたよ。お互いに既知の関係みたいでしたが」
「まあ、『幻想探求倶楽部』ってオカルト専門雑誌だしな。オカルト関係者には顔が知れてんのかもしれないな」
 言う菊平の表情は、どうにも鈍い。その心労は察するが、八束としてはまだ、聞いておきたいことがあった。
「あと、もう一つ聞かせてください。『コクゲイの髭』って何のことですか?」
 びくり、と。あからさまに菊平の肩が跳ねた。思わぬ反応に、八束の方がびっくりして目を丸くしてしまう。目をぱちぱちさせていると、菊平も八束の顔を見て我に返ったのか「すまん」と言い置いてから続けた。
「うちの神社の宝のようなもんさ」
「コクゲイってクジラさまっすよね」
 ふと、唐突に降ってきた南雲の言葉に、そう、と菊平は頷く。
「そのクジラさまの髭が、この神社に保管されてるんだ」
「……クジラさま……」
 そういえば、南雲も言っていた気がする。玄波神社には、鯨の姿をした神が祀られているのだと。江戸川くらいしか水場らしいものを持たない待盾において、どうして鯨なのか、気になったことを思い出す。
「そのお話、もう少し詳しく聞かせてもらってもよろしいですか?」
 今回の事件に直接関係あるとは思えなかったが、純粋に興味を引かれた。身を乗り出して食いついた八束に、菊平は一瞬面食らったようだったが、すぐに気を取り直したように腰の辺りを一つ叩いた。
「それなら中で話そう。折角だから、ケーキも切ろうか」
「よろしいのですか?」
「丸々一つは家族で食べるにもちょっと多いしな。一切れでよければ食ってけよ」
「はい!」
 自他共に認める甘味マニアの南雲が自分のおやつとして買ってきたケーキだ、美味しいに決まっている。まだ見ぬ甘味にわくわくしながら頷くと、菊平はケーキの箱を持ったまま八束に畳敷きの広間を指す。
「そっちの部屋で待っててくれ。これ、切ってくから」
「わかりました」
 ぴしっと一礼し、靴をきれいにそろえて上がろうとした、その時だった。
「……悪い、俺はちょっと風に当たってくる」
 微かに響いた掠れ声に、八束はふと視線を上に向ける。ゆらゆらと頭を揺らす南雲が、限りなく細くなった目で八束を見ていた。
「どうしましたか?」
 聞いてはみたが、先ほどから南雲の口数が極端に減っている辺りで十分回答は想像できた。案の定、南雲は黒縁眼鏡を押し上げて、目を擦りながら言った。
「眠くて」
「眠いのは仕方ないですね。話、聞いておきますね」
「お願い。下のベンチのとこにいる。できれば」
「ケーキ、南雲さんの分ももらっておきますね」
「流石は八束。頼んだ」
 南雲の要望くらいはお見通しだ。こくりと一つ頷いて返すと、南雲はふらふらと、頼りない足取りで社務所を出て行った。外はすっかり暗くなっていたから、転んだり石段から足を踏み外したりしなければいいのだけど、と余計な心配をしながら部屋に足を踏み入れる。
 すると、そこには先客がいた。
 部屋の入り口からはちょうど壁に隠れて見えなかった部屋の隅で、少年が一人、教科書とノートを広げていた。八束と目が合った瞬間、目を真ん丸くしていたが、すぐに肩の力を抜く。
「こんばんは」
「こんばんは、翔さん。こちらにいらしたのですね」
 八束はにっこりと笑って、一つ礼をする。少年もぺこりと頭を下げた。
 菊平翔。菊平の息子だ。昨日、翔が菊平に弁当を渡しに来た時に、一度顔を合わせている。大人しいが利発な少年、というのが八束の翔に対する第一印象であった。翔の大きな目は、今も真っ直ぐに八束を見つめている。
「学校の宿題ですか」
「うん」
 それだけを言って、翔は再びノートに鉛筆を走らせる作業に戻った。八束も、翔から少し離れたところに座布団を敷いて座る。
 それから、三分ほどして菊平が二人分のケーキの載った皿を持って部屋に戻ってきた。
「お待たせ。あーっと、翔、お前は後でな」
「えー」
 漂う甘い香りに、翔は顔を上げて抗議の声を上げる。しかし、菊平は首を横に振って言う。
「今食べたら飯食えなくなるだろ。夕食の後のデザートだ」
「……うん、わかった」
 多少不満げではあったが、翔は小さく頷くとまた視線をノートに落とした。菊平は軽く肩を竦め、八束の前に座った。
「さて、と。クジラさまと『コクゲイの髭』についてだったな」
「はい」
「と言っても、大した話じゃねえ。昔から、この待盾って町には妖怪や幽霊なんかがよく現れる、ってのは八束ちゃんも知ってるよな」
 はい、と八束は深く頷く。八束が所属する神秘対策係という奇天烈な係が組織されたのも、待盾という土地の特異性による。記録によれば、一般的な都市と比較して七倍から多く数えて十倍ほど、超常現象の目撃情報が寄せられるという。無知の闇が晴れて久しいこの現代にありながら、だ。
「今でこそありきたりな新興都市だが、それこそ江戸時代の中期までは、妖怪と人とが当たり前に共存する土地だった、と言い伝えられている。例えば河童のミイラも、その時代に河童の一族から送られたものだって話だ」
「……河童の一族、ですか?」
「ああ。詳しい記録が残ってるわけじゃないんだが、爺さんの話によると、河童との友好の証として、河童の姿に似せた品が贈られたって話だ。それがあのつぎはぎミイラってわけ」
「随分悪趣味ですね」
 黄緑色の布を広げて、かわいい河童のぬいぐるみを作ろうとしていた南雲とは大違いだ。菊平も肩を竦めて答える。
「まあ、妖怪の考えることだからな」
 八束は相槌を打ちながら、添えられた小さなフォークでケーキを一切れ口に運ぶ。口に含んだ途端、芳醇なカカオの香りと上品な甘さが口の中に広がる。そしてスポンジの触れただけで溶けてしまうような柔らかな舌触りは、八束が生まれて初めて体験する食感であった。
 わかってはいたが、改めて南雲の甘味に対する妥協のなさを思い知る。未だに、彼がどうして警察官なのか不思議で仕方ない。南雲の常日頃の主張を聞く限り、こだわりがあるからこそ甘味を仕事にしたくなかったのかもしれない、とは想像できるけれど。
 ……と、盛大に逸れかけた思考を、何とか菊平の話の方に戻す。一応、耳に入ってさえいればいつでも完璧に思い出せるが、自分のために教えてくれる内容を、ただ聞き流すのは失礼だ。
 菊平は、淡々と、きっと今まで色々な相手に聞かせてきたのだろう、遠い日の御伽話を語り続けている。
「長きに渡って続いた共存だが、問題は多々あった。人間と妖怪は、お互いに感覚があまりにも違いすぎたんだ。ある妖怪の目に見えているものが人間には見えず、人間にとって大切なものが、ある種の妖怪にとってはゴミ同然であったり、な。妖怪同士の間だって、種族が違えばいさかいが起きる。そうして、少しずつ少しずつ、歯車が狂っていったんだ」
 己とは違う、という理由で、ゆっくりと何かがおかしくなっていく。それは、何も人間と妖怪の違いだけではなかったのではないか。八束はふと、そんな思いに囚われる。
『あなたは、我々とは別の存在なのですから』
 そんな、優しく諭すような声が脳裏に蘇る。甘い、甘い、声。触れただけで溶けてしまうような、柔らかく心地のよい――。
 思わず、手元のチョコレートケーキを見つめてしまう。それとこれとは全く別の存在であることはわかっているのに、無意識に触覚と味覚のイメージと、聴覚のイメージを重ね合わせてしまったらしい。唇を噛み、口の中に残っていた甘さを飲み下す。
「……八束ちゃん、どうかした?」
 菊平の声が、やけに遠くから聞こえた気がして、はっとする。
 自分で自分の顔を確認することはできないが、きっと相当酷い顔をしていたのだろう。気を取り直して、頭に蘇りかけた声を記憶の奥底に閉じ込めて蓋をする。
「いえ、何でもありません。続けていただけますか」
「あ、ああ。それで、妖怪たちも人間たちも、我慢の限界に至っちまったんだろうな。町全体で小さな事件がぽつぽつ起きはじめたと思えば、すぐに大きな暴動にまで発展しちまった。しかもただの暴動じゃねえ、妖怪が関わってんだから、外から見りゃ百鬼夜行にしか見えなかった」
 百鬼夜行。鬼や妖怪が群れを成し、町を練り歩いているさまを指す。『百鬼夜行図』と呼ばれる絵は八束も見たことがあるが、描かれた妖怪たちの生々しい姿に背筋が凍り、しばらく何度も夢に出たことを思い出す。
 今の話だって、あくまで言い伝えとはいえ、妖怪たちが町全体を大騒ぎしながら練り歩く姿を思い描けば、身の内から震えが湧いてくる。
「それを心から悲しんだのが、待盾の妖怪たちを取りまとめていた大親分みたいな妖怪だった。それが、クジラさまだ。山のような巨大な体を持つ、真っ黒な鯨の妖怪と言われてる。だから、黒い鯨で『黒鯨』とも言う」
 メルヴィルの『白鯨』なら知っているが、『黒鯨』か。地面の上に横たわる巨大なシロナガスクジラを想像してみるが、どうもしっくりこない。鯨といえば本来は海の生物なのだから当然なのだが。
「クジラさまは、妖怪たちと人間たちの間に目に見えない世界の壁を作って、妖怪たちは壁の向こう側に引っ越した。お互いに、お互いに対する怒りを忘れるその時まで、頭を冷やそうと言って。そして、妖怪ほど長くは生きられず忘れっぽい人間たちのために、クジラさまは、妖怪たちがかつてそこにいた証として、自分の髭を残していったのさ。その髭をもたらされたのが俺らのご先祖様で、保管場所がこの玄波神社ってわけだ」
「髭は今も実在しているのですか?」
「もちろん。……あくまで伝承だし、髭って言われてるものも流石に本物の鯨の髭じゃないだろうが、確かに『黒鯨の髭』はここに保管されている」
 菊平は神主という立場ではあるが、伝承を頭から信じているわけでもなさそうでほっとする。これで、残された宝が本物の鯨の髭であり、確かにここに妖怪がいた証拠だとでも言われたら、八束は絶叫して社務所を飛び出していたところだ。
「ま、昔話はこんなところだ。爺さんの話によれば、今もクジラさまは、空の上から妖怪と人間をあまねく見守ってるそうだけどな」
「空の上、ですか?」
「そう。さっき言わなかったっけか。クジラさまは海を泳ぐように、空を飛ぶんだそうだ」
 空飛ぶ鯨。妖怪と考えると恐ろしくはあったが、巨大なシロナガスクジラがゆったりと空を泳いでいるところを想像する限り、陸上をびちびち撥ねる鯨の図よりはしっくり来る――、と考えていると、いつの間にかこちらを見つめていた翔と目が合った。翔は、何か言いたげに八束を見つめていたようだったが、八束と目が合った途端に目を逸らしてしまった。
「さて、話はこの程度だ。俺も実のところ、爺さんから聞いた話くらいしか知らないからな」
 立ち上がりかけた菊平を、「あっ、あと一つ」と呼び止める。怪訝そうな顔をする菊平に、八束は頭の中にあらかじめ組み立てておいた言葉を投げかける。
「先ほどの城崎氏は、『黒鯨の髭』についてお話されていましたよね。こちらの神社の秘宝とも呼べるものが、何か城崎氏に関係あるのでしょうか」
 どちらかといえば、こちらが本題だ。河童のミイラにしつこくケチをつけたという城崎。彼がここを訪れた目的は、どうも本当はミイラの鑑賞ではなかったのではないか、と八束は感じていた。そう感じた根拠が『黒鯨の髭』という言葉だった。
 八束の言葉を聞いて、菊平は露骨に眉間の皺を深めた。この男はどうも、隠し事はあまり得意ではない方なのかもしれない。人のことを言えた義理ではないが。
「城崎さんは、どうも最近クジラさまの正体を追いかけてるみたいでな。それで『黒鯨の髭』を鑑定したいって言い出したんだ」
「鑑定、ですか」
「正体がはっきりしてる河童のミイラと違って、髭はおいそれと外には出せん。今まで詳細な鑑定もしてなかったし、これからもする気はなかったんだ。髭の存在を疑えば、クジラさまの信頼を疑うのと同じだからな。だから最初に断ったんだが、ああやって何度も何度もうちに来ては、『黒鯨の髭』を見せろってつついてくる」
 菊平と城崎の間にはそんな事情があったのか。八束は目を丸くして菊平を見つめずにはいられなかった。
 とはいえ、秘宝の扱いについては、あくまでこの神社を任されてきた者たちの問題だ。八束が口を挟めることではないと判断して、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「もう、話はいいかな」
「はい。あ、ただ」
「まだ何かあるのか?」
 怪訝な顔をする菊平に、八束は多少のばつの悪さを感じながら、既に空になっていた己の皿を指差した。
「ケーキ、南雲さんの分も一切れ貰っていいですか。南雲さん、これ食べるの楽しみにしてるんです」