02:ワンダリング・ウォーターインプ(5)

 ――翌日。
「休暇中にそんな事件があったのですね」
 八束結の報告を受け、待盾警察署刑事課神秘対策係係長の綿貫栄太郎は狐に似た目を糸のように細めて微笑んだ。
 今日もそう都合よくオカルト事件が舞い込んでくるわけはなく、秘策は暇であった。と言っても、実際には「お前らどうせ暇なんだろ」と刑事課の他の面々が事務仕事を押し付けてくるので、言葉通りに「暇」というわけではないのだが。
 八束は盗犯係から回されてきた「怪盗☆白狐仮面」なるふざけた名前の怪人に関する手書きの捜査記録やら何やらを猛スピードでパソコンに打ち込みつつ、一方で綿貫への説明を再開する。
「はい。とはいえ、神主の菊平亮介さんは内々で何とか解決できないかと考えているようです。そのため、我々も神主さんの友人として、河童のミイラ探しのお手伝いをしています」
「なるほど。警察には知らせずに、ですか」
「……できれば、きちんと捜査したいのですが。鑑識を通せば一発だと思うんですよね」
 昨日の捜査は完全に空振りに終わってしまった。だが、銀色の痕跡にしろ建物の周囲に残された足跡にしろ、鑑識の目を通せばすぐにでも答えが出るものであるのは間違いない。それに、もし箱や社の扉、壁などから指紋を取ることが許されれば、それだけで犯人がわかるかもしれないのだ。八束がもどかしいと思うのも当然だ。
「しかし、警察を関わらせたくない、というのはわからないでもありませんね。何しろ、我々が関わってしまえば、『河童が消えた』という事実は確実に周囲に伝わってしまうでしょうから」
「そういうものですかね」
 八束は一旦キーボードを叩く手を止めて、こくんと首を傾げる。
「神主さんの意図が、わたしにはよくわかりません。何故河童が消えた事実を公表しないのか。公表することに、どんな不都合があるのか」
 とはいえ、それは、今考えて答えの出ないことであることも、わかってはいるのだ。
 あれから、帰り際に菊平にそれとなく聞いてはみたが、「大したことじゃないから、騒ぎにしたくない」という答えしか返ってこなかった。その時浮かべていた苦々しげな表情まで、はっきりと思い出すことができる。
 大したことでない、わけがない。それだけは八束も確信している。あのミイラの来歴は詳しく知らないが、神社に代々保管されてきたものである以上、貴重なものであって、菊平にとっても重要なものであるはずだ。
 ただ、どうも菊平は簡単に理由を明かす気はないように見える。ある程度、情報が揃わなければ菊平に意図を問い詰めることも難しいだろう。
 難しい。難しいとは、理解しているけれど――。
「まあ、その辺りは追々わかってくるんじゃないですかね。話を聞く限り緊急性は感じられませんし、そう焦ることもないと思いますよ」
 微笑を浮かべる綿貫の言葉は、どこまでも落ち着いていて。無意識にささくれ立ってしまっていた感情も、少し落ちつく。答えの出ないことを考えるより、確実に情報を手に入れてゆくことを考えるべきだ。焦って結論を急ぐようなことだけは、してはならない。
 そう、自分はかつて、焦りのあまりに決定的なミスを犯したではないか――。頭の奥底で記憶の蓋が開きかけたのを、そっと閉ざす。同じミスは、二度と犯さない。意識的に深呼吸をして、ざわついていた頭の中を静めてゆく。
「で、そちらは黙々と何を作ってるんですか」
 綿貫は、八束に向けていた穏やかな微笑みから一転、明らかな呆れの感情をあらわに八束の正面のデスクに鎮座ましましている南雲彰に顔を向けた。
 南雲は、手元に向けていた眼鏡越しの視線をちらりと綿貫に投げかけて、ぼそりと低い声で呟いた。
「河童」
 そう、南雲の手に握られているのは針と糸、そして明るいグリーンの布であった。
 普段は南雲の机の上をこれでもかとばかりに埋め尽くしているぬいぐるみたちと、ひときわ目立つチュッパツリーは一時的に来客用ソファの上に避難しており、代わりに愛用のピンクの裁縫箱と、適切なサイズに切り抜かれた布、ぬいぐるみの内側に詰める綿、そしておそらく「目」になるのだろう釦などが広げられている。
 ――ひとまず、人並みの仕事をしていないことだけは、はっきりしていた。
 八束は眉間に皺を寄せ、唇を尖らせる。
「南雲さん、少しは仕事しませんか。してるフリだけでも構いませんので」
「やだよめんどくさい」
 針を針山に刺し、元は灰皿だったのだろう、縁に窪みのある硝子の器に山盛りになったチロルチョコを一つつまみ上げ、南雲はぼんやりとした声で言う。
「それより八束、あの後、菊平先輩から連絡はあったの?」
「いえ、今のところは」
 八束は、デスクの上に置いた携帯電話をちらりと見やる。特にストラップも何もつけていない、ごくごくシンプルな「ザ・ケータイ」といった趣の携帯電話だ。連絡先は昨日菊平に伝えてあるが、今のところ電話やメールを受信した様子はない。
「本日の仕事が終わったら、一度様子を見に行こうかとは考えています」
「ふうん。じゃ、俺も付き合うよ。何だかんだ、進展は気になるし」
 ストロベリー味のチロルチョコを口に含む南雲は、普段と何一つ変わらない仏頂面であり、内心は知れない。ただ、「気になっている」というのは嘘ではないだろう、と思う。
「何だかんだ付き合いよいですよね、南雲くん。昨日も八束くんに市内を案内していたらしいじゃないですか。普段もそのくらい動いてもらいたいものですが」
 綿貫がわざとらしい嫌味をこめて言うも、南雲はしれっとしたもので、口をもぐもぐさせながら言う。
「だってほら、押し付けられた仕事じゃないですし。何かあっても俺に責任とか無いですし」
「勤め人とは思えない論理ですよねえ……」
 そして、南雲の答えは、十分綿貫にも予想できたものだったらしい。特に気にした風もなく、ただ呆れたように肩を竦めるだけであった。おそらく、この二人の間で、それこそ数え切れないほど同じようなやり取りが繰り返されてきたのだろう。そう確信させる程度には、綿貫の諦観が窺えてしまう。
 気を取り直すように軽く咳払いをした綿貫は、人差し指を立てて言う。
「もう一ついいですか、南雲くん」
「はい?」
「今回は特に、鼻につくようなものはないのですか?」
 ――鼻につく?
 何か変な匂いでもしているのだろうか、と八束は鼻をふんふんさせてみるが、普段の対策室と変化は感じられない。ただ、綿貫の言葉を受けた南雲は、いつになく眉間の皺を深めて「んー」と唸った。
「どうだろ。正直、よくわかんないんすよね」
 猫背を伸ばして、背もたれに体重を預ける南雲。骨と皮だけの痩身とはいえ、日本人離れした長身を持つ南雲の体重を受けて、椅子がぎぃと嫌な音を立てた。
「それっぽい匂いはするんですけど、関係ない気もするし」
「頼りないですねえ」
「だって俺、犬じゃなくて人間っすよ。あと場所がよくない。神社ですしね」
「あー……。なるほど」
 八束にはさっぱり話が見えないが、二人の間には共通の認識があるらしい。綿貫は南雲に向けて、うっすら妖しげな微笑を投げかけて。
「まあ、常のごとく、ではありますが」
「現場の判断は、俺に任せる?」
「ええ。今回は正式な仕事でもありませんしね、南雲くんの思うままに判断すればいいと思います。もちろん、明確な事件性があれば報告してほしいところですが」
 南雲は綺麗に剃りあげた後ろ頭をつるりと撫ぜて、溜息混じりに言う。
「事件性……、ね。まあ、了解です。期待はなさらず」
 綿貫はそんな南雲の要領を得ない応答でも十分満足したのか、口元に浮かべた笑みを深めて八束に向き直る。
「八束くんも。早く、消えた河童が見つかるといいですね」
「はいっ、頑張ります!」
 びしっ、と敬礼する八束の前で、南雲は再び背中を丸めて、河童のぬいぐるみを縫う作業に戻っていた。
 結局、八束の再三の抗議が南雲の耳に届くことはなく、今日も全ての事務作業は八束一人の手に委ねられたのであった。
 
 
 ――終業時刻。
 八束は南雲を半ば引きずりながら待盾署を飛び出した。本日分の仕事は、自分のものはもちろん、本来南雲に与えられていたノルマ分まで全て片付け済みである。
 だから南雲が仕事をしないのかもしれないが、放っておいても仕事をしてくれるわけではなく、結果として仕事が山積してしまう。つまるところ、八束の仕事が増えるだけなのだというのも、この一ヶ月で嫌というほどわかっていた。
 どうすれば南雲に仕事をさせられるのか。それは、現在の八束に与えられた至上命題の一つであるが、今のところ有効な策は存在しない。
 ただ、今は南雲の怠惰さ加減よりも、河童のミイラの行方について考える方が先だ。先だとは思うのだが、一つだけ頭に引っかかっていたことを問うことにした。
「南雲さん、一つ質問させてください」
「どうぞ?」
 南雲は、八束のすぐ横をゆったりとした足取りで歩きながら言う。
「先ほど、綿貫さんが『鼻につく』とおっしゃっていましたが、どういう意味ですか?」
「ああ、大したことじゃないよ。八束は、あそこにある看板の文字普通に読めるでしょ」
 と言って、指したのはブルーの地に白の文字で矢印と地名が書かれた交通標識だ。ここから右に曲がって、しばらく進めば埼玉県に入ることがわかる。だが、それがどうしたというのだろう。
 不思議に思っていると、南雲はちらりと八束を見下ろして、眼鏡の下の目を細める。
「八束は人より目がいいし、記憶力も抜群だろ。俺はほとんどのところ八束に劣ってるけど、人よりちょっと鼻がよくて、少しばかり勘が働く。その二つは、同時に感じられることがほとんどだけど」
 ――要するに、違和感、だよな。
 付け加えて、南雲は虚空に視線を戻す。
「普段しない匂いがすれば、普段と違う『何か』があるってことだ。それを俺自身が『勘』と思い込んでるだけかもしれないし、また別の概念なのかもしれない。とにかく、その程度のふんわりとした認識を指して『鼻につく』って表現する」
「なるほど。違和感を察知する能力が優れているのは、素晴らしいことだと思います」
 勘、という曖昧なものを信じているわけではないが、かつて捜査一課に所属していた経験から、彼らが「勘」と呼ぶものを完全に否定しているわけではない。本人も自覚していない、経験から来る判断力が決して無視できないことは、自身の経験からも明らかなのだ。
 南雲の場合、おそらく、少しばかり人より鋭い嗅覚で嗅ぎ取った違和感によって、経験則が裏付けられる、ということなのだろう。
「それが、今回の河童の消失に関しては上手く働いていないということですか?」
「いや、違和感はあるんだよ。あるけど、それが何なのか、そもそも事件に関係しているのかもさっぱりって感じ。俺の感覚って、大体はその程度のもんなのよ」
 結局のところ、河童の行方を知る役に立つわけではない、ということだ。
 ただ、違和感はある、と南雲が感じ取っている以上、やはり「何も無い」ということはありえないのだ。実際に河童が消えているのだから、今更ではあるのだが。
「せめて、神主さんの方で何か進展していればいいのですが……」
 言いながら、神社の位置する細い路地に足を踏み入れた瞬間。
 
 八束の目に入ったのは、黒塗りの高級車であった。