02:ワンダリング・ウォーターインプ(4)
――河童の足取りを追う。
もちろん、河童のミイラが歩いて逃げた、という言葉を鵜呑みにしたつもりはない。河童の足跡のように見せかけた、銀色の痕跡を信じたわけでもない。
ただ、誰かの手で持ち去られたと考えれば、痕跡は必ず残るはずなのだ。人間は空を飛んで逃げることなどできないのだから。
特に神社の境内は、人がよく通るような場所こそ石畳に覆われているが、地面がむき出しになっている部分も多い。仮に人の目を避けたなら、舗装されている場所でなく、裏手の林の中を通っていてもおかしくない――、というのが八束の考えだ。
かくして、敷地内の捜索が始まった。
……八束と、菊平の二人で、ではあったのだが。
南雲はどうしたのかといえば、八束が河童の捜索を提案して飛び出したところで、
「俺はエネルギー切れです」
と呟き、そのまま賽銭箱の横にうずくまって動かなくなった。正確には、もそもそとチロルチョコをむさぼりはじめた。こうなってしまった南雲は、本人が満足するまで決して動かないので、仕方なく八束一人で捜索に臨むことになったのだった。
「まずは、周辺に何か手がかりがないか、ですね」
河童の盗難が社の中で起こったのはまず間違いないはずだ。河童が入っていた大きな箱は動かされた形跡がなく、その内側だけが綺麗に消えていたのだから。
どうやって建物に忍び込み、盗み出したのかという問題は解決していない。
とはいえ、事件が起こった場所は覆しようもない。つまり、周辺に逃亡の形跡が残っているはずだ。そう考えて、コンクリートで埋められた建物の周囲と、その外側の木々の根が張り出した土の地面を見つめていたのだが。
「新しい足跡、多いですね」
ジャージの膝や肘、腹の辺りが汚れるのも構わずに、這いつくばって地面を観察していた八束は、顔を上げて眉を寄せる。
コンクリートの上に残された土のついた足跡や、土に刻まれた靴の痕跡はいくつも見つけられた。それはもう、くっきりはっきりと。だが、河童を盗んだ存在が残したものにしては、あちこちに足跡がつきすぎている――。
そう思った時、呆れたような菊平の声が割って入った。
「そりゃそうだ、朝から今まで河童探してたから」
「ああ……」
それはそうだ、と思うと当時に肩の力が抜ける。
鑑識に頼めるなら足跡の鑑定もできようものだが、八束一人でこの境内のあちこちに刻まれた足跡のうち怪しい足跡だけをピックアップするのは流石に不可能に近い。
どうやら、足跡から犯人の足取りを追うというのは現実的ではないようだ。また別のアプローチを考えなくては、と思いながら体を起こしたところで、ふと地面の上の一点が視界に入った。
「そういえば、やけに小さな足跡がありますね」
詳細に観察すれば、大きな足跡の上に小さな足跡、という形だ。つまり時系列からすると、小さい足跡の方が後ということになる。と言っても足跡の新しさからいうとそこまで二つの間に変わりはないように見えるが。
八束の声を聞いた菊平は、「ああ」と苦笑する。
「翔の足跡だな」
知らない名前だ。八束は、ジャージの膝を払って立ち上がりながら、菊平に問いかける。
「翔、とはどなたですか?」
「俺の息子だ。朝のうち、一緒に河童を探してたんだよ。今は一旦家に帰ってる」
「息子さんがいらっしゃるのですね。おいくつですか?」
「十歳だ。小学四年生」
十歳。二十二歳の八束から見れば「子供」と感じられるが、よく考えると八束と南雲の歳の差もそのくらいだと気づいて思わず微妙な顔になる。子供扱いしないでほしい、と八束は繰り返し南雲に訴えているが、南雲の目を通せば、八束は相当幼く見えているのかもしれない。
……と、すぐに横に逸れかける意識を本題に戻すため、首をぶんぶん振る。今は南雲のことはどうでもいいのだ。
突然頭を振り始めた八束を怪訝な顔で見ていた菊平だったが、ふと、口元が小さく動いた。
「なあ、八束ちゃん。一つ聞いてもいいか。河童とは全然関係ない話なんだけどさ」
「はい、何なりと」
「……南雲のこと、なんだけど」
思考から遠ざけようとしていた南雲の名前が菊平の口から出たことで、八束はぎょっとして問い返す。
「南雲さん、ですか?」
「あいつ、最近どんな感じだ? 荒れてたりしないか」
最近、と言われても、八束はここ一ヶ月ほどの南雲しか知らない。なので、その範囲で南雲のことを一つずつ思い返し、率直に言葉に変換していく。
「顔は怖いし何考えているかよくわからないところもありますが、いつも、のんびりしていて穏やかな人ですよ。そういえば、声を荒げてるところはほとんど見たことがありませんね」
一度だけ。そう、たった一度だけ、南雲の逆鱗に触れてしまったことはある。ただし、それは「八束の食事が三食カロリーメイトとサプリメントのみである」という事実に対してだったので、正直南雲の怒りのツボは未だによくわからない。
ただ、南雲彰という人物が、見た目どおりの人間でないことくらいは、一ヶ月程度の付き合いである八束でもわかる。怠惰で面倒くさがりでとてつもなく扱いづらいが、根はとても心優しい人物、というのが南雲に対する評価だ。
そんな八束の言葉を聞いて、菊平は心底安堵したように長く息をついた。
「なんだ、マジで面構え以外は何も変わってねえんだな」
「昔は違ったのですか?」
あのスキンヘッドと仏頂面が昔からというのは、流石に考えにくい話ではあるが。菊平はにやりと口元に笑みを浮かべて、秘密を告げるようにそっと囁く。
「まあな。あいつ、俺の中学時代までの後輩なんだけどさ。あれで昔は天使みたいな面してて、女子にきゃーきゃー言われてたんだぜ」
「天使!?」
天使のような、南雲。
全く、想像ができない。
坊主のような、ならまだわかる気はするが……、いや、やはり納得できない。言葉から連想される天国やら浄土やらというものとは無縁としか思えない、いっそ冥府から現れたと言われた方がしっくり来る、それが南雲という男である。
どれだけ微妙な顔をしてしまったのか、自分ではわからない。ただ、菊平が反射的に噴き出す程度には変な顔をしていたのは、間違いなかった。
「ほら、あいつ、顔はいいだろ」
「はい。いつも難しい顔してますし、顔色もとてつもなく悪いですが、それを差し引けばとても綺麗な人ですよね」
それは八束も当初から認めていることだ。長身痩躯で色白、少しつり気味の目、人より色の薄い瞳、すっと通った鼻筋に整った形の顎。常に白を通り越して土気色の肌をしていたり、目を限界まで細めて眉間に皺を寄せていたり、目の周りにべったりと隈を貼り付けたりしていなければ、スキンヘッドを考慮しても恐ろしげには見えないはずだ。
「昔はあんなしかめっ面じゃなくて、いっつもにこにこしてたんだよ。髪の毛も天パでふわふわしてて、まさしく絵に描いた天使って感じだったんだぜ」
「にこにこふわふわくるくるな南雲さんですか!?」
その姿は、完全に八束の想像力を超越していた。手始めに「髪の毛のある南雲」というものを想像してみるも、ふわふわというよりも鬱蒼と茂ったアフロのかつらを被った、怖い顔の南雲しか思い浮かべられない。考えれば考えるほど、むしろ普段の南雲よりも威圧感が増している気がした。アフロの質量の分。
八束の斜め横にすっ飛んだ思考に気づいているのかいないのか、菊平は口元に浮かべていた笑みをふと消して、やけに低い声で言う。
「それに、あいつ、色々あっただろ。上手くやれてんのかな、ってちょっと心配だったんだ」
「色々? 南雲さんに何があったのですか?」
八束はこくりと首を傾げて問いかける。どうも、それは菊平にとって意外であったらしく、目を丸くして八束を見やる。
「もしかして、何も聞かされてないのか?」
「そうですね、『何も』が何を指すかにもよりますが、南雲さんの事情に関しては、特に知る機会がありませんでした」
改めて考えるまでもなく、八束は南雲について、ほとんど知らないと言っていい。
南雲彰という名前であること。五年前から秘策に所属していること。可愛いものと甘いものをこよなく愛していること。スキンヘッドはファッションかと思いきや、半分以上は若ハゲを誤魔化すためであるらしいこと。そのくらいだ。
先輩であり相棒である南雲だが、あくまで自分とは別の人間である。理由もなく私的な事情に触れるのはマナー違反であることくらいは認識している。今まで、無意識に相手のテリトリーに土足で踏み込む真似を何度もしてきたという、大きな後悔と共に。
ただ――、何故、南雲が秘策にいるのかは、八束の頭の中にもちいさな棘として引っかかっていることではあった。
普段は怠惰な態度で八束を振り回す南雲だが、捜査員としては決して無能ではない。一ヶ月前の幽霊騒ぎで、自分の役割を見失いかけていた八束を叱咤し、適切なアドバイスを投げかけ、幽霊とバイク事故との間の因果を見出してみせたことは記憶に新しい。
八束が細かな違和感一つひとつに対する分析を得意とするのに対し、南雲は出来事全体の枠組みを見出す能力に優れている。これは八束に致命的に欠けている能力であり、だからこそ、係長も八束と南雲を組ませているのだろう、と想像している。ここまでは、八束でも十分考えが及ぶ範囲だ。
だが、そこから先。八束や係長が「優れた能力を持つ」と認めている南雲が、どうしてこんな閑職で暇と能力を持て余しているのか、満足できる説明を得られたことはなかった。
もちろん、知らなくても困ることはない。南雲は広く確かな視野を持つ相棒である。それだけで十分ではある。
あるのだけれど――。
「まあ、知らないなら俺が言うことでもねえか。悪いな、変なこと聞いて」
菊平がばつが悪そうに頭を掻きながら呟いたので、慌てて首と手をぶんぶん横に振る。
「いえ、そんなことありませんっ! 興味深いお話ありがとうございます!」
「そう? ならいいんだが。あ、南雲には俺が色々余計なこと言ってたって内緒な」
菊平はにっと笑って、口の前に人差し指を寄せる。八束も、菊平の動きをそっくりそのまま真似するように、人差し指を立てて目を細める。
「はい、内緒です」
一方その頃、賽銭箱の横に座り込んだ南雲は、六つ目のチロルチョコを咀嚼しているところだった。
チロルチョコはどうもキャンディ類に比べるとコストパフォーマンスが悪い。マイブームではあるのだが、次に出歩くときは別の甘味の方がいいだろうか、と思っていると、石段を誰かが上ってくるのが目に入った。
どうやら、男の子のようだ――、と眼鏡越しにもぼやけて見える視界で判断したその時、石段を登りきった何者かが、まだ声変わりもしていない高い声で言う。
「だ、誰?」
明らかな警戒。それはそうだよなあ、と南雲は内心で苦笑する。賽銭箱の横に蹲っているスキンヘッドのおっさんなど、不審なことこの上ない。七つ目のチロルチョコの封を開けながら、顔だけを上げて言う。
「こんちは。君、菊平先輩んとこの息子さんだよな」
「そうだけど、お父さんの友達?」
「……まあ、友達っつーか後輩だね。君のお父さんなら、多分裏手にいるんじゃないかな。俺の友達と一緒に探し物中」
南雲は少しだけ首をめぐらせて、拝殿の裏手を視線で示す。恐る恐る、といった足取りで近づいてきた少年は、四角い箱の形をした包みを抱えて、不安げに南雲を見ていた。
「おじさんも、河童を探してるの?」
その問いに、南雲は「ん」と顎を引きながら考える。どうやら、この少年は河童の消失を知っているらしい。
「俺は休憩中だけど、今、俺の友達が手伝ってる。あと、おじさんは南雲っていいます。君は翔くんだよね」
「う、うん」
「うーん、君が三歳くらいの時に一緒に遊んだこともあるけど、流石に覚えてないよな」
仮に覚えていたとしても、それが今の南雲と結びつくとも思えなかったのだが。
案の定、翔は怪訝そうな顔を更に深めただけだった。
南雲は、七つ目のチロルを口の中に放り込み、表情は変えようがなかったので、出来る限り穏やかに聞こえるように心がけながら声をかける。
「それ、お弁当?」
それ、とは翔少年が抱えている箱のことだ。一瞬、翔は目を真ん丸くしていたが、すぐにこくこくと頷いた。
「お父さんと一緒に食べなって、お母さんが」
「もうお昼時だもんな。じゃ、お父さんのこと、呼んでこようか」
ゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをする。甘いものを摂取したので、先ほどよりは随分頭が働くようになっている。
翔はもう一つだけ頷いて、ふと視線を上に向ける。南雲もつられてそちらを見るが、特に変わったものは目に入らない。木々の間から、いつもの空が見えるだけだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
それだけ言って、弁当箱を抱えたまま裏手に小走りで駆けて行く翔。その小さな影を眺めていた南雲は、ふむ、と顎をさする。
「……まさか、なあ」