01:ワンダーランド・オーヴァチュア(14)

「お疲れ様でした、南雲くん、八束くん。では、今回の事件に関して、報告書の作成を――」
「プリン食べてからね」
 綿貫の言葉をあっさりぶった切って、そそくさと冷蔵庫に向かう南雲。冷蔵庫の前で丸まっている細長い背中を見つめながら、八束はぽそりと綿貫に問う。
「……南雲さんって、いつもこうなんですか?」
「いえ、普段の数十倍はきちんと働いてくれました。八束くんがいたから、かっこつけてたのかもしれませんが」
 確かに、きちんと働いてはいたけれど。それにしても、曲がりなりにも上司である綿貫に対する扱いが、ぞんざいすぎやしないだろうか。それに、これで「数十倍」ということは、普段はどれくらいやる気がないのだろうか。完全に八束の想像力を超えている。
 すると、つかつかと歩み寄ってきた南雲が、八束の前に何かを置いた。一拍遅れて、それが黒い器に入ったプリンであることを理解する。きちんと小さな銀のスプーンもついている。
 びっくりして顔を上げると、南雲は気難しそうな表情のまま、手でプリンを指す。
「今日はお疲れ様。どうぞ」
「え、でも、これって南雲さんのプリン、ですよね?」
 そもそも、南雲がこの事件に積極的に関わったのは、綿貫にプリンの入った冷蔵庫を人質(?)に取られたからだ。南雲にとっては大切なプリンを、人に渡してもよいものなのか。
 しかし、八束の危惧を仏頂面で受け止めた南雲は、左手で持った二つのプリンを八束に見せる。
「まだまだあるからだいじょぶ。遠慮なく食べて食べて」
 あっさりとそう言って、もう一つのプリンを綿貫の机の上に置いた。
「綿貫さんも、どうぞ。甘いものは頭を活性化させますよ」
「ありがとうございます。しかし、南雲くんは甘いものばかり食べてるんですから、もう少し普段から頭を使ってもいいんじゃないですかね……」
「やですよー、疲れちゃいますもん。今日はへとへとですぅー」
 そう言って、ふらふらソファに向かったかと思うと、そのままばふっと倒れこんだ。手の中のプリンを全く傾けることなく倒れた辺り、この動作も慣れたものなのだろうなあ、と思う。
 うつぶせの体勢で、足をぶらぶらさせながらプリンを食べはじめた南雲。そのつるりとした頭を眺めながら、八束は、つい呟かずにはいられなかった。
「南雲さんって、やっぱり、変わってますね……」
「ええ、ちょっと気難しいというか、取り扱いに困るというか」
 見ている限り、「ちょっと」どころじゃない気もするが。一緒に行動してみて、決して悪人でないということはわかったが、だからといって「わかりやすい」かというと、絶対にそんなことはない。八束は、そう思っている。
 綿貫は、プリンの器片手に深々と溜息をつき、軽く肩を竦めてみせる。
「でも、まあ、何とかなるでしょう。これからは、八束くんもいますしね」
「わたし、ですか?」
「ええ。南雲くんは、放っておくとダメになっちゃうタイプですので、適度に構ってあげてくださいね」
 それは、人ではなくペットの扱いではなかろうか。そう思っていると、ソファに横になった南雲が間延びした声を上げる。
「綿貫さーん、それ、俺の方が世話される側みたいじゃないですかー」
「そう言ってるんですけど、何か間違ってますか?」
「うーん、間違ってない」
「間違ってないんですか南雲さん!?」
 自覚があるというのは大切なことだが、その自覚はどうなのだろうか。南雲は特に反論もせず、もぐもぐと、満足げにプリンを咀嚼するばかり。
 果たして、この男の頭の中はどのような構造になっているのだろうか。
 先ほど、八束の前で見せた、何かを堪えているような影は、一体どこに行ってしまったのか。
 色々と考えながらも、席について、南雲から受け取ったプリンをひとさじ、口に含んで。
「……っ、お、美味しい……!」
 口の中でとろり、とろけるバニラ風味のカスタード。ほろ苦いカラメルと混ざり合って広がる風味は、八束が今まで味わってきたどのプリンとも異なる、絶妙なハーモニーを奏でている。
 そもそも、八束は今まで、片手の指で数えるほどしか「プリン」という甘味を食したことはなかったのだが。それにしても、このプリンが格別美味しいものである、ということくらいはわかる。
 一口、二口と、身体が求めるままにプリンを口に運んでいると、同じようにプリンを食し始めていた綿貫が、ぽつりと呟いた。
「南雲くんの、美味しいものを探す手腕だけは本物ですよね……」
 その言葉に含まれていたのは、感嘆と、おそらくはそれ以上の呆れだった。要するに「仕事もそれくらい一生懸命やってくれ」という意味だ。
 南雲が、それに気づいていないはずはない、とは思うのだが。
「綿貫さん、俺、この仕事辞めたら、お菓子食べる人になりたい」
「『作る人』ですらない辺り、クズ極まりない希望ですね南雲くん」
 グルメリポーターか何かだろうか。とにかく、南雲にやる気が皆無なことだけは、はっきりした。
 綿貫をちらりと見やると、綿貫は、もう一度、腹の底からの溜息をついた。多分、南雲にどうこう言うことを、諦めたのだと思う。これで何度目の諦めかは、ここに来てすぐの八束には判断できなかったけれど。
 そんなやり取りを眺めながら黙々とプリンを口に運んでいた八束は、不意に、大切なことを思い出す。プリンショックですっかり忘れていたが、まだ、今回の事件は終わっていないのだ。
「そういえば、沖さんの容態は、どうなりましたか?」
 今回の被害者である沖穣治がどうなったのか、まだ、八束は知らない。
 綿貫も「ああ」と口元に苦笑を浮かべる。
「聞いたところ、昨夜、意識を取り戻しましてね。聴取を行ったところ、一年前の轢き逃げを認めているそうです。例の『幽霊』を見てしまったからですかね、酷く怯えた様子だったと聞きます」
「ふうん。やっぱり、あの幽霊人形も沖さんの動揺を狙ったもんだったんだな」
 一通りプリンを食べ終えた南雲が、プリンの器とスプーンを床に置き、上体を起こしてソファの背に腕をかける。
 しかし、それならば。八束が今まで見てきた光景、聞いてきた言葉が、脳内に展開されていく。そう、どうしても一つだけ、わからないことがあったのだ。
「……あの、係長、南雲さん」
 八束が解き明かしたのは、今北が沖に向かって仕掛けた罠の仕組みだけ。一番重要なところが、明らかになっていない。
「今北さんは、どうして、沖さんが麻紀子さんを殺した犯人だと、知っていたのでしょうか」
 警察ですら掴むことのできなかった、一年前の轢き逃げ犯の正体。
 今北は、麻紀子の霊が教えてくれたのだと言っていた。だが、その「幽霊」は今北によって作られた、ただの人形だった。
 では、一体、今北に沖の存在を伝えたのは、誰だったのか――?
「案外、ほんとに麻紀子さんが教えたのかもしれないよね」
 ぽつり、南雲がそんなことを呟いたものだから、八束は全身にぶわっと鳥肌が立つのを抑えられなかった。今北が作った人形でも、南雲の話術によって生み出された虚構でもなく。本物の幽霊が、そこに、いたとでもいうのか。
 ぼんやりと浮かぶ、うつくしくも恐ろしげな今北麻紀子の幽霊を想像してしまい、「ひいっ」と喉の奥で悲鳴を上げる。
「な、ななな南雲さんっ!? お、脅かさないでくださいっ!」
「ごめんごめーん」
 南雲も、悪気はなかったのだろう、ひらひらと大きな手を振る。
「まあ、その辺も、今北さんの話を聞いてけばいつかわかるっしょ。で、その辺りは本職の皆さんにお任せすればよくて、つまり俺は休んでいいと」
 今北の取調べは他の係の仕事とはいえ、一応、自分たちも「本職」ではあるのだが。そんな八束の内心のツッコミも届くはずはなく、南雲は再び上体をソファに埋もれさせた。
「南雲くん、食べ終わったなら報告書の作成ですからね?」
「だいじょぶです綿貫さん、俺が動くまでもありません。八束はできる子なので、きっと俺の分まで頑張ってくれると信じてる。頑張れやつづかー、負けるなやつづかー、俺はソファの上から応援してる」
「南雲さーん!? やる気! やる気出しましょう! 報告書の作成までが今回のお仕事ですっ!」
 慌ててソファに駆け寄るも、南雲はソファの角に顔を埋めたまま、もごもごとくぐもった声を上げる。
「やる気スイッチは江戸川に投げ捨てました。今頃元気でやってると信じてる」
「南雲さんのやる気スイッチは、生き物なのですか……?」
「知らないのか八束。東京湾まで下った後、秋になると産卵のために遡上するって」
「鮭じゃないんですから。真剣な声で法螺吹くのやめてください」
 流石に、それが法螺であることくらいは、八束にだってわかる。ただし、卵が孵化して南雲のやる気が増えてくれるなら、それはそれでいいことなのではないか、とも思うのだが。
 とはいえ、投げやりな法螺を吹き続けるだけの気力すらないらしく、南雲はソファからはみ出した足を大げさにぶらぶらさせる。
「というわけで、後は任せた。八束の頭があれば、俺の分も含めてちょちょいのちょいでしょ? 適材適所っていい言葉だよね」
「南雲さんの適所ってどこなんですかっ!?」
「ここ」
 つまり、ソファの上。
 その瞬間、八束の頭の中で、何かがぷつっと切れた気がした。
「南雲さん、しっかりしてくださいっ! せめて仕事してるフリくらいしてください!」
 必死に南雲の肩を引っ張るも、なかなか南雲は南雲で強情なわけで、ソファにしがみついて離れない。力にはそれなりに自信がある八束だが、相手は細いとはいえ八束より頭一つ以上大きな南雲だ、抵抗されるとそう簡単にはソファから引き剥がせない。
「くうっ、負けませんよ!」
「いやだー。しごとなんてしたくないんだー。はなせー」
 八束はこんなに必死だというのに、対する南雲は棒読みと来た。これがまた、八束の神経を逆撫でする。
「係長! 係長からも、何とか言ってくださいよ!」
「あー、南雲くん、仕事しないって言い出したら梃子でも動かないんで無理です」
「それで、今までどうやって仕事させてたんですか!?」
 今までの綿貫と南雲の言葉から考えると、南雲がこういう行動に出るのは、多分これが初めてではないはずだ。何しろ、今回の事件において「数十倍はきちんと働いていた」らしいのだから。
 南雲から綿貫に視線を向けると、綿貫は八束の真っ直ぐな視線を避けるようにふいっと横を向き、たそがれた空気を背負って言った。
「その分、僕が頑張っていたというか……」
「係長も南雲さんのこと甘やかしてたんじゃないですかっ!」
「ううっ、否定できません」
 綿貫は胸を押さえて八束の言葉を認める。
 まあ、つまり。これはこれで、日常茶飯事だということだ。
 今までの空気とのあまりの差異に、ただただ戸惑うばかりではあるものの。
 八束は、ソファにかじりついたままの南雲を見下ろす。攻勢が止んだと見た南雲は、恐る恐る顔を上げ、ずれた眼鏡越しに八束を見上げる。
 八束の大きな目と、南雲の細められた目が、お互いを映しこんで。
「南雲さん」
「はい」
「せめて、この係の報告書の書き方くらいは、教えてください」
「……えー、めんど」
「残りのプリン、わたしが全部食べていいということですね」
「ごめんなさい俺が悪かったです」
 今までの抵抗がまるで嘘のように、ぴょこんと身を起こす南雲。今までのは茶番だったのか、と、脱力感に襲われる。
 だが、茶番だとわかってしまうと、気が抜けると同時に口元が緩んでしまう。
「今日は、あと少しだけ付き合ってください」
「プリンの命がかかってちゃ仕方ないなー、もう」
 立ち上がって頭を掻く南雲を見上げて、八束は笑う。頼れるんだか頼りないんだかよくわからない『教育係』にして『相棒』は、難しい顔で八束を見下ろすばかりだが。
 それでも、最初に感じた恐ろしさは、もう、どこにもない。
「よーし、ちゃっちゃとやろう。さくっと終わらせて、ゆっくり休も。な、八束」
 ぽんぽんと頭を叩くその手の感触を、くすぐったくも温かく感じながら。八束は、背筋を伸ばして、声を張る。
「はいっ、よろしくお願いします!」