01:ワンダーランド・オーヴァチュア(8)

 結局、今北が去った後、現場をどれだけ調べても八束が目撃した幽霊に関する手がかりは得られず、八束と南雲は一旦署に帰ることになった。
 しかし、八束にはどうにも引っかかって仕方ないことがある。しばし、眉を寄せて脳内で検討してみたが、結局、考えているだけではどうしようもないので、前を歩いていた南雲の横に駆け寄って、声をかける。
「南雲さん」
「なーに?」
「先ほどお会いした、今北さんという方、おかしくありませんでしたか?」
 八束としては、本当は、人を頭から疑ってかかるということはしたくないのだ。
 妻を失い、悲しみにくれる男に対してこんなことを言うべきではないとも思う。死んだ妻が復讐を望んだという言葉だって、消えることの無い悲しみと怒り、そして「妻はこう望むだろう」という思い込みによって生み出された妄想と言ってしまえばそれまでだ。
 だが、曲がりなりにも刑事である以上、疑うことも仕事のうちである。
 八束は、思い切って南雲を見上げて言う。
「まるで、あの事故を起こしたのは自分だと言っているようでした」
「まあ、まず黒だろ」
 南雲は、あっさりと八束の言葉を認めた。一瞬何を言われたのかわからずに、八束は目を白黒とさせたが、その言葉が脳内で意味を成した途端、反射的に今北が去っていった方向を振り向いた。もちろん、今北の姿はもう見えない。見えない、けれど。
「八束が最後に事故のこと聞いたでしょ。その時の反応で確信したよ。殺人を意図したかどうかは横に置いても、事故を仕掛けたのはあの人だろうな」
 改めて南雲に向き直り、その虚ろな目をきっと見据える。
「そう思っていて、引き止めなかったんですか!?」
 凶悪犯をみすみす見逃すなど、あってはならないことではないか。だが、南雲は微かに目を細めて視線を逸らしただけで、飴を舐め舐め変わらぬ調子で続ける。
「奴さんだって、疑われるのをわかってて俺たちを挑発してたろ。警察は証拠を見つけられない、って思ってる。事実、今北さんが件の事故を仕組んだって証明するものは、現状見つかってないはずだしねえ」
 南雲の言葉はどこまでも正論だ。証拠が見つかっていれば、朝の時点で綿貫もそれを二人に伝えているだろう。それは、八束にだってわかっていた。ならば、すべきことは一つだった。
「……証拠を、見つけなければなりません。今すぐに」
 今北が、バイク運転手を罠にかけた証拠。あれだけの余裕を見せていたのだから、きっと、一筋縄で見つかるようなものではないのだろう。脳内に、もう一度事件現場の光景を呼び出そうとした、その時。
「勘違いしないでよ、八束。綿貫さんからの指示は、あくまで幽霊騒ぎの真偽を確かめること。『事故』が『事件』かどうかを確かめることじゃない」
 南雲のあくまで淡々とした声音が、八束の思考に割り込んできた。
 つまり、南雲は「真相に関わるな」と言っているのだ。犯人と思しき人物がわかっていながら。突発的な事故ではなく意図的な事件であると、示唆されながら。
 その瞬間、かっと頭に血が上るのを感じて、ほとんど反射的に声を上げていた。
「っ、南雲さんは! 事件を前にして、見て見ぬふりをしろと言うんですか!?」
 ただでさえやる気に欠ける男だとは思っていたが、ここまでとは。このような時こそ、成すべき正義を貫くべきではないかと八束は思う。目を閉じ、耳を塞ぐのが正義だというのか。そんなこと、許せるはずもない。
 煮えたぎる感情を顕にする八束に対し、南雲はじっとりとした暗い視線を送ってくる。
「見て見ぬふりをしろなんて言ってないよ。今のやり取りをしかるべき係に伝えて、俺たちは俺たちの仕事をしよう、って言ってんの。うちは『神秘対策係』でそれ以上でもそれ以下でもないからね」
 言いながら、ポケットから携帯電話を取り出す。「あれ、綿貫さんから着信あったや」などと言いながら、折り返し綿貫に連絡をつけようとする。それを見上げながら、八束はどうしても納得ができず、胸の中に湧き上がるむかむかとした思いを抑えることができない。
 南雲が受話器を耳に当てている横で、八束はきっぱりと宣言する。
「わたしは、この事件を調べます!」
「おい、八束ぁー?」
 南雲は、八束の決意に満ち満ちた言葉に対し、妙に間の抜けた声をかけてきたが、その時、ちょうど綿貫と電話が繋がったらしい。視線が一瞬、こちらから逸れる。
「あ、もしもし、綿貫さん? おれおれー。いや、そういう詐欺じゃなくて、っつか綿貫さん息子いないでしょ?」
 受話器に向かって、極めてマイペースに話を始める南雲に背を向け、駆け出す。
 とにかく、情報が足らない。
 今北という人物のこと。死んだ今北の妻のこと。妻が囁いたという轢き逃げ犯の話。バイク運転手は何者だったのか。
 わからないということがもどかしい。もし幽霊を目撃してしまったあの時に、気絶などせず辺りを確かめられれば、あるいは何かが掴めていたのかもしれないのに。
 いや、過ぎたことを考えても仕方がない。まずは署に戻って、今北の妻が死んだ事故について詳しく調べてみるべきだ。そこから、何か手がかりが得られるかもしれない。
「八束」
 後ろから南雲の声が追ってきたけれど、振り返らない。南雲の言葉に従っているだけでは、何も解決しないとわかってしまったから。このまま、ぬるい泥のような空気につかっていてはいけない。あらゆる情報を取り込んで、感覚を研ぎ澄ませなければ。
 前へ。ただ、前へ。
 前だけを見据えて、八束は警察署への道を駆ける。
 
 
 
「あー、しまった、行っちゃいました」
『八束くんですか?』
「多分、あの調子だと一旦署に戻るんだとは思いますが。どうも暴走気味でしてあの子」
 綿貫に向かって、南雲はざっとここまでの経緯を説明した。幽霊に関してはめぼしい情報を得ることができなかったこと、その代わり、昨日のバイク事故が単なる事故ではない可能性が浮上したこと。その犯人と思しき男が現れ、八束の意識は幽霊から完全に離れて、仕組まれた事故へと向かってしまっていること。
 そこまで話したところで、綿貫はほうとため息をついて、呟いた。
『まあ、八束くんの暴走は予測の範囲内ですね』
「わかってて俺に押し付けたのかこのアホ上司」
『元上司の犀川警部曰く「正義感が暴走を始めると手に負えない」そうなので』
 その、綿貫の言葉を咀嚼するまでに一拍を要した。それから、常にじりじりと痛みを訴える眉間の辺りを揉み解しつつ、自然と声が低くなる。
「あのー、犀川警部って、つまりベイダー卿っすよね」
『そう呼んでるの、南雲くんだけですけどね』
「ってことは花形も花形、捜査一課から来たのあの子……? で、何か問題起こして流されたとか、そういうオチでしょ? やーめーてーよー」
『南雲くんはよくわかってますねえ』
「くっそむかつく……。俺の経歴知ってるくせに……」
 絶対に受話器の向こうで、綿貫はにやにやと笑っているだろう。
 しかし、あの娘が捜査一課の出身とは、嫌な偶然もあるものだ。もちろん偶然でなく全て綿貫の策略の内なのだろうが、と憂鬱な想像を巡らせながら、その複雑な感情を綿貫には悟られないよう、いたって軽い口調で告げる。
「とにかく、一人じゃ調査にならんので、俺も一旦署に帰ります。できれば、綿貫さんから、八束に話をしてもらいたいんですが――」
『申し訳ありません、今日から明日にかけては、別の案件にかかりきりになってまして、対策室にも帰れないです。それを連絡するために、先ほど電話をかけたんですけどね?』
「あー……。まあ、大して期待はしてなかったんでいいっす」
 綿貫が忙しいのは、南雲が一番良く知っている。神秘対策係の仕事が暇なのは、ひとえに綿貫が人の数倍働いているからだ。それは、何も南雲がサボっているのが理由ではなく――いや、少なからず理由には含まれるかもしれないが――そのほとんどが「綿貫にしかできない仕事」であるが故であり、南雲もその点は口を出すべきではなかったから、特に何も言わない。
『というわけで、八束くんへのフォローは南雲くんに一任します』
「えー? 無理です無理無理ー。俺、既に馬鹿にされてますしぃー」
 どこからどう見ても生真面目を絵に描いたような八束だ。一応「先輩」である南雲を直接馬鹿にする意図はなかったと思うが、それでも、先ほど南雲に対して見せた態度には、隠し切れない軽蔑が篭っていたと、南雲は分析している。
 表情には出さないし出せないから八束には伝わっていないだろうが、いきなり軽蔑されるのは、結構、堪えるものはある。
『……それは、自業自得じゃないですか?』
「知ってた」
 流石の南雲にも、軽蔑されてもおかしくない態度を取った自覚はある。怠惰な五年間を過ごしてきたこともあり、「真面目な態度」というのがどのようなものなのかを忘れていたのも事実だ。ただ、それが南雲にとっての通常運転なのだから、軽蔑されたところですぐにどうこうできるものでもない。
『まあ、八束くんは南雲くんもお察しの通り、極めて真面目な子ですから。きちんとお話しをすれば、わかってもらえますよ。我々の理念も、これからすべきことも』
 受話器越しに聞こえてくる綿貫の声は、あくまでおおらかだった。南雲になら何とかできるという信頼か、それとも自分が招いたことではないから知ったことではないという放任か。何となく、後者なような気もする。
 南雲は眉間の皺を深めて、投げやりに言う。
「はいはい。まあ、期待はなさらず」
『いえ、僕は期待しているんですよ。八束くんと南雲くんが、いい意味で影響し合ってくれることを』
「話はそれだけですか。じゃ、切りますね」
『あっ、ちょっと南雲く』
 容赦なく通話を終了させ、携帯を閉じた。ピンクの熊のストラップが、その動きに合わせて跳ねる。
 ――全く、勝手なことを言ってくれるものだ。
 内心、納得がいかなかった。勝手に人を連れて来て、勝手に「影響し合ってくれる」ことを期待されても、困る。南雲が期待に応えられなかったら、それこそ、誰よりも自分と組まされた八束に迷惑がかかるというのに。
 と、考えたところで、まず自分より他人のことを考えてしまっていた自分に頭が痛くなる。らしくない、と自分に言い聞かせながら、今度は電話帳から蓮見の電話番号を探す。八束にも言ったとおり、先ほど知りえたことは、しかるべき場所に伝えておく必要がある。
 それにしても、と。脳裏に浮かぶのは、熱っぽい目をこちらに向けていた八束の姿。
 事件と聞いた瞬間に目の色を変えるのは、さすが凶悪犯専門の捜査一課にいただけはある。
 しかし。
「……どうにも、危なっかしいお嬢さんだな」
 正直な感想をため息と共に吐き出しながら、南雲は携帯の呼び出しボタンを押した。