01:ワンダーランド・オーヴァチュア(7)

「ゆっ、ゆうれ――むぐっ」
 悲鳴を上げかけた八束の口を、即座に南雲が塞いだ。南雲の手は大きく、八束の顔半分はゆうに覆えてしまうので、口と一緒に鼻まで潰されて呼吸困難に陥りかける。そんな八束に顔を近づけ、南雲は低い声で耳打ちする。
「落ち着け、どう見ても人間だろ」
「むぐぐーっ!」
 言葉にならない抗議を上げると、南雲はすぐに手を離してくれた。「ぷはっ」と大きく呼吸をして、何とか息を整えた頃には、佇んでいた人影がこちらに近づいてきていた。
 南雲の言うとおり、それは幽霊などではなく人間だった。ぱっと見たところ、特徴らしい特徴も見られない、中肉中背の男。年のころは三十代後半辺りだろうか。片手に花束を持ち、スーツ姿で灰色の空の下に佇んでいた男は、あからさまに彼を凝視している八束と南雲の存在に気づいたのか、こちらに視線を向けて軽く会釈する。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます! 雨、あがりましたね」
「ええ、あいにく曇りではありますが。そろそろ晴れてほしいところですが」
「そうですね。ところで、今、少しお話を聞かせてもらってもよろしいですか?」
「はい? かまいませんが、……ええと、どちら様でしょうか」
「わたし、待盾警察署から来ました、八束と申します」
「同じく、南雲です」
 即座に警察手帳を示した八束に対し、南雲は亀のようなのろのろとした動きで警察手帳を取り出す。その間、約十秒。
 そして、ぽかんとした表情でそんな二人の名乗りを聞いた男。南雲がやっとのことで警察手帳を見せたくらいのタイミングで、こくん、と首を傾げてみせる。
「刑事さん……、ですか?」
「あー、俺も言われた側なら絶対疑いますね。不安なら、署に確認してもらっても結構っすよ」
 警察手帳を上着の内ポケットに戻しながら、南雲は相変わらずぼんやりとした声音で言う。どうもこの男には、緊張感だとか覇気だとか、そういう概念が根本的に存在しないと見える。
 とはいえ、男は慌てて「いえいえ」と首を横に振る。
「警察手帳まで見せていただいたのですし、疑うも何も。確かに、刑事さんらしくないな、とは思いましたが。特にそちらの、八束刑事は」
「ですよねー。俺も最初見た時、中学生かと思いましたもん」
「そんなっ!?」
 初耳だし、そんな話は聞きたくなかった。そりゃあ、本部にいた頃も、上司や先輩から散々子供扱いはされていたが、具体的に「中学生」と言われてしまうと、どうしようもなく情けない気分になってしまう。それに、顔や体型が中学生と変わらないのは、何も、八束自身のせいではないはずだ。――多分。
 にわかにしょんぼりする八束を見て、相対する男は気まずい思いに囚われたのかもしれない。「ははは」とわざとらしいくらいの笑い声を上げて、小さく頭を下げる。
「私は今北基彦と申します。刑事さんたちも、例の事故について調べに来たのですか?」
「いえ。事故とは別に、この近くに妙な影を見たという相談がありまして、本日はその調査のために参りました」
 言いながら、今北を真正面から見上げる。近くで見れば、右の目元に泣きぼくろが一つあるのがわかる。また、特徴がないと思ったのは、この今北という男が頭の先から爪先まで、意識して身なりを整えているからだと判断する。悪く言えば神経質にも見える。
 そんな分析を脳裏に展開していると、今北は顔の中では小さく見える目を細めて言う。
「影、ですか……。変質者か何かでしょうか?」
「それがわからないので、お話を伺えたらと思ったのです。何か心当たりはありませんか?」
「いえ、特にそういう話は聞きませんが。そもそも、その話は、どなたから伺ったのですかね」
「個人情報を開示することはできませんが、この地域の方です」
 八束は一言一言をはっきりと、今北に伝える。子供じみた容姿のせいで、警察官としての能力を疑問視されがちであることは、八束自身、今までの経験上よく理解している。だからこそ、せめて、言葉で相手を不安にさせないようにと、明朗な発声を心がける。
 それが功を奏したのか、今北も真っ直ぐに八束を見つめ、真剣にこちらの話を聞いているようだった。その態度に内心安堵しながら、八束は、質問を投げかける。
「もういくつか、質問させてください。今北さんは、こんな朝早くから、何故ここにいらしたんですか? その花束は何ですか?」
 いささか不躾な質問ではあるが、今北は今北で、刑事というのはそういうものだと思っているのかもしれない。八束の問いに対して、嫌な顔一つせず答えた。
「ああ、私は仕事に行く前に、花を供えに来たんですよ」
 そう言って、今北はまさしく、八束が幽霊を目撃した樹の根元辺りを指す。そこには薄汚れた花瓶が置かれていて、萎れ始めている菊の花が供えられていた。
「刑事さんたちは知らないかな。実は妻が、ここで亡くなっていまして」
「事故ですか」
 頷いた今北は、花瓶の前にしゃがみ込み、手を合わせる。八束もつられるように手を合わせて目を閉じた。
 事故。そういえば、今回綿貫から見せられた資料には、一年前に幽霊の目撃箇所で死亡事故があったという記述があった。その被害者の名前は、資料に誤りがなければ今北麻紀子といったはずだ。今まで頭の中で結びついていなかったが、ここまで来れば今北の妻と考えて間違いないだろう。
 とすると、ここで見かけられた幽霊というのは、今北夫人なのだろうか――?
 いやいや幽霊などいるはずがない、と手を合わせたままぶんぶん首を横に振る。結局のところ、化けて出てくるのだけはやめてください、とつい内心で祈ってしまうわけだが。
 目を開けて今北を見れば、今北は真剣な目つきでじっと花瓶の中の花を見つめていた。
 今北には、そこに妻の姿が見えているのだろうか。実際に幽霊でないにせよ、失ってしまった人の気配を感じることはあるのかもしれない。
 やがて、今北は八束に見られていることに気づいたのか、顔を上げて「いやはや」と頭を掻いた。
「生きてる間、大したこともしてやれませんでしたからね。せめて、花くらいは欠かさずに供えてやりたいと思いまして」
 その言葉に、八束は何も気の利いた言葉を返すことができなかった。どこかぎこちなく笑う今北の顔を、見つめていることしかできない。
 こういう時はいつもそうだ。今までも同じような顔をする被害者を何度も見てきて、最初の頃は言葉をかけることもあった。けれど、自分の言葉は、どうも人を傷つけてしまうことの方が多かったのだ、と思い出す。
 だから、今はただ、重苦しいものを言葉と一緒に飲みこんで、今北を見守ることしかできない。
 そんな悼みの空気をあっさりと打ち破ったのは、飄々とした南雲の声だった。
「今北さんは、今からお仕事っすか?」
 今北は、それではっとしたように南雲に顔を向け――ただし、南雲の恐ろしげな顔を直視はしていなかった――「ええ」と小さく頷く。そこで、八束ももう一つ聞きたかったことを思い出し、問いを投げかける。
「今北さんは、何のお仕事をされているのですか?」
「そういえば、名刺をお渡ししていませんでしたね」
 今北は、名刺入れから取り出した名刺を八束と南雲に手渡す。しっかりと両手でそれを受け取った八束は、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
 そして、名刺をざっと眺めて、そこに印字されている情報を把握する。
 今北基彦。東京にあるQ株式会社の研究員であるらしい。Q社という名前をキーにすると、いくつか思い当たる言葉があった。
「Q社というと、主に合成繊維の研究開発を行っている会社ですよね」
「よくご存知ですね」
 今北の言葉には、隠し切れない驚きが混ざっていた。とはいえ、八束にとってはこの程度は常識の範疇のため、今北の驚きに対してはきょとんと首を傾げるだけである。その代わりと言うべきだろうか、南雲がぼそりと横で呟いた。
「……まだ中学生なのに物知りだね、ってことじゃん?」
「中学生じゃないです! とっくに成人してます!」
 一回は意識から外れかけていた「中学生」という言葉をまた思い出す羽目になってしまい、きっと南雲を睨む。南雲も負けてはいないとばかりに、隈の浮いた鋭い目で八束を見下ろす。
 もしかすると、南雲は特に、睨んでいるつもりもないのかもしれないが。
 全く、失礼極まりない人だと思っていると、八束に構わず咥えた飴の棒を指先でくるくる回していた南雲が、ふと今北に話しかける。
「しかし、この場での事故を防げなかったってのは、うちとしては情けない話っすね。今北さんにも申し訳ない限りです」
 うち、というのはつまり待盾署のことだ。事実、ここに来る前に調べた内容によれば、今北の妻が亡くなった事故の他にも、大小の事故が存在していたはずだ。
 今北は、軽く頭を下げる南雲を、じっと見つめていた。先ほど、八束を見つめていたのと同じ、真剣極まりない視線で。
「……いえ。警察の方は、よくやってくれていると思いますよ。無数に起こる事件や事故を、何とか食い止めようとしているのですから」
「それでも。本当に、不甲斐ないとは思ってるんですよ。今北さんの奥さんを轢いた犯人だって、捕まえられずにいる」
 ――南雲さん?
 確かに、南雲の言葉は綿貫が説明した内容だ。南雲がそれをきちんと聞いていた、というのはそれはそれで驚きだが、それはそれとして。ただ、わざわざ、今北に言う必要はあるのだろうか。
 八束の危惧の通り、今まで落ち着いた様子でいた今北が、にわかに眉を寄せて、南雲を鋭く睨めつける。
「……なるほど、ここで起こった出来事を、ご存知でしたか」
「俺はね。八束が把握してたかは知らないけど」
 知ってはいたけれど、結びつくまでに時間がかかったのだ、と、主張できる空気でもなかった。今北の内側から発散される怒りを受け止めて、南雲はなお、仏頂面を崩さずに、唇だけを動かし続ける。
「うちを恨まれているのでしょう。わかりますよ。俺だって」
 言いかけて、一拍置いて、言葉を飲み込む。今北も、南雲の言葉の意味が掴めなかったのか、虚を突かれたように目を見開く。しかし、南雲はがりがりと後ろ頭を掻きながら、目を逸らす。
「あー、すみません。とにかく、警察は信用できないとは思いますが、今も手を尽くしてはいますんで。何か新たなことがわかり次第、すぐにお伝え」
「いえ、その必要はありませんよ」
 突然、今北が南雲の言葉を遮った。じっと、今北の表情だけに注視していた八束は、思わず息を呑んでいた。
 今まであれだけ苛立ちを顕にしていた今北が――何故か、刹那のうちに満面の笑みを浮かべていたから。
 今北は、八束と南雲に背を向け、己が手向けた花に向き合う。そこには、花瓶に備えられた花束しかないというのに。今北の目は、そこではない、どこか、近くて遠い場所を見つめているように、見えた。
「妻が、私だけに教えてくれたんですよ。己を轢いた犯人のことを。名前も、姿も、必ずこの場所に戻ってくるということも、全てね」
 今北の言葉は明朗で、八束の耳にも確かに届いていた。届いていたにもかかわらず、その意味を咀嚼して飲み込むまでには、数秒を要した。
「妻とは、亡くなられた、今北麻紀子さんのことでしょうか」
「ええ。麻紀子以外に私の妻はいませんよ」
 振り向きもせず、今北は言い放つ。
 だが、そんなことはありえない。死人に口は無いのだから。
 ――幽霊でも、ない限りは。
 ぞわり、と足元から這い上がる冷たい感触。九月の初め、残暑の空気はこれだけじめついた熱を帯びているというのに、八束の体は急速に冷えていく。
 この感触の正体は、間違いなく恐怖。それは、今までどんな凶悪な事件と相対している時にも経験したことのなかった、「不可解なもの」に対する根源的な恐怖だ。
「そして、妻は言ったのです。『犯人に、私と同じ思いをさせてやるのだ』と」
 恐怖に凍りつきそうな意識の中、今北の声だけが、はっきりと、響く。頭の内側で、落ち窪んだ目をした白い影が、首をもたげて裂けた口で笑う。
 ――そんなこと、許してはならない。
 罪を犯した人間は、法の下に裁かれなければならない。誰もが己の基準で人を裁いてしまっては、「私刑」の不毛な連鎖を生むだけだ。そう、八束の内側の理性的な部分が囁いているけれど、とにかく、恐怖が身体を縛って身動きが取れない。
 それに、幽霊が人を殺すことを、誰が防げるというのだろう――?
 そんな停滞した思考に割って入ってきたのは、南雲だった。今北の、常軌を逸した言葉にも全く動じた様子はなく、淡々と問いを投げかける。
「で、その犯人ってのは何者なんです?」
「言ったところで、あなたは私の言葉を信じて犯人を捕まえてくれますか?」
「まず信じませんね。それが警察ってものですから」
「でしょう? なら、わざわざ言う意味もない。むしろ、邪魔をされるのが関の山です」
 よくわかってらっしゃる、と南雲は肩を竦める。
 そこで、今北がやっと、八束と南雲に再び向き直った。
 目は理不尽なまでの怒りに血走り、それでいて、狂気じみた笑みをその薄い印象の顔に貼り付けて。
「まあ、既に、終わった話ですしね」
「……どういうことです?」
 答える代わりに、にっこりと微笑みかけてくる今北。歪なそれを本当に「笑顔」と言っていいのかはわからなかったけれど。何も言えずにいる八束と、何も言わずにいる南雲をよそに、今北は己の腕に巻いた時計に目を走らせる。
「おっと、流石にこれ以上話していては仕事に遅れてしまいますね。それとも、これから詳しく聴取でもしますか」
「いえ、お引止めしてすみません。貴重なお話ありがとうございます」
 全く感謝しているようには見えない様子で、南雲が言い放つ。今北はこちらが食いついてくるとでも思ったのか、逆に意外そうな顔をしたが、すぐに誤魔化すような笑みを浮かべて頭を下げる。
「では、私はこれで」
 その姿を、八束はただただ、目に焼き付けることしかできずにいる。
 違う、何かが。何かがおかしいと感じているのだ。
 身体にしがみついてくる恐怖を何とか振りほどいて、喉に力を入れて。
「あっ、あのっ!」
 歩き始めようとしていた今北が、ゆっくりと振り向く。その、どこか挑戦的な視線を受け止め、八束はまとまりきっていない言葉を、それでも出来る限り短い問いとして投げかける。
「昨日、ここで起きた事故については、何かご存知ありませんか?」
 南雲が「おいおい」と八束のわき腹をつつく。事故の原因を調べるのは神秘対策係の役目ではない、そう言いたいのだということは、八束にもわかった。
「さあ。私は現場を見ていないので、何とも。昔から、見通しの悪い場所であるのは間違いないですし、事故に遭われてもおかしくないとは思いますが」
「しかし、対向車や通行人に気を取られたり、単なるハンドル操作ミス、ということでもなさそうなのです。その他の、何らかの原因があると」
「八束ー、今北さんに聞いても仕方ないでしょそれー。今北さんは『見てない』って言ってんだしさー」
 張り詰めた八束の言葉を遮る、どこまでも間延びした南雲の声。ただ、どうしても。どうしても、言わずにはいられなくて。制しようとする南雲を真っ直ぐな視線一つで黙らせて、そのまま今北を見据える。
「今北さんなら、他に、どのような可能性を考えられるかと、思ったんです」
 今北は、八束の質問の意味を、一瞬、図りかねたようだった。それでも、八束の力を篭めた視線を小さな目で受け止めて、苦笑交じりに答える。
「事故のことは何一つわかりませんが、もし、私が事故を起こすような要因を考えるとすれば」
 一言言葉を切って、視線を、かの人が亡くなったというその場所に向けて。
 
「それこそ、妻の幽霊が突然目の前に現れた、くらいしか思いつきませんね」