01:ワンダーランド・オーヴァチュア(3)

 手早く着替えを終え、「終わりました」と声をかけると、本当に扉のすぐ側で待っていたらしい南雲が、ひょいと顔を出す。
「だいじょぶそう?」
「はいっ」
「服は……、やっぱりちょっと大きいか」
 南雲の言う通り、借りた服は決してぴったりとは言えなかった。ブラウスの袖は長く、襟もぶかぶかで、見事なまでに「服に着られている」形だった。
 確かに、八束は警察官としては一際小柄な方なので、当然といえば当然なのだが、その割に、スカートの腰周りがきついのは、気のせいだと思いたい。
 反面、いやにすうすうする胸周りを気にしながらも、南雲を見上げてみる。先ほどまでは座っていたため実感に乏しかったが、この男は、八束とは正反対にひょろりと背が高く、酷い猫背であるにも拘らず頭一つ分以上視点が上にある。目を合わせるのも、なかなか大変だ。
「着替えを用意していただけただけでありがたいです。後で、貸してくださった方にもお礼を言わせてください」
「多分、嫌でもすぐ会えると思うよ」
「ふえっ?」
「後でわかる。まあ、綿貫さんが戻ってくるまでは、のんびりしてればいいよ」
「あれ、綿貫係長は?」
「何か他の部署の人に呼ばれて行っちゃった。すぐに戻るとは思うけど」
 ふんわりとした答えを返しながら、南雲は八束の横を通って、つかつかと机の方に向かう。ぬいぐるみが山となっている方の机に。
 やはり、そうなのか。八束は戦慄し、南雲とその机を交互に見つめる。
 やはり――そこは、南雲の席なのか。
「あの、南雲さん」
「何? そうだ、珈琲飲むけど、一緒にどう? ミルクと砂糖は入れるタイプ?」
「あっ、ありがとうございます。ミルクと砂糖多めでお願いします」
「はいはい」
 南雲はどこか頼りない足取りで、机の後ろに置かれた、やけに本格的なコーヒーメーカーの前に立つ。珈琲のよい香りは、どうやらここから漂っていたものらしい。
「……って、そうじゃなくて!」
 南雲の流れるような誘導につい乗せられてしまったけれど、聞きたかったのはそういうことではない。不思議そうにつるりとした頭を傾げる南雲に向き直り、机の上のぬいぐるみを指す。
「これ、何ですか?」
「ぬいぐるみ」
「それはわかりますけど、何のために置かれているものですか?」
「かわいい」
 即答だった。
 それで、冗談めかした表情でも浮かべているならともかく、言い放った南雲の横顔は仏頂面のままであったから、本気なのかふざけているのか、八束にはさっぱりわからない。
「……南雲さんは、かわいいものがお好きなのですか?」
「かわいいは正義だろ」
 どうにも表情と言葉が噛み合わないまま、南雲は八束に背を向け、慣れた手つきで珈琲を淹れ始める。そして、呆然と佇む八束を振り向くこともなく、ただ、のんびりとした声だけで言う。
「その前が、八束の席だから。突っ立ってないで、座りなよ」
「は、はいっ」
 慌てる理由もないのだが、意味もなくわたわたとしながら、席につく。そして、南雲の土気色をした後頭部を何とはなしに眺めてしまう。
 一体、この人は何を考えているのだろう。最初は恐ろしそうな人だと思ったが、話してみるとそうでもなさそうで、なのに何を喋っていても不機嫌そうで、それでいてかわいいものが好みらしくて。八束には何が何だかわからない。
 そんな八束の混乱に構う様子もなく、南雲は手にしたマグカップの一つを八束の前に置く。ブラウンのマグカップには、かわいらしい猫の顔が描かれていた。
「どうぞ」
「ありがとうございますっ」
 八束は背筋をぴんと伸ばし、南雲に向かって勢いよく頭を下げる。南雲はこめかみの辺りを掻きながら、ただでさえ細い目を更に細める。
「お堅いねえ。もうちょっと肩の力抜いていいんだよ」
 そう言われても。八束は少しだけ口をへの字にする。
 多少緊張しているのは事実だが、肩の力を抜いていいと言われても、どうしていいかわからない。何しろ、これが八束にとっての通常運転だったから。
 自分のカップを手に、ぬいぐるみの群れの向こう側に座った南雲は、どうにもぼんやりとした声で言う。
「えーと、改めて自己紹介しとくと、俺は南雲彰っていいます。巡査部長で、刑事課神秘対策係、名ばかりの主任。何しろ今までずっと俺と綿貫さんしかいなかったから。まあ、一応先輩で、教育係ってことになるのかなあ」
 そんなガラじゃないんだけどねえ、と言いながら、南雲は手元のピンク色のテディベアを弄っている。そんな南雲に向かって、八束はぺこりと頭を下げる。
「八束結です。県警本部の刑事部に所属していました」
「へえ、本部の刑事だったんだ。珍しいな、そんな若いのに」
 確かに、本部にいた頃は色々と好奇の目で見られることも多かったと思いだす。
 その頃の前上司には色々と世話になったが、結局、何故八束が刑事として上司に引き抜かれたのかは、わからずじまいだった。
 それに、本部を追い出されるきっかけとなった事件を思い出すと、自然と眉間に力が入ってしまう。忘れたくても忘れられないし、忘れたいと思っているわけでもない。そう、決して忘れてはいけないことだ。それでも、思い出すのは少しだけ、辛い。
 そんなことを思っていると、南雲が仏頂面のままテディベアの腕を指でつまみながら言う。
「ま、うちは本部に比べたらめちゃくちゃ暇だから、その辺は安心していいよ」
「は、はあ」
 それは、果たして安心していい要素なのだろうか。
 どうにも判断しかねている八束をよそに、ピンクのテディベアがこくんと首を傾げる。
「で、えーと……、八束って呼んでいいかな」
「はいっ」
「八束は、どうしてあんな雨ん中で倒れてたの?」
 八束は、はっとしてテディベアから南雲の顔に視線を戻す。南雲の顔は依然として険しく、黒縁眼鏡の下からこちらを鋭く睨めつけていて、思わず身構えてしまう。すると、南雲はすぐにテディベアで顔を隠すようにして、ぬいぐるみの手足をぴこぴこと動かしてみせる。
「やだなー、そんな怖い顔しないでよ」
 大の大人が――しかも、どう見たって恐ろしげな顔をしたスキンヘッドの男が――眼前で熊のぬいぐるみをかわいらしく操ってみせる、というやけにシュールでコミカルな光景に、最初は呆気に取られ、次の瞬間にはつい、堪え切れなくて小さく吹き出していた。
 しまった、笑ってはいけなかっただろうか。慌てて南雲の顔を見ると、テディベアの後ろで相変わらず不機嫌そうな面をしてはいたが、それでも口元は微かに緩んだように、見えた。
「そうそう、笑った方がいいよ。別に今は仕事で話聞いてるわけでもないし、気楽に行こうよ」
「は、はいっ、気楽にやります!」
「うーん、気楽とはほど遠い回答だなー」
 南雲はテディベアの首をくにくに動かしながら、小さく唸る。
 ……もしかして、わたしが緊張していると思って、気を遣ってくれたのだろうか。
 八束は改めて南雲を見るが、南雲の表情はさっぱり変わっておらず、結局そこから何らかの感情を読み取ることはできなかった。
 ともあれ、まずは南雲の質問に答えるのが先だろう。
 自分は何故、あの場に倒れていたのか――。一つずつ、記憶をひ手繰ってゆく必要がある。
「あの場で事故に遭った、ってわけじゃないよな」
「はい。わたしがあの場所を通りがかった時、既にバイクから投げ出されるように倒れていた方がいました。かろうじて息があることを確認して、救急を呼んだことまでは覚えています。それが、わたしの時計で午前八時ちょうどでした」
「随分冷静だな」
「わたしが冷静さを欠いて、救えるはずの命を救えないということだけは、避けなければなりませんでしたから」
 八束はぴんと背筋を伸ばして言う。何故か、南雲はテディベアの後ろで眩しそうに目を細めて、何とも形容しがたい表情を浮かべていたけれど。
 そこで、目が覚めてからずっと気になっていたことを、問うてみる。
「あの方は、無事だったのでしょうか。南雲さんは何か聞いていますか?」
「救急が駆けつけた時点では、相当の重傷で、頭を打ったのか意識もない状態だった、とは聞いてる」
 その後のことは管轄外だから知らないな、と南雲は軽く肩を竦める。とはいえ、死んだとは聞いていないし、詳細を知りたければ後で聞くことはできるだろう、と付け加えて。
 八束は内心でほっと胸を撫で下ろす。自分が気絶している間に容態を悪化させてしまった、なんてことになれば完全に八束の責任だ。二度と誤ってはならない、と思った矢先の出来事だっただけに、正直気が気ではなかったのだ。
 南雲は、テディベアを顔の前から降ろして、大きく万歳させながら言う。
「しかし想像が外れたな。倒れて大怪我を負ってる奴を、まじまじ見ちゃったショックで気絶したとか、そういう話かと思ってたんだけど」
「前部署から、そういう方と接することは多かったですから。痛ましいとは思いますが、それでわたしが判断を誤ることはあってはならないと思っています」
「……わー、めっちゃ真面目ぇー……」
 南雲の薄い唇から、率直な感想がもれる。「真面目」に「馬鹿」とか「クソ」とかつかなかっただけ、前部署の上司よりは控えめな評価だな、と八束は真正面から、それこそ言葉通りに「真面目な」顔でその言葉を受け止める。
 そんな八束の反応を、南雲がどう受け止めたのかはわからないが、ピンクのテディベアを一旦机の上に置いて、眉間の皺を深めて問いかけてくる。
「でも、それなら『どうして』気絶してたん?」
 どうして。そう、それは八束にとっても重要な問題だ。
 けれど、思い出そうとすると――。
 ぶわっ、と。全身に鳥肌が立ち、体の底が冷えるような感覚。それどころか、体の内側を冷たい指が這うような気色悪さすらも覚えて、両腕で己の体を抱く。雨で冷えただけとは思えない、嫌な感触に震えずにはいられない。
 八束の異変に気づいたのか、南雲が少しだけ目を見開いて――今までずっと細めていたから八束も気づかなかったが、意外と大きく、いやに淡い色の瞳をしている――不安げな声を出す。
「……だいじょぶ?」
「だ、大丈夫、ですっ。ただ、その……」
「うん」
 前に座っている南雲は、八束を急かすこともなく、己のマグカップを引き寄せて、珈琲をすする。それを見て、八束もつられるようにマグカップを手にとって、ちまりと舐める。牛乳と砂糖がたっぷり入った温かな珈琲は、甘さとほろ苦さがバランスよく絡み合っていた。口の中に広がる香りからするに、相当いい珈琲なのだろう。
 後味を感じながら、一息。その一息で、ほんの少しだけ緊張がほぐれた。その間隙を縫って、一気に言葉を吐き出す。
 
「ゆ、幽霊を、見たんですっ!」
 
 南雲は、ぽかん、という擬音がよく似合う顔をして。
「……は?」
 そんな声が、唇から零れ落ちる。
 八束は慌てて、カップを置いて両手を振る。
「し、信じられませんよね! ありえませんもんね、幽霊なんて! ごめんなさいっ、わたし、気が弱ってたのか、疲れてたのか……! ああああ、でもっ、そんな、ありもしないものにびっくりして気絶するなんて、ほんと情けないですよね……!」
 もはや、自分でも何を言っているのかわからないけれど、とにかく、幽霊なんて非現実的なものに怯えたあげく、気絶までしていたというのは、情けないにもほどがある。南雲もきっと、失望しただろう――と、思ったのだが。
 前に翳した手越しに南雲を見てみると、南雲は相変わらずの仏頂面ながら、どこか思案げにこめかみを指で叩き、ぼんやりとした口調で言った。
「いやいや、んな頭っから否定しないで、まずは、見たもんをそのまま教えてくれないかな。もしかすると、早速、俺らが動くべき案件かもしれないから」
「え?」
 今度は八束が疑問符を飛ばす番だった。
 俺らが動くべき案件。
 その言葉の意味が、すぐには、理解できなかったのだ。南雲もそれに気づいたのか、テディベアの頭に顎を乗せて言う。
「わかんない? ここの名前は『神秘対策係』」
 ――神秘。人間の持つ、通常の認識や理論を超越していること。
 ――対策。事件の状況に対応するための方法、もしくは手段。
 八束の背筋に、冷たい汗が伝う。
 最初にこの部署の名を聞かされた瞬間から、何とはなしに嫌な予感はしていたのだ。ただ、詳細については、結局知ることができないまま、ここまで来てしまった。
 来てしまった、けれど。
「つまり、幽霊や妖怪、超能力、神に仏にえとせとらえとせとら――所謂『オカルト』が関わる事件全般を扱う係なんだ」
 その、決定的な言葉を聞いてしまった瞬間。
 ぎりぎりのところで張り詰めていた八束の意識が、ふつりと、切れた。