いたみ

 闇に浮かぶ二つの月に照らされて、両腕を失い歪な輪郭となった標的が、壁際でゆらりと身を起こす。ぼさぼさに振り乱された髪、青白いを通り越して土気色の肌、もはや被服としての役目を放棄している服。その全てが、標的の異常さを示している。
「……追い詰めましたよ」
 標的から目を逸らさぬまま、両腕で、杭打ち機を持ち上げる。小柄な人一人分ほどの大きさの杭打ち機は、がりがりと音を立てて次の杭を装填する。
 標的はぎらぎらと赤く染まった、人にあらざる目で私を睨めつける。そこに既に正気の色はなく、どうしようもなく乾いた欲望、つまりは目の前の人間に対する「食欲」だけをみなぎらせている。
 ――神よ、どうか、かの者をお救いください。
 手のひらに食い込む杭打ち機の重みを確かめながら、祈りを捧げる。ひとたび変貌させられた者は、人に戻ることはできない。故にこそ、祈らずにはいられないのだ。化物に囚われてしまった存在が、あの世で救われることを。
 浄化の聖句を唱えながら一歩を踏み込んだところで、不意に、標的が喉を震わせた。
 裂けた口から放たれたそれは、もはや咆哮ですらなかった。暴風すらも伴う強烈な「音」に、思わずたたらを踏む。
 次の瞬間、視界から標的が消えた。それを認識した瞬間に反射的に身を捻ってはいたが、刹那のうちに左肘から下がそっくり失われていた。
 痛みは、ない。
 痛覚は、狩人として生まれ変わった最初期に切り捨てた。傷を負った痛みで一瞬でも動きを止めれば、次の瞬間には「私」という存在自体がこの世から失われてしまうから。
 故に、左腕を取られた、という感触だけを信じて、振り向くと同時に片腕だけで杭打ち機を構えなおす。
 数歩分の間合いを取った標的の口から、ぼとりと、一瞬前まで私の腕だった肉の塊が落ちる。
 標的は、すれ違いざまにその吸血牙で私の左腕を噛み砕いたのだ。私から武器を奪い、同時に己の体から刻一刻と失われつつある生命力を、血液から吸い取ろうとしたに違いない。標的にとって、人の血液とは己の欲を満たし、身を癒す甘露であるはずだから。
 だが。
「あ、が……、ああぁっ!」
 標的が上げたのは言葉にならない苦悶の声。牙持つ口から吹き出すのは黒々とした煙。当然だ、この体を流れる血は既に人のものではない。神の祝福を受けた聖血は、この世にあってはならない穢れを、ことごとく焼き尽くす。
 聖血が回ったのだろう、全身から青白い炎を上げて動きを止めた標的に、今度こそ深く踏み込む。
「その肉体を、あるべき場所へ返していただきます」
 そして、
「神の御許へ」
 浄化の杭を、打ち込む。
 もはや、上がる声はなかった。胸元に大穴を開けた標的は、膝を折り、その場にくずおれる。次の瞬間、青白い炎が一際強く輝いたかと思うと、歪んだ輪郭もすっかり消えうせ、残された黒々とした灰が、音もなく風にさらわれていった。
 私は、胸元で印を切る。肉体も、魂も、神の御許で浄化されることを祈って。
 祈る。そうだ、私には、祈ることくらいしか、できない。
 かつて、唯一にして完全なる神は、はるかな大地を作り出し、太陽と月が巡る「時」を定め、大地に命を産み落とした。そうして産み出されたのが、植物であり、動物であり、そして、最も神の姿に近いとされる人類である。
 神の子たる人類は、神の加護の元で、時には大地にちいさな諍いをもたらしながらも、おおむね平穏に暮らしていたといえよう。
 しかし、ある時代になって、もうひとつの月――赤い月が空に浮かび、世界にはあり得ざる存在が跋扈しはじめることになる。
 
 ――吸血鬼。
 
 それは、唯一にして完全なる神が創りたもうたこの世界に、突如として混ざりこんだ「異物」である。
 人の血と生命力を糧とし、また人間を同胞へと作り変えるというおぞましい能力を持つ吸血鬼は、人類の天敵として世界に蔓延り、今もなお決定的な対抗手段を持たない人類は、吸血鬼のもたらす惨劇に身を震わせるばかりである。
 吸血鬼狩人として洗礼を受ける前の私が、変わり果てた姿の妻と娘を前に、吸血鬼と、何よりも吸血鬼に抗うすべを持たぬ私自身への憎悪を噛み締めるしかなかったように。
 故にこそ、私は残された命をかけて、神の名の下に吸血鬼を狩り続ける。吸血鬼に無残に殺されるか、それとも人の身に余る祝福の反動で体が内側から崩れ落ちるか、いずれかの終焉を迎えるその時まで。
 そう、であるはず、なのだが――。
 千切られた左腕の止血を簡単に済ませ、杭打ち機を右の肩に担ぎなおしながら、考えずにはいられない。
 何故だろう。近頃になって、妙な感触が胸の辺りにわだかまっているのが感じられるのだ。変調というにはあまりにも些細な違和感。その正体がわからないまま、心臓の位置を右手で押さえた、その時。
 突如として響いた、絹を裂くような悲鳴にぎょっとする。
 今回の標的は、今斃した吸血鬼だけのはずだ。索敵の術式を仕掛けても、それ以上の吸血鬼の反応はなかったはずではないか。
 と、声が聞こえた方に視線をやれば、ランプを手にした見知った顔が、真っ青な顔でこちらを見ていた。
「……マノン」
「せんせえぇぇ! 腕! 腕どうしたんですか! 先生が死んじゃう!」
 涙目で駆け寄ってきたのは、栗色の髪と目をした修道女だ。私よりも頭二つくらいは背が低く、手首など枯れ枝のように細い。きっと、私が力任せに触れでもしたら、簡単に消し飛んでしまうであろう、少女。
 本当に、どこにでもいるような、少女だ。
「腕の一本程度で騒がないでください。止血は済んでいますし、縫合すれば元に戻りますから」
 落ちていた腕を拾い上げる。ずたずたに噛み砕かれてしまった傷口を見る限り、新しく作ってもらった方が早いかもしれない。これが何本目の左腕になるのかは、もう数えてもいなかったが。
 それでも彼女は、自分の服が私の流す聖血で汚れるのにも構わず、必死の形相ですがりついてくる。
「それでも、ほら、すごい血ですし……っ!」
「この程度の出血は日常茶飯事です。それより、マノン」
 意識的に声を低くする。
 すると、彼女も私の言いたいことはわかっているらしく、身を竦ませて一歩下がる。
「宿でおとなしくしていなさい、とあれほど言ったはずですが」
「う、ご、ごめんなさい……。でも」
「『でも』ではありません。もし決着がついていなければ、私はあなたに意識を払った隙に殺されていたかもしれません。もちろん、戦う術を持たないあなた自身も危険に晒されることになります。わかりますね?」
 はい、と。答えた彼女はうつむき、それきり唇を引き結んでしまった。本気で落ち込んでいるのは、流石にわかる。
 言い過ぎただろうか。正しいことを言ったとは思うが、もう少し気の利いた言い方もあったかもしれない。
 ああ、どうにも、やりづらい。
 相手が吸血鬼である限りは、迷うこともない。吸血鬼というだけで、私が杭を打ち込むには十分だ。どれだけ人間らしく装ってみせても、吸血鬼の精神構造は人のそれとはまるで異なっている。吸血鬼が人間に餌として以上の存在意義を認めていない以上、私は、人の命と心を守るために杭を打つ。それが、かつて人間であったものだとしても――変化が不可逆である以上、狩人たる私が迷うわけにはいかないのだ。
 しかし、目の前の少女を、同じように割り切ることはできない。
 マノン。ある町に根を張っていた吸血鬼を焼却した際、己も狩人になりたいのだと宣言した少女。吸血鬼に狙われた友人の無事を祈りながら、己の無力を悔やみ、吸血鬼と戦う力を望んだ少女。
 すぐに追い返すべきではあったし、事実何度も試みたが、元より身寄りがなく、町にも居場所がないと訴える彼女を、そのまま捨て置くこともできなかった。
 結局、私の狩りの邪魔をしないという条件で、マノンの同行を許してしまっている。
 彼女が平穏に暮らせる土地を見つけたならすぐにでも置いていきたいところだが、何しろ私は吸血鬼狩人の身であり、吸血鬼が根を張る土地を渡り歩くのが生業だ。また、身寄りのない少女を任せられるほど信頼できる友人や仲間もいない。
 つまり、妙案が浮かぶまで、今しばらくは娘を思わせる年頃の少女を連れて歩かなければならない、というわけだ。
「マノン」
「は、はいっ」
 名前を呼ぶと、マノンは弾かれたように顔を上げる。夜闇に浮かぶ彼女の輪郭と、その中で星のように煌く瞳は酷く儚げで、今にもかき消えてしまいそうに見える。
 その面影が。私の腕の中で命の灯火が吹き消えた娘のそれと重なる。
 途端に、胸の違和感が増して、息苦しさを覚えるのだ。
「……仕事はこれで終わりです。宿に帰りましょうか」
 息苦しさを抑えこんで言葉を紡げば、マノンの表情がぱっと明るくなる。
「はい、先生!」
「先生、という呼び方はやめてくれませんかね……」
 私はマノンを吸血鬼狩人にする気はない。これだけは絶対に変わらない、と当人に言い聞かせているにもかかわらず、彼女は「先生」という呼称を改める気はなさそうだ。
 だが、吸血鬼狩人とは、人間を辞めることに他ならない。
 人の手に余る化物に対抗するため、祝福という名のもとに肉体を日々改造し、体内の血液を聖血と入れ替え、生まれながらのものを一つ一つ丁寧に削ぎ落とし、やっと吸血鬼と対等に戦える。
 マノンにその覚悟があるようには見えなかったし、あったところで、私は彼女を狩人に仕立てることはない。決して。
 このような思いをするのは、私一人で十分だ。
 私のような人間がこれ以上現れないように、私はこの身が滅びる瞬間まで杭を打つのだ。
 だから。愚かな望みなど捨てて、どうか――。
 つまらない感傷を首の一振りで振り払い、踏み出した途端、不意に視界が傾いだ。どうやら、少しばかり血を失いすぎていたらしい。
 右手でぐらつく頭を押さえて膝をつく。眩暈が止むのを待ってからゆっくりと顔を上げると、目の前にちいさな手があった。
 見れば、マノンが恐る恐るといった様子で、私に手を差し伸べていたのであった。
「先生……、酷い顔色です。どうか、お手を」
 不意に、その手を振り払ってしまえばいい、と気づいた。
 そうだ、突き放し続ければ、きっと彼女は諦める。名案ではないか。あるかどうかもわからないあ平安の地を求めながら、彼女を危険に晒し続けるよりはずっとましだ。
 名案だと、思っているのに。
「では、お言葉に甘えて」
 気づけば、マノンの手を取っていた。あたたかく、やわらかく、力をこめれば潰れてしまいそうな手を、そっと、握り締める。
 私は馬鹿なのだろうか。
 馬鹿、なのだろうな。
 あなたの悲しむ顔を見たくない、だなんて、この場だけの思いに流されてしまう私を、馬鹿という言葉以外の何で表せようか。
 そんな私の手を、マノンは強く引く。もちろん、彼女に私の体を持ち上げるほどの力はあろうはずもなかったが、立ち上がるきっかけにはなった。一度立ち上がってしまえば、多少の失血感はあるが宿まで戻るには問題ないはずだ。
「ありがとうございます。……重かったでしょう?」
 元々体は人より大きいし、今も祝福という名の改造を続ける体は質量を増すばかりで、しかも絡繰仕掛けの杭打ち機まで背負っているのだ。重くないはずがない。
 それでも、私の手を両手で握ったままのマノンは、二つの月とランプが生み出すやわらかな明かりの中で微笑んでみせる。
「はい。でも、わたしは、先生のように戦うことはできませんから。それ以外でお役に立てるなら、これほど嬉しいことはありません」
 嬉しいと言いながら、マノンの表情はどこか――寂しげに見えて。
 もしかすると、マノンはとっくに気づいてしまっているのかもしれない。私の堂々巡りの思考も、彼女にかつて失った娘の影を見ていることも、全て、全て。
 気づいていながら私の手を握っているのだとすれば、果たして、私は一体彼女に何ができるというのだろうか。彼女に、何を言えるというのだろうか。
 ああ――、胸が、軋む。
「先生? どこか、苦しいのですか?」
 マノンが不安げに私の顔を覗き込んでくる。その見開かれた双眸に、視線を合わせることができないまま。
「いいえ、大丈夫です。……大丈夫」
 そう、失血感以外の異常はないはずなのだ。
 なら、この胸の違和感は、一体何だというのだろう。
 今の私はその問いに対する答えを持たないが、かつての僕なら答えられただろうか。人の血肉と、人並みの感覚を持っていたころの僕なら。
 遠い日に捨てた「何か」が、今もまだ、胸を締め付けていた。