今宵、メン・イン・グレイが

 どうしてこんなことに――と。
 考えないわけではないのだ。
 
 
 秋谷飛鳥とかいう作家は、この世界に異能……超能力を持つ人間はごまんといて、ただそれが一般的に知られていないだけだ、と言っている。
 何故なら、この世の中には『異能府』と呼ばれる秘密組織があって、そいつらが異能の存在を一般人から隠しているから。ひとたびその存在を知られてしまえば、異能を持つ者と持たざる者の間に軋轢が生じ、やがて現在まで築き上げてきた秩序が崩壊するから。
 故に、異能府は執拗に異能の存在を隠す。
 もし、誰かが異能をもって現実に干渉しようものなら、即座にそいつの前に現れて、そいつの存在そのものを無かったことにするとか、何とか。
 これが宇宙人相手だったら黒服の男……メン・イン・ブラックと呼ぶべきだろうが、この異能府の連中は、常に灰色の服を着ているらしい。秋谷飛鳥の記述によれば、光の当たる現実と、当たらない非現実の境界線の上に立つ者だから、ということなのだそうで。
 まあ、もちろんそんなものはフィクションの話。
 秋谷飛鳥といえば、現代日本で超能力者やら妖怪やら霊能力者がドタバタする話を書く、空想作家の代名詞みたいな存在だ。
 そう。そいつは完璧な作り話。
 灰色の男など、どこにもいやしないのだ。
 俺は、フルフェイスのヘルメットを被り、鏡の前に立つ。空色のライダースーツに、同じ色で揃えたヘルメット。今日もばっちり決まってる。流石俺。
 さあ、今日も世の中のゴミをぶちのめしに行こうか。
 
 
 俺が超能力に目覚めたのは、忘れもしない、中学二年生の夏。
 当時の俺は、勉強も出来なきゃ運動音痴もいいところ。とろくさくて、いつも下ばかり向いてて、まあ、要するに完璧ないぢめてくんだった。もちろん、血の気の多い馬鹿どもは俺をサンドバックと信じ、頭ばっかりでっかくなっちまった自称秀才どもはそんな俺を眺めてせせら笑うばかり。
 それでも、俺は下を向いて、怒りを胸の中に閉じ込め続けた。ひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん。積もりに積もった怒りが爆発したとき、それはただの怒りなんかじゃなくて、物理的な破壊力を持った何かに変わってた。
 ……今考えてみれば、それで人殺しにならなかったのが奇跡的だ。今は完璧に制御できるようになったが、当時は、気づいたら暴発しちまうような、とんでもなく危なっかしい武器だったから。
 だが、それから確かに俺は変わった。
 俺には力がある。普段は隠しているけれど、俺には誰にも負けることのない、無敵の超能力がある。そう思うだけで、俺の中のいぢめてくんはすっかり消えて、顔を上げて前を見ることが出来るようになった。
 そいつはとびっきり素敵なことさ。秋谷飛鳥とかいう作家は超能力者を否定的に描くことが多いけれど、それはあくまでフィクション。実際には、超能力ってのは人の心を明るくしてくれる、素晴らしい力なんだ。
 それは、何も俺自身を明るくするだけじゃない。
 この力を有効活用すれば、人の心だって、明るくすることができる。
 そう信じて、俺は窓から夜の街に繰り出す。空中に浮かぶ、目に見えない階段を駆け上がる。この浮遊感は何度味わってもいいものだ。高く、高く駆け上がってしまえば、闇にまぎれて俺の姿は誰にも見えなくなる。このまま空中散歩としゃれ込みたいところだが、俺にはやるべきことがある。
「……見つけた」
 ヘルメットの内側で呟く。街灯や窓の灯りできらきら輝く眼下の景色の中で、妙に薄暗い、頼りなく瞬く灯りに囲まれた空間を見据える。
 ここに、俺にぶちのめされるべき悪党がいる――高度を一気に落とし、接近する。闇に順応した目に映ったのは、一人の若い男。短く切りそろえられた真っ白な髪を靡かせた、
 灰色スーツの大男、だった。
 
 
 そもそも、その噂を聞いたのは、今日の昼間。行きつけのファミレスでのことだった。
 俺の席はいつも窓際の端と決まっている。空いていなければ諦めるが、そうでない限りはそこに陣取って大学の宿題をこなすと決めている。窓はいい、俺がこの手で守っている町が一望できるのだから。
 そうして、お気に入りのフルーツパフェをつつきながら、一体何の役に立つのかもわからないシャーマニズムのレポートを仕上げている時、不意に横から声が聞こえてきた。
「知ってます? 北区の事件」
「あー?」
「何でも、夜な夜な白髪の大男が現れては、道行く人を襲っているらしいですよ」
 ……それは、毎夜町を見回っている俺も知らない話だった。ちらりとそちらを見ると、まず目に入ったのはやたら派手な帽子だった。帽子を被った男の前に座っていたのは、銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男。どうも、事件の話を切り出したのはこっちの眼鏡らしい。
 帽子の男が「あー」と全くやる気の感じられない声を立てて、言った。
「何だあ、そのセンスの欠片もねえ都市伝説みたいなの」
「……さあ。私も詳しいことは知りませんがね。しかし、現にこの前、北区で暴走族の一団が全員、原因不明の複雑骨折で入院したらしいじゃないですか」
 ぎくり、とする。別に何も悪いことをしていないのだから、後ろめたく思う必要もないのだが、ついつい自分のこととなると変な汗が出てしまう。
 そう、奴等をボコしたのは紛れもなく自分だ。夜間に町を駆け回り、市民の安眠を妨害する。暴力沙汰を起こし、罪もない人々を傷つける。そんな、クズみたいな連中を取り締まることもできない警察に代わり、この俺が人知れず断罪を下してやったのだ。
 ただ、自分は白髪でもなければ大男でもない。見かけられていたとしても、いつもはヘルメットにライダースーツ姿だ、そう簡単にバレるはずもない。
 なら、こいつらは一体誰の話をしているのだ?
 思っていると、眼鏡の男の声が続ける。
「それに、北区のあちこちで建物の一部が壊されている、という噂もあります。実際に見たわけじゃないですが、行ってみます?」
「嫌だね、面倒くせえ」
「ですよねー」
 眼鏡の男は軽く肩を竦めて、フルーツパフェを食べ始めた。うん、美味いよな、ここのフルーツパフェ。
 それから、男たちの話は他愛のないものになってしまって、それ以上北区の大男の話には戻らなかった。
 パフェを平らげた後、俺はレポートを放り出してすぐに北区へ向かった。もちろん徒歩で。行く間にも、北区では俺がぶちのめした連中の噂と……その、建物をぶっ壊して歩くという白い大男の噂が耳に入ってくる。
 そして、実際に。北区のとある一角がぼろぼろになっているのを、この目で見てしまった。言葉通りに、『ぼろぼろ』だった。壁も、看板も、地面も、まるで一部分だけが砂になってしまったかのように、ざらついた断面を見せて崩れ落ちている。どうすればこんな傷が残るのか、さっぱり想像できない。
 それこそ、超能力か何かかと疑いたくもなるが、ほいほい超能力者がいてはたまらない。
 ついでに、実際に白髪男を見た、という奴に偶然接触することもできたけれど、怯えきってしまって話にならなかった。
 一体、この町に何が起こっているというのか。俺には見当もつかなかったが、一つだけ確かであったのは、その大男が無差別に町を破壊して回っている、ということだ。それは、決して許されることではない。
 白い男の目撃情報をかき集め、そいつが必ず深夜零時ごろ、北区のその一角に出没しているのだということを知った。
 その言葉を信じ、夜を待って飛びだした、のであったが……。
 
 
 にぃ、と。
 俺を見上げた白髪の大男は笑う。空から舞い降りてきた俺に驚くわけでもなく、ただ、ただ、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
「来たな」
 その声は、何処かで聞いたような声。一体、何処で聞いたのだったか、思い出そうとしていると、男は唐突にアスファルトを蹴って、こちらに拳を突き出してきた。
「うぉっ!」
 慌てて、横に跳んで地面に転がる。飛び掛ってきた男の拳は、一瞬前まで俺がいた位置を思いっきり貫き、その後ろの壁にぶつかる。普通ならば指がぼろぼろになってもおかしくないような、強烈な衝撃音とともに……壁が、崩れる。
 とんでもない、馬鹿力だ。
 背筋が凍る。だが、間違いない。こいつは放っておいてはやばい存在だ。転がったまま、人差し指を白髪男に突きつける。
「あん?」
 垂れ目がちの目で、こちらを見下ろしてくる白髪男に対して、
「喰らえ!」
 声と共に、指先から力を打ち出す。目には見えない力の塊が、白髪男の頭のすぐ側を掠めて壁に穴を穿つ。
「……っ?」
 白髪男が息を飲む。続けざまに両手を構えて、指先から力を放つ。無数の不可視の弾丸が、白髪男の体に叩きつけられるのがわかった。男は体を折った姿勢のまま、後方に吹っ飛んでいく。
 そうだ、これが、俺の能力。
 空気を操る能力――とでも言えばいいのか。とはいえ、とても限定的な能力で、相手の周囲の空気を丸ごと固めたり、無くしたりという器用な真似はできない。あくまで小さな弾を撃ち出したり、一瞬だけ固定した空気の上を駆け上がったり、その程度の能力だ。
 それでも、人の体を破壊するくらいなら、簡単にできる。できる、はずなのだ。
 だが、男はゆっくりと起き上がる。頭を擦ったのか、額から流れる血が白髪を赤く染めていて、壮絶な見た目になっているけれど……頬をつたって口元に落ちてきた血を長い舌で舐め取り、灰色のスーツの前ボタンを外してとびきりの笑顔を浮かべる。
「やるじゃねえか、なあっ!」
 その瞬間に、背筋に走る冷たいもの。咄嗟にアスファルトの上を転がったが、その判断が一瞬遅れていたら、腹に男の拳がめり込んでいたはずだ。手をついて何とか立ち上がり、血を流しながらもなおも戦意を失うことのない灰色スーツの男を見据えて……。
「いやー、見事引っかかってくれましたねえ」
 後ろから聞こえた声に、息を飲む。
 白髪男同様、どこかで聞いた声だ。いや、どこかで、なんて生優しいものじゃない。
 こいつらの声、まさしく今日の昼間、ファミレスで聞いた声じゃないか!
 白髪男の突撃を何とか避けて、そちらを振り向く。かろうじて灯っている明かりの下に立っていたのは、白髪男と同じように灰色のスーツを着た眼鏡の男だった。ファミレスでフルーツパフェを食べていたあの男。よくよく見ると、白髪男よりもずっと背が低く、華奢な体つきをしている。
 男は銀縁の眼鏡をくいと押し上げて言う。
「全く、最近勘違い野郎が多くて嫌んなっちゃいますよ。いちいち駆り出される我々の身にもなってください。噂を流すのだって、なかなかに骨だったんですからね」
「な、何を……ってうぉあっ!」
 一瞬気を取られたのが悪かったのか、白髪男の腕がわき腹を掠めた。掠めただけなのに、ぴしりという音と共に焼けるような痛みが走る。慌ててそこに触れると、恐ろしいほどに冷たくなっていた。
 温度を操る、超能力者――!
 超低温は、人体を破壊するという点では高温と何も変わらない、どころか高温よりもタチが悪い。めちゃくちゃな超能力だ。俺が言えたことではないけれど。
 慌てて地を蹴って、空に浮かび上がる。どうも、白髪男は空を飛ぶ能力までは持っていないのか、歯を剥き出して腕を構えているものの、即座に追ってくる様子はない。けれど、爛々と輝く目に睨まれて、俺は反射的に叫んでいた。
「……な、何だよ、何なんだよ、お前ら!」
「何、と聞かれましても、このカッコでわかりませんかね?」
 眼鏡男は灰色のスーツをちょいちょいと引っ張って言った。
 灰色の男。メン・イン・グレイ。
 ……まさか。
「『異能府』……?」
「ざーっつらーいと。ま、本当はうちらの組織に名称はないんですが、秋谷飛鳥とかいう作家が勝手に名づけてくれちゃったもんで。こちらも名乗るのに便利だからいいんですけどねえ」
 にこにこと笑う男に、反射的に指を構える。だが、この男も白髪男と同じように超能力を扱うのだろうか? 迂闊に攻撃して、手痛いしっぺ返しを喰らうことになりやしないか。頭の中をいくつもの考えがぐるぐる回って、どうしてもその一撃が放てないでいると、小柄な男は眼鏡をくいと押し上げて言った。
「さて、面白い能力を見せていただいたところで、少しお話をいたしませんかね、霧舘洋介さん?」
「……な……っ」
 どうして、俺の名前を。
 そんな俺の驚きを正しく察したのか、眼鏡の男は笑みを深めて言い放つ。
「この辺を荒らしまわっている異能のプロファイルくらい、把握済みですよ。それとも、そんなちゃちい格好で正体を誤魔化せるとでも思ったのですか、ヒーロー?」
 ヒーロー。男の口から放たれたその言葉が、酷く歪んで聞こえる。それは男の言い方のせいか、俺の心持ちのせいか。
「とにかく、正義の味方だか何だか知りませんが、異能持たざる者を持つ者のルールで裁かれちゃ困るんですよ。アンフェア、ってやつですね」
「うるさい! 力を持たない連中が手をこまねいてるだけで何もしないから、俺がこうして……」
「ええ、警察や法に携わる機関が無能なのは認めますがね。それでも、好き勝手に暴れられると困るんですよ。ねえ、セツ?」
 セツ、というのが白髪男の名前なのか、何なのか。それを聞いた白髪男は、ゆらりと眼鏡男の方を見て、
「んなこたあ、どうでも、いいんだよっ!」
 吼えると同時に地面を蹴った。完全に油断しきっていた俺の前で、巨大な白髪男の体が軽々打ち上げられ、そのまま男は壁を蹴って俺よりも高く、跳び上がっていた。見上げれば、男は笑顔で両手の指を組み、腕を振り上げて。
 次の瞬間、頭を打ち据える衝撃、視界の暗転。
 一瞬意識も失っていたのかもしれない。次に俺が認識したのは、地面に叩きつけられる感覚と、強烈な痛み。思わず悲鳴を上げてしまう俺だったが、今の一撃には超能力は使われていなかったのだ、と気づく。もしこれで超低温にさらされていれば、いくらヘルメット越しであろうとも即死だった、はずだ。
 頭が朦朧として、能力に集中もできない。とにかく、起き上がらなければ。このままでは、本当に、殺されてしまう。
 思って何とか体に鞭打って立ち上がろうとしていると、眼鏡男がひょいと俺の顔を覗き込んできた。と言っても、相手からはヘルメットしか見えなかっただろうけど。
 近くで見れば見るほど特徴のない顔をしている眼鏡男は、何故か苦笑を浮かべて言った。
「ごめんなさいねー。うちのバディ、アホなんで人の話聞いてられないんです」
「ごめんで済んだら警察いらない!」
 反射的に叫んでしまったが、こいつらに警察などというものは通用しないのかもしれない。灰色の男についての記述を思い出す。奴らは、異能をもって現実に干渉する奴を、その存在を、誰に知られることもなく、ことごとく抹消してきているのだと。
 それに気づいた瞬間、にわかに恐怖が襲い掛かってきた。
 俺は……もしかして、このまま消されてしまうのか。
「お、俺を、どうするつもりだ」
 声は掠れてまともに言葉にならない。けれど、眼鏡男は俺の意図を汲み取ってくれたらしい、先ほどの白髪男のそれに似た、とびきりいい笑顔で言った。
「我々メン・イン・グレイのすることくらい、お察しでしょう?」
 ひゅっ、と息を飲む。本当に殺されてしまうのか、俺は何も、何も悪いことをしていないのに。いや、俺のやっていることは何処までも私刑でしかなかったのかもしれない。しかし、それにしたって酷すぎる仕打ちだ。
 頭の中に思い描いていた、薔薇色の人生ががらがらと崩れ落ちる音を耳の奥で聞いた。現実には、白髪男が「もう終わりかよ、つまんねえなあ」と全く空気とか会話の流れとか読まない発言をしていたが、それは意識の表層を掠めただけで終わる。
 眼鏡男は、もう一度、銀縁眼鏡をくいと押し上げて――。
「――と、言いたいところですが」
「へ?」
「本日は、あなたに協力をいただきたいと思って参りました」
 慇懃に礼をする眼鏡男を、呆然と見上げて……それから我に返って、真っ先に言わなければならないことを叫ぶ。
「おいこれ協力を頼むような態度じゃないよな!」
「ま、協力というのはあくまで建前で、あなたに与えられた選択肢は、我々に協力するか、ここで抹消されるか」
 ぐ、と息を飲む。今この瞬間に万全であったとしても、この白髪男とまともにやり合って生き残れる自信が無い。俺の連撃を耐え切って、その上空を飛ぶ相手に跳躍だけで追いすがってみせるような、とんでもない身体能力。そして、一撃まともに喰らったら即死コースの、超低温を操る能力。
「それに、我々はあなたのプロファイルを握っている。物理的にあなたを殺さなくとも、社会的に抹殺することだって、不可能じゃないのですよ。例えば」
 すっ、と灰色の眼鏡男は懐に手を差し入れ、何かを取り出す。
 それは――。
「いやー、本当に恥ずかしい格好ですよね、このポーズとかどれだけかっこつけてるんですかマジでありえませんよねー」
「ちょ、何処で撮ったその写真っ!」
 ヘルメットを外し、ライダースーツ姿の俺が、ヒーローの真似事をしているという恐ろしい写真の数々。
 背景を見る限り、俺の自室。鏡の前で延々とポーズを取る俺の姿が、あますとこなく映し出されているわけで……。
「プライバシーの侵害にもほどがある!」
「それがうちのやり方なんで。とにかく、こんな写真ばら撒かれたら、仮に私であれば二度と世の中に顔向けできませんね」
「俺だって恥辱で死ねる!」
 ですよねー、といい笑顔で答える眼鏡男。こいつに逆らってはならない。白髪男よりも別の意味で危険だ。俺の本能に近い感覚がそう訴えていた。
「……というわけで、どうします?」
「選択肢ないじゃねえか! わかったよ、俺は何をすればいいんだ!」
 ほとんど悲鳴に近い声を上げると、眼鏡男はすっと笑顔を消して、言い放つ。
「……あなたも見たと思います。近頃、この町のあちこちを破壊している輩がいます」
「それは、こいつがやったんじゃ……」
 言いかけて、白髪男にぎろりと睨まれて慌てて口をふさぐ。それに、確かに何かがおかしい。白髪男の超能力は、温度を下げる能力。それで、こんなおかしな痕跡が残せるわけがないのだ。
「もしかして、この事件って」
「はい。我々は、この事件を起こしている異能を捕らえるべく派遣されました。しかし、なかなか尻尾を掴むことができない。あなたが犯人と考えて罠を仕掛けセツとやりあっていただきましたが、あなたの能力もまた、この事件とは関係ないとわかりました」
「決まってるだろ!」
 無様に倒れたまま、情けない姿をさらして。それでも、これだけは譲れない。譲るわけにはいかないのだ。
「俺は、ヒーローになりたかったんだ、こんなことするわけないだろ?」
「……ヒーロー? 馬鹿言ってんじゃねえよ」
 今まで黙っていた白髪男が、獣のように笑う。
「手前はなんだかんだ言い訳をして、力を使いたかっただけだろ? 俺はすげえんだ、他の連中にはできねえことができるんだ。それを、誇示したいだけじゃねえのか? なあ!」
 反論しようと、口を開こうとして……俺は、結局反論できなかった。
 ヒーローになりたい。誰かに幸せを分けてやりたい。その思いは本当だ。だが、その心の奥底には、自分にしかそれができない、という優越感があったことは、どうしても否定できなかった。
 悔しい。こんな、こんな野郎に見透かされるなんて。
 ヘルメットの下で唇を噛んでいると、眼鏡男が柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「ま、ともあれ、あなたの疑いは晴れました。ただ、異能であるあなたを放置するわけにはいかない。なので、こう言わせていただきます」
 一呼吸置いて。男は、よく通る声で言った。
「人知れず町を守る、ちょっとダークなヒーローになりませんか、と」
「……それ、って」
「この町を破壊して回る異能を捕まえるのに協力して欲しいのです。というより、ぶっちゃけ我々の仲間になっていただきたい」
 ちょっとダークなヒーロー。言い得て妙だ。超能力者の存在を隠す、灰色の男たち。だが、その活動は何も完全悪というわけではない。やり方はともかく、こいつらはこいつらで、起ころうとしている混乱を、未然に防ごうとしている。
 もちろん、その全てを認めるわけには、いかないけれど。
「俺に与えられた選択肢は」
「先ほどと同様です。組織が管理していない異能は全て危険分子と判断されますからねえ」
 ちらちらと写真を見せつけられる。遺憾ながら脅迫は続行していた。
「使い終わったらぽいっ、ってことはないのか」
「それができたら、とっくにセツはぽいされてます。というか、こんな血の気ばっかの破壊魔、今すぐにでもぽいしたいです私の精神衛生のためにも」
「おいアラン手前」
「私は本気ですよ。本気と書いてマジですよ」
 ……実は仲が悪いのだろうか、こいつら。
 しばし俺の前で睨み合っていた白髪と眼鏡だったが、やがて二人はやたら息の合った動きで俺を見て、声を揃えて言った。
 
『さあ、どうする?』
 
 選択肢なんて、最初から無いってのに。
 
 
 どうして、こんなことに――と。
 考えないわけではないのだ。
 新品の、灰色のスーツに腕を通す。気持ち悪いくらいぴったりなこのスーツは、眼鏡男が用意したものだった。自室の写真を盗撮するような奴だ、俺の身長体重スリーサイズくらいはとうに把握済みなのかもしれない。恐ろしい。
 ともあれ、着替えを済ませて、玄関の扉を開ける。
「来ましたね」
 闇に紛れるかのように、灰色スーツの眼鏡と白髪はそこにいて、俺を待ち構えていた。
 眼鏡男の不気味な笑みが、にぃと深められる。
「それでは……メン・イン・グレイの初仕事と行きましょうか?」
 逃げることなどできない。弱みを握られているから。
「ああ、任せろ」
 逃げるつもりもない。俺の相手は、俺たちと同じ超能力を持ちながら、その力を己の破壊欲を満たすためにしか使おうとしない本当のクズだから。
 ヒーローの夢を諦めたわけじゃない。もし、こいつらのやり方が俺の理想と完全にかけ離れているのなら、俺はきっと、全力でこいつらに抵抗するだろう。それこそ、命をかけたって構わない。
 けれど、今は。
 この、灰色の世界に足を踏み入れることから、ちょっとダークなヒーローの世界を知るところから、始めようと思う。
 眼鏡男は「頼もしいですね」とくつくつ笑い、白髪男は「俺一人でも十分なのにな」と不服そうに唇を尖らせる。
 それを横目に、俺は二人に並んで、夜の闇に一歩を踏み出した。