ある夜、猫のいる風景
《REC PLAY》
カーテンの隙間から、夜空高くに浮かんだ、真ん丸いお月様が覗いている。
その空の色と同じ毛並みをした黒猫のクロは、
「さて、どうしてくれようか」
床の上に無残に砕け散った陶器の破片を一瞥し、銀にきらめくひげを揺らす。
「どうしてくれようかー?」
横では、茶色い縞模様の子猫トラが、ぱっちりと目を見開いてクロの言葉を繰り返した。だが、この惨状が何を意味しているのかは、さっぱり理解していないという顔だ。
クロはやれやれとばかりに頭を振って、トラの狭い額を前脚でこつんとやった。
「お前はもう少し自分で考えろ。お前がやったんだろ?」
「やったんだろー?」
長くふわふわの尻尾をくねらせて、トラが復唱。それから、きょとんと目を見開いて間抜け面をさらす。
「なにを?」
やっぱり、何もわかっていなかった。クロは唯一真っ赤な舌で黒い鼻をぺろりとやって、足を畳んで座り込む。
「いいか、トラ。どうしてここに、いつもはないものが散らばってるか、わかるか」
「わかる……、ない」
「じゃあ、その前に、この上に何があったのかは覚えてるか?」
クロはくいっとあごを上げて、テーブルのほうを見る。トラもつられるようにそちらを見て、高らかに声を上げる。
「おぼえてるよ! まなの、みずのむやつ!」
水飲むやつ、というが、正確に言うなら水というよりコーヒーやココアを飲むためのマグカップだ。クロとトラによく似た猫が踊っている、かわいらしいマグカップだ。トラからしてみれば、水分を摂るための器はみんな「水飲むやつ」なのかもしれないが。
「そう、真菜のお気に入りの水飲むやつだ。で、それはさっきまでここにあったはずなんだが、どこに行った?」
「しらなーい。トラがうえにのっかったときには、あったよ?」
「テーブルの上には乗るなと散々真菜に叱られただろ」
「てへっ」
トラはまったく悪びれた様子もなく、小首をかしげてぺろりと舌を出している。かわいい。
話の流れというものを解さないトラに、どうこの事態を説明しようか尻尾を振り振り悩んでいたクロは、ふとトラに問うた。
「そういえば、さっき、何だか大きな音がしたな?」
「うん、おしりがなにかにぶつかって、がちゃーんっておっきなおとがして、びっくりしてわーってなっちゃった」
全身の毛をぶわっと逆立てて、その時の「びっくり」を再現して見せたトラに対し、クロは重々しく告げた。
「がちゃーんとなって、ここに散らばっているのは、真菜の、水飲むやつだ」
「え?」
「真菜の水飲むやつは、ばらばらにくだけて、こんな形になってしまったのだ」
クロはそのうち大きな破片を前脚でちょいとつついた。あわれ、楽しそうに踊っていた黒猫の姿もばらばらである。テーブルの上と床に散らばるマグカップの残骸を交互に見たトラは、もう一度、こくんと首をかしげた。
「トラがやっちゃったの?」
「そう、やっちゃったのだ」
「まな、おこるかなー」
「何しろお気に入りだったからな。真菜は怒るだろう。絶対に怒るだろう。真菜の機嫌を損ねたら、朝食も出てこなくなるかもしれない」
「えっ、あさのうまうま、たべられないの?」
「うまうまどころかカリカリも出てこないかもしれない」
うまうま、というのは缶のキャットフード。それに対してカリカリはドライのキャットフードである。巷の猫の例に漏れず缶に詰められたスープ交じりのご飯を愛する二匹だが、それ以前にご飯が出てこない可能性を知ったトラは、俄然目を真っ黒くした。
「それはこまる!」
「そう、私も困る。だから、どうにかして真菜の怒りを抑えなければならない」
「でも、どうするのー? こわれちゃったの、なおすの?」
「それは……、さすがに、難しいだろう」
何しろわれわれの前脚はニンゲンの前脚とは根本的につくりが違うのだ、とクロは前脚をトラに差し出す。クロの肉球はやっぱり黒い。トラはそんなクロの前脚に、自分の前脚を差し出す。ピンクの肉球と黒い肉球が触れ合う。E.T.か。
「私の言っていること、わかってないだろう」
明らかに面白がって肉球を押し付けているトラに、クロは呆れた声を出す。トラは「んー」というだけで、無邪気に大きな目をきょろきょろさせるだけである。
クロはそんなトラにわかるように説明するのを諦めたようで、前脚を降ろすと改めて足元の破片を見やる。
「真菜に気づかれないよう、この破片を隠すのも不可能だろう。直すよりは簡単かもしれないが、ここにマグカップを置いておいたのは他でもない真菜だ。無ければすぐ気づいてしまう」
「やっぱり、あさごはん、ぬきー?」
トラが悲しそうに尻尾を垂らす。まだ餌入れには多少の餌が残っているというのに、既に朝のうまうまが無いという未来を想像して、よだれを垂らしかけている。つられるようにクロもぺろりと口元を舐める。
朝ご飯抜き。それだけは、それだけは避けなければならない。既に考えることを放棄して、にゃあにゃあ悲しげに鳴くトラに対し、クロはじっとその場に伏せて、静かに考え続ける。ゆらーり、ゆらりと黒い尻尾が揺れて。
やがて、それが、ぴたりと止まる。
「……よし」
「くろ、なんかおもいついた!」
むしゃぶりつくようにクロに顔を寄せるトラ。クロはそんなトラの目をちらりと見て、やがて重々しく告げた。
「気づかれないのが無理だとすれば、取るべき手段はただ一つ」
「ひとつー? なになにっ?」
「マグカップなどどうでもよくなるくらい、真菜を喜ばせればいいのだ」
「よろこぶ? まなはどうすればよろこぶの?」
「それは、我々が一番よく知っているじゃないか。そうだろう?」
にやり、と笑う代わりに、クロは目を細める。
結局トラは、わけがわからない、という顔でふっさりした尻尾を振るだけだったけれど。
《STOP》
かくして、「私を喜ばせる作戦」は実行に移されたのだった。
朝、起きてきた私を待ち構えていたクロとトラは、突然私の足元にまとわりつき、くねくねと身をくねらせて、あまつさえ、普段は無口なこいつららしくもなく、切なげな鳴き声すらあげてきたのである。
くねくねにゃー、くねくねにゃーにゃー。
ころりと横になって腹を見せるクロ、足元にふわふわの毛を押し付けてくるトラ。かわいい。そりゃあもうかわいい。かわいいの、だが。
いつも、犬みたいにぴょんぴょこ飛びついてくるトラのみならず、猫らしく飯の催促だけして、その後は私に構わず惰眠をむさぼりはじめるクロまでそうなのだから、喜ぶよりも先に「何かおかしい」と思うのもしかるべきだろう。
かくして、寝室の扉を改めて閉ざし、二匹を追い出して。
そして、夜中のうちに回しておいたカメラが捉えた映像を一通り眺め終わった私は、そっと息をつくしかなかった。
間違いない、階下のリビングでは、無残に割れたマグカップが私を待ち構えていることだろう。
全く、浅はかなやつらだ。自分たちが夜な夜な好き勝手喋っているのを、私や他のニンゲンは知らないと思っている。だが、私はこうして、こっそりリビングにカメラを仕掛けて、日々あいつらの生態を観察しているのだ。
正直、ニンゲンと同じ言葉を喋っていたことにはびっくりしたが、しかし、やつらはこっちの言葉をわかっているような素振りを見せるし、そこまで驚くに値することでもないだろうと思い直した。
ニンゲンが猫に伝えていないことがあるように、猫がニンゲンに伝えていないことがあっても、何もおかしくはない。そういうことだ。
それにしても、ああ、かわいそうな私のマグカップ。初めて店で見つけたときには、クロとトラによく似た猫の姿に運命すら感じたというのに、そのトラに亡き者にされてしまうとは。
まあいい、トラに壊されそうな場所にマグカップをおきっぱなしにしてしまった私も悪くなとは言えないし、何より、あいつらはあいつらなりに、私を怒らせないようにと気を使ってくれたのだから。その努力に免じて、朝ご飯抜きはやめておいてやろうと思う。
……でも、今日はカリカリだけな。