スピラーレ

 机の上には、埃を被った日記が置かれている。
 日記を開きますか?

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   ×月×日

 目を覚ますと、百日の間城下町を覆っていた暗雲が、まるで嘘のように消え去っていた。待ち望んでいた青空に、誰もが歓喜の声を上げた。もちろん私もだ。
 それは、神に選ばれた勇者アベルが魔王を打ち倒した、何よりもの証拠だった。
 勇者は、ほどなく神が下された聖剣スピラーレを携え、この城に戻るだろう。
 もう、魔王とその配下の魔物に脅かされ、震えながら各々の家に篭っている生活も終わりだ。これからしばらくは、勇者の凱旋祝賀会の準備で忙しくなるだろう。各所への手配のことを考えると始まる前から気疲れを覚えるが、めでたい話なのだから、と自分に言い聞かせることにする。
 全てが一段落したら、彼女を連れて少しばかり遠出をしたい。私と彼女が出会った海辺も、きっとその頃には平穏を取り戻しているだろう。二人で、ゆっくりと語らうことの出来る日も、そう遠くないはずだ。

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   ×月×日

 明日、勇者アベルが凱旋する。
 何とか祝賀会の準備も整った。後はその時を待つばかりだ。
 これほどの短時間での準備は大変だったが、自分に出来る限りのことはやったつもりだ。これで勇者と王に満足いただければいいのだが。
 ともあれ、本番は明日なのだから、気を抜くには早い。そろそろ眠って、明日の祝賀会に備えようと思う。
 とはいえ、この興奮ではなかなか寝付けそうにない。まるで小さな子供に戻ってしまったようだ。彼女も、私と同じ気持ちなのかもしれない、帰りがけに見た部屋には灯りが灯ったままだ。
 明日はきっと、すばらしい日になるだろう。
 その記録を記す機会に恵まれた私は、この上ない幸せ者だと思う。

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   ×月×日

 何が起こったのかわからない。

 この混乱をどう書き記せばよいのだろうか。書き記してよいのだろうか。
 わからない。わからないけれど、事実だけは記しておこうと思う。

 勇者アベルが、王を惨殺した。

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   ×月×日

 祝賀会のさなかに王が殺され、城内も城下も混乱していたが、その混乱も徐々に終息しつつあるようだ。王の死後起こった数々の問題に対して、城の上層部の的確な判断と対処が、早期の終息を導いたといえよう。もちろん、王を殺したのが勇者である、という事実は民には巧妙に隠されている。
 魔王が君臨している間は何一つ有効な策を打ち出すことが出来ず、無能とばかり思われていた城の上層部だが、それはあくまで魔王という人知を超えた存在に対して、対抗する手段を持ちえなかったというだけだったのかもしれない。単なる下っ端である私には、あくまで想像することしかできないが。
 ともあれ、今までは日記を書く暇も無かったが、やっとのことでここに経緯を記すことが出来る。このごく個人的な記録が、もし人の目に晒されたら、と思うと恐ろしくはあるが、それでも記しておこうと思う。
 アベルは王を殺したその場で捕まり、王を殺した凶器である聖剣を奪われ、城の地下の牢獄に捕らえられた。捕らえられたその時は、特に抵抗もせず、粛々と従っていたようだ。今現在アベルがどのような状態かは伝わってきていないが、おそらくまだ牢獄の中にいるのであろう。
 通常なら即刻死刑となってしかるべきだが、何しろこの国を救った勇者だ。処遇が決まるまではもう少しかかるのではないかと思われる。
 また、代々の王が管理してきた聖剣スピラーレは、城の宝物庫に再び封印された。ただ、宝物庫の番人の一人であるジムが、奇妙なことを呟いていたのが気にかかる。
 聖剣の封印をした日から、目の前に、無数の数字がちらついて見えるのだという。忙しい日々が続いているとはいえ、仕事のしすぎで体調を崩しているのではないだろうか。心配だ。

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   ×月×日

 今日は何事もなく一日が過ぎたが、一つ、不安な噂を聞いた。
 ジムが行方不明になったという。
 最近城でもあまり姿を見なかったが、同僚によれば、奇妙なことをぶつぶつ呟いていたり、人の顔を見るだに逃げ出したり、まともに食事ができていなかったりと、明らかに様子がおかしかったらしい。
 そんな状態になっていたとは知らなかった。一体、何があったのだろう。この前見かけた時にきちんと話を聞いておけばよかった。
 無事ならばいいのだが、と思うけれど、嫌な予感が離れない。杞憂ならばいいのだが。

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   ×月×日

 休暇をもらえたため、彼女と海辺に行く。
 待ちに待ったひと時ではあったが、話す内容はあまり明るい話題ではなかった。
 彼女も不安なのだろう。王が死に、新たな王はまだ若い。魔王は滅びたが、魔王という共通の脅威を失った今、隣国との関係が再び悪化し始めているとも聞く。
 また、戦争が始まるのかな、と海を眺めていた彼女が言ったけれど、今の私は正しい答えを持ち合わせてはいない。
 やがて、彼女はこうも言った。どうして、人は絶えず争わなければいけないのだろうか。神様は、私たちを幸せにしてくれないのだろうか。
 そんなことはない。神は世界を壊そうとする魔王から我らを守るべく、勇者と聖剣を遣わせてくれるではないか、という私の言葉に対し、彼女は小さな溜息をついて言った。
 それならば、何故、神様は永遠に魔王をこの世界から滅ぼす方法を与えてくれないのだろう。この世界は、百度も魔王の脅威に晒されてしまったのだろう、と。
 その問いには、私も、どうしても、答えられなかった。
 答えられない代わりに、彼女の体を抱きしめた。彼女の体は、寒さからだろうか、小さく震えていた。

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   ×月×日

 行方不明だったジムが引き揚げられ、今日、葬儀が執り行われた。
 神官の見立てだと、死後三日というところらしい。その間、あの澱んだ川の中にいたのかと思うと、気分が重たくなる。
 死因は不明だが、ジムの同僚たちはまず自殺であろうと語っていた。それだけ、近頃のジムはおかしかったということらしい。ただ、おかしくなった原因は誰にもわかっていないようだった。
 私にもわからないままではあったが、一つだけ気になることがある。
 ジムがおかしくなったのは、王がアベルに殺され、聖剣スピラーレを封印した後からではなかったか。日記を読み返して、今更ながらに気づいた。
 まさか、勇者の狂気がジムにうつったなんてことはないだろうが、無関係ではないかもしれない。そう思うと、アベルに話を聞いてみたくなる。今もまだ、牢にいるという王殺しの勇者。
 そういえば、私はアベルという人物について何も知らない。勇者として神に選ばれ、魔王を打ち倒した男である、という話と、城に現れたその姿だけしか知らないのだ。それに気づいてしまうと、俄然知りたくなる。アベルが何者なのか、その狂気がどこから現れたものだったのか。
 明日からでも、調べてみよう。

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   ×月×日

 アベルに面会を申し込んだが、手続きに数日がかかるという。
 その間に、調べておいたことを、忘れないうちに書き記しておこうと思う。
 まず、アベルは、この国の辺境に位置する小さな村の出身だった。記録が正しければ剣も触ったことのないごく平凡な農民の子だったようだが、ある日、城の神官が託宣を受けたことにより召喚され、聖剣スピラーレを与えられた。
 その後、アベルは仲間を募って魔王の居城を目指す旅に出かけた。その際の勇者の活躍はどの町でも語られているが、その反面、影では勇者を非難する者もいるようだった。どうやら、勇者は行く町行く町で略奪行為を繰り返していたらしい。だが、神の力を持たない民衆には太刀打ちできない魔物を完全に撃ち滅ぼす力を持った勇者に対して、面と向かって非難できる者もいなかったという。
 そのアベルの人柄だが、誰もそれを正しく理解している者はいない。そんな印象を受けた。誰に聞いても、アベルの印象が一致しないのだ。寡黙で穏やかだという者もいれば、粗暴で一度暴れ始めたら手がつけられない、という者もいた。魔物に人質に取られた娘ごと、虐殺を行ったという記録もある。
 そして、一番興味を引かれたのは、一度アベルの仲間であったことのある、一人の魔法使いの言葉だ。
 アベルには、この世界の全てが数として把握されていたのだという。ものが持つ強度、剣が与える傷の深さ、魔法の力とそれを放つために必要な魔力量、そして、命の重さすらも。
 ジムが言っていた「目の前に無数の数字がちらついて見える」ことと、何か関係があるような気がする。
 やはり、アベルという人間ときちんと話をしてみたい。彼がどのような世界を見ていたのか。どうして魔王を倒して後、王を殺すに至ったのか。知ったところで何が変わるわけでもないが、ただ、知りたいと思う。
 さて、明日は彼女との久しぶりの食事だ。彼女の不興をかわないように、準備は入念に行っておかなくては。

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   ×月×日

 今日、アベルに面会を許された。
 アベルと話した内容のうち、覚えていることを纏めようと思うのだが、上手く纏められるかわからない。それだけ、アベルの言葉は私の思考の範疇を軽々と飛び越えていた。だが、それらが単なる狂気から放たれた言葉でもないということも、わかる。
 とにかく、誰に見せるわけでもない記録なのだ、今はただ、書けるだけのことをここに書いていこうと思う。

 牢の中に、鎖で拘束されていたアベルは、痩せ衰え、薄汚れた姿をしていた。だが、その中で、目だけはぎらぎらと強い輝きを放っていて、見るだに背筋が冷たくなる。
 だが、何の用かと問いかける声は、思ったよりずっと落ち着いたものであった。
 私が自己紹介をして、面会の目的を話すとアベルは意外そうな顔をしたが、すぐに重たい表情を浮かべて言った。
「俺自身も、何でこんなことになったのか、よくわからないのだ」
 言葉の意味がわからなかった私は、問いを重ねた。その問答は以下のとおり。
「よくわからない、とは?」
「俺は、望んで勇者になったわけじゃない。ただ、城に呼び出されて、聖剣を手に取ってから、体が自由に動かなくなって……考えてもいないのに勝手に喋ったり、人の家の箪笥から金を盗んだり、戦いたくもないのに魔物と戦ったりしはじめた」
「その原因はわからなかった?」
「俺にわかるはずもないだろう? ただ、体の自由が奪われるのと同時に、俺の目に映るものは、全部数字や文字と重なって見えるようになった」
「それは聞いたことがある。人の命の重さも、わかるとか」
「もちろん。その上、わざわざ話を聞かなくたって、目の前にいる奴の名前や所属、持っている情報が全部読み取れる。どんな武器を装備していて、どれだけの魔法を持っていて、それぞれがどのくらいの強さなのか、俺に勝てるのか、勝てないのか。そういうものが、何もかも見ただけでわかってしまう」
「本当に、何もかもがわかると?」
「今だって、俺には見えているぞ。あんたが何処に所属している何者かも、俺が何度殴ればあんたを殺せるのかも。この世界に生きるものなんて、脆いものだ。少し捻れば、簡単に命の数がゼロになって、動かなくなる。もちろん、王だって同じ」
「何故、王を殺したのだ? それは、あなた自身の意志だったのか、あなたを操る何者かの意志だったのか?」
「それは俺の意志だ。魔王を倒した瞬間に、俺の意識は自由になった。まるで、今までのことが全て悪い夢だったかのように。だが、書き出された情報の塊でしかなくなってしまった世界はそのままだし、この手で罪を犯しすぎてしまったことも、何処までも事実だった。
 世界はこんな俺でも、魔王を倒した勇者として認めてくれるだろうが、それは俺の望みなんかじゃない……そう思った瞬間に、何もかもが、嫌になってしまったのだ。俺自身も、俺をこんな目に遭わせた神とそれに従っている奴も、全部、全部。だから、手始めに王を殺して、そこから世界をぶち壊してやろうと思った。俺が殺されても、それはそれでよいとすら思っていた」
「だが、その目論見は失敗している。あなたが王を殺しても、国は倒れなかった。隣国との緊張状態にはあるが、既に国は元の機能を取り戻しつつある」
「それだけやっても、その程度か。勇者と呼ばれていたのは、あくまで俺を操っていた何者かで、俺自身はこの世界に何の変化をもたらすこともできないのかもな。だからと言って、世界の裏側を覗き続けながら、何でもないふりをして暮らしていくことも、できるはずもない」
 そう言ったアベルは、酷く疲れた顔をしていた。そこにいたのは、もはや勇者ではなく、神によって運命を歪められてしまった、ただの青年でしかなかった。
 そして、ただの青年は、私ではない遠い場所に向かって、こう呟いたのだった。
「ああ、もう、俺の居場所なんて、どこにもないじゃないか」

 もし、アベルの言葉が全て正しいのであれば、アベルは聖剣を手にしたその時から運命を狂わされたことになる。聖剣を一時でも手にしたジムもまた、アベルと同じ、全てが数と文字によって表される風景を見てしまったのかもしれない。そして、心を病んで己から命を絶った。
 聖剣に操られ、望まぬままに世界の理を知ってしまった彼らは、既に世界からはじき出された存在なのだろう。そんな彼らの居場所は、この世界には無いのかもしれない。
 神は何故、このような力をアベルに……否、代々の勇者に与え続けてこられたのだろう。果たして、聖剣の勇者とは何なのか。神が応えてくださらない限り解けることのない謎を抱えつつ、今日の日記は終わりにしようと思う。
 今日は、なかなか、寝付けそうにない。

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   ×月×日

 アベルが消えた、という噂はすぐに私の耳にも入ってきた。
 そう、神からもたらされた力によって弄ばれ、世界の理を知ってしまった青年を止めることなど、理に縛られた我らに出来るはずもなかったのだ。
 果たして、かつての勇者がどのような行動を起こすのか。それは、新たな王にも、神官長にも、城抱えの占星術師にも答えられないことだった。それも当然だ、一度理から外れたものを、理の中にいるものが理解できるはずもない。
 アベルは、ジムのように己から命を絶とうというのだろうか。それとも。
 アベルの考えは私にもわからない。私もまた、理の内側にいる存在に過ぎないのだ、一度言葉を交わしたくらいで、彼のことをわかったつもりになる気もない。
 ただ……近いうちに、また、嵐が訪れるような予感を覚える。窓の外には、魔王が君臨していた頃と同じように、暗く重たい雲が立ち込めていた。

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   ×月×日

 近頃、雲が晴れないと思っていたら、百一番目の魔王が現れたのだという。
 魔王、と新たな王や神官長は言ったが、私にはわかる。百一番目に魔王となったのは、かつての勇者アベルであろう。アベルは、世界の理から外れた力をもって、世界を壊そうとしている。己の運命を狂わせた神に、そのような形で反逆しようとしているに違いない。
 そして、今日、私の手に聖剣スピラーレが渡される。
 神官長曰く、私はどうやら、百一番目の勇者として神に選ばれたのだそうだ。
 果たして、聖剣を手にした私の目には、どのような世界が見えるのだろう。私は私であり続けることができるのだろうか。それとも、勇者アベルのように、己の意志とは違う誰かの手によって、操り人形として動かされてしまうのだろうか。
 例えば、彼女が魔物に囚われたとして、私は魔物を彼女もろとも殺そうと聖剣を振るうことになるのだろうか。それを考えただけで、恐怖がこみ上げてくる。逃げ出せてしまえばどれだけ幸福かわからないが、今や家の周りには兵が集っていて、私の挙動に目を光らせている。
 それどころか、ここに書くまで、逃げ出そうなんて考えもしていなかった自分に気づかされた。
 これもまた、神が仕組んだ理の一部なのかもしれない。私たちの行動や思考は、常に神の力に縛られているに違いない。それこそ、神の理に反して世界を破壊せんとする魔王と、その魔王に抗う力を与えられる勇者以外は。
 しかし、こうも思うのだ。
 アベルは百一番目の魔王。今まで百人現れた魔王もまた、アベルと同じように、世界の理から外れてしまったが故に、世界を滅ぼそうとしたのではないだろうか。その度に、理を超越する聖剣スピラーレを手にした勇者が現れ、倒されていく。
 だが、理を超越した勇者たちは、理の中に生きていくことはできずに魔王となり、新たな勇者に倒されるのを待つことになる。そんな、永遠に続くとも思われる循環を続けている……アベルが魔王と化したことは、そんな示唆を私に与える。
 それならば。
 魔王の登場と勇者による討伐もまた、神が仕組んだ物語の上の出来事なのでは、ないだろうか。
 結局、アベルはこの世界に、この世界を作った神に抗うことはできなかった。そして、私もこの物語の中に組み込まれた存在でしかないのだろう。
 最後に彼女に挨拶をしていくか、手紙を残していこうか悩んだが、やめることにする。今度こそ、指輪まで用意したのだけれど、無駄になってしまったな。
 ああ、扉を叩く音が聞こえる。行かなくては。手が震えて、上手く文字が書けない。私が私でなくなってしまう前に、せめて、これだけは書いておこう。
 愛していたよ、オフィーリア。

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 その後は、白紙が続いている。

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 君は、日記を閉じた。
 その横に、小さな指輪が置かれている。
 何故か、君の目から涙がこぼれ落ちた。
 君にはその理由がわからない。

 

 君にはその理由がわからない。