マリーシ
久々に家に帰ってきた兄貴は、椅子を引いてテーブルにつくなり、こう切り出した。
「マリーシは、帰ってこないらしい」
それは、あまりにも突然の報せ。
「ニュースでやってただろう、移民用ロケットが故障したきり、行方不明になったって話。正式発表はされていないが、どうも、あの船にマリーシが乗ってたらしい」
なのに僕は、全く驚かなかった。
何とはなしに、ここ数日、変な胸騒ぎがしていたのだ。いや、胸騒ぎ、というよりも……大切なものが僕の胸の中から音もなく落ちて、空っぽになってしまったような。そんな感覚。
それが、兄貴の言葉で、突然はっきりとした形を帯びた。そうだ、僕の中から消えてしまったのは、確かにマリーシだったのだと、すぐにわかった。
兄貴は、僕には銘柄もわからない琥珀色の酒を、大きな氷の入ったグラスに注ぐ。ボトルの口から流れ落ちる液体が、とくとくと、心地よい音を奏でる。けれど、兄貴の目は、グラスではなくて、はるか遠くを見ていた。
きっと、僕と同じものを、見ていた。
マリーシ。黒髪の魔女。
彼女は僕らの前に突然現れた。白い肌に黒い髪、黒曜石の瞳。まるで女神か天使のような綺麗な姿をした彼女は、実際にはいたずらっぽい、ちいさな悪魔の笑顔をその整った顔に浮かべていた。
彼女がどこから来たのか、どこへ行こうとしていたのか、僕らは最後まで知らなかった。知らなくったって、何も困らなかったから。
そんな彼女はいつだって僕らより少しだけ年上で、僕らより少しだけ背が高くて、僕らより少しだけ色んなことを知っていて、僕らより少しだけ前を歩いていた。
そんな彼女に、僕らは二人で恋をしていた。
酒をちまりちまりと舐める兄貴の前で、僕もサイダーの入ったグラスを傾ける。サイダーは夏の香りで、彼女の香りがした。それでふと、思い出す。
「よく、あの人のことで喧嘩したよね」
「はは、そうだな。酷いもんだった。ロケットを見に行った日のこと、覚えてるか?」
「覚えてるさ」
忘れるはずもない。
ある夏の日、僕らはマリーシに誘われて、ロケットの発射台を見に行って――もうすぐ月の開拓地へ向かうのだというそのロケットの足元で、僕らは大喧嘩をした。
もちろん、原因はマリーシのことだ。その詳しい理由は流石に覚えていないけれど、結局のところ、兄貴がマリーシを独り占めしようとしているのが気に食わなかった、ただそれだけのことだったと思う。
だけど、いつもなら軽い言い合いで終わるはずの喧嘩は、簡単には終わってくれなくて。マリーシの前だったというのに、殴り合いにまで発展しそうになっていた。いや、マリーシの前だったから、かもしれない。とにかく、僕も兄貴も、どうにも引っ込みがつかなくなっていたのだけは、確か。
そんな僕らの間に、マリーシは、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべて、割って入った。きらめく黒曜石の瞳が、僕と兄貴の真っ赤になった顔を覗き込んで。
「ねえ、何で二人とも、そんなに不機嫌さんなのさ?」
まさか「君が好きなせい」だなんて、口が裂けても言えるはずもなくて。思わず黙りこくってしまう僕らを見て、マリーシは透き通った声で笑ったんだ。雲一つない青い空にまで届きそうな、澄み切った声だった。
ひとしきり笑ったマリーシは、口元で細い指を揺らして、言ったのだ。
「もったいない、もったいないよ。今日はこんなにいい天気、こんなにいい場所だってのに。そんなに不機嫌さんじゃあ、私までやーな気分になっちゃうよ」
だから、と。僕と兄貴の頭を掴んで。耳元で、僕らにはわからない言葉を、そっと囁いた。その吐息は、甘く爽やかな香りがした。それは、きっと、彼女が直前まで飲んでいた、サイダーの香りだったのだろうけど。
一体何なんだ、と首を傾げる兄貴に、マリーシはにっと歯を見せて笑った。
「仲良しの呪文!」
きょとんとして、僕は思わず兄貴と顔を見合わせてしまう。そして、その時には、あれだけどうしようもなく膨れ上がってた兄貴への怒りが、すっかりしぼんでしまっていたことに気づいた。
目を白黒させる僕らを見て、また、マリーシは笑った。
それで、僕らもつられて、笑ってしまったのだと、思い出す。
「懐かしいな」
兄貴の言葉と、からん、というグラスに氷が触れる音で、僕の意識は現実に引き戻される。マリーシのいない世界。でも、僕の心は不思議と穏やかで、ただ、マリーシの透き通った声だけが、頭の奥に響き続けている。
兄貴も、そう、きっと、そんな顔をしていた。
「兄貴、落ち着いてるね」
「何となくな、そんな気がしてたんだ」
「僕もだよ」
不思議だな、と。兄貴は笑った。僕もつい、笑ってしまった。
マリーシはもう、二度と僕らの前には帰ってこない。どこから来たのかわからなかった魔女は、僕らの手の届かない場所に消えてしまった。
けれど、マリーシが僕らにかけた「仲良しの呪文」は、今だって有効だ。
椅子から立って、カーテンを開ける。窓の外では、彼女が目指した大きな月が、僕らを見下ろしていた。