黒鍵のエチュード

 勝瀬のお屋敷には、開かずの扉があった。
 長いモノクロームの廊下の先に、忘れ去られたかのように佇む白い扉。鍵がかかっているようにも見えないのに、押しても引いてもびくともしない。
 両足を踏ん張って取っ手を引く姿を誠さんに見られてしまって、慌てて逃げ出してしまったけれど、振り向けば、誠さんは逃げ出した私ではなくて、扉をじっと見つめていた。
 あれから扉のことが気になっていたから、何気ない風を装って、昇さんに聞いてみた。
「ねえ、昇さん」
「何だい?」
「部屋の前の廊下をずっと行くと、扉があるけど、あの中には何があるの?」
「鍵盤だよ」
「鍵盤?」
「触る人のいない鍵盤なんて必要ないだろう? だから、あの倉庫に仕舞ってあったんだが……今では、立て付けが悪かったのか扉も開かなくなってしまった」
 心地よいバリトンで昇さんは言う。私はそんな昇さんの体温を感じていながら、妙に心細い気持ちになって、ぎゅっと昇さんの肩を抱いた。
 灯りを落とした部屋の中では、昇さんがどんな顔をしてるかも判然としない。唯一、昇さんの手が、私の髪にそっと触れたことだけはわかった。
「それじゃあ、お休みなさい」
 声と、額に落とされた口付けは柔らかな熱を孕んでいた。私も昇さんの頬に口付けながら、心は廊下の先にある開かずの扉、正確に言うなら扉の向こう側にあった。
 鍵盤。けんばん。奏でる人のいない鍵盤は、誰も足を踏み入れることのなくなった部屋で、奏者を待っているのだろうか。私が昇さんの温もりを感じている、この瞬間も、暗く冷たい部屋の片隅で……。
 鍵盤の孤独を思いながらも、昇さんの腕に包まれているうちに、頭の中の鍵盤は霞んで、夢の中に溶けていってしまった。


 深い森の中に佇む勝瀬のお屋敷には、私を含めて四人の人間が暮らしている。
 勝瀬氏と、亡き夫人の残した子供である昇さんと誠さん、そして、居候の、私。
 あの日……九月一日の私は、衝動的に着の身着のままに家を飛び出して、気づけば鈍色の雨の中このお屋敷の前に立ち尽くしていた。せめて一晩だけでも泊めてもらいたい、と思ってチャイムを鳴らした私の前に現れたのが、昇さんだった。
 その姿を一目見た瞬間に、あっと声を上げそうになった。実際に上げていたかもしれないけれど、その真偽を覚えていられないほどに、目の前に現れた人のことで頭がいっぱいになっていた。
 自分が、頭の中に描いていた理想のひとが、突然目の前に現れたような衝撃。
 一目惚れ。頭の中の私が囁いた。
 これを果たして一目惚れと名づけてよいのか、未だにわからない。一つだけはっきりしていたことは、この人のことを知りたい、話したい、一緒にいたいと心の内側が叫んでいた、ということ。
 それを上手く表に出すことも出来ずに、ぼうっと昇さんの顔を見つめていた私を、昇さんは旧知の友に向けるような笑顔で迎えて言ったのだった。
『大丈夫? 酷い雨だっただろう。ほら、入って』
『あ……で、でも、私』
『お話は、中で詳しく聞くよ。さあ、早くこっちに』
 突然現れた客人に対して、詳しい話を聞くでもなく迎え入れてくれた昇さん。感謝の気持ちと共に一抹の疑問を抱かないでもなかったけれど……昇さんはすぐに私を部屋に案内して、体を拭く布と服を貸してくれた。
 そして、着替えた私を迎えた勝瀬氏と昇さん、誠さんは多くを問いかけてくることもなく、それどころか、しばらくはここにいて構わないとまで言ってくれた。
『よいのですか?』
『もちろん。困っている女性を放り出すような真似は出来ませんよ。それに』
 勝瀬氏はちらりと横に座る昇さんを見た。昇さんは、勝瀬氏に視線を向けられたことに気づいていないかのように、じっと、私を見つめていた。
 昇さんと視線がぶつかって、凪いだ夜の海を思わせる瞳を覗き込んでしまう。そこに自分の顔が映っているのだ、と思うだけで頬がぱっと熱くなって、私は目を逸らした。だけど、昇さんの頬も赤くなっていたように見えて……。
 勝瀬氏は愉快そうに笑って、昇さんの肩を叩いた。
『昇も、あなたのことが気に入ったようだ』
『父さん!』
 昇さんは慌てた様子で言うが、すぐに私にちらりと視線を投げかけて、赤い顔をしたまま言葉を切ったと思うと、椅子を蹴るように立ち上がってその場からいなくなってしまった。
 どうしたのだろう、と思っていると、勝瀬氏は昇さんが消えていった扉の向こうを見つめながら、言ったのだった。
『すみませんね。昇が不愉快な思いをさせてしまいましたかな』
『い、いいえ。そんなことありません』
『ならよかった。ここにいる間だけでも、昇と仲良くしてあげてください……息子も、それを望んでいるはずですから』
 勝瀬氏がどうしてそんなことを言ったのか、その時の私にはわからなかった。ただ、勝瀬氏が穏やかに、それでいて少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべていることだけは、私にだってわかった。
『じゃ、挨拶も終わったことだし、俺も行くぜ』
 そう言って立ち上がったのは誠さん。乱暴な喋り方をする人だな、と思うと同時に何故か懐かしくなったことを覚えている。
 その時、誠さんと話をした気もするけれど、何の話をしたかは覚えていない。ただ、
『……逃げたいだけじゃねぇか、馬鹿兄貴』
 昇さんの部屋がある方角を見つめた誠さんの呟きが、耳についたことだけは思い出せる。
 あれから、どのくらいの日数が過ぎたのか数えることもやめたけれど、私は今もここにいる。勝瀬のお屋敷に住む皆に……何よりも、昇さんがくれる温かさに依存したまま。


「おはよう」
「あ、お、おはようございます……誠さん」
 翌朝、部屋から出た途端、誠さんと鉢合わせてしまった。
 誠さんは苦手だ。誠さんも私のことをよく思ってはいないようで、ろくに目も合わせてくれない。今日も先に立って歩く誠さんは私のことなんて見ていない。
 それは、昇さんと一緒の布団で眠るようになってから? それとも最初から?
 色々考えるけれど、言葉にする勇気もなくて、食卓に向かう廊下を歩く。俯きがちに誠さんの背中を追いかけていると、突然誠さんが声をかけてきた。
「なあ」
「は、はいっ?」
「アンタは、兄貴と抱き合ってりゃ、それでいいのか?」
 唐突で、ぶしつけな質問に、私の頭は凍りついた。我に返った時には、誠さんが、昇さんとよく似た、飲み込まれそうな漆黒の瞳で私を見つめていた。
 扉の向こうから、テレビの音が聞こえてくる。今日の天気予報。
『九月一日の天気は雨、ところにより強く降るところがあるでしょう……』
「アンタのせいで、俺は、俺たちはおかしくなっちまった……気づいてねぇとは、言わせねぇぞ」
 ――そうだ、気づいている。
 あの日から、どれだけ昇さんと一緒に眠っても、目を覚ませば九月一日であることも。
 勝瀬氏も、昇さんも、誠さんだって、お屋敷から一歩も出ることなく、全く同じ毎日を繰り返していることも。
 どれもこれもとっくに気づいていたのに、見て見ぬふりを決め込んでいた。
 誠さんは静かな、しかし確かな怒りを篭めて私を睨む。
「アンタが逃げるのは勝手だ。誰も強制してねぇんだからな。だが、一度鍵盤を叩き始めたなら、せめて最後まで叩いてくれ。俺たちはいつまで、こうしてればいいんだ?」
 鍵盤。けんばん。白黒の濃淡だけで描かれた廊下の向こうにある、開かずの扉のその向こうに仕舞われたという、「触る人のいない」鍵盤。
 誠さんの言葉を聞いているうちに、ぼやけていた鍵盤のイメージが像を結んでいく。黒い鍵盤、いつも私の側にあったはずの鍵盤。それでいて、見るのも嫌になっていたはずの、鍵盤。
 顔を上げれば、誠さんは消えていた。きっと、先に食卓についているに違いない。昨日も、その前も、そうしていたように。
『俺たちは、いつまで、こうしてればいいんだ?』
 誠さんの声が頭の中に響く。
 昇さんの口付けを思い出すように額に触れて、それがあまりにも儚いものだと、思い出し始めていた。


 開かずの扉の前に立つ。取っ手に手をかけようとして、下ろす。
 ……本当は、この向こうの鍵盤と向き合わなければならない。
 永遠に続く九月一日を終わらせるためには、絶対にそうしなければならないということを確信していた。確信するだけで、実行には移せないままにいたけれど。
「鍵盤が、気になる?」
 いつの間にそこにいたのだろう、背後から昇さんの声が聞こえた。振り向けば、そこには白い肌をした昇さんが立っていて……私の肩を強く、強く抱きしめた。肌に食い込む彩度のない指先は、私の責任。あまりに長い間、展開のない日々を繰り返してきたこの世界は、とっくのとうに鮮やかな色を失っていた。
 このまま私が指を止めていれば、いつしか昇さんだって輪郭すら曖昧になって消えてしまうのかもしれない。そうなる前に、この扉を開けなければならない。
 そのはずなのに、昇さんの手はあまりに温かくて、振りほどくこともできない。昇さんは落ち着いた声で、諭すように私に語りかけてくる。
「いいんだ。君は、悲しかったんだろう。鍵盤を叩き続けることが嫌になって、ここに来たんじゃないか」
「昇さん……」
「大丈夫だよ、俺が君に幸せにしてあげる。だから、」
 耳に息が触れる距離で、掠れた声が、鼓膜を震わせる。
「……永遠に、扉を開かないで」
 すうっ、と。血の気が引くような思いがした。今まで感じていた温もりが、急に感じられなくなった。体を抱きしめていた昇さんの腕に力が篭められて、息が苦しくなる。
 ああ、そうか。
 そういうことか。
 私が昇さんに恋することは必然。そして昇さんが私を手放さないのも必然。
 愛し合ってなんかいない、ただ、お互いに、お互いが必要だっただけ。私は、次の鍵盤を叩くことのできない自分を正当化するために。昇さんは、自分の未来を変えるために。
 だけど……。
 霞む視界で昇さんを見上げる。今まで決して揺らぐことのなかった瞳の中の海は荒れ狂い、モノクロームの私を映し込んでいる。途端に、気づいてしまった。
「違う……」
「何?」
「違う、昇さんはそんな顔じゃない、私なんかを好きにならない! どうして気づかなかったんだろう、こんな幸せ、私が貰っても意味がない!」
 本当は。
「私が望んだのは、こんな結末じゃない!」
 叫んだ瞬間、昇さんの体が引き剥がされて、灰色の床の上に押し倒される。いつの間にか、誠さんが昇さんの肩を掴んで私から引き離していたのだ。
「構うな、扉を開けろ!」
 誠さんは暴れる昇さんを床に押し倒した姿勢のまま、吼えた。私は頷いて、開かずの扉の取っ手を握り締める。
 蝶番が軋む音と共に、扉はあっけなく……あまりにあっけなく、内側に開いた。
 薄暗い部屋の真ん中にあったものは、見慣れた黒い鍵盤。擦り切れた白い文字もそのままに、言葉もなく私を待っていた。
「……ごめんなさい」
 自然と唇からこぼれ落ちた謝罪の言葉は、長らく待たせてしまった鍵盤に対してのものか、それとも、昇さんを裏切ることに対してのものか。
「触らないでくれ! 頼むから、この先は……!」
 割れるような声に驚いて振り向けば、誠さんを振り切った昇さんがこの部屋に足を踏み込み、私に向かって長い腕を伸ばしている。
 このまま昇さんの望みに従って、何も見なかったことにすれば幸せになれるだろうか。私も、昇さんも。私は理想のひとと永遠に一緒にいることができて、昇さんは……。
 それでも。
 私は昇さんから目を逸らさぬままに、鍵盤に手を伸ばす。手元を見ずとも、人差し指は自然に「F」と「J」の文字を示す鍵に触れる。習ったわけでもないけれど、使っているうちに自然と身についたホームポジション。
「やめろ、やめてくれ……」
「ごめんなさい。でも、私は」
 左手の薬指から、
「書くよ」
 鍵盤を、叩く。

 > そして、

 その瞬間に――世界に、色が溢れた。
 鍵盤に触れた指先から迸った光が、単色の世界に彩度を与える。部屋はランプの放つ柔らかな黄色の明かりに彩られ、絨毯は赤黒く染まり、昇さんの白かった肌に、青ざめた色が差す。
 壁が、天井が、廊下の先が、窓の外が、九月一日の雨の日で時間を止めていた全てが色を与えられて動き出す。そうあるように、私は鍵盤を叩いて世界を「記述」する。
 長らく私の心の中にしか存在しなかった結末を、形にするために。
「書くな! 俺は……」
 昇さん。
 私が組み立てた、私の理想のひと。あなたの運命は決まりきっていたのに、私はずっとその結末を形にすることから逃げていた。
 この物語を奏でれば、あなたとは永遠にお別れだから。

 > 昇は、膝をつく。

 鍵盤を叩けば、その通りに昇さんは膝をつく。伸ばした腕が力なく床に垂れ、昇さんの、本当は木の幹の色をしていた瞳が、呆然と私を見上げていた。

 > その唇からは、赤い、赤い液体が流れ落ちて、

 鮮やかな色の血を吐き出して、絨毯の上に倒れこむ昇さんから、私は目を逸らさない。逸らすことなんてできない。
 昇さんは、もうほとんど光を映していない瞳で私を見据えて、
「死にたく、ない……」
 その言葉、一つ残して、長く息を吐き出した。
 私は、小さく唇を噛む。悲しくないと言ったら嘘になる。自分の理想を詰め込んだひとの結末を己の手で紡ぐのは、いくら「架空」であっても悲しい。
 それでも私は、この物語に決着をつける。
 この指先で。ずっと共に歩んできた、黒い鍵盤で。


 > その日、勝瀬昇は、死んだ。


 そして、私は、目を覚ます。
 いつの間に眠ってしまっていたのだろう、目の前のディスプレイはいつの間にか暗くなっていた。マウスを軽く動かして、画面を表示させる。
 テキストエディタに書かれた文字列は、長らく書くことをやめていた小説の続き。森の中の屋敷に住む家族の優しい日々と、兄の死から始まる崩壊を描く、長い長い物語。
 プロットでは、日常からの「崩壊」を描くことが目的だったのに……いつしか、それを描き出すことが怖くなって、気づけば小説を書くことからも離れてしまっていた。
 優しい兄と、不器用な弟。この、自分の理想そのものと言える二人と別れたくなかった。終わらせてしまいたく、なかったのだ。
 そんなのはただ自分に酔ってるだけだ、ときっと誰もが笑い飛ばすだろう。こんなもの、仕事でも何でもない、趣味で書き始めた、誰が望んでいるわけでもない物語だ。
 それでも、誰のためでもない、自分のために。この物語と描いてきた全ての人を愛し、そして、愛しているからこそ、決着をつけようと思う。
 窓の外は雨、カレンダーは九月一日。
 愛用の黒い鍵盤に指を載せて……長い長い物語を終わらせよう。