フェアリーテイル・フィアフルテラー

 彼は、何よりも、静けさを求めていた。
 何も音としての静けさを求めていたわけではない。ただ、誰にも邪魔をされない、自分だけの空間が欲しいとずっと思っていた。だから彼は遊び歩く兄を尻目に淡々と仕事をこなし、結果的に若くして立派な己の城を築き上げることに成功した。
 自分のための家、自分のための部屋、自分のためのテーブルの自分のための椅子。何もかもを自分好みにしつらえて、風にも雨にも、雷にだって脅かされない家の奥に閉じこもり、暖炉の前で好きな本を読む。そういう生活を送っていた。
 そう……あのケモノが現れる日までは。

   §

 彼は、何よりも、静けさを求めていた。
 故に、家を出てから行方も知ろうとも思わなかった兄二人が急に家に現れた時、彼は不愉快さを隠しもしなかった。
「何か御用ですか、兄さん」
 だが、いつもならばまず下品な言葉で彼を罵るところから始めるはずの二人の兄は、彼からすれば気色悪さしか感じられない愛想のよい笑みを浮かべて言った。
「よう、俺の愛する末弟。元気だったか?」
 長兄がごわごわの髭面を突き出して言えば、
「ちょっとお前の顔が見たくなってね、兄さんと一緒に遊びに来たのさ。入れてくれるよね?」
 次兄が高い鼻をふんと言わせて高飛車に笑う。
 言葉こそ疑問形だが、有無は言わせない。それが二人の兄のあり方だ。
 いつだってそう、土足で自分の領域に入り込んで、自分の好きなものばかりを踏みにじって去っていくこの二人を、彼は疎ましく思っていた。それでも、末の弟という立場もあって、兄二人にはいつもいつも強くものを言えずにいた。
 今、この瞬間だって。
 これだけ自分の思い通りに出来るようになったというのに、実際に兄と顔を合わせれば喉は震えて上手く言葉が出なくなってしまう。
 そんな彼の沈黙を肯定と受け取ったのか、二人の兄はずかずかと家に上がりこみ、彼の愛用の椅子とソファにそれぞれ座り込んでしまった。そして、辺りを見渡してから長兄が雷のようながらがら声を立てる。
「おい、客に出す飯もねえのかよ、この家は?」
「こんなに立派な家なのにねえ。ほら、何突っ立っているんだい」
 次兄も非難がましく彼を睨むが、どちらも口の端がだらしなく緩んでいる。上機嫌なのか、何なのか、彼にはわからない。わかりたいとも思わないけれど、そんな強い感情に対して言葉は何処までも声にはならない。
 小さい頃、生意気なことを言えば長兄の拳にしたたか打たれ、一言でも文句を言えば次兄が数倍にして返してきた記憶が今でも彼の喉を縛り付ける。今もまだ周りから比べれば子供のようなものとはいえ、あの頃とは違うのだ……
 そう、自らに言い聞かせても、体に染み付いた恐怖は消えない。
 その、恐怖の中。それでも歯を食いしばって声を絞り出す。
「……ただ、遊びに来たという風には見えませんが。どのような理由でこちらに?」
 すると、立ち上がった長兄が彼の頬の横すれすれに手を突き出した。イノシシのような顔がすぐ目の前に迫り、息が詰まる。長兄は目を吊り上げ、彼が一番嫌いな激しい大声を上げる。
「つまんねえことに拘んのは相変わらずだな。ぐだぐだ言ってねえでとっとと飯作れよ、ああ?」
 彼が背筋を伸ばしたまま硬直していると、意外にも次兄が「まあまあ」と間に割って入った。
「何、疑問に思うのも当然だろうさ。僕だって兄さんに会ったのは久しぶりだからねぇ。でもよかったよ、お前が無事で」
 次兄の言葉に、彼は思わず首を傾げてしまう。
「無事……どういう、こと、ですか」
「はっ、手前は一日中引きこもってっからわかんねえだろうけどなぁ、今外は大騒ぎなんだよ」
 二人の兄が語るには――
「ケモノ?」
「そうなんだよ。南の方から、恐ろしいケモノが現れたんだ」
 夜明けと共にやってきた巨大なケモノは、通り道となった町の人々を飲み込んでいったのだという。ここから南にある町に住んでいた二人の兄は、ケモノに襲われて家を失い、命からがらここまで逃げてきたのだという。
 にわかに信じられる話ではない。確かに一昔前から風を操る大喰らいのケモノの噂は流れていたけれど、実際にその姿を見た者はいなかった。もちろん、彼も見たことはない。実家にいた頃はいつも彼をからかってばかりだったこの二人が嘘をついている可能性も高い……そう、考えながら彼は無言で二人を見つめるけれど。
「とにかく……とにかくでけえ、恐ろしいケモノだった。俺が住んでた場所は奴の黒い腕になぎ倒されちまった」
「目がぎらぎら金色に輝くと、雷が落ちるんだ。それで僕の家は焼かれてしまったんだよ」
 妙に浮かれていた二人の表情が、言葉を重ねていくにつれ徐々に恐怖に塗りつぶされていく。あの不自然な浮かれようは、抑えようのない恐怖を隠すための空元気だったのかもしれない、と今更ながらに気づいた。
 それでも。それでも、彼は無言でそんな二人を見つめる。
 そんなこと、彼には関係ない。関係ないのだ。ケモノが来る? 来ればいい。自分はただ、この静かで暖かで自分のためだけにあるこの部屋にいられればいい。ただ、ただそれだけなのだから。
 しかし、彼の無言をどう受け取ったのだろう、今まで上から見下すような物言いをしていた兄たちは、唐突に猫なで声を投げかけてきた。
「なあ、我が愛する弟よ。あのケモノが行過ぎるまででいい、それだけでいいんだ、匿ってはくれないか」
「ここにいれば、あのケモノだってきっと入ってこられないさ。ね、頼むよぉ」
 迷惑だ――そう、言いたいのは山々だった。
 けれど、ここで兄二人を追い出そうとするのも、なかなかに面倒くさいことだと気づく。それに、ケモノの話が事実か否かは置いておくとしても、恐怖に怯える二人を外に放り出して、どうなってしまったかわからないままというのも少しばかり後味が悪い。
 仕方なしに頷くと、兄二人は途端に喜色満面となった。
「おおう、流石は俺の弟だ! 言ってくれるじゃないか!」
「それじゃあ、とりあえず食事を用意してくれないかなぁ。僕ら、命からがらここまで逃げてきたから本当にお腹がすいているんだ」
「……はい」
 頷くけれど、その時には二人の兄は既に下品な声を立てて襲ってきたケモノについて語り始めてしまっていて、すっかり縮こまる彼から意識を離してしまっていた。
 耳に届いてくる声は言葉として彼の耳には届かない。久しく聞くことのなかった二人の声だけれど、自分の記憶よりも遥かに騒々しさを増している気がする。うるさい、そう、とにかくうるさいのだ。
 ああ、ああ、静けさが足らない。静けさが、足らない。
 耳を押さえながら、よろよろと台所に向かう。けれど、耳に響き、頭の中にまで反響する声は消えてくれない。ケモノが去るまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、冷蔵庫の前に立つ。
 さあ、どうしようか。
 変なものを出せば、またとやかく言われるに違いない。心の中に重たいものが渦巻くのを感じながら、冷蔵庫を開けて中を見る。基本的には一人で食べる分しかないのだから、二人に振舞えるようなものなど……
 ――ああそうだ、蟹にすればいいじゃないか。
 唐突に思いついた。次の瞬間にはそれは名案だと自分で自分を褒めたくなる。思い立ったら即行動、この前贅沢をしようと思って買ってきた大きな大きな蟹を、暖炉にかけたこれまた大きな鍋で茹で上げ、兄たちの前に出す。
「どうぞ」
 お前にしては随分気が利いてるじゃないか、と長兄が蟹の足を乱暴にもぎ取る。次兄も続けて蟹の足を手にする。
 そして……言葉が絶える。
 硬い殻を割り、中の肉を取り出す。けれど、綺麗に取り出せるわけでもなく、何とか殻についた白い肉をこそげ落とそうと必死になる。
 その間だけでも、この場には静寂が訪れた。食器と殻が立てる音、咀嚼の音、それだけが部屋の中に響く。それを聞きながら冷蔵庫の中身を漁って兄たちに出す食事を作る傍ら、更にもう一つ蟹を茹で始める。
 綺麗な赤色に染まっていく殻を見つめながら、つかの間訪れた静寂を味わう。
 このままずっと静かでいてくれればいい。静かなまま何もかもが通り過ぎて、この二人も消えてしまえばいい。そうすれば、何もかも、何もかも、元の通り。静かな自分だけの世界を取り戻すことが出来るのだ。
 その時、ちらり、ちらりと天井に灯っていた照明が瞬く。最近新しくしたばかりだというのに奇妙だ、と思っていると窓の外を見ると、いつの間にか黒雲が空を埋め尽くしていて、雷の音が遠くから聞こえてくる。
 その瞬間に、二人の兄も蟹の殻を放り出し、立ち上がる。
「奴が……」
 長兄が口を開きかけた時、ごう、という音が響いて地面が揺れた。壁を叩くのは風の音か、それにしてはあまりにも強すぎる。
「奴が来たんだ! ど、どうしよう、どうしよう」
 慌てふためく次兄に対し、長兄が上ずった声を上げる。
「ここに立てこもっていれば大丈夫だ、な?」
 な、と言われても。これからどうなるのかわからないのだから、彼には答えようもない。彼にできることといえば、彼の知らない顔で恐慌に陥っている二人の兄を見つめることくらいだ。
 その間にも、激しい揺れと共に窓硝子が嫌な音を立て、壁からはぱらぱらと埃が落ちてくる。まさか、この家までケモノの餌食になるというのか。彼も流石に背筋が凍る思いで天井を見据える。
 しかし、家を揺さぶるケモノの気配がそこにあるだけで、それ以上建物が崩れていく気配は無い。その様子を見て、長兄はほっと胸を撫で下ろす。
「これならば、奴も諦めて通り過ぎてくれるに違いない」
「……本当に?」
 次兄が問う。明らかな不安がその言葉の中に滲み出ていた。そんな次兄の肩を叩く長兄は、いつもの何処かあっけらかんとした……彼からすれば「阿呆面」というべき表情を浮かべて言った。
「そうさ、ゆっくりと食事でもして、待っていればいい。それだけでいいんだ。ああ、持つべきものはいい弟だなあ! ははは、はははははっ」
 ――うるさい。
 彼は思わず耳を塞ぐけれど、長兄は皿の上に投げ出したままであった蟹の足を取って、殻ごと歯で噛み砕く。その時、ぱっと黒い雲に覆われていた窓の外に雷光が走り、直後、何かが爆発したような音が響き渡る。
「ひぃっ!」
 次兄は先ほどまでの余裕など何処へやら、ぶるぶると震えている。
「も、もう嫌だ、嫌だ怖い、焼かれたくない、死にたくないんだ!」
「落ち着けって、大丈夫だ! 大丈夫だから……」
「嫌だ、逃げる、僕は逃げる! 止めないで、兄さん!」
「馬鹿、それで焼かれちまったら元も子もねえだろうが、おい、お前も何とか言って……」
 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!
 もはや限界だった。嵐の音も、雷の音も、兄の声も何もかもが騒々しい。
 ああ、世界はこん にうるさかっただろ か
 皿を 手
  赤 はさみ と
 雷 落ちて 叫び声うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるs照明 ぶつり 消えて

   §

 そうして、彼は立ち尽くす。
 肩で息をつきながら、かろうじて光を取り戻した灯りの下で立ち尽くす。
 視界が晴れると、あれだけ完璧にしつらえた自分だけの世界が、すっかり色を変えてしまっていた。
「ああ、ああ」
 落ちた殻ばかりの蟹の皿が、床を汚している。
 肉から噴き出している赤い液体が、床に敷いた絨毯にも消えることの無い染みを残そうとしている。
 ただ、静けさが欲しかった、静かな世界が欲しかった、それだけだったのに。自分だけの世界を徐々に覆らない色に汚していく二人の兄を見下ろし、ただただ立ち尽くすしかない。
 風が吹く。兄を襲ったケモノが、まだ、ここにいる。
 窓を鳴らし、壁を叩き、ごうごうと、ごうごうと。
 彼は顔を上げた。目の前は真っ暗だったが、暖炉にかけられた火だけが明るく燃えていて、そこには大きな鍋が、ごうごうと、ごうごうと……

   §

「ですからね、お巡りさん。僕、確かに見たんですよ」
 犬のお巡りは、ぺらぺらと喋る彼を前に、表情一つ動かさない。耳と背筋をぴんと伸ばしたまま、ただ、黒い瞳で彼を見下ろしている。
「あれはまさしく兄さんたちの言うとおり恐ろしいケモノでした。でも、何も心配いりませんよ、この僕が蟹といっしょに茹で上げてしまいましたから。ああ、あのケモノから出た出汁は美味しかったなあ。そうそう、何もかも家に置きっぱなしなのですよ。あのケモノを煮た鍋も洗わないといけません。ですからもう自宅に帰っていいですよね? 僕は自宅が大好きなのですよ。とっても静かな、僕の、僕のための、レンガの家!」
 それでも、犬のお巡りは首を縦には振らない。
 喋り続ける彼は知らない。町を襲い何もかもを吹き飛ばした長い嵐が過ぎ去ってから、唯一残された彼のレンガの家から、鍋も本も何もかもが運び出されたことを。その鍋から、真っ赤に茹だった蟹と共に、二匹の若い豚の屍骸が引き上げられたことを。
 彼……末の子豚はなおも犬のお巡りに喋り続ける。
 暴風の中、二人の兄を襲ったケモノの物語を。

 ――哀れな三匹の子豚の、滑稽極まりない御伽噺を。