T42

 彼が顔の無い死体を見つけたのは、あれから二十六時間後のこと。
 あの喫茶店から、数十メートルも離れていない場所だった。

 聞き覚えのあるスイング・ジャズが、意識せずとも耳に染み付く。
 何をするわけでもなく、ふと紅茶に溶け行くミルクの帯に目を向ける。ぐるぐると回る白い帯が、やがて液体と液体の境界線を失いカップ全体を白濁させていく様子を観察する。初めは別のものであった紅茶とミルクは、もはや切り離すことの出来ない一つの『ミルク・ティー』として彼の前に存在している。
 果たして、自分と他人の境界線もこのミルク・ティーのように混ざりうるものなのだろうか。
 彼はそんなことを思いながら、「偶然」相席になった貴婦人に視線を映す。ティー・カップを手にした貴婦人は長い睫毛を上げて、小首を傾げる。
「私が、何か?」
 ルージュを引いた唇から放たれたのは、涼やかな声。
 よく出来た人形のように整っていながら、確かに血の通った柔らかな肉質の唇だと彼は思う。そして、そう思ったことが相手に伝わってしまっただろうかと危惧しながらも、薄い唇をゆっくりと開く。
「何のつもりかと思ってな」
「何のつもり、とは?」
「貴女は昨日も私の前に座っていたはずだ。昨日は全く違う、青年の顔をしていたが」
 目を丸くする貴婦人に対し、彼は表情一つ変えずに淡々と言葉を吐き出していく。
「昨日だけじゃない。一昨日も、その前も、私の前に座っているだろう。もちろん、別人としてではあるが……間違いなく貴女だった」
 何のことですか、と。
 貴婦人は眉を寄せて言うものの、彼は取り合わない。彼の言葉をわかっていないはずはないのだ。わかっていながら、あえて理解できないふりをしていることくらい、彼には即座に「わかる」。
 やがて貴婦人はふ、と笑みをこぼした。作り物じみた表情に似合わぬ少し歪な笑い方で。
「何故、わかりました?」
「わかるさ。外側を変えても何も変わらない。私には、全く同じように見える」
 ティー・カップを手に取り、一口含む。舌に灯る温かさと、微かな苦味。それらの一つ一つを確かめながら、彼は貴婦人を見やる。貴婦人は歪に笑みながら、同じようにミルク・ティーを口に運んでいた。
 ソーサーとカップが触れる音が、ゆるやかな音色の中に響く。
「貴方には、人の心が『見える』のですね」
 そう言った貴婦人は、彼ではなくはるか遠くを見つめていた。
 だから彼も、同じ方向を見て答えた。
「ああ」
「なら、私が何者なのかもわかるのですね」

 心が見えていたのだから、わからないはずはない。
 彼は、彼女を知っていた。
 彼女が人殺しであることも、知っていた。

「恐れもしないのですね」
 彼に語りかけながらも、貴婦人の視線は窓の外に向けられている。スーツ姿の人々が足早に行き交うが、彼らは彼女の視線に気づく様子もない。彼らは自分だけの時間を生きている。目の前の彼女とは、違って。
 彼はもう一口紅茶で喉を湿して言う。
「貴女からは私を傷つける意志が見えない。故に恐れる理由がない」
 ――それに。
 彼は目を伏せて、言う。
「私を食らう気にもなれないだろう」
「そうでもありません」
 彼の言葉を聞いて、ふわりと貴婦人は笑う。今度は自然な、穏やかさを湛えた笑みだった。
「貴方のような方に『成れる』とあれば喜んでいただきます。当然昨日までは、そのつもりでした」
 いただく。食すと言い換えていいのだろうな、と彼は思う。ただ、言葉に反し貴婦人にその気がないことは明らかだった。そのくらいは、あえて心を見ようとしなくてもわかる。
「ならば何故、そうしない?」
「そうされたいのですか?」
 噂どおりに顔の皮を剥がれて『食される』自分を想像力の限りに脳裏に描いてみたが、彼は軽くかぶりを振って「ぞっとしないな」と述べるに留めておくことにした。
 それを聞いた貴婦人は、硝子球を思わせる空色の瞳を細めて呟く。ともすれば流れる音楽に混ざってしまいそうなほどに小さく、しかし彼にははっきりと届く声で。
「……貴方をいただいても、貴方にはなれないとわかりましたから。それなら、こうして」
 貴婦人は細い指先でティー・カップを包み込み、大切なものであるかのように捧げ持つ。
「私に気づいた貴方と二人、紅茶を飲みながらゆっくりお話をしてみたいと思ったのです」
「なるほど」
 紅茶は好きか、と。
 彼は貴婦人に問うた。貴婦人は顔の前に運んだ紅茶の香りを楽しむように目を閉じて、当たり前のように言った。
「人の顔よりはずっと好きですよ」

 街角に顔のない死体が転がるようになったのは、いつだったか。
 人間の顔を『食べる』ことで『成り変わる』殺人鬼が登場したのは、いつだったか。
 そんなこと彼にはどうでもよかった。
 彼女はその時そこにいて、一緒に紅茶を飲んでいた。

 しばしの沈黙の後、貴婦人はぽつりと言った。
「私、もう疲れてしまいました」
「何がだ」
「顔を、探すのに」
 喫茶店の心地よいざわめきの中で、貴婦人の声は他の誰かに届いているのだろうか。彼はふと、そんなことを考える。だが、もし聞かれていても何だというのだろうか。この場の自分はただの客であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 そしてここにいるのも、殺人鬼ではない。
 紅茶が好きな、ただの貴婦人だ。
「何故、顔を探すのだ」
「見てわかりませんか?」
「わからない。仮にわかったとしても、言葉で聞きたいと思う」
「不思議な方」
 ころころと笑っていた貴婦人は、すぐに笑みを引っ込めて俯く。微かに波打つ銀糸の髪が、音もなく肩から流れ落ちるのを、彼は表情もなく見つめていた。
「もう、何も覚えていないのです。ただ鏡の中の自分の顔が自分のものではない気がして。それどころか、ここに立っている自分が自分ではない気がして」
 今にも折れそうな白い手首が、震える。
「これは私ではない。僕でもなければ俺でもない。何処かに本当の自分がいるはずなのだ、本当の自分を取り返さなければならない。そう思って世界を見ると」
 硝子玉の瞳が見据えるのは、彼……いや、彼よりもはるか遠く。きっと、その透き通った目に映る全てなのだろうなと彼は思う。
「『誰もが、私に見えた』のです」
 貴婦人の目が見つめる世界を、彼が見ているわけではなく。
 もし見えたとしても、同じように理解は出来なかっただろう。
「気づけば私は、その中でも強く『私の顔』だと思った人間の顔を食べていました。目も、鼻も口も頬も眉も髪も全て。ただ奪うだけでは足らない、本当の意味で自分のものにしなければならない、そうして初めて私は『私』を取り戻したと感じるのです」
「だがそれも刹那か」
「はい。すぐに取り戻したはずの私が私でないと気づいて。そうしてまた私は顔を探していたのですが……それも、きっと終わりですね」
「終わり?」
 理由がわからず、彼は首を傾げる。すると貴婦人は長い睫毛を伏せて、満足げに息をついた。
「結局誰になろうと変わらないのだと教えてくれましたから」
 貴方が。
 貴婦人という『顔』を持った彼女は、そう言って下を向いたまま笑う。

 彼は何をしたわけでもない。
 ただ、彼の目には彼女が見えた、それだけの話。

 ――一つ、聞いていいですか。
 そう問うた貴婦人はまだ、下を向いたままだった。
「貴方の目から、人はどのように見えるのでしょうか」
「……さあな。多分、貴女に理解できるものでもない」
 それ以上は何も、語るつもりはなかった。語る言葉も持ち合わせていない。確かに彼は人の心を見ることができるものの、それが本当の意味で『心』なのかもわからない。人は同じ能力を持ち、同じ場所に立っていたとしても同じものを見ているとは限らない。まして人に見えていないものをお互いに理解することなど、できやしないのだ。
 貴婦人は彼の言葉を噛み締めるようにゆっくりと、小さく頷いた。
「それでも構いません。貴方の言葉で聞かせてください。私はどう見えますか?」
 きっと、顔のない、醜い化物でしょう。
 そう言う貴婦人は微笑んでいた。悲しげに、寂しげに。
 感覚を表現するのに、言葉は決して正しくないと知っていても。それでも彼は脳裏に焼きつくイメージを、何とか一番近い言葉と結びつけて呟いた。
「少女」
「……え?」
「そばかすの似合う大きな目の少女だよ」
 顔を上げた貴婦人は、しばらく何も言わなかった。目を丸くして、彼を見つめたまま……やがて、「ああ」と喉から声を漏らした。
 全身から力が抜けて、細い手首が落とすかのようにカップをソーサーの上に下ろす。
 硝子玉の瞳が、彼の瞳に映る幻の少女の姿と重なる。脳裏の少女はまだ幼い表情のまま、遠い、遠い場所を見ていた。
「そうですか」
 唇から零れ落ちた声もまた、今まで聞いていたものとは違うもののように、響く。
「私は……」
 ティー・カップを握る指先が、震えて。

 それから二十六時間後の今。
 彼は変わり果てた姿の彼女を見下ろしている。

 一杯の紅茶を飲む間だけの、とても短い二人の時間。
 果たしてそこで彼女が何を思っていたのか、彼はあえて『見よう』とはしなかった。
 見る必要もなかったと、思っている。
 彼女がこれからどうするつもりだったのか、彼女がどうしてこの場所で死んだのか。彼は何も知らないままに彼女を見下ろしている。
 もはや彼以外の誰も死んだ彼女を理解できないだろうし、彼もまた彼女を理解したわけではない。それでも、優しいバック・グラウンド・ミュージックの中で、笑って紅茶を飲み干した彼女の記憶だけは忘れまいと思う。
 自分と他人の境界線を見失い、なおかつ自分がどこに立っているのかも理解できていなかった彼女。
 彼女がティー・カップを置いて、最後に呟いた言葉を彼は絶対に忘れない。

「私は……ここにいるのですね」

 彼女は、そこにいた。
 そう、確かに、自分と一緒にいたのだ。

 彼は顔の無い彼女に背を向けて、今にも泣き出しそうな空を背負って歩き出す。
 口ずさむのは温かな空気に溶け行くスイング・ジャズ。
 あの日二人で聞いた、『ティー・フォー・トゥー』。
 砂糖をたっぷり入れたミルク・ティーの味が、ふと蘇ったような気がした。