セーシュンフラグメント
桜並木の歩道を全力で駆け抜ける。ひらひら舞い落ちる白い花びらの中を、息を切らせて走る。もう足の感覚なんてわからない、ただ一つ今のアタシにわかるのは、手の中にしっかりと、あの時の思い出を握りしめてるってことだけ。
ね、アタシは……どうして忘れちゃってたんだろ。
あんなに、しっかり約束したじゃんか。
そうだよね、ネオン……!
あれは、蝉がうるさく鳴くどころか干からびて地面にごろごろ転がる、暑すぎる夏だった。
夏休みが終われば先輩は受験勉強で部活にも来られなくなる、そんな時にネオンが学校の屋上で昼飯を食うだなんてバカなことを提案したんだっけ。
熱中症になるに決まってる。それ以前に暑い中屋上でメシだなんてどうかしてる。
そう言って反対したのは部内一番の良識人、黒江先輩。でも何故かアタシも含めた賛成多数で屋上に出かけて行ったんだった。
ネオンは金色に染めた頭に麦わら帽子なんか被っちゃって大はしゃぎ。ううん、その時はアタシもいい加減はしゃぎすぎだったと思う。
夏休みも終わり近く、ついでにアタシたち四人が集まってテンションが低いわけなかったわけで。黒江先輩も最終的には苦笑いしながら、それでもアタシたちを置いて先頭をずんずん歩いてた。
その後姿も、今ならはっきり思い出せる。
窓の外では入道雲が地平線の向こうから湧き上がる、そんな日に。
アタシたちはバカみたいに騒ぎながら、荷物を背負って人気のない学校の階段を昇っていったんだ。
それもこれも。
これがなければ思い出せなかった。
丸ごとそこだけを切り取ったような青い空をバックに、笑う四人。
アタシたちの、最初で最後の、四人の写真。
「……え?」
それを見た時には、自分の目が信じられなかった。
こんな写真があるなんて……しかも高校の教科書の間に挟まってるなんて、思いもしなかったから。
高校の教科書なんて大学に入る前にさっさと処分しておけばよかった。就職先に引っ越す前日に、こんなものを片付けなきゃいけないなんて、って愚痴ってたこともすっかり忘れて。
……アタシは、その写真に見入ってた。
「いつ撮ったっけ、こんな写真」
正直、一瞬見ただけじゃ何も思い出せなかったんだ。ただ写ってるのが高校の時に一緒に過ごした四人組で、背景は夏の空だってことしか、わからなくて。
だけど、何でだろ。
床に座ったまま、じっと写真を見てると、色んなことが頭の中に浮かんでくるんだ。
春、桜のよく見える部室で、初めて黒江先輩やネオンたちに会ったこと。変な名前ってネオンをからかったら、逆にアタシの名前は古風すぎるって笑われて、お互い印象最悪だった。
夏、海に行ったら真白がおぼれかけて大騒ぎして……あの時の黒江先輩は別人みたいだった。シスコンなだけじゃなくて、本当に妹のこと大切にしてるお兄ちゃんなんだなって、ちょっとだけ見直したっけ。
秋、文化祭前日で、何でだか忘れたけど大もめにもめたんだよね。アタシとネオンが大喧嘩して、真白が珍しく本気でキレて、間に入った黒江先輩まで巻き込んじゃった。でも、最後にはいいものができたから、アタシとネオンも仲直り……できてたのかな。
冬、四人だけのクリスマスパーティ。真白から貰ったクリスマスプレゼントのグロ可愛いぬいぐるみ、まだベッドの横にある。ちょっと怖いけどお守りみたいなものだから、向こうに行っても持っていくつもり。
色んなことがあったんだよね。四人が一緒だったのはたった一年、あんな廃部寸前の部活にいたのも三年間だけだったのに……こんなに色んなこと、やってたんだって、思う。
「セーシュン、って感じだよね」
ネオンは口癖みたいに言ってたけど、アタシはその言葉嫌いだった。
だって何だかくすぐったいし、バカっぽいじゃん、「青春」なんてさ。「努力」と同じくらい嫌いな言葉だった。
でも今は何となく、ネオンが言ってた意味もわかる気がするんだ。
ネオンが考える「セーシュン」って、アタシが考える「青春」とはちょっと違ったんだと思う。
ネオンはどっからどー見てもチャラい感じの、吹けば飛びそうなヤロー。ついでに中身はどうしようもないほどガキ。頭ン中万年春だけど、たまにはすごい奴かもって勘違いさせてくれたりもした。
ううん……ホントは、アタシなんかより全然、色んなこと考えてたんだよね、ネオン。
すっごく色々考えてて、それでも絶対に皆に見せなかった。そういう奴だったんだ。
そんなネオンの「セーシュン」って、多分「もう二度と無いこと」って意味だったのかなって今は思う。
アタシも、今だからわかるんだけどさ。
あの頃四人で撮った写真はここにあるけど……こうやって、四人で笑ってる写真なんて、あの時に帰らない限り二度と撮れないんだ。
もう、二度と。
「なあ、皆」
屋上で、青空を背負ったネオンが笑う。
強すぎる太陽の光がアタシたちの足元に濃い影を落としてた。
「五年後くらいに同じ場所で、もう一度四人で会わない?」
「バカじゃないの? 五年後ったらアタシたちとっくに卒業じゃん」
「でも、今日みたいな休みの日に潜り込めばバレませんよ、きっと」
真白がおっとりした顔に似合わず大胆なことを言ってたような気がする。まあ確かにうちの学校は私服だし、バレないっていやバレないんだけど。
「……それは、ちょっと面白そうだな」
いつもはアタシたちのバカな計画を嫌がる黒江先輩だって、軽く肩を竦めながらも嫌な顔はしてなかった。
アタシも、一応反論はしたけど実は乗り気だったんだよね。
だってさ、アタシはこうやって四人で過ごしてる時間が一番好きだった。
今、高校の記憶を思い出して、ほとんど四人で過ごした記憶しか思い出せないくらいには、大好きだったんだ。
もちろんネオンはアタシが反対しないのもよくわかってた。だから本当に嬉しそうに笑って言ったんだ。
「ほら、すっごいセーシュンって感じじゃん!」
ネオン。
ネオンに、会いたい。
だから、アタシは写真を握り締めて家を飛び出した。
背後から誰かがアタシを呼んでたけど、部屋はまだぐちゃぐちゃだったけど、そんなこと構わない。
桜並木を抜けた先は学校。
思い出のままの場所が、そこにあった。
「じゃあ、約束!」
あんたが夏の日の青空に突き上げた腕を、ずっと忘れちゃってたけど。
「五年後、この場所で。どんなんなっても会おうって、約束だからね!」
――やっと、思い出したよ。
もう自分のものじゃない下駄箱の前で靴を脱ぎ捨てて、走る。走る。
遠くから吹奏楽部の練習の音が聞こえる……入学式の行進曲。
階段を駆け上がりながら何してんだろ、って思う。だって、約束の日は今日じゃない、いや、ネオンは何月何日に集合だってことも言ってなかった。
今行ったって誰もあの場所にいないのに、どうして、アタシは、走ってるんだろう。
息が上がって、足もフラフラなのに……どうして、アタシは、止まれないんだろう。
屋上の扉はすぐそこだ。
薄く開いたその扉の向こうでは、確か普通はどっかの部活が使ってるはずだけど。
アタシは迷わずその扉に手をかけて
「華子……約束だよ」
扉の向こうから、あいつの声が聞こえた気がした。
アタシは扉を押した姿のまま、一歩も動けなかった。
信じられなかったんだ。
そこに、黒江先輩と、真白がいたから。
それがわかった瞬間に膝から力が抜けて、もう立ってられなくてその場に座り込む。
何で。
何で――
「華子先輩!」
真白が慌てて近づいてくる。
幻じゃ、ないよね?
アタシの思いは言葉になってるかどうかわからなかったけど、真白はわかってくれたみたいで、笑顔で手を差し伸べる。
「もちろんですよぅ。幻なんかじゃありません。立てますか?」
「あ、うん、ありがと」
やっと現実なんだって実感が持てて、へとへとになった足にも少しだけ力が入る。真白に手を借りて、やっと立ち上がることができた。
二人とも、五年前からちょっとだけ変わってて、でも五年前と何にも変わってないようにも見える。この場所で、夏の空を見上げてはしゃいでたあの日から、何も。
だけど、どうしても信じられない。この場所に集まる連絡なんてなかった。最低でもアタシは何も言われてない。もしあの写真を見つけなきゃ、何も気づかないまま、約束も思い出せないまま引越しの車に乗ってたんだ。
なのに、どうしてここに三人で揃ってるの?
「不思議だな」
黒江先輩も、多分アタシと同じことを考えてる。普段は驚いたって表情も変わらない先輩の目が、まん丸になってるから。
「真白が偶然、こんな写真を見つけてきてな。懐かしくなって来てみたら、何も言ってないのに華子が来るんだもんなぁ」
「すっごい。こんな偶然って、あるんだ……」
黒江先輩が写真を出す。それは、アタシが握ってくしゃくしゃになってる写真と同じ、夏の日の思い出。
アタシは思わずこの場に四人目を探そうとして……すぐに、バカなことだって思い直す。
この場に四人が揃うことはない。
一番会いたかった人は、絶対にいない。
ネオンは。
「ネオンがいればよかったんだけどな。言いだしっぺはあいつだろ」
黒江先輩が、フェンスに寄りかかって、空を見上げて溜息混じりに呟く。
「……きっといるよ、ここに」
真白はほんの少しだけ笑う。ただ、その笑顔が寂しそうだったのは、見間違いじゃないよね。
だからアタシも、二人と一緒にただ空を見上げることしかできない。あの時みたいな青をこれでもかとばかりにベタ塗りした空とは違う、淡い色を塗り重ねた春の空。
「何で、あんただけ先に逝っちゃうかなぁ」
アタシの呟きは、ネオンに届いてるのかな。ネオンは、向こうでアタシたちを見て笑ってるかな。それとも、ちょっとだけ悔しがってたりするのかな。
長瀬音穏は既にこの世の人じゃない。
ネオンが死んだのは一年前。噂では重い病気を患っていたとか、何とか。
アタシはネオンの病気のことなんて知らなかったし、卒業してからは姿も見てない。黒江兄妹も、ネオンが死ぬまで何も知らなかったみたい。
きっとネオンのことだから、わざと知らせなかったんだと思う。あいつはそういうバカだって、わかってたつもりなのに、ね。
でも、ひどいよね。
約束したのはあいつだったのに、一番初めに約束を破ったのもあいつだったってわけ。
思い出すと、ちょっとだけ胸が痛くて、目に何かが滲んでくる。あいつに泣かされるのも悔しいから、無理やりこみ上げてくるものを飲み込んだ。
「でもさ、お兄ちゃん」
ぽつりと言った真白の目にも涙。可愛い後輩まで泣かせるなんて、ネオンは死んでからも罪作りな奴。そんなことを思ってた、時だった。
「その写真、いつ撮ったんだっけ……?」
え?
言われて、アタシは手元の写真を見る。日付も入っていない写真だけど、いつ撮ったのかははっきりと、思い出せ……
あれ?
「ん、おかしいな」
黒江先輩も首を捻った。
「屋上でメシ食った日だよな。あの日は、確か誰もカメラを持ってなくて」
「それで、ネオンが超落ち込んでたんだよね?」
思い出した。
だから、ネオンはあの約束を言い出したんだ。
今度四人で会ったら、この場所で写真を撮ろうって、言ってたんだ。
なら。
「この写真は、何だろ?」
真白の指摘は、もっともで。
それに、写真の真偽はともかく、何もかもができすぎてる。三人が三人とも、同じ日にこの「撮ったはずもない」写真を見つけて、同じようにこの場所に集まるなんて。
……ああ、そっか。
「ネオン、あんたの仕業ね」
空に向かってアタシは言う。もちろん返事なんてない。
でも、アタシは確信してた。
ネオンはアタシたちとの約束を守ったんだ。あいつは、どうしようもないほどバカだけど、約束は絶対に守る奴だったから。ううん、今もそう。
だって、四人の「思い出」と「約束」を、こんな形でアタシたちに思い出させてくれたんだから。
あいつの思い出そのものの写真を握り締めたアタシは、笑って、ネオンに……ネオンが笑ってると思う空に向かって全力で叫んだ。
「悔しいけど……すっごいセーシュンって感じだよっ!」
窓の外に流れていく、桜並木。
アタシは引越しのトラックに揺られながら、二枚の写真を見やる。
一枚は、誰かさんの思い出、夏の日の四人。
そしてもう一枚は……誰かさんとの五年目の約束、春の日の三人と青空。
アタシの大切な、青春の断片。