はじまりのおわり

「ふぅ」
 雨の降る、小さな公園で。
 傘も差さずに歩く男は大げさに気の抜けた溜息をついた。一歩一歩出す足はふらついていて、何とも頼りない。
「やっぱり、早まった、かなあ」
 身にまとった服は元々は仕立ての良い高そうなものだったが、それも今やぼろぼろになっている。腹の部分には穴が開き、そこから雨に混ざって赤いものが滴り落ちている。
 まさか、自分を撃つはずなどないと思っていたが、連中を必要以上に混乱させてしまったと見える。向こうも当てる気は無かったのだろうが、流れ弾が当たってしまったのだ。
 痛みはとうに過ぎ去った。その先にあるのは奇妙な寒さだ。雨が降っているといえ、気温はかなり高いはずなのに……
 自然、ぼやけてくる視界に男は苦笑する。普段から対外的に笑顔を作り続けてきたせいだろうか、こんな切迫した場所においても浮かぶ表情は笑みだった。笑顔ばかり浮かべているもので、他の表情を忘れてしまったのかもしれない。
 やっとのことでベンチにたどり着いた男は、どっかと座り込んだ。絶えず流れる赤いものがベンチを濡らすけれど、すぐに雨が洗い落としてくれるだろうと思って構うのを止めた。
「俺、死ぬのかなあ……」
 ざあざあと耳の奥に響くのは、雨の音か、それとも頭の中にかかるノイズか。
「死ぬなら、それはそれで、いいかな」
 誰に言うともない呟きだったけれど、別に冗談のつもりで言っているわけではない。生きているだけで、これだけ人に迷惑をかけ続けている。それならば、死んだ方がマシなのではないか?
 ――本当は、そんなつもりで出てきたわけでもないんだけど、なあ。
 思いなおして、男は空を見上げる。降り注ぐ雨が、冷えていく体に奇妙にも心地よい。一度座ってしまうと、もう一歩も動く気になれない。足はがくがくと震え、限界だと訴える。
 眠ってしまえばいい。そうすれば、全部終わりになる。
 思って目を閉じかけた時、男の視界が空色に染まり、降り続けている雨が止んだような気がして目を開ける。
 違う。
 誰かが、空色の傘を差しかけているのだ。
「大丈夫、ですか?」
 そんな声を聞いたような、気がしたけれど。
 そのまま男の意識は深い深い闇に落ちた。


「教祖様」
 男は言われて目を覚まし、自分がいつもと同じ玉座の上にいると気づいて嘆息した。
 前を見れば、常と変わらない灰色の服に身を包んだ集団が、自分に向かって頭を下げている。
 気持ち悪い。
「今日も我々に変わらぬお導きを」
 灰色の集団の先頭に立つ、その中でも酷く老いた男が言った。教祖と呼ばれた男はまだ若いというのに、まるで住む世界が違うのだと言わんばかりに床に頭をこすり付けている。
「ああ……」
 曖昧に答えて、男はもう一度大げさに息をつく。
 導くことなどできやしない。望まれてもいない。
 自分は、一つの事実を知っている、それだけだというのに――
 目の前に頭を下げる集団。この集団が、現在この世界を支配している。本人が望まぬまま男の名を勝手に掲げ、人々を導くのだと言いながら、振りまいているのが恐怖であることを男は知っていた。
 それでも、自分は玉座の上でふんぞり返っているだけだ。
 灰色の集団からは何も知らされず、ただ「お導きを」と頭を下げられる存在。
 自分は何も手を下すことはない。そこにいるだけで、存在自体に意味がある。
 お飾りの、教祖様。
 男は天井を仰いだ。豪華なシャンデリアがきらきらと光を投げかけている。
「……つまらないな」
「何か?」
 戸惑う灰色の集団にふっと笑った男は、急に玉座を蹴って立ち上がった。
「つまらない、って言ってるんだよ!」
 叫んでから、自分は何を言ったのだろう、と思った。自然と口から出てしまった言葉は、灰色の集団を混乱させるのに十分だった。にわかにざわめき始めた灰色の集団の中で、ずっと頭を下げていた老人が絶望にも似た表情で男にすがりつく。
「な、何をおっしゃる」
「わかんない奴らだな。俺は、教祖なんてうんざりだ! 未来を知ってるからって何だ!」
 自分でもわけがわからないまま、男はだだっ子のように叫んだ。
「こんな茶番、全部ぶち壊してやる!」


 ――とは言ったものの、このザマなんだよな。
 思ったところで、今まで見ていたものが夢だと気づいた。夢といえ、過去の情景がそのまま浮かび上がったものだったが。
 早まったのだろうな、と男は思う。突発的な激情に駆られて教祖の座を蹴って、それからどうしようなどとは考えなかった。ここに来て何年か経つが、いくら連中が彼に対して事実を隠していようとも、世界の状況はわかっている。
 男を教祖と仰ぐ灰色の集団が結成した『灰燼教』。それがこの世界の全てだ。未来は灰燼に帰すと定められ、世界の終末を防ぐために民衆を導く、という教団は、停滞期を迎えたこの世界に浸透した。教団の中枢を担うのは政治でも経済でもトップクラスの人間ばかり。
 それこそ世も末だな、と男は思う。
 もちろん、教団の教えを支えているのは自分自身だと、わかってはいるのだが。
「で、ここはどこだ……」
 男はぼんやりする目を瞬かせて呟いた。白い天井、白い壁。病院か何かだろうかと思ったが、それにしては不衛生で、あちこちに穴が開き、蜘蛛の巣が見て取れる。最低でも、自分が住んでいた場所ではない。
 あと、死後の世界でもなさそうだった。
「あ、目が覚めました?」
 声が降ってくる。男はそちらに体を向けようとしたが、腹を貫かれた痛みが蘇り、ベッドの上で体を曲げて情けない声をあげる。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫……多分、ね」
 本当に情けないな、と思いながら駆け寄ってきた声の主を見上げる。綺麗な青い目の少女だ。声から判断するに、ベンチに座っていた彼に傘を差しかけたのも彼女だったのだろう。少女は男の言葉を聞いて、少なからず安堵したようだった。
「よかった。手当てはしたんですけど、目が覚めないから心配してたんです」
 ふわり、と笑う少女を見て、男も自然と微笑んでいた。こんなに自然な気持ちで笑えたことなんて、ここ数年では一度もなかった気がする。
「えっと……ここはどこかな? それに、君は」
「すみません、申し遅れました。わたしはマグノリアって言います。それで、ここは」
「マグノリア、いるか!」
 ばん、と乱暴な音を立てて部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。マグノリアは微かに眉を顰めて叱責するような声色で言った。
「シード! ケガ人の前ですよ」
「悪い悪い、だがこっちもケガ人だ。教団の連中、この近くをうろつき始めやがった」
「では、ここも破棄ですか」
「ああ。だが今はケガ人の手当てが先だ。入り口のところに転がしてある、行ってくれ」
「わかりました!」
 ごめんなさい、お話の途中ですけど、と言い置いて、マグノリアはぱたぱた足音を立てて部屋を出て行った。男はただ、それを見送ることしかできなかった。部屋の中に残ったシードと呼ばれていた屈強な男も、マグノリアの背中をじっと見つめていた。
「……あの」
 やがて、マグノリアの姿も完全に見えなくなり、男は耐え切れなくなって口を開いた。シードの視線が彼を射るが、いかつい顔立ちに似合わず、妙に優しげな目をしていると思った。
「悪い、ちょいとごたついててな」
「いや、それはいいんですけど、教団って」
 戸惑いと共に放った男の言葉をどう受け取ったか、シードは苦笑する。
「ああ、兄ちゃんは民間人か。マグノリアの奴、あれほど民間人には関わるなって言っといたんだが」
 だが、それは男の問いへの答えにはなっていない。男は続けて聞いた。
「もしかして、教団と敵対してるんですか?」
 シードの苦笑が深まる。頭をかいて、言い放つ。
「まあ、そんなところだな。俺たちは、まあ言うなればレジスタンスってところだ」
「レジスタンス……」
「おう。教団に納得できねえ馬鹿な連中の集まりさ。俺も、さっきのマグノリアもな」
 言ったところで、マグノリアと他数人に連れられて、怪我を負った男たちが慌しく運び込まれてきた。男は思わず目を逸らしてしまう。別に、怪我を見るのが嫌だったわけではない。
 ただ、それが教団によってつけられた傷であることに、後ろめたさを覚えて。
「心配するな、兄ちゃん。兄ちゃんがどこで鉛玉もらっちまったのかは知らねえが、とにかく教団の連中に気づかれないように、家に帰してやるからな」
 シードはあくまで、男が何も知らない民間人だと思っているのだろう。好都合ではあるが、腹の痛み以上に胸が痛むのを抑えられない。
 抑えられないけれど、今はただ。
「あの、シードさん」
「あん?」
「俺、行くところがないんです」
 そう、言うことしかできなかった。
 シードは男が何を言い出したのかわからなかったのだろう、細い目を見開いて、二、三回瞬かせたが、すぐに深い同情を顔に浮かべた。
「……奴らに追われたのか?」
 教団は、彼らの教義に反する者、また彼らの導きに支障をきたす者を切り捨てていく。ある意味では理に叶った手法であるが、それによって道を失った者は数知れない。男の少ない説明を受けて、シードは彼をそんな一人だと思ったに違いない。
 シードが思っている事態とは全く違うが、追われている、というのは間違いではないので、男はこくりと頷いた。
「そうか。なら俺たちについてくるか? お前さん、戦いにゃ向かなそうだが、その他にもやらにゃならんことはいっぱいあるからな」
「いや、でも、俺は……」
 男は口ごもる。よく考えてみると自分の居場所を教団に嗅ぎ付けられれば、見ず知らずの助けてくれたマグノリアや、自分を気遣ってくれるシードに迷惑をかけるに違いない。
 シードは彼の頭をぽんぽんと叩いた。
「何、気にすんな。何なら怪我が治るまででもいい。その間に、行く場所を探しな。それじゃ、俺もちょいとマグノリアを手伝ってくっから」
 絶えず動き回るマグノリアの元に駆け出したシードを見送ってから、男はぎゅっと目を閉じる。
 ――自分はいつもこうだ。こんなことで、自分に何ができる?


 世界は、灰燼に包まれていた。
 全ては取り返せない終わりに向かって動いていた。
 最後に残った一握りのニンゲンは身を寄せ合い、一つの策を練った。
 自分たちの中の一人を過去の世界に送り、この絶望的な未来を書き換えるという策を。
 それは途方もない上に残った彼らにとっては救いとも言えない策だったが、終わりを迎える彼らは既に救いなど求めてはいなかった。ただ手をこまねいて滅び行く世界を見ているのが我慢ならなかった。
 こうして、残ったニンゲンの手によって時間を越える機械が作られた。しかしこれによって時間を越えられるのはたった一人。しかも、決して戻れない、一方通行の旅。
 選ばれたのが、残ったニンゲンの中でも一番若い男、リベルだった。
 リベルは終わる世界に背を向けて、過去に向けて旅立った。どこを書き換えれば歴史を変えられるのかなど、わからない。自分が過去に行っても、未来が変えられるのかすら、わからない。
 それでもリベルは振り返らなかった。
 終わる世界を、見たくなかったのかもしれない。
 過去に辿りついたリベルは、まず希望を抱いた。初めて見る人の波、人と人との争いが多く混沌とはしているが活気に満ち溢れた世界。これが自分の世界だったのか、と明るい気分になった。
 しかしすぐにそれは絶望に変わった。
 何しろ、自分の言葉を信じる人間が一人もいない。それはそうだ、時間を越える方法など、この時代には考えられてもいなかったから。
 誰もがリベルを笑い、リベルは途方に暮れた。自分には結局何もできないのだと腐れ、元いた時代には考えられなかった刹那的な快楽にも流されかけた。
 そこを救ったのが、一人の老人だった。
 灰色の服を身にまとった老人は、リベルの言葉を信じてくれた。それどころか、リベルが未来から来たこと、未来の現状を皆に伝え、未来を変えるために共に協力するとまで請け負ってくれた。
 リベルは素直に喜んだ。自分には重荷であった未来を救うという大役も、これで果たせると思った。もちろん、もう未来に帰ることはできないが、それはそれでよかった。自分はこの希望に満ち溢れた過去に生き、なおかつ未来も救えるのだ。
 最高ではないか、と。
 思っていたのは結局、ほんの一瞬のことだった。
 ――何もかも気づかないほどにバカだったら幸せだったのに。
 結論から言えば、あの老人に体よく利用されたのだ。未来からの意志を伝える存在として『灰燼教』の教祖に祭り上げられたリベルは、玉座から一歩も動かないまま、老人が世界に『リベルの意志』という名の歪んだ言葉を広めるのを見ているしかなかった。
 混沌としていた世界は、教団が説く未来の『意志』に基づいて秩序立ったが、反面闇も生んだ。教団に対する反感は、抵抗組織……レジスタンスという形で争いを続けている。
 リベルはそれを知っていて、何をするでもなかった。
 何も、できなかった。
 何も気づかないほどにバカではないが、何かを成せるほどに賢しくもない。
 今となっては、何故未来に残されたニンゲンは自分を選んだのだろうかと思う。別に未来を救うことなど期待してはいなかったのかもしれない。ただ、一番若いリベルが生き延びることを望んだのかもしれない。
 ――都合よすぎる解釈だよね。
 リベルは笑う。自嘲をこめて。
 そして何が変わったのかもわからないまま、時間だけが過ぎていく。
 リベルがレジスタンスに身を寄せてから、既に数日が過ぎていた。
 止まない雨が、降り続けていた。


 教団が攻めてきた。
 シードがそう言ったのは、ある雨の日の朝だった。リベルは思わず体を硬くした。だが、それはその場にいたレジスタンスの全員がそうだったので、リベルの反応を不自然に思った者はいなかった。
 リーダーのシードは、握り締めた拳を突き上げる。
「手前ら、覚悟を決めろ。決してこれは俺らに優位な戦いじゃねえ」
 世に数あるレジスタンスだが、シードが率いているこの組織は、多くの人数を擁してはいない。その上、半数以上は非戦闘要員だ。元々、教団に反感のある人間をシードが手当たり次第に集めて作ったというこの組織に、教団と真っ向から戦えるほどの力などない。
 ただ、ここには奇妙な連帯感と、温かい何かがあった。
 リベルは床に座ったまま膝を抱える。この数日の間、誰もリベルの素性を疑わず、仲間になるとも言っていないのにまるで数年来の友であるかのように扱った。
 何故そんなに優しくするのかと、一度は不思議に思ってリベルは聞いた。何しろ、灰に包まれた未来を発った時以来、教祖として玉座に座っていた時ですら、ここまで温かく触れられたことはなかったから。
 だが、聞かれた誰もが、何を言っているのだと笑った。
「理由なんてないよ、そうしたいからさ」
 ――理由なんてない、か……
 リベルは、仲間に向かって演説を続けるシードを見やった。シードは熱く、言葉を続けている。明らかに、負け戦だというのにも関わらず、言葉を聞いている全員が決して希望を失っていないことはわかった。
 きっとそれにも、『理由なんてない』のだ。
 リベルにはわからないが、何となく、背中を押されているような気がして息苦しい。
 そんなリベルの肩を、マグノリアが叩いた。
「傷、まだ痛みます?」
 多分、リベルの表情からそう思ったのだろう。リベルは慌てて首を横に振った。
「いや、そうじゃない、けど」
「そう……ごめんなさい、巻き込んでしまって」
 マグノリアはぺこりと頭を下げた。心底申し訳ないと思っているらしい。
「謝らないで。皆に甘えてずっとここにいた俺も俺だよ」
「ですが」
「あのさ、俺にも、何かできることってないかな」
 リベルはマグノリアの耳に顔を近づけて小声で問う。シードの演説で盛り上がっている中で、水を差したくはなかった。マグノリアはそれを聞いて、少しだけ安心したように微笑んだ。
「怪我した人の手当を、お手伝いしていただけますか?」
「オーケイ」
 言ってから、リベルは目を伏せる。
 そんなことで、自分の心の中にあるもやもやしたものがどうにかなるとは思わない。逆に胸が詰まるような思いを背負うだけ。


 あの時も、そうだった。
 手に持ったものは、子供の頃の思い出である小さな玩具だけ。
 心の中に抱いたものは、不安と、背中を後押しされているような不快感。
 時間を越えるための狭く小さな鉄の箱の中で、リベルは目を閉じた。
 闇に閉ざされた世界の中で、もう二度と聞くことのできない仲間たちの声を聞きながら。
 リベルはただ。
 怖くて、目を閉じていることしか、できなかった……


 ごうん、という音でリベルは思い出から引き戻された。
 窓の外を見れば、既にシードが先頭に立って灰色の軍服をまとった教団軍と戦っている。遠い未来から来たリベルから見ればお互い随分と原始的な武器を使っているが、それでも教団の持つ武器の方がよっぽど進んだものであるらしい。
「すみません、お願いします!」
「うん」
 マグノリアの切羽詰った声に、リベルも立ち上がる。運び込まれた男は、肩を酷くやられている。リベルはマグノリアに言われるまま動きながらも、どうしても窓の外の戦いに気を取られる。
「気になりますか?」
 マグノリアはそんなリベルをよく見ていた。リベルは素直に頷いた。
「何で、あの人たちは、戦えるんだろう」
 どうして、戦える。どうして、恐怖に打ち克てる。自然と震えてしまう体が恨めしい。震えながらも、窓の外を見ずにはいられない。
「怖くないのかな。俺には、わかんないよ」
「怖いですよ。わたしも、シードたちも」
 リベルは驚いてマグノリアを見るが、マグノリアはあくまで穏やかに、笑っていた。
「でも、戦わずにはいられないんです。皆、教団のやり方をおかしいって感じてて……だけど、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「きっと、動かずにはいられないんです。戦わずにはいられないんです。理由なんてないんだと思います」
 まただ。
 また、理由がないと、言う。
 理由もないのに命を投げ出すなんて、バカげている。そう思うのに、窓の外で戦っているシードたちを笑うことなどできない。彼らは本気で戦っている。理由などなくて、ただそこに存在しているのは……

「どうして俺なんだ! 俺は何もできない!」
「何でって?」
「バカなことを聞くんじゃないよ、リベル」
「俺たちが、そうしたかったからさ」

 ――『そうしたい』という、意志だ。

 リベルははっと顔を上げた。
 震えは容赦なく増していく。思い出すのは、未来を旅立つ時に見た、皆の笑顔。後悔などないと笑った仲間たちの言葉を今更思い出していた。
 何も、違わないじゃないか。
 未来も、過去も。
「……どうしました?」
 マグノリアは不思議そうな顔でリベルを見る。だが、リベルは気づかず窓の外を見つめ続けた。やっと、わかったような気がするのだ。自分を追い立てようとする気持ちの正体、ずっと存在した胸の中の圧力。
 ――さあ、行け。
 胸の中で何かが囁いた気がした。
 リベルはぱっと立ち上がって、マグノリアに言った。
「ごめん……俺、行ってくる!」
「え、ちょっと!」
 呼び止めるマグノリアを振り切って、リベルは駆け出した。壊れかけている階段を飛び降りようとして、足をくじいた。ずっと玉座にふんぞり返っていたせいで、体力も衰えている。
 だが、走るのを止めるわけにはいかない。
 理由などない。
 もう、理由など求めない。
 無謀だと冷静な部分が笑うけれど、今だけでも、背中を押す気持ちを信じる。
 リベルは戦場に駆け出した。廃墟となっている病院、拠点を守るようにして布陣を組んだレジスタンスは明らかに押されているが、戦意は失っていない。鼓舞するシードの声が響き渡る。
 体が震える。震える体は既に自分がここにいるべきではないと悟っている。だが、もう戻れない。戻れないのならば、進むだけ。
 力の入らない手で、ポケットの中に入っているものを引き抜く。それは、未来から旅立つ時に唯一持ってきた小さな玩具。自分が未来で過ごした日々を忘れないためのもの。
 エネルギーが一発分残っていることを確認して、空を見た。雨を降らせ続ける空を見上げて、無理やりに、笑う。
「止まれっ!」
 叫んで、空に向けて引き金を引く。
 玩具から放たれたのは、天に向かって伸びる太い光の帯。古い光線銃を改造した、殺傷能力などない正真正銘の玩具だ。だが、光線銃など存在しないこの時代、全員の手を止め、目をそちらに向けさせるのには十分。
「……な、何だ?」
 呟きをもらしたのは、灰色の軍人だった。リベルは硬い笑顔のまま、シードの横に駆け寄った。シードは驚きを浮かべてリベルを見ている。また、全員がリベルを凝視している。
 リベルはすうと息を吸ってから、言った。
「全員、武器を下ろせ。戦いは終わりだ」
「何を言う?」
 教団の軍人は、武器をリベルに向けるが、リベルが銃をちらつかせると、ぐっと呻いて下がった。
 そして、教団軍を率いているのであろう、ひときわ立派な軍服に身を包んだ男が、リベルの姿を観察した後に、ついにあっと声をあげた。
「まさか、リベル様!」
「なっ」
 教団軍の驚く声を受けてリベルは笑う。
「そうだ。俺がリベル・ラクーンテイル……お前たちの教祖だ。疑うっていうんだったら、こいつをもう一発撃つぞ」
「だ、だが何故、リベル様がこのような輩に」
「お前たちは上に踊らされてるんだ。お前たちのしていることは、未来を救うことなんかじゃない」
 本当に未来を救えるかどうかなど、今のリベルにはわからない。だが、ここで言葉を止めるわけにはいかない。
「俺はお前たちが導く未来なんて望まない。故に教団を去った! もう、お前らに正しさなんか求めない!」
 シードは呆気にとられてリベルを見ていたが、リベルはそんなシードににっと笑いかけて見せた。明らかに虚勢だが、それでも少しだけ気が晴れた。改めて教団軍に銃を向け直す。
「それでも未来を導くというなら、俺抜きで頼むよ。俺は、もうお前らの人形じゃないからな」
「そんな、教祖様……」
「去れ! 去って、上に伝えることだ。俺は逃げも隠れもしないってな!」
 初めはどうするか悩んでいた様子の教団軍だったが、反旗を翻したといえ相手は教祖だ。しかも自分たちが持ち得ない未来の武器を手にしているとなれば、下手に手出しもできない。しばしの睨み合いの末、教団軍は撤退を指示した。
 リベルとシードたちはじっと、その様子を見守っていた。だが、教団軍が完全に去ったのを見ると、リベルの足から力が抜け、その場にへたりこんでしまった。手からからんと銃が落ちるが、エネルギー切れの玩具である、もう未練などなかった。
 シードは何と言うだろうか。レジスタンスの連中が、何と言うだろうか。
 ずっと教祖だということを黙っていたのだ、この場で殺されても仕方ない。そう思ってぐっと目を閉じたリベルの背を、シードは強く叩いた。
「やるじゃねえか、教祖様!」
「……え?」
「今の啖呵、気持ちよかったぜ。腰抜けとばかり思ってたが、やる時にゃやるんじゃねえか」
 それを聞いて、その場の全員が笑う。リベルだけが事態を理解できずにきょろきょろと全員を見渡した。
「え、あ、その」
「お前が教祖だってのは、お前さんを拾ってから調べさせてもらってたんだよ」
「え、えええ?」
 甲高い声を上げるリベルを見て、再び場がどっと笑う。シードはにやにやと笑いながら座り込んだリベルを見下ろしていた。
「だが、お前さんに戻る意志がさらさらなさそうだったからな、様子を見させてもらったんだが……まさか、教団相手に啖呵切るとはなあ。ははっ、気に入った」
「そう、だったんだ」
 知らなかったのは自分だけということか。リベルも思わず笑ってしまった。しばし笑っていたシードだが、すぐに「むう」と唸って腕を組む。
「しかし厄介なことになったな。お前さんが教団を離反したと知られちゃ、混乱は避けられねえぞ」
「うん……そうなんだよね」
 リベルは曖昧に答えることしかできなかった。何だかんだで教団はリベルという『未来の意志』で保っているようなものだ。そのリベルが離反した今、教団は混乱し、今まで教団に反感を抱きながら動くに動けなかった人々も動き出すだろう。
 何も考えず動いた結果、この時代に混乱を呼んでしまったことを後悔しかけたリベルの背を、シードはもう一度強く叩いた。
「辛気臭い顔すんじゃねえ、お前の信じたところを貫いて何が悪い。俺たちはお前に協力させてもらうぜ、リベル!」
 見れば、シードはリベルに手を差し伸べていた。その手を握って立ち上がり、窓から身を乗り出したマグノリアに手を振り、空を見上げる。
 雨は止み、いつの間にか光が差し込んでいた。
 リベルは誰にともなく強く頷くと、度し難いお人よしの面々を見て笑った。
「オーケイ。それじゃあ、いっちょつまらない未来でも変えてみようか!」
 歓声が、雨上がりの街角に響き渡った。


 こうして、一つの始まりが、終わる。