架羅の空

「架羅はいいね。空が飛べて」
「そうか?」
 空を飛べることが良い、とは思わない。
 私は羽を持ち、風を操り、空を飛ぶ。そういうものなのだから、良いも悪いもない。人間が、私の見たことあるどの動物よりもしっかりと二本の足で立ち、器用な指先を持っているのと変わらないはずだ。
 それにも関わらず、あの女は笑ってのたまった。
「羨ましい。あたしみたいな人間にできることは」
 青い、青い空に手を伸ばして、浮かぶ雲を掴もうとするように、指を広げる。
「馬鹿みたいに手を伸ばすことだけ、さ」


 りぃん。
 高い鈴の音がまどろみを破って響き、私は夢から引き揚げられる。
 どうも風が鳴らしているわけではないようだ。嗅ぎ慣れた風の匂いに混ざって、人間の匂いが鼻につく。
 ――誰か来たのか。
 立ち上がり、先刻まで寝床にしていた枝を蹴る。揺れる枝に括りつけられた銀の鈴を鳴らして。
 勢いをつけて、私は一気に寝床の上まで駆け上がる。背中に絡みついていた風はすぐに羽を持ち上げる力に変わり、体がふわりと持ち上がる。枝の鈴を鳴らしながら天辺にたどり着けば、朝日を東の空に浮かべる青い空と、見渡す限りの緑の白鈴山が広がっている。
「ふむ」
 今日もいい天気だ。風の機嫌も悪くない。私は片足だけで木の天辺に立ち、大きく伸びをする。もちろん一緒に自慢の羽を広げることも忘れない。
 自慢?
 不思議なものだ。あって当たり前のそれを自慢と思うなど、今まで考えたこともなかったではないか。人間の戯言を真に受けてしまったのだろうか……私らしくもない。
 頭を軽く振って鈴の音に耳を傾ければ、段々と近づいてくる鈴の音が、人間の匂いを濃く滲ませ始めた。此処を何処だと心得ているのだろうか、あの女といいこの人間といい、近頃の人間は分不相応という言葉を知らないと見える。
 目を凝らすと、遠くの木々に隠された姿が見て取れた。痩躯の若い男が一人。村の人間ではないようだ。もし村の人間ならば、私の山に供物も持たず踏み入るわけがない。
 確かにあの女も、供物など持ってはいなかったが。
「少し、からかってやるか」
 あの女を思い出すたびに胸に引っかかる忌々しいものを振り切り、羽を大きく羽ばたかせ、何もかもを吹き飛ばすように、高らかに笑う。人間の耳には轟々と聞こえる私の声を聞いた男は、体を強張らせ見当違いの方に目を向けた。
「……何だ」
 離れていても、山の中にいる限り声は私の耳に届く。戸惑いの声を乗せた風が、私の耳をくすぐった。私は可笑しくなってにぃと笑みを浮かべ、なお轟々と笑う。声に応えるようにして、木々も揺れて枝の鈴を鳴らす。
 別に何をしようという心算もない。人間は好かぬが、嫌うわけでもない。だが、白鈴山は人間を受け入れるには少々荒々しい、それを思い知らせてやるのが山の主である私の務めである。
「風、いや」
 轟々、と渦巻く声に、男は空を見上げた。
「天狗、か」
 私はぴたりと笑いを止める。
 急に静けさに包まれた木々の間で、痩躯の男は立ち尽くす。人間の不自由極まりない目では、最も山深い場所にいる私の姿など、豆粒ほども見えないに違いない。それでもなお、目を凝らして私の姿を探しているように見えた。
 背筋を伸ばし、虚空を見やるその姿は、あの女の立ち姿によく似ている。
 届かない天を仰いで目を輝かせた、あの女に。
 しばし息をするのも忘れて私の姿を探していた男は、すうと深く息を吸い込んで声をあげた。細い体の何処からそれほどの力が出るのか不思議なほどの大声で。
「天狗よ、白鈴山の天狗よ!」
 村の衆であれば私の怒りを恐れ、大声で呼ばわることなどせぬ。もしこの場に村の衆がいたならば、男の口を塞いで引き倒していただろう。
 だが私は、心地よい口上だと感心する。
「俺の声を聞いているなら応えろ、主に問うべきことがある!」
 山の主を微塵も恐れぬ物言い。
 ――気に入った。
 私は髪結い紐の鈴を鳴らして、枝を蹴った。枝にたわわになった鈴がひときわ大きくりんと鳴った。


 そう……あの女もまた、私のことを恐れはしなかった。
「どうしてこの山の木には、こんなに鈴が括りつけてあるんだい?」
 目の前にぶら下がった枝の鈴を揺らして、私に聞いたものだった。
 いつこの山が白鈴山と呼ばれるようになったかは私も知らない。私が山の主になった時には、この山は既に白鈴山だった。無数の鈴に飾られた木々が包む、私の山だ。
「村の人間が、天狗を恐れるからだ」
 私はにぃと笑って言う。私の笑みを見れば、村の衆は山の奥の奥に連れ去られると恐れるものだが、あの女だけは違った。私と共に笑う、ただ一人の人間だ。
「へえ、どうしてそれで鈴なんだい?」
「私が飛べば風が吹く。私が笑えば風が吹く。私は風を連れているから、木々が揺れて鈴が鳴るだろう。それで、村の衆は私が近づいていると気づいて逃げるのだ」
 嵐で山全体の鈴が鳴り響く日は、天狗が怒っていると。
 鈴が鳴らない凪いだ日は、天狗が眠っていると。
 時にはわざと鈴を鳴らし山に入ってきた村の衆を脅かすこともあった。あの時の怯えようは思い出すだけで笑いが込み上げる。あの女も私の話を聞いて、腹を抱えて笑った。
「それなら、木じゃなくてお前の体に鈴をつけたらいいじゃないか」
 それは無理な相談だ。私を恐れる村の衆が、私に近づけるはずもない。
 だが、あの女に関してだけ言えば話は別だった。
「つけるとしたら、何処がいいだろう」
「そんなに綺麗な髪なんだ、紐を貸しておくれよ、髪を結う紐に鈴をつければいい」
 あれは本当に器用な娘だった。すぐに小さな銀の鈴を両端につけた蘇芳の紐を作り、髪を結った。頭の上で、馬の尾のように結われた髪。あの女はそれを見て満足そうに笑った。
「ほら、似合うじゃないか」


 小さな鈴を鳴らして山の奥から裸足で歩いてきた私を見て、男は目を丸くした。
「……女子?」
「女子とは随分な物言いだな」
 男の前に歩み寄った私はにぃと笑い、手に握った扇を一振り。刹那、突風が豪、と音を立てて駆け抜ける。木々に括り付けられた鈴が木の葉のざわめきと共に高い音を立てて揺れた。
 この風をまさか偶然とも思うまい。天狗の扇は山の風を操る、そのくらいは山の人間でない男もわかっているようだった。
「お前が、この山の天狗なのか」
 応、と答える代わりに笑みを深める。それで十分だ。
 天狗とはいえ、私の姿かたちは人間とさほど違いはない。羽と爪さえ隠してしまえば、ただの女子と大して変わらぬ。もちろんそれは見た目だけの話だ。この山と生きてきた年月は、村でもっとも年を重ねた翁よりもはるかに長い。
「ほぅ、山の主が女子の姿をしていてはおかしいか?」
 私は手にした扇をくるりと回す。そよ風が結い紐の鈴を鳴らす。
「私は白鈴山の天狗、架羅だ。人間、名は何ぞ」
 男はまじまじと私を見つめていたが、やがて深く頭を下げて言った。
「俺は葛葉風次郎と申す」
「ほぅ、葛葉……」
 葛葉といえば、白鈴山を含めた此処一帯を治める人間の一族ではないか。なるほど、体躯や年齢に似合わぬ堂々たる振る舞いは出自から来るものだったか。また、村の衆が何も私に断らずこの者を山に入れたのもこれで理解できた。
「して、葛葉の若造が何の用だ。人間を拒むこの山に踏み入るとなれば、それなりの覚悟あってのことだろうな?」
 風次郎は、私の問いにぐと息を飲んだ。
 言えぬなら、立ち去ってもらわねばならぬ。私はともかく、それでは山が納得せぬ。私は山の主だが、山そのものではない。この男を認めるかどうかは私ではなく山が決める。
 言葉には出さなかったが、風次郎も私が言わんとしていることは承知しているのだろう。風に舞う一枚の葉を目で追いながら、口を開いた。
「御前の山に許しもなく踏み入ったことは謝る。だが、無礼を承知で聞かせて欲しい」
「ほぅ、聞こうか」
「此処に、春菜という娘が来なかったか」
 今度は、私が言葉を失う番だった。
 春菜。
 忘れもしない。
 それが、あの女の名だった。


「春菜、そんな荷物で何処に行く」
「ああ、架羅。やっと出来たんだよ!」
「何がだ?」
 木の上の私を見上げて、春菜は無邪気に笑う。男物の作務衣を纏う春菜は、ある時から私の棲家である社に住み着いていた。初めは山も無礼な春菜に怒っていたが、やがて諦めたのだろう、この頃には既に常と変わらぬ静けさを取り戻していた。
 そして山の主である私は、物怖じという言葉を知らぬ春菜を嫌うわけがなかった。
 その日は風が静かに流れる日で、山の鈴も小さな音をせせらぎの音に似せて響かせていたと思い出す。社から大きな荷物を背負って出てきた春菜は、首を傾げる私に心底愉快そうに笑いかけた。
「丘の上まで来てくれればわかるさ」
「ほぅ、随分と焦らすのだな」
 私も、そう言って笑い返したものだった。


「知っているのか」
 風次郎は言う。敢えて黙っている理由も無い。私は首を縦に振った。途端、風次郎は私の肩をがっしと掴んだ。肩に痛みは感じないが、鬼気迫る風次郎の目には、こちらが気圧されるだけの力が篭められている。
「やはり、春菜を知っているのか! 教えてくれ、あれは今何処に……」
 故に。
 私は喉に絡まる言葉を吐き出すのに、しばしの時を要した。
 木々を渡る風に、鳴り響く鈴のざわめきに紛れてしまえばよいのに、と思いながらも、風次郎の誠意に応えるために、真っ直ぐに黒の目を見据えて言葉を放つ。
「死んだ」
 まさか。
 風次郎の唇は声にならぬ声でそう、言っていた。
「まさか、御前が?」
「勘違いするな。私があれを殺す理由など無い。いや……」
 応えなければならぬ。わかってはいるが、目を逸らさずにはいられない。風次郎を見据えているのが辛いというわけではない……どうしても、風次郎の黒の目を見ていると、春菜の笑顔を思い出してしまうから。
「私にも責はある。風を読める私が、止めることができなかったのだから、な」
 私の言葉に、風次郎は何を思ったのだろうか。息をつき、天を仰いで……私ではなく、もう何処にもいないあの女に向けて、呟いた。
「そうか……あいつは、飛んだか」
 風が、鈴の音を運ぶ。


 あの日のことは、今も目蓋に焼き付いて離れない。
 この山で、唯一鈴のなる木々を持たない丘の上で。
 春菜は、木の棒を組み合わせ、油紙を張り合わせて作った、不恰好にもほどがある大きな羽を背負っていた。社で寝る暇も惜しんで作っていたのは、この羽だったのだ。
「どうだい、架羅。あんたの綺麗な羽には似ても似つかないけどね」
 だが、人間が飛ぶためには斯様な羽が必要なのだと春菜は笑った。
 人間は鳥でなければ天狗でもない。羽もなく、風を操る術もない。それでも春菜は空を目指した。届かぬ空に手を伸ばし続けて、空に届く羽を自らの手で作ってみせた。
 きっと、世の人間は春菜を笑うのだろう。私は人間と離れて久しいが、人間というものは、自らの分に合わぬことをする者を笑う生き物だ。それは時を経てもさして変わらないだろう。
 春菜がどうして空を目指したのかは知らぬ。人間の分に合わぬ望みを抱いた春菜が、何故この山に来たのかも知らぬ。
 私は春菜について何も知らないし、問うたことも無かったが、それでも不恰好な羽を背負った春菜を笑うことなぞ出来るはずもなかった。
 ただ、眩しかった。


「……此処で、春菜は飛んだ」
 私は丘の上に立って、春菜が飛んだ場所を指差した。風次郎は、神妙な顔で私の指先を見つめていた。いや、示す先に羽を背負って立つ春菜の姿を探している風でもあった。
「羽に風を受けて、高く舞い上がった。春菜はどのような風を掴めば飛べるのか、わかっていた。風の見える私から見ても、間違いなど一つも無かった」
 青空に舞い上がる、白い凧のような羽。風に吹かれた春菜は、高く、高く、歓声を上げて昇っていった。自然、私の目も春菜が昇っていった場所を見ていた。其処にもう、春菜はいないというのに。
「だが」
 扇を強く握りなおす。爪が手の平に食い込むほどに、強く。
「思わぬつむじ風が、吹いた。呆けてあれの羽を見つめていた私は、気づくべきことに気づけなかった。風は決して強くない羽に容赦なく襲い掛かり……」
「落ちた、のか」
 風次郎の声は、存外はっきりしていた。春菜が死んだと聞いて、既に其処までは思い及んでいたのであろう。私は頷いた。
「羽はあっけなく折れた。私も春菜を追って飛んだが、高みにまで昇りつめたあれに追いつくことなど、できなかった」
 そして、空から落ちた場所へと目を移す。丘の向こうは深い谷、流れの速いことで知られる白鈴ノ川が今も音を立てて流れていることだろう。春菜が其処に落ちたところまでは見届けたが、それ以上のことは何もわからん。
 伝えると、風次郎は何かを堪えるように唇を噛んでいたが、やがて言った。
「春菜は、俺の妹だ」
 言われても、さほど驚きはなかった。空を見つめる黒の目は、春菜とよく似ていたから。
「あれは昔から変わり者でな。気づけば、奇怪な羽の絵を描いていたが、それが高じて職人から端切れや木っ端を仕入れてきては、羽を作るようになった……親父は春菜の考えがわからなくて恐ろしかったのだろう、春菜に決して家から出るなと言いつけた」
「……して、逃げ出したのか」
「あぁ。空に一番近い山に行く、と書き残して出て行った。言われたとおりに大人しくしている娘などではないと、親父もわかっていたはずなのに、な」
 苦々しげな言葉ではあったが、奇妙にも風次郎の目からは言葉とは裏腹に微かな羨みすらも見て取れた。
「風次郎。主は春菜の望みを如何に思う」
「馬鹿馬鹿しいと笑ったよ。初めはな。だが……今は羨ましいかもしれん」
 春菜は夢物語としてではなく、真に空を目指し、自らの羽で飛んだのだ。最後に待っていたものが死であったとしても。
「誰が、あれを笑えるか」
 凛と背を伸ばす風次郎の言葉に篭められた思いは、深い悲しみと、限りない敬意だ。私は心の奥にあった忌々しい思いが静まるのを感じていた。
 そうか。
 私は、これを望んでいたのだ。春菜の願いを受け止め、認める者を。届かぬ空を望む春菜の思いは、元より空に棲む私とは相容れない。自由に空を飛ぶ私では真に春菜の思いを受け止めることなど出来まい。
 だが、この人間ならば、託すことが出来る。
 風次郎は私に向き直ると深々と頭を下げた。
「御前に疑いをかけてすまなかった。春菜の望みを見届けてくれたこと、感謝する」
「それ以外には何も、出来なかったがな」
 構わない、と風次郎は微かな笑みを浮かべてかぶりを振り、短い別れの言葉と共に私に背を向けようとした。
「待て、風次郎。主に預けるものがある」
 私は帯に挟んでおいた巻紙を風次郎に手渡した。風次郎は巻紙を開いて目を丸くした。
「これは」
「形見だ。どう使うかは主次第だがな」
 中に描かれているのは、春菜の羽だ。どのような物を使い、どのくらいの長さでどのように作るのか、その全てが書かれている。元より羽を持つ私には必要のないものだ。風次郎がぐっと巻紙を握り締めたのを見届けてから、私は背を向ける。
「……ありがとう!」
 背中にかけられた声にも振り向かず、にぃと笑う。

 ――確かに託したぞ、春菜。

 草を蹴って、空へと羽を広げる。
 羽持つ者が飛ぶこの空に、羽無き者が飛ぶその日を夢見よう。
 それが、羽持つ私が空を夢見た娘に出来る、ただ一つ。