現代悪役概論

 重たい扉を開けて薄暗い店内に足を踏み入れると、そこが一種異様な空気に包まれていることに気づく。もちろん、俺はその原因がカウンター席に陣取っている一人の男であることをよく理解していた。
 カウンターにはその男以外誰も座っていない。
 いや、誰も座りたいなどとは思わないだろう。俺だって座りたくない。
 だが、残念ながら俺は、この男に呼び出されて今この場所にいるのである。遠目に男を見ていた他の客の視線を背中に感じながらも、俺は男の横に座る。
「よう」
「おう」
 男は目を上げて、小さく返事をした。
 ……相変わらずだな、と思う。
 地味なスーツに身を包み、縁のない眼鏡をかけたその姿だけを見ればどこにでもいるような普通の会社員のようだが、この男は常に血の匂いを染み付かせ、殺気にも近い雰囲気を身に纏い、常人にあるまじき鋭い眼光を持つ。
 それこそ、表の世界の住人でないことは俺でなくとも一目でわかる。
 だが。
 そいつが酒のつまみを前にべろんべろんに酔っ払っているところを見れば、脱力の一つもするもんだ。
「呼び出して悪かったな」
 ちなみに、便宜上鉤カッコ内では普通に喋っているように表現しているが、実際にはほとんど呂律が回っていない。きちんと聞き取れるのは……俺が、ことあるごとにこいつの飲みに付き合わされているからだ。
「いや、構わないさ。明日は店も休みだからな。それより、どうしたんだ?」
 わかっている。どうしたもこうしたもない。俺が呼び出される理由は常にただ一つなのだから。
 奴は酒の入ったグラスを強くカウンターに叩きつけ……まあ割れなかったところを見ると、無意識に手加減はしていたのだろうが……大声で言った。
「聞いてくれ……何故、何故奴らは我ら優良種の崇高なる任務をことごとく妨げるのだっ! この世は優良種に支配されるべくして存在するのだ!」
「うるせえ、少しは声を下げろ! 恥ずかしい!」
 そんなアホな話を大声でのたまうな。頼むから。そういう切なる願いを込めて、俺は思いっきり奴の後ろ頭をぶん殴った。


 奴は、要するに「悪の秘密結社の一員」だった。
 いや、「悪の」というのは俺の勝手な解釈だが、奴に言わせてみると「今までの劣悪な人類に代わって我々のような優良種が世界を支配する、そのための組織」ということなので、俺が普通に考える限り奴は「悪の秘密結社の一員」だと思われる。
 で、奴が言うには奴のような「優良種」の人間というのが何だか不思議な力を持っているらしく、その力で世界を変えようとしているとか何とか。俺も奴の変な力は知っているし見たこともある。だから何だ、という感じだが。
 だが、「悪の秘密結社」があるということは、「正義の味方」というやつもいるらしい。俺たちのような一般人には知られていないが、奴の言う「優良種」でありながら現状維持を望む連中がいて、そいつらは一般人に気づかれる前に、秘密結社の破壊工作や支配計画をことごとく潰して回っているらしい。ご苦労さん。
 しかしそうされては困るのが、奴なわけで。
 その度に、俺は奴の愚痴と飲みに延々と付き合わされる羽目になる、わけで。


「いいか、劣悪種の貴様には到底理解できないだろうがな!」
 俺が来る前にとっくに出来上がっていた奴は、大きく腕を広げて迷惑極まりない演説を始めた。その言葉のほとんどが聞き取れないくらいに呂律が回らないのは、むしろ聞かされている側の俺にとっては救いだったのかもしれないが。
 ついでに、俺は自分の腕が痛くなるほどの強さでぶん殴ったつもりなのに、少しも堪えた様子がないのが憎らしい。この無駄な打たれ強さもまた、奴が「優良種」たる所以、らしいのだが。
「この世界は腐っている! 力の無い人間どもがのさばり、我ら力持つ者の存在すらも闇に葬ろうとしている。だが、本来は我々のような力ある存在、優良種こそが世界を支配するべきなのだー!」
「……最低でもお前にゃ支配されたくないな」
 本気でそう思う。それ以前に、こいつが支配する世界というのが想像できないのは、純粋に俺の想像力が欠乏しているからだろうか。いや、ありえない。原因はただ奴自身にある。
 俺は、喚きちらす奴の言葉を遮って、常々思っていた疑問を口にした。
「何で、支配しなきゃならないんだ?」
「愚問だな。より優れた種が劣った種を淘汰するのは自然の摂理であり、あるべき姿だ。劣悪種と馴れ合おうという『奴ら』が理解できん」
 「奴ら」、というのは俺が認識するところの「正義の味方」のことだろう。まあここまではいつも奴が語っていることだ。俺も賛同はしないが理解はできる。だが。
「……じゃあ、何でお前はいつもお前の言う『劣悪種』の俺と馴れ合ってんだよ」
「はっ!」
 奴の酔いが、一瞬醒めたような気がした。
 というか、お前、今初めて気づいたのか、その事実に。
 奴はグラスを片手にしばらく混乱を収めようとせわしなく目玉を動かしていたが、やがてぼそぼそと、言った。
「えっと、お、俺は寛大だからな。感謝しろ、貴様のような劣悪種も対等に扱ってやる俺の」
「言ってること思いっきり矛盾してるぞ」
 俺はずばりと言ってやった。すると、奴は完全に硬直し……次の瞬間、俺の身体にひしとしがみついた。
「ばかぁぁぁ、お前なんて嫌いだぁぁぁ」
 鬱陶しい。しがみついたままさめざめと泣くな。勘弁してくれ、周囲の目まで冷たいぞ。
 どんなに殴っても堪えないというのに、いい大人が何故こうまで精神的に弱っちいのか、と一度問いただしてみたいところだが、下手にそんなことを言うと余計に泣いてうざったいのでやめた。
 このまま放っておくのも何である。ひとまず話を変えることにした。
「で、今日は何があったんだ? わざわざ俺を呼んだんだ、何か話したいことでもあるんだろう?」
「あ、ああ、そうだったな……実は」
「今日も、『奴ら』にやられた、と」
「何故先に言う!」
「だってお前の言うことなんて決まってるだろうが!」
 奴は、話を聞く限りではどうも「悪の秘密結社」の戦闘員らしい。と言っても最底辺というわけではなく、下っ端を率いて「正義の味方」を倒しに行く……言うなれば、戦隊ものの一話に一体出てくるその日のボス、のような立場だという。この解説は俺が奴の話を聞いているうちに考え出したものだが、おそらく当たらずとも遠からず、と言ったところだろう。
 そして、毎度その「正義の味方」にやられて帰ってきては俺が迷惑する。
 何て悪循環。
「ああそうだよ、負けてきたさ! それどころか俺が出て行った瞬間に、『なーんだ、お前か』って言われて安心されたさ! もちろんその直後にぼこぼこにされたさ! 最近少しは容赦しろよとか思わないでもない!」
「いい加減バカにされすぎだろお前。しかもそろそろ弱気だな」
 何度も何度も同じ失態を繰り返せば、そりゃあ敵からもバカにされるとは思うが。
 奴はかなり強いはずの酒を一気にあおると、「もう一杯くれ!」と叫ぶ。奴が酔っ払ってよくわからない話をしていることにはもう慣れてしまったらしい、馴染みのマスターは普段と変わらぬ笑顔で奴に新たなグラスを出してやった。俺は苦笑を浮かべてマスターに会釈した。
 本当、ごめんなさい、こいつが変な奴で。
 そういう切なる思いを視線に込めながら。
「俺、よく考えてみるとお前が『勝った』って話は一度も聞いたこと無い気がするんだが」
 というか、奴が勝ってしまったらそれはそれで問題だ。奴自身についてはともかくとしても、俺のような普通の人間には理解の出来ない思想を持つ「悪の秘密結社」が一歩支配を広めてしまうのだから。俺はどちらかというと「正義の味方」の言う現状維持の方が嬉しいは嬉しい。
 が、それにしても、こいつは本当に「悪の秘密結社」の役に立っているのだろうか?
 他人事ながら、どうにも気になってしまう今日この頃。奴もおそらく俺の思いを察したのだろう、ほとんど泣きそうになりながら叫んだ。
「うるさい! 毎回対策は立てている! 今度こそ勝てるよう、前回戦った時の情報を総合し、準備をして挑むのだ! だがそれ以上に奴らは力をつけているのだ!」
「もう少し先を読め、頼むから」
 俺はがくりと肩を落とすしかなかった。そりゃあ向こうだって対策立ててくるに決まっているだろうが。そのくらい普通に考えつくだろう。
 もしかすると、奴の上司も奴と同じくらいにバカなのかもしれない。そうじゃなければこんなバカを使い続けている意味がわからない。いや、それとも俺のような愚民の考えが及ばないくらいの天才なのかもしれない。そうだったらいいなあ。
 なんて現実逃避をしているうちにも、奴の話は続く。
「これでもう十七戦十七敗だ! 危うくこの前本部から島根支部に異動になるところだった!」
「……異動しとけよ、素直に」
 異動してくれれば俺もいちいちこうやって愚痴を聞かずに済むし。というか島根にまで「悪の秘密結社」支部があるのか。ついでに一応こいつは結社の本部に所属しているのか。初耳だ。他の面子がどんな奴なのか知りたいような知りたくないような。
「バカを言うな! 俺のエリートコースをこんなところでダメにすることはできん!」
「……十七敗した地点で出世は諦めるべきなんじゃないか」
「諦めたらそこでゲームセットだ」
「意味がわからん」
 もう最悪だとぶつぶつ言いながら出された焼き鳥にかぶりつく奴。俺もやっと自分の前に置かれたグラスを手に取り、酒の味を確かめることが出来た。いつも俺が利用している店とあって、味には保証がある。
 しかし、本当に難儀な奴だ。
 今までの会話からもわかるとおり、確かにバカだが嫌な奴というわけでもないのだ。単に「悪の秘密結社の一員」で、俺とは生きている世界それ自体が違うだけ。話を聞いている限りでは随分血生臭いこともやってきているようだが、それは俺に影響しない限りでは何も言わないことにしている。現代社会を本気で憎む奴に現代社会の倫理などを説いても無駄だからだ。
 それに。
「……なあ」
 焼き鳥の串を置いて、奴がぽつりと呟いた。
「俺、どうしたら勝てるかなあ」
 バカだが、くそ真面目なこいつを見ていると、どうにも笑っているだけではいけないような気分になる。そうでなけりゃいちいちこんな辛気臭い上に恥ずかしい飲みには付き合わない。
「うーん、今のままじゃ無理だろうな。そうだな、例えば奴らの大切な人を人質に取るとか」
「この前奴らのリーダー格の恋人を人質にしたところ、恋人の方が強かった。本部の研究所壊滅」
「何だそれ!」
 どんなイレギュラーな女だ。
「じゃあ、敵情視察……スパイを送るとか」
「気づいたら二重スパイされていた。本部の戦闘員養成所壊滅」
「……いい加減信用ないな、お前の組織」
 わからないでもないが。しかし二重スパイとは「正義の味方」もなかなかやるものだ。
「なら、そういう手段を使わなくとも、お前がもう少し頭を使って立ち回ればいいんじゃないか?」
「どういうことだ?」
「今日はどうして負けたんだ? 俺に教えられる範囲でいいから教えてみろ」
「今日は、逃げられないように廃工場におびき出し、逃げられないよう戦闘員で囲んだところまではよかったのだが、どうも全体の火力と耐久力が足りなくてだな、簡単に蹴散らされてしまった」
 それは逃げられる逃げられない以前の問題だ。そろそろ自分の実力そのものでは「正義の味方」の皆様には勝てないと判断すべきだろう。搦め手がいくつか失敗したからと言って、今さら正攻法でやろうということ自体が間違っている。
「……そりゃあ『なーんだ、お前か』って『奴ら』にも安心されるわな」
「う、うるさい! 何かいい方法があるのか、言ってみろ!」
「そうだなあ……なら、お前がバカにされてるのを逆手に取る、とかどうよ」
「バカにされてなどいない! 単に安心されるだけだ! だが、どのような方法だ?」
 敵であるはずのお前が登場して安心されること自体が、バカにされていることだと気づいた方がいいと思う。だが、「どのような方法だ」と問われてしまったので、俺はちょっとだけ考える。
「安心している、ということは逆に油断している、ということでもあるだろう。何しろお前は奴らに十七回も負けているんだから、向こうさんだってお前が相手なら勝てると思っている。そこを利用するとなると……」


 あれから数日が過ぎて。
 店の片付けをしている時、奴から、電話があった。また飲みの呼び出しか、懲りないなと思って眉を寄せて携帯電話の通話ボタンを押した瞬間に、聞いたこともない明るい声が飛び込んできた。
「……聞いてくれ、勝ったんだ!」
「はあ?」
 訝しげな声を上げる俺に構わず、奴は勝手に言葉を続けた。
「貴様が立案した作戦を実行したところだな、まんまと『奴ら』が引っかかったのだ! 全員を殺すまではいかなかったが、しばらくは復帰できないほどの打撃を与えることに成功した!」
 ああ、そういえば、そんなことも言った気がする。口からでまかせだったし、酒の場の勢いというのもあって、何を話したのかはさっぱり覚えていないのだが。
 まさかあんなでまかせを本当に実行したのか。
 その上、成功までしたのか。やばい、奴をバカだと笑う前に、この「正義の味方」の連中も笑わなきゃならないのか。この世界はどうなっているんだ。本当に大丈夫かこの世界。
「貴様のような劣悪種の提言で勝利を収めたというのは納得がいかない部分もあるが、我々優良種の支配を広げる一端となったことに大いに喜び咽び泣くがよい!」
「嫌だ。ついでに手前は何もしてないんだから威張るんじゃねえ」
「はいすみませんでした」
 だからそこで反射的に謝るなよ「悪の秘密組織の一員」。本当に俺には頭が上がらないんだな。いや、根がそういう性格なのかもしれない。何にせよ「支配」とかいうものにはとことん向かない性格だ。
「と、とにかく」
 気を取り直して、受話器の向こうで奴が言った。
「我らが司令官に貴様のことを話したところ、劣悪種ながらその頭脳には感嘆すべき部分が多いと認めた」
「はあ、ありがとうございます。で?」
「司令官は貴様が我ら優良種に忠誠を誓い、その知識を我らのために生かそうというのであれば来るべき我ら優良種の世界に貴様の座を作ってやろうと提案した! もちろん貴様はこの提案を飲まないわけが」
「誰が飲むかー!」
 俺は全力で叫んで、電話を切った。切る直前に奴が何か言ってた気もするが、気にしちゃいけないのだと思う。
 ああもう、何で皆が皆バカなんだ。
 奴といい、「悪の秘密結社」の司令官といい、「正義の味方」といい。世紀末は終わったはずなのに何故こんなに世紀末。世界の行く末を語る奴らが皆バカだなんて、救いがなさすぎる。
 ああ、だからそれ以外の連中は何も知らされていないのかもしれない。
 そっちの方が、ずっと、幸せだ。
 下手に中身を知っている俺が、こんなに損な気分になっているのだから、間違いない。
 そんなことを本気で思いながら、俺はベージュのコートを羽織る。
 今日は祝杯だと言ってまたあの店に迷惑をかけているだろう奴を、止めてやるために。


 ……まあ、一杯くらいは付き合ってやっても、いいかな。