03:空を泳ぐ紅の魚(4)

 セイルは、即座に言葉を放つことができず、目を見開く。
 そう、セイルは「何故ノーグを探すのか」という明確な理由を持っていない。けれど、初めてシュンランに出会ったあの日。シュンランが笑顔でノーグに会うのが楽しみだと言った、その瞬間が脳裏に蘇る。そう、会いたいと思うのに理由などいらない。思い出になりかけていた兄に、セイルも純粋に「会いたい」と願ったのだ。
 だから、「どうする」と問われても困る。でも一つだけ、願うことが許されるなら。セイルは銀の眼に力を込めて言葉を放つ。
「兄貴と、話がしたい。今まで何をして、どんなことを思ってたのか……誰でもない、兄貴の口から聞きたいんだ」
 ノーグ・カーティスは異端で罪人だ。
 最低でも、楽園に生きる者は皆そう思っている。
 けれど、誰が兄本人の口からそれを聞いたというのだろう。行方を眩ませてからの六年間、彼の言葉を聞いた人がどれだけいたというのだろうか。
 もちろんこれはセイルの勝手な願いでしかない。兄は語ることを望まないかもしれない。それでも、せめて思い出と同じ兄の声を聞かせてほしい……その願いだけは、誰にも否定させない。セイルは強く手を握りしめて、シエラを見上げ続ける。
 すると、シエラはふと唇を笑みの形にして、セイルの空色の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「あはは、かわいい顔して案外かっこいいこと言うじゃない。気に入ったよ」
「え、あ?」
「でも、ノーグ・カーティスの姿を見た奴なんてここ数年いないはずでしょ。どうやって探すつもり?」
 シエラは当然の問いをセイルとシュンランに投げかける。兄はシュンランと『ディスコード』のことを知っているというし、ディスも「嫌でも出てくる」と言っていたけれど、理由がさっぱりわからない以上どこまでその言葉に頼っていいものか。
 小さく眉を寄せ悩んでいると、横から声が割り込んできた。
「それなら、手がかりが全く無いわけじゃねえよ」
「え?」
 声の主は、今までシエラに言われて口を噤んでいたブランだった。シュンランは「本当ですか!」と声を上げ、ブランを期待に満ちた目で見上げる。
「教えてください、どんなことでもいいです。出来る限り早く、ノーグに会わないといけないです!」
 だが、ブランは笑顔ながらもセイルに対して向けていたのと同じ、背筋がちりちりするような零下の視線で応じる。
「別に構わねえと言いたいとこだが、タダで教えるわけにゃいかねえかな。一つ、嬢ちゃんに飲んでもらいたい条件がある」
「……条件、ですか?」
 シュンランの表情に、さっと影が走る。何しろ相手はセイルを倒し、先ほどまでシュンランをどこか遠くへ連れていこうとしていた男だ、警戒するのも当然と言えよう。セイルは怯えるシュンランを庇うようにして前に立ち、ブランを睨む。
 すると、ブランは不意に目を細めてみせた。それだけで、投げかけられる視線の冷たさは随分と和らぎ、セイルの背筋に感じていたちりちりした何かも消え去った。
「んな無理難題じゃねえ。俺様も奴には用があってな……船を降りるついでに、奴に会うまで同行させてもらいたいのよ」
「え……?」
 シュンランが、目を丸くする。もちろんセイルも全く同じ反応だった。確かに決して無茶な条件ではないが、あまりにも唐突すぎる。それに、即座に「はいそうですか」と言えるほどこの男を信用しきれていない、信用できるはずもない。
 思いながらシュンランを見ると、シュンランも不安と迷いを露わにしてブランを見上げている。兄の手がかりは欲しい、ただ本当にこれでいいのだろうか。セイルとシュンランが不安げな視線を交錯させた、瞬間。
 どぉん、という大きな音とともに、床が激しく揺れた。
 よろめいたシュンランをとっさに抱き止めたセイルは、そのまま背中から床に倒れ込んでしまった。走る痛みに息が詰まる。
「だ、だいじょぶですか、セイル!」
 慌てるシュンランに、セイルは小さくせき込みながらも何とか無理矢理笑って返してみせる。
「う、うん……でも、何が」
 言いかけたところで、甲高い警報の鐘が鳴り響き、天井の隅に引っかかっていた伝声管から野太い声が聞こえてきた。
『船長、敵襲だ!』
「ちょっと、見張り台は何してたのよ! 敵機の魔力反応は!」
 机に手をついた姿勢になり、ヒステリックな声で叫び返すシエラに、伝声管の向こうの声は一瞬言葉を詰まらせてから……重々しい声音で告げる。
『それが、おかしいんでさあ! 全く魔力の反応がねえ! 雲に紛れて砲撃してきやがって、初めて奴さんの方向がわかったんで』
「……何ですって?」
『とにかく、指示を! 下っ端の連中、完全に浮き足立っちまってる!』
「わかったわ、すぐ出る。砲撃の準備を進めて!」
『了解だ!』
 そこで、一度男の声は途絶えた。シエラは苦い表情で床に転がったままのセイルとシュンランを見やり、そしてブランに鋭く指示を下す。
「ブラン! アンタはこの二人を連れて『凧』で降りなさい! 狙いはその子でしょ、ここはアタシたちに任せなさい」
「了解。流石シエラちゃん、いい判断だ」
 ブランはにぃと唇を釣り上げ、セイルの肩を軽く蹴飛ばす。
「起きろ、ガキ。撃ち墜とされたくなきゃ、俺様について来い」
「で、でも!」
 シエラは、降りろと言った。つまりは、この船から逃げろと言っているのだ。だが、シエラは。そして、この船はどうなってしまうのだろうか。自分とシュンランを危険な目に遭わせた相手とはいえ、この気のいい船長を放って逃げるというのはどうにも気が引ける。
 しかし、ブランは有無を言わさずセイルの手を引いて立たせ、シエラにちらりと視線を向けてみせる。
「こちとら風の海の荒波を幾度も乗り越えてきたシエラ一味だぜ。お前さんが心配するまでもねえ。だろ、シエラちゃん?」
「は、アンタに言われるまでもないわよ!」
「ですよね? というわけで、行くぞ」
 ブランはそう言って、横に立つセイルを見下ろす。セイルは、シュンランの手を握りしめたままぐっと唇を噛む。もちろん、心配ではある。だが、今はシュンランを守るのが先決だ。
 シュンランは、不安を隠すようにセイルの手を強く握りなおし、すみれ色の目でブランを見上げる。
「信じて、いいのですか?」
「俺は冗談も言うし詭弁も弄するが、嘘だけは絶対につかない」
 氷色の瞳が、セイルとシュンランを貫いて。
「お前らは守りきる」
 唇から放たれた言葉には少しの躊躇いも感じられず、セイルはごくりと唾を飲み込む。そこには絶対の自信と、それを疑わせないだけの強い「何か」があった。それが何なのかはわからないけれど、セイルはブランに小さな頷きを返す。
「……わかった。俺は信じるよ、ブラン。シュンランを守って」
「お安い御用だ」
 ブランはコートの裾を捌き、前に立って歩き始める。セイルはシュンランの手を引いて、その背中を追いかけ始める。足元はぐらぐら揺れて、歩きづらいにも関わらずどんどんと早足で先に行こうとするブランを必死に追いかける。
 そんなセイルの背中に、シュンランが小さな声を投げかける。
「セイル。信じて、よかったですか?」
「俺は信じるよ。信じていい気がしたんだ」
 確かに胡散臭い男だが、「守りきる」という言葉だけは信じていいと思った。自分でも何故そう思ってしまったのかは、わからないけれど――
『完璧、詐欺に引っかかるタイプだな、お前は』
 ぼそり、とディスが頭の中で呟いたのは、ひとまず無視することにした。そしてディスもセイルに無視されたことはさほど気にしていないようで、明らかな不機嫌声で告げる。
『お手並み拝見と行こうか、ブランとやら』
 するとブランは、セイルたちには背を向けたまま、肩越しに手をひらひらさせてみせた。
「はは、偉そうな口利いてんじゃねえよ、ガキが」
「……聞こえてるんだ?」
 そりゃあそうよ、と当たり前のようにブランは言い、セイルの次の言葉を待たずに目の前の扉を開け放つ。扉の向こうは格納庫で、一人か二人がやっと乗れるような小さな船がいくつも並んでいる。
 その中で、ひときわ目を引いたのが、全てが赤く染められた船の中で唯一白い翼を持つ船だった。推進力となるような装置は見当たらず、風に乗るために必要な最低限の機能しか持たない、とてもシンプルな船だ。
 おそらく、これがシエラの言っていた『凧』なのだろう。単純ゆえに、一切無駄を排した美しいつくりをしている。
 ブランは小さな操縦席に飛び乗り、セイルたちを手招きした。
「狭いけど我慢しろよ。お互い様だ」
 セイルとシュンランは、お互いの体を押し合うようにして、何とか操縦席に収まる。ブランが天井から降りていた鎖を操作すると、格納庫の巨大な扉がゆっくりと開いていく。
 風が、激しくセイルの顔に吹き付けて反射的に目を閉じる。自分の声すら聞こえなくなるような風の音の中、そっと目を開けると……
 目の前に広がっているのは、青。
 セイルの髪と全く同じ色の、果てなき風の海がそこにあった。
「行くぞ」
 セイルたちの答えは待たずに、ブランは足元のスイッチを押して『凧』を空へと射出した。
 一瞬宙に投げ出され、落ちていくかのように思われた『凧』は、東へ向かう風を巧みに捉えてふわりと青い空間に浮かび上がった。そのまま、翼を折らんばかりに吹き荒ぶ風に乗って滑るように空を舞い降り始める。
 決して、簡単に飛ばせるようなものではないことくらい、セイルにもわかる。だが、操作しているブランには、目には見えない風の動きが全て見えているかのように軽々と『凧』を操ってみせる。セイルは風に煽られないように体を小さくしながらも、思わず歓声を上げた。
「すごい……!」
 セイルにとって、空はいつも地上から見上げるものだったから。銀の瞳に映る青い空と青い海も、その境界線に聳え立つ世界樹も、耳の横を行き過ぎる風の音も全てが新鮮で……自分が今どんな状況に置かれているのかも、すっかり頭から吹き飛んでしまった。
 ――これが、風の海。
 セイルの父が目指し続けていた場所。セイルがずっと夢見ていた場所。自分は今、まさにそこにいるのだ。その実感が、胸いっぱいに広がっていく。
 シュンランもまた目を丸くして空と海との境界線を見つめていたが……はっと息を飲んでセイルの頭の上を指差す。
「セイル、あれを!」
「あれ、って」
 セイルはそちらを見て、息を飲んだ。
 頭上に浮かぶ無数の白い雲。その合間から、ちらりと見えたのは巨大な翼を持つ鈍色の何か。目を凝らしてみると、それは船ではない。
「機巧の……鳥?」
 そう、それは機巧仕掛けの鳥だった。嘴から翼まで、全てが禁忌であるはずの鋼で造られている。そして、長い嘴ががぱりと開いたかと思うと、次の瞬間何かがそこから撃ち出されて『紅姫号』を襲う。どうやら、大砲のようなものらしい。
 ひっ、と息を飲むセイルをよそに、ブランもそちらに視線をやって、初めて眉を寄せて露骨に舌打ちをした。
「いやねえ、『エメス』の奴ら、マジになってやがら」
「『エメス』って、異端の秘密結社だろ? 何で、シュンランを狙うんだよ!」
 セイルは唸る風に負けないように声を張り上げる。すると、ブランは視線だけは機巧の鳥に向けたまま言う。
「そりゃあ、このお嬢ちゃんが奴らにとって必要だからさ。とにかく、とっとと離脱するぞ」
 ブランは言って操縦桿を横に倒して『凧』を旋回させる。刹那、落ちてきた『紅姫号』の破片が『凧』の軌道上を掠めるように落ちていった。一瞬でも旋回が遅れていたら、間違いなく『凧』の翼を折られていただろう。
 『紅姫号』も果敢に魔道砲台で応戦するものの、自由に雲と雲の間を飛び回る機巧の鳥は全く堪えている様子を見せない。一方的に機巧の鳥に攻撃されている『紅姫号』を不安げに見上げ、シュンランがぽつりと呟く。
「シエラたち、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ただやられているだけじゃないわよ」
 ブランは軽く言うと、「ほら」と『紅姫号』を目で示す。一端砲撃が止まった『紅姫号』を訝しげに見上げたセイルだったが、次の瞬間、激しい破裂音と共に、何かが機巧の鳥のいる雲の辺りにばら撒かれた。
 風に吹かれてセイルたちの元にも降り注いできたものは、蒼穹に似合わぬ雪のようであり……セイルはその一片を摘み上げると、首を傾げた。キラキラと輝くそれは金属の薄片だった。ただ、魔力の気配もセイルの目には視えない。何故こんなものをばら撒いたのか。
 そう思った瞬間に、異変が起こった。
 今まで素早く空を舞っていた鳥が急に動きを止めたのだ。そこにすかさず、『紅姫号』の魔道砲が放たれた。魔道機関によって高められた衝撃波は鳥の翼を撃ちぬき、鳥は鋼と鋼が擦られるような悲鳴を上げる。
 だが、今にも墜ちそうな鳥はもう一発、『紅姫号』に嘴からの砲撃を叩き込む。『紅姫号』の船体に大きな穴が穿たれ、『紅姫号』もまた魔力の煙を吐きながら風の海に沈んでいく。
「ブラン、『紅姫号』がっ!」
 セイルが悲鳴を上げると、ブランは笑みを深くする。
「何、あの程度の損傷なら致命的じゃねえ。船は修理すりゃ何とでもなるはずだ」
 その言葉に、セイルはびくりとした。ブランは「船は」と言った。ということは、中に乗っていた人々はどうなってしまったのだろうか。シエラは、それに赤い飛行服の男たちは。なおも言葉を続けようとしたセイルだったが、その言葉は喉から外に出ることはなかった。
 笑みを浮かべたままのブランの唇が小さく動いたからだ。
「――無事でいろよ、シエラ」
 その声は、笑みに反して何処までも低く、静かなものだった。
 『凧』は風を切り、ゆっくりと舞い降りていく。その先端が目指すは海の上に浮かぶ緑多き島……セイルは息を殺し、ただただシエラたちの無事を祈ることしか出来なかった。