03:空を泳ぐ紅の魚(3)

 薄暗い部屋の壁は鈍色のパイプに覆われていて、時折うっすらと魔力を含んだ蒸気が吹き上がる。部屋いっぱいに本でしか見たことのない魔道機関が立ち並び、駆動音を響かせている。
 これが、飛空艇の心臓部なのだ。そう思うと俄然セイルの胸の中に好奇の芽が生まれる。もっと近くで見たいな、と思ったその時、部屋の奥から声が聞こえた。
「……誰か、いるの?」
 まずい。
 ディスは呟き猫のように体を低くする。そう、ここはあくまで空賊の手のひらの中。決して油断をするわけにはいかないのだ。セイルも浮き立ちそうになった気分を押さえ込み、淡い魔力の光の中に目を凝らす。
 すると、大きな魔道機関の影から、ひょこりと何かが顔を出した。それは、とても背の低い少年だった。赤みの強い顔の色と丸っこい鼻、そして意外にがっしりした体つきを見ると、どうやらドワーフのようである。
「見慣れない顔だね。新入りさん?」
 少年は人なつこそうな笑みを浮かべてセイルの方に向かってきた。ディスは構えを解かないままではあったが、少年を値踏みするかのようにじっと見据えている。
 短い足でこちらに歩いてきた少年は、セイルの顔を覗き込んで「あっ」と声を上げた。
「君、もしかして昨日捕まった人? どうしてここに……」
 その時。どんどん、という激しいノックの音が機関室に響いた。少年もディスも同時にそちらを見る。次の瞬間、男のダミ声が響きわたった。
「そっちに空色のガキは来てねえか! あいつ、船倉から逃げ出しやがったんだ!」
 しまったな、とディスは苦い顔をして少年を睨む。少年は円らな瞳でこちらをしばらく見返したあと……小さい体には似合わぬよく響く声で言い放った。
「ううん、来てないよ!」
「ちっ、しゃあねえ。あのガキ、どこに消えやがったんだ……」
 ぶつぶつと呟く声が、徐々に遠ざかっていく。そして完全に聞こえなくなったところで少年は「これでしばらくは大丈夫」と笑った。
 ディスは不可解そうに少年を見て……とりあえず少年に敵意がなさそうだと判断したのか、『あとは任せた』とセイルに体を返してきた。突然自分の体の感覚が戻ってきて、セイルは目をぱちぱちさせて思わず自分の手を握ったり開いたりしてしまう。
 唐突に「任せた」と言われても。
 セイルは思ったが、とりあえず少年に改めて向きなおって小さく頭を下げる。
「ありがとう。助かったよ。でも、どうして」
「へへ、だって兄ちゃん、オレたち相手に一人でいい勝負してるみたいじゃん。なら、面白い方に味方したいだろ?」
「面白い……って、それだけ?」
「そ、それだけ。面白いことをする、ってのが『紅姫号』のルールだからな」
 少年は油ですっかり汚れてしまっている胸を張る。セイルには少年の言わんとしていることがさっぱりわからなかったが、それでも少年が今この瞬間に限っては敵でないことだけははっきりした。
「それにしても、どうしてここまで逃げられたんだ?」
「えっと……」
 どこまで言っていいものかは悩んだが、ディスのことは言わない方がいいだろう、と思う。となれば、少し語弊はあるかもしれないがこう言うしかない。
「ブランって人が出してくれたんだよ。それで、その人を捕まえれば、俺と一緒にいた子も解放してくれるって約束で、今その人を捜してるんだ」
 セイルの言葉を聞いて、少年は「ああ!」と手を叩いた。
「何だ、博士の気まぐれかあ。あの人、いつもそうなんだよなあ。船長の許可も無しに勝手なことばっかするんだ」
「博士?」
 少年の言葉に、セイルは思わず首を傾げる。どこをどう見ても、あのコート姿の怪しい男が「博士」と呼ばれるような人間には見なかったからだ。だが、少年はセイルの疑問符に対して当たり前のように言う。
「ブラン・リーワード博士。うちでは風読みをやってるけど、陸では結構有名な異端研究者らしいよ。船長の友達で魔道機関にも詳しいから、俺も色々教えてもらってんだ」
 異端研究者。
 楽園の影、禁忌に魅入られた存在。
 あの男も兄と同じ世界の住人なのだろうか、と不思議に思っていると、今まで黙っていたディスが頭の中で問いかけてくる。
『セイル。「風読み」って何だ?』
 世間知らずのセイルだって知っているような言葉をディスが知らない、ということにセイルは少しだけ驚く。ただ、ディスはどれだけ人くさかろうとあくまで剣なのだ。人の「常識」は通用しないのだろうと思い直す。
「天気を見たり、風の流れを読んだりして、どうやって船を飛ばすか決める人のことだよ」
 目の前に少年がいるので、口の中で早口に答える。それだけの説明でわかるのだろうか、とも思ったが、ディスはディスなりに『空の航海士みたいなもんか』と納得したようだった。
 それにしても、異端研究者が風読みを担っているというのもなかなか奇妙な話だ、とセイルは思う。風読みは空の船乗りの中でも最も難しい仕事だ。空を知り尽くし、船を知り尽くしていなければ到底風読みを名乗ることはできないと聞いている。
 果たして、あのブランという男は何者で、何を考えているのだろうか。疑問は増すばかりだが、ひとまずはあの男を捕まえるのが先決。セイルは不安を何とか振り切って、少年に問う。
「ブランが今どこにいるかは知ってる?」
「うーん、捕まえてきたあの子のことやけに気にしてたから、船長の部屋じゃないか?」
 捕まえてきたあの子……シュンランだ。セイルは思わず全身に力を入れるが、少年はそれには全く気づいていない様子で言葉を続ける。
「船長の部屋はここを出て階段と梯子で上っていけばすぐだ。博士との鬼ごっこ、頑張れよ!」
 鬼ごっこ、って。
 否定は出来ないけれど、きっと少年からすればこの状況も「面白いこと」なのだろうなと複雑な気分になる。セイルにとっては、面白くも何ともないというのに。
 だが……今はとにかく。
「うん、ありがとう!」
 礼を言い、人の気配がないことを確認して機関室を飛び出す。
『しっかしなあ、セイル』
 すぐそこにあった階段を駆け上るセイルに向かって、ディスがあきれたような声で言う。
『船長室って、まさにボスのいる場所じゃねえか。罠としか思えねえよ。んなとこ突っ込んで無事でいられると思うか?』
 流石に、セイルだってそのくらいは理解している。いくらディスが普通の人よりずっと強かろうと、セイルの体は一つ。部屋の中で多数の男たちに詰め寄られれば勝ち目はないだろう。
 しかし。
「……やってみないとわかんないだろ!」
 弱気は全部胸の中に閉じこめて、今は前へ、ただ前へ。
 シュンランと一緒にこの船から降りるまでは、迷ってなどいられないのだ。
『ったく、手前はヘタレなんだか無鉄砲なんだかさっぱりわかんねえな。危なっかしいったらありゃしねえ』
 ――でもまあ、そういうの嫌いじゃねえけどな。
 ディスの小さな呟きが、頼もしい。セイルも小さな微笑みでディスに応えて、外につながる梯子に飛びつく。
 ごう、と。耳元を風が駆けていく。少しでも手を緩めれば、セイルの小さな体を横薙ぎにして風の海の藻屑にしてしまいかねないほどに激しい、上空の風。それでもセイルはするすると梯子を上りきり、船の最上部へと降り立った。
 赤い飛行服の男たちは、まだ階下で騒いでいるようだった。こちらに即座に向かってくる様子はない……セイルはそう判断して、ひときわ大きく頑丈そうな扉の前に立つ。
 おそらく、ここが船長室。
 だが、この扉を開けた中に何が待っているのかはわからない。もしかすると、今までこちらを追いかけてきた男たちよりもずっと強い連中が、セイル待ち受けていないとも限らないのだ。
 ごくりと唾を飲み、躊躇いすらも飲み込んで。
 セイルは勢いよく扉を開いて――
 
 己の目を、疑った。
 
 船長室、と聞かされてきたはずのその部屋を満たしていたのは、無数のぬいぐるみに可愛らしい置物、床に散乱する少女趣味な服の数々だった。
 そんな混沌極まりない部屋の中にいたのは、派手な赤い服を着た女と、驚いてこちらを向くブラン。
 そして、おとぎ話のお姫様のようなふわふわとしたドレスに身を包んだシュンランだった。
 シュンランはセイルの姿を見て、ぱっと表情を輝かせる。
「セイル!」
 真っ白なドレスを引きずりながらこちらに向かってくるシュンランを、女もブランも止めようとしなかった。セイルはシュンランの体を抱き止めて、目を丸くしてシュンランを見つめる。
 よく見れば、シュンランの長い真っ白な髪には可愛らしい花の髪飾りがつけられていて、微かに化粧も施されているようだった。
「シュンラン! 大丈夫だった? 怖いことされなかった?」
「はい、だいじょぶです。セイルの方が、危なくありませんでしたか?」
 危なかった。確かに危なかった、けれど。
『で、一体、これはどーいう状況だよ』
 もはや呆れを通り越して投げやりな口調になったディスが言う。とはいえ、その声が聞こえているのはこの場にセイルだけだったに違いない。もしかしたら一応使い手らしいブランには聞こえていたのかも知れないが。
 ディスの疑問に対する答えではなかったが、ブランが「ははは」と笑ってみせる。
「安心しな、嬢ちゃんは言ったとおり無事も無事、大無事だよ」
「け、けど……このドレスは、一体」
「言っただろ、船長の着せかえ人形になってる、って」
 そういえば、そんなことも言っていた気がするが、まさか、ここまで言葉通りだとは思ってもいなかった。シュンランはちょっとだけ恥ずかしそうに目を落として、言う。
「その、似合っていますか?」
「も、もちろん! すごく似合ってる」
「よかった」
 慌ててこくこく頷いたセイルに向かって、シュンランはふわりと笑ってみせる。裾の広がったドレスの印象も相まって、それこそ空に咲く花のようで、セイルは否応なくどぎまぎしてしまう。
 口をパクパクさせることしかできないセイルを我に返らせたのは、今まで一度も口を開いていなかった女の一言だった。
「へえ、アンタがセイル。普通の子に見えたけど、ホントよくここまで来られたわね」
 そこで改めて、セイルは女を見る。柔らかそうな茶色の髪をウェーブさせ、とても派手な飛行服を着ているが、何となく子供っぽい可愛らしさが残る表情をしている。
「あなたは?」
「アタシが『紅姫号』の船長、シエラよ。うちの男どもが色々迷惑かけたわね」
「ねえ、シエラちゃん。それ、もしかして俺様も含んでる?」
 ブランがぼそぼそと問う。するとシエラが「当たり前でしょ、アンタが主犯じゃない」と鋭くブランを睨んだと思うと、次の瞬間にはシエラの拳骨がブランの頭を捉えていた。
 部屋の隅で悶絶するブランを華麗に無視し、シエラはセイルの前に立って胸を張る。
「賭はアンタの勝ちよ。この子を連れて船を降りなさいな。アタシたちはこれ以上この子には関わらないと約束するよ」
「え、で、でも」
 あまりにあっさりと話が進みすぎることに、セイルは逆に不安になってきて問い返す。シエラはにっと笑ってセイルの頭を撫でてみせた。
「手に入れた宝物を手放すのは空賊の流儀に反するけどね。それ以上に、一度した約束は絶対に守るのが紅姫号のやり方なの」
 ――それが、単なる食客が勝手にした約束であろうともね。
 シエラの瞳が、何とか悶絶から立ち直ったばかりのブランを冷たく射抜く。ブランは「あははは」と乾いた笑い声を立てて立ち上がる。
「や、それは悪かったってシエラちゃん。だから許して」
「紅姫号の掟、第十三条。博士、アンタに限って『忘れた』とは言わせないよ」
 シエラに指さされ、げ、とブランの表情が笑顔のまま凍りつく。セイルが「第十三条?」と首を傾げたのを見て、シエラがはっきりと言う。
「『船員、及びこの船に乗り合わせた者が船長の指示なく宝を持ち出した場合、死、もしくは永久追放に処すべし』。アンタ、勝手に約束したどころか、手に入れた剣まで持ち出したでしょ?」
 剣とは間違いなく『ディスコード』のことだろう。何しろ一度奪われたにも関わらず、他でもないブランの手からセイルに渡されたのだから。ブランは溜息混じりに頭をかくが、その表情はやっぱり笑顔だった。
「バレてたか……隠しきれるかなあとか思ってたんだけどさ」
「相変わらず人をバカにした物言いね。ま、アンタらしいっちゃらしいけど」
 シエラは頭を押さえて、深々と息をつく。それは、どこか諦めにも近い感情を含んでいるようにも聞こえた。
「何故やったかは聞かないから、とっとと船を降りて頂戴。今回ばかりは食客のアンタにも容赦はしないよ」
 ですよねー、とブランはあまり堪えていない様子でからからと笑う。本当に、何を考えているのかさっぱりわからない男だと思わずにはいられない。
 『ディスコード』を持ち出し、セイルを脅したかと思えば急に助け舟を出すような物言いをして。その結果、世話になった船を追い出されることになろうとも笑っている。
『……ホント、どういう神経してんだこいつ』
 低く唸るディスの言葉に、セイルも同意するしかなかった。箱入りのセイルが「一般的」という言葉をどれだけ理解しているのかは怪しいが、それでも目の前の男が一般からとんでもなくかけ離れた神経の持ち主だということくらいは、わかる。
 セイルがとても微妙な表情をしていることに気づいたのか、シエラはもう一度溜息をついて大げさに肩をすくめてみせた。
「ごめんね、こいつ頭は切れるんだけど紙一重の馬鹿なのよ」
「失礼な。俺様は紙一重の天才よ?」
「話がこじれるから黙って」
 シエラに睨まれ、ブランは「はあい」と両手をひらひら振って壁に寄りかかる。一応、うだうだ言いながらもシエラの言葉に従う気はあるらしい。
 改めてセイルたちに向き直ったシエラは、両手を腰に当てシュンランとセイルを交互に見やって言った。
「それで、アンタたちはこれからどうするつもり? 船から降ろすのはいいけど、行くアテはあるの?」
 いいえ、とシュンランは首を横に振る。そう、今までは逃げてばかりでこれから何処でどうするのかなど、何も決まってはいなかったのだ。それでもシュンランは、強い意志を込めたすみれ色の瞳でシエラを見上げてみせる。
「けれど、これからノーグの手がかりを探したいです。わたしには、ノーグの力が必要なのです」
「ノーグ? ノーグって、あのノーグ・カーティス?」
 シエラが素っ頓狂な声を上げる。
 当然だ、ノーグ・カーティスといえば楽園で最も有名な異端研究者にして犯罪者なのだから。セイルはいつもと同じ胸の痛みを感じてぎゅっとシャツの胸元を握りしめる。
 しかし。
 シュンランは、屈託のない笑顔を浮かべてセイルを振り返ってみせるのだ。
「セイルも、ノーグに会いたいのですよね。ノーグは、セイルのお兄さんですから」
「兄? ノーグ・カーティスに弟がいるなんて初耳だけど、アンタがそうなの?」
 シエラが驚きに目を丸くしてセイルを見やる。セイルは胸がばくばくと鳴るのを感じながらも、目をぎゅっと閉じて頷くしかなかった。
 否定はできない。できるはずもない。否定をしたら、兄との思い出全てを否定することになってしまうから。けれど、頷くことで返ってくるのは、いつも冷たい視線と言葉だった。今回だってそうに違いない、そう思って恐る恐る目を開けると……
 目の前のシエラは、真っ直ぐにセイルの銀色の目を覗き込んでいた。その瞳には、畏怖や憐憫の色は全くなかった。ただ、セイルを真っ直ぐに射ぬく視線だけがそこにあった。
「なら……アンタは、ノーグを探してどうするつもりなの?」