03:空を泳ぐ紅の魚(1)

 泣き声が聞こえる。
 小さな、子供の泣き声。
 ああ……そうだ。泣いているのは自分だ。今よりももっと背が低くて、泣き虫だった頃の自分。
「どうした、セイル」
 そんな自分の横に、誰かが立っている。背の高い、眼鏡をかけた男の人。セイルよりもずっと年上の兄は、泣きじゃくるこちらの手の中をのぞき込んで、淡々と言った。
「また壊しちまったのか」
「ご、ごめんなさい。壊すなって、言われた、のに」
 小さな手の中には、精巧な飛空艇の模型があった。いつも仕事で忙しかったはずの兄が自分のために作ってくれた、楽園で一番美しい翼を持つ船。かつて楽園に生きた魔道機関の祖、シェル・B・ウェイヴが設計したとされる飛空艇『風精の翼』だ。
 けれど、その翼は片方が根元から折れていて、見るに堪えない姿になってしまっていた。
 それを見てしまって、また涙が零れて落ちる。だが兄は模型を観察して、ぽんぽんとセイルの頭を優しく叩いた。
「何、このくらいなら簡単に直るさ。貸してみろ」
「う、うん……」
 言われてセイルは恐る恐る、兄に模型を差し出す。兄は自分の机から針や接着剤を持ってくると、床に座り込んで黙々と模型を直し始めた。
 小さなセイルはその横に座って、兄の手元をじっと見つめている。そうだ、記憶が正しければ家にいるときの兄はいつもこうやって何かを作っていて、自分はその兄の指先を飽きもせずに眺めていたのだった。
 その時も、セイルは今まで自分が泣いていたことすら忘れて、みるみるうちに直っていく船を、目を輝かせて見つめていた。
 すると、兄は船を直す手を止めないままに、言った。
「セイル」
 何? と首を傾げる小さい自分に対して、兄は黒縁眼鏡越しに視線を向ける。
「……母さんが言ってたぞ。昨日も、家に閉じこもっていたみたいだな。たまには町に出たらどうだ」
 びくり、と。小さなセイルは震える。兄の声はあくまで淡々としていたが、それが余計にこちらを責めているようにも感じられて。
「だ、だって」
 再び両目に涙が浮かび、俯いて空色の髪の先端をいじりながら、蚊の鳴くような声で告げる。
「ぼく、みんなと違うんだ。青い髪で、魔法も使えないなんて、変だ、ってみんなが言うんだ」
 そして誰もが指をさして、時に笑い、時に恐れを浮かべる。何も知らない幼いセイルでも、そのくらいは理解できていた。十分すぎるほど、理解してしまっていた。セイルはそれに対し、膝を抱えて丸くなることしかできない。
 兄は小さく溜息をついて、言った。
「だから何だ?」
「え?」
 セイルは反射的に顔を上げていた。兄は、珍しく呆れたような声で言った。
「人と違って何が悪い。お前はお前で他の誰でもないんだ、違って当然だろ」
 それは、母にもよく言われたことだ。もちろん自分にも何度も何度も言い聞かせてきたが、どうしても納得できなかった。小さなセイルはぷうと頬を膨らませて兄を睨む。
「ぼくの髪とか目とか、変じゃないの?」
「お前だって昔、俺の顔が怖いと泣いただろ。誰にだって変な部分の一つや二つあるし、それを『変』と断ずること自体が馬鹿げている」
 ――だから、お前は胸を張っていていいんだ。何も悲しむことはない。
 兄はそう言って、未だ憮然としたままのセイルの頭を優しく撫でる。そして……ぽつりと、言葉を落とす。
「それにな、セイル。俺はお前が羨ましいんだ」
「ぼく、が?」
 そんなわけはない。兄は全てを持っている人だった。今のセイルが望んだとしても決して手には入らないようなものを、全て抱いていた。
 その兄が、一体自分の何を羨ましいというのか。
 記憶の中の兄は手の中の船を窓に……その向こうの青い空にかざしてみせる。
「ああ。何せ、お前には――」
 その時、兄が何と言っていたのか。
 兄がどんな顔をしていたのか。
 どうしても、思い出せなくて、
 
 
 規則正しい音の中に突然混ざったがたん、という揺れ。
 それでセイルの意識は現実に引き戻される。全身に走る鈍い痛みに小さく呻き、目を開ける。
 すると、まず目に飛び込んできたのは天井にぶら下がった小さな魔法光のランプだった。そして、天井近くまで積み上げられた木箱と荷物が、紐でくくられながらも今にも崩れ落ちそうな勢いでゆらゆらと揺らめいている。
 いや、揺れているのは荷物だけではない。自分が座っている床も、常に揺れているのだ。
 ここは……どこだろう。
 セイルは思いながら体を動かそうとして、何かが自分の腕を圧迫していることに気づく。見れば、周囲の荷物と同じように自分の体も紐でぐるぐる巻きにされていたのだ。
 そうだ。
 ラグナとかいう鎧の男と、影追いの女。シュンランをめぐって二人が睨み合っているところにいくつもの羽ばたき船がやってきて、煙幕に乗じてシュンランをさらっていこうとしたのだ。
 シュンランに向けて伸ばした腕も届かずに。
 自分は何者かに倒されて……そのまま意識を失ったのだった。
 ということは、自分は今捕らわれているということなのだろう。ここがどこかはわからないだけに、否応なく不安は増す。もし自分の状況を理解していたとしても、それはそれで不安になってしまっただろうが。
 シュンランはどこにいるのだろうか。危険な目に遭っていなければいいが、と唇を噛む。あの時、『ディスコード』の言うとおりシュンランを連れて逃げなかった自分に腹が立つ。
 体を柱にくくりつけている紐は固く、セイルが身じろぎしても簡単に緩む様子はない。鋼をも切り裂く『ディスコード』ならば、こんなもの簡単に切れてしまうのだろうが……
「あれ?」
 セイルは思わず声を上げる。
 そうだ、『ディスコード』はどうしたのだろうか。セイルが倒された時はセイルの中に入っていたはずなのだが、こんな時に黙っているとも思えない少年の声は聞こえてこない。
「……ディス? 『ディスコード』!」
 呼びかけてみるも、やっぱり返事はない。それどころか、体の中にあった「自分とは違うもの」の気配もすっかり消え失せてしまっていた。
 体中から血の気が引く。
 『ディスコード』すらも奪われてしまったとすれば、もはやセイルに成すすべはない。そして……ここにいられる理由もないのだ。
 どうしよう。どうすればいい。
 セイルは必死に頭を回転させるが、回転させればさせるほど、頭の中に浮かぶのは最悪の想像ばかり。腕を縛られてしまっているため実行には移せないが、まさしく「頭を抱えたくなる」状態だ。
 嫌な想像を振り払うようにぶんぶんと首を振ると、ふと荷物の向こうに見えた小さな窓が目に入る。
 窓の外に広がっているのは、青。
 春の空が、どこまでもどこまでも広がっていたのだ。
「ここは……」
 空の、上?
 その考えに思い至った瞬間、部屋の扉が勢いよく開いてセイルはびくりと体を震わせる。恐る恐るそちらを見ると……
「おっはようさーん、お目覚めはいかが?」
 セイルの不安も緊張も何もかもを綺麗さっぱり無視して、陽気に笑う男が立っていた。
 ひょろりとした長身に長いコートを羽織り、金茶から焦げ茶へのグラデーションを描く髪を、後ろでゆるく三つ編みにしている。年の頃は二十歳を越えた辺りか、もう少し上か。ぱっと見る限りさしたる特徴のない顔に、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
 もちろん、見たことのない男だ。
 だが、その声だけは聞き覚えがあった。もうもうと立ち上る煙幕の中、薄れゆく意識の中で聞いた、低くざらついた声音。間違いない、これは自分を背後から襲った男の声だ。
 セイルは一瞬緩みかけた気を引き締めて、銀の目で男を睨みつける。
「……お前っ、シュンランをどこにやった!」
 体を縛る紐を引きちぎらんばかりの勢いで言うが、男は愉快そうに口元に浮かべた笑みをさらに深くするばかり。
「おーおー、威勢がいいことで。でも、自分の置かれてる状況わかってるかしらん?」
 ぴん、と。
 一瞬空気が音を立てて張りつめたような気がして、セイルは出かけていた言葉を否応なく飲み込む。男の言葉はどこまでも軽く、ふざけたもので。脅すような言葉ではあったが、決してその言葉自体が恐ろしかったわけではない。
 だが、何故かセイルはこの男が「恐ろしい」と思った。
 それは、見上げてしまった男の目が、零下の色を湛えていたからかもしれない。笑っているのに、これほど愉快そうに笑っているというのに、目だけはにこりともせずにセイルを冷たく見据えている。その得体の知れない表情が、セイルにはとても異常なものに思えて……恐ろしかった。
「……あら? 今更怖気付いたか?」
 笑顔の男はセイルの顔を覗き込む。怖かった、怖かったけれど、セイルは真っ直ぐに男を見つめ返した。
「怖気付いてなんかない。シュンランは無事なのか?」
 それだけは、どうしても確かめなくてはならない。腹に力を込めて、男の反応を待つ。すると、男はくくっと喉を鳴らす。
「何だ、ただの泣き虫お坊っちゃまかと思ったら、意外と肝が据わってんじゃねえか。安心しろ、一応無事だぜ。ただ、今ごろ船長に着せかえ人形にでもされてるかもね」
 ふう、と溜息を吐き出し、大げさに肩を竦める男。思わぬ言葉に、セイルは銀色の目をまん丸くする。
「き、着せかえ人形?」
「そ。うちの船長、ホント可愛い子に弱いのよねえ。さらった理由、忘れてなきゃいいんだけど」
 ふざけて女のような言い回しをしつつ、男はちょっと遠い目をする。
「船長……って、そうだよ、お前ら何者なんだよ!」
「お前なあ、そのくらいは想像力働かせなさいな。窓の外見りゃ何となくわからね?」
 男は呆れ顔で窓の外を指す。やっぱりどこまでも青い空が続いているわけで、ここはどうやら倉庫のような場所で。気を失う前に現れた赤い羽ばたき船に、目の前に立つのは怪しい男。
「……もしかして、空賊、とか?」
「もしかしても何も、それしかねえだろ。ま、俺様親切ですから、何も知らないガキに教えてあげましょか」
 男は芝居がかった動きで両腕を広げて言う。
「この船の名は『紅姫号』。空を泳ぐ魚を駆るのは美しき船長シエラとその下僕たち。んで、俺様はここの食客ってところよ」
 『紅姫号』のシエラ一味。
 その名なら、セイルもよく知っている。『楽園』の各地に現れては消える謎の空賊であり、あらゆる種類の「宝」を集める存在なのだという。
 そして、一番の特徴は彼らの駆る船『紅姫号』。
 南の海を泳ぐ紅姫魚の名の通り、鮮やかな赤に塗られた飛空艇は、旧型ながら最新型の小型飛空艇と肩を並べるほどの飛行性能を誇るという。特に旋回能力は、現在風の海を行くどんな船よりも勝るという。ただし、性能が高い分扱いはとんでもなく難しいじゃじゃ馬であり、それ故にこの型を駆っているのはそれこそシエラ一味くらいのはずだ。
 これが、本物の『紅姫号』なのか。
 セイルは自分が囚われの身であることも忘れ、胸の中にふつふつと興奮が沸き上がるのを感じていた。外からこの型の船特有の曲線を見ることができないのがもどかしい。
 セイルがここまでよく知っている理由は、単にセイルが飛空艇に詳しいというだけでなく、この型がセイルの父の設計によるということもある。セイルの父は普段から家にいないが、それなりに有名な飛空艇技師だ。そもそもカーティス家とは代々続く飛空艇技師の家系なのである。もちろんノーグもかつては優秀な飛空艇技師であったという。
 セイルもまた、将来は父や兄のような飛空艇技師になるのだと信じて疑っていない。
 とはいえ。
 この船が空賊船であることだけは確か。セイルは興奮を何とか押さえ込み、目の前の男を睨む。
 そう、今は、とにかく――
「とにかく、シュンランに会わせて!」
「だーめ。あの子はお前みたいなどうでもいいガキが連れて歩けるような子じゃございません」
 ふざけた言い方ではあったが、男はなおも冷たい色の目でセイルを見つめる。まるで、セイルを「観察」するかのように。
「それにお前さん、知らないんでしょ。あの子が何者で、何故追われてるかなんて」
「う……」
「なら今のうちにとっととお家に帰るこったな。何、悪いようにはしねえさ、こいつ共々しっかりお預かりいたしますよ」
 と言って、男はコートの内側から何かを引き抜いた。それは、
「ディス!」
 いつの間にか、セイルの外に出てしまったらしい『ディスコード』だった。男の手の中の『ディスコード』は、何の変哲もないナイフにしか見えなかったけれど。
 男は柄の部分を摘むように持ち、ぷらぷらと揺らしながらその磨き抜かれた刀身に自分の顔を映し込む。
「あら、『ディス』なんて可愛いお名前で呼ばれてんだ。怖い怖い『鍵』が、随分丸くなったわねえ」
「返せよ、それはお前のものじゃない!」
「お前のもんでもねえだろ」
 セイルの叫びに、男はぴしゃりと言い切った。その声が異様に鋭くて、セイルはぐっと言葉を飲み込んでしまう。男は『ディスコード』を逆手に持ち、無造作にその切っ先をセイルの喉すれすれの部分に突き出した。
 『ディスコード』の刃と同じくらい、鋭く冷たいアイスグリーンの瞳が凍り付いたセイルを射抜く。その唇は、相変わらずだらしない笑みに歪んでいるけれど。
「お前さんの選択肢は二つに一つ、何もかもを忘れてこの船から降りるか、ここで死ぬかだ。選択の余地があるだけ有難いと思え」
 そっと首の皮に触れる、『ディスコード』の刃の感触。甲高い吠え声を上げてこそいないが、何をしていなくとも十分によく切れるナイフだ。これ以上男が力を入れれば、セイルの喉はあっさりと裂かれるだろう。
 息も上手く吸えずに、口を半開きにして。セイルはただ、男の双眸から目を離すことが出来ずにいた。
 死にたくない、そんな覚悟などセイルにはない。だが、ここで素直に「わかりました」と降りることが出来るだろうか。男は「全てを忘れて」と言ったけれど……忘れられるはずもない。
 腕の中に落ちてきた重さも。どこか懐かしい気がする不思議な歌声も。真っ直ぐに見つめる鮮やかなすみれ色も。そっと繋がれた手の温もりだって、全てこの体に刻み込まれてしまった。
 だから――
「……どっちも、選べない」
「あ?」
「俺は、シュンランと、ディスと、兄貴を探すって約束したんだ。死ねないし諦められない」
 ぷつり、と。
 喋った時に喉に刃が触れたのか、皮が裂けた感覚があった。けれど、セイルは男を見据える。目は逸らさずに、まるで金属のように硬質なその瞳を見つめ返す。
 殺されるだろうか。
 それでも、譲れないのだ。ここで諦めて、後悔しながら生きていくことはきっと死ぬよりも辛いはずだ。
 そんな風に考えていると。
「……は、はは」
 男は『ディスコード』の刃を引いて、笑いだした。今まで一度も笑わなかった瞳も、少しだけ緩んだ気がした。
「ははっ、ったくもう、俺様調子狂っちゃうぜ」
 『ディスコード』と同じようなことを言いながら、男は無造作にセイルの膝の上に『ディスコード』を置く。男の意図がわからず思わず首を傾げると、男はにやにや笑いながら言った。
「なら、調子狂ったついでに俺様がもう一つ選択肢を増やしてやろう。俺様を捕まえてごらんなさいな。そしたら、シエラちゃんに話を通してやってもいい」
「え……?」
「ただし、お前が脱走すりゃ船の連中は放っては置かないだろうな。しかもここはお空の上、下手すりゃどぼんってな」
 男は楽しそうに指先を下に落とす。確かに、下に何があろうとも、この高さから落ちれば命は助からないだろう。しかも、相手は男に加えこの船の乗組員全員。セイルの圧倒的不利だ。
 憮然とした表情になるセイルに対し、男は笑みを浮かべたまま言い切った。
「どれを選ぶかはお前の勝手。もちろん、ここでのんびりしてりゃ降ろしてもらえるさ。あの子は俺らが連れてくけどな」
「嫌だ。お前らの好きにはさせない」
 セイルは、ぐっと拳を握りしめて男を睨む。男はそんなセイルを見下ろして、ふと息をつく。
「嫌なら行動で示せ。俺様、口先だけの奴は嫌いよ。ま、せいぜい頑張りなさいな」
 言って下手くそな鼻歌を歌いながら倉庫の外に向かおうとした男だったが、不意にセイルを振り返って言った。
「あと、ガキに『お前』なんて呼ばれる筋合は無えな。俺様にはブランっていう素敵な名前があるの。ブラン・リーワード。そのちっちゃな脳味噌に焼き付けとけ、ガキ」
「が、ガキっていうなよ! 俺にだってセイルって名前が……」
 身を乗り出して噛みつく勢いのセイルだったが、男は余裕の表情で手をひらひらさせるばかり。
「はは、ガキはガキだろ。それじゃ」
 またな、と。
 気楽な挨拶と共に男は扉を閉ざした。その瞬間、船倉には今まで通りの静寂が戻った。静寂といっても、船の中に響く駆動音はもちろん絶えることはなかったのだけれども。
 セイルは、軽く唇を噛んでそれを見送ったが……落ち着いて考えてみれば、奇妙だ。何故、男はあんな提案をしたのだろうか。セイルを焚きつけるような真似をしたところで、あの男にも、空賊たちにも一つも利はないはずだというのに。
 しかも、男はこともあろうに『ディスコード』までセイルの元に置いていったのだ。ふと膝の上で沈黙を守るナイフに視線を移すと……