幕間:蠢動

『――申し訳ありません。「歌姫」と「鍵」の確保に失敗しました』
 淡い魔法光の灯火だけが揺れる闇の中、微かに雑音混じりの音声が響く。機巧仕掛けの車椅子に腰掛けた黒衣の男は、黒縁の眼鏡を押し上げ少年を思わせる声音で言った。
「状況を詳しく聞かせてもらおうか」
『はっ』
 緊張に満ちた声が、車椅子に取り付けられた受信機から漏れてくる。否、それは緊張と言うよりも……車椅子の男に対する畏怖のようであった。
『クラウディオ・ドライグが「歌姫」をドライグから脱出させ、「鍵」を持たせた模様です』
「ああ……それは部下の報告にもあったな」
『そして、「歌姫」はその後「鍵」の使い手である一人の少年と行動を共にしていたようです』
 使い手の少年? と男は疑問符を投げかける。
『はい。空色の髪を持つ少年と』
 受信機の向こうの声がそう告げた途端、車椅子の男が笑いだした。笑うといっても、微かに喉を鳴らすだけではあったが……めったに感情を動かすことのない男の笑い声を聞いて、受信機の向こうで息を飲む気配が伝わってきた。
「なるほど。それは確かに『鍵』の使い手に値する、か。これもまた運命という奴なのだろうな」
 運命など、これっぽっちも信じてはいないが。
 男は笑う。笑い続ける。乾いた、血の気の引いた唇を歪め、天井辺りに揺らめくほの青い光を鋭い瞳で見据える。
『捕縛用の魔機巧人形を持たせたラグナが二人を追跡していましたが、影追いの介入と、正体不明の飛空艇集団による襲撃があり……その後「歌姫」と「鍵」の使い手の少年の行方は不明です。おそらく、その集団に奪われたものと思われます』
「そうか。ご苦労、キルナ……そうだな」
 顎を指先で叩きながら、車椅子の男は受信機の向こうの声、優秀な部下である異端研究者、キルナ・クラスタに告げる。
「早急にその集団の正体と居場所を押さえろ。確定し次第、『鳥』を飛ばす」
『し、しかし!』
 キルナは男に対する恐怖を滲ませながらも、かなり強い口調で反論する。
『「鳥」はまだ試作段階! もしこれで失敗すれば、こちらの損害も測り知れませんよ!』
「だが、ついに『塔』の準備も整った……時は満ちたのだ」
 淡々と、感情の薄い声で告げられた言葉に、キルナは呼吸を忘れ沈黙した。それだけ、車椅子の男の言葉は衝撃的なものだった。
 どのくらい、沈黙が続いただろうか。
 沈黙を破った微かなノイズ混じりのキルナの声は、つい一瞬前までの重苦しい空気をどこかに置き忘れたかのような、隠しきれない高揚に上ずっていた。
『では、ついに!』
「そうだ。我ら『エメス』の計画が動き出す。蒙昧な楽園の民に、真実と真理を示す我々の悲願が叶う時が来た」
 言って、キルナには見えていないとわかっていながら男は口元を歪める。その歪な笑みの意味は、もしキルナが見ていたとしても、決して男が何故笑うのかを理解はできなかっただろうが。
「そのためにも一刻も早く、『歌姫』と『鍵』を奪取しなくてはならない。わかるな」
 キルナは「はっ」と鋭く返事をして、高揚のままに言葉を放つ。
『了解しました、「機巧の賢者」。このキルナ・クラスタ、必ずや「歌姫」と「鍵」を取り返してみせましょう!』
「ああ、頼んだぞ、キルナ」
 男も笑みを抑え、押し殺した声で言う。
 まだ笑うには早い、そう男は自らに言い聞かせる。何もかもは、今始まったばかりなのだ。全てが終わったときに笑っているのが誰なのかは……まだ、誰にもわからない。
 キルナは男の声を受け止め、そのまま通信を切ろうとしたようだったが、不意に不安を込めた声音で問いかけてきた。
『しかし……お体の方は大丈夫なのですか?』
 男は少しだけ沈黙し、膝の上で手を握る。上手く力を入れることが出来ない指先、触れれば折れてしまいそうな程細い手首。しかし、これでも以前よりはよほど上手く動けるようになっている。
「『回復』は順調に進んでいる。計画に支障はない」
 それどころかこの調子で「回復」すれば、予想よりもずっと早く計画を進行できるはずだ。女神側もこちらの動きには気づき始めている、奴らを出し抜き目的を果たすには、迅速な行動が不可欠だ。
「俺のことはいい。今は一刻も早く、『歌姫』を手に入れろ」
『わかりました。それでは、失礼します』
 ――人の子に、正しき導を。
 キルナの、祈りにも呪詛にも似た言葉が響く。男は「楽園に真理と真実を」と応じ、黒縁眼鏡の下で目を伏せる。
 そして、ノイズ混じりの通信が途絶え、辺りは不気味なまでの静寂に包まれた。
 男はゆっくりと車椅子から立ち上がる。不自由な足は自らの体重を受け止めるには弱すぎて、上半身のふらつきを抑えられない。だが、男は車椅子の縁に手をかけ、何とか背筋を伸ばしてその場に立つ。
 男がゆっくりと首を巡らせれば、背後の壁に描かれた紋章が目に入った。
 歯車の上に交差する、剣と杖。
 その剣の形は、空色の少年が握る禁忌の機巧『ディスコード』に酷似していた。
 『ディスコード』……それは遠き昔、楽園に不協和音を奏でた『世界樹の鍵』。今は行方が知れずとも、いつかこの手に握られることを運命づけられた絶対たる力の片割れ。
 そして、目を閉じた男は楽園を変える歌を歌う『歌姫』の後ろ姿を幻視する。長い銀色の髪を乾いた風に揺らし、荒れ果てた道を駆け抜ける、一人の少女。
 瞼の裏、幻の少女がこちらを振り向く。
 少女は、彼に向かって笑っていた。疑いを知らぬ、どこまでも透き通った笑い方で。
 記憶回路の片隅で輝き続ける、曇りなきすみれ色の瞳を首の一振りで払いのけ……男は闇の中一人、呟く。
 
「悪いな、シュンラン――今はどうしても、お前の歌が必要なんだ」