02:右手を繋ぎ、左手に剣(4)

「ディス」
 セイルの上着の裾を掴み、シュンランが小さく呼んだ。『ディスコード』は視線だけは男とゴーレムからはずさないままぶっきらぼうに言い放つ。
「『ディスコード』だ」
『……やけにこだわるね』
「俺は由緒正しき禁忌機巧『ディスコード』。人じゃねえんだから勝手に略すな」
 シュンランは一瞬言葉を飲み込んでから、もう一度セイルの服の裾を引っ張って言った。
「あの、ディス」
「少しは人の話聞けよ!」
 人じゃない、と言っておいてそれはあんまりな言い分じゃないかなあ、とセイルは頭の片隅に縮こまりながら思う。
 そしてシュンランは悲痛な『ディスコード』の主張などきれいさっぱり無視して言った。
「動きを止めればいいですか」
「……何?」
「少し、できます」
 思わず、『ディスコード』はシュンランを見やる。シュンランはすみれ色の瞳で真っ直ぐにこちらを見据えていた。その表情には迷いも不安も感じられない。
 いいだろう、と『ディスコード』は男に視線を戻す。刹那、迫っていた鋼の拳の一撃を刃で受け止める。刀身の角度を利用して力を外に逃がし、セイルの体に触れることを許さない。
 次の攻撃までの隙をついて『ディスコード』は男の足下を狙って蹴りを放つが、それは相手にも読まれていたのか男が数歩下がったのみで空を切った。
 ひゅ、と息を吐き、『ディスコード』はシュンランに言う。
「何すっか知らねえが、任せていいんだな」
「任されます」
 シュンランがすう、と深く息を吸う気配。一体何をするのだろう、とセイルが心の中で息を飲んだ、次の瞬間。
 鈴を思わせる声が、辺りに響き渡った。
 優しくもどこかもの悲しい、聞き慣れない旋律。けれど、何故か懐かしいとも感じてしまう歌声。セイルが月明かりの中で聞いた、あの歌をシュンランが歌い始めたのだ。
 何故、歌なんて……セイルが不思議に思ったのは、しかし一瞬のことだった。
 唐突に、男が驚愕の声を上げる。
「なっ……何だぁ!」
 見れば、男の鎧が見る間に凍り付いていくではないか。否、凍り付いているのは鎧というよりも、鎧の間から吹き出していた魔力だった。鎧の周囲に充満していた魔力が歌声に揺り動かされ、氷へと変換されているのだ。
 『ディスコード』の視線がゴーレムにも向けられる。同じように、魔力を吐き出し動くゴーレムは、ほとんど完全に凍り付き、動こうにも動けない状態に陥っていた。
 魔法。
 しかも今までセイルが見たことの無い、「歌による魔法」だ。
 辺りの空気も急激に温度を落とし、大気中の魔力がきらきらと煌めく。その中で、シュンランは高らかに歌う。柔らかな音が一つ生まれる度に、男たちの動きは確実に鈍っていく。
「……やるじゃねえか!」
 『ディスコード』は輝く空気の中軽々と地を蹴った。男が初めて焦りの表情を浮かべる。反応しようにも、体のほぼ全体を覆う鎧が動かなくてはどうしようもない――
 甲高い、刃が吠える音がシュンランの歌声に重なる。
 次の瞬間、腕に伝わる手応え。『ディスコード』の刃が、鎧に覆われた男の右肩を貫いたのだ。
「ぐ、ああああっ!」
 流石に悲鳴を上げる男の胴を、飛び込んだ勢いのままに容赦なく蹴り飛ばす『ディスコード』。刃に滴る血を払いながらシュンランを振り向く。
「今のうちに行くぞ!」
「はい!」
 歌を止めた途端に、凍り付いていた空気が急速に温度を上げていく。走りだそうとしていた『ディスコード』はシュンランが手を伸ばしてきたのを見て、微かに眉を寄せ……気づけば「セイルが」シュンランの手を取っていた。
 いつの間にやら、『ディスコード』は刃と共にセイルの中に戻ってしまっていた。五本の指を取り戻した左手を見つめ、セイルは首を傾げる。
「……あれ、ディス?」
『「ディスコード」だ、手前まで勝手に略すな。とりあえず俺の役目は終わった。あとは手前で何とかしやがれ』
「あ、うん」
 ありがとう。
 そう呟いたセイルに、『ディスコード』は「どーいたしまして」とやる気なさげに言い放つ。口は悪いし、偉そうだし、得体も知れないけれど……決して、悪い奴ではないようだ。
「行こう、シュンラン!」
「……はい」
 シュンランは微笑み、そっとセイルの右手を握る。男が「逃げるな」と叫んだ気がするが、それに素直に従う理由なんてどこにもない。肩を押さえてうずくまる男の横をすり抜けて、駆け出そうとしたその時。
「見せてもらったよ、『鍵』の使い手」
 セイルの行く手に、細い影が立ちはだかった。
 それは、先ほど撒いたはずの『影追い』の女――
「と、通してくださいっ」
 シュンランがセイルの手を強く握ったまま叫ぶ。だが、影追いはその場から一歩も動かないままにゆるりと首を横に振る。
「そういうわけにはいかないよ。『エメス』が動いているとはっきりわかった以上、後手には回れないんでね」
 『エメス』――セイルは小さく息を飲んだ。先ほどシュンランが呟いた言葉であり、セイルも嫌と言うほどよく知っている名前である。
 その名が示すのは、一つの組織。
 実体こそ明らかになっていないが、楽園の裏側に確かに存在するという、女神の秩序を否定する者……異端研究者の秘密結社だ。
 セイルの背後で、鎧の男が関節の氷を強引に剥がして立ち上がる。肩からぼたぼたと血を流しながらも、血走った目は獰猛に影追いの女を睨みつけている。
「は、女神の下僕か! どうやら、『鍵』と『歌姫』を手に入れるにゃ、手前を先にぶっつぶす必要があるみてえだな」
「その怪我でやる気かい。命知らずだね」
 女は眼鏡を人差し指で押し上げ、もう片方の腕を揺らめかせる。ゆったりと開いた袖から何か金属が触れ合うような音が響き、空気が緊張に凍る。
 影追いと鎧の男。一触即発の空気の中動くこともできずにいたセイルとシュンランだったが、その緊張を破ったのはセイルでもシュンランでも、まして睨み合う二人でもなかった。
「退きますよ、ラグナ! 今は影追いとやり合っても無益です!」
 新手か、と女はぱっと声が聞こえた方向を見る。セイルも思わず声が聞こえてきた方向を見やる。声は、シュンランの歌によってすっかり凍り付いてしまったゴーレムの真上、建物の上に立つ一人の男のものだった。
 魔道士なのだろう、簡素なローブを風に靡かせ長い杖を片手に握っている。ただ、その杖は普通の杖とは異なり、まるで機巧に仕組まれた歯車のごとき奇妙な意匠が施されていた。
 ラグナ、と呼ばれた鎧の男はぎり、と歯を鳴らしてそちらを見て……すぐに影追いに視線を戻して片手を握りしめる。ローブの男が非難めいた声で鎧の男をもう一度呼ぶ。
「ラグナ!」
「黙れキルナ! 『鍵』を奪おうっていう泥棒猫と、散々虚仮にしてくれた空色のガキをぶっ潰すまでは退かねえ!」
「泥棒猫とはまた失礼だね。ユーリス様の慈悲を理解しない異端に、人の言葉は高尚すぎるかな」
 一歩、女が歩み、一歩、ラグナが石畳を踏む。キルナというらしいローブの男が何かをわめいていたが、二人の耳には届いていないようだった。セイルはこれから起こる争いの気配を受け止め、せめてシュンランだけは逃がそうと彼女の手を強く握りしめる。
 再びの、緊張が呼ぶ奇妙な静寂が場を支配する。
 決して辺りが本当に静寂に包まれていたわけではない。キルナはなおも言葉を続けているし、通りのざわめきも微かではあるが届いている。遠くから聞こえる何かが羽ばたく音だって、耳に入っている……
 何かが、羽ばたく音?
 セイルがはっとして空を見上げた、その時だった。
『はいはーい、そこまでよ!』
 魔力による拡声装置を通しているらしい、ばりばりというノイズ混じりの女の声が辺り構わず響きわたった。刹那、青かった空が急に陰る。
 いや……陰ったわけではない。
 不意にセイルたちのいる道の上に、無数の羽ばたき飛空艇が現れたのだ。真っ赤に染まった羽ばたき艇の一つから、甲高い女の声が早口に宣言する。
『不毛な喧嘩はノンノン、可愛い子とすてきなお宝は、あたしたちがいただきよっ!』
「……っ、何を」
 影追いの女が呆気にとられて空を見上げると、羽ばたき艇からばらばらと何かが落とされる。煙を吐く球体のように見えたが……
「まずい、ラグナ!」
 キルナが叫んだ瞬間、地面に落ちた球体が大きな音を立てて破裂した。
 セイルはとっさにシュンランを庇い、衝撃に備えてぐっと目を閉じるが……思ったような衝撃はいつになっても襲いかかっては来なかった。ただ、目を開けたときには球体から発生した濃い煙が辺りを覆い隠していた。
 目を凝らしても何も見えない。ラグナがわめく声が聞こえたけれど、その声はあらぬ方向へ向けられているようだった。
「シュンラン、大丈……うわっ!」
 シュンランの手を引こうとしたその時、全く違う何者かの手がセイルの腕を掴み、無理矢理シュンランと繋いでいた手を引き剥がした。
「セイル!」
「さあさ、嬢ちゃんはあっちだ」
 セイルの耳に届くのは野太い男の声。そしてシュンランの悲鳴が遠ざかっていく……
「シュンラン! は、離せよ!」
 万力のように腕を締めあげようとする手を、セイルは軽く力を込めるだけであっさり振りほどいた。セイルの手を握っていた男が驚きの声を上げるのを聞き流しながら、シュンランの声を頼りにもう一度右手を伸ばす。
 掴まなくては。
 やっと、前を見て進もうと思えるようになったのだ。シュンランを守って、兄を探すために。
 こんなところで、離れるわけにはいかない。
『ダメだ、止まれセイル!』
 『ディスコード』の鋭い声が脳裏に響く、けれどもセイルは止まれなかった。シュンランが連れ去られる、その恐怖だけがセイルの背中を押していたのだ。
 そして。
「……そ、人の言うことは素直に聞くものよ」
 ざらついた声と共に首筋に走る軽い一撃。
 それが、セイルの体の自由を一瞬にして奪っていた。
「あ……」
 どさり、という嫌な音が耳の奥に響く。自分の体が地面に落ちた音だと認識する前に、セイルの意識も闇の中に刈り取られていく。
 ただ。
 シュンランの手を掴めなかった悔しさと。
「さ、冒険ごっこはこれで終わりだ」
 倒れた自分の上に降る耳慣れない声だけが、セイルの脳裏に焼き付いていた――