02:右手を繋ぎ、左手に剣(3)
「う……それは」
セイルは即座に答えることができずに黙り込む。覚悟なんて、あるはずもなかった。確かに兄を探せと言われて、兄を探したくて、何者かに追われているとわかっているシュンランの手を握ったけれど。
少しずつ、少しずつ。事態がわかってくるにつれ、不安が広がっていく。自分はここにいていいのか。自分は、シュンランの手を握っていていいのか……
シュンランが不安げにこちらを覗きこんでくる中、セイルはそれに応えることもできずに俯く。
セイルの沈黙をどう受け取ったのか、『ディスコード』は再びけだるい口調に戻って言い放つ。
『ま、これもノーグが出てくるまでの辛抱だな。それまでは使い手の手前をさんざん利用させてもらうさ。手前が怖気付こうと嫌と言おうとな』
「……じゃない」
その言葉に、セイルは俯いたまま口の中で応える。
『あん?』
『ディスコード』が疑問符を返してきたことで、セイルは意を決してはっきりと言葉を放つ。
「嫌じゃないよ。俺はこうしたいと思ってついてきてるんだ。それだけは、信じてほしい」
もちろん、何がなんだかわからなくて怖いし、不安だけど。そう小声で付け加えて、セイルは苦笑する。『ディスコード』は一瞬呆気にとられたように沈黙し、その後苦々しく呟いた。
『ったく、真面目くんだなあ、やりづれえこって……』
「な、何だよそれっ!」
『あーはいはい。ただ、手前が役立たずなのは事実だ。手前、その様子じゃ戦ったこともねえんだろ?』
それはそうだ。あの林の中の屋敷と小さな町だけが自分の世界だったセイルにとっては、誰かと戦うなんてありえないことだった。それこそ、かつて兄が語ってくれた勇者の昔話くらい、遠い世界の話。
『だから、手前はこの子を連れて逃げろ。迷うな、振り返るな、助かることだけ考えろ。手前が今、この子に出来ることはそれだけだ』
「う……うん!」
だからお前素直すぎんだろ、と『ディスコード』が大げさに溜息をつく。
『もし、逃げられねえようなら俺が手を貸す。ただし、どうなっても文句は言わねえこと……例えば』
――こういう状況とかな。
『ディスコード』のシニカルな声に、セイルははっと顔を上げる。道の先に、何かが立ちはだかっている。それが鋼の体を持つ小型のゴーレムであることは、すぐにわかった。
「……あれ、は」
シュンランも硬い声を上げ、ぎゅっとセイルの右手を握りしめる。セイルは体を強ばらせながらも、問いかける。
「あれも、さっきの影追いの仲間?」
『まーさかー。影追いが鋼の人形なんて使うわけねえだろ。鋼も禁忌なんだから』
言われてみればその通りだ。古代の機巧が禁忌であるのと同じように、鋼もまた女神ユーリスが最も厭うものの一つ。ならば、あれは一体……
「『エメス』……」
「え?」
シュンランの小さな呟きに、セイルが問い返した瞬間。
『来るぞ! 貸せ!』
『ディスコード』の叫びと共にセイルの体が勝手にシュンランの袖を引いて……跳んだ。刹那、一瞬前までセイルが立っていた位置に、巨大な鎧が落ちてきた。
石畳が割れ辺り構わず飛び散る中、鎧を纏った昨日の男が青い目をこちらに向け、あからさまに舌打ちする。
「気づかれてたか!」
「はっ、気配がバレバレなんだよ!」
セイルの喉を使い、『ディスコード』が吠えて左手を振るう。すると、左手が音もなく形を変えて一振りの刃を形作った。それは、ナイフが手の中に吸い込まれるときの手とも刃ともつかない不気味な刃とは違う……手首からすっと伸びた、微かに湾曲を描く研ぎ澄まされた短刀。
『ディスコード』はシュンランをかばうように鎧の男の前に立ち、左手の刃を構える。
「しっかし、前門の変態、後門のゴーレムか……また厄介な」
目を白黒させるシュンランと、細い道をゆっくりと迫ってくるゴーレムに視線を向け、あからさまに眉を寄せて『ディスコード』が呟く。だが、その言葉には焦りは見られない。それどころか、口元に微かな笑みすら浮かべている。
『「ディスコード」! 何を……』
「黙って見てろ、セイル」
『ディスコード』はにぃと唇をつり上げ歯を見せて獰猛に笑う。セイルには絶対に出来ない笑い方で、『ディスコード』は宣言する。
「こいつを、ぶちのめすんだよ」
「ガキが、生意気な口利くんじゃねえっ! 『歌姫』の前に、手前の口を利けねえようにしてやるよっ!」
鎧の男が、あの時と同じ重そうな鎧に似合わぬ俊敏な動きでセイル、否セイルの体を借りた『ディスコード』に迫る。
『危ない!』
「……だーから、黙ってろって」
セイルが頭の中で叫ぶが、『ディスコード』は軽い口調で言い放ち、無造作にも思える動きで男の方へと一歩を踏み出す。頭を握りつぶさんとばかりに伸ばされた腕が鼻先にまで迫ったその瞬間。
『ディスコード』は不意に倒れ込むような動きで腕の一撃をかわし、不安定な姿勢のまま石畳を蹴って懐に飛び込む。おそらく、男からはセイルの姿が急に見えなくなったに違いない。
しかもこの鎧だ、いくら素早く動けるといえ、懐に入られれば腕も上手くは動かない。
男がこちらの動きを察する前に、地面に手をついて跳ね上がった『ディスコード』が目にも留まらぬ速さで左手の刃を一閃させる。甲高い音色と共に、鋼の鎧の胸当て部分に一条の痕が生まれる。
そこから見え隠れするのは、青や赤の配線に無数の歯車。そして今の一撃で断たれた細い管からは緑色の気体……魔力を凝縮したものが吹き出していた。
セイルの見立て通り、男の鎧は魔道機関によって常識では考えられない動きを可能としているものらしい。だが、『ディスコード』はそれ以上に注意深く内部を観察し、呟く。
「魔道機関……いや、魔力を利用した禁忌機巧か」
男は慌てて距離を取ると、一瞬前までの余裕をかなぐり捨て、叫ぶ。
「何だよその動きはよぉ! 手前、ただのガキじゃねえな!」
「いや、ただのガキだぜ。こいつはな」
『ディスコード』も数歩下がり、首を振り、肩を回す仕草をする。まるでセイルの体の動き方を確かめているようでもあった。
「とはいえ俺も随分鈍ったな。一撃で決める予定だったんだが」
のんびりとした口調で呟きながら、当たり前のような動きでその場に立ち尽くしていたシュンランの襟元を掴み、軽々と横に跳ぶ。
すると、シュンランを狙ったゴーレムの腕が、空を切る。いつの間にか、ゴーレムはシュンランのすぐ側に迫っていたのだ。シュンランは呆然とすみれ色の瞳でこちらを見上げ、自分が助かったのだと気づきふわりと微笑んだ。
「あ、ありがとう、ございます……ディス」
「ん。あと俺は『ディスコード』だ。勝手に略すんじゃねえ」
何故かものすごく不満そうに告げ、『ディスコード』は素早く左右に視線を走らせる。ゴーレムの動きはかなり緩慢で、身軽な動きをする『ディスコード』の敵ではなさそうだ。
ただ、ゴーレムの体が退路を塞いでしまい、目の前の男に気を取られてばかりではいられないのも確か。セイルは頭の中から周囲の様子を把握して、少しだけ不安になってくる。
『ディスコード』もそれには気づいているらしく、「黙ってろ」と声を低くしてもう一度告げた。もちろんそれは不安を露わにしたセイルに対してだろう。
シュンランを庇うために壁を背にして、双方から迫る鋼を見据えながら『ディスコード』は眉を寄せて呟く。
「どうすっかねえ……手加減苦手だからいっそ殺しちまうか」
『ころ……』
「言っただろ、どうなったって文句は言うなって」
そうは言ったけれど。
シュンランと『ディスコード』自身を守るためなら、何をしたっていいというのだろうか。それは違うとセイルは強く思う。どんな奴だろうと、どんな事情だろうとそんな簡単に他人の命を絶っていいはずがない。
「甘えな、セイル。甘すぎる」
セイルの意を汲んで『ディスコード』は不機嫌な声で言い放つ。
甘い。それは、セイルも否定しない。
逃げ回る覚悟すらなかったセイルに、誰かを傷つける、果てには殺してでも前に進もうなんて考えも及ばない。セイルにその力も覚悟もないから、今ここで『ディスコード』がシュンランを守ろうというのだ。
けれど……そこで折れていいのだろうか。折れていいはずがない。セイルはなおも重たくのしかかる『ディスコード』の意識を振り払い、頭の中で言葉を放つ。
『……そんなことをするなら、俺の体を返してもらうからな』
「はっ、そうしないとここを突破できないとしてもか」
『ディスコード』は言いながら、鎧の男の動きを牽制するかのように刃を構え直し足を擦る。男も先ほどの一撃で『ディスコード』に対する油断を払拭したのか、先ほどよりもずっと慎重に間合いを計っている。
じりじりと、距離を詰められながらも『ディスコード』は動かない。動けないのかもしれない。
確かに、左手にある刃は鋼をも斬り裂ける驚異の武器だ。剣の技術を持つ者が振るうならば、目の前の男一人両断する事も苦ではないはずだ。
そして、『ディスコード』にはそれが簡単に出来るということも、体の中から観察しているセイルには何となく理解できる。
だが。
セイルは意識の中で一拍置いてから、きっぱりと言い切った。
『手加減できるんだろ。さっき手加減は「苦手」だって言った。なら不可能じゃないはずだ。やれよ!』
すると、一瞬呆気にとられたように『ディスコード』は目を見開いて沈黙し……不意に小さく喉を鳴らした。今までの不機嫌そうな声とはうってかわって、とても愉快そうに。
「言うじゃねえか。ちょっと見直した」
意外な反応に今度はセイルの方が呆気に取られてしまった。
だが『ディスコード』がセイルの言葉に満足したのは確かなようだった。風を切るように左の刃を振るい、『ディスコード』は壮絶に笑う。
「とは言ったものの、どう突破するかな……一瞬でも、こいつらの動きが止まれば楽なんだが」
ちらり、と銀の視線を向ける先には鋼のゴーレム。ゴーレムの狙いはあくまでシュンラン一人らしく、セイルの体がちょうどぴったりシュンランを庇っている状態のため、手を出しあぐねているようだった。
とはいえ『ディスコード』が少しでも鎧の男に気を取られてシュンランから意識を離せばそれで終わり。「どーすっかねぇ」と『ディスコード』が息をついた、その時だった。