02:右手を繋ぎ、左手に剣(2)
「しまっ……」
自分の失言を察し、シュンランは口を押さえるがもう遅い。女はゆらりと一歩、その場に固まってしまったシュンランに向かって踏み出す。
じゃらり、と。
女の袖口から何か金属が触れ合うような音が響く。その瞬間、セイルの手の中に握られた『ディスコード』が喚いた。
『逃げろ馬鹿! そいつは「影追い」だ!』
影追い――!
背筋が凍る。影追いといえば、禁忌と異端を狩るユーリス神殿の暗部。決して普通に人の目に触れることはないが、影ながら女神の意に反する存在を抹消する存在ではないか!
何故、影追いがシュンランを追っているのか。
シュンランが、何をしたというのか。
ぐるぐると頭の中に疑問が生まれ、セイルの判断を鈍らせる。女がまた一歩シュンランに近づいているのを視界には捉えているものの、全てを正しく認識することができず呆然と立ち尽くすばかり。
すると『ディスコード』が頭の中であからさまに舌打ちをした。
『ちっ、しゃあねえ……「借りる」ぞ!』
「借り……うわあっ!」
セイルがその言葉を認識するよりも先に、体が動いていた。左手で包みを握りしめたまま身を屈めたかと思えば、流れるような動きで勢いよく足を突き出し、女の足下をすくう。セイルが動くとは思っていなかった女は大きく体勢を崩し、床に手をつく。
それを見届けて、セイルは床を蹴ってシュンランの横に素早く駆け寄った。
だが、一連の動きはセイルが意識して行ったものではない……そう、「体が勝手に動いた」のだ。
『何が、』
起こったのか。
そう言おうとして、唇が動かないことに気づく。それどころか、指一本とて自分の意志で動かすことができない。目が覚めているのに体が動かない、金縛りのような状態だ。
唯一違うのは、体が勝手に動いていることだけ。
「まさか、『鍵』はアンタが……っ」
女の言葉に、セイルは「はっ」と息を吐き出す。それは、セイルの意思とは違う……左手に握りしめた『ディスコード』の感情。
「悪いな、捕まるわけにゃいかねえんだよ! シュンラン!」
伸ばされたセイルの右手が、シュンランの手を強く握る。その瞬間、体が自由を取り戻す。シュンランを見れば、青い顔で戸惑うような表情を見せてこそいたが、しっかりと頷きを返している。
そうだ。考えるのは後……今はシュンランを連れて逃げるのだ。セイルは「行こう!」と手を引いて店を飛び出す。背後から女の声と店の主人の罵声が聞こえていたが、今はその全てを振り切って走り出す。
白い鳩が舞う空の下、二人はユーリス国特有の白い壁をした建物の間を縫うように駆けていく。通りを行く人々が奇異なものを見るような目でこちらを見ていたが、構ってなどいられない。
幾度も角を曲がり、ただ背後に迫る嫌な感覚から逃れるために、走って、走って、走り続けて。
ある角を一つ曲がって振り返り、女が後をつけてきていないとわかって、セイルとシュンランはやっとのことで足を止めることができた。肩を上下させながら、セイルは塀に寄りかかって息を整える。
「た、助かった……かな」
「ごめんなさい、セイル。助かりました」
シュンランは息を切らせながらも、すみれ色の瞳にセイルの顔を映し、微笑んでみせて……不意に不安げな顔になってセイルの銀色の瞳を覗き込んだ。
「今は、セイルですよね」
「え?」
「さっきは違いました。セイルではありませんでした」
ぎゅっと、指先の感覚を確かめるかのように強く手を握りしめるシュンラン。だが、シュンランの言うとおりだ。今ここで手を握っているのは確かに自分だけれど、あの女に迫られた瞬間、シュンランに手を伸ばしたのは自分ではない。自分ではなくて――
「『ディスコード』……?」
「『鍵』が、どうかしたですか」
まさか、とは思う。頭の中に語りかけてくる不思議なナイフではあるけれど、そんなことがあるわけがない。そう思って左手を見ると、いつの間にか左手に握りしめていた包みがほどけ、握っていたナイフの柄が半ば指先と同化していたことに気づく。
「げっ」
思わず嫌な声を上げてしまったセイルの脳裏に、呆れたような少年の声が響く。
『慣れろよ』
「慣れないよ!」
鎧の男と戦ったときは無我夢中だったから気にならなかったものの、落ち着いて見てみるとかなりグロテスクな光景だ。離れろ、と言わんばかりに左手を強く振るも、みるみるうちにナイフは左手と融け合い、果てにナイフの姿は完全に見えなくなってしまった。
ただ、セイルにはわかる。
体の中に、自分のものではない「何か」が入り込んでいると。それは異物を飲み込んだ感覚とも違う、奇妙にもやもやとした、それでいて決して不快ではない感触ではあったのだけれども。
「は、入っちゃった……」
『持ち歩くのも面倒だろ』
「そういう問題?」
絶対何か間違っているような気がする。セイルがジト目で左手を見ていると、『ディスコード』は溜息混じりに呟いた。
『それに、いざって時に対応しやすいしな』
「いざって時……って、さっきみたいな?」
『そうだよ。手前が呆けていて、使いものにならねえ時だ』
セイルはぐ、と言葉を飲み込む。あまりな言い方ではあったが、否定は出来ない。あの時、セイルは影追いを相手に躊躇ってしまった。相手があの鎧の男のような得体の知れない何かではない、明確な存在であり……本来決して刃向かってはいけない相手だと知ってしまっただけに、迷いが生まれたのは事実。
「……それで、俺を操ったのか」
『操るってより体を「借りる」イメージに近えな。お前からすれば「乗っ取られる」かもしれねえけど』
けらけらと笑う『ディスコード』だったが、セイルからすれば笑い事ではない。得体の知れないナイフが体の中に入ってくるに留まらず、体を乗っ取られてしまうのだ。
「い、嫌だなあ」
『んなこと言ってる場合か。手前がヘマすりゃ俺が困るし、何よりシュンランが困んだよ。それに手前も、困るんだろ?』
「うっ」
図星を突かれて、セイルは黙らざるを得なくなる。その様子をおろおろとしながら見ていたシュンランが、問うてくる。
「『鍵』は、何と言っているですか?」
「あ……ごめん。シュンランには聞こえないんだよな。『ディスコード』は俺の体を操れるんだってさ。それで、俺がぼーっとしてたから代わりにシュンランを助けてくれたんだと思う」
言い方こそ悪いが、『ディスコード』は何も間違ったことは言っていない。何故シュンランが影追いに追われているのかわからないといえ、シュンランも『ディスコード』も兄を見つけるまでは捕まるわけにはいかない。
そして、セイルも。ここで『ディスコード』を手放してしまえば、兄への手がかりを失うことになるのだ。
ぐっと、左手を爪が食い込むくらいに握る。手の平に走る痛みと同じくらい、胸が痛かった。
「……ごめん、シュンラン。『ディスコード』が助けてくれなきゃ、あの人に捕まってたよな」
「よいです。セイルは謝らないでよいです」
シュンランは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「追われているのはわたしです。本当は、セイルが頑張らなくてもよいですよ。こうやって」
そっと、重ねた手を上げる。まるで、壊れやすく大切なものを捧げ持つかのように。
「手を繋いでいるだけで、心強いです」
目の前で柔らかく微笑むシュンランは、決して無理をして笑っているようには見えない。多分、「心強い」という言葉も嘘ではないのだと思う。思うけれど、微かな胸の痛みは消えない。
セイルが行き場のない、自分でもよくわからない痛みを持て余していると、シュンランが明るく笑ってセイルの手を引いた。
「さあ、行きましょう! 港はこちらですか?」
「あ、うん。多分そうだけど……」
空を行き交う飛空艇がそちらに集まっていくから、シュンランが目指す方向は間違っていないはずだ。つられるように一歩を踏み出しながら、セイルは小さな声でシュンランに問う。
「でも……どうして、君は影追いに追われてるの?」
「かげおい? さっきのしんでんの人ですか」
「……う、うん。あの人は、異端研究者を追いかけることを専門としてる人で、でもシュンランは異端じゃないよね」
セイルの言葉に、シュンランは笑顔ながら困った顔をした。シュンランがそういう顔をするのは、セイルの言っていることが根本から理解できていない証拠だ。
「理由はわからないです。でも、わたしは『しんでんには捕まるな』と言われてきました。あの人はわたしの危険です」
「神殿には、捕まるな?」
誰から、何故そんなことを。セイルが疑問符を飛ばしかけた時。
『神殿絡みなら、その子は関係ねえな。十中八九、奴の目的は俺だろ』
『ディスコード』がけだるげに言った。セイルは反射的に握りしめたままだった左手を見る。ナイフの姿は既にそこにはなかったが、変わらぬ少年の声が響く。
『何せ、俺は正真正銘の禁忌機巧だしな』
「……禁忌、機巧?」
思考が、止まる。
禁忌機巧。楽園には建前上『存在しない』、女神ユーリスが人族にもたらした知識とは異なる知識から生み出された古代の機巧。建前上存在しない故に、禁忌と呼ばれる存在。
だが、セイルが話に聞いた機巧というのは、鋼や不思議な素材で造られた中身のよくわからない箱だったり、歯車が無数に噛み合って出来た魔法では動かない装置だったりと、セイルが今までの人生で目にすることのない形と機能を持っていたはずで。
こんなごく当たり前なナイフの形をした機巧なんて、見たことも聞いたこともない。確かに喋ったり人のことを乗っ取ったりする、変なナイフではあるけれど……
『手前、今「変なナイフ」とか思っただろ』
「う、な、何でわかったんだよ!」
『はは、強く考えたことは俺様に筒抜けだから気をつけやがりなさーい』
「早く言えよ!」
『とにかく。俺は「在る」ってだけで十分影追いに追われるには値すんだよ。しかしマジで面倒なことになったな』
『ディスコード』は人であれば顎に手を当てて考えるような口振りで言う。
『予想外に影追いの動きが早い。それに、手前が使い手だって知られちまったのは正直痛かった。その辺は俺も反省してるが』
「あ……っ」
セイルは思わず声を上げてしまった。そうだ。さっぱり考えていなかったが、あの時『ディスコード』を持った状態で影追いの女と戦った地点で、セイルが『ディスコード』を持っていることは明らかになってしまったのだ。
禁忌機巧を持つ者は、それだけで異端と見られておかしくない。影追いに追われる条件を、望まぬままにセイルまで満たしてしまっているのだ。
「ど、どうしてくれるんだよ!」
『だーかーらー、俺も反省してるって言ってんだろ。ま、ノーグとやらを探してこの子についてきゃ嫌でも手前も追われるわけだが』
『ディスコード』は深刻な状況にも関わらず軽い口調で言い切ってから……急に声色を低くした。
『それとも。その覚悟もしてねえでのこのこついてきたってのか? この子が追われていることも、ノーグ・カーティスが異端研究者ってのも明らかだったんだ。影追いがしゃしゃり出てきた程度でびびって尻込みか』