02:右手を繋ぎ、左手に剣(1)

 隣町である、島唯一の港町は朝早くから賑やかだった。色とりどりの飛空艇が空を舞い、旅人や商人が通りを行き交う。そんな町だったから、朝から開いている食堂を見つけるのもさほど難しくはなかった。
 セイルとシュンランは小さな食堂で食事をとっていた。他に客の姿はなく、旅人とも思えない子供二人を不審に思ったのか給仕の女がじろじろとこちらを見ていたが、そんなことは気にならないくらいセイルは空腹だった。
 ふわふわのパンに炒り卵、たっぷりのサラダを二人は黙々と食べる。シュンランも「おなかがすいている」と言っていたとおり、セイルと同じくらいかそれ以上によく食べた。そういえば、昨日はセイルと出会ってから夜までずっと気を失っていたから何も食べていなかったはずだ、と気づく。
 料理をすっかり平らげ、食後の紅茶で一息ついて。
 セイルはやっとのことで話を切り出す。
「とりあえず、これからのことなんだけど……」
 何も考える暇もなく家を飛び出してきてしまったし、これから先のことなんて何もわからない。けれど、ただ立ち止まっているわけにも行かないのは、事実。
「一回、この島を出よう。ここからなら船も飛空艇も出てるし、君を追ってたあいつもまだこの島にいるんだろ?」
「はい、おそらく……ごめんなさい、セイルも巻き込んだです」
 シュンランは申し訳なさそうに手の中のティーカップに視線を落とす。セイルは慌てて「いいんだよ!」と両手を振る。
「事情はよくわからないけどさ、困ってるなら放っておけないよ! それに、俺、巻き込まれたとは思ってない」
「え?」
「シュンランは、俺の兄貴を探してるって言っただろ。俺、それまでは正直兄貴に二度と会えないんじゃないかって思ってた。思いこんでたんだ。でも」
 セイルは言葉を切って、シュンランを見る。六年もの間、異端研究者ノーグ・カーティスは誰からも恐れられ、楽園の姿ない悪魔のように語られ続けて。セイル自身までが兄の記憶を疑い始めていた、そんな時。
 シュンランは、笑顔で兄と会うのが「楽しみだ」と言った。
 そうだ、どうして闇雲に恐れる必要があるのだろう。自分の記憶の中の兄は、いつも優しかった。どんな顔をしていたのかは覚えていないけれど、小さなセイルを膝に乗せ、数々の胸躍る物語を語ってくれた少年のような明るい響きの声は、耳の奥に今も焼き付いているではないか。
「シュンランの話を聞いて、俺も兄貴に会いたくなったんだ。兄貴がどうして消えたのか、知りたい」
 セイルはぐっと、包みを握りしめる。兄だけが使えるという、そして何故かセイルにも使える『鍵』。これが何を意味するのかも、今のセイルにはわからない。シュンランにもわからないのであれば、兄に聞くしかないのだろう。
『んで、その兄貴とやらの手がかりはあるのか?』
 突如、頭の中に響くよく通るテノール。セイルはびくりとして、思わず手にしたカップを取り落としそうになる。それを見たシュンランもびっくりしたらしく、目を丸くしている。
「び、びっくりしたぁ……突然喋らないでよ。六年間誰も見つけられないくらいだから、正直さっぱりなんだけどさ」
『は、そりゃ面倒なこって。ただ、おかげさまで状況は随分飲み込めてきたわ』
「状況って」
 セイルが包みを見下ろしたところで、シュンランが依然目を丸くしてこちらを見ていることに気づいた。あれ、と思っているとシュンランが不思議そうに問いかけてくる。
「セイル、誰と話してるですか?」
「え……聞こえて、ないの?」
 この『鍵』を手にした時から、セイルには当たり前のように声が聞こえていたというのに。シュンランは、セイルの言葉を余計に不思議に思ったらしく、首を傾げるばかり。
 すると、声は呆れたような響きを込めて言った。
『あーあー、俺の声はお前にしか聞こえねえよ。そういう仕様なもんでな』
「仕様、なあ」
 何とも釈然としないが、とりあえず困った顔をしているシュンランに説明することにした。
「さっきから、このナイフが喋ってるんだ。本人曰く、俺にしか聞こえない仕組みらしいけど」
「『鍵』が、ですか?」
 突拍子もない話だ、簡単には信じてもらえないかとも思ったが……シュンランは、俄然目を輝かせてセイルの手の中の包みを覗き込む。
「『鍵』に不思議な力があるとは聞いていました。しかし、喋るのはすごいです! わたしの声は聞こえてるですか?」
『聞こえてるよ。使い手のお前が持ってる限り、お前が見たり聞いたりしたことは全部伝わるからな』
「俺が持ってれば聞こえるってさ。それで、えーっと……」
 『鍵』の名を呼ぼうとして、セイルは言葉に詰まる。あの時勢いに任せて一度呼んだ名前だが、どうにも馴染みのない響きだったこともあり、はっきりとは思い出せなかったのだ。声もセイルの戸惑いに気づいたのか、あからさまに不機嫌そうな声色で言い放つ。
『「ディスコード」だ、そのくらい一回で覚えろ』
「ディス、コード?」
 やはり、聞き慣れない名前だと思う。何か意味があるのだろうかと思ったが、セイルの語彙にそんな響きの言葉はない。シュンランの名前と同じように、言葉や名前としては珍しい音の流れなのだ。
 また忘れて相手を不機嫌にさせるのも何なので、ディスコード、ディスコード、と小さく口の中で呟いているとシュンランが小首を傾げて問いかける。
「不安な音の重なり、の意味ですか」
 何とも奇妙な言い回しだが、『ディスコード』は『よく知ってるな』と今までずっと憂鬱そうだった声を少しだけ高くした。驚いたのかもしれない。
『不協和音、ってのが俺の名の意味だ。ま、お前には理解できねえだろうがな』
「不協和音……」
 なるほど、それは確かに「不安な音の重なり」と言ってもいいだろう。
 ただ、不協和音はあくまで『不協和音』であって『ディスコード』などという変な言葉じゃない。一体どこをどうしたらそんな名前になるのか、本人(人?)に詳しく問うてみたいところではあったが、それよりもまずは聞いておかなくてはならないことがあった。
「それでさ、『ディスコード』。状況がわかったってどういうこと?」
『ああ、それな』
 『ディスコード』はため息混じりに――鼻も口もないナイフにつく息があるとも思えなかったが――言う。
『さっきも言ったとおり、俺はお前の手にある限りは外界を認識できる。だがその逆も然りでな』
「と言うと?」
『使い手の手にない限りは何もわかんねえんだ。つまり、今まで俺が何でこんなとぼけたガキの手に渡ったのかもさっぱりわかっちゃいなかったんだよ』
「が、ガキって何だよ!」
 セイルは思わず声を上げるが、『ディスコード』は知ったことではないとばかりにセイルの頭の中で高い口笛を吹き……すぐに気を取り直して真面目な声になる。
『俺は「鍵」だ。だが、お前はその意味も知らねえだろう。そっちの子もだ』
 そう、シュンランもこのナイフを『鍵』とは呼んでいたが、それがどのような存在なのかは把握していないようだった。ただ、不思議な、そしてとても大きな力を持っていて、使い手を選ぶ楽園唯一の剣。
 それだけしか、わかっていないのだ。
 全てをわかっているのはシュンランではなく……
『推測だが、その子は詳しい話なんて抜きにお前の兄貴ノーグ・カーティスを探せ、とだけ言われて俺を連れて逃げてきた。そして俺は即座にノーグの手に渡るはずだった、けれどもんな簡単なものじゃなかったし、想定外の事態も起こっちまった』
「兄貴は、行方不明で……俺の手に渡ってしまった?」
『そ。誰も弟であるお前まで使い手だなんて、想像もしてなかったんだろうよ。とはいえ、俺の考えが正しけりゃノーグとやらは俺がどういう役割を持ってるのかも嫌でも知ってるはずだ。ならお前のお袋さんも言ってたとおり、俺の前に出てこない理由はねえ』
 出てこない理由はない。
 『ディスコード』はそう言い切るけれど、セイルにはさっぱり理解ができない。六年もの間、楽園の表舞台から姿を消し家族とも会わずに逃げ続けている兄が、何故『ディスコード』の前には現れるというのだろうか。
「どういうこと?」
 セイルが手元を見下ろして問いを投げかけた、その時。
「お話中、ちょっと失礼するよ」
 セイルの知る誰とも違う声が、耳に飛び込んできた。
 顔を上げると、そこには背の高い女が立っていた。癖の強い赤毛の間から覗く長い耳は、女が人族で最も長命な種族、エルフであることを表している。ぱっと見る限り人間ならば二十歳前後に見えるが、おそらく実際にはセイルの母より少し下程度の年齢だろう。
 視線を追ってみれば、女は鼈甲縁の眼鏡の下から、シュンランをじっと見つめているようだった。
「えっと、何ですか?」
 セイルが応じると、女はついとセイル……というよりはその空の色を溶かした髪に目を移し、奇妙なものを見たかのように目を見開いた。だが、それはセイルにとってはいつもの反応だ。胸にちょっとだけ走る痛みを飲み込み、愛想笑いを浮かべる。
 女は「あ、ああ、ごめんね」と我に返ったように言うと、セイルに苦笑を向ける。
「実はね、ちょっと人探しをしているんだよ」
「人探し、ですか」
 セイルが首を傾げると、女は再びシュンランに視線を戻す。シュンランは、微かに肩に力を込めて女を上目遣いに見上げていた。大きく見開かれたすみれ色の瞳は、女の一挙一動全てを観察しているようでもある。
「その子によく似た女の子なんだけどね、どうもおかしな連中に追われているみたいなんだ」
 おかしな連中?
 セイルの脳裏に、昨日シュンランを追っていた甲冑の男の姿が蘇る。あれを「おかしな」と言わなければ何をおかしいと言えるだろうか。
「そいつらからその子を保護しようと思って来たんだけど、なかなか足取りが掴めなくて……と、何か心当たりがあったりするかい?」
 まるで、セイルが何を考えているのかを見透かしたかのごとく、女はセイルの顔を覗き込む。眼鏡の下から鋭くこちらを見据える瞳の色は、セイルの髪の色より微かに淡い、秋空の色だった。
 そんな風に見つめられていると、何だか息苦しくなってくる。シュンランのことを話すべきなのだろうか、だが知らない相手に話していいものかどうか。考えていると、シュンランがぽつりと言葉を落とした。
「あなたは、誰ですか?」
「ああ、私はこういう者だよ」
 言いながら女はゆったりした服の袖から聖印を取り出す。世界樹を象った銀の十字。それは、女神ユーリスを崇めるユーリス正統神殿の象徴であり、女が女神ユーリスに仕える聖職者であるという何よりの証拠であった。
 セイルはそっと安堵の息をつく。ユーリス神殿の聖職者といえば、あちこちで困った人を助ける人々だと聞く。きっと、噂を聞きつけてシュンランを助けに来てくれたのだろう。
「神殿の人、ですか。よかった」
「しんでん……!」
 安心しきったセイルの言葉に、シュンランははっと息を飲む。そして、『ディスコード』に至っては『げっ』とあからさまに嫌そうな声を上げた。何ともおかしな反応にセイルは反射的にシュンランを見る。
 すると、シュンランはがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
「あの、それ、別の人と思うです。行きましょう!」
 シュンランはセイルを促し、店の入り口に向かって駆け出す。だが、セイルは立ち上がったまではいいがその場から動けずにいた。
 何故、シュンランは逃げようとするのだろうか。
 神殿と聞いただけで逃げ出すなんて、それこそ異端研究者のようではないか……そう思いながらもシュンランの背を追おうとして、ちらりと女を振り返ると。
 女の意識は既にセイルにはなく、真っ直ぐにシュンランだけを見据えていた。
「何で逃げるんだい、悪いようにはしないよ!」
「でも、ダメです! まだダメです!」
 シュンランは振り向き、怯えた表情で叫び返す。
「わたしは、『鍵』を届けないといけないです!」
 その言葉を聞いた瞬間、女の表情が変わった。今まではどこか戸惑うような素振りを見せていた女だったが、頭の中のスイッチが切り替わったかのように、山猫を思わせる瞳をすっと細め冷たい気配を身にまとう。
「そうかい。やっぱりアンタが『鍵』を持ってるんだね」