幕間:影を追うもの
空色少年が少女と出会った時より、少しだけ時は遡る。
彼女は、久方ぶりの聖職服に袖を通しながら、何故自分がこの場に呼び出されたのかを考えていた。
ユーリス神聖国首都センツリーズ、その中心に位置するユーリス神殿。楽園中の人々が一度は「巡礼」として訪れる、世界樹の根元に築かれた女神の正統神殿だ。
だが、神殿の地下には人には知られぬ場所がある。
女神の命を受け、女神の意志に反する「存在しない」ものを追い、刈り取る異端審問官『影追い』の集う空間。それが、この場所だ。
彼女もまた名誉ある影追いの一人であり、長らく一つの任務を果たすために楽園中を駆け回っていたのだが。
そんな彼女が、影追いの長に「本部に戻れ」と命じられたのが昨日のこと。
――一体、何を命じられるのだろうか。
彼女は聖職服の袖から覗く自らの得物にそっと触れる。
自分は影追いとしても、自分自身としても、まだ何も成していない……その思いが重く肩にのしかかっているように感じる。
何故自分は影追いになったのか。それを自分自身に言い聞かせ続ける。もはや人の記憶からは忘れ去られつつあるあの日、自分から大切なものを奪い去っていった「あの男」の存在を楽園から刈り取るために、自分はここにいるのだ。
早く、辿り着かなければならないのに。
こんな所で立ち止まっている場合ではないのに。
だが、これも影追いとしての任務。上の指示は絶対だ、逆らうわけにはいかない。
鼈甲縁の眼鏡をかけ直し、鏡の中からこちらを見つめる猫目の女の姿を確認して、割り当てられた部屋を出る。
部屋の外には長く、無機質な白い廊下が伸びている。
彼女は靴音を立てながら、歩を進めていく。規則正しい音色は、まるで時計の針の音のようだと思う。時間はどこまでも残酷に時を刻む。
あれから、六年が過ぎたのだ。
全てが狂ってしまった、あの出来事から……
二度と目を開くことのない大切な人。あの人の命を奪った煙を立てる鋼の武器。死体の上に残された剣と杖が交差した紋章。
その全てが、脳裏に焼き付いて未だに色を失わずにいる。
「待っていて、姉さん……」
紅を引いた唇を、引き締めて。
「絶対に、私があの男を殺す」
決意を呟き、彼女は足を止める。長い道は終わり、巨大な扉が彼女の前に立ちはだかっていたが……それは彼女の訪れを知っていたかのように音もなく開いた。
扉の向こうには、薄闇の広間があった。天井に取り付けられた色硝子のランプが、不思議な色を空間に投げかけている。
そして、闇の奥には影追いの長が待っていた。闇の中に白い聖職服を纏うその姿は、彼女からはぼんやりと浮かび上がっているかのように見える。
彼女は柔らかな絨毯の上を数歩進み、ぴんと背筋を伸ばして礼をする。
「影追い第四六二七番、参りました」
「ああ、楽にしてくれて構わないよ、チェイン」
長は穏やかな声で彼女に言葉を投げかける。彼女、チェインは言われるままに少しだけ体の力を抜き、眼鏡の下から長を見つめた。
「君を呼んだのは他でもない。実は君にどうしても頼まなくてはならないことがあってね」
「それは、現任務より優先されるべきことですか」
どうしても、それだけは聞いておかなければならなかった。チェインの言葉に、長は少しだけ考えてから言う。
「そうだね。けれども、この任務は君の今の任務に直結することでもある」
「……どういうこと、ですか?」
「女神と楽園を脅かす秘密結社『エメス』が力を増していることは、君も嫌と言うほど知っているだろう。彼らの背後で『機巧の賢者』が暗躍していることも」
チェインは「はい」と短く返事をして、強く唇を噛む。長は彼女の反応を知ってか知らずか、淡々と言葉を続ける。
「そして、どうやら『エメス』の狙いは『鍵』らしい」
「『鍵』……彼らが信奉する『剣』と『杖』ですね」
「その通り。そのうち『杖』はレクス管理下、彼らでもやすやすと手が出せるものではない。だが行方不明だった『剣』がついに発見されたらしい」
ごくり、とチェインは唾を飲み下す。
『剣』と『杖』。対になって存在する『鍵』……『世界樹の鍵』は、遠い昔に女神の使徒が世界の礎たる世界樹を支えるべく生み出したものとされている。だが、裏切りの使徒アルベルトが女神に反乱を起こす際に持ち出し楽園に長き戦をもたらしたとも、伝えられている。
実際にこれらが「何」で、どのような力を持つ存在なのかは、チェインも知らない。だが、最低でも女神に仇成そうとする『エメス』に渡せないことは、わかる。
「故に、チェイン。君には『剣』を確保する任務を負ってもらう。幸いなことに『剣』はまだ『エメス』の手には渡っていない、ただ」
「ただ?」
「一人の少女が『剣』を保持し『エメス』から逃げているようなんだ。その少女の保護もお願いしたい」
「その少女とは、何者なのです?」
それはわからない、と長は首を横に振る。
「だが『剣』を持っている以上、今になって『剣』が世に出た理由も知っているはずだ。どうにかして『エメス』より先に確保したい。抵抗するならば、無理矢理にでも捕縛してくれて構わない」
確かに、『エメス』が絡む任務であれば、あの男に近づくチャンスも増える。『エメス』が追っているものを確保すれば、あの男がついに表舞台に姿を現すかもしれないのだ。
チェインはぐっと拳を握りしめる。開いた袖の中で、金属が触れ合う音が微かに響く。
「詳しい情報は後ほど送る。やってくれるな、『連環の聖女』」
「了解しました。女神ユーリスの代行者として、必ずやこの任務果たしてみせましょう」
長に向けて頭を下げ、チェインは再び元来た道を帰っていく。
『剣』と……それを持つ少女を追い、
自分から全てを奪い去ったあの男に近づくために。